暗がりと沈黙のなかで

 ビリヤードの玉を()くはずが、ビー玉を転がすことになった。
 助手席で泣く理奈は僕の買ってきたソーダを長い時間をかけて飲み干した。僕はビンを受け取り、ビー玉を取り出して、手のひらで転がしたり、西日の太陽に向けてかかげたりして、彼女の興奮が過ぎ去るのを待った。五月とはいえ夕方になると少し肌寒い。僕は黒いジャケットのボタンを留めた。
 ビー玉越しに見る世界は直線が曲がり遠近感はでたらめだ。ビリヤード店のドアはまるで巨人が力を込めて引き延ばしてしまったように見える。気晴らしに誘ったのは失敗だっただろうか。
「もう大丈夫です」
 理奈は手鏡を見ながら黒く瑞々しい長髪を整える。目薬を点して少しだけ赤みの引いた目を僕に向けた。その姿はひどく大人びていた。
「いつも思うことだけど、僕はやっぱり君に話してもらいたいと思うよ」
 僕はなるべく声を落ち着かせて話した。
 理奈は目を伏せて言った。
「ごめんなさい。でもこれは前にも話した通り私の問題なんです。私だけの問題で、だからつまり私が解決しなくちゃいけないんです」
 それは繰り返された会話だった。
 理奈の家庭教師を受け持って二年になる。彼女は二ヶ月か三ヶ月に一度の間隔で涙を流した。しかしそれはさっと通り過ぎるお天気雨のように、降り止むと降っていたことすら忘れてしまうほどのもので、彼女も僕も特に気にしなかったから、涙のあとでも普段と変わり無く話すことができた。それでも礼儀として毎回尋ねるのだった。
「僕は君のために言っているわけじゃないよ。何もしないでいる自分がしんどいから言っているだけだ」
 僕は一音一音正確に発音した。誤解が生まれないためにも丁寧に言葉を重ねる必要がある。
「私は上城(かみしろ)さんがただそこにいるだけで安心できるんです。自分でも面倒なことを言っていると思います。でもむしろそれ以上はどうしても駄目なんです。私の一番求めていることはそばに居てもらうことで、もしそれが叶わないのなら、一人でいます」
 彼女の声は申し訳なさそうだった。ただそこにはどこか確固とした意志を含んでいた。譲る気は無いといったように。
 僕はビー玉をくず籠に入れた。カツン、と小さく乾いた音がする。
「いや大丈夫だよ。君は思春期特有の、自分が一番不幸で悲劇のヒロインだと思っているような人ではないから。僕だって十五の時にはいくらか面倒なことをしでかしたし」

 思い出したくもないことだ。中学校の同級生と、顔を合わせるだけで胃が痛む。僕はその頃強烈に他者とは違う自分を発見したのだ。
 クラスの人とは思うことも感じることも違っていた。先生や両親とも違っていて、身の回りの人とも違っていたから、誰とも違っているように感じた。
 一人でいることは暇だったから退屈を紛らわすために本を読み始めた。本を読むと自分の断片に出会えた。見たことも無い自分を見つけるその度に驚きが身を包み、僕を新しい衣で守ってくれるように感じた。
 そうして読書をしていくと、自分と他者との間に横たわる深く(くら)い隔たりを埋める手法を考え付いた。他者の考えをその立場や習慣から分析し自分の中に取り込むことでその他者自身に僕がなること。あらゆる想像力を駆使して。

 理奈はダッシュボードの中からメガネを手に取った。玲華さんの忘れもので、たしかPCから出るブルーライトをカットするものだと言っていた。ちなみに僕は玲華さんとお付き合いしている。
「これ、借りてもいいですか。私はもう大丈夫なので、ビリヤードに行きましょう」
 そういうことなら、と僕は言った。僕らは車を降りて駐車場を歩いた。彼女はさっきまで泣いていたのが嘘のように明るくはしゃいでいた。ボーダーのスカートが揺れる。
「泣いちゃった分も、楽しみましょうね」
 メガネをずらし上目遣いする彼女は年相応に見えた。

 店の中は閑散としていて、端の台で店主が練習をしていた。僕が会釈すると彼も会釈をした。古いレコードがかかっている。僕は荷物を置いてキューを取ろうとした。足首に柔らかい感触があり、見れば飼い猫のミウだった。人懐っこいシャム猫で黒い毛はサラサラとしていた。三回撫でてやると満足したようで、理奈に向かってゆったり歩いていく。
「勝手に始めて大丈夫なんですか」
 彼女はしゃがみ込んでミウを撫でた。ミウはごろりと仰向けに転がり、おなかを撫でるように催促していた。
阿吽(あうん)の呼吸だから」
 僕は九番ボールの周りをひし形で囲むようにして九つの球を置いていった。ビリヤードでもっともポピュラーなゲームであるナインボールだ。
「阿吽ですか」
「そう。ここの店主は阿吽を愛している。ちょっとした目配せや息遣いで感じ取れるものにこそ本当の意味がある。そう信じている」
 僕は彼のショットを眺めた。
 球はあらかじめ引かれた線の上を滑るように転がり、最適な角度と力で六番ボールを押し出した。緑色のボールは暗いコーナーポケットに沈んだ。ボールが落ちるまで店主は呼吸を止めていた。それがボールの息遣いを読み取るために必要な作業なのだろう。
 彼は僕に会釈をした。僕も会釈を返す。彼の会釈には技巧的なところが無く、人に自然と敬愛の念を抱かせるので、僕は礼儀正しく振る舞うことが気持ちよく感じるのだった。
 理奈の打ち方は初めてとは思えないほど安定していて綺麗だった。僕や店主のフォームをよく見ていた。指の曲げ方や目線の取り方、足の位置に至るまで気を配っているようで、パワーこそ無いもののしなやかなショットは次々とボールを落としていった。そこには何の問題も無いように思われた。表面的には。
「ビリヤードの才能が君にはあると思う」と僕は言った。黒い革張りソファに腰かけて、僕は買ったばかりのコーラを二本、木でできた小さな丸テーブルに置いた。左隣に彼女が座る。
「そんなことありませんよ」
 彼女は口角を上げて笑い、メガネを両手でかけなおした。
「でも思う時があるんです。もしお父さんがいて、もしどこかに遊びに行ってもらうとしたら、ビリヤードだっただろうなって」
「それはどうしてそう思うのかな」と僕は尋ねた。
 彼女は目を細めた。髪を触り、落ち着きを無くすと、僕は彼女が何かを言うか言わないかを迷っているのだと思った。彼女はコーラのビンに手を伸ばした。
「本当は見てはいけないことになっている部屋があって、それはお父さんの生前の物置部屋なんですけど、そこでお母さんとお父さんがビリヤードをしている写真を見つけたことがあったんです。それが小さい時に見たものなのに、ずっと心に引っ掛かっているんです」
 レコードの曲が入れ替わろうとしていた。店内は静まり返り、店主の台で球同士がぶつかる硬い音だけが響いた。僕はコーラを飲んだ。喉の奥で泡が弾ける。
「それは子供の頃に見たからだろうね。子供の頃に見たものは大抵神秘的に感じるものだから」
 僕はつい口調がきつくなってしまったことを後悔した。子供には子供の大切にしたい思い出があると知っていたのに、現在の自分の思想に当てはめて不必要だと判断してしまった。
 理奈の顔からうっすらと色が消えた。かすかに眉が寄り、唇の端に力がこもっている。
「忘れられないことってあるじゃないですか。上城さんには無いんですか」
 僕は答えに窮した。かつては確実にあった忘れられないものは、どこかに流れ消えてしまった。原風景やノスタルジーといった、その人をその人たらしめる記憶を僕は選択して切り捨てた。
「記憶はいいものばかりでは無いからね」
 そこで僕は席を立ち、ボールを並べ始めた。答えられない問いには答えない。いつの間にか身についてしまった習慣だ。
「そういうのってずるいと思います」
 彼女はメガネを置いて、キューを手に取った。ゲームを再開すると音楽が流れた。ミウは何かに追立てられるようにキャットタワーを素早く登って行った。
 結局六ゲームして僕らは三勝三敗の引き分けだった。途中から会話が無くなり、目配せと息遣いの勝負になった。
 店を出ると辺りはすっかり暗く、星がよく見えた。上弦の月には雲がかかっていて、その下を飛行機が緑色と赤色のライトを点滅させながら飛んでいった。
 車のエンジンをかけると、店の窓からミウがこちらを覗き込んでいた。理奈が手を振り、僕は目礼した。
「玲華さんのバーはこの近くだから」
 理奈がシートベルトを締めるのを待って、僕はアクセルペダルを踏んだ。
「疲れてないかい」
 大丈夫です、と彼女は言った。前髪をペタンと撫でて、姿勢を正すと何かを覚悟したように手を重ねて膝に置いた。

 玲華さんは薄くストライプの入ったタキシードを着て、ワイングラスをクロスで丁寧に拭いていた。
 サイドを短く刈り込んだ茶髪は活発な印象を、端整な顔立ちに覗き見える額は聡明な印象を、それぞれ与えていた。
 客層は四十代から六十代までの男女がほとんどで、同窓会や健康診断の話が笑い声とともに聞こえてくる。
 僕と理奈は客のいないカウンターに陣取り、僕はギムレット、理奈はピーチジュースを注文した。
「それで、翼君は理奈ちゃんにいじわるしなかったのかしら」と玲華さんは言った。
「そんなことしないよ。僕は可愛い子の味方だからね」
 僕はピスタチオの殻をゆっくりと開いた。女性の第六感ほど男を揺るがすものは無い。
「嘘ばっかりね」
 玲華さんはシェーカーを置いた。
「上城さんは優しくしてくれましたよ」
 理奈はカウンターの席に慣れないのか、もぞもぞと身体を揺らしていた。
「私、ビリヤードって初めてだったんですけど、こんなに楽しいとは思いませんでした。もっと早くすればよかったです」
 理奈の満足そうな顔をみて僕は安心した。少しでも気分転換になればと思ったが、目論見は成功したようだ。
 玲華さんは含みのある笑いをした。
「理奈ちゃんて、本当に可愛い子ね」
「やめてください。そんなことないです」
 理奈は顔を赤くしながら前髪を撫でた。
「玲華さんこそとっても綺麗でカッコよくて、素敵です」
 二人の褒め合いに頷きながら僕は静かにグラスを傾けていた。
 ウェイターがカットフルーツを持ってきて、注文していない、と僕が言うと、玲華さんは、サービスだから、と思わせぶりに微笑んだ。ウェイターの男の眉毛を訝しげに凝視するが、何の情報も読み取れないので、僕は諦めてひとくち大のメロンを口に放り込んだ。噛むと糖度の高い果汁があふれ、その香りの良さとあいまって五感を刺激する。
「こんなにおいしいパイナップル食べるの、生まれて初めてです」
 と、理奈は大げさに言った。玲華さんは慈しむように理奈を眺めた。勤務時間外ならきっと玲華さんは理奈の背中に腕をまわして、ひょっとしたらキスでもしてしまうと僕は思った。
「バーで働いているとね、いろんな人が来るのよ」
 玲華さんは語り掛けるように言った。
「この前ね、四十代ぐらいの渋めの男の人ととっても若い女子高生じゃないかと思うくらいの女の子が店に来てね、別れ話を始めたのよ」
 理奈は頷く。
「たぶん不倫じゃないかと思ったのだけど、お互い一言も喋らないのよ。そこだけ時間が止まったんじゃないかってくらいだったわ。男のほうはずっと煙草ふかして、それで最後にごめん、って興味無い感じで言って、女の子は立ち上がって、男の頬をパシン。ねえ翼君、どうして男の人ってこうもだらしないのかしら」
 理奈は僕と玲華さんを交互に見た。
 玲華さんの言いたいことは理解した。けれどあたかもそれが男子一般に言われることとして考えられていることには反論せざるを得なかった。
「よく言うことを言えば、不倫だろうが二股だろうがそんなことをするのは一部の男だけで僕はしないし、そもそもできないよ」
 決まり文句を口にした。玲華さんは顔を上げて、釣り目を細めた。
 理奈が口を開く。
「自分だけは違うってなんだか犯罪者みたいな考えですよね。でも誰もが自分は違うって思いたいんですよね」
「そうよね」
 一呼吸置いて、玲華さんは言う。
「それに、今そう思ってるからって、明日そうしない理由にはならないわよね」
 玲華さんは愉快そうだ。棚からワイングラスを取り出して、クロスで拭く作業を始めた。
 理奈がこういうことに口を出すのは意外だった。彼女は権威主義的で何かに対して反抗するようなタイプとは思っていなかった。あるいは不倫に関してはどこか思うことがあるのかもしれない。
「浮気をするのは女だってそうじゃないか。人間には肉欲があって、その限りでは理性は追いつかない」
「開き直らないでよ」
 玲華さんはさっと身をひるがえして、冷蔵庫からレモンを取り出す。
「私は思うんですけど、別の人を好きになったなら、それまでお付き合いしていた人とは別れればいいと思うんです。どうしてその人とも関係を続けようと思うんですか」
 僕はグラスに入った酒を飲み干した。すぐに玲華さんが次のグラスを手渡す。たまに玲華さんには未来が見えていて、現在を辿っているように感じる時があった。グラスにはジントニックが入っていた。
 浮気なんてしないしするつもりもない。それでもどうしてこの二人は僕に浮気する男のことを考えさせるのだろう。そして僕はどうしてその男のことを庇い立てるようなことを言っているのだろう。アルコールが回ってきたのだろうか。
「君の言うことは分かる。けれど事はそう簡単ではない。人がなぜ人を求めるのかといえば、完全になりたいという欲求のためだ。性欲とは男と女が一体となることで自分に欠けたものを満たして完全体に接近する試みだと言える。だから人は浮気するのかもしれない。例えば太陽のように明るいけれど深い考察は苦手な人、そして無口で冷淡だけどきらめきにも似た豊かな想像をする人、この二人と同時にコミットすることでより完全になろうとする。そうは思わないか」
 僕は自分の舌がなんだか自分のものじゃないような気がした。僕の舌にしてはいささか回りすぎているのだ。
 理奈は考え込むように腕を組んだ。玲華さんはまばたきをした。
「馬鹿なこと言わないで。好きだから付き合うんでしょ。それともあなたは完全になりたいからって嫌いな人と付き合うの?」
 僕はグラスを傾けて、自分の頭の中を点検した。周囲は相変わらず賑やかで朗らかな話し声や人の良さそうな笑い声で溢れていた。
「感情を言えば無責任と言われ、理屈を言えば愛が無いと言われる。断っておくけど、これは浮気する男の話で、僕の話ではないよ」
「そんなこと知ってるわよ。でもそれにしたって、そんな発想をする時点で同罪だわ」
 僕はピスタチオの殻を二つに割った。中の実が割れていてひどく食べ辛かった。
「それでも私はこの人だって思ったら、その人だけを思いたいです。馬鹿とか古いとか言われるかもしれませんけど、ずっと一緒にいられたらって思います」
 理奈は受け入れられるかどうか分からないけど、といった様子でこちらを窺っていた。
 僕は手についたピスタチオの皮を払った。
「それは嘘だ。そんなことはよくあるまやかしだよ。人間に一貫性なんて無い。それはフィクションだ。存在しないから存在したらいいねと言っていたはずが、いつからかそれこそが本当のことだと信じるようになる。そんなものを信じていたら人生を損なうし、もし損なっていないのだとしたら、信じてないんだ」
 僕はもう自分を制御することができなかった。あまり制御する気も起こらなかった。こんなことは初めてのことで自分がどうなってしまうのか見当もつかなかった。ただどこに行きつくのか興味があった。
 玲華さんは僕のそういった心の機微に察しが付いたのかもしれない。彼女は慌てて反論した。
「それでも一緒にいたいって理奈ちゃんは言っているんでしょ。どうしてそう理屈にこだわるのよ」
 彼女の言葉から、自分が無益な理屈を立てているどうしようもない男であると認識した。けれども意志とは関係無く言葉は溢れ、押止めることはできなかった。
「危険だからだよ。一人の人やひとつの物に固執することは妄執を生み、互いにとって不利益となることは目に見えているのだからね」
 理奈は声を絞り出すように言った。
「でも、そんなこと分からないじゃないですか。お互いにとって大切で大事に思いたい気持ちを妄執だなんて」
 彼女の声は僕の耳に音として届いてはいても、言葉として整理されないようだった。
「この考えに嫌悪感を抱く人はきっと信念とか正義とか一定不変の真実を持っている人だろう。僕に言わせればそれこそが嘘だ。フィクションだ。そんなものは無いのだ」
 理奈は涙を流した。口を固く結び、必死に目を開けて、こんなことで泣いてはいけないと自分に言い聞かせているように見えた。僕は胸がチクリと痛み、玲華さんの声を聞いた。
「今日のあなたはどうかしているわ。周りを見回してごらんなさい」
 僕はふと自分を取り戻した。活発な笑い声は無く、ひそひそと話す小さな声と、こちらを怪しむような瞳に出会った。
 玲華さんにとてつもない迷惑をかけたと感じた。そして目の前で涙を呑む女の子になんと声をかければよいか分からなかった。僕は彼女にハンカチを差し出した。
 彼女は静かに首を横にふり、自分のバッグからハンカチを取り出して、涙を拭いた。
「私は上城さんなら分かって貰えると思ったのに。こんな、ひどい、裏切りみたいな……」
 そう言って彼女は泣き崩れた。肩を震わせて、声を出さないように懸命に自分を抑えているようだった。玲華さんはカウンターから飛び出して、理奈の肩を抱き、店の外へと連れ出した。僕は一人取り残された。彼女たちを追うにしてもバツが悪く、ぬるくなったジントニックを喉に流し込んだ。注文書を確認してウェイターにカードを手渡した。ウェイターの男は何かを言いたそうにしていた。僕は機械的にありがとうと言って立ち去った。

 外に出ると雨が降っていた。しとしとと冷たい雨で量はそう多くない。しかしその雨を頭にかぶるとひどく濡れてしまったように感じた。
 バス停のベンチで身を寄せ合う二人を見つけた。玲華さんがこちらに来る。
「車のキーを出して。私が送っていくから」
 僕は無言でキーを手渡した。もう何も言うことは無い。僕にできる最善のことは沈黙することだ。ともすれば自分の口がまた勝手に回り出すかもしれない。
 理奈がこちらを見ていた。暗がりの中でもその瞳は僕のことをしっかりと捉えていた。そこには言葉では語りえない交信があるように感じた。そして僕はこれからも彼女の家庭教師として勉強を教えていくであろうことを悟った。
 暗がりと沈黙のなかで玲華さんは車のドアを開けた。バン、という音とともにエンジンがかかり、急発進してすぐに見えなくなった。
 僕はバス停のベンチに腰掛けて、しとしとと降る雨を飽きることなく眺めていた。
 しばらくすると先ほどのウェイターがやって来た。ウェイターは、あんたがどうして玲華さんと付き合っているのか分からない、といったようなことを話した。全くその通りだと思った。彼女は僕には勿体無い。ウェイターをよく見ると、スポーツをしているのか体格が良く、顔も爽やかで整っていた。女にモテそうだと思った。
 けれど玲華さんと付き合うことは無いだろう。彼女は健康を求めているわけではないのだ。この男に分かるだろうか。優越感を抱いていなければ自分を保つことのできない傲慢さと、本音を隠すために身につけた無関心さを。
 きっとそのうち彼女は僕に飽きるだろう、と僕は言った。まったくの出鱈目だったがその男を追い払うことはできた。
 ウェイターが行くと僕にすることは無くなった。明日の講義のことや演習のこと、友人に誘われている飲み会のことを思い出してはまるで遠い国で起きている事件のことのようにぼんやりと思案した。
 バス停の時刻表を見てすでに最終のバスが出てしまったことを知る。喉の渇きを覚えて自販機でミネラルウォーターを買った。
 そうしてまたベンチに腰掛けた。動く気にならなかった。理奈に言われたことを思い出した。裏切り。
 当然のことだが僕に裏切ろうとした意志はなかったし、裏切ったという実感もなかった。僕はただ何かひとつのものに傾倒する危険性を示唆しただけだ。誰も望んでいない不必要な行為だったとしても、そういうことをする人は必要なのだと僕は思う。だから僕は自分の正しいと思うことをした。それだけのことだった。
 そこまで考えて自分の行為を正当化している自分に嫌悪を覚えた。正義を否定した男が正義を語っている。こんなはっきりとした矛盾に気づかないとは。しかし、どうだろうか。この世にまったく正しいと思えるものが無いのだとしたら人は行動することができるのだろうか。
 車が戻って来た。僕は助手席に乗り込む。
「フォローはしといたから」
 彼女はこめかみに手を当てた。
「理奈ちゃん、言ってたわよ。何が上城さんの気に障ったのか分からないって」
 そうか、と僕は呟いた。ラジオをつけようとしてやめた。
「怒っていたわけじゃないけどね」
 車内の空気が重くのしかかる。
「怒っていたじゃない。正義がどうとかフィクションがどうとか」
 すまない、と僕は言った。
「あなたにもきっと考えがあるんでしょうけど、あんまり気持ちの良いものでは無かったわ」
 彼女はため息をついた。それはとても小さくてほとんど聞こえないほどだった。だがその小さなため息は僕の耳に絡みついた。僕の鼓動は早くなり、脈拍は上がり、背中には汗が噴き出した。
「理奈の父親はふいに消息不明になったそうだ。原因は不明。彼女が七歳の時に突然父親は消えてしまった。母親は父のことを忘れるように仕事に没頭した。そして彼女は家でひとりぼっち」
 僕は理奈にまつわる事情を説明した。玲華さんは無表情にしていながら、いくつか質問して話を聞いていた。

 理奈も消えてしまうのでは、と恐れた母親は家じゅうにビデオカメラを設置して、仕事場からでも理奈の姿を確認できるようにした。彼女は友達の家に遊びに行くこともできなかった。三〇分毎にメールの着信があり、とても気楽に遊べる状態ではなかったし、鳴り出す携帯を持っていると罪悪感を覚えたそうだ。友人を家に招き入れることもできなかった。カメラがなぜあるのか、説明の仕様がなかったから。
 そうして彼女は学校でも孤立していった。別にいじめられていたわけではない。ただ、誰もが彼女に無関心だった。
 彼女は中学一年の夏休みを境にして学校へ行かなくなった。彼女は行く必要が無いと言った。
 彼女の登校拒否を受けて、母親は動揺した。不幸中の幸いか、母親は独りで解決しようとしなかった。母親は精神科のカウンセリングを通して、夫の喪失や娘のことに立ち向かう準備をしていた。母親の主治医は僕が参加するゼミの教授の二つ先輩に当たる人だった。精神科を志す医学生で家庭教師をしている僕にお鉢が回ってきた。こういう事例は特別でほとんど無いことなのだが、理奈に精神疾患が見られないことや友人を持たなかった経歴を考慮して、なるべく年の近しい人間を接近させることにしたのだった。

「これは理奈ちゃんから聞いたことなの?」
 僕は首を横に振った。
「母親の証言と理奈をカウンセリングした心理士のカルテから知ったことだよ」
 玲華さんはバックミラーを覗き込んだ。
 愚劣ね、と彼女は言った。どこが愚劣なのだろうか。理奈に内緒で調べたことは、むしろ彼女を助けたいからだ。そこに嘘は無い。それに僕は彼女のことをただの研究対象だなんて思っていない。
「それでも僕は理奈を見ているよ。理奈の力になりたい。その上で何かしらの発見があれば、それを次に生かしたい」
 雨は静かに降り続いていた。小さな雨粒がフロントガラスの上を滑り、水滴とぶつかって流れていく。
 玲華さんは僕の顔をじっと見た。
「私にはね、あなたの考えなんて全然興味無いの。だけどあなたは一人の女の子を泣かせたのよ。申し訳ないと思わないの?」
 玲華さんが本気で怒っていることが分かった。きっとこう言えば、彼女はもっと怒る、そう思った。けれど言わずにはいられなかった。
「必要な涙だったさ」
 彼女は僕の頬を叩いた。
「あなたはきっとあの子の父親代わりになろうとしているんでしょうね」
「そんなことはない。僕はただの家庭教師だ」
 口の中が切れた。鉄の味がする。
「だったらあなたは個人的な感情を入れ込み過ぎているわ」
「そうかもしれない。けどそれは感情をぶつけ合う相手の居なかった理奈に必要なことだ」
 僕はまっすぐに玲華さんの瞳を見つめた。
「ねえ、あなた本当にあの子のことを見ているの?」
 玲華さんは悲しそうに眉を寄せて、顎を引いた。自分の手を押さえてさすっていた。
「見ているじゃないか。完璧ではないかもしれないが」
 僕は声を荒げていた。叩かれて頭の奥が熱くなり、感情的になった。
 ふと彼女はバックミラーを僕のほうに向けた。何が映っているのか分からなかった。理解しがたい光景だった。僕は視線を逸らそうとしたが逸らせなかった。息遣いと目配せなどはどこにも無く、暗がりと沈黙がその場を支配していた。バックミラーには口の端を歪めて笑う顔があった。
「これはどういうことですか?」と理奈は言った。


暗がりと沈黙のなかで

暗がりと沈黙のなかで

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-24

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