A long dream

番外編は、
第十・五夜は、第十夜の後、
創の修行日記は、東雲の後、
瞼は、午睡の後、
優しい雨は、幾望の後、
春風は全て読み終えてからの設定で書かれております。
数話重複されていましたが、修正しました。申し訳ありません。

第一夜

 A Iong dream


 その夢を見始めたのは、いつからだったのだろう。

 気がついたら、淡い白と黄緑が混ざり合ったような色の、愛らしい、まるでパリのアパルトマンにあるようなドアの前に立っていた。金色の真鍮のドアノブが、キラキラと輝いている。
 後ろを振り返ると、ただ、ただ、白い世界は広がっていて。

 これは、夢ね。わたしは思う。

 わたしは白い長袖のストン、とした足丈まで広がるワンピースを着ていた。
 くるりと一回転をすると、ふわりとスカートは広がった。
 考えることは柔らかく、とてもこころは落ち着いた気分。笑顔でどこまででも、どこまでいっても歩いていけそうな、そんな気分。

 わたしはドアをノックする。コンコンコン、と、三回。

「どうぞ」
 誰かがドアの向こうまで近づいてきて、言った。美しく低い、緊張した男性の声だ。誰だろう。
 わたしは、ドアノブを握る。冷たいのか、と思ったのに、暖かくて、ふわりとやわらかい。
 わたしは、ドアノブを左に回す。そしてドアを押した。キィと小さく軋む音。
 少しずつドアは開かれて、部屋の中に緑の木々の風景が広がりだした。
 白い壁に白い床。四角い、大きな箱のような部屋。正面は一面一枚の、吹き抜けのガラスになっていて、その先には明るい日差しに輝く、緑の森が広く、広く開けていた。

 天井は高く、見上げると白い大きな羽根のファンは、クルクルと回っている。

「入るなら、早く入って欲しいんだ」
 左に開いたドアの影から、背の高い、無表情な、白い肌に深い緑の眼の男性が現れた。
 綺麗。
 そうとしか言えないその人に促され、わたしは部屋へ一歩を踏み入れる。

 白い床は硬くて冷たいと思っていたのに、ふんわりと柔らかく、暖かだった。
 ビックリしていると、彼は焦った美しい声で言った。
「早く」
 わたしは急いで部屋に入る。三歩進んだ所で、バタンと扉が後ろで少し乱暴に閉められる音がした。

 途端に、部屋の中には濃い緑の気配と、木々が風に揺れてざわめく音が感じられるようになった。小鳥が高い、澄んだ声で鳴いている。甘い甘い大気の匂い。

 まるで、森の中に居るみたい。

 ガラスがあるのに、不思議。そんなことを、ぼんやりと思う。

「やっと来た、迷った?」
 後ろから美しい声が響く。迷った、何が。
 振り返って、彼に向かいなおり分からなくて微笑む。彼はドアを背にして、無表情で立っていた。

 リィンと、心優しいベルの音が、響く。

 こころは、高く高く昇って行きそうな気分。どこまでも、どこまでいっても。

「まだ、ここにいた方がいい。いて欲しいから呼んだ」
 彼は、少し微笑みを浮かべてじっ、とわたしを見つめた。途端に、嬉しかった気持ちが萎む。表情も、冴えないものに変わったって、分かる。

「それでいいんだ。お茶にしよう」
 彼はドアの横にある、白いキッチンに向かった。
 薄い茶色の短い髪に、白い、まるで平安時代の貴族が着ていたような、和装の後ろ姿。
 何処かで見たことがあるのかな、どこでだったっけ。思い出せない。

 不思議なこの空間。でも優しい優しさに満ちている。
 じわり、じわりと、穏やかな暖かさは、身体に入り込んでくるよう。
 わたしはもう一度甘い、甘い大気を吸い込んだ。

 小鳥の鳴き声に混じって、カチャリ、カチャンと、茶器は音を立てている。

「そっちに座ろうか、ソファーの方へ座って欲しい。出来る?」
 彼はこちらを振り返り、わたしを顎で促した。
 両手には、白いトレイに白い茶器が載っている。ほわりほわりと、湯気が揺れている気配がして、わたしは嬉しくなって微笑む。

 また、リィンと、心優しいベルの音は耳に響いて、嬉しいわたしは心地よくて、甘い大気を吸い込んだ。

「駄目だ、いけない」
 深い緑の眼の綺麗な彼が言うと、途端に気持ちが萎む気がして、わたしは不満に感じる。何故なのかな。甘い空気を感じて、こころは高く昇っていきたいのに。

「そんなことは、いつか起こる。ここにいて欲しい。出来る?」
 無表情な彼は何を言っているのか分からなくて、曖昧に微笑む。

「僕の目の色は何色に見える、緑?」
 聞かれてこっくり、と頷いた。彼の目は深い深い緑の色。あの窓の向こうよりも、深い夜の森のような濃い色。

「まずい、思っていたより進んでいる。ここにいて欲しいんだ。出来ない?」
 彼が何を言いたいのかは分からなくて、わたしの頭はゆらゆら揺れた。

「とにかく、お茶を飲もう。さあ、座って」
 彼はわたしの傍をふわりと通り抜けると、大きい一面窓の前に設えられた、大きく、長く、幅の広い、エル字型に置かれたソファーに向かった。
 ガラスのテーブルへ、トレイをガチャンと置く音が響く。
 わたしはソファーへ歩いて、茶器のある辺りのソファーに座った。白いソファーは、ふかふかで心地いい。

「さあ、これを飲んで」
 差し出された白い茶器を、わたしは受け取った。ほわりほわりと湯気が心地よくって、やっぱり嬉しい。

 微笑むと、彼は苦い顔を見せた。それは、いけない。そう言って。

 白い茶器にそっと口付けると、茶色のトロリとした、中の液体を口に含む。
 甘い優しい味は、口の中に広がった。もっと、もっと飲みたい。
 ごくり、ごくりと、喉を鳴らして飲み干した。
 美味しい気持ちがする。夢の中だからか、感じられるのはそんなこと。

「美味しい、何のお茶なの」
 彼に聞くとふわりと優しい笑顔になった。
「声が出た。いいことだ。あのままじゃ良くなかったし」
 何を言っているのかは分からない。でも、彼がほっとした表情に変わって、喜んでいるのは分かる。

「あなたは、だあれなの」
 こころは凪いでいるのが、手に取るように分かった。
「覚えてない?」
 美しい声はさみしげに響き、深緑の目は伏せられた。

「覚えて?」
 こんなに綺麗なひとのことを、わたしは忘れてしまったの。
 手にしていた白い茶器を、トレイの上に戻して考えるけれど、こころの中は真っ白だった。
 分からない、こころの中はどこまでいっても、どこまででもいっても、真っ白なの。


 またリィンと、心優しいベルの音が、響いた。


「朱里ちゃん、起きて!」
 誰かが、わたしを揺さぶっている。ううん、眠いよぅ。昨日は遅くまで起きていたし、眠たいのに誰なの。
 布団を剥がされそうになって、ぐるりと体の下に挟み込む。これで剥がされないもんね。
「朱里ちゃん、朱里ちゃんってばっ」
 ぐおんぐおん揺らされて気持ちが悪いよ。巻き込んでいた布団は、揺らされたことで次第に解けて、ついに布団が剥がさせた。
「なっ、なによう、なにすんのよ。揺らさないで、って、創?」
「朱里ちゃん、やっと起きた」
 仏頂面で黒いカーディガンに白いシャツ、黒の半ズボンに黒いタイツの創は、布団をばさりと、後ろに放り投げた。
「あれ、創、いつうちに来たっけ」
 創は母方の従兄弟で、今は小学校三年生だ。生意気で、ぶっきらぼうで、でも優しい子。
 母の妹の一枝おばさんは結婚が遅くて、創は一番最後の従兄弟だ。
 一人っ子のわたしを、朱里ちゃん、朱里ちゃんと慕ってくれて、近所にある創の家から、頻繁に遊びに来てくれる。

「寝ぼけているの。もうすぐ式始まるから、起こしにきたんだけど」
「式?」
「朱里ちゃん、寝ぼけたままでいなよ」創のその言葉で全て思い出した。

 廊下を創に先導されて、重い気持ちのまま進む。
 どうして、葬儀場って乾燥しているんだろう。おばあちゃんが亡くなった時も、そうだった。
 水分を失って、口の中がザラザラして、肌が乾いて、涙がでない。

 余りの悲しみに、溺れてしまわないようになの?

「創、なにをやってたの。もう始まるから、早く入って後ろに座りなさい」
 受付にいた喪服を着た一枝おばさんは、創に厳しい口調で話しかけてきた。
「分かってる、行くから」
 創はおばさんをちらっと見ると、大きな扉を体を使って押した。

 少しずつ祭壇が見える。創が行くよ、と促したので扉の中に入り込んだ。
 椅子席の後ろの方は空いていて、創は一番後ろの空いている席へ、飛び移るように座った。
 そしてわたしを手招きしている。隣に座れってことだろう。
 座った途端、祭壇の左手の方から神主さんが二人現れた。

「これより、故、池田のぶ恵様の葬場祭を執り行います」
 司会の方が厳かに、始まりを告げた。
 お母さん、お母さん。ごめんなさい。お母さん。


 母とわたしは、いつからか折り合いの悪い親子だった。
 小さい頃は仲良しで、何をするのも一緒だったような気がするが、わたしが小学校の高学年になる頃から口煩い干渉が始まって、嫌になり反発をするようになっていった。

 母は、私が新しいことを始めようとすると、特に激しく反対してきた。
 何故、何でなの。聞いても答えてはくれない。代わりに心無い言葉を投げ掛けられ、何もできない子でいい、逆らわないで、と何度も言われた。

 中学生の時が一番激しくて、一日中口をきかない日もあって、母のことを考えると苦しくなる、そんな日々が続いた。
 わたしがお母さんになったら、絶対母のようにはしない。いつしかそんな事を、感じることが多くなった。

 高校生になる頃には、もうこういう人なんだ、と諦めの気持ちが出てきて、表面上は合わせたりしながら、無難に過ごした。
 いつしか家を出たいとは、思うようになっていた。
 進路は、高校の古文の時間に習って感銘を受けた、和歌の勉強をしたい、と家から離れた東京の大学を志すようになった。
 父は、やりたいことを勉強するのはいいことだよ、と応援してくれたが、母は資格を取って地元で働きなさい、と猛反発してきた。

 やりたいこと、やらせてほしいことを根気よく母に伝えても、母は頭から反対してきた。
 こころに突き刺さる言葉で、何度も泣いた。母の言いたいことは分かる。
 資格を持っていれば、これからの人生は有利かもしれない。
 和歌の研究をして、食べていけるだなんて、そんなことは思っていない。
 でも、学んで知りたかったんだ。千年前に紡がれていた、たった三十一文字の中にある、その時代に生きたひとたちの、瑞々しい感情と想いを。

 結局、父が母を説得してくれて、わたしは第一志望の大学を受けて合格した。

 でも、母と話をすることは、なくなった。結局、それは家を出るまで続き、わたしはひとりで荷物を纏め、十八年過ごした家を出て父と決めた小さなアパートへ引っ越した。

 学生生活は、煩わされるものがない、穏やかなものだった。
 日本文学のサークルに入り、短期でお中元や、お正月の神社で巫女さんのバイトをして、休講になって時間が空くと、サークルの友達と一緒にカフェでお茶したりと、楽しかった。

 何より、大好きな和歌についての講義を受けられるのが、本当に嬉しかった。
 千年前も今も何も変わらない、ひとがひとを好きになって、愛するひとに想いを伝える恋歌に、私は更に夢中になった。
 匂い立つような瑞々しい言葉は、わたしの胸に深く刻まれ、新しい解釈を知るたび、こころは震えた。
 三十一文字の中の、自由な世界で綴られた恋歌は、わたしを豊かに嬉しく、優しくしてくれた。

 実家へは、一度も帰らなかった。夏休みもお正月も。
 父は、出張で東京に来た時に、小さなアパートへ寄ってくれた。
 母の話は出なかった。父も気遣ったんだろう。

 一月も残り少なくなった日、いきなり母は夜、小さなアパートのドアの前に立っていた。
「朱里、お母さんが言い過ぎたの、ごめんね」
 初めて、母からわたしへ謝罪の言葉がでた。
 急いで鍵を開けようとしていたわたしは、自分の耳を疑った。この頑固で自分勝手な母が謝るなんて、世界は終わるんじゃない?
「一枝おばさんに、色々聞いたの。大学生活が充実している話を教えてもらったわ。朱里のやりたいことが分かってきてわたしが頑固だったって、そう思ったの」
 母は素直な気持ちを、困ったような顔で話した。

 今更、何を言い出すの。自分の中の黒い感情は渦を巻いて、頭の中でグルグル回っている。
 長い、長い、呪縛にも似たこころない投げつけられた言葉たちが、返事を出来なくさせていた。
 母を攻め立てたくて、許したくて、相反する感情にわたしは揺れた。
 一度攻め立てたら、母と同じになってしまう。許せ、許すんだ。

「と、泊まっていく?」声はうわずって震えた。
「最終便、とってあるのよ。今日は顔を見に来ただけだから、また来る」
「じゃ、羽田まで送るよ。駅前からバスがでているし」

 その提案が、運命の分かれ道になった。

 羽田へは、辿りつけなかった。首都高でわたしたちの乗ったバスは多重衝突事故に巻き込まれ、バスは横転しわたしだけが生き残った。


「朱里ちゃん、バスに乗るって。支度をしよう」
 仏頂面の創が、気が付いたら傍に立っていた。見回すと会場はひと気がない。式はもう終わっていてぼんやりしていたわたしは、いつの間にか取り残されていたようだった。

 昨日からそう、皆気を使っているのか、わたしが母の死の原因だからか、どちらなのかは分からないが誰も話し掛けてこない。創を除いて。
 誰にも慰められたくはなかった。誰かに何かを言われたくもない。
 今の状況は、丁度良かった。

「創、外は寒いよ、コートを着ておいで」
「だってこっちさー、部屋の中とかあっつすぎるよ、どうせバスの中だって暑いんだから、要らないよ」
 会場を出た廊下で、創はつまらなさそうに言った。
 それでも外に出たら氷点下なのだ、少しは外に出るんだから取りに行きなさーい、というと創は舌打ちをして、廊下を走っていった。

 受付では、父と一枝おばさんとおじさんが集まって、打ち合わせをしていた。
 父とも、ずっと話をしていないし、目も合わさない。
 ロビーでは、見たことのない年配のご夫婦が、涙を拭っている。

 わたしは、泣けない。母のことを殺したのも同然だから。乾いた空気が、涙を止める。


 バスは、明るい一面の銀世界の雪景色の中を、ガタガタと進んだ。
 一番後ろの席で、気温差が付けたガラスの曇りをただ、見ていた。

 バスを降りると、空は絵の具の青をそのまま絞り出して塗りたくったような、きっぱりと澄んだ色だった。冷たい、冷凍庫よりも冷えた外気が肌に突き刺さり、頭をクリアにしてくれる。

「創、行って」
 どうしてもこの先は、進みたくない。黒い喪服の集団がぞろぞろと吸い込まれて行く、小さな建物の中にどうしても入りたくない。小さな煙突がある、そんな建物の中に。
「朱里ちゃん」小さな創を困らせているのは、分かっている。
「行って」

 創は、悲しい顔でわたしを見るとわたしの後ろを睨んで、つるつる滑りながら建物の中へ消えていった。


 どの位、そこでそうしていたのだろう。

 ゴオッという、耳を切り刻むようなジェット機の爆音が、空の上から響いた。
 咄嗟に見上げた青い、抜けるような空には左から右へ、白い飛行機雲が一筋出来ていた。

 どんどん伸びていく飛行機雲を、目を細めて見上げる。

 あの、雲の所まで、行きたいな。

 心優しいベルの音が、リィンと響いた。


「いけないと、言った」
 すぐ隣から、低い声。目線を右に移すと、全身黒づくめの男性が立っていた。
 白い息を吐きながら、漆黒の瞳でわたしを射抜くように睨んでいる。

 人を激しく惹きつけるその存在感に、わたしの体は震えが止まらなくなった。
 恐ろしさしか感じられず、彼に黒い鎌を持たせたら、疑わないだろうと思った。

 死神、だと。

「朱里ちゃんっ」
 正面を見るとつるつる滑りながら、創はこちらへ急いで向かって来ていた。焦っているのがよくわかる。
「創、どうしたの」
 目の前まで来た創は、わたしの横に立っている男性へいきなり噛み付くように叫んだ。
「あんた、朱里ちゃんに何の用っ」

「池田さんを迎えに来たんだ」男性は創を無表情で見ながら、そう言った。
「朱里ちゃん、おじさんが呼んでいた。早く行きなよ」創はわたしの前に立ちふさがると、男性を睨んでいる。
「創、行けないよ」わたしは慌てて言った。何を創は言っているの?
「別に、危害は加えない。行ってもいい」男性は穏やかに話す。
「でも」
「行って」
 彼が話した途端、従いたくないのに体は勝手に建物へ進んだ。


 建物の中に入ると、火葬炉の方は閑散としていて、皆は昼食を取っているようだった。
 食欲は全くないわたしは何も考えることができず、ぼんやりとロビーのベンチに座った。

「創はまだ不思議なものを、見ているの」
 ロビーの向こう側で、一枝おばさんと親戚のおばさんが、立ち話をしているのが見えた。
「そうねぇ、ちっちゃい小人がいたーとか、いきなり晴れているのに、あと十秒で雨が降るとかカウントダウンされて、本当に降ったりしているわ」おばさんは苦笑している。

 そういえば、創は小さい頃から不思議なものを見る子だ。
 おばさんはそんな創を、たしなめる訳でもなく受け入れている。
 受け入れてもらえている創は、生き生きとしていて羨ましかった。

 ぼんやりそんな会話を聞いていると、父が視界の端を横切っていった。
 そういえば、創が呼んでいると、言っていたんだっけ。
 話せるのかな、わたし。でも逃げちゃいけない。わたしはのろのろ立ち上がった。

 火葬炉を見つめている父に近寄って、お父さん、と話しかけた。

「なんで、こんなことになったんだ」父が後ろ姿のまま発した言葉に、心が凍った。

 やっぱり、父は許してくれてはいない。くたびれたような、喪服の後ろ姿が物語っていた。
 わたしが犯した、過ちを許していない。

 何も言えないわたしは、唇を噛み締めてロビーを進むと外へ出た。

 丁度、創がつるつる滑りながら戻って来るところで、あの男性がじっとこちらを見て、やがて車に乗り込むとエンジンの音を響かせて、雪煙を上げて去って行った。

 戻ってきた創は、一転して無言だった。
 朱里ちゃん、大丈夫だから。それだけは話してくれた。

 その日の晩、わたしは創の家族と一緒に、東京へ戻った。

第二夜

 ああ、またこの夢。わたしは、ふわふわした気持ちで思う。
 真っ白な世界に、そこにだけあるその前に、わたしは立っていた。

 前より少しだけ、黄緑が濃くなったような、可愛らしいドアをノックした。三回。

「どうぞ、開いてる」美しい低い声は、ドアの向こうでくぐもって聞こえた。
 左手で左に回したドアノブは、冷たいと思ったら、ふわりと柔らかくて暖かい。

 蝶番がキイ、と鳴る。白い壁に白い床の四角い箱のような部屋は、正面が一面一枚のガラスで窓の向こうは、明るい日差しに輝く緑の森がやっぱり広がっている。

 白い天井では、白い羽根のファンがクルクル回っていて。

「やあ、来た。待っていた」
 また扉の影から、緑の瞳の美しい男性が現れた。今日はあの窓の向こうのような、明るい緑の目だった。短い髪の毛も、ちょっと茶色が濃くなったような、そんな感じを受ける。
 不思議なひと。わたしはふうわり笑う。

 こころはふんわり柔らかい。心地よくて、眠ってしまいそうなくらい。

 リィンと、心優しいベルの音が、響く。

「いかないで、ここにいて欲しい」
 言われた途端に気持ちが萎んで、つまらない気持ちになる。この前もそうだった。この前も?

「さあ、入って」
 彼は扉を軽く動かした。それにつられて、部屋に足を踏み入れる。
 白い床は冷たいかと思うのに、柔らかくてふんわりと暖かい。
 三歩進むと、後ろで少し乱暴に扉が閉じられる音がした。

 途端に、感じられる緑の濃い気配と、木々のざわめきの優しい音と、小鳥が高く澄んだ声で鳴いていて、甘い、甘い緑の大気の匂いを感じた。

 ふわふわした気持ちで、ここは何処なんだろう、と思う。
 不思議な夢の中なのに、優しい優しさに満ち満ちた空間は、わたしの胸の中に、じんわりと暖かく染みいるように感じられる。

 彼はまた、白いキッチンに向かって、茶器の音を響かせていた。
 またあの、甘い、とろりと優しいお茶が飲めるのね。
 嬉しい嬉しい気持ちに、心優しいベルの音が、リィンと響く。

「ここにいて、って言ってる」
 彼がいつの間にか振り返っていて、わたしを優しく諭すように話した。やっぱり気持ちは萎む。何故萎むのかな。心地よさに、委ねたいだけなのに。

 あのお茶が飲みたいな、そう思ったわたしはふわふわした足取りで、白いソファーに向かう。
 ガラスのテーブルの前の辺りにそっ、と腰掛けて白いキッチンを振り返った。
 彼はゆったりとした動きで、茶器をカチャリ、カチャンと鳴らしている。
 小鳥の澄んださえずりが、部屋に響く。静かに目を伏せた。

「待っていたの?」
 目を開けると軽く微笑んだ彼が、白いトレイに白い茶器と、白いスコーンを載せて持っていた。そのままガラスのテーブルにガチャリ、と置く。

 彼はわたしの膝の上に、小さなスコーンと白いクリームが載った白いお皿を、そっと置いた。ホンワリと膝の上が暖かい。彼を見上げると、召し上がれ、と促された。

 もっちりとして、サクッと離れた白いスコーンに、クリームをたっぷりと付けた。
 口の中に入れると、さくり、さくりと音が鳴って、優しい味がする。飲み込むと、嬉しい嬉しさが込み上げてきた。いつの間にか彼は、わたしの左隣に座っていた。

「美味しい、優しい味がするの」
 わたしが話すと、彼はほっとした優しい笑顔を見せた。
「お茶も飲める?」
 言いながら彼は、白い茶器を手渡ししてきた。わたしは両手で受け取る。
 やっぱりとろり、とした茶色の液体は、静かに茶器の中で揺れていた。
 そっと口に含むと優しい甘い味は、口の中に拡がっていく。

 嬉しくて、心地よくて笑顔になっているのが、分かる。
「もっと、もっと食べられる?そうしたらかえれる」
 彼は本当に嬉しそうだ。こんなに美しいひとが微笑むと、こころはすう、と凪になった。

 わたしはもう一口、スコーンを口に入れた。さくり、さくりと音を立てながら、飲み込む。
 頭が少しずつ、すこしずつ、冴えていくような気分になる。
 さくり、さくりと小鳥の声に混ざって、スコーンを食べる音は部屋に響いているような気がした。
 すっかりお皿の中が無くなったのを見てから、彼は微笑んで口を開いた。

「天つ風、雲のかよひ路、ふきとぢよ、をとめの姿、しばしとどめむ」
 彼は美しい低い声で、諳んじた。何処かで聞いたことが、ある。
 懐かしいような、すぐ身近にあるような、美しい言葉の重なりに、こころは落ち着かない。

「覚えている?」
 わたしはこころの中を探る。美しい音の響きは、聞いたことがある。でも、意味は分からない。ううん、知っている。でも、思い出せない。

「わからない、知っているけれど、わからない」
 彼は途端に目を伏せた。苦しそうな顔を少しの間見せて、また緑の瞳を開けた。

「歌まで無くしているなんて、そこまでとは思わなかった。戻れる筈なのに戻らないなんて、なんて羽衣を身に纏ったんだ。いい、時間が経つにつれて、かえることが出来なくなる。実力行使はしたくないから」
 真剣な顔で言われたけれど、意味が分からない。
 彼は無表情でわたしを見つめると、そっ、と人差し指でわたしの頬を撫でる。
 たどたどしいのに、優しいその仕草に、心が凪いでいく。
「嫌じゃない?」撫ぜながら、彼は聞いた。
 いやじゃ、ない?触れられた所は心地がいい。わたしがそっと微笑むと、彼の瞳は見開かれた。
「君がかえれないのなら、僕は君にこういうことをしなければいけなくなる。それは嫌だろう?だからかえろう?」
 そう言って彼はわたしを引き寄せた。

 触れ合っているところから、優しい暖かさを感じて、ここちがいい。

「嫌じゃない?」わたしは、小さく頷く。

 彼を見上げると、何かを確認し終えているのに、戸惑っているような表情だった。
 ゆっくりと中指も頬を撫ぜ、そのまま人差し指は唇をすう、と撫ぜた。

 わたしは目を閉じる。心地いい彼の指が掌に変わり、じんわりとした暖かさを感じる。
 鼻筋をすう、と撫ぜたり、掌で頬を包みこむように触れたり、髪の中に指を差し入れて、包みこむようにしたり、ゆっくりなのに優しくわたしに触れた。
 耳の形をなぞったり、肩に触れられたり、ゆっくりとした動きが続けられた。

 ちょっと、戸惑って触れて、また戸惑って触れる、彼の手はその繰り返しに感じた。
 どこまで踏み込んでいいのか、分からないけれど。そう、言っているように思える。
 心地いい、気持ちいい、嫌じゃないの、もっと、もっと。

 そっ、と目を開けると、目を細めた彼の顔が、すぐ目の前にあった。

 また目を閉じる。
 唇に、柔らかい感触。


 リィンと、心優しいベルの音が、響いた。



 ここ、どこだっけ。わたしは見慣れた風景の、自分の小さなアパートの部屋でベットの中にいたのに、何故かそう思った。

 家を何日か開けて戻ってきたら、目覚めた時、何となくどこに自分がいるのかが、分からなくなってしまう。どこだったっけ、ああ、家だった、って思い直して、やっと自分の居場所を思い出す。

 部屋の中は薄暗くて、朝なのか、夕方なのか判断はつかなかった。
 重たい頭で、昨日の出来事を思い出した。そうだ、創の家族と東京へ帰ってきたんだった。
 いつ別れたのか、思い出せなかったけれど、疲れていたからだろう。

 ベットから身を起こすと、ぐるり、と首を回した。
 すりガラスの窓の外からは、小さく救急車のサイレンの音がする。
 これから、どうしたらいいんだろうなあ。

 大学へ行って、講義をうけて、単位をとって、サークルにいって、友達と笑う。
 バイトして、ご飯作って食べて、ちょっと夜更かしして、友達に電話したりして。
 そのうち、就職活動して、そこそこの所に就職して、働いて、好きなひととか出来て。

 そんなこと、わたしに出来るのだろうか。

 してもいいことなのかな。許されるのかな。

 明日からの自分が想像できなくて、どんな顔をして、誰かの前に立っていればいいのか、分からなくて、自分が許せなかった。

 あの時、許すと言えなかった自分。でも今でも許せていない自分。
 もっと大人の女性だったら、赦したんだろうか。母を。

 ボタンを一つ掛け違えて、全ては、ガタガタになってしまった。


 気がついたら、玄関のチャイムが鳴らされていた。しつこいくらい何度も。

 面倒だなあ、誰にも会いたくないや。
 わたしの顔はきっと今、苦々しいと思う。部屋の中はいつの間にか真っ暗で、街灯のオレンジ色の灯りだけが、すりガラスを通してぼんやりと感じられた。
 居留守、使っちゃおう。もう、寝ちゃおう。食欲もないし、何もしたくない。
 わたしは布団をばさりと頭から被ると、ふて寝を決め込んだ。

 玄関の方で、ガチャガチャ、ガチャンとドアを開ける音が鳴って、ドタドタと足音が響き、泥棒、と思う暇もなく、布団は剥がされた。
「朱里ちゃんっ、起きろ」
 創はあっという間に、わたしのベットから消しやすいように付けた、蛍光灯の猫がついた延長コードをカチ、カチン、と鳴らした。
「ううっ、ちょ、な、何すんのよ。創っ、眩しいでしょー、寝てたのにっ」
 わたしはちょっと間抜けな格好で、仁王立ちしている創へ向き合う羽目になった。
 従兄弟とはいえ、ちょっとヤダ。

「呑気に寝てる場合かって、朱里ちゃんにお客さんっ」
「はぁ、なんで。なにをいってるの」
「外で待ってるから、早く起きろっ」
 創は、ベッドに飛び乗って、げしげしとわたしを足蹴にした。
「なにいってるの、創っ、わたし、誰にも会いたくないのだけど」
「朱里ちゃんが寝てるのは、ここじゃないだろーーっ」
「はぁっ、わっけわからない!」
 創はいきなりピタッと止まった。おそるおそる創を見ると、仏頂面の創は下を見て黙っていた。

「俺がさ、もっと力があって、あいつみたいに大人だったら、朱里ちゃんを助けられるんだと思う。でも、俺、力ないしあいつに助けてもらうしか出来ないんだ」
「創、何言って」
「俺は、子どもで力がなくて、本当なにもできない。何も出来ないんだ」

 創の目は真剣だった。誤魔化したり、ふざけたり出来ない位。
「朱里ちゃん、起きて」静かな創の言葉に、渋々わたしは起き上がった。


「お客さんって、誰なの?」
 追い立てられるように創に立たされて、玄関に連れて行かれた。抵抗するわけじゃないのだけど、誰かは知りたいけどなぁ。
「あぁ、朱里ちゃんの大学のひとだって言っていたよ。なんか先輩だかゆってた」
 あっという間に創は靴をつっかけると、ドアからわたしを外に押しやり、チリンチリンと鳴る双子のリスのキャラクターの鈴が付いた鍵をポケットから出して、鍵を閉めた。
「創、それってわたしの」
「うちで預かってるの!」有無を言わさないと言った感じで、創は話を切った。
 何で創のうちが。さっきから、訳が分からない。創はアパートの廊下の鉄板をグアングアン鳴らして歩き、カンカン音を鳴らして階段を降りて行く。

 わたしは廊下でため息をついた。なんだか良くわからないなあ。
 冬の夜は乾燥していて、それなりに寒い。安っぽいオレンジの廊下の光の下、動きたくなくて立ち止まった。

 もう一回カンカン音がして、廊下に創の頭だけぴょこん、と見えた。
「朱里ちゃん、早くっ」
 わたしを促すと、またカンカン音を立てて、降りて行く。
 仕方がなく、廊下を進んで階段まで来た時、創の前に立っている男性がこちらを、見た。

 昨日の、死神。

 やっぱり黒ずくめで、射るようにこちらを見上げている。
 なんで、なんでいるの。怖い、怖いよ。途端に足は竦んだ。

 わたしを迎えに来た、って昨日、言っていたのを思い出す。
 迎え、何のために。まさか、本当に死神じゃあ。

 体が恐怖で震える。怖いよ。

「あんた、本当に先輩なの」
 わたしの様子に気づいた創は、死神を睨みつけると、彼ははあ、とため息をついてポケットから財布を取り出すと、四角いカードを創に差し出した。

「あー、んと、かみ、みち、まなぶ、ぶ。みや、もと、なんて読むんだ。しん、まあいいや、だって。知ってる?」
 創は知っている漢字だけ読んで、カードをこちらに示した。

 ちらり、と見えたそのカードは、確かにわたしの大学の学生証だった。
 神、が付くということは、神職の課程のひとなのだろう。わたしの大学には、神主さんを養成する学科があるから。

「多分、混乱していて、違う姿にみえていると思う。名前は、覚えられているとは思うけど、どうだろう」
「そんなでいいのかよ、お前信用できんのかっ」
 言った途端、創は、がすっ、と音を立てて、死神を回し蹴りした。
 死神はちょっとよろけると、創の方に向き直る。

「創!」
 わたしは叫ぶと、階段を駆け下りた。その前に死神は、創の頭をべしっ、と叩く。
「いってえ、なにすんだよっ」
「生意気な、百万年早い」
「上からやるなんて、卑怯だろーっ」
 創がまた回し蹴りしようとするのを、死神はよけた。
「百万年早いって、言っているだろ」死神は力を抜いて創を蹴った。
「くっそ、ちょっと背が高いと思って」
「くやしいなら、牛乳飲め」

 唖然としている間にも創は空振って、死神は力を抜いて創をツンツンと、蹴りながらからかっている。

 なんなの。し、死神じゃ、ないの?

「そ、創っ、やめなさーい」わたしが声を張り上げると、創は口を尖らせた。
「だって朱里ちゃん、こいつ信用できるか」
「してもらわないと、困るんだけど」創の言葉を遮るように、死神は話した。

「あの、創が失礼なことをして、申し訳ありません」
 わたしが死神に謝ると、創は更に口を尖らせた。
「別に、謝らなくていいよ。で、どうするの。おれ、公文サボってきたから、二時間くらいはいられるけど」
創は死神の方を向くと、腕組みしながら威張っている。
「創っ、サボったって」
わたしが怒ると、死神はくっ、くっと笑った。
「まあ、仕方がない。今は一大事だから。じゃ、行こう」
死神はあごで昨日見た車を、示している。
「行く、ってどこへ……」
わたしが狼狽えると、二人は息ぴったりに、病院、と言った。


「しっかし、あんたさー、普段どの位みえるの?」
 助手席にさっさと乗り込んだ創は、すぐにシートベルトをすると、訳のわからない話を始めた。
「訓練してあるから、自分でスイッチいれないと見えない」死神も車のエンジンを掛けて、シートベルトをしていた。
 意外に死神は、穏やかな口調で創と話している。いいのかな、公文休んだ上に、こんなことをして。
「ちゃんと親御さんの許可は、得てきたから、安心して」
 ちらり、と死神はバックミラー越しに、後部座席にいたわたしを見た。
「ええっ、かーちゃんに言っちゃったのかよ」
「伝言で、公文は明後日行くように、だって」
なんだよう、と創が怒っている隙に、車は発進した。
 意外に死神は、常識人な感じなのかな。でも、いつの間に一枝おばさんと話をしたのだろう。

 よくよく見ていれば死神は、何処かで会ったことのあるひとのように思えた。
 口調や、仕草はなんだか懐かしいというか、誰かを想像させようとしているけど、頭の中は靄がかかったように不透明だった。
 どこかで話したことが、ある。誰だっけ。


 その後も創と死神は、よく分からない話を続けた。
「ねえ、いつから見えるの?」
「物心ついて気がついたら、見てたんだ。まあ、僕は血筋の部分が大きいけれど」
「訓練ってすれば、見えなくなるもん」
「完全に見えなくなるわけじゃない、でも不用意にみる、っていうことは無くなるかな」
 ふーんと創は言いながら、頭の後ろで腕組みをした。

「俺もそうなら、いいんだけれどなぁー」
「修行して、訓練すればなれるけど」
「えっ、マジで」
 どうして創は、こんなに死神に懐いているんだろう。
「キツいし、地味で同じことの繰り返しだけれどね」
「えー地味でキツイって、具体的に何するのさ」
「基本掃除かな、進んできたら、滝行もあるけど」
「ええー、なんか、こうバッサバッサと、やっつけていくのかと思った」
「マンガの読みすぎ」
「そんなのやりたくねーっ」
 やさぐれた言い方をしたので名前を呼んだら、創は首を竦めた。

 信号待ちで、死神はちらりとこちらを伺うように、バックミラー越しに見られた。心が凍る思いがしたけれども。一体なんなの。
 創は、ずっと喋っていた。わたしは、ずっと黙っていた。

「第二病院の方でいいのかな」
 病院が道なりに並んでいる道に差し掛かると、死神は創に尋ねた。
「うん、そう聞いたけれど」

 少しずつ、少しずつ、胸がざわつくような、もやもやするような、嫌な感じ。
 このまま進んで欲しくはない。なにがわたしをまっているの。

「あの、やっぱり、わたし帰りたい」
 信号待ちで言うと、創と死神は同時にぱっ、とこちらを見た。真剣な顔で、顔を見合わせている。

「かえりたい、とは思わないのかな」
 死神は青信号になったので、車を発進させながら聞いた。
 どういう意味なの。死神の声は、こころの中を探るかのように響く。

「池田さんのこと、皆まっている。かえってきてほしい」
 かえってきてほしい。その言葉にわたしは縛り付けられるように、黙った。

 オレンジの街灯が車の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。

 車はウィンカーを鳴らして、病院の駐車場に入った。
 胸のもやもや、ざわめきは止まらない。苦しい。叫びだしたい。逃げ出したい。
 なんで、ねぇ、なんで、行きたくない、いきたくないよ。

「あ、おじさんだ」創の言葉に顔を上げた。いやだ、嫌。
 なにがまっているのかしっている、くるしいよ、くる


 リィ、ンと鳴ったこころ優しい音に、ほっとしたわたしがいる。

第三夜

 ああ、また、このドアの前。わたしの前には、可愛らしい扉がまたあった。

 でも、今は入りたく、ないな。行きたく、ないな。
 けど、呼ばれているの。呼ばれている。なんで、なんでそう思うの。
 扉の前で、うろうろして、ノックをしようと思って、やっぱり止めて、何がしたいのわたし。いつの間にかあるこの扉を、開けなければいけないって、決まりはないのに。

 そんなことを、ぼんやりと、思う。

 でも、呼ばれたの。なにかに。


 たっぷり時間を使って、結局扉をノックした。コンコンコン、と三回。

 返事が、ない。いないのか。何だか面白くなくて、もっと大きめにノックをしてみた。三回。

「どうぞ」
 焦ったような美しい声は、扉の向こうから響いた。いるんじゃないの。

 つまらない気持ちで、左手でふんわりと暖かい、金色のドアノブを掴んだ。
 乱暴に勢い良く開けると、ごんっ、と何かにぶつかった。
「いたっ」
 扉の開いた先から、小さく声がした。大きく開かれた扉の向こうは、やっぱり一番奥が、一面のガラスになっていて、その先に明るい森が広がっている。

 天井では、白いファンが、クルクルと回っていて。

「は、入って」
 美しい顔を歪ませて、おでこに手を当てながら、現れた彼は言った。
 ぶつかったのね。ちょっと申し訳ない気持ちになる。
 わたしの表情を見て、彼は困ったように少しだけ笑った。
「大丈夫、びっくりしただけ。それより扉を閉めたい、入って」

 わたしが三歩進むと、やっぱり扉は、少し乱暴に閉められた。

 扉を閉めた音が合図のように、濃い緑の気配と、木々のざわめきと、澄んだ小鳥の声と、甘い大気の匂いがする。わたしは、目を閉じる。

 平坦な、穏やかな、でも深く、深くこころが、落ち着いていく感覚がする。

 これは、一体なんなのだろう。部屋の中に居るというのに、豊かな森の中にいるみたい。
 そう、感じるとより一層、甘い甘い緑の香りが濃くなって、まぶたに感じるひかりは明るくなった。
 高く、高く、鷹が空を舞い、森の上を切り裂くような声が、した。

 ああ、そこへ行きたいな。その声の向こうへ。

 リィ、ンと、心優しいベルの音が、響く。


「いきたい?」
 ふ、と目を開けて左を見ると、無表情なのに、何かに傷ついたような彼が立っていた。

「いかせたく、ない。そう思うことは、いけないのかな。あの上にいったらもう、あえない。永遠に。僕は、急ぎすぎた?」

 彼の言いたいことは分からなくて、目を伏せる。

 おずおずと、彼の人差し指が頬に触れて、唇をなぞった。
 すうっ、と線を描くように。
 目を開けて彼を見ると、眉間に皺が寄って、苦々しい顔をしていた。

「どうしたら、ここにいたいって、思ってくれる。今、呼ぶのにも、随分長い間迷子になっていて、見つけられないかと思った。何でいきたい、みんな待っているのに」

 彼は、やつれていて、痩せていた。美しい顔はそのままだけれど、瞳は明るいみどり色で、髪の色はもっと茶が濃くなっている。不思議なひと。
 どこかで、何処かで会ったことがある。どこで会ったの。こころの中を探るけど、やっぱり真っ白なの。

「いかせたくない。だから、いて」
 彼の必死な言葉に、ちょっと戸惑いながら頷いた。意味は、分からないけど応えたい。
 そこまで必死な様子で、何かを訴えられて、駄目って言いたくない。

 彼は、途端にほっ、とした表情で頬に置いていた手を降ろした。

「お茶にしよう」穏やかな表情で彼は言う。
 お茶、要らないな。わたしはそっと頭を横に降る。飲みたい気持ちは、しないの。
 わたしの仕草を見て、彼は目を見開いた。

「飲みたくない?」彼の声は、動揺で揺れた。
 わたしは彼の瞳を見て、小さく頷く。

「戻るのに必要なんだ、飲んで欲しい」
 やっぱり飲みたくない。彼の顔を見られないまま、そっと頭を横に振った。

「やっぱり僕は、急ぎすぎた。なにもかもを。ごめん、本当にごめん」

 彼はわたしを淋しそうに、労わるように見て言った。
 その言葉は、わたしの中でじんわりと、染み入るよう。ちょっとだけ自分の表情が緩んで、笑顔になったのが分かる。あったかい気持ちは、お腹へぽかぽかするように、わたしの中に入って来た。

 項垂れている彼の、だぼりとした白い、神主さんが着るような、和装の裾を引っ張った。
 こっち、こっちと、子どもが親を引っ張るように、キッチンまで彼を連れて行く。

「な、なに」
 彼は訝しげに、わたしを見ている。そっと茶器を指差すと、おずおずと彼は聞いた。

「飲む?」
 こっくりと頷くと彼は戸惑って、よくわからないといった感じだったけれど、伏せていた茶器を広げだした。わたしはその様子を、一緒に見つめる。

 不器用なのか、慣れていないのか、彼は全てがぎこちなくて、茶器は大きな音を立てた。
 こわれちゃう、そう思ってそっ、と彼の手から、小さな可愛らしい白い湯飲を取った。
 その途端、ピタリと彼は止まった。その間に、受け皿に湯飲を静かに置く。

 あまりにも止まっているので、彼を見上げると、顔は真っ赤で、耳まで赤く染まっていた。
「どう、したの」自然にするりと声がでた。
「お茶、飲んでいないのに」とても大きな声に、身体は震えて、困ってしまう。

「ごめん、大きい声をだした。このお茶はかえるのを助けてくれる、欠かせない飲みものなんだ。外にいたら、うえに近づいているから、ここに来たら話せない筈なんだよ、でも」
 そういって彼は束の間、黙った。顔を赤くして。

「心配してくれて、話してくれたなら、嬉しい」そう言って目を逸らした。

 なんだろ、このひと、かわいいなぁ。
「うん、しんぱいしたの」やっぱりするりと声はでた。笑顔になっているのが、わかる。
 やっぱり、おなかは、ぽかぽか、暖かい感覚は、嬉しくてたまらない。

 彼は美しくて、遠い存在に感じていた、そんな気持ちがしていたのに、ここにいる彼は近くにいる、そんな気持ち。ほんの傍に。

 嬉しくて、少しだけ擦り寄った。子どもがするみたいに。
「あ、や、嬉しいんだけど、お茶が入れられない」
 なんだか、わたわたとし始めて、彼はそっ、とわたしを離した。なんだ、何か、面白くないなあ。

 彼はポットを持つと、くるくると回すようにした。さっきまでの、ぎこちなさは、どこにいったのかわからない位、丁寧に回した。
 次第に、甘い茶葉の香りが漂い出した。わたしは嬉しくって、微笑む。
 彼はその表情に、慌てたような態度になったけれど、ちょっと戸惑って、やがて静かに茶器に、茶色いお茶を注いだ。

「座ろうか」白いトレーに茶器を載せて、持ち上げると彼は言った。
 わたしはスキップするように、弾みながら先に進んだ。後ろで彼がクスリ、と笑った気配がする。

 先に、ガラスのテーブルがあるところの前に座っていると、彼はクスクス笑いながら、テーブルにトレーを置いた。
「本当の君は、そんなにあどけないんだ」
 何を言われているか、わからないけれど、ちょっと笑った。
 彼はさっきみたいに、慌てたようにしたけれど、やっぱり戸惑って、やがて茶器を手にとった。

「はい、気をつけて、持って」そっと、茶器を渡された。
 わたしは、手のひらに包み込むように持って、ゆっくり一口お茶を飲んだ。とろり、とした甘いお茶を飲むとほっ、とした。さっきは何故、あんなに要らないと思ったのかな。

 彼は、わたしがお茶を飲んでいる様子を、見ていた。
 たまに見返すと、静かに微笑んでいた。さっきとは違う様子で。

「どっちが、本当のあなた」すっかりお茶を飲み干したわたしは、頭がスッキリして知らず知らずのうちに、彼に疑問を投げかげていた。

「な、に」
 美しい彼はびっくりして目を見開いた。何故そんなことをと顔に書いてある。動揺しているのか、戸惑った顔になって、目を逸らした。
「その方が、好きなの」
「どういう意味」
「そのほうが、すき」

 それしか言いようがなくて、わたしが言うと、彼は何かを、考えるようにしていた。

「僕は受け入れられている、のか」独り言のように彼が呟いた。
 そしてちらり、とわたしを見ると、また何かを、考えるようにしていた。

「君は何で戻らない」ちょっと戸惑うように、彼は話した。

「戻らないって、なあに」
「君は、今、こころとからだが、離れ離れになってる。気づいてたかな。僕は、君を助けたい。だからここがある」

 離れ離れ。意味は分からなくて、首を傾げた。

「君が戻らない理由を、知りたいんだ。何がこころを苦しめてる」

「わからない」その質問の答えは、空虚だった。

 彼はため息をつくと、わたしの頬に、手を包み込むように置いた。

「わからない、か。やっぱりまだまだだった。このままじゃ、君は消えてしまう。僕にこころを寄せていないのは、知っている。そんな状態で、最後の手段はしたくないから、出来れば知りたいんだ。もうちょっと考えて、何か思い浮かばないかな」

 わたしはこころを探る。でもわからない。どこまで行っても、真っ白。

「あっちで聞くしかないのか」
 ため息をついて、彼はわたしの頬を撫でた。

「こういうのは、嫌?」
 こういうの、ああ、そうか、頬に手が触れていること。わたしは頭を振る。

 彼は頬を撫で続け、わたしは目を閉じた。掌からじんわりと熱を感じる。
 じわり、じわりと染みて、その熱は下腹部に溜まって行く。
 触れられるたび、じわりと染み込んで流れて。

 頬に柔らかい感触を感じて、目を開けると、彼の顔はすぐ隣にいた。

「いや、じゃない?」
 優しく見つめられて、わたしは頷く。彼の目は、動揺したように泳いだ。顔もほんのり赤くって。

「そのほうが、すき」彼の目が、言った瞬間に近い距離で、わたしを捉えて離さなくなった。

 そのままそっ、と近づいて来て、唇に彼が押し当てるように、唇を食んだ。

 柔らかい彼の唇を感じて、私はまた目を閉じる。

 優しく喰まれるような感触を、唇に感じた。暖かい何かが、口の中に遠慮がちに入って来て、心がきゅう、と締め付けられるよう。

 ぎこちなく入ってきたそれと、わたしが絡んで、きもちいいの。

 絡み合ったそこから、じん、じんと熱が流れ込んでくる。
 身体を駆け巡り、熱は溜まっていくみたい。


 リィ、ンと、心優しいベルの音が、響いた。


 目を覚ますと、創は心配そうに覗き込んでいた。あれ、わたし、今、何か夢、見てた。
 なんだっけ、なんだか、ふわふわした、緑の夢。

「いたっ」
 いきなり創は、布団にいたわたしの頭をべしっ、と叩いた。

「なにするのよ、創っ」
 わたしは頭を押さえて、創に抗議した。いくら、いとこだからって、だめじゃん。
「なんか、むかついたから」
 仏頂面の創は、ふん、と鼻を鳴らしながら言った。
「なんかむかついたって何っ」
「なんかーむかついたってぇーなにー」
 創は、下手っくそなわたしのモノマネをしてみせた。

 なんなのよ、生意気。一気に起き上がったわたしは、創の脇をめがけて手を伸ばした。
「や、やめろよっ、うひっ、わ、うひゃ、うひひひひ、た、たーすけてーっ、うひひ」
 創なんて、創なんて、笑い死にすればいいんだ、もうっ。形勢逆転して、創はわたしの膝の上で、笑い死にしそう。いい気味だよ、人を叩くなんて。

「ごめんなさいは?」
 ひいひい言ってる創に、畳み掛けるように聞いた。
「ごめんなさい、でしょっ」
 もっと、くすぐる速度を上げたら、創は更に笑ってる。
「ご、ごめんって」
 笑い転げていた創は、目をキラキラさせて謝ってきた。よし、何かわからないけどよしっ。よく分からない達成感で、一杯だ。いい仕事したなぁ。


「楽しそうだ」
 玄関の方から、不機嫌そうな低い声がする。誰なのか。わたしは途端に固まった。
 1Kの狭いアパートは、玄関から直接的には見えないけれど、繋がっている。一応目隠しはしてあるけれど。
「待ってるのだけど」
 玄関の声の主は、更に続けた。もしかして。

「あーわっすれってたー」
 笑い死にしそこなった創は、お腹を抑えてわたしに向き直ると、こう言った。

「朱里ちゃんの大学に、行ってみようよ」意味が分からない。なんで。戸惑っていると、
「創、説明しないとわからない、きっと」玄関から張り上げるような声が上がる。
「ええ、俺、上手く言う自信ないけれどー」創も声を張り上げた。
 仕方がなさそうに、ため息をついた気配が、玄関から感じられる。

「池田さん、ちょっと玄関に来てもらえると、ありがたいのだけど」
「え、なんで?」
 創を見ると、何でか創はうん、うんと頷いていた。
 ええ、行かないと駄目なの。なんで、あのひとが、あそこにいるの。
 創を睨んで、口パクでなんなの、って言うと早く行きなよ、と身も蓋もない答えが返ってきた。
 仕方がなく、わたしは立ち上がる。

 玄関で不機嫌に待っていたのは、死神だった。ちょっと、痩せた、かも。

「こんにちわ」
 不機嫌、極まりない死神は、むっつりと挨拶した。
「こ、こんにちは」
「なんだか、楽しそうで仲良いね」
 不機嫌な死神は、ちょっと拗ねているのかな、気のせいかな。
「あ、いえ、あの、従兄弟なので。そして、あの居るとは、思っていなくて」
 ふーんと死神は言いながらも、面白くなさそうだ。な、なんでなの。

「まあ、いいんだけど」ちろりとこっちを見た後、死神は続けた。

「この間は、ごめん、ちょっと急ぎすぎたみたいだ」
 この間。何だっけ、そして誰かにも、そんな感じで謝られた気が、する。

「何か、ありましたか」わたしが答えると、死神は面食らったように、苦い顔をした。
「覚えていない、病院へ行ったの」

「……ちょっと思い出せなくって」
「まずいな」間髪入れずに、死神は言った。

「僕が誰か、分かる」

「死神?」
 言った途端に後ろで、創がぶしっ、と変な声を上げて、ゲダゲタ笑いだした。

「し、死神、だってさ、イケメンがお、なのにさ」わたしは訝しがり、創はゲッタケタ笑ってる。

「うるさいよっ、黙れ。笑うなんて百万年早い」
 ゲッタケタ笑う創に、死神は容赦なく、手刀チョップを入れていた。
 きっと創は笑い死にするね、間違いなく。戸惑いながらも、わたしは思う。


 ゲタゲタ笑い続けた創と、物凄く不機嫌で、凶悪顔になった死神は、じゃ、行こうかと言って、騒がしいまま、外に出た。
 何が何だか分からない内に、また車に乗っていた。また、そう思うのは何故だろう。


「大学行って、なにするの」創は助手席に座り、死神にずっと話し掛けている。
「何かこう、手掛かりがあれば、と思っている。けど、掴めるかどうかは微妙。あんまり追い詰めるようなことして、困らせたらまずいしね」
 そう言って死神は、バックミラーでわたしを見る。

「創、そういえば、学校は」
「あー今日、土曜日だから、休み」
「土曜日?」
 なにか違和感を感じる。土曜日って。創は、珍しくそれ以上は、なにも話さなかった。

 前の席の2人は、よくわからない話をしていた。
 見えすぎるのもよくないから修行した方が、と言われた創は、困ったことないし、と返して死神は、つかの間黙った。

「今はいいんだ、創のところは、家族が理解、あるから」
「えー、かーちゃん、うざいよ、すっげー」
「不思議な力に関しては、ちゃんとフォローしてくれているよ。分かるだろ」
 死神の言葉に、創は何かを考えているようだった。

「そーかなー、そんなもんしなきゃ、ダメかなー」面倒くさげに創は言った。
「世間や、親戚が創のことを怖がらないで、変な目で見ないで、ずっと過ごせるかは分からない。っていうか、無理だね。見られるのは、当たり前になる」
「怖いこというなよっ」
「人と違う、ってことはそういうことだ。自慢したり見せびらかしたりしたら、必ず悪いこともやってくる。そうならないため、自分の力はコントロールできた方がいい、していても悪いことは来るけどね」
「じゃ、やる意味ないじゃん」創は口を尖らせて、死神を見た。

「悪いことと、より悪いことなら、悪いことだけの方がいい」

「あんたも、そうだった?」創の質問に死神は黙った。

「創に、僕のような目には、遭って欲しくはない。だから言っている」
 死神がやっと絞り出すように言った、重い言葉は、わたしたちを敬虔な気持ちにさせた。


 死神は車を、大学近くの駐車場に入れた。
 そういえば大学に行くのも、久しぶりのような気がする。なんで行くのかは、結局うやむやのままだけど。
 今日は、土曜日って言っていたから、サークルの部室には、誰もいないだろう。

 大学生活が始まって、何が一番戸惑ったのかと言うと、自分の居場所がないということだった。
 高校生の時は、自分の席があり、そこを中心にいれば良かった。
 でも大学は一限毎に教室は違い、終わったら次の授業のために、去らなければならない。

 出席番号が近くて、なんとなく仲良くなった亜依が、日本文学のサークルに入ると言うので、覗きにいったら、面白そうだったので、わたしも居着いた。
 そこで、授業の空き時間を潰したり、週一回の読み合わせ会に出たりして、友達を増やしていった。

 わたしの住んでいるアパートは、創の家の近くにしたので、大学からはまあまあ離れてる。
 時間を潰せる部室は、わたしにとって、都合のいい場所だ。
 いつも必ず誰かがいて、退屈は、しない。

 キャンパスの中に入ると、土曜日だからか、人はまばらだった。

「大学、すっげー」
 創は大学の高い建物に口をぽかん、と開けて見上げていた。
「そうだよね、わたしも最初そうだった」
 地方都市から出てきた高校生にとっては、大学の建物は立派すぎて気後れしたけど、今では慣れた。
「さて、どうしよう」
 死神がしれっ、と言ったのを聞いて、創とわたしは驚愕した。

「えええ、ノープランって……」わたしが言い淀むと
「何のために来たかわかんないじゃん」創は呆れたように言った。
 本当になにをしようと、ここへ来たんだろう。死神がやりたいことが、わからない。

「じゃ、まあ、部室にでも行ってみるか。池田さんのことは、部室くらいでしか見ないし」
「えっ、あの、顔見知り、ですか。わたしたち」
 先輩、ってことは創に聞いたような。曖昧だけど記憶がある。でもいつだったっけ。
「顔見知りって………ああ、そうか、死神に見えているんだっけ」
 わたしは頷く。というか死神以外の何者でもない。

「あのさ」
 なにかを死神が言いかけた途端、せんぱーいという声が響いて、甘々なファッションの香澄が、手をブンブン振りながらやってきた。
「先輩、今日は珍しい人と来てるんですねっ」
 手をパーにして口の辺りに当てて、上目遣いの香澄は、同じサークルの子だ。

 学部は一緒だけど専攻は別で、あんまり接点はなかったけれど、最近よく話しかけて来てくれる、明るい子だ。これさえなければ。

「こんにちは」死神は、軽く微笑みながら、香澄に挨拶した。
「本当、いいとこで、会いましたよねっ、私たち。運命とかじゃないですか。この後お茶しません?」
「悪いけど、連れがいるから」
「ええっ、お連れさんもーいいじゃないですかぁー」

 香澄は、死神しか見えていないという感じで、上目遣いを繰り出してる。
 悪い子じゃないのだけど、お目当ての人を見つけると、周りに誰がいようとも行って必ず話し掛けたり、お茶に誘ったりと、アプローチが中々激しいタイプ、なんだよね。
 そして周りに誰がいるのかも、おそらく見てはいないだろうし。
 創は見たこともない人種に、ドン引いている。まあそうだよね。

 香澄の今のお気に入り、というか狙ってるのは、宮先輩の筈。ーーーーえ?

「とにかく、駄目なんだ。連れがいるし。ごめんね」
「もーなんですかぁ、宮先輩のけちっ」

 和やかに談笑している死神と、香澄の傍からそっと離れて歩き出す。
 キャンパスの中は曇り日で、少しどんよりした様子に見えた。

 死神は、宮先輩。

 気がついていなかった。どうしよう、なんで宮先輩の姿を、わたしは死神と思っていたの。
 凄く頭の中が混乱して、分からない。なんで、なんでなの。なんで創を知ってたの。
 そして、ーどうしてわたしの前に、いきなり現れたの?

 宮先輩は、一年上の先輩で、都心にある結構大きい神社の、跡継ぎになるひとだ。
 大学では弓道部を中心にサークル活動しているけれど、わたしたちのサークルにも入っていて、週一、二回位は部室に、顔を出して行く。
 さっぱりとした気性で、誰とでもどんな話題でも話せる。人当たりの良さは、抜群にいいと思う。
 今時のファッションと、ちょっと甘めの顔立ちで、二年生を中心に、女子の中で話題のひと。
 かといって、男子に嫌われていたりする様子もない。

 結構、サークル内は、ぐちゃぐちゃの人間関係も影ではあって、誰かと誰かが付き合っていて、そこに誰かが横恋慕していて、とか、誰かと誰かがいがみ合っている、なんてそういうことは、ままある。
 そうやって来なくなった子も、結構いる。
 わたしは、巻き込まれたら面倒なので、宮先輩のことはあまり関わらない方がいい人だよな、と思っていた。

 でも。

 この間、わたしは宮先輩に会った時、顔を真っ赤にして言われた。
 そんな顔を見るのは、初めてだった。言われた言葉は、理解出来なかった。
 ううん、理解したく、なかった。

「好きなんだ。よかったら、付き合ってもらえないか」

第四夜

 早足で歩き続けたわたしはいつの間にか、誰もいない部室にいた。
 図書館の棚のような、グレーの書架が沢山ある部屋。その書架に囲まれた真ん中には、細い会議テーブルを六つ繋げて、そのまわりに椅子を置いたスペースがある。いつの間に入ったんだっけ。わたしは椅子をひとつ引いて座った。

 頭は、ぼんやりしていた。死神は、宮先輩だった。でも何故か、納得している自分も、いた。

 口調や立っている姿、仕草は確かに宮先輩そのものだった。だから、何処かで会ったことがあるって思ったんだ。

 何故、宮先輩は死神になっているのだろう。



 宮先輩と初めて会ったのは、新歓コンパの時だったと思う。
 居酒屋に夜いるなんて初めてだったから、読み合わせ会が終わって、亜依と一緒にドキドキして行ったのを覚えている。
 それまで門限が厳しくて、夜遅くまで外で過ごすことは無かったのでどんなことが起こるんだろうと、ワクワクもしていた。でも。

「よく分からないことに、なってきたよね」眼鏡を上げながら亜依は言った。
「そうだね」
 時間が経つにつれて、愚痴しか言わなくなってきた先輩、大声でとにかく叫んでる先輩、少人数で、ずっと喋ってるグループ、女子はカラオケに行く、と言って自由にほとんどがいなくなって。その場はカオスになってきていた。
「わたしも、帰ろうかなー」 烏龍茶を飲みながら、亜依を見た。
「ええっ、朱里。もうちょっとだけ、ねっ」亜依は拝むようにして、わたしを見ている。

 亜依は、二年生の加地先輩に高校時代から片思いをしていて、追いかけるようにこの大学に来た。二人はずっと高校の文芸文学部の部活からの繋がりがあって、端から見ていたら、加地先輩は亜依を少しだけ特別扱いしている。
「一緒に帰ろ、って、言われてるんだ」
 加地先輩をチラッと見て下を向いた亜依は、顔が赤くて同性から見ていても可愛い。いいねぇ、そんなステキな恋なんて、無縁だよ。
「いいじゃん、帰ったら。お邪魔虫は消えるし」
「ええっ、ずっと一人で待つの、嫌だし」
 えぇっ、そういうことね。溜息が出た。
「ま、用事ないから、いいんだけれど。学食のパフェ奢りでね、待っていても、いいかなぁ」
「えーありがと、奢る、奢っちゃうっ」亜依はわたしの手を、ブンブンと振った。

 現金だなあ、と思っていたら、貸し切ってる居酒屋の個室の入り口辺りで、ざわついた様子があって目立つ男の人が入ってきた。
 髪は真っ黒なのに、服装は雑誌から飛び出してきた様で、アーモンド型の大きめな目と、厚めな唇で甘い感じの顔のひと。
 色んな人と挨拶して、その人はわたしの空いていた左隣に座った。

「宮、来ないって言っていたのに、どうしたんだよ」
「弓道部の方が早く終わったから、顔出しだけでもと思って」
 その人は反対側にいる、二年の澤田先輩と話し込みだした。
「その人が、宮先輩。笹島先輩達が騒いでいる」こっそりと亜依は、教えてくれた。
「ああ」なるほど、納得。

 宮先輩の噂は、色々聞いていた。モテモテな話ともう一つ、不思議な力がある、という話。
 幽霊とか精霊とか見える、それで霊媒師なのだとか。詳しく聞いたわけではないけれど。
 魅力があって彼女は取っ替え引っ替えとか、都心にある神社の跡取りだから、お金持ちとか、そういう下世話なのまで本当に部室の話題の人。

 まあ、関わることはない。面倒だし、なにより関わってはこない、向こうも。


「一年生?」
 亜依は加地先輩に呼ばれて行ってしまって、わたしは手持ち不沙汰になり、一人でぼんやりしていた。話掛けられているとは、思っていなくて。
「おーい」
 目の前で覗き込みながら手を振っているひとに、びくっ、と体を震わせてしまう。
 あ、失礼だった。どうしよう。わたしの驚いた様子に、彼は苦笑いした。

「ご、ごめんなさい、ぼんやりしていました」
「別に、いいから気にしないで。一年生?」
 話を切るように謝ったけれど、彼は話を繋げてきた。話をしなきゃ、ダメなのかな。
「はい、文学部の池田です。よろしくお願いします。」
「僕は神道学部の宮本です。弓道部と掛け持ってるから、あんまりこっちは来なくて幽霊なんだ」
「そうですか」
 なにを言っていいのか分からなくて、曖昧な返事をした。
 その人はするすると話を繋げて、大学は楽しい、とか慣れた、とか当たり障りのない話をしてくる。
 目線を合わせて、ひとと、きちんと話をしたいと思っている。そう感じられる様子に、ああ、それでこの人、モテモテなんだなあと妙に納得していた。

「池田さんは、何をしたくて大学に来たの」
 そんなこと聞いて、何になるんだろう。
 そう思いながらもわたしは、高校時代の古文の授業で和歌の勉強をした時に出て来た一首が、心に響いて興味を持ったという話をした。

「山風に、桜吹きまき、乱れなむ、花のまぎれに、たちどまるべく」
「古今和歌集だ」
 その一首って何、と聞かれて、恐る恐る諳んじた一首に、先輩はすかさず反応した。
 本当にびっくりした。中々知っている人はいないのに。
「桜の花びらが沢山舞い散って、帰る道を閉ざしてしまえばいいのに、って意味だよね。違った」
「まあ、そんなところです」
「何でその和歌が、心に響いたの」
 何で、って、どうして聞きたいのだろう。わたしなんかの話を。

「この和歌を聞いた時、目の前を煙るように沢山の桜の花びらが舞い上がって、道の向こうが見えない、そんな風景が目に浮かんだんです。
 はらはら舞って、静かで、前が見えない。
 とても情熱的なのに、静かに大切なひとを引き止めたい、と思っているうたなんだろうって、そう思ったんです。
 いつか、好きなひとが出来て、後ろを振り返ったら、そのひとが引き止めてくれていたら、ステキだなぁなんて、そんなことまで思っちゃって……」
 言ってから気がついた。わたしの好きな和歌を知っていてくれた、その嬉しさに夢中で、妄想まで口から飛び出てた。
 いやだ恥ずかしい。語尾は不自然に、小さくなっていった。

「そうなんだ」
 宮先輩は目を逸らしてから、顔を伏せて言った。ああ、やっぱりドン引きだよね。妄想まで喋っちゃったし。
 もうこれで話はお終いだろう、そう思っていたら、

「天つ風、雲のかよひ路、ふきとぢよ、をとめの姿、しばしとどめむ」
「百人一首」そしてさっきの一首と、同じ作者の和歌だ。
「僕はこっちの方が、好きかも」何故か、ほんのり赤い宮先輩は、わたしを見ていた。
「わたしも好きです。天へ帰る道を、風で閉ざしてしまいたい。舞姫の舞う姿を、もう少し見ていたいから、って意味ですよね」
「そう、池田さんみたいに、想像を巡らせることはなかったけれど、でも心に残ってるんだ」
 なんでだろうね。そんなことを言って、宮先輩は笑った。

「古今和歌集や、百人一首を、よくご存知ですね」
「まあ、そういうの、好きな存在がいてね。教えこまれた、っていうか……分からないかもだけど」宮先輩は、初めて言い淀んだ。
「存在?」
「それ以外、言いようが無いんだけどね。それにしても、同じ作者の和歌を好きだなんて、なんだか不思議だ。しかも二首とも、ひとを引き止める和歌だし」
「あ、そうですよね、引き止めたいって、思っていますね」そうだ、気がつかなかった。
「きっと愛情が深いひと、なんだよね、僕もそうなりたいけれど」
 ちょっと淋しそうに言った宮先輩に、わたしは何も言えなかった。


 そのあとも宮先輩とは初対面なのに、何故か話はすんなりと出来た。
 結構楽しかった覚えはあるけれど、わたしは同時に、少しだけ残ってる女子の先輩達が、こちらをチラチラ伺っているのにも気がついていた。
 面倒は母だけで充分だ。面倒に巻き込まれる前に、帰りたい。

 話を切ろうとすると、宮先輩はするりと上手く話を繋げてきて、中々話は切れなかった。
 焦ってきて、そういえば亜依はどうしているんだろう、と加地先輩達が座っていた辺りを見ると、二人はいつの間にかいなくなっていて戻ってこない。まさか。

 亜依にメールを送ってみたけれど、返事は返ってこなかった。やられたなぁ。

「そろそろわたし、失礼します。今日はお話してくださって、ありがとうございました」
 話が切れた瞬間に、わたしは宮先輩に挨拶して、席を立とうと立ち膝になった。
「駅まで送る、夜道は危ないし」
 宮先輩も一緒に立とうとしていて、わたしは慌てた。
「いいです、いいです。ここから駅はすぐそこでしたから、大丈夫です」
「もう九時過ぎているし、女の子一人をこの辺歩かせるなんて出来ない、危ないし」
「いえ、早足で行きますし、誰もわたしなんて、襲いません」
「へぇ、池田さんそんな感じに見えない。ゆっくりのんびりしてそうな感じだけど、早足なんだ。急いでるのが好きなの」
「いえ、田舎の高校生だったので家から学校まで結構あって、沢山歩くので早足になりました」
「田舎ってどこ」
 わたしが北の方にある出身地を話すと、彼はさらに北の大地の出身だと話した。
 中学生から東京にいるから、もうこっちのひとだけれど、と先輩は笑った。
 気がつくと北国の生活あるあるな話になっていて、わたしは帰れないことに更に焦った。

「もうそろそろ帰りますね、失礼します」
 話が途切れた瞬間、わたしは急いで鞄を持って立ち上がった。
「じゃ、送る。行こう」
「いえ、一人で帰れます」
 意固地になってるのは分かっているけれど、本当に面倒は勘弁して。今ここで揉めてるのだけでも、沢山視線を感じてる。
「みやーその子困ってるじゃんか、神通力だかなんだか知らないけどさ、そうやって不思議な力使って、女捕まえようとすんのやめろよ、見苦しいし」
 ずっと愚痴を言っていた先輩が、いきなりそんなことを言い出して、場はしん、となった。

「駅まで送ったら、また戻ってきます」
 沈黙してた宮先輩は、少し困ったように笑ってみんなに言った。
 そしてわたしに行くよ、と促して、居酒屋の外に出してしまった。


 夜の繁華街は人通りも多く、明るくて白い街灯の下を歩いた。
「さっきは、ごめん」ずっと沈黙していた先輩が、歩きながら話し掛けてきていた。
「そんな、別に、先輩が悪い訳じゃないですし」
「嫌な思い、したんじゃない」
「先輩の方が、嫌だったんじゃないんですか」
 その言葉に宮先輩は黙った。なんか変なこと、言ったかな。
「池田さん、僕と話すのは嫌だったかなって思って。別に不思議な力とかは、使ってないけれど」
 ああ、さっき言われていたこと、ショックだったんだ。そんなことをまず思った。
 そして、わたしが嫌がっているように感じていた。
「先輩と話すのは、楽しかったです。けれど、面倒なことに関わりあいになるのは、ごめんなんで」
 こうなったら、言ってしまおう。はっきり言えば、もう関わろうって思わない。逃げの一手を打ったつもりだった。
「面倒?」
「先輩もてますよね、さっきも先輩方の視線を感じてました。モテモテの人と関わると、面倒なことに巻き込まれそうで」
「……もてないけど」
「そうですか、モテますよ」
 女子のツボを刺激しまくる、その感じはモテない訳ないでしょ。

 流行やファッションに疎いわたしですらラフで、かっこいいと思うその姿と、甘い顔立ち、そして人当たりがいい、どこの少女マンガのヒーローかと思っちゃう。
 地味を地で行くわたしとは大違いだ。並んで歩いてること自体が、あり得ない出来事だった。

「いや、本当。彼女とかいたことないし」
 じゃあ取っ替え引っ替えは、遊びなんだ。今もこうやって送ったりして、女の子扱いに慣れてる。ますます関わりあいになりたくない。わたしは返事をしなかった。


「池田さんは不思議な力とか、信じる?」
 明るい都会の夜の空は、雲が白く藍色の中に浮かび上がっていて、見たことのない景色だった。
 夜、外に出たことはほぼ、ないわたしは、歩きながらぼんやりと眺めた。
「小さな従兄弟がよく不思議なものを見て、報告してくれるんです。ちいさいおじさんとか、妖精がいた、とか。本当なのか、分からなくって一度からかって否定したら、凄く悲しい顔になって」

 あの日の創の顔は、忘れられない。
 それまで、わたしは創の話を半信半疑で聞いていた。またか、って聞き流してもいた。
 創は、創の表情は、お前もそう思うんだって、そんな諦めと淋しさとやるせなさを小さいのに隠さずわたしに向けていた。
 いつも母に否定されて辛かった癖に、わたしも同じことをしてしまったんだ、と物凄く後悔をした。

「それからは、信じたいな、って思うようになりました。その人が本気でそう思っているなら、それを否定したくないって。だから従兄弟がそういうなら、そうなんだろう、って思ってます」

「嘘ついてるかもしれないけれど、そうは思わない?」
「信じてもらっていたら、大抵は嘘ついてるのは、苦しくなりませんか」

 ずっと考えていた。否定されて、悲しかったこと。
 失敗して、失敗して、母と同じじゃないって思って、ない頭を捻って、考えて考えて考えて。
 先輩に話したことは、自分がそうありたい、と思う理想論みたいなものだった。
 わたしがそう出来ているとは、まだまだ思えないけれど。
 考え過ぎて、くたびれ果てることもある。でもやめられなくて。

 明るい夜空の下、駅までの残りの道のりで、宮先輩は一言も話さなかった。
 話をしたい訳じゃないわたしは、ぼんやりとまた、夜なのに不思議な空を見上げながら歩いた。

 駅の改札で宮先輩は、池田さん、また話そうと言った。あまり関わりあいになりたくないわたしは、曖昧に笑ってそこで別れた。


 次の日、亜依をとっちめて、学食の大きい方のパフェをちゃっかり奢らせた。
「美味しそう、桃、おまけして貰えたし」
「おっきい方、わたしも食べたことないのに」
 席を探しながら、学食の中を歩く。後ろをついてくる亜依は、ポツリと呟いた。
 学食はいつも混んでるけれど、お昼を過ぎているせいかぽつぽつ空いている席はあった。
「わたしを置いていったのは、だれだ」
「こめんって、朱里」
 よしよし、それでよいのよ。わたしが振り返ってちょっと笑うと、亜依は手を合わせながら首を竦めた。

「あ、窓際空いているね」
 やっぱりパフェは、景色のいいところで食べたいなぁ。桃のおまけに気を良くしていたわたしは、亜依にあそこ、座ろっか、と機嫌良く言った。
「それでー、どうなったの、昨日の帰った後」
 長いスプーンを使いながら、下に埋れているイチゴソースを探し出す。
「えっ、やーうん、」
 亜依は、どんどん真っ赤になっていく。いいねぇ、上手くいったんだ。

「なになに、どうなったのー?」
 分かっているくせに聞き出したくて、亜依を見た。
「一緒に帰って、帰る途中でなんか、わたしが誰が好きなのか、って聞かれて……もう、言っちゃおうって、思って……」
 言いながら亜依は、どんどん頭が下がっていく。
「それで?」
「加地先輩も、ずっと好きだったって……言ってくれて……」
「よかったねぇ、付き合うの?」
 いいねぇ、幸せそうなひとを見るのは好き。
「うん」
 亜依は本当に嬉しそうに笑った。わたしも嬉しくなる。
 わたしには無い物を持ってる、そんな亜依が眩しかった。
「で、加地先輩と、お泊りになったわけね」
 わたしが言った途端、亜依は更に赤くなった。こんな可愛い仕草され続けたら、加地先輩だって堕ちるよね。
 甘い甘いパフェと真っ赤な亜依を見て、こころはほっこりしているのに、頭はしん、と冷めていた。

 食べ終わったパフェの空き容器を、一度返却口に下げにいってまた亜依が待つ窓際の席に向かっていると、池田さん、と何処からか声を掛けられた。
 きょろきょろしていると、沢山座席が並んでる学食の中を縫うように、雑誌から出てきたようなファッションの宮先輩が近づいて来ていた。
 ああ、誰も見ていないと、いいけれど。
「こんにちは、今、昼ごはん?」
「こんにちは、あの、何か用ですか」
 昨日、面倒は嫌だって言ったのに、何で話しかけてくるのかな。
「昨日、無事に帰れたかな、と思って」途端に先輩は淋しそうな表情になった。
「ありがとうございます、大丈夫でした。それじゃあ」
 わたしは少しだけ笑って、頭を下げる。
 こんなところ、サークルのひとに見られたら、面倒なことになるし。
 面倒は、本当にごめんだ。疲れちゃう。
 行きすぎようとしたら、池田さん、ともう一度呼び止められた。
「何か」
「……また、話そう」わたしは曖昧に笑って、また頭を下げた。

「朱里、いつから宮先輩と仲良くなったの」
 席に戻ったら、もう顔は赤くない亜依はびっくりした顔で聞いてきた。ほら、こうなるじゃない。うっかり昨日、話をした自分が恨めしい。
「仲良くはないよ。昨日誰かさんが、何も言わず帰っちゃってーたまたま隣にいたから、話し掛けられて、ちょっとだけ話したの」
「うっ、ごめんって。朱里」亜依は手を合わせて、拝んでる。
「だから、なにもないの。今だって、挨拶しただけ」
「そうなんだ、仲良さそうに見えたから、てっきり」
「てっきり?」
「ステキな恋とか、始まりそうな感じだったよ」
「ないない、あんなモテモテそうなひと、わたしを相手にする訳ないじゃん。亜依、加地先輩とラブラブ過ぎて、目がおかしくなっちゃった」
「そ、それは関係ないでしょっ」
 亜依は、ぼんと火を吹く様に顔が赤くなった。

 散々亜依をからかって、いつの間にか宮先輩のことは忘れてた。

 けれどその後、宮先輩のことは、そんなに姿を見かけなかったけれど、ばったり会った時には何かしら話し掛けられるようになってしまった。
 その度に曖昧に笑ってやり過ごし、最後には必ず、また話そうと言われた。

第五夜

 後期が始まった頃から、宮先輩の姿を部室の中で頻繁に見るようになった。
 女子の先輩達は喜んでいて、宮先輩はいつも違う人と話をしていた。
 わたしは近づかないようにして、余り話をした覚えはないけれど。


 秋も深まってきたある日の木曜日、三時限目で終わりの亜依と別れ、五時限目までの一時間半、空き時間を潰そうと思って、部室の扉をノックした。返事がない。誰もいないのかな。
 そっと開けると扉はあっさり開いて、いつものひとが一杯の、机を合わせたスペースには、誰も居なかった。カバンを下ろして席に座る。
 誰もいないのは珍しい。ここの主のようなひといっぱい、いるのに。

「池田さん?」書棚の間から本を持って現れた宮先輩に、わたしは椅子から飛びあがった。
 どうしているの。驚き過ぎて、心臓がバクバク震えてる。
「ど、どうしているんですかっ、ノックしたら、答えてください」
「あー、つい本に夢中で、ごめん、ごめん」
 本の背表紙をぽん、ぽんと片手で撫でながら、宮先輩は笑ってる。何故かこんにちは、と言われて、仕方なく挨拶を返した。

「池田さん、もう授業終わりなの」
「いえ、五時限目があります」
「じゃ、空いているんだ。空き時間だから来た。違う?」
「はぁ」何が言いたいんだろう。
「暇だよね」
「はぁ、まあ」
 返事をすると、宮先輩は嬉しそうに笑って言った。
「池田さん、話をしよう」
「えっ、あっ……何を?」
 しまった、いつの間にか、ここから出られない雰囲気になっていた。
 嫌だなあ。誰か来たら本当に嫌。それでなくとも二年の先輩達からは頻繁に探りが入って、その度にあり得ないですから、と返していた。面倒はごめんなのに。
「いやだ?」
 淋しそうな顔になった先輩を見て、わたしは困る。そういうのに弱くて、なかなか振りほどけない自分がいた。そして、何を話していいかは分からない。
「……何か聞きたいことでも、あるんですか?」
「あるよ。知りたいことだらけだし」
 わたしを知って、何になるの。ああ、地味な女の生態とか、なの。
「今日は多分、もう誰も来ないんじゃないかな。五時限目あるひとってなかなかいないし、みんなさっき、動物園行くってぞろぞろ出てったし」
「先輩は、行かなかったんですか」行ったら良かったのに。
「僕は弓道部あるから。本も読みたかったし」
 宮先輩は、強い視線でわたしを見てくる。

 まあ、いっか。誰か来たら、逃げたらいい。はぁ、と小さくため息をついた。
 何を話したらいいの。いつも言葉に詰まるし、わたしは自分から、話題を振れるスキルもない。

 手持ち無沙汰になって、整理でもしようかなと、雑然としていた小さなダンボールの箱へ手を伸ばした。
 サークルの人たちが置いていった物を、一時保管するための箱だけれど、大抵のものは要らないんだよね。そう思ったわたしは、無造作により分け始めた。

「うわ、これ、なんだ?ビックリマンシール、だって」
「いりませんね」
 いつの間にか宮先輩も参加してきていて、より分けるのを手伝ってくれていた。別にいいのに。
「池田さんにあげる」
「いりません」
 差し出してきたシールの束を、燃えるゴミにぽい、と入れた。
「プレゼント、だったんだけど」
「そうですか」
 いつの間にか話すことより、ゴミをより分けるのに夢中になって、生返事をしていた。
「池田さんは、どんなものなら欲しいかな」
「欲しい?」
「いや、なんでもいいんだけど」
「難しい質問ですよね」
「そうかな」
「別に、ありませんね。欲しいものなんて」そんなことを聞いて、どうするんだろう。
「サンタさんに、頼みたいものとか」
「サンタさんって……」顔を上げると、宮先輩は嬉しそうに笑った。
「あれ、神社には来ないと思っているんだ。来るよ。袴、履いているけど」

 そう言われて、神社の神主さんがスキップして、赤い帽子被って白い袋を持っている姿がぽん、と浮かんじゃった。
 ちょっとおかしくって、吹き出す。変なの、そんなことを思うなんて。

「くれるのはお守りだけどね」嬉しそうに宮先輩は言う。
「お札、じゃないんですか?」おかしくって、吹き出しながら突っ込んだ。
「お札じゃないんだ。ほら、お守りの方が安いから」
「合格祈願のは、もう要らないですよ?」
「うーん、じゃ、安産祈願はどうだっ」
「妊婦さんにあげてください、妊婦さんに」
「絵馬もあるよ、お嬢さん」
「ここに変な人がいます。変な人が」
 声を上げて宮先輩は笑った。とても嬉しそうに。

「いいんですか?そんなに神社を茶化して」
「いいんだ、堅っ苦しくて、とっつきにくいって思われて、興味持たれないよりは」
 満足そうに宮先輩は笑った。わたしもつられて笑顔になる。
「神社って、八百万の神様を祀ってるけれど、別に他宗教を否定していないから。まあ、本当にサンタさんが来ることはないけれど。
 代わりに近くの教会の神父様は、たまに見えられて、うちの宮司と立ち話してくことはあるよ」
「ええっ、凄いですね、その様子見てみたい……何を話すんですか?」
「何か聞いていたら普通だった。どこのコーヒー屋が美味いとか、敷地内の掃除って大変だよって話で盛り上がっている。宗教家だけど、まあ普通の人間だから」
「そうですか、初めて知りました」
 宮先輩の話はいつでも面白くて、話が上手だった。するすると、こちらが興味ありそうな話が出てくる。いつの間にか、和んでいる自分がいた。

「いつも、そんな感じで、笑っていたらいいのに」優しい声と、優しい目で見られていた。

 途端に、笑っていた自分を恥じる、許せないと思う感情が、湧き上がる。
 そうだわたしは、それを許されていなかった。宮先輩の顔は、見ることが出来ず目を伏せた。

 また無言になり、ゴミの仕分けにかかった。要るもの、要らないもの、無造作に寄り分けていく。
 宮先輩が惑っている様子は分かったけれど、何を話していいかなんて、分からなかった。


「あぁ、これ、花火だ。去年よくやっていたから、その残りかな」
 宮先輩は箱の底から、使いかけの花火セットを出してきた。
「燃えるゴミで、いいんですかね。花火って」
「いや、まずいんじゃないかな。火花とか散って、収集車が燃えたら困るし。やっちゃうのが一番じゃない?」
「はぁ、じゃあ、も一回、戻しておきましょう。そのうち人数が居るときに、一本ずつどっかの公園でやればいいですよね」
 無造作に戻そうとしたら、さっと取り上げられた。
「池田さん、花火しよう」
「どうぞ、バケツはあそこです」
 書架の一番下にある、雨漏り用の百均で買った、小さなバケツを指差した。
「これだけなら、やっちゃおう。そうしたらこの箱もすっきりする」
「先輩ひとりでどうぞ」
「僕一人でやっていたらおまわりさんに職質されるけど、池田さんと一緒なら、女の子と遊んでるんだな、って思われるだけだから、やろう」
「五時限目、始まりますから」
「まだ一時間ある」
「えぇっ」
 諦めないなぁ、いつになくしつこい。いつもはあっさりしてる感じなのに、今日はなんなんだ。

「池田さん、行こう」
 まあ、いいか。花火は十本位だから、あっという間に終わるよね。
「じゃ、水を汲んできますね」
「やる?」
「やめます?」
「行こう!」
 がたっ、といきなり椅子を鳴らして、宮先輩は立ち上がった。


 バケツに水を入れて、花火とマッチと灰皿、ろうそくなどをマイバックに入れて、大学の敷地を出た。
 出るまでのキャンパス内でやっぱりあちこちから視線を感じて、居た堪れない。
 止めたらよかった。こんな目立つ人と、歩くなんて。
 宮先輩が持っているバケツの水はちゃぷちゃぷ音をたてて、それを黙って聞いて歩いた。

 遅い午後、キャンパスの中は静かに晴れていて、ひかりは金色に見えた。


 学校の近くの公園は、結構車通りが多くて歩道橋に隠れるようにある、建物に囲まれた小さなスペースだった。薄暗くて、建物の間から金色の光は公園に一筋入ってきていた。
「えーい」
 いきなりバケツを振り子のように振ったかと思うと、宮先輩はバケツをぐるりと一回転させた。
 いきなり何を始めたのだろう。ま、いい、しゃがんで、花火や、灰皿などをマイバックから出し始める。
「池田さんの上で、止めてみようかな」
 ぐるぐるバケツを回しながら、宮先輩は少しずつ近づいてきて、意地悪に笑ってる。
「出来るならどうぞ」言いながら、ため息が出た。
「そこは、キャーとか言って、逃げる所じゃない」
「早く終わらせて、帰りましょう」
 途端にバケツを回すのを止めて、宮先輩はわたしの傍へしゃがんだ。
「池田さんは、何が楽しい?」
「分かりません」
「いっつも硬い顔して、何か考えてるけど、何考えてるの?」
 わたしは宮先輩を見た。淋しそうな表情でこちらを伺っている距離は、思っていたより近かった。どうしてそんなことを言い出すのだろう。

「それは、一言では言えないんです。それしか言えません。ごめんなさい」
 少しだけ微笑んで、そう言った。淋しそうな彼の顔を、これ以上曇らせたくなくて。
 それがわたしに出来る、精一杯だった。

「火、付けますね」
 マッチに火を着けようとしたら、貸してと言われ取られて、宮先輩はろうそくに火をつけると、ろうを垂らしてろうそくを立てた。
 微かに風はあるらしく、付けても付けてもろうそくは揺らめいて、消えた。
「いいとこまでいくんだけれど。池田さん、もうちょっと寄って」
 風上と思われる方に、半歩位ずれた先輩は手招きして促した。
 わたしも先輩の傍に寄った。火はなかなか付かず、何度やってもあと少しで、というところで消えてしまう。どうして消えちゃうの、あと少しなのに。
「こう、壁のようになったら、消えないと思うんだ」
 掌で火を囲むようにしていたわたしに、宮先輩はわたしたちの間の空いているスペースを詰めるように、手招きしてきた。
 わたしは何も考えず、先輩の本当に傍まで寄った。
「もうちょっと、なんだけど」先輩はずい、と身体を、ピッタリと壁になるようにくっつけてきた。
 腕と、腕が触れ合って、じんわりとひとの暖かさはこちらに伝わってきた。
 なんで、くっついてるのかな。ぼんやりとそんなことを思った。

 でも嫌じゃない。いやじゃ、ない。

「ついた!」素早く先輩は、花火に火を付けた。
 その言葉に弾かれたように顔を上げると、凄く近くの距離で先輩は、晴れやかにこちらを見て笑っていた。
 ばちばちと火花を散らし、花火のひかりで、辺りは明るくなって。

 すごく嬉しそうで、邪気のない、瞳が輝いた、笑顔。

 ああ、そんな顔、見なければよかった。そう、静かに、思った。


 花火は、あっという間に終わった。二人で火を次いでいけば、赤や緑の火花がパチパチと散った手持ち花火は、とても鮮やかなのに儚げだった。

「池田さん、喉乾かない?」辺りに煙が残っている公園のベンチにわたしを促して、先輩は自販機でよければ奢るよ、と言った。
「じゃあ、あったかい紅茶でも」一緒に立ち上がりかけたら、買ってくる、と先輩は公園を出て行った。

 建物に囲まれた、薄暗い公園から見える小さな空は、薄い水色で、高いところに小さく月が出ていた。

 さっきのは、なんだったのだろう。
 甘い、くすぐったいような、何か。

 でもそのことを考えるのは止めよう。

 車が通る音が響く中で、ただ空を見上げる。

 なにかあった、こころの中の気持ちを、考えなくてもいいように、埋めていく。
 向き合わなければならないものが沢山で、そこまで気持ちは、回らなかった。
 だから、埋めていく。静かに。


 急ぎ足で宮先輩は、戻ってきた。
「はい、熱いから、気をつけて」
「ありがとうございます、おいくらですか?」
 暖かい缶を受け取り財布を開きかけたら、手で止められた。
「いいんだ、おごりって言ったから」
「……じゃ、ご馳走さまです」
「それでよかった?」宮先輩はわたしの傍に、腰を下ろした。
「はい、一番好きなのです」
 赤い色の紅茶の缶のプルトップを開けて、一口飲んだ。甘い茶葉の味が口に広がる。
「それ、好きなんだ」
「缶の飲み物では、好きですよ」何故そんな事を、聞くんだろう。

「せんぱーい!」
 公園の外では、香澄が手をブンブン振って、笑顔で立ち止まっていた。
 先輩も片手を上げて応える。香澄はあっという間に、こちらにやってきた。
「せんぱーい、朱里となに、やってたんですかぁ」
 こんにちは、と挨拶した先輩に構わず、香澄は小首を傾げて言った。
「部室の整理をしていたら、花火があって、古いからやっちゃおうって話になって、やり終わったところ」先輩はちょっと笑って言った。
「そんな、お茶なんか飲んじゃって。いいなぁ、わたしも一緒に飲みたかった」
 プンプンと言った感じで、香澄は怒ってる。先輩は少し笑って息を吐くと、バケツを持って立ち上がった。

「池田さんも、行こう」奢るから、と言って喜んだ香澄と先輩は、先に公園を出た。
 ゆっくりと缶の紅茶を持って、立ち上がる。紅茶はじんわりと暖かさがまだ残っていた。

第六夜

 がたがたっ、と天井から音が響いた。

 なんだろう、ちょっと気味の悪い音。

 部屋の中は、土曜で暖房は入っていないからか、ひんやりした冷気が漂っていた。

 パシッ、と一瞬、音が鳴って静かになった。鋭い音。

 あの日、宮先輩の弓道を見に行った時に、聞いたような音。

 その姿は、今も目に焼き付いて離れない。手放したい記憶なのに。



 あの、花火の日から少し後、一時限目が終わって、三時限目まで、空き時間が出来た。
 一緒の講義を受けていた亜依と香澄と、三人でお茶を飲もうとして、カフェテリアがある建物に入って行くと、自販機のコーナーで紋付袴の宮先輩が、自販機にお金を入れているところだった。
「せんぱーい、どうしたんですかぁ。めっちゃかっこいい!」
 近づきたくないのに、香澄は、宮先輩のところへ行ってしまった。
「亜依、わたし、ちょっと生協に行ってくるね」
 こっそり先輩達に背を向けて、亜依に言った。
「ええっ、私を一人にしないで」
「じゃ、一緒に行こ」
「香澄、どうするの」
「会話に、入っていったら悪いし、先に行こ」
 わたしは、先輩と顔を合わせたくなくて、早口になった。

 少し振り返ると、宮先輩はこちらに気がついていたようで、ペットボトルを片手に近づいて来ていた。
 ああ、見つかっちゃった。あんまり会いたくなかったな。

「こんにちは」
 先輩は笑顔で私たちに言った。わたしたちも挨拶する。
「池田さん、元気だった」
 まただ、何故名指しで質問してくるの。
 あの花火の日から、宮先輩とは二度会った。そして会う度に何かしら、沢山の疑問を投げかけてくるようになった。
 いつも一緒の亜衣や、他の人の目があるから、やめて欲しい。でもそんなことは、自惚れだと言われたらそれまでだ。
「まあまあ、です」
 しぶしぶ、仕方がなく答える。どうでもいいと思うけど、わたしの事なんて。
 香澄は、わたしは、元気ですよぅ、って割って入って来ていたけど。

 戸惑っていると、宮先輩は奇妙なことを言い出した。
「今、学園祭でやる、射礼の練習を澤田に見てもらって、やっているけど、もし良かったら見に来て」
「なんですかぁ、射礼って」
 先輩は弓道の儀式とか、お祝いでやる正式な弓道、そんなことを説明してくれた。
「今年の学園祭の演武として、やって欲しいって言われて、久しぶりだから練習中なんだ」
 先輩は少し笑いながら、わたしの目を見て言った。どうして見られてるのだろう。困って目を逸らした。
「行きま〜す。見たい、見たいでーす」
 香澄は、可愛らしい仕草で、はい、はい、と片手を上げている。
「池田さんも、来て。見てくれるひとが多ければ多いほど、緊張感が出ていいから」
 わたしも……なの。
 戸惑っていると先輩は、亜依にも同じように誘っていた。
「へぇ、とっても面白そう」ああ、亜依も乗り気になっちゃった。
「池田さんも、おいで」
「いえ、あの」
「行こうよ、朱里」なんでか亜依は、めちゃめちゃ乗り気だ。
「いえ、でも」
 上手い断りの言葉は、見つからない。こういう時、わたしはダメダメだ。

 行かないといけないような雰囲気に負けたわたしは、しぶしぶ頷いた。


「先輩凄いですよねぇ、そんなスペシャルっぽいのに選ばれて。射礼って難しいんですかぁ」
「いや、別にスペシャルじゃないし」
 先輩と、香澄が談笑しながら歩いている後を、亜依と一緒について行った。
 生協に行く、って言えばよかったんだよね。はあ、とため息が出る。
 その場で言葉がすんなり出てこない自分は、とても恨めしい。
「朱里、宮先輩のこと、苦手なの」
 スタスタと進む、宮先輩と香澄と結構、距離は開いて、ゆっくり歩いていたところを、亜依に聞かれた。
 なんで、いきなり。そんな嫌がっているように、見えたのかな。
「苦手、っていうかまあ、あんまり、関わりあいたくないかもね、遊んでそうだし」
「そうかなぁ、結構、真面目じゃない。考えかたとかも」
 最近質問攻めされているのが、負担になってきている、なんて言いたくなかった。自惚れかもしれないし。
 でも、亜依が宮先輩のことを、そんな風に思っていたなんて、知らなかった。
「結構真面目って、亜依は思ってるんだ」
「うーん、なんとなくかな。遊んでるなら、香澄は今頃宮先輩と付き合ってるはずだし。それか、付き合ってもう終わっているか。いつも違う人と話しているから、遊んでるなんて、言われてそう」
 その亜依の言葉に黙った。そうかもしれない。
 人当たりはいいけれど、宮先輩にはどこか踏み込ませない、と決めている部分が見えた。それは不思議な力に関する部分が、主だったと思う。
 あんなに目立つ外見なのに、人当たりは丁寧だから、誤解されやすいのかもしれなかった。
「ま、豪くんが言ってたことなんだけど……」
「なんだぁ、そうなんだ。のろけかぁ」
 ポッ、と赤くなった亜依をからかう。仲が良くって、羨ましいね。
 恋には無縁のわたしは、亜依の幸せそうな姿を見るのは、嬉しかった。
 幸せを、少しおすそ分けしてもらったような気分。それで充分だ。
「私はいいの。朱里は宮先輩のこと、もうちょっと、考えてみてもいいんじゃないの?関わりあいたくないとか、言わないでさあ」
 わたしはまた黙った。どういう意味、そう聞いて面倒な答えが返ってきたら、困る。
「考えたく、ないな」
「考えたく、ない、って」
 道の向こうでは、宮先輩と香澄が待っていた。亜依の顔は、見られなかった。
「急ご、待ってるみたいだから」
 急ぎ足で、先輩達のところへ、向かって歩いていく。
 亜依が後ろで、戸惑っているのがわかる。でも、考えたくなかった。そんなことは。

 同じ大学なのに、弓道場がどこにあるのかも、知らなかった。
 会館の一番上の階に、立派な1枚板の弓道部の看板が掲げられた入り口があって、板間の美しい道場が見えた。
「真吾、何よ、その子達」
 入る前に弓道場の中から冷たい視線で見てくる、綺麗なお姉さん、としか言いようのないひとは、厳しい声を投げ掛けてきた。
「怜、来てたんだ」
 その人の側で、澤田先輩が片手でゴメン、というように宮先輩に合図している。
 宮先輩は一礼すると、弓道場の中へ入っていって、その人に歩み寄っていった。
「部外者は、あまり立ち入ってもらいたくないわ」
 怜と呼ばれたその人は、つっけんどんに言った。
「射礼、見てもらおうと思って、頼んで来てもらったんだ」
 宮先輩は穏やかだけど、緊張したような声色で話した。わたしたちは、顔を見合わせる。
「私か、澤田くんでいいでしょう。何の為なの」
「当日は、一般のお客さんが沢山入るんだ、弓道を知らないひとに見られる緊張感も持たないと」
「そう、なら、いいわ。ちゃんと目的があるのなら。いいところ見せたいだけなら、反対したわ」
 そう言って何故かそのひとは、わたしを見た。こちらを見下すようなその視線に、ここに来たことを後悔して、帰りたくなった。
「揉めててごめん、どうぞ入って」宮先輩は私達を呼んだ。
 香澄は面白くなさそうな顔をして入っていって、わたしたちもそれに続いた。入り口で頭を下げると、怜と呼ばれたそのひとは、意外そうな顔をした。

 初めて入った弓道場は、右手を見ると屋上庭園のように、外へ向け吹き抜けになっていて、外に出ている部分には、緑のネットが貼ってあった。その奥に美しく、整然と土の壁があり、そこに的が置いてある。
 弓道場のほの暗さと、外から入ってくる、晩秋の柔らかい日の光が、しん、とした静謐さを生み出していて、わたしはそれをただ、見ていた。

「ここら辺に座って」
 宮先輩に促され、神棚の下あたりに座ったけれど、落ち着かない。
「あ、あの、出来れば、別の場所がいいんですけど……」
 嫌だけど、去ろうとした宮先輩に急いで言った。
 ちらり、と神棚を見ると、ああ、と言った宮先輩は、慌てたように別の場所へ案内してくれた。
「朱里ぃ、わたし、あっちがよかったんだけど」香澄は小声で、不満そう。
「うん、でも、神様に背を向けて座るって、ちょっと嫌だったのね、ゴメンね」
 確かにあっちの方は、宮先輩を見やすいよね、そうだよね。後悔が募る。

 わたしの家では、今時珍しく神棚があり、小さい頃から母に厳しく教えられた。
 躾の一環でも、行われていたんだと思う。挨拶や所作、考え方まで。
 嫌だな、と思ったこともあるし、母の言うことは何でも反発していた時期には面倒だ、と思うこともあった。
 でもこうやって、いざ何かをしよう、とすると、色々な行動の基準は、母に教えられたことだ。
 それがいいことなのか、いけないことなのか、分からないことも多かった。

 人によって、価値基準は違う。強く出られると、自分は揺らいだ。

 本当にいいことなのか、それとも、いけないことなのか。

 それを掴み取る、地道な作業を、わたしはし続けている。
 途方もなく、長い、失敗が多い、地道なこと。
 失敗して、失敗して、自分が恥ずかしくて、疲れ果てて、投げ出したくなる。

 全てを。

「じゃあ、一度やってみて」
 怜と呼ばれたその人は、柔らかそうな皮の手袋を嵌めた宮先輩を手で促して、わたしの隣にやって来て、座った。
 いつの間にか緊張感が漂って、みんな自然と無口になった。なんでこの人隣に座ってるのだろう。
 やっぱり、生協に行くからって、断ればよかったな。
 なんで、こんな目に遭っているのだろう。自然に俯きがちになる。

「始めます、よろしくお願いします」何時もとは違う、宮先輩の涼やかな声が、入り口から響く。

 弓と矢をそれぞれの手に持ち、腰骨に弓矢を携えた宮先輩が、弓道場の入り口から数歩進み、柔らかく一礼した。

 流れるような足捌きで進んでくると、一度止まって美しく背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと腰を落とし、またまるで真摯さを差し出すかのように、一礼した。

 そのまま、弓を立て、左手で矢と共に持つと、右腕を袂からするりと抜いて、胸元から片腕を着物の外に出した。

 肩に、大きめな、赤いケロイドの痕が、目に飛び込んできて。

 ただ、ああ、痛そう、って思った。


 宮先輩の弓道は、真剣で、ただただ真摯で、張り詰めた空気の中を切り裂いて行く弦音は、耳に残った。

 美しい、堂々とした舞を見ているようだった。
 ぎり、と引き絞られていく弦の音と、的に当たる音だけが繰り返されて。

 的を見ている、その横顔は、遠い遙か彼方を見つめているようで。

 肩にあるそんな痕なんて、吹き飛ばす位、惹きつけられて。

 やっぱり、来なければ、よかった。そう、思った。

 まるで儀式のような、射礼が終わって、宮先輩が弓道場を出た後、隣に座っていた怜、と呼ばれたその人は、わたしにいきなりこう言った。

「私、真吾の従姉弟なの。だから気にしてはダメよ」
「……あの」
「意味、分からなくていいわ。あなた、名前は」
「い、池田です」
「池田さん、本番の日も来てくれない」
「えっ」
「本番の日よ。来週の日曜日の一時からなの。空いてるかしら」
「あの、その日は父が出張で会いに来るので、無理なんです。ごめんなさい」
 出張の度に、父はわたしのアパートへやってくる。こころ優しい父は、わたしの気持ちをいつも汲み取るように、寂しくないようにと、会いにきてくれる。
 何を話すわけではなく、ただ一緒にアパートでお茶を飲んで、お土産のお菓子を広げて、それだけなのだけど。
「お父様も一緒にいらしたら。大学見て頂いたら、いいじゃない」
 怜と呼ばれたその人は、諦めなかった。なんでなの。
 従姉弟って言ってたけど、納得した。自分のペースに巻き込みたがるこの感じ、確かに宮先輩とそっくりだった。
「忙しい中、来てくれて、会える時間も少しなので、ごめんなさい」
 わたしは、その人の目を見れず、頭を下げた。
「どうしても、駄目かしら」
「……多分。ごめんなさい」もう、諦めて、お願いします。
「そう、残念だわ。真吾っ」
 もう一度弓道場に戻って来ていた宮先輩を、隣の人は呼んだ。凄く嫌そうな顔をして、宮先輩はわたしたちに近づいてきた。
「何」
「どうしていつも、今みたいに出来ないのよ。いつもサボってるのかしら。ちゃんとやりなさい。それとも見られていないと駄目なの?」
 叱られて面白くない、子どものような表情の宮先輩は、チラリとわたしを見た。
「……たまたま調子良かっただけだよ。それだけっ」
「拗ねないの、ちゃんとやるのよ、本番も」
「分かってるって」
 聞いていて、ハラハラする会話だけど、二人は平気そうだった。もしかしたら、いつもこんな感じで居るのかもしれない。仲のいい兄弟のように。

 ひょっとして、それ以上の気持ちも、あったりして。

 そう思うと、少しだけ胸がチクリと痛んだ。

 何故、痛むんだろう。

 でも、それは、考えてはいけないこと。
 わたしには、ゆるされて、いない。ゆるされては、いないの。
 こころが、とまる。ううん、とめた。

「何だかごめん、濃い人が居たから、ちょっと疲れたよね?」
 宮先輩は会館の外まで、わたし達を見送りに出てくれた。
 怜、と呼ばれたその人は、みっちりこれから特訓するから、あなた達は帰って。と強烈に言い放って、私たちはまごつきながら外へ出た。
「全然大丈夫です〜先輩めちゃかっこよかったし。すっっっごい、カッコよかったです」
「……ありがとう」
 宮先輩は苦笑して、はあ、と息を吐いた後、わたしを見た。
「池田さん、怜の言ってたこと、気にしなくっていいから。あいつ、いつも思い付きで喋るから、意味分からなかったよね」
 真剣な目になった先輩は、強い口調で話し掛けてきていた。
「……分かったような、分からないような、ですけど」
「本当、気にしないでいて」
 そんなに必死になって、何故言われているのか、それが一番分からない。
 どんな返事をしていいか分からなくて、わたしは下を向いて黙った。

「そういえば、先輩、肩は大丈夫なんですかぁ」香澄は無邪気に聞く。
 それは、触れて良いものなのかな。そんなのお構いなしに聞いているけど。
「ああ、小さい頃に負った傷だから、今は痕が残ってるけど、別に痛んだりはしないし」
 宮先輩は笑った。あの新歓コンパの日に悪意を向けられた、その時のように。

 何か、大きい傷なんだ。
 こころを、抉り取られるような。

「今日は、ありがとうございました。行こう」
「あ、えっ、朱里、ちょっと」
 喚く香澄を促して、押すようにして、宮先輩に会釈した。
「そうそう、先輩、練習あるっていってたしね。ありがとうございました」亜衣も同調してくれて、頭を下げた。
「あ、ああ。じゃ、また」
 先輩はちょっとぼんやりして、急いで片手を上げた。
 ま、まだ話があるのに、ってプンプンする香澄を押しやるように進んで、少し後ろを振り返ると、紋付袴の先輩は、まだそこに佇んでいた。


「朱里、元気だったか」
「うん」
 次の週の日曜日、父はわたしのアパートへやって来た。お土産のお菓子を持って。
「何時も同じ菓子で、悪いなぁ」
 穏やかに笑いながら、父は紙袋をくれた。わたしは頭を振る。
「座って、お父さん」
 マグカップにコーヒーの粉を入れて、お湯を注いだ。スプーンでかき混ぜて、座布団の上に座った父の前に、マグカップを置いた。
「ありがとうな」父は、黙ってコーヒーを飲んだ。

「お菓子、開けるね」
「ああ」
 包装紙をバリバリと破って、畳んで、ゴミ箱に捨てた。
 本当に何を、話す訳でもない、お菓子を開けて、お茶を飲んで。

「今日、帰るの」
「そうだなぁ、明日も病院だしな」
「そっか、忙しいもんね」
 忙しい父は、それでも何とか時間を作って会いに来てくれている。分かっている。
 でも、もう少し一緒に、居たかった。

 何も話さないのだけれど。

「朱里、お稲荷さんに行くことって、あるかい」
 父は、いきなりそんなことを言い出した。
「お稲荷さん……」
 父の顔を見ると、何時も穏やかな父は、珍しく真剣な、切迫詰まった表情をしていた。
 近所にお稲荷さんは、あるのかな、分からない。
「ああ、小さな、本当に小さなお社みたいだけど。あるかい」
「……心当たりは、ないよ」
「そうか、なら、いいんだ」
 それから、父は黙った。コーヒーを飲みながら。

「おばさんにも、よろしく言っておいてくれ」わたしは頷く。
 駅前のバス乗り場まででいい、と言った父を見送りに出た。雑踏のなかで、父は笑ってる。
 バスプールに羽田行きのバスがやって来た。
「また、来るから」
 バス乗り場の列に並びながら、話す。
「うん、気をつけてね」乗り込んでいく父に手を振った。

 淋しい、そんな想いが浮かんだけど、静かに、消した。

第七夜

「やっぱり、年賀状にしようかなー」
「でも、二十日頃から来てください、って書いてある」亜依はページを指差す。
「あ、本当だ、駄目じゃん。はぁ、年末年始だけのバイトって、なかなかないね」
 ざわついたカフェテリアで、お昼ご飯を終えた後、わたしはアルバイト情報誌をテーブルに広げていた。
 亜依は、肘をつきながら一緒にぼんやりと眺めてくれている。

 年末年始、実家に帰りたくないわたしは、短い冬休みに何かアルバイトを入れることを考えていた。夏は休みが長かったから探しやすかったのだけど、冬は全部で十二日間しかない。
 かつ、大晦日、元旦に忙しいアルバイトがよかった。父に伝えるときにそういうことだから、と言いやすかった。それでも、落胆した声は聞くことになるだろうけれど。

「いいけれど、朱里、実家には帰らないの」
 亜依は年末年始、加地先輩と仲良く過ごすらしい。
「うーん、今のうちに色々なアルバイトしてみたいかなって。年末年始でしかできないこともあるじゃない」
 苦しいかな、この言い訳。でも本当のことは言えない。
「ふーん、でもそんな良いバイトなさそうだよ」
 円テーブルの横の辺りに座った亜依は、わたしからアルバイト情報誌を奪って、ぱらぱらめくりだした。
「そうなんだよねーないんだよー」わたしは頬杖をつく。

「あるわよ」後ろからいきなり声が降って来た。
 振り返ると、無表情でサンドイッチと紅茶のセットをお盆に載せた、宮先輩の従姉弟の怜さんが立っていた。
「年末年始だけで、大学の休み中だけのアルバイト、しかも年末年始ならでは、よ」
 わたしたちは顔を見合わせる。
「あの、それって……」
 遠慮がちに尋ねる。怜さんは、人を知らず知らずのうちに威圧するような雰囲気がして、ついそんな言い方になった。
「うちの神社、今、お正月だけの助勤巫女を募集しているの。まあ、お正月だけの巫女のアルバイトよね、あなたやってみない?ハードだけど時給はいいわよ」

 わたしたちはもう一度顔を見合わせた。


「はい、池田朱里さん、ね」
「はい、よろしくお願いします」

 宮先輩の従姉弟の怜さんは、わたしが頷くか頷かないかのうちに、自分の家にその場で電話して、面接の約束を取り付けてしまった。
 慌てたけれど、時給の良さと働く日数が条件に当てはまって、まあそれもいいかと思い直した。巫女さんなんてやったことはないけれど、怜さんに聞くと、お札やお守りの販売の仕事が主になるらしい。それなら何とかなりそうだ。

 面接は次の日の土曜日、神社の社務所で午後に、と言われ、履歴書を持ってわたしはここまでやってきた。
 途中入り組んだ路地に入って迷い、道端に縁台を出して座っていたおばあさんに丁寧に教えて貰い、やっと辿り着いた神社は、緑が多くて静かなこころが落ち着く場所だった。
 社務所は、ふつうの会社の事務所のように見えた。わたしは神社の一番偉い宮司の渡辺さんに、部屋の奥にある応接セットに通されて。
 入口のある壁は、上半分がガラス張りになっていて、お参りするひとの様子がここからでも見える。

「怜の紹介なんだよね。あれ、そうか大学が一緒か。はじめまして、怜の父です。あいつ迷惑かけているでしょ」
 にこにこした宮司さんは、わたしの履歴書をなぞりながら言った。
「いえ、あの、アルバイトに誘ってくださって、有難く思っています」
「いいんだよーそんな遠慮しなくても。あいつ傍若無人だからね。言い方キツイ娘だから、親は頭を下げっぱなしだよ」
 わははと宮司さんは笑った。何て返していいのか分からなくて、わたしは困る。こんな時に気のいい返しは出来ない。
「池田さんは、髪の毛を染める予定はあるかな」
 なにかを履歴書に書き込みながら、宮司さんは聞いてくる。
「いえ、ないです」
「即答だね、今時の子なら、染めたくならない」
「……染めたいと思ったことが、ないんです」
「そう。なるほどね」

「池田さんは神社についてどう思っている?」
「神様がいらっしゃる、ところとしか」簡単なのに難しい質問だった。
「なるほど、ね」
 宮司さんは笑ってるのに、緊張感がある雰囲気で段々いたたまれなくなってきた。
「さっき、ここに来る前に、お参りしてくれていたのが見えたけれど、どうして行こうと思ったの」
「えっ、あ、あの、そうした方がいいかなって、あの、すみません」
 思いがけない質問に、わたしは頭を下げた。動揺して何を話しているか分からない。わたしはダメダメだ。
「なんで謝るんだい、面接に来る女の子は沢山いるけれど、ちゃんとお参りしてから来てくれる子は少ないんだよ。池田さんはちゃんとしてくれたんだから、ね」
 顔を上げると、宮司さんは穏やかな顔で笑っていた。
「は、はい」

 いきなりバターンと事務所のドアが開いて、慌てた顔をした宮先輩がそこには立っていた。
 なんで、いるの。そんな疑問が頭を渦巻く。
「真吾、なにやっているんだっ、ドア壊れたら給料から引くぞ!」
「池田さんがいる」何故かそう呟かれた。
「人の話聞けよ。ごめんね、五月蝿くて」
 宮司さんは、わたしの方を見て困ったように笑った。びっくりしすぎて、何も返事をすることは出来ない。
 ずかずかと入り込んできた宮先輩は、迷ったように応接セットの宮司さんの隣と、わたしの隣を何往復か見た後、ドサッと音を立ててわたしの隣に座った。
「真吾、面接中なんだけれどな」
 うんざりといった感じで、宮司さんは宮先輩を睨んでる。
「なんで、居るの」
 その日も、雑誌から抜け出てきたような宮先輩にじっくりと見られて、わたしは固まって返事が出来ない。
「お前こそ、どうしているんだ」
 宮司さんは、冷たい目線を宮先輩に向けているけれど、先輩は、お構いなしにわたしを見てくる。
「あ、の、先輩の従姉弟さんに、お正月のバイトさ、誘われて」言葉は、つっかえた。
「怜かー!」
 はぁーーと大きい息を吐いて、先輩は頭を抱えて項垂れた。そのまま動かない。
「君たち、知り合い」
 向かい側に座ってる宮司さんが、ため息をつきながら聞いてきた。
「はぁ、サークルが一緒ですけれど……」
「サークルねぇ………サークル……サークルって……ん、もしかして、日本文学のやつ?」なにかを閃いたように宮司さんは言った。
 途端に先輩がぎっ、と宮司さんを見て、余計な事は言うな、と叫んで睨み続けている。
「あーそう、そうだったのかーい。そりゃ、怜が紹介してくる訳だなぁー。ほーん、そうか、そりゃそりゃ」
 何故かニヤニヤしだした宮司さんは、持っていたペンで履歴書の隅にマルを描いた。
「はい、じゃ、池田さん。お正月の助勤巫女、お願いしますね。面接終わり!」

 よくわからないうちに採用になっていた。


 宮司さんから、アルバイトの説明会の案内を書いた紙を貰って、簡単に仕事の内容について教わって帰ろうとしたら、宮先輩はわたしを呼び止めた。
「池田さん、送るよ」
「真吾くん、君、夕拝あるよね」宮司さんがニヤニヤしながら先輩に聞いていて。
「行こう、池田さん」
「あの、いいんですか、用事とか……」
 戸惑いながら言うと先輩はいいから、いいからとわたしを扉の方へ追い立てるようにしてきた。
「じゃ、池田さん、よろしくお願いしますね」ニヤニヤした宮司さんは手を挙げた。
「あ、はい、今日は失礼します」扉まで来てわたしは頭を下げた。
「真吾くーん、遅くなったら、給料取り上げだからね」
「駅まで送るだけだって」
 先輩は怒ったように言って、まごついてるわたしを事務所から上手く出してしまった。


 どうして一緒に歩いているんだろう。砂利のざく、ざく、という音が響いている中、わたしと先輩は並んで神社の参道の端を歩いていた。
 遅い午後、参道の両脇に並ぶ木々は、もう日の光も当たらず黒々としていた。
 その向こうで傾いてきた日差しは、柔らかいとろりと濃い色で、その対比を美しく思う。都心とは思えないほど静かで、こころはすう、と凪になる。
「あの、いいですよ、ここまでで。お給料取り上げられる、って宮司さんは言ってたし、用事もあるんじゃ」
「いいんだ。別に神社の仕事して貰っているわけじゃないし。………まあ神社の仕事の一環だけど、別に大した額じゃない。夕拝はあと一時間後位だから駅まで送る」
 まるで決定事項のように言われて、わたしはそっ、とため息を吐く。要らないな、そういうの。
「あの、今日はアルバイトとか、ですか」
 迷ってやめようかと思ったけど、やっぱり聞いてみる。
「どういう意味?」
「え、と、神社に来ていたし、それにお給料って言っていたので、従姉弟さんの所でバイトしているのかと」
「ああ、そういうこと。違うよ、修行の為に預けられていて中学生から僕はあそこに住んでいたんだ。今は大学に行っているから、ちょっと一人暮らしもしてみたくてここの傍に部屋を借りているけれど。でも神社の仕事は手伝っているから、ほとんどまだあそこに暮らしているようなものかも」
「え、ええっ、あ、そうですか……」
 どうしよう、そうだったんだ。そういえば聞いたことがあった。都心にある神社の跡取りだ、って。
 きっとここがそうなのだろう。神道学科は圧倒的に男子の方が多い。
 神社の跡取りは男子がなる、という決まりでもあるかのように。

 ちょっと考えなしだった。ここでバイトするなんて、宮先輩に会う確率が高くなる。
 でも大学内じゃないから、そこまで周りを気にしなくてもいいのかも。

「しかし、正月のバイト良くやる気になったね。あれ、めちゃめちゃ寒くてハードなのにさ」
「寒いんですか?」宮先輩は立ち止まった。
「寒いってものじゃないよ。さっき見たと思うけれど、お守りとかの授け所のところ、外だから。しかも真夜中がピークで参拝の方はいらっしゃるから、その時間帯に入ったら、芯から冷えてカッチカチの冷凍品になるね。また巫女さんの衣装は寒いだろうし」
「え、ええっ、どうしよう」そんなに寒いと思っていなかった。
「毎年バイトの子は、温かい下着とか沢山重ね着してるらしいよ。それでも寒いらしい。カイロとか、遠赤外線の暖房とか、色々こっちでも用意してるけれど、それでも一晩いたらカッチカチに芯から冷えるね」
「なんだか、自信が無くなってきました……」
 えっ、と言いながら先輩がこちらを見ている。東京は暖かいと思って、実家に温かい下着などは置いてきていた。そういう事は、父には何かと頼みにくい。
「大丈夫、肌に貼れる低温のカイロとか、カイロとか……カイロとか、あげるから!」
 わたしは、多分口をポカンと開けていたと思う。そして宮先輩のその言い方に吹き出した。
「か、カイロしか貰えませんね」
「……そうだね」
 笑ったわたしに宮先輩はちょっとだけばつが悪そうに微笑んだ。
「もしさ、カッチカチに池田さんが冷たくなったらさ、僕が」
 そこまで言いかけて、宮先輩は、何故か目を逸らしてちょっとだけ赤くなった。
「え?」
「………いや、なんでも、ない」先輩は、そのまま向こうをむいてしまって。
「?」
 よく、分からない。先輩はこちらをちらり、と見ると砂利の参道をゆっくりと歩き出した。

 石の鳥居のを出て振り返り、先輩は頭を下げたのでそれに倣った。
 そしてまた歩き出す。先輩と少し距離を空けて、並んで。
「池田さん、この辺りに来たことってある」
「いえ、初めてです」
 緑が多い神社の敷地を出ると、昔懐かしいような古い家々が建ち並ぶ道が続く。
 わたしが住んでいる下町とまた違った、歴史を感じるような街並みだった。
「この辺入り組んでいるけれど、来る時すぐに分かった?」
「ちょっと迷いそうになりましたけれど、縁台に座っていたおばあさんに教えて貰いました」
「ああ、あの家の前にいたんじゃない」先輩は、少し先の角の家をあごで指した。
「そうです。お知り合いですか」

「まあね」宮先輩はそう言って言葉を濁した。

 大きな通りに出ると、何故か少しだけほっ、とした。
 地下鉄駅はもうすぐだ。ホームに降りたら一人になれる。
 宮先輩と一緒にいると、そわそわと落ち着かない気持ちがして嫌だった。
「池田さん、このまま家に帰るの」
「いえ、従姉弟の家に行って、夕食を一緒に食べる約束があります」
「そっか、あ、もしかして妖精が見える従姉弟さん」
「そうです、えと、何かで話しました」
 その時わたしは、最初の日の出来事を忘れてしまっていた。
「え、ああ、そうだね、初めて新歓コンパで会って、帰り道に送った時に聞いた」
 とても苦しそうな声が隣から聞こえて、わたしは先輩を見る。

「池田さん、従姉弟さんの力のことを信じてる、って言ってた。とても優しい顔していたのは、忘れられないよ」
 淋しそうにわたしを見てくる先輩と合った視線を、逸らすことが出来なくて、まるで縫いとめられたよう。
 少しだけ、それでも先輩は微笑みかけてくる。優しく、淋しい笑顔で。

 こころが吸い寄せられるように、宮先輩へ動き出そうとしているのが分かる。


 駄目、駄目だ。

 大きな通りを走り去る車の中から、クラクションが短く響く。

「お、もいだしました。ごめんなさい」
「謝ることなんて何一つない、どうして謝るの」
「……なんとなく、傷つけてしまったような気がします」
「……そんなことは、ないけれど」
 そこから先輩は黙った。ただ、黙々と歩く。わたしは歩きながら何を話せばいいのか、もう一度謝ったほうがいいのか、そればかり考えて。

 大きな四車線の通りを渡ると、もう地下鉄駅の出入り口だった。
「もうここまでで大丈夫です、ありがとうございました」
 地下鉄駅の出入り口の前にある、ミュージアムの前で頭を下げた。
「池田さん、メルアド教えて」唐突に言われて理解出来ない。何で。
「あ、の」
「うちにバイトに来るんだから、教えてくれると助かる。さっきみたいにちょっとした疑問にもすぐに答えるし、だから」
 畳み掛けられるように言われてしまい、わたしは戸惑う。
 正直、メールまで質問攻めにされるのは面倒だった。でも断るいい口実は思いつかない。

「メールするのはまめな方じゃないので、あまり送らないと思いますけれど……」
「変更の連絡とか、色々しやすいから教えて」即座に切り返された。

 仕方がなくトートバックから携帯を取り出して、メールアドレスの画面を先輩に見せた。
 先輩もポケットからスマートフォンを出してきて、両手でわたしの携帯を何度か見ながら打ち込んでいる。
「ありがとう」言われたと同時に携帯が震えた。
 携帯の画面を見ると、知らない電話番号で。
「それ、僕のだから」携帯の振動はぴたり、と止んだ。
「………わかりました。それじゃ、ここで失礼します」少しだけ頭を下げた。
「うん、それじゃ」先輩はちょっと笑って手を振っている。
 わたしは振り返らずに、駅への長い階段を降りて行った。

 改札を抜けて、古びたホームに立って、ホームドアをぼんやりと眺めていた。
 とても、疲れた。ため息しか出ない。遅い午後の地下鉄のホームは人がまばらだった。
 トートバックから、携帯の着信を知らせる振動が伝わってきて。
 携帯を開くと、知らないアドレスからメールが来ていた。
『池田さん、また会おう』その文面にわたしは目を閉じる。

 電車がホームに入ってくる、というアナウンスが頭の上で響いた。

第八夜

「当社の建立は、江戸時代初期に遡ります。当時、魑魅魍魎が多く出て、困り果てたこの近辺の二十一町の総代が話し合い、神田にありました神社が相談を受けまして、魑魅魍魎を抑える力を持ち得る人物がこちらに移り住み、二十一町の安定に寄与したのがきっかけと言われております。まあ、昔々の話なのでねっ。御伽話に近いんですがねー」
 お茶目な宮司さんの言い方に、若い女の子達から笑い声が漏れる。

 メルアドを交換してから、先輩からのなんで攻撃を覚悟していたのに、意外にも携帯は鳴らなかった。
 このお正月のアルバイト説明会の二日前に、『明後日、説明会が終わったら宮司が池田さんにお願いしたいことがあるらしいので、残って欲しいんだけれど時間は大丈夫?』というメールを貰い、都合は大丈夫なことと了解の返事を送った。それだけだった。

 教えてしまってから昼夜問わずメールが来るんじゃ、と身構えていた自分が恥ずかしい。
 きっと先輩が言っていた連絡が取りやすいから、それに尽きるんだろう。

 何を勘違いしていたのか、自惚れていた。そうだったんだ。そう思っていた。

「当社が主祭神としてお祭りしているのはー」
 宮司さんの笑いを交えた説明は、神社の歴史から始まって、お祭りしている神様の紹介、アルバイトをする上での心構え、服装、言葉遣い、仕事内容の紹介などの後に、当日に着る巫女の衣装を着る方法を宮先輩のおばさんに教わった。

 バイト時間は大晦日、三が日は参拝客も多く忙しいようで、休憩を挟んでびっちり八時間労働だ。
 頑張ってやらないといけない。あの実家に行かない為にも。

「池田さんよね。さっきもご挨拶したけれど。真吾のおばですー。あらら、んもーちょっとっ、真吾もなかなかねぇ。うふふっ、あのねぇちょっとお願いしたいことがあってね。ここじゃ何だから、一緒に来てくれる?」
 相槌を打つ暇も与えないで、そして質問する間も与えないで、宮先輩のおばさんはわたしの背中をえい、えいと言いながら押してきて、説明会が終わって、帰り支度をしている人がまばらな会場からわたしを荷物ごと出した。
「はいはーいそこの廊下、右ねっ」
 とっても明るい笑顔の宮先輩のおばさんは、板張りの廊下をわたしの背中を押しながら進む。
「あ、あのう、お願い、ってなんですかっ」
 後ろから、えい、えいと明るい掛け声で押して来る宮先輩のおばさんへ、やっとの事で問いかけた。
「今、部屋に着いたら教えるねー」
 明るく明るく言われて、何が何だか分からないうちに障子の前に立たされて、後ろから押して来ていた宮先輩のおばさんは、お待たせーと障子を開けた。
「ああ、来たのね」
 そこには宮先輩と、従姉弟の怜さんが居て。
「池田さん、今日は」にこ、と笑って宮先輩は挨拶してきた。
「……今日は」
 頭を下げて訝しげに思う。これから何を頼まれるのだろう。
「まぁまぁ、はいはい、池田さん、座って座って、ねっ、ここに」
 宮先輩のおばさんはニコニコ笑顔で座布団を出してきて、静かに置くとわたしを手招きした。
「落ち着きの無い母で、ごめんなさいね」怜さんはわたしへ冷静な声で言う。
「んまぁー、失礼しちゃうわぁー。落ち着いているのよ、何時だって」
「はいはい、いいけど池田さん固まっているから。早く説明してあげて」
「あらぁごめんなさいね、はいはい、座って座って」
 嵐のような会話にびっくりしつつ、戸惑いながら座布団に座る。宮先輩のおばさんも私の隣に座った。
「あのね、池田さん。お願いっていうのはね、毎年、年明け二日に舞をうちの家族でするの。
 宮司は忙しいから怜と怜の姉が舞手で、真吾が笛を吹いてわたしが太鼓で、そんな身内感満載で毎年やっていたんだけれどね。
 それが今年は、この子の姉が同じ神職のお家にお嫁に行っちゃって、舞手が怜しかいなくなっちゃったのよー。それで、どうしても、もう一人舞手が欲しくて、池田さんにお願いしたいと思っているの」
「えっ、わたし、ですか」なんで、わたし?
「そう、あなた」
 宮先輩のおばさんはにこにこして、わたしを見ている。

「あの、聞いてもいいでしょうか……」
「どうぞー?」
 宮先輩のおばさんはさっ、と手を差し出して来た。
「何故、わたしが……」
「お願いされたのかって、んもーそんなの、ねぇ、真吾」
「余計なこと言わなくていいから!」
 宮先輩は、おばさんを睨みながら叫んでいた。
「あのねぇ、舞は神様に感謝を捧げて、一年の家内安全や五穀豊穣、平和を祈って舞うのよ。
 神様を、人を敬っている気持ちを持とうとしているひとにお願いしたいと思っていました。
 神様に丁寧にお参りして下さったことと、面接での様子を宮司から聞いたのよ。丁寧で一所懸命に見えたって言っていました。
 こちらとしては、素敵な池田さんに是非ともお手伝いして頂けたら、きっと神様も、氏子さんも、参拝にいらっしゃった方にも、喜んで頂けると思ってねぇ。どうかしら、手伝って頂けないかしら?」
 分かりやすく、嬉しくなるような答えだった。自分がちょっと認められたような。
 裏表の無い、純粋な気持ちが伝わってくるようだった。
 そんな言葉を掛けられたのは、随分久しぶりのような気がして。
 いいのかな、わたしがやっても。そう思いながらもその気持ちに応えたい。そう感じてもいた。
「どうかしら。お願いしてもいいかしら」
「は、い、わたしでよければ、ですけど」
「ああー良かった、良かったよかったぁ。ねっ、真吾。神楽笛頼んだわよぅ」
「……分かっているから」先輩はむっつりとしていた。
「いやーんよかったわぁ。池田さん、聞いて、真吾ったらねぇ、池田さんが舞をするなら」
「わぁぁぁ、おばさん!」
 いきなり宮先輩は立ち上がったかと思うと、大きい声を出した。そのまま睨み続けている。あれ、どこかでこんな場面を見たような。
「いいじゃないのよ、教えちゃいましょうよ。ねぇ」
「うゎー流石にこれは、真吾に同情するわ……」
 怜さんは、心底うんざりした様子で言った。
 会話の様子をきょろきょろとただ見ていたわたしは、何を言われているのかさっぱり分かっていなかった。
「そう。もぅ、言いたかったわぁ……池田さん、折角だから、一時間位練習していかない」
 時計は四時を過ぎている位だった。わたしは予定は無いと伝え頷いた。


 去年の舞のビデオを観ることから練習は始まった。ゆっくりとした舞は、見ている分には簡単そうだったけれど、振りの一つ一つを教えて貰い実際やってみると、足の筋肉は震え腹筋が痛んだ。背筋を伸ばして、腰を落ち着けて、ゆっくりと舞う。こんなに身体をフルに使うなんて思っていなかった。暖かい室内ではなかったのに、気がついたら汗だくになっていた。

「初日なのにちょっとスパルタ過ぎたわねぇ。風邪引いちゃうわよね。真吾、婆婆さまがお風呂から上がったか見てきて」
「わかった」横笛を吹いていた先輩は、立ち上がった。
「あのっ、いいです。拭いておけば大丈夫ですから」
「駄目よ。風邪引いちゃうわよ。お母さん、着替えも要るよね。貸してあげるから、池田さんついて来て」怜さんは、わたしを手招きしていて。
 戸惑っていると、宮先輩のおばさんは明るくいってらっしゃい、と言い、申し訳なく思いながらも立ち上がった。

「あなた、飲み込み早いわね。トロそうなのに意外だわ」
 怜さんは、何度も廊下を曲がった先にある部屋の中の襖を開けると、衣装ケースを探しながら言った。
「あ、ありがとうございます」そんな返しでいいのかな。悩む。
「これでいい?」
 気にしていない様子の怜さんは、沢山フリルのついたミニスカートをわたしにぴらりと示してきた。
「えっ、いえ、あの履いたことはないので、普通にジーンズとかでいいんですけれど……」
「履いたことないの。まあ、いつも同じような服よね。素材は良さそうに見えるから高い服なのは分かるけれど。もう少し冒険してもいいんじゃないの?」
「冒険、ですか」
「足出しちゃいなさいよ。いつも膝下スカートのイメージを打ち壊してみたら?」
「……今日は、風邪、引くような、気が、します」
「………まあ、そうよね」
 ……何で残念そうなんだろう……よくわからない。

 結局ジーンズとシャツを借りて、未使用のブラトップとショーツはお金を支払うと言ったのに、買い物好きなお姉さんがサイズ違いで買って使わないから、と貰うことになった。
 人様のお家でお風呂に入るなんていいのかな。古い神社の建物からは想像が出来ない位、お風呂は新しかった。湯船は遠慮して、少し汗を流す程度にして。

 お風呂から上がって、廊下で帰る用意をしていたら、宮先輩のおばさんはまたえい、えいとわたし背中を押してきた。
「あ、あのう、まだ何か」
 えい、えいと押されて、また板張りの廊下を進む。
「ご飯食べて行きなさーい。一人暮らしなんでしょう、お腹減っているでしょう」
「い、いえ、もう、あの」
「いいからいいから」
 宮先輩のおばさんはわたしの背中をぐいぐい押して、突き当たりのガラス扉を開けた。
「はーい池田さんきたわよー」
 そこは広い台所と、大きな一枚板の立派なテーブルがあるスペースだった。グツグツと大きな鍋が卓上コンロの上で音を立てていて。先輩はお皿を配っていて、怜さんは鍋へとり団子を入れていた。その傍で小さくて細いけれど、背筋のピンと伸びたお婆さんがお茶を飲みながら座っていた。
「池田さん、ここ、ここに座りなさい。はい、ね、ここよ」
 明るい宮先輩のおばさんは、わたしを先輩の隣に促した。
「あ、あのう、わたし」
 言いかけたらいいからいいから、と座らされて、お皿とお箸を持たされた。
「池田さん、お茶でいいかな」
 宮先輩が冷えていると分かる、お茶の入ったピッチャーをわたしに示した。
「あの」帰るって言わなきゃ。
「池田さんは、ご飯どの位食べるー?」
 間髪入れずに宮先輩のおばさんは、ヘラとお茶碗を持って聞いてくる。
「え、あの」帰るって、言わなきゃ。
「嫌いな具材はないの?」
 お鍋の前にいた怜さんにも聞かれて、わたしはあちこちを戸惑いながら、きょろきょろした。
「食べて行きなさい。舞姫さん」
 静かなのに、しっかりしていて凛とした声がした。そちらを見ると、小さな細いお婆さんは、静かな瞳でわたしを見ていた。
「……はい」
 ここで食べて行くことを躊躇わない気持ちに、何故かなった。不思議な気持ち。

 もう一度お婆さんを見たら、お婆さんはもう前を見て目を閉じていた。

 食卓は、宮司さんもしばらくしてやってきて、賑やかになった。
「池田さん、沢山食べてねっ、ほらほらお肉、これ美味しそうだから」
 宮先輩のおばさんは、わたしのお椀にえいっ、と言いながらお肉を入れた。
「あ、の、もう」
 大きなお椀の中は一杯だった。ここの家の人は、とにかくわたしのお椀に具材を入れてくる。わんこそばのようになっていて、切実にお椀の蓋が欲しかった。
「ほらほら、餅巾着も食べごろだよー」
 宮司さんも、お揚げが膨らんで干瓢で閉じられた巾着を、お椀の中へ入れてきた。
「このままだと溢れるし。もういいから」
 水菜をわたしのお椀に入れようとしていた宮先輩のおばさんを、先輩は手で止めた。
「いやだ、真吾ちゃん。青春っ」
 宮司さんがニヤニヤ笑いながら言って、先輩がうるさいよっ、と叫んでいる。食卓に笑いが生まれて、和やかな明るい雰囲気は眩しい。

 わたしもちょっとだけ笑ったけれど、こころは段々冷めていった。

 わたしには、こんなに賑やかな楽しい食卓を家族で過ごした記憶は、無かった。
 父は何時も仕事で忙しく、母は躾が厳しくて、食事の時間にはあまり話をさせては貰えなかった。
 静かで食器の音だけが響く、それがわたしの知っている食事の風景だ。
 それが当たり前だったのに。

 東京へ出てきて、創の家で夕御飯をご馳走になる時にも同じく感じる戸惑いと、寂しさと、嫉妬が入り混じったような感情は、出しては良いものではない。それは分かっている。何度も失敗したから。
 薄く笑いながら、舞を引き受けなければ良かったのかもと、思う。

「池田さん、どうした?」
 宮司さんの声にはっ、と顔を上げると皆がこちらを見ていた。
「いえ、何でも」わたしは、笑う。
「食べきれないんだったら、貰うけれど?」
 宮先輩は、わたしのお椀を見ながら言う。

「……お願いしても、いいですか?」
 山盛りのお椀の中身は、食べ切れないだろう。ちょっとだけ差し出すと、先輩はほとんどの具材を持って行ってくれた。
「いやだ、真吾ちゃん。青春っ」
「うるさいって!」
 笑いが食卓に洩れる。わたしも、ちょっとだけ、わらう。

「そうして、心を止めてはいけないね。出さないと」
 お婆さんは、静かな瞳でわたしを見ていた。

「婆婆さま!」先輩は、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
「舞姫さんに待つのは、静寂だけになる」食卓は、しん、となった。

「婆婆さま、それは託宣なのか?」
 宮司さんの厳しい声と、お鍋がクツクツ煮える音だけが響く。

「そうやって分けあいなされ、何事も。河の流れを変えるには、大きな石に成らねばならぬよ。真吾」
 がたり、と椅子の音を立てて、お婆さんは立ち上がった。そして目を閉じる。

「怜、頼む」
 宮司さんが言うと怜さんも立ち上がり、お婆さんを支えながら部屋を出て行った。

 それからの夕御飯は、和やかな雰囲気もありながら、どこか緊張感があった。
 いつの間にか、宮司さんは席を立って姿が見えなくなった。
 わたしが、何かをお婆さんに言われてしまったせいなのだと思う。
 何故あんなことを言い出したのか、聞こうと思っても声にならない。
 お腹は一杯なのか空いているのか良く分からないまま、お椀を空にして箸を置いた。


 これからの舞の練習日を決めて、挨拶をして、送ると言い張った先輩と一緒に神社を出た。
 東京の冬の夜は、柔らかく冷えていた。厳しい寒さを知っている者にとっては、優しい寒さだ。
 暗い参道は、両側に並んだ木々が黒々と葉を微かに揺らしていて、その上から明るい月が行く道を照らしていた。わたしはその光を見上げて、歩く。どう切り出したらいいか、考える。

 先輩は何も話さなかった。何も。

「あ、の、先輩、聞いても、いいですか?」
 大きな通りに出てから、わたしは前を歩く大きな背中へ、声を掛けた。
「……なに?」
 振り返った宮先輩は、何かに傷ついたような無表情だ。
「あの」
 お婆さんが言っていた言葉の意味を知りたかった。そして何故あそこに居た全員が黙り込んだのかも。
 不思議な言葉のその意味は、確実にわたしに関わりあることだろう。そう思えた
「……なに?」
「……あの、一緒にいたお婆婆さまと呼ばれていた方は……」
「池田さん、ちょっと話したいことがある、少し付き合ってくれない。奢るから」
 先輩は少し先にある、コーヒーショップを顎で示した。
「あの、奢りじゃないのなら、付き合います」
「……いいんだ、この間あそこのギフトカードを貰って使う機会もなかったし。奢るよ」
 そう言うと先輩は前を見て歩き出した。

 一番奥のソファー席に向かいあって腰掛けた。お客さんはまばらで、店内には優しいピアノの曲が流れていた。
 小さなマグカップに躊躇わず口つけた先輩は、少しだけ顔を歪めてコーヒーを飲んだ。
「あの、さっきのは」
「今日、宮司からうちの神社の歴史を聞いた?」
「は、はい」
「この辺りを怖い化け物が出て、退治するために神社が建立されたって話」
「聞きました、それって」関係、あるのかな。
「余り公にはしていないけれど、あの話は本当にあったことだ。うちの祖先は、江戸時代に京都からここの土地に起こっていた出来事を収めるために移り住んだ。」
 宮先輩は、わたしの様子を探るように見てくる。
「同じ時期に、同じようなことが全国各地で起こっていて、一族は色々な土地にそれぞれその出来事を収める為、移り住んだという文献がうちに残っている。そして、あの神社が建立されてから、この辺での出来事は無くなったらしい。その出来事を収めることの出来る力は、代々ひっそりと確実に受け継がれて、お婆婆さまはその力を未だに持ち続けているんだ。
 左目の視力を失っているけれどその左目で、先を見通す力も持っている。
 お婆婆さまは今日、池田さんの未来を観たんだと思う。余り良くない未来を。心当たり、ある?」
「良くない未来、ですか」
 その言葉に、得体の知れない不安が胸に入りこんでくる。
「そう、良くない未来」
 先輩の顔色は、真っ白になっているように感じた。でもそう突然言われても実感が、ない。
「ごめんなさい、良く分かりません」
「多分何事も分けあえといっていた、それが回避する方法なんだと思う。
 池田さん、今は分からなくても、何か危ないことがあったり、辛いことがあるのなら聞くから言って欲しい。僕のアドレスは知っているよね。いつでも聞くから、例え夜中でも」
「それは」
 何故、そう言いかけてやめた。きっと聞いたら、あまりわたしにとって良い答えは返ってこないだろう。そう思えた。
「いいんだ、多分それが僕の役目になる」
 きっぱりとした物言いをした先輩と、視線が絡み合った。

 熱いような、とろりと蕩けたような、初めて見る瞳。

「信じてくれる?」
 甘いような、なにかを含んだ声。

 薄い、限り無く薄い幕の向こう側で起こっている光景を、ただの傍観者として眺めている。

 それが、激しい嫌悪を母から向けられた時の、対処する方法。

 そして、この時も。

 わたしは、傍観者だった。

「は、い」
「よかった」そう言って先輩は目を閉じた。

第九夜

 部室の寒さは、徐々に増してきたように思う。

 ひんやりしていて背筋が震える。寒い。短時間でこんなに冷えてくるなんて。

 部室の書棚で半分埋められた窓の向こう側は、曇り空から少し日が射してきたようで暖かそうだ。わたしは立ち上がり窓側に寄りかかる。少しは日差しが入って暖かい。

 お日様の暖かさを感じる。

 あのお正月の巫女さんのアルバイトの最中は、とても寒かった。

 そう、宮先輩の言った通りだった。


 あのコーヒーショップでの話の後、宮先輩からは定期的にメールが届くようになった。
 内容は、『大丈夫?』とか、『元気?』という短いものだった。わたしの返信も何時も『はい』という短いものになった。

 良くない未来、という言葉にどうなるのかという不安は常にあったけれど、過ぎ去っていくのは、いつもと何も変わらない日々だった。
 大学の講義を受けて、亜依とお喋りして、空き時間に部室へ行って、家へ帰り、簡単に作ったご飯を食べる。それだけだ。

 怜さんは講義の空き時間を使って、弓道場で舞の練習をしてくれた。
 宮先輩もたまにやってきて、香澄もちゃっかり付いてきていたけれど怜さんの姿を見た瞬間、退散していった。アルバイトのことを羨ましがっていたけれど、茶髪を染めてまではやりたくないらしい。

 舞の練習は、わたしの性にあっていたらしく、段々のめり込んでいった。家でもDVDを見て練習する。
 面白かった。こんなに夢中になることなんて無かったのに、ただ無心になれる時間がやって来るのが心地よくて、集中している間は何もかもを忘れられた。

 あの出来事の後、日中に一度神社の境内の舞台で練習したけれど、お婆婆様と呼ばれた人には会わなかった。

 年末、実家に帰らないで神社でアルバイトをすると一枝おばさんに言ったら、おばさんは暖かい下着や靴下を買って持って来てくれた。そんなことを申し訳なく思う。
 いつだってわたしは人に迷惑を掛ける存在だ。そういつだって、優しさを向けられるとどうしたらいいのか分からなくなった。


「ねぇ、古いお札持ってきたんだけどねぇ。どこに持っていったらいいの?」
 御守りを小さな袋に入れて渡すと、派手なサングラスをしたオバちゃん、といった中年の女性に聞かれる。
「こちらの道を左手に進んで頂いて、一度境内を出て道なりに進みますと、臨時の納め所がございます」
 笑顔は、疲れた体に張り付いてきている気がする。身振り手振りも使って、なんとか説明した。
「あら、ありがとねー」
 オバちゃんは迫力ある様子からは想像出来ない位、ふわりと優しく笑った。ハードなアルバイト中に嬉しいと思える出来事だった。わたしは頭を下げる。
「お伺い致します」
 会計を待っている参拝客は、ずっと後ろまで黒山の人だかりだ。
 若いお姉さんに無造作に絵馬を差し出されたのを、笑顔で受け取る。
「八百円お納め下さいませ」
 二日間、びっちりと巫女のアルバイトをしたせいか、大分慣れては来た。

「池田さん、そろそろ舞の準備お願いします」
 朝見たっきりの宮先輩のおばさんは、明るい笑顔で休憩上がりの子達と一緒にやって来た。
「はい」
 立ち上がったわたしは、休憩上がりの子に席を譲った。待っていた宮先輩のおばさんと一緒に授け所を出る。
 これから衣装を着付けて貰い、お祓いを受けてから神社の端にある舞台で舞をする。
 今年は、雅楽も氏子さんで習っている人たちを加えて、初めて生演奏でやる、ということになったそうだ。
 宮司さんはリハーサルの日、「生演奏と、わっかい舞姫達と、真吾で参拝客ゲット!」と黒い笑顔を浮かべ、ぐふふ、と笑っていて、先輩と怜さんは、恐ろしいものを見たといった様子でドン引きしていた。

「疲れたでしょう。もう忙しくって、目が回らない?」
 宮先輩のおばさんは、にこにこしなから話しかけて来てくれる。
「はい、でも、少しは慣れてきたような気がします」
 板張りの廊下を歩きながら、わたしは軽く背筋を伸ばした。ずっと座っていたので、身体は寒さと疲れで凝り固まっていた。
「池田さん、物覚えが早くて助かるわー、舞も凄く上手になって、もう見ていて安心できるもの」
「そう、ですか?」
「ああ、そんなプレッシャーに感じないでね。大丈夫よ、今日はきっと上手くいく!」
 明るくばしっ、と背中を叩かれた。そんなことが嬉しいと思えた。明るくて強くて優しい人に会うと、染み出そうな甘えを止めるのが大変だった。それはわたしに許されてはいないのに。

「この間はスコーンの差し入れしてくれて、ありがとうねぇ。美味しくてついつい食べちゃって。真吾なんて、来たらもう少しだけしか残ってなくて、物凄い勢いで怒られたわ」
「いえ、御夕飯をご馳走になった、お礼ですから」
 前回、舞台で練習に来た時に、わたしは自分の家の近くにあるスコーン専門店の、色々な味を詰め合わせたセットを、夕食のご馳走になった御礼にと持って行った。
 怜さんに聞くと、意外に洋風の食べ物を家族は好む、とのことで、その詰め合わせにした。
「スコーンって、作ると意外に難しいのよねぇ。なにかコツがあるのかしらね」
「そうですよね。時々作ってみますけど、さっくりと出来上がらなくて、失敗します」
「あら、池田さん手作りも出来るの。今度作ってみて」
「え、あ、あの、下手なんで、そんな」
「気が向いたらでいいわよー、今は忙しいものねぇ」
 宮先輩のおばさんは、にこにこしながら言った。
「は、はい」
「さ、気を引き締めて頑張りましょ。はいるわよー」
 宮先輩のおばさんが障子の向こう側へ声を掛けると、どうぞーと返事があった。障子を開けると畳敷きの広い部屋で、もう怜さんは衣装に着替え終わっていた。
「この子もよろしくお願いしますねー」
 部屋に入ると年配の女性が二人いて、わたしは頭を下げた。
 宮先輩のおばさんはそれじゃ、といって去っていった。お正月の神社は忙しい。何か用事があるのだろう。

 お化粧と着付けは、素早く終わった。着付けを手伝って下さったのは、宮先輩のおばさんの親戚に当たる方で、呉服屋さんにいらっしゃる方だと知った。
「舞、楽しみにしているわね」
 仕度が終わるとそんなことを言いながら、お二人は部屋を出て行った。

 これから舞をするというのに何故か緊張はしなかった。
 こころから舞をするのが当たり前で、そうしたい。練習が始まってからずっとそう感じ続けていた。
 魂に刻み込まれているような、そんな気持ちは何処からくるのか分からない。

 ただの自分になって、無心に身体を動かす心地よさが、そう思わせているのかも知れない。

「池田さん緊張してる?」怜さんが聞いてくる。
「いえ、あまりしていないです」
「即答ねぇ。まあ練習の時からあまり緊張する様子、なかったものね。いつも楽しそうだったわ」
「はい」
「あなた向いてるのかもね」
「そう、ですか」
 そんなことを話していたら、障子の外で準備はいい、と声がした。
「どうぞ、入って」
 怜さんが答える。すう、と障子が開いて、まるで平安時代にいた貴族のような格好をした宮先輩はそこにはいた。
 わたしを見ると、先輩はその場で固まった。おかしいのかな、どこか。
「真吾、呼びに来たんじゃないの、ねえ」
 怜さんのその言葉にはっ、となった先輩は、部屋に入ってきて障子を閉めた。
 烏帽子に狩衣で袴の宮先輩は、目を合わせず横を向いたままこう言った。
「池田さん、明けましておめでとう」
「ええ、会っていなかったの」
 わたしが答える前に、怜さんは、呆れたように叫んでいた。
「おめでとう、ございます」
 わたしは頭を下げた。先輩とはアルバイトが始まってから、一度も会っていなかった。授け所で一度だけ、浅黄色の袴姿で遠くを歩いているのを見かけただけだった。
「昨日、一昨日はほとんど徹夜なんだよ、知ってる癖に」先輩は、不機嫌そうに怜さんに言う。
「まー真吾は忙しいものね。出ずっぱりだもの」怜さんは笑顔だ。
「で、どう?」
 怜さんはわたしのことをさっ、と宮先輩に手で示した。
「似合ってる」
「それだけなの、他に言うことはないの?」
「……なんで?」
 先輩は不機嫌そうだった。わたしは二人の顔を見比べて、ちょっとだけ慌てていた。
 これから舞をするというのに喧嘩をしてしまって、二人の気持ちが乱れて舞台に立つことになったら。良いものにしたい。そう切実に思っていたから、喧嘩をして欲しくはなかった。
「あの、これから、どうするんですか?」
 凄く勇気を出して聞いたけれど、聞こえないようで、二人はずっと揉めていた。
「あー真吾っ、もうモジモジしすぎじゃないの。そんなんでいいの、男なんでしょっ。ビシッ、と決める所、決めなさいよっ」
 怜さんは、わたしの言葉なんて聞こえていないようだった。
「本番前に、舞手が叫ぶセリフじゃないし」
「意気地なし!」
「うっさいよ!」
 わたしのハラハラは頂点だった。どうしよう、続けられている喧嘩の行方に心臓が痛くなってきて、わたしは俯き黙り込む。緊張していなかったのに、体は冷えてきた。
「ちょっと待って怜、池田さんどうした。具合悪い?」
 先輩の声にわたしははっ、と我に返った。
「大丈夫です、何でもないんです」
 わたしは笑う。先輩はわたしの言葉に構わず、手に触れてきた。
「冷えてきているのかしら、肩に掛ける物持ってくるわ」
 怜さんは、あっという間に部屋から出て行った。
「冷えてる。嫌かもしれない、でもちょっと我慢してくれるかな」
 先輩はそう言うと、大きな手で包むようにわたしの両手を握った。じんわりと人の暖かさが身体に染み込んで来る。そんなことを嬉しく、本当に嬉しく感じてしまう。駄目なのに。
「ごめんなさい、迷惑を掛けて」
「何で。緊張する本番前に揉めた僕が悪い。池田さんは悪くないよ」
 わたしは顔をあげた。覗きこんでくる顔は心配そうな、それでいて切なそうな、複雑な表情だった。
「もう、大丈夫ですから」手を引っ込めようとしたら、
「拒否、しないで。今だけ」ぎゅう、と強く握られた。

 申し訳なさで一杯になった。もっと自分が強かったら、こんな迷惑をかけなくて済む。誰かに面倒をかけないで生きていける。でもわたしは何時だって途方に暮れたまま、そのままだ。

 何故か伝わってくるじんわりと暖かい体温に縋りつきたくなって、そんな自分に戸惑って、それはいけない、そう思って目を閉じる。

 目を閉じていたら、空気の暖かさが変わった気がした。少しだけ暖かいような。目を開けかけた時、障子が開けられて、握られていた手は離された。
「お邪魔、だったみたいねぇ」
 ニヤニヤとした怜さんが障子を閉めようとしていて、先輩は慌てたように叫んだ。
「待て、怜っ、もうお祓い始めるから!」
「神主さーん、神社でやめてくださーい。一応神事の前ですぅー」
 怜さんと一緒に宮司さんも居て、ニヤニヤしていた。
「あぁ、じゃ、おじさんやって」
「今、青春を見守るのに忙しいから駄目」
 怜さんは揉めている宮司さんと先輩を、笑いながら見つつ部屋へ入ってきて、わたしの肩に手触りのいいショールを掛けてくれた。
「ありがとうございます、迷惑をお掛けして、すみません」
「いいのよ、こちらこそごめんなさい。兄弟喧嘩みたいなものだから、気にしないで」
 わたしは首を横に振った。白い狩衣姿の宮司さんと先輩はまだ揉めていた。
「ちょっと、どっちでもいいから早くお祓いして!」
 怜さんが叫んだけれど、わたしはもう冷たくなることはなかった。


 結局お祓いは、先輩が拝殿でしてくれた。白いギザギザの紙が沢山ついたハタキみたいなので、難しい言葉を唱えながら。
「神主さんみたいですね」
 終わった後にそっと言ったら、先輩は意外な顔をした。
「僕は一応神主さんだよ。一番下の資格しか持っていないけれどね」
「あれっ、でも大学で、資格取るんですよね」
「そうなんだけれど、まぁ色々事情があって」
 先輩は苦笑している。話はそれきりになってしまった。
 そのまま先輩に先導されて舞台へ進む。外の廊下へ出ると、雅楽を生演奏する氏子のみなさんも、素敵な平安貴族のような衣装になっていた。
「舞手さん達、緊張してる?」
 にこにこしたおばさまに声を掛けられた。
「大丈夫です。間違えったって死ぬわけじゃないし」
 怜さんはにっこり笑って、とぼけたように言う。
 わたしもちょっと笑って頷いた。そうだ、間違えたって死ぬわけじゃない。やっぱりちょっと緊張していたようだ。今の言葉で気持ちは落ち着いた。

 雅楽のひと達が先に出ていって、歓声が上がった。参拝客はここからは見えない。
 外は冷えてきていて、空は青く午後の日差しが柔らかい。
「さあ、出番だよ。こころを静かにね。行っておいで」
 宮司さんが怜さんとわたしの肩に優しく手を載せた。わたしはショールを宮司さんに託す。
「池田さん、いい顔してる。大丈夫」一度頷いた宮司さんは、とても優しい顔で笑った。


 舞は宮先輩の笛の音色で始まった。

 最前列に、創と一枝おばさんがいて、おじさんがビデオを回していてビックリした。
 少しだけ笑うと、嬉しそうに創とおばさんは手を振っていた。

 こころは、静かで凪いでいた。ずっと。

 身体は自然に動いた。滑らかに。なにも怖くなくて、ただ気持ちを遠く遙か彼方に向けるように。

 曲が耳から入ってきて、頭のうえにさらりと抜けていくようだった。

 手をふわりと空へ向けると、そこには青い冬の空に小さく白い月が浮かんでいた。

 綺麗。控えめに、ただそこにある白い月が。
 そんなことを、ただ思う。静かな気持ちで。

「風花だ!」誰かが叫んで、観客がざわめいた。

 青い冬の空から、わたしの目の前にも、ふわり、ふわりと白い雪が降りてきた。

 嬉しくて微笑む。誰かが、ご褒美だよ。そんなことを言ったような気配が一瞬だけして、消えた。

 わたしは舞いながら冷たい空気を胸一杯に吸い込む。この時を忘れないために。


「よかった、凄くよかった!」
 舞台袖に戻ると、宮司さんは怜さんとわたしの肩をバシバシ叩いた。
「痛っ、なにするのよ」
 怜さんはそう言いながらも笑顔だ。

「奉納舞、ありがとうございました」
 改めて、宮司さんは頭を下げてくれた。わたしと怜さんも顔を見合わせて、頭を下げた。終わった。気持ちは暖かだった。


 おばの家族が観に来ていてくれた、という話をすると会っておいで、と促されてわたしは草履を履いて舞台の下に降りた。創とおじさんとおばさんは、笑顔でまださっきの場所にいた。
「朱里、素敵だったわよ。ビデオ撮っちゃった」おばさんは、興奮したように言った。
「観に来るって思ってなかった」わたしが言うと、おじさんはニコニコして教えてくれた。
「朱里の晴れ舞台は観に行かないとねぇ。言ったらきっと恥ずかしがるだろうと思ってねぇ。でも楽しみにしていたんだよ。今日は観に来れて、朱里が頑張った所を見られて良かったなぁ」
「そう、本当に素敵だった。朱里頑張ったねぇ」
 涙が出そうだった。褒められて嬉しいのに。でも泣いたら甘えた気持ちが染み出して来そうだ。
「ありがとう」
 奥歯を噛み締めて涙を乗り越える。鼻の奥がつんとする。でも乗り越えなきゃならない。
「創もぱっかーんって、口開けて見てたわ」
「ぱっかーんなんて開いてないよ。かーちゃんテキトーだな!」
 創がプンスカ、と音が鳴っているように怒り出して、わたしたちは笑った。
「じゃ、カパア、って開いてた」
 おばさんはからかうように創へ言った。
「カバじゃないかよっ、それじゃあ!」
 創は足で砂利を、がじゃがじゃ鳴らして蹴って、わたしたちはまた笑った。

第十夜

 あの沢山を練習して、本番は力を出し切れたと思えた舞と、アルバイトが終わってから、わたしはずっとぼんやりしていた。何かを失ってしまった気がする。

 空虚。

 その一言がぴったりだった。

 あの日の空気や、音や、景色が忘れられない。
 来年もやってくれると嬉しいっ、と太鼓を演奏していた宮先輩のおばさんには、両手をブンブン振られて言われた。それだって、来年の話だ。

 こころにぽっかり穴が空いたまま、わたしは日々を過ごしていた。


 一月の半ばに先輩から、お給料が出るので、取りにきてもらえますか、とメールを貰った。
 金曜の午後に伺うという返信をして、わたしはスコーンの材料を確認した。

「こんにちは」
 拝殿にお参りしてから社務所のドアを開けると、宮司さんが慌てて出て行こうとした所に鉢合わせた。
「あーごめん、池田さん、ちょっと待っててくれる。真吾が賽銭ドロボー捕まえてね。今お巡りさんが来てるんだ。そこで待ってて」
「は、はい」
 宮司さんは応接セットを指差したかと思うと、多分わたしの返事も聞かずに走って出て行った。
 賽銭ドロボウ、出るんだ……。お参りした時にそんな気配はなかった。きっと事件が起こってから、随分と時間が経っているのだろう。すぐ来るだろう、そう思って待つことにした。

 予想に反して、宮司さんと先輩がぐったりと社務所に戻ってきたのは、日もすっかり暮れた後だった。
「あ、ああーっ、ごめん、忘れていた。池田さんのこと」
 宮司さんはわたしを見るなり、肩を落とした。
「いえ、あの、お疲れ様です」
 先輩は珍しく何時もの格好良い感じではなく、細身のジーンズとダウンというシンプルな服装だった。
 紙袋を持っていて、その中には折り畳まれた衣服が入って見えたから、多分汚れたんだろう。
 疲れた表情の先輩は、紙袋をソファーの脇に無造作に置くと、わたしの隣に音を立てて座った。
「腹減った……」先輩は項垂れて呟いた。
「若いな、俺は逆に食欲ねぇな」
 宮司さんは金庫を開けると、沢山の茶封筒を一つ一つ確認して、一つを取り出した。
「賽銭ドロ、暴れすぎなんだよ、あれでかなりやられた」
 はあ、と先輩はため息をついた。
「あの、もしよかったらこれ」
 わたしがトートバックから出した袋を、先輩は気だるい感じで見た。
「何?」
「先輩のおばさまにもし、出来たら作って、って言われていたスコーンなんです。あの、もし、良かったらお一つどうぞ」
 先輩はじいっ、とわたしを見てくる。宮司さんもソファーにやって来て、向かい側へ座った。
「貰っていいの?」
「味は、保証出来ないですけれど」
 先輩はそっと袋を受け取ると、中を覗いた。
「何、手作り?」
 宮司さんは、わたしに茶封筒を渡しながら、聞いてくる。
「はい、あの、下手ですよ」
 わたしがそう言うと、先輩はスコーンの入った袋を、ダウンの中へ入れてしまった。
「喰わないのかよ」宮司さんは、ニヤニヤしている。
「うちで、食べる」
 先輩はそっぽを向いている。困ったな、それは先輩のおばさんから、頼まれたものなのに。
「真吾ちゃん、やらしいねぇ。まあ、賽銭ドロボー捕まえてお手柄だったから、ご褒美に持っていけ」
 宮司さんがよしとしてしまったので、わたしは何も言えなかった。

 お給料を受け取ってわたしが社務所を出ると、先輩も送ると言って一緒に神社を出た。
「池田さん、この後暇?」
 歩きながら先輩は聞いてくる。
「え、えーと何か」
 何を言われるんだろう、どうしても身構えてしまう。
「池田さんにね、会いたい、っていう奴がいるんだ」
「わたしに、ですか」
「そう、池田さんに」
 先輩を見ると戸惑っているような、そんな表情だった。
「あの、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「誰、でしょうか」
 先輩ははぁ、とため息をついた。迷っているような、困っているような表情で何かを考えている。
 冷えた夜の道を街灯の灯りは、明るく照らしている。先輩は、歩きながらこちらを伺うように切り出してきた。
「あのさ、気味悪いかもしれない。でも信じて貰えると嬉しい。
 うちの神社が管理している、小さなお稲荷がこの近くにあるんだ。そこの狐が池田さんに会いたい、って言っている。この間の奉納舞の時に見に来ていて、興味を持ったらしい」
 言われた言葉は、良く分からなかった。狐がわたしに興味を持った。きつね。
「ごめんなさい、あの、全く意味が分からなくて」
「まあそうだよ、分からないよな。そのお稲荷は、旧大名屋敷の中にあったお社で、狐はその頃から、ずっとこの辺りの人々の守り神な奴なんだ。
 僕が中学生になって、東京に出て来た時に狐のお社を建て直すことになって、うちの神社が魂入れの儀式を行うことになった時に、よく話すようになった。
 まあ、大雑把に言えば、狐の引越しを手伝ったようなものだね。その時から長い付き合いで、今は僕がそのお社を管理している。
 あいつ、池田さんに会いたいって、最近ずっと言っていた。
 多分、婆婆さまが言ったことが、関係しているのかも知れない。信じられないかもしれないけれど、姿は見えないから、分からないかもしれないけれど、お参りだけでもしてくれると、嬉しいんだ」
 先輩が言う言葉は、段々と小さくなっていった。

 よくは分からない。真剣な表情と、不安そうな目線を向けられて。
 でも、嘘をついてはいない、そう思えた。

 そして記憶の中からもしかしたら、という予感が浮かび上がってきていた。

 あの奉納舞の日、舞いながら無心でいた時に、誰かの声を聞いたような気がした。
 内容は思い出せない。でも、誰かに優しい声を掛けられた。それは、もしかすると。

「分かりました。お参りさせてください」
「信じたの?」驚いた表情を、向けられて。
「信じた、っていうか、あの奉納舞の時に、誰かの声を聞いた気がして」その言葉で先輩はピタリ、と止まった。
 振り返ると先輩は、探るようにこちらを見ていた。
「池田さん、池田さんの従姉弟さんの他に、身内の中で不思議な力を持っているひと、居ないかな」
「身内、ですか」
 創以外に、力を持っているひと。思いつかない。
「そう、特に親世代で。いない」
「ちょっと思い当たらないです」
「そう、ならいいんだ。気にしないで」
 そう言って先輩は、また歩き出した。


 大きな通りに出て四車線の道路を渡り、地下鉄の駅を超えてその大きな通り沿いの賑やかな道を、先輩は先に進んだ。サラリーマンと多くすれ違う、広い歩道を長い距離歩く。やがて大きな交差点の斜め向かいに、広くて大きな夜の森が見えた。その手前にある超高層マンションの敷地を、先輩は斜めに横切っていく。
「大丈夫、ついて来て」
 躊躇っていると、手招きして促された。
 恐る恐るついて行くと、その奥には小さな滑り台と、ブランコだけの公園があった。
 公園の前には書店があって、店内からは明るいひかりが暗い夜道を照らしている。
「まだ、掛かりますか?」
「いや、もう見える」
 公園の角を曲がると左側は、大きな茶色のマンションで、その突き当たりに赤い石の鳥居が横向きに見えた。

「わぁ」
 街灯の下にあったのは、本当に小さなお社だった。小さな赤い鳥居のすぐ後ろに、お稲荷様の像が二体左右に置かれている。小さな拝殿はとても清潔で白い器に水と塩が入っていた。境内は人が二人、やっと並べるような狭さだ。
「お参りしてもいいですか」どうぞ、と促され、わたしは一段登って、狭い境内に入った。
 何時ものように手順を踏んで手を合わせる。

 初めまして、今晩は。池田朱里と申します。よろしくお願いします。
 そんなことを胸の中で話し掛ける。後ろでは、先輩も同じように手を合わせている気配がした。

 終わって振り返ると、先輩は無表情でお社を見つめ続けていた。
 そして、少ししてから、こちらをちらり、と見た。
「あの、行きますか」どうしていいのか困って、先輩へ声を掛けた。

「話がしたいって、言ってる。通訳するけど、いい?」
「えっ、あの、まさか」
「狐は、池田さんと話しをしたいらしい」

 まさか、本当にいるの。信じたいけれど、分からない。先輩は無表情だが、不安そうだ。

「挨拶丁寧だね、って言ってる」
 その言葉に、自分の目が見開かれるのが分かった。

 居るんだ。本当に。ずっとここで祀られてきた神様が。遙か遠い昔から。
 わたしが話しかけた言葉に、答えてくれた。
 冷たい夜風が、上がった体温を奪うように頬を撫でつけていった。

「ありがとう、ございます?」
 何と応えていいか、分からなかった。
「なんで疑問形」先輩は苦笑している。

「いえ、誉めてもらえると思わなくて」
 なんだか言い訳がましくなった。こういう時わたしは、何て返していいのか分からない。ダメダメだ。

 わたしがそう言うと先輩は、途端にお社を厳しい表情で見つめ始めた。
「それは、言えない」
 きっぱりとお社に向かって呟くと、長いこと黙って、ふいに顔を歪ませた。何かを言われているのか、それは伺いしれなかった。

 声を掛けた方が良いのか迷う。上がった体温は下がって、身体が冷えてきているような気がした。
 いきなり先輩はこちらを見ると、何故か頬を少しだけ赤らめて遠慮がちに口を開いた。

「あのさ、こいつ服装にめちゃめちゃうるさいんだ。それを分かってから聞いて欲しい。池田さんは、足出した方が可愛いって言えって」
「足?」
 言われた意味は分からない。いきなり過ぎて。
「うぁー、もう嫌だっ、通訳。だからね、この狐ミニスカートの女子が大好物なんだよ、この俗物っ」
 そう言うと先輩は、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 流石に心配になってくる。何を話しているのだろう。

「あの、何て」「言えない」頭を抱えた先輩に、即答された。

 どうすればいいんだろう。こういう時、わたしは戸惑って黙ってしまう。
 もっともっと自分がしっかりしていたら、声を掛けて力になれるかもしれない。
 オロオロするだけで、役立たずだ。

 先輩は、そんな事は何も思っていないかのように、いきなり頭を上げてわたしを見た。
「池田さん、お母さんのことは気にするなって言ってる。意味分かる」
「どうして」
 声は上ずった。いきなり言われた言葉は、思いもよらない言葉だ。

 神様は、そんなことまでお見通しなの。どこまで何を知っているの。
 何が言いたいの、どうしてわたしを呼んだの。
 何故、母のことを言い出したのだろう。心臓は痛い位に鳴っていた。

「池田さんのせいじゃない、悪くないって言え、って」
「分かりました」
 触れて欲しくなくて、すぐにこの話を終わらせたくて、急いで言った。
 先輩はそんなわたしを、淋しそうな顔で見上げてくる。

「分かったふりはしちゃ、駄目だって」

 そんなことを言われても。わたしは俯く。
 不意に来るこういう出来事に、こころは何時でもぐらぐら揺れる。苦しい。

「そんなこと言える訳ないだろーーーっ」
 いきなり先輩は、そんなことをお社に向かって叫んだ。
 何事か分からない。びっくりしていると先輩は怒りながら立ち上がり、お社に向けて吐き捨てるように言った。
「当分来ないから。マジ来ないから。行こう池田さん、もう話は終わった。駅まで送る」
 何か腹が立つことを言われたようで、先輩の顔は赤くて、見たことがない位怒っていた。
 凄い勢いで反対方向に歩き出して、途中で止まると大きな声でわたしを呼んだ。
「行こう」
 どうしよう、何一つ分からないまま、ここを去ることになる。

 先輩とお社を何度か見比べた。戸惑ったけれど、意を決してお社に深く一礼した。

 お邪魔しました。ありがとうございました。そう話しかけて。

 可愛い子だねぇ。ご褒美だよぅ。後は頑張りな、真吾。
 さらり、と頭の上を、そんな言葉が通って行ったような気がした。

 頭を上げると、小さな黄色いひかりが、ちかり、ほわり、と目の前で揺れた。

 あれ、目の錯覚……そう思って瞬きを繰り返す。でもその黄色いひかりは少しずつ、でもあっという間に増えていく。小さかったひかりは、その大きさを増してきた。

 そんな光景にこころ奪われて。

 小さなお社は、ひかりの中に浮かびあがっていって、一つ一つのひかりはキラキラと輝いて美しい。
 沢山のひかりは、ふわり、ふわりとまるで踊るように動いていて、とても幻想的だった。
 優しくて、暖かいそんなひかりに目が離せなくて、幾つもそのひかりはわたしの全身を通り抜けるように揺れた。心地いい、そんなことしか思えなくて。


「すごい」ポロリと、零れ落ちるように言葉は出た。

「すごいっ、凄すぎます。綺麗、とっても綺麗。何で、どうして、先輩っ、凄い!」
 気がついたら先輩は隣にいて、ぼんやりした表情でお社を見ていた。わたしは先輩の腕を取って、ブンブンと振っていた。誰かとこの光景を分かち合いたくて、話がしたくて。
 先輩はわたしを見ると、目を見張った。何かにこころを取られたような、でも瞳は柔らかくわたしを見つめている。喜びを伝えたくて、わたしの胸は高鳴った。

「先輩、凄い!」嬉しい、嬉しくて。

「すきだ」優しく、甘い声が響く。

「え?」
 自分でも呆けてると思える声が、出た。

 先輩は、わたしの声にはっ、としたかと思うと、顔を赤らめた。そして横を向いて何かを考えているようだった。
 すき、すきって。

 いつの間にかお社はひかりが消えていて、また元に戻り街灯が照らしている。
 先輩は少しの間考え込むようにして、こちらに向き直った時には顔は真っ赤だった。

「好きなんだ。もしよかったら付き合ってもらえないか」

 真剣な目は、わたしを真っ直ぐに捉えていた。無表情なのに不安そうな、でも真っ赤になってて。

 どう、答えたらいいのか分からない。

 断わった方がいい。面倒なことに巻き込まれ無いとも限らない。
 ううん、確実に面倒な事になるだろう。サークルの中で揉めるのは御免だ。

 けれど、こころの奥底に埋めてきた想いたちが、揺らめき出しているのも感じていた。
 たったひとつ、その中に先輩は、想いの種をそっと埋め込んできたように思えた。
 種は、早くも芽吹こうとしている。

 駄目。そう思っていても止まらない。

 沢山の、甘いくすぐったいような何かが栄養になって芽吹き、そして地上へ茎として出て、花を咲かせるような甘美な感覚の予感を覚えた。それはいけないのに。

 止めたい。でも、止まらない。でも、それでも。

「初めて会った日に、天つ風の一首の話をしたの、覚えている」
 わたしは頷く。少しだけ。

 天つ風、雲のかよひ路、ふきとぢよ、をとめの姿、しばしとどめむ
 先輩が好きだ、と言ってくれた一首。

「あの奉納舞の時、後ろで笛を吹きながら、舞っている池田さんを見ていたよ。
 天つ風の舞姫のように見えて仕方なかった。月を見上げて柔らかく微笑んでる姿が、今も目に焼き付いて離れないんだ。あの時、本当に風が吹いてしまえばいいと、心から思った。何処にも行かせたくない、って。
 お婆婆様の警告を聞いて、僕は池田さんを守りたいと思っている。僕じゃ、駄目かな」

 ああ、駄目だ。硬い種子はみりみりと音を立てて殻を破り、青々とした小さな葉を出そうとしている。

「少し、時間を下さい」猶予が欲しかった。
「どの位」
「一週間、下さい」

「返事、待ってるから」
 そう言った先輩の顔は、もう赤くはなくて、何かに耐えているようだった。

 地下鉄の駅まで無言で歩き、簡単な挨拶をして別れた。
 長い階段を降りて行く時、まだ先輩はそこで見守っているような気がしたけれど、振り返ることは出来なかった。


 家のドアの鍵を開けて、冷え切ったドアノブを回す。誰も居ない暗い室内は、冷蔵庫のモーター音だけが響いていた。灯りもつけず、操り人形のように浴室へ、ふらふらと歩いて行った。
 冷え切った体を暖めたくて、浴槽に栓をしてお湯の蛇口を回す。
 大きな音をたててお湯が浴槽に溜まって行くのを、ただ黙って見ていた。

 湯船に浸かると、やはり身体は冷え切っていたようで、じんじんと脈打つように皮膚は痺れた。
 疲れた。
 膝を立てて座り、その膝に頬を載せた。頬が水面に付く。少し顔を上げるとしゅ、と音がしてお湯と頬が抵抗しながら離れた。

 もう、芽吹きを止めるには、こころの何もかもを凍らせるより他にはなかった。

 わたしには、許されていないことだから。

 だから、凍らせる。想いは。

 目をそっと閉じる。何かを凍てつかせて、そうやって、止める。

 大切なものが、掌をすり抜けて、床に叩きつけられて、粉々に砕け散る音。


 頬をまた水面に付ける。じわじわとお湯は暖かい。でもそっと頬を水面から離す。
 しゅ、と音がして、またお湯と頬が抵抗して離れた。


 その五日後、夜の玄関前に母は立っていた。

第十一夜

 窓の外はまた曇ってきて、お日様の暖かさは、感じられなくなった。

 先輩、先輩は何故死神になっているの。

 恐ろしい程の威圧感と、おどろおどろしい雰囲気、そして何もかもを切り捨ててきたような冷たい目。人当たりがいい先輩とは今思い起こしてみても、そんなに接点は無かった。
 だから全部を知っている訳ではない。それは分かっている。

 でも、あの姿を先輩だというのなら、彼に何があったのだろう。

 天井がミシリ、と大きい音を立てた。
 何故か不気味に感じる音だった。でも暖房は入っていない室内だから、建物が鳴るのかもしれない。少し身体が震えてきているが、多分気のせいだ。

 しん、と静まり返った室内は、寒々しい雰囲気を醸し出している。
 ここって、こんなに無機質で冷えた印象の部屋だった?
 日の入らなくなった部屋は、青白い空気に包まれているような気がした。

 いつも賑やかな室内だから。今日はひとりだから。警告のように嫌な気持ちがせり上がってくるのを、無理矢理押し込めた。

 たまたまだ。そう思おうとしていた。

「な、なに?」
 いきなり地面が揺れたような気がした。ううん、揺れている。
 でも何かがおかしかった。何、何がおかしいの。分からない。

 パシッ、と連続した音が響く。何、何なの。
 すっかり混乱していた。左右に視線を動かす。違和感は、どんどんわたしの中で膨らんで行く。何かかおかしい。

 部屋の中は猛烈に寒い。いつしか揺れながら、歯がカチカチと鳴っているのが分かった。
 身体も震え出す。震え。おかしい。

 外はこんなに寒くは無かった。何故!

 焦って回りを見渡す。揺れているのに、何故か、本棚は、ピクリとも、動いて、いない。
 すう、と背筋が冷えて行くのが分かった。

 揺れ。思わず下を見る。

 そこには何十本もの青白い手が蠢いて、わたしのスカートを掴んで、いた。

「ーーーいやぁ!」
 急いで目を閉じて窓側から離れた。入り口のドアの辺りまで走り、振り返ると、そこには何も無かった。
 ドン、と天井から大きな音が響いた。咄嗟に見上げると天井が蠢いて、どんどん下に下がってくる!

 目を凝らして見たいわけじゃない、なのに、目は離せない。
 違う、天井が下がって来ている訳ではなかった。

 下がって来ているのは、さっきの、手だ。何かを探して、いる。

 それは、何。目の前がぐらり、と揺れた。

 何故、何故こんなことが。信じられない気持ちで頭を抱えて蹲った。
 怖い、こわい。誰か、だれか助けて、だれか。

「た、すけて!」小さな声で呟くことしか、出来ない。

「呼んだかぇ?」

 涼やかな、それでいて妖艶な声は、辺りに響いた。

 暖かい、ちかり、ほわりと揺れる光は、猛烈に寒い部屋でひとつ、わたしの目の前で揺れた。

 何?

 ゆっくりと腕を下ろして、震えながらひかりを見る。

 ひかりはどんどん大きくなった。そして増えていく。あの日、あのお稲荷様で見たのと同じ。

 暖かさを後ろから感じる。ひかりも。

 蹲ったまま振り返った。

「呼んだかぇ、真吾の可愛い子。アンタ何を呼び寄せたのか、分かっているのかぇ」
 糸のように細く長い、赤い瞳はわたしを見ていた。鼻とヒゲと耳は狐のそれなのに、目と口はひとのものだった。
 鮮やかな赤い、見たこともない美しい模様が入った闇色の着物を粋に着こなして、ほっそりとした腕と足をもったしなやかな身体は、色気たっぷりだ。人の美しさを超えたところにいる、目を奪われる存在。
「だれ」やっとのことで、声は出た。
「やっぱりこの子色々と心配だよぅ。問いにも答えられないのかぃ」
 狐の顔をしたその人は、赤い唇をニイッと吊り上げた。わたしの身体はガタガタと震える。
「あ、あの、わからな」
「アレはアンタの母親に長年貼り付いていたものさぁ」
 わたしの返答を遮ってそう言うと、その人はわたしの後ろに向かって手を翳した。ふわり、ふわりと何度も。
「去ね!」
 鋭い声が響いたか思うと、ゴオゥ、と地響きを立てて、何かが部屋の中に突風を巻き起こした。
 目を開けていられない、また頭を抱えて蹲った。椅子やテーブルはがたがたっ、と大きな音を立てて鳴って、渦を巻くような風を感じる。
 カーテンがバサバサと揺れる音も長いこと鳴っていたが、やがて少しずつ静かになっていった。
 身体はすっかり縮こまっていた。ぎゅう、と。肺の辺りがビクビクと震えている気がした。
「お前の母が消えたから、新しい仲間と新しい主を探しているんだよぅ。アンタ成りたいかぇ」
 そう問われ、震えながらゆっくりと、頭を横に振った。
「それなら、どうしてあいつらはやって来たのか、アンタ分かってないねぇ。絶望をくれる奴が大好物なんだよぅ。絶望を餌にあいつらは大きくなるのさぁ。
 アンタも仲間にして、新しい主を探そうとしているのさぁ」

 絶望を餌。わたしを仲間に。

「母親のことは、お前が悪い訳ではないといっただろぅ」
 ひんやりとした赤い瞳は、わたしを見ていた。

「お稲荷、さま」
「あい、お利口さん」その赤い唇はきゅう、と吊り上がった。


 すう、と近づいてきたお稲荷さまは、いきなりこう話を切り出した。

「真吾の可愛い子。大切なことを問うよ?お前は真吾をーーーーーことはできるかぇ」
「え?」
 大切だと思われる部分は、聞き取れなかった。

 真吾、先輩のことだろう。何故、何の答えを求められているのかが、分からない。
 お稲荷さまは、妖艶に微笑んだ。そしてわたしに言い含めるかのように、こう言った。

「今、聞いているんじゃないんだよぅ。でもこの問いにいつか、何処かで応えて貰おうかねぇ。迷いの森に入った時にこの問いが出てくるように、お前に刻んでおくよぅ」
 そう言うと、お稲荷さまはわたしに向かって手をかざして、美しい動きで、ふわり、と円を描いた。そのまま何度か円を描くと、何か難しい言葉を唱えた。
 ふう、と柔らかなひかりがお稲荷さまの掌に乗ったかと思うと、真っ直ぐわたしの胸の中に入って来た。

「これって」
「いつか、どこかでお前の道標になるだろう」
 そう言ってお稲荷さまは、わたしを見つめた。


 外の廊下を遠くからバタバタと走って近づいてくる音が聞こえてきて、部室のドアの鍵がもどかしく開けられる気配がした。
「朱里ちゃんっ」
 扉が開けられてすぐに飛び込んで来たのは、創だった。
「小童。騒がしいよぅ、静かに開けな」
 お稲荷様は創を見るなり、厳しい声を出した。
「誰だ、朱里ちゃんっ、朱里ちゃん」
「創、落ち着け。あれ、一応神様だから」
 死神の宮先輩は、喚いて掴みかかろうとしている創を捕まえて、羽交い締めにしているのが下に見える、下?

「真吾、久し振りだねぇ、あの日以来かぇ」
「あのさ、池田さんをどうするつもり」
「さあねぇ、どうしようかねぇ。摘み食いでもするかねぇ」
 わたしは気がついたら、お稲荷さまの腕の中にいた。身体をよじろうとしてみたのに、まるで細い糸が身体に幾重にも巻きついているような。
 死神の先輩は、淡々としている表情だ。暴れる創を羽交い締めにしながら、わたしを冷たい目で見上げている。
「こっちでどうにかする。だから池田さんは放して」
「どうにか?」侮蔑を含んだ、艶のある声が響く。
「そう、だから放して」淡々と先輩は言った。
「どうにか成っていないから、わっちが出てきたんじゃないか。この子、アレを呼び寄せていたよぅ。取り込まれるのを、黙って見ていた方が良かったかね」
 厳しいお稲荷様の声に、先輩と創は黙った。
「あの日言っただろぅ、この子をぐじゅんぐじゅ」「わあああ!」
 死神になってる先輩は、慌てて大きい声を出したかと思うと、羽交い絞めにしていた創の耳を急いで塞いだ。
「なっ、なんだよっ、おい、宮本真吾、やめろよっ」耳を塞がれた創は、不服そうに叫んでいる。
「このエロ狐っ、子どもの前だってば、やめてくれ」
「生きにくい世の中だねぇ。面倒じゃないのかぃ、色々とさぁ」
 お稲荷さまは面白くなさそうに、ため息をついた。創は耳を放してくれ、と叫び続けている。
「まぁ、なんでもいいさぁ。あの日、真吾はこの子を帰しちまったねぇ。身体を繋いでいたら、ここまで面倒にはならなかったさぁ」
「そんなことは出来る訳なかっただろ。僕は池田さんがこころを寄せていない相手だ」
 死神になっている先輩は、わたしを冷静に見つめている。
「温もりを誰より欲していると、教えただろう」
「そういうのは、本当は嫌なんだ」吐き捨てるように言った。
「阿呆は相手にしていらんないねぇ。温もりから始まって、こころを掴んでしまえばよかったのにさぁ。真吾は贅沢だよう。こころを得てから抱きたいだなんてねぇ」
 初めて死神になっている先輩の顔は歪んだ。創は、耳を抑えられながらきょときょとと、わたしとお稲荷さまを見比べていた。
「こころを通い合わせたいとは、願い続けている。今だって」
 真っ直ぐな瞳は、わたしを見ていた。
「選択肢はこれでひとつ、消えたよぅ、一番易しい道がさぁ」
 妖艶な声は、直ぐ傍で聞こえた。
「後悔しているかぇ。易しい道を選ばずにいることを」
「今、あの日、あの時に戻ったとしても、多分同じ選択をしていたよ。多分。ずるい道を選べない。そうやって繋がっても、いつか離れてしまうような気がして仕方がない。滑稽だと笑うかもしれないけれど」
「滑稽じゃなくて、贅沢者だねぇ。お前は」
 呆れたような声が聞こえて、死神になっている先輩は、創の耳から手を離した。
「何、何話していたんだよっ、大人って勝手だな」創が喚く。
「小童、真吾は大人じゃないよぅ。だから勝手なのさぁ」
 ククク、とお稲荷さまは笑った。ぐっ、と黙った創に代わって、先輩ははあ、とため息をついてから言う。
「池田さんを、放して」
「真吾、お前は何故自分を偽るんだぃ」
 その問いに先輩は黙った。ただ、黙ってわたしを見つめ続けている。何もかも切り捨てて来たような、冷たい瞳で。
「何のことだよ」創は訝しげだ。
「偽っていない。分けた」静かな声で、先輩は答えた。
「それを偽りと呼ばず、何になるんだぃ」
 お稲荷さまは、長い指でわたしの頬をすうっ、と撫でる。
 死神になっている先輩と創は、目を見開いた。
「そうかもしれない。でも、池田さんは僕に応えず消えた。だから分けた」
「分けたら応えたのかぇ」
「‥‥‥そうだ」
 わたしを縛り上げている細い、絡みついている糸は更に力を増してきた。
 苦しい。顔が歪む。
「お前は、まだ分かっていないのかぇ」
 お稲荷さまは妖艶に笑って、わたしを覗きこむ。
「やめろ!」
 先輩が大きな声で叫んだ。
「面白くないねぇ。男が二人お前を救いたいと、あくせくしているよぅ。お前はそれを、何も思わないのかぇ。お前はどうしたい」
 どうしたい。どうしたいのか、そんなことは聞かれたことあまりない。
「答えな」
「答えられないだろーーーっ、そんなに縛りあげてたら、神様って馬鹿なのかっ」
「創、止めろ」先輩は、創の肩を掴んだ。
「このまま、彷徨い続けるのかぇ。それとも登って行くのかぇ」
 ぐう、とお稲荷様の腕が伸びてきて、わたしの首を締め付ける。
 苦しい。彷徨い続ける、登って行く。どちらか?
「それとも、生きるのか」
「何で止めないんだよ、馬鹿宮本真吾っ、朱里ちゃんが」
 創はバタバタと足を鳴らしながら暴れているのを先輩はぐっ、と押さえつけてこちらをじっ、と見ている。
「あいつは腹の底は見せないし、女子の生脚大好きな狐だけど、僕が悲しむことは一度もしたことはない。長いこと付き合ってきた中で、からかわれることはあっても」
「その悲しませる、初めてになるかもしれないねぇ」
 お稲荷さまは、自分に言い聞かせるように話していた先輩の言葉を遮った。
「何故、放っておいてくれないんだ」
「放っておいて欲しいのかぇ」
「出来れば」
 その言葉にお稲荷さまはふぅ、と息を吐いた。
「真吾、昨日見し人はいかにとおどろけど、なほ長き夜の夢にぞありける」
 お稲荷さまが言ったその一首を聞いた途端に、先輩は顔色を変えた。
「何っ、ぜんっぜんわかんねーーっ」
「そうくるとは、思わなかった」
 死神になっている先輩は、凄まじい勢いでお稲荷さまを睨みつける。
「何だよ、教えろよ」創は喚き続けていた。
「諦めろ、そう言いたいの」
「お前の命も失うよぅ、このままじゃ」
 お稲荷さまは、静かな顔で先輩を見つめていた。
「長き夜の夢をゆめぞと知る君は、さめて迷へる人を助けむ」
「明恵上人かぃ。中々やるねぇ。真吾」
「一度は、消える筈だった人生だ。例えそうなっても悔いはない」
「覚悟の上だ、ということかぇ」
「そうだ」
「気に食わないねぇ。お前に覚悟はあっても、この子は安易にこの道を選んだ。そんな者の為にお前を犠牲にしたくはないよぅ。この先もお前で遊びたいのだからねぇ」
 ぎりぎりと締め付けられる身体は、考えることを止めてしまった意識と分離している気がした。
 ただ、身体の中にあった暖かいものが少しずつ、まるで砂時計の砂のように流れ落ちていっている。

 絶望、餌、仲間、命、彷徨う、登る。生きる。

 沢山のキーワードは、わたしに何かを知らせようとしている。それは、何。

「このまま逝かせてやるのが、真吾、お前のために成ると思わないかぇ」
 お稲荷さまは、わたしの首を掴んでいた手の力を強めた。喉からく、と声が漏れて。

「そうするなら、僕も一緒に連れていってくれ」
 死神になっている先輩は、創の肩を掴みながらぞっ、とするような顔で嗤った。

第十二夜

「馬鹿なのかーーーっ」
 肩を捕まれていた創は、勢いよく左足を曲げて上げると、そのまま後ろへ向かって足を蹴り降ろした。
 ぐうっ、と呻いた先輩は、よろけるようにその場に蹲った。
「そ、う」
 やっとのことで声が出る。そんなことしちゃ、駄目。そこまで声は出ない。
「宮本真吾は馬鹿なのっ、いや馬鹿だ、ばーか、朱里ちゃんを助ける、絶対、何があってもとか俺んちで言って、キメ顔ぶっこいてたのは誰なんだよっ。何、自分も死ぬ宣言してんだよっ、死んだら何もできなくなるんだぞー。そんなの小一でも分かるじゃんかーーっ、やっぱりお前信用なんねぇ、絶対信用なんねぇ、俺が朱里ちゃんを取り戻すッ!」
「お前は阿呆な小童だねぇ。でも阿呆は好きだよぅ。お前名前は?」
 中腰でよく分からない構えをしていた創は、お稲荷さまの呆れたような問いに目が点になった。
「わ、悪い奴に名前は教えらんねーー」少しの間の後、はっ、となった創は、もう一度構え直して叫んだ。
「とって喰いはしないよぅ。お前は阿呆だが勇気のある子だねぇ。名前を教えておくれ」
 お稲荷さまは、優しい声色で創に話しかけている。創は暫く考えて、しぶしぶ名乗った。
「左藤創だけど」
「創が名前かぇ」
「そう」
 ちょっと誇らしげに言った創に、お稲荷さまはため息をついた。
「創、お前は正しいよぅ。至極真っ当だねぇ。生きているならば口が裂けても言ってはいけない言葉だろうよぅ。真吾はこう言いたかったのさぁ。
 この子を逝かせるならば、自分も一緒に逝く。そうしてしまってはわっちの望みは叶わない。命を掛けて、この子の命乞いをしていたんだよぅ」
「え、そうなのか」
 間抜けな顔をした創は、後ろで蹲っている先輩を振り返った。
「創、お前、蹴り入れるなんて百万年早いんだ、よっ」
 股を抑えた先輩は、べこっと音を立てて創を殴った。いてぇ、と創は叫んで、頬を膨らませる。
「ああ、もうやんなっちゃうよぅ、何かが削がれたねぇ。折角、真剣になってみたのにさぁ。
 真吾、タマは大丈夫かぃ。百年位前に近所の熊八つぁんがタマ打ってねぇ。腫れて腫れてそりゃあ大変だったよぅ。わっちに祈願にきていたが、結局使い物に成らなくなったよぅ」
「ええっ、すげ〜百年も前のこと、知ってんの」
「まあねぇ、長いことお稲荷やってるからねぇ」
 何故か鼻高々になったお稲荷さまは、創と昔の話で盛り上がっている。

「池田さん、おいで」
 いつの間にかお稲荷さまは、わたしを放していた。先輩はこっそり書棚の影にいて、手招きしている。
「今、解くから待ってて」
 死神になっている先輩に寄って行くと、先輩は手をふわり、とわたしにかざした。そして何かを引っ張るようにすると、途端に苦しい締め付けは無くなった。
「あ、ありがとう、ござい、ます」
 なんだかぐったりと疲れを覚えて、その場にへたり込んだ。
「大丈夫、疲れた?」
 しゃがみ込み覗きこんで来ている先輩とは、距離が近かった。わたしは首を振る。でも目を見ることは出来ず、視線は下を向いた。
「あいつ、本気じゃなかったんだ。きっと僕を試していた。だから」
 そうっ、と先輩を伺うと、その表情は心配そうだ。でも死神だからちょっと怖い。
「大丈夫、です」声は固くなった。
「迷惑掛けて、ごめん」
「いえ、こちらこそ創がご迷惑をお掛けしました。あの、大丈夫ですか」
 わたしが聞くと先輩は、その凶悪な顔を歪ませた。
「何で池田さんは創のことで謝る?」
 ぷい、とそっぽを向かれてしまって、わたしは反応に困る。
「いえ、あの、従姉弟ですし」
「従姉弟とはいえ、創は創、池田さんは池田さんだよね。本人が謝ってきたらいいんじゃない」
「はぁ。でも、まあ、身内ですから」
「いや、だからっ、………ああ、もういいや」
 確実に死神の先輩は拗ねている、ように見える。何故わたしに。

 ああそうだった。告白されていたんだっけ。

「創が羨ましいよ」
 ぽつり、と死神になっている先輩は呟いた。わたしは、何て言っていいのか分からない。そんなことを言われても。
「あの狐はさ、あんなにすぐひととは打ち解けないのに、創はあっという間にああやって、誰かの気持ちを解している。凄いことだよね。名前だってすぐに呼ばれたしね。僕は中々、名前では呼ばれなかった」
「あの、先輩も人と話すの、上手に見えますよ」
「僕のは訓練した部分が大きいから。創とは違う」
 先輩は面白くなさそうな顔をして、ため息をついた。
 確実に拗ねているのが分かる。なんていうか、小さな男の子みたいな。

「大体、池田さんも創には甘い……って何で笑っているのさ!」
 こんなことを言ったら創だって確実に拗ねる。だから言わない。でも、思う。かわいいなぁって。

 凶悪な顔を更に凶悪にして、先輩は拗ねている。言わなくても機嫌は損ねたようだった。
「あのう、どうして死神みたいになっているんですか」
 聞きにくいけれど、聞いてみる。
「まだ気づいてない。そして、覚えていないの」
 警戒したような声で、先輩は話す。
「気づく、覚えて?」
「僕も初めてのケースだから、勝手が分からないんだよな。祓う専門だし」
 遣る瀬無さそうに、ため息をつかれた。
「あの、どういう意味」聞いている最中に、先輩は遮った。
「池田さんは今、迷子中なんだ。何かは分からないけれど、理由があって家へ帰れないでいる。家へ帰すにはその理由が知りたいし、悩みや苦しんでいることがあれば話を聞きたいと思っている。‥‥‥何か思い当たることはない?」

 家へ帰れないでいる。理由。よく分からない。
 そのことに思いを馳せようとしても、柔らかい、暖かな霧で包まれてしまっているようだった。
 思い出そうとすると、胸の中にある暖かなものは、さらさらと零れ落ちていく。
 失いたくなくて、考えるのをやめる。でも、そうすると先輩の問いには答えることは出来ず、わたしは黙った。
「嫌だねぇ、いつの間にかお前達は、乳繰り合っていたのかぇ」
 書棚の影にいたわたし達を覗き込み、お稲荷さまはため息をついた。
「なんでもそっち方面に結びつけるなよ、エロ狐」
 先輩は、お稲荷さまを睨みつけている。

「大切なことだよぅ、欲が無ければ人間は、生きて行けないようだからねぇ。三欲というじゃないかぇ。真吾も大概薄いけれども、可愛い子もなかなかの薄さだよぅ。まあ、欲望ばかりで鼻息荒いのも困るが、薄くて希望がないのも困り者だよぅ」
「そこなんだよな」
 先輩はちらり、とわたしを見た。
「兎に角、時間はないねぇ。真実を突きつけたら登って逝ってしまうだろうしねぇ。どうするんだぃ?」
 お稲荷さまは、面白そうに先輩を見ている。
「あんた、神様なんだろ。何でも知ってるんだろ。教えてやりゃいいじゃん。そうすりゃ簡単じゃん」
 創は頭の後ろで腕を組んで、左右に身体を振りながら言った。
「創は、真吾に出会った頃にそっくりだねぇ。阿呆でさぁ」
「僕は、ここまで阿呆じゃなかった」
 先輩とお稲荷さまは、揃って創を呆れた目で見ている。
「何だよっ、アホアホ言いやがってー」
 創はぷりぷり怒って、だん、と足を踏み鳴らした。

「真吾、火傷を負った少年の話をしておやりよぅ」
 先輩は、途端にその顔色を変えた。
「なんだよ、火傷を負った少年って」
「いたのさぁ。力を持ち、その力を周りにひけらかすことで虚栄心を満たし、挙句恐れられて、身内に火をつけられた少年がねぇ」
 火をつけられた少年。その時わたしの中で、何か赤い炎を感じ始めた。
 お稲荷さまは、先輩を鋭く見ている。
「まあ、居たね」
 ぽつりと呟くようにして、先輩は言った。

「虚栄心ってなんだ?」
「創と話していると頭が痛いよぅ。虚栄心も知らないのかぇ」
「俺、小学生だから、まだ習ってないぜ」
 創は胸を張るように言って、お稲荷さまは、うんざりとした顔を見せた。
「見栄を張ったり、自分が上に立とうとすることだよぅ。お前は、中々の力を持っているようだが、誰かにその力を見せびらかしたり、見せつけたりしたことは無いのかぇ」
「わっかんねー、でもそれで、困ったことなんかないぜ」
「それはまだ、お前が子どもだからだよぅ。誰かが後ろでお前が困らないように心を砕いているから、そんな呑気にしていられる。何事もそうさぁ。簡単に手に入れたものは、簡単に牙を剥きその身を切り刻むだろうねぇ」
 お稲荷さまは創へ向かって、妖艶に微笑んだ。
「……俺、わっかんねー」
「いずれ、分かるさぁ。わっちにも出来ないことは沢山あるんだよぅ。だからこそ、ここにいるのかも知れないねぇ」そう言ってお稲荷さまは、黄昏た。

「そういえば、お社は開けてきて大丈夫なのか」
「ああ、婆婆のところのユウに頼んできたよぅ。 真吾の可愛い子が困っているからちょっくら行ってくると言ったら、背中をぐいぐい押されたねぇ。真吾のことを心配していたよぅ。痩せちまって大丈夫かってねぇ」
「なんとか、するって」
「婆婆とユウのように成りたいと、思うかぇ」
「……ちょっと待って、池田さんどうした」
「朱里ちゃん?」

 胸は苦しかった。とてつもない悲しみの記憶。さらさらと胸の中にあった暖かなものが流れ出て行く。

 力を否定され、心に傷を負い、それでも認められたくて頑張っている少年の記憶。

 周りから奇異の目で見られて、それでも立とうとしている。

 あがいて、もがいて、裏目に出て、そんな光景が走馬灯のように流れていく。

 火事。年老いた女性にその少年の死を願われて、火をつけられた。

 大きな火傷と誰も信じようとしないこころで、都会の雑踏の中立っていた。

 彼は、沢山の優しいこころを周りのひとから受け取り、亡くなり彷徨い続ける人々の悲しみと関わり見続けて。

「お前は、安易にこの道を選んだねぇ。自分だけが辛い顔をして」
 顔を上げるとお稲荷さまは、赤い冷たい目でわたしを見ていた。
「何をした!」
 死神になっている先輩が叫ぶ声が響く。
「お前の過去を見せただけだよぅ」
「何でそんなことを」
「大切なことだからさぁ。あとはその子次第だよぅ。受け止められないのなら真吾との未来はないよぅ」
 お稲荷さまの声は、嗤っている。
「何で今なんだ、今じゃなくてもいいだろう!」
「いま、この時。それは必然だ」
 お稲荷さまの冷たく響く声に、誰もが黙った。

 さらり、さらりと流れて落ちていく、暖かなもの。

 止めたくて手を伸ばすけれど、止まらない。失いたくない。失いたくないの。

 先輩がわたしに手をかざす気配がした。ふわりと。
「なにすんだ、どうすりゃいいんだ宮本真吾っ」
「ちょっと黙ってろ、今どうにかするから」
「真吾、ここで体力を使うと、お前は倒れてしまうよぅ」
 呑気なお稲荷さまの声に、怒号が飛ぶ。
「悪の張本人が何をいってるんだ。なくなってきている、急がないと」
「真吾、あの部屋を開けな。わっちが連れていってやるよぅ」
「信用できないんだよ、エロ狐」
「お前を受け止められなければ、たとえ救ったとしても、お前との未来はないんだよぅ。お前はその辺を絶対に語らないだろう?だから見せたのさぁ。これしきで逝くようならば、本当は見送ってしまったほうがいいねぇ。部屋を開けるかぇ」

 先輩は黙った。

「絶対、傷つけたり触れたりしないでくれ」
「あい、わかったよぅ」

 ふわりと身体は、宙に浮いたような気がした。

 暖かな黄色いひかりにどんどん包み込まれて行く。寒くも暖かくもないひかり。

 朱里ちゃん。創の叫ぶ声が遠くで響いて。

 失いたくなくて手を伸ばし続けていたのに、いつしかやめてしまっていた。

 視界が柔らかなひかりに包まれ、やがて閉ざされた。

第十三夜

 高く高く澄んだ声でさえずる小鳥の、飛び立つ羽音が響いた。
 木の葉がさわさわと、静かに揺れている気配。
 甘い、優しい大気の匂い。瞼に優しいひかりを感じる。

 唇と舌先から、急激にびりりとひりつくような熱は、わたしの中へ急激に流れ込んでくる。
 角度を変えて優しく唇を喰まれて、受け取る熱に身体は満ち満ちていくような感覚。
 全身を巡り巡って、お臍の下の奥に渦を巻いて流れ着き、満たされていく。何度も、何度も。

 身体は安心できる腕に抱き留められて、包まれていた。

 縋り付きたい。隙間なんて無い位に。

 腕を回して、抱きついてずっとずっと暖かさの中で眠っていたい。

 でも腕は重くてピクリとも動かない。縋り付きたいのに、ダラリと垂れ下がった腕はそのままで。

 目を開けてその顔を見たい。でも瞼は重い。ただ、暖かさを受け取るだけ。

 暖かさで満ち満ちた身体は、そっ、と柔らかな所へ降ろされた。
 離れたくない。はなれたくないの。声を挙げたい。離れたくない、って。

「やぁ」何とか小さな声は、口の端から漏れ出た。
「どうした?」心配そうな美しい声は、上から柔らかく降ってくる。

 頭を優しく撫でられて、その指先からジワリジワリと暖かな心地よさが流れ込み、また下腹部に溜まっていく。
 頭の上は誰かの気配を感じて、気持ちいい。安心できて、心地よくて、全身の力は抜けた。

「甘ったるくってやってらんないよぅ。これが砂糖吐くとかいうやつかぇ。わっちはお供えで甘いものを貰うのは好きだが、こういう甘さは見ていて胸焼けがするねぇ」
「じゃ、出ていけ」
「いやだよぅ。やっとこの部屋に入ったのにさぁ。
 しかしこの部屋は、この子のためだけに造られているんだねぇ。こんなことをし続けていたら、それは痩せちまうさぁ」
「いいんだ、それでも。朱里には優しさと暖かさが必要なんだ」
 撫で続けている大きな手はすぅ、とわたしの頬を撫でた。そんな仕草が嬉しい。

「笑った」
 優しく美しい声が、喜びを讃えて響く。

「なんだか、むず痒くて仕方がないよぅ。わっちには痛覚はないのにねぇ。何だろうねぇこの、むずむずする嫌な感覚は」
「うるさいよ、出て行け」
「砂糖ってどうやって出すんだぇ。出してみたいものだよう。今ならたっぷりと出せるさぁ」
「お社へ帰れよ、ユウが待ってるんじゃない?」
「嫌だよう。やっと入ったんだよぅ。堪能してから帰るさぁ」
「まさかとは思うけれど、それが目的だったんじゃないよね」
「隙あらば入り込もうとしていたのは、知っていただろぅ」
 はぁ、とため息が漏れる気配が上の方から感じる。呼吸は深く、ふわふわと優しさに包まれて、頭を撫でられて。何も怖くない、優しい暖かい所にわたしはいた。
「しかし、若い森だねぇ。でも奥行きがあって明るくてわっちは好きだねぇ。お前の中はこんなに暖かいのかぇ。初めて知ったよぅ」
「暖かいのは朱里の為だけだから。勝手に観察して感想言わないでくれる」
 冷たいねぇ。笑いながら、お稲荷さまが言っている声がする。

「真吾、お前は婆婆とユウの道を選ぶのかぇ」
「戻そうと思って、病院へ連れて行こうともした。けれど病院の駐車場に入った途端に掻き消えたんだ。その前にも呼び掛けて見つけて、身体へ連れて行こうとした。だけどその時も消えた。その方法はもう多分使えない。後は、朱里本人が生きたいと望むか、僕に紐付けるか、そのどちらかだ」
「お前はどうしたいんだぇ」
「分からない。生きたいと望んで欲しいよ。生きたい、生きていたいと。
 でも悲しみで満ちている朱里を見ていたら、無理なのかとも思う。
 絶対に逝かせたくない。傍に居たい。離したくないんだ」
 またわたしを撫で続けている手は、頬を優しく掠めていく。頬が緩む感覚がする。

「では、お前に括り付けてしまうんだねぇ。それでいいのかぇ」
「朱里が身体に戻れなくなる直前までは、あがくよ。でも、もうどうしようも無くなってしまったら、その方法も辞さない」
「お前が死ぬまで、その子はお前の傀儡に成り果てるんだよぅ。真吾、お前はその意味を分かっているのかぇ」
「………」
「身体は生き続けても、生き生きとしたところのない、お前の言うことだけを聞く木偶の坊に成り果てる。そう言っているんだよぅ」
「そうなっても、ずっと大切にするし、温めて優しくして生きていく」撫でる力は強くなった。
「こころを返して貰えなくても、本当にいいのかぇ」
「……痛い所付くの、本当に上手いね」
「今はいいさぁ。その子を救いたいと頑張っているからねぇ。
 ただ、長い年月の中で、こころを返して貰えぬ寂しさを抱えて一生を終えるのは、お前にとって酷だろうと、そうわっちは言いたいのさぁ。
 それならその子は見送ってしまったらいい。おなごはごまんといるよぅ」
「朱里じゃないと駄目なんだ。他の誰かは考えられない」
「まったく、遅い初恋はたちが悪いとご領主が言っていたが、その通りだねぇ。三百年位前に、ご領主の嫡男が同じようなことを言っていたのを思い出すよぅ。顛末、聞きたいかぇ」
「いや、いい。不安な要素は避けたいし」
「先人の知恵に成るかもしれないよぅ」
 また、高い澄んだ声で鳴く小鳥が戻ってきた羽音がする。甘く、可愛らしい声で鳴いている。
 わたしは目を開ける。ゆっくりと。

「可愛い子、お目覚めかぇ」
 美しい顔はわたしを覗き込んでいた。嬉しそうな、それでいて淋しそうな表情を向けられて。
 白い部屋の向かい側のソファーには、お稲荷さまが踏ん反り返って座っていた。
「おはよう、調子はどう?」
 優しく優しく撫で続けている大きな手は、そっと頬に触れてきた。
 心地よくて目を閉じる。わたし、わらってる。嬉しくて。

「その子は、お前をどう思っているのかねぇ。今は嬉しそうにしているけれどさぁ」
「……何で、今言うの?」
「聞いてみようかねぇ。大切なことだろう」
「何で今なんだよ」ぎゅう、と肩を掴まれて彼の方へ引き寄せられた。
「自信が無いのかぇ、それともお前は、この子の気持ちも聞かず、傀儡にしようとしているのかぇ。畜生にも劣る扱いじゃあないか。家畜以下の扱いをしたいのならば止めないが、この子にもこころはあるんだよぅ」
「分かってる」
「分かっているのなら、尚更聞かなければなるまいよ。そしてこころを寄せて居なければ、お前にはもっと厳しい道が待ち受けるようになるねぇ」
 誰かがわたしに近づき、のぞき込む気配がした。そっと目を開けると、そこにはお稲荷さまがいた。

「お前は、真吾が好きかぇ」にっこりとお稲荷さまは、笑う。

 すき。

 そのことに想いを馳せる。
 小さな種は、凍った土の中で眠っていたのに、いつの間にか暖かさで融かされて、青々とした葉を伸ばし、地上に顔を出して伸びて、可憐な小さな花を咲かせている。
 それを、その嬉しさで頬は緩む。満たされ温められた、そんな中で揺れる花。

「すき」言葉はすんなりと出た。
「素直だねぇ。まあ、ここまでされて落ちないおなごは居ないだろうけれどねぇ。……真吾、鼻の下が伸びているよぅ。気持ち悪いからなんとかしな」
 わたしは彼を見上げた。黄色味の強い茶の瞳で、茶色の髪の彼は、せわしなく目が動いて顔は真っ赤になっていた。
 天井の白い大きな羽根のファンは、くるくると回り続けている。

「そのほうが、すき」
「どういう意味?この間もそう言っていた」
 この間。分からない。どこかで会っていた。思い出せない。わたしは目を閉じる。
「成る程、ねぇ。そのほうがすき。真吾、お前やっぱり偽るのはお止めよぅ」
「朱里は"僕"では反応しない。暖めて優しいその部分には反応して、この部屋に来てくれた。それだけが必要なんだ」
「全てのお前を受け止めて貰いたいとは、思わないのかぇ」
「だから、僕の記憶を見せ付けたのか」厳しい声が響く。

「傀儡には必要なかろうがねぇ。ひととひととが寄り添い合うには、それすらも要るだろう。お前の理想は一体何なんだ。操り人形が欲しいのなら、止めはしないよぅ」
「……本当に痛い所ばかり上手に突くよ。この狐は」
「ただエロいエロいとだけ言われるのは、癪に障るんだよぅ。少しはいいこと言うだろぅ」
「八方塞がりな感じがするんだ。
 朱里に本当のことは告げられない。でも告げなければ、何故生き続けていられるのに、こうなっているのか思い出しては貰えない。
 理想は朱里が生きたいと願って、毎日を穏やかに嬉しく過ごしてくれることだ。そして出来たら僕の隣にいて笑っていて欲しい。でも本人が生きていたい、そう願わないことには無理だよ。どうしたらいいか、分からなくなって来ているんだ。何もかもが難しい」
「婆婆に話をしてみてはどうだぇ。その子も連れてさぁ」
「何で、婆婆さま」
「この間、婆婆の所に沢山の嫌な者たちを連れた客が来たのを、覚えているかぇ」
「ああ、もう一月以上前になるんだ。信じられないけれど」
「そうさぁ、あれは大物だったよぅ。あれだけのモノを連れてよく、今迄生きていたものだ。相当な力の持ち主だったんだねぇ。婆婆にモノを祓われて、正気に戻ったその客が、その後どういう行動をしたのか、知っているかぇ」
「いや、それは、知りたかったことだ」
 意識の深い深いところで、聞くともなしに聞いている会話は、考えるのを止めたわたしにとって、さらりと上を流れていく風のようだ。暖かくて、心地よさに浸り続けて。

「その客は、すぐさま避けて辛く当たっていた娘に懺悔をしに行った。その後、娘は母親を見送ろうと一緒に乗り物に乗ったんだよぅ。祓われても尚、力を持っていたあいつらは、嫌なことを引き起こした。何故、あいつらがこの子を探しているか、その理由は言わなくても分かるだろう」
「何でもっと早くに、教えてくれないんだよ!」
「知っていたら、何か今と変わったかぇ」
「……懺悔されていたんだ。どんな思いで聞いたんだろう」
「母親がそう思える心持ちを作ったのは、婆婆だよぅ。何て説得したのかは知らないが、母親が長年背負っていたものを下ろすきっかけになった婆婆に、話を聞いてみてもいいのではないかぇ」
「やけに親切だよね。何時もならここまで介入してこない」
「言っただろう。わっちはまだまだお前と遊びたいんだよぅ。その子は正直どうでもいい。安易に道を選ぶ者を、わっちは好かないけどねぇ。お前がそこまで痩せても、その子と一緒に在りたいと願うのならば、背の一つも押すよぅ」
「……ありがとう。恩に着る」
 さわさわと葉擦れの音は、深い意識の中にもはっきりと響いていた。甘い甘い大気の匂い。

「眠っているのかな。心地よさそうだ」優しい、誰ともなしに問いかける声は、上から降ってくる。

「長き夜の夢をゆめぞと知る君は、さめて迷へる人を助けむ。いい歌を選んだねぇ。真吾はなかなか、勉強家だぁ」
「本気だから。誰にも止めて欲しくはない」
「お前の表面は穏やかなのに、中はとてつもなく大きな熱情を抱えて生きているねぇ。わっちが問いかけたように、昨日までいた亡き人を、そっとそのまましのぶのではなく、長い夢から助け出したいなんてさぁ。まあ、情熱的なのは見ていて面白いけれどねぇ、でもこれだけは言わせておくれ。
 そのままの自分をこの子に見せなされ。それが道になる」

 瞼にふわりと柔らかいひかりを感じた。わたしの隣にいるひとを巡って、そのひとの身体へ入り込んでいった気配がする。

「道標を貰ったのは、初めてだ」
「わっちは、たまにいいことをいうんだよぅ。普段はおなごの生脚が好物の狐さぁ」

 ずっと撫で続けていた大きな手は、そっとわたしの頬に触れた。

第十四夜

 都会の喧騒の中、ビルの谷間で、車のクラクションの音が響いた。
「朱里ちゃん、起きて」
 誰かがわたしを呼んでいる。眠い、眠いよ。まだ、もっと眠っていたいの。起こさないで。
「……起きないぜ、宮本真吾」
「もうちょっと呼び掛けてみて。起こすのは身内の方が、違和感を持たせずに済む」
「朱里ちゃんっ、起きなって」
 身体を揺すぶられて、わたしは眉根を寄せる。
「真吾、気を、入れすぎたんじゃないかぇ。幾らこの子の唇が心地よかったからといって、長々とベロチューはやり過ぎだよぅ」
「ちょっ、ちょっと待てよ。宮本真吾、お前朱里ちゃんにチューしたのかよ。やっらしー、何だよ、俺んちでおじさんに任せてくださいとか恰好いいこと言っときながら、やっらしー、うわー引くわ。マジ引くわ。任せらんねーじゃん、チューとか、有りえねぇ」
「うるせぇんだよ尻の青い小猿め、狐も余計なこと言うな!」
「罵り合って蹴り合って仲良くて結構だが、お前たちは遊んでいるのかぇ。ユウも待ってるのだよぅ。早く起こしなよぅ」
「そうだ、早くやれ」
「何、威張ってんだよ。この事おじさんに言ってやるからな」
 話し声は聞こえなくなって、喧騒の音に混ざって人が動き回る気配がする。やがて創がけたたましく笑う声が響き、卑怯者とか馬鹿とかいう声に混ざって笑い声はやがて止まった。

「まいったか、盾つこうなんて百万年早いんだよ」
「くっそー誰だよ、俺の脇が弱いの教えた奴。ぜってー締めてやる」
「そこで寝てるけれどね」
「朱里ちゃん、起きなって。宮本真吾のこと、蹴っ飛ばしてやってくれ」
 ぐおんぐおん、と振るように身体は揺らされた。ううん、しつこい。わたしは薄目を開けた。
「あ、起きた。創、もう振るの止めろ」死神は創の肩を掴んだ。
「………ここ、どこ」
 ぼんやりしたわたしは、辺りを見回す。どこかで見たことがある風景のような、知らない景色のような不思議な感じがする。
「わっちのお社だよぅ。目覚めたかぇ、可愛い子」
 目の前にはお稲荷さま、創、死神……だけど確か宮先輩、そして白い半袖シャツに黒のズボンを履いた、坊主頭の静かに微笑む青年が立っていた。
「どうして、わたしここに」
「池田さんは、調子を崩してここで休んでいたんだ。調子はどう」
 間髪入れずに先輩は話した。そうだったっけ。思い出せず、何かを考えようとしても、何も考えられない。彼がそう言うのならそうなのかもしれない。
「さあ、可愛い子。婆婆のところへ行っておいで。そして狐がよろしくと言っていたと伝えておくれよぅ」
 お稲荷さまはわたしの腕を掴むと、勢いよく引っ張り立たせた。あまりの勢いの良さに、身体はよろめく。
「ユウも留守番をありがとうねぇ。助かったよぅ」
 ユウと呼ばれた坊主頭の青年は、静かに微笑みながらゆっくりと頷いた。
「エロ狐、ありがとう」
「エロは余計だよぅ。真吾、道標を忘れるなよぅ」
 お稲荷さまはお社の前で手を振った。行こう、そう促され先輩と創と坊主頭の青年は歩き出す。
 わたしはキョロキョロと行きかけている集団とお社を見た。そしてお稲荷さまへ向かって頭を下げる。もう一度頭を上げた時、そこには誰も居なかった。

 お前も道標を忘れるなよぅ、可愛い子。囁きのような風は、わたしの傍を掠めて行った。


 遅い午後の大きな四車線の通り沿いを、静かに創たちと進む。
 いい天気だったのか空は真っ青で、ビルの隙間から低くなりつつある黄色い日の光は、行く道を照らしていた。人通りは少なくて、柔らかく吹いてくる風は暖かい。春めいてきているような気がする。
 春めいて、って、今はまだ冬のはずだった。けれど東京で過ごす冬はわたしにとって初めてのことだ。きっと暖かい日だったんだろう。
「あんた、ユウさんっていうのか。神社にいるの」創はユウさんへ先を歩きながら、話しかけている。ユウさんは静かに頷く。
「なー宮本真吾。ユウさんは喋らないの」
「いや、たまに話す。でもほとんど話さないよね」
 死神になっている先輩は、ユウさんに問いかけた。ユウさんはまた静かに頷く。
「神社にもいるんだなぁー意外だったよ。神社には、居ないと思っていたんだよね」
「ユウは特別だよ。婆婆の大切なひとだから。他は神域だから基本居ない」
「じゃ、朱里ちゃんまずいんじゃ………」
 歩きながら創はわたしをちらり、と見た。まずいって。
「入れるようにしておいたから、大丈夫」
「どうやってさ」
「……………」死神の先輩は、応えない。
「まさか、もっとなんか悪いことしたのかっ、おい」
「五月蝿いっ、僕の気を入れてあるから大丈夫なんだ」
 気、って何だろう。そんなもの入れられたっけ。
 思い出せないことばかりなのに、それを当たり前と思い始めている。何かがおかしいのに、それが何かは分からない。
 そして、疑問を口にしようと思わない。何故、そう思ってはいるのに。


 四車線の通りを渡って少し進んだ頃、何故か創はそわそわしだした。
 死神の先輩に何か尋ねようとして、止めて、また尋ねようとして止める。
「創、どうしたの」
 わたしが尋ねると、創は睨みつけてきた。
「朱里ちゃんは自分の心配しろよ。全く」口が尖っているなあ。
「何で怒っているの」
「お、怒ってないよ、別に怒ってないし、何だよ、信じてないな、何にもないから!」
「怪しい。気になることがあるなら、聞いてみたら?」
「創、どうした」
 歩きながら先輩は振り返った。創はあさっての方向を見ながら、頬をちょっと赤らめた。

「あのさ、正月に朱里ちゃんと一緒に踊ってた人さ、今日居るの」創はいつになく早口だった。
「踊り……ああ、奉納舞か。怜だよね。多分居るんじゃないかな。何で怜?」
「いや、べっつにーちょっと聞いただけだからさ、気にすんな」
 道は小路に入った。創は何だか、うきうきとした足取りで歩いている。へぇ、そうなんだ。そういうこと。言わないけれど。
 にやり、と笑った先輩と目が合った。死神だから凶悪で怖いけれど、なんとか頷いた。

 更に日が暮れかけた古い街並みの小路は、静かで淋しいような気がする。じんわりと夜の闇の中へ沈んで行く前の、曖昧な時がわたしは苦手だ。一日の終わりを美しいと思えるのに、何処へ気持ちを置いたらいいのか分からない。夜の闇は怖くないのに、曖昧なこの時には途方に暮れた。
 やがて道の向こうに、腰の曲がったお婆さんが立っているのが見えた。何時も縁台に座っているお婆さん。わたし達を待ち受けて居るようだ。
「彼女は婆婆に用があるんだ。通してくれる」
 死神になっている先輩はお婆さんに近づくと、いきなり親しげに話しかけた。
「害は無さそうですなぁ。ですが、おいそれと入れて良い者ではない。婆婆に何を問いに行くのです?」
「彼女の母のことを」
「………婆婆は応えると?」
「それはわからない。でも応えて欲しい」
 お婆さんは先輩、ユウさん、創の顔を順に見た後、わたしを見つめた。
「門番のババアの戯言と思って聞いて下され。坊ちゃんを連れて行かないでおくんなさい。そなたの悲しみは、そなたが乗り越えるべきものじゃろう」
「それは言わないでくれ」
 間髪入れずに先輩は、お婆さんの言葉を遮った。黒目が澄んだお婆さんは、寂しい表情になって先輩に言った。
「わしだって、坊ちゃんのことを心配して居りますのじゃ」
 その言葉を聞いてそっとユウさんはお婆さんに近づくと、その耳に何かを囁いた。お婆さんはゆっくりと横目でユウさんを見ると、一度静かに目を閉じた。
 お婆さんに言われている言葉は分かっている。けれど意味は分からなくなっていた。まるで異国の言葉を一字一句正確に聞き取れているのに、その意味が理解出来ないでいるような状態だ。なのにそれを不思議とも思わない。当たり前に感じている自分がいる。
「道を開けましょう。しかし、納得はしておりませぬ。逃げる者を追いかけ続けて、坊ちゃんは命を削り過ぎている」
「心配を掛けてるのは、分かっているよ。でも、それでもやりたい事なんだ。有り難う、そこまで想ってくれて」
 きっぱりとした物言いの先輩を切なげに見たお婆さんは、ふわり、と手をかざした。ピリリとした風を一瞬感じて、頬に手をあてる。
「その道に幸有るよう、願って居りまする」お婆さんの言った言葉に、先輩は静かに頷いた。

「あの婆ちゃん、すげー力持ってるんだな。なんか緊張しちゃって、何も言えなかった」
 お婆さんと別れてから、創はポツリと呟いた。
「遥か昔からあのひとは、あそこで門番をしているんだ。うちの神社が建った時からあそこで出入りする者を見守って、不穏なものは寄せ付けない役割をしている。たまにそれでも凄い力の持ち主が、悪いものを連れて入り込んでくることもあるけれどね」先輩は歩きながらわたしをちらり、と見た。
「遥か昔からか、すっげーじゃん。どこの神社にもいるのああいうひと」
「いや、うちはこの辺でお化けなんかが大量に出て、それを治めるために建てられているから、おいそれと神域に入り込ませないために居てもらっていたらしい。未だにあそこを気に入っているのか、道案内までしてくれていてありがたい存在なんだ」
「ふーん、お化けが大量ねぇ。そんなことあんだな」創はそっちの方に食いついたらしい。
「僕の一族にね、それまでに見たことも無い位強大な力を持ったものが居て、そいつはそれまでの地位と待遇に不満だったらしいんだ。そこで死んだ者や、生きて彷徨う者を手当たり次第自分の手下にしていった。そうやって自分が天下を取ろうとしたんだ。でもそれに気がついた一族はそれを治めるために各地に散らばっていって、神社を建てて行ったと言われているんだよね」
「えっ!マジで、そいつどうなったの?」
 創は頭の後ろで腕組みしながら、グリン、と先輩の方を向いた。
「追い詰められて東北のほうまで逃げていったという記述がある。そしてある時からぱったりと出なくなったらしい。多分そのあたりで仕留めたんだろうね。それからもずっとここに居るんだから先祖は多分ここが気に入ったんだろう。今はこんなに都心になってしまったけれど」
 そう言って先輩は、低く電線が張り巡らされた向こうにある、オレンジと水色が混じり合った空を少しだけ仰ぎ見た。
「神社、見えたぜ。どっから手繋げばいいんだ」創は死神になっている先輩に不安そうに訊ねる。
「鳥居に入る前かな。流石に神域だからね。念の為」
 先輩が言うと創は黙った。緊張感が漂いだしていたけれど、ユウさんだけは変わらず静かに微笑んでいた。

 石の鳥居の前にくると、皆で一礼して創は手を差し出してきた。
「朱里ちゃん、手を繋ごう」
「え、どうしたの。珍しいね」わたしがそう言うと、創はちょっと頬を赤くした。
「なんか、迷子にならないように、だって」
「創が?」
「朱里ちゃんだよ、何で俺だよ。そんなチビじゃねぇし」
「池田さん、創と手を繋いで」
 言われた途端こころはすぅ、と凪になった。体は勝手にするりと創の手を取った。何も考えられずそれが当たり前だとそう思った。
「宮本真吾……朱里ちゃんがおかしい」
「いいんだ。行こう」
 創に手を引かれて鳥居をくぐり抜けたその瞬間に、参道の暗い緑の木々は優しく震えるようにざわめき、清涼な風がわたしの身体を吹き抜けていった。思わず目を閉じる。こころが洗われるような涼やかで爽やかな風。そっと目を開けると、目線はとても低くなっていた。
「宮本真吾っ、おい」
「ああ、小さい子になっちゃったか。創、そのまま手を離すな」
 そう言ったひとは、とっても痩せてしまっていたけれど、宮先輩そのもの、だった。死神じゃない宮先輩。会いたかったひと。会いたかった?でも会いたかった、ひとだ。
「それにユウさんが居ない」
「神社の中に入ったから、婆婆さまの所に戻ったんだよ」
 創がとても大きく見えた。繋がれた自分の手は、ふっくらとして小さい。
「もう、本当に時間はない。池田さんの身体も弱ってきているようだし、婆婆さまに会った後、そこまでなんとか、もってくれたらいいけれど」
「宮本真吾」
「創、希望は捨ててない。ごめん。ちょっと弱音吐いた」
「しっかりしてくれよ、お前がリーダーだろ」
「………そうだな。行こう」
「朱里ちゃん、行こう」創から促されて、わたしは手を引かれ歩き出した。

 手水舎に着くと、宮先輩は先に手や口を清めた。
「池田さん、ちょっとの間だけだから我慢して。創、手と口を清めてきてくれ」
 痩せてしまった先輩は、屈むとわたしの手を取った。暖かくてじんわりとした熱が手から伝わってくる。創はそっと手を離すと手水舎の方に行った。
「宮本真吾。ここの水さ、湧いてきてるように見えるけれど井戸水?」
「ただの水道水だ。夜になったら止めてるよ。水道代バカにならないから」
「ふーん」
「あ、コラ、柄杓に口つけるな。作法に書いてあるだろ、ちゃんと見ろ」
 ちぇっ、と創は言うとぎこちなく柄杓を使い、清めて戻した。そして戻ってくるとわたしに手を差し出した。
「朱里ちゃん、お待たせ」
 先輩の顔を見ると淋しそうに笑っている。淋しいの?
「池田さん、創と手を繋いで」
 一歩前に出て、繋いでいない方の手でぎゅうと痩せた身体に抱きついた。淋しい。淋しいの、いっぱいさびしいの?どうにかしてあげたい。
「い、いけださん!」
 焦ったような声が上からする。抱きついた身体からは、じわじわと暖かさが身体に入り込んで来て心地いい。さみしさ、なくなれ。そう思いながら抱きついていた。
「ありがとう。でも駄目だ。池田さんだって弱っているんだ。創と手を繋いで」
 先輩は創を呼ぶと強引に創とわたしの手を繋がせた。
「宮本真吾がいいんじゃないの。朱里ちゃんへの字眉になっているよ」創はわたしを覗き込んでいる。
「あまり僕の気に触れさせ過ぎると、後戻り出来なくなるんだ。それは良くない。池田さんを暖めたいけれどやり過ぎると何も考えられなくなる。諸刃の剣なんだよ」
「諸刃の剣って何だ」
「ああ、勉強になるから辞書引けよ」
「覚えていらんねーって、教えろ宮本真吾」
「創、そんな口叩くの百万年早いから」
「何威張ってるんだ真吾」横から厳しい声が飛んで来た。
「おじさん」
 真剣な顔になった先輩は、すっと音もなく立ち上がった。

第十五夜

「何でここに来た。その子を連れて」
「おじさんには関係の無いことだ」
 地の底を這うような宮司さんの低い声に、先輩はただ淡々と返事をした。
「関係ないだと?よくそんなことが言えるな。まだまだヒヨッコの癖して。お前何をしようとしているんだ」
 眉間の皺を深くした宮司さんに先輩は沈黙をしている。

「バスの事故からお前はおかしいよな。そして最近みるみる痩せて来た。それを見て何をしているのか、ばれてないと本気で思っていたのか」
 長い長い沈黙の後、宮司さんは最後の宣告をするかのようにキッパリと言い切った。

「真吾、お前、もう手を引け」
「それは、出来ない」
 先輩は宮司さんを無表情で見返している。まるで負けないと、引かないと言いたげに。悲しくなってきて創の手をぎゅう、と握り締めた。
「朱里ちゃん、大丈夫だから」
 不安な気持ちで創を見ると、ちょっと困ったような顔をしながらも手を握り返してくれる。そんな仕草に少しだけ安心できた。
「そこにいるんだな。お前は何をしたいんだ?ここに連れてきて何をする気なんだ?」
 宮司さんはわたしと創の方を見て、詰る口調で話し始めた。
「婆婆さまに池田さんと会いに来た。彼女の悲しみと理由を知るために。今日は客だ。おじさんに止められたくはない」
 それを聞いた宮司さんはおでこに手を当てて目を閉じて溜息をつくと、眉間に皺を寄せながら先輩をちらりと横目で見て言った。
「車持って行ったり、依頼も全部断って何かやっているとは思っていたが、命削ってまでだとはな。最近朝拝と夕拝の当番終わっても会えないからおかしいとは思っていた。何で相談しないんだよ。少しは力になれたかも知れないだろう」
「おじさんが力に?」先輩は嗤う。
「お前ほんっとに変わってねぇなあ、神通力が何だよ。人生経験はこっちが遥かに上なんだよ。ちょっとは分ってきていたのかと思ったら、ひとりで暴走しやがって。どうせその子も巻き込んで一人で救ってみせるって思ってんだろ。一人で何かが出来るなんて思っている奴は馬鹿か若くて青いかどっちかなんだよ。ああ、お前はどっちもだなあ。このばかたれっ」
「頭の血管切れるよ」
「うるっせぇ、そんなに痩せやがって。死にかけの奴に言われたくねぇんだよ。お前こそ鈴木先生んとこ行きやがれ。即入院先紹介されるだろうよ」
「池田さんが怖がってるから止めて」
 肩で息をしている宮司さんのあまりの怒号に、わたしは創にしがみついていた。創は守るように大丈夫を繰り返して、頭を撫でられて。

「池田さんのお父さんから神社に問い合わせがあった。『宮本真吾という神主は御宅の神社にいますか』ってな」
 冷静な宮司さんの声に、先輩の顔色は変わった。
「依頼に行く時に身分証明のために取らせた資格を、そういうことに使うとは思わなかったな」
「何て答えたの」
「居りますとは言った。事実だからな。心配していらっしゃったよ。親御さんからすれば藁にもすがる思いだろうさ。でもお前はちゃんと出来なかった時の事は充分に説明してきたのか。救いたい、それだけで話を進めてきたんじゃないのか」
 その問いに先輩は応えない。畳み掛けるように宮司さんは、厳しい口調で話した。
「やっぱりしてないのか、祓うより何十倍も難しいことなんだぞ、何で言わない」
「説明はした。最後の手段についても」
「お前」そう一言言うと、宮司さんは絶句した。
「止めないで欲しい。どうしても池田さんには居て欲しい。どんな形であっても」
「それは真吾、お前のエゴだろう」
「そうだ。その代わり僕は一生枷を負う。ずっと大切にして、暖めて生きていく」
「口で言うのは簡単だぞ、それでも並大抵のことじゃない。お前が間違った考えを持てば、彼女も間違えるんだぞ。自分一人で何でも出来るって思い込んでいるお前に任せられるのか」
 黙った先輩へ、なおも追い打ちをかけるかのように宮司さんは怒鳴った。
「最後の手段で池田さんはどうなると思っているんだ、ただ生きているだけになるんだぞ」
「少なくても、池田さんの今までの苦しみは無くなる。同じ無表情で過ごすなら、心を殺し続けていた苦しみが無いだけその方がましだと思ってる」
 そう言った先輩に、宮司さんは眉間の皺をもっと深くして、もう一度おでこに手を当てた。そして長い間黙ってやがてポツリ、ポツリと話だした。

「お前と話しているとクラクラするな。絶対頭の血管切れてるな。そっかそこまで思ってるのか。だからあの問い合わせがあったんだな………そのことを聞きたくて、婆婆さまに会いに来たのか」
「そうじゃない。池田さんのお母さんの気持ちを変えたのは、婆婆さまだって狐から聞いたんだ。何とか池田さんが戻らない理由を探ってみたいと思っている。僕はもう一つの道を諦めてはいないんだ。それが理想の道だから」
「本人には聞けないのか」
「本気で聞いたら多分逝ってしまうと思う」
 宮司さんははーーっと長い長い溜息をついた。

「………分かった。しかしな、これだけは言わせろ。誰もがお前を心配している。一人で何でも出来るなんて思っているかもしれないが、もっと早く誰かを頼れ。自分一人で何かを出来るなんて、思い上がりもいいところなんだぞ」
「……ごめん」
「お前が本気で何かに取り組んでいたのは、伝わってきたけどな」
 そう言うと宮司さんは、創とわたしのところへやって来た。あまりの怒号に創と抱き合ってしゃがみ込んでいて、厳しい顔をした宮司さんにわたし達は怯えたけれど、やって来た宮司さんは創の頭を撫でるとこう言った。
「君が案内人なんだな。小さいのに偉いな。怒鳴って怖かっただろう。すまなかったな」
 宮司さんの表情からも伝わって来るようだ。本心からそう思っているって。
「いや、宮本真吾が悪いって話じゃん。俺、全然だいじょーぶだから」
 創はガタガタと震えながら、応えている。
「おっ、坊主すげぇな。よく分かってるな。その通りだからな。あいつの真似だけはしちゃ駄目だぞー」
「傷つくんだけれど、一応ガラスのハートなんだけれど」宮先輩がむっつり言うと、
「どこがだよ、お前みたいな頑固者のどこがガラスなんだか。下らんこと言って笑わせようとするな」宮司さんは立ち上がり先輩の頭をベシッ、と叩いた。


 夜の帳が下りようとし始めた境内を、宮司さんは先導するように歩いた。わたしは変わらず創に手を引かれている。誰もが無言で、誰もが緊張していた。
 わたしは、ただ痩せてしまった宮先輩の背中を見ていた。会えた。そのことが染み入るように嬉しかった。何かを感じて先輩の前から姿を消したような気がする。何処かで。
 でも、やっぱり何かを伝えたくて呼ばれて。呼ばれた、誰に?
 薄暗い境内は所々灯りが点っていた。建物の黒い影と薄暮になっている空。遠いところをジェット機が両翼に灯を瞬かせて飛んでいる。一番星は澄んだ空にキラキラと優しい光を輝かせていた。
「ここから入って、婆婆さまの所へ行け。拝殿を避けて行けるだろう」
 ずっと使われていないような扉の鍵を開けた宮司さんは、わたし達に入るように促した。
「ありがとう、おじさん」わたしと創が入ると、最後に先輩が入り、靴を脱いだ。
「俺は納得していないよ。お前が大事だから、お前の命を取られるようなことは起きて欲しくない。でも同じ親として彼女を救って欲しいとも思っているけどな。妻を失い子を失うかもしれない、そんなこと想像するだけで苦しいからな。でもな、一番はお前だよ。大事に想っているんだからな。それだけは忘れないでくれ」
「忘れない」
「よし、行け。俺は神社の門を閉めるから」そう言うと宮司さんは扉を閉めた。

「よし、行くか」
 外からのほのかな灯りだけが、板張りの闇に包まれた廊下をぼんやりと照らしていた。
「宮本真吾、本当に大丈夫なのか。皆に心配されてんじゃん」
「………進むしかないんだよ。進み続けるしか。霧の中を舟に乗って、櫂で漕ぎ続けているような状態だけれど、それでも進み続けていかないと。手探りで悪いな。何しろ助けることは本当に初めてなんだ」
「なんかさ、びゃーっ、と力使って、助けちゃえばいいんじゃね」
「それを何も苦にも思わず出来ちゃったのが、大昔のお化けをどんどん増やした先祖だからね。どう思う」
「………駄目じゃね?」
「だよな。力を使うと何かも失う。だからこそ使わないで済む道を探しているんだ。見つかるといいけど」
 そう言うと先輩は、創の頭を撫でた。
「創には感謝しているよ。創が居なければ僕は、とっくに体力を失っていただろうね。身内だっていうのも大きいけれど、力を持っている人がサポートしてくれているのといないのじゃ全然違うから。ありがとな」
「なんだよ、きっもちわりぃな。早く行くぞっ、ばあちゃんが居るんだろ」
 照れた創はわたしをぐいぐい引っ張りながら、暗い板張りの廊下を歩きだした。


 何度も廊下を曲がって、一番突き当たりの奥にある引き戸を先輩はノックした。
「婆婆さま、ユウ、真吾です。迷いし者と、その案内人と共に参りました」
 すぐさま音もなく、引き戸は開けられた。明るい光が漏れ出る。
「怜」
 そこには明らかに怒った顔をした怜さんが、先輩を睨みつけていた。

「真吾、どういうことなのか説明して」
 後ろ手で引き戸を閉めた怜さんは暗くなった廊下に立ち、冷静な声で話して先輩を睨んだ。
「怜に関係ないことだ。通して欲しい」
「やっぱりそうなんだ。真吾はわたし達のこと、他人だって思ってる。信用できない他人だって」
「違う」
「じゃあ、なによ。都合のいい親戚?」
「そんなこと思ったことはないよ」
「どうだか。ここに住み続けられるのに大学入った途端近所にアパート借りたり、そんなに痩せても相談のひとつもなしじゃない。どうして」
「心配かけてるのは、わかってる。ごめん、怜」
「あやまって欲しいわけじゃない。わたし達は真吾のこと本当の家族だと思っているのに、あんたはそう思っていないじゃない」
 怜さんは吠えるように先輩へ叫んだ。悔しさと怒りで一杯のそのひとを、先輩は静かな目で見ていた。創はぎゅう、とわたしの手を握りしめてきた。ぎゅう、と。

「怜、止めなさい」
 後ろから優しくて厳しい声がした。おかあさんの、こえ。
「だって、真吾が、余りにも勝手だから」怜さんは静かに泣いていた。
「それでもよ。それでも」
 そう言うと宮先輩のおばさんは、先輩に向き直ってそっと働き者のその両手で、頬を挟んだ。

「真吾、お父さんから聞いたわ。もう気持ちは変わらないの」
 少しだけ先輩は頷いた。その姿は小さな子どものようだった。いけないことをして、諭されている子ども。
「進みたいんだ。少しでも、そこに待ってるのがどんな結果でも。逃げたくない。逃げ出したくないから」
「諦める選択肢は、無いのね」
 もう一度頷いた先輩におばさんは笑った。

「なら、進みなさい、真吾」
「止めないんだね、おばさんは」先輩は笑っていた。
「止めて欲しかった?そんなことで覆らないんでしょう。なら、わたしに出来ることは背中を押すことだけだから。後ろからどーん、ってね。でもこれだけは言わせて。真吾が理想とする道以外を選ぶのなら、それはひとにとってとても悲しい道のように私は思う。婆婆さまと雄一郎さんの時とは状況が違うしね。それでもその道を選ぶのなら、お前は彼女に一生を捧げなさいね」
 先輩が頷くと、おばさんは名残惜しそうに頬から手を、降ろした。
「婆婆さま、入れてもよろしいですか」
 おばさんは引き戸の向こうに声を掛けている。ややしばらくして、コツ、コツと二度扉が鳴った。
「怜、どういうことか聞いてきて」
 厳しい顔をしたおばさんは、怜さんに素早く指示した。怜さんはすぐに戸の向こうへ消えて、すぐに戻ってきて静かにこう言った。
「真吾と、迷いし者だけで入りなさい。だって」

「池田さん、おいで」
 そっと先輩は屈むと創から離してわたしを抱き上げた。目線が高くなって先輩に抱きつく。じんわりと暖かさがやってきて、触れ合ったところから優しい熱が流れ込んできた。
「朱里ちゃん」
「創、行ってくる」
 不安そうな創を慰めるかのような声が背中に感じられて。

「婆婆さま、ユウ、真吾と迷いし者で入ります」
 コツ、と一度扉が鳴って、先輩は引き戸を開けた。


 広めの一間の畳敷きのその空間には、部屋の隅に大きな丸い和紙で出来た照明が置いてあった。柔らかいひかりは、中をぼんやりと浮かびあがらせている。壁に埋め込むように大きな神棚みたいなものがあり、その前にお婆さんが座布団に静かに正座していた。その隣にユウさんが同じく座布団の上に座り、隣にいる小さいお婆さんに寄り添っているように見えた。

「小さく成ってしまったのだね。舞姫は」
 先輩は胡座をかいて、その上にわたしを乗せるとお婆さんは静かに話した。
「神域に入りましたから」
 先輩は感情のこもらない声を出して、わたしは思わずその顔を見上げる。暖かさは少しずつ染みるようにわたしに入ってきた。
「随分と懐いている。(まこと)の真吾を見つけて、安堵しているようだ」
「婆婆さま、本日は問いたいことがございまして、参りました。答えて頂けますか?」

「我、偽り無き世界の欠片を伝えし者。答えよう」
 ふわり、とお婆さんの周りが揺らめいたような気がした。

第十六夜

 小さな石灯籠が置かれた狭い石庭は、畳敷きの部屋からのぼんやりとした灯りで、その存在を薄闇の中、微かに見せていた。竹垣で囲まれた、その狭い空間はひっそりとして静謐だった。誰も入ることの出来ない空間なのかもしれない、それを、先輩の膝の上に乗せられて、ぼんやりと見ていた。

 目に入るものはその存在を感じるのに、こころは、完全に感情を無くしたかのように静かだった。ただ、膝の上に乗せられて安心していた。もうここにいて、ずっとこのままここにいるのは当たり前だと、そうなっていた。

「池田さんのお母さんが訪ねてきた、その経緯を教えてくださいませんか」
 先輩は、しっかりとした口調で話し始めた。

「あのお方は、我らと源流が同じ者だったようだ。強い未来視の力を持っておられた。しかし、あのお方の家系では、力は廃れたということになっていたようだ。世代を超えて、あのお方は力を授かった。しかし、そのせいで疎まれ、卑下されて大人に成ったということだ。力を掌握し、使いこなす訓練はされておらぬ。それが悲劇だった、とあのお方は言われた。それは知っておるな。家族から聞き取ったのであろう」

 お婆さんは淡々と話して、先輩はゆっくりと頷いた。わたしは先輩を見てから、お婆さんを見た。
 ひとつひとつの言われた言葉たちは、わたしの中に染み込んでいくようだった。ただ、そういう出来事があったという、事実として。

「薄々、そうではないかと思っておりました。池田さんの案内人を引き受けてくれた創の力は、僕たちに極めて近い。奉納舞の日に創が神域に入って、おじさんが声を掛けているのを見ましたが、あれは婆婆さまが創の力を感じたのですか」
「雄一郎が教えてくだされた。そっとな。篤弘に行って貰ったが、案内人の母親は、自分の姉の方ばかりを気にしておったらしいな。まああんなに、祓うべき者を連れて居る御仁であれば、無理もないが」
 そうお婆さんが言うと、ユウさんはにこ、と笑った。
「僕はあの日、創に気がつかなかった。まだまだ修行が足りない」
「案内人は精神が安定しておる。自然と力を抑えるべきは抑え、使うべき時には使っている。子どもだからかまだ、力は安定しておらぬが」
「そうですか」
「ここで修行していけば、良い術者に成るだろう。久方ぶりに、力を持つものを迎え入れることになりそうだ。そなたがここに来て以来居なかったが、案内人は我の最後の弟子に成りそうだな」

 先輩はその言葉に返事はせず、代わりに慎重な様子で質問を繰り出した。

「池田さんのお母さんは、何故、あんなに沢山の祓うべきもの達を、引き連れて居たのですか」

「あの方は、大きく成った娘が稲荷に囚われて、首を掻き切られそうに成る、そのような場面を繰り返し視たそうだ。生々しく、命を狙われる娘の姿を」
 先輩が息を飲むのが、膝の上でもはっきりと感じられた。初めて動揺して震える感情がわたしにも流れ込んできて、恐怖に身体は満ちて行く。

「真吾、そなたがこころを乱すと、その子も乱れるぞ」お婆さんは静かに嗤う。
「それはつい先日、あった出来事です。それを視たと」
「いかにも」

 少しずつ、怖い感情は小さくなっていった。先輩はすっかり怖かった感情が無くなってから、わたしの頭を撫ぜた。慰めるように動くその掌からは、また優しい熱が染み込んでくる。
 でもその熱は弱々しく感じられて、先輩の顔を見上げる。

「狐の稲荷に彼女と一緒に行った時に、狐は池田さんに言ったんです。『母親のことはお前が悪い訳ではない』と。それはそういう意味だった。そうですね」
「いかにも。永住町の稲荷殿は、ご自分が成すべきことを成されたのみ。あの稲荷殿は、我らとは違う世界に存在する者であるからして、基準は我らとは違うからの」
「力を安定出来ず、未来の欠片だけ視て、不安に駆られて池田さんとの関係は悪化した、そういうことか……。それで、あんなに祓うべきもの達を背負っていたんだ」

「少しは道理を理解出来たかね」お婆さんは静かに言った。
「狐から池田さんにお母さんは、懺悔をしたと聞きましたが」
「未来視の意味を知りたがっておられたのでな。稲荷殿が、何故そのような行動に出たかだけは、教示致した。まさか自分が関わっていたとは、夢にも思っていなかったようだ。未来視で視た欠片に振り回され、娘を護ろうとして反発され、頭を押さえつけ育てた結果があの稲荷殿の行動に繋がるとは、分からなかったと顔色を変えておった」
「裏目、裏目に何事も出たのですね」
「そうだ。娘を想っての行動だった、と涙を流しておられた。切に娘との関係をやり直したい、娘が命を奪われそうな状況に成るのを何とか防ぎたいと願った時に、祓われるべき者たちとの鎖は断ち切れたように見えた」
「婆婆さまが祓ったのでは、なかったのですか」
「それだけの力の持ち主であったと言うことだ。修行を出来る環境が有れば、我より強大な力を得ていたであろう」
「狐は、婆婆さまが祓ったと言っておりました」
「我は少し手助けしたのみで、鎖のほとんどはあのお方が断ち切った。間違えたということは、それだけ力の質が近しい、ということだ」先輩は、長い長い溜息を静かに吐いた。

「そういうことでしたか。あの事故の後池田さんのお母さんも探しましたが、早い段階で昇って行かれたのは感じておりました。あっさりと逝かれてしまった。何があったのかご存知ですか」
「そこまでは我にも視えぬ。ただ微かにだが、舞姫からは母親の加護を感じるのだよ。仮定の話だが、先に天に昇って行こうとしていたのは、舞姫ではないのだろうか。母親は生きていて欲しいと願い、舞姫の羽衣を取り上げたのかもしれぬ」
「そのために力を使われてしまった、と」
「そなたとて、同じであろう」
 そう言ってお婆さんは目を伏せた。先輩はやるせなさそうに、わたしの頭をゆっくりと撫でた。

「命を擦り減らし舞姫を引き留める意義は、お前の中には有るのかもしれぬが、周りの者はそうは思っておらぬ。お前1人が、崖の下に墜ちて征きそうな舞姫に手を伸ばしているが、もう限界であろう」

「それでも、手を伸ばすことは止めません」

「共に墜ちると?」

「あの時、死を望まれて火をつけられて、死の淵を彷徨っていた時に、お婆婆さまに助けて頂いたことは有難く思っています。ですが火傷の跡は何時でも疼き、力を制御出来るようになっても僕は空虚でした。
 霊となっても悲しみや苦しみを持ち続ける者たちを見続けて、そのこころを理解しても尚、僕は白黒の世界に生きていたのです。そこに色を載せてくれたのは、この人でした」
 優しい手は、わたしを撫で続けていた。絶え間無く、また音も無く。

「池田さんの目には、世界は美しく優しく見えていて、桜の花びらが舞い落ちる風景をこころに持ちながらも、鮮やか過ぎるほどの暖かい言葉で、僕の世界に色を載せてくれました。
 この人が見つめている先には何時も日が落ちかけた静かな午後や、青空に寄るべなくただ、そこに浮かんでいるだけの白い月がそっとあって、それを僕はこころから美しいと思えたのです。
 この世界は美しい、と気づかせてくれたこの人の手を、僕は離したくないのです。たとえそこに待っているのは、何であろうとも」

「我とそなたはやはり似ているな。血は争えぬ。我も、戦いに赴き身体を亡くした雄一郎が夢枕に立ち、離れたくなくて契りを交わした後、先代のおじじにお前と同じ様な事を言うたよ。
 周りに跡取り娘が婿を迎えぬとは、と戦後猛反対されたが、おじじは何時も笑って我にこう言うた。『我が一族は一途で頑なで、自分を押し通す者ばかりだ』とな。
 しかしこうも言われた。『自分の心持ちばかりに捕らわれて、ひとのこころに寄り添い歩いていくことを、知らない者も多い』と」

「僕もそうだと言いたいのですか」
 撫で続けていた手はピタリ、と止まって先輩は冷えた声を出した。お婆さんは、静かな湖面のような黒い瞳で先輩を見ていた。その傍でユウさんは、静かな微笑みを浮かべて何も変わらなかった。

「それでは真吾、お前はこの後どうするのだ。その子に理由を問うのか、それとも我と同じ道を往くか。もう時は残されてはいないのであろう」
 微かに動揺するこころが、触れ合った先輩の身体から流れ込んで来た。やっぱり先輩の顔を見上げると、無表情でお婆さんをじっと見ていた。

「お前が動揺すると、その子も動揺する。今でもその子はお前のこころを汲み取って、お前の顔を伺っておるぞ。雄一郎と我も最初はそのような状態であった。我が、怒りに身を任せてしまうと、部屋の中は雄一郎の力で切り裂かれ、目も当てられない状況に成った。自己を律し、長い年月を掛けて今やっと、静かな生活を送っているが、そこまでの道は決して平坦ではなかったな。真吾、お前はそんな道を選ぶか」

「結論などまだ出ません。ただ、際まで行った時にどのような決断を下すのかは、決めてはあります」

「そうか、それなら良い」

「婆婆さまはユウが夢枕に立った時、何を思って一緒にいる道を、決断したのですか」

「雄一郎は我に、別れを告げにわざわざ戦地より舞い戻って来た。その時は我も十八の子どもで、後先など考えることは無かった。
 ただずっと想い続けていた幼馴染に、愛と別れを告げられて、我は雄一郎に縋り付いてずっと共にありたいと願ったのだよ。
 魂を我が手に握りしめる禁忌だと知りながらも、情を交わした。悩み苦しんで、決断しようとしているそなたとは、全く異なっておるな」

「選択を後悔は、しましたか」
 そう聞いた先輩にお婆さんはふわり、と笑った。気がついたらお婆さんは白いシャツにモンペ姿で、おさげ髮の美しく若い女の子に変わっていた。
 わたしがまじまじと見ているのに気がついたユウさんは、静かな微笑みを浮かべてそっと人差し指を立てて口に当てた。

「後悔も出来ないのだよ。雄一郎を否定することに成るからな」

「そうですか」

「棘だらけの、曲がりくねった道を往くだけだ。これからも」
 そう言った若い女の子の手の甲を、ユウさんはそっと持ち上げると、優しい仕草で口づけた。。その行為はとても艶かしく見えて、わたしは目を逸らす。

「お婆婆さま、答えてくださりありがとうございました」
 先輩は、わたしを膝の上に乗せたまま、頭を下げた。
「もうよろしいのか」
 若い女の子は、ふうわりと笑う。まるで全ての事柄をその目に映して、こころに受け入れているような、ぞっとするような美しい微笑み。
「はい、もう時間もありませんので、行きます」
 先輩はわたしを抱きながら、立ち上がりかけた。

「対価を貰おうかの。質問に答えた対価を」
 は、と聞き返した先輩の腕からわたしはするり、と畳の上に降りた。足が畳に触れた瞬間、わたしの身体は元の大きさになって、じわじわと熱が立つ空間へ一人で立った。

「な、にを」
 後ろで先輩が絶句しているのが感じられるけれど、わたしは動かないこころで、若い女の子の前に目を逸らさず立っていた。
「お前の質問に答えた対価は、舞姫に支払って貰おう、真吾、そなたは黙ってそこで見ておれ」
「婆婆さまやめてくれっ、どうして追い込むんだ!」
「言うたであろう。崖の上から手を伸ばし続けているのは、そなただけだ、と」
 後ろから答えは返ってこなかった。わたしは、じわじわと熱が立ち昇るその空間を、ゆっくり女の子へ向かって歩いた。一歩、二歩と歩くたびにさらり、さらりと暖かいものを失って行くような、そんな感覚を覚えながらも、女の子の目の前まで行くとそっと正座をした。
 すぐに後ろから、勢い良く激しい熱がやってきて、包まれる。隙間なく。

「ほう、まだそんなに力を隠し持っていたとは。しかし今のお前には、この子は救えぬよ。お前は自分を偽っておるからな」
「何故、傷つき悲しみに暮れている者を、暖めてはいけないのですか」吠えるような声が耳に響く。

「全ての自分を見せず、舞姫のこころに寄り添えぬのなら、何をしても同じだ」
 さらり、さらりと暖かいものは失われて行く。

「池田朱里。そなたは何故、死を選ぼうとする」
 美しい微笑みと共に出された問いに、目が見開かれた。

 それは、完全な質問だった。完璧な、長いそれでいて、全貌を見せつける環。

 死を選ぶ。そうだわたしは、死を望んだ。信じられない位にバスの車体は横揺れして、強い衝撃に身体から出た。そして、そうだ。

「やめてくれ、このままだと逝ってしまう。婆婆さま、何故」
 強く強く熱は入り込んでくるけれど、さらさらと失うものも多い。

「何故、死を選ぶのだ」
 尚も美しい微笑みで、わたしは問われた。こころを掴まれて。


「わたしは、生きている価値がないのです。生きている、意味も」


 リィンと、優しい音が、響く。


「もう、限界だ。来て、あの部屋へ」
 素早く囁かれた言葉は、わたしのこころに刻み込まれた。

第十七夜

 気がついたら、白い世界のあの可愛らしい扉の前に立っていた。扉の色はもっと濃い色になっていて、わたしは何も躊躇わずその扉をノックしようとする。何も疑問思うことも無く、それがただ当たり前だとそうなっていた。

 コン、コン、コン、と三回鳴らすと、柔らかなドアノブを左手で左に、回す。そこには、あの美しいひとが嗤いながら待ち受けていた。

「来たんだ」
 部屋の中は、薄暗くて一面窓の外は、暗い夜の森だった。銀色の月が部屋の中を照らしている。
 すっかり線の細くなった美しい彼は、焦茶の目をとろりとわたしに向けていた。

「入ったら、もう戻れない。どうする」
 声は甘くて蕩けそうなほどで、わたしを誘っているようだ。

 この先、どんなことが待ち受けているか知っているような、そんな気持ちになるのは何故。
 わたしは足を踏み入れた。やっぱりふんわりと暖かい床は、心地いい。

 三歩歩いて、後ろでちょっと乱暴に扉が閉められる音がして、振り返る。
 彼は扉に向かって手をふわりとかざした。ふわり、ふわりと何度も舞うように。
 そのうち、扉が夢のように消えて、いつの間にか白い壁になっていて。

 途端に甘い甘い夜のしっとりした森の匂いと、静かな木々の葉擦れの音を感じる。


「最初から、こうすればよかった」
 そう呟いた彼の声は、宮先輩の声だった。

 わたしのこころは、その声を聞いて震えるように、高い、甘い感情を覚えて。熱い、熱い感情がこころを占めて、彼に縋り付きたい、そして抱きしめられたい。抱えたことのない気持ちに、戸惑ってどうしたらいいのか分からない。

 でも、振り返った彼は、いつもの美しい彼だった。途端に気持ちは萎む。

「お茶に、しよう」彼は、妖しい色気を帯びた笑みでわたしを見やり、さっきとは違う声で話した。

 その笑みに縫い止められたように、こころは静かに止まった。

 わたしは、何かに従うように静かにガラスのテーブルの前のソファーに座る。

 白い壁に外から照らされた月の光が斜めに入ってきていて、明るいところと暗いところに分れているのを、わたしはぼんやりと見ていた。

 何も考えられず、ただ、黙って。

 部屋の中に、小さく茶器のカチャリ、カチャンと鳴る音だけが響いていた。


 どれくらいそうしていたのだろう。気がついたら彼が隣に座って、わたしの膝にいつか食べたスコーンの皿を載せた。暖かくてほんわりとしているお皿を見てから、彼を見た。

「召し上がれ」
 美しい彼は、やっぱり色気を纏って、わたしをとろりとした目で見た。

 こころは縫い止められたように動かず、何も考えられず、ただ、スコーンを小さくちぎって口に入れた。
 さくり、さくりと音を立てて食べるけれど、紙くずを口に詰め込んでいるみたい。
 暖かいけれど、何の味もしないスコーンをわたしは、食べ続けた。

 咀嚼する音だけ、静かな部屋の中に響く。
 何も感じられない。お茶も何の香りも味もしない。
 ただ、必要だから口に運んでいるだけ。それだけ。それでも食べ続けて、お茶を飲んだ。
 いつの間にかお皿は膝から下げられて、隣に座った彼の手が頬に優しく触れた。
「来てくれて、よかった」
 甘い甘い言葉は、更にわたしのこころを止めた。

 ふうっ、と身体の力が抜けていくのが分かる。腰が姿勢を保てなくさせて前かがみになったわたしの身体を、彼の腕が抱きとめた。少しだけ彼の手にぎこちなさを感じて、こころに甘い震えがじわり、と染み込む。
 くたり、と力が入らなくなったわたしを、彼はゆっくりと横たわらせて。

 高く薄暗い天井が目に入って、白くて大きなファンは、くるくると回り続けている。

 気がつくとソファーは、さらさらのシーツが敷かれたベットに変わっていて、触れる度に肌がさらり、さらりと心地いい。背中も、お尻や脚にもシーツのさらりとした感触を感じて、何も身につけてはいないことに気づく。

「還ろう、朱里」

 焦茶の目をとろりとさせた彼が、わたしの上に来て頭を撫で続けている。
 優しいその仕草にこころが落ち着く気はするけれど、何も湧き上がってこない。
 嬉しそうに優しく見つめられて、こころはすう、と凪になった。

 彼の手や指先は包み込むように、わたしの瞼、耳朶、頬に優しく触れた。その度に暖かさと穏やかな熱が身体の中に流れ込んでくるようだった。動くことも出来ずただ、横たわり熱を受け取るだけだ。
 目を閉じていると、下唇を柔らかく喰まれて、柔らかい熱を感じる。
 喉の奥から小さな声が抜けるように出て。

 あなたは、だれなの。しっているけれど、しらない。

 小さなわたしの声に気を良くしたように、彼は舌と舌を絡ませる。その動きに翻弄され、身体の中にあつい熱は染み込むように溜まって行く気持ちがするのに、こころは静かで、さっきのように湧き上がってくるものはない。

 ただ、胸は一杯で暖かいものに満たされている気はした。

 掌が全身を滑るように触れられるとその度にぴりり、とした熱が身体に溜まっていく。

 冷えた肌が熱いものに触れたときにじんじんするように、熱がわたしの中に流れ込んでくる。

 喉の奥が鳴るように内側から声は響く。這い回るように動く手に反応して、でもこころはついて行かない。それでも触れられている全てのところから、どんどん身体を駆け巡り溜まっていく。しびれるような熱が。

 音を立てて彼が唇を離した。

 わたしを覗き込んでくる彼は、目が熱く蕩けていて妖艶なのに、わたしには遠い存在の人に思える。

 こころも。


「還ろう、朱里」

 何処に、何処にかえるの?


 そのまま首筋にちくり、とした強い熱を感じて、舌で舐め取られて声が上がる。何度も、何度も同じことを繰り返して鎖骨のあたりを巡って、胸に辿り着いた。途端にぴりりとした熱は、ジワリジワリと下腹部に集まって来て、苦しい。

 よじるように逃げようと身体をねじらせたら、ぐっと肩を抑えられた。

「ここが、いいんだ」
 彼がわたしを妖艶に覗き込んでから、また顔を胸に埋めた。背中が弓なりになるのに、押さえつけられていて熱を逃がせず、どんどん下腹部に熱は溜まっていく。

 拒否の言葉を口にしても、止まない行為から生まれた激しい熱は、背中を伝って下腹部の方へ流れていく。熱を感じ過ぎて辛くて身をよじるけど、抑えられていてどうにもならない。溜まり続けている熱が苦しくて、たすけて、って声が出た。何度も。たすけて、そう言って頭を振る。

「逆らわないで、身を任せて」

 溜まりに溜まった熱は全身を駆け巡り、身体は自然にびく、びくっと跳ねだした。
 大きい熱が身体をぎゅううぅと締め付けるようにやってきて、身体は激しく震えた。

 こわい、こわい。たすけて。

 震えの中で、わたしのこころは身体についていかない。こわい、彼が。

「そうやっていれば還れる。大丈夫」
 わたしを落ち着かせるように、宥めるように囁く言葉と、触れられる度に流れ込む熱い、苦しい熱に溺れるようになって。

 もがいで、もがく。

 お湯の絡みつく暖かさの中で、水面に上がれなくて、もがいているよう。徐々に熱は高まって、ひりついて、それなのに急激に染みていく。じんじんと何処も熱を持ち過ぎて、溶けてなくなりそう。

 そんな思いを掠めた瞬間、強く強く熱に押し上げられて身体は溶けた。


「蕩けてる、良かった」
 何かを確認するかのように顔を覗き込まれて、また頭を撫でられた。繰り返される行為に、与えられる熱に、全てを彼に委ねようとしていた。こころもからだも、何もかも、全て。なのに、怖い。

 いつの間にか大きく脚が開かれて、熱の塊がわたしの中に押し入るように先端が入りこんできた。ゆっくりと。でも確実に。体が震える。熱い。怖い。こわいの。
 弱々しい声が漏れ出て、もう動かない身体をそれでもよじろうとした。だめ、やめて、違う、違うの。

「これで、還れる、から」
 彼の言葉が揺れる。違うの、やめて、ちがう。

 少しずつ熱の塊がわたしに埋まってくる。この人じゃない、このひとじゃないのに!

「怖がらなくて、いい。大切にするから、ずっと、ずっと暖めるから、だから熔けて」
 縫いとめられる、絡み合った彼の熱い蕩けた視線に小さく首を横に振った。助けて、たすけて。だいすきなひと。

「はい、った」
 そんな彼の安堵の声に、不安が弾かれたように叫んだ。

「いやぁ、宮せんぱい」助けて、それは声にならなかった。凶暴なまでに熱はわたしの中を暴れ出す。渦を巻くように身体を駆け巡り、何かが組み換えられていく。
 声にならない喘ぎは、口の端から漏れる。

 たすけてせんぱい、たすけて、おねがい、かれじゃない、かれじゃ、なかった。

 熱の塊はわたしをぐっ、ぐっ、ぐっと早いリズムで追い立てて、突き刺すように穿っている。わたしは石膏像のようにベットの上で身を固くしていた。マグマのようにどろりとした熱があそこから流れ込んでくる。熱い、熱くて、熱い。

「みや、せん、ぱい、が、いい、の」
 何度か訴えかけてみるけれど、彼は深く、深くわたしを穿って微笑んだ。

「おね、がい、やめて」
「やめられない」艶のある、優しい声。


 その、言葉に、こころは、凍った。


 何て絶望感なの。

 胸にそれまであった暖かいものが一気に去っていって、絶望感が代わりにひたひたと染み込むように胸に入ってきた。

 穿たれながら、悲しみを抱えて思う、あの空の向こうへ、逝きたい。



 思い出した。

 もう、生きていたくない。疲れちゃった。

 あの日、あの事故の日、バスが横転して強い衝撃があって身体から飛び出したのは、疲れたから。

 ずっと思っていた。わたしって何で生きているんだろう。
 生きるって何。何をすれば、何をするの

 ひとに無駄に気を使って、顔色を伺っている。
 友達はいるけれど、本当にこころは許せているのかな。ただ、ひとりになりたくないだけじゃない。
 いつも、気が利かなくて、話だって上手く出来なくて、相手を苦笑いさせて。
 地味で、意気地なしで、考えなしで、そして、あの時、生きて、と身体へ戻る力を沢山くれた母を死なせた。

 わたしって、生きている資格、あるのかな。

 いなくなったって、誰も、困らないのかもしれない。

 でもそんなわたしでもいいって言ってくれたひと。

 そのひとに、最後に一目会いたかった。


 それだけが、ここに残っていた、理由。


 けれど、もう、いいの。



「あっ、あかりっ」ピタリと止まった彼が、慌てたように叫んだ。
 そのままぎゅう、と掻き抱くようにして、繋がったままわたしの身を起こした。

「なっ、なんで、なんでだ、消えかかってる」狼狽えた彼の声が耳に響く。

 くたりとして彼の肩に頭を乗せた。
「宮、せんぱい」会いたかった。最後に。

 でも、もう。

 慌てるように、からだに触れていた手がぴたり、と止む。

 夜のしっとりした森の匂いは、目を閉じると濃く、甘くなるようだった。
 木々のやさしいざわめきも心地よくて、彼の肩の上で眠ってしまいそう。そうすれば、逝ける。

「あかり!」
 宮先輩が、両肩をつかんでわたしの身を支えて離すと、苦しそうに覗き込んでいた。

 どうして、いつの間に。

 わたしを抱いていたのは、だれ?


 目が、見開かれているのが、わかる。

 リィンと心優しいベルの音が、響く。

「あかり!」絶叫も、響いた。



 薄暗い自分の小さなアパートの部屋に、気がついたらいた。


 薄闇の中でも分かる。わたしの手は向こう側に透けていた。

 わからない、何もかも。でも、もういいの。

 怖くはない。ただ、待つだけだ。消え去るのを。


 廊下の方から、グアングアンと鉄板の廊下を鳴らして誰かが走る音がして、うちのドアの鍵を開ける高い音が響いたか、と思うと物凄い勢いで創が姿を現した。
「創、ご近所迷惑だよ」
「朱里ちゃん、どうして」
 薄暗い部屋の灯りを、創は付けようとしなかった。
「創、ありがとう」
 自然と笑っていた。最後だから、そう思って。
「なんなんだよ、あいつ。失敗してんじゃねーかよ、ばっかじゃん、ばかじゃんっ」
「創、ご近所迷惑だって」地団駄を踏んでいる創をたしなめる。
「朱里ちゃん何で死にたいんだよっ、なんでなんだ。生き続けていられるはずなのにって、宮本真吾はいつも言っていたんだ。でもそれは嘘だったのか、何でなんだよ」
「もう、いいの。もう消えてしまいたい」
「思い出したの、全部」わたしは小さく頷く。
 いつしか創は泣いていた。暗い部屋の中ではらはらと。声も立てず、まるで大人のように。
「みんな、みんな朱里ちゃんのこと、必死で助けようとしてんだ。かーちゃんなんて、ずっと病院で朱里ちゃんに付きっ切りで、帰ってこねぇ。おじさんは休み毎に東京に来てるよ。とーちゃんは家の中のこと全部やって、仕事もしてさ。みんな待ってるのにどうして」
「ごめんね、でも、もういなくなるから、負担もなくなるよ」
「そんでまた葬式すんのか。朱里ちゃんの」
 創の一言にわたしは黙った。創は泣きながら、声を震わせながら、自分を励ますように話していた。
 泣かせているのはわたしなんだ。消えかかっているわたしが、創を悲しませている。
「創、ごめんね、泣かせて」
 消えかけているのにやっぱりこころは痛んだ。泣かせたまま、悲しませたまま逝くことになる。創はわたしが言った言葉にぐっ、と頭を上げた。
「宮本真吾は俺に言ったんだ。朱里ちゃんを助けるのはとっても難しくて、くじけそうになることばかりになるって。それでも、朱里ちゃんを助けたいのなら、朱里ちゃんの前では絶対泣かないで、弱音を吐かないで、どんな出来事があってもくじけないでくれって。それが朱里ちゃんを助けることになるって。
 俺さ、辛かった。聞けばいいじゃんって、そうすりゃ早いじゃんって思ってた。でも朱里ちゃんは聞こうとすると居なくなったりして逃げたよね。何で、なんで逃げんの」
 わたしは答えられない。逃げる、そう、逃げている。わたしは。何もかもから。生きることすら逃げ出した。

「朱里ちゃん全部逃げてるよね。宮本真吾はそんな朱里ちゃんを暖かくしたいって言って、ずっとずっと力を使い続けて、がりがりに痩せて、それでも朱里ちゃんを助けたいって、暖かくして優しくしたいって、どっからそんな強い気持ち持てるのかわかんねー位、弱いことこれっぽっちも言わないで、一所懸命頑張ってた。
 俺が朱里ちゃんの悪口言ってもあいつ、いつも黙って聞いてた。あいつ死にそうになってるのにさ、喋ったらいつも朱里ちゃんを助けたい、それしか言わねーんだ。そこまでしてたんだぜ。
 そこまでして貰ってたのに朱里ちゃんはそれでも死にたいの」
「創」
 ずっとずっと胸を満たしていた、暖かいものを覚えている。優しくて、温かくて、眠ってしまいそうな位ここち良かった。あれは先輩がくれていた、くれていたの。
「あいつが、あんなに、あんなに必死になっていたのに、朱里ちゃんはそれでも生きていたくないの。死んだ方が楽なの。俺、死ぬの怖いよ、すげーこえぇ。でも宮本真吾はそうなるの覚悟で、朱里ちゃんを助けたいんだよそれでも死にたいのか」

 創の泣き顔と必死な叫び声はわたしの気持ちを締め付ける。ごめん、ごめんなさい。

「宮本真吾の気持ちは無視すんのか。朱里ちゃん逃げんなよ。逃げないで宮本真吾と話しろよ。あいつならちゃんと聞いてくれるよ。だから、逃げんな」

 創、創の気持ちが、堪らない。

「わたし、気づいていなかった。わからなかったの。先輩だって」
「なんで」
「先輩じゃなかった。ちがうひとに見えたの。暖かさをくれたのは」
「あいつ何やってんだ、もうわっけわかんねぇ。どうしたらいいんだよ。ああ、もう」
 創は泣きながら、頭を掻き毟った。

「朱里ちゃん、逃げるなよ、生きなよ、また遊ぼうよ。俺さ脇こちょばされても文句、言わねぇし。嫌いなピーマンだって食べる。だから!」創の必死な声。
「創、でもわたし、もう」透けてきた手をかざした。もう、遅いんだ。
「宮本真吾に、もいっかい助けてもらえるように電話すっから。な、だから」
「先輩に」
「会いたくないのか、なら」
「あいたい」
 するりと口から言葉は出た。会いたい、あいたいよ。ずっと探し続けていた。先輩を。

 事故で身体から出た後、母はわたしに言った。
「私のせいで朱里、ごめんね。お願い、お願いだから、生きて」
 そうして、身代わりのように消えた母に、それでもわたしはこころが動かなくて。

 ただ、あの人に会いたいとだけは、思った。

 強く明るい光で誰かがわたしを探していた。怖くて近づいたら知らない所へ連れ去られそうで、逃げて先輩を探した。
 見つからなくて疲れて、気がついたら、白い世界の可愛らしい扉の前に立っていて。
 見たこともないほど美しい人にお茶を勧められて、やっぱり怖くなって逃げ出した。
 そのうち母のかけらを見つけて跡を辿って行ったら、黒い喪服の創は、悲しげにわたしの手をとってくれたんだ。

「ちょっと待ってろ、電話すっから」
 創は、子ども用の携帯を持っていた。おばさんは創が高校生になるまで携帯なんて、といつも言っていたのに、それを持たなければならない状況にある、ということ。
 それは、わたしが引き起こしたこと、だった。そうだ、わたしがなにもかもから逃げ出したから。
「創、もういいよ。もう。ごめんね、迷惑かけて」
「朱里ちゃん、そういうのいらない。そういうのが俺をかなしくさせるんだ」
 泣き顔なのに真剣に言われた言葉は、わたしのこころをぎゅう、と締め付けた。
「でも、でも」
「でもじゃない、会いたくないのか」

「会いたい」

 強くて明るいひかりは、一気に部屋を照らした。人型が浮かびあがったかと思ったら、少しずつその姿を現し始めた。

『シンゴニ、アイタイ?』
「ユウさん」強い目線でユウさんはわたしを見ていた。なにもかも見透かしたような、何もかもを知り尽くしたような瞳で。

『アイタイ?』

「はい、会いたいです」今更、だった。でも、それでも。

『サトコ、チカラヲ』
 婆婆さまの力を感じた。優しくて力強いひかり。身体は包まれる、ひかりに。

『シンゴニ、アイニイキナサイ』
 そうユウさんが静かな微笑みで言った次の瞬間、白い世界は現れた。

第十八夜

 気がついたらわたしはどこまでも白い世界にいた。どこまでも、どこまで行っても。
 どちらを向いてもあの扉は見当たらない。焦ってわたしはぐるぐるとその場を回り続けた。何度も、何度も。


 上を見ても下を見ても白い世界の中、あの扉を探していた。
 可愛らしい、いつの間にか目の前にあったあの扉、でも何処にも見当たらない。

 そういえば先輩は扉を消していた。それじゃあ、もう会えないのかもしれない。

 どうしよう、どうすればいいの。後悔が募り、呆然とする。


 わたしって、何て我儘で考えなしなの。

 創の気持ちや、先輩がくれていた暖かいこころに、これっぽっちも気づかない。

 それどころか、何処でもすぐに逃げ出した。逃げてしまえばそれで解決すると、そう思った。

 もう、薄くなってきた手を見る。

 自分のことばかりで、沢山の優しい気持ちを貰っていたはずなのに、手のひらからすり抜けて行くのを何も感じることなく、ただ黙って見ていただけだ。

 そうやって、なにもかもを手のひらから、零れ落とさせて。

 わたしは、消える。消えるんだ。


 初めて、こころの底から願いは弱々しく、湧き上がってきた。

 願っていいのか、分からない。だけど会いたい。
 あの、こころやさしいひとに、さいご、ひとめだけでも。

 どうか、最後に。一目だけ。



 その願い、叶えようかねぇ。

 誰かが妖艶に嗤った気配が、一瞬だけわたしのそばを掠めていって、消えた。



 永遠に続くような瞬きをしたような気がした。ほんの短い間だったのに。

 そこにはもう白い世界は無くて、木漏れ日が優しいあの森の中だった。

 緑の甘くて濃い大気の匂いと、小鳥達が、高く可愛らしい声で鳴くさえずり、葉擦れの、柔らかく静かな音が響く。足元がひんやりと感じられて、思わず下を見ると瑞々しい下草の上へ、わたしは立っていた。

 少し足を動かすと下草はふわりと緑の匂いを立たせて、わたしは目を伏せる。少しの間。

 もしかして、もしかすると。会えるのかもしれない。

 目を開けて、急いで周りを見渡した。



 森の中を焦って見回しても、あの白い部屋はなかった。森の中の何処を見ても。
 ぐるり、ぐるり、とわたしはその場で回り、それからやみくもに早足になった。

 あの部屋はどこまでもふんわりと柔らかくて暖かだった。眠ってしまいそうな位。

 わたしを暖めるためにある部屋、そう言っていた声を思い出す。

 でも、もう何処にもない。遅いんだ、全てが。反対側が緑に透けてしまった手を見る。もうここにもいられなくなってしまう。

 先輩、会いたい、会いたいよ。



 ひときわ大きな木の下で、こちらに背を向けて佇んでいる黒髪で白い狩衣姿のひとが目に入った。
 下草の匂いが立ち上る中を思い切り駆けていく。ひとめ、会うために。

「みや、せんぱいっ」
 呼ばれたそのひとはすぐにこちらを振り返った。痩せてしまって、落ち窪んだ目には驚きと哀しみの色しかなかった。

 会いたかったひと、会えた。それだけで胸が一杯になる。

「ごめんなさい、わたし気づいていなかった、先輩を、先輩だって気づけなかった。あんなに沢山の優しい気持ちを、何時も、何時も貰っていたのに、わたしは自分のことばかり、そうだった」
 わたしの支離滅裂な言葉に先輩はぐっ、と苦しそうな表情になった。そんな顔をさせたのはわたしだ。

「忘れて、忘れてください。わたしが消えたら忘れて。何時も暖かい気持ちを、ありがとう。嬉しかった。本当は嬉しかったの。最後に、今、会えてよかった。わたしが消えたら、忘れてください。忘れてそして、どうか幸せになって」

「どうしてそんなことを言うんだよ、忘れろだなんて出来るわけないんだ。何時だって一緒にいたいってそう思って、優しくしたくて、すきですきですきで仕方がないのに忘れろなんて、そんな残酷なことを言わないでくれ。そんなこと、そんなこと出来っこないんだ」
 先輩は身を振り絞るように叫んでいた。言われた一つ一つの言葉はわたしのこころを揺さぶって、苦しい。


 でも、もう、残された時間はあと、僅か。

 より一層薄くなった手を見る。その手は先輩の両手にあっという間に包まれた。

「離してっ、離してください。先輩、倒れてしまう」
 優しい熱が体に弱々しく入り込んでくる。こんな時まで暖めようとするなんて。引き抜こうとしたのに、離しては貰えない。

「生きて欲しい、一緒にいたいんだよ何時だって。
 この森に色をつけて豊かにしてくれたのは、世界はこんなにも美しくて優しいと教えてくれたのは、朱里なんだ。君を失って白黒の世界を生きて行く、そんな孤独は考えたくないんだ」哀しみを宿した目で先輩はわたしを見ていた。
「駄目、お願い、そんな、手を離して」

「生きたいって言ってくれよ。生きるのに何が足りない。
 いつも硬い顔をして、歯を食いしばって苦しみに耐えて、やるせなさそうに空を見上げて、辛い気持ちでいたのは見ていて分かってたよ。
 初めて会った日に創のことを信じたいって、その人がそう思っているのなら信じたいって、優しく僕のこころを救った朱里が、生きている価値が無いなんてそんな筈ないんだ。
 何時だって僕は自分の持っている力に苦しめられて生きてきた。何で人の苦しみまで見なきゃいけないんだって思ってた。そして僕の力を知った人のほとんどは気味悪く思うか、利用しようとするか、頭のおかしなやつと決めつける、そのどれかだった。
 それが当たり前だったのにあんなに鮮やかな言葉で、僕だって人を好きになれるとそう教えてくれた朱里が生きている意味が無いってそう言うなら、 苦しみの無い世界へ連れて行ってずっと暖めて行きたい、そう思ってた。でももうそれも叶わない。」
 先輩は目を逸らさずにわたしの手を握って離さない。弱い弱い熱が絶え間無く流れ込んできて、胸は掻き毟られる位に苦しい。

「何で生きる価値が無いって、意味が無いって、そう思うの」

 先輩は静かな声でわたしに問いをぶつけてきた。でも、もう。
「知って、どうするの。もう、遅いのに。もう、ここにもいられなくなる」

「知らなかったその方が苦しいんだ。どうしてなんだって、何故なんだって、出ない答えを探し続けて彷徨うのは嫌なんだよ。想像することしかできなくて、悩んで、それでいて答えは永遠に出てこない。最後だってそう言うのなら教えてくれよ。お願いだから」
 先輩は奥歯を噛み締めて、身体を震わせながら叫んでいた。



 森の高い高い空の上で、鷹が羽音を響かせて長い長い声で、青空を切り裂くように鳴いていた。

 優しい緑の匂いと、爽やかな風に揺れる葉擦れの音。柔らかな木漏れ日は、風に遊ばれてその形を変えていく。

 瞬きすらせず、わたしを見つめるその瞳に、こころはゆっくりと動きだした。


「わたし、何時だって自信がなくて、何が正しいのかも分からなくて、オロオロするばかりで、先輩が言ってくれたようなそんなひとじゃない。そう、そうありたいと願っているだけで、そんなの本当は出来ているなんて言えない」
「全部、全部思ってること、出して、もっと」
 ここに、想いを残して行くのは嫌だった。わたしの醜い気持ちは誰にも分かっては貰えないだろう、そんな気持ちを残して行くなんて。

「本当は、何時だって母と仲直りしたかった。でもそれは無理だって、毎日毎日否定される度に思って、憎んで、嫌って、わたしも否定して、そうやっていれば母が悪いんだからって思っていれば生きていけるってそう思っていたの。
 でも母に謝られて母も苦しんだんだってそう思ったら、何処に気持ちを置いたらいいか分からなくなって。
 そう思ったらもう疲れたな、って。何で他の人は明るくいられるのに、わたしはいつまでもどこまでも自信が持てなくて、何が正しいかわからない、それに向き合っていかなければならないのかなって。そう思って。
 周りのひとだって、きっとわたしがいなくなっても、すぐに忘れてしまうだろうって、誰か、深く関係を持った人なんていなかったから、だからもう、楽になりたかった。
 わたしは、消えてもいい人間だって、そう思ってる」

 ぐっ、と消えかけたもう片方の手も、大きな先輩の両手に包まれた。暖かい、そんな熱を受け取り続けていた。ずっと貰っていたものを、わたしが無造作に失ったものを。

「それなら、僕は朱里よりもっと酷いことをしているよ。
 僕は、僕が持っている力を恐れて火をつけた祖母を助け出せなかった。いつも両親は僕のことを庇ってくれたけれど、僕は祖母の気持ちを変えることは出来なかったんだ。
 気味が悪い子どもだと恐れられて、疎まれて、ついに半狂乱になった祖母が火をつけた時、僕は一瞬、その死を残酷にも願った。我に返って助け出そうとした時にはもう遅かった。朱里より僕の方が最低で、生きている価値なんかない。
 死にかけて、生き残って、その事実を乗り越えなければ生きて行けないって、あがいて、もがいて、苦しんだ。

 でも東京に出てきて、無理矢理のように修行させられて、亡くなった人や、生きている人の哀しみや苦しみを見てきた。そして思ったんだ。皆、何かを抱えて生きているって、その上で笑っているって。
 苦しみを乗り越えようとしたら、辛いだけなんだ。そう思ったらもう一生この苦しみと一緒に生きていくしかないって、腹を括った。乗り越えるなんて、無理なんだよ。乗り越えられないものだってあるんだ」

 先輩の言葉はわたしの中にひたひたと染み込んでくるようだった。しっとりと柔らかい緑の濃い匂いに、顔を伏せた。堪らない気持ちで一杯で、どうしたらいいか分からない。

「朱里には、目覚めるのを待っているひとがいる。お父さんだって、創のご両親だって、創だって。
 そして僕だって待っている。何時だって一緒にいたいって、でも面倒だって初めてあった日に言われて、ずっとゆっくり時間を掛けてでも話せるようになれたら、って思ってた。朱里と一緒にいる権利を持ちたいって、いつだってそう思ってる。
 一緒に居よう、そして笑おう。下らない話をして、馬鹿馬鹿しいって言って、楽しいことを考えてやってみよう。
 苦しみや哀しみは大きい、小さいはあるけれど、それでも明るくいられるのは一緒にいたいって思えるひとがいるから、そのひとと、笑ってこうやって手を繋いでいたいから。
 だから一緒に笑おう。そうやって生きていこう」

「わたしには、許されてないの、許されて、いない」

「誰、そんなことを言ったのは」

「だれ?」

「僕がぶん殴ってやるよ、そんな奴。誰が許されてないって言ったの」

「わたしが、そう思ってた」
 そうだ、何時だってわたしは笑っていけないって、楽しいことなんて出来ないって、そう思っていた。そんなことをする資格は無いって、わたしには許されないことなんだって、そう思っていた。

「消えかけのひとは、殴れないな」凄く残念そうに先輩は言った。

 そんな言葉に顔が歪んで、口元が緩んだ。こんな時なのに、消えかけているのに。

「そうやって、笑っていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。一緒にいたい、いたいんだ。何時だって。お願いだ、生きてくれ」

 堪らない、その気持ちが。苦しくて、ぎゅうと胸を掴まれて、堪らない。


「生きて、生きようとして、一緒に」



「ありがとう、本当にありがとう」笑ってた。最後だから。そう思って。

「朱里」

「そんなに沢山のことを考えてくれて、沢山の暖かさを貰って、嬉しかったです」

 どちらからともなく、するり、と手は離れた。もう、永遠に触れることはない。

 うれしかった、うれしかったよ。


「ありがとう。どうか、幸せになって」そっと瞼を閉じた。


 あの心優しいベルの音が、響く。


「あかり!」

 絶叫も、響いた。



 あかるいひかりがまぶたを通しても感じられた。強い、あかるいひかり。


 それまであった森の気配は消えて、わたしの前に何かが絶え間無く落ちていく。



 何だろう、少しだけ目を開けた。


 最後、そう思って。



 目の前を覆い尽くすように、埋め尽くすように、桜の花びらが舞い落ちていった。


 桜の花びらでどこまでも、どこまでいっても見えない。


 微かに見える青空は花びらが霞んで美しく、その下に花びらが絶え間無く降りそそぐ。



 山風に、桜吹きまき、乱れなむ、花のまぎれに、たちどまるべく
 そんな一首がさらり、と浮かんで花びらと一緒に風に乗って去っていった。


 振り返ると、そこには顔をくしゃくしゃに歪ませた先輩が立っていて。


 その姿は涙でにじんで、桜色に歪んで見えなくなった。


「逝かないで、お願いだから」歪んだ視界の中、暖かな熱に身体は包まれた。強く、強く。

 口から嗚咽が漏れた。背中に回された手に優しく背中をさすられて。


 上手くなんて言えないこんな気持ち。甘くてぎゅうと掴まれて、こころの深い暗い淋しい場所で、優しく寄り添ってもらっているような、そんな感覚。


「僕は駄目だな、全ての自分を見せて寄り添えって、そう言われていたのに」自嘲するような声が耳元で響く。

 視界はずっと桜色に歪んで、流れ出て、また歪んだ。


「その方が、好きなの」

「その方が、って」

「駄目だって、そう言っている方が、好きなの。全てが」

 ざあ、と桜の花びらが風に強く揺れた。



「わたし、怖かった、怖かったの」抱き締められている力は強くなった。ぴったりと隙間なく。

「怖かった、先輩じゃなくて、怖かった」

「ごめん、ごめんな。朱里が苦しんでいるのを見ていられなかった。
 だから、暖かい気持ちだけで優しくして、暖めて、そうやって大切にしたかった。そうやって心の中を朱里の前では分けた。駄目な自分や黒い部分は切り捨てて、あの部屋では優しくして安心してもらいたかった。
 でも、それじゃ駄目だって狐にもお婆婆さまにも言われていたのに」

「先輩がいなくて、怖かった」
「殴って、いいから」もう、涙は止まらない。


「お母さん、会いたかった、でも、もう会えない」
 好きだった。どんな苦しい言葉を投げかけられても。でも、もう会えない。

 生きて。

 最後に言われた言葉。わたしが死なせてしまった。


「お母さんを許せる?」

「わからない」

「じゃ、許せない?」

「わからない」

「許して欲しい?」

「わからない」

「許して欲しくない?」

「わからない」


「僕だって、そうだよ。許せるのか許せないのか、許して欲しいのか欲しくないのか、わからない。
 でも、分からないまま、生きていく。
 精一杯生きて、そして、いつか空の向こうへ逝く日が来たら、どうだったか決めよう
 僕もそうする」


 その言葉はわたしのこころに、あかりを灯した。


「生きて、お願いだから」頷いていた。


「一緒に、いたいんだ」もう一度、頷いて。


「また、あいたい、です」
 桜色に歪んだ視界は、やって来た強い光に途切れた。

東雲

 目が覚めると、何処に居るのか分からなかった。
 ピッ、ピッ、と機械音が響いていて、白い天井にゴマ粒みたいな模様。
「い、池田さん、わかりますか」
 ピンクの白衣を着た女性が、わたしを覗き込んでいる。
 頷いたつもりだけど、頷けてない。とろり、と眠気が来る。
 眠い、ねむたいよ。わたしはまた眠りの世界に入っていった。


 それからわたしは眠ったり起きたりを繰り返した。

 起きるたびに、父がいたり、一枝おばさんと創がいたりした。

 いつも、覗き込んで来る顔は、みんな不安そうな顔。

 ああそんな顔を、させてごめんね。そんなことを思う。

 少しずつ、少しずつ起きている時間は長くなった。
「本当に、よかった。朱里、頑張ったんだな」
 あまり喋らない父は、いつになく励ましの言葉をくれる。頷くと、頭を撫でられて。
「お父さん、ありがとう」
 言った途端、父は静かに泣き出した。

 生まれて、初めて、泣くところを見た。泣かせたのはわたしだ。
「朱里、還ってきてくれて、良かった」嗚咽と一緒に言われた言葉。

 ちゃんと、大切に想われていたんだ。じんわりと、気持ちは染み入ってきた。


 それから、わたしの起きている時間は劇的に、増えた。
 脳波の検査や精密検査、本当に色々な検査を経て、歩くためのリハビリもみっちりやらされた。


 母の死を知らされた時、父と一枝おばさんはとても辛そうだったけれど、何故か全て知っていたような気がして、不思議だった。
 悲しくて涙も出たけれど何故か心は軽くて、今までのように自分を責めたり悲観的な気持ちにならない。
 母のことを考えることもあるけれど、何故か今は、考えなくてもいい、いつか、空の向こうへ行った時に母とのことを振り返ろう。

 許せるのか、許せないのか、許されるのか、許されないのか。

 すとん、とそう思えるなんて、何でなんだろう。

 今までの自分にはあり得ないことだけど。

 ただ、こころはぽかぽかと暖かくて、目を閉じると何故か森の中の風景が広がった。


 創は一枝おばさんとお見舞いに来てくれるけれど、何故か一言も話さなかった。
 いつも煩い、って言われる位お喋りなのに。
 戸惑って、創、どうしたの、と声を掛けるけれど、やっぱり創は無言だった。
 おばさんが一人で来た時に、創が宮先輩のおじさんの神社で修行を始めたという話を聞いた。不思議なものを見ることが多い創の力をコントロールするための修行だそうだ。
 なんで宮先輩のこと知っているの、と聞いたら、その世界では有名な年輩の女性がその神社にいて、その人は宮先輩の大叔母さんなんだそうだ。
 相談をしに行ったことがあるらしく、そうしたら修行した方がいいと勧められたらしい。
 掃除ばっかだ、って創はボヤいてるわーと、おばさんは笑った。

 おばさんが帰った後、何故かそわそわと落ち着かない気持ちになった。
 なんでだろう。知っている、けど知らないその気持ちを抱えて、長い間病院のベットにうずくまった。
 巡回に来てくれた看護師さんは、池田さん、どうしたのと慌てていてわたしも一緒になんでもないです、と慌てる羽目になった。
 頬が熱くて、心臓がドキドキしてやっぱりおかしかったから、診てもらった方が良かったのかもしれない。

 宮先輩に告白されたこと、事故でうやむやになってしまっているけれど、やっぱり誰かと付き合ういうことは出来るとは思えなかった。
 でもそう思う度にこころの何処かで、それでいいの、って声が聞こえた。その度に戸惑ってどうしたら、って悩んだ。

 あの花火の日に見た宮先輩の笑顔がぐるぐる頭を回って、まるで恋をしているみたい。

 あの事故の前までは、断ろうって思っていたのに、何を迷っているの。

 大体釣り合わないよ、あの人ならもっと素敵な彼女がお似合いじゃないかな。

 そう思う、でも、その度に傷ついた気持ちになるのは、何で。


 検査や、リハビリは順調に進んだけれど、季節はいつの間にか春だった。
 退院の日、父と一枝おばさんは良かった良かった、と喜んでわたしは体調が安定するまで、一枝おばさんの家でお世話になることになった。
 おばさんやおじさん、創に悪いなあと思うことを伝えるとおばさんとおじさんは、凄い勢いで怒った。なんで、怒られるのかな。そう思っていたら、もうちょっと大人を頼りなさい、と二人ががりで説教された。
 心配かけていたんだな、そんなことを痛切に思った。

 創だけは、やっぱり黙っていた。

 大学は、もう春休みに入っていて休んでしまっていた分については、大抵レポートの提出でなんとか単位を貰えそうだった。なんとか二年生になれそうで、ほっとした。

 香澄や、亜依とはメールでやりとりしてた。

 ある日、亜依から宮先輩が病気になって入院していた、という話を聞いた。
 詳しく教えて、とメールを返したけど、亜依も詳しくは知らないらしい。
 なにが、あったんだろう。途端に落ち着かない気持ちになって、そわそわして部屋の中を彷徨いて歩き、神社に修行帰りの創に飛びつくようにどういうことか尋ねたら、創はこう言った。
「自分で確かめたらいいよ。来週行くけどついて来る?」

 わたしは、何故か頷いていた。



「朱里ちゃん、覚えてはいないんだよね」
 お宮に入る前の石の鳥居の前で、創と一緒にお辞儀して砂利の道の端を創と進んでいるといきなり聞かれた。
「何のこと」
 訝しげなわたしは創を見る。覚えている、って言われても。
 ざく、ざりざくと砂利の音しか聞こえなくなった。
「創?」
 聞いても創はまただんまりだ。いきなり黙ってしまうことがもう日常になっていて、わたしはまたなのか、とぼんやり思った。
 創の態度はわたしを拒否しているようには感じない。
 困っていてお願いをすると黙って手伝ってくれたり、さりげなく見守られて、ちょっとしたことで助けられている気がする。

 ただ、話せないことがあるんだな、と思った。

 それは、創だけが知っていて話したくないことなんだな、とは感じていた。
 それを、探るようなことをしてもいいのか、それは分からなかった。

 分からないことに踏み込めず、わたしも黙った。

 寒いような、暖かいような分からない晴天が、春らしいと感じられる午後だった。
 わたしたちは、手水舎で手や、口を清め、柄杓を清めて戻した。
 岩をくりぬいて出来ている手水鉢は、こんこんと水が沸くように流れていて、何処かで宮先輩が水道水だから、って言ってたこと思い出す。
 あれ、いつ聞いたんだっけ。巫女さんのアルバイトの時だっけ。
 アルバイトの時、宮先輩とそんな話をする時間は無かったように思う。ただ、忙しくてずっと暗算して、笑顔で頑張った、寒かった。
 舞の練習だって、宮先輩のおばさんが教えてくれて、横笛を吹いていた先輩とはあまり話さなかったような。帰りに送ってもらった時だって、手水舎には寄らないよね。
「創も、いた」ぽろりと出た言葉に創は凄い勢いで振り返った。
「何のことっ」
 創の食いつきの良さにたじろぐ。
「えぇっ、んーなんて言えばいいか」
 わたしの言葉はしどろもどろなのに、創はじいっと待っている。
「そこの、手水舎でね。宮先輩がこの水、水道水だからって言ったとき、創もいたような気がして」
 そんなこと、ありえないんだけど。でも創の表情は劇的に変化した。
「ちゃんと、あるんだ。ムダじゃ、ないんだ」
 創は見たことのないような大人っぽい表情をして、笑った。よく、分からない、でも創の嬉しそうな顔を見ていると、良かったなぁって思えるから不思議だな。
「なにかいいことあったの」
 創の柔らかい雰囲気に何だか嬉しい気持ちになって、そっと聞いた。
「朱里ちゃんの中に、ちゃんとあればいいんだ」
 返ってきた言葉は意味が分からない。でも、その言葉に何かを納得した自分も、いた。

 拝殿にお参りしてから、社務所へ向う。事務所になっているところで、創は挨拶して入っていく。わたしもそれに倣った。
「おお、創、来たか。あれっ」
 宮先輩のおじさんの宮司さんは、創を見てそれからわたしを見てびっくり顔になった。
「こんにちは、お久しぶりです」
「池田さんじゃない。元気になったんだね。そうか、そうか」
 創を通して事故のこと聞いていたのかな。ありがとうございます、と言うと宮司さんは嬉しそうだ。どうしてこんなにニヤニヤしているんだろう。なんか気味が悪い。
「池田さんは今日はどうしたのかな。誰かに会いに来たのっかな」
 語尾が飛んでるのは気のせい、なのかな。
「あいつにきまってんじゃん」
 創がちょっとぶっきらぼうに言うと宮司さんは、創に手刀チョップをした。いてえ、と創は頭を抑える。
「創くーん。正しい言葉はどうしたー」
 宮司さんの黒い笑顔、久し振りに見た……。そんな宮司さんにすいません、と創は殊勝に謝って言葉を続けた。
「宮本真吾に会いに来たんだって」
 創は照れた顔をして、ぶっきらぼうに言った。んもう、やっぱり敬語だめじゃん。
「創、また先輩に百万年早いって言われるよ」
 ぼそり、と呟いたわたしの言葉に宮司さんも創も、そしてわたしもびっくり顏になった。

 あれ、なんでそんなこと口からでちゃったの。どういうこと。

「真吾は果報者だなぁ、気持ちを込めてひとと向き合ったらちゃんと相手には想いが伝わるんだ。創、覚えておけ、大事なことだ」
 宮司さんは何故そんな話をするのかもよくわからない、でも聞いていると大切だと思えることを創に言った。
「分かってるよ」
 また創がぶっきらぼうに言うと、宮司さんは手刀をさっ、と出して、黒い笑顔。
「創くーん、正しい言葉」
「わかりましたっ」
 創は大慌てで言って、わたしと宮司さんは笑った。


「真吾はね、もうすっかり元気になったんだけどね、過労で倒れちゃって入院してたんだ」
 創が修行へ行ってしまった後、宮司さんはわたしにソファーに座ることを勧めて、お茶をご馳走してくださった。
「過労、ですか」なんだか頑丈そうなのに、過労なんて。
「そう、あいつは命を懸けてでもやりたいことがあったんだよね。頑張って頑張って頑張ってそんで倒れちゃった。若くて不器用だから、命掛かってんのにカッコつけちゃってさー馬鹿じゃないかねぇ」がはは、と宮司さんは笑った。
「馬鹿、では、ない気がします」
「そう思う?」
 たどたどしく言った言葉へ、宮司さんは素早く反応した。
 どうしてか、さっきから創といい、宮司さんといい反応が素早過ぎる。
「誰にも頼らないで何かを一人で出来るって、解決できるって思い込んでいるのは若いか、馬鹿かどっちかだよ。池田さんだってそんなことはなかったの?」
「そんなこと」
 あった、かな、そんな風に思うなんて、どうしてなんだろう。わたしを探るように宮司さんはじっ、と見つめた。

「真吾が命を賭けたのは、無駄じゃなかったってことなのかねぇ」

 戸惑ったわたしに宮司さんは、ふんわり笑って言った。

「池田さんは今日、なんでここに来たのかな」

「宮先輩に、会いたかったんです」
 すらり、と何も考えずに言葉が口をついて出た。
「なんで会いたいの」
 そんなことを聞かれても。その問いの答えはなくって、わたしは下を向いた。

「真吾なら、別棟の集会場の横の掃き掃除している筈だ、行ってごらん」

 顔を上げると宮司さんはニヤニヤ笑いでそう言った。


 社務所を出て、別棟の方へ向かう。美しく敷かれた石畳の道なりに進んだ。参拝エリアを離れた途端、都会の中とは思えない静けさと暖かい日差しを感じた。

 石畳の道に淡いピンクの花びらが少しずつ落ちているようになり、道を進むにつれ段々量が増えてきた。

 道のあちこちに桜の花びらがこんもりと山になってる。多分掃除の跡。

 やがて、ちょっとした広場のような所へ出て端に大きな桜の木があり、その下に浅葱色の袴を着た宮先輩が竹箒を持ってこちらに背を向けて佇んでいた。


 一面桜の花びらの上を、わたしは宮先輩へ向けて歩いた。桜の花びらがひらり、ひらりと舞う中を。

 ざあ、と風が吹いて花びらが吹雪のように舞い落ちてきた。目の奥に、桜の花びらで前が煙って見えない、そんな景色が一瞬浮かんで、消えた。

 何を話すつもりなのかこれっぽっちもわかっていないくせに、それでも先輩に会いにいかなきゃ。


「こんにちは」
 わたしがちょっぴり震えた声で話しかけると、宮先輩はびっくぅ、と飛び上がらんばかりに体を跳ねさせた。
「い、池田さんっ、なんで、ここに」
 振り返った宮先輩は、顔が真っ赤で、頭と目があちこちに動いていて、竹箒は右に左に行ったり来たり。甘い顔なのになんだか残念な感じが否めない。っていうか残念だよね。どうしてそんなに慌てて困ってるんだろう。
 み、宮先輩ってこんな感じだったっけ。何て言うか……落ち着いたひとのイメージだったような。
 いつまでもアワアワしてる宮先輩を見て、わたしはちょっと吹き出した。こころの底がくすぐったいような不思議な、優しい感覚がする。
「そんな、わらわなくっても」
 まだ顔が真っ赤な宮先輩は、ちょっと傷ついたように言った。
「ええと、そんなに慌てなくてもいいのに、って思っちゃったんです。ごめんなさい」
 わたしは、先輩へゆっくりと話した。何だか会話を終わらせるのが惜しくて。
「………まあ、いいんだけれど」
 宮先輩はわたしから目をそらして言った。

 やっぱりというか、何を喋っていいのか分からず言葉に詰まって沈黙になった。何か話さなきゃ、何だっけ、どうして来たんだっけ、人のことは笑えない、わたしだってきっと挙動不審。
 どうして、ここに来たんだっけ。なんでだっけ、言葉に詰まる自分が恥ずかしい。

「元気になったようで、よかった」
 先輩を見ると、やっぱり真っ赤ででも目は真剣だった。しんぱいしていたよ、って言われたみたい。
「宮先輩も、入院していた、って聞きました」
「あぁ、そんな大したことじゃ、ないんだけど」宮先輩は眉間にシワを寄せて言った。
 そうなのかな、さっき宮司さんは命を掛けたって言ってたのに。表情は自然に曇っていくように自分でも感じる。
「いや、違う。強がった。大したことだった。何か、自分の未熟さが分かったっていうか、思い知ったっていうかまあ、そんなことがあった。こんなこと言っても分かっては貰えないと思うけど」自嘲するような言葉が、耳に響く。
 その言葉を聞いて、わたしは頭を横に振った。本当の言葉で本当に思ったことを伝えてくれている。それが伝わってくるようだった。意味が分からなくってもこころを受け止めたくて。ぶんぶんと頭を振った。
「格好、悪いな。でももう池田さんの前で取り澄ましたり出来なくって。本当は格好良い方がいいってわかっているんだけど、でも、もうなんか出来ない。幻滅、するよね」やっぱり目が合わない宮先輩は、自信なさげに言う。
「しない、ですよ」
 本当の宮先輩の気持ちに出会ったような、そんな気がする。上手く言葉で表現出来なくって、凄く短い言葉になってしまって反応が怖くて、ちょっと目を伏せた。
「そ、う?」
 声がして目線を上げると、宮先輩は更に顔を赤くしてた。もう、ゆでダコだなあ。
「う、上手く言えないんですけど、い、今ここにいる宮先輩の方が、あの、本当っていうか、そんな、あの上手く、言えないんですけど、そんな気がして、でも」
 その方がいいです。って言いかけてわたしは口をつぐんだ。告白してるみたいじゃない、好きなの、わたしは、先輩を。

 だって、断るつもりだったじゃない。ずっとそう思ってた。上手く行く気がしない。って

 いつの間にそんな、好きだなんて、なんで。

「でも?」
 顔が赤い宮先輩は、グルグル考え始めたわたしを見て訝しげに聞いてきた。
「で、も?」
 ちょっとパニックになって、逆質問をしてしまう。ああ何をやってるの。
「僕が聞いてた」
「え、や、あの、その、えっと」
「なんか、大事なこと、言いかけたよね」
 どうして畳み掛けられてるの。そして、なんでそんな勘がいいの。なんでなの。
「あ、のっ、その方が、いいかなぁって……」
 嘘はつきたくなくって、でも声はどんどん小さくなった。
「その方が、って」
 宮先輩の目が泳ぐ。なんで聞くの、もう言えないよ。もう恥ずかしすぎる。
 手で顔を覆ったわたしに宮先輩は覗き込むように身を屈めてきた。
「教えて?」
 手をそっとどけて宮先輩を見ると、真っ赤なのに真剣な顔でわたしを覗き込んでいて。
「い、言わなきゃ、ダメですか」
「出来れば」なんで、追い詰められてるの。
「取り澄ましてる、より、今の方がいいです………」
 やっぱり嘘はつきたくなくって、でも声はどんどん小さくなって。
「なんか、カッコつけてたのが、馬鹿みたいだ」
 宮先輩は、本当に真っ赤で何故か上の方を睨みながら言った。
 なんだか、本当にこの雰囲気どうすればいいんだろう。甘いようななんだかくすぐったいような、なんでそんなになってるの、宮先輩が赤くなり始めたのが原因じゃないの。沈黙の中わたしはぐるぐる考える。
「なんで、そんな顔が最初から真っ赤っか?」
 変わらず赤い宮先輩に聞かれて、わたしは思わずいい返した。
「宮先輩だって、最初から、ゆでダコ、みたいですよ。」
 分かっている。自覚はあるけど顔が赤いなんて認めたくなくって、ちょっと事実から目を背けてたのに。
 また沈黙があって、何か、何か話さなきゃって思いながらでも何も浮かばなくって、焦るけど浮かばない。こういう時に話題をぱっ、と出せるといいのにわたしってダメダメだ。そんな気が効いた人だったら良かったのに。
「池田さん、今、生きたいって思う」
 ちょっとだけ顔の赤みが消えた先輩が、わたしの目を見つめて言った。生きたいか。なんでそんなことを聞くのかな、と思いながらもそう聞かれるのは当たり前のような気がして。生きたいか。生きるって。
「一緒にいたい、って思う人がいるから、生きていたいのかもしれません」
 不思議に考えてもいないのに、するりと言葉は出た。出てからそうだ、それでわたしは今ここにいる。そう、何故か思えた。

 そのためにわたしはここに来た。その人に会うために。

「今日は、わたし、先輩に会いたくてここに来たんです」
 風が吹いて、桜の花びらが、先輩とわたしの間を舞い落ちて、いった。
「先輩、この間の、一週間後に返事をしますって言った、あの返事をしてもいいですか」
 先輩はいきなりでびっくりしたのか、肩を強張らせた。怯えたような、怖がっているような。ただ、ジャッジメントを待っている、と言った感じでずっと見てきた先輩じゃない、でも今が本当の姿に思えた。
「あの、こちらこそ、よろしく、おねがいします。今でも、有効、なら」
 声は震えて情けない位で、途切れ途切れになって。情けないけど、こんなわたしでいいのかわからないけど、でも。
「嬉しくて、なんか、うん、どうにかなりそう」
 宮先輩の目はせわしなく動いていて、うん、やっぱり残念な感じに見える。でもその方が、好き。本当に感じられて、好き。

 どうなって行くのかはわからないけど、それは二人で決めていけばいい。

「わたし、あんまり、気がきかなくって、話とか上手く出来ないかも、ですけど」ちょっと照れ隠しもあって言ったら、
「そんなこと思ったことはない。そんなこと言うなら、僕はこんなだし」そう即答されて。
 わたしがちょっと笑うと、宮先輩はもっと晴れやかに、あの花火の日より鮮やかに笑った。
 ああ、そうなの、この笑顔に会いたかったんだ。わたしは。
「逃げなくって、よかったんだ」
 宮先輩は独り言のように呟いた。意味は分からなかったけれど、喜びを噛み締めるように言われたその言葉は、何故か胸に響いた。

「いてっ」「創ッ」
 集会所の影の方から声がして、私たちは弾かれたようにそちらを見た。
 宮先輩はあっという間に竹箒を持ってわたしの隣を抜けて、集会所の隅に隠れていた創と宮司さんを見つけ出した。
「なにやってる」
「いやー婆婆ちゃんが、覗いてこいっていうからさー」
「おじさんは」
「見ないと損じゃんー」
 2人の答えを聞いて、宮先輩は竹箒で二人を叩いた。結構容赦無く。ポカポカと。

 もう、やっちゃえ、恥ずかしすぎる。身内にあんなの見られていたなんて。
 創と宮司さんはぎゃあぎゃあいいながら、逃げ惑った。桜の花びらがその度に少し舞い上がって。

 掃除やり直しだね。手伝ってから帰るかぁと笑いながらぼんやり思った。

朝凪

 先輩と付き合う、ということになったものの、具体的にはどうすればいいのかはさっぱり分かってはいなかった。
 付き合うって、どうすればいいの。そういうことに疎かったわたしは戸惑って悩んだけれど、帰って早々に創はおじさんとおばさんにバラしてしまった。

「宮本くんをうちに呼びなさい」
 有無を言わさない、と言った感じでおばさんは何故か近所のスーパーへ、高級和牛のすき焼き肉を予約してきた、と言い放った。
 慌てて止めて、と懇願したけれど、創からメールが送られたらしく先輩からはご挨拶したいし、というメールを貰った。
 学校もまだ行っていないのに、で、デートとかもまだなのに、何でなの。あれよあれよと言う間に日にちは決められて、土曜日の夕方わたしは渋々駅に先輩を迎えに出た。

 待ち合わせの西口にある成城石井の前で待っていると、赤い紙袋を下げた先輩が雑踏の中から出てきた。遠くからでも、優しい笑顔なのが分かる。
「待たせた?」
 嬉しそうに笑った先輩は、今日もどこかの雑誌から抜け出してきたみたいだった。
「いえ、そんなには」
 少しだけ笑うと先輩は途端に顔を赤くして、わたしも何故か頬が赤くなる。
「行こう、朱里」
 そっと手を差し出してきた先輩に、少し戸惑ってその顔を見上げた。途端に先輩はぎこちなく手を下ろしかけたから、慌ててその手を取った。
「あの、わたしの手が冷たいからちょっと、繋いだら先輩を冷やしちゃいそうで、あの、ごめんなさい」
 しどろもどろになったのに、先輩はホッとしたような表情を見せた。
「いや、気にしてない。名前で呼んだし、いきなり手を出したから戸惑ったかと思って」
「あ、ああ。そういえば」
「朱里、って呼んで、いい?」
 そう聞かれて胸が高鳴る。返事は上手く出来なくて、気がついたらカクカク頭を縦に振っていた。繋いだ先輩の大きな手はじわじわと暖かくて、安心出来るような優しい手だった。
「ありがとう、僕のことも名前でいいよ。真吾、で。あと敬語はなしで」
「そんな、無理です。だって、あの、歳上だし」
「付き合ったら関係ないだろ。一つしか違わないんだし」
「そんな、あの、そんなこと、出来ません」
「じゃ、敬語使って先輩って呼んだら、脇こちょこちょね」
「えええっ」
 わたしが叫ぶと先輩は行こうか、と手を繋いだまま歩き出した。


 アーケードの商店街を、少しだけ歩いて気がついた。手を繋いで先に歩いている先輩は、迷いなく創の家への道を歩いていた。
「あの、先輩、創の家を知っているんですか」
「ペナルティ一じゃない」
 振り返った先輩は口元を緩ませながら、茶目っ気たっぷりの目で笑った。そうだった、脇こちょこちょって言われていた。ちょっとだけ身構えると、寂しそうに笑った先輩は、一回だけ見逃してあげる、と言った。

 創の家があるマンションの下に差し掛かると、エントランスから創が頭の後ろで腕を組んでニヤニヤしながら出てきた。
「いっやらしー手なんか繋いじゃってさ。しかも宮本真吾顔赤くて気持ちわりーな。あーマジで気持ちわりぃ。なんな……っていってぇ、なにすんだよっ」
 いきなり先輩は創に回し蹴りを入れた。手はがっちり繋がれたまま。
「僕と朱里をからかうなんて百万年早いんだよ。そしてなんでいるんだ」
「うわー、マジで信じらんねーもう名前呼びかよ。キモいな宮本真吾」
 もう一度先輩は創を蹴ろうとしたけれど、その前に創はさっ、と避けた。
「逃げるな創っ」
「朱里ちゃんの手離せばいいだろー」
 あっかんべーをする創は本当に小学生そのもので、なんと言うか小憎らしいというか。そんな二人のやりとりに笑ってしまう。
「あ、朱里ちゃん笑ってる」
 創が言った言葉に先輩は慌ててわたしを覗き込んできて、その隙に創は先輩の脛を蹴り上げた。先輩はうずくまり、それでもわたしの手を離そうとはしない。
「大丈夫ですか」
 一緒にしゃがみ込むと、先輩はうめきながら敬語、と一言だけ呟いた。
 創はうひょうひょしながら喜んでいる。どうしていいか分からなくてそっと先輩の背中を撫でたら、一瞬で顔を真っ赤にさせた先輩はわたしを睨むように見てきた。
「嫌でしたよね、すみません」思わず手を引っ込める。
「いや、違うっ、そんなんじゃない。むしろ嬉しかったっていうか」
「嫌だな、いつまでもいちゃついてさ。かーちゃん待ってるから行くぞ」
 呆れ顏になった創は、エントランスに向かってさっさと歩き出した。

「宮本くん、いらっしゃい、どうぞどうぞ入って」
「あの、お邪魔します。これ、皆さんでどうぞ」
 先輩は玄関に立ち笑顔で待ち受けていたおばさんへ紙袋を差し出した。
「何も気を使わなくっていいのに、わざわざありがとうね。さあ、入って」
 おばさんはすまなそうに受け取ると先輩を中へと促した。お邪魔します、と靴を脱いだ先輩の表情には緊張だけではなく、わたしの知る由もない何かも浮かび上がっているようだった。何だろう、創が一言も話してくれなかったその時と同じような何か。

 探りたいけれど先輩しか知らない何かのようで、わたしは皆が行ってしまってからも束の間玄関に留まった。

 すき焼き鍋を見て戸惑っている先輩が何度もおじさんとおばさんに促され、やっと隣の席について和やかに夕食は始まった。
「はい、宮本くんは若いんだから。沢山食べて、遠慮せずにね」
 おばさんは大盛りのご飯を先輩に差し出して、慌てた様子の先輩は何だかよく分からないといった感じで一礼すると茶碗を受け取った。
「創、これはどういうことなんだよ」
「あー、すき焼きじゃん。見りゃ分かるだろー、頭悪いのか」言った途端におばさんは、創の頭を張った。
「ごめんなさいね、創が失礼な事を言って。今日は朱里と宮本くんの快気祝いだからね。もうじゃんじゃん食べて。お肉沢山用意したからね」
 おばさんは創を拳でグリグリしながら先輩に笑顔で言った。
「ありがとう、ございます。そして、すみませんでした」先輩は落ち込んだ様子でゆっくりと頭を下げた。
「何も謝ることなんてないんだよ。ちゃんと戻してくれたじゃないか。さ、もう食べよう、肉が固くなるからね」
 穏やかにおじさんが言って、創とおばさんも優しい笑顔で頷いた。
「何の話?」
「あー迷子が見つかって良かったなってことだよ。あ、朱里ちゃん玉子取って。俺二個ー」
「一個にしなさいよ、一個に」
 おばさんがくわっ、と怒ると、創は途端に口をアヒルのように尖らせた。
「えーつまんねぇなーたっぷり浸すから美味いんじゃんか」
 おばさんと創は、ぎゃあぎゃあ揉めている。
「玉子、いりますか?」
 先輩に玉子を差し出すとありがとう、と言ってそっと受け取ってくれた。
「何そこでいちゃついてんだよっ、キモいよ宮本真吾」
「肉、一番いいところ貰ってもいいですかね」
 創を挑発するように玉子を割ってニヤリと笑った先輩を見て、
「あ、ずっり。いっただっきまーす」
 律儀に手を合わせた創は急いで玉子を割ると、猛然とかき混ぜだした。


 次から次へこれでもか、と出てきた高級和牛を、気持ちいい位ぺろりと先輩と創は食べ切った。
「足りなかったかしらね、もうちょっと予約すれば良かった」おばさんは悔しそうだ。
「いえ、丁度良かったです。本当にご馳走様でした」
 創はもうリビングのラグの上で食い過ぎた、と叫びながら伸びている。本当に創は食べ過ぎだよ。そして創以上に、綺麗に食べたのに涼しい顔している先輩をそっと伺った。
「学校、来週から来る?」
 わたしの視線を感じたのか先輩は穏やかに尋ねてきてくれる。
「はい、月曜から行きます」
「そっか、じゃ、迎えに行くよ。通勤ラッシュの時間帯は大変だから」
「えっ、いえ、もう一人で行けますから、大丈夫です」
「宮本くんいいの、大変でしょう」
 おばさんは心配そうだけれど、先輩を止めようとはしない。
「神社の仕事を手伝っていて朝は早起きなんで、大丈夫です」
「そうなの。何日かは私、朱里について行こうかと思っていたの。お願いしてもいいかな」
「えっ、ちょっと待って。わたし一人で」
「朱里は病み上がりでしょう。駄目よ、彼氏が折角一緒に行こうって言ってくれてるんだから、甘えちゃいなさい」おばさんは怒った目と厳しい声で話した。
 彼氏、そうだった。頬が熱くなりながら隣をちらりと見ると、先輩も顔を赤くして目をきょろきょろさせている。そのうちに目が合って慌てて逸らした。
「いいなぁ若いなぁ」
「そうかな、ただ、いちゃついているだけじゃんか」
 憮然とした創は、おじさんの言葉を即座に否定した。
「ひよこの殻つけて歩いてる創にゃ分からないさ。ぴよぴよ鳴いておりなさい」
「なんなんだよ、とーちゃん」
 がばあ、と起き上がってきた創は、ぷりぷり怒っている。
「ほら、そうやってすぐに怒るんだからっ、宮本くん、創はちゃんと修行出来てるのかしら。ご迷惑掛けていない」
「いえ、逆に創に助けられていることも多いです。この間も枯れて伐採予定の木に仔猫が登って降りられなくなって、お参りに来てくださった方の人垣が出来てしまって困っていたんですが、創が助けようって言ってくれて、僕の肩車で助けてくれたんです。拍手喝采でちょっとしたヒーローでした」先輩は、穏やかに話す。
「あん時は皆に褒められて、ちょっと嬉しかったぜ」
 そう言って創は、ちょっとだけ何故か頬を赤く染めた。
「創、あんたねぇ、そういうことを報告しなさいよ」
「だって、忘れてたんだって」
 くわっ、と怒ったおばさんに創は口を尖らせて、わたしはちょっとだけ吹き出した。

「あの、朝、一人で行けますから、大丈夫です」
 見送りをするためにマンションのエントランスを出た所で、わたしは思い切って先輩へ話し掛けた。
「あのさ、何か忘れてない。ずっと思っていたんだけれど」
 先輩は返事をせず、口元を緩めながら聞いてきた。
「あの、そんな早くは変えられ、ない、……よ」
 凄く勇気を出して言った言葉に先輩はそれはそれは嬉しそうに、優しく笑った。見たこと無い位優しい瞳を向けられて、胸の辺りがきゅう、と締め付けられる。
「分かってるよ。でも朱里との間にはもう壁を作りたくないから。何でも話したいし話を聞きたい。だから敬語は無しで。それでいい」
 そう言われて何故かわたしのこころは凪になる。すうっ、と静かに。
 その様子を見ていた先輩は表情を一変させた。苦々しいような、困ったようなその表情に戸惑って先輩を見上げた。
「わか……じゃなかった、えと、うん」
 何て言っていいか分からなくて、しどろもどろになりながら言うと、先輩はほっとした顔を見せた。
「あと、迎えには来るから。何かと心配だし」
「でも、合わなくていいラッシュに巻き込まれるなんて、大変じゃ、ない。先輩も病み上がりなのに」
「今日のすき焼きで元気貰ったし、大丈夫」
「……じゃ、お願いします」
 ぺこりと頭を下げると、先輩は敬語、とニヤリと笑った。手を口で覆うと優しい瞳の先輩はじゃ、また月曜に、と静かに言った。


 学校が始まって一週間、本当に先輩は朝迎えに来てくれた。高校以来の通勤ラッシュだ、と笑う先輩と大学の最寄り駅を出て手を繋いで歩く。前はそんな事絶対出来ないと思っていたのに、自然に繋ぐのが当たり前になっていた。不思議だけれど、他の人目もあまり気にならなくて。
 沢山の人に問いただされたけれど、何故か最後には皆、呆れたように「いや、もういいわ」と言った。
 それは先輩が思いっきり真っ赤で挙動不審なのに、わたしの手をがっちり握って離さなかったから。
 先輩の評価が、かっこいい人からちょっと残念な人に変わっていっても、わたしは構わなかった。
 亜依はともかく香澄とは疎遠になるかも、と思っていたのに香澄はあまり変わらなかった。ターゲットは違う人にあっさりと移って戸惑っていたら、「あたし、朱里は友達だと思ってるよん。ちゃんと」と何故か照れたように言われた。
「朱里のさぁ、優しいけど大事なことはちゃんと教えてくれたりするところ、凄いって思ってるから自信持ちなよ」と励まされて。一緒にいた亜依も優しい顔で頷いていた。

 友達なんかいないって思っていた自分が、とても恥ずかしかった。


「いい天気だから、公園で食べるのはどう」
 水曜日のお昼だけは先輩と一緒に食べることにした。今日は近くのベーカリーでバケットサンドを買って並んで歩き、大学へ戻りかけたら先輩は歩道橋に隠れるようにある小さな公園の前で足を止めた。
「わぁ、ここ」
「花火したよね。秋くらいだっけ」
 先輩の顔を見て頷く。そうだ、随分遠い昔の出来事になっていた。
「火がつかなくって」
「そうだ、朱里が一所懸命手で囲んでくれたのに、風で消えてた」
 そうだった。そういえばあの日、先輩の腕と触れ合って嫌じゃないと思ったことをうっかり思い出してしまって、何と無く先輩から目を逸らした。
「公園じゃない方が良かった?」
 そう言われて慌てて頭を横に振った。
「そうじゃ、なくって」
 頬が赤くなっていく感覚がする。最近先輩と一緒にいると、くすぐったいようなよく分からない気持ちになる。
「いいと思い、じゃなかった。思う」
 そう言うと、優しく笑った先輩はそっとわたしの手を取った。

 秋に来た時より狭い公園の木々はこざっぱりとして、お日様の光は明るく地面を照らしていて、心地いい。暖められたベンチに座って、一緒に買ってきたバケットサンドを広げた。
「サーモンマリネも迷ったんだよな、でもがっつり肉の気分だったし」
 先輩はわたしの膝の上にあるバケットサンドを見ながら、独り言のように呟いた。
「半分こ、する?」
 大きなバケットサンドは二つに割っても充分な量だ。具がはみ出さないように慎重に割って差し出すと目を見開いた先輩はありがとう、と言うとそっと受け取ってくれた。
「朱里は」
「う、い、いいの。あげる」
「それじゃ足りないって、ハムたまごはどう」
 先輩はよく食べるからか3つもバケットサンドを買っていた。返事をする前におしゃれに作られた茹で玉子とハムのバケットサンドを、先輩は無造作に割ってわたしの膝に乗せた。
「ありがとう、いただきます」
 先輩もいただきます、と言うと大きな口を開けて照り焼きのバケットサンドにかぶりついた。もう三分の一くらいバケットサンドは口の中へ消えている。
 気持ちのいい食べっぷりで目が離せずにいたら、先輩は気がついたようで何、と口をもぐもぐさせながら聞いてきた。
「先輩は美味しそうに食べるから、つい見ちゃって」
「食べるのは好きだよ。朱里はあんまり食べないけれどそれで足りる」
「いや、女子の中では普通で、あ、だす」
「だす?」
「間違った、だよ」そうわたしが言うと先輩はにっこり笑う。
「敬語はなくなってきたけれどさ、そろそろ名前で呼んでくれると嬉しいんだけれど」覗きこんでくるようにして先輩は言った。
「呼び捨てとか、ハードル高い、よ」
「真吾、でいいんだって」そう、強く言われるとすぅ、とこころは凪になる。

「朱里?」
 先輩の声にはっ、と我に返った。最近こういうことがよくある。少しだけ考えて小さな声で答えた。

「呼べない、よ」
「創のことは呼び捨てな癖に」
 ほっとしたような、ちょっと拗ねたような先輩はちらりとこちらを伺った。
「だってそれは、身内だし」
「何時も創に負ける。いつになったら創以上になれるんだろ」
 そう言われてわたしは言葉を詰まらせた。何だか気恥ずかしいだけなんだけれど、そんな風に先輩が思っているなんて思わなくて。
「しっ、真吾さ、ま」わたしが間違えると先輩は吹き出した。
「真吾様って。そんな王様みたいな」
「間違った、さん」
「呼び捨てでいいんだってば」
「真吾、くん」
「………じゃ、それで」
 何故か赤くなった真吾、くんはまた大きな口を開けて、がぶりとバケットサンドを食べた。


「朱里ーっせんぱーいっ」
 公園の前を通りががったらしい香澄がぶんぶんと腕を振っていて、わたしたちも振ると香澄はニヤニヤしながらこちらに寄ってきた。
「なにやってたんですかぁ、二人で」
「いや、昼飯喰ってただけだけど」
「ふーん。朱里、三時限目のやつ、今日から古語辞典要るって知ってた」
「えっ、聞いてない。どうしよう、持ってきてない」
「やっぱ、先週の講義の時アナウンスしてないんじゃん。メールで回ってきたから今慌てて取りに行ってきたんだけど。もーちゃんと言ってくれないと困るよね。朱里は一緒に見よ」
「あ、ありがと」
「じゃ、またあとでねぇ。お邪魔虫は消えるー」
 香澄はぶんぶん手を振ると、あっという間に公園を出て行った。
「彼女、あんな感じだったっけ」
 呆然とした感じで言った先輩に、わたしはちょっと噴き出した。

白昼

 ぎこちなく始まった真吾くんとのお付き合いは、それでも一緒にいる時間が長くなる毎にしっくりくるようにはなってきた。
 ほとんど学校で会って話すのと電話とメールのやりとりと、たまに一緒に駅まで帰る。それでも色々なことを二人でするのは新鮮で楽しかった。でも。

 六月の終わりの大安で、梅雨の合間に珍しく心地よく晴れた土曜日、わたしは真吾くんの神社の結婚式で最後に奉納する巫女舞のアルバイトを頼まれた。
 怜さんは就活中でリクルートスーツを着なければならなくて、真吾くんのおばさんに申し訳なさそうに頼まれ、快く引き受けた。

「池田さん、今日はありがとうねぇ、もう助かっちゃったわ。怜のいない時はこれからもお願いしていいかしら」
 何時もながら勢いのある真吾くんのおばさんは、巫女舞の衣装を畳みながら聞いてくる。
「はい、わたしでよければ、ですけれど」
 ちょっと笑うとおばさんはぱあっ、と明るい笑顔を見せた。
「池田さん、すっっごいいい顔になったわぁ。真吾と仲良くやってるのねぇ」
「えっ、あ、はい」
 思わず頷いたけれど、良かったのかな。服に着替えながらちょっとだけ悩む。
「やーん。きゅんきゅんきちゃう。デートとかしてるの」
「デート、はまだしてないです」
「はぁ、あの子何やってるのかしら。今日いい天気だからどっか行ってきたら。まだお昼前だもの、行ったらいいのよ。予定はないんでしょ?」
「えっ、でも、まだ後片付けとかしてましたし、いいです」
「何言ってるの、行きなさい。ちょっとあの子に言って来る」
「いいです、いいです。迷惑掛けたら悪いんで」
 着替え終わったわたしは、慌てて障子を開けたおばさんを止めようとした。するとそこにはむっつりとした表情で、私服の真吾くんが立っていた。
「あら、聞いてたの。話は早いわ、デートしておいで」
「っていうか、それで誘おうと思って来たんだけれど」
 明らかに機嫌の悪い真吾くんは、むっつりと拗ねたように話した。
「もっと前に誘っておきなさいよ。気が利かないわね」
「何かアクシデントがあって駄目になるかもしれないだろっ、それに夕拝あるから、なかなか出かけたりできないんだけれど。その辺どうなのさ」
「真吾ちゃんお疲れさまー、デート楽しんできてー」
 とぼけたようにおばさんは真吾くんの両肩を叩くと、これだから、と呆れたように真吾くんは言ってからわたしを見た。
「あのさ、迷惑とか考えなくっていいから。そんなこと思ったことないし」ちょっと怒ったような目。
「そうよ、むしろ迷惑掛けられた方が、真吾は喜びそう」
「おばさんっ」
 真吾くんが強めに怒るとおばさんはくわばら、くわばらと言って部屋を出て行った。

「で、どこ行こうか」
 神社の参道でまだ少し機嫌の悪い真吾くんは、わたしの手を取ると尋ねてくれた。
「どこでも、いいよ」
「朱里が行きたいところは?」
 そう言われてわたしの行きたい所を少しの間考えたけれど、急には思いつかなかった。
 そもそも出歩くのが好きではなくて、名所や観光出来そうな所を知ろうともしない。大分慣れたとはいえ未だに人混みは苦手だ。どうすればいいんだろう。真吾くんは辛抱強くわたしの答えを待っていてくれている。
「この辺り、とあとお稲荷さまにご挨拶、したい、かな」閃いたことを、そのまま口に出した。
「この辺……何もないよ」
「でも、真吾くんが暮らしている街、だから」知りたい。しりたいな。
「………そんなんでいいの」
 ちょっと顔を赤くした真吾くんは、横目でわたしから目を離さない。
「うん、人混み苦手だし、ゆっくり散歩気分で行きたい、よ」
 ちょっと笑うと真っ赤な真吾くんは、またいつも通り挙動不審になった。
「朱里がそれでいいのなら、いいけど」
 そう言うと真吾くんは、わたしの手を引いて歩き出した。


 丁度いい陽気の中、手を繋いで歩くとじわじわと嬉しさが染み出してくる。繋いで歩くのに慣れてきて、大きな手に包まれるようにして握られていると、ほっとした安心感があった。目を閉じてこのまま手を引かれていっても大丈夫だと、そう思えるくらい。
「昼飯買って御苑に行こうか。のんびりしてから狐のところでもいいし」
「何があるの」
「イギリス式庭園と、日本庭園だっけ。まだあったような気もするけど、思い出せない」
 とぼけたような声に嬉しくなって、その顔を見上げた。
「公園なの」
「まあ、入園料はとられるけれどね」
 四車線の広い日陰の、ひとが少ない歩道を並んで歩くと、やがて大きな交差点に出た。
 道の向こう側には緑の木々が風でゆっくり揺れていて、奥には細長い上に行く毎に段をつけて尖る瀟洒なビルが、木々の上に顔を覗かせていた。
「ハンバーガーかコンビニかな。あんまりこの辺、テイクアウト出来るとこないんだけれど、なに食べたい」
「ハンバーガーでいい、よ。ここにあるね」
 交差点に丁度ハンバーガーショップがあって、わたしはそのお店を振り返った。
「じゃ、テイクアウトしていくかー」
 手を握ったまま方向転換した真吾くんは、わたしの手を引いてハンバーガーショップに入った。


 お昼代と入園料を、奢る奢らないで散々揉めた後、やっとゲートをくぐった。
「奢りじゃなくって、よかったのに」ちょっと真吾くんを見上げて言ったら、
「いいんだって。そのうち倍にして返して貰うからさ」
 何故か嬉しそうに笑っている。低木が道沿いに並ぶアスファルトの道を少し歩くと、芝が美しい大きな木々が所々で葉擦れの音を鳴らした庭園に出た。
「この辺がイギリス式庭園だったような、年パス持ってるのにあんまり詳しくないんだけれど」
「真吾くんは、いつもここで何しているの」
「うーん、日向ぼっことか、昼寝とか。大抵ぼんやりしてる」
「そうなんだ」
 芝生には親子でお弁当を広げたり、ボール遊びをしたり、わたし達と同じくテイクアウトして来た物を食べているグループもいた。思い思いに皆のんびりした雰囲気で過ごしていて、見上げると広く抜けた青い空からの日差しは眩しい。
「これが朱里のだ、はい」
 木陰の芝生に座ってハンバーガーショップの紙袋を開けた真吾くんは、わたしの膝に出来たての暖かい包みを乗せた。
「ありがとうご」
「ご?」
「なっ、なんでもない」
「ごりら?」
「何で、ごりら」
「ら、だけど、どうぞー」
「………ラジオ?」
「おくら」
「また、ら?」
「まあ、そういうこともあるし」
「………らっこ」
「コアラ」
「ええっ」
「朱里が始めたんだから、責任とってどうぞー」
「らっ、らいめいっ」
「雷鳴ね。イクラ」
「………」
「ギブ?」
「いじわる……」
 ちょっとだけ睨むと、してやったりって顔に書いてある真吾くんは、わたしの膝に乗っていた包みをばりばりと音を立てて開いてはい、と渡してきた。
「まあまあ召し上がれ。冷めちゃうし」
 何だか納得いかないけれどいただきます、と言うと野菜がたっぷり挟まったハンバーガーに噛り付いた。
「怜と咲ねーちゃんと良く東京来たばっかの時にしりとりしたんだ。怜はああいう性格だからさ、最後に『ら』が付く言葉で攻めてくるんだよ。『ら』攻め卑怯だ、とか言って、ぎゃあぎゃあやってた」
「楽しそう」
「僕は結構暗い性質なんだけれど、そんなこと吹っ飛ばされるんだよ。2人とも傍若無人でさ、ずけずけ傷にも触れてくるし怒るし、でも一番下に出来た弟みたいに可愛がられた」
「そう」
「怜も就職決まったら一度家を出るって言ってたから、来年からはあの家も淋しくなるなー」
「怜さんは神主さんにならないの」
「おじさんが神主も社会の色々を知っていないといけない、って考えのひとだから、何年かは外で働くことになるかな。僕も来年は就活するよ」真吾くんはわたしの方を覗き込んできて、笑った。
「えっ」
「スーツ着ますが、何か」
 想像がつかない、真吾くんがスーツを着て行くんだ。もっと先の先にある話のような気がしていたのに。
「まあ、来年のことだし。あんまり言うと鬼が笑うよ」
 そう言うと真吾くんは、沢山ある包みの一つをばりばりと開けて中身にかぶりついた。
 そういう知らなかった話を聞くたびに、ちょっとしたよく分からない、距離みたいなものを感じた。全く違う人格を持ったひとで、今迄その話を知らなかっただけなのに胸の下がきゅう、として、もう少しくっついていたいような。

 いつもわたし達の間には微妙な距離があって、その隙間は埋められることは無かった。薄々感じていたけれど、真吾くんは手を繋ぐ以外わたしに故意に触れないようにしている気がした。
 そのことを日が経つにつれて淋しいと思うようになって、どうしたらいいのか分からなくなる。
 そういうことに疎いけれど、でも、嫌じゃないのに。

「真吾くんは、ずっと一人暮らしするの」
「どうだろう、ゆくゆくは神社に戻ることになるんだろうけれど。就職先次第かな。多分引っ越しもするし」
「そう、なんだ」それ以上は聞けなかった。


 食後、日向ぼっこをぼんやりとした後、御苑を出ると手を繋いだわたし達は、回り道をしながらお稲荷さまの小さなお社を目指した。行く途中で歴史を感じる銭湯や保育園が並ぶ道に出ると、先輩は細い路地の前で足を止めた。
「こっち行くとうちがあって、反対側のあっちの路地を行くと狐のお社なんだ」
「近い、ね」
「まあね、一日に一度は様子見に行っているけれど」
「お稲荷さま今はいるのかな。お出掛けしていないかな」わたしが笑ってそう言うと、真吾くんは神妙な顔になった。
「……多分いるよ」
「ニヤニヤしていそう、お稲荷さま」
「朱里、覚えているの」
「え?」
 はっ、と我に返った。わたし今何を言っていたんだろう。真吾くんはそんなわたしをじっ、と見つめていたけれど、わたしの様子を見てから長い長いため息をついた。
「……行こう、狐が呼ぶ声がする」
 そう言って真吾くんは、わたしの手を引いた。

 お稲荷さまのお社は明るい陽気の日の下で、それでもそこにただ静かにあった。
 あの美しいひかりを見た日から季節は随分と進んでしまっていたのに、懐かしいような、遙か遠い彼方にいた時に、ここに立っていたような不思議な気持ちになる。
 小さなお社の前に立つと、一段だけ登り頭を二回下げる。そして柏手を二度打って手を合わせた。

 こんにちは、お願いがあります。真吾くんともう少し仲良くなれますよう。お願いします。
 そんなことを、目を閉じてそっと願う。

 可愛い子、忘れてはいないかぇ。ああ、ちゃんと持っているねぇ。よかったよぅ。

 小さな妖艶な声が耳元で聞こえた気がした。意味は分からなかったけれど。

「あのさ、いつまでくっついているつもり。不愉快だからやめて」
 不機嫌そうなその声に後ろを振り返ろうとすると、身体は動かなかった。
「えっ、な、なにこれ」
「狐っ、離せ」
 厳しい声が後ろからすると同時に、ふわりと暖かい空気の塊のようなものに後ろから包まれて、身体は解れた。
「今の、何?」
 聞いても真吾くんは眉間に皺を深くして、お社を睨んでいる。落ち着かなくて真吾くんとお社を交互に何度も見た。そのうちに真吾くんはため息をついて目を伏せた。

「あの、何があったのか教えてください」
「……敬語」
 ポツリと呟かれた言葉にハッとして口を手で覆った。そんなわたしの様子に少しだけ笑った真吾くんは、なんでもないよと静かに呟いた。

 何でもない、その言葉に淋しさがじんわりと胸に染み出してきた。苦い味でざらざらしたもの。
 少しだけ項垂れて、でもあまりこんな姿は見せたくはなかった。あんまりこころの負担にはなりたくはない。少しだけ気持ちを押し込めるようにして顔を上げると、真吾くんは厳しい顔をしていた。

「狐に何か言われた?」
「……忘れてないか、って。持っているか、って」
「……そう」真吾くんは、それ以上何も聞かなかった。


 その日の夜からわたしは夢を見る。

 白い世界にただひとり立っている夢。どこまで歩いても真白で、どこまで行ってもなにも見つかりはしない。

 いつか、どこかでここに立っていた。いつか、どこかで。

 白くて長いワンピースの胸を見下げると、布地の下に柔らかな、暖かなひかりが小さく瞬いている。

 そっとその辺りを両手で触れると、ひかりは大きくなり妖艶な声がわたしに問い掛けた。


 真吾の可愛い子。大切なことを問うよ。お前は真吾を愛し続けることはできるかぇ。

午睡

「可愛い子、お前はまたここに迷いこんできたのかぇ。全く手間の掛かる子だよぅ。早くお帰り」

 幾度目かの白い夢で、初めて誰かに後ろから声を掛けられた。振り返ると見たことがない程美しい赤と金が複雑な紋様の黒い着物を着たほっそりしたひとは、わたしを呆れたように見つめていた。

「お稲荷さま」
「おやおや、覚えているのかぇ。それでは道標が動き出しているのだねぇ。全く、ここで悩まず下でお悩みよぅ。もしくは真吾に全部話してみてはどうかぇ」
「何を話したら」
「お前がわっちに願ったことだよぅ。社に来て手を合わせて行っただろぅ。覚えていないのかぇ」
 願ったこと、それはこころの奥底で静かに蠢いていたものを探り当てられていたのかもしれない。そう言われて、頬はみるみる熱くなっていった。
「話して、って、無理です」
 わたしは項垂れる。あんな願いを話すなんて、そんなこと。
「こころの準備が出来ているのなら、お前から誘ってみなよぅ」
「えぇっ、そんな」
 お稲荷さまはふうわり笑った。何もかもを見透かしたように。

「お前の望みは真吾と身体を繋げたい、それだろぅ。こころは繋がっていても、ひとは肉欲も必要なんだよぅ。そのように出来ているのだからねぇ。恥ずかしいことは何もないのだよぅ。素直に抱いて欲しいと告げな」
「で、でもっ」
「おなごから言うのは、恥ずかしいとかなんとか言いたいんだろぅ。面倒な子だねぇ。全く」
 そうお稲荷さまが言うと、向かい合っているその後ろで白い世界が少しだけ揺らめいて、ひとの形を現し始めた。
「真吾がお前にベタ惚れしているのは分かっているだろぅ。抱き付いて乳房を奴の身体に押し付けちまいなっ。お前に足りないのはそういうところだよぅ。それか短い洋服を着て、美脚を出し惜しみせず奴に披露しな」
 お稲荷さまの後ろで姿を現したのは、ユウさんだった。わたしと目が合うと静かに嗤っているユウさんは、口の前でそっと人差し指だけ立てた。
「あ、あのう」
「わっちが真吾を煽っても、あの馬鹿者はいつまでも悩んでいるしねぇ。お前はお前で、欲望はある癖にただ困り果てている。お前達は本当に面倒だねぇ」
 ねちねちとした口調でお稲荷さまは怒っている。
「あの、抱き付いたり、とか、そんなことして、嫌われたりしたら」
「する訳ないだろぅ。好いたおなごに抱いて、と言われて嫌うおのこは居ないよぅ。阿呆か」
「そんな」
「ではお前は逆に抱きたいと言われたら、拒否して嫌うのかぇ」
 そう聞かれて言葉は詰まった。どうなんだい、とお稲荷さまはその細い目を更に吊り上げた。
『ミニスカート、ハイタラ』
「何だいっ……ユウ、何処から入って来たんだぇ。お前ここに来たことはないだろぅ」
『ミチ、アッタ』
「わっちの後を付けて来たのかぇ。全くどいつもこいつも」
 お稲荷さまは一人でぷりぷり怒って、正しいことを言っている雰囲気だけれど、言われているわたしにとっては、どう考えても困難な事のように思えた。抱いて。そんなことを言うなんて、ちょっと、出来っこ、ない。でも、それでも。

『ヘンカハ、ヒツヨウ』
 ユウさんはわたしを見て、静かに嗤った。その言葉を聞いてお稲荷さまは、うんざり顏になった。
『シッパイ、オソレナイ』
 尚もユウさんは話し掛けてきてくれる。
「まあねぇ、奥手のお前にはそれくらいでも大事件かもしれないねぇ。まずはやってみなよぅ。そしてここに来てはもう駄目だよぅ。いる時間が長くなると、向こうに引っ張られかねないからねぇ」
 怒られた後の優しい言葉に、こころはほっ、とした。変化することをやってみる。失敗を恐れない。

 少しだけなら、出来る、かもしれない。
 わたしは頷く。頷いた。


 ざわついた学食の机に伏して、腕を枕にして眠っていたようだった。
 最近何処にいても眠り込んでしまうことが増えて、それでいて夢の内容は白いイメージしか思い出せない。白い、果てしなく白い世界が瞼の奥に浮かぶ。
「おはよー朱里。もう昼休み終わるけどさー、急いでご飯食べないと、三時限目間に合わないよ」
 円卓に伏していたわたしの前には、教科書とノートを広げた亜依と香澄が座っていた。
「ミニスカートって、どこで買うんだろ………」
 起き上がってぼんやりしながら呟いた。ミニスカート、買わなきゃ。ミニスカート?
「何処って、大抵の店には置いてあるんじゃない」
 呆れたような、それでいて訝しげな亜依に言われて理解はできない。考えている内にはっ、と我に返った。今わたし何を言ったの。
「でもさー、朱里が着ているような、ガーデニングやるひとみたいな服のショップには絶対ないって」
「まあ、そうだよね」
 香澄はペンをクルクル回しながら言うと、亜依もわたしをちらりと見て言った。
「わたし、今何て言ったの」
「えっ、ミニスカート何処で買うのか悩んでたよ」
 香澄はペンを相変わらず回し続けて、亜依はうんうん頷いている。ミニスカート、ミニスカート?
「な、何でそんなこと……」
「知らないよー、デートに着ていきたいんじゃないの」
「デート」わたしは頷き、また我に返った。
「しっかし、何でミニスカートなの。朱里、足出さない主義だと思ってたよ」
 そう聞かれて返答に困った。よく分からないけれど、真吾くんとそういうことをしたいって思っていたら誰かにアドバイスされて、ミニスカートを履くって話になったような。
「なんでそして顔が赤いの……」
 悪いもの見た、って顔の香澄が突っ込んできた。
「まさか」
 亜依が目を見開いてわたしを見てる。その言葉に香澄もはっ、とした様子を見せていて、二人の顔を見ることはできない。
「まさか、いや、いくらヘタレでも、マジそれは」
 香澄は本当に意中の男子の前でも、その位毒舌を発揮すればいいのに。ヘタレが誰か分かってしまって、ちょっとだけ香澄を睨むと、香澄はぺろりと小さく舌を出した。
「ヘタレって言わないでよ……」
「まだやってないの、ねえ」
 わたしが発した抗議なんかお構いなしに、香澄は核心を突いて来た。途端にもっと顔が赤く、熱くなる。
「それでミニスカートなんだ。納得。朱里にしてはよくそこまで行ったよね」
 亜依がちょっとからかうようにしてわたしを見ている。絶対これ、亜依が付き合いはじめのときにからかったのをお返しされてるっ。
「もういいって、ミニスカートは」
「えっ、大事じゃない」
「そうだよね」
 ニヤニヤ顔を見合わせた香澄と亜依に、嫌な予感しかしなくなった。


「あのね、まだ試験中じゃない。こんなことしてる場合じゃないよね」
 三時限目が終わった途端、わたしは両腕を亜依と香澄それぞれに掴まれて、ずるずると渋谷に連行された。
「あたしあと文学論だけ。亜依は?」
「わたしも文学論とレポート一つでお終い。レポートもうできたし。朱里は?」
「………同じ、です」
 エスカレーターに乗って前後を2人に挟まれて、逃げ出せない雰囲気。やだ、もう。
「ってゆーかさぁ、朱里いつもどこで買ってるの。そのガーデニングな服」
「ガーデニングじゃないっ……おばさんがお父さんからお金貰って、選んでくれて、る」
 渋々話すと最後の方には香澄はポカンとした、呆れ顔になった。
「それでかー服位、自分で選びなよ。なんてゆーか、おばさん雑誌に出てくるナチュラル主婦みたいじゃん。いっつも」
「別に、困らないもん」
「ミニスカート欲しい癖に」
 後ろから声がして振り返ったら、亜依は小馬鹿にした顔をしていた。あの時の復讐しているよ絶対。

「朱里、どんなの好きなの」
 亜依がラックから二つ取ると、わたしの前にひらひらのミニスカートを差し出して来た。
「これ、パンツ見えるよね、ぜったい」
「えー見せたらいいじゃん」
 香澄は馬鹿なの?見せていい訳ないでしょ。渋い顔したら亜依は、違うひらっひらのスカートと取り替えた。
「うーん、じゃ、スカパンにしてみたら」
「すかぱんって何」
「そこからっ、そこからはじまり?ある意味天然記念物じゃん。スカパンってぱっと見、こういうスカートだけれど中にインナーのパンツがついてんの。便利なの。これねー、ジョーシキ」
 そう言いながら香澄はぺらっ、とスカートをめくって見せてくれた。確かにフリフリの短いパンツがついている。
「服に興味ないんだって」
 そもそもこんなにキラッキラでフリフリな洋服ばかりのショップへ来たことはない。最近もおばさんに連れられて、駅前のショッピングビルで色々洋服を体に当てられたけれど、何の文句も感想もなかった。
「先輩はオシャレなのにねー、その彼女は服に興味なし。いいの、それで」
「今度からは先輩に選んで貰ったら」
「そこまでひどいかな、わたしの格好」
 言うと亜依と香澄は、しらーっとした顔でお互いを見た。
「ひとまず試着しな。まずは着てみてから。はい、試着室行く」
 亜依が持っていたすかぱんは香澄が取り上げると、わたしの腕の中に入れられた。

「これ、足すーすーするんだけれど……エアコンが寒いっ」
 ピンクのフリッフリなすかぱんは履くと思っていたより短い。パンツは見えないとは思う、でも布地が少なすぎる。
「いいじゃん、思ってたより全然にあってるし。上のパフスリーブとも相性バッチリじゃん」
 キラッキラな試着室のカーテンを開けると、二人とも何故かとてもいい反応だった。地味な上の服とフリフリのすかぱんは合わないから、とこれまたフリフリの半袖を試着室に入る直前に香澄から押し付けられた。
「短すぎやしませんか、短すぎですよね」
「気になるなら、ニーハイとか履いてみたら」
 亜依がまた訳の分からない用語を使う。にーはいってにーはお?
「亜依、分かってないってこの人」
「まあ、そうだろうね」
「意地悪しないで教えて、本当落ち着かない、このすかぱんっ」
 叫ぶように言うと香澄と亜依は、いきなりゲタゲタ笑いだした。それはそれは心から楽しそうに。笑い過ぎだよ、もう。


 結局試着した服を、この間貰ったバイト代にお小遣いを足して買った。ため息が出る。これ、デートで着るの。
 自分のアパートで夜、買って来た服をベットに広げてみる。こんなにフリフリは着たことない。
 上の服は鎖骨あたりが透けたレースになってるし。いいの、本当にこれで。
 じーっと見ていたら、携帯がいきなり鳴って飛び上がった。慌ててトートバックをまさぐると、二つ折りのそれを開いて相手を確認するとボタンを押した。
「はい」
『あ、今日は起きてた。よかった』
 電波の向こう側で、真吾くんは嬉しそうな声を出した。
「うん、起きてたよ。昨日はごめんなさい」
 白い夢を見るようになってから疲れてしまうのか、その夢を見なくてもいきなり眠りこけてしまうことも多い。
 昨夜は着信音にも気がつかず着替えもせずベットでうつ伏せに眠っていて、気がついたらカーテンの引いていなかった部屋は美しい朝焼けに染まっていた。
 携帯の着信を知らせる黄色いランプは星のように薄暗い部屋で瞬いていて。何度も鳴った形跡に項垂れた。
『また眠っちゃってたんだ。大丈夫?』
「うん、ごめんなさい』
 朝拝が終わっただろう時間にごめんなさい、とメールを送ると、ほっとして安心した、とすぐメールが返ってきた。
 何日か前はうっかり電車を眠りこけて何駅か乗り過ごし、慌てて降りたなんてこともあった。今日も昼休み寝ていたし。
『暑さ厳しくなってきたから、疲れているんじゃない。そんな時に祭りの練習とか、大変だよな』
「ううん、楽しみだからいいの。やってみたいし」
 この間、宮司さんから九月にある神社のお祭りで、今までとは違う巫女舞を頼まれた。衣装も今迄着ていた略装じゃなく正装になる、と言われたけれど想像はつかなかった。
 練習は試験明けから始まる。スパルタでやるからね、と真吾くんのおばさんからの伝言も頂いて、気が引き締まる思いだ。
『そっか、それならいいけれど。朱里はいつ試験終わり?』
「ええと、明後日の一限目で終わるよ。真吾くんは」
『僕は明後日の二時限で終わる。今回結構飛び飛びでさ、しかも試験もあるのにレポートも、とかの講義が結構あってきっつかった』
「神道学科は忙しそうだもんね」
『まあね、まあでも明後日が終わったら夏休みだし。朱里は実家に帰るんだっけ。少しは』
「うん、おかあさんに、会いに行く」
「そっか」
 その真吾くんが発した一言は、とても重たく響いて聞こえた。真吾くんはあまりわたしの事故のことを聞かない。でも何かの会話の弾みで母のことや事故の話が出ると、まるですべて知っているかのように短い返事が返ってくる。不思議で、でもそれが当たり前のようなそんな気持ちがした。
『何を報告するの』
「……何だろう、元気だよ、とか、楽しくやっているよ、とか、うまく言えないけれど」
『いや、いいじゃん。それがいいって』
「そう?」
『うん、それがいいよ』
 向こう側にいる真吾くんの優しい声に、頬は緩んだ。
「真吾くんは、帰らないの」
『そうしたいんだけど、これから依頼の方がハイシーズンだから。何で人は夏になると思い出すんだろうな、年中あの人達は何かしらやらかしてるのに、冬とかはあまり依頼がないし。まあ、呼ばれても勘違いが多いのも夏なんだけれどさ』
「大変なんだね」
『明日はそれで夜いないから。電話出来ないから』
「うん、分かった」
『いつ頃実家に行くの』
「お父さん、お盆は休み取れないらしくて、その前の週なら、って言っていたから、そこで」
『そっか、あのさ、八月の外苑の花火、よかったら観に行かない。いい所があるんだ』
「いいところ?」
『そう、人があんまり来ないけれど、バッチリ見えるとこ』
 人があまりいない、そう言われてわたしは、今日買って来たすかぱんを見る。その日なら、履けるかも。
「うん、行きたい」
『じゃ、決まり。楽しみだけど、その前に試験、頑張らなきゃなー』
「そうだった。……あの、明後日終わったらお昼一緒に」
『行くっ』言い終わらないうちに、真吾くんは嬉しそうに遮った。

夕凪

 蒸し暑い東京から少しは涼しい実家へ戻ると、見たことがない位、乱雑な実家がわたしを待っていた。
 母が生きていた頃にはあり得ないことだった。ひとつひとつの物の場所は正確に決められて、そこに収めるまで見守られて、部屋の中はいつも整然としていた。それが。
「すまん、帰ってきて片付けさせるなんて、駄目な親だよな」
「ううん、ちょっと面白いけれど」
 おにぎりの空き容器、ビール、酎ハイの空き缶、割り箸、醤油がついたティッシュ、そういうものをひとつひとつ袋を分けて、片付けていく。
 父は仕事の時に使う本を仕分けている。いる本、売る本、いる、の方が多くてその内書庫が満杯になって底抜けるんじゃないか、と想像してしまう。それは困るけれど。
「面白い、か」
「うん、お父さんがどんな生活していたのか分かるし。もうちょっと野菜食べた方がいいなあとか、お酒結構飲むんだとか、おかあさんのこと好きだったんだ、とか」
 乱雑な部屋の中で、母の遺影の前だけは小さな花が生き生きと生けられていて、大好きだった和菓子がそっと置かれていた。そこだけきちんと整えられて、遺影の母は笑っていた。見たことのない顔で。
「好きだったんじゃない、好きなんだよ。もう伝えられないけれどな」
 父は淋しそうにそう言って、読まなくなった雑誌を強く紐で括ると、ハサミで切った。
「そういうことをちゃんと伝え合わなかったから、おかあさんを逝かせてしまったんだよな。仕事にばかり目が向いてて駄目な奴だからな」
「お父さん」
「朱里も宮本くんに救ってもらった。父さんは何もしてない」
「救って?」
 いきなり何を言い出すんだろう。父は真吾くんに会ったことがない、なのに知っている。何故、何故。父は静かな表情で見上げてくると話し出した。
「言わないで欲しいとは言われている。でもお前は知っていた方がいい。
 お前を、朱里を救ったのは宮本くんだ。朱里が意識不明になっていた時、創くんがいきなりおかあさんの葬儀の時、朱里はここにいるって言い出した。
 まさかと思っていたら創くんは何も話さなくなった。生前、おかあさんが苦しんでいた時にしていたような顔を、創くんもしていたから嫌な予感はしていたんだ。
 東京にいる朱里の所へ行った時に会って欲しいひとがいる、と一枝さんに言われて創くんの家を訪ねたら、宮本くんがいて彼は強い目で言ったんだ。『池田さんを助けたいんです』ってな」
 無口で話すのが得意ではない父は、一気に息を吐き出すように話した。胸の中のものを出すように。

「聞いた話は到底信じられない、だけど何故かその通りだと思える話だったよ。朱里の魂は体から抜け落ちて何かを探して彷徨っている、と。苦しんでいる、と。
 宮本くんはどんな手段を使っても生きていて欲しいと願っていると、そう父さんに言った。
 父さんが意地悪く金が目当てなのかって尋ねたら、彼は悲しそうな顔でただ好きなんです。と言った。朱里が彼の人生に優しく色をつけてくれたとね。だから何かを返したいと。父さんは頭をかち割られた気分だった」

 わたしは余りに濃い話に何も言えない。ただゴミ袋を持って、ただ聞いていた。

「朱里の意識を取り戻すため色々な方法を試しては失敗して、宮本くんはいつもすまなそうに電話してきてくれた。
 手掛かりが欲しいと朱里のことを聞かれる度、父さんは余り答えられなかった。親なのに知らないということを思い知らされて、不甲斐なくてな。
 朱里が目覚めた時、宮本くんは過労で倒れた。そこまでしてくれたのに宮本くんは朱里には言わないで欲しいと言った。朱里の負担にはしたくないからとね。
 でも朱里は宮本くんと一緒に居たいと言ったんだろう」

 父の言葉は知っている話だった。知っている、どうしてそう思えるのかは分からないけれど。

「うん」やっとのことで、返事を絞り出した。
「父さんは色々なことを知ろうと、聞こうとしなかった。おかあさんを失ってやっと気がついた馬鹿者だからな。言わない方がいいかとも思ったんだが、努力は報われて欲しいと父さんは思った。彼に縛られる必要はない、でもちゃんと向き合って一緒にいて欲しいと思う。
 父さんがそんなことを言える立場じゃないのは分かっているが、どうしてもな」

「わかった」ちょっと笑って言うと、父も少しだけ笑った。

「おかあさん、凄くいい顔で笑っているね。これ、何時の」
 遺影を見ながら聞くと父はああ、と声を漏らした後教えてくれた。
「東京へ行く直前におかあさんがいきなり温泉でも行こうって言い出してな。どうしても行きたいって言って休みを取って行ってきた。
 凄く穏やかでまるで出会った頃のようだったから、何かあったのか聞いたら、朱里の幸せな夢を見たと言っていた。今から思えば何かを悟っていたのかもしれないな、珍しく写真を撮ろうって言って一緒に撮った。それが遺影になるなんて、な」

「教えてくれて、ありがとう」そうわたしが言うと、父はまた無口になった。


 帰省して五日目に創の一家が東京から来て、一緒にお墓参りに行く。お墓は丘の上にあって日差しはジリジリ暑いのに吹いてくる風は涼やかだった。
 黙々と周りに生えてきている草を抜いて袋に詰めていく。こっちに帰ってきてからゴミ袋ばかり持っている気がする。創は枝切れを何処かから持ってきて振り回し、おじさんに怒られて頬を膨らませていた。

 精一杯生きて、そして、いつか空の向こうへ逝く日が来たら、どうだったか決めよう。僕もそうする。

 桜の花びらが舞い散る景色が瞼の裏に浮かんで、耳の奥に真吾くんの優しい声がした。

 記憶の欠片のようなものがころり、と父の話を聞いた後から掌に転がり出てくるようになった。所構わずに。その度に優しい声がする。じんじんとこころに染み入るような優しい声。

 その時、わたしはどうしていたんだろう。その声にちゃんと応えていたのかな。
 そのことは覚えていない。どうしても思い出せない。

 真吾くんとどんな顔をして、これから一緒に居たらいいんだろう。


『お墓参り、無事終わった?』
 夜、皆でお寿司を取って食べて、父とおじさんとおばさんは大人の話をし出したのを機に、わたしは自分の部屋へ戻った。創は下で携帯ゲーム機で遊んでいる。
「うん、草むしり大変だった」電話の向こうで真吾くんが笑っている気配がする。
『何を報告してきたの』
「………大切で、好きな人が、います。って。言った、よ」
 恥ずかしいけれど勇気を出して言ったら、沈黙が続いた。少ししてガタガタッと後ろで何かが崩れる音がして、真吾くんが小さくいってぇ、と呟いた。
「大丈夫、ぶつけたの」
『いやっ、何でも。や、ぶつけたとか、そうだけど、あーいってぇ』
「どこ痛くしたの」
『足の甲に辞書落とした。ちょっとじんじん痺れているけれど、大丈夫』
「意外とおっちょこちょい、なの」
『いや、嬉しい言葉を貰ったから。ちょっと何時もの感じ?』
 ああ、想像がついた。照れて喜んでいるんだ、と思うとわたしも嬉しい。とぼけたような口調に、こころは暖かくなる。
「東京は、暑い?」喜びは、声に出てしまう。
『暑いってもんじゃないよ、酷暑だし。鉄板の上で蒸し焼きにされている気分で辛い』
「そうなんだ、帰るのがこわい。こっちはまだ涼しいから」
『いやっ、帰ってきてよ。約束したの忘れた?』必死な声に笑いが漏れた。今なら、もしかして。
「うん、大丈夫。お土産は何がいい」少し、胸がドキドキし始めて、息苦しくなる。
『………なんでもいい、なんでも」
「こっちに美味しい牛肉があって、買って行こうかなって思っているけれど、うちでお夕飯に焼肉とか、する?」
 勇気を出して、誘ってみた。真吾くんは黙っている。お互いの家にはまだ行ったことは無くて、誘われたことはない。下心丸出しかもしれない。でも、でも。

『………いや、焼肉するなら、大勢でやりたいな。わいわいとした感じで」
「……そう、だよね」
 固い声で、言われた。断られた。気持ちが萎んで行く。
『肉も好きだけど、甘い物でもイケるし、朱里にまかせる』
「うん、分かった」
 わたしは目を閉じる。拒否、された。真吾くんは、はっきりとわたしの下心を見透かした上でああ言ったのが分かった。
 さっきまであった嬉しさになり変わって、落ち込む気持ちがする。駄目、なのかな、わたしじゃ。
 そのまま会話はギクシャクとして少しだけ続き、また東京で、と言って電話を切った。


 その日の夜、また夢を見た。白い、夢。実家に帰ってきてからは見ていなかったのに。

「お前は何度言ったら分かるんだぇ。ああ、ここまで出張るのは大変なんだよぅ。いいから早くお帰り。ここに来てはいけないよぅ」
「お稲荷、さま」声は震えた。
「なんだぃ、しょんぼりしてサ」
「真吾くんを誘ってみたけれど、断られ、ました」
 俯くと細く長い指がわたしの頭頂部をがばっ、と掴んで顔を上げさせられた。
「一度位失敗したからってメソメソするんじゃないよぅ。でも勇気を出したのは良いことだねぇ。頑張ったじゃあないか。でもあの頑固者の牙城を崩すには、生半可な気持ちで挑んではいけないよぅ。分かるかぇ」
「牙城?」
「敵は思い込んだら一直線の頑固者だよぅ。この無駄に呆けた頭を少しは回して使いなぁ。この間から言ってるだろぅ、肉欲で落としちまいな」
「む、胸とか押し付けるとか、で、できま」
「阿呆かっ、お前は一体どうしたいんだぇ。折角持ってるんだ、その美乳を武器にしちまいな」
「美乳ってなんですか」
『ウツクシイ、オッパイ』
「お前また付けて来たのかぇ。暇なのかぃ」
 お稲荷さまが振り返ると、そこには静かに嗤ったユウさんがいた。
『オマエモナ』
 ユウさんが笑いながら言うと、お稲荷さまはうんざりした顔になった。
「美しい、お……って、み、見たことあるんですかっ」
「わっちを誰だと思っているんだぇ。一応何百年もいるんだよぅ。わっちにしたらお前なんぞ素っ裸にして見通すなんて朝飯前だよぅ。喰わないがねぇ。………今のは笑うところだよぅ」
『オモシロクナイ』
 淡々と言い放ったユウさんをお稲荷さまはぎっ、と睨みつけた。
「ユウは本当に性格が悪いねぇ。お前なんで特攻避けられなかったんだぃ。その性格の悪さで逃げ切れただろぅ」
『ワスレタ』
「お前も絡んできなよぅ、他人事みたいな顔しないでさぁ」矛先はわたしに向かってきた。
「ご、ごめんなさい」
「全くどいつもこいつも」
 そう言うとわたしの頭をつかんでいた手をお稲荷さまは下ろした。

『ヤッテミナケレバ、ワカラナイ』
 ユウさんは、漆黒の静かな瞳で射るように見て来た。
「ユウはいいところを攫っていくねぇ。飴と鞭で言えばお前は、どちらかと言えば鞭だろう」
『シッパイ、オソレナイ』
「無視かぃ。いい度胸だよぅ」
『シヌワケジャナイ』
「お前それは黒い冗談って奴だねぇ」

「わたし、分からないんです。真吾くんが何故その、そういうのを避けるのか」
「あれ、記憶を全部取り戻しているんじゃなかったのかぇ」
「欠片みたいに、最近、場面場面が転がるようには出てはくるんですけれど」
 わたしがそう言うと、お稲荷さまとユウさんは顔を見合わせた。
「道理で上手く行かない筈だよぅ。おかしいねぇ、少し未来が変わっているよぅ」
「良くないんですか」慌てた声が思わず出た。
「いや、………ああ、そうだねぇ。お前にはまだ足りないものがあるよぅ。それを得ることが出来れば歯車は回り出す。少しだけ手助けしようねぇ、掌を上に向けなぁ」
 ふわり、と小さなひかりは、わたしの周りをゆっくりと回り出した。両手を隣合わせて出すとひかりは掌の中へ消えていった。
「もうここへ来てはいけない。この夢は手放すんだよぅ。分かったかぇ」

「………がんばり、ます」そう言うとお稲荷さまとユウさんは少しだけ笑った。


 目が覚めたら、あまり物が置かれていない実家の自分の部屋だった。カーテンの隙間から明るい光が一筋差してきている。

 何かがおかしくて、身体を起こすと、閉じた瞳の奥で不意に何かが見えた。

 しっとりとした夜の森で、美しく知らないひとに抱かれていた。優しいのにおそろしい。
 ガタガタと身体は震え出す。果てしない熱を受け取り、こころを凪にされ縛られた。
 わたしは、そこから逃げ出した。死を、望んで。そうだ、自ら死を選ぼうとしていた。逃げて、そして桜色に包まれて。

 怖がらなくて、いい。大切にするから、ずっと、ずっと暖めるから、だから熔けて。

 そう言った彼は真吾くんに姿を変えた。こころを縛られる、そんな言葉を囁かれた記憶。

 命を、握られていた。そんな記憶。


 何故か真吾くんの言葉に気持ちがすぅ、と止まることがあった。付き合い始めの頃。それは、命を握られていたから?
 何時も優しかったのは、気にかけてくれていたのは、なぜ?

 真吾の可愛い子。大切なことを問うよ。お前は真吾を愛し続けることはできるかぇ。

 その言葉が頭の中に響いて、目をそっと開いた。

薄暮

 蒸し暑い東京へ戻っても、わたしのこころは晴れなかった。徐々に思い出す欠片と、優しい声と、こころを縛られる熱。
 真吾くんからの電話にも浮かない声を返してしまって、掛かってくるのは二、三日おきになった。話しても会話は盛り上がらず、すぐに切ることになる。

 花火の約束が、重い。どうしても行かなければいけないのか、と後ろ向きな考えになってしまう。

 壁掛けにある、ミニスカートの服。それを見ていた。

 真吾の可愛い子。大切なことを問うよ。お前は、真吾を愛し続けることはできるかぇ。

 愛し、続ける。それはどういうことなんだろう。


「はい、そこまで」
 真吾くんのおばさんは厳しい声で叫ぶと、CDデッキの曲を止めた。練習が始まってすぐに大きい浴衣に帯をせず後ろに流して、巫女舞の練習をしていた。
 秋のお祭りに着る正装は裾がとても長いらしく、裾さばきに慣れる為、だそうだ。
 中々裾さばきが身につかず、巫女舞も難しい。汗だくになって疲れても、今まで使わなかった筋肉が痛んでも、それでもやっぱり楽しかった。
 遥か昔からこの楽しさを知っていたような、そんな感覚がする。

「今日はここまでにしましょう。お疲れ様」
 それまでの厳しい表情を一変させて、真吾くんのおばさんはにこっと笑った。
「はい、ありがとうございました」
 少しほっとして、わたしも笑う。途端にお腹がぐーっと情けない音を立てて、顔を見合わせるとおばさんと声を上げて笑った。
「お腹、減ったわよねぇ。今日は真吾と外苑の花火に行くんでしょ。お風呂入ってさっぱりしたら食堂にいらっしゃい。はいはい、浴衣脱いで」
 真っ赤になってるわたしの後ろに回ると、おばさんはするりと浴衣を脱がしてくれた。
「あ、浴衣、あの」
「これ、洗えるの。だから気にしないでお風呂へGO」ビシッ、と障子の方を指さされた。
 慌てて着替えの入った鞄を手に持って、GO、GOと、言い続けているおばさんにぺこり頭を下げると、障子を開けた。


 神社のお風呂は相変わらず新しくて綺麗だ。汗を流して身体を洗わせてもらって、その間も悩んでいた。着替え、どうしよう。
 一応、二種類持ってきては、いた。何時も着ているようなのと、ミニスカートの方。

 昨日真吾くんからは簡潔なメールを貰っていた。

『終わる頃に神社へ迎えに行きます。待ってて』
 わかった、と返事を返してそれでもわたしは悩んでいた。愛し続ける、それはどういうこと。
 命を握られていたことは、思い出した直後にはショックだった。でも。

 父の言葉がわたしを冷静にさせた。何度も失敗して、それでもわたしを救いたい、そうやって倒れたという事実。
 記憶の欠片たちと、父が話してくれたことと、真吾くんの優しさ。混ぜ合わせて形にすると嫌ったりなんて出来なかった。それどころか。

 お風呂から上がると持ってきたタオルである程度身体を拭いて、鞄を開ける。
 どうしよう、どうしたら、いい。ぴらぴらのミニスカートが目に入る。

 やってみなければ、分からない。失敗、恐れない。死ぬ訳じゃない。

 はーっ、思い切り息を吐き出した。限界の限界を超えた、肺に残っている全ての二酸化炭素を外に出し切って、息を止める。心臓がばくばくして苦しい。そこで止めて目を閉じた。

 息を止めるのを止めて新鮮な空気を吸い込んだ時、こころは決まった。


 失敗を恐れない。死ぬ訳じゃないし。



「ちょっとっ、やーだーねぇ、花火見に行くからおしゃれしたのね。いいじゃない、脚出して。婆婆さま、池田さん結構、脚綺麗だと思わない」
 すりガラスの引き戸を開けて挨拶すると、真吾くんのおばさんがわたしの格好を見て近寄ってきてから、食卓に座っていたお婆さんを振り返った。
「ほーう。舞姫さん、中々やるねぇ。髪も似合っている」
 脱衣所で編み込みをしながら、片方に髪を寄せてシュシュで止めただけ、なんだけれど褒められると嬉しい。
「ありがとう、ございます」やっぱり頬は赤くなった。
「真吾を待っていなされ。でないと男共がそなたに群がるぞ」
 そう言うと、お婆さんは立ち上がった。ご飯をお茶碗に盛っていたおばさんは、慌てておかずが並んだ食卓に茶碗を置くと、お婆さんを支えてこう言った。
「池田さん、ご飯食べてねっ。食べ終わる頃には真吾も来るでしょ。わたしこの後お祭りの打ち合わせがあって、町内会の人が来るから居なくなるわ。食べ終わったら茶碗は置いておいてねっ。花火楽しんできてね」
「口がよく回るねぇ。舌好調じゃないか」
「婆婆さま、わたし喋らないと死んじゃう人間だから。知ってるでしょ」
「そうだったねぇ」
 口を挟む間も無く、二人は食堂を出て行った。アワアワして、あの、そのと挙動不審だったわたしは一人で残された。
 ちょっと真吾くんみたいになってる。一緒にいるとそういうのって移るの、かな。

 久しぶりに作って貰った食事を終えて、食器を洗い布巾で拭いていると、食堂の扉を開ける音がした。
「……あれ、朱里?」真吾くんの声に、心臓は跳ねた。
「こっ、ここです」台所から顔を出す。
「何だ、居ないかと思った。なにして……」
 穏やかな顔で近づいてきた真吾くんは、わたしの姿を見て固まった。

「へっ、変かなあ、あの、でも、ちょっとだけ、お出掛けするしって、そう、思って」
 沈黙に耐えられなくなって、思わず叫んでいた。頭からつま先まで、羞恥で染まって行くような気がする。
 目を見られなくって、恥ずかしくて、すかぱんをぎゅ、っと握った。
 真吾くんは反応が、ない。長い長い沈黙がわたし達の間に流れた。
「やっぱり、変、かな」
 もの凄く勇気を出して真吾くんを見ると、その視線とかち合った。
 戸惑ったような、困ったような、それなのにその瞳の奥には見たことのない色が、見えた。

「ちょっと、ついて、きて」
 掠れた声で真吾くんは言うと、すりガラスの引き戸の前に立った。
「え、あのこれ、拭き終わってない」
「いいからそれは」
 平坦な声に促されて、布巾を掛けると鞄を持った。ついてきて。そう促されて、後をついて神社の廊下を先導されて進んで行く。
 あちこち曲がって突き当たりの部屋まで来ると、真吾くんはドンドンとその扉を叩いた。
「怜っ、いるんだろ。おいっ」
「何っ、ドア壊れるでしょ。ちょっと、馬鹿力で叩かないで………ってどうしたの」
 すぐに出て来た怜さんは、わたしを見るとびっくりした顔になった。
「怜、長いスカートかジーンズ貸して」
 淡々と真吾くんは、怜さんに向けて言った。
「え、何で。何言ってるのこいつ。そのまま花火行けばいいじゃない。折角ミニスカなんだから」
「いいから貸して」
「はあ?」
「いいから貸せって!」
 真吾くんが怒鳴って、わたしはやるせなくなり項垂れた。不快だったんだ、どうしよう。
 怜さんと真吾くんは黙っている。やや少ししてため息をついた怜さんはわたしを呼んだ。
「池田さん、ちょっと来て。真吾は食堂にいて」
 怜さんはわたしの前に来ると手を引いて部屋へ促し、黙っている真吾くんの目の前で扉を閉めた。

「すみません、あのご迷惑かけて。その、着替えなら、持ってます。だから、あの」
「まあいいから、ちょっと座って。どこでもいいから」
 くつくつ笑っている怜さんは、わたしを椅子に促してそれからベットに腰掛けた。
「で、何でスカパン履いて来たの。ねえ、白状しなさいよ」
「えっ、や、あのっ………その、した、ごころ?」
 恥ずかしくて、でも嘘はつきたくなくて、語尾は震える。
「へぇぇ、いやーもうなんかそういうのどっかに置いてきちゃった、私。ああ、何だかお母さんの気持ちが分かるかもね、まあいいわ、しっかし、スカパンで真っ赤な彼女がプルプル震えてて手を出さないなんて、あいつマジで童貞こじらせすぎ」
「なっ、何でそんなこと知ってるんですか」
「だって、あいつにはあなたが初めて出来た彼女だもん。あんな派手な感じだけれど意外とクソ真面目で頭固いんだから、多分そうだと思ってるわ。それでまだヤッてない、ってことよね。合ってる?」
 からからと怜さんは笑った。わたしは少しだけ悩んで、頷く。
「あーなんとなく分かってきた。なるほどねぇ。それで池田さんはちょっと勇気出してスカパン履いてみたわけね。スカパンのこと誰かに勧められた?」
「え、っと良くは分からないんですけれど、あの信じられないかも、なんですけれど」
「前置き長いっ、で?」
「白い夢を見て、そこでミニスカート履いたらって、あの誰かに言われて、その」
「あんの狐っ、それでアレ頼んできたのね。あーやっとスッキリした」
 信じてもらえないかも、と思いながら話した内容を聞いて、怜さんは晴れ晴れとした顔で叫んだ。

「それ勧めてきたの四丁目のお稲荷よ。知ってるかしら。マンションの側にある小さいの」
「お稲荷、さま。知ってます。赤い鳥居のですよね」
「そうそう、それ、あの狐真吾を気に入ってるから、ちょっかい出してるのよ。そしてあいつミニスカートが大好きなの。私が掃除に行くと必ずぎーぎー怒ってるわ。ミニスカートなんて、絶対履いて行かないから」
 ニヤリ、と怜さんは宮司さんと同じ黒い笑顔で笑った。
「怜さんは、見える人なんです、か」
「ううん、真吾みたいに力はないし、姿は見えないけれどね、声と気配位なら分かるわよ。宮司もそんな感じで、声と気配だけ。まあそれはどうでもいいわ、そのお稲荷がこの間わたしが掃除に行った時こう言ったのよ『避妊具用意しておいてくれないかねぇ』ってね」

「………え?」
「そのうち私の所に美脚を持った者が必要として訪ねて来るから、そうしたら一箱都合つけてやって、ってそう言ったのよ。もう大受けよ。あいつ何時も子どもはバンバン産め、早く産め、沢山産め、って言ってるのにコンドーム用意しろ、って言うんだもん。何でって聞いたら、それがないと出来ない馬鹿者がいるから仕方がないだろうって。これ逃したら一年後だから、って、もー嫌々頼んでくるの。そしたら現れたのよ。今日」
 もう、なにも言えなかった。布団被って朝までじっ、として出て行きたくない気分で、居た堪れなくて。恥ずかしくて恥ずかしくて。
 怜さんはそんなわたしに構わず、机の脇にある鍵付きの引き出しの鍵穴に小さな金色の鍵を差し込むと静かに開けて、ラベンダー色の水玉の紙袋を取り出してわたしにくれた。
「これ、あのっ」
「もー苦労したんだから。私だって最近使わないし、だからとある場所から調達してきたから。未開封よ」
「とある、って」
「そんなの決まってるじゃない、おとう」
「わああっ、いいです。怜さんバレたら怒られるんじゃ」渡そうとしたら、押し戻された。
「ばっかねー、これ程無くなっても犯人探しされないブツはないわよ。大丈夫、使用期限はまだまだ先よ」
 そういう問題じゃないけれど、もうどうしていいのかは分からない。でも、でも。

「決戦は今夜ねっ。大切な武器も手にいれたしね。明日の朝の朝拝が楽しみだわ。まあ健闘を祈るわ」
 怜さんが傍若無人と言われる訳が、ちょっぴりだけ、分かった。


「なんで着替えて無いの」
 食堂へ怜さんと一緒に行くと、わたしの格好を見て真吾くんは眉間の皺を深くした。
「必要ないからよ。真吾は彼女が精一杯おしゃれしてきたのを否定するの」
 そう言われて真吾くんは黙った。
「いっ、行こっ、花火」
 自分を奮い立たせて誘ってみたけれど、緊張でつい短い言葉になる。こんな時わたしはダメダメだ。上手い言葉が思い浮かばない。
 こちらを見ないで真吾くんは前を向いて無言で怒っている。眉間の皺はそのまま、深いままだった。
「こら、あまりにも拗ねてるのなら池田さんに真吾のはっずかしー過去を暴露するわよ。いいの、いいのね。あのねー池田さん。真吾はねぇ、中学二年の時にご」
「そういうのいいから、朱里、来て」
 強くそう言われて、こころの中は凪になる。すぅ、と静かに。

 駄目、だめだ。言わなくちゃ、ちゃんと。苦しくて身体は震えて、それでも抗いたかった。

「いっしょに、いこ」
 ざらついた声が出て、真吾くんは何かに傷ついた顔をして、目を閉じた。
 少し顔を歪ませてもう一度目を開けた時、ぐっと手を取られた瞬間そのまま引かれ、挨拶もなしに廊下を進んで行く。

 もつれるように外に出ると、一気に蒸し暑さが残る真夏の夜の空気を感じて、それでも真吾くんはその空気を切り裂くようにずんずん進んで行く。あっという間に参道を抜け、住宅街に入った。
「は、花火、行くんだよ、ねっ」叫ぶように尋ねたら、
「駅まで送る。今日は帰ろう」勝手な答えが返ってきた。
「やっ、やだあ、約束、したっ」
 鞄を落としそうになりながらも、子どものような言い分を叫んだ。
 帰りたくない、強く引かれている手を振りほどこうと腕を引っ張ったけれど、握った力は更に強まった。
「お願い、止まって。お願いだから」
 そう叫ぶように言ったら前を歩いていた大きな背中はぴたり、と止まった。
「なに」
 振り返った真吾くんの目は怒りの色に燃えていた。そんな表情にわたしの顔が歪んでいくのがわかる。
「話を、聞いて、お願い」それでも、でも、嫌いになんて、なれない。
「……なに」
「こういう、あの格好が不快だったって、その、知らなくて、ごめんなさい。でも、わたしちょっとでも、変わってみたくって、だから」
「別に変わらなくっていい。いつも通りでいいから」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくっていい、謝らないでくれ、今日は一緒に居られない。お願いだから、駅まで送るから」
 どん、と大きな音が響いて右手を見ると半円の緑の強いひかりが目に飛び込んできた。地面に響く音で、次々にひかりの花は開いていく。明るく蒸し暑い夜空を照らすひかり。

「いっしょに、いたいの。いっしょにいたい」
 音が止んで、ひかりが消えて、わたしは真吾くんの目を逸らさず見た。
「そう思ってはいけないの。触れたいって、いっしょにいたいって、そう思っているのに」

 また響く音がして、真吾くんの向かい合った片頬をひかりが照らした。
 苦しそうな顔が浮かび上がる。何度も。

「そう思っては、いけないことなの。好きで、仕方がないのにそれなのに」

「今日はここに来る前、狐に呼ばれてなにも考えず行ったら、狐火にやられて何かを奪われた。何、って言えないんだけれど何かだ。今日は、ちょっと朱里を傷つけそうで、怖い。だから、今日は、やめよう。今は僕の体調が悪いんだと思ってくれたら嬉しい。だから」
 冷静な声で真吾くんは話した。わたしを納得させようと、そうしようと話しているのが分かった。

「今日は、ごめん、僕のせいで。朱里は悪くない」花火は続いている。大きな音を立てて。

「やだ、帰らない」
「朱里」
「いや、嫌なの。いっしょにいたい」
「あまり大きい声で騒ぐと、お巡りさんに見つかって職質されるし、やめて」
「いやなの、帰らない!」
 子どもの様な言い分を続けているのは分かっている。でも、もう止まらない。

「朱里、いけない。帰ろう」強い強い言葉に、こころは凪になった。

幾望

「かえ、らないっ」
 苦しい、苦しくて、堪らない。でも抗いたい。押し通したい。もう引きたく、ない。そう強く思ったら、こころの中は嵐の日のように波打ち出した。音を立てて。
「帰りたくない、いっしょにいたいの」
 わたしはまるで子どもだ。睨まれて嫌がられて、挙句ここまで聞こえてくる程、歯噛みされているのに引きたくない。そこまで拒否されているのに引き下がりたくなかった。
 もう泣きそう。やっぱり駄目なんだ、わたしじゃ駄目なんだ。

 お前は、真吾を愛し続けることはできるかぇ。

 お稲荷さま、ごめんなさい。そう問われたのにこころは挫ける寸前だった。泣きたくない。負担になりたくないから。
 泣くのを我慢したら、自然に身体は震え出した。泣かないように掌をぐっと握り込む。そんなわたしの様子を見て、真吾くんは尚更、眉間の皺を深くした。
「やっぱり、だめ、だよね。わたしじゃ」
 声は情けない位に震えた。分かっていた、本当は釣り合っていないって。正反対なんだって。でも、それでも一緒に居るだけで嬉しかった。
 いつからか独り占めしたくって、触れたくって、でもそんなの全部見透かされて、先回りして封じられて。もう頑張ることが出来ない。
 求めているものは違うなら、一緒に居ても苦しいだけだ。もう涙は零れ落ちる寸前だった。
「ごめんなさい、もう、駄目」
 言いたいことだけ言って、去るなんて卑怯者だって分かっている。でももう耐えられなかった。感情的になってはいけないのに、止められない。
 花火は鳴り続け、ひかりは辺りを照らす。

 真吾くんに背を向けて一歩歩き出そうとしたところで、右腕を掴まれた。振り返ると、眉間の皺が深いままの真吾くんがわたしを引き止めていた。
「来て」
 短く唸るように言われると、そのまま反対方向に引っ張られて、ずんずん真吾くんは夜道を進みだす。足はもつれて転びそう。でもそんなことはお構いなしにわたしを引っ張って行く。
 古い家が並ぶ暗い路地を駆け抜けるようなスピードで進んだ。道端で手を舐めていた黒猫がびっくりして逃げ出して行った。
 低く響き渡る音と、明るい華やかなひかりを背にして、信号が点滅している大きな通りを渡ると、通ったことのない道を真吾くんは進んで行く。

 角にある白い一階がお店の建物の脇に入ると、外付けの鉄筋の階段を引っ張り上げられるように登らされて、もつれる足でなんとか登り切った。
 そのまま奥の角部屋の前まで行くと、真吾くんはポケットから鍵を取り出して急いで開けた。
 扉を開けて引っ張り込まれると、後ろで扉は乱暴に閉じられそのままドアに体を押し付けられた。両腕を曲げてドアに押し付けるようにして、真吾くんは覗きこんでくる。

「本気で、言ってんの」
 涙は頬に幾重にも流れ落ちていた。そんな顔なのに覗きこまれて、どうしよう、どうしたらいい。
 暗い部屋の中なのに、窓の外からの花火の光で真吾くんの真剣な表情と、どろりとマグマのように熱い視線が何度も浮かび上がっていた。
 それでも、恥ずかしくても、一緒に、いたい。

 小さく頷くと、真吾くんは更に近づいた。

「今日は絶対手加減できない。それでも言ってんの」
 あまりにも近くて、目の前の男の人の熱い体温を感じる。
 心臓は痛い位に鳴っていた。うるさくて、でも今止まってしまったら間違いなく後悔する。もう一度、頷いた。

(たが)が外れたら多分優しくは出来ない。それを分かってて言ってるの、それとも分かってない?今ならドアを開けて帰してあげられる。怖いだろ、止めなよ」
「どうして……そんな、こと言うの」
 涙声で顔はグチャグチャで、こんな恥ずかしい姿、誰にも見せたことは無かった。でも、もう引きたくない。
「どうしても」
「真吾くん、何か隠してる」
「………いつか、言うから」
「今、言って」お願いだから。
「駅まで送る。今日は帰ろう」
「わたしじゃ駄目なの!」
 恐ろしい位に煮えたぎる目に怒りの色が見えた。

「もう失敗したくないんだよ、覚えていないだろうけど朱里を身体に戻そうとした時、僕は朱里に許されないことをした。もう独り善がりなことはしたくない。今日は本当に駄目なんだ。加減してやれない。だから」
 もうそれ以上は言わないで。目の前のひとの首に腕を回して、思い切り抱きついた。身体、震えてる。怖い。けど引きたくない。

「許してるよ」
「覚えて、るの」呆けたような声が、耳元で響く。
「欠片だけ、だけど」
 背中に手が回された。そのままぎゅう、と抱きしめられて。くらくらする。気持ち良くて身体は熱い。
「ごめん、あの時はごめん」
「ううん、わたしが逃げ出さなければ真吾くんはそんなことをしなかったと思う」
「それでも、ごめん」
「もう、いいの。謝らないで、わたしだって」
「ごめん、本当に……朱里、ありがとう」
 一度ぎゅう、と強く強く抱きしめられて、そのまま身体は離されようとした。嫌、離れたくない。急いでもう一度首に縋り付く。

「駅まで、送る。離して」甘い甘い声で囁かれた。
「い、や」首を横に振る。
「本当に、今日は手加減出来ないと思うから。初めては、その、もうちょっと落ち着いてから」
「い、やっ」
「や、その、用意してないし。学生なのに駄目だろ」
「も、持ってる……」
「え?」
「も、貰ったのっ」
 恥ずかしい。そんなの用意して来てるなんて思われてるだろう、でも。
「見せて?」
 身体を離されて、もたつく手で鞄からあの紙袋を出して手渡した。
 彼の顔を見られない。慎吾くんは中身を覗くと、天井を見上げてため息をついた。
「軽蔑するよね……でも」
 言いかけた言葉は真吾くんの唇に塞がれて、続けられなかった。
 初めてする、背筋がゾクゾクするようなくちづけに翻弄されて、瞼は震えた。
「本当にいいの。優しくしたい、でも、今日は手加減出来ない」
 唇が触れるか触れないかの距離で、真吾くんの熱く溶けた目とかち合う。
「い、いの」歯車は、回り始める。


 そこからは何もかもがあっという間だった。もつれるようにベットまで連れて行かれて、真吾くんの匂いのする寝具の上に押し倒された。
 初めてのことに精一杯で、気がついたらベットで何も身につけず、ただ身を任せていた。
 全身を隈なく舐められて、キスを落とされて、甘ったるい声が喉の奥から何度もで続けて。指先から、脇の下、背中、脚と足先まであちこち唇は這い回り、たまに真吾くんがうわ言のようにわたしの名前を呼んで、反応を見るかのように声を出し続ける箇所を探り当てて何時までも舐め続けられた。その度にさらさらと暖かいとろり蕩けたものがわたしの中から流れ出るのを感じて、恥ずかしさに身を捩る。
 長く触れられ続けた身体は、一度強く痙攣して頭と身体がバラバラに痺れ震えてから、すぐさま次々に同じ感覚に襲われ続けた。
 もうだめ、何度も言ったけれど、手加減できない、ごめんと優しい声で耳元で囁かれて、また頭がおかしくなる位舐められた。
 何時の間にかエアコンはつけられていたけれど、わたしは身体の何処もかしこも汗でべたべたになっている。
 真吾くんがぎゅう、と抱き締めてきた頃には、全身ぐちゃぐちゃでもう息も絶え絶えだった。
 繋がる所を硬い物で何度も探るように押し付けて来ていたけど、それすらも感じてしまって掠れた声を上げ続けた。
 顔の皮膚は声の出し過ぎで突っ張っているような気がしたし、身体は力が入らなくてグッタリしていたのに、探り当てて押し入るようにわたしに入ってきた真吾くんの硬いものに息は止まった。

「あか、り、息、して」

 声にならず、目を見開いて唇をわななかせるさせるしか出来ない。痛い。いたい、いたい。眉間に皺の寄った真吾くんが切なそうに呻く。

「駄目だっ、ごめん!」
 そう言うと真吾くんは、がくがくとわたしを激しく揺さぶった。内側が何度も擦られて、痛みが増して獣じみた声が漏れ出る。汗は幾筋もおでこから頬を伝っていった。

 大きくぐうっ、と奥まで押し込まれると真吾くんはわたしの身体を更に強く抱きしめた。
 はっ、はっとわたしの耳元で荒い息を吐き出している。終わった、の?

 そうっと重たい瞼を開けると、薄暗いカーテンの引かれていない部屋は、一筋天井に光が差し込んで不思議な景色だ。
 花火の音も、ひかりもいつの間にかなくなっていた。

 真吾くんの引き攣れた皮膚の肩口に顎を載せていた。そっとケロイドになった皮膚にくちづける。目を閉じて何度も。唇で触れる度に、あの緑の明るい森を瞼の裏に感じた。

「ちょ、まっ、あかり、それ、だめ」
「………やだ、っ」
 身体を離してしまおうとしている真吾くんへ、急いで縋り付いた。腕は震えていたけれど、離れたくなくて。
「も一回したくなる、そんなことされたら」
「え?」
「だから、ま、まずいんだって、気持ち良すぎて、やめろ」
 わたしだって、真吾くんに触れたい。ぎゅ、としがみ付いて肩に唇を押し当てた。身体はクタクタであまり動けない。でもこれ位なら。

「あ、あぁっ」
 吸い付かれて舐められてぷっくりと腫れた胸の突起を、軽く挟むように触れられて声が出た。腕はいつしか解けて、その隙に真吾くんが中から出て行った。その刺激ですらも身体を震わせてしまい、自分の反応に戸惑う。
 離れて淋しい、ベットのうえでクタクタで目を閉じて身を投げ出していたら、少しガサガサと音がして、音が止まった瞬間また繋がっていたところを舐め上げられた。

「やっ、あ」
 もう甘い声なんて出ないと思っていたのに、溢れるように小刻みに声は外へ出て行く。捏ねくり回すように舌先が敏感になっている所を舐めて、吸われて、指も入れられて中を擦られた。
「……すげぇ、ぐしょぐしょ」
「やっ、あぁ、やだ、っ」
 そんなところで話されたら。吐息が掛かる毎に快感になる。
 敏感になっている所を唇に含まれて吸い上げられるとまたブルブルと体は震えて、真吾くんの指を何度か締め付ける感覚がした。

「イッた?」
 指を引き抜いた真吾くんが覆い被さってきて、顔を覗きこんできて見つめられて。
「………イ?」
 言葉の意味は分からなくて、焦点の合わない目で真吾くんを見返した。
「今みたいに身体が反応したら、イクって言って教えて?」
 返事をするかしないかの内に幸せそうに目を細めた真吾くんは、またわたしの内側に腰を進めて入り込んでくる。
 声にならない声で首に縋り付く。唇をこじ開けるように真吾くんの舌が入り込んできて、絡め取られた。
 さっきまで吸い付かれていた所に軽く指で触れられて、繋がっている所が段々締まってきて中に埋められたもののカタチをはっきりと感じた。
 本当に真吾くんとそういうことをしている。遅い実感が今更なのに沸いてきて、声を出しながらも全身が羞恥で染まって行くような気がした。
 そう思ったらもっと身体は震えた。恥ずかしくて、でも気持ちよくて、また、あの感覚が擦られる度に強くなっていく。

「あ、やだぁ、イ、イクっ」
 そう言った瞬間、真吾くんはまたわたしを激しく揺さぶった。身体が弓なりに成る程の快感で締め付ける内側は脈打つように動く。
 また強く奥の奥を押し込まれて、じんじんとしびれるような快感に、震えた。



「朱里、動ける」
 いつの間にか真吾くんはTシャツと膝丈のハーフパンツ姿になって、わたしの枕元にいた。豆電球の付けられた部屋はオレンジ色に染まっている。
 ゆっくりと頭を縦に振った。動けるはず、そう思って。
「風呂入れたから、入ってこない。そのままだと風邪引くし」
「ん、ありがと……」
「掠れてる」
「え?」
 見上げると、ちょっと赤くなった真吾くんがせわしなく目を動かしていた。
「や、なんか、うん、いいわ。なんでもない」
「なあに?」
「………声、掠れさせたのが、自分だと思うとさ、ちょっとなんかこう実感が湧くっていうか」
「実感?」
「いや、なんでもない」
 そう言うと、布団からはみ出していたわたしの腕を取った。そして引っ張り起こされる。
 胸がはだけて思わず隠そうとしたけれど、真吾くんに素早く両腕首を掴まれて阻止された。
「や、は、はずかしっ」目が合わせられない。
「何で、朱里の身体はもう隅々まで見たよ。凄く綺麗だと思った」
 頬と耳が熱くなって行く。なんでそんなことを言うの。恥ずかしくて顔を伏せる。
「や、言わないで」
「凄く身体の線が綺麗で、柔らかそうで、白くて美味しそうだ」
「やっ、見ないで」
 身体に視線を感じて、恥ずかしくて。
「……朱里、も一回だけしていい?」
「え、あっ!」すぐに真吾くんは、わたしの胸に吸い付いてきた。


 結局、お風呂には入れず色々と世話を焼かれたわたしは、虚ろな目でぐったりとしたまま、神社に朝拝へ行く真吾くんを見送った後、泥のように眠った。
 手加減出来ないって言われた意味がよく分かった気がして。お稲荷さま何をしたんだろう………。

 夢を、見ていた。優しい、夢。

 お前は、真吾を愛し続けることは出来るかぇ?

 誰かに頭を撫でられた気がした。振り返ると白い世界にお稲荷さまと二人で立っていた。

 はい、もう、大丈夫です。たくさんこころをもらって、ちょっとだけ返せた気がします。

 ちょっとじゃないねぇ。真吾は沢山受け止めたようだよぅ。あの子は果報者だねぇ。ウキウキしてわっちを朝っぱらから叩き起こして惚気て挨拶していったぁ。全く現金なものだよぅ。

 わたしは笑う。嬉しくて。

 あの、真吾くんに何をしたんですか?

 何もしてないよぅ。真吾が勘違いしたのさぁ。まあ、散々煽っておいてから、術にかけたようには見せかけたけれどねぇ。偽薬ってやつだねぇ。奴はむっつり助平だからエロも濃かったろぅ。

 そ、それは内緒ですっ。

 そう言うとお稲荷さまはからからと嗤った。

 隠さなくていいよぅ。わっちがおなごの悦ばせ方を、長いこと言って聞かせておいたからねぇ。まあ、精々励みなぁ。沢山励んで沢山子どもを産んで、そうやって人は、代替わりしながら生きて行くんだよぅ。お前達も頑張れよぅ。

 いえっ、あの、普通でいいんですけれど……。

 わたしが目を逸らすと、お稲荷さまは優しい顔で言った。

 朱里、お前にはもう必要ないねぇ。長い夢は。

 はい。ありがとうございました。

 お稲荷さまは、ふわっと笑って向こう側を指さした。

 また、いつかここに立つ日が来る。それまで真吾と歩みなぁ。

 わたしは頷く。そうだ、わたし達は優しい居場所を貰った。手を繋いで隣り合える。


 明るいひかり。そこへ向かってわたし達は歩いていく。これからも。

 またいつか、この場所に戻ってくる日まで。


 さようなら、長い、夢。

番外・第十・五夜

 僕の管理する小さな稲荷に着いたとき、憎たらしい位に気だるく腹の底を見せない狐は、何時になくニヤニヤとして屋根の上にいた。

 池田さんは、何時もの無表情で狐に手を合わせる。二人並んだらいっぱいいっぱいの境内だから、その後ろで手を合わせた。こんな奴でも一応神使。いちおう神使だから。そう思うようにする。

「遅かったよねぇ。何やってたのさ」
 煙管をバトンのように回しながら、狐が聞く。
『賽銭ドロを捕まえていた。遊んでいた訳じゃない』
「ふぅん、それで。その子が真吾の可愛い子かぃ」
 狐はニヤリ、と口の端を上げた。長い付き合いの中で絶対録なことは考えていない、と感じる。

「真吾、似合いだよぅ、地味同士でさぁ」
 くっくっ、と狐は妖しげに笑った。今日の服装が気に入らないんだろう。狐は、真っ赤な見たこともない紋様の着物を粋に着こなしている。
 ファッションに煩くて奴のお気に入りはアーティスト系。あんなのを着こなしてみなよぅと何時も言われるが、ああいうのは超細身じゃないと無理。意外に骨太なんだよ僕は。

「話してみたいねぇ、丁寧に挨拶してくれたからねぇ」
 狐はふぅ、と煙管を吸って息を吐いた。
『丁寧?』
「そうさぁ、願いは言わなかったねぇ。挨拶だけだ」

 無欲。池田さんは何時もそうだ。何も望まないよう。生きているのに表情はピクリとも動かない。ほんの少し戸惑ったり、悲しげになったりたまにするだけ。
 友達には優しい微笑みを見せているけれど、僕にはない。
 ちらり、と池田さんを見る。やっぱり無表情でこちらを見ていた。

「あの、行きますか」
 抑揚のない声。こころを閉ざし切った。

「話がしたいんだよぅ、真吾が伝えなぁ」
 キツい口調で狐は睨んでいる。


「話がしたいって、言ってる。通訳するけど、いい」
「えっ、あの、まさか」
「狐が池田さんと話したいらしい」

 さすがに池田さんは困った顔をした。そりゃそうだ。本当に居るか分からない存在と話をしろ、と言われても戸惑うだけだ。
 信じようか信じまいか、揺れているような気がした。

「挨拶丁寧だね、って言ってる」
 その言葉に池田さんは目を見開いた。

 表情から分かる。ずっと見てきたから。
 信じたんだ。信じるんだ。そんなに素直に。そんなに真摯に。

 胸が、熱くなる。この子が、すきだ。

「ありがとう、ございます?」
「なんで疑問形」
 思わず顔が緩みそうになるのを、何とか誤魔化す。

「いえ、誉めてもらえると思わなくて」
 池田さんは抑揚のない声で言った。

「ズレてるよぅ、この子。大丈夫なのかぃ、色々とさぁ」狐が叫ぶ。
『うるさいっ、黙って居れないか。話をしてんだよ』
「もぅ、ズレてること教えてやりなよぅ。それがその子のためさ」
「それは言えない」
 つい言葉になって出た。やっと普通に話せるようになった。やっとだ。大切にしたいんだよ、色々と。

「色ボケしてる奴は、頭に蛆沸いちゃいなよぅ。大体なんだぃ、胸ときめかせてすきだとか、大切にしたいとかさぁ。お前、奥手過ぎるよぅ。どうせ夜な夜なこの子を頭ン中で裸にひん剥いて、ぐっちゃんぐっちゃんに犯してるんだろぅ。早く押し倒しちまいな」狐に叫ぶように説教された。

 このエロ狐っ。そう思いながらも顔が歪む。身に覚えがありすぎる。身に覚え。犯してはいない。妄想している。妄想。
 うわあ、本人を目の前にして、その妄想が頭の中で垂れ流されようとしている!

「脚は綺麗だねぇ、勿体無い。すらりとして色白な美脚だよぅ。尻の肉付きもいいし、いい子産むねぇ。短いのを着て、脚を出すよう言いな」
 今なんて言った。すらりとして美脚。
『エロ狐、覗くなよ』
「生きてる人間に興味は無いよぅ。魂が登ってきたら摘み食いしたいねぇ。脚出すよう言いな」
『何言ってるんだ、エロ狐っ』
「早くその可愛い美脚を見たくないかぃ。短いの着るように言いな」エロ狐が妖しく笑った。
『そんなこと言える訳ないだろ』
「わっちの言ったことを、そのまま言いな」

 池田さんは、こちらを不思議そうに見ている。
「あのさ、こいつ服装にめちゃめちゃうるさいんだ。それを分かってから聞いて欲しい。池田さんは足出した方が可愛いって言えって」
 勇気を出して、言い訳をして伝えた。
「足?」
 池田さんは呆けた声を出した。絶対通じてない。
「うぁー、もう嫌だ。通訳っ、だからね、この狐ミニスカートの女子が大好物なんだよ、この俗物っ」
 ニヤニヤしている狐に叫んでいた。何かに耐えきれなくなった。もう嫌だ。この狐は何の用事で池田さんを呼んだんだ。
 もう池田さんの顔は見られない。頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「わっちのせいにしてぇ、真吾は生々しく想像しているのにさぁ。嫌だねぇ。美脚と美尻が今日のオカズだねぇ」
 美尻まで、観たんだ‥‥‥落ち込む。

「あの、何て」「言えない」池田さんの問いかけに、反射で答えていた。

「あんまりこの子、日のひかり浴びてないねぇ。色白だしピンク色だよぅ。良かったねぇ」
 もう何が、とか突っ込む気力無い。一々報告するな。
「美乳もついてるよぅ」
『もう帰るから。当分来ねぇ』やさぐれて、狐に言う。
「美乳はたゆんたゆんに、ふっくらしているねぇ」たゆんたゆんに、ふっくら。
 たゆんたゆん、たゆんたゆんって。


「真吾、エロいねぇ」
 エロ狐の一言で我に返った。もう嫌だ。先祖を怨みたくなってきた。
 何でこんな能力がある。必要ない。エロ狐に覗かれて振り回されるだけだ!
「必要だよぅ。呼んだのはその子の災いが近づいて来ているからさぁ」
 狐はいきなりそんなことを言い出した。
『どうしても避けられない事なのか』
 婆婆さまが見ている未来と、狐が見ている未来は多分一緒だ。
「大きくなるか、小さく済むかはその子によるねぇ。婆婆が大きな石になれ、って言ったんだろぅ。どうするかはお前次第だよぅ」
『大きな石』それが難しい。
「彼女に言っとくれ。母親のことは気にするな、とね」それは、どういう意味だ。

「池田さん、お母さんのことは気にするなって言ってる。意味分かる」
「どうして」
 池田さんは一気に顔色を変えた。ああ、そうなのか。君もそうなんだ。
 何かを抱えて生きている。薄々気がついてはいた。でも何なのか、それは探れない。

「その子のせいじゃないんだよぅ。その子は悪くないんだ。」狐の方は向けなかった。

「池田さんのせいじゃない、悪くないって言えって」
「分かりました」
 見上げた池田さんの表情は、何かを耐えているようだ。硬い声が辺りに響く。

「分かったフリは駄目だぁ。良くないものを呼び寄せるよぅ」

「分かったふりはしちゃ、駄目だって」
 それは僕が言いたかったこと。
 苦しむなよ、ひとりで。
 抱き締めて暖めて優しくしてトロトロに溶かして安心させて笑わせたい。

「それそのまま、そっくり言っちまいなよぅ。それがこの子のためになるさぁ。温もりを誰より求めているよぅ。昔のお前みたいにさぁ」
 狐はニヤニヤしながら、また煙管を回している。
『頭の中、覗くなよ』
「今日の真吾は本能的だからねぇ。ダダ漏れているよぅ。そんなに大切なら、もう告げてしまうのが一番さぁ。言っちまいな。お前をぐじゅんぐじゅんに抱いてやるからついてこい、ってさぁ。それで家に連れ込んでやっちまえよぅ」
「そんなこと言える訳ないだろーーーっ」
 つい大きな声で叫んでいた。なんて俗物なんだ、この狐は。
「手垢の付いていない色白の裸体を観たいとは思わないのかぇ」
「当分来ないから。マジ来ないから。行こう池田さん、もう話は終わった。駅まで送るから。」
 立ち上がり池田さんを見ると、何が何だか分からないといったようだ。
 もうこの狐の所に居たくない。子どもっぽいと自分でも思う。でも、もう、限界。
「行こう」
 声を掛けると、池田さんは戸惑ったように狐と僕を左右に見渡した。
 そして、狐に向かって深々と一礼した。

「可愛い子だ。ご褒美だよぅ。後は頑張りな、真吾」
 狐の声が辺りに響いたかと思うと、黄色い丸い小さな光がいきなり浮かび上がってきた。ふわっ、と。

 何時ものおどろおどろしい狐火じゃない。幻想的な光はどんどん数を増やしていく。
 取り込まれてしまって気絶する人間だっている。池田さんをそうされたら。
 急いで側に歩み寄る。池田さんは社を目を見開いて見つめていた。

「すごい」聞いたことの無い、弾んだ声。

「すごい、凄すぎます。綺麗、とっても綺麗。何で、どうして、先輩、凄いっ」
 見たことがない笑顔。瞳はキラキラ輝いて、白い頬は桃色に染まって、目を奪われる。
 気がついたら、池田さんは僕の腕をブンブン振っていた。そんな小さな子どものような仕草。
 見たかった。その顔が見たかったんだ。

「先輩、凄い」もう、止められない。

「すきだ」


「え?」
 池田さんの呆けたような顔を見て、我に返った。

 口を付いて出た言葉は、もっともっと親しくなってから告げようと思っていたことだったのに。
 出てしまった言葉は最早戻らない。っていうか、もっと格好良く決めたかった。
 なのに、今ここで言ってしまうなんて。顔が赤くなってきている感覚がする。
 僕は何も変わっていないじゃないか。赤面症で臆病者な自分。それに打ち勝ちたいと思って来たのに。

 池田さんは戸惑ったように瞬きを繰り返している。多分、迷惑と思っているだろう。それでも、もう想いは溢れ出てしまったんだ。覚悟を決めないといけない。振られる覚悟を。それでも、一縷の望みに賭ける。

「好きなんだ。もしよかったら付き合ってもらえないか」

番外・創の修行日記

 修行日記、左藤 創


 三月◯日、天気、晴れ。

 今日は初めての修行です。
 ぼくが神社に行くとすんげー悪い顔した宮司さんに、言葉が悪いと怒られます。面倒くさいというと、とても痛いチョップをされました。大人はいつでもおうぼうです。
 宮本真吾はいとこの朱里ちゃんが目が覚めた日にきんきゅー入院しました。宮司さんが車でうちまで乗せてくれて、降りる時に宮司さんの携帯が鳴りました。
 れいさんが泣きながら宮司さんに宮本真吾がひと言「もう、池田さんには会えない」とこわい声で言って倒れたと電話しているのを聞きました。
 家に急いで戻って朱里ちゃんのうちの鍵を持って朱里ちゃんのうちに走ります。
 頭がぐらぐらしてこわくて泣きそうです。ドアを開けたらからだが透けた朱里ちゃんがいて、ぼくはたくさん泣きました。
 ゆうさんが来てくれて朱里ちゃんが消えて、不安でむねは痛かったです。父さんが追いかけてくるまでゆうさんは頭を撫でてくれました。
 父さんが朱里ちゃんが目を覚ましたと教えてくれて、その前に危なかったと教えてくれました。でもお医者さんがもう大丈夫と言ったから信じたいです。
 修行は掃除と婆婆ちゃんと神社のれきしを勉強します。婆婆ちゃんはゆうさんとらぶらぶです。ほんとうにゆうさんはこころがないのかな?とぼくはちょっとうたがいます。


 三月×日、天気、くもり。

 こないだ宮本真吾のおみまいにおじさんと父さんとぼくの三人で行きました。
 宮本真吾はずっとすみませんでした。とおじさんにあやまっていました。
 もう朱里ちゃんに合わす顔がないとかなんとかうるせーので頭をなぐったら、父さんに笑いながら耳をつねりあげられました。
 かーちゃんはうるさいけど、本当にぼくがこわいのは父さんです。いつも優しい父さんは怒らせるとメガリザードン級です。
 おじさんは少しさびしそうにわらって、これからも朱里ちゃんと仲良しでいて欲しい的なことを言って、宮本真吾は苦しそうな顔をします。好きなんだから仲良くすればいいのに。大人は面倒くさいです。
 でもぼくも目が覚めた朱里ちゃんと話が出来ません。何を話したらいいのか分かりません。
 頑張ったね、って言おうと思っても頑張ったのは宮本真吾だし、ゆーれいになっていた時のことは覚えていないようです。
 婆婆ちゃんにそう言ったら婆婆ちゃんはそれが救うということだ。と言いました。助けた方がガマンとかなっとくできません。ちょっとでも思い出したらいいのにと思います。修行は先週と変わりません。



 三月△日、天気、晴れ。

 宮本真吾は退院して神社にいます。ぼくが行ったら、がっはっはと笑う細マッチョのお医者さんが往診に来て、宮本真吾をしつこくかまっていました。その度に宮本真吾は顔をまっかにして怒っていました。いい気味です。
 でも細マッチョはぼくもターゲットにしてお前、ムケてんのか!としつこかったです。ちゃんとむかないと将来困るからむけ!ときょうようします。
 確認されそうになったので逃げようとしたらつかまって四の字固めをかけられました。大人なのに子どもです。
 宮本真吾に言ったらあのひとは永遠のガキ大将なんだよとか、わけのわかんねーことを言います。大人はわかんねぇ。あ、分かりません。
 宮本真吾は朱里ちゃんの様子をしつこく聞きます。みまいに行けってというと、きおくが無いのに行ったら迷惑かかるとかなんとかごにょるので、頭を叩いてやりました。
 まだ弱っているからやり返されなくて気持ちいいです。修行は先週と変わりません。掃除ばっかです。



 三月*日、天気、晴れ。

 朱里ちゃんは明日退院します。やっぱり何も覚えていないようです。
 朱里ちゃんはさいきん笑ったり、照れたり人間ぽくなってきました。いままでは全然笑わないしいつも黙って、でも優しい朱里ちゃんだったけど、今は明るいです。
 代わりに宮本真吾は暗いです。蹴っ飛ばしても創か、の一言で終わって、つまらねぇ!じゃなくてつまらないです。ずっとだまって掃除していてキモいです。
 宮司さんがやっとこれで真吾も人並みだな、とか訳の分からないことを言います。大人は理解不能です。ちょっとれいさんにかっこいい言葉を教えてもらって使ってみました。
 今日も掃除と歴史です。つーかこじきってなんであんなにばんばん神様産むのか、すげーです。
 お稲荷に言ったらはんしょくがどーたらと難しい話になって逃げてきました。あいつ本当は神様じゃないんじゃないかな。



 四月△日、天気、晴れ。

 修行が終わって帰ったら、朱里ちゃんがすごいあわてて宮本真吾のことを聞いてきました。ぼくはびっくりして来週朱里ちゃんを神社に誘ったら朱里ちゃんはものすごいうなずきました。
 宮本真吾のことを覚えていないのに何で行きたいのか分かりません。
 朱里ちゃんは今、くま牧場のくまのようにうろうろ、うろうろリビングを歩き回っています。かーちゃんはそれを見てキッチンの食品庫に入っていったので、きっと大笑いしているんだと思います。つーか声が聞こえる。
 宮本真吾は今日も真っ暗で蹴る気にもなれません。そのくせ朱里ちゃんのことはしつこく聞きたがります。
 そんなバレバレな態度でいいのか、と聞くと今更じゃないと死んだ魚のような目でぼくを見てきます。
 大人は怖いです。そんな宮本真吾に会いたいって言った朱里ちゃんは、来週何をいうのか、チャンネルはそのまま!


 四月◯日、天気、めっちゃ晴れ。

 ちょっとこうふんしました。生で告白とか見てすげーと思いました。
 朱里ちゃんはちゃんと、気持ちの中にゆーれいになってた時のこと覚えてて、宮本真吾を好きになったんだと思います。ぼくたちがやったことはムダじゃなかったんだなと思いました。
 宮司さんとのぞき見してたら、ぼくの上に木の実みたいなものが落っこちてきて、宮本真吾にほうきで叩かれました。
 けりも入れたら本気の回しげりが返ってきて痛かったけど、宮本真吾は元気になったんだとうれしくなりました。大人もうれしいことがあるとうれしいんだ。
 帰ってかーちゃんにバラすと、すぐにかーちゃんはスーパーに走っていきました。そしてすき焼きするけど宮本くんには言わないでうちに来るようメールしろ、とぼくに命令しました。
 宮本真吾は短くわかりました、うかがいますとつたえてと返してきた。土曜日はすき焼きだ。楽しみ過ぎる!



 四月☆日、天気、曇り。

 土曜日、宮本真吾と朱里ちゃんは手をつないで家に来ました。でろでろな宮本真吾は気持ち悪いです。
 朱里ちゃんが宮本真吾に優しくすると、宮本真吾は大喜びで尻にしっぽが見えます。大きな犬がばっさばっさ振っているみたいです。そんなに朱里ちゃんのこと好きなんだ。キショいです。
 すき焼きを見て宮本真吾は苦しい顔をしました。父さんもかーちゃんもぼくも宮本真吾のことは怒ってないし、それよりありがとうの気持ちがあるのに、何でだよと思っていたら、いきなり宮本真吾はすげーいきおいでごはんを食べ始めました。競って食べたら食べ過ぎて苦しかったです。
 宮本真吾はぼくより食べたのに平気そうでした。ごはんを三杯も食べたのに。
 朱里ちゃんは隣にいて嬉しそうでした。いっしょにいれるのがうれしいみたいです。
 そういうのは、とってもいいなと思います。

番外・瞼

 二時限目の試験が終わって手早く筆記用具を纏めた後、すぐに教室を出てスマホを取り出した。

『終わったよ、今何処にいるの?』シンプルなメールを朱里に送る。

 一時限目試験があった朱里は、待っているからお昼を一緒に、と誘ってくれた。
 何時も空き時間は部室で潰していたようだけど、最近は図書館や学習スペースで勉強したり本を読んだりして、ひとりでも楽しそうだ。
 部室行きにくくなった、と聞いたら、そうじゃないの前は人の中にいないと、何故か不安で落ち着かなくて賑やかなのが良かったんだけれど、今はひとりでも平気なの。とぎこちなく笑って言った。
 その言葉に嘘は感じなかったし、あまり動かなかった表情に笑顔が出てきてちょっと嬉しくなる。
 そして何より今は不安じゃないんだ、という事実に自惚れを感じる自分がいる。
 僕がいるから、だといい。そうなのかな。自惚れたい自分がそわそわしている。

 廊下で少し返事を待っていたけれどメールは返ってこない。
 おかしい。まさか。吹き抜けにある階段を急ぎ足で駆け下りて廊下にある学習スペースをひとつずつ覗く。
 探しながら電話もしてみる、でも十コール位で留守電になった。

 昨日、創から朱里が最近寝過ぎてしまって、電車を乗り過ごし気がついたら埼玉の草加にいたらしい、というメールを貰った。
『朱里ちゃんは笑ってたけど、マジまずいよね。宮本真吾もちょっと気をつけるよう言ってやって』
 そんな文面に思い当たる節はあった。夜電話すると出なくて、翌朝『ごめんなさい!寝てしまって』とメールが来る日がある。
 初めて会った日、ほとんどの人は手持ち無沙汰になった途端、携帯やスマホを触ることが多いのに、五嶋さんが何処かへ行ってしまった後朱里はただ黙ってぼんやりとしていた。
 そんな様子にどんな人なんだろう、と興味を持って話し掛けた自分を今は褒めたい。その後、僕は生まれて初めて恋に堕ちたのだから。
 でも裏を返せば、何時でも携帯やスマホを触っていないということは、興味がそこに無くて連絡は取りにくい場合もある、ということだ。
 今はそれで困っている。まさか、寝てないよな。

 ガラス張りの図書館に入ると、閲覧スペースを一列ずつ探して歩く。注意深く、見逃さないように。
 何列かやりすごして、行き過ぎようとしてまた戻った。
 奥の方にシンプルな黒のコットンのカットソーに太いプリーツの膝下スカートの見たことのある服装のひとが、こちらに背中を向けて机に伏していた。
 あれだ。間違いない。

 近づくと朱里は、すりガラスから一席空けてそこで眠っていた。
 図書館は寝るところじゃないぞ、という見つけられたからこそのツッコミと、眠っているその無防備な寝顔に沸き起こる妙な征服感で、そわそわして落ち着かない。
 絶対周りから見たら残念な状態なんだろうと思うし自覚はあるけれど、朱里がそのほうがいいと言ってくれるその言葉に隠すのが阿呆らしくなってきて、今はそんな自分が嫌いじゃない。
 何より知らない女子に強引に話し掛けられたり、腕を引っ張られたりしていたのが無くなって、気苦労は大幅に減った。何故か、学食のおばちゃん達のおまけは増えたけれども。

「朱里、昼食べに行くよ。起きて」
 肩を揺するけれど、朱里は規則正しい寝息を立てている。

 仕方が無くすりガラスを背に椅子に座った。
 誰も居ないのをさり気なく確認してから、そっとその白くて柔らかそうな頬に人差し指でそっと触れる。
 思っていたより、ずっとすべすべしていて暖かいその頬の感触に、罪悪感がひたひたとやって来た。
 朱里に触れられるような立場じゃないのに、こうやって無防備な様子を見ると、我慢出来なくて手を伸ばしてしまう。

 今から思えばあの時、僕は朱里に許されないことをしたんだと思っている。

 追い詰められて行ったとはいえ、自分のこころを分けて全ての自分で朱里に向き合わず、そのまま自分の掌にその命を握ろうとした。

『わたし、怖かった。怖かったの』
 そう言われた時、途轍もなく罪悪感で一杯になった癖に、神社を訪ねて来てくれた朱里の返事に舞い上がって、嬉しくてそんなことをひととき忘れて、喜んでその手を取った。
 付き合い始めて一緒にいるうちに、本当に僕が隣に並ぶ資格はあるのか、と思い悩んだ。
 でも笑顔が綻び始めた朱里に、視線を送る奴らに取って変わられるのだけは嫌だ、という我儘だけでここに居続けている。

 本当は離れるべきなのかもしれない。でも朱里の隣に誰かが並ぶことになったら、正気でいられる自信は無い。

 そう、僕は狡いんだ。


 生涯言うことの出来ない懺悔を抱えて、僕は笑顔を向けてくれる朱里に触れることが出来ないでいる。たまに朱里は何かを言いたげにして、黙る。そして強く願って言い出す僕の言葉に、時折その表情を静かに止める。その度に胸が描き無しられるような苦しい思いをする。触れてしまいたくなって、なのに。

 優柔不断だよな。でも懺悔を抱えてまだ朱里に触れる自信が無い。

 朱里を大切にしたい、でも触れたい。何時も正反対のものを抱えて、ぐるぐる同じ所を回っている気分だ。


「……ん、あれっ、あ、真吾くんっ」
 目をゆっくりと開けた朱里は、図書館で大きい声を出した。
「しーっ、朱里、叫んだら駄目」
 人差し指を立てて口に当てると、寝ぼけた様子の朱里は身体を起こすとポツリと言った。
「ユウさんみたい……」
 驚きで身体は固まった。まさか、思い出してきているのか。朱里はユウに会ったのはあの時だけだ。まさか、もしかして。
「あれ、わたし今何て言ったっけ?」
 はっ、と我に返った朱里は口元を抑えた。僕は長い長い溜息を付く。


「朱里、今どんな夢を見ていた」
「え、夢、………なんだか、白っぽいような、そんなところにいて、誰かと、話していたような……。ごめんなさい。よく覚えていなくって」
 朱里は記憶を探り探り話していた。白い、世界。

 まだそこに行くことがあるのか。それならば眠り込んで電車を乗り過ごしたり、電話に出られないほど早く寝てしまったりするのかもしれない。
 今のところ朱里は元気に見えるけれど、注意は必要かもしれない。一度身体から魂は離れてしまっているのだから。

「最近電車で寝ていて乗り過ごして草加まで行っちゃったって本当?」
 僕が聞くと朱里は、ちょっと頬を赤くして目を伏せた。
「創ったら、余計なことを」
「何で言わなかったのさ」
「一度だけだから、そんな、言うことじゃ無いって、そう思って……」
 一度顔を上げた朱里は、僕と目が合うともう一度目を伏せた。
「今日は家まで送るから」
「駄目だよ、真吾くん夕方だって神社でお仕事あるのに!」
「だから、叫んだら駄目だって」僕が言うと朱里は言葉を詰まらせた。

「眠り込んでしまって誰かに財布擦られたりしないとも限らないし、痴漢にあっても分からないと困るから送る。僕の夕拝は何とでもなる。本来はおじさんがやるべきことだしさ。おじさんに話してみるから心配しないで欲しい」
「真吾くん、過保護だよ……」
「何かあってからじゃ遅いんだっつーの。言うこと聞け」
 僕がそう言うと、朱里はふわりと笑った。
「ありがとう」
 そんな顔に嬉しくなって大切に優しくしたい、そんな気持ちが湧き上がる。

『この子は初めてこころから願っているよぅ?お前を求めて、お前に焦がれている。素直なまっさらなこころで』
 あの日、狐は朱里をぎゅう、と見せつけるように抱き締めて、僕を見て嗤っていた。
『こんなに可愛い子をお前は抱かないのかぇ。わっちがあの時つまみ食いしてしまえば良かったよぅ』
 挑発だと分かっていても僕は、その言葉に激しく反応してしまう。怒りに身を任せてしまって弱い存在にその鉾先を向けてしまいたくなる。
 大切にするんだ、そう決めたじゃないか。
 狐を蹴散らして、朱里が手を合わせていた時に僕を見ながら朱里の耳元で囁いていた狐の言葉を、卑怯にも聞き出してその言葉に内心驚いた。
 いつの間にか朱里は道標を持っていた。いつ狐は渡したんだろう。あの森で朱里が消える直前に出てきた僕の道標は、記憶の中にあった朱里が描いた夢だった。美しい桜が舞い落ちる、そんな情景。
 最後の力で何もかもを桜色へ変えた時、それが寄り添うということなのだ、と知った。
 自分の気持ちを押し付けるんじゃない、それが寄り添うこと。

 でももう分からなくなってきた。相反する気持ちを抱えてそれでも一緒に居たい。混沌とした感情。

「真吾くん、どうしたの」
 不安そうな朱里が聞いてきていて、我に返った。
「……なんでもない。昼飯に行こう」
 笑いかけてみても不安そうな表情は消えない。やがて諦めたように朱里は、机に置いてあった筆記具を片付け始めた。

番外・優しい雨

 目が覚めたら隣には誰もいなかった。部屋の中は湿気を帯びたどんよりとした空気で、わたしはのろのろと起き上がると、少しだけ背筋を伸ばした。
 ベットの主はもう神社へ朝拝へ行ったのだろう。小さなテーブルには真吾くんのマグカップが一つだけ置かれていて、起こしてもらえなかった不満が少しだけ胸に来る。
 のろのろと起き上がると、マグカップを持って狭い台所へ立つ。スポンジでマグカップを綺麗に洗って、拭いた。薬缶に水道水を入れてガスを付ける。その間に洗面を済ませた。


 ピーピーと音を鳴らしていた薬缶に慌ててガスを止めて、ステンレスのポットにお湯を入れる。卵を三つ使って胡椒の効いたオムレツを作り、ソーセージをボイルして焼いた。
 レタスをちぎる小さな音が、外の雨の音と混ざり合う。静かな晩秋の朝。静かな。

「おはよう」
 真吾くんは近所の朝早くからやっているベーカリーの袋と、ひんやりした雨の匂いを連れて帰ってきた。
「おはよう、パン買ってきてくれて、ありがとう」
 嬉しくて笑うと真吾くんも笑って、わたしの手にベーカリーの袋を載せた。
「手を洗ってくる」
 そういうと真吾くんは、ユニットバスへ行った。その間に浅い木製の籠に、紙ナプキンを敷いてパンを入れる。そして小さなテーブルへ他のおかずと一緒に運んだ。
 その間に真吾くんは戻ってきて、わたしのマグカップを取り出して聞いた。
「朱里、ミルクティでいい」
 うん、と返事を返すと程なくして真吾くんは、暖かい湯気を上げたマグカップを二つ持って現れた。

 真吾くんはわたしの隣に隙間なく座った。触れ合った服からひんやりした空気の匂いを感じて、外が冷たい雨なのを改めて知る。いただきます、声を揃えて言ってパンを手に取った。
 二つに割って真吾くんのお皿に半分置く。すぐに同じように二つに割ったパンの半分をを真吾くんはわたしのお皿に置いた。パンはまだ暖かい。焼きたてを買ってきてくれたのだと思う。少しだけ嬉しさが頬を緩ませた。

「雨、強いの?」
「んー、強くはないけれど、冷たいよ。紅葉の葉は全部落ちていた」
「そうなんだ」
 真吾くんの身体は、少しずつ暖まってきているのが、くっついていると良く分かる。
 マグカップのミルクティを飲みながら、真吾くんが黙って食べているところをぼんやり見ていた。

 窓の外からは雨足が強まってきたのか、音が静かに大きく響いている。
 真吾くんがフォークを使っている音と、雨の音。静かだな。

 いつからかわたし達はあまり話さなくなって、ただ二人で隣り合わせにくっついて座り、お互いに本を読んだりレポートをしたり、そうやって一日一緒に居られる日は過ごすようになった。
 何処かに行きたいとは思わないし、お互いに言わなかった。ただそっと隣にいて暖かさを分け合って、それ以上何も望むことはなかった。おじいちゃんとおばあちゃんみたいじゃない、そう亜依には言われた。

「ごちそうさま」
 二人で手を合わせて、食器を真吾くんが洗い、わたしはお皿を拭く。すっかり片付いたら、真吾くんは小さなテーブルでレポートを始めた。
 テーブルに淹れ直したコーヒーを置く。ありがとう、と声がしてわたしはまた定位置になった左隣に座ってそっとくっつく。

 少し薄暗い部屋の中、すっかり暖まっている真吾くんが独り言をたまに言うのを雨の音と聞いていた。
 すっかり緩くなったミルクティを少しだけ飲んで、枕草子を読む。
 レポート用紙に何かを書いているペンが紙をひっかく音も加わって、今日はちょっとだけ賑やかに感じる。
 そのうちに足元が寒くなってきたので、少しだけ手でさすっていたら真吾くんは立ち上がり、クロゼットを開けた。

「エアコンつけるほどじゃないから、はい」
 そう言って、大きい薄手の毛布をわたしに掛けた。
「半分どうぞ」
 毛布の片方を広げて言うと、真吾くんは優しく笑った。二人で毛布を肩に掛けてそっとくっつく。知らず知らずのうちに部屋の中は冷えてきていたようだ。あったかい。


「出来た」
 真吾くんは何度もレポートを読み返した後、紙束をトントンと整えて端をクリップで止めて言った。そのまま筆記用具を片付けて、レポート用紙と一緒に鞄に入れると、底に残っていたコーヒーを飲んだ。
「まだ飲む?」
「ううん」
 そうわたしが言うと真吾くんは、立ち上がって毛布から出て行った。そして台所でもう一度コーヒーを淹れると、また毛布の中に戻ってきた。

 雨の音が大きく響いているだけの静かな部屋。

 真吾くんが一口コーヒーを飲む。

 暖かくて、優しくて、安心できる、静かな場所。神様がくれた。そしてたくさんのひともくれた。

 わたし達は、生々しい傷を抱えて、それでも生きて行きたくて、でも外へ出て行ってはぐったりと疲れ果てる。
 お互いの温もりが欲しくて、抱き合っていたらそれはそれで色々と生活に支障が出そうになった。
 だから隣合い、お互いの体温を感じてくっついているのが一番安心できた。

 そうやって、生きて行く。これからも。


「お昼ご飯、何にしよう」
 もうそんな時間なんだ。十二時半を過ぎている。
「寒くなってきているから、鍋焼きうどんは」
「ああ、いいね、そうしよう」
 わたし達は立ち上がり、手を繋いで台所へ立った。

春風

 通い慣れた神社の最寄り駅で地下鉄を降りると、俺はホームにある鏡でもう一度服装をチェックした。
 ネクタイ、曲がってねぇか。どうしても曲がるな。着慣れないスーツはどうも肩が凝る。

 でも今日は勝負の日なんだ。スーツは戦闘服だぜ。

 財布をポケットから出して改札にかざして通り抜けると、また財布は仕舞って俺は顔を上げる。そして口元を引き締めた。
 大きめの紙袋ががざり、と鳴る。いけねぇこれは大事なアイテムなんだ。中のものを整えて、もう一度持ち直して歩き出す。階段に差し掛かると見知った男の姿が目に入った。
「あれ、創。どうしたんだよその格好」
 早足で階段を降りてきた宮本真吾に会っちまった。くっそ、今日は会いたくなかったぜ。宮本真吾は俺を全身くまなく見やってから、ニヤリと嗤った。
「うるせぇ。どうだっていいだろ。それより今日、依頼だったっけ」
「いや、今日は雅楽の方」
 宮本真吾は小洒落たジャケットに、柔らかそうなパンツ、茶色の革靴でモード系のコーディネートは完璧だ。神楽笛のケースを持って、働き盛りの三十代男の色気をプンプンさせてやがる。むっかつくなぁ。
「仕事受けすぎじゃねぇの」俺がそう言うと宮本真吾は苦笑いした。
「外貨稼いでこないとね。仕事に呼ばれているうちが花だ。父ちゃんは精々頑張るよ」
「あっちの依頼は、次いつだっけ」
「いや、単純な依頼だから創はいいよ」
「単純なら俺が行きゃいいだろ。夜はあんまり家を長いこと空けないほうがいいぜ」
「………悪いな、じゃ頼む。ありがとう。恩に着る」
「あー、いいんだって。で、次いつさ」
 俺が聞くと、宮本真吾は鞄から手帳を取り出して、スケジュールを確認している。
「明後日、夜十時までに品川のJR駅に。詳しいことはメールする。忘れるなよ」
「分かった」じゃ、と俺が行きかけたら、宮本真吾は後ろから声を掛けて来た。
「創、狐がお前のこと呼んでいたから、行ってやって」
「ああ、面倒くせぇな」
「いいから行け。それから、頑張れよ」
 そう言ってニヤリと嗤うと、宮本真吾は改札に吸い込まれて行った。


 大きな二階建てのスーパーのある出口から外に出ると、新宿通りを渡って左に進む。お稲荷め、何の用なんだよ。面倒くせぇな。
 平日の通りはサラリーマンで人通りは多い。そんな中これ持って歩いてたら目立つよな。
 超高層マンションの敷地内を斜めに横切って、公園の角を曲がる。赤い小さな鳥居の前に立つと、奴は姿を現した。
「どうしたんだぇ。創、七五三だったのかぇ」
 赤に黒い複雑な文様の美しく入った着物を着たお稲荷は、ニイッと口角を上げた。くっそ、絶対言うと思った。
「何の用だよ。俺は今日、勝負の日なんだ。下らないことだったら当分掃除しねぇぞ」
「おおこわ。近いうちでいいんだけれどねぇ。大森のお稲荷の様子を見て来ておくれよぅ。わっちが呼びかけても返事が無くてねぇ。何事もなければいいが」
「出掛けたらいいじゃん。ユウに頼んでさ」
「婆婆の腰痛が酷くなってねぇ。離れたくないらしいよぅ。頼まれてくれないかねぇ」
「明後日、品川で依頼が入ってるから、その前に見てくる。それでいいか」
「すまないねぇ。恩に着るよぅ」
 じゃ、と俺が行きかけたらお稲荷はニヤニヤ嗤ってこう言った。
「願いが叶うように願掛けして行ったらどうだぇ」
「うるせぇ、俺は自力で頑張るんだよ」
「ふぉーん。いい心がけだねぇ。まあ、頑張れよぅ」
 言われなくたって分かってる。そう言うと俺はニヤニヤ嗤う狐に見送られ、お稲荷を離れた。


 もう一度地下鉄駅まで戻り、今度は新宿通りを渡る。外苑東通りを進んで住宅街に入った。
 分かれ道になっている角の家の前で、門番のばあちゃんとヘルメットを被ってピンクの自転車に跨った小学生は、話をしている。
「あれ、創兄ちゃん。何なのその格好。キモいサラリーマン風でさ」ニヤッとした華帆に笑われた。
 可愛い顔しているのに、本当なんて性格が悪いんだ。誰に似たんだ、絶対父親だな。
「華帆、うっせえぞ。お前学校は」
「今日から春休みだもーん。創兄ちゃんは、いつ隣に引っ越してくんの?」
「来週だ。よろしくな」
「ふーん。その前に絶対創兄ちゃんはスーツ着て来るって、父さんが言ってたけど、やっぱそうなんだ。そんな薔薇の花束なんか持っちゃってさーベタ過ぎじゃない」
 華帆は俺の持っていた紙袋を覗き込んで言った。
 ちくしょー宮本真吾め。娘に変なこと預言して教えんなよ。本当に腹立つな、あの男は。
「華帆ちゃん、創坊っちゃんは必死なんですよ。駄目ですよ。そんなこと言っちゃ」
「何気にばあちゃん今、酷いこと言ったよな」
「創坊っちゃんならきっと大丈夫。出来る子ですからねぇ」ほっほ、とばあちゃんは笑った。
「ばあちゃん、変なプレッシャー掛けないでくれよ。あーもう行くわ」
 じゃ、と俺が行きかけたら、ばあちゃんと華帆は後ろから、頑張ってーと声を張り上げた。振り返って片手を挙げると、華帆はぶんぶんと、ばあちゃんは静かに手を振って居た。


 石の鳥居を挨拶してくぐり、砂利道の端を進む。やっぱり少し緊張してきた。手水舎で清めてから門を一礼して通ると、宮司が境内で男の子と新聞紙の剣で遊んでいた。
「こんにちは、お邪魔します」
「おっ、創。来たのか。ほーん。薔薇、ねぇ」
 宮司は紙袋の中を覗いて面白くなさそうだ。まあそりゃそうだな。父親ならそうだろうよ。
「そうにいちゃん、何で今日は格好いいの?」
「航汰はいい子だなーお母さんに似たんだな」
 航汰の頭をぐりぐり撫でてやると、くりっとした目はにっこりと細まった。本当に素直な所は、朱里ちゃんにそっくりだ。顔は全員父親似だけどな……。
「今日、勝負かけます。よろしくお願いします」
 俺が頭を下げると、宮司はため息をついた。
「本当にあいつ一筋でもう十四年か。よくそれだけ諦めず、恋敵も蹴散らしてやって来たよな。本当にあいつでいいのか」
「怜じゃないと、駄目なんです。もしオッケー貰えたら」
「貰ってから言えっ、まだ聞かん」大げさに宮司は両耳を抑えた。
「大おじちゃん、話を聞いてあげようよ。そうにいちゃん困ってる」
 航汰は困ったように援護射撃してくれてる。ありがたいこった。うっ、と唸った宮司は渋々こう言った。
「まあ、行ってこい。あと駄目でも来週からはちゃんと仕事なんだから、神主の仕事は手を抜くなよ。引っ越してきたら、もうビシバシやるからな。分かったか、新米神主」
「上司命令ですね。分かりました。よろしくお願い申し上げます」
 深々と頭を下げて、じゃあ、と俺が行きかけたら、宮司は後ろから声を掛けてきた。
「創、よろしく頼む。頑張れよ。航汰も言ってやれ」
「そうにいちゃん、がんばれー」
 俺はもう一度振り返ると、深々と頭を下げた。


「こんちわー」
 食堂の引き扉を開けるとそこには、おばさんと朱里ちゃんがお供えの榊を小分けに括っていて、小さな女の子はベビー椅子に座って、ペンをがっしり握り締め、紙にぐりぐりと丸を描いていた。
「創、やだーその格好、気合入っているんじゃない。いいわよ、それで跪きなさい。イチコロよ、絶対」
「あ、ありがとうございます」
 相変わらずおばさんはパワフルだ。跪くのか、ちょっと恥ずかしいぜ。
「やっぱりスーツにしたんだね。真吾くんの言ったとおりだった」
 にこにこして朱里ちゃんは、大きなお腹を撫でた。いつも思うけど四人目とか、仕込みすぎだろうよ宮本真吾。
「体調はどうなの、昨日病院だったんだろ。かーちゃんが気にしてた」
「うん。さすがに四人目だから、下がってくるのも早いみたい。いつ入院になってもおかしくない、っておばさんにも伝えて」
 そう言って朱里ちゃんはふわっ、と笑った。本当に落ち着いていて、優しい雰囲気の女性になったよな。もう、固い顔をしていた頃を、思い出せない。
 宮本真吾は、愛情注ぎまくって年月を掛けて、朱里ちゃんを綺麗な女性にした。別のモノも注いで、子沢山だけれどな。
「楽しみよねーもうどんどん、賑やかになってきて、嬉しいわー。朱里ちゃん、五人目もオッケーだからねっ」
 おばさんは隣にいる朱里ちゃんのお腹をそっと撫でる。
「いえっ、あの、もう、ちょっと、四人でいいです………教育費掛かりますし」そう言って朱里ちゃんは、頬を赤らめて顔を伏せた。
 そういうのが宮本真吾を煽るんじゃねぇのか。結婚してから朱里ちゃんのお腹は、何時も膨らんでいるような気がするぜ。こりゃ五人目は硬いな。
「はいっ、どーぞ、おかあさん」
「理央、ありがとう」
 理央は、朱里ちゃんに紙を受け取って貰えて、嬉しそうだ。
「おおおばちゃん、はいっ」
「あらあ、理央ちゃん、大おばちゃんにもくれるの、ありがとうねぇ」
「そーにい、はいっ」
「何だよ、俺の分もあるのか。ありがとな」
 ピンクと緑のペンで紙いっぱいに書かれた、前衛的な作品を受け取る。
「そーにいとれいちゃん」理央はそう言って、にっこり笑った。
 そうか、ピンクと緑が隣り合わせの絵は、理央からのエールのように思えた。
「ありがとう、理央。にいちゃん頑張ってくるわ」
 胸ポケットに、丁寧に折りたたんだ絵を入れる。じゃ、と俺が行きかけたら、朱里ちゃんは優しい笑顔で、こう言った。
「創、緊張してる、創なら大丈夫だから」
「うん、大丈夫よ。跪いて愛を請いなさい。あ、そーだお婆婆様が、創が来たら顔を出すように、って言ってたわ、よろしくね」
「婆婆さまね、分かった」
 背を向けて部屋を出かけたら、理央の幼い声が追いかけてきた。
「そーにい、がんばれ」
「おう、理央、また後でな」俺は振り返って、片手を挙げた。


 迷ったが、婆婆さまの部屋を先に訪れることにした。
「婆婆さま、ユウ、創です。入ります」
 引き戸がコツン、と鳴った。ユウの返事は相変わらず優しい音だ。
 引き戸を開けて部屋へ入ると、畳敷きの部屋は障子が開けられていて、明るい光が燦々と部屋に入り込んでいた。部屋の外の小さな石庭は、何時もながらとても美しい。
 婆婆さまはいつも通り背筋を伸ばし、ちんまりと座布団の上に正座していて、その傍に寄り添うようにユウが静かに微笑んで、これまた座布団の上に正座していた。俺は勝手に座布団を持って来て、胡坐をかきながら聞いた。
「婆婆さま。腰痛だって?狐が言っていたけれど」
「歳だからね。九十過ぎると、何処かしらおかしくなるさ」
「鈴木先生に診てもらったのか」
「あの藪医者は、もっと部屋から出て散歩しろ、筋力を付けろと、ぎゃあぎゃあ五月蝿く言っていたよ。少しは落ち着けないのかね。まあ、あやつは、一生ああだろう」
「ああ……目に浮かぶよ。先生のその様が」
「この間も念仏のように、肉食えと叫んで行った。全くこの歳になると、いつ逝ってもおかしくないんだがね」
「俺の子、抱っこしてからにしてくれよ。これからなんだからさ」
「いつ告げるのだね」
「やだな、婆婆さま、もう分かってるくせに。いや、でも結果は言うなよ、俺これから頑張るんだからな。あー緊張してきた。鼻血出そうだぜ」
「真心込めて向き合えば、ひとのこころは融ける。忘れるな」婆婆さまは、静かに嗤った。
「……もしかしてそれ言いたくて、俺を呼んだの」
「さあねえ。長いこと生きた婆婆の戯言だ。生かすも殺すも、お前次第だ」
「……婆婆さま。ありがとう。今日は何だか、皆にすげぇ応援されてるな。俺、こんなにエールを貰ったの、初めてかもしれねぇ」
「それは、創が日頃から、一人一人に優しく接しているからだ。皆、お前に何かを返したいのだよ。それを力にしなされ」
「そっか、それは嬉しいな。ありがとう、行ってくる」
 立ち上がって、座布団を片付けるとじゃ、と俺は行きかけた。
『ソウ、ガンバレ』
 ユウの声が頭に響く。滅多に話さない、いや、話せないユウが励ましをくれた。
「ありがとう、婆婆さま、ユウ。俺、行ってくる」


 流石に心臓が痛くなってきた。何時も板張りのこの廊下を会いたくて、抱きしめたくて歩いたことを思い出す。十二歳差と、小学生の時から知っている、というハンデはとてもきつかった。
 怜は大手の広告代理店に入って、中々神社には戻ってはこなかった。噂で彼氏と別れた、と聞いては内心喜び、また新しい恋が始まったと聞いて、どす黒い物を抱える。何度かそんな思いもしたのに、怜はいつでも俺の女神だ。
 高三の夏に告白して、相手にされなくて、進路を悩んでいた時に、怜はあっさりと仕事を辞めた。
 再び神社の一室に暮らし出して、傷ついたような様子に、俺は漬け込んだ。
 好きにならなくていい、だから。そう言って身体を重ねた。何も聞かないで、怜の身体に夢中になって、それでも虚しくて仕方がなかった。
 でも、もう離れたくはなくて、神主になる道を選んだ。
 それから六年、大学を卒業してから、面白いことをやりたがる出版社に勤務して、この春退職した。いろんなことがあり過ぎて、ジェットコースターのような日々だったけれど、今日、本当に人生を決めにここに来た。もう怜を放せはしないから。

 何時もの扉を、四回ノックした。怜と俺だけの合図。
「創、何で、今日は約束無い……………ってどうしたの、その格好。七五三?」
 怜はドアを開けると、俺を見上げてびっくりしたように叫んでいた。
「何でだよ。狐と同じことを言うな」
「ん、何よそれ」
 後ろ手にした紙袋を、怜は覗き込んだ。
「目ざといな。それより早く入れてくれ。後ろからの視線がいてぇ」
 ちらり、と後ろを向くと、華帆と、航太と宮司が、廊下の曲がり角の影に隠れた。華帆は遊びに行くんじゃなかったのかよ。
「あーなんとなく、分かった。なんで来たか」
「早く中に入れろっ、視線が耐えらんねぇよ、っ、つかギャラリー増えてっし」
 振り返るとおばさんもいた。理央が、訳分からずがんばれーと叫んでいて、朱里ちゃんに口を塞がれている。
「公開プレイしてみたら?そんな、バレッバレな格好してきたら、ああなるわよ。アンタ何年うちに通ってるの」
「俺を羞恥で殺す気かっ、つーか、ベタベタな突然の、っていうシュチュエーションとかに憧れるって言ったのは、怜だろっ。早く入れろ」
「どうせ全員扉に聞き耳立てて、すし詰めになるのよ、怪我人が出る可能性は、避けたら?」
「公開プレイなんかできるかっ」
「あはは、できるできる、創なら」
「………絶対、後悔するなよ」
 怜が俺のことを、からかっているのは分かっていた。そっちがその気なら、俺だって、腹を括る。
「ほら、持て」
 紙袋から赤い薔薇の花束を出して、怜に持たせた。え、と狼狽えた怜の片手を持ってひざまずく。突き刺さる視線も、背中になら耐えられる。そうして怜を見上げた。

「ずっと十五年、怜のことが好きで、これからは一生怜と一緒に居たい。だから、結婚してください」
「なっ、ちょっ、本当にするなんて」
 怜の珍しく真っ赤に染まった頬を見て、余裕を取り戻してきた。怜の手の甲に口付けを落とす。
「俺はこれから怜と生きていきたい。怜と」
 笑うと怜はもっと顔を赤くする。もう後ろなんてどうでも良かった。目の前にいる女性だけを見る。ただ唯一の。

「返事は?」
「創、私でいいの」
「この後に及んでそれかよ。どうなんだよ、教えろ」
「よろしくお願い、します」
 震えたようなその怜の声に、背中のギャラリーがわぁっ、と沸いた。


 おばさんはあっという間に居なくなって、何故か残されたギャラリーの面々と、蟻の行列のように、婆婆さまの部屋へ廊下を進む。
「婆婆さまープロポーズ終わったよー開けていい?」
 華帆が言うなりコン、と素早く扉は鳴った。
 どやどやと大人数が、婆婆さまの部屋へなだれ込む。すっかり皆が落ち着いて座ってから、婆婆さまとユウに対面して、座った俺と怜は二人で頭を下げた。
「人生を共に歩むことを決めました。これからご指導、ご鞭撻よろしくお願い申し上げます」
「固っ苦しいな、創は。まあいい。喜びを、哀しみを、共に分かち合い、分け合えばそれでいい。おめでとう。幸あらんことを願っているよ」婆婆さまは、穏やかな顔で笑った。
 それは優しい言祝ぎだった。みんな笑顔で、何でもない一日の筈なのに、途轍もなくハレの日に思えた。

「しかし、本当に思いを突き通したな。その根性は、凄いというか怖いな」
 宮司は少し、恐れるようにこちらを見た。
「おとうさん、これからもよろしくお願い致します」
「創におとうさんなんて呼ばれる日が来るなんて、何だか複雑だっ」
「怜ちゃん、創兄ちゃんちに住む?」
 叫んだ宮司を気にも止めず、航太は怜に、キラッキラした目で問いかける。敷地内の職員用の平屋に朱里ちゃんちは住んでいて、その隣の空き屋に俺もこれから入居する。航太は怜が隣に来て欲しいんだろう。
「そうね、結婚式が終わったらね」怜は優しく航太に返事をしたけれど、おいっ。
「ちょ、待て。結婚式後までは駄目か」
「何よ、もう一緒に住む気だったの。まだ何も決まってないでしょ」
「あぁ、待てねぇよ、これ以上待てねぇ」
「揉めるなっ、その辺は二人で話し合え。分かったか、全く」
 ぎゃんぎゃん喧嘩し始めた俺たちに、宮司は叫んで皆が笑う。いつもの光景。それは幸せの光景だった。


 晩飯はいつの間にか消えたおばさんが、近所の魚屋さんから、大皿の刺身盛り合わせを調達してきて、怜の姉さんの咲さん一家も招かれて、大人数での宴会になった。
「りおねーもっとマグロっ」
「航太もマグロ欲しい」
「わたしにもマグロ」
「お前達、がっついたら駄目だ。美味い物、喰わせてないみたいだろう」
 宮本真吾は、子ども達に叫んでいる。
「いいからいいから沢山食べなさい。ほらっ」
 おばさんは、別皿にマグロばかり盛ると、えいやっ、と子供たちの前に置いた。わあっと箸が伸びて、朱里ちゃんは項垂れた。
「すみません……本当に」
「いいから、そんな事気にしないの。朱里ちゃんも沢山食べなさい、食べてる?」
「いえ、もう充分です」
 いいからいいから、と強制的にわんこそばのように、おばさんは朱里ちゃんのお皿に、サーモンを乗せた。朱里ちゃんはまた恐縮している。その辺は昔から変わっていない。
 しっかし、いつ見ても宮本家は華帆を真ん中にして、その両側に両親、そして反対側に航太と理央がそれぞれいて、ぎゅうぎゅう詰めにくっ付いて座っているけれど、見ていたら酸欠になりそうだぜ。
 何でそんなにぎゅうぎゅうなんだ。苦しくないんだろうか。

『おばさんね、夢を見たの。朱里が幸せに笑っている夢』
 あのバスの事故が起きた日、学校から帰ってきた俺はうちの廊下で、穏やかな顔の朱里ちゃんちのおばさんに話し掛けられた。それ迄は堅苦しい感じで、近づくと怒られそうで、余り話したことはなかったのに、その日は違った。
『夢?』
『そう、子どもが三人いて、旦那様もいて、サンドウィッチみたいに挟まれて、ご馳走を食べているの。お腹にもう一人赤ちゃんもいるみたいで、朱里は笑ったり怒ったりしながら、旦那様と一緒に子供たちの世話をして、とっても幸せそうにしているの。そこに創くんもいて、やっぱり笑ってる』
「それって』
『ほんのつい最近、五日位前に見たの。それ迄は違っていたのに、急にその夢になった』
 俺は何も言えなくなった。何かを伝えたがっていて、何かを託したがっている、それをひしひしと感じた。
『創くん、朱里をその日迄見守ってくれないかしら。その日まで』
『おばさんが見守ればいいじゃん』
『そうしたかった。でもね』
 そう言っておばさんはさみしげに黙った。

『わかった、見守る』
 子どもながらにその意味を、本能的に理解したような気がする。今から思えば。
『ありがとう、創くん』
 そう言っておばさんは手を差し出してきた。握ると何か暖かいものが、体に入り込んだ気がした。
『本当に、ありがとう。君に託すなんて、親失格だけど』
 そう言っておばさんは笑った。

 俺はそっと右の掌を上に向ける。ふわり、と優しいひかりは掌から静かに抜け出して往く。
 婆婆さまと宮本真吾は、こちらをじっ、と見て昇っていくひかりを、一緒に見送った。

 朱里ちゃんを見守ること、その道標。

 もう手放してもいい、今日がその日だ。


「創に酒を注いでおやり、減っているじゃないのか?」
 お茶を飲みながら、婆婆さまが言うと、
「そうだ、飲め。主役なんだから」宮本真吾は、瓶ビールを勧めてきた。
「まだ入ってるっつーの。いいって」
 構わずビールを、なみなみに入れられて、慌てて泡を啜った。

「いやーやっと、怜も片付くねぇ。母さん、安心なんじゃない」
 怜の姉さんの咲さんは、おばさんと怜を相手に、話に花を咲かせている。
「本当にねぇ。創に拾ってもらって、もうねぇ、母さん泣けてきちゃう」
「酷くない、ねぇ、酷いわよ」
 おばさんが布巾で涙を拭って、怜は怒って。宮司は咲さんの旦那さんと、神社の仕事について話し込んでいて。
「もうマグロはお終いっ。野菜も食べろ」
 嫌だーと叫ぶ子ども達に、宮本真吾は尚も叫ぶ。
「嫌だじゃない、大きくなれないぞ」
「真吾くん、声大きいって」
 しーっと人差し指を朱里ちゃんに立てられて、宮本真吾は笑う。

 とても幸せそうに、笑いあっている、その未来に追いついた。そのことを嬉しく思って、俺も笑った。

A long dream

A long dream

折り合いの悪かった母を、自らの提案で乗り合わせたバスの事故で亡くした大学生の朱里は、不思議な夢を見るようになる。緑の森の中にある、白い部屋。深緑の瞳で薄茶の髪の美しい彼は微笑む。その内に現実でも不思議なことが起こってきて…… 彷徨う乙女と、それを救いたいと歩む青年のおはなし。完結しています。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-12-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一夜
  2. 第二夜
  3. 第三夜
  4. 第四夜
  5. 第五夜
  6. 第六夜
  7. 第七夜
  8. 第八夜
  9. 第九夜
  10. 第十夜
  11. 第十一夜
  12. 第十二夜
  13. 第十三夜
  14. 第十四夜
  15. 第十五夜
  16. 第十六夜
  17. 第十七夜
  18. 第十八夜
  19. 東雲
  20. 朝凪
  21. 白昼
  22. 午睡
  23. 夕凪
  24. 薄暮
  25. 幾望
  26. 番外・第十・五夜
  27. 番外・創の修行日記
  28. 番外・瞼
  29. 番外・優しい雨
  30. 春風