PRIVATE STORY 《 Requiem #1 》 プロメテウスの弟
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私は、ゴールドブラッシュに仕上げられたケースの横に、大きくHOPEと名を刻み、その傍らに弓矢のレリーフを埋め込まれた、誇りあるZIPPO社のオイルライターだ。
私は、似た名を持つ煙草――あいつはショート・ホープ、短い希望だ。似て非なる名だ――の懸賞として生まれた。
私は、常に主(あるじ)の懐で暖められ、タンクのレーヨンボールには常にオイルが満遍なく滲みわたり、それを押さえるフエルトパッドの狭間には、二つのフリントロックが予備として仕込まれている。
私は、私を手にし、真のライターとして、いつでも本分を発揮できる状態に置く主に尽くす。
数多の先覚を受け継いで生まれ、尽くすべき主に恵まれ、私は形ある限り、希望の灯を点し続ける。
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私の主は、希望の灯りを点す者なのだ。
主よ、今ひとたびその掌で私を握り締め、軽やかにリッドを開け、奏でるようにフリントホイールを回し、希望の灯を点してくれ。
そして、ささやかながらも尊敬すべき志を、夢を、希望を、誰からも羨まれる家族との愛を、もう一度私に聞かせてくれ。
私が皆に伝えたかったのは、そんなあなたの物語なのだ。
主は何故、あの少女と出会ってしまったのだ。
三十路も半ばを過ぎた身ながら、勉強し直して資格を得、より良い仕事をこなすために、貯金を叩き、学び舎に入ったのがいけなかったというのか。
主は、共に学ぶ友人たちが、高校を卒業したての若く可愛らしい無垢な存在であることを改めて知った折、彼女たちを護るためならば、自分に出来ることは全てしようと決めていた。
見覚えのある捻れた道に足を踏み入れなくとも済むように、例え回り道でも正しき道を進めるように、表では善き兄のように振る舞い、陰ではせめて足下を照らす灯火のような存在であるよう努力しようと決めた我が主は、どこでどう間違ってしまったのだ。
私はあなたの決意を知った時、主こそが我ら〈火〉を人間に授けた神、伝説のプロメテウスの現御神(あきつみかみ)であらせられるのではと驚喜し、この身が単なるブラス製ではなく、ティタン神の眷族に仕えるに相応しいチタニウム製ならば……などと奢侈な望みを持ったというのに。
入学して間もなく、含羞に頬を染めながら、友達になってほしいと言ってきたあの少女は、確かに誰よりも可愛らしかった。
私も、共に主を慕う存在が増えるのは嬉しかった。
他の学友の誰よりも自分を慕う少女を、特に気に掛ける主の気持ちもわかる。
しかし、それからほんの数ヶ月後の夏、二人きりの実験室で、少女が後ろから抱きついてきた時、主の心臓は困惑の不協和音ではなく、ときめきの律動を刻んだことが理解できない。
この十数年、使い込みながらも手入れを欠かさない仕事道具を握る他、女といえば奥方のみを抱きしめてきたあなたの強く逞しい腕が、生意気にも雌の吐息と匂いをまとう少女の、躰中を這いずった時の私の混乱は、伝えようがない。
主よ、あなたはタカラモノと、奥方のことを〈宝物〉と、そう心の中で呼んでいたではないか。
私はあなたの懐で、正しく強く、優しく響くその言葉にも随分と暖められたものだ。
少女は、宝物以上の存在なのか。それとも奥方から、少女が取って代わってしまったのか。
主よ、それは宝物では断じてない。
ただの玩具だ。
私のような質実剛健かつ子孫へ受け継がれる逸品――マスターピース――ではなく、敢えて壊れやすく作られた玩具だ。
飽きた頃に都合よく壊れる、子供の玩具だ。
主よ、私はあなたたちと何度か行ったキャンプが忘れられない。
あの時ほど、歓喜に満ち満ちた日は無かった。
何しろ、たくさんの暖かな火を点けることが出来た。
あなたと奥方とご子息の間に置かれた、バーベキューコンロのファイア・スターターに。
ご子息と以前から約束していた花火に。
遊び疲れて眠ったご子息の寝顔を眺めながら、奥方と酌み交わす銘酒と共に味わう、とっておきの葉巻に。
主よ、あなたには奥方と長年を掛けて造った、小さくとも頑丈な船があるではないか。
あなたは、奥方と比ぶるべくもない、ただ若いだけが取り柄のあの少女と、出会ってたかだか数ヶ月で何を造り上げたというのだ。
あなたが隠れて少女とこねくりまわしていたのは、ただの泥だ。
泥の小舟を作っていたのだ。
奥方と労わり合って少しずつ練り上げた、黄金に勝るとも劣らない合金で造り上げた宝船ではなく、嫌らしい細菌や微生物にまみれた泥の舟だ。
そんなものに乗って、あなたは何処へ行こうというのだ。
主よ、私にはわからない。
少女の舌を吸った唇で、奥方へ接吻するあなたがわからない。
少女の陰部を穿った手で、もう一つの宝物であるご子息の頭を撫ぜられるあなたがわからない。
主よ、少女と出会う前のあなたは、例え薄汚れていても、気高く誇り高く、輝くような掌で、私たちを導く灯火をかざしてくれた。
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私はもう一度、あなたの掌の中で暖かな火を点けたいのだ。
主よ、聞かせてくれ。
あなたに何があったのか聞かせてくれ。
頼む。
頼む。
何も知らない奥方とご子息が泊まりがけで留守する朝、主も少女との待ち合わせ先へと車を走らせる。
チャイルドシートを外した助手席に、少女が我が物顔で乗り込み、勢いよく街を走り抜ける。
ご子息とよく行ったハンバーガーショップを通り過ぎる。
私が、せめてもう一度行きたいと願ったキャンプ場へ曲がる小道も通り過ぎる。
少女と腕を絡ませあう主は、思い出に脇目も振らず、若い頃のあなたと奥方が出会った街すらも、気付かぬように走り抜ける。
向かう先の夕闇から風花が舞い散り、フロントガラスを駆け上る。
冬の訪れを告げる以外に、残ることもなくただ融けるために咲いた花が風に散る。
何処か知らない街を外れ、何処へも通じぬ道を行く主と少女の背中を、後押しするように風花が舞う。
山間のその辺りでは老舗らしい旅館に車を停め、傍らを流れる、ライトアップされた渓流沿いを、主と少女は歩く。
プロメテウスの弟、エピメテウスに成り下がった主に、パンドラの化身であった少女がしなだれかかる。
水銀灯の照射範囲から外れたその刹那、希望という名の私が、主のポケットから滑り落ちる。
ブラスのケースが石に弾かれ、絶望の音が響きわたる。
しかし、暗闇の森に轟々と木霊する奔流の響きに紛れ、今さら私の慟哭は主に届くこともない。
珪藻類の付いた火山岩や変成岩に挟まれ、開き放たれたリッドは川の流れに洗われ、少しずつオイルと水が混じり、諦観の念に私は浸される。
希望という名の私は、いつかまた、その名にし負う灯を点すことを夢見て眠りにつく。
了
PRIVATE STORY 《 Requiem #1 》 プロメテウスの弟