SS45 ネガティブの果て
私はバッグを肩に、家を出た。そんな私に行き先を尋ねる人はいない。
擦れ違いざま肩が触れたのは、避けようとした私に寄って来た彼らの方に非があった。
しかし相手はがたいのいい外国人、色濃い顔と大袈裟なリアクションに、思わず後ずさったのは私の方だった。
「ごめんなさいねぇ」片言の日本語で頭を下げる姿に悪い印象はない。
経験上、私は安易に他人を信用しないと決めていたが、差し出されたハンカチとティッシュを断ったのは、単に先を急いでいたせいだった。
右の肩にべっとりと付いたジェラートには溜息が出たが、トイレに入って落すしかないと諦めた。そもそも鏡なしで綺麗にするのは難しそうだった。
なのに、「ノーサンキュー」のひと言を残して立ち去ろうとする私を、押し留めるのはなぜなのか?
聞けば、このまま帰られては気分が悪いなどと殊勝なコトを言う。
通路中央での押し問答は、明らかに通行人の妨げになっていた。近くで大きなお祭りがある為に、最寄駅のここは普段の数倍の人でごった返していた。
仕方なく端へ避けた私には、それでも興味本位の視線が注がれた。この奇妙な組み合わせは、どうしたって目立つのだ。
こんな所で時間を食うわけにはいかない。逃れるには、彼らの”願い”を叶えてやるしかなかった。
諦めて肩のトートバッグを預けた私は、まずはティッシュでざっとアイスを拭った。汚れた場所が場所だけに、視線はどうしても下向きになる。
まったく、これじゃ二重の災難だ。家を出た時の高揚感に、ケチを付けられた気がして悲しくなる。
イライラしながら服を擦り終えると、なぜか男の一人が消えていた。バッグを渡した方の男がいなくなっている。
私の不審な表情に気付いたのか、残った男も背中を向けて駆け出した。
……置き引きだ!
「待って! 荷物を返して!!」間髪入れずに跡を追う。
少し疑っていながら、まんまとバッグを持ち去られた自分のバカさ加減に泣きたくなった。
そんな私の息はすぐにあがった。思わず膝をつくと、私を避けるように人波が割れた。
運動は大の苦手。そんな私が手慣れた置き引き犯の足に追い付けるはずがなかった。
***
茫然自失。途方に暮れた私が座り込んだ時、それは起きた。
ドーーン。
突然の閃光と轟音。振り向こうとした私の身体は爆風に吹き飛ばされていた。
華麗なデザインの象徴だった駅舎のガラス。衝撃波によって粉々に砕かれたそれが、雨のように降り注ぐ様を、気を失う前の私の目は捉えていた。
白煙が流れ込んで視界不良になった空間は、それまでの雑踏が嘘のように静まり返り、次いで悲鳴と怒号が渦巻いた。
瞼を開けると、床に転がった私を今まで感じた事のない激痛が襲った。
脇腹に大きなガラスの破片が刺さっている。
痛いよりも熱い感覚。手を伸ばすと、溢れ出た生温い血がぬるりと掌を汚した。
脱力するように垂れ下った腕。傷の深さを知った私は、もう動けなかった。
自分と同じように倒れた多くの人が呻き、助けを求める声が聞こえる。
逃げ惑う人の消えた空虚な時が過ぎると、蹲って身を伏せた人々が、事情を知った人々が次々に駆け付けて来た。
怪我人に寄り添い、動ける人を外へ連れ出し、傷を塞ごうと懸命に動き回る姿。
顔を上げると、見知らぬ誰かが私の元にもやって来た。
「大丈夫か?」
私は身体を起こそうとする彼らを拒み、首を振った。
「これはマズいな」脇腹から流れ出た大量の赤い物を見て、彼らの表情が固まった。
それでもタオル、ハンカチを使って、服が汚れるのも構わず止血を試みるその手は止まらない。
「やめてよ!」私は叫びたかった。
でも声の代わりに出たのは、ひと筋の涙だけ。
なんで私なんかに親切にするんだ! 今まで見向きもしなかった癖に、なんで今になって……。
突き刺すような心ない言葉。叩かれ、足蹴にまでされて出来たたくさんの痣。それは死にたくなるような陰湿なイジメだった。
互いに反目し合う両親はそんな一人娘に関心がない。今や完全に冷え切った家の中にも、私の居場所は見付からなかった。
誰も私を助けてくれない。
誰も私の気持ちを分かってくれない。いつしか心は荒んでいた。
自分の存在を知らしめてやろうと思い付いたのは、夏休みに入ってから。
本当は学校を狙うつもりだった。けれど休みに入ったそこに憎むべき相手はいない。
目を付けたのは、たくさんの観光客が訪れるお祭りだ。あいつらも楽しいイベントは欠かさない。
大人びて見えるように化粧を施し、ママの服を着た私を中学生だと思う人はいないだろう。少し高い背、落ち着いた雰囲気を私自身自覚していた。
私はバッグを肩に、家を出た。もちろん誰も行き先など聞きはしない。
私の気分は異常な程昂っていた。
これは復讐じゃない。自分を守る為に必要なのだ。
駅を抜ければ、大通りのパレードを見ようと人が犇めき、露店が競うように並んでいるはずだった。
バッグの中身に費やした時間はひと月余り。何の知識もない私の悪戦苦闘は、知恵熱が出て、夢に魘された程だった。
そしてネットにあった通りに作った爆弾は、一度も試していないのにちゃんと動き、予想外の場所で、予想外の破壊力を発揮した。
……私は取り返しのつかなことをした。
私を突き動かした悪意はいつしか萎み、シャボンの玉のように壊れて消えた。
こんなにも親切な人達を巻き込もうとした私は、ただのバカだった。
人の内面に気付かなかったのは私も同じだった。
私には、彼らに助けてもらう資格がない。
自ら爆弾のスイッチを押すつもりだった私に、資格などあるはずがなかった。
ふいに寒気がして、視界が霞んだ。
私は死ぬのかな? 声にしたつもりはないのに、誰かの涙が降ってきた。
私なんかの為に泣かないでほしかった。
「がんばれ、がんばれ」
耳元で声を掛け続ける人がいる。髪を撫でてくれる人がいる。
私は気付かなかった。この世界には、こんなにもたくさんの心優しい人がいるんだと……。
もしも……。
もしも死なずに済んだなら、その時こそ、私は違う自分に生まれ変われる気がした。
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