祖父と花

番外は全て拙作A long dreamのヒーローが語り部です。
家賃と冷しゃぶは、第一話の後、
紅葉と巫女は、第九話の後、
路地と絵文字は、第十三話の後、
聴診器と白湯は、第十五話の後、
毛糸玉とショコラは、第二十話の後、
ローズピンクと泡は、第二十八話の後、
面接とパクラヴァは、第三十話の後、お楽しみ下さい。

第一話

 新宿通りに面した、超高層マンションの傍にある路地に入り、道幅の狭い、電線が低く空を這った道を進む。
 小さなお洒落なダイニングバーや、畳屋さん、歴史を感じさせる古い銭湯、弦の湯をやり過ごして、右に人が、かろうじて行き過ぎることのできる道を入ると、間口の狭い、古びた家々が並んでいて、時が止まったかのようだ。
 暑い夏の日の日暮れ、薄暗い路地には打ち水がされていて、そこだけアスファルトは黒々として見えた。
 そこを進むと今度は、もう少し広い路地に出る。でも普通の自動車では、そこを通り抜けられない。うちの辺りで、行き止まりだからだ。たまに間違えて入りこんできて、切り返すことも出来ず、そのままバックをする車を見かける。
 その度に、じっちゃんは「仕方がねぇなあ」と叫んで、飛び出して行く。
 面倒見がよくて、歯に衣着せぬ物言いの祖父のことを、わたしは尊敬し、たまに腹の立つこともあるが、それでも大切な家族だ、と思っている。

 唯一の、大切な家族だ。

「ただいま」
 路地に面した小さな店から、家の中へ入った。遅れて来店を告げる、古臭いチャイムの音は響く。暑い外から帰ると、高めに設定されたエアコンの冷気でも、人心地がつく。
 曲がり角の、たばこと書かれた看板のある、細長い、白い壁の建物の一階は、死んだばっちゃんが近所のひとに遥か昔に頼まれて、たばこや新聞、ちょっとした駄菓子などを置く小さな店にした。
 ばっちゃんが死んでじっちゃんは、たばこや駄菓子を辞めるのか、と思っていたら、仕立ての仕事をしながら店は続ける、と言い出した。
 たばこはともかく、駄菓子は日暮里へ仕入れに行かなければならないし、最近はこの辺にいる子ども達も少ない。採算が手間の割に合わず、そこだけでも辞めたら、と言ったらじっちゃんは、ばっきゃろうと怒った。
 ここは大事な、子どもと大人の社交場なんだ。なくしちまったら、みんな何処で和むんでぃ。
 すぐに啖呵は切るけれど、飽きやすいじっちゃんのことだ。その内に、やっぱり辞めるか、茉莉公よと言ってくると思っていたのだが、もう四年は続いている。
 仕立ての仕事も、ご指名があった時にやっているが、ひとつ終わったらまたひとつ、と言った具合に大物が持ち込まれる。
 その合間にじっちゃんは、ちびっこからご年配のお仲間まで、幅広いひとと楽しそうに小さな店で喋っている。
「てめぇ、どこ、ほっつき歩いていたんだ。仕事が終わったら、さっさと帰ってこいや」
 美しい反物の端を持ち、くるくると丁寧な手つきで丸めながら、じっちゃんは言う。
「そんなこと言ってもね、週案書いたり、図書館に行って来週使う絵本を借りたり、仕事はやること一杯なの。もう二十三なんだから、少し放っておいて」
 これは相当、お腹が空いているな。わたしは、マイバックを狭い台所の床に置いた。途端に潰れやすいからと、一番上に入れていたトマトが転がり出てきて、慌てる。
「茉莉公、腹、減った」
 ほら、やっぱり。反物に向き合い過ぎて、お昼ご飯は食べのがした、と見た。
 冷蔵庫を開けると、レンジで温めるだけのカレーは、そのままラップに包まれて、一番上の段に置かれていた。
「カレー、食べなかったの。食べる?」
「冷やし中華がいい、冷やし中華が喰いてぇ、茉莉、玄龍に電話かけろ」
「うちに材料あるから、お金勿体無いでしょ」
 振り返ると、じっちゃんはつまんねぇ、と叫んだ。子どもか!

「玄龍の、あのすっぺータレの、冷やし中華に辛子をちびっ、とつけると、美味いんだよなぁ」それは、すみませんでしたね。市販の安っぽいタレで。
 今日の仕事は終わりにしたらしく、片付いた居間の畳へちゃぶ台を出して来て、手早く作った冷やし中華を二人でズルズルと音を立てて食べる。
「よく噛んで食べてね、冷やし中華は喉越し、関係ないからね」
「おめぇ、死んだばっちゃんに、口調、似てきたなぁ」がはは、とじっちゃんは笑う。
 ビルやマンション、古い家が並ぶこのエリアは、家と家が密集していて、日中でも日差しは入ってこない。一日中、明かりはつけっぱなしだ。
 物心ついたときからそうだった。わたしは、この家しか知らない。
「んで、夏祭りの菓子は、明後日、昼に持って行きゃいいんだな」
「うん、よろしくお願いします。悪いね、じっちゃん」
「いいってことよ、心配すんな」
 保育園の夏祭りで使う、お菓子釣りの景品になる詰め合わせは、昔々からうちの店に注文が入る。
 わたしが持っていく、と言ってもじっちゃんは、子どもたちが喜ぶ顔が見たくて毎年、自分で持ってくる。
 茉莉先生のじっちゃん、そう呼ばれて子どもたちに、きらきらした目を向けられるのが何より好きなのだ。
「真汰は怪我治ったのか。この間来たときは、まだギブスしてたなあ」
「さっき公園のそばで会った時に聞いたら、明後日病院行ってはずす、って言ってた」
 真汰くんは、小学校に行った教え子だ。弟がまだ保育園に来ているから、お迎えの時によく会う。
「あいつは本当に、悪たれだぁ。まぁ、毅のちいせえ頃には、かなわねぇけどな」
「たけちゃん、そんなに悪かったの」
 何度も、何度も聞いているのに、やっぱりわたしは、じっちゃんに話を促してしまう。知りたい、何でも。たけちゃんのことなら。
「悪かったってもんじゃねぇ、屋根に登って渡って歩いて、井口さんとこの屋根、ぶちぬいてよ。花ちゃんが泣きながら菓子折り持って、謝りに行ってる傍で、鼻くそほじってたぁ」
「悪かったな、鼻くそほじってて」ガラリと音がしたか、と思うと低い声が響いた。
「たけちゃん」
 来店を告げる古臭いチャイムの音は、今頃鳴った。白衣のままでたけちゃんは、店との出入りする引き戸を開けて立っていた。
「腹減った、何かないのか」
 つっかけを脱ぎ散らかし、たけちゃんは、ずかずかと入ってくると、ちゃぶ台の前に座った。
「たけ、花ちゃん、いねぇのか」
「新橋行った。(えん) 様にお会いしに行くわっ、って、一等いい着物、着ていった」
 たけちゃんは不機嫌だ。晩御飯は、用意されていないんだろう。
「絽のやつか」
「そう、おっちゃんが仕立ててくれたやつ」
「あれは、いい出来だったなあ。花ちゃんにぴったりだ」じっちゃんは、満足そうだ。
「茉莉、何かないのか」
 たけちゃんは、勝手にわたしの麦茶をごくごく飲んでるけれど、やめて欲しい。
「カレーならあるよ。食べる、たけちゃん」
「たけちゃんやめろ、お父様と呼べ」
「お、と、う、さ、ま。カレーを、召し上がりますか」
「持って参れ、茉莉」はいはい、とわたしは立ち上がる。
 冷蔵庫から、カレーと福神漬けを出す。カレーだけをレンジに入れて、コップにスプーンを入れて、レンジが鳴ったらお盆に全てを乗せた。
「たけちゃん、白衣の上は脱いで……って、どうしてわたしの冷やし中華食べているの、たけちゃんっ」
 ずぞぞー、と麺を口いっぱいに入れて食べている姿は、四十路のおっさんには見えない。ただの阿呆なおっさんだ!
「ふんふぁふぉーふぁっふぁふぁ、ふっふぁ」
「旨そうだから、喰った、じゃないでしょ。わたしの晩御飯返して、たけちゃんのばかっ」
「たけは喰う割に、腹がでねぇなあ」じっちゃんが呑気に言って、わたしはぎっ、と睨む。
「じっちゃんもねぇ、ちゃんと見ていてよ、わたしの晩御飯無くなっちゃう」
「ふぁふぇーふぉ、ふうふぉ」
「カレーも、食べるの!」
「たけ、腹壊れるぞ」流石のじっちゃんも、呆れ顏だ。
「返してっ」冷やし中華の皿を、引っ張って取り戻す。
「旨いなぁ」
 たけちゃんは、やっぱりわたしのコップで麦茶を飲み干した。
「今日は、往診でお終いかぁ」
 全部食べ終わって、じっちゃんはしみじみ麦茶を飲んでいる。
「まあな、今日も忙しかったな。熱中症が多くてな」
 たけちゃんは、カレーもいい食べっぷりだ。それでいて太らないんだから、呆れてしまう。
「柴田さんとこのばーさま、帰ってきているんだろ。みっちゃんが、言ってたなぁ」
「家がいいんだよ、やっぱりな」
「誰だってそうだなぁ、最後は家がいいさ。なかなか出来ない世の中だけどなぁ」
「おっちゃんも俺が見送ってやるから、心配すんな」
「たけが医者になって良かったのは、そこだけだな」がはは、とじっちゃんは笑った。
 ばっちゃんも、たけちゃんのお世話になった。たけちゃんは、この辺のお年寄りに、本当に頼りにされていると思う。

 ごめんください、と声がして来店を告げる、古臭いチャイムの音が鳴った。
「じっちゃん、出てー」台所で茶碗を洗っているから、手は離せない。
「あーたけ、行け」じっちゃんは、銭湯に行く用意をしているみたいだ。
 たけちゃんがどすどす歩いて行って、引き戸を開ける気配がした。
「よお、純情ボーイ。まあ上がれ。家賃の支払いか」
「先生、古臭いし。いつもいるけれど、病院はいいの?」
「娘に会いに来て、何が悪い?」
「へぇ、まあいいけれど」
 わたしは急いで手を洗い、掛けてあった手ぬぐいで拭く。そして戸棚に置いていた、家賃用の手持ち金庫を持って、居間に出た。
「こんばんは、真吾くん」
 居間へでると、もう真吾くんはちゃぶ台の前に座っていた。
「茉莉さん、こんばんは」
 にっこり笑う真吾くんは、外階段から上がった二階の一室を借りて暮らしている。
 近くの神社の跡取りだが、大学の間は経験のため一人暮らしもしてみたい、と言っていて、氏子の我が家に宮司さんから打診があり、貸すことになったのだ。
 うちは二十年位前に建て直した時、二階の一部と三階をアパートにした。やはり目玉が飛び出るような固定資産税を支払うには、家賃収入は必要でやむ負えないことだった。
 古くからいるご近所も、そういう家が多い。どの家も一階に住み、上の階は賃貸にしている。
「純情ボーイ、彼女とはイチャイチャしてるのか?」
 たけちゃんは、ニヤニヤしながら聞いている。わたしは真吾くんが持ってきた、家賃用の帳面を開く。
「あー先生、うるさいよ。先生こそもういい加減、結婚したら。誰かいいひといないの」
「俺はいいんだよ。茉莉がいるからな。茉莉に看取られるわ。なー頼んだぞ」
「はいはい、お父様」
 わたしが帳面をつけながら言うと、真吾くんは呆れたようにため息をついた。
「で、彼女は、もう部屋に連れ込んだのか」ニヤニヤした、たけちゃんは追求を緩めない。
「うるさいよ。茉莉さん、この人どうにかしてっ」
 真っ赤になって叫んだ真吾くんは、わたしに助けを求めている。でも、わたしは猛獣使いじゃないんだよ、真吾くん。
 世の中には、どうにもならないこともあるの。
「いいなぁ若いってな、甘酸っぱいなぁ。真吾にやっとこさ春が来たんだもんなぁ。そりゃ張り切って彼女と手繋いで、花火から帰って来たらしっぽりしけこむよなぁ」
 銭湯に行く用意が出来たじっちゃんの一言で、とどめを刺された真吾くんはちゃぶ台に突っ伏して、もうヤダ、この家、と言った。
「ごめんね、真吾くん」
 急いで家賃の帳面に来月分の領収印を押して、真吾くんに差し出した。
「茉莉さんが、悪いわけじゃないし」
 真吾くんは赤い顔のまま帳面を受け取り、すぐに立ち上がった。
 こんな濃いひと達の中に居たら、何をされるか分からないもんね。わたしは手持ち金庫へ領収印や家賃をしまい、今日はもう来ないだろう、と金庫へ入れた。
 じっちゃんとたけちゃんは、真吾くんをニヤニヤしながら見送りがてら、からかっている。
「お邪魔しましたっ」
 真吾くんはぺこりと頭を下げると、古臭いチャイムの音を残して帰って行った。

「しっかし、真吾にも、春が来たんだよな、目出度いな。次はお前の番だぞ、純情ガール」
「変なあだ名つけないで、お父様」
 じっちゃんも銭湯に行ってしまい居間には、たけちゃんとわたしが残された。たけちゃんの空いているコップに、麦茶を注ぐ。
「誰かいい男は居ないのか。もう二十三だろう」
 たけちゃんは、優しい目でわたしを見る。けれどそこには娘、としか見ていないとはっきり現れている。そして、わたしの後ろを見ている。
「それは、そっくりそのままお返しします」
「俺はいいんだよ、もうこのままで。今更だからな。若い子が甘酸っぱく頬を真っ赤にしてるのを、からかう位が精々だな」たけちゃんは麦茶を啜った。
「一生、一人で居る気なの」
 何度も繰り返している、定型文になってしまった会話がわたしを苦しめる。
「そうだな、茉莉が結婚して子どもが生まれて、じいちゃんて呼ばれるのが夢だからな。子どもが病気になったら、すぐに駆けつけてやるし。それぐらいしか望みはないな」穏やかにたけちゃんは笑う。
「そう」
「何処かにいい奴、いないかね。ちょっとも出会いはないのか」
「女性の職場だし、じっちゃんも居るからすぐに帰ってくるし、ないよ」
「この間、避難訓練で消防士、来てたんだろ?かっこいいマッチョはいなかったのか」
「マッチョ過ぎるのは、好きじゃない」
「贅沢者め、その内誰からも、見向きもされなくなってもいいのか」
「ひとりだけに見てもらえたら、それでいい」
 たけちゃんを見る。ひとりだけ、たけちゃんだけに。
「美妃に似てきたなぁ、さすが親子だな」言われた言葉に、ため息をそっと吐く。
「顔もどんなひとだったのかも、覚えていない人と似てる、って言われても」
「いや、そっくりだ。声も、仕草も、なにもかも」
 たけちゃんの優しい目は、わたしを見てはいない。もう諦めた気持ちになり、弱々しい笑顔を返すことしか出来なかった。
 たけちゃんは気がついている。わたしがずっと、ずっとたけちゃんだけを、想い続けている、ということ。
 でも、たけちゃんの中にはずっと、ずっと想っているひとがいることを、わたしは知っている。
 どんなに頑張ってみても、そのひとを超えることはない。もう亡くなっているからだ。
 思い出は美しく飾られ、優しくたけちゃんを包みこんでいて、わたしには入り込む余地は無い。

 わたしはたけちゃんの中で、娘なのだ。愛する亡き母の、娘。

第二話

 わたしの一番古い記憶は、たけちゃんだ。
 運動会の前の日に、じっちゃんは捻挫をしてしまい、保育園の父と子が一緒に走る、という競技へ出られなくなった。
 じっちゃんはすまない、茉利ときっぱりとした態度で頭を下げてくれ、ばっちゃんは茉利、一緒にばっちゃんと走ろう、と優しく頭を撫でた。
 でもわたしは納得がいかず、泣き続けた。どうにもならない、諦めなければならないこと、と分かっているのに泣き続けた。あまりに泣くのでその内にじっちゃんは怒り出し、ばっちゃんはじっちゃんを宥めていた。
「そんなに泣くなら、出て行けっ」
 泣き声が大嫌いなじっちゃんは、ついに堪忍袋の緒が切れた。そして片足を引きずっているのに、馬鹿力を発揮すると、わたしを有無も言わさず、勝手口から放り出すように外へ出した。


 今日も、暑くなりそうだ。早朝の、爽やかそうな青い空と、もうすでにジリジリし始めている日差しの中、店の前とアパートの共用部分を箒で掃くと、外階段の側を通り角を曲がって、台所の勝手口から家の中へ入った。
 洗面所で大きめの青いバケツへ水を勢いよく出して汲むと、小さな柄杓をその中へ入れて、また勝手口から外へ出る。
 勝手口の側は、死んだばっちゃんが日当りが悪いのにも構わず、草木を植えていた。
 お隣のたけちゃんちとの兼ね合いもあるけれど、狭いスペースに低木と紫陽花などを、境界線手前に植えて、ばっちゃんは木々の成長と花を楽しんでいた。
 ぱさぱさに乾ききった草木に、水を撒いていく。土は乾燥しきっていて水は染み込まず、透明な玉のような形になった。それでも撒き続けると、しっとりとした濃い色に変わっていく。


 じっちゃんに外へ出されたわたしは、ここで泣き続けた。涙はあの時、次から次へこぼれ落ちて、土の中に染み込んでいった。
 じっちゃんを困らせたい訳では、なかった。ただ神様はじっちゃんさえも、運動会で一緒に走ることを許してはくれないんだ、そう感じた。
 わたしは父親のことを、実際に見たことはない。ただ、テレビを付けて国会中継や政策討論番組などを偶然見ると、そこに映っていることはある。
 どんなにじっちゃんやばっちゃんが隠しても、意地の悪い人や親切そうな顔でわざと伝えてくる人はいて、わたしは父親のことは知っている。でも知っているだけだ。
 今は、偶然見てしまっても何の感慨もない。ああ、老けてきたんだねと染めているだろう黒髪で、痩せぎすな姿をただ見つめて、テレビを静かに消す。
 それでも、小さな頃には誰にも言わないが、父を追い求めていたように思う。運動会や父親参観がある度に、空しい気持ちになった。子どもごころに何故、何で、そう思っていた。
 そんな気持ちが爆発してなのか、わたしは勝手口の側で泣き続けていた。大きな声で。
「何だ、おい。うるせぇなあ。何で泣いてんだ」
 顔を上げると知らない男の人が、紫陽花の向こう側から不機嫌にこちらを覗いてきていた。
 知らない大人には話しかけたり、近寄ってはいけない。そう教え込まれていたものだから、ちいさなわたしはしゃがみながらも後ずさりをした。
 勝手口は入れないように鍵がかけられてしまっていて、家に居場所を失ったと思ったわたしは、未知のひとを相手にどうすればいいか分からず、泣くのをやめてただ見つめた。
「何で泣いてんのか聞いてるだろ。答えろ」
「こわいひと?」
「怖い人?お前、俺がこわいひとに見えるか」
「………わかんない」
「お前、美妃の娘だろ」
 名前しか知らない母親のことを聞かれて、母という実感はなかったけれど、それでも頷く。
「言わなきゃ分かんないだろ、何で泣いてんだ」うんざりと言った感じで、そのひとは尚も聞いてきた。
「……じっちゃん、足いたい」
「足痛いだけで、お前は泣くのか」
「うんどうかい、いっしょにはしるやくそく、したのに」
「運動会、いつなんだ」
「あした」そう言ったら、また涙は流れそうになった。
「ああ、もうビービー泣くな。そこの保育園のだろ、何時から始まるんだ」
「………わかんない」
 そう言うとその人は塀によじ登り、紫陽花を避けてこちら側へ飛び降りて来た。塀の端に、隣と行き来出来るように、鉄の柵で出来た扉があるにも関わらず、だ。
 余り周りにいない若い、男の人の迫力に恐ろしさしか感じられず、震え上がったのを覚えている。
「おっちゃーん、おい、おっちゃん」
 勝手口のドアノブをガチャガチャ鳴らしてため息をついてから、その人は叫びながらドアをドンドンと叩いた。呆気に取られていると、ややしばらくしてじっちゃんが勝手口を開けた。
「なんだ、たけか。何の用だ」
 開いた扉でじっちゃんの姿は、見えない。けれど、不機嫌なのは分かった。
「おっちゃん、明日運動会って何時から」
「たけ、おめぇ何、言ってんだ」
「いいから、何時」
「ばっちゃん、運動会、何時から始まるんだ、おいっ」
 ややしばらくして、奥にいるらしいばっちゃんから九時、という答えが返ってきた。
「九時だとよ、何でそんなこと知りてぇんだ」じっちゃんが怒鳴ると、その人は淡々と言い放った。
「おっちゃんの代わりに、俺が走ってやるよ」
 その瞬間、わたしはそのひとを無条件で信頼し好きになったのだ。


 もう一度勝手口から入ると洗面所へ行って水道の栓を捻り、勢いよく水をバケツへ溜める。
「おおい、茉莉。みっちゃんちに持ってく海苔、どこだ」
「茶箪笥の横にない?」
「ああ、ああ、あったわ、ありがとさん」
 居間から叫んでいたじっちゃんは、問題が解決したようだ。
 いつも目の前にお目当ての物があってもうろうろと探し回るじっちゃんは、やんわりと的確な突っ込みを入れるばっちゃんと、いいコンビだった。頭の上の老眼鏡がない、ない、と騒いでいた時には、古い名画の曲を口ずさみながら、そっとじっちゃんの目に眼鏡が合うように掛けてあげていた。
 そんな仲睦まじい様子に、優しい気持ちになったのだ。今は失われてしまったが。


 たけちゃんは約束通り、わたしと一緒に運動会の競技を走ってくれた。
 茉莉のうちはじーさんだから、足、引っ張るなよ。生意気でえばりんぼの旭は、運動会で赤組の優勝を狙っていて、ずっとねちねちとわたしのうちが足手まといになる、と言い続けていた。
 なのに、たけちゃんと一緒にいるわたしを見ると、それまでの嫌味はなりを潜め、こちらを睨みながら舌打ちをしてきた。
 始まる前に先生が親子で手を繋いでください、と手をメガホンのようにして言いながら歩いて回っていて、戸惑う気持ちで困っていたら、
「ほれ」
 無愛想なたけちゃんはさっ、と手を取ると、ぶんぶんと振った。初めはびっくりしたけれど段々面白くなってきて、始まるころには楽しくて大笑いしていた。
 たけちゃんも笑って、握っていない方の手でくしゃ、とわたしの頭を撫でた。淋しいような、懐かしんでいるような笑い顔に、何かを感じとったのはこの時が初めてだったように思う。
 たけちゃんと走った競技は、あっという間に終わってその後の記憶は曖昧だ。
 ただ、競技の最後におんぶされてゴールをする時、たけちゃんの背中から見た景色はそれまでのどんな景色よりも、世界が輝いて優しく見えた。


「茉莉ちゃん、おはようございます」
 勝手口を出ると、隣の塀の端にある扉から、花おばちゃんはおっとりと挨拶をしてくれている。
「おはようございます、おばちゃん」挨拶をしながら、おばちゃんに近寄った。
「茉莉ちゃんは、朝早くから働き者ね。水やりをしていたの?」
「はい、この暑さで葉が、シワシワになってきていましたから。そういえばおばちゃん、(えん)様はどうでした」
「もぅ、聞いてくれるかしら。とっても素敵だったわぁ。いい役者さんに成って、感激よ。歌舞伎を本当に久し振りに見たわ。夢のようだったの」
「良かった、おばちゃん、元気になったみたいで」
 柵越しにわたしが笑うと、おばちゃんは優しく微笑んだ。
「あら、茉莉ちゃんにも心配を掛けていたのね。ごめんなさいね。もう大丈夫、主人の一周忌も過ぎて、まだメソメソしていたらいけないわよ。今迄出来なかったことを少し勇気を出してやってみて、本当に楽しかったわ。今度は、歌舞伎座に行ってみようと思っているの」
 そう言っておばちゃんはお茶目に笑い、ウィンクをした。


 たけちゃんのお父さんは一年前、膵臓がんで亡くなった。おばちゃんは看病のため、何年も近所しか歩いたことはなかった。
 たけちゃんは六年前、調子を崩しがちだったおじさんの代わりに、医院を継ぐため隣の家へ戻ってきた。
 それまでは大病院に勤め、その後紛争が続く国の隣国にある難民キャンプへ海外派遣へ行って、日本に帰ってきてからは僻地へ行ってしまい、余り顔を合わせなかった。
 隣に居た頃は毎年運動会の時期になると、じっちゃんに声を掛けてくれて、たけちゃんは競技を一緒に走ってくれた。
 わたしは、とにかくあの初めての運動会の後、たけちゃんに懐いた。お隣に入り浸り、たけちゃんの帰りを待ち、膝の上を独占し、抱っこをねだり、挙句デートに出かけようとした、たけちゃんを阻止しようと通せんぼまでした。今から思えば、酷い。
 しかし、その時は必死で、独占したくてたまらなかった。そんなわたしの我儘をたけちゃんは困った顔はするものの、そっと受け入れてくれていた。わたしは何故受け入れてもらえるのか、その時はまだ知る由もなかったけれど。
 ただ、出迎えたわたしに笑顔で応え、膝の上に乗せ続け、ぎゅうと抱きしめてくれ、デートは取りやめられた。
「茉莉は、小さな妹みたいなものだから」
 誰かが気がついて、たけちゃんから引き剥がされそうになる度、そう言ってかばってもらった。守られていると感じられる安心感にいつしか、たけちゃんのお嫁さんになりたい、と夢を抱いていた。
「いっしょにずっといたい。ぜったいまりと、いっしょにいて」
 そう言う度にたけちゃんは、目を細めて頷いていた。
 たけちゃんは、事あるごとに母の話をしてくれた。たけちゃんの一つ上だった母は、その話の中では優しくて美しく、思慮深い、素敵な女性だった。
 でも、わたしは知っていた。母は男やもめになった父に、金目当てに近づき、自ら腰を振り、そうしてわたしが産まれ、捨てられたということを。


「そういえば昨日、毅は茉莉ちゃんの所でお夕食を強請ったんでしょう?ごめんなさいね。昨日帰ったら、作り置いておいたカレーが減っていないから、問いただしたら『茉莉の所で喰った』って。もう、いつもごめんなさい。あ、そうだわお詫びに、佃煮作ったのをお裾分けするわね?」
「ありがとう、おばちゃん。そうだ、お返しに海苔持ってきます。じっちゃんの知り合いから沢山頂いて、困っているんです。もしよかったら」
「あらあ、ありがとう。でも昨日お昼間に、海苔は沢山頂いたの。お心だけいただくわね。ごめんなさいね、茉莉ちゃん」そう言って、おばちゃんは申し訳なさそうに笑った。
「ふふ、タイミングが悪かったんですよね。おばちゃん、気にしないで」
「ほんの少し、待っていてね。今、持ってきます」
 涼しげな紗のお着物のおばちゃんは、優雅な仕草でこちらへ背を向けると、たけちゃんの家の勝手口から家の中へ入っていった。


 たけちゃんが海外に行くことが決まった時、わたしはやっぱり泣いた。
 行かないでと追いすがり、荷造りのダンボールの中に立て篭もり、挙句、たけちゃんの布団に潜り込んで、しくしく泣き続けた。
 その時ばかりは、たけちゃんは容赦なかった。遊びにいくんじゃないんだ、と諭され、ダンボールからは出され、たけちゃんの布団で泣き疲れて眠った隙に、たけちゃんは旅立って行った。
 ぜったいまりといっしょにいて。そう言ったのに、勝手に裏切られて置いて行かれた、とそう思った。絶対なんてない、そうひしひしと思い知らされた気がした。
 おじさんは、海外に行くたけちゃんのことをカンカンになって怒って、もううちの敷居は跨がせない、とおばちゃんに言い放った。
 一人息子が勝手に病院を辞めて、海外派遣を決めたことが許せないんだ。その意思は固いように見えた。
 頑固で亭主関白で、ザ、男といった感じのおじさんは、何故かたけちゃんの回りをうろちょろしているお嫁さん希望のわたしにはいつも対等に話をしてくれて、ある日、休憩中の診察室の窓から顔を覗かせると、ぽつりぽつりと本音の話をしてくれた。
 塀の端にある鉄の柵の扉を抜けて、建物の角を曲がった所にある診察室の前は、近くの公園へ行くための抜け道で、わたしはよくそこを使わせて貰った。
 白衣のおじさんは、午後の診察が始まるまでの時間、大抵窓を開けて日向ぼっこをしていた。
「茉莉は寂しいか、毅が行っちまって」
「うん、寂しい」
「おじさんも、ちょっとだけ寂しい」
 それは、誰にも弱音をみせないおじさんの、ささやかな弱音だったように思う。
「でも、もうおじちゃんは、たけちゃんに会いたくないんじゃないの?」
 子どもは残酷だ。というか、わたしは残酷な子どもだった。そんな質問をぶつけるなんて。
「茉莉は、いつでもすとんと素直だな。大人になったら、どうして素直ではいられないんだろうな」
「大人になったら、素直にはなれないの?」
「なれたらいいんだけどな」
「おじさん、たけちゃんのこと、好き?」
「ああ、そうだな、好きだよ」
「じゃあ、好きって言ったら、喜ぶと思う」
「そうか、そうだよな。分かっているのに、な。どうしてそれが難しいんだろうな」そう言っておじさんは、寂しげに笑った。


「はい、茉莉ちゃん。冷蔵庫へ直ぐ、入れてね」
 勝手口から出てきたおばちゃんは、わたしに蓋つきの小鉢を手渡した。
「ありがとうございます。じっちゃんもわたしも、おばちゃんの佃煮、大好き」
「まあ、そんなに嬉しい言葉を言ってくれるのは、茉莉ちゃんだけね。毅なんて『こんな茶色いもんばっか喰えるか』ってけんもほろろなの。カレーは大好きなのにね」
「本当だ、茶色いもの大好きじゃない。嘘つきですね」わたしが笑うと、おばちゃんは優しく笑った。

第三話

 たけちゃんがお隣に帰ってきても、わたしは会いには行けなかった。
 長いこと帰ってこないたけちゃんに、捨てられた、という気持ちは強かった。父に捨てられたように、たけちゃんにも捨てられた、そう思った。それは自分勝手に。
 それは、そっくりそのまま受け止めなければならないこと、そう感じてはいた。
 産まれた時からわたしに付きまとう事実は、理不尽も、不条理も、無条件で受け止めざる得なくなる、その一言に尽きた。わたしの気持ちは無視して、それらは無遠慮に、そして突然にやってくる。
 対処を間違えると、悪意はせせら笑うかのように、わたしにダメージを与えた。
 鈍感になって、何もかも知らなかったような顔をして、笑う。そうして何かを得ていった。

 でも、たけちゃんには、それが出来そうにはなかった。会ってしまえば淋しさを訴えて、喚き散らして、醜い自分をさらけ出して、もう行かないで、そう、縛りつけてしまいたくなる。
 それが良いことだとは、到底思えない。たけちゃんには、たけちゃんの人生があるんだから。
 そうは思っても、止められなくなる自分を自覚していた。執着をわたしはこの時、持て余していた。

 たけちゃんはお隣を継いでから、ここでのやりがいを見出せないようだった。
 ただ、淡々と、やってくる昔からの患者さんを、おじさんから引き継ぎ診察をしていると、たまたま勝手口から出てきたおばちゃんは、ため息と共に漏らした。

 毅は、エネルギーが有り余っているから、ここは刺激がないのよね。

 たけちゃんにとって、自分を試せるのは海外であり、僻地だったのだ。でも、そんなたけちゃんの日常を変えたのは、ばっちゃんだった。


「茉莉ちゃん、新聞頂戴や」古臭い、来店を告げるチャイムの音は、店から遅れて響く。
「みちおじさん、じっちゃん、海苔持ってそっちに行ったけれど、会わなかった?」
「会ってねぇぞ、あれおっかしーな、そめちゃん回り道でもしてんのかな」
 ナイキのマークのついた帽子を被ったみちおじさんは、近所で畳屋さんを営んでいて、じっちゃんの同級生であり、遥か昔からの幼馴染だ。よくみちおじさんと、お隣の花おばちゃんとは小さな頃、一緒に遊んだ、とじっちゃんに教えてもらった。
 良い所のお嬢様なのに、元気一杯の天真爛漫な女の子だったらしいおばちゃんは、家を抜け出してはじっちゃんとみちおじさんの後ろを、にこにこしながら、くっついて歩いていたらしい。
 何度巻かれても、水たまりに落とされても、花ちゃんはめげなかった。そんなことを笑いながら思い出しているじっちゃんは、何時にも増して嬉しそうだった。
「じっちゃん、どこ行っちゃったんだろ」
「まあ、その内帰ってくるさ。茉莉ちゃん五百万円やる。受け取れ」
「はい、五百万円おありがとうございます。ぼろ儲けになっちゃう」
 笑って答えて手を差し出すと、違いねーなと叫んだみちおじさんは、チャリンと音を立てて、掌に暖まった硬貨を乗せた。
「じゃーな、今日こそ大勝ちしたら、茉莉ちゃんにも奢ってやろうな」
 そう言って、お茶目に片手を上げたみちおじさんは、古臭いチャイムの音を響かせて、帰っていった。じっちゃん、何処へ行ったんだろう。


 ばっちゃんの具合が悪くなって、あっという間に近所の大きな病院に入院して、何度かの手術の後、余命を宣告された時、すっかり弱ってしまっていたばっちゃんは、もうここに居たくない、家にずっといたい、そう呟いた。
 何時も明るくて優しいばっちゃんは、性格の濃いじっちゃんに振り回されて、わたしの日々の我が儘に辛抱強く関わり、いつも耐え忍ぶような人だった。そのばっちゃんが、家にずっといたい、そう言った。
 じっちゃんは主治医の先生に相談したが、そこでは在宅診療はやる気もなさそうだった。だった、というのはやんわりと断られたからだ。
 どこか民間の在宅専門の診療所などで、受け入れをしてくれる所を、探していただくことになります。冷たく言い放たれた言葉に、じっちゃんもわたしも項垂れた。
 都心のど真ん中だからこそ、その当時、在宅医療をやっている所など、なかった。
 昼の人口と夜の人口は、この辺では大きく違う。人が多い時間帯の、儲けが出る診療科が多いのは、自然の摂理だった。住宅街の方に行くと少しはあるのだが、逆にこの辺りになると難しい。
 母の姉に当たる美沙おばさんは、今迄通り、ここのお世話になるしかないんじゃない、そう諦め気味だった。
 ばっちゃんは、エアコンの効いた無機質な白い病室で、点滴がぽたりぽたり落ち続けるのを、黙って見つめてもういいから、そう静かな目をして呟いた。


「茉莉、スイカ貰ったぞ、冷やして食うか」
「おかえりじっちゃん、どこ行ってたの」
「どこ、って、みっちゃんのとこに決まってるさ」
 古臭いチャイムの音が遅れて響く。わたしは、はさみを動かし、色紙を切りながら、聞いた。
 水曜日に、自分の受け持つ、二歳児のクラスの子どもたちとする製作の準備中だ。みんな、のりが大好きなので、大きいスイカをひとりずつに作って、そこにカラフルな種を貼ってもらう。そんなことでも、小さな手がやろうとすると、大騒ぎなのだ。人気のあるきれいな色は、多めに種を切り取り、作った。
「みちおじさん、さっき、競馬新聞買いに来たよ。じっちゃんには、会わなかったって」
「ああ、ちいと散歩してから、行ったんだわ。にゃんこ大先生とお会いしてなあ。構ってたら、みっちゃんとこ行くの、遅れちまって」
 何だか怪しいよ、じっちゃんはやましいことがあると、必ず声が大きくなり、顎がガクガクし始める。
「じっちゃーん?」
「にゃんこ大先生、元気そうでな。みゃをーん、っていってたぞ」
「こんにちわー」
 店の扉は、がらりと開けられて、すずしーとかぎゃはは、とか笑い声が一気に耳に、入って来た。
「ほいほーい、じっちゃんが今、いくぞい」
 ごまかしたよ、絶対ごまかした。最近、じっちゃんはこういうことが、良くある。
 じっちゃんがいそいそと店に出て行ってから、わたしは半分に切られて、ラップのかけられた、よく冷えているスイカを、ビニール袋ごと冷蔵庫に入れた。


 高校と、ばっちゃんの病院と、家とを、往復する日々は続いた。ある日、気落ちして下を向きながら歩いていると、道を一本間違えて、たけちゃんの病院の表玄関の所へ出た。
 今でも覚えている、背の高いビルに囲まれて、見上げた藍色の空の下のあった『鈴木医院』と書かれた、小さめの行灯看板のことを。
 わたしはただ黙って、その看板を見上げた。そして、思ったのだ。ここにお医者さま、いるじゃない、と。
「ごめん、ください」
 もう診察時間はとっくに終わっていて、内装が綺麗になっていた受付には、誰もいなかった。
 声を掛けると、ややしばらくして、ベテラン看護師の米田さんが怪訝そうな顔で出てきて、わたしの姿を認めると笑顔になった。
「茉莉ちゃんじゃない、久しぶりねぇ。ここ最近、来てなかったけれど、元気だったのね」
「う、まあ、はい」
 風邪をこじらせても、もう、ここには来れなかった。たけちゃんに、大した膨らみがない胸を無防備にさらけ出すなんて、そんなことは出来ない。医療行為でも、たけちゃんに触れられるかもしれない、そう思ったら胸は甘く、苦しくなった。
 そんなことを見透かされたような気持ちになって、何とか笑って誤魔化した。
「今日はどうしたの、診察時間は終わっているけれど、調子悪いなら、若先生まだ残ってるし、言ってあげるよ」
 人が良くて、肝っ玉かあさんの米田さんは、融通をきかせるのが得意で、患者さんからの信頼も厚い人だ。その、優しい言葉に後押しされて、勇気が出た。
「ばっちゃんのことで、鈴木先生にご相談したいことがあって、来ました」
「ばっちゃん、ってああそうだった。入院しているんだっけ」
 頷くと、米田さんは難しい顔をした。ややしばらく考えて、ちょっと待ってて、と奥に行ってしまった。
 米田さんの難しい顔を見て、後悔が込み上げてきた。ここに掛かっている患者じゃない、そんな人の話を持ち込むなんて、非常識かもしれない。
 でも、ただ点滴に繋がれて、虚ろな目をしているばっちゃんの、唯一の口にした願いを叶えたかった。その一つのことだけで、そこに立っていた。


「あっちい、あっちいわ。ネクタイして行かなきゃよかった」
 ネクタイを外しながらたけちゃんは、小学生の子たちとじいちゃんが、まったりと喋っている店から中に入ってきた。
「どこか、行っていたの」
 カラフルな種を数えながら聞く。もう一回り小さくてもよかったかな、そんなことを思いながら。
「在宅医療を担う、医師のシンポジウムってやつだ。昨日言っただろ」
「そうだっけ。お休みなのに、お疲れ様でした」やっぱり種、足りないかもしれない。
「麦茶くれ、外、暑過ぎる」
 たけちゃんは、返事も聞かず戸棚からガラスのコップを出すと、冷蔵庫を開けて、コップに麦茶をなみなみと注いで、一気に飲み干した。
「冷蔵庫、開けっ放しにしないで、庫内の温度上がるから」
 わたしが叫ぶ声にもお構いなしで、たけちゃんは庫内をじっと見つめて言った。
「茉莉、スイカどうした」
「え、じっちゃんが貰って来たよ、さっき」
「どっから」
「どっから。うーん、聞いてない。そういえば、何処から貰ってきたんだろ」
 今時珍しく、近所の人との物のやりとりは、まあ多い方だ。じっちゃんは、その辺の把握はピカイチで、誰それさんにこれ貰った、という報告をしてくれた上で、次にうちからお返しする時は、その人を優先させている。
 そういえば、じっちゃんは、言葉を濁していたような。
「まあいい。スイカ冷えてるなら、喰いたいな」音を立てて、たけちゃんは冷蔵庫を閉めた。
「はいはい、スイカですね」
 ちゃぶ台から腰を上げて、台所へ行きかけたら、ネクタイを外したスーツ姿のたけちゃんと、鉢合わせになった。見慣れない姿に、ちょっとだけときめく。
「俺だってスーツ位着るんだぞ、かっこいいって言え」えへん、とたけちゃんは胸を張る。
「あーかっこいー、ほんとかっこいー、すごーいかっこいー、よんじゅーさんにみえなーい」
 棒読みで言ったら、眉間にしわを寄せた、たけちゃんに軽く、頭を叩かれた。


「診察室にどうぞ、入って。若先生いるから」受付に顔を出した米田さんは笑ってそう言った。
 玄関に靴を揃えて置き、スリッパを履いて、独特の匂いのする空間へ、一歩踏み出した。パタ、パタと擦るような音が足元から響く。診察室の場所は変わっていないのに、すっかり綺麗になった引き戸を、そっと開けた。
「失礼、します」学校の職員室に入る時のような、固い声が出た。
「茉莉、久し振りだな。まあ座れ」
 パソコンに向き合っていた、白衣のたけちゃんは、わたしが診察室に入ると、こちらを向いた。思い出の中よりも垂れ目になっていて、雰囲気も落ち着いた、たけちゃんがそこにはいた。
 患者さんが座るための丸椅子に腰掛けて、意外に自分の気持ちが冷静なのに、内心びっくりしていた。
「おばちゃんのことで、来たんだって」
「はい、この間、余命を宣告されました。もって半年だそうです」
 淡々と話すわたしに、たけちゃんは驚いたようだった。
「普通に喋っていいぞ、他に、誰もいないんだから」
「祖母はそれを聞いた時に、もう、病院に居たくない、家へ帰りたいと言いました。でもこの辺りで、在宅診療してくれるところを見つけられませんでした。それで鈴木先生にお願いがあって来ました」たけちゃんの言葉は無視して、わたしは続けた。
「祖母を家に迎えて、最後を家で過ごさせてあげたいんです。助けてはもらえませんか」
 そう言うと、たけちゃんは渋い顔をして、わたしに尋ねた。
「茉莉の知っていることだけでいいから、おばちゃんの病状を教えてくれ」

 たけちゃんは、机の上にあった大きなメモ帳に、サラサラと知らない言葉を、わたしが話す度に書き記していった。一枚、二枚とページは(めく)られて、話終わる頃には四枚目の中程になった。わたしが黙ると、たけちゃんは、もう一度最初から、ページを捲り読み返した。
「成る程、な。よくそこまで細かく覚えていたな。お前成績いいだろう、大学行く予定はあるのか」
「行きません」
「行ったらいい、そろそろ受験だろう」
「うちに、大学行くお金はないんです」そう言うと、たけちゃんは黙った。
「おっちゃんには、ここに来ることを言って来たか、言ってないだろう」
 わたしは返事を出来なかった。思いつきで来た、とは言えず黙った。
「まず、家族の中できちんと話し合って、もう一度来てくれ。今日のこれは、聞かなかったことにするから、な」
「聞かなかったこと、って」
「こういうことも、場合によっては、相談料が発生することもあるんだ。他所ではやるなよ、分かったか」
「たけちゃん、大人になっちゃったんだよね。来なければよかった」
「茉莉」
「お金を、お支払いすればいいんですよね。明日持ってきます。お騒がせして、すみませんでした」
「茉莉っ」
 頭を下げて立ち上がりかけたら、ぐっ、と腕を掴まれた。もう一度座らされて、手を離したたけちゃんは、はあ、とため息をついた。
「そういう頭の回転の速さは、あの人譲りだな。やっぱりお前、大学行けよ。奨学金だって、あるだろう」
「行きません」
「今の話は、無かったことにはしない。分かるか、考える時間をくれ。こっち側にしたって新しいことは、受け入れる、受け入れないに関わらず考えて、検討する必要がある。事務長とだって、相談しなけりゃいけないだろうし。ただ、今日ここに来て、茉莉の言ったことは仕事として相談された、ということにはしない。ご近所の世間話にするから、な。言ってる意味、分かるか、分かったら鼻水拭け。ほら」
 そう言ってたけちゃんは、机の上にあった箱ティッシュを、わたしに差し出した。
 やっぱり、たけちゃんの前では、気持ちを抑えきれなかった。涙はとめどなく流れて、落ちた。


「なっ、ちょっと、なにやってるのっ」
「これ、結構貼るの楽しいぞ、しかし、ピンクの種はないだろう」
 たけちゃんは楽しそうに、スティックのりをカラフルな種に塗って、貼ってるけれど。
「馬鹿なの、馬鹿なのこのおっさんっ、ああもう、やっと出来上がったのに」
 ちゃぶ台にがちゃん、とお盆を置いて、たけちゃんの頭を叩いた。本当に余計なことしかしない、このおっさん。
「いてーな。ほら、スマイル、スマイル」
 赤い果肉に見立てた、丸い色画用紙の中に、種を並べて、たけちゃんはニッコリマークを作っていた。その台紙を持ち上げてパッ、とわたしに見せている。
「今すぐその型使って、型取って、種切って。今すぐ」
「ああ、何で」
「早くやれ」
 低い声で、睨みつけて言うと、たけちゃんはハイ、と素直に色紙を手に取った。

第四話

 次の日、わたしは待ち構えていたじっちゃんに、店先で雷を落とされた。
「勝手にたけの所へ行って、おめぇはどういう気なんだ、言ってみれ」
「たけちゃん、何て言ったの?」
「まりっ、おめぇ、質問に質問で返すな。ちゃんと答えろ」
「ばっちゃんがもう、病院に戻らなくてもいい方法を、たけちゃんちの看板を見ていたら思いついて、それで、つい」
 項垂れてそう言うと、じっちゃんはイライラした様子で言葉を続けた。
「そういう時はな、まずはじっちゃんに言ってくれ。たけから昨日、茉莉が泣いて帰ったって聞いて、じっちゃんの立場がなかったわ。まったく」
「ごめんなさい」
 じっちゃんの言葉は、重く響いて聞こえ、胸に堪えた。
「おめぇはほんとになあ、たけは、ばっちゃんも交えて話がしたい、って言って来たぞ。来週ばっちゃんが退院して来たときに、うちにくると。それまでにばっちゃんをどう見送りたいのか、家族で話し合ってくれとさ」
「じゃあ」
 顔を上げるとじっちゃんは、仏頂面でわたしを見た。
「その時に話し合おう、ってことだ。はっきりしたことは言わなかったが、期待を持たせて突き落とすような真似を、あいつはしないだろうな。ばっちゃんを受け入れる気持ちは、あるんだろう。昨日は寝てない、って言ってたから、もう動き出してるんだろ。おめえのやったことは他人様を巻き込んだ、どえらいことだ。肝に銘じておけっ」
「はい、ごめんなさい」じっちゃんに言われたことは、本当に胸に堪えた。


「大体、すいかの種は黒って決まってるだろ。あってクリーム色だろ。何で、こんななんだ」
「ぶつくさ言わないで、やれ」
「ハイ」
 睨みつけて言うと、たけちゃんは器用に色紙を蛇腹に折って、厚紙で作った種の型を色紙に当てると、鉛筆で型をなぞり、はさみを使って種を切り落とした。
 隣でじゃがいもを剥きながら、たまにたけちゃんの手元を監視する。余計なことをしないように。
「今、何作ってんだ?」
「ポテトサラダ」
「ふーん」
 多めに作っておいて、冷凍して、平日のじっちゃんのお昼にする。休日の大切な作業だ。じっちゃんには、いつまでも長生きして欲しいから。
「あそこで煮てるのは?」
 台所では、使い込んだ鍋たちが、コトコト音を立てている。たけちゃんが、はさみを使う高い音に混じって。
「切り干し大根と、鶏肉のビール煮」
「茉莉よ、お前の人生地味すぎるぞ。なんちゅうか、本当に二十三歳なのか」しゃきしゃき、とはさみの音。
「その言葉、そっくりお返ししますよ。お父様」最後の一つを、くるくると回しながら剥く。
「花咲かせろよ。めかしこんで合コンの一つでも、行ってこいよ」はさみの音は、止まる。
「たけちゃんが構ってくれたら、それでいい」包丁の角で芽を取る。丁寧に。
「ちったあ親離れしろよ。おい」しゃきん、と色紙は切り落とされて。
「そうですね、その通りですね」剥き終わったじゃがいもを入れたボウルを持って、立ち上がった。


 ばっちゃんが退院して来た日、たけちゃんは診察を終えてから私服でやってきた。後に、痛みを伴う治療を耐え続けたばっちゃんが、家にいる時まで苦しかった記憶を思い出さないように、との配慮だったということを知った。
「おばちゃんは、どうしたい。選択肢は色々ある。
 ひとつは、病院に容態が悪くなればその都度行く。
 もうひとつは、ここで、生き続けるための処置をし続ける。
 そして最後に、もう生き続けるための延命処置は、しない」
 もう延命はしない。そんな選択肢をたけちゃんが持ってくるなどと、思ってはいなかった。生き続けるための延命はしなければならないもの、そう思っていた。
 たけちゃんは、一つずつの選択肢について、メリット、デメリットを分かりやすく話してくれた。それは簡潔に、分かりやすく。
「たけちゃんは、どう思う」ばっちゃんは、弱々しくたけちゃんを見て、聞いた。
「おばちゃん、おばちゃんが選んでいいんだ。自分がどうしたいのか、何をして生きるのか、これから先どうやって生きるのか。どれを選んだって、間違いじゃない。ただ、周りに迷惑になるからって理由で、望まない道を選ぶのだけはやめて欲しい。素直な気持ちで、どうしたいのか教えてくれよ。それに沿えるようにするのが俺の仕事だから」
 ばっちゃんは、たけちゃんを長いことじっ、と見つめていた。たけちゃんも静かに微笑みながら、ばっちゃんを見つめて、いた。
「生きる、なんだねえ。どう死ぬかじゃなくて」ばっちゃんは、少しだけ笑う。

「だって、おばちゃんは今、生きているだろう。そして明日も、明後日も生きる。目を閉じる日まで、楽しく生きるための選択を決めて欲しい。素直な気持ちで」
 ばっちゃんは、たけちゃんのその言葉に、目を見開いた。

 ばっちゃんは、もう延命しない道を選んで、じっちゃんも美沙おばさんもわたしもそれに同意した。
 たけちゃんは丁寧に、痛みを感じたときに取り除く処置をした方がいいことや、生活についての指導、ベットに居続けて、弱っていたばっちゃんをサポートするために、介護保険を使った訪問介護や、訪問看護を受ける方法、その他、沢山のことをじっちゃんとわたしに伝えた。
 ばっちゃんは、それを横になりながらじっと聞いていた。

 たけちゃんが帰ってから、ばっちゃんは、じっちゃんを呼んだ。
「本当にそれでいいのかわからない、でも、でも」
 そう言って、ばっちゃんはじっちゃんに縋って、わあわあ泣いた。病院では一粒の涙も流さなかったのに、ばっちゃんは無垢な少女のように、じっちゃんに抱きしめられて、泣いた。


「たけ、おめえ、何させられてんだ」
 小学生の男の子たちが、遊びに出て行ったのを教えてくれる、古臭いチャイムの音と共にじっちゃんが店から戻って来て、聞いた。
「スイカの種切れって、茉莉様はお怒りなんだ」
 不貞腐れてたけちゃんは、はさみを動かしながら、じっちゃんに訴える。
「どうせまた、余計なことしたんだろ。終わったら、続きやるか?」
「ああ、どこまでだったかな」
 じっちゃんは、茶箪笥の上から碁盤をそっと持ってきた。そしてちゃぶ台に置く。
「なかなか、これは勝負つかねぇな。たけは強くなったわ」じっちゃんはにやり、と笑う。
 たけちゃんは種を切りながら、たまに碁盤を見つめやがて、そっと白い碁石を置いた。


 ばっちゃんは、宣告された余命の倍、生きた。調子のいい日は店の前に縁台を出して、ご近所さんや、駄菓子を買いに来た小学生とおしゃべりしたり笑ったり、調子が悪くても小さな子が店に来て、可愛らしい声で駄菓子を選んでいる、そんな気配に頬を緩ませていた。
 日々、じっちゃんが使う布切りばさみの音や、外を歩く、お豆腐屋さんのラッパの音、お湯が沸いた時に鳴る、笛付き薬缶の高い音、誰かが何かをして生きている、そんな音をばっちゃんは目を細めて聞いていた。
 たけちゃんは、ばっちゃんの調子のいい時は散歩がてら、医院に診察に来るよう呼んでくれ、具合が悪くなると、往診に来てくれた。最後の方は、往診ばかりになってしまったが。
 何があっても救急車だけは呼ばないでくれ、何かあったら俺を呼べ。
 ばっちゃんが、どんな状態をたどって行くか教えてくれた、たけちゃんは、家で最後を過ごすために、一番大事なことはそれだ、と言った。
 延命治療をせずにばっちゃんは、わたしが短大に推薦合格したのを見届けてくれ、最後に笑顔を残して空の向こうへ、逝った。


「ぬお、本当にたけは強くなったな!」じっちゃんは、頭を抱えて唸っている。
「おっちゃん、俺、おっちゃんのこと、研究してっからな。キシシ」変な声で、たけちゃんは笑う。
「んーんー…………ん、おっ、いや、たけ、おめぇはまだまだだ!」じっちゃんが、黒い碁石を動かしたようだ。
「くっ………んにゃ………ぬわ」
 台所にいると、奇妙な声ばかりが居間から聞こえてくる。ぬう、とか、ふぉ、とか、低く唸る声ばかり。
 人参を千切りしながら聞く二人の唸り声に、わたしは奇妙な錯覚を起こす。ずっと三人で暮らしているような。ずっとずっと、三人で暮らしていくような。
 そんなことはあり得ないし、夕食前にたけちゃんは帰ってしまうのだ。それでも思ってしまう。このまま、ずっとこんな日々が、続いて行けばいい、と。


 ばっちゃんの一件以来、わたしはやっぱりたけちゃんのことが好きなんだと、そう思った。
 子どもの頃から変わらない気持ちで、やっぱり好きだった。困ったときに助けてくれる、大事な人だ。
 でも、子どもの頃とは接し方は、全く違ってしまった。わたしは気持ちを抑えきれず、無意味にたけちゃんに話し掛け、たけちゃんの好きな唐揚げを作ってみたり、欲しがっていた本を探し出して差し入れたり、挙句、思いつめて水着姿まで披露した。今から思えば、壊滅的に酷い。消し去りたい過去だ。
 たけちゃんはそんなわたしの迷走を、ばっちゃんと共に生ぬるく見守っていた。ような気がする。

 話を聞いてはくれたが、唐揚げは煮魚の方が今は好き、とおっさんになって来た事実を知らされ、本は代金を渡されながらそんな暇があれば勉強しろ、と説教され、水着は見た瞬間、お腹を抱えての大爆笑だった。
 たけちゃんは、さりげなくわたしの気持ちを逸らして、そうして何事もなかったように話をしてきた。
 その度に悲しいような、苦しいような、淋しい気持ちになった。何時も思い知らされる。わたしは相手にはされていないんだ、と言うことを。
 ばっちゃんが亡くなってからは、気落ちしたじっちゃんの話し相手になってくれ、月に何度か囲碁をしに来てくれた。そしてじっちゃんと、母の思い出話に花を咲かせた。

 母の話をする時のたけちゃんは、昔と変わらない、優しい顔で大切な人を想う顔、だった。
 母と隣同士、幼馴染で母は、たけちゃんにとって失われた永遠の片思い相手。そんなことを、まざまざと見せつけられて。思い出と共に生きるたけちゃんは、とても幸せそうだった。
 いつからかたけちゃんは、わたしの後ろを見るようになった。
「美妃に、そっくりになった」そう言いながら。
 そして、父代りの存在だ、そう言い始めた。その度に、自分が殺されていくような気持ちになった。わたしを見てもらえる日は、来ない。一生たけちゃんは、このまま生きていく。

 そう悟った時に、気持ちを決めた。もう、迷わない、と。


「いやぁ、たけは強くなったわ。しかしあいつ、そんなこと位しか趣味ないのかね。仕事やって囲碁やって、それ位しかないのかねぇ」
「さあ、どうなんだろうね。仕事は忙しそうだけれど」
 ばっちゃんの往診を受け入れてくれるようになってから、たけちゃんは医院の中に、在宅医療を請け負う仕組みを構築していった。訪問看護ステーションを開設して、看護師さんの数も増えて、試行錯誤しているのがよく分かった。休日は、勉強会に出たりして忙しそうだ。
 医院の経営も診察も、そして在宅医療も、たけちゃんは真面目に取り組んでいる。
「まあ、分からんでもないな。家にいたら仕事のことばかり考えるだろうし、かといって、いつ呼び出しが来るか分からんから、うちにくるんだな、あいつは」
「まあ、賑やかになっていいじゃない。余計なことはするけれど」
 茶碗の中のご飯を集めながら、言った。じっちゃんに無言で佃煮を勧めると、その目は細まった。
「茉莉、たけが言ったからじゃないけどな。お前、もうちょっと外に出てきていいんだぞ、休みの日は、ずっと家にいるじゃないか」店から聞いていたんだ、じっちゃんは。
「いいの、お散歩や外遊びで結構平日、外にいるしね。もう日焼けしないようにするの大変だもん。休みの日位ね」
「そうじゃねぇ、遊んでこいって言ってるんだ。おめぇ分かってて話、逸らすの止めろ」
「平日は、さっさと帰ってこいって言う癖に」
「たけだけが、男じゃねぇんだぞ」じっちゃんは、核心を突いてきた。
「そうだね。じっちゃんの言うとおりだね」それでも、もう、迷わない。

 でも、この日を境に日常は、大きく変わることに、なった。

第五話

 十三時からの休憩時間、今日は連絡帳書きをパスして、エプロンのままうだるように暑い昼下がりの街へ出た。保育士には休憩時間はあって無しに等しい。日々の事務作業は休憩時間もペンを走らせないと、終わらない。
 しかし、今日は日中トラブルが無かったことと、最後までの遅番勤務をするので、ひとりひとりの様子を父兄にも直接伝えることが出来る。
 振込が溜まっているので、銀行へ行ってしまわなければならない。

 自動ドアを開けて銀行へ入ると、そこはキンキンに冷え切った世界だった。こんなにエアコン効かせなくてもいいのに、と思いながらも身体は落ち着く。
 意外に窓口は空いていて、振込は早く終わった。再び外に出ると、またうだるような暑さに包まれる。
 何時まで暑いんだろ、もう九月になるのに。そんなことをぼんやりと思いながら、超高層マンションの脇の道を保育園へ向けて歩いた。
 こんなに早く終わったのなら、月案を家に取りに寄って書き上げてしまおうかな。昨日、クラスの反省と来月の会議をして、来月の目標や、どんな遊びをするのかなどの計画を記した月案を持ち帰り、家で書いていた。取りに行って休憩時間に書き上げてしまえば、仕事は楽になる。そう思って家への路地を入った。

 それが静かだった水面へ、波紋を広げることになるなんて、その時は思ってもいなかった。

 細い路地は日陰になっていて、幾分涼しく感じる。あまりにも暑くて、人っ子一人いない。蝉が鳴き続けている人の気配がしない薄暗い路地に入ると、世界にたった一人で立っているような、不思議な感覚がする。
 まるで誰もがいなくなってしまって、一人だけ残されたような。そんな筈はないのだけれど。
 店の前にたどり着き、引き戸を開けようとして手を止めた。じっちゃんの達筆の文字で『外出中』という看板が掛かっていて、戸の内側で看板は小さくスウィングしている。外側から目を凝らして見ると、内鍵は掛かっていた。
 おかしい。じっちゃんが出かける、なんて聞いていないけれど。気晴らしに散歩、にしてもこんな暑い中行く筈は無く、家賃の入金は昨日全て済ませた、と言っていたから銀行に、とも考えにくい。なにより銀行で出会わなかった。違和感はするけれど、まあ、いい。
 家の鍵は保育園のロッカーに置いてある。でも勝手口のそばにある、小さくて高い窓に勝手口の鍵を上手く隠して置いてあるので、そこから取って入ればいい。
 そう思ったわたしは外階段の側を通り、建物の角を曲がると、日当たりの悪い庭の隅に置いてある、小さなロッカー型の物置を開けた。そこから古びた木製の台を出すと、勝手口の脇にある窓の下に置き、乗ると窓を開こうとしていたのに誰かに阻まれた。

「たけちゃん」
視線を下げるとそこには、わたしの左腕を掴んでいるたけちゃんが、白衣のまま無表情で立っていた。
「大きな声、出すな」
 しっ、と言うとたけちゃんはわたしの腕を引っ張り、強制的に台から降ろした。
「どういうことなの、何で?」
「そこ、開いてたのか。鍵隠すのはあんまり良くないな」
「え、いや、どうして止めるの、何で?」
 そう聞くとたけちゃんは黙った。午後の診察は十四時から始まるので、今ここにいてもおかしくはない。でも、おかしい。こんなうちの裏庭に何故いるのか。
「茉莉は何で帰って来た?」小声でたけちゃんは聞いてくる。
「は?」
「何で今日に限って帰ってきた。休憩時間は何時も連絡帳とか書いているんだろ?」
「何で、って、何でって……え?」頭は混乱してきた。たけちゃんは何を言いたいのだろう。
「分かってないなら、保育園に戻れ。今すぐ」
「ちょ、ちょっと待って。たけちゃんの言っている意味がさっぱり分からないんだけれど、どういうこと?」
「いいから、戻れよ」鋭い声で諭されるように言われた。
「それじゃ納得出来ない」
 理由を知りたくて詰るような口調になると、たけちゃんは、はぁ、と溜息をついた。
「知りたいか。多分遅かれ早かれ茉莉は知ることになるとは思うが、それでも、知りたいか?」
「どういうことなの。勿体ぶらないで言って?」
 たけちゃんは言うか言わないか迷っているようだ。たけちゃん、とわたしが促すと意を決したようにとんでもないことを言い出した。
「おっちゃんと、うちのお袋が中にいる。表の戸を締め切って、勝手口も鍵を掛けて、男と女が密室になったらやることはひとつだろ?」
「はぁ?」
「声がでかいって。様子を伺いに来たのバレるだろ」
「そんな、まさか」言っているその意味は分かった。しかし理解は出来ない。

「確かめてみるか。多分ダメージはデカくなる気がするけどな」
「確かめる、って」
「窓、開けたら聞こえるだろ、中のアンアン言ってる声が」
「生々しいこと言わないで。馬鹿なの、大馬鹿なの?」
「だから声がでかいんだよ、それじゃなくても茉莉は地声がでかいんだから、少し静かにしてくれ」言われてうっ、と言葉に詰まった。
 たけちゃんは深刻そうな顔でわたしをじっ、と見ている。確信、しているんだ。じっちゃんとおばちゃんが、そういう仲だということを。

「たけちゃんはどうして来たの、ここに」小声で問いつめる。
「確かめに来たに決まってるだろ、どういう仲なのか」小声で返された。
「知ってどうする気?」
「それは知ってから考える。茉莉、お前は保育園に戻れ」
「この状況で戻れる訳ないでしょ、たけちゃん本当にその声聴く気なの?」
「確信を得るにはそれしかないだろうな」何てことを言い出すんだ。

「馬鹿なの?自分がそうされたら嫌じゃないの。わたしがおばちゃんなら、絶対嫌だ」
「………じゃあ、茉莉ならどうするよ?」
 たけちゃんはじっとりとした目線で見てくる。考えが浮かばなくて自然と眉間に皺が寄るのがわかった。焦る気持ちはこめかみの上辺りから一筋、汗になって流れて行った。

「やっぱり確かめるしかないだろ」
 たけちゃんが木の台に足を掛けたのを見て、右腕を急いで引っ張った。その瞬間、勝手口の鍵は大きな音を立てて、鳴った。

 たけちゃんは急いで木の台から飛び降りると、強引にわたしの腕を引いて、外階段とは反対側の建物の角を曲がった。扉が開く気配を背中に感じる。たけちゃんはわたしを、その狭い場所に勢いよく引っ張り込んだ。
「何も、喋るな」
 人が一人、立てるかどうか分からない程狭い、エアコンの室外機が縦に並ぶ場所で、たけちゃんはわたしの姿が見えてしまわぬようにぎゅう、と掻き抱くと、頭の上に囁きをそっと落とした。

 思わぬ出来事に、心臓は壊れる寸前だ。押し付けられているたけちゃんの硬い胸と、消毒液の濃い匂いと、背中に回された力強い腕に眩暈がする。
 どうしよう、今日は子どもたちと沢山水遊びして汗臭いのに。たけちゃんの乾いた白衣に、汗が染み込んでいくような気がして、顔を少しだけでも離そうとすると、動くなと低い声がたけちゃんの身体から、わたしの身体に響くように小さく聞こえた。

 中々扉を閉める音は聞こえない。もしこの状況が永遠に続いたらどうしよう、そんな、よく分からない妄想に囚われそうになる。目の前がぐらぐらして熱い。吸い込む空気も熱くて、息が上手く吸えない。

 この狭い空間で、たけちゃんは少しだけ腰を後ろへ引いた。何で。そう思うとそこに意識が行ってしまい、何か、を感じた。お腹に、硬い、棒状のような、もの。

「あ」

 小さな声が漏れて、より一層顔が熱くなる気がした。まさか、知りたくなかった。知らないままで良かったのに、知識の中にしかない事柄に行き当たってしまい、こんなに狼狽える日が来るなんて。

 生理現象だから、今は不可抗力だから、だから、違う。そんな気持ちは、たけちゃんの中に無い。違う、勘違いしちゃ、駄目。

 遠くで錆びた鉄の扉が鳴る、小さな音がした。ややしばらくして、静かに扉が閉まる音が立て続けに聞こえた。
「たけちゃ……も、行った、みたい」思わず、声は、甘く、なった。
「もう少し、待て」
 その言葉に胸は更に高鳴った。離して、そう言いたい気持ちと、ずっとこのまま居たい気持ちで心は揺れる。
 緊張に耐えきれなくなり、目を閉じると肩の力は抜けた。その瞬間強い、強い力で抱き締められる。全身が吸い付くように合わされるような錯覚に、気は遠くなった。
「た、たけちゃ、ん、はな、して」
 かろうじて絞り出した言葉に、たけちゃんは、はっとしたように身体を離した。蒸し暑い空気が、身体と身体の間に入りこんだ筈なのに、とても涼しく感じる。恥ずかしさで、たけちゃんの顔を見ることが出来ない。

「あー、ひとまず、仕事に、戻るか」たけちゃんは腕時計から視線を動かさず、どもりがちに言った。
「う、ん」
「お前今日、夜は空いてるか。会議は」
「昨日、だったから、今日は、ないよ」
「遅番か?」
「うん、六時半」
「じゃ、七時にぐい呑み屋に来い。分かったか?」
「へ」
 顔を上げるともう無表情になっているたけちゃんは、淡々と言い放った。
「知ってしまったからには、この先どうしたらいいのか考えたほうがいいだろ。今のような関係を見守り続ける訳にはいかないだろ?」
「え、どうして?」
 言われたことは、意味がさっぱり分からなかった。そんなわたしの表情を見て、たけちゃんは溜息をついている。
「とにかく話は後だ。もうあと十分位で二時になる、お前も休憩時間終わるだろ?」
「わ、かった」
「七時だからな、忘れるなよ」
 そう言い含めると、たけちゃんはわたしの横をすり抜けてあっという間に鉄で出来た扉の向こう側へ行ってしまった。残されて少しの間ぼんやりしたものの、急いで外階段の方へ歩き出す。

 気持ちを切り替えなくては、ミスしたり子どもたちの怪我に繋がりかねない。思い切り両頬をつねった。抓り過ぎて痛い位。でもその位しなければ、今わたしに起きた濃すぎる出来事は消えそうには無かった。

「よっし、忘れなきゃ」
 頭をブルブルと振って、両腕をグルグルと回した。リラックスしたい時のわたしの癖。
 狭くて細い、薄暗い路地で気持ちを切り替えるべく、その癖を何度も繰り返しながらわたしは保育園へ向かって歩いて行った。

第六話

 通常保育時間ぎりぎりのお迎えに来た父兄と話をしていたら、たけちゃんとの待ち合わせ時間の間際になった。急いで机の上を片付けて、ロッカーを開ける。仕事柄、汚れることも多いので着替えだけは沢山置いてあった。急いで一日埃や汗を吸い込んだTシャツを脱いで、制汗シートで身体を拭く。本当は、消臭剤を頭から被りたい気分だけれども。

 保育園を出たのは七時五分前になってしまった。もうすっかり日が暮れて、それでも明るい都心の夜空の下、ポロシャツにジーンズの格好で保育園から程近いぐい呑み屋を目指す。
 本当は着替えに帰りたかったが、じっちゃんと何となく顔を合わせにくいのもあった。じっちゃんには急遽飲み会が入った、と携帯にメールをするとすぐに『分かった』と返事が返ってきていた。子どもでは無いのだから、夕食はなんとかするだろう。

 保育園からほど近い和の雰囲気がするお洒落なダイニングバーの、一枚板で出来た重い扉を引いた。店内には仕事帰りの中年のサラリーマンが二人、カウンターに座って語りあっている。
「いらっしゃいませ、茉莉先生」
 丸めがねの人の良さそうなマスターとは、保育園の職員の飲み会の幹事の打ち合わせをしている内に自然と顔馴染みになった。
「こんばんは、あの、ここで待ち合わせているんですけれど、まだ来ていないみたいで」
「お連れ様なら、二階の個室でお待ちですよ」
「え、個室で?」
「首を長くしておられます。どうぞ」
 ニコニコしたマスターに階段へ促された。たけちゃん、何で個室にしたんだろう。忘れよう、忘れようとしている出来事が、頭の中に出てきそうな気配がして、慌てて頭を振りながら、和モダンな丸い照明に照らされた急な階段を登った。

「遅いっ」
 襖を開けたわたしの顔を見た途端、たけちゃんは堪えきれなかったように叫んだ。間接照明だけの薄暗い畳敷きの小さな個室で、待ち構えているその人の顔をまともには見ることが出来ず、ちょっと目を逸らし気味に部屋へ入る。
「たけちゃん……七時って言ったよね」
「六時半に終わるんだろ、六時半に」
「たけちゃんだって、時間ぴったりに仕事を終われる訳じゃないでしょ。分かるでしょ」
「早く座れ、そこに」
 目の前の席を指差された。たけちゃんは何かを誤魔化したい時に、横暴な振りをすることがある。何故今日に限ってそんな真似をするの。もしかして意識しているの。まさか、あんなに娘扱いしていたのに。
 たけちゃんならさっきの出来事も「いやーさっきは勃っちゃった、グハハ」とか茶化して言いそうなのに、この反応は何なのだろう。
「なに飲むんだ、何喰うんだ、ほら見ろ」
「ありがとう」
 眉間の皺が深いたけちゃんは、押し付けるようにメニューを差し出して来た。受け取ると真四角のテーブルの正面にどっかり座るたけちゃんを見つつ、左側の角に座る。そして、透けた和紙に流れるような文字で書かれたメニューを開く。
「たけちゃんは、何を飲んでいるの」
「ハイボール」むっつりとたけちゃんは答える。
「珍しいね、飲んでいるなんて」メニューから目を離さず言う。
「たまにはいいだろ。そんなには飲まないつもりだ」
 在宅の患者さんから、いつ呼び出しが来るのか分からないたけちゃんは、お酒を飲まないことの方が多い。そっと伺うと、もう中ジョッキは二つ空いていて、ハイボールも半分位に減っていた。本当に珍しい。
「何時から居るの?ここに」
「六時半」
「少し、飲むペース早いんじゃない、酔っ払っちゃうよ」
 優しくそう言うと、たけちゃんは黙った。あまりにも黙っているので、メニューから顔を上げると眉間の皺が深いまま、見つめ続けているその視線とぶつかった。
「なあに」
「何でもない」
「どうしてそんなにご機嫌斜めなの」
 どうしようか迷ったけれど、突っ込んでみることにした。あまり不機嫌なままでいられても、困るし。
「お前よく冷静でいられるな、おっちゃんとお袋が熱愛中って、どこの週刊誌だよ」
 ああ、そっち………それでご機嫌斜めだったんだ。何となく意識していた自分が馬鹿馬鹿しくなった。わたしにとっては大した出来事だったアレは、やはりたけちゃんにとっては何ともなかったらしい。何時ものことだ。何時ものこと。
「週刊誌ばりに張り込みしていたのは、たけちゃんでしょ」
 何時もの調子に戻すと、何故かたけちゃんも何時もの調子に戻って話し始めた。
「いや、だってな、どうする気持ちでそういう仲になっているのか、分からないだろう。ただの遊びなのか、それとも真剣なのか」
「うーん、その辺は聞いてみないと、分からないけれど」
 そう言うと呼び出しボタンを押し、個室の襖を開けて、階段の下へ来たマスターに麦焼酎のロックと酒盗を頼む。
「お前、麦焼酎って」
「最近じっちゃんとたまに飲むの。ここのマスターのお父さん勧め上手だから、ハマっちゃって」
 ぐい呑み屋の横は、古くからある配達専門の酒屋さんだ。じっちゃんは、マスターのお父さんとも古くから付き合いがあって、定期的に御用聞きに来てくれる。
「お前なあ………本当にな、地味すぎる。こうチャラッとしたカクテルとか飲んでみろよ。そんなんじゃ合コンでモテないぞ、おい」
「ハイハイ、そうですね」
その時マスターが階段を登って、麦焼酎と酒盗を持って来てくれた。
 きっと珍しい組み合わせだと思われているだろう、でも、あまり気にしないことにする。

「で?どうするよ。問いただしてみても駄目じゃないのか」
「うーん。いい大人で独身同士なんだから、放っておいたら駄目、なのかな。恋愛をしちゃ駄目って決まりはないんだし」
すでにテーブルにあった冷奴をつまみながら言うと、たけちゃんは苦々しい顔になった。何故だろう。
「お前他人事だなあ。おっちゃんをお袋に取られてもいいのか」
「そうは言っても、ねぇ」
じっとりとたけちゃんは、わたしを見ているけれど。
「あのなぁ、実感は無いかもしれないけどな、(おおやけ)になって公認の仲になんかなったら、一番困るのは茉莉、お前なんだぞ。そこんところ分かってないだろ」
「そう、なのかな」
 正直な所、たけちゃんが言うほど困った気持ちはない。おばちゃんが家から出て行く姿を見ていないからだ。疑うわけではないが本当なのかな、と思う気持ちはある。熱く語るたけちゃんとの温度差に、わたしは戸惑っていた。
「その辺お前は若いから、理解できないかもしれないけどな。もうちょっと考えてみろ、まったく」
 今度はわたしが黙ることになる。何故こんなに、ぎすぎすとしているんだろう。何時もの会話には無い、噛み合わない感じに溜息が出る。………仕方がない。もう。

「あのね、たけちゃんは、じっちゃんとおばちゃんがそういう仲だって、いつ気付いたの」
「ああ………色々あるけれど決定的だったのは、スイカだな。日曜に茉莉ん家の、冷蔵庫に入っていたやつ」
「スイカ。ああ……じっちゃんが貰って来た、半玉のあれ」
「あれは、うちから行ったやつだ。お中元か何かで来たやつなんだが、お袋は余りのでかさに、冷蔵庫が占拠される、ってため息ついていた。それに熊のシールが付いていたんだよ。スイカ持ってる熊のシールが」
「ああ、そういうこと………でも偶然じゃないの」
 日曜日、我が家の冷蔵庫に入っていた物には、熊がスイカを持ったシールが確かに貼ってあった。
「うちのスイカからは、シールが消えていた。そして同じ大きさの半玉になっていた。おっちゃんならうちのお袋から何か物を貰ったら、律儀に俺にも声をかけてくれるだろう。それも無かったしな」
「たけちゃん、凄いね。名探偵みたい」
 少しだけ大げさにそう言うと、何故かたけちゃんはちょっとだけ照れて、ぶっきらぼうに話しながら口を尖らせた。
「また、そんなこと思っていないくせに」
「ううん、名推理だよ。わたし、何処かから貰ったスイカとしか思っていなかったもん」
 ちょっと細かすぎだけれど、という言葉は飲み込む。余計なことは言わないでおこう。
ちらり、と見るとたけちゃんは機嫌を直したようだ。拗ねたり気落ちした子どもにする褒めが、通じるなんて単純だなあ、と思う。でもそこが、たけちゃんのいいところでも、あるし。
「次、何を飲もっかな」
ああ、メニューを広げて、浮き浮きしている。しかしもう一杯くらいで止めるように、後で言わなきゃいけない。分かっているとは思うけれど一応。そんなことを思いながら麦焼酎を飲む。

「で、たけちゃんはどうしたいの。見守るの、それとも公認にするの?まさか引き裂く、なんてことはないよね」
マスターがハイボールレモンを置いて行ってから、たけちゃんに尋ねた。
「そこだよな。お袋が昔おっちゃんが初恋だった、って言っていたことがあったから、まああんまりビックリはしていないけど、あの歳で結婚とか言い出されたら、まあ面倒なことにはなるよな。お互い家持ちだし相続がどうの、こうのになって揉めるのはごめんだな。まあ、うちは俺一人息子だから何とでもなるが、お前んとこは揉めるだろ」
「そうなのかな」
 母の姉の美沙おばさんの所は、外苑近くで結構大きい呉服屋を営んでいる。若者の着物離れに対応して、手頃な値段の古着のお着物の販売も始め、雑誌とタイアップしてレトロ着物で外苑を歩く、というイベントなどにも積極的だ。経営は順調に見えるけれど、それでも揉めるものなのかな。

「その顔は分かってないな。まあ、何にしろ、あっちからの出方次第だ。見守ることしかできないだろうな」
 たけちゃんはあっさりと答えを出した。まるでもう決めていたかのように。
「見守る、かぁ」
それでもピンと来ていないわたしは。独り言のように呟いた。
「下手すりゃ、お前が家を出なければならない事態にもなりかねないから、俺も少しは相続関係勉強をして、調べて考えておく」
たけちゃんはハイボールのグラスの中の氷を、カラコロ鳴らしている。
「どうして」
「お前が、今迄通りあの家から保育園に出勤できるのが、一番だろ。父ちゃん代りなんだから、茉莉が困らないように、考えてやらにゃーな」
「そんな、いいよ、そんなことしてくれなくって、いい。そもそもそんなことになるって、思えないし」
「阿呆か、そういうことはな、思わぬ所から足元掬われるんだよ。あの中で一番立場が弱いのは、お前なんだぞ。うちはいいさ、お袋と俺だけで医院の方の財産はもう俺が継いでるんだから。お前んちは美沙ねーちゃんもいるし、何より結婚ってなったらお袋と住むことになるんだ。その意味分かっているのか」
「おばちゃんのこと、好きだもん」
「いや、そういうことじゃねーって、ったく、お子ちゃまには言っても通じねぇのかよ」
 わたしは再び黙ることになった。たけちゃんは、本当に怒ったようだ。
「少しは父ちゃんの言うこと聞け、そんなのん気にしてて、いざ困ったことになってからじゃ遅いんだからな。分かってんのか、全く。とっとと彼氏見つけて嫁に行け」
「お嫁なんか行かない。それにたけちゃんは、お父さんじゃない」
 気がついた時には、もう口から言葉は出て行ってしまっていた。ずっと思っていたこと。ずっとずっと考えていたこと。
「ばっ……このっ、嫁に行かないって」
「たけちゃんは、お父さんじゃない」
長い間、物凄い形相で睨まれた。でも、視線を逸らしたくは、ない。

 そんな静けさを破ったのは、たけちゃんのスマホの着信音だった。
「もしもし………あ……ああ、一緒にいる」
 そう言いながら、たけちゃんはわたしをちらっ、と見た。長い間黙ったままの後、分かった、と一言だけ言うと電話を切った。
「おっちゃんが話があると言っている。茉莉も一緒に来いとさ。出るぞ」
 そう言うとたけちゃんは、急いで立ち上がった。
「え、どういうこと」
 見上げるとたけちゃんは、またわたしを睨んで来る。
「そういうのがまだピンと来ないうちは、お子ちゃまだっつーんだよ。行くぞ、馬鹿娘」
 不機嫌なたけちゃんはどすどすと歩いて部屋を出ると、階段を降りて行ってしまった。



「ただいま」
 声はちいさくなり、後ろでたけちゃんが店の引き戸を閉めた気配がした。遅れて古臭いチャイムの音が響く。
「おかえり、お前ら、やっぱり一緒だったのか」
 居間と店の間にある引き戸を、じっちゃんは目一杯開けた。
「おばちゃん、来てたの」
 じっちゃんの後ろには涼しげな長いワンピース姿のおばちゃんが、そっとじっちゃんに寄り添うように立っていた。
 二人一緒の所を見てしまうと自分が想像していた以上に、ショックを受けているのに気がついた。やっぱりそうだったんだ、って生々しい実感が湧いてくる。
「茉莉ちゃんがお留守だったのに、ごめんなさい。でも染次さんと相談しなきゃ、ってそう思って」
 そう言ったおばちゃんの顔は恋する女性、そのものだった。もじもじしてドギマギして、そんな顔。
「で、何、話って」
 思っていたよりもすぐそばの背中の後ろで、たけちゃんの声がして心臓が跳ねる。
「まずは中に入って話そう、こんな所でなんだし」
 じっちゃんがきっぱりと言い切って、ちゃぶ台の方へ行った。私たちも靴を脱ぐ。今朝、自分の家として出て行ったのに、今は全然他人の家にお邪魔するような、そんな錯覚に襲われる。まるでここには住んだことがないかのような。そんな錯覚。

「で、何さ。呼び出したからには、何かあるんだろ」
 ちゃぶ台の前に座ってすぐ、たけちゃんは話を促した。じっちゃんとおばちゃんは、まるで初々しいカップルのようにお互いの顔を見合わせると、同じタイミングで頷きじっちゃんはこう言った。
「おれら、真剣に付き合ってる。結婚したいと、思っている」
 そのきっぱりとした切り出しに、わたしは何も言えない。まさか、そう思っていたことが現実になった。こんな速さで。
「これで分かったか、この馬鹿娘」たけちゃんはわたしをじっとりと見ながら、言った。

第七話

 日がとっくの間に落ちた園庭の、狭くて細い畑で草むしりをする。支柱を付けたミニトマトとピーマンを、受け持っているクラスで栽培していた。日中、子どもたちと大きい草は抜いたのだが、まだ雑草は生えている。しゃがみ込んでゆっくり黙々と抜いていると、時々、茉莉先生ーさよならーと父兄と一緒に子どもたちが帰って行く。その声に応えるべく、軍手をはめた手を振った。

 今日は家に帰りたくはなくて、ちょっとした仕事を見つけては居残っていた。じっちゃんとおばちゃんの結婚宣言から一夜明けて、物凄い速さで美沙おばさんは飛んで来た。じっちゃんはどうやら本気らしく、早々に美沙おばちゃんへ話を通したらしい。
「父さん、本気なの、本当に本気?」
 早目に店じまいして、ずらりとちゃぶ台を囲むようにぎゅうぎゅう詰めになりながら座り、お茶を出す間も無く、美沙おばちゃんは切り出した。
「本気だ。花ちゃんと結婚したい。許してくれないか」
「まさか、母さんが生きていた時からじゃないでしょうね」
「いや、つい二ヶ月位前からだ」そうじっちゃんが言うと、花おばちゃんもこくこく頷いた。
「お義父さん、二ヶ月前と言ったらそちらのご主人が亡くなられて、まだ一年も経たない時ですよね。ちょっとそれは」
「全く面目ねぇ。その通りだ。そういうけじめがついていねぇ件については、責められても仕方がない。だがな、俺たちもうあまり先がねぇ。十年一緒にいれりゃ御の字だと思ってる。焦る気持ちもあったんだ。そこん所理解してくれると嬉しい」
 そうじっちゃんに言われて、美沙おばさんの旦那さんに当たる勝久おじさんは黙った。
 知的で繊細な感じのする勝久おじさんは、仕事をじっちゃんに頼みに来た時に、美沙おばちゃんに一目惚れしたらしい。よく分からない、それでいて押しの強いアタックに参っちゃって気がついたら嫁にいってた、とおばちゃんは笑って言っていた。ちゃきちゃきのおばちゃんと、反物に対するうんちくが凄いおじさんは、本当にいいコンビだと思う。
「たけっ、あんたはどうなのよ。それでいいの?」
「あーまあ、いいんじゃないか。お袋がそっちに嫁に行ったからって、親子の縁は切れる訳じゃなし。お袋が倒れても隣だから、面倒は見れると思う。おっちゃんもお袋も俺が見送ればいいんだ。それより、まだ元気な二人がお互いを生きるのに必要としているのなら、悪くないんじゃないか、と思うけどな」
「たけ、あんたはそういう奴よね」
「茉莉、麦茶出してくれよ、喉乾いたな」
 たけちゃんは美沙おばちゃんの言葉に答えず、わたしへ促した。


「茉莉先生、まだ残って行くの?」
 はっ、と気がつくと隣に園長先生が立っている。少し考え込み過ぎたようだ。
「はい、草むしりだけやってしまおうと、思ってます」
「お祖父ちゃん、待っているんじゃない」
 園長先生はわたしが小さな頃に担任を受け持ってくれていた人で、さすがに最近のは話していないがうちの事情も良く知っている。区内の保育園を何カ所か異動して、この春園長として戻って来た。何度も教え子と一緒に働く事になるなんてねぇ、とほんわか穏やかな顔で笑って言われるのだ。その度に嬉しくなる。
「そう、なんですけれど、今日はちょっとお客様が来ていて、邪魔したくない、って言うか」思わずため息が出た。
 今日、我が家にはたけちゃんの医院と、お付き合いのある弁護士さんが来ている。というか、五件隣の柴田さんちのおじさんだ。探さなくても近所で色々済んでしまうところは、さすがお土地柄というか。
 普通、そういうことはご近所さんは避けたいと思うのが常だ。
 しかし、じっちゃんは「何にもご近所さんに恥ずかしいことはない。花ちゃんを日陰の女にはしたくねぇ」というきっぱりとした態度でいた。
 高齢、家持ちの二人が結婚するには、本当に後々困ることが無いように、決め事を色々しなくてはならないようだ。そのために今、うちではたけちゃんと、美沙おばちゃん、勝久おじさんを交えて話し合いが持たれている。
「そうなの………まあ、何を悩んでいるか分からないけれど、いつでも相談には乗るからね。茉莉ちゃん」
「ありがとうございます。近い内にお願いするかもしれません」そう応えると園長先生はにっこりした。
「そう、じゃ、お先にー」
「お疲れ様でーす」手を振る園長先生へ振り返す。
 悩みは抑えているつもりでも、やっぱり顔に出てしまっているんだな。気をつけなきゃ。


「あーもう分かったっ、この家のこととか、介護負担とか色々あるし、そういうのはまた別に決めなきゃいけないけれど、結婚したいならわたしも反対はしない。勝っちゃんもそれでいい?まあ、気持ち的に複雑ではあるけど。たけが言いたいのもそういうことでしょ」
 長々としたじっちゃんの説得に、美沙おばちゃんは叫んだ。勝久おじさんは静かに頷いている。
「ま、そうだな」たけちゃんは麦茶を飲みながら、呑気に呟いた。
「ちなみに、たけんちは相続どうなってんの。医院は、たけが相続したってことでいいの?」
「あーそうだ。ぬあーっ、ったく、思い出しちまった。大変だったアレ。またあの面倒くせぇやつ、やんのかよ。………それよりか茉莉、お前はいいのか、本当に」
 わたしの隣に座っていた、たけちゃんはがしがしと頭を掻いた。
「そーよ、そうだ、茉莉が一番環境変わるのよ。あんたさっきから、何にも言わないけれど」
「別に……おばちゃんのこと大好きだし、いいよ」
「茉莉ちゃん……」おばちゃんの目はもう、うるうるし通しだった。
「お前なぁ、本当にいいのか。お前が一番この結婚で迷惑被るんだぞ。お隣で良く顔を合わせているとはいえ、他人が家の中に入り込むんだ。生活は変わるだろうし、慣れるまで疲れるぞ。もっとこうしろ、ああしろって条件付けちまえよ、おい」
「たけ、あんた結構酷いね」
 たけちゃんはあくまでもわたしを娘扱いして、その上で言って来ているのだと、分かってはいる。でも、もう、うんざりしていた。この一件では延々と同じようなことを言われ続けていて、もういいと怒っても、たけちゃんはしつこい。
「何でだよ、そうなるだろ。目に見えてるのにこいつと来たら、のんびり呑気に大丈夫、大丈夫しか言わねぇ」
「だって、なるようにしかならないでしょ。たけちゃん、しつこいよ」
「それでも想像つくだろーが。今の内にされて嫌なこととか、ちゃんと言っとけって言ってんだ。この馬鹿娘」
「たけちゃんはいちいちうるさい。もう、何なのっ」
「揉めないの。茉莉、あんたはちょっと物分り良すぎ。そしてたけはもう娘離れしなさいっ。子どもは過保護じゃ育たないのよ。あんた全部先回りして、茉莉の立場守ろうとしているんでしょ。茉莉の言うとおり、なるようにしかならないの」
 そう美沙おばちゃんが言うと、たけちゃんは明らかに機嫌を悪くした。
「茉莉ちゃんの迷惑に、ならないようにします。本当にごめんなさい」しょんぼりしたおばちゃんに、じっちゃんは慌てた。
「いや、茉莉が困るようなことにはしねぇ、約束する。ちゃんとするから。たけが見ても安心出来る様に」
 じっちゃんの目は真剣で、たけちゃんはその言葉にため息をついた。


 その後からのたけちゃんのご機嫌は、すこぶる悪かったようだ。毎日ふらりとやってきていたのに、それは無くなってしまった。
 代わりに、ちょくちょくとおばちゃんはうちに来ていた。色々じっちゃんと、決めなければいけないこともあり、ちゃぶ台の前で仲睦まじく肩を寄せ合っていた。そんな姿を見ると、寂しいような、それでも良かったと思えるような複雑な心境になる。
 でも、じっちゃんが生きているうちにしたい、と思うことを叶えて欲しいと願うわたしには、2人を反対する理由は、無い。
 花おばちゃんはわたしの姿を見るたびに謝罪の言葉を言い、たけちゃんの様子を教えてくれた。


「よー豆狸。土にまみれて泥遊びしてんじゃんか」
 保育園をぐるりと囲む柵の外から、誰かの声がして顔を上げる。
「旭、久し振りだね。今帰り?」仕立ての良いスーツ姿の旭が、そこには立っていた。
「ああ、ま、今日は早いほうだ」
 保育園から高校まで一緒だった旭は、大手の不動産会社の社長の息子だ。家の方針で保育園、小学校には地域の学校へ行き、そこで一般社会を学び、中学からは受験して名門私立中へ進むように、と言われていたのに、旭はそれを無理矢理蹴って、公立中学に進んだ。
 幾ら何でも高校は分かれるだろう、と思っていたら、何故か家の一番近くにある、公立高校の受験日に試験会場で会い、度肝を抜かれたのは今でもはっきり覚えている。

「そうなんだ、お疲れ様ー」そう言ってまた草むしりに戻ろうとしたら、慌てた様子の旭は口を開いた。
「茉莉んち、なんだか騒がしいらしいけど、何かあったんか」
「あー……うーん。まぁその内分かるよ」
 どうやらじっちゃんの結婚話は、ご近所さんに漏れ始めているらしい。その辺はまだ教えなくても、と曖昧に言葉は濁した。
 小さな頃の旭は、一々些細なことでも突っかかって、嫌味を言って来るので、あまり歓迎したくない存在だった。よく泣かされて通りがかった、たけちゃんに助けを求めて行き、やっつけてくれるのを期待していた。
 なのに、たけちゃんはいつでも「茉莉、泣いてもいいから言い返せ、ほら」と半強制的に旭に立ち向かわせた。今思えばスパルタだ。でも弱虫だったのに、いつの間にか旭に言い返せるようにはなった。

 わたしの一部はたけちゃんが作ってくれたものだ。今ではそう思う。

「茉莉が結婚するって、噂になってるけど、どうなんだよ?」
「ハァ?しないよ。嫁なんか行かないし」思わず叫んで言い返していた。
 最後の一言は余計だったかもしれない。最近しつこく言われ続けていたことが、口からつい漏れ出た。
 旭はびっくりした顔はしたものの、その後は晴れやかな笑顔を見せた。
「何だよ、ガセか。そーだよなー土まみれの豆狸を嫁に貰うやつなんか、そういないだろ」
「豆狸ですみませんでしたね。早く帰りなよ、バイバイ」
「怒ったんか、豆狸。そうだ、いいもんやるよ、手、出せ」旭は通勤カバンを探っている。
「いらない、手は汚れているし」
「いいのかーローザーのクッキーなのにさ」
「いる」
 悔しいけれど大好物には勝てない。軍手を外して旭を見ると赤いリボンで結ばれた透明の袋に入ったクッキーを、柵の向こう側から差し出していた。
「ありがとう、よく買えたね」
「ああ、得意先に持って行くのに予約してさ、取りに行ったついでに買ってきた」
「偉いね、ちゃんと下っ端の仕事もしてんじゃん」
「当たり前だろ。どんだけ俺がコネ入社って陰口言われてるか、分からないだろ。まずは新人、下っ端の仕事を人の十倍頑張らないと駄目なんだよ」
「跡継ぎも大変なんだねぇ」
 大学を出た旭は、わざわざ自分の家の会社の試験を受けた。まあ、回りくどいが下っ端からちゃんとやる、という決意の現れのようだ。でもそうは見て貰えないことばかりなのだろう。
「まーね、まあ、頑張るわ」
「うん、頑張れー」
 そうわたしが言うと、旭はじゃ、と言って手を上げると家の方角へ歩いていった。
 そのままクッキーの中身を見つめていたら、ポケットの中のスマホがメールの着信を震えて知らせた。そっと持ってメールを開くと、たけちゃんからとても荒ぶるメールが届いていた。

『話し合いは終わった。お前も参加しないと駄目だろ!この馬鹿(*'へ'*) 』

 馬鹿娘、じゃないんだ。たけちゃんに深い意味はないのだと思う。それでも深読みしたくなる自分がいる。
 クッキーとスマホをそれぞれの手に持ちながら、わたしは少しの間そこで考え込んだ。

第八話


 朝晩が涼しくなった頃、少しずつお隣から花おばちゃんの荷物が、我が家に運び込まれるようになった。完全にたけちゃんのところは出るつもりらしく、厳選して来たとはいえおばちゃんの荷物はそれなりにあった。
 ばっちゃんの着物や思い出の品の一部は、押し出されるように納戸や、美沙おばさんの所へ行くこととなり、分かっていたこととはいえ、やはり心中は複雑だった。
 花おばちゃんはその度に自分の荷物を減らすと言い、どうしたって生きている人が必要としているものを減らすなんてことは出来ない、とじっちゃんとわたしは、逆に説得することになった。
 たけちゃんの言葉は、意外にじわじわと、効いて来ていた。


「結婚式、したいと思っているんだが、どうだろうな」
 すっかり家に来なくなった、たけちゃんが久し振りにじっちゃんに呼ばれ、土曜日の夕食を四人で食べることになった。
 じっちゃんはわたしにたけちゃんの好物をたんまり作るよう命令し、それを聞きつけた花おばちゃんと近所のスーパーへ食材を買いに行き、たけちゃんの大好きなスペシャルカレーの作り方を教えてもらった。
「どーこーでー、まさかチャペルとか言うなよ。俺がお袋とバージンロード歩くのだけは勘弁だからな」
 スペシャルカレーにご機嫌なたけちゃんは、聞いた途端眉間に皺を寄せた。
「いや、挙げるなら真吾の所にお願いしようと思って、いる。お互いいい年だから、地味にスーツと有り物の着物で、とは思っているんだが……」
「ふーん、神社ならいいんじゃないか。俺はいいよ。ここまで来たらやりたいことやっちゃえよ」そう言ってたけちゃんはわたしをちらり、と見た。
 あの揉めた話し合いから、たけちゃんはわたしにああしろ、こうしろ、とは言わなくなった。その代わり目線で促される。どうなんだよお前は、そう聞かれている気がするけれど、すぐにその目線は逸らされてしまう。
「いいのか、たけ」
「いいも悪いも、二人の門出に必要なことなら、した方がいいだろ」
 たけちゃんはそういう判断はあっさりとしていて人一倍早い。まるで前からそうする、と決めていたように。
「そ、か。たけ、有難うな」
「おっちゃん、おっちゃんが大人しいと気色悪いから、もうそろそろ気を使うの、やめてくれよ。これ喰ったら久し振りに囲碁しような?確か俺が勝ってただろ」
「…………抜かせ、勝ってたのは俺だっ」
 じっちゃんは、鼻をちょっとだけ啜りながら言った。どうやら埃を薄っすら被っていた、碁盤の出番がやっと来るようだ。良かった。

 
「茉莉ちゃんは、いいの、本当に」
 わたしが茶碗を洗って、おばちゃんがお皿を拭く。年の割に背の高い花おばちゃんは、拭き終わると軽々と食器棚の中に食器を仕舞っていく。
「おばちゃん、どうせなら結婚式は白無垢着たら、どうかなあ。じっちゃんは羽織袴で、並んで神社で式を挙げるのがいいと思う、ね、そうしよう?」
「茉莉ちゃん」
 唐突に言い出して、おばちゃんは戸惑っているようだった。たけちゃんのように出来ているかは分からない、でも祝福したい。そんな気持ちから言い出したことだけれど。
「そうしたら、ほら、わたしも成人式から一度も着ていないお振袖を着れるし!写真だってきっと映えると思う!」
 おばちゃんの目は見る見る内に潤んできた。どうしよう、泣かせてしまう。
「皆で写真撮って記念にしよ。ね、おばちゃん」
「何騒いでいるんだよ」
 すっかり両手で顔を覆ってしまったおばちゃんを見て、台所へやって来た、たけちゃんは眉をひそめた。
「毅、茉莉ちゃんが、ね」
「全部聞こえてたっちゅーの。またお前は物分りのいい振りか。ご苦労なこった」
「そんな振りなんてしておりません、何か用」
「用が無かったら来ちゃダメなのか、あ?」
「たけちゃん、どうしてそんなにイライラしているの。カルシウム足りないなら、煮干しでもかじる?」
「俺はにゃんこ大先生じゃねーよ………つーか、煮干し差し出すの止めろ……持たせるな……もういいお茶くれっ」
「ハイハイ」
 煮干しをかじりつつ、たけちゃんが台所を出て行くのを、おばちゃんは呆然と見送っている。薬缶に水道から水を入れると、コンロの火にかけた。
「茉莉ちゃん、あの、毅のこと、真剣にどうかしら?」
「おばちゃん………どういうこと」訝しげに話しながら、戸棚から茶筒と急須を出した。
「いえ、ああそうね、茉莉ちゃんは若いんですもの。ダメよ。ごめんなさい、何でもないわ」
 おばちゃんは言いかけていた言葉を止めてしまう。もしかして、そんな思いがよぎる。
「おばちゃん、たけちゃんはきっとわたしのことなんて、これっぽっちも眼中に入っていないよ。だから、無理なの」
「そうかしら、毅は初めて結婚のお話した日にね、家に帰ってわたしに言ったの」
「お袋っ余計なこと喋るな」
 あっという間に煮干しを持って、たけちゃんが飛んできた。っていうか囲碁してたんじゃないの
「あら、地獄耳。いやぁね。毅は囲碁をしていらっしゃいよ。わたしは茉莉ちゃんと女の子の会話、するんだから」
「本当にさっきまで泣いていた癖に、何でそんなに変わり身が早いんだよ、誰が女の子だ、ババアだろ」
「ひどいわ、いつでも心は女の子ですよ」おばちゃんはおっとりと笑った。
「お袋っ、あっち行っておっちゃんとイチャイチャしてろ」
 いやーやめてーと叫ぶ花おばちゃんを、たけちゃんは背中を押して居間に押しやってしまった。

 久しぶりにたけちゃんと二人きりになって、少しだけ落ち着かない。沈黙の中、ピーと薬缶が笛を鳴らしたのでコンロの火を止める。たけちゃんは煮干しを親指と人差し指で挟み持ってわたしをじっ、と見続けている。
「たけちゃん、煮干し食べないの?」急須に茶葉を入れながら聞いた。
「俺は猫か、お前が喰え」
 目の前に勢いよく突き出された食べかけの煮干しを、何も考えず反射的にぱくり、と食べた。はらわたを取っていなかった煮干しは苦い。
「喰うなっ」
 眉間に皺が深いたけちゃんは、堪えきれないように叫んでいる。っていうか、アレ、何で顔がほんのり赤いの。もしかして、そんな思いがよぎる。
「だって、たけちゃんが食べろ、って」
 口をもぐもぐと動かしながら言うと、たけちゃんはつかの間黙った。その間に薬缶のお湯を急須に入れる。玄米茶のいい香りが、落ち着かなかった心に安らぎをくれた。

「お前、本当に美妃にそっくりだなあ、そういう無邪気なところとか、本当によく似てる」
 久し振りに言われたその言葉に、心は沈み込む。ああ、そうだった。そうだったのに何を期待していたのか。
「そう」
 それだけ返事をするのが、精一杯だった。たけちゃんの顔を見ることは出来ない。



 次の日の午後、じっちゃんとおばちゃんは神社へ式のお願いに行き、わたしは居間で店番をしながらひとり、手作りおもちゃを縫っていた。
 本当に昨日言われたことが堪えていた。不意打ちでやってくると分かっているのに、たけちゃんはわたしを娘としか見ていないと分かっているのに、それでも勘違いをする。今迄どれだけ踏み込ませて貰えず、がっかりしたのか分かっているのに、それでも諦めきれない。馬鹿だなあ、わたしは。
「おーい豆狸、新聞くれー」旭の声に続いて古臭いチャイムの音が響く。
「あーお金、縁台の上に置いておいてー」
「はぁ、あのさー、一応客なんだけど」
「いいからっ、置いておいて」
 そう叫んだのに旭はお構いなしに、居間と店を繋ぐ引き戸を開けた。
「ちょ、何してんの。着替えてたりしたらどうするつもりだったの。勝手に開けないでっ」
「茉莉、泣いてんのか。おい」呆けたような顔をした旭と目が合った。
「いいから新聞持って帰ってっ。もうヤダ」
 そう叫ぶと、旭は店と居間を繋ぐ段差のところにどっかりと腰をおろした。背中を向けて黙っている。

「旭、帰ってよ。早く」
「茉莉、俺さっきコンビニ行ったらさ、鈴木先生がエロ本熱心に、立ち読みしてるとこに出くわしてさ、『せんせーないわ。近所でエロ本はないわ』って言ったら何て言ったと思う?」
 ………たけちゃん、何やってるんだろ。答えられなくて黙っていたら、旭はこちらを振り向いて、照れくさそうに言った。
「『エロ本は俺の青春だぁ、堂々と見れるのはおっさんの特権だっ』だってさ。その後に先生が見てたページ見せつけられて、
『結婚初夜に処女喪失。そんなファンタジー今時ドリームだろ、憧れるナ、まあ、一生ないけどな、ドリームだな、なあ』って熱く語られた。あの人さー色々とこじれていると思わん」
 余りのくだらなさに何て言うか、涙は引っ込んだ。
「まーね。未だに独身なのはそのせいかもしれないね」
「なんだよ、今泣いたカラスはもう笑ったのか。お前豆狸じゃなくって、カラスだったんか」そう言いながら旭はほっ、としたように笑った。

「何か嫌なことでもあったのか」
「うーん、ちょっとだけ」少しだけ笑うと、旭は目を逸らした。
「何嫌なことがあったのか、喋ったら少しは心も軽くなるんじゃないか」
「ありがとう。でも泣いたらちょっとすっきりしたから、大丈夫」
「そうか、意外と俺はそういうの受け止められるぞ。ドーンと来いよ」
「旭、それは彼女にやってあげなー」
「別れた」
「えっ」
 旭の彼女は同じ大学の同級生で、入学してすぐに付き合いだした筈だ。良く旭の家に遊びに来ていて、二人で仲良く歩いているところに出くわして、優しくて旭に一途な彼女と、妙にえばる旭の会話を、本当にお似合いだわぁと見守ることは楽しかった。呆然としていたら、下を向いた旭は言葉を続けた。
「半年以上前になる。もう色々あいつ限界だったんだ。ついにブチ切れて言われた。もう一緒に居られないって」旭は遣る瀬無さそうにため息をついた。
「何やらかしたの、まさか浮気じゃないでしょ。あんなに一途でかわいい彼女を。もったいない」
「母さんと同じこと言うなっ。豆狸は豆狸でもおばさん豆狸か」
「ねぇ、ちょっと、何で?」
「んー結局、俺も色々とこじらせてたんだ。あいつのことは大切だし好きだったけど、それ以上の存在がいるんだよ。それで色々と」
「ばっかじゃないの、っていうか馬鹿っ。あんなに想ってもらってそれでも駄目って」
「じゃあ、豆狸ならずっと好きで想い続けている奴のこと、一途な男が現れたら忘れて新しいそいつのところへ行けるのか?」
 旭の質問にうっ、と言葉は詰まった。たけちゃんを忘れる、忘れること、それは。

「例えば、茉莉が鈴木先生を好きだったとしてずっと想っていて、でも駄目でそこに俺が白馬の王子の如く颯爽と現れて、手を差し伸べたとしたら、お前はその手を取るか。取って幸せになって先生を忘れられるのか」
 旭が示した例はやけに具体的過ぎた。何でこうなったんだろう。よく分からなくてそれでも答えを迫られて、なんとか言葉を捻り出した。
「旭じゃない一途な人からなら考えてみるかも」ちょっと茶化して言ってみた。
「俺の何処が駄目なんだよっ」
「えー、えばりんぼな所とかー、すぐ人を豆狸って馬鹿にする所とかー」
 そうわたしが言うと旭はむう、と口を尖らせた。
「まあ、そういうわけであいつに真剣になれなかった俺が全部悪いんだって。そーゆーこと」
「そっか、じゃ、これからはそれ以上の存在にアタックするの?」
「もうしてる」
 そういうと旭はわたしをじいっ、と見た。何で見ているの。訝しげに思っていたら、いきなり旭は拳にした手を突き出してきた。
「百三十円」
「ああ、新聞代ね。ありがとうございますー」近づいて掌を広げると暖められた硬貨が乗せられる。
「じゃーな、茉莉。また来る」
 そう言うと旭は立ち上がり、振り返ることなく古臭いチャイムの音を残して、帰って行った。

 もうしてる、か。そのことを考えているうちに何か閃くようなものがあったけれど、確信は持てない。
 どうしてコンビニへ行ったのに、うちに新聞を買いに来たのか、とか、あの具体的過ぎる例、とか。
 自惚れ、といえばそれまでかもしれない。けれど、旭はあれ以上踏み込んではこないだろう、とわたしは思っている。
 何故なら、旭の両親はお隣から一部始終を見ていた。生物学上のわたしの父親と母親の呆れるような痴態を。所構わず痴情を繰り返し、その後始末を使用人にさせ、狂気にように交わった結果産まれた娘を、虫けらのように蔑んでいるのを、わたしは知っている。
 幼い頃、そこを越えて来てくれたのは、たった一人だけだった。

第九話

 抜けるような青空が眩しい、大安の日曜日、じっちゃんと花おばちゃんの結婚式の朝は、支度をするのともう一つのことで、大騒ぎだった。
「ちょっと、茉莉。動かないで」
「ええ、だってじっちゃんいないよ。まだ背広に着替えていないのに」
「まさか、あの普段着のまま神社へ行ったんじゃない」
 黒留袖姿の美沙おばちゃんは、にわかに慌て出した。じっちゃんが着ていく予定だった古臭い背広は、未だに奥の部屋に掛けられている。じっちゃんの普段着、アレで行ったの。
「おいっ、お袋いないんだけど。そっちにいってねーか」
「はい、出来た」
 勝手口からたけちゃんの声がするのと同時に、背中の振袖の帯を結んでくれた美沙おばちゃんがポン、と肩を叩いてくれた。
「たけ、おばさんいないの?父さんも姿見えないのよ」
 美沙おばちゃんが叫ぶと、その声にたけちゃんは大声で応えてくる。
「準備終わったのか、入っていいかー?」
「いいよー」
 わたしが言うと、勝手口の方からずかずかと音を立てて、たけちゃんは礼服で姿を現した。

「おう、茉莉…………七五三に行くか。今から」
 振袖姿を見て、ちょっとだけ驚いたような表情になった後、にやっと笑いながらそんなことを言う。
「行くっ、おとーさん、お参りした後、千歳飴、買ってぇ」
「一袋だけだぞ、食べ過ぎると虫歯になるからな」
「エーヤダヤダぁ、もっと沢山っ」
「あんたたちねぇ、七五三コントやってる場合じゃないでしょ。ちょっと父さんの携帯鳴らしているから静かにして」
 くわっ、と怖い顔になった美沙おばさんに怒られ、二人で顔を見合わせると首をすくめる。
「もしもし……父さん、ちょっと今どこ………えっ、もう神社?ちょっとー早すぎるでしょー花おばさんも、一緒なの……」
 たけちゃんと顔をもう一度見合わせた。どうやら新郎新婦は二人一緒になって、先に神社へ行ってしまったようだ。
 じっちゃんと花おばちゃんは、紋付袴と白無垢で結婚式を挙げることにした、とわたし達に嬉しそうに教えてくれた。その準備には、一時間位後に来てください、と言われていた筈だ。
「どうやら嬉しすぎて、もう行っちゃったらしいわ。じっちゃん、せっかちだから」
 パタン、と美沙おばさんは携帯を閉めた。
「ごめんくださいー」
 焦ったような真吾くんの声が、勝手口から響く。今日は店を閉めているので、皆、勝手口からやってくる。
「おはようございます、真吾くんどうしたの」
 急いで出ると、そわそわした様子の真吾くんが、そこに立っていた。
「おはようございます、本日挙式予定のこちらの新郎様が、もう当方にお越しなものですから、荷物取りに行けって宮司命令が出たよ。大家さん張り切ってるね」
「えっ、ごめんね、いいの、お願いして」
「今行くから大丈夫。新婦様はちゃんと持って来たみたいなんだけど、ね」
「本当にごめんね………」じっちゃんは何をしに、そんなに早く行っちゃったの………。
 真吾くんに荷物を託して、わたし達も戸締りをすると早めに家を出た。


「じっちゃん、何をやっているの。神社の皆さんは準備があるんだから、勝手に早く行っちゃ駄目でしょ」
「すまねぇ。ちいと神社に会いたいお人がいてなぁ。昨日連絡したら、今朝ならいいって言ってもらえたもんだから、浮かれて花ちゃんと来ちまった」
 すっかり用意の整ったじっちゃんは、新郎の控え室で背もたれのない椅子に座りながら、神妙な顔をしていた。
「それならそれで、ちゃんと一言伝えてから出かけて。たけちゃんだって花おばちゃんが居ない、って心配してた」
「面目ねぇ」じっちゃんは神妙に低く頭を下げた。仕方がない、全く。

「で、お会い出来たの」
 何気無く尋ねると、じっちゃんは奇妙なことを言い出した。
「ああ、むかーしばっちゃんと結婚式をここでした時に、不思議なこと言う巫女さんがいてな。再び紋付袴を着る日に巫女さんを尋ねてこい、と言われて何を言うんだと怒ってたんだが、すっかり忘れててな。一昨日何かの拍子に思い出して花ちゃんに話したら、花ちゃんも前の結婚式の時に、ここで同じことを言われたって言い出してな。それで驚いて連絡したんだわ」
「そんなことって、あるんだ」じっちゃんは頷いた。
 不思議な話だった。まるで未来を見通しているかのようだ。
「行ったら、巫女さんは年取ってたが健在でな。祭りの時に見かけなくなっていたから、結婚したか、と思っていたが、どうやらそうじゃなかったようだ。その巫女さんは俺らを見た途端、『もつれていた糸がよう、やっと解けましたな。これからは心安らかに過ごせるだろう』と言ったよ。
 どうやら俺と花ちゃんはこうなる運命だったようだが、何処かで糸は絡まっていたらしいんだ。しかしそれもお互いの人生に必要だった。とな」
 じっちゃんは狐に包まれたような顔をしていた。まるで御伽の国から帰って来たような。

「その巫女さんからは、人生に四季があるとすれば、俺も花ちゃんも夏から秋にかけては自然が厳しかっただろうが、雪の原のように共白髪となった今だからこそ、お互いを暖めあって穏やかな冬を過ごしなされ、と言祝ぎを貰った。何だか俺も花ちゃんもそれを聞いて落ち着くっていうか、穏やかな気持ちになってな。不思議なこともあるもんだよなぁ」しみじみとじっちゃんは言った。
「そう、だったの。今日、会えるかな。その人に」
「いや、もう表には何十年と出ていないようだ。ここの神社の神髄を見た気がするわ」
 じっちゃんはそう言うと少しだけ微笑んだ。


 式は新郎、新婦と親族による行列から始まった。静かに微笑んだ巫女さんが先導をして、その後にじっちゃんと花おばちゃんが並んで続く。その斜め後ろを狩衣を着た真吾くんが、赤い番傘を差しかけて歩いていた。その後ろをゆっくりとわたし達も進む。
 参拝に来ていた人たちから思わぬ拍手とおめでとう、の言葉を貰って、後ろから見ていても、じっちゃんと花おばちゃんは照れ臭そうだ。というか参拝の人達はびっくりしているだろう。それでもそんな声を掛けて貰えるのは有難かった。

 中に入ると待っていた宮司さんによって、厳かに式は進んで行った。じっちゃん側は美沙おばさんと勝久おじさん、そしてわたし。花おばちゃん側はたけちゃんだけであとは、二人の友人代表として、みちおじさんが来てくれた。
 寂しい感じがするか、と思いきや神社の皆さんは席を全員一緒にしてくれ、後ろから皆で見守っている形だ。結構広い空間にこじんまりと席を配置してあるけれど、それはそれで暖かい雰囲気だった。
 真吾くんと宮司さんの奥様が雅楽を演奏する中、滑らかな動きの巫女さんがそっと二度、じっちゃんの盃に注ぐような仕草をした後、三度目でお神酒を注ぐ。それを三度掛けてじっちゃんが飲み干す。同じように花おばちゃんにもお神酒が注がれ、三度掛けて飲み干した。
 もつれていた糸は、どうして解けたのだろう。厳かな儀式の最中なのにそんなことを思う。さっきの話が真実だとするのなら、何が糸を絡め取っていたのか。
 花おばちゃんはじっちゃんより結婚は早かった。でもたけちゃんが生まれたのは、ずっと後のこと。花おばちゃんとたけちゃんは何も言わない。でも何か、はあったのだろう。
 たけちゃんは頑なにおじさんのことには触れない。昔から親子の関係はギクシャクしていた。それでも最後には自分のうちからおじさんを見送っていた。
 お互いの家は色々なことがあり過ぎて、ようやく平穏な日々になり、お互いの伴侶を見送って、そしてじっちゃんと花おばちゃんはあっさりと祝福され、一緒にこれからの人生を過ごしていく。奇妙なのに、それが当たり前に思えるなんて。
 何もかも過ぎ去ってしまった今、きっともつれていた訳はじっちゃんと花おばちゃんしか知らないだろう。でも、そのことはきっと探らないし、言わないまま終わる、そんな気がした。

「本日は誠におめでとうございます。いやぁ、本当におめでとうございます。何ていうか感無量ですよ、私は」
 儀式が終わって本殿から出ると、控えの間のような所で、結婚式を執り行って下さった宮司さんがニコニコしながら口を開いた。
「本当に、もうお似合いのお二人だわぁ。式の最中、わたしウルウル来ちゃって。ちょっと鼻啜りそうになって真吾に睨まれました」
 いつも明るい宮司さんの奥様はちょっとだけ目頭に手を当てた。
「つーかよー、そめちゃんも後ろから見てたら、涙拭ってなかったか」
 みちおじさんはキシシシ、と笑いながらじっちゃんの脇腹をどついた。
「うるっせぇなぁ、泣いてなんかねーよ。目から汁が垂れただけだぃ」
「それが涙っていうんだぜ、おっちゃーん」茶化したようなたけちゃんの言葉に皆が笑う。

「花おばちゃん、素敵」
 そうわたしが言うと、綿帽子を被った花おばちゃんはにっこり笑った。
「ありがとう、茉莉ちゃん。茉莉ちゃんもお振袖似合っているわ」
「やっぱり花おばさんはお着物を着慣れているから、立ち姿からして美しいけれどね、茉莉、あんたはもうちょっとおしとやかに歩きなさいよ。全く鬼退治に行く桃太郎じゃあないんだから、のっしのし歩かないの」美沙おばちゃんは悩ましげに言う。
「ええっ、今までの歩き方でダメだったんだ。難しいね。お着物って」
「難しいことない。花おばさんはもう所作の最高のお手本なのよ。これからは毎日見れるんだから、目を見開いてじっくり見て覚えなさい」
 美沙おばちゃんの無茶振り、でもそうかも。花おばちゃんは一つ一つの動きが美しい。そういうのを見慣れているたけちゃんだもの、そういう努力は必要かも。
「分かった、頑張るっ」
 熱く宣言をすると、何故か美沙おばちゃんと花おばちゃんは吹き出した。何で、何で笑っているの。
「写真の準備、出来ましたー」
 真吾くんと巫女さんが外から呼びに来てくれて、宮司さんはじゃ、行きましょう、とじっちゃんと花おばちゃんを先導した。

 他の参拝客が来ないエリアへ移動する時に、先を行く花おばちゃんの動きを見つめる。確かに流れるように美しい歩き方だ。真似をしてみるけれど覚束ない足取りになる。
 ちゃんとできるなんて、おばちゃん達は凄いなあ。花おばちゃんに負けず、美沙おばちゃんだって毎日お着物を扱って着慣れているせいか、所作は美しい。
「茉莉、なんだそのよちよち歩きは。千歳飴が欲しくて子どもの振りか」
 前を歩くたけちゃんは、わたしが遅くなる様子を見て、石畳の道のちょっと前で待っていてくれている。
「ううん、美沙おばちゃんに歩き方をおしとやかに、って言われたから、花おばちゃんの所作を見て、真似してみてる」
「別にそのままでいいと思うな」そう言うとたけちゃんは笑った。
 そんなことを言われると、嬉しくなって舞い上がってしまいそうだ。
「きっと、もっと上を目指せってことなのかな。それはそれで大切なことのような気がして」
 勘違いしないように、勘違いしちゃ駄目、そう思いながら話していたら、目を細めてたけちゃんはわたしの頭を撫ぜた。
「茉莉のいいところはそういうところだな」
 どうしたんだろう、たけちゃんは。いつもそんなことは言わないのに、逆に何故か恐ろしい。
「ゆっくり行くか」そう言って横に並んだたけちゃんは、歩調を合わせてくれた。

 参拝者が入ることの出来ない場所の、石畳の広場に入ると、赤く色づいた紅葉の木の下に、床几(しょうぎ)が置かれていた。その前の石畳には美しく紅葉の葉が、手前から奥へまるで流れる河のように散らされている。
「おお、すげぇな、なんじゃこりゃ」みちおじさんが叫ぶ。
「真吾と朱里ちゃんがお二人のために、って今朝から作ってくれたんですよーさ、どうぞこちらへ」
 宮司さんの奥様が言うと、カメラマンのおじさんの横に控えていた真吾くんと巫女さんは、少しだけ笑って顔を見合わせた。
 本当に隙間無く、まるで二人は支え合うように寄り添いながら立っている。そうなんだ、あの子が真吾くんの彼女さん。
 じっちゃんと花おばちゃんが床几に座ると、わたし達は後ろに並ぶように案内された。
「真吾、巫女さん、ありがとよっ」じっちゃんが叫ぶと、花おばちゃんも頭を下げた。
 若い二人は、ただひたすらに恐縮している。そんな初々しい様子に、わたし達は自然と笑顔になった。
「わあ、今の笑顔いいですねぇ。もう一枚」
 カメラマンのおじさんはいきなりシャッターを切って、明るい光にびっくりしたと言いながら、わたし達はそのことでも笑う。

 人生に四季があるとすれば。さっきのじっちゃんの話を思い返していた。

 人生に四季があるとすると、じっちゃんと花おばちゃんは冬。これからいつか、手を放す日まで、穏やかに歩いて行く。

 それなら向かい側で、まるで対人形のように、穏やかに並んでいる真吾くんと彼女さんは、春の日だまりだ。

 わたしは、きっと夏に入ったばかり。社会の一員になって、じりじりと暑い日差しにもこれから耐えて行く。

 そして、今隣にいるたけちゃんは、秋の季節を生きている。実りもありながら、少しずつ冬の足音も感じ始めている、そんな季節。

 たけちゃんとわたしは、違う季節を生きている、そんなことをひしひしと思う。わたしはきっと、ずっと次の季節を見つめ続けて行くんだろう。ただ一つの変わらない心で。

第十話

「無事に終わってよかったね、結婚式」
「ああ」
 近くのホテルで会食をした帰り道、たけちゃんと二人で、家へ続く路地を歩いていた。新婚のじっちゃんと花おばちゃんは、今日はそのままホテルに一泊をする。
 たけちゃんは会食の間ずっと陽気で、よく喋っていたのに、ホテルの前で美沙おばちゃんと勝久おじさんと別れてからは、ずっと黙ったまま、話しかけても上の空だ。
「たけちゃん、晩御飯はどうするの?」
「んー、いや、適当にするさ」
「お昼食べ過ぎたから、お夕食はおうどん作ろうと思っているんだけど、もし良かったら、たけちゃんちにも届けるよ」

「そうか、じゃ、頼む」たけちゃんは淡々と応えた。
 うちの店の横を通って、お互い勝手口から家に入る。

「じゃ、後で持っていくから」
 振り返ると、たけちゃんは分かった、と声だけで返事をして勝手口を閉めた。


 振袖を脱いで、シミをチェックしつつ衣桁に掛ける。お着物って、脱いで普段着に着替えた時の開放感は半端ない。帯や詰め物に使われたバスタオルなどを、拾い集めて片付けた。
 家の中は朝とは打って変わって、何か物悲しい雰囲気がする。いつも賑やかな家なのに、今日はお店も開けていないし、じっちゃんも帰ってこない。
 明日から花おばちゃんも加わって、賑やかな日々になる。でもたけちゃんは一人ぼっちになってあの家で過ごしていく。淋しくない、って聞けば、きっと茶化した答えが返ってくるだろう。一人暮らしサイコーとか言いそうだけれど、本心はきっと見せては貰えない。

 何となく、何もしたくなくて、暖かい番茶を淹れると居間の灯りをつけた。そしてちゃぶ台の前に座った。



「たけちゃーん、おうどん出来たよー」メールをしても電話をしても、たけちゃんは無反応だった。仕方がなくお盆におうどんと箸、七味を乗せて、たけちゃんちの勝手口を開けてみたら、あっさりとドアは開いた。
 一階が医院で二階、三階が住居なので、勝手口をあけるとすぐに階段が現れる。その下でわたしはもう一度たけちゃんを呼んだ。
「たけちゃん、おうどんだってば」

 返事がない。寝てしまったのかもしれない。少し躊躇ったけれど、勝手口の扉を閉めるとサンダルを脱いで、ぎしぎしと鳴る暗い階段を上がった。

「たけちゃん、どうしたの。具合悪いの?」
 洋風の古い調度品ばかりの薄暗い居間に入ると、たけちゃんは古びたソファーに座って、ネクタイは外しているものの、まだ礼服のままだった。
「あ、ああ、もうそんな時間か。うどん、いい匂いだな。ありがとさん」
 声を掛けられて気がついたようなたけちゃんは、目の前を見つめながら言う。
「大丈夫なの、顔色があんまり良くないよ。お水持ってこようか」
 テーブルにお盆を置くと、たけちゃんの足元に座った。覗き込むとたけちゃんは目を逸らした。
「大丈夫だ。ちょっと疲れたな。おっさんだから」

「寂しい?」
 そう聞くと、苦しんでいるような、悲しんでいるような、そんな瞳と視線が合った。何かを言いたげにして、やめて、また黙っている。
「悲しいの?」小さな頃のように、素直な気持ちで、聞いた。

「茉莉はおっちゃんから聞いたか。何で2人が朝早く神社へ行ったのか」
「不思議な未来視をされていて、思い出して聞きに行った、とは聞いたけれど」
「糸を絡めていたのは誰だったと思う」たけちゃんは静かに微笑んだ。
「誰?」
「知りたいか」
「勿体振らないで教えて」
「親父だよ。お袋に片思いをして、強引に見合いをして、お袋は親に決められてここに嫁いできた。ずっと想っていた相手の隣の家にな」
 たけちゃんはそう吐き捨てるように言った。語られず終わるだろう、と思っていた出来事の話を、たけちゃんはしていた。思わず膝に置かれていた手を取った。ひんやりとしていて元気のない手を、そっと両手で撫ぜる。
「たけちゃん、話して」
 そう促すと、長いことたけちゃんは黙っていた。そして静かに、ポツリポツリと話し出した。

「そうやってお袋を手に入れたが、心までは変えられなかったようで、おっちゃんにほのかな想いを抱いてているのに親父は気がついて、お袋は何度も手を上げられていた。そのせいで子どもを何度か流したようだ。親父は俺のことも疑っていたよ。本当はおっちゃんの子じゃないか、ってさ。その癖して真実に迫ろうとすると逃げるんだ。きっと真実を知るのが怖かったんだと思う」

 亭主関白で、威張りんぼだったおじさんのことを思い出す。
 おじさんはわたしがいる時、たけちゃんとポツリ、ポツリとは会話していた。でもその関係はいつもギクシャクしていて、わたしが一緒だと渋々三人で遊んでくれたのを覚えている。
 勝手にお遊戯会の踊りを見せたり、ババ抜きをねだったり、人生ゲームを強要したり、我儘を振り回して遊びにつき合わせた。わたしの我儘を二人は笑って受け入れてくれていた。

「立派で、名士で、って言われた親父の本当の姿は、そんなもんだ。俺は、さ、ずっと何が真実か分からずにいたんだ。おっちゃんの子かもしれない、もしかして、っていう疑いだって持ってた。おれは誰もを恨んでいたよ、親父も、お袋も、おっちゃんのことも。
 親父が死んで、お袋が今までの疲れが一気に出て寝込むようになって、ついお袋に『好きなことこれからはやれよ、趣味でも、恋でも』って勧めて、おっちゃんとそういう仲になったって知った時、ついに来たかと思ったよ」

 絡めた糸を解いたのは、たけちゃんだったんだ。あっさりと、本当にあっさり過ぎるほど、たけちゃんはじっちゃんと花おばちゃんを祝福した。まるで花おばちゃんを見放すかのようにも見えなくもない、今思えば。こんなに複雑な気持ちを抱えながら、たけちゃんはそれでも祝福したんだ。

「今日、お袋に言われた。俺の絡まった糸を解きたい、と。おっちゃんのことは初恋だったが、親父のことは大切な人だと思っていた、と。上手く親父と心を通い合わせられず、それでも一生を見送りたいと思ったのは歪んではいたけれど、親父から愛情を感じていたからだ、と。俺は親父の子だった。あの家族を平気で傷つける、親父の子だ。それがショックな自分が一番嫌だ」

 ぐしゃり、と顔が歪みたけちゃんはぐっ、と息を止めたように見えた。

「たけちゃん、もういいよ、もう、分かったよ」
 慰めたくて、暖めたくて、ソファーに乗るとたけちゃんを抱きしめた。昔、いつもしてもらっていたように、背中をさすって頭を撫ぜる。拒否されても嫌がられても、嫌われてもいい。

「茉莉、放せ」たけちゃんの淡々とした声。
「はなさない」
「俺は茉莉に甘えているんだよな、きっと。今だって弱い部分をお前に見せてこんなことをさせて。お前の幸せを願っているのに、お荷物になってる。親代わり失格だな」
「親代わりなんて思ったことは、ないよ」そう言うとたけちゃんは黙った。

「それじゃなかったら、刷り込みだろ。お前は思い込んでいるだけだ。信用できる、って。俺は信用ならないぞ。感情的になったら手を上げるかもしれない」

「今迄、手を上げられたことはないよ」

「もうこれ以上、俺に踏み込んで来たら駄目だ」
 ぐっ、と肩をつかまれて身体を強制的に離された。怒っている表情のたけちゃんは警告のように鋭い声を出した。
「どうして?」
「どうしても、だ。いい年した娘がおっさんにこんなことしたら駄目だ。分かったか」
「たけちゃんにしか、しないよ」

「茉莉、もっと広い世界を見ろよ。お前はこの界隈しか知らないだろう。もっと外へ出て、刺激的なことに出会えば俺のことなんか古ぼけた奴に見える。そういうもんだ。だから外を向け」
「そんなことしたくない」
「俺がそれを望んでいるんだよ、お前世界を閉じて生きているだろう。そんなに若くて何でも挑戦出来るのに、何で潰そうとするんだ。狭い世界の中で生きるのは、俺くらいになってからでいいんだ。お前はまだそんな時期じゃない」吐き捨てるように叫ぶ、その言葉が突き刺さる。

 言い返せなかった。何かを見透かされた気がして、自分の根本をぐらぐらと揺らされている気分になる。超えられない季節。そんな言葉が浮かぶ。

「もう親代わりの俺のことは捨てて行け。分かったか。今日からは赤の他人だ」


 外に出されて、静かに勝手口は閉められた。のろのろと勝手口の鍵を開けて扉を開くと、後ろ手で閉めた。
 調子に乗ってたけちゃんの心に近づきすぎて、ついに言われた。赤の他人だと。
 その場にしゃがみ込む。好き、とも言わせてもらえず、完璧な拒絶にあった。余りのショックのせいなのか、涙も出ない。そうだ、ばっちゃんのお葬式のときと同じ気持ち。
 真っ暗な家の中で、ただぼんやりしていた。たけちゃんは、きっとわたしの浅はかな考えなんて、お見通しだった。
 じっちゃんにも繰り返し言われたことを、たけちゃんも思っていた。そして捨てて行けと言われたけれど、捨てられたような気持ちだった。もう一度捨てられた、そんな気持ち。

 もう、寝てしまおう。二階の自分の部屋に行くと布団を敷いて、服のまま頭まで掛け布団を被った。



 次の日から、何と無く覇気のない日々を過ごすことになった。花おばちゃんは気を使ってくれているのか、家事の一切合切を取り仕切ってくれ、日曜日に忙しくじっちゃんの為、一週間分のお昼を用意しなくててもいいし、床拭きも、外回りの掃除も花おばちゃんと一緒にするとあっという間に終わった。
 いつも一日中忙しくしていたのに、何もしなくてもいい時間は増えた。

 遠慮しなくていい、とは言われても、やはり新婚さんの邪魔をしたくない、という気持ちはあって、休みの日は二階の自分の部屋にこもるか、ぶらぶらと散歩して遠くの公園で散歩に行くかどちらかだ。我ながら地味だなあ、とは思う。でも、他のことに興味は持てなかった。
 それは良くないのかも、と思って無理矢理新宿のデパートへ行ってみたりもした。無闇に歩き回って結局、じっちゃんと花おばちゃんの好物の和菓子を買い、ぶらぶらと時間を掛けて帰ってきた。
 欲しいものは大抵ネットで手に入るし、デパートはお値段が高すぎる。煌びやかな世界を見て、凄いなあと見ているのはまあまあ楽しかったけれど。
 たけちゃんにはあれ以来会っていない。たまに日曜の午後やって来て、じっちゃんと囲碁をしているらしいが、その時はそっと勝手口から家を抜け出した。

「あれっ茉莉さん、こんなところで何やってるの」
 日曜の午後たけちゃんが来たので、これまたこっそり勝手口から抜け出して、駅前の書店へ行き何冊か情報誌を買い、近所の公園でブランコに揺られて眺めていたら、真吾くんがやってきた。

「んー、雑誌見てるの。真吾くんは?」
「僕はそこにあるお稲荷の掃除に来たところ。茉莉さん、最近家にいないみたいだけど……何かあったの」
 心配そうな真吾くんに笑いかける。まずいな、余り近所にいると良くない評判になったら困るし、真吾くんが行ってしまったら、移動しなきゃ。

「花おばちゃんのおかげで、自分の時間が持てるようになったんだよね。だからちょっと家以外の所に出てみようと思って」そう言ってお稽古雑誌を見せる。
 ページを捲ってみたけれど、ネイルは仕事柄出来ないし、お茶とお花は我が家に上手な花おばちゃんがいいる。お料理はそれなりに出来るし、手芸は仕事で作り物が多いから、あまり趣味まではしたくない。
 あれも嫌、これも嫌と拒否したら駄目かもしれないが、どれにも興味が持てなかった。

「そうなんだ、何やりたいの」
「んーまあ、この中ならビーズアクセサリーかな。指輪とか作って、保育園のお店屋さんごっこで売ってもいいし」
「さすが保育士さん。こんなの子ども達喜びそうだよ」
「だよねぇ。やってみようかな。今位の時間、開講しているみたいだしね」
「そっか、うん、まあ、頑張って。じゃ、行くね」
「うん、じゃあね」
 真吾くんは手を振って公園を出て行った。姿が見えなくなると途端にため息が出る。お稽古雑誌を閉じて袋に入れると、もう一冊の情報誌を取り出した。

 この辺って分かっていたけれど家賃は高い。借りれるとしたらもっと郊外かな。行ったことの無い最寄り駅にある、知らない街の小さな部屋の物件を眺める。
 来年度か再来年度には多分、区内の別の保育園へ異動になる。ずっと近い保育園への異動を希望していたけれど、遠くなってもいいと最近思い始めた。それを理由に家を出たら怪しまれることも少ないだろう。
 駅から徒歩八分、七万円。家賃補助は出るけれど大したことはない。考えは纏まらないけれど、それでも淡々と決めて行かなければならない。
「茉莉、何やってんだ、お前」
 真吾くんが行ってしまった後、早く違う場所へ移動しなかった自分が悪い。掛けられた声に覚悟を決めて顔を上げた。

第十一話

「茉莉、何やってんだよ、お前」
「旭、久しぶりだね。仕事忙しかったの」
 そっと賃貸情報誌を閉じると、表紙を見せないようにして袋へ仕舞った。
「引っ越し、すんのか?」
 旭は目敏いな。質問で攪乱させたつもりだったのに、一番触れて欲しくない所を突いて来た。
「うーん、異動になったら家から遠くなるし、一人で暮らしたことないから、経験してみたい、かも」
「かも、でそんな雑誌買うのか」
「駄目かな。お金掛かることだから、どのくらい必要なのか知りたかっただけだよ」
 強気で言うと、旭は眉を顰めた。風が出て、公園に一本だけある大きなけやきの木は、音を立てて揺れてその葉を落としている。
「お前んちに新聞買いに行ったら、お前のじーさんと鈴木先生は、たのしそーに囲碁してるしさ。それなのに茉莉はいない。それでここ通りがかったら、お前、アパート探してるし。家に居づらいのか?」

 だから旭は嫌なんだ。賢くて、ちょっと強引で、それでいて優しい。この話題を終わらせるにはどうしたらいいか、そしておばちゃんやたけちゃんが悪く言われないためには。
 そんなことを考えたが、すぐには浮かばない。答えは出ずブランコをぎい、と鳴らして動かした。

「だから言ったよね。経験だって」
 苦しい言い訳、そんな言葉で旭は納得はしないだろう。
 それでもなんでもいいから言い返せ。そう言われていつも背中を押された。

「俺が探してやろうか?」
「えっ」
「1Kか、ワンルームでいいんだろ」
「何で旭がわたしの部屋探してくれるの」
「おいおい、不動産業なのをお忘れか」
「旭んち、高級マンションを販売するところでしょ。汐留とか豊洲とかの」
「自社で賃貸だってやってる。そっちの派手めな方ばかり注目されがちだけどさ」

 そう旭は言ってくれているが、ご両親は良しとはしないだろう。大体、あの親の子どもだから尻軽だろうと軽蔑している女に部屋は貸さないだろうし、そのことでこれ以上傷つくのはもういい。

「うーん、オーナーさんが近くにいてくれるほうが安心できるから、そういうところを探すよ。ありがとう」
「うち、管理はしっかりしてると思う。家賃も勉強する。駅近くをご案内しますが、いかがでしょうか」
「そうやってマダムに営業してるんでしょ。跡継ぎは凄いね」
「魅力的だろ、美味しい物件紹介するぞ?」
「手間掛けさせたら悪いもん。仕事忙しいんでしょ。ありがとうね」
「茉莉の部屋を探すのは、手間じゃない。むしろ喜んでやる」
 やんわりと断っても断っても、旭は押してくる。ああ、きっとたけちゃんはわたしが好意を示す度、こんな思いをしていたのかもしれない。そう思っただけで胸を針で刺された様な気持ちになる。

「ありがとう、考えてみるね」
 そう笑って言うと、旭はむう、と口をへの字に曲げた。面白く無いことやつまらないときにする、旭の癖。
 すぐに行ってしまうのかと思いきや、旭は空いている隣のブランコに座った。

「なっかなか本心見せてくんないな。まあ、俺がいじめてたから悪いんだけどさ」
「別に、もう気にしてないよ。旭のおかげで自分の気持ちを他人に言えるようになったんだし。」
「鈴木先生のおかげ、だろ」
「うーん、さあ、どうなんだろね」
 ぎい、ぎいとブランコは音を鳴らして揺れた。話が途切れて、急いで立ち上がろうとすると、旭は直球を投げてきた。
「鈴木先生と、何かあったのか」
「なんでーそう思うの」
「茉莉は気まずい時や困った時は眉がハの字になるから」思わず手で眉間を抑える。
「なってた?」
「なってた。話してみろよ。力になれるかもしれないから」
「んー、なれないよ。誰も」
「わっかんないだろー言ってみなければ、何事も」
 ため息をつく。本当に真吾くんが行ってしまってから、すぐに移動すればこんな目には合わなかっただろう。自分の判断ミスが恨めしい。

「この前も言ったけれど、俺は意外と受け止められる男だぜっ」
 指で決めポーズを決めて、爽やかぶった笑顔をかましているけれど。その顔がちょっと面白くて吹き出した。

「もう、赤の他人だ、って言われたんだよね。親代わりはお終いだって」
「鈴木先生が言ったのか?」
「うん、たけちゃんが弱ってて、慰めたかったんだけど不快だったみたい。そんなことしないで、もっと広い世界を見て、狭い世界に生きるのはやめろって、たけちゃんのことは捨てて行けって」
「茉莉はそれ聞いてどう思ったんだ」
「うーん。広い世界を見なきゃ、いけないんだな、って」
「鈴木先生を諦めるのか」そう言われて旭の顔を見た。
 返事は出来なくて、それでも目は反らせなかった。真剣に聞かれているとわかる。でも、複雑で、モヤモヤしていて、不明瞭な気持ちを話すことは、今のわたしにはどんなことより難しかった。
「諦めるのかって、聞いてる」

「分からない。でも、もうたけちゃんの側にはいられないのだけは、分かってる」
「それで部屋探しか」小さく頷く。
 花おばちゃんはお隣に初恋のひとがいて、よく耐えられたと思う。わたしはたけちゃんが隣にいると思うだけで、何処かで会ってしまうかもと思うだけで、苦しいのに。

「茉莉、一緒に暮らさないか。俺と」
「何言ってるの、旭、頭大丈夫?」
「凄いマジだけど」
「だ、駄目だよ、そんなの」
「何で、一応条件はクリアしてるだろ、彼女いないしコネって噂あるけど職にもついてる。まあ土日は忙しいこと多いけれど、放っておいたりはしない。優良物件のつもり」
 ジャジャーンと言うと旭は両腕を開いた。
 どうしよう、どうすればいい。本当は話したくはなかったことを、言わなければならない。

「多分、だけど、ご両親が許さないと思うよ、旭は跡継ぎだし」
「あーああ、それが大丈夫だったら一緒に住むか」
「え、でも、無理でしょう。やめた方がいいよ」
「この辺でどれだけお前の評判いいか知ってるか。優しくて、仕事に一所懸命で、家の中や外でいっつも掃除してて、じーさんの食事も手を抜かない。夜遊びなんかしないし、店に行けばいつもニコニコして応対してくれるって。息子のお嫁さんにしたいナンバーワンで、先生に一途だけど駄目だったらうちの嫁に、ってどれだけじーさん言われてるか」

「でも」
「茉莉のこと、うちの親はもう悪く言ってない。何なら今からうちに来るか?」
「い、いいです、それは」慌てて手を振ると、旭は声を上げて笑った。
「全部茉莉が努力で覆したんだ。理不尽な評判も、不当な扱いも」

 長く、黙った。旭はこちらを、見ている。

「考えてみてくれないか。もし一緒に住むのがハードル高いなら、付き合う、からでもいい。でも、出来れば一緒に住みたい」

「何、で」口の中が急激に乾いて行く気がした。ざらついて、ヒリヒリする。

「先生を思い出せないように、したいから」その言葉に、目を伏せた。



 6時を過ぎて、カフェからの帰り道の路地は、すっかり真っ暗だった。あの後旭には考える、を繰り返し、逃れ、混乱した頭でカフェに入り、ウェイターのお兄さんに何度かお水のお代わりを頼んだ。
 花おばちゃんには遅くなるので、お夕飯の手伝いが出来なくてごめんなさい、と電話すると、快く応じて貰えた。
 一気に色々なことがやって来た気がする。でもそれのどれもが正直心躍る出来事ではない。

 だいたい優しくて仕事に一所懸命で、とかはお給料をもらってちゃんと働いているのだから当たり前だし、掃除は綺麗な方が好きだからやっているだけ。じっちゃんの食事は、たった一人の家族に長生きしてもらいたいからだったし、夜遊びはしたら強面のおじさんに、歌舞伎町へ売られると脅されて育ち、そんな気も起きない。お客さんに愛想がいいのは普通じゃない。世間の評判なんて、本当に当てにならない。

 重い足取りで歩く暗い路地の隅で、ニャオンと猫の鳴き声だけがした。

「ただいま」
 店から入ると、居間に繋がる引き戸を開ける。
「茉莉」
 帰った、と思っていたのに。何でいるの。今日は厄日だ。古臭いチャイムの音が耳障りで仕方ない。
「茉莉ちゃん、おかえりなさい。あの、お夕食ね、毅も一緒にどうかと思って」
 こちらへ来たおばちゃんは遠慮がちに言った。
「そう、あ、わたしおやつ食べちゃってお腹空いていないから、お夕食皆さんでどうぞ」
「茉莉」
 無視して靴を脱ぐと居間をすり抜けて階段を登った。誰かが追いかけてくる気配に、自分の部屋のドアを開けて急いで鍵を閉めた。勢い良くガチャリ、と鳴らして。
「茉莉、ごめん、この間はすまなかった」
 扉ごしにたけちゃんの低い声がして、耳を塞ぐ。何も聞きたくない。押入れから急いで掛け布団を出して頭から被った。
「ごめんな、慰めようとしてくれていたのに」
 再び耳を塞いだ。もういい。少し静かに色々考えたいのに、次から次へとやってくる出来事に、腹が立って仕方ない。塞いだ耳の外側で、たけちゃんの声が意味を成さないで聞こえる。バックを手探りで探すと、スマホを取り出してメールを打つ。

『もう帰って。たけちゃんは美妃さんとの想い出の中を生きていって。わたしはもう関わらない』

 扉の向こう側で着信音が鳴るのを確かめて、電源を切るとまた耳を塞ぐ。
 もう嫌だ。誰かの代わりをするなんて真っ平御免だ。より大きな声で呼ばれている気がしたけれど、返事をする気になんてなれない。
 腹の中がグツグツと煮え立つようで、ようやく自分が怒っているんだ、と思い当たった。
 謝られないでずっと拒否されたままの方が良かった。謝られて、受け入れて、またあの日々が続くんだとしたら、耐えられない。
 ずっと自分だけを見て欲しいと思う心を押し込めて来て、たけちゃんに拒否されて、押し込めなくていい安堵感は、ぽっかりと空いた心に奇妙に心地よかった。もう、そこには戻れない。



 耳を塞ぎ続けて、目を閉じて掛け布団をかぶっていたら、たけちゃんの声が止んだ。
 扉の前から去って行く気配の後、人の気配はなく、静まり返っている。古びた学習机の上にある、目覚まし時計に目を向けると、七時半を過ぎていた。
 それから少し仄暗い部屋の中を見続けて、そっと鍵を開けて扉をすこしだけ開けると、柔らかなひかりに目を凝らした。外には誰もいないのを見て、ため息が出る。
 ドアの外へ出ると恐る恐る階段を降りて居間を覗いた。じっちゃんと花おばちゃんがちゃぶ台の前に座っていて、二人同時にわたしを見ると、ホッとした顔を見せた。
「たけちゃんは」
「帰ったぞ。お前達、喧嘩でもしたのか。たけもだんまりで、囲碁やってても上の空で、後手後手で全然駄目だ。何があったんだ」
「じっちゃん、わたし家を出たい。出てもいい?」
 すがりつくようにちゃぶ台の前に座って、いきなりそう言うと二人とも目を見開いた。
「茉莉ちゃん、何かやっぱり不便なこと」
「違うっ、本当はじっちゃんとおばちゃんと暮らしたい。でももうたけちゃんのそばにはいられない。だから」

 長い長い重苦しい沈黙の後、じっちゃんはポツリと呟いた。
「いいんじゃねぇか、俺は反対しねぇ。おめぇがいいならそれでいいかと目をつぶってきたが、たけはお前に酷い態度だったしな。いつか気がつくといいと思っていたが、今そう思うなら離れる時なんだろう」
 じっちゃんは、ちゃんと見ていたんだ。今更ながら、そんなことに気が付く。
「茉莉ちゃん、染次さん………ごめんなさい」
「花ちゃん、あいつはもう四十三だ。親の手はとっくに離れてるだろ。手前の尻は自分で拭える。花ちゃんが謝ることじゃねぇ」
 じっちゃんがきっぱりと言うと、花おばちゃんは項垂れた。
「男はごまんといる。あいつじゃなくたって、お前なら選り取り見取りだろ。三谷の倅も、うろちょろしているしな。まあ、あいつはあいつで茉莉のこと虐めやがって許せんが。今更可愛い孫にちょっかい出して来やがって」うがあ、とじっちゃんは怒ってる。
「よ、よく知ってるね、じっちゃん」
「なんだっ、あいつやっぱり何か言ってきたか。何言ってきた」
 どうやら藪蛇だったようだ。じっちゃんはこうなったら、スッポンのように話すまで離れない。仕方なく公園での出来事をかいつまんで話したら、じっちゃんは眉間に皺を寄せた。
「それで掌返したように、三谷の家から嫁に欲しいって来てるのか。あそこの倅は中々根性があるが、なぁ。お前の父親に似ているんだよな。なんていうかやり口が」
 じっちゃんは初めてわたしの父について触れた。今まで頑なに、父について話さなかったのに。どういう心境の変化なんだろう。
「美妃はあっという間に堕ちたが、お前はよっく考えろ。男がお前のことを、選び出しているように見せかけているが、実際は女の方が男を選び取る権利があるんだぞ。自分が幸せになれる、と思えるのなら三谷の倅でもいいだろうが、そう思えないならやめた方がいい。自分の幸せは、自分で決めろ」
「もしかして、わたしの両親って」
「お前の父親が美妃を支配していたな。あっという間に籍を入れて、攫っていって、どんどん洗脳されて行って、それを愛だと信じこんでいた。段々激しくなる主従関係と暴力におかしいと気がついて、逃げて来た時にはもうボロボロだったがな。離婚するのは本当に大変だった。それもこれも、元はと言えば美妃が選択をしていないからだ。自分が幸せになれる、という選択をな」
「茉莉ちゃん、ようく考えたらいいわ。染次さんの言うとおりですもの。私の時代は、自分で選び取ることなんて無理でしたけれど、茉莉ちゃんはそれが出来るもの」

 そうだった、おばちゃんはお見合いでお隣に嫁いで来たんだった。

「おばちゃんは、じっちゃんのこと、好きだったんでしょ。おじさんのことは、どう思ってたの」こんなこと聞くのはタブーかもしれない。それでも、知りたかった。

第十二話

「茉莉せんせーお客様よー」
 今週はローテーションで早番が続く。月曜日、勤務から上がって、子ども達と一緒に作ったどんぐりの制作物を廊下に飾っていると、五歳年上の里菜先生に玄関から呼ばれた。
「はーい、今行きまーす」
 誰だろう、お客様って。まだお残りしている子ども達の声が響く廊下を歩いて、玄関に出るとそこには意外な人が立っていた。
「こんにちはー茉莉ちゃん。お久しぶり」
 ちょっと所在無さげな米田さんは私服で、わたしを見るなりひらひらと手を振った。
「米田さん、どうしたんですか。あれ、健康診断って春ですよね?」
「健康診断、じゃないの。ちょっと茉莉ちゃんに話したいことがあって、ね」
 いつもハキハキしている米田さんの珍しく言いにくそうに話す様子に、わたしの目は点になった。話したいこと、それは何か見当もつかなかった。


 急いで帰り支度をしていたら、園長先生は職員室の隣の休憩室を貸してくださった。どうやら米田さんと園長先生は小学校、中学と同級生だったらしく、顔を合わせると、まるで女子高生のようにはしゃいで話込んでいるのを、お茶の用意をしながら待った。
「コーヒーでいいですか?」休憩室に入ってきた米田さんに話しかける。
「あ、いいのいいの。いきなり来たのはこっちだから、気にしないで」
「わたし、勤務が終わってちょっとお茶でも飲みたいなあ、って思っていたんです。もし、よかったら」
 そう言って笑うと米田さんもホッとしたような笑顔を返してくれる。
「じゃ、ご馳走になろっかな。コーヒーでお願いします」
 茶目っ気たっぷりに米田さんは言った。大きめのお客様用マグカップを取り出すと、そこにインスタントコーヒーを入れた。

「どうぞ、熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとーいただきます」
 猫舌なのでふうふうしながらそっとマイカップに口付ける。米田さんはテーブルに出した砂糖とミルクを入れてスプーンでかき混ぜると、ちょっと躊躇ってから口を開いた。
「茉莉ちゃん、若先生と喧嘩した?」
 言われた言葉に動揺して、コーヒーを吸い込み過ぎて舌を火傷した。そっとマイカップを小さなテーブルに置くと、何て答えていいのか分からず顔を伏せる羽目になる。

「やっぱりねー若先生、最近患者さんが立て続けに来ている時間は、いつも通りテキパキ働いているんだけれど、その波が途切れたら、ぼんやりしてため息ばっかりなの。指示は的確だし、相変わらずお節介焼きだし、説教垂れたがるところは変わらないのよ。でも暇になるとすーぐスイッチが切り替わるようにため息なの」
「そう、なんですか」
 そこからどうやって、わたしとたけちゃんが喧嘩した、と思えたのか、米田さんの話は想像がつかない。絶え間なく舌はピリピリとして、気持ちは落ち着かなかった。
「流石に看護師さんたちも気に掛け出して、やりにくい、って話も私のところに何度か言われて、これはいけない、と思って事務長と二人掛かりで若先生に聞きに行ったのよ。中々口を割らなかったんだけれど、なんとか宥めすかしたの。そしたら、なんと、切なそーな顔して言うわけ。『例え話、してもいいですかね』って」
「はぁ………」

「若先生が言うにはね、大事に大事に金魚鉢で育てていた、ヒラッヒラの可愛い金魚をね、池に放してしまったって言うの。可愛い金魚には仲間が必要だろうと思って、金魚が沢山いる池に放したのに、その子は背中を見せて、ゆらゆらヒレを動かしながら、池の放した端の所で動こうとしないんだって。
 そのうちに見ている方が寂しくなってきて、後悔して、もう一回金魚鉢に入れておいた方がいいかと思って手を伸ばしたら、するっと手をすり抜けて水草の中に隠れてしまって、出てこなくなったって言うの。
 金魚鉢の中にいた時は凄く元気で、幸せそうで、楽しそうな顔をしていたのに、池の中ではちっとも楽しそうじゃない。先生も金魚に元気を貰っていたのに、手放してから大切さに気づいたんですって」
 米田さんは、プププ、と笑いながらゆっくりとそんな例え話をしてくれた。

 金魚、それってもしかして。たけちゃんは何て言うか、例え話になっていない、そんな話を米田さんと事務長さんの前でしたんだ………。

「お節介焼きかな、と思ったんだけれど、茉莉ちゃんはその話に心当たりないかな、と思って」
 米田さんはもう一度、カップに入れっぱなしにしていたスプーンでくるくるとかき混ぜると、スプーンを丁寧に動かして、コーヒーの水滴をカップの淵ですりつけるように落とし切り、受け皿に置いた。

「多分、多分金魚は、金魚鉢には戻りたがらないと思います」
「そうなのっ、茉莉ちゃん、若先生のこと嫌いになっちゃったの?」
「えっ、例え話ですよね」
「でも、誰を指しているか、バレバレでしょ。失ってから気がつくなんて、若先生は本当に二ブチンだわー茉莉ちゃんのこと大事なのに、傍にいてくれるありがたさを全然分かっていなかったなんてねぇ。ま、振られて当然よね」
 そう言いながら米田さんはコーヒーを一口飲んだ。わたしも一口、飲む。

「わたしは、変えたいんです」そう言うと、少しだけ笑った。



 水曜日の夕方、この前の公園に、この日が休みの旭を呼び出した。返事をしたい、と言って。

「お待たせ、ごめんね、帰り際に色々あって、職場出るの遅くなっちゃって」
「いや、俺も今来たとこだから」
 旭は誰もいない公園にあるブランコに座っていた。その隣にそっと座ると、ふっ、と旭は笑った。

「返事したい、なんて、固っ苦しいな。別にオッケーでって言うだけで良かったのに」
 茶化して言われた言葉に笑ったけれど、自分を励まして話し始めた。
「色々考えたの。旭と暮らしたらどんな生活になるんだろう、って」
 いきなりそんなことを話し出すわたしに、旭がこちらを向いた気配が右側からする。
「どうなるんだろう、こうなるのかな、って思い描こうとするんだけれど、考えても考えても真っ白なの。何も思い浮かばない。旭と一緒に暮らして行くイメージが無いまま生活を始めても、きっと上手くいかないと思う。だから」
「そんなのやってみなければ、分からなくないか。誰だって最初はどうなっていくか、分かって暮らし始めないだろ」
「でも、ワクワクしたり、ドキドキしたり新しい生活になるって思うと、してくるものじゃない。そういうのが一切思い浮かばないの」
「まだ実感がないんじゃないのか。もしくはこれから、とかかもしれない」

「旭は無いの。もし一緒に暮らしたらこんなことしたい、とかあんなところへ行きたいとか」
「な………いや、あるか、少しは。でも始まってみないと分からないだろ。お互いの意外な一面が見えるかもしれない、それも楽しめるじゃんか」
「きっとそういうイメージが何もないまま暮らしたら、旭ばかりが頑張ることになる。お互いの意外な一面って、一方的な関係の中では見られないと、思うよ?」
「俺、茉莉を笑わせて、楽しませる。そうなったらお互い笑顔になれるじゃんか」

「わたし、自分が幸せな顔をして旭の隣にはいないだろうと思うの。このひとと一緒にいたい、大切、と思えるひとにまでわたしの中で旭はなっていない。それが多分、一緒に暮らして行くイメージが湧かない原因だと思う。だから」
「俺が幸せにする。大切にするし、暮らすことにイメージが湧かないのなら、付き合うから始めてくれたらいい。絶対幸せにするから。大事にする。約束する」
 旭は必死だった。ああ、そうかそういうこと。じっちゃんの話していた意味がようやく分かった気がした。
「絶対?」
「うん、絶対」この世に絶対なんて、ない。

「わたしの幸せはわたしが決めるよ。旭に与えられるものじゃない。例え旭が幸せにしようとしてくれていても、わたしがその気持ちを受け止められなければ、旭は不幸でしょ。そんな関係は幸せとは言えない」

 甘くて優しい言葉は蜜だ。舐め続けていれば、幸せを感じていられるかもしれない。でも一方的に与えられる飴を食べ続けるより、わたしは一緒に作った美味しいご飯を食べたい。
 そうやって、わたしの生物学上の両親はすれ違ったんだろう。初めは甘くて美味しさを感じ続けて蜜だけを食べ始め、何かを錯覚する。どちらか一方が悪かったんじゃない。お互いに間違えていた。そしてその不幸の上にわたしは生まれた。わたしは、同じことを繰り返したりは、しない。

「旭と一緒には暮らせないし、付き合うこともできないの。ごめんなさい」

 呆然としている旭にじゃあ、と声を掛けて立ち上がり、歩き出した。気持ちを応えられないと告げられて、それ以上一緒にいても旭は苦しくなるだろう。自分が悪役になった気分で、受け入れて流されてしまう方が簡単だっただろうと、そう思う。でも、誰かに縛られておかしな関係を受け入れるのは、もう真っ平御免だ。

 わたしの幸せは、わたしが決める。誰かに依存をするのではなく。


「待てよ、茉莉。一つだけ教えてくれないか」家へ続く、あかりが灯り始めた路地に入ったところで、旭に呼び止められた。
「何?」振り返って旭を見上げた。深刻そうな顔で、こちらをじっと見ている旭は苦しそうな声を出した。
「じゃあ、茉莉は鈴木先生を選ぶのか?今まで通り、鈴木先生を想って行くのか」
「たけちゃんのことは、旭には関係ないよね」
「でも、茉莉が一生届かない想いを抱き続けて、それで終わるのを俺は見たくない。それこそ不幸じゃんか。先生は確実に俺たちより先に逝ってしまう。それも承知で想い続けていくのか」

「たけちゃんがわたしに赤の他人だ、って言い出すまでは、それで良いと、そう思ってた。一生独身で、たけちゃんの傍に嫌がられても居続けて、そしてたけちゃんが望むようにわたしが看取ればいいって。でも、今はそう思えない」
 駄菓子を買いに来る、小さな子と接しているうちに子どもが好きになって、でもたけちゃんの傍に居続けるには、ちゃんとした職についている必要もあった。
 進路を考えた時、一生産み育てることが出来ないなら、せめて子ども達と密接に関われる保育士になりたい、と短大進学を選んだ。就職も家から離れたくなくて区内の保育園を受けた。
 今までのわたしの選択は、たけちゃんを中心にしていた。でも。

「そしたら、ひとりで暮らすっていうことか」
「分からない、でも、そうなる可能性は高いと思う」
「俺は多分、さっき振られたけどやっぱりずっと茉莉のことを好きだと思う。覚えてない位小さい頃から、茉莉が鈴木先生を見ているのを見てきたんだ。こっちを振り向いて欲しくて虐めたりしたのは今、めちゃめちゃ後悔してる。謝れ、って言うならいくらでも謝る」ごめん、と旭は頭を下げた。

「旭、わたし、もう気にしてない、って言ったよ」
「でも、きっと過去の俺の行動が、俺を信用して心開いてもらえない原因の一つだろ。なら謝って、これから新しい関係にしたい」
「どういうこと?」
「友達ちゃんとやって、たまに飲みに行ったり、遊びに行ったりそういったところから知ってもらいたい。その上で振られたなら、駄目だったんだ、って納得できる。駄目かな」
 難しい申し出だった。旭がこんなに諦めないなんて思いもしなかった。少し考えさせて、と言えるような話なのか、それすらも分からない。

「もちろん付き合ってとかは言わないし、お互いの仕事が暇な時に、でいい。少しでも可能性があるのなら」旭の畳み掛けるような言葉に悩む。


「すげぇな、旭。お前遣り手だな。何処でそんな技覚えたんだ」そんな声に心臓は跳ねた。

「たけちゃん?」
「鈴木先生?」
 旭と声は重なった。横を向くと、今までに見たことのない嗤い方をした、たけちゃんが立っていた。

第十三話

「なあ、そうやって近づいて、隙を狙うんだろ。すげーな。茉莉なんて隙だらけだからイチコロだな」
「たけちゃん、何しに来たの?」
「旭の手管を見極めに、かな」
 スマホを片手に、白衣のたけちゃんは腕組みをした。顔は笑っているけれど、目は嗤っていない。
「先生、俺は」
「旭、ちょっと待って。たけちゃん、仕事に戻って。まだ診察中でしょう」
「今日は水曜だから午前中だけだ。仕事はもう終わった。さあ、旭。やってみせろよ」
「たけちゃん、これはわたしと旭の間の話なの。悪いけれど首突っ込まないで」
「はぁ、何言ってんだお前、こいつに虐められて、ビービー泣いていた癖によ。泣いて助けてーって言ってた癖に何言ってんだ」
「泣いても立ち向かっていけって、旭の前に押し出してたのは、たけちゃんでしょ。忘れたの?助けるどころか、も一度泣かされて戻ったら、くどくど説教したでしょ。わたし、恨みに思ってるんだから………」
 ぎろっと睨んだら、たけちゃんは明らかにたじろいだ。
「旭、俺、そんなことしてたっけ」
「あーしてました」
 ちょっと白けた感じになった旭は、頷きながらたけちゃんに言った。
「まったまた、一回位は庇っただろ」
「いや、残念ながら毎回、茉莉の背中を押し出してました。鬼だな、と思ってました」
「あ、お前が虐めたりしなきゃ、してないだろー」
「話がずれてきているから、たけちゃんっ、後で説教。今は退場して」ビシッと医院の方を指差す。
「茉莉」
 じっとりと睨んでいるけれど、そんなの構っていられない。
「退場!」
「なんだよ、もう泣いたって庇ってやんないからなっ」
 捨て台詞を吐いて、たけちゃんはプリプリ怒って行ってしまった。庇ってくれたことなんてないでしょう。何を言っているんだか。

「ごめんね、えーと、なんだったっけ」そう言うと旭は、はーっと長いため息をついた。
「こうやっていつも思い知らされる。茉莉が生き生き出来るのは、先生の前なんだってさ」
「いっつも怒っているような気がしているけれどね。たけちゃん、目を離すとすぐ余計なことするから」
「あー今も神社の跡取りに絡んでる。がっつりと」
 振り返ると結構先の路地の途中で、真吾くんとたけちゃんが並んで座っていた。真吾くんの脇腹をたけちゃんがグリグリして、ここからでも真吾くんの嫌そうな表情は見てとれた。

 ああ、あそこからメールが行ったのね……追い返されたけれど。

「茉莉、先生と暮らす想像は出来るのか」
「うーん、きっと毎日あんな感じかな。たけちゃんが余計なことして、わたしが怒って、一緒にご飯食べて、美味しいね、って笑うの。たまにじっちゃんとたけちゃんの囲碁の対戦を見て、花おばちゃんとお茶入れてお菓子食べながら、昔の話を聞いたりして」
 すらすらと、淀みなくその想像は出て来る。
「もういい、茉莉の言いたいこと、分かってたけれど、諦めきれなかった。俺じゃ、ダメなんだよな」
「うん、駄目だった。ごめんなさい」

「あーどさくさに紛れて攫っていこうかと思ったんだ。でも駄目だったか」旭はちょっとだけ笑う。
「きっとそうやって一緒に暮らしても、きっと悲しい結末になっていたと思う。わたしの両親みたいに」
「そっか………」
「でも、嬉しかった。ありがとう、伝えてくれて」それは本心だ。嘘偽りなく。
「何だよ、いい人の振りか。偉くなったもんだな」
「ああ、旭はそうやって嫌味じゃなきゃ、わたしも調子でない」
「まった、人のこと馬鹿にして」そう言うと旭はニヤリと笑った。わたしも笑う。

「じゃ、な。あーでも本当、今度飲みに行こう。南田とか大倉、こっち帰ってきてるって。同窓会したいなって言ってたから、皆で計画しないか」
「あ、うん、いいよー日にち分かったら連絡頂戴」
「おっけ、じゃな」
 そう言って旭は笑って背を向けて角を曲がっていって、もう一度角から顔だけ出して言った。
「茉莉ー」
「なにー?」
「先生にがっつり説教してやれよ、頑張れ」
 ひらひらと旭は手を振る。ありがとう、旭。わたしもちょっとだけ振りかえした。


「えー駄目かなー真吾ちゃん男前だ・か・ら」
 急いで真吾くんとたけちゃんの方を振り返り、歩み寄ると、真吾くんの彼女さんもそこに一緒にいた。たけちゃんはどう見ても真吾くんにべっとりと寄りかかって、真吾くんの彼女さんをからかっている………。
「あのっ、でも、それは、真吾くんはわたしの大切なひとなんで、本当にごめんなさいっ」
 全く何をやっているんだろう、あのおっさんは。あんなに真っ赤になってブルブル震えている子に、こんなこと言わせるなんて。

「だあれ、いたいげな可愛いカップルをからかって遊んでいる、阿呆なおっさんは」
 近づいて耳を思いっきり抓り上げた。本当に目を離すと碌な事、しない。
「いででっ、茉莉、止めろっ」
「他人様に迷惑掛けたら駄目でしょー分かってるの、たけちゃん」
「ハイ」
 たけちゃんは殊勝に返事をしたので、手を離す。真吾くんの彼女さんはまだ真っ赤になって、ブルブル震えている。本当に可愛い。このくどいおっさんに絡まれたなんて、悪夢のようだった筈。
「ごめんなさい、余計なことしかしないおっさんが阿呆なことをして」
「いえっ、あの、大丈夫です……わたしこそあんなこと口走って」
 わたしが謝ると真吾くんの彼女さんは更に真っ赤になって顔を伏せた。

「いや、いいじゃないか。真吾のこと大切なひとって言えるのは、ちゃんとお互いを思いあっている証拠だろ。仲良くやれ、純情ボーイ」
 たけちゃんはそう言って立ち上がる。それ、言える立場じゃないと思うけれど、たけちゃん。
「茉莉、ちょっと来い」
 わたしを今まで見たことのない目で、射るようにたけちゃんは見た。ため息が思わず漏れる。
「じゃあね」
 可愛いカップルに声を掛けて、少し先で待っているたけちゃんと並んで歩き出した。

「ちょっと家に来い」
 勝手口に回ったたけちゃんは、ポケットから鍵の束を取り出した。
「赤の他人を家に入れるんですか。凄いですね」
「ああっ、いいからちょっと来いっ」
 たけちゃんは何かを誤魔化したい時に横暴な振りをする。でも。
「わたしは、そんな態度のたけちゃんとは、話せないよ」
 真剣にそう言うと少し考えてから、渋々、本当に渋々と弱々しい口調でお願いをしてきた。
「ここだと人目につく可能性もあるし、中で話そう。赤の他人って言ったことは謝る」
「分かりました」
 そう言うとたけちゃんは切なそうに目を伏せて、それから勝手口のドアを開けた。

 二階の居間は、それなりに片付いてはいるが、おばちゃんが居た頃には考えられない位、乱雑になっていた。たけちゃんはソファーにてんこ盛りになっていた洗濯物を掴み、続き間の和室に放り込むと、大きな音を立てて古いソファーに座った。

「座れ」空いている隣を示され、ひと一人座れるくらい間を開けてそっと座ると、たけちゃんは眉間に皺を寄せた。

「で、旭とはどうなったんだ。付き合うのか?」
「何で知りたいの」
 そう聞くとたけちゃんは黙った。中々返事は聞こえてこない。その内に小さく呟きが聞こえた。
「知りたいから」
「だから、何で?」

「茉莉が美妃のようになったら、俺は親子二代に渡ってそういう目に合わせた張本人になる。それは避けたいからだ」
「えっ、どういうこと………え、両想いだったの?」
「……ああ、お前もしかして俺が美妃のこと好きだ、と思っていたのか。逆だ、逆。
 美妃に告白はされたが、俺はおっちゃんの子かもしれないと思っていたから、美妃のことはずっとそんな目で見たことはなかったんだ。告白を断って理由は、って聞かれたけど、答えられなくてあいつに酷いことを言ったんだよ。そこからだよ、美妃があの人に慰められて、あっという間に一緒に暮らし始めて、籍を入れてもう、どんどん進んでいったのは」
 多分、人生で一番の衝撃が今、わたしを包んでいた。どうしよう、こういう時って何も考えられないと考えるのだと、初めて知った。ずっと、ずっと、たけちゃんが好きなんだと思って来たのに。

「それであのメールなんだな。はぁ、ようやっと分かった。しっかし、何でそう思い込んだ」
「えっ、だ、だって、わたしが、その」
 動揺して何を言っているのか自分でも分からない。
「大丈夫か?茉莉」
 すう、と近づいて来るたけちゃんから、身体を引いた。途端に目の前の顔の表情は曇った。でも。

「何で誤解したのか分かんねぇと、誤解の解きようがないな。ゆっくりでいいから言ってみろ」
 聞いたことの無いくらい優しい声で、たけちゃんは話している。首の辺りが熱くなっていく感じがして、落ち着かない。

「たけちゃん、いつも、『美妃に似てる』って、そうやって、言うから」
 たくさんの時間を掛けて、振り絞るように声を出した。

「あ、ああ、だってな、あれは、本当に美妃にそっくりなんだよ。好意の示し方とか、仕草とか、表情が。三歳までしか一緒に居なかったのに、やっぱり親子は一緒に暮らさなくても似るんだ、ってそう思ってたな」
 たけちゃんは、いつも、いつもそう言ってわたしの気持ちを止めてしまう時にするような顔を、やっぱり今もしていた。優しくて、何かを懐かしむような、遠くをみているような、そんな顔を。

「わたしを、見ていないって、そう思って、た。牽制、されてる、って」

「んーまあ、そういう意味もあったかもな。下手すりゃ叔父さんだろ。それはまずいしな。で、旭とは、どうするんだ。付き合うのか?」少しずつ、でも、確実に、たけちゃんは、近づいて、来ている。

「それを知って、どうするの」
「茉莉が、旭のことを本気で好きになったのなら、止めない。だがな、そうじゃないなら止める」
「娘だから」
「前なら、そうだったかもしれない、でも、今は違う」

 その言葉の意味を、とろりと蕩けたような強い目を、近づいてきたわたしとは違う硬い身体を、知りたくなってしまう。でも、それでも。

「わたしは、変えたいの」ピタリ、とたけちゃんは止まる。

「金魚は、もう金魚鉢には戻らない。もう、戻れない」
「米田さんか………あの人は」音を立ててたけちゃんは座り直した。

「たけちゃんに赤の他人だ、って言われてとても悲しい自分と、何処かでたけちゃんとのおかしな関係が解消されて、凄くホッとした自分がいたの。もう、ずっと一緒にはいられなくなるのに、それでも、もう苦しまなくていいんだって、我慢しなくていいんだって、押し付けなくっていいんだって」

「我慢、って」
「わたし達は、親子じゃない。親子じゃないのに、そんな振りしていた」
「それは」
「そんな関係を保たなければ、傍にいられなかった。でも、もう、そこには戻らない」

第十四話

「それなら、茉莉はこれからどうしたいんだ」
 これからどうしたいか、そう聞かれて少しだけ悩む。

「どうなりたいんだ」
 たけちゃんは無表情で聞いて来る。ずっとずっと抱き続けてきた望み。それは。

「わたしの夢はずっとたけちゃんのお嫁さんになることなの。ずっと小さい頃から、今だってそう。ずっと一緒に居たい。そして、いつかたけちゃんを見送るの、ばっちゃんを見送ったように」
 それが叶わないのなら、たけちゃんからは離れて生きていく。そう決めた。ずっとずっとたけちゃんの傍にはいたい。でも、もうあの奇妙な関係のままではいられない。素直な気持ちを伝えて駄目だったのならば、わたしはこの恋を、関係を手放す。

「お前さ、それは刷り込みだとは思わないのか。ひよこが殻を破って出た時に、初めて見たものを親だ、と思うあれだとは」
 たけちゃんはわしゃわしゃと頭を掻きむしって、苦々しい顔でわたしを見て来た。
「例えそうだったとしても、何か問題でもあるの?」
「あ………いや、だってな。もっといい男に出会えるチャンスをみすみす逃すんだぞ。これから年寄りになるおっさんに、寄り添ってどうするんだ」
「たけちゃんよりいい男に出会ったら乗り換える。でも今の所生きて来て、たけちゃん以上の人に出会ってないから、やっぱりたけちゃんがいい」
 多分これからも出逢わないような気はするけれど。そう思った言葉は飲み込んだ。

「確実に俺はお前より先に居なくなるぞ。それでもいいのか?」
「出来るだけ長生きして、としか言いようがないけれど、たけちゃん生命力ありそうだし、心配してないよ」
「俺、何かあったらお前に手を上げるかもしれない。大事に出来なかったら、不幸になるのは茉莉なんだ」
「わたし、毎日毎日しつこいくらい言うよ。『大好きだよ』って」


 あの日、家を出たいとじっちゃんと花おばちゃんに言った日、わたしはタブーかもしれないことを、シンプルに尋ねた。
「おばちゃんは、じっちゃんのこと、好きだったんでしょ。おじさんのことは、どう思ってたの?」
 おばちゃんは複雑そうな、それでいて寂しそうな顔になって、それでも答えてくれた。
「茉莉ちゃん、わたしはあの人に、大事なことを長いこと伝えないまま、だったのよ」
 じっちゃんは、そんなことを話し始めたおばちゃんの手を、そっと握った。暖めるように、まるで支えるかのように。
「染次さんのことはたしかに初恋でした。でもね、結婚が決まって、それが染次さんのお隣の家と知って、このままじゃいけない、と思って区切りをつけるために、染次さんに思いをぶつけたの。すきです、って」
 凄く寂しそうな顔をしたおばちゃんは、それでも笑った。
「染次さんはきっぱりと振ってくれて、旦那になるひとを大事にしろ、って言ってくれて。わたしはこれで振り切れたと思っていたのに、結婚したあの人はずっとわたしを疑っていたの。わたしはそれが長いことよく分からなくて、されることは恐ろしくて、悲しいこともあったわ。なのにそれでも、不器用な優しさを感じたりして、だんだんどうしていいか分からなくなって。
 たまに染次さんと顔を合わせた後に、激しくなる束縛に戸惑って、やっと嫉妬しているのかもしれないとは感じたけれど、それでもどうしたらいいのか、分からなかった」
 苦しい話を自分を励ましながら、じっちゃんに支えられながら、花おばちゃんはしていた。わたしは酷い。人の傷口を開くようなことをしている。そう思っても知りたいことだった。たけちゃんが恐れているもの、それは何。

「ある日耐えきれなくなって、もう毅を連れて出て行こうと思って、あの人に向かって叫んだの。もう、あなたのことを好きでいられなくなってしまう、って。そうしたらあの人、ぽかんとした顔して、好きでいてくれていたのか、って、驚いて。気の小さな人でしたから自信はなくて、それでも胸を張る態度を貫こうとして、ああなっていたようだと、わたしも漸く気がついて、何度も話し合って、恥ずかしい気持ちを押してあの人に伝えたの。あなたを大切に想っています、って」

 おじさんはそれからあまり手を上げなくなったようだ。回数はどんどん減っていって、素直な弱音も話すようになっていったらしい。でもそれを見続けて、たけちゃんは未だに恐れて、不器用に、誰とも関係を結べないまま生きて来た。

「あの人が亡くなる時、大切な人だと想っています、と伝えたら、初めて愛の言葉を口にしてもらって、それで全て報われた気がして。わたしにとって、あの人は一言では言い表せない人なの。大切で、憎くて、愛していて、大嫌いで、そんな人なの」
 長い長い話をおばちゃんは涙を浮かべながら、丁寧に教えてくれた。
「ありがとう、おばちゃん」

 その日の夜、わたしは布団を頭から被って、うんうん唸って、沢山の絡まった糸を少しずつ解いていった。
 最後に輪になっていた糸を解いた時、出てきた答えはとても単純なことだった。そして、思い出した。わたしは、どうしたいのかを。


「もういい、もうわかったって言われても、毎日たけちゃんに気持ちを伝えるよ。小さい頃、していたみたいに」
 いつの間にかそういうことを忘れてしまっていた。昔は素直な気持ちでたけちゃんが好きで、周りをうろちょろしていたのに、年を経る毎に複雑に難しく考えて、いつの間にかおかしな関係になっていた。
 そこに囚われていたのは、そんな関係に縋っていたのは、自分自身だ。

「たけちゃん、大好きだよ」わたしが笑って言うとたけちゃんはぬう、と唸った。
「お前は本当に、すとんと素直だなぁ」
「たけちゃんのお父さんにも昔、同じことを言われた」
「そんな話、してたのか」
「うん、たけちゃんのこと好きか、って聞かれたから、好きだよって答えたら、おじさんも言ってたよ。おじさんもたけちゃんが好きだ、って」その言葉にたけちゃんは顔を伏せた。

「泣いてるの?」
「泣いてねぇよ、うるせぇな、覗き込むな、四の字固めすっぞ」
 たけちゃんは何かを誤摩化したい時に横暴な振りをすることが、ある。いきなり顔を上げたと思ったら左腕を引かれた。
 身体を捻るような形になってすっぽりと腕に包まれて、いた。

「俺のとこに嫁に来い、貰ってやる」
 ちょっと湿ったような低い声が、身体から伝わってくる。
「いいの?」
「二回は言わないからな。もう言わないからな。もう一生言わないからな」
 早口で(まく) し立てるようにたけちゃんに宣言された。そんなの充分過ぎる。嬉しくて可笑しくて頬が緩む。
「うん、一生言わなくっていいよ。一回だけで」
 嬉しくて、深く息を吸い込んだ。触れている白衣からする濃い消毒液の匂いに目を閉じる。
 あっさりと、本当にあっさりとたけちゃんは受け入れてくれたように感じられた。でも、きっと沢山のことを考えてくれている。きっと。

「茉莉、ありがとな」そう言うと腕の力は強まった。
「う、く、くるし、」
 息は出来なくて、ちょっとだけもがくとたけちゃんは少しだけ力を緩めた。ほっとして息を吐いた途端に素早く口を優しく吸われて、いた。
 目を閉じる暇もなく、何が起きたのか分からなくて、でも一度、唇から音を立てて離された後にぐっ、と体が逸らされて、重くて濃い口づけがいきなりやって来た。
 あまりにも素早すぎる、そう思って気がついたら、早鐘のように煩く鳴り続ける左の膨らみを、大きな手がやわやわと触れている。
 止めたくて抗議の声を上げようとしたら、喉の奥から意味のない甘い、甘い声が出て、そんなことに驚いて恥ずかしくなって、目を閉じる。身体は緊張でどんどん固く、なった。
 もうどうしたらいいか分からない。何が起こっているのかも。ソファーにそのまま倒されそうになって、途中でたけちゃんは動きを止めた。小さく、スマホが着信を知らせている。

「たけちゃ、な、なって、る」勢いは弱まったけれど、唇は離れなくて、それでもなんとか声を上げた。
 ほんの少しの間、たけちゃんは黙ってそっと離れると、ポケットからスマホを出して話し始める。
 ぼんやりしながらふと視線を下に降ろしたら、チュニックの前のボタンは全部開けられていて、ブラジャーのホックも外されて、いた。慌ててボタンを震える手で止める。余計なことしかしないおっさんだと思っていたのに、油断ならないおっさんでもあったようだ。

「まーりー呼び出しくらった……」
「いってらっしゃーい」
 上ずった声でそう言ったら、じっとりとした視線で睨まれる。そんなに睨まなくてもいいのに。
「何で今なんだよ、俺、何かしたか」
 ふがーと言いながら怒っているけれど。
「日頃の行いがねぇ」
 つい心の声が口から出てしまって、更にたけちゃんに睨まれた。

「あーもー行ってくる。お前帰るなよ、いろよ、分かったか」
「え、わたし明日も仕事だから一緒に出るー」
 そそくさと帰る用意していたら、腕を掴まれた。
「いいから、居てくれ」
 真剣にわたしを捉えようとしている、男の人の目の力強さに、耐えらそうにない。頬は熱くなる感覚が、する。

「たっ、たけちゃん、夢叶えてみたら、夢!」
「あぁ、何言ってんだお前」
「今なら結婚初夜に処女と、って夢叶うんじゃない。夢は叶えた方がいいよ。一生に一度だしね、そーしてー」
 そう言うとたけちゃんは珍しく顔を赤らめた。するり、と腕の力は抜かれてその手は目頭を押さえている。
「旭め………あいつ次会ったらシバくっ……」
「そう言う訳で、そんな方向でよろしくお願いしますっ」
 そう言って脱兎の如く逃げ出した。あんなの、あんなの心の準備が無かったら、心臓は停止してしまいかねない。まあ、その時はお医者さまとしてなんとかしてくれるだろうけど。



「なあ、嫁に来る前に一度くらい泊りに来てみたらどうだ」
「結構です。油断ならないおっさんだと分かったので」
 さっきからちゃぶ台の周りを、一定の距離を保ちながらグルグルと二人で回っている。たけちゃんが横にずれるとわたしも間隔を開けて、そうやってグルグル、グルグルもう何周目なんだろう。

 あれからたけちゃんは次の日にはもう家にやって来て、じっちゃんと花おばちゃんに深々と頭を下げて『茉莉さんを下さい』といい、じっちゃんの拳骨をくらっていた。
 そんなことを思ったことはなかったが、じっちゃんはどうやら、孫バカだったらしい。慌てるわたしに花おばちゃんは『誰が来たって染次さんはああしますから、大丈夫よ』とこっそり耳打ちしてくれた。

 熱意のあるたけちゃんの仕切りで、結納は年が明けた来月に、結婚式は真吾くんの神社で、春にすることに決まっていた。そう決まったのに、たけちゃんはしつこい。

「このままじゃ確実に痛い目にあうんだぞー。こう、慣らしてな、馴染ませるのも大切だな。手伝うから、泊りに来い」
「セクハラで訴えるよ、あまりしつこいと。それよりサンタさんのひげは、もっとふわふわになるように切って?」
「ハイ」
 じっちゃんと花おばちゃんは今、東銀座の歌舞伎座へ行っている。その隙に、と思ったのか、たけちゃんは昼過ぎからやってきて、お泊りの重要性を切々と訴えているけれど。早く2人とも帰ってこないかな。なんて言うか、とっても貞操の危機を感じる。
「っていうか、セクハラで訴えるって何だよ。お前、俺は婚約者だぞ」
 たけちゃんはサンタさんのひげを切りながら叫ぶ。
「たけちゃん、夢は叶えた方がいいよ。その方がイイ」
「分かったような口きくなっ」
「だって、わたしは夢叶えてもらって、とっても幸せだから。たけちゃんの夢も叶えてあげる」
「あー俺の敵は俺だな。もう大人になって余計なことは言わねぇ」
 じゃきん、とサンタのひげは切り落とされた。
 その通り、たけちゃんは余計なことは、言わない方がいいよ。

 本当は、もうそんな覚悟はとっくに出来ている。でもずっと、ずっと追いかけ続けてきて、ここへきて追いかけられる楽しみを知ってしまって、喜んでいる自分もいる。
 春までのお楽しみだもの、ちょっとだけ味わせて欲しい。それに、たけちゃんは本気でしたい、と思ったらすぐに色々なことも飛び越えてくるだろうし。

「たけちゃん、大好きだよ」
 面白くなさそうな顔でぶーたれているたけちゃんに言うと、
「茉莉よ、それ免罪符にしてるだろ、あ、そうだろ」
 無表情でちょっとだけ喜んでいる。
「ううん、してないよ。言ったでしょ、嫌がられても、もういい、って言われても大好きだよって言うの」
「あーおっさん手玉に取って何が楽しいんだ。俺、ほんとチョロいな」
 嬉しいなら、嬉しいってそう素直に言えばいいのに。

 ちゃぶ台の向こう側から腕をぐっ、と引かれて、もう片方の手は頭の後ろへ回された。何度かちゅ、と音を立てて軽いキスの後、躊躇いなく濃い口づけがやって来る。やっぱり、飛び越えてやって来た。

「いーやーお二人さんお熱いこって。居間であっつーいチッス。そめちゃんには内緒だな、こりゃ」
「みちおじさんっ」
 急いでたけちゃんから離れると今更、古臭いチャイムの音が鳴った。遅いっ、本気でチャイムは直さなきゃいけないかも、と思いながらも頬が熱くなる。
「おいさん、邪魔すんなよー今良い所だったのにな」たけちゃんは本気で悔しそうだけれど。
「うっひょ、たけは茉莉ちゃん捕まえてハッスルか。鈴木医院は安泰だな、こりゃ」
 黒いナイキのつば付き帽子の下の、みちおじさんの顔はウキウキしている。もうヤダ、このおっさん達。

「まあ、今日は朝日杯、大穴で勝ったからな。茉莉ちゃんに、婚約記念のプレゼント持ってきたーこれ食って子作りに励めっ」
 新宿のデパートの紙袋を、みちおじさんは差し出してくる。最後の一言は余計じゃないの。
「あ、ありがとうございます」
 受け取ると、そんじゃーなーと言って、みちおじさんはウキウキと店を出て行った。
「何くれたんだ、おいさん」
「あ、ええとね、牡蠣と………山芋」
 紙袋の中にはビニール袋に立派な牡蠣と、これまた立派な太めの山芋が、新聞紙に包まれていた。
「言葉通りだなーおいさんは。じゃあ、今日はこれ喰って励むか。茉莉」ニヤリとたけちゃんは笑う。

 やっぱり油断ならないかも、このおっさん。じりじりと近づいてくるのを避けて台所へ行くと、牡蠣はチルド室、山芋は野菜へそれぞれ入れて、扉を閉めた。

第十五話

 明けましておめでとうございます、頂きます。そう挨拶して元日の朝ごはんは、我が家定番のお雑煮をちゃぶ台の上に四人前並べ、それぞれがお椀を持ち上げた。
 お餅が大好きなたけちゃんは、欲張って三個も大きなお椀へ入れるよう言い、盛り付けの段階でわたしの後ろをうろちょろ動き回り、受け取ると大喜びしながら居間へ運んで行った。
 大晦日の日は患者さんからの呼び出しもなく、じっちゃんと紅白歌合戦を見ながら天ぷらそばを堪能し、ゆく年来る年を見て、何故かわたしの部屋へ姫はじめ、するかとご機嫌で乱入してこようとしてじっちゃんに拳骨をくらい、渋々帰って行った。
 不貞腐れるかと思いきや、たけちゃんはそんな出来事を一晩で忘れて、元旦からハイテンションでやって来て元気一杯だ。
「餅、美味いなーこの薄っすら焦げている所が、また美味いな」
「たけ、元旦から気持ち悪い笑い方しながら、伸ばして餅を喰うのは止めろ」
 胡座をかいてお雑煮の餅をみよーんと伸ばしているたけちゃんへ、じっちゃんは鋭いツッコミを入れた。
 結婚が決まってから、たけちゃんはいつも上機嫌で、反対にじっちゃんはいつも不機嫌だ。
 孫バカと判明したじっちゃんは、ウキウキしているたけちゃんへ何かと辛口コメントを出しているが、そんなの全然聞いちゃいない。
 おっさんとじっちゃんのさや当ては最初ハラハラし通しだったのだが、今ではすっかり慣れてきて、まるで空気のようになってきている。
 花おばちゃんもそれは同じらしく、余りに激しい罵り合いをしない限り、笑いながら無言だ。
「おっちゃーん、餅は伸ばしながら喰うのが最高なんだ。キシシ」
「たけよ、おめぇ、頭ん中花畑でめでてぇが、そんな調子で仕事はきっちりやってんのかい」
「やってる、やってる。いやー年末のインフルエンザ大流行には参ったな。その前に診察予約のシステム導入したから、あんまり具合悪い中、待たせないで済んだが、俺たちゃ、目が回りそうだった」
 たけちゃんはしみじみ言う。インフルエンザはわたしの勤める保育園でも猛威を振るい、たけちゃんの医院の来院者は、ご年配からちびっこまで勢ぞろいして大盛況だったらしい。
 そのせいなのかクリスマス、と言う行事は、ものの見事にたけちゃんの中でスルーされ、その頃うちに来ない日も多く、会ったとしてもクリスマスのくの字も出なかった。
 まあ、そんなの期待していなかったし、うちもたけちゃんちも神社の氏子だし、ね。
 それにしても医院の新しい診察予約システムは、中々評判が良いようだ。自宅で携帯やパソコンからアクセスして予約を取り、順番が近づいたらメールで知らせるようで、ネット環境にないお年寄りのためには電話予約も始めて、いつ頃来院したらいいか教えてくれる。対応の早い病院では結構前からあるシステムだが、たけちゃんの医院はご年配の通院者が多く、二の足を踏んでいたようだった。
 最近はいつ行っても待合室は空いていて、それが逆に二次感染を防いでいて良いらしい。まあ、年中健康体のわたしには、余り縁の無い話だった。
「茉莉、飯食ったら初詣にでも行くか」
「えっ、いいの。たけちゃん」
「遠い所は無理だな。真吾のところなら、まあ行ける」
「あそこも最近じゃ、パワースポットだかなんだかで、正月も物凄く混んでいるなぁ」
 じっちゃんはキシシ、と笑う。軽くじっちゃんを睨みつけるようにすると、慌てた様子の花おばちゃんはおっとりとした口調でこう言った。
「朝早い時間帯は、参拝の方もそんなにいらっしゃらないし、混んでいないようですよ。真吾さんがこの間お家賃を届けて下さった時に、そんなお話をしたの。二人で仲良く行ってらっしゃいね」
「ありがとう花おばちゃん。たけちゃん、食べたら直ぐ出掛けられる」
「あー、そうだな、早目に行くか」
 たけちゃんが頷いてくれて、嬉しくなる。二人で出掛けたことなんて、今迄ほぼ無かった。クリスマスもスルーだったし。
 話すことといったら、ここしばらくは現実的なことのみ。披露宴どうする、とか、どの位出席をお願いする招待状を出すか、とか、細かい諸々を確認しあっている。顔を合わせる度に、現実感溢れる話ばかりなのだ。
 結婚式って、もっと心ときめくものなのか、と思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
 たけちゃんは医院を背負っているし、わたしも働いている。披露宴はこじんまりと、親戚と、お世話になっているひとと、友人で、とお互い意志確認して決めた。でも、それでも結婚式は決めることが多すぎて、大変だ。

 花おばちゃんとお椀を洗い、急いで二階へ上がるとコートを壁掛けから取って、お出掛け用のフェルトのバックへスマホや財布を放り込むように入れた。
 やだな、顔がにやけてしまうよ。ご近所でよく知った場所へ初詣へ行くだけなのに、たけちゃんと一緒に行けるという、その事実に浮かれてしまう。
 お化粧は今朝薄くしたが、もう一度手鏡で顔を見ると、学習机の上に置いてあるメイクボックスから淡いピンクのグロスを取り出して、ほんのりと唇へ付けた。少しでも、たけちゃんにはよく見られたい、という女心。
 メイク用の大きな置き鏡で纏めた髪を直しよしっ、と独り言を呟いた。

「お待たせしました」
 たけちゃんは勝手口の横で待っていてくれていた。臙脂(えんじ)色のダウンのポケットに手を入れて、寒そうな顔をしている。
「いやー意外に今日は冷えてんな。さみいわ」
「たけちゃん、手袋はないの」
「ああ、ポケット入れときゃいいだろ。別に困らないしな」
「持ってないの、手袋」
「あーどっかにあるだろ」
 探すの億劫なのね、たけちゃんらしいと言えばらしいけれど、手袋が無いと色々とわたしが困る。
「もう、今度探しに行くから、手袋」
「あ?いや、来月からうち、リフォーム入れるからな。めんどいからいいぞ」
「はぁ?」
 リフォーム、って、リフォーム……どうして、そんなことを。
 多分、今、わたしの顔はポカン、と口を開けて間抜けだろう。でもリフォームって、どういうことだ。
 そんなわたしの様子など気にも留めていないたけちゃんは、ちょいちょいと、ダウンのポケットから手招きしてぶるり、と一度震えると先を歩きだした。

「まぁ、うちも相当古いんだが、二階と三階はじーさんの代で建て直した時のままなんだよ。医院は何年か前に耐震補強と内装工事したんだが、二階と三階は手付かずでいたからな。お前も来るしいい機会だから、お願いしたんだ」
 細い路地を並んで歩きながら、たけちゃんはそんなことを言い出した。
 どうして、そんなことを言わないでいたの、隣にいる横顔を睨みつけると、たけちゃんは途端に慌てた顔になった。
「どうして、相談してくれないの」
「いや、だってな、お前、あの家古すぎるだろ。よく分からんガラクタも多いし、いい機会だから使い勝手いいように変えた方がお前も過ごし易いだろ、台所だって昔のだから使い勝手悪いらしいし、家具も処分して新しくするつもり、なんだ、けれど、な」
 たけちゃんは、わたしの睨みでたじたじになっている。それは大変有難いことだ、でもそんなにホイホイ、簡単に決めていいのだろうか。
 何て言うか、結納も結婚式もたけちゃんがあっさり決めてしまって、更にリフォームまで。これでは先が思いやられる。
「たけちゃーん。お願いだから、そういうことは二人で決めたい」
「茉莉はしなくていいって言うだろ。こういうのはタイミング逃すと、出来ずに終わることが多いんだぞ。茉莉と新しい家で暮らしたいんだから、いいだろ、な」
「………これっきりだから。次内緒で何か進めたら、奥歯ガタガタ言わせるから」
「こえぇっ、茉莉様こえぇよ!」
 茶化したような回答に、思いっきり睨みつけたら、たけちゃんは目を逸らして首を強張らせた。

 神社の石の鳥居の前でお辞儀して、砂利が敷き詰められた道の端を並んで歩く。まあ、年の差は親子程あるし、収入もあるだろうし、たけちゃんが大丈夫って言うのだから金銭的にも大丈夫なのだろう。でも、そういうことは、一言相談されたかった。
 わたしは、たけちゃんに庇護されるために結婚するんじゃ、ないんだよ。そっと隣を歩く人の横顔を眺める。
 いいと思うことには瞬発力が発揮されるたけちゃんは、何事も決めるのが早い。でもわたしにも相談してくれるように、これからは言い続けて行かなければならないのね。結婚って、大変だなあ。

 手水舎でちべたいっ、と叫んだ、たけちゃんにハンカチを貸して門をくぐると、お参りする拝殿まではびっしりと参拝客が並んでいて、左右に警備員さんが立ち、拡声器を使って誘導していた。
「いやーやっぱ混んでるな。茉莉、離れるなよ」
「うん」
 わたしたちの後ろにも、続々と参拝のお客さんは並んで、あっという間に満員電車のような混雑になる。離れないように、臙脂色のダウンをギュッ、と握った。
 本当は手を繋ぎたい。昔はよく繋いでいたような気がするのに、その感覚はとうの昔に置いてきてしまった。
 たけちゃんの両手は変わらず、ダウンの中だ。気がついて、くれないかな。無理かな。横顔を見やるとご機嫌で鼻歌まじりのたけちゃんは、そんなわたしの視線は少しも感じていないようだ。ニブいな、もう。
「たけちゃん、あのね、手」
 小さな声で言った途端、何だか気恥ずかしくなってきて、妙な所で言い切ってしまった。
「手?」
 怪訝そうな口調と共にこちらを見てくる、その視線と合わせることが出来ず、俯く。
「繋ぎたい」
 小さく言うと、たけちゃんは左手をポケットから出して、ダウンの裾を握っていたわたしの右手を取り、手袋を外してしまってから握り締め、そのままダウンのポケットに入れた。
「茉莉の顔が真っ赤で乙女に見えるな、キシシ。あーあったけーな、おい」
「おっ、とっ、め、じゃない」
「お子ちゃま体温だなあ。こりゃ、いい行火(あんか)だな」
 たけちゃんの実に嬉しそうな声を聞いて、ひんやりとした武骨な手を握り返す。人混みの中で手を繋ぐ事をせびって、妙に照れてしまうような雰囲気を作ってしまい、少しだけ後悔したというのにたけちゃんはお構いなしでいる。
 それが嬉しかった。繋いだ手は次第に暖かくなって行き、お参りする場所まで辿り着いた頃には、同じ体温になっていた。

 たけちゃんと末永く、ずっと一緒にいられますように。皆が健康に日々を過ごせますよう、見守って下さい。そんな願いをこころの中で呟いて、目を開けて隣を見ると、たけちゃんは真剣な顔で目を閉じて、まだ手を合わせていた。横で待ってみた、けれど……長い、なあ。願うことがどれだけあるのだろう。
 混雑している中、そこに留まるのも躊躇われて、一礼するとそっと脇に逸れた。

「あ、茉莉さん、明けましておめでとうございます」
「真吾くん、明けましておめでとうございます。忙しそうだね」
 人、人の波に押されて結局、門の側まで戻って来たら、足早に通り過ぎようとしていた真吾くんがこちらに気付いてくれた。じっちゃんの結婚式の時のような、平安時代の貴族みたいな格好をした真吾くんは、腫れぼったい目をして、口調も虚ろだ。
「昨日、今日は徹夜だよ。まあ、正月ですから。茉莉さん一人で来たの」
「ううん、たけちゃんと」
「あー、ご婚約おめでとうございます。うちで式、挙げてくれるんだもんね」
「そう、たけちゃんが決めたの」
「相変わらずだね、あの人は」
「真吾ちゃーん、あけおめ」
 いきなり後ろから現れて、たけちゃんはがっつりと真吾くんの肩に腕を回した。でたっ、と叫んだ真吾くんは嫌々たけちゃんを引っ剥がそうとするけれど、そこまで力は入らないようだ。
「なんだよお内裏様みたいな格好してよ。お雛様はどこ行ったんだ」
「朱里なら、授け所にいるよ。正月、神主が正装するのは当たり前です。今日は忙しいんだから、先生放してくれない」
「なんだよ冷てぇな。年末インフルエンザになったくせによ」
「……その節はお世話になりました。もう大丈夫です」
「巫女ちゃんに看病してもらったんだろーふう、ふう、お粥アーンとかやったのか、あ?」
「や、やる訳ないだろっ、先生、もう帰りなよっ。正月からテンション高くてついていけないよっ」
 いきなり真っ赤になった真吾くんは、上擦った声を上げ身体をよじって、もがき出した。たけちゃんはお構いなしに肩に手を回してニヤニヤしている。頑張れ、真吾くん。心の中で応援してみる。
「先生だって、これからは茉莉さんに看病してもらえるんでしょ、いいじゃんか」
「医者が寝込んだらおまんまの食い上げになるんだよ。ど阿呆め」たけちゃんはそう言うと、真吾くんの首をギリギリ締め付けだした。
「っていうか、茉莉さん、この人、どうにかしてっ、地味に、締めて、きてるっ」プロレスラーがギブアップをする時のように、真吾くんはたけちゃんの腕を叩いている。……仕様がない。
「たけちゃん、真吾くんは今日も徹夜なんだって、止めて」
「……ハイ」
 渋々たけちゃんは真吾くんから離れた。全く世話が焼ける。げほげほとむせて、涙目になった真吾くんは、軽くたけちゃんを睨んで言った。
「お二人はこれから何処か行くの」
「んにゃ、帰るぞ。さみぃからな」
 なんだ、帰るのか。もう少しだけ二人で居たかったような、それを言い出せないような、もじもじと落ち着きがない。
「そうなんだ、あの、実はお願いしたいことが」
「あ、お稲荷さまのこと?」
 申し訳なさそうな声で真吾くんが言った言葉にピンと来た。たまに神社の行事が忙しい時に、近所にある小さなお稲荷さまの掃除を頼まれることがある。
 わたし達が住んでいるのは、江戸時代には御三卿の下屋敷があった所で、その中に祀られていたお稲荷様が未だに残っている。数年前、じっちゃんやみちおじさんを含むご町内の人が建て替えを話し合い、わたしの勤める保育園の横に小さなお社を建立した。
 管理は主に真吾くんの神社がしてくれている。その上で大事なお稲荷さまをご町内の人々も、当番制で見回り、清潔を保てるようにしていた。
「お願いしていいですか。供物も取り替えてもらえると助かります」ほっとしたように、真吾くんが笑う。
「いいよ、帰り道だしね。お家賃持って来てくれた時に言ってくれたら良かったのに」わたしも笑った。
「いや、本来は僕がやることなんで。ありがとうございます、今、供物持ってきます」
 そう言って、真吾くんは人の波を縫うようにして、社務所へ向かっていった。ふ、とたけちゃんを見ると、ぶーたれて面白くなさそうな顔をしている。珍しい。
「たけちゃん、どうしたの」
「ああ?なんでもねぇよ。なんでも」
「止めたの、嫌だったの」
「ちがわい、うるせーな、黙ってろ」
 一体どうしたと言うのだろう。いきなりのご機嫌斜め、理由は分からないけれど、ちょっとだけ気持ちを持ち上げてみることにした。
「たけちゃん、来年も一緒にお参り、しようね」
「なんだよいきなり」
 じっとりと睨まれたけれど、反応はいい。良かった、そこまで怒っているんじゃないようだ。
「ずっと、ずっと一緒にお参りしようね。二人で」
「………増えるかもしれねぇぞ。人数は」
「そうなれたら、嬉しいよね。賑やかになるし、皆喜ぶもの」
 そうわたしが言うと、たけちゃんは一瞬だけ顔を緩めて、また何時もの無表情に戻った。

第十六話

「茉莉、お前仕事どうすんだ。辞めるか」
 お稲荷様への供物が入った白い紙袋を腕首に掛けて、ポケットに手を突っ込んだままのたけちゃんは、新宿通りの幅広い歩道を前を見て歩きながら聞いてきた。
「えっ、いきなり何を言い出すの」
「どうすんだ、って聞いてるんだ」
 思わず眉間に皺が寄った。たけちゃんの真意は分からない。まあ、でも長いこと一緒にいると、たけちゃんがどんな答えを求めているかは、分かっている。
「まだ就職して三年目だし、一番下っ端だし、たけちゃんが良いって言ってくれるなら、まだ働きたい、と思って、いるよ」
「そうか」
 そうやってあっさりとした声で、たけちゃんは了承した。わたしが心から思った事を話したと感じ、それを受け止めた、そんなことをわたしも感じる。
 小さな頃から問われたことに対して、誤魔化したり大袈裟に話してみたり、果ては困って嘘をつく、といったことをたけちゃんはすぐに見破ってしまった。
 本当にそれが茉莉の望みなのか。そう心にもないことを言うたびに、真剣な目で問われた。
「たけちゃんは、お嫁さんは家に居て欲しいと、思うの」
 そう聞くと、たけちゃんはこちらを意外そうな顔をして、向いた。そんなことは微塵も思っていなかったようだ。
「茉莉が辞めたいって言うのなら養うし、働きたいって言うのなら、共働きで協力し合うだけだろ。まあ、チビが上手いこと産まれたらまた休むのか、辞めるのかその時決めたらいい」
「じゃあ、どうして今」
「いや、入籍を何時にしたらいいかな、と思ってな」
 ああ、そういうこと。結婚式の諸々を決める方が忙し過ぎて、入籍のことなんてすっかり忘れていた。
「仕事を続けるのならば、新年度前の方が何かと都合がいいだろう。逆に辞めるのならば結婚式辺りでいいだろうしな」
 そう言うとたけちゃんは、ポケットからスマホを取り出した。そして何かを検索すると、いきなり六曜のカレンダーらしきものが表示された画面を、こちらへ向けてきた。
「三月の、ここか、この日辺りでどうだ」
「………あのね、たけちゃん。ここね、新宿通り」
「あ?そんなこたぁ、知ってるぞ」
「しかも、今日は、元日」
「どの店も門松やら、正月飾りやら出してんだ。んなこたぁ分かってる」
 確かに何時もより人通りは少なくて、シャッターが降りて居る多くの店先には、正月飾りが寒風に揺れている。お店が開いているのは、たけちゃん行きつけのコンビニ位だ。
「いやいや、そう言う意味じゃなくてね、どうして、今、こんなに急に言い出したのかな、って」
 そう言うと、たけちゃんはむっつりと黙った。どうやら何かの核心をわたしは突いたようだ。話して、と目線で促すとたけちゃんは面白くなさそうに呟いた。
「いや、何と無く、だ」
 何と無くでそんなに余裕なくスマホ出してプレゼンしないでしょ。一瞬でそんなツッコミが頭をよぎったけれど、このおっさんは人には素直さを求める癖に、自分はそれが出来ないのはよく知っている。
「そーなんだー、てーっきりわたしは、早く可愛い茉莉ちゃんと暮らしたいんだと、ばーっかりおもってたー」
 ちょっと茶化して、棒読みでニヤニヤしながら言うと、何とたけちゃんは目を逸らして、顔を赤らめた。何だ、その反応。一番遠いだろうと思われることを言って、ちがわい!と返ってくると思っていたのに。
「たけちゃん」
「うるせぇ、ジャーマン・スープレックスすっぞ」
 キシャーとよく分からない叫び声を上げながら、ゾンビみたいな手つきをしてたけちゃんは、いきなりわたしを走って追いかけるようにしてきた。一応ひゃーと言いながら逃げる。
 なんだ、そうなんだ。当てずっぽうが嬉しい形で本当のこと、と知らされて、逃げながらも顔が緩む。嬉しいな。お年玉を貰った時よりも、嬉しいかも。

「流石に、運動、不足だな。走って、こんなに、息、上がっと思わんかった」
 ぜいぜいしながらたけちゃんは、お稲荷様の前で前屈みになり、両膝へ両手を置いていた。
「あれ、筋トレしてるって、あんなに胸張ってたのに」
「いや、走る筋肉と筋トレで鍛える筋肉は違うんだな。ちと、ランニングとかもしなけりゃならねぇな、こりゃ」
「いいんじゃない、そこまでしなくっても」
「いや、走る。今年からランナウェイだ」
 ドヤ顔でなんだか頭の悪い、しかも意味が全く違うことを胸を張って宣言するたけちゃんを、呆れて見やった。本当に医学部出たのかな。患者さん、大丈夫かな、こんなので。
「よし、掃除して、お供えして、お参りして帰るぞ」
「じゃ、たけちゃん掃除で」
 小さな鳥居の横に置いてある、縦型の掃除用具を収納ボックスからダイヤル錠を解除して箒を取り出し、渡した。
「何で茉莉がお供え役なんだよ。真吾の奴、散々脅しやがって」たけちゃんはブツブツ文句を言っているけれど、ねぇ。
 紙袋を渡しながら、真吾くんは真剣な顔をして言っていた。

 あそこのお稲荷様は女子大好きなんで、お供えは絶対に、茉莉さんがしてください。先生は掃除で。

 真吾くんはたけちゃんに真摯な態度で掃除しなければ、機嫌損ねるよと散々脅していた。そういう神様の存在が見えるらしい真吾くんは、どうやらここのお稲荷様とは仲良しのようだ。
 たまに通りすがると、真っ赤な顔をした真吾くんがお稲荷様へ向かって怒っているのは、まあほぼ毎回見る。でも管理はきちんとされているし、いつも清潔でここは小さい御社なのにとても清々しい空気に満ちている。
「仕方ないでしょ、余り文句ばかり言っていたら、罰が当たるよ」
 そうたしなめると、ぶーたれたままのたけちゃんは、不器用な手付きで狭過ぎる境内と、前の道の枯葉を掃き始めた。
 その間に供物台を清めてお酒や塩などを取り替える。今日はお正月だから特別に、と真吾くんに説明されたお寿司の方のお稲荷さんも供えた。
「こっちの絵馬の下っ側も、掃けばいいのか」
「あーうん、お願いします」
 わたしの返事を聞いてたけちゃんは、御社の左側の落ち葉が溜まっている箇所も箒で掃いてくれている。そんな様子を見ていたら、何と無く視線を感じて、御社のお隣のマンションに視線を移した。
 すると角の部屋の窓から、こちらを伺っているような白髪で年配の女性と目が合った。少しだけ会釈すると、慌てたようになったその人は、笑って誤魔化すような表情の後、カーテンを引いてしまった。首を傾げているとたけちゃんは顔を上げ、眉間に皺を寄せた。
「どうした、茉莉」
「……んー、こっち見ていた人がいて、頭を下げたんだけれど、部屋に戻ったみたい」
「……ふーん、そうか」
 そんなことには興味は無いようだ。たけちゃんは塵取りで枯葉を取り集め、やっと終わったな、と晴れ晴れとした笑顔を見せた。

「よし、お参りも終了、帰るぞー」
 掃除用具を片付けて、またもや思いっ切り長いたけちゃんのお祈りを見守り、カラスに狙われないようにお寿司のお稲荷さんを片付けると、たけちゃんは嬉しそうに叫んだ。
「よしよし、帰るぞ、ほいほい、帰るぞ」
 あっという間にたけちゃんはわたしの右手と繋いで、そのままポケットへ入れると早足で歩き始めた。
「ちょっ、そんなに早く帰りたいの」
 わたしはもう少しだけ、二人っきりで居たい。それを願えばよかったと後悔しながらも、早足のたけちゃんへ着いていくのがやっとだ。
 ご機嫌なたけちゃんは、鼻歌まじりに保育園の白い塀に沿って、わたしを引っ張り歩く。角を曲がりかけた時に、行く先を見て前を歩いていたひとはピタリと止まった。そして繋がれていた手は、するりと離されてしまった。
「ああ、先生。明けましておめでとうございます。……何処かお出掛けでしたか」
「明けましておめでとうございます。ええ、初詣に、ちょっと」
 保育園の前を歩いていたらしい小太りの男性は、たけちゃんの姿を見ると少しだけ驚いた表情を見せて、それから愛想笑いをしながら話し掛けていた。たけちゃんは何時もとは違った静かな声で答えて、言葉を濁した。
「へぇ娘さんと、ですか。いいですねぇ、それじゃ、私はこれで」
 ちらっとわたしを見ると、そのひとは薄笑いを浮かべて返事も聞かず行ってしまった。
「今の人、知り合いなの」
「あー、患者さん、だな」
「……それだけ?」
「それだけ、って、何だ」
 歯切れの悪いたけちゃんの言葉と、さっきの見下したようなおじさんの反応が、どうしても気になった。でも、相手が患者さんだと突っ込んでいいのか迷う。わたしもそうだけれど、職務で知り得た情報はおいそれと口に出してはいけないからだ。たとえ家族だとしても。
 しかしわたしには、あのおじさんの笑い顏は、悪意と侮蔑が滲んで見えたのだ。何だか嫌な予感。
「何だよ、睨んだって何も出ないからな!出るのは屁くらいだ」たけちゃんはそう叫ぶと、今度は乱暴に腕首を掴んだ。
 たけちゃんは何かを誤魔化したい時に横暴になることはある、けれどちょっと待って、どうしてそんなおっさんくさい発言をするのか。
「たけちゃん、お下品」
「いいから、帰るぞ。そしてうちに来い」ぐい、と引かれて歩き出す。
「えっ、なんでっ」
「なんでも、だ」
 そう言うとたけちゃんは保育園の向かいにある、医院へ続く冷えた路地を力強く引いて歩いて行く。わたしの足が縺れて文句を言っているのも、聞かないで。

 そうして、あっという間にわたしはひんやりと冷え切って乱雑なたけちゃんの家の、二階の和室に何時も引きっぱなしであろう布団の上で、唇を喰まれている。背中に回された両腕でがっちりと抱き竦められて、直ぐに舌は深く入れられた。
 やだあ、やだやだぁ、と叫んでみた。でも、大丈夫、大丈夫だから、とよく分からない説得を受けた。大丈夫じゃないって、と怒ったのに、たけちゃんはまあまあ、直ぐに良くなる、なあ、なっ、とまるで悪代官のようなことを笑いながら言って、早業でコートを脱がせてしまい、長い、長すぎる口付けを熱心にしている。
 寒いのか、熱いのか、よく分からない、ああ、グロス、落ちちゃう。
 貞操の心配よりもグロスの心配って、どうなの。それより、走って汗臭いかもしれないのに、今は嫌だな。
 次々によく分からない、それでいてとりとめのないことが頭の中をよぎって行く。
 なんて言うか、初めてってもっと、ろまんちっくでもいいんじゃないの。たけちゃんにそんなものがあるとは思えない。でも、四十三のおっさんが高校生男子のようにがっついているのって、どうなの、そこん所どうなの。そんなことを思っていたら、たけちゃんの匂いのする布団へ身体は倒された。
「たっけちゃ、ん、せめて、お風呂っ」
「………風呂、ってか」
 クラクラした頭から喉を伝って、口にした言葉は、思いがけず甘いささやきになった。それに応える至近距離で呟くような低い声に、心臓はドキリと大きく鳴った。
「諦めろ、後でたんまり入れてやる」
「やだぁ」
 良く知っていると思っていた、目の前の男のひとは、見たことの無い表情を浮かべて目を細めた。やっぱり、するんだ。そう思った瞬間、たけちゃんは布団をわたしたちの身体を包み隠すように、掛けた。
 寒いからな、そんなささやきにぞくりとして、わたしはこのひとと交わるのだと、やっと悟った。

第十七話

 恋い焦がれていたひととの初めてのセックスは、なんだこんなものか、と感じた。しかし同時にとんでもないことだ、とも感じた。分かっていたけれど改めて思ったのは、たけちゃんは女のひとの悦ばせ方をよく知っているということ。でも、そんな事実はわたしの悦びにはならなかった。この硬い胸の下に入れられて、わたしのようにあられもない声を上げさせられて、足先をピンと伸ばして、蕩けるような時間を誰かが過ごしたのだ、と思うとこころの片隅にある、黒々とした何かは揺れた。

「どうした、キースへリングみたいな恰好して」
 両腕を上げて横たわっているから、そう言うんだろう。わたしを疲れさせたそのひとは、にやにやしながらパンツ一丁でコップ持って見下ろしている。っていうか、パンツの柄がどうしてヒヨコなのか突っ込むべきなの。
「水、飲むか」
 微かに頷くと、ぐちゃぐちゃに掛かっていた布団を震える腕で押さえて、起き上がろうとした。何故か身体に力は入らず、頭はぼんやりしたまま、唸り声が思わず出て眉間に皺が寄る。そんな様子をにやにやしながら見ているたけちゃんは、わたしの身体を起こしてくれ後ろから抱きしめると、そっと手にコップを持たせた。
「茉莉の匂いがする」
 飲んでいた水は、その言葉で喉の気管へ深く入り込んで、思いっ切りむせた。いきなり何を言い出すんだ。笑うような気配が後ろからして、コップはそっと取られ、背中は大きな手でさすられた。
「それって、臭いってことなの」
「いや、何だろうな。お前は日向のにおいがするんだよな。何て言えばいいのか分からん」
「ひなた」
「落ち着く匂いだ」
 そう言ってたけちゃんは、わたしの首筋に顔を埋めた。大きな手は何時の間にか、ふにふにとささやかな胸を揉んでいる。
「柔らかいなぁ」
 そんな感想を、一々言わないで欲しい。こころの隅にあったどす黒いものは、のんびり話すたけちゃんの言葉で霧散していった。嬉しそうにしているわたしへの触れ方で、くすぐったいような、落ち着かない、甘い、そんな気持ちになる。
「結婚初夜に処女とする夢は、よかったの」
「処女と姫始めするのも、オツだろ。あんなにプルプル震えて、茉莉ちゃんは乙女だったんだな」
 からかうような言葉を耳元で囁かれ、ぞくりと身体は自然に震えて、体温は上がっていく。
「たけちゃん、ひどい」
「阿呆、『好き好き、たけちゃぁ〜ん』って叫んでたのは何処のどいつだ。そんな攻撃かましてきて、ひどいのはお前だろ」
「そんな気持ち悪い声で言ってないっ」
 首筋でたけちゃんが笑っている気配がする。声を出さずに。今迄、されたことのない仕草を感じて、心臓はまた高鳴りだした。恥ずかしい位に。
「茉莉は、柔らかいな」
 家の中は乱雑で、お布団の周りには靴下が片方だけ落ちているし、何故か綿棒の丸いケースはあるし、分厚くて、長い題名の医学書らしき本は、どっさりと積まれている。そして、抱き締めてきているたけちゃんのパンツはヒヨコ柄なのに、甘さなんて一切ないこの環境で、わたしはそれでもこの上ない幸せを感じて、きゅうと胸をときめかせていた。
 このひとの特別になれたような、そうする権利をやっと与えられたような、それをずっと待ち望んでいた癖に、手に入った途端持て余して上手く甘えられなくなっている。
「や、も、そんなに、揉まないで」
 気がついたら、大きな手は胸の形を歪に変えていた。ゆびの隙間と隙間から柔らかく膨らみをはみ出させて、ゆっくりと動く。頭は再び、甘く痺れ出す。
「気に入った」
「なにを」
「何だと思う」
「……おっぱい?」
「お前、ちっこいな」
 すみませんね、ちっこくて。そして誰と比べているの、だれと。じりっ、と焼けただれるこころ。
「今からでも、揉んだら育つか、やってみるか」
 首筋で笑っているたけちゃんは、指の力を強くして来た。もやもやしているわたしのの気持ちなんか、全然気がついていないんだから。
 わたしばかりが、たけちゃんをすきでいるような気がして、堪らない。いつだってそう。
 でも、受け入れてもらって、お嫁さんにしてもらえる幸福を忘れちゃならない。
 素直になれないたけちゃんからの言葉を欲しがって、困らせることになって、そうして嫌われたら。天国から地獄へ堕ちたくは、ない。
「おっちゃんには、内緒だな、このことは」
「………じっちゃんに、どうして」
「今迄以上に風当たりが強くなったら、堪らん」
 今度は苦笑している気配。剃り残しなのか、髭で軽くこすられた感触があって、ふ、と声が出た。
「辛いの、じっちゃんの口撃」
「まあ、四十越えのおっさんにピチピチの孫を喜んでやろうとするじいさんは、そうそういないだろうさ。今は上手くかわしているんだが、な。知ったら面白くないだろう」
「って言ったって、結婚するのに」
「『お前は及第点だ、茉莉を泣かせたら即離婚させてやる!』って、おっちゃん燃えてっからなーお袋まで隣でうんうん頷いているし、信用が全然無いんだから、参る」
 ふう、とため息をついた後、たけちゃんはぞーりぞりと髭で首筋を撫で付けてくる。皮膚の表面がまるで紙やすりを掛けられたような感覚に、顔をしかめた。
「だから、内緒な」
 ぞくり、とする甘いささやきに、奥歯を噛み締めて身をよじった。さっきから何なんだ、気持ちは上げられたり下げられたり、黒くなったり甘くなったりして忙しい。
 大人の余裕、なのかな。そんなことを今迄一度も感じたことはなかったのに、後ろから抱き締めてくるひとの知らない声に、こんなにも翻弄されている。不安になって後ろを振り向くと、合った目の表情は一言で言い表せないくらいの優しさと、ほんの少しの激しさが混ざり混んでいた。
 たけちゃんがわたしを見ている目は、いつも静かだった。それは誰か他のひとを見る目と変わらなかった。ずっとずっと昔から、遠く、とても遠くだけを見ていて、こころはここにあっても、意識はここにいなかった。
 でも、いまは、わたしだけを、見ている。その意味を、知る。
「たけちゃん」
 目の下がじわじわと緩みだして、顔を伏せた。わたしはなにをおもっていたのか。
 許されたんだ。たけちゃんのこころの柔らかなところに、入っていていいと。
「茉莉は泣き虫だな。まあ、昔からか」
 のんびりとした声がする。言葉じゃない愛情。それを惜しみなく浴びた。

「腹減ったな、昼飯は食ってくるって言ったから、今戻る訳にいかないし、かと言って外に出て誰かに見つかっても面倒だな。どうしたもんだか」
「何か、作るよ、冷蔵庫にあるもの教えて」
 エアコンの暖気で部屋がすっかり暖まった頃、Tシャツとヒヨコ柄のパンツ一丁のたけちゃんは、古びた台所へ立った。ぶかぶかな長袖シャツを勝手に借りて後ろへ立つと、たけちゃんはこちらを振り返ってニヤ、と笑った。
「茉莉ちゃん、ノーパンですかい」
「……洗って乾燥機にかけてるのっ、もう本当にセクハラで訴える」
「どれどれ、見せてみろ」
 反射できゃあ、と悲鳴が出た。たけちゃんは長シャツの端からペロリとめくってきて、慌ててミニスカートが風で浮いた時のように抑える羽目になる。何するんだ、このおっさんは。
「中身はさっき知ったんだから、隠すことないだろー。なあ」
「やだぁ、本当に、やだ」
 思わず身をよじると、たけちゃんはくっ、くっと愉快そうに笑う。
 いつの間にかたけちゃんはお風呂の浴槽にお湯を張っていて、年季の入った寒いお風呂場に初めて入った。ひび割れたタイルの薄暗い浴室は、昼間にも関わらず何か出てきそうで、耐えきれずたけちゃんを呼ぶと、ニヤニヤしながら『だからリフォームするんだよ、分かったか』と優しく言われた。
 このお台所もガスコンロではなく、スイッチを回すと渦巻きのコイルが赤くなる、今迄に見たことのないもので、シンクもとても低くなっている。使い勝手が良さそうとは、お世辞にも言えなかった。
「ズキズキ痛むんじゃないかと、心配しているんだ。診てやるから、な」
「大丈夫だから、そんなことしなくてもいいのっ」
「痛くなかったのか?」
 かあっと顔に血流が集まるのを、感じた。痛く、って言われても。
 下腹部に軽い違和感みたいなものは感じるけれど、痛いという程ではなかったし、それより、むしろ。
「茉莉、ちゃんと教えてくれないと、分からないぞ」
「大丈夫、痛く、ない」
 入り込んで来た時の痛みは一瞬で、それよりも抱きしめてくれているたけちゃんの身体の熱さと重みに、目眩がする程の幸福を感じて震えたことを思い出す。苦しそうだった息遣いや、幾度も頬やおでこに触れるだけの、優しい口付けを受けたこと、しっとりとしていた皮膚の感触、そんなことも一緒に。
 学生だった頃、初めての経験をした子達が話していた「痛かった」とか「苦しい」っていう感想を聞く度に、そんなものなんだ、と思っていた。でも、たけちゃんの与えてくれるものに夢中になったわたしは、とても幸せな初めてを貰ったのだと思う。
「そりゃ、よかった」
 満足そうな声に目を合わせられない。恥ずかしいのとはまた違う、もじもじとして、くすぐったくて、よくわからない感情に、全身が包まれたような。
「茉莉ちゃんが乙女に見えるな。何時も目を吊り上げて怒ってるのに、どしたんだ、今日は」
「ご飯、作る、から。もういいから」
「もう少し茉莉ちゃんをからかいたかったな。つまんねーな」
 そう言うと、たけちゃんは冷蔵庫を開けた。殆ど何も入っていない冷蔵庫を。

 戸棚から時期外れの素麺を発見して、何も入っていない暖かい煮麺をたけちゃんは旨い、旨いと食べてくれた。これまた雑然と物が置かれた古臭いコーヒーテーブルに、少しだけ隙間を開けて並んで食べていたら、何だか可笑しくなってきて、吹き出したら、たけちゃんも一緒に笑った。
 何がおかしいのか分からないのに、それなのに。
 そして、思った。これからどれだけの時間を、たけちゃんと一緒に居られるのだろう。この家で。
 笑って、泣いて、多分喧嘩もして、そうして生きていく。
 煤けた色の天井を見上げて、今から道は小道に入り、全く違う景色を見ながら歩き出したのだと、そう何故か感じた。

 家へ二人で戻ると、何かを言いかけたじっちゃんはいきなり黙った。
 じっちゃん、どうしたの、と声を掛けてもやっぱり返事はない。
「染次さん、茉莉ちゃんへ入れて差し上げて下さいな」
 杯を持って待っていたけれど、銚子を持ったままじっちゃんはわたしを黙って見つめたままだ。花おばちゃんに促されて、やっとのろのろとした動きでお屠蘇を少しだけ三度に分けて注いだ。
「茉莉」
「何」
 飲もうと思っていたのに、じっちゃんの声に止められる形になってしまい、思わず顔をしかめた。
「おめでとう」
 何のおめでとう、なんだろう。明けましてなのか、結婚、なのか分からないけれど、はい、と答えて三度に分けてお屠蘇を飲んだ。
「次はたけに渡せ」
 杯を濯いでいると、じっちゃんはそう促してきた。はっ、とたけちゃんを見ると、珍しく驚いた顔をしたその視線と瞬間、かち合った。
「いいのか、おっちゃん」
「いいも何も、お前も家族だろう、もう」
 お隣に座りに来たひとにそっと杯を差し出すと、大きな両手で壊れ物を扱うかのように、受け取ってくれた。

 家族。

 何時ものお正月にする式三献の儀式なのに、家族になるための儀式のための三献にも感じられる。じっちゃんはたけちゃんの杯に三度に分けて、お屠蘇を注ぐ。
「茉莉を幸せにしてやってくれ」
「はい、必ず」
 じっちゃんの言葉に柔らかい笑顔を見せ、たけちゃんは三度に分けてお屠蘇を飲み干した。

第十八話

「この度は、大家様と甥の毅との縁談をご承諾くださいまして、ありがとうございます。本日はお日柄もよろしいので、婚約の印として結納の品をご持参致しました。幾久しくお納めください」
 一月の中旬、良く晴れた寒い日の大安の日曜日に、我が家の狭い客間で結納が行われている。たけちゃんの叔父さんが口上を述べた後、花おばちゃんはじっちゃんの前に来て、目録を広蓋に乗せて渡した。
 花おばちゃんは、今回たけちゃんの母親として席につくことになったので、わたしの向かいにはたけちゃんの叔父さん、花おばちゃん、たけちゃんが床の間から順に並んで座り、こちら側はじっちゃん、美沙おばさん、わたしの順だ。
 なんていうか、この結納、やっぱりややこしいわよねぇ、と早朝にやって来た美沙おばちゃんは、わたしに中振袖を着付けながら言った。確かにややこしい。花おばちゃんは最近になるまでどちら側で席につくか、四人でうんうん唸って考えていたのだが、お正月の挨拶にやって来た美沙おばちゃんはあっさりと解決策を話した。
「おばちゃんはたけのお母さんとして席について、代わりに私が茉莉の母親代わりになるわよ。どうせ茉莉の振り袖の着付けと髪もするんだし、そのまま結納にも出てもいいんじゃない」
「まあ、それが無難だわな。どうだ、花ちゃん」
「皆さんがそう仰るなら、そうしましょうか」
 花おばちゃんの弟に当たる叔父さんの出席はもうその時点で決まっていて、あとは花おばちゃんはどうするか、だけだった。
「お袋は自分の意見がないのかよ。なあ、いいのか、本当に」
 決まりかけた事柄をたけちゃんはぶーたれて、混ぜ返した。自然と皆、花おばちゃんに視線が集まる。
「………そうね、どちらにしろ難しい立場なのですから、無難な方がいいの。毅は私が隣では嫌かしら」ふんわり笑う花おばちゃんに、更にたけちゃんはぶーたれた。
「そうじゃなくて、自分がどうしたいかっていうのはないのか、って言ってるんだ。お袋は何時もそうやって誰かの意見に乗っかるだけだろう。無難は悪くないが、俺はお袋がどうしたいのかを聞きたかった」
 その言葉に花おばちゃんは押し黙った。たけちゃんはそんな様子に、もういい、と投げやりになって、結局何と無く無難に落ち着いたのだが。
 その日の夜、花おばちゃんはお台所で茶碗を洗いながら、毅に痛いところを突かれたわね、とため息をついた。
「自分がどうしたいかを息子に聞かれて答えられないなんて、嘆かわしいわよね」
「おばちゃん」
「どうしたいかなんて、難しい質問ね」
 おばちゃんは固いスポンジで、お皿やお椀を力を込めて、まるで何日も放っておいた汚れを落とそうとするかのようにこすった。掛ける言葉は無かった。ただ、黙って、側にいることしか出来なかった。
 おそらく、花おばちゃんは小さな頃から、親に従い、夫となったひとに従うことを当たり前として来たのを、感じてはいた。自由に言いたいことを言い、じっちゃんと本気の喧嘩をして、ばっちゃんに甘えて、たけちゃんに守られてそうして大きくなったわたしとはまるで正反対な、小さな箱に身体を押し込めるようにしていたような、窮屈な人生。
 たけちゃんはもう少しその辺を思いやれないのかな、と思うのと同時に、誰に対しても新しい価値観を問い掛ける姿勢に感嘆もする。
 目の前にいる親子は、何と無くよそよそしくて、ほんの近くに座っているのに、何かが離れているように感じた。

「本日は誠にありがとうございました。おかげさまで無事に結納をお納めすることができました。今後とも幾久しくよろしくお願い致します」
 そうたけちゃんの叔父さんが結びの口上をして、全員が一礼をした。顔を上げた途端たけちゃんは耐え切れなかったかのように足を崩した。
「ぬあーっ、足、痺れたっ。長いな結納」
 着慣れない礼服のせいなのか、足をしきりにさすっている。そんな様子を見て、たけちゃんの叔父さんはうんざりしたように言った。
「毅、お前が今迄結婚出来なかった理由が、良く分かったぞ。どうしてお前はそうなんだ」
「いやー座布団無いのに正座はきついですよ。あー痺れて痛ぇ」
「本当に幾久しくよろしくお願いします、こんな甥ですが」
 ロマンスグレーと言った言葉がぴったりなたけちゃんの叔父さんは、そう言いながら頭を下げてくれた。この秋から中堅の酒造メーカーの取締役となっていた筈で、忙しい日々だったようだが、たけちゃんの父親役として今回結納に来てくれた。たけちゃんのお父さんの方の兄弟が来てくれるとばかり思っていたが、聞くともう皆鬼籍に入っているらしい。
「半分引退していたのに、子会社が赤字に転落したら立て直しに行け、と言われまして、まあ老兵でもお役に立てるのならと就任しましたが、いやーこの歳でがっちり働くのはきついですよ」
「んだな、隆は小せぇ時から糞真面目だから、手抜けないんだろ。手、抜けよちったぁ」
「染兄は仕立てする時に、手を抜かないでしょう。それと一緒ですよ」
 結納が終わると近所の割烹から届いていた仕出しを長テーブルに並べた。じっちゃんは生真面目に足を崩さないで座っているたけちゃんの叔父さんに、瓶ビールを傾ける。
「まあな、多少なりともお足を頂くなら、手は抜けないわな」
「本家の末息子が切れ者で、手足になってくれているのでなんとか凌いでいますがね。もうそろそろのんびりと釣りしたいですな」
「最近、市ヶ谷行ってないのかい」
 じっちゃんとたけちゃんの叔父さんの世間話を、料理を食べながら聞くともなしに聞いていた。たけちゃんはさっさと自分の分を平らげて、立ち膝で座りぼんやりしている。目線でお行儀悪いよ、と促すとむっとしたような表情を返された。
「たけ、あんたのとこの医院、つつがなくやれてるの」
 お茶を飲みながら美沙おばちゃんは、たけちゃんに話しかけた。
「ぬあ?つつがなく、って何だよ。毎日つつがないさ」
「患者さんの数に変わりないのか、って言いたいのよ。どうなの」
「あー……まあ、平常運行してる」
 そう言うとたけちゃんは何故かちらり、とわたしを一瞬だけ見た。
「それなら、いいけれどね」ため息を美沙おばちゃんは漏らす。
「日々真面目に仕事してりゃ、なんともないさ」
「まあ、そうするしかないわよね」
「何の、話」
 何となく引っかかるものを感じて、たけちゃんを見ると途端に目を逸らされた。美沙おばちゃんの方を向くと、苦笑したおばちゃんは静かに言った。
「たけに聞きなさい。夫婦に成るんだからね、年の差はあっても夫婦になったら対等じゃないと、家族としていられないでしょう。たけ」
 美沙おばちゃんの促すような声に、たけちゃんは黙り続けている。
「たけちゃん」
「後でな」
 そう短い返事があって、たけちゃんは再び黙った。そんな様子を花おばちゃんは動かない瞳で見ていた。

 たけちゃんは会食が終わると叔父さんを送る、と並んで路地を歩いて行った。タクシーを呼びますから、と言ったのだが甥っ子とたまにはのんびり散歩しながら、靖国通りまで出るのも乙だからね、と優しい笑顔で叔父さんは言った。そして、わたしをじっ、と見つめて毅をよろしくな、とも。
 モーニングに上質なコートの叔父さんと、いつものダウンに礼服のたけちゃんの、並んで歩く後ろ姿を皆で見送った。最初にじっちゃんが家に入って行き、次に美沙おばちゃんがそれに続く。
「花おばちゃん、お家に入ろう」
「………そうね、 茉莉ちゃん、お先に入っていてくださいね」
「おばちゃん、風邪引いちゃうよ。これ、掛けて」
「ありがとう」
 その声は少し湿っているように感じられた。そっと肩にショールを掛けると、花おばちゃんは申し訳なさそうに身を縮こめた。
「茉莉ちゃん、本当に毅で、いいのかしら」
 花おばちゃんはじっと地面を見つめていた。遣る瀬無さそうに、サンダルで小石をそっと蹴って。
「うん、たけちゃんが、いいの」
「身体だけは頑丈よ、でも我儘だし、自分勝手、でしょう」
「それでも、いいの」
「茉莉ちゃんなら、若くて素敵な殿方に見初められて、幸せな生活を送ることだって、出来たわよ」
「うーん、それは魅力的、だよねぇ」わたしが唸ると、おばちゃんはふ、と笑った。
「今迄お嫁さんの来手が無かった四十過ぎのオジさんでいいなんて、茉莉ちゃん、考え直していいわよ」
 おばちゃんはお茶目に笑う。良かった、少しだけ元気になったようだ。こんな軽口がおばちゃんから出た時は気持ちも少し上向いた証拠。
「じゃ、たけちゃんよりカッコいい、白馬に乗った王子様が現れたら考えてみる」
「茉莉ちゃん、本気?」
「うっそでーす」
 おどけてみせると、おばちゃんは可愛らしく笑った。良かった、笑顔を見られて。ああ、寒い、入りましょう、と促され、さむ、さむとまるで女学生のように弾んで、花おばちゃんと勝手口から家に入った。

 美沙おばさんも帰ってしまい、着物を脱いで衣桁へ掛けると、たけちゃんを自分の部屋で待っていた。さっきの話半分になっていた話題が気になる。後でな、と言われたその時の表情が、妙に気になった。
 二時間経っても音沙汰はなくて、メールを送ると『今、家にいる』と返って来た。てっきり戻ってくるとばかり思っていたのに、どういうことなんだ。眉間に思わず皺が寄る。
 さっきの話を聞きたい、とメールを送ると、ややしばらくしてから、じゃあ、うちに今から来いと返信を貰い、溜息と共に立ち上がる。
「ちょっと、たけちゃんちに行ってくるね」
 居間でまったりお茶を飲んでいた二人に声を掛けると、じっちゃんは素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ、あいつ家にいるのか。そのまま出掛けて、戻って来ていないと思ってたわ」
「え、どうしてそう思うの」
 そう突っ込みを入れると、じっちゃんは声が大きくなり、顎はガクガクし始める。何やましいことがあるんだろう。これは更に突っ込むべきなの。ねぇ。
 じーっとじっちゃんを見つめると、隣にいた花おばちゃんはにっこり笑って言った。
「まあ、行ってらっしゃいな。お夕飯一緒に食べてくるのなら、メールを下さいね」
「えっ、う、うん。行ってきます」
 今のは花おばちゃんの、じっちゃんへの助け船だった。どういうことなんだ。でもきっとたけちゃんが色々、鍵を握っているような気がする。狐につままれたような気持ちで勝手口から出ると、重い鉄の扉を抜けてたけちゃんちの表玄関へと回った。

「たけちゃん、さっきの話」
「それより、茉莉に大事な話がある」
 相変わらず乱雑な二階の居間に入って、座る暇も無く話を聞き出そうとすると、逆に遮られた。
「大事な話、って、何」
 礼服のネクタイを外して居間のソファーにいるたけちゃんに、嫌な斜視感を覚えた。トラウマ程ではないが、やっぱりあの出来事は悲しかったんだ。辛い、苦しい話じゃなければいい、なんとなく身構えてしまう。でも、たけちゃんは眉間の皺を深くして、わたしを見つめていた。
「怖いよ、何」
 もしかして、いきなり振られたりするの、まさか。ありもしない想像が頭の中をよぎって、心臓は痛い程鳴り始めた。今日、婚約を交わしたじゃない、そう思っているのに。
「何て顔してんだよ、誰かが死にそうになってんのか」
 渋い顔をしている癖に口元だけで笑った、たけちゃんとの間に緊張が走る。言って、そう促すとたけちゃんはゆっくりと口を開いた。
「あのな、結婚式にお前の親父さんを呼ぶことにした」
「……は?」
「だから、お前の親父さんを」
「何で?」
「何で、って親だろう」
「一度も会った事の無いひとなのに?」
 責める気は無かったのに、口調は厳しいものが突いて出た。たけちゃんは相変わらず眉間の皺も深く、わたしから目を逸らさない。
「二歳までは一緒に暮らしていたんだ、会ったことが無いなんて言うな」
「どうして、今更」
「茉莉は、親父さんに会いたいと思ったことはないのか、一度も。これっぽっちも無いなんて、あり得ないだろ。無いのか」
「……だからって、今更、何を言い出すの。わたしには父親は居ないものだと思って生きてきたのに、それを覆して何になるの。真意が分からない」
「知りたいと思わないのか、自分の両親を」
 その言葉に唇を噛んだ。知ってどうなるんだ、という思いとそれでも知りたいという思いが混ぜ合わさり、苦しい。
「お前は言ったよな、俺はお父さんじゃない、って。その通りなんだよ。誰も親父代わりになれたって、本当の親父にはなれない。いい機会なんだよ、結婚式ってのは、それを口実にお互い、会いやすいだろ。俺をお前の夫にしたいのなら、お前は親父に会え」
「………たけちゃん、意味不明で理不尽なこと言ってるって、分かっているの」
「理不尽はともかく、意味不明じゃないだろう」
「父親の振りしていたのはたけちゃんでしょう、それなのに」
「その通りだ。でも未だにお前を見ると子どものように守ってやらなきゃいけない気持ちになるのは、何でなんだろうな。親子のような夫婦になりたい訳じゃないのに、このまま行ったらそうなるのは目に見えているんだ」
 そんなことをたけちゃんは考えていたんだ。でも、それと父親とは関係が無いだろう。お互いが乗り越える努力をすればいい話じゃないか。なのに。
「茉莉は凄く父親を求めているだろう、無意識に。いや、親を求めている、って言った方がいいかもな。俺は、お前のそこを埋めてやらなきゃいけないと思っていたようだ。でも、結婚するならそれはしたくない」

第十九話

 思っていたよりも、その言葉にショックを受けている自分が嫌だった。何故嫌なのか、それは思いもよらないことを言われたと思いながらも、思い当たる節があるからだった。
 たけちゃんはわたしが小さいころから、こうやって色々なことを投げかけてきた。でも今が一番キツい。
「正直に言ってもいい?」
「ああ」
「そうなのかもしれない。でも、わたしにとって両親はわたしを捨てたひと達、なの。身勝手なことをして、置いて居なくなったひと達」
 自分の身から出す一言一言に、切り裂かれそうな思いがした。それが事実だというのに、認めたくなくて避けていた事だったのに。それを意識させるなんて、酷い。
「たけちゃんの言っていることは、正しいよ。でも、気持ちは拒否するの。会いたいのなら、どんな伝手を使っても会いに行ける筈、でもそんなことをしたことはないの。それがわたしの答え」
 そう淡々と告げると、たけちゃんは悲しそうな表情になった。
「お前を手放さなければならない事情があったとしたら、どうする」
「別にどうもしない。ただ、どんな事情があっても捨てられた事実が変わる訳じゃない」
「茉莉」
「たけちゃん、わたしは会いたくない」
 ちょいちょいと手招きをされて近づくと、まあ、座れ、と促された。躊躇う気持ちのまま座ると、ほおを武骨な指先がそっと拭っていく。
「捨てられた、って思っていたのか」小さく頷くと、もう片方の手は頭を優しく撫でだした。たけちゃんの指先は段々湿り気を帯びていく。でも何か別のもので拭き取ろうとはしなかった。
「そうか、それは知らなかったな。てっきり茉莉は親父さんに、会いたいだろうと思っていた。ほんの小さなことでも親父さんや美妃のことを知ることが出来た時は、喜んでいたように見えていたから」
 そう言われて、たけちゃんの鎖骨におでこを押し付けた。ほおを拭っていた指はそのまま背中へ回される。
「酷い」
「……親父さんを、恨んでいるのか」
 ゆっくりと頭を横に振った。あのひと達のことは余り考えないように、そうして生きていかないと、そう思っても上手くいかない存在だ。
「もう段取りをつけたんでしょう。会う、って」
 諦めと恐れが鼻に掛かった声と共に出て行った。ここまできっぱり言い切ったのなら、たけちゃんはきちんと相手方に話を通した後だろう。案の定、たけちゃんは困ったように話し始める。
「森田の叔父に先方へ連絡を取りたいとお願いして、今日、その返事を貰った。茉莉に、会いたいそうだ」
「わたしは、会いたくない」
「茉莉」
 礼服に染みこんでいくものを、止められない。そんなことをちっとも気にしないたけちゃんに、ぎゅうと抱きしめられた。
「茉莉、親父さんに会って、捨てられて悲しいって、言え。お前にはそれを言う権利があるぞ」
「たけちゃんが、知っていてくれたら、それでいい」
「後悔するぞ」
 たけちゃんはそう強い口調で言い切った。何の根拠もない、そんな言葉なのに妙に重く、説得力をもっていた。色々な、何かを含んだ言葉に、降伏をせざるを得ないことを、知る。
「ずっと、一緒に居て、手を繋いでいてくれる」
「何でもしてやる。茉莉が望むことなら」
「たけちゃん、酷いよ」
「ああ、恨んでいいぞ」
 その日、わたしはそのことで頭の中は一杯になってしまって、ただ、たけちゃんを詰った。でも、もう一つの大切なことはすっかりと忘れ去ってしまっていた。

 次の週の日曜日、神社で宮司さんの奥様と結婚式の打ち合わせに使われたのは、障子がぴっちりと閉められて、昔ながらの丸い石油ストーブで暖められた六畳ほどの和室だった。ストーブの上で乾燥防止の為なのか、薬缶か掛けられていて注ぎ口からは緩やかに湯気が出ている。大きな一枚板で出来たローテーブルの前で、向かい合わせになりながら、神社での挙式について細やかなところまで確認することとなった。
 挙式当日は、昼過ぎに挙式をして、そこに父が出席すること、その後神社の何処かの部屋をお借りして、父と会う時間を作りたいことをたけちゃんがお願いした。事が事だけに断られるか、と思っていたら奥様はうーんと唸った後、こう言った。
「分かった、じゃあ、渋谷さんの秘書さんと打ち合わせしなければいけないわね。場所は、何処かの部屋でいいの。SPさんが良いって言ってくれてお天気に恵まれたら、集会所の縁側も気持ちが晴れ晴れするし、そっちの方がオススメよー」
「……あっさりですね。そしてよくご存知ですね」
「たまに参拝にいらっしゃるのよー最近は警備が付く立場になったからか、お忍びでいらっしゃるわねぇ、お忙しいらしくて直ぐに帰って行っちゃうけれどね」ふふふ、と奥様は笑う。
「そうでしたか、きっと外の景色が見えた方が、お互いに気詰まりに成らなくてすみます。茉莉もその方がいいよな」
 たけちゃんの話を振られて、小さく頷く。正直、何処でも良かった。たけちゃんを腹立たしい気持ちで見ると、目が合った隣にいるひとは動揺する事も無く少しだけ笑う。
「じゃ、渋谷さんの秘書さんにはこちらから確認を取りますね。どちらにせよ、動線の確認もしなければならないしね。お天気が良かったら集会所の縁側にご案内します」
「はい、お願いします」
「では結婚式へ出席される方は、大家さんご夫妻と、渋谷さん、森田さんと、田浦さんご夫妻ですね。新郎様新婦様のお衣装は田浦さんご夫妻が用意して下さる、で」
 婚礼専用に作られた用紙へ、奥様は次々と確認済みの事柄を書き込んで行く。たけちゃんとわたしの婚礼衣装は美沙おばちゃんが張り切って、用意すると言い張った。素敵なの着せてあげるから楽しみにしてなさい、と言われてまあ、白無垢なら何でもいいと了承した。その代わり洋装はホテルのウェディングドレスを借りるので、沢山の中から選ぶのが大変そう。来月、花おばちゃんも一緒にホテルへ選びに行く予定だ。
「新婦様の髪型は日本髪がご希望だけれど、日本髮の鬘も二種類あって、どちらがいいかしら」
「いえ、変更してこういう髪型に出来ますか」
 鬘の見本を広げた奥様に、たけちゃんはいきなり傍にあった洋髪を示した。
「たけちゃん、どうして、洋髪なの」
「これ、使ってもらいたいんだ」
 そうしてダウンのポケットから出て来た大きめの宝石箱は、古びているのにきちんと保管されていたのが見て取れた。たけちゃんはどうやって開くのかは知らなかったようで、少しの間箱と格闘して、やっと蓋を上に開けた。
「鈴木先生……これは、うーん、私ヘアメイクさんではないから断定は出来ないですけれど、髪型は限られますよ」
 そこには古びた宝石箱に反して、緩やかなS字に真珠をふんだんに使った上品で大きな髪飾りが入っていた。大粒の透明な宝石たちがキラキラ輝いている。真ん中に真珠と銀細工の大きな花がついていて、一目で相当なお品だと知れた。
「これ、どこから発掘してきたの」
「あ?プレゼントだ。茉莉へな」
「どうして私に」
「茉莉に似合うだろうと思って、持って来た」
「そうねぇ、これ、とか、こんな感じ、かしら。この耳の後ろ下辺りに差し込む感じ、バランスもあるでしょうけれどね」
 ヘアカタログをめくっていた奥様は大人しめな、それでいて上品なまとめ髪の写真を示した。思っていたよりも大人っぽい、そんな髪型は好きだけれど、でも、ちょっとたけちゃんは酷い。
「すみません、ちょっと揉めていいですか」
「いいわよー茉莉ちゃん、やっちゃいなさい。はい、ファイト!」
 奥様はあっさりとエールを送って下さった。こういう時、小さい頃から神社の境内でここの家の子達と遊んで、気心が知れているのは強い。隣にいるたけちゃんは、睨みつけると途端にたじたじになる。
「ど、う、し、て、先に言ってくれないの。こんなに強引に進めることが続くのは、悲しいし、困る」
「………これ、気に入らないのか」
「そうじゃなくて、今日、ここに来る迄の間にでも二人で話をする時間はあったでしょう。その時に渡されたら嬉しかったと思うのに、どうして今、この打ち合わせ中に出してきたのか、そこを怒っているのっ」
「お前、俺にそんなキザったらしいことが出来ると思うのか。『茉莉ちゃん、これ、結婚式に付けたらすんげー美しくなって、俺の自慢の花嫁になるよ、ハニー』とか言われたかったのか。ああ、虫酸が背中走ってった。どうすんだよ、寒イボ出来るぞ」
「なっ、ちょっ、何言ってるの、このおっさんっ」
「茉莉ちゃん、負けてる……」奥様は少し呆れたように呟く。耳の裏まで熱くなって赤くなったのを、自分で意識した。たけちゃんがそんなセリフを言うのを初めて聞いて、正直動揺している。
「見ろ、この寒イボ。いや、じんましんか、なあ」
「お腹は出さなくていいから!」
 たけちゃんが薄手の黒いニットの下に着ていた白いTシャツさえもめくろうとしたのを、慌てて止めた。このまま行くと面白パンツが見えるでしょう、それは何としても避けたい。白Tシャツを巡って揉めていたら、奥様は笑いながら言った。
「新婚さーん、はーいはい、戻ってきてくださいねーいいわねぇ、仲良くて。それで、どうしますか。洋髮で行く?」
「はい、そのヨーガミでお願いします」
「茉莉ちゃんは、洋髮でいいの」
 すかさず返事をした、たけちゃんの言葉を聞いて間髪入れずに奥様は質問を振ってきた。
「……大きな花飾りを付ける洋髮よりも、日本髮の方が落ち着いた雰囲気になるかと思っていたんです。でも提案して下さった髪型も、素敵だなと思いました」
 年の差が大きいわたしとたけちゃんが結婚式で並んだ時に、釣り合いが取れて落ち着いた雰囲気になれるように日本髮を選んでいた。正直、若々しく映る洋髮には、こころ惹かれた。でも二人で一緒にいて、年の差を感じさせるような雰囲気は無い方が良かった。
「じゃ、ヨーガミでいいな」
「あとは、綿帽子を被れるのかが気になります。この洋髮だと崩れたりしないのか、って」
「最近挙式を挙げる方は、洋髪のご希望が多いのよー綿帽子を被りたいお嫁様も増えてきているから、対応出来るとは思います。この髪飾りを使うのならば、次の打ち合わせまでにヘアメイクさんに髪飾りの写真を撮って見て貰って、綿帽子も被れる良さそうな髪型を提案してもらいましょうか」
 その提案はとても良さげに思えた。はい、お願いします、と返事をするとたけちゃんは、まるで一仕事終えたかのようにふーっと長い息を吐いていた。

「納得、いかない。何処からあの髪飾りを持ってきたの、ねぇ」
「これ、嫌いか」
「ちょっと、こんな所で出そうとしないで」
 帰り道、人もまばらな日曜の午後の新宿通りでも、誰が何処で見ているか分からない。狙われて引ったくりにでも逢ったら、どうする気なんだろう。少ししか見ていなかったけれど、あのキラキラが全て本物ならば、相当お高い筈だ。ポケットから無造作に取り出そうとした、たけちゃんの手を押し戻すと、その手はぎゅう、と握られた。
「茉莉に似合うと思った。だから持ってきたんだ」
「う、嬉しいけれど、たけちゃん、質問に答えてないよね」
「茉莉ちゃんは、本当はヨーガミが良かったんだろ。でも『たけちゃんみたいなおっさんと並んだら、おっさん臭が際立つわっ』とか思ったから、鬘を選んだんじゃないのか」
「……たけちゃん、もしかしておっさんおっさん言われること、気にしてたの」
「そんなことないわい。正しくおっさんだから仕方ないだろ」
 そう言いながらたけちゃんは唇を尖らせた。なんだ、気にしてたんだ。ちょっとだけ笑いながらたけちゃんの顔を覗き込むと、ぷい、と逸らされた。
「たけちゃん、おっさんでも大好きだよ」
「おっさんでも言うな」
「今の所加齢臭はしてないし、まだ大丈夫」
「耳の裏、ごっしごっし擦ってるから、するはずないだろ」面白くなさそうに、たけちゃんは言う。冷たい手を握り返すとそのまま臙脂色のポケットの中へ入れられた。
「たけちゃん、髪飾りありがとう」
「んあ?茉莉ちゃんが俺の自慢の花嫁になりゃ、それでいいんだ……っていうか、なんだ、すんげー寒イボが出てきたじゃねーか。何で俺はこんなクサいセリフ吐いてんだ。忘れろ、お前、忘れろよ」
「たっ、たけちゃんが勝手に言ったんでしょー」
「知らねーよ、お前が好き好き言うからだろ。俺までよくわかんねーこと言うようになっちまっただろ」
「えっ、好きって言われるの、嫌だったの」
「いや、嬉しい、っていうか、あ?お前俺に何言わせてんだ、この嫁に来るやつ、侮れねぇな」
 たけちゃんはまた口を尖らせた。そんな話をループさせながら、冷んやりと冷え切った新宿通りを歩いて帰った。でも、またわたしは話を逸れされたまま、そのまま少しずつ何かは降り積もるように、溜まっていった。

第二十話

 今年のたけちゃんへのバレンタインの贈り物は、濃紺に白と赤のアクセントを入れたフェアアイル柄の手袋を編むことにした。駅前の書店で真吾くんの彼女の朱里ちゃんが、熱心に編み物の本を立ち読みしている所へ出くわして声をかけ、一緒に見ているうちにたけちゃんへ編んであげよう、と思いついた。朱里ちゃんと一緒に毛糸を選びに行って、お互いうんうん唸りながら手芸専門店のずらりと並んだカラフルな糸の中から、時間を掛けて選び出した。裏地に薄手の素材を使って、保温性も上げる。でも、あの臙脂色のダウンのポケットに繋いだ手を入れてくれる、あの仕草も好きだった。
 ずっと手を繋いでいられると、ひょっとしたらずっとこのままかもしれないと錯覚出来るようなあの強引なのに優しい繋ぎ方は、なくなってしまうのはちょっとだけ、惜しい。でも、昔のようにきちんと手を繋いで一緒に歩く、それは随分長い間、わたしの憧れのようになっていた。
「ねぇ、花おばちゃん。真珠が付いた銀の花の髪飾りって、持っていた?」
「銀の花、髪飾りよね。………うーん、思い当たる物は、ないわね」
「そうなんだ、じゃあたけちゃん、何処からあの髪飾り、持ってきたんだろう」
「……茉莉ちゃん、お話が見えないから、教えてくださいな」
 じっちゃんが銭湯へ行ってしまった夕食後、居間のちゃぶ台で美しい姿勢で家計簿を付けていた花おばちゃんへ、たけちゃんがいきなり髪飾りを持ってきた経緯を、かいつまんで説明する。すると花おばちゃんは、見る見る内に鼻白んだ。
「ここに引っ越してきた時に、私の親が持たせてくれた、真珠のネックレスとイヤリングは持って来たの。毅の所には、あの子の父から頂いた婚約指輪は置いてきたけれど、髪飾りは置いて来ていないわね。毅、何処から出してきたのかしら、古いのでしょう、その髪飾り」
「うーん、なんて言うか、箱は古いけれど、中の髪飾りはピカピカしていたんだよね。もしかしてクリーニングに出した、とかなのかも。髪を留める部分が、レトロっていうか、今時中々無い感じだったから」
「毅が、クリーニング。有り得ないわよねぇ」
 手袋を編む手が止まった。確かに、有り得ない。そんな所に細やかな気遣いが出来るとしたら、それはたけちゃんではない。
「たけちゃん、何処から持って来たんだろう」
「毅に尋ねてみては、いかがかしら」
「うん、そうだよね。やっぱりもう一回、聞いてみる」
 わたしがそう言うと花おばちゃんは、ぽつりと言った。
「あの子、誤魔化すのが上手ですから、気をつけて。茉莉ちゃん」
「おばちゃん」
 おばちゃんは再び何かを耐えるように、家計簿に目線を落とした。


 金曜の夜に設定した旭とわたしが幹事を務める、集まれる人だけおいでとネズミ講式にメールを回した、高校のクラスメイトとの同窓会という名の飲み会は、なんと出席率九割を超えていた。
 わたしはばっちゃんのこともあり、一番近くの高校を受験したのだが、そこは都内でも成績は上の方の学校では、ある。殆どの子が大学へ進学し、それぞればらばらになったのにそれでもこんなに出席率が良いのには訳があった。
 普通、学年が上がる毎に理系、文系に分かれてしまうのが定石なのだが、そこは入学したら三年間クラス替えは基本的に無く、加えて行事だけはてんこ盛りだった。
 体育祭、文化祭に加えて、林間教室、臨海教室、近所の高校との対抗戦、百人一首の競技大会、一月に一つ、二つは行事があり、その殆どがクラス一丸となって取り組まなければならないものばかりだ。
 行事の度に喧嘩したり意見がすれ違ったり、ぶつかり合っているうちにお互いをよく知ることとなり、認めあい卒業する頃、三年苦楽を共にした仲間は第二の家族のようになっていた。
「おーまりりん。幹事ごっくろー」
「うるさいよ南田。まりりんは止めて、ハイ、三千五百円」
「こえー相変わらずこえー。なまら、こえー」
「北の大地で綺麗な空気吸って、頭のネジが閉まって賢くなったかと思ってたのに、ジンギスカン喰い過ぎて悪化して帰って来たんだよ」隣でお札を数えていた旭は、うんざりしたように言った。
 わたしと旭は、畳敷きの大きめの個室の入り口付近の席に陣取っていた。もう乾杯は終わって、それぞれが話に花を咲かせ始めている頃、最後の一人の南田はヘラヘラしながら、やって来た。
「ひっでー旭。ラム肉をけなすと羊ちゃんが泣くよん」
「な、悪化してるだろ」
「あー……確かに」
 おちょぼ口をしながら、それでも三千五百円丁度を差し出してきた南田を、呆れ顔で見上げた。南田は大食いでクラスのムードメーカーだった。おちゃらけたことを言って笑わせるのが得意で、それでも成績は旭と同じく群を抜いて良かった。先生方も南田は赤門を目指すと信じて疑わなかったのに、『おれ、美味いもん食べられるとこに行くからー』とかるーく言って、カニ、カニと叫びながら北の大地へ進学していったのは仲間内での語り草だ。この春から東京へ戻ってきて、大手の出版社で編集の仕事をしている。
「んで、今日はご夫婦で幹事してんの。仲いいじゃーん」
「南田、ハウス」
 旭は目の前に一つだけ空いた席を指差す。南田はいつも通りニヤニヤにやけて、直ぐ割り箸を取ると、テーブルにあった唐揚げや生春巻きなんかを小皿に盛って、引き寄せた。
「南田、飲み物は何にする?」
「あーそこでオネーサンに会ったから、頼んだ。サンキュ」
 声を掛けた時にはもう食べ始めている。何ていうか、南田はいつも自由だけれど、細やかな気配りも出来る奴で、なのにそれを周りに気づかせない。基本はアホだけれど。
「よし、丁度あるな、俺、払ってくるわ」
「あ、ありがとう、旭」
 お金の集計を終えると、旭はわたしが用意した小さな集金用の箱を持って立ち上がった。今日の同窓会な振りした飲み会は、新宿西口の居酒屋で広めの個室を借りた。支払いが済んだら幹事の仕事もほぼ終わり、ほっとして泡の消えたビールに口をつけると、ニヤニヤにやけた南田と目が合った。
「まりりん、旭と未だに仲いいんだ。旭、今フリーって言ってたしさ、どう」
「南田はいっつもそれだね。別に近所だし小さい頃から一緒だから」
「あいつ高学歴高身長そのうち高収入だぜー婿にしちゃえよ」
「はい、エビチリも食べて」
 ふわふわの卵と海老の色のコントラストが美しいエビチリを盛って、南田に渡した。ビールを持ってやってきたお姉さんから受け取って、お代わりの注文をグラスが空いたひとから取る。
 結婚の事は、あまり触れたくない所だった。旭はあの日以来、メールでも偶然会った時にも普通に接してくれている。でもとっくにたけちゃんとの結婚の話は耳に入っている筈だった。それなのに旭は一言もその話へ触れない。
「あ、エビチリうんめぇー、んで、まりりんは、どうなの最近」
「どう、って、普通の毎日だよ、代わり映えのない」
「嘘つくなよ、茉莉」
 声をした方を見ると、口をへの字に曲げて傷ついたような無表情で旭は立っていた。店内用のつっかけを脱ぐと、それを揃えてわたしの隣へ戻ってきて、言った。
「茉莉さ、何時になったらちゃんと報告してくるのかと思ってた」
「なになになに、話が見えないんですけどー」
「旭」
「幸せだって、いつ惚気てくるかと思ってたのにそんな所でいい奴になろうとするなよ」
 そう吐き捨てるように言うと、旭はビールのジョッキを持って立ち上がり、奥にいた横山を追い出すようにして盛り上がっていた輪の中に入っていった。
「……おい、あいつ、何であんなに不機嫌なんだ」
 代わりに追い出された横山が酎ハイのグラスを片手にやってきた。寡黙な横山は数学が好きで、都内の大学へ進学した。そしてこの春に、証券会社へと就職した。旭と南田と横山はいつも男同士では、高校時代つるんでいて、とても楽しそうだった。
「まりりんが普通の毎日送っているって言ったら、旭が幸せだって惚気ろって怒った」
 南田のその言葉を聞いて、横山はため息をついた。
「大家、友達の前では発表できない相手なのかよ」
 横山は知っていたんだ、結婚のことを。旭から聞いたんだろう。
「別に、そういうことじゃないよ。でも、自分からひけらかすようなことはしたくないんだよね」
「いやいやいや、話がみえねー」
「南田、ハウス」
 横山の言った言葉に、南田は情けないような犬鳴きの真似してみせた。
「大家の言いたいことは分かる。でも、あいつは大家の宣言が聞きたかったんじゃないか、幸せになるって」
「なになになに、まりりん結婚すんの」
 信じられない、といった顔をして、南田は聞いてきた。横山は無表情に黙っている。返事を返すことは、出来ない。南田のくりっとした目は、見る見る内に大きくなった。
「まりりん、結婚すんのか!」
 南田の大きな声に一瞬静まり返ると、驚きの声が上がって何故か皆、旭を見た。わくわくしたような顔をして。
「………何で俺を見るの、相手、俺じゃねーし」
 えええーっ!と部屋中に絶叫が響いて、頭を抱えた。

「えーこちら、大家茉莉さんの結婚報告記者会見会場から、生中継でお届けしておりまーす。はい、まずはお決まりの婚約指輪こう、こう見せからどぞー」
「………南田、後で体育館裏に来て」
 キラッキラッした目でくるくる丸めたおしぼりをマイク代わりに向けられた。最悪だ。
 あっという間に座布団を五枚重ねた上座に座らされ、旭と横山以外の皆はわたしの言葉にどっ、と湧いた。
「あれ、婚約指輪がない、秘密主義ですか」
「付けてくるわけないでしょ、無くしたら嫌だもの、馬鹿なの」
「でたーまりりんの『馬鹿なの』そして愛の婚約指輪は無くしたくない、とそういうことですか、大家さんっ」
「南田ーもういいって!」
「お相手の方は何処の、何やっている人ですかー」
「何が聞きたいの、性別からなの」
「えっ、まりりんもしかして、っ!」
 南田のヘラヘラした質問をのらりくらりかわしていたら、大倉からさっさと吐けーとヤジを受けて、仕方なく話す。
「……隣の内科の、お医者さん、だけど」
「医者キターーっ、いやー医者ってアレ、結構歳上じゃないですかー」
 一番嫌な質問を南田は振ってきた。それなりに、と言うと、何歳差ですか、と突っ込まれた。神様、助けて。
「にじゅっさい」
 その場はしーんとした静けさに包まれる。ああ、だから言いたくなかったのに。


「なんつーか、まりりん、ごめん」
「別に、本当のことだし、言われると思ってたし」
 南田の微妙になった記者会見を終えて、口々に茉莉、年の差でかすぎるって、おじさんじゃんとやら、犯罪だよとか言われて、それをのらりくらりかわした。
 別にいいんだ、誰にも分かって貰えなくても。そう思っていたら、杉本の奈々の方から写真ないの、と言われて、渋々婚約の時にたけちゃんと結納品の前で撮った写真を見せた。えっ、若いじゃん、本当に四十三歳?と驚かれてスマホは今、延々皆の手の中を旅している。若くはない、目尻に皺はあるし、正しくおっさんだ。でも、たけちゃんじゃないと駄目なんだ。
「ほい、大家、スマホ」
「あーありがと」
 斜めの席からスマホを差し出してきた大倉から受け取り、上のボタンを押して画面を暗くした。
「大家、旭のこと振ったのか」
「……っていうか、皆、旭がわたしを好きだと思ってたの?」
「っていうことは、振られたんだな、あいつ。そりゃー今、女子群がるはずだわ、腹立つなーやっぱ世の中金持ちイケメンはつえーよなぁ」
 大倉はそう言いながらもさっぱりと笑った。旭はクラスの半分以上の女子に囲まれて、タジタジしているのが遠目からも見えた。
「大家さぁ、旭が高校受験の時、試験会場にいてびっくりした、旭なら日比谷行けたじゃん、っていっつも言ってたけどさ、アレ、大家のこと追っかけてきたんだろーって皆思ってたぜ」
 いつの間にか戻って来ていた横山も頷く。南田はよく分からない落ち込みを見せているけれど、大倉の言葉にため息をついて言った。
「知らぬは本人だけ、ってか。あんなに旭押し、したのになー全然、眼中に入っていなかったのかー。今日幹事一緒にやるっちゅーから、も、し、か、し、てって思ってたのにさー。まりりん、そのオヤジのどこが良い訳?」
「全部」
 少しやけくそになって、そう答えるとひゅう、と冷やかされる。だって本当のことだ、そう思うのに、たけちゃんに無性に会いたくなった。
「まりりん、何時からそのオヤジのこと、好きなんだよ」
「……小さな頃から、ずっと。ずっと、好きなの。やっと最近振り向いて貰えて、死ぬほど嬉しかった。一生一緒にいたいから結婚して、ってお願いして、受け入れて貰えて、本当に、嬉しかった」
「……それを、そう言われるのを旭は待ってたんじゃねーのかな」
 寡黙な横山は、ぽつりと呟くように話し掛けてきた。本当にほぼ喋らないのに、今日は旭のためにわたしに言葉を向けてきている。横山は大切な存在の為なら、とことん戦う奴だ。
「大家に幸せだ、って惚気られて、打ちのめされて、くっそー、俺も絶対幸せになってやる、ってなりたいんだよ、あいつ負けず嫌いだから。あいつのことを思うなら、打ちのめしてやってくれ」
「もしかして、旭に飲みに拉致られたの」
「ああ、結婚のこと知ったらしいその日にな。真夜中過ぎまで大荒れだった。結構迷惑だ」
 憮然と横山は言った。本当に迷惑だったらしい。
「そっか、迷惑掛けたんだね。遥、元気にしているの」
「ああ、相変わらずだ」
「今日、顔見れるかと思っていたのに」
 そう突っ込むと、横山はすいっ、と目を逸らした。横山はこの春に高一から付き合っていた彼女と結婚した。わたしと中学から一緒だった遥は不思議な女の子だ。小さな頃から話すことが殆ど無く、わたしは短大に入って子どもの発達の授業を受けて、遥は緘黙症なのだと気付いた。
 横山は入学して、あっという間に教室の片隅にいた遥の手を取り、引いて歩いた。まるでそうするのが、当たり前かのように。
 寡黙な横山と、話さない遥はいつも隣合って、お互いの視線で饒舌に会話をしているように見えた。ほんの少し動く唇から、横山は遥の気持ちを読み取った。それは誰も入ることが出来ない領域で、二人はいつも何か大きな罰を受けているようだった。どうしてそう思うのかは、分からないけれど。
「少し、体調を崩しているんだ。多分風邪」
「そうなんだ、会いたかったな」
「伝えておく」そう言って、横山は黙った。

第二十一話

 二次会はパーティールームのあるカラオケで、南田が嫌がる旭を無理矢理羽交い締めにしてデュエットを歌い、歌が上手な菊川の泣かせるバラードで締めとなった。
 個々に皆が結婚のことを聞きに来たけれど、結局誰からもおめでとうとは言われなかった。
 分かっていた、これが現実だって。
 なのに、心の何処かで甘い期待を抱いていた。良いことは二つ同時には起こらない。必ず良いことがあれば、悪いことだってある。分かっていた筈なのに、それでも優しい言葉を期待をしていた自分が未熟者なんだと、思い知ったような気がした。
「おい、待てよ、危ないから送っていく」
「いいよ、タクシー使うから」
 西口のバスプールの前を通り過ぎようとしたら、後ろから旭が追い掛けて来た。もうすぐ日付けも変わる。誰もいないバスプールは蛍光灯の灯りの下で、寒々しく見えた。
「南田達、三次会行くんでしょう、旭は行かないの」
「俺、明日は仕事だから。もう幹事が居なくてもいいだろ。茉莉と一緒に帰る」
「じゃ、地下鉄で帰ろう。旭、終電の時間知っている?」
「確か、十二時二、三分だった」
 腕時計を確認すると、旭は急げと促して足早に、明るい新宿駅の構内へ向けて歩き出した。

「ごめん。やつあたりだった」
 間に合った終電を降りて、最寄り駅の長い階段を登っていると、旭は急に立ち止まり、振り返って話し掛けてきた。
「……気にしないで。確かに報告していなかったし。言い出しにくかったのも、あるけれど」
「ガキだよな、俺。振られてそれでも、先生は茉莉をこんなに早く手に入れようとするとは思っていなかった。考えたら先生もいい歳なんだから、当たり前なのにさ」
「わたしが頼んだの、結婚して一生一緒に居たい、って」
 長い階段を旭と並んで、暗い夜空の下にどぎついオレンジ色の街灯が照らす出口を目指して登る。段々真夜中なのに、それでも空気が震えている冷えた外気を徐々に感じた。階段にこだまするわたしと旭の靴音は、ゆっくりと響いて。
「たけちゃんは、それを受け入れてくれただけ。わたしの我儘を」
 旭を突き放すような声色は、出してはいけないものだったのに、それでも堪えきれなかった。
「それで、いいのか」
「それ以上、何を望むの。受け入れて貰えた幸福を忘れちゃいけないもの」
「……茉莉は、強いな」
 そんなことはない、ずっとそう自分に言い聞かせているだけだ。階段を登り切って、車通りがめっきり少なくなった新宿通りを、黙って歩き出した。何時もより間隔を開けて、旭は隣を歩いている。
「結婚式は、神社でするのか」
「まあ、そのつもりだけれど」
「そっか、披露宴は?」
「こじんまりと、親戚と、職場と、近しい人だけでするよ」
「小泉は、呼ぶのか」
「んーこの間メールしたら二日後に返事が来て、団体客とヨーロッパ周遊に行ってた、絶対行くねって返ってきたよ。だから来てくれるとは、思う」
 高校時代、一番仲の良かった小泉奈々は大学を卒業して、大手の旅行会社に就職した。大学時代、バックパッカーとして世界各地を歩き、面倒見が良くて、話好きで、テキパキした奈々はぴったりな職業を選んだものだと感心した。
 遥は殆ど横山と一緒にいたけれど、体育の時間や、修学旅行の班などの行事の時は奈々とわたしの所へ居た。奈々との激しい応酬を遥はニコニコ頷きながら見守ってくれて、奈々はそんな遥を好ましく思っているのは感じていた。
 たけちゃんのことを話したのは、これまでにただ一人、奈々にだけだった。二十歳上の、しかも小さな頃から父親代わりになってくれているひとが、わたしの一番大切なひとなのと、誰も居ない黄昏の教室で言った時、奈々はただ一言だけ、暮れ行く空の色を見ながら、そうなんだと言った。否定でも肯定でもない、その一言にまだ高校生だった奈々の、何か重いしこりのようなものを感じた。受け止められるなんて、思っていなかった。でも、奈々はそれを軽々とやってのけた。
「今日、小泉も来れたらよかったのにさ、ナイアガラじゃーなー」
「仕事楽しくて仕方ない、って言ってたから、今は仕事最優先なんだよ、きっと」
「仕事最優先、か」
 のんびりと言った旭の言葉に、少しだけ口元が緩んだ。
「披露宴、俺も呼べ」
「えっ、旭、いいの」
「小泉より付き合い長い俺を呼ばないつもりかよ。ご祝儀、たんまりと入れてやる。その代わり二次会で可愛い保育士さん紹介しろ」
 明るい口調で旭は言った。気遣いをさせないように、振り切るように。
「独身の先生、沢山いるから紹介するね」
「よし、豆狸より可愛い子、探すぞー」
 おっしゃーと旭は小さく叫びながら、腕を上げた。どうやら多少酔っ払っているようだ。そっと隣を伺うと柔らかな顔をして旭は笑っていた。
 もっと早く報告をすればよかった。旭はちゃんとこれからも友達として関係を続けて行こうと、考えているのを感じた。それを、言い出しにくかった、それだけのことで避けていた自分が情けない。
「旭、ありがとう」
「なんだよ豆狸。素直だと気持ち悪いな、お前は先生のことだけ考えていろよ。先生、今、色々大変なんだろ」
「大変?」
 聞き返すと旭は途端にしまった、といった表情に変わった。大変、ってなんだ、どういうこと、そう目線で訴えかけると、旭ははあ、とため息を漏らした。
「いや、噂だから俺も本当か知らないことだし、不確定なこと話しても」
「言って、どういうことか」
 立ち止まった旭は言うか言うまいか、悩んでいる表情を見せた。じりじりと焼き爛れていく気持ちが、高まっていく。
「あくまでも噂だ。先生の医院に掛かっている患者が、次々に病院を変えている、って」
「どうして、そんな」
「昔からこの辺りに住んでいる家は、茉莉が先生を好きで追っかけていたのは知っているし、ついに先生も絆されたんだと思っている。でも最近ここいらもマンションが沢山建ち始めて、新しく住み始めた人達は穿った目で、先生と茉莉の結婚を見ている人もいるらしい」
 その話に思い当たる節があった。元日の日に感じた、違和感と、そして。
「歳の差と、近所、だから」
「……先生は茉莉のことを娘扱いしていたから、なおさら」
 ああ、やっぱり、良いことは大きすぎた。


 日曜の朝から、たけちゃんの家の引越しは始まった。使うものは倉庫へ預けられ、要らないものは引越し業者が引き取ってくれる手筈になっている。
 最初、たけちゃんはリフォームの間、ご近所の空いている部屋を短期で借りる予定だった。でもお正月以来、たけちゃんへの風当たりが弱くなったじっちゃんは、うちに来い、茉莉の部屋で寝起きして、飯食って出勤したらいいじゃねぇか、とあっさり提案した。
 じっちゃんは最近おかしい。結婚式にあの人が出席することを泣き腫らした目をしながら訴えた時も、そうか、まあ、親だしな、の一言で済み、断固反対だ!と叫ぶと思っていたのに肩透かしをくらった。
 仕立ての仕事も最近はお休みしているらしく、仕事が終わって帰ったら花おばちゃんとのんびりとしている。じっちゃんは、仕立てを止めてしまうつもりなのだろうか、と心配して聞いたら、まあ、いいじゃねぇかたまには、とのんびりした答えが返ってきた。
 畳に美しい反物を広げて、立ち膝をして、身体をゆらゆらと揺らしながら、まるでリズムを刻むかのようにしているその後ろ姿と、太く短い働き者のその指が美しい着物を生み出していくのを見て育ったのに、失われてしまうのか、と不安になった。ずっと、動けなくなるまで、仕立ては止めないと言っていたのに。
「随分と処分するんだなぁ、勿体ねぇな」
「いいんだ。この家には新しい風が入ってくるんだから、古いものは似合わないだろ」
 書庫で花おばちゃんとたけちゃんの医学書やら、古い小説やらをダンボールへ入れていたら、そんな会話が居間の方から聞こえた。花おばちゃんをそっと見ると、俯きながら黙って分厚くて素っ気ない表紙の医学書をダンボールへきっちり入れていた。
 長年住んでいた家が変わっていくのを目の当たりにして、複雑な想いを抱かないひとはいない。そんな気持ちは痛いほど分かる、でもそれを言い出すことは躊躇われた。花おばちゃんを否定することになるからだ。
「茉莉ちゃん、布テープを取って下さいな」
「あ、はい。どうぞ」
 布テープを渡すとおばちゃんは少しだけ笑った。ダンボールを閉じて、素早い動きで封をすると、中に何が入っているのかをその表面に書き付けた。
「おばちゃん、わたし、たけちゃんの新しい風には、成れていないかもしれない。逆に邪魔をしているかも」
 何となく口を突いて、そんな弱音が出た。あの夜、旭は家の前まで送ってくれて、余計なこと言った、と一言だけ呟いて帰って行った。緻密に物事を考えて話す旭にしては、確かに珍しいことだった。手の内を全て見せず余計な事は言わないタイプなのに。
「どうして、そう思うのかしら」
「娘のように接していたわたしと結婚することで、たけちゃんの仕事に響いている、って。その噂で医院は患者さんが減っているって、聞いて」
 そう言うと花おばちゃんは顔をしかめた。そしてそっと手を取られた。
「茉莉ちゃん、あのね、そういうのはよくあることですよ。ほんの些細なことで気が向かなくなってしまって、掛かりつけを変えてしまうことや、あらぬ噂が立って患者さんが減るということは、あの子の父親の代でもよく、あったことなのよ。毅には、尋ねていないの?」
「……今日、引っ越しが終わったら、髪飾りの事も含めて聞いてみようとは、思っているけれど」
 じわじわと目頭は熱くなり、涙が出そうだった。よくあること、そうなんだ。でも。
「茉莉ちゃん、悲しかったのね」
 小さく頷いた。そういうことはよくあることなんだ、そう思わなきゃ。わたしはたけちゃんとの結婚が決まって浮かれすぎていた。何時だって苦しいことは突然やって来て、気持ちを抉っていったのに、嬉しくて嬉しくて気を引き締めるのを忘れていた。良いことは二つ同時には起こらない。良いことがあれば悪いことだって、やってくる。そんなこと、分かり切っていた筈なのに。
「初めてだもの、びっくりするわよね。まして、自分のせいかもしれないと思ったなら、尚更よ。ああ、茉莉ちゃん、可愛いお顔が台無しになっちゃう。折角あの馬鹿息子の為に可愛らしくしたのにね」
 花おばちゃんは持っていた手拭いで、そっと頬を抑えるようにして、流れ出て行ったものを消した。何度も、何度も。
「おー、引っ越し業者来た……って、どうしたんだ、おい」
「毅」
 初めて聞く、花おばちゃんの低く冷えた鋭い声。
「な、なんだ」
「後で話があります。引っ越しが終わったら覚悟なさい」
 穏やかで優しいおばちゃんの、本気で怒った顔は途轍もなく美しかった。息を飲むくらい。
「な、なんだ」
「おばちゃん、わたしが考えなしだったの、だから」
「この馬鹿息子は分かっていないのよ。ひとを思いやる気持ちを育てられなかったのは、私の責任ね。毅、首を洗って待っていらっしゃい」
 その言葉にたけちゃんはぶるり、と震えて殊勝にハイ、と返事をした。
「たけ、引越し屋の兄ちゃん達、入っていいか……どしたんだぁ、お前達」
「引っ越しが終わったら、詳しいお話をしましょうね」
 にっこりと笑ったおばちゃんに、たけちゃんとじっちゃんはひっ、と喉を鳴らした。

第二十二話

 引っ越しが終わって近所のお蕎麦屋さんから出前が届き、皆、無言でちゃぶ台の前に座って蕎麦を啜った。
 普段穏やかなひとが怒った時の迫力は、凄まじいものがあった。たけちゃんは胃が痛いらしく、しきりにその辺りを抑えている。何時もはざる蕎麦を三枚くらいペロリと平らげるのだが、一枚で、いい、と注文する時に弱々しく呟いていた。
「おっ、俺ァ、銭湯、行っつくる」
「染次さん、お座りになって」
 かしわそばを食べ終えて急いで蕎麦湯を飲み、逃げ出そうとしたじっちゃんを、花おばちゃんは強い口調で制した。ハイッ、と返事をしてじっちゃんは元の位置に戻る。
「毅、覚悟はいいかしら」
「ハイ」
「おばちゃん、あの、わたしが浮かれていたから、いけなかったの。だから」
「毅、茉莉ちゃんに尋ねられたことに、正直に答えなさいね。お得意の誤魔化しをしてはいけませんよ」
「……ハイ」
 たけちゃんは不安そうにわたしを見た。おばちゃんはいいわよ、茉莉ちゃんと促してくる。どうしようか、迷う。でもたけちゃんに聞いても、有耶無耶になってしまうことが続いて、もやもやはピークに達していた。
「あの、ね。たけちゃんとわたしが結婚することで、医院の患者さんが減っている、って聞いたの。それって、本当なの」
「あー………それか、何だ、そんな事でか」
 たけちゃんは、はーっと長い溜息をついた。わしわしと頭を掻いて、今度は短い息を吐いて話始めた。
「確かに何人か来なくなった人はいる。だが、予約のシステム入れたことで、何時も大混雑だった待合室が一人二人しか最近何時行っても居ない、っていうのがその噂に拍車をかけているかもな。定期的に来ているお年寄りの中には、まだ予約のシステムがよく分かっていないひともいるし、待合室は外の路地から見えやすいから、通院していないひとが通り掛って閑古鳥が鳴いてると勘違いしたのかも知れん。経営的には、予約のシステムを入れたことで患者数は多少多くなってはいるんだ。まあ、感冒が流行する時期だから、かも知れないがな」
 そうなんだ、聞いてしまえば呆気ない話だった。その話が本当だとすれば。
「大したことじゃないだろ、たかが噂で、事実じゃない」
「毅、あなたは本気で言っているのかしら」
 気楽な顔をした、たけちゃんをおばちゃんは凍るような声で聞いた。
「そのお話を茉莉ちゃんが聞いた時に、あなたは後で話すと婚約の日に約束していたでしょう。話していたら茉莉ちゃんは今日、不安で泣かずに済んだのに何故話さなかったの」
「それは、……いや、心配になるだろ、心配掛けたくなかったんだ」
 もう一度わしゃわしゃとたけちゃんは頭を掻いて、不安そうにわたしを見た。
「わたし、他の人から聞くよりも、たけちゃんから聞きたかった。たけちゃんが話してくれないって、もしかしたら本当のことなのかも、って思ったの」
「ほら、御覧なさい。毅は横暴だとお父さんのことを怒っているようですけれど、あなたも茉莉ちゃんに同じことをしていますよ。不安にさせて、誤魔化して、情け無い!」
 たけちゃんはぐっ、と黙った。じっちゃんはずっと身体をゆらゆらと揺らしている。
「茉莉ちゃんは、その噂に責任を感じて毅の邪魔になっていると思っているのよ。そう思わせてしまったのは毅、あなたなのですよ」
「おばちゃん、ありがとう、もういいよ、ね」
「いいえ、茉莉ちゃんを泣かせたら、即離婚、即破談と言ったでしょう。毅、茉莉ちゃんはあなたには勿体無いお嬢さんです。若くて可愛いのに、すぐに物事を誤魔化す、話し合いも出来ないあなたにお嫁さんに行くなんてとんでもない!茉莉ちゃんの王子様は私が見つけます、いいですね」
 すくっ、とおばちゃんは立つと、わたしの腕をぐいっ、と引っ張り上げた。思わず立ち上がることになって、慌てていたらおばちゃんは最後通告を、たけちゃんと何故かじっちゃんにも突きつけた。
「私が今日から茉莉ちゃんと一緒のお部屋になります。染次さんも、茉莉ちゃんに話さなければならないことがおありでしょう。ようく考えて下さいな」


 二階のわたしの部屋へ二人で入って、扉を閉め、おばちゃんは鍵を掛けると一気に気が抜けたようで、へなへなと座り込んだ。
「茉莉ちゃん、ごめんなさい」
「おばちゃん、大丈夫?」
 座って覗き込むと、真っ白に燃え尽きたようなおばちゃんは、こくりと一つ、頷いた。
「余計なこと、したわよね。確実に」
「うーん、でも、おばちゃんが怒ってくれなかったら、たけちゃん、教えてくれなかったかもしれない」
「……そう茉莉ちゃんに感じさせるってことは、毅、信用されていないのよねぇ」
 ぽつりとおばちゃんは呟いた。まあ、その通りだ。たけちゃんは最近、大切な話をことごとく逸らしてきて、不安が大きく膨らんではいたし。
「茉莉ちゃん、私、やり過ぎちゃったわ。どうしましょう」
「……わたし、嬉しかったよ。おばちゃん」
 そう言うとおばちゃんは顔をそっと上げた。びっくりはしたけれど、それでも言ってくれたことは、とっても嬉しかった。くすぐったいような、そんな可愛いには程遠いと自覚はあるけれど、気持ちを汲んで貰った。
「不安な気持ち、そんなに分かって貰えるなんて、思って無かったから、すっごく嬉しかった」
「……茉莉ちゃんがさっき、泣いているのを見ていたら、若い頃、結婚したばかりの頃にね、同じようなことを思って、不安で、でも応えて貰えなくて、泣きたいのに我慢したことを思い出したわ。そんなこと位で、って言われて我慢しなきゃ、って」
 そうだったんだ、おばちゃんは切なそうに目を伏せた。
「おばちゃんも、悲しかったんだね」
「……そうね、毅の父親と対等に話をしたことは無かったですもの。それが当たり前だったの。でも染次さんや茉莉ちゃんと暮らし始めたら、不安は口にしていいのだって、きちんと応えて貰えるのだと感じられることばかりでね。とても心がほっとしたのよ。なのに、毅ったら」
 育て方、間違えたわ、とおばちゃんは言ってまた項垂れた。
「おばちゃん、わたしの王子様、探してくれるの」
「……最近お喋りする若い殿方は、全員小学生なのよね。どこかにいないかしら、若くて格好良い王子様。本気で探すわね」
「でも、おばちゃんがおかあさんになってくれる方が、いいな」
 がばっ、と顔を上げたおばちゃんに笑いかけた。そう、おかあさんになってくれる方が、いい。
「わたしおかあさん、って呼びかけることは、人生の中で今迄無かったの。小さな頃からおかあさんって呼んで、なあに、って応えて貰うことが夢だったんだけれど、おばちゃんがこれからおかあさんになってくれたら、夢が叶うもの」
 花おばちゃんの目の極はみるみるうちに盛り上がり、直ぐに雨垂れのような音が畳の上に落ちた。
「茉莉ちゃん、我儘で、誤魔化すのが上手な、古ぼけたおじさんでいいの」
「うん、たけちゃんがわたしの王子様だから」
「我慢、しちゃ駄目よ」
「はあい、おかあさん」
 お互い、泣き笑いをした。手を取り合って。おかあさんって呼びかけることの出来る、そんな幸せ。悪いことの後には、良いことがやって来た。

 コツコツと扉を躊躇いがちにノックされた。涙を拭って花おばちゃんと顔を見合わせる。
「はい?」
「あーあのな、その、話、したいんだ。古ぼけたおっさんで悪いが、聞いて貰えるか」
「まあ、聞いていたのね。嫌ね」
 扉の向こうから低い、くぐもった声がして、花おばちゃんはむっとした顔をした。
「話ってなあに」
「いや、さっきのことで」
 花ちゃんと目を合わせる。まあ、このままこの状態でいても、どうにもならない。目線で花おばちゃんに訴えかけると、目尻に優しい皺のある目は、柔らかく揺れた。
 そっと立ち上がり、扉を開ける。そこには神妙な顔をしたたけちゃんと、その後ろに目線を下にしたじっちゃんがいた。
「立ち聞きは、いけないよ。二人とも」
「分かってる、すまない」
 二人を部屋へ通すと、おばちゃんは正座しながらみょこみょこと動いて二人に背を向けた。そんな姿を見て、じっちゃんの頬は少しだけ緩む。
「はーなちゃん、そめちゃんが迎えに来たぞぃ。な」
「染次さん、茉莉ちゃんに言うことがお有りでしょうに」
「ああ、茉莉公、次の休みに久し振りに、釣り、行かねぇか」
 その時に話をしよう、と言っているんだろう。小さい頃、金魚を釣りによくお堀へ連れて行って貰った。行きは歩いて、帰りは都営地下鉄に乗って。
「うん、久し振りに」そう返事をすると、じっちゃんはひとつ頷いた。
「はーなちゃん、手、繋ごうか」
 背を向けたその後ろから手を差し出したじっちゃんを、少しだけ見上げておずおずと花おばちゃんは尋ねた。
「嫌いに、なりましたか」
「花ちゃんが怒った顔は、美人さんに見えたぁ。年に一度位なら、見てみたいなぁ」
 じっちゃんは笑う、余裕のある顔で。じっちゃんを見上げた花ちゃんの横顔は、ほんのりと赤らんでいて、思わず笑みがこぼれた。そのままじっちゃんの手を取り、立ち上がった。
「じゃ、そういうことで、後は上手くやっつくれ」
 そう言うと、じっちゃんは花おばちゃんの手を引いてわたしの部屋を出て行った。素早く。
「茉莉」
 扉が閉じられる音の後、直ぐにたけちゃんは声を出した。
「たけちゃん、夫婦って、何」
「………何だろうな。どうしてそんなことを」
「分からないの。夫婦になって、お互いが心通わせて、そうやって一緒に居られるって、実はもの凄く難しいことなんじゃないか、って思う。凄く、難しいって」
「迷っているのか、結婚」
「……そうじゃない、でも、自信がないの」
 すうっ、と腕が伸びてきて、頭を抱えるようにたけちゃんは引き寄せた。すぐにもう片方の腕も腰へ回されて、体温を前面に浴びるように感じる。
「そう思わせているのは、俺か。久々におふくろに怒られたな。キレると恐ろしいの忘れてた」
「たけちゃん、わたし、たけちゃんから見るとまだ子どもかも知れない。でも悲しいことも、苦しいことも受け止めるから、言って」
「……それなんだよ。茉莉はそうやって酷い噂に小さな頃から立ち向かって、強くなったように見えるが、何時だって身を切り裂かれたような顔をする。そういうのから、少しだけ遠ざけたかったんだ。結局、泣かせたけれどな」
 たけちゃんの不器用な愛情は、深くて、なのに短慮だ。だからこそ、たけちゃんだとも言えた。ぎゅう、としがみつくように抱きついて、深く息を吸い込む。
「そう考えているって、言ってくれないと分からなかった。でも、そう思ってくれたのは、嬉しいの。だから、気持ちを教えて」
「……恥ずかしい、んだよ、そういうのは。無様だろ」
「無様なんかじゃない。すっごく嬉しかった、もっとたけちゃんを好きになったから」
 ちょっと大袈裟かもしれない、でも、本当の気持ちがたけちゃんに沢山伝わって欲しくて、言葉に思いを込める。返事は無かったけれど、息が止まりそうな程、きつく抱き締められた。

 初めてお布団を並べてたけちゃんと眠る時に、灯りを消すと直ぐに無言で手首を引かれて、暖かい腕の中に入れられた。初めてから、数えるほどしかしていない行為の予感に、情け無い位心臓の音は高鳴って呼吸は荒くなる。
「心拍数、上がりすぎだろ。おい」
 囁くように、嗤った声を耳元で感じた。きゅう、と身体が締まるような落ち着きがない感覚は、いつもいつも抱かれる度に繰り返し味わう。
「だって、好きなひとに……緊張、する」
「お前、俺のこと好き過ぎだろ。もう、慣れろよ」
 そんなことは、無理だ。多分一生慣れることはない気がした。そっと顔を上げると、おでこにチクチクした髭の感触があってから、柔らかな唇で痛みを拭うかのように優しい口付けを受けた。
「ずっと、ずっと好きなの。だから、慣れるなんて、無理。きっと、これからも」
 好き、そう言おうとした言葉は優しくて強引な口付けに塞がれた。何時も予想外の動きにこころは翻弄されて、でもそれが嬉しくてたまらなく、苦しく嫉妬に焼け爛れる。
「俺も」
 そう一言だけ唇と唇が触れ合っている状態でたけちゃんは呟くと、激しく長い大人のキスをしてきた。空気を上手く吸い込むことが出来ない位、本気の口付けに身体は潤み出した。とろりと、とろみを持つように。
 俺も、その後の言葉は言われなくても行為で感じている。言葉で貰ってしまったら、心臓は停止しかねない。
「たけちゃん、好き」
 余裕綽々の男は、まるでその言葉に操られるかのように、熱い掌をわたしの身体へ滑らせていった。この夜、長い長い愛撫に初めて全身は感電したかのような高ぶりを落とされて、ぐったりと動けなくなったわたしに小さくまるで、頑張ったご褒美のように好きだよ、と耳元から大きな喜びが注がれて、動かない頭で思った。このまま死んでしまったら、なんて幸せなんだろう、と。

第二十三話

 二月も終わりを迎えようとしているのに、今年は寒さが厳しく、一向に春めいた気配を感じない。
 バレンタインデーに手作りショコラと一緒にあげた、スマホも触れる毛糸で編んだ手袋をたけちゃんは愛用してくれている。いつも臙脂色のダウンの両ポケットに入れられて、靴を履いた後にはめると、わたしの手は直ぐにたけちゃんの手袋を捕らえた。
 握り返されて、繋いだ手は昔のように大きく振られたり、ポケットの中に納められたり、そんな些細なことに染み入るような嬉しさは、ただそこにあった。

 じっちゃんと久し振りに来たJR駅のホームから見下ろせる釣り堀は、日曜とはいえ早い時間帯だからなのかお客さんはまばらだった。抜けるような青空と背の高いビルの色が水面に映り込み、寒風が吹く度に波紋を残していく。じっちゃんは自分の竿を持ち込み、わたしは受け付けで短いものを借りた。昔から餌を付けるのはじっちゃんの役目。

「おめぇの父親のこと、俺ァ、どうやら誤解してたらしい」
 釣り糸を垂らし始めて三十分、じっちゃんはいきなり話を切り出した。何時もなら場所に拘り、真剣に練り餌の分量を考えて針に付けるじっちゃんが、今日はぽっかりと空いた真ん中辺りに荷物を降ろし、逆さにした黄色いビールケースの上に小さな座布団をそれぞれ一枚ずつ、敷いた。あまり大っぴらにしたくはない話なのだろう。そう何と無く思ってはいた。
「誤解、そう」
「冷静だなぁ、おめぇ。『どういうことなのっ、じっちゃんっ』とか叫ぶと思っていたんだがなあ。年頃の娘ならもっと、動揺するんじゃあないのか」
「何を今更。人生ここまで濃すぎて図太く育ったから、少し自分を客観視する位で丁度いいの。で、誤解って何を?」
 そう水面に浮かぶウキを眺めながら、尋ねるとじっちゃんの長い溜息が隣からした。黄色いラインの入った長い電車が、大きな音を立てて駅を通り過ぎて行く。小さな頃、じっちゃんと一緒に釣りをしながら、何両連なっているか数えたりした。楽しかった思い出。

「美妃が、近所に住んでいたお前の父親と結婚したいと来た時に、俺ァ、そんなに一緒になりたいなら出て行け、親子の縁を切る。と叩き出した。お前の父親の歳は、俺とそんなには変わらなかったしな。
 叩き出した後、父親は会社の社長をすっぱり止めて、どっかで客員教授やってるって噂は聞いてた。経済界の第一線にいた男が、美妃と暮らす為に世間から隠れたんだ。とんでもない阿呆だろ。その内におめぇが産まれたらしい。そこまでは俺もばっちゃんも、やきもきしながら見守ってた」

 じっちゃんはそこまで、ゆっくりと、でも一息に話した。今迄、じっちゃんは一言もその話をしたことは無かった。死んだばっちゃんはいつもじっちゃんから話さないよう釘を刺され、わたしの顔を見る度に苦しそうな顔をした。小さな頃は、それでも何度も何度も尋ねた。そして、堪忍袋の緒を切ったじっちゃんに容赦なく勝手口から出された。
 泣いている所を、幾度もたけちゃんに救って貰った。いない時はおじさんと花おばちゃんに。あの頑固なおじさんは、わたしのことを可哀想な子だと思っていただろう。勝手口の側でしくしく泣いていたら、古い鉄の扉が開き、濃い消毒液の匂いがして、躊躇いがちに頭を撫でられた後、棒付きのキャンディを持たされた。何時もは威張っていたおじさんの、不器用で精一杯の慰めだった。

「その内になァ、ひょっこり美妃はお前を連れて現れて、うちの様子を伺っていた。俺に内緒で、ばっちゃんに会いに来ていたんだ。それを俺ァ、知らなかった。姿を見て声を掛けようとしたら、あっという間に去っていってしまってなあ。不安になっていたら、お前の父親が選挙の準備をしているって話を聞いてな。ご近所さんも何度か美妃がお前を連れて、この辺りまで来て、帰っていく姿を見かけていたらしくて、俺ァ、興信所を使ったんだ」

 悠々と鯉は泳ぎ、尾びれで水音を立てた。はらりと何処からか枯葉が舞って、水面に落ちる。それは目に鮮やかな赤い紅葉だった。

「お前達は東京の、父親の本家にいることが分かってな。そこのお手伝いをしている婆さんから、探偵は美妃が虐待されていると聞き出した。お前を庇って、言いなりになっていると。その報告を読んだ時、はらわたが煮えくり返る思いをした。俺ァ、ご近所の伝を使って、お前の父親の母、茉莉からすりゃ、祖母さんだな、その人に話をつけに行ったんだ」

 真っ直ぐ水面を見つめているじっちゃんの、皺の深い横顔を眺めた。御節介焼きで、気性は真っ直ぐなじっちゃんなら、それ位のことはやってのけるだろう。
 わたしが虐められて激昂したじっちゃんが、本当に小さなスペースの店に駄菓子を置き始めたのは、孫を守るためだったと気がついたのは、大人に成ってからだ。
 叱ったり、怒鳴りつけるのではなく、子ども達の内側に入り込んでいけない事や、卑怯なことを諭す。仕立ての仕事がピークで忙しい時でも、その地道な関わりは続けられた。
 真夜中、下に降りると立ち膝をしたじっちゃんが、身体を揺らして日中出来なかった仕事をしているのを良く見かけた。そんな後ろ姿を見て、わたしは育った。

「今から思い起こせば、俺ァ少しばかり怒りで自分を見失っていたな。お前の祖母さんはあっさりと離婚を提案して来たよ。何時も暗い顔しか見せない女は、政治家の嫁としては失格だとね。美妃は絶対に別れない、お前の父親を支えなければ、と狂ったように泣いたよ。でも無理矢理二人とも連れ帰った」
「じっちゃん、凄いね」
「必死だったんだなぁ、あん時は」

 じっちゃんが釣竿を上げると餌は殆ど無くなっていて、ありゃ、と声を上げた。また練り餌をつけると、じっちゃんは再び水面に糸を垂らした。

「お前の父親は、何度もやって来たなあ。美妃が死んでも、お前に逢いたいと頑張ったが、俺ァ許す事なんか出来なかった。何年もしてその内に来なくなって、茉莉に何度も父親の事を聞かれたが、やっぱり許す事なんぞ出来なかった。あんな卑劣な男が父親だとは認めたくなかったしなあ。だからおめぇには、きつく当たった。知らないで大きくなればいいと思っていた。だが、おめぇは知ってたんだな。色々と」
「ご親切にこっそり教えてくれる人はいるのよ、何時だって、面白半分でね。人って満たされていないと、ここまで醜い感情を向けてくるんだ、って良く分かった。いい経験、したよ」
「……そういう強さは、たけがくれたんだなぁ。あいつはなかなかやるな」
「たけちゃんが受け止めて知っていることを教えてくれたから、わたしは救われたの。一生掛かっても恩返し出来ないものを貰った」
「そうかぁ」
「じっちゃんには、もっと沢山のものを貰ったけれどね」
「おめぇ、口が上手いなぁ。誰に似た」
「ばっちゃんじゃない」
 キシシシと隣で笑う声がした。わたしは人から傷つけられることも多かったけれど、大切な人たちからは優しさと暖かさを沢山貰った。

「たけが、おめぇと結婚させてくれ、って来て、グーで殴ったろ。次の日あいつ、わざわざやって来て言ったんだ、父親代わりで結婚しない、ちゃんと茉莉の夫になるから、お願いしますってな。そんならその証拠見せてみろ!って怒鳴ったら、あいつ糞真面目な顔で茉莉とお前の父親を、いつか穏やかに話合える親子にしたい、茉莉に足りなくて、自分に求めているものはそれだから、なんて抜かしやがった。胸倉掴んだら、茉莉は全部知ってる、しかも歪んだ話を信じて生きてる。自分の親を信じることが出来ない苦しみは、嫌という程味わった。そして、お前の父親が美妃にやりやがったことを、疑問に思っていると言い出した」

 思わずじっちゃんの横顔を見た。たけちゃんはそんな話をじっちゃんに訴え掛けていたんだ、一歩も引かずに。

「たけは、美妃の葬式の日に血相変えてやって来たお前の父親が俺に追い返されて、後を追いかけたら医院の角で男泣きに泣いていたのを見てたそうだぁ。どうして、どうしてだと唸りながら年甲斐もなくそんな所で泣いている姿を見て、美妃を心から想っている気持ちが、胸に染みたと言っていた。それがずっと忘れられ無かったと。そして、聞いた話と見た光景が一つにならず、ちぐはぐさをずっと感じていたらしい。あいつ、仕事で田舎にいただろう。その時一緒に働いてたベテランの看護婦さんが、たまたまテレビを見ていた時におめぇの父親を見て、おめぇの出産の時担当だったと言いだしたそうだ。その時の様子を聞いたら、穏やかで仲のいい、普通の夫婦に見えた、寂しそうではあったけど、と言われて、あいつ、いつか茉莉に教えてやろうと思っていたと言っていたなあ」
「そう」

 たけちゃんがいきなり結婚式の日にあの人を呼びたいと言いだしたのは、そんな理由からだったんだ。尋ねても、教えては貰えなかった、でも、素直に気持ちを出さないたけちゃんの、優しい想いに触れた気がした。

「あいつは探偵が持ってきた報告書を欲しがって、見せるとこれは虚実だと言った。そして色々な伝手を辿って、調査しているともな。年末姿を見せなかったのは、おめぇの両親のことを調べて歩いていたからだ。そしてあいつは、きっちり筋の通った証拠を集めて来た。古参の後援会会長が証言していたらしい。美妃が頻繁にうちの周りに現れていた時期、お前の父親は選挙の準備で、ほぼお国入りしていて東京には居なかったとな」
「………じゃあ、虐待は、嘘なの?」
「いや、俺に隠れて会っていたばっちゃんが、美妃の身体に酷い痣を幾つも見ていた。帰って来てからは物音に怯えて、男の客に固まっていたなぁ。だから、それはあったことだ」
「じゃあ、誰が」
 そう聞きながらじっちゃんを覗き込むと、じっちゃんはつかの間、目を閉じた。
「それは、おめぇの父親が鍵を握っているだろうよ」
「だから、会うことに反対しなかったんだね。……じっちゃんはその話を信じるの」
「あの男は、百戦錬磨の獅子だからな、きれえなことばかりでは生きてねぇだろうさ。ただ、美妃を攫って行った後も、あの男は定期的に連絡は寄越しては来ていた。誠意が無かった訳じゃねぇ。だが、俺ァ気に食わなかったんだ、あの男が。信じられなかったが、今は、あの男の話を聞いてもいいとは思っている」

 じっちゃんは、もう一度竿を上げた。そしてわたしの竿もそっと取ると、上げて釣り針を見た。餌はまだ付いている。駅では長いオレンジ色のラインが入った電車が、ゆっくりと発車する所だった。
 寒風が吹く度に、抜けるような青空に浮かんでいる薄雲は、まるで綿飴のように広がり流れていく。

「俺ァ、おめぇが父親と会う機会を、潰してきたんだ。茉莉に有無も言わせずにな」

 じっちゃんは済まなかったとも、悪かったとも言わなかった。でも、その声音に深く深くそのことを考えていると感じられた。許しを乞うようなことはしない、そんな姿勢をじっちゃんは貫いた。
 勝手口から家に入ることを許されて、ごめんなさい、もうしませんと泣き腫らして謝る度、じっちゃんはナイフで薄皮を切った時のような、歪んだ表情を何時もしていた。それは、今も、同じく。

「じっちゃん、長生きして。ずっと、ずーっと」
「………分からねぇ。七十超えてるからなぁ」
「曾孫だけじゃなく、玄孫の代も会える位、長生きしてね」
「………おめぇは、たけの長寿を願え。あいつは確実におめぇより先、逝くぞ」
「たけちゃんは生命力強そうだから心配してない」
「本当に、おめぇは強い子になっちまって。もっと当面の二十三歳だったら、泣いたりわめいたりするもんじゃないのかねぇ。年齢詐称してねぇよな」
「保険証、見る?」
 そう言うとじっちゃんはキシシ、と笑った。

 その日、じっちゃんもわたしも、釣果は無かった。寒風吹く中にいたせいなのか、どうなのかは分からない。でも頑健だったわたしはその日の夜半に、高い高い熱を出してうなされ、隣の布団のたけちゃんは寝ぼけながらもずっとわたしの身体をさすってくれた。安心出来るように。

第二十四話

 明け方、そっとおでこに暖かい大きな手が当てられ、すぐにカーテンが少しだけ開けられて、古ぼけた学習机の上にある年季の入ったデスクライトが点いた。はあ、とため息の後に、枕元に置かれた往診用の鞄を開けている気配がした。
「ちょっと診せてくれ……熱、高いなあ。どれ」
 たけちゃんが話す言葉と共に、おでこに赤い光を感じたかと思ったら、ピッ、と高い電子音がした。その後、丁寧に何度も優しく首筋や手へ触れられて、いくつか質問された。吐き気はないか、とか他に痛いところは、とか。浮ついた口調で返すと口を開けるように促され、灯りの方へ上向きにされ、覗かれた。
「ちょっと失礼」
「や、やだぁ、……何、するの」
 色気も無く乱暴に布団を剥がされて、チュニック風パジャマの胸のボタンにたけちゃんは手をかけた。そして身体は起こされる。たけちゃんに支えられるように。
「あ?聴診に決まってるだろ。何期待してるんだよ、エッチね、茉莉ちゃんた、ら」
 ニヤッニヤし始めて聴診器を付けた、たけちゃんを冷たい目で睨みつけると更に、ニヤッニヤしてこちらを見下ろしている。外されたボタンの胸を控え目に広げられて、冷んやりとした丸い金属を感じた。何度も、何度も。
「………お前さ、俺のこと好き過ぎるだろ。ちょっと落ち着けよ」
「だって、っ、勝手に、なっちゃう」
 それでなくても熱いほおは、更に熱くなっている。たけちゃんは聴診器を耳から取ると、そっと頭を撫でてくれる。
「おっちゃんの話、どうだった」
「たけちゃんの気持ちが、嬉しかったよ」
 そう言うと、たけちゃんは眉間に皺を寄せた。
「おっちゃん、墓場まで持っていくと思ってたのにな。茉莉にそこまで話したのか……まあ、お前相手なら、話さざる得ないか」
「じっちゃん、謝らなかった。謝って許して貰おうともしなかった。でも、それでいいの」
 たけちゃんはゆっくりとわたしの身体を横たわらせた。そのまま一緒に、肩肘をつきながら添い寝して、片手で器用にわたしの胸のボタンをとめ、布団はふんわりと掛けられた。
「茉莉は知恵熱だな。おっちゃんの話を聞いて、心の負担が大きかったんだろう」
「知恵熱、って赤ちゃんがなる、アレ?」
「そうだ。まあ、大人がなるのは全く違う病名だが、平たく言うと知恵熱だな」
「なんだ、じゃあ、大丈夫だね」
「阿呆、今日は一日横になっていろ。大人の知恵熱は厄介なんだからな。休みなんだろ」
 わたしの勤める保育園は、週休五日制なのだが土曜日も夜遅くまで開園している。先週土曜日に出勤したので、今日は週休だった。
「えぇっ、やりたいこと、色々あったのに」
「主治医の言うことは聞いた方がいいでっせ、茉莉ちゃん」
「なんで大阪弁なの」
「さあなあ」
 呑気に言って笑うたけちゃんに、擦り寄ってしがみ付いた。あつっ、と叫んだたけちゃんは、それでも背中に腕を回して、さすってくれた。好きなひとにくっ付いて優しくされて、そんな幸せは目を閉じると、熱のように身体に染みてくる。
「茉莉の小さい頃に話してやりたかったが、おっちゃんは渋谷さんの事が出ると、阿修羅像のように怒髪天を衝いていたからな。大人になって、結婚する時にこっそり教えてやろうと思ってた。まあ、自分が相手になるなんて思って居なかったけど、ずっと一緒に生きていくのなら茉莉の抱えている荷物に、少し口出ししたくなったんだ。お節介なのは重々承知だけどな」
「たけちゃん、あの人と会えっていったのは、それでなの」
「……まあな。無理矢理押し付けたが、俺も謝らないからな」
 たけちゃんの硬い胸に、おでこをぐっ、と押し付けた。そっと、ゆっくりと頭を撫でられて、その大きな手の動きを身体は喜ぶ。とろりとした眠りの気配を感じると「少し、眠れ」と低い声に促され、そのまま目を閉じた。俺も謝らない、そんな言葉にたけちゃんらしい、と思いながら。


 三月の下旬のよく晴れた寒い大安の日の夕方、婚姻届を区民センターへ歩いて出しに行った。今年は春が遠い。例年なら早咲きの桜が咲くころなのに、蕾は依然として固かった。婚姻の証人は、じっちゃんと花おばちゃん。二人とも照れたような口調で自分でいいのか、と言った。誕生日の昭和と平成の年号の違いによく分からない感情も湧いたけれど、二人並んだ名前にしみじみと夫婦になるんだ、と実感が湧いた。
 受理されました、おめでとうございます、と言われ、直ぐに住民票の取得手続きをした。鈴木茉莉と書かれた氏名の欄を束の間眺めて、急いで封筒に仕舞った。そのまま出し続けていたら、まるで消え去ってしまいそうだと、そんなことはある筈はないのだけれど、でもそう思ってしまったから。
 帰りに区民センターの前のポストへ、披露宴に出席をお願いする招待状を出した。こじんまりと思っていたのに、出した招待状はかなりの枚数になった。その内の一枚は父へ、また一枚は旭へ届く。わたしたちと出会って、縁があるひと達の元へ、無事に届くように、何故かたけちゃんと二人、ポストの前で柏手を打った。
「さーて、じゃあ、なんということでしょう、やりにいくか」
「なにそれ、もう、浮かれすぎ」
 リフォーム番組の曲を口ずさみ出して、たけちゃんはわたしの手を引く。たけちゃんの家のリフォームは三日前に終わっていて、荷物はこの週末に入る。たけちゃんはリフォームのことを、ご近所で建築事務所を経営している井口さんのご夫婦にお願いしていた。数年前に医院のリフォームもしてくれていて、うちの屋根ぶち抜いた毅ちゃんが、新婚リフォームのお客様になるなんてねぇと打ち合わせの時に、奥様にからかわれ、たけちゃんはほおを赤らめていたけれど。
 息子さんも建築家で結婚されていて、小さな子どもがいるので、一緒に参加してくれて将来を見据えての間取り作りになった。絶対やって欲しい、とたけちゃんは譲らずこだわったことは、ちゃんと出来上がったのか、見るのが怖い。
「新しい鈴木家へ、ようこそだな。茉莉ちゃん」
 医院の表玄関の脇から狭い私道に入ると、綺麗になった和風のイメージな扉をたけちゃんは、ポケットキーで開けた。医院の外観は昔ながらの古い洋風なのだ。でもこの扉はそんな外観にもしっくりと何故かなじんだ。
「いやーいい感じに仕上がってるから、期待しておけよ」
「はいはい、分かった分かった」
「何て冷静な返しなのかしらっ。茉莉ちゃん冷たいわっ」
 よく分からないしなを作ったおっさんを横目で見つつ玄関に足を踏み入れると、藺草の香りがした。途端に警備システムの警告が鳴り出し、たけちゃんはすぐに解除して在宅にする。たけちゃんのこだわりその一、畳敷きの家にしたい。
 流石に玄関は板張りだけれど、居間は総畳敷きだ。みちおじさんに何度、毎度っ、茉莉ちゃん良い奴入れてやっからな、期待していーぞーと言われた事か。
「どうだ、玄関は」
「うん、玄関、だね」
「なんつうか、身も蓋もないな」
 そんなことはない、よくこの狭い玄関に、通り抜けが出来るクロークを作ってくれたと思う。工夫満載の玄関は一見シンプルだけれども、使い勝手は良さそうだった。
「あ、じっちゃん達来たね、声がする」
 たけちゃんが玄関の扉を開けると、程なくしてじっちゃんと花おばちゃんが姿を見せた。じっちゃんはお重の入った風呂敷包みを高々と掲げ、機嫌良く言った。
「ごっつぉ、持ってきたぞい。無事に届けは出せたのかい」
「あんなにあっさりなんだね。拍子抜けしちゃった」
「良かったわね。二人とも、おめでとうございます」
 にこにこした花おばちゃんに言われて、たけちゃんと顔を見合わせる。
「ありがとうございます、おかあさん。末永く、よろしくお願いします」
「こちらこそ。茉莉ちゃんがおかあさん、って呼んでくれて、胸一杯よ。何だか泣けてきちゃうわ」
「なんでぃ、なんでぃ、こんな玄関でよう。ホラ、料理が冷めちまうだろ。上がって喰おうぜ、花ちゃん特製のごっつぉだぞ」
 頭を下げたわたしに、じっちゃんは明るく振る舞う。でもその後、玄関の使い勝手の良さをじっちゃんとおかあさんと、わたし、三人でああでもないこうでもないと、見聞した。それを何時もならイライラと見守るたけちゃんは、階段に座りながら笑って待っていてくれた。

「ほーっ、こりゃ、すげぇな。たけの財力の底力見た気がするわ」
「まあ、建て替えた方が安くついたかもしれないが、外側はじーさんがせっせと働いて手に入れた医院だから、壊したくはなかったんだ」
「綺麗になって、跡形もないのね」
 そう言っておかあさんは、灯り取りがついた吹き抜けの天井を見上げた。今までは暗かった居間もこれで、自然の光が入るようになる。たけちゃんのこだわり、その二。
 それでなくてもこの家の造りは複雑だった。表玄関から登る階段と裏口にある、医院へ通じる扉がある階段とがあり、玄関脇に扉を付けて階段を一つに、と考えたが、そうなると待合室に扉ができることになってしまい、たけちゃんは無理だーと叫んだ。毎回、登場の仕方を考える羽目になって、悩みが増えるのは御免だ、ということらしい。
「これでお袋も来やすくなっただーろー」
 腰に両腕を当てて、たけちゃんはドヤ顔をしたのを受けて、おかあさんはにこにこしながら、はいはいそうね、と言う。じっちゃんと釣りに行った日、残された親子は何を話したのかは伺い知れない。でも確実にたけちゃんが少年のようにおかあさんへ胸を張り、それを優しく受け止めて貰っている元のような関係は復活していた。
 結婚式は、毅の母として出ますね。前日は皆でご飯を食べて、それぞれ水入らずで過ごしましょう。そうおかあさんは提案してくれた。その言葉を聞いて、皆が嬉しくなったのだ。良かった、そう思う。
「それにしても茉莉ちゃん、このテーブルは厄介よ。定期的にオイルで磨いていかないといけないもの。毅、どうしてこれ、残したの」
 掘り火燵に置かれた大きな光沢のある、一枚板で年代物の重厚なテーブルを見て、おかあさんはため息をつきつつ、話した。
「んーまあ、でも、これ、俺がメンテナンスするから残したい、って言ったんだ。井口さんもここまで手入れされて、受け継がれてきたテーブルを無くすのは勿体ないって言ってくれたしな。手入れはお袋と小さな頃、よく一緒にやってたから覚えているし、歴史が詰まっているから」
 たけちゃんのこだわりその三、大きなテーブルを使って、掘り火燵を作りたい。
「どら、おお、この掘り火燵ってのは楽だなあ。さあ、ごっつぉ喰おうぜ。俺ァ、腹減った」
 早速柔らかな光に包まれた居間の、掘り火燵の上にじっちゃんはお重を広げた。たけちゃんは何処かに居なくなると、ビールの六缶パックを持って現れる。
「美味しそう。お祝い膳作ってくれて、ありがとう」
「なあに、いいってことよ。作ったのは花ちゃんだけどなぁ。じっちゃんは刺身切っただけだぁ」
「毅、お皿とお箸、開けて頂戴な」
「ほいほい」
 それぞれが美味しそうなご馳走をお皿に取り分けて、穏やかに乾杯した。

「新居も出来上がって、入籍もして、後は結婚式かぁ。茉莉公がうちから出て行くのか」
「おっちゃーん寂しいのか」キシシとたけちゃんは笑う。
「ちっこい頃から育ててきた孫が嫁に行くとなりゃ、 思う所はあるってなもんだ。まあ、ここには入り浸るけどな」
「染次さん、いけませんよ。新婚さんのお邪魔をしては」
 じっちゃんのお皿にほんの少しだけ、ちらし寿司を盛っていた花お母さんは、じっちゃんをきゅっ、と睨んだ。そんな仕草も、じっちゃんを破顔させるけれど。
「いいんだ。裏口の鍵、渡しておこうと思っていたし、何時でも来てくれよ。わざわざ表玄関に回るのは大変だからな」
 そういってたけちゃんは立ち上がると、台所の棚の中に入っていた茶色い紙袋を持ってきた。
「これ、おっちゃん所に置いておいてくれよ。茉莉はこっちな」
 じゃらりと音が鳴る大きな鍵束をたけちゃんは、差し出して来た。余りの量の多さに持ち上げていた旨煮を皿へ戻して、受け取る。
「こんなに沢山あるの。無くしそう」
「おいおい、無くさないでくれ。一応、この建物全ての本鍵だ。金庫を含めて、一緒に管理してくれ」
 本鍵、その言葉にたけちゃんを見る。ずっしりと重い鍵と共に、重い仕事を仰せつかった。でも、それが、たけちゃんの奥さんのやるべきこと、だ。
「わたしで、いいの」
「今日から俺が死んだら、お前がこの建物の相続者になったんだ。責任重大だぞー肝に銘じろ」
「はい、頑張ります」
 掌に乗った鍵束をもう一度見る。重い、でもその重さで惑うことなくたけちゃんと結婚して、妻になったんだ、そう思った。それは嬉しさもあったけれど、胸を広く開いて体の芯をぎゅっ、と引き絞り、そして臍の下にバランスを置いて、そうして前を見据えて生きて行く、そんな象徴を身体に刻みつけるような重さだった。

第二十五話

 週末、無事に荷物も入り、新しい家具や家電もこの日を指定して届けて貰ったので、一気に生活感が増した。家具や家電をたけちゃんは結構前から、カタログなどで目星をつけていて、なんと一日で新宿の家電量販店と、家具店を回り即断即決した。毎日寝る前に熱く商品のプレゼンを受けていたので、まあ、そうなるだろう気はしていたけれど。
 ホットプレートやミキサーといった、小物の調理家電も一緒に買って、宅配して貰おうよ、と提案したらそれはおいおいでいいだろ、と却下された。これを機にちょっとお高いお鍋が欲しいと言っても、後で後でと取り合ってもらえず、まあ、物入りが続いたから落ち着いたらでもいいか、と思い直した。少しだけ淋しい気分にもなったけれど。
 結婚式が終わってからたけちゃんの家へ移ろうと思っていたのに、じっちゃんは何故か熱心に「もう夫婦なんだから、たけんちへ行け。結婚式の前の日だけ帰ってこいや」と言った。それで急遽、最低限の荷物だけ新居へ移したのだが内心、少しだけつまらないような放り出されたような、妙な気持ちが湧いた。

 新年度になり、異動が無かったわたしは初めてのフリークラス担当になった。つまりクラスを持たないで、週休の先生のクラスに入り保育をする。個別に呼ばれてその発表を園長先生から聞いて、戸惑いは大きかった。でも園長先生はニコニコしながら、「茉莉先生、鈴木先生もいい歳でしょう。頑張って貰って、頑張って産んじゃいなさい。来年から、産休と育休がっちり取ってまた復帰して。お母さん先生は、保護者にとって本当に有り難いのよ。そうなって、ねっ」と肩を叩かれた。
 頑張って貰って、の言葉に赤面して、まあ、そんなに簡単にコウノトリは来るものでもないですよ、とは思ったものの、新年度に主任が新たに異動してくるので、その補佐も兼ねてなのだろうと思い直した。園の全般を見て、自分の仕事を見つけてやっていかねばならないフリークラスは、四年目にして今までの実力と力量が問われている気がした。

「今日の健康診断、米田さんと来るの」
「あー、そうだな、米田さんだ。十時だもんな。予約もそんなには入っていないが、うーんでも、早目に診察開始するか」
 朝ご飯を食べながらスマホで予約数を確認していた、たけちゃんはそのままよそ見をしながら目玉焼きをぶっすりと箸で刺した。
「もう、ご飯こぼすよ」
「んー分かってる、分かってる」
 なんて言うか、空返事だ。じっちゃんと花おばちゃんと四人で朝ご飯を囲んでいた時は、そんなことは無かったのに、新居に移ってからは毎朝こんな感じだ。まあいい、朝ご飯を食べながら仕事の算段をしているんだろう。会話も弾まないし、とちょっと不貞腐れて食べ終わると、食器を洗って身支度を整えた。
「それじゃあ、お昼は冷蔵庫の中に入れてあるから。また後でね。行ってきます」
「おー」
 おーって、それだけ、なの。もうちょっと新婚なんだから、何かないの。そんなことを思うけれど、たけちゃん相手にそれを求めてもキシシシ笑われるだけだ。表玄関まで降りるとスニーカーを履いて、一応行ってきまーすと二階に向けて声を張り上げた。

 フリー保育士の仕事は、朝の子ども達を受け入れる玄関対応から始まる。開園するのも仕事の一つだ。なので年中、早出が続く。たけちゃんはおっさんだから、朝起きるのは早くて助かっていた。まあ、八時半から診察開始なのもあり、悠長にしていられないのもあるのだろう。
 玄関対応をしながら、今日の健康診断で使う個人調査票をクラス別に分けて用意する。来客用の湯呑みを洗っていると、園長先生が出勤してきて、挨拶を交わした。
「鈴木先生、今年はどんな帽子で来るのかしらね。茉莉先生、聞いてみた?」
「それが、トップシークレットだ!って叫んで、教えてくれませんでした」
「家の中に無いの?」
「医院のデスクの中に隠して居るらしいです。わたしも医院の中には余り入らないので、分からなくて」
「春の風物詩よねぇ。ホームページ用の写真、お願いね」
「はい、そうでした、カメラも用意しておかないと」
 たけちゃんは毎年、死んだおじさんから園医の仕事を引き継いだ時から、健康診断には妙な帽子を被って来ているようだ。受け狙いなのかは分からない。でも、ゼロ歳から三歳位の子ども達は診察中、その帽子に目が釘付けになり、四歳以上になるとテンションが上がるので健康診断が終わった後に、たけちゃんはわざわざクラスを回ってご披露してくれる。年長の子ども達はもうすっかり分かっていて、毎年この時期になると予想用紙がクラスの壁に張り出される。去年はつぶらな瞳のポニーの帽子だったので、今年は動物系の予想が多いようだ。
 園に通っている子の保護者のみ、閲覧出来るホームページにも園医の紹介として毎年写真を撮らせて貰うのだが、それにも帽子は登場する。ふざけているんじゃないですか?と苦情が入りそうなものだが、保護者からも楽しみにしていると言われて年々たけちゃんの帽子は、派手目になる傾向にある。
 カメラを用意していると、玄関から元気なおっはよーございますの挨拶があって、慌てて事務室を出た。

 十時の十五分前に保育園の門にあるチャイムは鳴った。たけちゃんが往診カバンを持って、ピンク色のカーディガン米田さんがニコニコしている姿がインターフォンに映し出される。お待ちしていました、どうぞ、と声を掛けて、セキュリティを解除した。
「園長先生、お見えになりました」
「はーい。ちょっと、先にお出迎えお願いできる?すぐに行くから」
「はい」
 そう答えながらも、言い方はお見えになりましたでよかったのかな、とか悩んでしまう。園医なのに身内、ややこしいことこの上ない。
「こんにちはー毎年恒例のアレ、しにきましたー先生が」
「こんにちは。米田さん、今年は何ですか」
「まだ内緒に決まってるだろ。今年のは自信がある」
 玄関で靴を脱ぎながらえっへん、と胸を張るたけちゃんを冷たい目で見やると、後ろから来た園長先生は笑いながら言った。
「まー夫婦仲良しでいいわねぇ。鈴木先生、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。コレがお世話になってます」
「コレって、酷い」
「そういうガキな所がコレなんだよ。阿呆か」
「はいはい、夫婦喧嘩しないで、用意しましょう、若先生」
 米田さんに笑いながら促されて、思わず肩を竦めた。事務長さんと看護師長の米田さんが中心となって、可愛らしいからくり時計の置き物を、医院の職員の皆さんからお祝いとして頂いた。医院の看護師さんは結構な大所帯で、子育て世代のママさんと、その上の世代の方ばかりだ。働き方もお互いに子どもの用事で都合がつかないときにはフォローしあったりして、週二日だけうちの保育園に一時保育として預けて働くママさんもいる。今、医院の皆さんは診療を一時中断中なので、ほっと一息タイムだろう。
 スリッパを勧めた後、園長先生が先導して、事務室へ入る。用意が出来た所で、ゼロ歳児のつくし組を呼ぶのと手伝いを兼ねて、廊下を歩き出した。

「失礼しまーす………って、あははは」
 先頭で二人抱っこして事務室へ入って行った里菜先生は、すぐに笑い声を上げた。ゼロ歳児は全部で十五人、担当保育士は五名だが、順繰りに事務室へ行っては同僚が、今年はイイ!と言いながら帰ってくる。ベテランの明美先生と、園に二人いる男性保育士のうちの一人である、雄大先生は何かと冷やかしてくる癖に、今年の帽子は教えてくれなかった。なんていうか、去年までは白い目で見ていたら良かったのだが、身内になると居た堪れない。部屋でそわそわと待ちながら、最後の三人を里菜先生と連れて事務室に行くと、そこにはホイップクリーム付きのいちごがドヤ顔で座って居た。
「奥さん、にっがーい顔してますけれど、鈴木先生、いいんですかぁ」
「何だよ、受け入れろよ、ハニー」
「ハニーって呼ばれているの?茉莉先生」
「そんな訳ないじゃないですか、呼ばれていません。他のクラスも待っているので、検診お願いします」
 個人調査票に結果を記入していた園長先生の質問に、慌てて答えた。絶対来年異動になりたい。生温いニヤついた空気に囲まれて、そんなことを思う。
 里菜先生に抱っこされている大貴くんと浩輔くんは、二人ともいちごに釘付けだ。ふと見るとさっきまで愚図っていた陽菜ちゃんもわたしに抱っこされながら、いちごをじっと見つめている。
「はい、じゃあ、大貴くんから」
 里菜先生が抱っこして、シャツとオムツ姿の大貴くんをたけちゃんが診察している隙に、じっくりといちごを眺める。何処で買ったんだろう、ホイップクリーム付きのいちご。良く良く見るとサイドにSWEETと金字で書かれていて、嫌な予感がした。まさか、ね。
 しかし、いい歳のおっさんがこんな事やっていていいのだろうか。たけちゃんは今年で四十四歳でしょう。
「はい、じゃあ、最後に陽菜ちゃん」
「茉莉先生、先に戻っているね」
「あ、里菜先生、ちゅうりっぷさんに帰り、声掛けて貰えませんか」
 オッケーと言った里菜先生は、大貴くんと浩輔くんを抱っこして事務室を出て行った。代わりに瑠菜ちゃんを抱っこして、椅子に座った。
「よーし、ペッタンするぞ」
 たけちゃんはちゃんと、小さな子にも目を合わせてこれからすることを教えてくれる。陽菜ちゃんは戸惑ったように身を固くしたけれど、愚図ったりしない。いちごに釘付けで、丁寧に足やお腹に触れられても、口の中を見られても、静かだった。毎年、検診はこんな感じでたまに泣く子はいるものの、大体はスムーズに進んでいく。まあ、白衣着た人がいちごの帽子被って居るんだからインパクトは大きい。
「よし、おしまい」
「いいわねぇ。近い将来、こうなってね茉莉先生。鈴木先生、頑張って」
 園長先生が言ったいいわねぇ、の意味が分からずたけちゃんを見ると、何故かいちごはほんのりと赤かった。
「あの、それってどういう」
「んもう茉莉ちゃんったら、医院の後継者、待ってま〜すってことよ。あ、上手くいったらね、ねー若先生っ」
 側で控えていた米田さんが、ばしっ、とたけちゃんの肩を叩いた。何ていうか、年配の人は容赦、ない。ほおが赤く染まるのを感じながら、陽菜ちゃんを抱っこすると挨拶をして、立ち上がった。

 全て検診が終わった後でたけちゃんはお茶を一杯急いで飲むと、早速いちごの帽子を被って事務室を出て行った。これからクラスを回るのだろう。使った器具を熱湯消毒するためにバットへ広げていたら、年長ひまわり組の琉星くんと、萌香ちゃんが事務室の入り口へ早足にやってきた。
「茉莉先生っ、茉莉先生っ、早く来てっ」
「何かあったの」
「早く、早くっ、ひまわり組に来てっ」
 二人ともお当番バッチを付けているから、今日のお当番さんなんだろうけれど……何でこんなに目がキラキラしているんだろう。怖い。
 まったりお茶を飲んでいる園長先生と米田さんに、ちょっと行ってきますと声を掛けて廊下へ出ると、がっしり二人に両腕を捕まれた。まるで離さない、と言わんばかりに。
「みんなー茉莉先生連れてきたーっ」
 何故か四歳児のばら組の子どもたちも、一緒に絵本コーナーに座ってわーと歓声を上げた。部屋に入ると白衣のいちごは何故か仁王立ちしている。あっという間にたけちゃんの隣に立たされると、年長ひまわり組担任の由香先生はさん、はいと音頭を取った。
「まりせんせい、すずきせんせい、ごけっこん、おめでとー!」
 わぁーと歓声と拍手が上がって、涙が出そうになった。相手はいちごだけれど。
 特に年長ひまわり組の子ども達は、新卒で保育園に入った時に初めて受け持った子ども達だ。その子達にも祝って貰えて、とっても嬉しい。隣にいるのはいちごだけれど。
「はい、みんな、茉莉先生と鈴木先生に聞きたいことある人っ」
 はいっ、はいっ、と手が上がって、思わず由香先生を凝視した。よけいなことを!そう目で訴え掛けてもひまわり組の担任はニヤニヤしている。自分だって新婚のくせにっ、なんてことだ、でも大した質問は出ないだろう、いざ当てられたらモジモジとするのが小さい子だ。と、思っていたの、だが。
「はいっ、茉莉先生は鈴木先生のどこが好きですかっ」
 一番に当てられたみのりちゃんは、度肝を抜かれるようなことを言い出した。これは、この質問は、絶対大人が介入している。間違いない。
 ちろりと横目で見ると、いちごは言っちゃえよハニー、とかのたまわった。子ども達は爆笑して、いちごはドヤ顔をしているけれど、そんなに面白くはないぞ子ども達よ。そしてちゃっかり写真を撮っているのは、誰だ。
「………うーん、いちごなところ、です。そして今日の夜、このいちごはギッタンギッタンに切り刻んで、イチゴジャムに煮てやります」
 隣を睨みながら言うといちごが味付けは、はちみつです!と言い出した。子ども達は大受けして、ばら組担任の拓也先生からは夫婦漫才はやめろーとヤジが飛ぶ。なんていうか、わたしのうるうるを返せ、子ども達よ。
「たけちゃん、もう仕事に戻りなよ。患者さん待っているでしょっ」
「朝イチで来た患者さんはもう皆診てきた。患者さんが来たらメールくる筈なんだが、まだ来てないしな。はい、次の質問カモーン」
 頭痛い、絶対ジャムにしてやる。次々と出された心臓が止まりそうな質問に、冷や汗をかきつついちごを睨み、のらりくらりと質問に答えた。

 今年の園医の紹介は、わたしも一緒に米田さんやいちごと並んでいる写真になった。需要はあるのか、と思っていたら、保護者の皆様から「いちごの旦那さまを大切に、ね」とか「新婚さんは甘いねー」とか有難いお言葉を生温く頂いて、もうすぐ結婚式なのにもう一つの憂鬱な予定と共に、わたしの胸をギリギリと痛めたのだった。

第二十六話

 挙式の前日、お休みを頂いて最後のフェイシャルエステと、初めてのネイルをしにホテルのサロンへ行った。簡単に最後の打ち合わせをして、明日、あのもう懐かしくなりつつある小さな店のある家に、着付けとお化粧をしに来てくれるヘアメイクさん達を紹介された。
 じっちゃんは昔ながらの当日、花嫁が家から支度を整えて出ることに拘り、神社の奥様に相談するとなんと、どちらにしろホテルから来て貰うのは同じだから、聞いてみるねーと言ってくれて後日、あっさり了承を貰った。
 昔の花嫁は家で支度を整え、それから相手方の家まで花嫁行列をして、そのまま披露宴をしたらしい。明日はたけちゃんがお迎えに来てくれて、じっちゃんとおかあさん、たけちゃんの叔父さん、美沙おばちゃんと勝久おじさんで、天気が良ければ歩いてお稲荷様を経由して神社へ参内する。神社の手前で先導してくれる朱里ちゃんと真吾くん、そして父と合流する予定になっていた。明日は晴れの予報で、気温は上がらないようだ。
 白無垢は今頃、美沙おばちゃんが届けてくれている筈だった。一度も見たことはないのだが、大丈夫なのだろうか。そして、髪飾りの出処のことはすっかり忘れてしまっていて、髪型の打ち合わせの時に思い出し、たけちゃんへその事を尋ねようとする度に違う話題を振ってきて、そちらに集中してしまい結局聞けず仕舞いだった。

「じっちゃーん、開けてー」
 店側の扉から中にいたじっちゃんへ声を掛けると、怪訝な顔をしながらも扉まで来て開けてくれた。古臭いチャイムの音は最早、懐かしい。
「なんでぇ、扉位、自分で開けろや」
「いや、そうなんだけれど、爪が折れそうで怖いの」
 じっちゃんへ桜貝色をベースとした、ラインストーンとパールのついたネイルを見せる。ひょおお、と叫んだ後でじっちゃんはおそるおそる言った。
「茉莉公、いつからそんな爪が長くなった。それじゃ、何にも出来ないんでねぇのか」
「仕方ないでしょー花嫁さん仕様なのっ。爪短すぎるからって、付け爪つけられたのっ」
「まぁー可愛い。茉莉ちゃん、プリンセスみたいね」
 奥から出てきたおかあさんは、ニコニコしながら付け爪の手を取った。プリンセスは言い過ぎじゃないだろうか。そうなると王子はいちごになってしまう。それは嫌だな。
「いいわねぇ、私も一度してみたいわ」
「はっ、花ちゃん止めてくれぇ。そんなのになったら、刺されそうだぁ」
 ひいい、と声を上げたじっちゃんを、二人で顔を見合わせて笑った。
「そうだ、美沙おばちゃんは来た?白無垢だけ見てないから不安で、急いで帰ってきちゃった」
 そうわたしが言うと、じっちゃんは途端に顎がガクガクし始めた。まさか、届いていないのか。一気に不安になると、じっちゃんは大きな声で叫んだ。
「奥の部屋の、衣桁に掛けて、あるぞぃっ」
「ぞい?」
「茉莉ちゃん、まずはご覧なさいな」
 にこにこしたおかあさんに促されて、とにかく靴を脱いだ。お行儀悪いけれど後ろ向きで。小さい頃、そんな脱ぎ方をしたら、じっちゃんのお小言が待っていたものだが、今日は何も言われなかった。

 その白無垢が、誰の手によって仕立てられたかは、一目見ただけですぐに分かった。優しいクリーム色がほんのりと白に乗せられた正絹の上には、美しくも手の込んだ刺繍の御所車と幾つもの花々が浮き上がっていた。頭の中で貧乏性が災いしてか、総額いくら掛かったのかを計算してしまう。じっちゃんの手間賃は決して安くはない。まともに買ったら、それなりの車一台分は絶対するだろう。
「おめぇは明日、これ着て花嫁さんになるんだぞ」
「じっちゃん、これはまずいよ。うちは貧乏なはずでしょう。この後どうするの!」
「おめえときたら、大学行けるくらいの蓄えはしてたっていうのによぅ、短大行って、返済不要の奨学金なんて引き当ててきちまって、このじじい孝行が。これは田浦呉服店に依頼されて、俺が仕立てた貸し出し用婚礼衣装だ。まあ、おめぇにしか貸し出さないがな」
「じっちゃん、馬鹿だよ」
 語尾は震えた。じっちゃんは本当に馬鹿だ。白無垢のお金があれば、夫婦水入らずで海外旅行に行ったり、京都で歌舞伎見物したり、色々出来るじゃないか。
「じっちゃんが支度、整えてやりたかったんでぃ。こんなに早く花嫁になるたぁ、思って無くて焦ったわ。いいか、白無垢は死に装束なんだ。一度死んで、たけの色に染まる、って言うこった。そして、いつか本当に棺桶に入る時にも、これを着てあの世へ送られる。これはおめぇがあの世に来るまで、貸しておいてやっからな。いいな」
 小さな痩せた身体に抱きついた。幼かったあの日のように。じっちゃんは、爪っ、爪がいてぇっ、刺さる、刺さってるっ、と叫んだけれど、構わなかった。
「じっちゃん、有難う」
「おいおい、まだ言うなよ、この茉莉公。明日の朝、家を出るまでは聞かねぇからな」
「染次さん、茉莉ちゃんから三つ指ついて挨拶されることに、ずっとドキドキしているんですよ。聞きたくねー聞きたくねーと仰っていましたからね」
「はっ、花ちゃんっ、暴露すんなっ」
 歳の割に硬い身体へ更に抱きついた。茉莉公、でっかくなりやがって、と言いながらもじっちゃんは顔を赤くしながら、そっと頭を撫でてくれた。

 茉莉ちゃん、今日はお姫様に成っていてね、とおかあさんが優しい言葉を掛けてくれたので、甘えて白無垢を見ながら披露宴でのスピーチをお願いした方々へ、明日、よろしくお願いしますとメールを打つ。
 ネイルをする前に文面を打っておけばよかった。打ちにくいことこの上ない。何とか最後に奈々へメールを送ると、すぐにスマホは着信を知らせた。
『茉莉休み?家にいるの?今近くにいるんだけれど、少しだけ寄っていい?』
 いいよ、奈々は仕事休みなの、と返すと、冬休み、だっよ〜んと返事は返って来た。恐ろしいことが書かれていて、身震いする。仕事、忙しいんだ。
「おかあさん、あのね、高校時代の友達が近くまで来ていて、今寄るって」
「まあ、丁度お大福頂いたところですよ。お茶請けにしましょうね。染次さんが帰ってくる前に、証拠隠滅してしまいましょ」
 渋抹茶に白地の文字の紙包みを持ち上げて、お母さんは悪戯っ子ぽい笑顔で言った。じっちゃんは今、近所の床屋さんへ行っている。あいつに負けたくねぇからな、と無駄に気合の入った言葉を残して、妙に動揺したままで。
 そわそわと待っていると、ごめんくださーいの声の後、古臭いチャイムの音が鳴った。店内へ通じる引き戸を肘で開けようとしたら、店側から引き戸は開けられて呆れた顔をした奈々がそこに立っていた。
「何やってんの、茉莉」
「あー、ホラ、こんなになってるからさ、折れそうで怖いの」
「ナニコレ!花嫁ってこんなのするんだ。大変だねぇーコレ、頭洗えないよ」
 頭を洗えない、その言葉にまじまじと花嫁ネイルを見つめた。どうしよう、そう思っていたら奈々はあっさりと解決策を示してくれた。
「ドラックストアとかでさ、頭洗う用の丸いブラシ売ってるから、それ買うといいよ。どうせ明日だってその爪なんでしょ。あ、そっか、新婚初夜だもんね、旦那様に洗って貰えばいいよ」
「いいよ、ブラシで。それって何処でも売ってる?」
「あるある。一緒に付いていこうか?」
「じゃあ、帰りにお願い、まあ、上がってー」
 笑って促すと、奈々はおっじゃましまーすと言って、大きな紙袋を中へ置くとヒールの高い靴を脱いだ。

 お母さんと奈々はお互い挨拶合戦をして、アトレで買ってきてくれたおもたせを有り難く頂くと、奥の部屋へ通す。じっちゃんの仕立てた白無垢に奈々はひょえーと声を上げた。
「おじいちゃん作、だよねコレ。成人式の振袖も凄かったけれど、これまた気合入ってるねーこれ着て花嫁さんになるんでしょ、挙式も見たかったな」
「………ごめんね」
「大臣が参列するなら仕方ないじゃん。何話すか決めたの」
 奈々は父のことを、随分前に知っている。知った時、奈々はへー顔、似てるね、とだけ言った。それだけ?と聞いたら、目をパチパチさせて、他に何かある?と聞き返されて心底びっくりした覚えがある。
 わたしは多分、一生結婚しないと思う。産まれてきてはいけなかった子どもが幸せになるなんて、許せないから。奈々は寒い日の校舎の屋上で、青い空を仰ぎながら言ったのを、未だに覚えている。それ以上の事は何も語らなかったし、今もわたしは知らない。でも、傷つき、苦しい想いをして心から多量の血を流し、そうやって強くなっていっただろう女の子は、わたしの欲しかった言葉をこれまで沢山くれた。
「うーん、共通の話題なんてないだろうから、天気の話でもするかな」
「あー鉄板だね。あとね、ご年配の方は病気とお悔やみが鉄板なんだけれど、流石に佳い日にはふさわしくないしね」
「まあ、なるようにしかならないし。たけちゃんの後ろに隠れているよ」
「長い片思いが叶って、良かったじゃん。そういえば旦那様は?」
「まだ仕事中」
「土曜も午後、やってるんだ」
「少しだけね。在宅の患者さんの訪問診療もやっているから、今はそのお宅を回っているんじゃないかな」
「そっか、宜しく伝えておいて。そろそろ行かなきゃ、約束があって」
「あら、お茶が入った所だったのに、残念ねぇ」
 そう花おばちゃんが言った途端、聞きなれない着信音が何処かから鳴った。奈々はすみません、というとハンドバックからスマホケースを取り出して、開けた。
「もしもし、え?あ、そう。今ね、茉莉んち。ん、まだ。 …………来る?ちょっと待って、あのね、三谷がこっち来たいって。いい?」
「旭と待ち合わせだったの」
「明日の披露宴の余興の練習、見に来て批評してくれって言われたんだ。これから横山んちに行く予定」
「いいよ、どうぞ」
 いいってーと奈々が言い、そのまま何かしら打ち合わせめいたことをし始めた。余興は誰にも頼むつもりは無かったのだが、たけちゃんの大学時代の友達や、保育園の先生チームの方々が名乗りを上げて下さって、それならば、と二次会を仕切ってくれる旭が、高校時代に学校祭の部活動の出し物で、南田と横山と三人で踊った曲を披露してやる!と申し出てくれた。美脚が美しい女性三人組の曲は踊りがとっても複雑で、難易度は高いのに、旭たちは剣道着で完璧に踊りきって拍手喝采を浴びていたのを覚えている。横山は相当嫌がっていたのに、遥が一言カッコいい、そう言っただけで張り切って頑張っていたのは余談だけれど。
「こんちわー」
「三谷来るの早いね。仕事帰り?」
 勝手に引き戸を開けた旭へ、奈々は気軽に声を掛けた。古臭いチャイムの音は遅れて響く。相変わらず仕立てのいいスーツを着てビジネス鞄を持った旭は、苦々しい顔をしていた。
「小泉さ、明日の披露宴で渡せ、って皆に言われてただろ。何で今日渡しに来てんだよ」
「三谷、アレね、死ぬほど重いから。大倉に腕、千切れるから覚悟しろって言われて持ったら半端無かったから。あいつのオフィス、丸ビルの近くじゃない?そこから東京駅が遠くて遠くて、死ぬかと思ったんだって。足ガックガクで、生まれたての子鹿みたいになったんだってば。水道橋で茉莉からメール来て、もう耐え切れなくなって家にいるなら今日置いてっちゃえ、って思うの自然じゃない?」
「誰が子鹿だこの馬鹿女。子鹿に失礼だろ謝れ」
「何の、話」
 言い争いをしている二人に割って入ると、奈々は持ってきた大きな紙袋を指差した。
「アレ、三年二組一同から、茉莉と旦那さんへ結婚祝いだよ。重い物に重い物組み合わせたから、半端無かった。なんで配送にしなかったの。男子って本当気がきかない」
「馬鹿か。色々入れる物もあんだろー。披露宴で渡す計画だったのに、何勝手なことしてんだよ」
「あんな重たいの、持って帰る茉莉と旦那さんが気の毒だって。それでなくても結婚式終わりって荷物多そうなのに、ねぇ、茉莉」
「いや、あのね、どっちでもいいよ。正直に言うと。ありがとう、二人とも」
 そう言ったのだが、お互いにこの馬鹿女、顔だけ男、と罵りあいは続く。この二人は昔から犬猿の仲で、何かとお互い反目しあっていた。大人になって少しはましになったか、と思っていたのに。
「まあ、まあ、喧嘩してはいけませんよ。さあ、旭さんも上がって、お茶いかがかしら」
 お盆を持ったお母さんが穏やかに声を掛けてくれて、二人は途端に静かになった。旭はピカピカの革靴を脱ぐと、白無垢に気づき、ゆっくりと歩み寄って行く。
「じいさん、すげーな。本気だな、これ」
「孫ラブなんだねぇ。孫は茉莉、一人だけだっけ」
「ううん、従兄弟が一人いるよ。今は京都にいるの」
 田浦呉服店の跡継ぎの匠悟は、わたしより五つ歳上で今は修行の為に京都の老舗呉服店へ行っている。明日は披露宴までに東京へ戻ってきて、またその日の内に京都へとんぼ返りする、と美沙おばちゃんは言っていた。
「一緒に暮らして育て上げたんだし、やっぱ自分で仕立てたかったんだろな。じいさんの愛すげーな」
「明日はこれ着て、この家から出ろ、って言われてるの」
「え、じゃ、明日見に来る。来てもいい?」
 そう奈々が言うと、迷惑じゃねーかこの馬鹿女、とかいいじゃん、来たって、とまた二人は揉め出した。本当に犬猿の仲過ぎる。もう少し仲良く出来ないのか。
「保育園の子達も見に来るって言っていたし、構わないよ。奈々の支度が大丈夫なら」
「挙式が昼過ぎで披露宴は夕方からでしょ、余裕だね」
 そう言うと奈々は不敵な笑みを浮かべて豆大福を頬張った。この後散々罵りあいをした二人は、もりもりと大福を食べ、お茶を飲み、わたしの髪を洗うブラシを選ぶのを手伝ってくれ、罵りあいながら地下鉄の駅に吸い込まれていった。

第二十七話

 結局罵り合っていた奈々と旭は、高校時代の同級生達からの贈り物を扉の隅に置いて行った。忘れていたのかわざとなのかは分からない、でも旭は持ち帰ることを提案はしなかった。爪が折れるから持ち上げたりはしないけれど、袋は三重になっているし変形していて、確かに重そうだ。
「これ、三年二組の愉快な仲間達から、貰ったの」
「あー旭が聞いて来たやつな。開けてみたらどうだ」
 早めに、そして簡単に済ませた夕食後、居間の隅に置かれていた大きな紙袋を示すと、たけちゃんはニヤニヤしながらそう言った。
「どういうこと。聞いて来ていたって」
「サプライズで茉莉の欲しがっているものをプレゼントしたいが、何がいいかって聞かれたから教えたんだ。今日、旭が持って来てくれたのか?」
「ううん、奈々」
「そりゃあ、お気の毒様だったな。あれは女の子には重いだろう」
「たけちゃん、開けるのをお願い出来る?」
 そう言うと、たけちゃんはよいこらしょ、と言いながら立ち上がり、軽々と紙袋を持ってきた。中から出てきたのは大きな長方形の包みと、正方形の包み、そしてピンクのリボンで結ばれた袋。
 まるで外国人がプレゼントを開ける時にするように、たけちゃんは包み紙を引きちぎろうとしたので慌てて止めた。
「何だよ面倒くさいな。要らないだろ、こんなの」
「綺麗に伸ばして裁断機で切ったら折り紙になるでしょ、んもう」
「その爪、早く取っちまいたいな。茉莉ちゃんがお姫ちゃんでかなわん」
「そう言いながらも、セロファンテープを綺麗に剥がしてくれているたけちゃんが好きだよ」
 笑い掛けてたけちゃんへ言うと、途端に照れたような、それでいて満更でない顔に変わる。剥がしたテープをどんどんわたしのほおへ貼っていきながら、包装紙は全て取り払われた。
「ホットプレートと、お鍋だぁ。嬉しい」
 替えのプレートが三枚もついている大きなホットプレートと、濃いピンクのハート型で鋳物ホーローのお鍋は、新宿へ家具や家電を決めに歩いたその日に、たけちゃんへ欲しいとねだったものだ。
「予算も丁度良かったしな。旭が茉莉へ酷いこと言ったから、せめてものお詫びとお祝いにって心砕いていた。お前、愛されてんな」
 返事は出来ず、リボンで結ばれた袋を渡すと、黙ってたけちゃんは包みを開けた。
「アルバムフォトフレーム、だって。こんなのあるんだ」
 白地に銀の細工が施されたそのアルバムをゆっくりと開いた。ポストカードが入りそうな中身のポケットには、直筆の結婚、おめでとうの文字。たけちゃんは隣に来て次々にページを捲ってくれる。沢山の光のようなお祝いの言葉に、自分を恥じた。
「良かったな、お前、愛されてんなあ」
 そう言ってたけちゃんは、引き寄せて、頭を撫でてくれた。このひとさえいれば、誰から何を言われたって構わないと、そんな傲慢に似た気持ちとそれでも認められたくて、ずっと捻くれてもやもやしていた。でも、ちゃんと時が来れば、こんなにも沢山のひとが優しい言葉をくれている。恥ずかしくて、情け無い。
「何だ、たけ。式の前に泣かせるな。そしてこんなとこでしげるな、家でやれぇ、家で」
「おっちゃーん、妬いてんのか」
 銭湯から帰って来たじっちゃんはにやけた言葉を聞いて、たけちゃんの背中を軽く蹴った。いてぇ、と大袈裟にたけちゃんは叫び、そっと身体を離した。
「テープ付きっぱなしだったな。そういえば」そっとテープを剥がしてくれる、そんな仕草に少しだけ微笑んだ。
「まあ、毅。茉莉ちゃんを苛めたの?こんな時に、許しませんよ」
「何だよ、茉莉が泣いたら全部俺のせいか。ひでぇな、おい」
 お風呂から出てきたおかあさんにも責め立てられて、たけちゃんはむっとする。日頃の行いが悪いからと二人から冷静な、それでいて口を挟むことの出来ないつっこみを入れられて、たけちゃんは捨て台詞を吐いて立ち上がった。
「むっかつくなあ、これからぐれた婿になってやる。今から床屋でリーゼントにして、明日は学ランにボンタンでくるからなっ」
「たけちゃん、それは嫌だよぅ」
「止めるな、茉莉。俺は本気だ」
「何だぁこの、ヘボい貫一お宮は」
 爪を立てないようにたけちゃんの足に縋りつくと、げしげしと軽く蹴られて、それを見たじっちゃんは呆れたように呟いた。
「明日の昼のこの場を俺のリーゼントで曇らせてみせるっ」
 そう言い放つとたけちゃんはどすどす歩いて、裏口から出て行ったようだ。よくあの名ゼリフを下らなくアレンジ出来るものだ、と感心すると共に本当にリーゼントにしてきたらどうしよう、と妙に焦る。
「茉莉、大丈夫だぁ。あいつ、今時間に床屋予約してるって茂が言ってたわ。多分床屋行く気だったんだろうさ」
 どうやらさっき床屋に行ったじっちゃんは、たけちゃんが予約を入れていたのを知っていたらしい。人騒がせな、そう思いながらも、つい何と無く笑ってしまった。

 結局戻って来ないたけちゃんの様子を見に行ったおかあさんから、そのまま泊まります、というメールを貰い、やれやれとじっちゃんと二人、布団を並べた。何時ぶりだろう、小学生以来かもしれない。寝相が悪いわたしはよくじっちゃんを寝ながら蹴り上げて、翌朝、茉莉公、いい加減にしろっ、と痛めた箇所に湿布を貼らされながらお小言を受けたものだ。じっちゃんはそれを警戒してなのか、妙に布団同士は隙間が空いた。
「茉莉、消すぞ」
 はーいと返事をすると、二階の部屋の灯りは消えた。元、自分の部屋でそんなに配置は変わっていないというのに、妙に落ち着かない。何度か寝返りを打つと、じっちゃんは暗闇の中から嗄れ声で問いかけて来た。
「おめぇ、緊張してんのか」
「……結婚式のこと?」
「いやぁ、会うだろ。あいつと」
 忘れていよう、思い出さないようにしよう、と思っていたことを聞かれて、はぁ、と溜息が出た。小学生の頃、予防接種の予定を知らされて、イヤダイヤダと思いながら日々を過ごしていたことに、それは似ていた。
「緊張はしてないけれど、ウキウキすることでもないし、どっちかと言うと憂鬱」
「やっぱり会いたくないのかぁ」
 それは上手く言葉に表現は出来ない気がした。会いたい、会いたくないそのどちらもが混ぜ合わされて、結局返事は出来ない。
「ろくな男じゃねぇが、茉莉のことは大切に思っていたようだなぁ」
「じっちゃんは嫌いじゃなかったの」
「嫌いさ、今だってな。明日だって結婚式じゃなければ、殴ってやりてぇよ。だが毎月毎月きっちりおめぇの養育費は、大学卒業の年まで振り込まれていたなあ。この間、久しぶりに記帳へ行ったら、結婚祝いまで振り込まれていたわ。おめぇの名義で全額手付かずで貯めてあるから、そっくりそのまま持って行け」
「い、いらないよ。じっちゃん使ったら」
「俺だっていらねぇよ。まあ、そう言うと思ったから、たけに昨日渡しておいた。曾孫にでも使ってくんな」
 じっちゃんはそう言うと寝返りを打った。
「お金なんかより」
 そう言いかけてやめた。長い長い沈黙をして、結局目を瞑っているうちにいつの間にか、静かな眠りに落ちていた。


 その日、何時もは一日中陽の光など入らない家の居間に、細く、なのに色鮮やかな日差しが差し込んで来た。
 年に何度か、季節が穏やかになる頃にほんの少しの期間、楽しめるそのことをわたしはすっかりと忘れてしまっていた。
 支度の途中だというのにわざわざ来て下さった美容師さん達に束の間待って貰い、二重になっている窓の、内側のすりガラスを掌で開けた。

 その柔らかなのに力強い暖かさと、鮮やかな世界を照らす、ひかり。

 そっとそのまま、外のガラス窓も少しだけ開けた。すぐに都会のざわついた、それでいて静やかな音は再び床几に座ったわたしの背筋を、正しく伸ばす。
 きつく髪を結い上げられ、銀と真珠の髪飾りはその髪にすんなりと納まった。じっちゃんが仕立ててくれた白無垢は身体にぴったりと合わされて、意識はささやかな膨らみの上の辺りに乗った。最後に綿帽子が被されて目をゆっくりと開けた時に、目の前に居た羽織袴のじっちゃんは、顔を真っ赤にしたかと思うとぐしゃぐしゃに歪ませた。そして、嗄れ声で呟いた。

 ばっちゃんと美妃も、きっと見ているだろうよ、と。

「たけ、おめぇ、そりゃ、リーゼントの方がましだ」
「………おっちゃん、さっさと口上するぞ。そんで、さっさと神社行くぞ」
 店先でわあっ、と歓声が上がり、ややしばらくして閉じられた襖の向こう側から、たけちゃんがお迎えにやってきた気配がして、じっちゃんにすぐ口上を述べるのか、と思いきや、じっちゃんはキシシ、と笑いながらたけちゃんに話しかけた声がした。
「しっかし、なしたんだぁ、その頭。茂にやられたのか」
「ちがわい、一朗あいつ、勤めていた表参道の美容院辞めて、あそこ建て直して継ぐ気だとさ。んで、行ったら打ち合わせ中だったらしくて、結婚式前だからって面白がられて、騙されておもちゃにされたんだ」
「ああ、建て替えるとは言ってたなぁ、そうか、一朗ついに継ぐのか」
「似合ってるわよ、たけ。その方がいいじゃない。ずっとそのままでいたら」
「お袋と同じ事言うなよ、美沙ねーちゃん」
 襖の向こうは和気あいあいとたけちゃんの髪型の事で盛り上がっている、ようだ。集まってくれた子ども達やご近所さんへ、お配りものとしてじっちゃんが用意したお菓子の詰め合わせを、外で配ってくれていた美沙おばちゃんは、口上を受ける為にたけちゃんと同時に上がって来たようだった。
 なんていうか、こんな日に何時もと変わらない、そんな会話を聞いているうちに待ちくたびれて、目を閉じた。少しずつ音が消えていく。じっちゃんとたけちゃんと、美沙おばちゃんが盛り上がる声と、静かな都会の喧騒と、ガラス窓を揺らす、風の音。シャラシャラと折り重なるように、ウィンドチャイムのような音が微かに降ってきた。

 きれい、きれい、うれしい、おめでとう、そんな言霊を何処かで感じた。軽やかで幸せそうな、ことのは。
 誰か、と問わなくても分かる気がした。もう、ずっと、会えなくなってしまった、でも、ずっと傍にいてくれる、そんなひとたち。

「……茉莉、寝ているの」
 美沙おばちゃんの声ではっ、と我に返った。どうやら口上は知らぬ間に終わってしまったようだ。そっと目を開けると、そこには見たこともない位短く小洒落た髪で、黒の紋付袴のたけちゃんがいた。
「たけちゃん、似合ってるね」
 そう声を掛けたのに、たけちゃんは複雑そうな顔をして、じっとわたしを見つめていた。間が持たなくて少しだけ笑いかけると、たけちゃんはほおを赤らめて目を逸らした。
「茉莉ちゃん、綺麗。本当に綺麗」
 黒の留袖のおかあさんはたけちゃんの隣にいて、もう袂からのりの効いたハンカチを取り出した。たけちゃんの叔父さんは、店を繋ぐ引き戸の前でにこにこしていた。ありがとう、そう言ってもお迎えに来てくれたひとは未だに黙ったままだった。
「たけ、あんた何にもなし?声掛けてあげなさいよ。もう」
「………そんな恥ずかしいこと、言えるか、ああほら、行くぞ、ほら」
「待って、神棚とじっちゃんにご挨拶してからだから」
「いや、いいわ、俺ァ、そんなことされちまったら、心の蔵が止まっちまうわ。神棚だけにしちくりよう。隆、どけっ」
「染兄、覚悟を決めた方がいいですよ」
 情け無い声で叫んだじっちゃんが店先から逃走しようとして、たけちゃんの叔父さんともみ合いになりながら、店を出ていった。遅れて古臭いチャイムが鳴る。おかあさんと美沙おばちゃんが後を追って行って、束の間二人きりになった。
「格好いいね、たけちゃん。惚れ直しちゃった」
「……若作り、って言いたいんだろ。リーゼントって言ったら、一朗の奴、けけけけ笑いながら『明日結婚式だったら、もっとイケてる髪にしてやらあ』とか言いやがって。任せたらこのザマだ。笑えよ、大笑いしろよ」
 やさぐれたようにたけちゃんは叫んだ。思わずほおは緩む。いつだってたけちゃんは変わらない。それが嬉しい。
「そんなこと無い、本当に格好いいよ。自慢の旦那様だもの」
 ちょっと大袈裟かもしれない、でも何時だってたけちゃんに気持ちを捧げて、そうやって一緒に暮らして行きたいと言った日から、欠かしたことのない言葉を未だに素直じゃない顔で喜んでいる、その様子にわたしも嬉しくなる。そして、返して貰えるとは思っていない言葉を、ごくたまに掛けられた時には眩暈にも似た幸福感があった。

「茉莉は、綺麗だ」

 嬉しくて抱きつきたくなるのを我慢した。たけちゃんの手は、そっと上げられて、ほおの触れるか触れないかの所を掠めていった。そのこころの柔らかな所にいることを許されてから、わたしたちは触れ合うことを躊躇わずにいたのに、今はそれを禁じられてしまったかのようだ。
 深くて、優しいたけちゃんの瞳の表情を感じた。それだけで、充分だった。


「じっちゃん」
 結局勝久おじさんと早目に来たらしい匠悟に両脇を抱えられて、じっちゃんは渋々戻って来た。神棚へ手を合わせ、今はじっちゃんと向き合っている。そっとついた三つ指にじっちゃんは、眉間の皺をより深くして、鼻を啜った。
「今迄、育てて下さり、ありがとうございます。茉莉は毅さんの元へお嫁に参ります。じっちゃん、大好きだよ」
「そんなの知ってらぁ。この茉莉公め、俺を泣かせやがって。いいか、幸せは自分のこころが決めるんだ。おめぇは幸せを知ってる娘だ。そこんところだけは俺が保証書付けてやる。ずっと幸せでいろよ」
「はい、じっちゃん」
 顔を上げると、おかあさんから手拭いを受け取ったじっちゃんが、ぐいぐい顔を拭いている所だった。
「なんつーか、こういう場面で泣きそうになるなんて、さ」
「匠悟、おめぇは早く嫁貰え。そんで曽孫の顔を早く見せろ」
「俺も歳かなって言おうと思ったのに、じいちゃん酷いよ。先細りの呉服業界に嫁に来てくれる人なんていねーって」
「それを若い力で何とかしろや。その為に京都に行ってるんだろ」
 じっちゃんと匠悟が喧々囂々し始めたのにも構わず、美沙おばちゃんは苦笑しながら隣に来て、立ち上がる為に介添えしてくれる。
「染次さん、切り火なさるのでしょう。それ位にして下さいな」
「おおっと、いけねぇ。そうだった。たけと茉莉、並べ」
 じっちゃんはおかあさんの一言に慌てたようになって、火打ち石と火打鎌を持ってきた。そうしてたけちゃんの後ろから神火清明と唱え何度か、カチカチと鳴り合わされる音が響く。
「次は茉莉だ」
 同じくじっちゃんは唱えると、左、右と音を鳴らした。その度にすうっとした清浄な気配を感じた。今迄じっちゃんには何度も切り火をして貰ったけれど、そんな感覚を感じたのは初めてだ。
「さあ、行こうか」
 隣に立っているわたしの唯一のひとは、そう言って笑った。そう、これからわたしはここを出て、歩いていく。白無垢を着て。

 一度死んで、たけちゃんの色に染まる為に生まれ変わる。その死出の旅を、わたしは歩いて往く。

第二十八話

 外に出ると、わあっという歓声と拍手が上がった。暖かい日差しの下で待っていてくれたひとたちは、思っていたよりも大分多かった。通りすがりのひとも、いるんじゃないだろうか。見回すと普段着の旭と奈々が、大きな段ボール箱を抱えてお配りもののお菓子の詰め合わせを配ってくれていて、申し訳なく思う。
 ご近所さんや、保育園の子どもたちに次々声を掛けられて、それに応えた。きれい、おめでとう、そんな祝福はわたしの身体を巡り巡って、清らかにしていくような気がした。
「本日は、ここにいる若いのと若くない二人の門出を祝福して下さって、有難うございます。これより神社へ参内し、夫婦契りの盃を交わしに参ります。皆様におかれましては、ここでお見送り下されば嬉しく思います。本日はお集まりくださり、本当に有難うございました」
 じっちゃんのきっぱりとした嗄れ声の口上に、笑いが起こり、そして結びの言葉に一同が頭を下げると優しい拍手を浴びた。陽だまりの中に、わたしたちは出たのだった。
 行きますよ、そう言って美沙おばちゃんは介添えの為にそっと掌を上にした。そこに手を重ねる。日陰に入ると、しん、と冷えた空気を感じる。匠悟が店のシャッターを閉めてくれ、行く先々で配る為の紙袋を持つと、いいよ、と声が掛かった。

 通り慣れた道を、たけちゃんと美沙おばちゃんと並びながら、ゆっくりと進む。
 古びた間口の狭い家々は何時も通り静かにそこにあって、抜けるような青空の下、静かな影のようだった。
 わたしはいつしか、音を失くしていた。聞こえてはいるけれど、通り過ぎていく沢山の音に、ただ微笑んだ。それにつれて、世界は明るく色鮮やかになっていく。日向は輝き、日陰は黒々と深い闇。
 店先でみちおじさんが家族総出で待ち構えていてくれて、披露宴で唄ってくれる筈の高砂を力強く一節言祝ぎをしてくれ、その声は染み入るように届いた。嬉しくて微笑む。その途端、みちおじさんが顔を真っ赤にして何かをまくし立てているようだけれど、それは分からない。それで良かった。
 歩む毎にしゃら、しゃら、と何処からか高く、低い優しい音は鳴った。バーのマスターと、そのお父さん、弦の湯の御主人と奥様、たけちゃんとじっちゃんの行きつけの床屋のおじさんと、初めて見る息子さん、沢山のひとたちの笑顔と、嬉しそうな気配を感じた。
 やがて花嫁行列は保育園の角を折れて、お稲荷様の細い参道に入った。風が吹く。優しい風が。

 見たこともない、美しい紋様の赤い着物を着た細っそりとした存在を、お稲荷様の屋根の上に観た時、あり得ないことが起きているのに、それを不思議と当たり前だと、そう思った。ひとではない細長く赤い瞳と、視線は合った。全てを知り、全てを知らない。そんな存在へ向け微笑むと、その唇は面白いように吊り上がった。
 くるり、くるりと長い煙管は細い指先で回されている。その度に柔らかな風が吹く。
 手を合わせて一歩下がると、狐に似た表情のその存在はふうわりと笑って、言った。

 お前の望みは、叶うだろうよぅ、これはわっちからの祝いだよぅ。受け取りなぁ。

 長い煙管をその細い手で持ち上げたとき、柔らかな旋風は螺旋を描くように、全身を包み込み、そうして少しずつ集まりながら身体の奥深くに収まった。ありがとうございます、そうこころで呟くと長い瞬きをした次には、もうそこには誰も居なかった。

 三途の河のような、とぷりとぷりとさざめく新宿通りを渡り、花嫁行列は日陰の道を往く。目を開けていると闇を、閉じると陽だまりのようなひかりを感じた。瞼の内側にきらきらと降るひかりを、だ。こころ躍るような声が時々響く。嬉しくて微笑むと、空気はざわめいた。
 いつしか突き当たりに、大きな朱塗りの門がある道を歩いていた。その前には、質素な着物に白い袴を着た真白な髪の、腰が曲がったお婆さんと、真っ白な狩衣を着た背の高く黄金色の髪に深緑の瞳を持つ、美しいひとが立っていた。その側には黒々とした、どこまでも闇色の獅子のようなひとと、隣り合わせに子ども用のくしゅくしゅの帯を締めた浴衣を着た、小さな女の子がにこにこしながら佇んでいる。獅子は、不思議と恐ろしくは無かった。黒曜の色の優しい目をしていて、懐かしい匂いがしたからだ。
 お婆さんと美しいひとは、何かを相談しあっているようだった。やがて美しいひとはわたしへ向き直り、問いかける。

 神の子、あなたは本日、道を歩きました。あの世とこの世の境目を。戻ってきてくれますか。

 優しくて美しい声に、ただ微笑んだ。霧雨のような湿気を一瞬、感じた。美しいひとは目を見張り、何かを思案している。その間にお婆さんは腰を伸ばすようにして朱塗りの門の扉を、ていねいにそっと開けた。闇色の獅子は、行列の中に入っていく。
 美しいひとは、小さな女の子を呼び、しゃがみ込んで、優しく頭を撫でながら何かを教えていた。にこにこしている女の子は嬉しそうにしながら、最後に目の前にいるひとへぎゅう、と抱きついた。暖かくて優しい、ずっと見ていたくなる光景。
 やがて二人は列の前と後ろへ付いた。ゆっくりと行列は進み出す。ゆっくりと。

 美しい景色の中にいた。暮れ行く青空の下、黄金色のひかりを乗せた草花がどこまでも続く、そんな景色の中に。
 細く踏み固められた道を、歩いていた。真白い狩衣のひとの後ろを、いつの間にか写真の中で見たことのある若々しい美沙おばちゃんに、介添えされながら。
 やがて広々とした下草の短い広場に出て、そっと座らされた。真白な狩衣を着た宮司さんが、にっこりと笑う。心地よい風の音と、暮れ行く澄み切った青空に、星が瞬く音が鳴る。ちろん、ころんと可愛らしく。
 傍に、優しい風がいた。いや、風のようなひと、だ。そこにいるのに、形を留めていても、身に纏う空気を震わせ続けている。涼しくてそれでいて胸を甘くときめかせる予感がする風は、空気を揺らしながらも隣にいた。そのことを嬉しく、嬉しく思う。
 やがてあの小さな女の子が両手で小さな盃を差し出して来た。受け取ると、さらさらと溢れるように盃の中へ、黄金色の液体が湧き出た。暮れ行くひかりが、更にそれを輝かせる。口付けるとすっきりと甘い喉越しを感じ、嬉しくて、嬉しくて、笑った。

 長いような、短いような不思議な時間は過ぎて、小さな女の子に手を引かれ、また細い道を歩いた。そして柔らかな草の上へ、そっと座らされた。やがて優しい風がやって来て、不安そうな微笑みを感じた。
 ふかくいきをすいこむ。うれしくてわらう。きもちはあふれる。
 黄金色に照らされた風は、微かにほおへ触れた。そしてわたしを涼しく、強く包み込む。

 茉莉、愛しているよ、そう風は囁いた。直ぐに唇から、透明なのにたくさんの色が、まるで真白な薄い紙の上に滲むようにして落とされていくのを感じた。たくさんの色、美しいものから、目を逸らしたくなるようなものまで、最初は躊躇いがちに、直ぐに降り注ぐように。なのに染み込む時には透明になっていく。
 不思議な、不思議な色だ。

「……んっ、……ん、んんっ、んーーっ!」
 一気に音と、暖かい体温と、身体をぎゅうぎゅうに抱き締められている感覚を感じて、目を開けた。目を閉じた、短い髪のたけちゃんに深く唇を喰まれているのだと気づいて、一気にほおは熱くなる。どうして、どうしてなの。痺れたような、やっと血の通いだした身体を励まして抱き込まれた中、たけちゃんの硬い胸を叩くと薄く目を開けたその人は、更に強く抱き締めて激しく舌を動かした。
「んんーーっ!んっ、んーーっ!」
 絡み合う舌と舌に身体は震えて、下腹部がとろりと蕩け出す。ここは何処なの。目を開けたいのに、たけちゃんからの苦しい位のキスに身体は、高みに引っぱり上げられるような感覚を覚えた。キスなのに、キスだけなのに!
 やっと唇は離されて、息は乱れた。覗き込んできたその人の口の周りは、筋のようなピンク色。
「な……なん、で、?ここ、ど、こ」
「んあ?神社のどっかの部屋の布団の上だ。茉莉、俺が誰か分かるか」
「たけ、ちゃん」
「よしよし、もう大丈夫だな。いい夢見てたのか」
「いい夢?」
 たけちゃんの言っている意味は分からず、何かを思いだそうとしたけれど、何も出てこない。
「いつの間に、ここに来たの、結婚式は」
「終わったぞ、ちゃんと三三九度したし、これで晴れて夫婦だな、茉莉ちゃん」
「……またまた、たけちゃん、冗談、キツいよ」
「んにゃ、本当だ、おーい、真吾ちゃーん、いーぞー」
 たけちゃんはわたしの身体を離すと、大きな声で真吾くんを呼んだ。確かに白無垢を着て、布団の上に正座している。たけちゃんはほんの少しの間待って、立ち上がると障子を勢い良く観音開きにした。そしてキョロキョロ見回すと、誰かを手招きしている。
「巫女ちゃん、茉莉を頼む。真吾ちゃん、ウェットティッシュくれ」
 そう言うとたけちゃんは部屋の外へ出て行った。代わりに朱里ちゃんが心配そうな顔をしながら入ってくる。じっちゃんとおかあさんの結婚式の時と同じ巫女さんの衣装を着ていて、一気に血の気は引いた。唇はわなないて中々声は出て行かない、でも自分をなんとか励まして、聞いた。
「朱里ちゃん、結婚式って、お、終わった、の」
「……はい、つい、先程」
 くらりと激しい眩暈がした。茉莉さんっ、と大きな声を出した朱里ちゃんに身体は支えられた。終わった、終わったって、どういうことだ。
「少し、休みましょう。ね、お布団に横になって、いいです。いいですから」
「……ん、でも、大丈夫。お化粧直し、お願いしないと」
「いけないねぇ、少しだけでもよい、休みなされ。そなたは細い道を歩いたのだから、身体への負担は大きい筈だ」
 板張りの廊下から声を掛けられて、ふと見ると細っそりとした着物姿のお婆さんが立っていた。しゃんと背筋を伸ばし、目線はわたしたちではなく天井の方を向いていた。鋭いような、それでいて大きな安心を感じさせる存在感は、今迄会った誰とも違って見えた。誰なんだろう、不思議なひとだ。
「お婆婆さま、お身体は」
「さほど大したことはない。あかり、花嫁さんを横にしてあげなされ」
 はいっ、と返事をした朱里ちゃんは、そっと手を添えて、白無垢が皺にならないようにしながら身体を横になるようにしてくれた。
「あかり、涼子さんに花嫁さんを『安息』させていると、伝えてきておくれ。それで分かる」
 わかりました、と言うと、朱里ちゃんは立ち上がり、お婆婆さまと呼んだそのひとを介助するように枕元へ導いて、それから部屋を出て行った。
 お婆婆さま、もしかしたらじっちゃんとおかあさんの結婚式で、未来視をしてくれたひとなのか。じっ、と見つめると優しくも、有無を言わせない微笑みを向けられた。
「花嫁さん、目を閉じなさい、心配しなくてよい、直ぐに起き上がることが出来るからね」
 そう言うとお婆さんは、皺の深い掌をかざした。そうされると全身は暖かくて心地よくなり、すぐに緩んだ。
「細い道って、何ですか」
「そうだね、そなたは色々な条件が重なって、選ばれし花嫁に成った。あの世とこの世の隙間を歩くことになり、自分の色を一度抜いて、花婿の色と混ざり合うために旅をしたのだよ。昔はたまにいたのだけれどね。今は珍しい」
 お婆さんはそう言うと優しい顔になった。色を抜く、それは昨日じっちゃんが白無垢の前で言っていたことと同じだ。旅をした、その言葉にびっくりする。でも何故か納得も出来た。
「おや、永住町の稲荷殿に祝いを貰ったのだね。珍しい。そなたの望み、叶えるとあるが、何を願ったのかね」
「永住町、ですか」
「小さなお社の稲荷があるだろう。そこでそなたが願ったことだ」
 その質問に答えるのが当たり前だと、そう思った。お稲荷様に、祈ったこと。それは、多分。
「……多分、ですが、たけ、じゃなくて主人の健康と長寿と、いつまでも一緒に居たい、というお願いをしていると、思います」
「全くあの藪医者には勿体無い花嫁さんだ。いいかね、永住町の稲荷殿は叶えると祝いをくれたが、それに胡座を掻いていると、先々は変わっていくものだ。地に足を付けて二人で仲ようなされ」
「ありがとう、ございます」
 お婆さんは手をかざしながら、静かに言った言葉はことり、と音を立てるようにこころの中へ置かれた。
「しかし、そなたに祝いを渡すなど、稲荷殿も策士だ。今夜は藪医者と励むがよい。何も隔てずに交わりなされ。そなたも色付けが終わってはいないからね」
「色付け、って、あの」
「同衾するということだ。そなたから藪医者を誘惑してみるがよい」
「えっ、あの、ええっ、どうやって、デスカ」
 言われた言葉に動揺して、急に血流が良くなった。お婆さんはにっこり笑うと、そっと肩へ触れて来た。その瞬間、わたしは深い、夢も見ない眠りに一瞬で落ちていた。

 はっ、と目を醒ますと、そこには心配そうなおかあさんと、宮司さんの奥様が枕元へ座っていた。お婆さんは姿を消していた。
「茉莉ちゃん、調子はどう、具合は大丈夫?」
「おかあさん、いつの間に、来たの」
「ついさっき、ほんの少し前ですよ。お式の時も気分悪かったの?」
 おかあさんの問いかけに答えられなくてうーん、と曖昧な返事をした。さっきまで眩暈がしていたのに、今は身体がとても軽く、さっぱりとした気分だ。結婚式のことを覚えていないことは、正直戸惑っている。でも、たけちゃんのこころからの声を聞いた気がする。茉莉、愛しているよ、優しくて深くて暖かだった。嬉しくて、たまらなくて、顔がにやけてしまう。
 そっと起き上がると、おかあさんは不安そうな顔で聞いてきた。
「渋谷さんとお会いするの、止めにする?茉莉ちゃんの負担が大きいのなら、今日の所は具合も良くないので、って伝えておきますよ」
 そうだった、結婚式の後、父と会うことになっていた。来ているんだ。まだ姿は見ていないけれど。
「……大丈夫、会うよ、たけちゃんとの約束だもん」
 言葉にしたら、急に会うことが生々しく肩にのし掛かって来たような気がした。本当は、嫌だ。毎月園長先生から鋭い突っ込みを貰う保育園の職員会議くらい、嫌だ。でも、避けては通れない。
「どの位寝ていたのか、分かる?」
「そうですね、十分位かな。茉莉ちゃん、動けそうだったら移動しましょう。お化粧直しと、御髪整えないといけないわ」
 すかさず答えてくれた奥様へ、頷きを返した。支えられて立ち上がると、おかあさんと奥様は白無垢を整えてくれる。
「横になっても着崩れしていないなんて、大家さんの白無垢、本当に素晴らしいですねぇ。茉莉ちゃんの身体にしっくり馴染んでいて、護られているみたいだわ」
 独り言のように言った奥様の言葉に、おかあさんはとっても可愛い笑顔を見せた。そして宮司さんの奥様に、じっちゃんがどれだけ手間暇をこの白無垢に掛けたのかを、弾んだ口調で話し始めた。おかあさん自身が褒められている時よりも、更に嬉しそうなその笑顔に、こころは和んだ。

 お化粧と髪を直して貰い、写真を撮る為に皆が待っていた場所は、昔よく登って怒られた枝垂れの花桃の木の下だった。満開に咲き誇っている白い、八重の花々の下に、その人はしっくり馴染むようにじっちゃんの隣に立っていた。たけちゃんの隣の床几に案内されて、後ろを出席してくれた家族に囲まれた。
「茉莉、大丈夫かぁ。心配したぞ」
「うん、大丈夫、ありがとう、じっちゃん」
 前を向きながら、いつもの嗄れ声に応えた。そっとたけちゃんを見ると、ベッタリとついた口紅は綺麗に無くなっていた。
「はい、撮りますよーさあ、皆さん固いです、花に負けない位スマーイルで、はいっ」
 じっちゃんは、どんな言葉を交わして隣へ立ったのだろう。そして、わたしはこれから何を話したらいいのか。不安のせいか、表情は固まった笑顔で、沢山シャッターは切られた。
 二人だけの写真も、じっちゃんとおかあさんの時よりも時間は掛かったような気がする。終わってはあ、と息を吐き出したら、たけちゃんはそっと綿帽子に手を掛けた。
「……何するの、たけちゃん」
「可愛い茉莉ちゃんの顔が、よーく見えるようにさ」
「赤ずきんのオオカミみたいな発言止めて」
「おまえを喰っちまうぞーがおー」
 ププッと吹き出すと、たけちゃんはそっと、まるでヴェールを上げるかのように綿帽子を外した。そして、朱里ちゃんを呼ぶと預かって欲しいと言い、渡す。
「じゃあ、行くぞ、ほら」
 そう言うとたけちゃんは左手を差し出して来た。覚えていてくれたんだ、約束を。そのことだけで今日、具合が悪くなったからとリタイアしなくてよかったと、そう思った。わたしは現金だ。
 ゆびとゆびを絡ませて、強く握るとたけちゃんは笑って守るように握り返してきた。そして歩き出す。真実は待っている。闇色の獅子の姿で。

第二十九話

「初めまして」
 そう声を掛けると細身の痩せぎすな、その人は振り返りわたしを見た。いかつい黒スーツのおじさんは鋭い目付きで明後日の方向を向いている。何てアンバランスなふたりなのだろう。でも、わたしとたけちゃんだってそう変わらないはずだ。
 何の感慨も無かった。テレビの中で見慣れていたせいかもしれない。ただ、画面の中では控えめながらも、筋道を立てて話している姿ばかり見ていたので、その人が黙っているところを見るのはある意味新鮮だった。この人でも、黙ることはあるのだ、と。
 穏やかな風が通る度に、濃い沈丁花の匂いがした。肺の中まで入り込んで来て、しっとりと重いものを身体へ残して行く香り。目の前にいる、老成を重ねた、そのひとのようだ。
「私は、お前を忘れたことは、無かった」
「そうですか」
 本当にそう思っていたのだ、と感じられる声音にただ、淡々と応じた。それは只の言い訳に過ぎないのだ。この人が会いたいと思って、会いに来たということを、わたしは一度も経験していない。
 そんな事実を責め立てても、時間は戻らない。ただ、虚しくなるだけだ。
「とても美しくなった。美妃に、似ている」
 返事はしなかった。心細くなり、たけちゃんの手をぎゅ、と握る。もう、帰りたい、もうお終いにして。そんなメッセージを込めたつもりなのに、たけちゃんは穏やかにこう言った。
「向かいあっていると、お互い疲れますよ。縁側に座ってお茶でも飲みませんか」

 神社の石畳が美しい広場を眺めながら、縁側に腰掛けている。たけちゃんと、生物学上の父に挟まれ、居心地は悪い。いかつい黒スーツのおじさんだけは、離れた場所で立っていた。
「まあまあ、渋谷先生、お久しぶりです。その節はありがとうございました」
「渡辺さん、お久しぶりです。皆さんお変わりありませんか」
「ええ、それはもう、皆、元気で過ごしております」
 式の時のままの格好をした宮司さんの奥様は、ニコニコ笑顔でお茶を運んで来て下さった。会話を交わしながらも、宮司さんの奥様は如才ない動きでお茶を年齢順に置いていく。
「SPさんの分はここに置いておきますね、どうぞお時間を気にせず、お寛ぎください」
 そう言うと、そっと一礼をしてふ、と微笑んだ宮司さんの奥様は去って行った。再び静寂に包まれ、わたしは遣る瀬なくて深く息を吐いた。
「頂きます」
 そう小さく呟くと、その人はそっと茶托から湯呑みを取った。お茶なんて飲んでいる場合なんだろうか。そんなことを思っていたら、たけちゃんはわたしの前にそっと、湯呑みを差し出してきた。
「ほれ、熱いから気をつけて持て」
「たけちゃん、口紅が落ちちゃうから、いいよ」
「まあそう言わずに、塗り直したらいい話だろう」
 ほれ、ほれと促されて渋々湯呑みを受け取った。ありがとう、と一言だけ添えて。たけちゃんは何をしたいんだろう。そして反対側からは刺さるような視線を感じる。こう、冷たいような、熱いような。
「もっと親子のようなのか、と思っていたのだがね」
「ちゃんと夫婦やってますよ、まだまだですが」
「そうか、それならいい」
 淡々とした口調なのに、その声には口惜しいような声音を感じた。政治家というのはこんなにも自分の感情を、その声に乗せるものなのだろうか。それとも。
 そっと湯呑みに口付けた。飲みやすい温度に淹れられたお煎茶は、まろやかな味わいで最後に甘い喉越しを感じた。羽織り袴のたけちゃんと、白無垢のわたし。そして上質だと一目で分かる略礼装のこの人。三人並んで縁側に座ってお茶を飲んでいるなんて、とてもシュールだ。
 話題などお互いに無いのは分かっていて、この場にいるのだから自然と沈黙になるだけだろう、と思っていたのだが、隣に座るその人はまたもや口を開いた。
「茉莉という名は、美妃とふたりで考えたのだよ。私たちは森鴎外の舞姫という小説がきっかけで、お互い話をするようになってね。お腹の中の子が女の子だと判った時に、沢山の候補の中から鴎外の愛娘の名を私たちはとても気に入って、そうして名付けた」
 遥か昔の話を、その人はまるでこの間に起こった出来事のように話した。楽しそうに、嬉しそうに。そんなことをわたしに知らせて、何になるというのか。
「初めての娘だったものだから、産まれて抱っこした時にはとても嬉しくてね。何度も茉莉と呼んだらそれまで眠っていたようだったのに、目をぽっかりと開けたのをよく覚えている。嬉しくて、嬉しくてね」
 声は弾んで聞こえた。産まれたての時に自分の身に起きた出来事を、この人は教えようとしてくれているのだろう。じっちゃんやばっちゃんに問い掛けても答えてはもらえなかった、二歳になる頃までの記憶の話。
 高校に入る時に戸籍を取り寄せて、遥か遠い別荘地で自分が生まれたことを初めて知った。この人が母と世捨て人のようにひっそりと暮らしていたのは、昔、どこかで聞いたことはあった。その記憶を埋めて、くれようとしているのか。
「もう、結構です。そう、言われても実感がありませんから」
 とても固い声が自分の中から出て行った。笑って誤魔化して、そうして話を濁すことは出来なかった。何時もは出来るのに、それが出来ない。そっと茶托に湯呑みを戻して立ち上がりかけたら、右手は大きな手に包まれた。
「茉莉、後悔するぞ」
 たけちゃんはそのまま手を引いて、またわたしを座らせた。不満で顔を向けると困ったような顔をして、たけちゃんは首を静かに横へ振った。
「俺は後悔したんだよ。お前から親父が俺を好きだったと聞いた時に、素直になって生きているうちに話をすれば良かった、親父の口からその言葉を聞きたかった、まだ生きているうちに、ってな。お節介なのは分かっているんだ。でも、本当を知るのは悪いことじゃないだろ」
「本当、って」
「誰かが歪めて色付けて、そうして作り上げた話と、実際に経験した者が話す話の、どちらを茉莉は信じるんだ」
 その言葉に項垂れる。そばにいて、お願いだから、そんな想いを込めてたけちゃんの手を握り直した。熱くて優しい大きな手は、色づいたわたしの手を包み込むように握り返してきた。

 淡々と語られた親子三人の頃の生活は、静かで穏やかなものだった。首がすわって寝返って、ひとりで座れるようになって、そんなわたしの成長を喜んで、大きな声で夜泣きしたことを苦笑して、とても大切な存在なのだ、とそう、言葉の端々で知らされた。この人は言葉を操って、広く通る声で話して、そうして人の心を捉えて生きていると、そう思ってはいるのに、熱を帯びたり、失敗に落ち込んだりするその声音は子どもを愛しているただの父親に感じられた。
「私の兄が急逝してから、それからは、何もかもが変わってしまってね。兄の地盤を継ぐ者が居なくて、お前の兄もまだ被選挙権を持っていなかったものだから、半ば強制的に私は引っ張りだされた。美妃は健気に支えてくれようとしていたんだが、離れている日々が続くようになってしまってね。何かがおかしいと気がついた時には、お義父さんがえらい剣幕で乗り込んで来られた」
 母の身体には、目立たない所に紫色になった跡が残されていて、それを何処からか知ったじっちゃんは、母を救うべくやってきたようだと、覚えのない出来事に反論したけれど、その頃に母はすっかり自身を喪失していたようだったと、この人は言った。誰かが裏で手を引いているかのように離婚は成立して、裁判所からは接近停止命令が出た。
「よく、マスコミに漏れませんでしたね」
「少しは出たが、殆どが美妃を悪く言うものばかりだった。酷い言葉で貶めるようなものばかりでね。そしてその時にもっと大きな汚職が世間を賑わしていた。新人議員の醜聞より大物議員の汚職の方がセンセーショナルだろう。私は美妃と茉莉を守りきれなかった」
 驚いたようなたけちゃんの声の後に、自嘲するような声が響く。後悔をしているんだ、と言われているようだった。だから、何だと言うんだ。それだからと言って。
「結局美妃を痛めつけたのは、息子だったと後々に分かった。仕事に明け暮れていた私は、息子と関わって父親らしいことをしたことがなくてね。父親らしいことをしたのは、茉莉を育てていた時だけだった。あいつには、美妃や茉莉に対する嫉妬だったと告白された。そして、憎んでいたのに、好きだったとも。自分ひとりのものにしたかったと、そう絶望した顔で言われた。だがそんな事態を引き起こす原因は私が作ったのだよ。美妃を死へ追いやったのも、私だ」
 母はあの日の入らない家で、自ら命を絶った。それから家は建て直され、わたしはそこで大きくなった。母が居なくなった頃を覚えてはいない。この人は、その頃それでも何度かわたしに会いたいと、そう頑張ったと言った。でもじっちゃんの心はすっかり凍りついていたと、そう寂しそうに呟いた。
 どこかでこのひとには今、家族と呼べるひとが居ないことを知っていた。息子と呼んでいたひとも今は居ない。誰もが去っていった。残酷な事実だけを残して。
「こんなに不甲斐ない人間が、お前の父親ですまない。本来なら、この場所にいるべきではないのだろうが、やっぱり、花嫁姿は見たかったんだ」
 日はすっかりと高くなり、雀たちが陽だまりの中を絡まり合うようにして飛びながら横切っていった。沈丁花の香りは風に揺れている。頭は痺れたようになっていた。言葉は、出ない。
 ふわふわとした甘くて苦い、綿飴のような話だった。そんな世界でわたしは産まれて、そして今はここにいる。それで良かったと心から思えた。じっちゃんと本気の喧嘩をして、ばっちゃんに甘えて、そしてたけちゃんに会えた。長いこと繋いで、すっかり一つとなっている手をもう一度握った。
「わたしは、父親だと思ったことは、ありません」
 それは紛れもない事実だった。父親だと思ったことは、ない。
「わたしの家族は、じっちゃんと亡くなったばっちゃんと、たけちゃんのおかあさんと、そして、たけちゃんです」
 隣から返事は無かった。それで構わない、返事は必要、ない。
「でも、あなたがこれから関係を作りたいと、そう望まれるのなら、それは拒みません」
 語尾は不自然に震えた。長い長い息を吐く気配が、左隣から感じられる。繋がれた右手は、そっと大きな両手で包まれた。
「茉莉、ありがとう」
 深くて湿った声がわたしに向けられて、目を伏せる。
「気持ちが強い女性に、成ったのだね。お義父さんとお義母さんのおかげだ」
「辛いことや、怖いことから逃げるなって教えてくれたのは、たけちゃんです。許すことの難しさも」
「そう、か」
 重い一言をその人は残すように言った。複雑そうな、それでいてやはり口惜しそうな感情を、隠そうともせず。古めかしい議場で理路整然と話している時とは、全く違うそんな言葉。
「毅くんが、羨ましい。とても、羨ましいよ」
「渋谷さん、ヤキモチですか」キシシ、とたけちゃんは笑う。
「結局私の大切な娘は、君の所へ行くことになったのだからね。それは焼くだろう」
 全く面白くない、と言った口調で呟くその声に少しだけ笑む。大切な娘、本当にそう思っていると伝わる声で嫉妬の感情を出すその人は、じっちゃんの性質によく似ているような気がした。
「髪飾りが、似合っていて良かった。写真と毅くんの話からだと、心もとなかったが本当に良く似合っている」
「えっ、ちょっと、たけちゃんっ」
「俺からだ、とは言っていないだろー」
 何てことだ、してやったり、といった顔をして、たけちゃんはニヤニヤと笑っている。だからあんなに洋髪にこだわっていたんだ。そして式が終わって綿帽子を取ってくれたのは、そんな意図があったから。美しく纏められた髪を飾っている上品な真珠は、この人からの贈り物。
「たけちゃん、そういうだまし討ちみたいなことはやめて」声は自然と冷えた。
「だっ、騙していないだろ、言って無いだけで」
「同じでしょう、誤魔化さないで」
「ハイ」
「ごめんなさいは?」
「ゴメンナサイ」
 殊勝にたけちゃんが謝り、左隣からはくっ、くっと笑う声がする。
「毅くんは尻に敷かれているのかね。これはいい」
「あなたの娘さんは、あなたに性格もそっくりですよ」
「そうか」
 軽やかな、それでいて嬉しげな一言だった。性格もそっくりという、その言葉に納得は出来ないけれど、ーそのことは口には出さない。喜んでいるのなら、それでいいじゃないか。
「今日は佳い日に成った気がする。ありがとう」
 そう言うと、左隣の人は立ち上がった。音も無く、いかつい黒スーツのおじさんは、こちらに近づいてくる。
「もっと一緒に話をしていたかったのだが、今日はこれで失礼しなければならない。誰かのため働かなくてはいけないからね」
 ゆっくりとたけちゃんに支えられながら立ち上がった。顔を上げると、そこには目尻に皺を深くして、そして赤く、感情の豊かな瞳をこちらに向けている、その人の視線と会った。初めて。
「披露宴も出たかったのだがね、これから羽田に行かなくてはならない。娘のドレス姿も見たかったがね」
「写真でよければ、お見せしますよ。都合のいい日にいらして下さい」
 たけちゃんは穏やかに言う。また、勝手に決めている、とそうは思ったけれど、少しだけ考えてから、笑って頷いた。驚いたような顔になって、そうして微笑むその人は、只の初老の、父親だった。
「ありがとう、近いうちにそうさせて貰おうかね。では、失礼するよ」
 そう言うとその人は束の間目を合わせた。そして背を向ける。何処からかもう一人黒いスーツの体格のいいお兄さんが現れて、その人に先導されるようにして父は歩き、去って行った。
「あ、髪飾りのお礼、言ってない」
「うちに来るって言っていたから、その時にしたらどうだ」
「………でも、やっぱり、言ってくる」
「茉莉、多分だが、無理だ」
 その言葉にたけちゃんの顔を見た。分かるだろう、そうたけちゃんの表情は言っていた。物々しい警護が付くほどの立場になっているその人は、今日、無い時間を割いてここに来たのだと、そう悟った。そして、わたしからは望めども、生きていればまず出会うことの無いひと、だとも。
「たけちゃん」
「……なんだよ」
「お節介焼き過ぎる」
「……まあな」
「でも、大好きだよ」
「お前、俺のこと好き過ぎだろ」
「ありがとう」
 返事は、無かった。沈丁花の香りは日だまりの中を幾度か風に揺れて、わたしのすぐそばを掠めていった。

第三十話

 美しくライトアップされたイングリッシュガーデンを臨むバンケットでの披露宴は、和やかに進んでいき、楽しく終わった。たけちゃんがこだわりぬいた和食のお料理は、年配の方のみならず若いひとたちからも美味しかった、と声を掛けられておっさんはえっへん、と胸を張った。
 奈々は色鮮やかな撫子色のレースのドレスで会場の花になってくれ、小花を散らした水色の訪問着を着てわたしの傍にやって来た遥は、小さな声でおめでたなのだいうことを教えてくれた。
 お色直しに控え室へ戻ったとき、朱里ちゃんからメールが来て、ホテルから披露宴に出しているお料理とほぼ同じものが無事、届いたこととお礼が書かれていた。父のことで迷惑をかけるから、と手配しておいて良かった。神社の皆さんは呼んでも誰かしら残っていなければならないので、それならば御馳走だけでも仲良く食べて貰いたい、とたけちゃんと話し合ってのことだった。結果、とっても迷惑を掛けることになってしまったので、皆が喜んでいる、というその文にほっとした。
 前撮りの時に見ていたよりも、お色直しで着た黒のシックなタキシードはたけちゃんに似合っていた。短い髪とおっさんの余裕が相まって、ちょっと、いやかなりときめいた。馬鹿みたいだけれど、このおっさんが王子様で良かったと会場の扉の前で思った。
 ゆったりとした時間を感じ、余興があり、保育園の子どもたちからのメッセージビデオがあり、話をする時間もあり、旭たちのダンスに大笑いして拍手喝采し、みちおじさんの高砂には、皆、胸が熱くなったようだった。
 最後にじっちゃんへ感謝の手紙を読む時に、またじっちゃんは会場から逃走しようとしてみちおじさんと勝久おじさんに止められ、笑いを誘った。わたしの拙い言葉に、じっちゃんはおいおいと、おかあさんはそっと泣いた。じっちゃんはお酒が進んでいたのもあると思う、でもその泣き顔は男泣き、と呼べるのに、相応しいものだったと思う。


「いや、もう、クッタクタだ。結婚式半端ないな、おっさんにはキツイ。もう絶対しないぞ。明日が休みで助かった、祝日バンザイ!」
 後からお風呂に入ったたけちゃんは、広々過ぎるベットへうつ伏せになってダイブした。それは良いから、ご祝儀の確認、手伝って欲しい。恐ろしい大金が部屋にあると、何だか落ち着かない。わたしは続きのダイニングのテーブルで、せっせと作業しているのにたけちゃんはベットを転がりながらのんびりしている。
「茉莉ちゃん、明日にしろよ。もう金庫にそれ、突っ込んでおけ」
「たけちゃーん、こういうことはね、きちっとやっておかないと、後で大変なことになるの」
「大変なことって何だ。ご祝儀に足でも生えて、逃げ出していくのか?」
 屁理屈を捏ねる暇があるなら、手伝って、と思った瞬間、後ろから手が伸びてきてあっという間にたけちゃんはご祝儀を纏めると、金庫へ入れてしまった。
「髪飾りも仕舞うから、寄越せ」
 睨みつけたけれど、たけちゃんはお構いなしに右手を差し出して来た。ドレッサーの上に置いておいた髪飾りを渡すと、たけちゃんは金庫をばっふん、と音を立てて閉めた。
「あの髪飾り、渋谷さんが美妃に贈ったものらしい。髪飾りは幾つかあったようだが、じいさんの仕立てた白無垢の意匠と、お前の写真を見てアレにしたんだとさ。お前、似合っていたな」
 もう一度ベットに戻って寝そべると、わたしを見上げて言った。
「そう、……たけちゃん、まだ頭濡れているよ、拭いてあげる」
「それだけか、感動したとかないのかよ。お前は両親のことになると、とことんドライなのにウェットだな」
「それってまったく正反対じゃない」
「会ってみて、どうだった」
 返事はせず、たけちゃんが肩に掛けていたバスタオルを取ると、短い髪の毛をそっと拭いた。一日過ごして花嫁ネイルの指先の使い方を学んだ気がする。指の腹を上手く使うと、何事もやりやすい。
「返事、しろよ。ヲイ」
 見上げてきたおっさんに、かなりときめく。披露宴をしたホテルの豪華なお部屋を照らす雰囲気のある灯りのせいだ、きっとそう。
「茉莉」
 たけちゃんの腕の中に入り、顔を自分よりも硬い胸に押し付けた。家から持ってきたパジャマからは、ほんのりとたけちゃんの匂いがする。消毒液の、病院特有の匂い。
「正直、分からない、わたしの中で両親はずっと、ずっと存在しないひとたちだったから」
「まあ、最初はそんなもんか。よく渋谷さんにああやって言えたな。お前、無理してなかったのか」
「……だって、ずっと自分を罰するようにして生きてきたひとを、責めることなんてできない」
「お前、そんなにいい子ちゃんするなよ。淋しかった、つらかったって言って良かったんだぞ」
 すっかりと解いて自由になった髪を、たけちゃんはゆっくりと撫でた。優しいリズムに震えて喜ぶ身体を更に近づけて、小さく成りたい、そう思った。小さくなってずっと、ここにこうして居たい。
「たけちゃんが、知っていてくれたら、それでいいの」
「うちに来てくれって言っちまったが、嫌だったか。もし茉莉の負担が大きいのなら、やんわり断るけどな」
「たけちゃん、おかあさんと同じこと言ってる」
 笑いながら言うと、たけちゃんは撫でつつけていた手をぴたりと止めた。
「そうか?あんまり似てるとこないと思ってた」
「そんなことないよ、心配の仕方と、優しさが似てる」
 そう言うと、きつく、きつく抱きしめられた。脚を絡めて、たけちゃんが覆い被さるような体勢になると、お腹の辺りに硬いモノを感じた。
「茉莉ちゃーん、勃っちゃったぞ、疲れているのに」
「やだもうこのおっさん。報告しなくても分かるから」
「そうか、嫌か。じゃ、三こすり半してくるわ」
 そう言って身体を離そうとしたおっさんに、慌ててしがみついた。はーなーせーと言いながら、たけちゃんは引き剥がそうとするけれど、爪を立てないようになんとかくっ付いた。
「何だよ、嫌だって言ったんじゃないか、ヲイ」
「やっ、や、やじゃ、ない」
「やじゃないなら、何なんだよ」
 覗き込んで来てニヤニヤと笑みを浮かべるたけちゃんが、一気に優位に立ってズルい。耳が熱くなる感覚がする。恥ずかしくて、目を伏せた。
「言わないと、この乙女ちゃんを置き去りにして、みこすり半してくるぞ、がおー」
「言ってること、無茶苦茶だから。そしてどうしてオオカミなの」
「言えよ、赤ずきん」
 甘さを含んだ囁きと、男の色気を纏った微笑みと、とろりと蕩けた瞳がすぐ目の前で誘惑する。たったこれだけのことに、身体は熱くなっていく。羞恥と欲望がせめぎ合って、何度もたけちゃんを見上げては目を伏せた。長くて、不思議で、沢山のことがあった一日の終わりに、どうしてもねだらなければ、ならなくて。こころはゆれる。
「いろ、つけて」
 やっと出て行った小さな呟きを、たけちゃんは聞き逃さなかった。そっと優しく頭を撫でられる。
「色、つけるのか」
「……そ、う、たけちゃんの色に、染めて」
 唇はすぐに柔らかく塞がれた。そこからわたしは、やっぱりたけちゃんの与えてくれる快感に夢中になった。身体は疲れている筈なのに、頭の中は冴えていて、強く、弱く、でも全て優しく触れられるたびに、染み込むような感覚を味わった。ほんの少し触れられただけなのに、感度はあり得ない位高まって、何度も絶頂を登り詰めた。一気にたけちゃんが入って来てからは、何も覚えていない。気がついたら翌朝で、わたしたちは朝ご飯を一緒に食べようと約束したのに現れないと、心配したじっちゃんが押したチャイムで目が覚めて大慌てになった。先にレストランへ向かって、とお願いして、大急ぎで服に着替えていたら、不意に太腿を伝って行った白に、どうしようもないくらいの歓喜を感じて、思った。わたし、たけちゃんを好き過ぎる、って。


 平日の週休を何処で知ってくるのか、分からない。でも、まめまめしく永田町からいそいそとやって来るひとがいる。ご近所で手土産を調達して、気恥ずかしそうに渡してくるひとは、我が家で嬉しそうに昼食を食べて行く。テレビの中の政策討論番組では、相変わらず真面目な顔をして話している。でも家に来ると再生した番組をいちいち止めて、「これ、キメ顔なんだよ」と説明してくれるが、そういうのいらなかった。まあ、意外と言ったら意外だ。似ているとよく言われるけれど、絶対似ていない。それは言える。
「おめぇ、何でいっつもここにいるんだぁ。大臣ってのはそんなに暇なのかぁ」
「今、私は昼休みなのですよ、お義父さん。昼休みに娘の所にいてもおかしくはないでしょう」
「素麺、うめぇ。かき揚げもっとくれ、茉莉」
「まあ、かき揚げばかり食べては、太りますよ。ほうれん草もお食べなさいな」
 誰だ、流し素麺の機械をうちに持ち込んだのは。ぐるぐるりと涼しげな素麺は掘り炬燵のテーブルの上で回っている。父は初めてこの家に来た夜、待ち構えていたじっちゃんに一発拳骨をおみまいされた。しかも玄関先で、よりによって送ってきてくれたSPさんの前で。
 ばっきゃろー、この一発で全部無しにしてやる、分かったか、この野郎。そう啖呵を切ったじっちゃんが警察に連れていかれる、と真っ青になったら、SPさんは涼しい顔で、民事不介入です、そう言ってわたしとおかあさんへにっこり笑って帰って行った。ちょっと惚れたかも、と言ったら、何故か男性陣はあわあわと慌てた。そんな様子を見ていたおかあさんと顔を見合わせて大笑いした。三年二組の仲間たちから貰ったホットプレートで焼いた焼肉は、とても美味しかった。
「はい、たけちゃん。かき揚げ、小さいのね」
「もっとでかいのくれよ、もっとでかいの」
 そう言われてお皿を持ち上げて差し出すと、じっちゃんと父の箸も伸びてきた。本当によく食べる。競っている気もするが、大丈夫なのだろうか。
「お野菜もどうぞ、かき揚げばかり食べては胸焼けしますよ」
「いやぁ、花ちゃんのかき揚げが旨くて、食い過ぎるってなもんだ」
 じっちゃんは最近、よく惚気ているような気がする。すみませんでしたね、素麺しか茹でていなくて。全く予想していなかった訳ではないけれど、週休の度にこうも毎回全員集合は歓迎しない。新婚なんだから、もうちょっとたけちゃんにくっ付いていたい。でもそう思ったことは飲み込む。だって、いつ迄こんな風に御飯を食べられるのか。元気とはいえ、じっちゃんもおかあさんも朝晩何かしらの薬を飲むようになったし、父だって若くはない。
「ほら、これ、好きだろう」
「いやいや、別にピンクの麺は要りません」
 父はおずおずと素麺にほんの少し彩りに入っている、ピンク色の素麺を掬ってくれたけれど何でだ。あからさまに萎んだ父を見て、たけちゃんはぐわっ、とピンクの麺ごと持ち上げて水が滴り落ちまくっているのに、御構い無しにわたしのお椀に入れた。
「たけちゃんっ、ちょっとっ」
「いいから喰っとけ。ほらネギも入れろ、旨いぞー」
 箸の音を高く立てて、どっさり薬味を入れられた。睨み付けるようにしても余裕っぽくニヤニヤ笑うたけちゃんは、ズルい。
「そういやおめぇ、素麺のピンク好きだったもんなぁ。にこにこしてピンク頂戴って叫んでたぁ」
「知らないよそんな事。子どもの頃の話でしょう」
「もっと小さな頃は、ちゅるちゅると言っていましたよ。膝に乗ってにこにこしながら笑っていて、食べたら口がぱかっと開いて、次を入れて欲しがって、可愛くてね」
「いや、だから、子どもの頃の話は、もういいから」
「いいじゃねぇか。想い出話っていう、年寄りの得意技を奪うなって。お前が愛されている証拠だろ」
「たけ、おめぇだってあっという間にそうなるんだぞ。立派な中年の癖によぅ、若い振りするなぁ」
 じっちゃんの言葉にたけちゃんはムキーと叫んで怒った。まだ若い、若くない、と言い合いが始まって、皆んな笑う。
「もういいって、麦茶お代わりの人、手を挙げてっ」
 ぱぱぱっ、と手が挙がる。冷蔵庫から作り置きしている、冷えた麦茶のピッチャーを出してきてコップを集めて注いだ。
「父さんは、要らないの麦茶」
 そう声を掛けると、はっ、と顔を上げた父の目頭は、みるみるうちに赤くなっていった。そんな事で泣くなんて、この陳腐な、それでいてお互いがより近づきたいと願ってやっている茶番のような家族団欒をした甲斐があったというものだ。まだまだだけれど、そのうちいつか、このひとにお父さんがいなくて、淋しかった、そう言える日はくる。
「あーあ、茉莉ちゃんがいじめたー、茉莉ちゃん酷いなー」
「たけちゃーん、いい加減にしなさい」
「ハイ」
 低い声で言うと、たけちゃんは殊勝に頷いた。尻に敷かれてんなぁとじっちゃんがからかって、またムキーと怒り出したおっさんを横目で見ながら、半分に中身が減ったピッチャーを冷蔵庫に戻して、扉を閉めた。

番外・家賃と冷しゃぶ

 大家さんのうちの店の引き戸を開けて、ごめんください、と声を掛けると、来店を告げるチャイムの音が鳴った。よくある駄菓子屋さんで鳴るチャイムは、エコーのように店内に響く。
 店と居間を隔てるすりガラスの引き戸の向こう側からは、暖かい色の灯りの中を動いてこちら側に来る、白い影が段々大きくなった。
 どすどす歩いてきて引き戸を開けたのは、裏の鈴木医院の若先生だ。つーか今日もいるのかよ。最近毎日のようにいるな、この人。
「よお、純情ボーイ。まあ上がれ。家賃の支払いか?」先生は僕の姿を見るなりニヤッ、と笑った。
「先生、古臭いし。いつもいるけれど、病院はいいの?」
「娘に会いに来て何が悪い?」
「へぇ、まあいいけど」
 そう僕が眉間に皺を寄せて言うと、先生はどすどす歩いて、ちゃぶ台の前へ座った。スニーカーを脱いで揃えて置くと、引き戸を閉める。同じくちゃぶ台の前に座って、持ってきた家賃用の帳面と、家賃の入った封筒を置いた。
「こんばんは、真吾くん」
 茉莉さんは台所から見慣れた手持ち金庫を持ってやって来た。
「茉莉さん、こんばんは」
 挨拶を返すと茉莉さんは、静かに優しく微笑んだ。それを見るなり先生は、分かりにくい表情で嫉妬し始めた。
 流石医者、その辺の表情コントロールは上手い。が、僕にだけ牽制の意味を込めて、ちょっとだけ嫉妬を出しているのも分かる。いいけど僕は朱里一筋だから。朱里しか目に入らないから!そう目で訴えると、先生は途端にニヤリ、とした。

「純情ボーイ、彼女とはイチャイチャしてるのか?」しまった、墓穴を掘った。
 退院した後、往診に来てもらった時に散々『青春っ青春ねっ、真吾ちゃん!』と、からかわれて、彼女のことを根掘り葉掘り聞いてきて、その後も色々自白を先生は強要する。言わないけれど。
 でも家族経由で色々バレてはいるようだ。あの神社の愉快な家族たちがこんなに恨めしいことはない。
 そんなのは、気にも留めていない茉莉さんは、ちゃぶ台につくと、家賃用の帳面を開いた。
「あー先生うるさいよ。先生こそ、もういい加減結婚したら。誰かいいひといないの?」
 こんな口撃で、この人が大人しくなるはずない、とは思いながらも言う。
「俺はいいんだよ。茉莉がいるからな。茉莉に看取られるわ。なー頼んだぞ?」
「はいはい、お父様」
 先生は茉莉さんに、さり気なく甘えた。茉莉さんも、それを何事も無いように、応えちゃったよ!
 それってどうなんだよ、そんな静かで淋しい望みを吐いた先生を、茉莉さんは優しく受け止めているけれど!
 ああじれったいなぁ。人の恋路がじれったいなんて、なんというか溜息がでた。

「で、彼女はもう部屋に連れ込んだのか?」ニヤニヤした先生は畳み掛けるように聞いてきた。
 僕より自分の心配しろよ。そう思いながらも頬が熱くなっていく感覚がする。
「うるさいよっ茉莉さん。この人どうにかして」
 最後の頼みの綱に訴えかけたのに、その前に返ってきたのは、大家さんによる巨大爆弾だった。

「いいなぁ若いってな、甘酸っぱいなぁ。真吾にやっとこさ春が来たんだもんなぁ。そりゃ張り切って彼女と手繋いで花火から帰って来たら、しっぽりしけこむよなぁ」
 銭湯に行く用意が出来た大家さんは、ニヤニヤしながら言った。
 見られて、いた、あの日、朱里と初めてだった、日。顔を上げていられなくて、ちゃぶ台に突っ伏す。あれは見られちゃ駄目だーろー

「もうヤダ、この家」
 本当にここんち濃すぎるよ、人が。茉莉さん位だよ、まともなのは。
「ごめんね、真吾くん」
 そっと顔を上げると、眉毛が八の字になった茉莉さんが、家賃の帳面をそっと差し出していた。その顔に何かが削がれてそっと帳面を受け取る。
 この家は茉莉さんだけじゃない、優しくて暖かい気配が二つ、ある。何かを見守っているような、暖めているような。濃い人たちに傷つけられた気持ちは、そんなこの家の暖かさにも助けられて少しだけ浮上した。
「茉莉さんが悪いわけじゃないし」
 帳面を受け取り、すぐに立ち上がる。茉莉さんも手持ち金庫を片付けにいなくなった。
「何だよ逃げるのか、純情ボーイ。今日は彼女としっぽりか?」
「五月蝿いよっ先生、もう家に帰りなよ!」急いでスニーカーを履く。
「真吾、女はちゃんと言葉にしてやらんと、すぐ不安がるからな。耳元で愛を囁いてやれ、イチコロだぁ」
「大家さんまでっ、もう銭湯行きなよ!」
 くっそ、ハイカットにしなけりゃよかった!

「お邪魔しましたっ」
 急いで立ち上がりぺこりと頭を下げると、古臭いチャイムの音を背中に聞きながら逃げるように店を出た。

「ただいまー……ああ、疲れた……」
 アパートの家のドアを開けると、すぐそこにある台所で朱里が何かを作っていた。
「おかえり、なさい。大家さん、いた」
 おかえりの言葉と、はにかんだ笑顔に本当に癒される。あんな目にあった直後だからこそ。
「んー今は居たよ。なんで昼間いなかったんだろ」
 珍しいことだけど、大家さんは昼出掛けていたようだ。何時もいるのにな。スニーカーを脱ぎながらぼんやりと思う。でも、ま、いいか。
「良かったね、今はいて」
 ほんわか笑った朱里に嬉しくなり、さっきの濃い人たちは、正直どうでも良くなった。積極的に記憶の隅に追いやることにする。っていうか、いなくなれっ。
「何作ってんの?」
 朱里の後ろから覗き込むと、朱里は、や、まだ、出来てない、と小さく呟いた。
 そっと背中にくっつくと、朱里は身体を固くした気がする。髪から甘い匂いがして、胸が疼く。
「冷しゃぶ?」
「そ、そう。真吾くん、好きだって、言ってたから」
「やった、うれしーなー」
 そう言うと、ちょっとだけ笑った朱里は、僕を見上げてきた。そっと頬にちゅ、とキスすると、朱里は真っ赤になってる。
「たっ、た、たた、たべよ?」
「どんだけ、た、あるんだよ」
 僕が茶化していうと、真っ赤な朱里はちょっとだけ吹き出した。

番外・紅葉と巫女

「ようよう、真吾ちゃーん。何だよ雛人形みたいにくっついているけどよ、彼女か、あ、噂の彼女か?」
 写真撮影が終わった途端に、ニヤニヤにやけた、黒い礼服の輩に絡まれた。
 これで医者だと言うのなら、世間一般の真面目に働いている、お医者様に謝り倒した方がいい。その方がいいよ、先生。
「こ、こんにちは。この度は、おめでとうございます」それでも隣にいる朱里はぺこり、と先生に頭を下げた。
「か、かわゆいんじゃねぇかっ、おい、くれ」
 何で両手を差し出しているんだ。やるわけないだろ!
「何を言ってるんだか分からないよ、先生、お疲れですか?」
「初々しい可愛い子ちゃんに、癒されたいから、くれ。真吾ちゃん」
 両手を出し続けて、にじり寄って来た先生から、朱里を背中に隠す。全く油断も隙もない。
「先生、茉莉さんに言うよ?」
「すみませんでした」先生はあっという間に頭を下げた。
 本当にプライドがないというか、なんというか。気持ちは何時もフラットで、遥か彼方を向いているように見える。頑固な性格の僕から見ると、その風のような生き方は羨ましく思える。でも、風でも捕まえておきたい女性はいるんだろうな。ここに。

「いやーしっかしこの年で、親の結婚式に出ることになるなんて、夢にも思わなかったな。まあ幸せそうだからいいんだけれどな」先生はそう言うと穏やかな顔で横を向いた。
 視線の先には、わざと紅葉を散らした参道で大家さんと、先生のお母さまが並んで仲睦まじい様子で、二人だけの写真を撮っている。
 茉莉さんはカメラマンの後ろに、華やかな、それでいて上品な朱色に牡丹の中振袖で立ち、二人の様子を笑いながら見守っていた。

「先生も一緒に茉莉さんちに住むの?」
「いや、それはないな。お袋はあっちに行くが、俺は残るさ。まあ、たまに飯食わせろーって行く位だな」
「寂しくないの?」
「この年になりゃ、寂しいとか言ってらんねぇな。まあそんなもんだ」
「茉莉さんに一緒に住んでもらったら?」
「バーカ、あいつはまだ若いんだ、おっさんの相手させたら駄目だ。若くてちゃんと茉莉のこと大事にしてくれるやつの所に、嫁に行くのを見届けりゃ、俺の役目はお終いなんだから」
 本当にこじれてるな、ここの二人は。どう見てもお互いを思い遣っているのに、その方向は明後日を向いている。
 先生、なら何で僕を牽制し続けているんだよ、もうそろそろ素直になればいいのに。

「だから真吾ちゃん、癒しの巫女ちゃんをくれ」
「言ってることとやってることが違うだろっ、馬鹿なのか、このおっさん」
「いいじゃねぇか、減るもんじゃなし」
「すんげー人でなしな発言だよ。大事なんだから、やる訳ないだろっ」
「あ、あのう、好きな人に癒されるのが、一番良くないですか?」
 振り返ると朱里は、僕の背中から頭だけ斜めに先生の方へ出していた。
「へぇー巫女ちゃんは、そう思う?」先生は穏やかな顔で朱里を見て言った。
「はい、その方が、いいなぁって」
「そうか、そうだよな。君の言う通りだな。まあ、今は君たちを、からかって遊んでいるだけだから、心配しなくていいよ。ごめんね、巫女ちゃん」
「何を謝ることがあったの?」
 先生の背中から、ブリザードすらも暖かく感じるんじゃないか、と思われる位冷たい声がして、先生はひっ、と喉を鳴らした。
「茉莉さん、先生が色々ちょっかい出してきて酷いんだけれど」
「真吾っ、てめぇ裏切ったな!」なんだよその三流チンピラみたいな台詞は。
「本当に目を離すと碌なことしない。今日位は余計なことしないで。分かった、たけちゃん」
「ハイ」
 先生は殊勝に返事をした。全くどっちが年上だか、分からない。
「ごめんなさい、阿呆なおっさんが余計なことして」やっと茉莉さんは先生の隣に来た。
 こうやって並んでいるのを見ると、大きな年齢差なんて感じない。しっくりとくるから不思議だ。まあ先生は若々しい外見だし、茉莉さんは年齢の割りに落ち着いているから、そう見えるんだろうな。
「茉莉さん、この人の襟首捕まえて歩かないといけないから、大変だね」
「精神年齢十歳だから、仕方ないの」
「おみゃーらよぉ、酷くないか。色々と黙って聞いてりゃ」
「言われたくなかったら、余計なことしなければいいのに」
「それは出来ないんだな」
 先生はニヤニヤしながら言って、それを見た茉莉さんは溜息をついた。
 本当に不思議だけれど、もう長いこと寄り添って支え合っている夫婦のようにも見える、先生と茉莉さんの距離感。
 そうか、逆にここまで家族のようになってしまうと、付き合ってデートして、とかそういう感じにならないのかもしれない。
 それを恋にするには、何かを逃している2人だけれど、それでもそこを越えて恋になればいい、そう思った。

「さっきの男の人、真吾くんのかかりつけのお医者さまなの」
「まーね。うちの家庭医だよ。性格はあんな感じで濃いけれど、患者の立場に立ってくれる人だよ」
 朱里と一緒に参道へ散らした紅葉を掃く。先生達はこれから近くのホテルで会食らしい。
「凄く大人な人、なんだね」朱里の言葉に僕は手を止めた。
 あの人が大人?またまた!大人が婆婆さまと、ガチで僕の恋路について賭けをして負けて、ミンミンゼミの真似を皆に披露したりしないだろ。
「そうかな、永遠のガキ大将、って感じだけれど、何でそう思うの?」
「だって、自分の幸せより自分が悪役になっても、人の幸せを願って与えようとしているから、かな?」
 その言葉に黙る。そうだった、朱里は人の本質を見抜く力がある。さっき先生と交わしていた朱里の言葉は、先生にダイレクトに届いていた。それを思い返してちょっと、もやもやした気持ちになる。
「そ、か。朱里はそれが分かるんだ。凄いな。いいけど、いや、良くないけど、先生のこと、格好いいとか思う?」
「え、お、大人だな、とは思うけれど、別に、格好いいとかは………」
「あ、そう。それならいい」
 なんだ良かった。でもまだもやもやはしている。箒で掃くスピードは自然に上がった。こういうところ、僕は未熟だ。分かっているのに、止められない。
 そう思っていたら真っ赤になった朱里が僕の前に躍り出てきた。勢い良く。

「あ、あのねっ、真吾くんが、一番、なんだよ、いちばん!」
「へ」
「いちばん、かっこいい、よ」そう言うと朱里は顔をもっと真っ赤にした。
 なんだよ、朱里は僕のもやもやを、全部持って行った。勇気を振り絞ってくれて、気持ちを伝えてくれている。
 僕は幸せ者だと、今やっと実感した。こんな時に自分がガキだって気づくなんて、遅いよな。もう少し大人にならなきゃ、いけない。

番外・路地と絵文字

 朱里から『少しだけ遅くなります!地下鉄に乗ったらメールします』というメールを貰った。
 晩秋の夕方、細い路地で確認した僕は、地下鉄の狭い改札の前で、待ち受けているのも何だ、と思って道端で寝転がっている、三毛猫の側にしゃがみ込んだ。
 道の端から順に、街灯が灯り始める夕方と夜の狭間の路地は、都心の喧騒は響いてくるものの、静かに感じる。
「よう、にゃんこ大先生。元気か?」
 まあそんな名前じゃないのは知っているけれど、大家さんはそう呼んでいる。頭を撫でて顎の下をぐりぐりしたら、にゃんこ大先生は目を細めた。

「もうすぐ冬だな?あー朝起きるの、辛くなるなぁ」
 そんなことを言いながら、にゃんこ大先生をナデナデしていると、道の向こう側から茉莉さんが重い足取りで歩いてきて、すぐに長身の男の人に後ろから声を掛けられた。
 こちらに背を向けた茉莉さんの表情は見えなくなったけれど、その男が茉莉さんをじっと見つめて話している様子は、どうみても口説いているそれにしか見えなかった。

 この間、お稲荷の掃除へ行った時、茉莉さんに公園で会って、あまりの元気の無さに気になって、帰り道も一度公園へ寄ったら、さっきの男に茉莉さんは絶賛口説かれ中だった。
 慌てて先生へメールしたら、どんな男か教えろ、と即返事が帰ってきて、教えたのに今度は、うんともすんとも言わなくなった。

 何やってんだよ先生、大ピンチだろ。自分ちの前でやってるんだから気付け。ああ!じれったいな、メールしてやろうか。スマホを急いで取り出す。


『せんせー茉莉さんがせんせーんちの前で、また例のイケメンに口説かれ中だけどいいの?』
 送ると即返事が返ってきた。
『((((;゜Д゜)))))))』

 ………あの人は真面目なのか、ふざけているのか本当にわからねぇ。
『早くしないと攫われるよ?』そう返すと
『ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘』と即返って来た。移動中なんだな、これは。


 程なくして先生は二人に声を掛けた。おお、よしよし、定番な『俺の女に手を出すな』ってやつだ。
 でもすぐに茉莉さんは、先生を説教しはじめた。ような気がする。流石、あの濃い人たちの中で、平気な顔をして暮らしているだけはある。この状況で先生を説教なんて鋼の心を持っているよ。茉莉さんは。
 やがて先生だけ、こちらに面白くなさそうな顔をしてやってきた。しまった、絶対ターゲットにされるっ。

「やあ、真吾ちゃーん。ご機嫌なメールくれてありがとさん」白衣のまま、ずがっ、と隣に座った先生は、スマホを持ちながら即、僕の脇腹を拳でぐりぐりしてきた。ご機嫌具合ならそっちの方が上だろう!
「いてぇよ、先生っ。仕事は?」
「本日の診察受付は終了致しましたー事務長も帰ったし、米田さんしかいねぇ」
「で、茉莉さんは、何て?」
「なんで、お前みたいなひよこの殻被った奴に、教えなきゃならねぇんだよ」
「振られたの?」
「うるせえっ、いいかー最初これもんで行ったんだよ」
 先生はスマホのメール画面に(# ゜Д゜)つ〃の顔文字を出した。

「そうしたら茉莉はこうだ」
 次に出したのは(♯`∧´)の顔文字。

「それで俺はこうなって、こうだ」
 Σ(´□`ノ)〃とヽ(-公-;) ………悲惨だ。

「振られたんじゃんか。ばちが当たったんだよ。茉莉さんをないがしろにするから」
「お前は一歳の子を恋愛対象で見れるのか。ああ?」
「年の差二十歳だっけ」
「マジで、娘でもおかしくないんだよ。あいつ何か誤解もしてるしな」はーと隣のおっさんはため息をつく。
「こじれてるねー先生、素直になって言えばいいのにさ。案外悩んでいることだって、茉莉さんに思い切って伝えたら、受け止めてもらえるかもしれないし。茉莉さんはああ見えて強いんじゃない?」
 先生は黙った。茉莉さんは未だ、あの男と話続けている。
「本当の気持ちを真心込めて伝えれば、真心で返ってくる、って何時も婆婆さまは言ってる。それが自分の意としない答えでも、真心で返してもらえたら次に進めるんじゃない?」
「………真吾ちゃん、男前ねぇ。惚れてもいい?」
「はぁっ、ふざけている場合じゃ」
「いやーそんなこと言われたら、惚れちゃうだろー?」気色悪りぃな、この細マッチョ。どうして、しなだれかかっているんだ!
「くっつくなよっ、鬱陶しい」
「真吾ちゃんの男前度の高さに、タケシ惚れちゃう」
 低めの声を高くして話しているけれど、気持ち悪ぃ。

「だっ、だ、駄目ですっ、あ、のっ、それは、困ります」
「朱里?」左側から声がして、振り返ると真っ赤な顔をした朱里が、ブルブル震えながら立っていた。
「えー、駄目かなー真吾ちゃん、男前だ・か・ら」
「あのっ、でも、それは、真吾くんはわたしの大切なひとなんで、本当にごめんなさいっ」
 朱里がアワアワしながら、真っ赤になって叫んでいるのを聞いていたら、こっちも顔が赤くなっていく。

「だあれ、いたいげな可愛いカップルをからかって遊んでいる、阿呆なおっさんは」
「いででっ、茉莉、止めろ!」先生の右側からやってきた茉莉さんは、問答無用で先生の耳を抓り上げた。いい気味だ。
「他人様に迷惑掛けたら駄目でしょー、分かってるの、たけちゃん」
 そう言われて先生は、少しだけ分かりにくい表情で喜んだ。茉莉さんの中では大切なひとは、何時だって先生なんだ。
「ハイ」
 先生は殊勝に返事をする。全くどっちが年上なのか分からない。
「ごめんなさい、余計なことしかしないおっさんが阿呆なことをして」
「いえっ、あの、大丈夫です……わたしこそあんなこと口走って」そう言って朱里は顔を伏せた。
「いや、いいじゃないか。真吾のこと大切なひとって言えるのは、ちゃんとお互いを思いあっている証拠だろ?仲良くやれ、純情ボーイ」
 そう言って先生は立ち上がった。いいところを最後に全部持っていくのは、先生のズルいところだ。

「茉莉、ちょっと来い」
 ため息をついた茉莉さんは、じゃあ、と言うと先生と並んで歩き出した。そして先生の病院の方へ2人で曲がっていった。

「朱里、座らない?」
 にゃんこ大先生は、とっくにいなくなっていた。朱里は真っ赤なまま、僕の隣に隙間なく座る。

「さっき言ってくれたことは、本当?」
「あ、あの、う、うん」そっと朱里の手を握る。
「嬉しいよ、ありがとう。僕も同じ、だから」そう言うと朱里はもっと顔を赤くした。
 先生、想いを伝え合うって、甘ったるくて、幸せになるよ。2人もそうなれたらいい。そうなれたら。

番外・聴診器と白湯

「宮本さーん、中待合にお入りくださーい」
 知らない看護師さんが診察室の方から現れ、僕の名前を呼んだ。ああ、嫌だ。絶対、絶対からかわれる。真吾ちゃーん、お熱出たんでちゅかーとか、今迄も散々にやにやしながら、からかわれてきた。そんなことを思ったら、熱は上がった気がする。
 待合室を抜けて、診察室の壁に沿うようにして置かれた、病院でよくある黒くて長いベンチへ座る。待合室には二、三人の患者さんしかいなかったけれど、webで診察予約を始めたようだから、そんなものなんだろう。実際受付の上に新しく備え付けられたモニターには、恐ろしい数の予約人数が表示されていた。あれ、先生一人で診てるのかと思うと、なんだかゾッとする。
『で、す、か、ら、ね。今この薬を止めてしまった方が将来、身体に負担が掛からなくって済みます。徐々に軽い薬にしていった方が、いいですよ』
 診察室の中は何やら揉めているらしく、真剣な声で患者さんを説得しているっぽい先生の声と、不服そうな中年のおじさんの声とが混ざりあう。
 ここの医院は代々患者さんの身体第一で、かといって薬漬けにする医療は好まず、先先代も先代も身体を大事にしない患者さんに、雷を落としたという逸話が残るほどらしい。つまり良く言えば熱血漢、悪く言えばウザい。
 今時そういうのは流行らないし、あっという間にネットなんかで評判は回るので、先生は代々の方針とは違って理性的に説得しているみたいだ、けど。

「………ありがとうございましたっ」
 出てきた中年の小太りなおっさんは、診察室の引き戸をバシッと閉めた。ありゃ、怒っているなあ、きっと。患者さんの言いなりになって薬を出したり、儲けのために無駄な検査やったりそういうのをすれば、鈴木医院はビル建つだろうに、本当代々欲がないな、あそこは、と宮司でもある伯父は何時も言っている。でも神社の掛かりつけはずっと鈴木医院だ。数年前、近くにピカピカのクリニックが出来ても、それは変わらなかった。

『真吾ちゃーん、どーぞー』
 引き戸の向こう側から、疲れたような声で呼ばれた。熱でふらつく身体を励まして立ち上がり、引き戸を開けると先生はマスクをした白衣姿で座って、パソコンに何かを打ち込んでいた。
「熱高いな、三十九度五分か。昨日の何時位から出たんだ」
 看護師さんに予診されて、書いていたメモを読んだ後、先生はこっちを真剣な顔をして見た。のろのろと、患者用の丸椅子に座る。
「んー夜の十一時くらい、です」
「巫女ちゃんとヤッた後か」
「なっ、ちょっ、せんせいっ」
 ぎゅん、と熱は上がった気がする。先生の側に付いているベテラン師長の米田さんは涼しい顔して、それでもそっと居なくなった。続きの間になっている治療室へ行ったようだ。
「かっ、関係ないよね、それ、関係ないって」
「関係あるから聞いてるんだろ、正直に答えろよ、ヲイ」
 小声で話すと、真面目な目をした先生は小声で聞いてきた。
 昨日は金曜日、朱里と大学の講義が終わった後、うちへ帰ってきて、夕飯を一緒に作って食べて、しかもシチューは美味かった。でも身体は少しだるかった。お互い風呂へ入って、その後は、うん、その、昨日も朱里はもんげー可愛かった。きょときょと目が動いて、挙動不審で、自分が残念な状態にあるのは分かっている。顔が熱いのは熱のせいだ、きっとそうだ。
「くっそこのリア充め一度爆発しろ」
 先生はじっとり睨むと、物凄い早口の小声で言った。何だよ、そっちこそ幸せ真っ只中だろう。
「先生には、茉莉さんが、いるじゃんか」
「阿呆か、クッソ忙しくてあいつの顔なんか最近見てねー」
 まあいい、と先生は言うと、口を開けるように促された。首筋や鎖骨辺りをゆっくりと触診される。先生は他のお医者さんより、時間を掛けて患者さんを診る。触れることで、患者さんの状態は結構分かるものらしい。最後に手を出せと促され、丁寧に触れると先生は聴診器を取り出した。
「ちょっと脱水気味だな、んー米田さん、白湯持ってきてください」
 はーい、と治療室から返事があって、人が動く気配がした。
「ちょっと腹だせ、くっそ、お前割れてんなぁ」
 くっそくっそ言いながら、先生は聴診器を耳につけると、腹をめくった僕のシャツの下から聴診器を入れ、冷んやりとした聴診器を胸へ当てた。その間に米田さんは先生の机へそっと紙コップを置くと、また姿を消した。
「インフルエンザだな。帰ったら巫女ちゃんに手洗いうがいマスクして看病するようにって言え。巫女ちゃんも身体だるくなったり熱っぽかったら、来るように伝えておけよ」
「は?何で朱里なんだよ、先生」
「昨日、飛沫感染してっだろーんで、看病してもらうんだろーいいなオイ、薬出しておくから飯食ってそれ飲んで、リア充野郎はぐっすり寝ろ。年末、神社は忙しいんだから今の内に治しておけよ」
 そう言うと先生はほい、と言いながら紙コップを手渡してきた。ほんのりと暖かい白湯だ。
「熱で脱水気味だから、それゆっくり飲めよ。巫女ちゃんによろしくな」
 行っていーぞーと言われたので、ありがとうございました、と立ち上がると、パソコンを見ながら先生はさりげなく言った。
「熱下がったら、肩の火傷跡見せに来いよ、真吾」
「はい」
 もう一度ありがとうございましたと言って、診察室を出た。小六の時に負った火傷が原因なのか分からない。でも僕はどちらかと言うと感染症に掛かりやすく、熱の後は火傷の跡が必ず大きく痛む。
 火傷跡の手術は何度かしている。でも劇的に良くなっている訳じゃない。
 先生は何年も根気強く、僕の治療へ向き合ってくれている。専門は内科なのに、総合診療医としての役割を先生は果たそうとしてくれているように思う。本来は火傷なんて専門外なのに、な。
 そうやって先生はこの辺りの一つ一つの家庭の状況を把握して、一人一人と向き合って仕事をしている。
 それが心地よい信頼関係になって、掛かりつけ医と言ったら、先生になっている所以のような気がする。
 待合室へ戻って、ゆっくりと白湯を飲む。診察室からは次の患者さんを呼ぶ、先生の声が聞こえた。

「お帰り真吾くん、お薬貰った?体調はどう?すぐ、すぐ横になって、ねっ」
 薬を貰ってアパートの部屋に辿り着くと、扉が開く音でマスク姿の朱里は文字通りすっ飛んで来た。
 そんないじらしい姿に、もう、もんげー好きだと思う。いや、自分が残念なのは分かっている。でも。
「ちょっと、一度だけ抱きつかせて」
 返事も聞かず抱き締めると、腕の中でふみゅっ、とか鳴いた後わたわたしている。
「しっ、真吾くんっ、着替えてお布団に入ろ、ねっ、ね」
「朱里がすきだ」
 そう言うと腕の中にいる大切な存在は、ピタッと動きを止めた。更にぎゅう、と掻き抱く。
「う、うう、く、るし」
「あ、ごめん」
 熱のせいなのか分からないけれど、何だか甘えたい気分だったんだ。そっと離して覗き込むと、真っ赤になった朱里はそれでも優しい目をしていた。
「わたしも、同じ、だから」
「何が」
「………真吾くん、時々意地悪する」
 ああ、挙動不審もこの一年近くで、朱里は飛沫感染したらしい。でもそんなわたわたした状態を、僕は可愛いと感じてしまうし、そのままで居て欲しいと思う。
 そうやってそのまま僕は、治る迄の間朱里に甘え続けた。お粥は食べさせてもらって、我儘言ってコラッ、って笑いながら怒られて、こまめに面倒みてくれる朱里へ抱きついた。
 そんなことをしていたら、熱が下がった後にやって来る火傷跡の痛みが全然出なくて、散々先生に愛の力、愛の力ねっ、真吾ちゃん!とからかわれたのは、言うまでもない話だ。

番外・毛糸玉とショコラ

「じゃ、また、明日、大学で」
「………最近、帰る時間早くない?もう少しゆっくりしていっても」
「ん、あっ、でも、ほら、まだ試験中だからっ、少し勉強しないと、って」
「………勉強道具、持ってきてるじゃん。うちでテスト勉強、昨日もしてたよね」
「えっ、あ、その、ちょっと、図書館にも寄りたいし、だから」
 僕の狭いアパートの玄関で、靴を履いてそわそわしている朱里に、ちょっとだけ、いやかなりの淋しさを覚えて引き止めている真っ最中だ。
 ここ最近の朱里は、なんというか日曜日の午後、帰り際になると途端にそわそわしだして、早く帰りたい素振りを見せる。
 先週も先々週も、そうだった。どうして、と聞いてもあわあわした朱里は、明確な答えをくれない。
 自然と眉間に皺が寄りそうになるけれど、今日は試してみようと思っていたことがあるから、ちょっと我慢する。
「分かった。駅まで送るよ」
「いっ、いいっ。大丈夫だよ。すぐそこだもん、本当に大丈夫だから」
 朱里は両手をブンブンと振った。いや、なんなんだ。僕が何か悪いことをして、こうなっているんだろうか。でも、昨日も一昨日も朱里は何時もと変わらず、嬉しそうで、そしてもんげー可愛かった。
 これは本気でどうしようか迷っていたアレを実行する時なのかもしれない。
「そう、じゃ、気をつけて。家に着いたら、メールして」
「うん、ありがとう、それじゃ」
 やっと朱里は笑顔を見せた。ほわっと花の蕾が開く瞬間のような、可憐な笑顔は大好きだけれど、今は見たくなかった。ほっとした顔をして扉を開けて、少しだけ申し訳なさそうな表情に変わると、朱里は扉の向こうに消えていった。カツカツと外階段を降りて行く音が完全に消えてから、急いで限りなく黒に近いグレーのモッズコートを着て、ブーツを履いた。
 外に出て扉の鍵を掛けると、急いで朱里が歩いて行っただろう、路地を目指す。この辺は入り組んだ道が多く、大体地下鉄駅まで出るには一度、保育園がある通りまで出るのが最短距離だ。
 今ならまだ、この路地にいるはず……と急ぎ足で狭い道を入ると、そこには誰も居なかった。
 まずい、朱里はおっとりした感じとは裏腹に、意外と歩くスピードは早い。小走りに路地を通り抜け、保育園のある通りへ出ると、コンビニの袋をぶら下げたダウン姿の先生が、前から歩いてくるのが目に入った。
「先生、こんちわ、あの、朱里とすれ違いませんでしたか」
「おお、真吾ちゃん。なんだ、そんな死にそうな顔してよ」
「いや、僕のことはいいから」
「あ?巫女ちゃんか、………うーん見てねぇな」
「そっすか、ありがとうございます、じゃ」
 そう言って急いで側を通り抜けようとしたら、先生はがしっ、と僕にラリアットをかましてきた。思わぬ出来事に息が止まり、激しく咳が出た。何するんだ。相変わらず酷いな、この人は。
「巫女ちゃんを探してんのか、真吾ちゃーん」
 先生は相変わらずニヤッニヤして、からかおうとしている様子は何時も通りだ。でも見失った朱里を探していて焦った僕は、一礼だけすると再び歩き出した。
「おいちょっと待てよ、巫女ちゃんの行き先なら、知ってるぞ」
「はぁ?」
 思わず大きな声で振り返った。朱里の行き先を知っている、どうして先生が。何で、なんで。
「知りたいか、あ?真吾ちゃん」
 ニヤッニヤを止めない先生に何だか嫌な予感しかしない。何を求められるんだ、怖いな。
「知りたい、けど、何」
「話は早いな、真吾ちゃん水曜、暇か?」
「あーテスト中だけれど、その日で終わるし午後からなら、まあ時間はあるよ」
「じゃあ、手伝ってくれ。古紙回収業者が来るんだけどな、じいさんの代からの本が書庫に溢れててかなり処分しようと思っているんだが、量が多すぎて一人じゃ辛い」
「なんだ、いいよ。っていうか、先生、茉莉さんは?」
「あいつは仕事だよ。平日だからな」
 のんびり言う先生をイライラしながら見た。そろそろ教えて欲しい、そんなことを目線で訴えるとニヤッニヤを止めない先生は、じゃ、着いて来い、と今来た道を歩き出した。

「それでね、この模様のここはね、こうやって、こうして……こう」
「えっ、ええっと、もう一回、お願いします」
「いいよーこうやって、こうして、こう」
「………こうして、こう、ですか」
「そうそう、ここから五目はそれの繰り返しね、そこまでやってみて」
「はい」
 はにかんだような、嬉しそうな朱里の声が大家さんちの居間からする。先生は躊躇わず大家さんちの勝手口から忍び足で入り込むと、僕も入るように促してきた。っていうか、いいのか。これって無断侵入じゃあ、と思っていたらトイレから大家さんが出てきて、ニヤッニヤした先生は素早く驚いた顔をした大家さんに耳打ちをした。それを聞いて、大家さんは小声でニヤニヤ二ヤしながら、静かに着いて来いと僕を促した。そうして忍び足で辿り着いたのは、居間へ続くすりガラスのついた引き戸の前、だった。
「染次さん、どこに行ってしまったのかしら。さっき迄、店先にいたのに居ないのよ。あきちゃん達来たのにがっかりして帰って行ったの。約束していたようなのに」
 店側の古臭いチャイムの音と共に、花さんの心配そうな声が聞こえた。一緒に立ち聞きしていた大家さんは、慌てたように立ち上がり、たけ、あとは上手くやっとけ、と小声で言うと勝手口へ急いで向かって行った。
「あきちゃん達って、ベーゴマの約束でしょ、困ったね、みちおじさんの所かな」
 茉莉さんが立ち上がる気配がして、僕と先生も慌てる。こんな所見つかったら、ちょっと格好悪い。彼女の行動に不安を覚えて跡を付けて、成り行きとはいえ立ち聞きしているなんて、あまり褒められたことじゃない。
 その時、店のチャイムが鳴って、にぎやかな声と大家さんの()れ声がした。
「あ、じっちゃんに会えたみたいだね、よかった」ほっとしたような茉莉さんの声に、先生と僕もほっとする。
「五目、出来ました」
「うん、あ、上手ね。綺麗に出来ているよ。そうしたら、さっきのをもう一度、これね」
「はい」
「まあ、朱里ちゃん上手になったわね。いつの間にかこんなに長くなって、間に合うといいわね」おっとりした花さんの声に朱里は嬉しそうにはいっ、と返事をした。
 ふ、と先生を見ると、ニヤッニヤしながら僕を見ている。
 何を疑っていたんだよ、この青二才が、って目線が言っている。
 悪かったな、先生のように大人じゃないんだよ。そんな簡単に大人になんかなれないんだよ。
 ここ最近、茉莉さんはとても綺麗になった。それも一気に一晩で固かった蕾が、色濃い大輪の花になったかのような変化を目の当たりにした時は、とても驚いた。
 どこが変わったのか、なんて上手くは言えない。だけど。
 先生が本気を出したのは明白で、その手腕にあんなに口うるさく言っていた大家さんも、最近は黙りがちのようだ。
 そういうところは凄いとは思うけれど、何だか、ちょっと、面白くない。

「朱里ちゃん、真吾くんにはマフラーの他に、何か用意するの」
「あっ、あの、オレンジピールのショコラに挑戦してみようか、と」
「あれって、家で作れるの、難しそうだけれど」
 そんな茉莉さんの言葉に応えて、朱里は楽しそうにレシピを話し始めた。そんな声を聞きながらもそっと立ち上がる。先生も笑いながら立ち上がり、また忍び足で一緒に勝手口から外へ出た。
「真吾ちゃん、巫女ちゃんに問いただすのか」
「………しないよ、そんな事」
「そうか」そう言うと、先生はふ、と息を吐く。納得したように、受け止めたと分かるように。
「いつの間に仲良くなっていたのかは、知らなかったけれど、さ」
 どうしても拗ねたような話し方になってしまって、不貞腐れていて自分がガキだと思う。でも、止められない。
「駅前の本屋で巫女ちゃんが熱心に編み物の本を立ち読みしていた時に、茉莉が通り掛かって話しかけたらしいな。それで二人で本を選んで、毛糸玉を買いに行ったのまでは聞いたぞ」
「そうなんだ、別に内緒じゃなくって、良かったのにさ」
「巫女ちゃんは、お前をびっくりさせて、喜ばせたいんだろ。そして、茉莉と気が合うんだろう。巫女ちゃんはきつい目に合った子だから、茉莉は、放っておけないんだろうな」
「先生、知ってたの」
「何が」
「朱里が、きつい目に合った、って」
「見れば、分かるさ」
 そう言うと先生は、ふ、と笑って僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「まあ、青春を楽しめ、純情ボーイ。そうしたら、水曜頼んだぞ」
 そう一言いうと、先生は大家さんの家の境にある鉄の扉を開けて、自分の家へ帰って行った。その後ろ姿を見送る。
 見れば、分かる。その言葉に僕はそっと息を、吐いた。


 おまけ≪水曜の午後≫
「おお、真吾ちゃん、また昔のエロ本出てきた」
 頭に手拭いをほっかむりしてマスクをした先生は、卑猥なヌード画が描かれている、黄ばんだ雑誌をうんざりとした僕に見せつけて来た。
「これで、何冊目なんだよっ、ありすぎだろ、エロ本っ」
「いやー書庫をじーさんも親父も、エロ本の隠し場所にしてたんだな。まだまだだな、じいさんも親父も」
 すっかりと塔の様相をなしてきたエロ本の山を前に、先生はうんうん頷く。
「……先生はどこに隠していたの」
「んあ?お前は?」
「なっ、ちょっ、僕が聞いたんだよ、何で逆質問するんだよっ」
「いいから答えろよ、お前はスマホ派か」
「うっ、五月蝿いよっ。………先生、コレ」
 何と無く新しいっぽい背表紙に違和感を感じて本を引っこ抜くと、うん、予想を裏切らない展開だ。
「わっ、おい、そこは触るなって言っただろ!こんにゃろう!」
「先生………人妻物が、好きなんだ……」
 どう見ても新しい、しかもDVD付きの一品だ。何だよ、先生の隠し場所も書庫なんじゃないか。
「うるせーな、女子大生も、レースクイーンも、人妻も、熟女も、何だってばっちこいだ!お前は、女子大生か?あ?」
「エロ本、読まないし」
「この新人類め、エロ本は至宝だぞ!これ持って帰って読め!」
「ふ、ふるっ!古すぎて、無理」
「レトロエロの分野を開拓しろよ、真吾ちゃーん」
「レトロエロ……ちょっと待って先生」
 試しに一番上にあったレトロエロ雑誌の題名と買取で検索してみると、なんと、千八百円の買取、と出た!すげぇ、この塔もしかしたらお宝なんじゃないのか。
「レトロエロ、すげぇな」
 先生も唖然としている。後日、こっそりと来た古本屋さんは、先生の元へ結構な金額を置いていったようだ。恐るべし、レトロエロ。

番外・ローズピンクと泡

 花嫁行列を待ち構えて、渋谷さんと少し離れた所にSPさん、朱里と僕と、そして門番のばあちゃんとで神社の領域の入り口にいた。どこの道を通っても、最後に神社へ入る為にはここを通らねばいけない、そんな場所で長いこと門番をしてくれている、今は僕だけに見える『存在』は、遠くに花嫁行列を認めると静かに言った。
「花嫁御寮は、神の子になっておりますじゃ。坊ちゃん、婿殿にご教示なされ」
『………それは正式な参内をしているから、なのか』
「それも有りますがな、観てみなされ、直ぐに分かります」
『………ああ、連れているよね。どうしようかな、神域に入って持つかどうか、どう思う』
「入れても良いと言われておりまする。佳き日ですからねぇ、見たいでしょうな。大切に育てられた花嫁御寮の姿を」
 そう言うと、ふう、とその『存在』は笑った。御神体がそんな許可を出すなんて、なんというかこの行列は特別扱いだ。結構我儘もので、直ぐころころと気持ちが変わるのに、気まぐれなのか?自分の神域へ、茉莉さんにくっついて来た二つの『存在』を入れるなんて。
「お待ちしておりました。ここより先導させて頂きます」
 到着した花嫁行列に声を掛けると、ざわり、と背中の森は揺れた。茉莉さんは透明な瞳で僕をじっと見ている。その表情に、『僕』を観ていることに気がつく。ああ、珍しい。本当の『僕』を観る人はごくたまに居るが、近しいひとでは朱里と、亡くなった祖母だ。一人は僕の傍で何時も笑っていて、もう一人は炎の中へ消えた。
 茉莉さんが今日、身に付けている品々からは、そのひとつひとつに『想い』を感じた。身に付けるひとの幸せを祈って、手を掛けられた品々に茉莉さんは守られている。それが『僕』を見る一因にもなっている。余り見ない方がいいんだけれど、見てしまったものは仕方ないだろう。

 神の子、あなたは本日、道を歩きました。あの世とこの世の境目を。戻ってきてくれますか。

 そう問いかけると、茉莉さんはにっこりと笑った。その圧倒的な微笑みに、門番のばあちゃんが言った意味を知る。それが出来るのは先生だけだ、抜けた色を入れるのは、触れて、そして。
「真吾、なしたんだぁ。行かないのか」
 大家さんの声に、はっと我に返った。いつの間にか渋谷さんは列の中にいた。門番のばあちゃんはもうすでに『扉』を開き、僕を見て頷いた。ここから先、何時もは朱里が先導するのだけれど、今日は『僕』が歩かなければならない。
「少しだけお待ち頂けますか。朱里、ちょっと来て」
「……何か、あったの」
「境目の話、覚えている?茉莉さんは今日、随分と細い道を歩いて、『僕』を観た。今日は僕が先導するから」
 結構前に朱里には、その話をしたことがある。神様に愛されて祝福された花嫁が、花嫁行列でそれまでの色を抜くための旅をして、神の子となって来ることがある、と。朱里は信じられない、といった表情をした後で頷いた。どうやら何時もの茉莉さんではないとは思っていたようだ。
「真吾くん、わたしはどうしたら、いい?」
「一番後ろを歩いて欲しい。引っ張られるような感覚があると思うけれど、神殿に入るまで決して振り返らないで。振り返ったら連れていかれることはないだろうけれど、二、三日寝込むことになるから」
「死出の旅、だから」
「飲み込み早いよね、花嫁を護って神殿に届けるまでが僕たちの役目、オッケ?」
「分かった、オッケ」
 そう言うと朱里はにこ、と笑った。体験者は飲み込みが早くて、助かる。
「お待たせしました、本日は私が先導させて頂きます。よろしくお願い申し上げます」
 そう花嫁行列に声を掛けて、一礼すると、『扉』をくぐり抜けるべく行列に背を向けた。ばあちゃんは、ゆっくりと進みだした行列を見送り、再び『扉』を静かに閉める音は遥か後ろから響いた。


「先生、ちょっと、ちょっと来てくれませんか」
 無事式を終えて、花嫁が化粧直しをするためにと中座して別室へ入ったのを見届けて、和やかに談笑している花婿に声をかけた。
「なんだよ、真吾ちゃん。今いいところだぞー邪魔すんな」
「いいから、いいからっ!」
『僕』が先導してきた、その意味を正しく理解した宮司とおばさんは表面上は微笑んでいたけれど、内心焦っていたはずだ。花嫁を化粧直しに準備していた部屋ではなく、朱里が手を引きおばさんは奥の部屋へ案内していった。
 これから父娘の対面があるというのに、花嫁が意識を保てないのはまずい。少しだけでも『色付け』ないと。何もないのならこのまま披露宴へ送り出すけれど、茉莉さんにはこの後、人生の一大事が待っている。
「何だよ、どうしたんだ、一体」
 無理矢理誰も居ない部屋まで連れて行くと、先生は流石に真面目な顔をして問いかけて来た。っていうか、何で僕が説明しなきゃならないんだよ。おじさんがすればいいじゃないか、そう思うけれど、おじさんは「真吾ちゃん、まっかせた」とか軽く言いやがった。さっき、渋谷さんの話相手も任せられて、今は先生への状況説明。なんつーか今日は疲れることばかりだ。
「先生さ、今日の茉莉さんが何時もと違うのに気づいていた?」
 そう問いかけると、先生は見る見る間に顔を赤くした。何なんだよその反応。何時もは無表情、というか表情コントロールが上手いのに、さ。
「何時もと違うって、そりゃ、花嫁になってんだ、何時もと違うだろー」
「口尖らせている場合じゃないよ。茉莉さんは、今、完全に『純白』なんだ。先生が色を入れてあげないと。この後、対面が待ってるから急いで欲しい」
「……どういうことだ」
 かいつまんで事の経緯を説明すると、先生は色々質問をして来た。そのどれもが的確で、素朴なものだったけれど、最後についに聞かれたくなかったことを、先生は問うてきた。
「……で、俺は具体的に茉莉へ色を入れる為には、何すりゃいいんだ」
「……それは」
 口籠ってしまい、顔が熱くなるのを感じた。具体的に、うん、そりゃ、分かるだろー先生。
「急げ、って真吾ちゃん、言ってただろう。具体的にどうすりゃいいんだ、ヲイ」
 ヲイじゃねーよ、何と無く気付けよ、何時もエロ本読んでそう言うことを人一倍からかってくる癖に、何で今日は鈍いんだよ。
「布団敷いてあるから、手短かに済ませて来て、っていうことだよっ。茉莉さんの意識が戻った所で止めて、残りは今晩に回して下さい」
「……真剣に言ってんのか、ソレ」
「あああ、仕方ないじゃんかっ、大臣とごたいめーんなのに、意識が無い状態だとまずいでしょ、先生の手腕に掛かっているから。なるだけ手短かに、着崩れしないように、そして避妊はしないで」
「嫌だ真吾ちゃん、生々しいっ」
「五月蝿いっ、色を入れる辺りから先生気が付いていただろっ、わざと言わせたよね、そういうのわかるんだって、マジ嫌だこのおっさんっ」
「やだぁ、タケシ、わっかんなーい」
 ニヤッニヤしながらクネクネし始めた、羽織袴のおっさんを本気で殴りたくなった。袴の着付けやってやろうと思っていたけれど、そのまま出して恥かかせてやる、ずぇったい!
「まあ、布団まではいらねぇな。すぐ終わらせるから、待ってろ」
「もんげー自信あるんだ。へぇー」
「真吾ちゃーん、怒ったのか」
 ニヤッニヤを止めないおっさんを放置してやろうか、と思うけれど、きっと訳分からず布団の上で待ち惚けしているであろう茉莉さんを想像すると、そうも言っていらんない。何処がいいんだ、こんなおっさんの。茉莉さんは趣味が悪い、もっといい奴、沢山いただろう。
「まあ、そうプンスカ怒るな。茉莉が何時もくれるものを、そっくりそのまま返すだけだ。だから時間は掛からないんだよ」
 先生はそう言うと、寂しげな微笑みを浮かべ、そして束の間目を閉じた。くれるもの、それは。
「……先生は、茉莉さんから何を貰っているの」
「さあ、何だろうな、よし、行こう。急ぐんだろ」
 僕を促してきた先生は、もう、何時もの表情を取り戻していた。


 部屋に入って五分、真吾ちゃーん、いーぞーと角の部屋から声が掛かり、朱里と顔を見合わせた。
「幾ら何でも、早すぎだろ。先生、何やったんだ」
「分からないけれど、でも、もう大丈夫、みたいだね」
 ヒソヒソ声で話していると、障子はすぱこん、といい音を立てて開いた。障子が痛むから止めて欲しい。首だけ出したおっさんはキョロキョロ辺りを見回すと、僕たちを見つけてちょいちょいと手招きした。
「巫女ちゃん、茉莉を頼む。真吾ちゃん、ウェットティッシュくれ」
 朱里は部屋に入って行き、先生はどすどすと大股で僕の所までやってきた。その口の周りにはべったりとローズピンクが付いている。なんつーか、ワイルドだ。
「ティッシュしかもってないよ。先生、顔洗ってきたら、案内するから」
「ああ、頼む。おっちゃんに見つからない道でよろしく」
 そんなことが気になるのか、五分で意識不明の人間をこの世へ戻したひとが。
「先生、茉莉さんに何したの。キスだけ?」
 後ろから鏡越しに話し掛けた。先生は功労者だというのに、なじるような問いかけになってしまい、後悔する。でも止まらなかった。
「お前は、どう思う」
「………あんなに短時間のキスだけで、色付けて意識を戻し終えることは出来ないよ。でも、先生はやってのけたじゃないか」
「やってのけた、か」
 明るい白熱灯の下、暖かいお湯を洗面台に張った先生は、手洗い用の石鹸で口の周りをごしごしと洗っていた。おばさんの洗顔フォームを勧めたのに、そんなんいらねーよと一蹴したのだ。
「俺は上手くアウトプットできないが、茉莉は簡単にやってのける。単純で簡単で、純粋で、お前もそれを持っているさ、それを茉莉へ返しただけだ」
「………それって、謎かけ?」
「そうだな、何処かに置き忘れて、取り戻せないものだ」
 鏡越しに、にやり、と笑われた。この人には、今は敵わない。こうはなりたくないと思うのに、超えてやりたいと、この人に大したもんだ、参った、と言わせてみたくなる。それは何故なんだ。
 水飛沫を立てながら先生は泡を消していく。あのローズピンクが消え去ったことに焦燥を感じて、僕は頭を一度だけ強く振った。全てを払うように。

番外・面接とパクラヴァ

 
 僕の人生の一大事は、今迄どれも不意打ちでやって来た。予測不可能で、しかも強引に。

「それでは、こちらで式が始まるまでの間、少々お待ちください」
 茉莉さんと先生の結婚式の始まる前、婆婆さまの部屋から出てきた大臣を、何故か僕が先導して神社の応接間に通した。本来はおじさんの仕事なのにさ。何故か、真吾、お前が行け、粗相のないようにな、と軽く言われた。
 カチカチになりながらソファーを勧めてお茶も出してやっと役目は終わりだ、あー緊張した、と思いながら頭を下げ、部屋を出ようとすると、大臣は思わぬことを言った。
「宮本くん、私は少し緊張しているせいか、誰かと話をしたい気分なんだよ。話し相手になってくれないかね」
 内心ぐぇっ、と思った。どうして僕なんだよっ、物々しい警備をしている警察官が扉の向こうにいるんだから、呼んで雑談したらいいじゃないか。そうは思うけれど、笑顔を向ける。
「若輩者ですのでお相手が務まりますか、分かりませんが」
「若い方と話をする機会など、ほぼ無いのでね。老いぼれの相手をさせてすまないね」
 ごちゃごちゃ言ってないで話し相手になれ、ってことだろう。怖ぇ。
 年に二回位、渋谷さんは婆婆さまの『客人』としてやってくる。そして結構な割合で、僕が呼ばれるお祓いの依頼主でもある。神社の中々いい稼ぎの柱になっている婆婆さまの『相談』は、ごくごく限られた昔々からやってくる人々を対象にしている。
 まあでもその顔ぶれは、最初知った時には正直言うとブルッと震えが来た。誰もが知っているひとから、正体を聞いて唖然としたひと、その誰もが一筋縄じゃいかない人間ばかり、共通する印象は、とにかく皆恐ろしい、だ。
「宮本くんは、大学生だったかな」
「はい、四年生です」
「そうか、あと一年後には卒業なんだね。学生生活で最も印象に残っている、君が学んだことを教えてくれるかな」
 最も印象に残っている学んだこと。そう聞かれてあの出来事を思い出した。あの、大事なひとを追いかけ続けた一カ月余りの、話。どうしようか、迷った。でも、話すことにした。
 祓うのではなく、救おうとしたこと。手掛かりを求めて、ぐるぐる小路に入り込んで、そうして結局救おうとしたその人を追い詰めたこと。
「結局、僕は自分のエゴから気持ちを相手に押し付けて、それで悦に入ろうとしていたんだとそう思いました。相手を大切にするって、独り善がりじゃ駄目なんだと、思い知ったんです」
 向かい合わせに座って、いつしか砕けた口調で渋谷さんにそんな話をしていた。真剣な顔をして、渋谷さんは深く話を聞いてくれたからだ。
「その人は今、何処にいるのかな。お会いしたいものだが」
「えっ、あの、……今日、結婚式で巫女、やってます」
 そんなことを聞かれるとは思っていなくて、つい正直に話してしまった。顔が赤くなっていく。そんな僕の様子を見て、渋谷さんはふ、と笑った。
「そうか、その人は宮本くんにとって、大切な存在なのだね。彼女なのかい」
「はい、今は」
 渋谷さんは面白そうに嬉しそうに、にっこりと笑っていた。何とも恐ろしいこのひとが、こんな風に笑うなんて思ってもいなかった。そうか、渋谷さんもそんな、大切な存在がいるんだ、きっと。
「宮本くんは、就職先に何処の分野に進みたい、と考えているのかね」
「えっ、はい、将来神主になった時に沢山の方と接するので、接客などの人と関わりが持てる仕事をしてみたいとは思っています」
 いきなり就職の話を渋谷さんから聞かれて、正直たじろぐ。何が聞きたいのか、恐ろしい。
「宮本くん、百貨店の仕事に興味はあるかな」
「百貨店、ですか」
 渋谷さんは全国各地に展開しているデパートのグループの名前を挙げた。そして従兄弟がそこの会長職にいる、とも。
「興味があれば、試験を受けてみなさい。悪いようにはならないだろうね」
 そう渋谷さんは言うとにっこりと笑った。この時に気が付いた、これはいわゆる『面接』だったのだ、と。


「真吾、おめぇそりゃ、受かったわ」
「………いや、まあ、いいんですけれど、なんて言うか、そんなんでいいのかなーって思います」
 大家さんちの居間で、朱里と一緒に家賃を支払いに来て、まあ、ちょっと茶でも飲んで行けーと声を掛けられた。居間には花さんだけがいて、茉莉さんはお嫁へ行ってしまったのだ、と改めて感じた。まあ、隣にいるけれど。
「いいじゃないか。何、問題あるんだい」
「いや、ズルくないですか。皆不安で仕方ない気持ちを飲み込んで就職活動しているのに、分かっていて試験を受けるなんて」
「そうかい?一番面倒な面接官に当たっちまって、合格貰ったんじゃないか。試験会場が会社か神社か、そこだけだなあ」
 そう言うと大家さんは玄米茶を啜った。花さんと朱里は、心配そうにこちらを見ている。まあ、そうなんだ、そうなんだけれど、伯父さんがセッティングしたことや、どう考えてもコネだと思えることや、渋谷さんは霊媒師としての僕を手放したくないんだ、と感じた。そして何より、薦められた総合職は、全国転勤がある、ということ。
 朱里は、この春から神道学科へ転部した。和歌が好きで巫女舞にハマって、その道を進んでみたいと相談を受けた時、もんげー嬉しくて仕方がなかった。一緒にずっといたい、そう言われたような気がした。宮司でもある伯父に朱里がそのことを話したら、じゃあ卒業したら池田さんはここで働きなさい、ハイ決定。と就職先も決まってしまった。ええっ、と驚いていて、それでいいのか朱里は悩んでいたけれど、その時は僕も大家さんのような返事をした。でも、今は痛いほど朱里の気持ちが分かる。こういうのって理屈じゃないんだ。
「ちゃんと就職活動をやり切って実力で合格したひとを見たら、引け目感じそうです」
「甘ぇ、おめぇバクラヴァより甘ぇってなもんだ!」
「………何ですか、バクラヴァって」
「トルコのお菓子ですよ。ご近所さんからトルコ旅行のお土産に頂いたのですけれど、ナッツがたっぷり挟まれていて、シロップとハチミツで漬けられて、なおかつ粉砂糖が乗ったパイ生地のお菓子で、甘い物がお好きな染次さんが一口で悶えたの」
 花さんはおっとりと説明してくれて、僕と朱里はああ、と納得して頭を縦に振った。大家さんは少しだけ頰を赤らめた後、ごほんと空咳を一つして言った。
「あのクソ大臣がそんな面倒なこと引き受けたのは、真吾、おめぇが戦力になると会っているうちに感じていて、宮司から頼まれて、おめぇのこと見極めたいと思ったからだろうさ。おめぇはちゃんとクソ大臣に保証されたのさ、入社したら戦力になる人材だとな。それなのによぅ、引け目感じてどうすんだい」
 勢いは無いけれど、きっぱりとした大家さんの物言いに言葉は詰まった。
「二、三度しか会わずに採用された奴よりも、よっぽど中身を認められたってことだ。引け目なんか感じるこたぁ無えよ」
 中身を認められた、その言葉に正直嬉しさがこみ上げる。誰かに認められる嬉しさは、心を浮き立たせたけれど、大家さんは真剣な顔に成った。
「その代わりクソ大臣の期待を背負って働くんだからな、人一倍努力して結果残さにゃならねぇぞ。どんな職業だって、仕事は始めてからが勝負なんだ。おまんまを食う金を稼ぐってのは、地味でキツくて、腹に力を入れて踏ん張らなけりゃならねぇことばかりだ。それなのに半端な気持ちで入社するのなら、いっそのこと就職活動とやら、しちまえや」
 なんて言うか、胸にグッサリ来た。でも、それは正しく真実だ。
「バクラヴァよりも、僕は、甘かったです」
「わ、わたしもです」
 隣を見ると朱里もしょんぼりしている。
「なんだい、巫女ちゃんまで。まあ、決めるのは自分、だってこった。口煩いジジイの話は参考にしてくんな」そう言うと、大家さんはお茶を一気に飲み干した。


「なんて言うか、ばっさり切られて反省した」
 お互い話もせず僕の部屋に戻った。何となく遣る瀬なくてそう言うと、そっとくっついて隣に座った朱里はわたしも、と小さく呟いた。
「でも、まだ、迷ってる」
「そう、なの?」
「全国に店舗がある会社だから、東京を離れるかもしれない」
 この一年、いつも朱里と一緒にいた。情けなくてなのに頑固で、そんな僕の隣でいつでも嬉しそうにくっついてくる、優しい温もりと離れたくなかった。
 隣にいて、いつだって笑っているのを見たい。もう、あんなに苦しくて寂しそうな無表情には、戻したくない。僕が朱里をずっと喜ばせたい。
「離れちゃったら、寂しい、よね」
 隣にくっついてくる朱里は、苦しげな声を出した。同じ気持ちでいるんだと思うと、堪らなく嬉しい。
「でも、もし、離れても、お金貯めて、会いに行く」
 そう言って朱里は僕にしがみつくように抱きついてきた。身体を強張らせて。
 試験、受けて、と言いたいんだろう。でも、やっぱり離れたくない、って言ってると、そう感じる。
「……エントリー、出してみるよ」
 ぎゅう、と抱きつく力は強くなった。腕を朱里の背に回して引き寄せると、ずっと一緒にいたいね、と柔らかな存在は呟いた。
 そうだな、ずっと一緒に居たい。ずっと、いつまでも一緒に。

 そうして、試験を受けた僕の元に大きな採用通知が入った封筒が届いたのは、秋真っ只中だった。春には真新しいスーツを着て、新宿の老舗高級百貨店に配属となる。
 アパートの更新を大家さんへ申し出て、そこから四年にわたり結婚するまでの間、その部屋は僕の小さな城だった。

祖父と花

祖父と花

都心の華やかな通りから狭い路地に入ると、そこはまるで時間が止まったようだ。 祖父と2人暮らしの茉利は、物心ついた頃から傍にいるたけちゃんをずっと想っている。でも、たけちゃんが茉利を見てくれる日は、きっと来ない。古びた建物が建ち並ぶ界隈での日常は、ある出来事から大きく動き出す。懐かしくて静かなおはなし。完結しています。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-12-26

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 第一話
  2. 第二話
  3. 第三話
  4. 第四話
  5. 第五話
  6. 第六話
  7. 第七話
  8. 第八話
  9. 第九話
  10. 第十話
  11. 第十一話
  12. 第十二話
  13. 第十三話
  14. 第十四話
  15. 第十五話
  16. 第十六話
  17. 第十七話
  18. 第十八話
  19. 第十九話
  20. 第二十話
  21. 第二十一話
  22. 第二十二話
  23. 第二十三話
  24. 第二十四話
  25. 第二十五話
  26. 第二十六話
  27. 第二十七話
  28. 第二十八話
  29. 第二十九話
  30. 第三十話
  31. 番外・家賃と冷しゃぶ
  32. 番外・紅葉と巫女
  33. 番外・路地と絵文字
  34. 番外・聴診器と白湯
  35. 番外・毛糸玉とショコラ
  36. 番外・ローズピンクと泡
  37. 番外・面接とパクラヴァ