愚者の目覚め

 失業ばかりしていた雄介だが、今は社長のお情けでどうにか生き延びている。零細とはいえ一応は正社員である。ド近眼だからまともな仕事はできないし、無能でもある。その雄介が最近恋をするようになった。先日も田舎の両親に手紙を出した。相手は離婚歴のある女性だが、真剣に愛しているので認めてほしいと書いた。二十六の雄介よりも十歳離れているから戸惑っているにちがいない。ほかにも難題があって、それはおいそれと解決できるものではない。彼の給料で食べさせていけるか、どうかである。
「どうしても、おれは貴子と添い遂げるんだ」
 彼はストーブに当たりながら決意を確認した。出勤した社員達が次々とパーテーションで仕切った休憩所に集まってくる。だが川倉貴子は姿を見せない。寒波が襲い、寒さが続くから風邪でも引いているのかもしれない。そこへ総務部長の須山がダンボールの箱を抱えてやってきた。
「富田常務の奥さんの差し入れだ。食べてくれ」
 大きなテーブルの上においた。
「これ、何ですか」
「食い意地の張った社員が真っ先に関心を示した。
「正月の餅だ。常務の田舎で臼と杵でついたから、うまいよ」
「富田さんの奥さんと聞いただけで、おいしそうだわ」
 女子社員が言う。皮肉にしか聞こえない。富田倫子は常務夫人でパート社員、また社長の実妹でもある。
「焼いて食べたらいけるよ。なあ、雄介」
「は、はい」雄介はぼんやりしている。
「お前、寝ぼけているのか」
「いや」
「餅は好きかい」
「俺、好きです。大好きです」
取ってつけたように言うと皆は笑った。雄介は貴子のことで頭が一杯だった。
「どれ、どれ……」
 社員達は箱の中を覗き出した。雄介も立ち上がった。隙間なく詰まっていて、あちこちに赤や緑の黴が生えている。
「うへー、ひでえ」
「汚染餅じゃん」
「いくら何でもこんなもの、食えねえ。第一、見た目に悪い」
「黴なんか取って、ストーブで焼けば問題はない」
 須山は上層部に気を使っている。美醜に敏感なはずだから内心では拒んでいることだろう。
「家畜だって、見向きもしねえよ。それをおれらに食えというのかい」と食い意地の張った男。
「あんたが食べなきゃ、誰が食べるのよ」女子社員が冷やかす。
「そんなにひどいのかい」うるさ型のインテリ高井も見に来た。「ああ、ほんとだ。富田夫人の好意の裏側には我々への蔑視を感じるな」
「きみら、何とでも言ってくれ」
 須山部長は愛想を尽かしたように事務所に引き上げた。社員達が騒いでいるとき、雄介は一人だけ物思いに沈んでいた。貴子と付き合うようになってから彼は変わった。特に自分の力量について考えさせられる。会社ではどれほど価値があるというのか。社長に贔屓にされているからといって、たかがしれている。仕事は郵便代理業で、主にダイレクトメールや自動振込通知の仕分け作業である。社員は十四、五人しかいない。雄介は応用や機転の利くほうではなく、しかも目が悪いのでスピーディーにできない。メインの仕事から外され、郵便物のハガキの不具合を直したり、広告のチラシを封筒に入れる作業を任されている。言うならば年寄りのする仕事だ――始業の時間になった。誰よりも早く立ち上がり、所定の場所についた。大方は仕分け棚に向かうが、雄介は机に向かって始める。貴子は午後からでも出てくれないかと期待したが、一日休むらしい。
 昼休み、休憩所に来て同僚と話していると、
「こんなの目障りだ」
 低い声がした。高井が餅の入ったダンボールの箱を床に下ろし、わざとらしく足で蹴飛ばした。その幼稚な振る舞いに鼻白んだ。十秒もするとストーブの回りにいた連中が妙な顔をした。富田倫子が姿を見せたからだ。
「あなた、何をするのよ。はしたないわね」
「はしたないと言うなら、富田さんはどうなの。これを我々が食べると思っているのですか」
 高井が反論する。
「私は善意でしているのよ」
「侮辱に値するね。どういう育ち方をした人か知らないけど」
「私はこう見えても由緒ある家の生まれよ。ミッションスクールでマザー・テレサの奉仕活動を学んだわ」
「だけど、こんな餅を食べさせようというのは、賤民思想の持主としか思えないね」
「何よ、それ」
「あなたの心の中のあるものだ」
「私はそんな変なものはないわ」
 富田倫子は意味はよく分からないけれど、品性を低く評価されていると感じているらしい。そして、
「高井さんって、知ったかぶりでものを言うわね」
 腹立たしげに向こうへ行ってしまった。三十七歳の彼は広告会社に勤めていた。職場では浮いていて胡乱な目で見られがちである。だが、どこ吹く風と言わぬばかりのマイペースの男だ。
「雄介くん、ぼくとあのオバサンとどっちが正しいと思う?」高井が聞いた。
「どっちとも言えないね」
「ぼくの考えは間違っているかい」
「ちょっとは賛成しているけどね」
「それだけでも嬉しいね」
 雄介は高井にも一理あるようような気がしており、もっと積極的に賛意をし示したいくらいだった。けれど幹部の身内には遠慮せざるを得なかった。倫子もただのパートではなく、特別の存在だと自負している。そんな傲慢な女に反感をもたぬ訳はない。
 数日して貴子がまた欠勤した。三時休みに作業場の隅でケータイをかけ、具合が悪いのかと聞いた。
「会社が面白くないの」
「どういうところが」
「社長と社員の関係よ。だって主人と使用人の域を出ていないのよ」
「それはある。でも、表向きは妥協したふりをするしかないよ」
「私だって、世の中のこと、知らないわけじゃないわ。でもこの頃、我慢できなくなったのよ」
 その一つに朝礼のとき、社是五訓を斉唱させられ、最後に『オス』で締めくくるのがイヤだと言うのだ。
「ミーティングのときに提案したらいいのに」
「焼け石に水よ」
 彼女は前々から社長一族が大嫌いで、常務ばかりか社長夫人の専務、義弟だの甥だのと煩わしくてならないと思っている。
「でも、休まないようにしたほうがいいよ」
「分かったわ。目をつむって出るわ」
「話が終わって皆の近くにいくと、女子社員のキンキンした声がした。お尻を触らないで、と言っている。
「自然に手が当たったんだ」
「嘘よ。意識してやったくせに」
「少しくらい、いいじゃん」
「何度セクハラしたら気がすむの」
「そんなにしていないよ」
「早く恋人、見つけな」
「そりゃ、ほしいよ。雄介さんが羨ましいなあ。年上の女性がいて」
「待ってよ。いつから、そんな話になっているの」
 雄介は慌てた。こうもはっきり言われたのは初めてだ。秘密裏に交際しているつもりだったが、既にバレているらしい。
「隠さなくてもいいじゃないの」
「女子社員が冷やかす。回りの者が笑い声を立てた。逃げ出したいくらい恥ずかしかった。
 四、五日経った昼休み、事務所に呼び出された。会社のためによいことをすると、食事をご馳走をしてくれる習いである。雄介は年末年始、社の建物を見てまわった。異変はなかった。勤め先の大久保界隈に住んでいるので、訳のないことだった。彼は日頃から社長達に報いたいと考えている。近眼や時々しでかすミスを寛大に見てもらっているから。今まで三度よばれた。別棟にある手狭な事務所に入ると、奥のデスクに社長が座っていた。黒いスーツ、黒眼鏡、黒い顔はその筋の人を思わせた。近くに夫人の専務が寄り添っている。
「遅くなったけど、食べてくれ」
社長は顎をしゃくった。重箱の蓋を開けると、高級そうなかつ丼である。雄介は恐縮そうに割箸を割った。
「いただきます」
「ああ」社長が鷹揚に頷く。「よくやってくれたね。あそこまで気がつくのはきみくらいだ」
「いえ、何でもありません」
 途中、外食から帰った富田常務、富田倫子らが自分の席に腰を下ろした。早食いの雄介が口一杯い頬ばっていると、専務が呆れたように、
「あんたの食べ方なってないよ。よく噛みなさい」
 笑いながら注意した。笑うと般若の顔に似ている。雄介の癖はすぐに直るものではなく、またたくまに平らげ、お茶を音を立てて飲んだ。食べ終わってから楊枝を使っていると、不穏な空気が流れているのを感じた。普通ではない、何だろう、雄介には見当もつかなかった。社長が口を開いた。
「時に雄介よ。きみは川倉くんと付き合っているそうじゃないか」
 彼はドキリとした。そんな雄介を社長は眼鏡の底から見つめた。
「はあ、そうですが」
「あまり感心しないな」
「いけないですか」
「訳がわからん」社長が冷ややかに言う。
「あんた、ああいうタイプ好きなの」
 倫子の言い方はぞんざいだった。雄介は癇に触った。
 「嫌いな女と付き合うはずないよ」
「でも正体が知れないわ。前は何をしていた人なの」
「奥さん、そんな無礼な言い方はやめてくださいよ。過去なんか、どうでもいいじゃないか」
 雄介はいつもと違って、反抗心がムクムクを頭をもたげ、立ち向かう姿勢になっていた。おとなしい富田常務が顔を上げた。
「家内はきみのためを思って言っているんだ」
「どうしておれのためですか。そんなの、おためごかしだよ」
「今日の雄介の話し方は高飛車よ。口を慎みなさない」
専務が睨みつけた。「おれは個人的な領域に介入されるのが嫌なんだ」
「そういうつもりはない。きみはもっと利口にならなきゃいかん」と社長。
「おれは川倉さんがどういう人であろうとも、他人から言われたくありません。おれはおれの生き方を貫くだけです。結婚もします」
 雄介は涙を浮かべた。幹部たちは静まり返った。
「よし、分かった。もういい。せっかくのお昼をご馳走しながら、悪かった」
 社長は最後に一言言った。事務所を出ながら抵抗感を覚えた。社長や専務のいる前で食べさせられるなんて、うまいはずはない。それに富田倫子の蔑んだ言い方は気に入らない。インテリ崩れの高井が頼もしくなった。賤民思想とはよく言ったものだ。

 その日、東中野の貴子の家を訪ねた。古めかしいワンルームマンション。四階の家は家具類が少なく、テレビと洋服ダンスとチェストがあるくらいだ。チェストの上にテデベアーが飾ってあり、貴子の顔と似ているので来るたびに笑ってしまう。火燵に当たっていた貴子を衝動的に襲った。肌は熱く、ぬめっていた。この体がたまらない。
「天に上りそうな気持ち……」
 貴子が喘ぎながら言う。終わってコーヒーを飲みながら、例の餅やご馳走の話をした。富田倫子の口にした陰口は黙っていた。
「おれ、常務の奥さん、好かんよ。何様のつもりだ」
 雄介や貴子でなくとも煙たがっている社員は多い。
「あの会社は大した社員はいないわね」
「人徳のある人は須山部長くらいだ」
「部長は尊敬できると思うわ」
 須山はここへ来るまでは台東区の郵便局に勤めていた。定年退職して再就職先を探しているとき、社長が引っ張ってくれた。ここでの地位は総務部長だから好待遇である。
「だからといって、むかし風の考えに従うこともないわ」
「須山さんは恩を感じているからだ」
「でも胸の内では反発しているわよ」
「それはある」
 出前で取り寄せた寿司を食べ、腹ごしらえをした。貴子はゆったりした仕種で上品に食べた。先に食べた雄介はじっと待ってから話し出す。
「ところで、どうして休んだの」
「それがね、前の亭主が訪ねてきたの」
「エッ、亭主が! おれのことを喋ったかい」
「どこの誰かは言っていないけど、チラッと匂わせたわ」
「そうしたら」
「自分ともう一度やり直さないかと言うの。一応、考えさせてくださいと答えておいたわ。だって悪いもん。
 雄介の頭の中は物がつまったように重くなった。貴子は家を飛び出して一年近くなる。別れた理由は夫に女ができたからだ。人材派遣会社を経営していて、景気と関係なく儲かっている。いい気になって銀座のホステスに手を出し、深みにはまった。この頃では自分を取り戻し、女との仲を清算した。
「あんたら、ここで寝たろう。おれは元夫でも承知しないぞ」
「だしぬけに何を言うの、失礼よ」
「しばらく会わなかったら、新鮮だっただろうな」
「勝手に勘ぐって、いやらしいといったらないわね」
 好色な貴子だ、きっと抱かれたにちがいない。しかしそれ以上は追求したくなかった。聞けば惨めになるだけだ。
「おれとの結婚、考えているのかい」
「もちろんよ。叔父貴にも話したわ」
「賛成してくれたの」
 年の差は気になるけど、それよりも二十万そこそこの給料じゃ、やっていけないだろうと心配していたわ」
「共働きだったら、大丈夫だ」
「プアな生活は嫌よ」
 貴子は今まで金に困るような生活をしたことがない。夫の稼ぎだけで十分だった。それに会社勤めは好きではない。これといった資格も技術もない。
「でも、あんたは好きよ」
「おれも貴子を愛している」
 貴子の家で一晩泊まって日曜日の昼頃帰った。月曜日から必ず出勤するように念を押したら快く約束してくれた。
 次の日の朝、貴子はロッカーの前で、
「今日からがんばるわ」
 明るい声で誓った。雄介は安心して仕事に取りかかった。二時間が過ぎた頃、貴子の姿が見えないと女子社員が教えてくれた。
「帰っちゃったみたい」
「えっ、ほんと。何かあったのかね」
 雄介は首をひねった。心を入れ変えて来たというのに、どうしたのだろう。午前中が終わり、外へ食事にいく前に須山部長に聞いてみた。
「お前だから、話すよ。川倉くんは解雇されたんだ」
「なんだって、そんなのひどいじゃないすか」
 雄介には只事ではなかった。他にも欠勤者や遅刻の常習者がいる。貴子は見せしめにされたのだ。それしか考えられない。事務所に行こうとしていると、途中で常務と行き合った。
「社長の判断なんだ」
 富田はハンカチで髪の毛のない頭を拭った。自分には関係ないという様子である。彼は激しい怒りを覚えた。事務所に入り、社長の前に立って貴子のことを尋ねた。
「どうして辞めさせられたのですか」
「集団にはルールというものがある。川倉くんはそれを破ったんだ」
「納得がいきません」
 ただちに般若顔の専務が補足した。
「掟を守らない者は、罰を受けるのよ。それはどこの社会も同じ。皆のためにならないもの」
「会社のやり方は卑怯です。おれは全存在をかけて戦います」
「私は規則に従ったまでだ」社長は当然という顔つき。
「おれは承服しかねます。絶対に許しません」
 これだけ言うのが精一杯だった。お茶を飲んでいた倫子が口をはさんだ。
「あんた、結婚まで考えているんだったら、川倉さんを教育しなさい。言うがままになっているだけじゃダメよ」
「それはプライベートな問題だから、関係ないんだよォ」
 雄介はケンのある口調で言い返した。夫の常務はハッとして体を動かした。事務所の中はいつもと違って、緊張感が漲っていた。会社が嫌ならいつ辞めてもいいよという圧力のようなものを感じた。雄介は軽く頭を下げて事務所を出た。後から須山部長もついてきた。
「雄介、やるじゃないか」
「おれは自分の意見を述べたから、半分はスッとしたですよ」
「それでいいんだ」
「でも、悔しいよ」
「耐えるしかない」
 歩きながら思案を巡らした。自分は社長など幹部たちに贔屓にされている。それは彼らにとって都合がいいからである。雄介は下手に出ているからである。そんなのは今風ではない、どういう関係にしろ対等でなければならないのだ。メシをご馳走になるなんて有難いことではない。高井がおれだったら断るよと言ったが、その通りだろう。もっと抵抗したほうがいい。これからは改めよう――そう考えると闘志が湧いてきた。
 帰宅すると貴子から電話があり、思いのほか元気だった。状況を聞くと、平気、平気とふだんと変わらない声で答えた。
「おれ、社長たちに抗議したんだぜ」
 その光景を話して聞かせた。
「そうなんだ、雄介さんも男らしくなったわね」
「偉い人たちもびっくりしていたよ」
「驚かしてやったほうがいいわよ」
「いい経験になった」
「それでさ、雄介さん、聞いて。私、今後どうすべきか、じっくり考えたいの。だから少しの間、そっとしておいて」
「ああ、いいよ。よく考えてよ」
「いつか、訪ねていくわ」
 だが何を考えると言うのだろう。就職のことか、結婚のことか気になった。彼はアットホームな家庭を一途に夢見ているから、そういう方向にいけばいいと願っている。
 一週間ほどして貴子が雄介のアパートにやってきた。夜の七時頃である。部屋は二階の六畳一間。鉄製のパイプベッドやテレビのほかにクローゼットのハンガーがあり、スーツやジャケットがかけてある。
「おしゃれの雄介ちゃん、健在ね」
 貴子は言いながら、手にしていた水仙の花を花瓶に飾った。
「紅茶を入れてあげるからケーキを食べようよ」
 貴子は言いながらケーキの箱を広げてから台所に立った。
「お茶はおれが入れるから」
「いいの、いいの、雄介ちゃんは座っていて」
 貴子に任せた。ノンシュガーの紅茶を飲みながらサバランを食べた。それから黙しがちになり、雄介は落ち着かなかった。貴子は察したようにこう切り出した。
「折り入って申し上げるわ。冷静になって聞いてね」
「なんだい、怖いね」
「私、会社を辞めたんじゃ食べられないでしょ。だから、あれから夫に会って相談したの。そうしたら復縁するのがベターだと言うのよね。よく考えたら、私はあの人を必要としていたんだわ」
「おれと別れてくれということか」
 貴子は遠慮気味に頷いた。雄介は予想しないでもなかった。向こうは金がある上に社会的な経験も豊富である。それに反して自分は未熟だ。貴子は拠りを戻そうとしているのも無理はない。そうかといって簡単に同意したくない。
「おれはいやだ。貴子のこと、思い続けてきたんだから」
「嬉しいわ。でも結婚できないのよ。分かるでしょう」
 雄介は返事をしなかった。
「ねえ、何か言ってよ」
 答える気にもならない。同じようなやり取りを繰り返し、しばしば沈黙に陥った。その間に自分なりの気持ちを整理しようとした。考えながら脱線した。彼はふとマンハッタンにある八十階ぐらいのビルに上り、美しい夜景を眺めながら風にあたっている中年女を思い描いた。素晴らしいだろうな。たしか週刊誌か何かで読んだことがる。雄介は高層建物が好きで、そこで酒を飲んで酔いたかった。彼はだいぶ経ってから、重い口を開いた。
「諦めるめるしかないだろうな。貴子を抱いただけでも幸せだ」
「女として冥利につきるわ」
「これからは一人ぼっちだ」
「雄介さんはハンサムじゃないけど、母性をくすぐるから、もてるわよ」「貴子みたいな女が現れればね」
「きっといい出会があると思うな」
 話しながら雄介の視線は貴子の体をさまよった。スカートからはみ出した太股やピンクのタートルセーターに包んだ胸が悩ましかった。
「なあ、いいだろう」
「何が?」
「最後に一遍だけやらせてくれないか」
「遠慮しなくてもいいわよ、したいようにすれば」
 雄介は眼鏡をはずして抱きすくめた。時間が過ぎた。いつの間にか終わっていた。それから貴子は化粧をし直したので、大久保駅まで送っていった。虚しい気持ちになった。

 会社では気が晴れなかった。別れたことは須山にも話した。現場の連中も気がついているようだった。そのせいか雄介を気づかっている。それも煩わしかった。テーブルで作業をしていると、社長が通りかかった。
「よお、気合いをいれてやっているかい」
「ええ、何とか」
「頼むぞ」
 別れて十日が過ぎている。侘しい気分から抜け出せないでいた。この際、転職をしてはどうかと思わない訳でもない。だが一度戻ってきたという経緯がある。どう考えてもここしかない。そのとき、
「そうだ、あれをやろう」
 思いついた。少しは紛れるかもしれない。前から温めていたアイデアを実行に移した。それは富田倫子が持ってきた餅の処分だ。時間もだいぶ経っている。餅は物置に仮置きしておいた。まずダンボールの箱を流しに運んでいく。渡り廊下の先にあり、バケツにあけると腐臭を放った。
 しばらく水につけておいて、昼休みにタワシで洗って、カッターナイフで黴をそぎ落とした。時間はかかったけれど、近ごろにない情熱を傾けた。黴を取って水道で流すと、真っ白になった。それを外に出して、天日干しにした。太陽がカンカン照っている。午後の仕事が終わった頃、完全に乾いていた。それを新聞紙に包んで家に持ち帰った。
 トンカチで叩いて小粒にし、フライパンで炒めた。終わってから試食すると芳しい香りがして、すこぶるおいしかった。雄介は上機嫌になった。 翌日、会社の帰りに公園に立ち寄った。土曜日の午後である。天気はいいが、刺すような冷たい風が吹いていた。ホームレスがベンチで日向ぼっこをしていた。彼はショルダーバッグからビニール袋を取り出した。それは粉々にした揚げあられである。試みに地面に撒いたら二、三羽の鳩が近寄ってきて、キョトキョトしながら啄んだ。小出しにしているうちに、近くにいる仲間も次々とやってくる。そのうち細長い広場には数十羽が集まった。
《鳩に餌を与えないでください》
 看板を横目で見ながら袋の中のものを空っぽにした。彼らが夢中になって食べているのを眺めているのはいい気分だった。鳩の国の君主になったみたいである。
 月曜日の朝、事務所の前で富田倫子に行き合った。
「お餅、洗っていたけど、どうしたの」
「あれは公園の鳩に食べてもらったよ」
「公園の鳩に?」
「黴を取って、奇麗にして、調理したんだ。そうしないと失礼だからさ」「そう。無駄にならなくてよかったわ」
 倫子は半ば負け惜しみに言って立ち去った。見守っていた須山部長が近づいてきた。そして、
「鳩の餌はよかったね」
 ニヤッと笑った。

愚者の目覚め

愚者の目覚め

ダメ男の社長一族への抵抗

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-25

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著作権法内での利用のみを許可します。

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