習作:1

あの女からの連絡は来るはずもない。ダイアローグの相手を失った私は、今や死にかけのトーマス・マンの「トニオ・クレーガー」を左手に、新宿の喫茶店で暇を潰していた。周りは週末のせいか、どれも幸せそうな恋人連ればかりだ。
 ふと窓の外を見ると、街には雨が降り始めていた。私は脱いでいたコートを羽織、読んでいた文庫本をポケットに押しやって店を出た。数歩歩いた所で、傘を忘れたことに気がついたが、敢えて取りに戻らずそのまま歩を進めた。
 最初はしとしと降っていた雨も歩き進めるにつれて強くなり、新宿は豪雨になった。人々は一斉に伊勢丹や紀伊国屋書店などの最寄りのビルディングに逃げるように駆け込んでいたが、私は雨などお構いなく、むしろ濡れるがままに歩き続けた。

私はしばらく歩き続けた。ふと気づくと千駄ヶ谷まで歩いてきてしまっていた。見えぬ陽は傾き、辺りはただでさえ雨で薄暗いのに、さらに暗くなっていた。そこまで来た所で喉の渇きを覚え、馴染みのバーに立ち寄ることにした。
 バーは平日の浅い時間帯ということもあり、客はまばらだった。私はカウンターの隅、バーテンダーのいる辺りに席を取った。

 バーテンダーは四十がらみの男で、柔和を絵で書いたような表情をいつも浮かべている。今日もいつもの表情で「いらっしゃいませ」と私を迎え入れた。
 私はマッカランのダブルをロックで頼み、それを口に含んだ。芳醇な香りが鼻を抜け、中空に消えた。
 あっという間に二杯、三杯と酒は進み、ガラにもなくバーテンダーに軽口を叩き始めた。さすがにマッカランは飽きたので、四杯目からはラフロイグに銘柄を変えた。
 
 するとラフロイグの香りと共にある思い出が去来し、バーテンダーに向かって私は語り始めた。

 それは大学を卒業してすぐの会社に入りたてで、大学時代からの恋人をつれて初めてバーに来た時のことだった。それまで居酒屋でしか酒を飲んだことがなかった私たちにとっては、そこは未知の世界だった。右も左も分からず、今に至るまで柔和な相好を崩したことのないバーテンダーの表情にホッとしたことを覚えている。席に着くやいなや、当時から国産ではあるがウィスキーを愛飲していた私はバーテンダーに、「おススメのウィスキーはありますか?」と尋ねた。するとバーテンダーは「今日入ったばかりなんですが、ラフロイグはいかがでしょうか?」と答えた。私はそのような銘柄を当時全く知らなかったので、「それでお願いします」と即答した。彼女は笑いながら「何も知らないのね」と私に言った。

その後二人の隠れ家のようになったそのバーに二人して足繁く通い、三つ目の季節が過ぎた頃、
彼女はこの世を去った。信号無視のトラックに轢かれて呆気なく死んだ。



五杯目のウィスキーを飲み終えたあとバーを出ると、雨はすっかり上がり毒々しいネオン光が私の目を射た。街は人々雑踏に埋め尽くされ、人にぶつからないように歩くのがやっとだった。
 私はふと死んだ女の事を思い出し、雑踏の中から死んだ女を探そうと目を泳がせた。しかし、いるはずはなかった。

 私はなかったことのように、雑踏の中に溶け込んでいった。


                                          〈了〉 

習作:1

習作:1

彷徨する男の回想。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted