言語野
1
リズムは位相だ。
帯域の違うSin波やcos波を合成して。フーリエ変換で分解できる。可逆的な。振動の方程式。
それは運動の自然言語。僕を揺らす、波。波。高く低く、自励振動と併せて無限遠で定常する。
身体が揺れる。琴線が振れる。
リズム。リズム。リズムは音楽でもある。言葉でもある。音が。繰り返しを以って位相を為す。
繰り返しが意味を孕む。そのものでは無い、しかし何らかの意味を湛える。
表面張力に波紋が浮く。波紋。振れは弾む。それはバタフライ効果。
伝達する。伝播する。広がりを持って溜まる。足元へ沈殿する。足首に触れて澱む。
しかし、ふわふわと、かすかに震えている。ゆるくやわく。情動。
リズムは空間に寄せる。寄せては帰す。波、波動。位相は海へ繋がる。
海。紺碧の海。言葉の溜まる、意味の発散する、無限遠に近傍した。
そして僕は投擲する。身を。血潮の巡る身体を。身体。
指先から爪先まで感覚の通った。触れると感じる。暖かい身体、体温を海へ。海。解ける場所へ。
大きく両手を広げて、祈るように。揺れる、振れる、振動の海へ。
身につけた純白の服が。貫頭衣が。染まる。碧く染まる。あおく。
仰向けに落ちる。
沈みゆく刹那、空が見える。
無限の彼方。そこから、文字が降る。
碧面へ。僕の漂う紺碧へ。降る。降り注ぐ。無限の言論が。意味が。
重力に従って、やがて僕は沈む。
頭から。
逆さまになって。
紺碧の海へ。
呑まれる。意味が押し寄せる。揺れる。徐々に揺すぶられる。
振動に触れて、僕は意識する。僕を意識する。
意識。意識は滑って行く。認識の狭間を、皮膚の隅々を。輪郭を、僕を。空間を。
意識する、意識される。強く僕が。
海が押し寄せる、振動は僕を逃してはくれない。
鼻と口は繋がっている。
その先は気管へ、気管は肺へ。開け放たれた身体へ、固有振動のそれぞれが這い込んでくる。深呼吸する。振動は巡り、脳へ突き刺さる。
耳は脳に直結している。振動はやはり脳へ。巡る。突き抜けて。
揺れる。とても揺れる。挿入を繰り返して、揺さぶられる。とてもじゃないが目を開けて居られない。
瞼を落とす。暗闇。体が揺れている。脳も。身体の芯も。首の後ろが熱を持っている。耳が、指先が。揺れる。揺すぶられる。
連続した思考を保てない。奪われる。
着の身着のまま、まるごと僕は。言葉に。僕は、あまねく僕は。
そうして僕は、心音を手放すのだ。
2
柚子は生きた。最後のひとつ、寒空の下に生って。柚子は生きた。縫い目から食い込むような冷気の中を。飄々とゆく風に晒され、つとつとと懐に忍び入る雨にやられ。それでも歯を食いしばって息を繋ぐ。柚子は生きた。冬の終わりまで、自らの存在を掛けて。
春が来て、柚子は少年になる。青い果実だ、そのままは食べられなかった。雪溶けに紛れて地に降りて、代わりに柚子は少年になる。少年に。冷たく凝った泥濘に足をつけて。二本の脚で地を駆って。遠く走ってゆく。はあはあと弾む鼓動はもう聞こえない。それはもう、とうの昔に故郷へ追いやってきた。
少年は駆ける。
今度は自らに使命を科して。ロマンチシズムに名を連ねて。少年は。壇上に上がる。機械仕掛の彼は。装置として。よく陽を浴びて、健やかに滋養を取り。産土に恵まれ。柚子は健やかに育ってきた。柚子は。柚子はその為に生まれた。
少年はそれを知らない。少年はただ駆ける。自らの使命の為に。
君よ。君よ。名もなき君よ。雪溶けに乗じて、山を下る君よ。その先は人の街だ、不浄の土地だ。君よ。息が苦しいんじゃないかい。胸が痛いんじゃないかい。君よ、穢れを知らぬ、冬の日を生きた君よ。
少年の脚は細かな傷でボロボロだ。しかし彼の脚は止まらない。
3
夜更けに水が満ちる。肺の奥揺蕩って、吸われてはその冷たさに酔う。唇から零れたネオン掠め、星屑を下降する。深い暗がりへザブザブと水を掻いて、少年は旅をする。
あわいに紅が踊る。家々の窓に珊瑚が灯り、メルカトルに導かれて陰がうつろう。物言わぬ街は民を感知せず、枯凋に忙しい。泥濘に墜ちた星屑は、文字の形をしていた。
まず都市が失われ、つぎに文字が潰えた。意味のそれぞれが慣性に従い、着地する道すがら腐ってゆく。崩落する塩基配列が降り積もる街で、それを汽車から伸びる蒸気が煽っていた。冷気に寄せては返す粘性の戯れに、白亜の星々がたなびく。
汽車。鋼鉄製の。水を切って進む。ぬばたまの黒い車体が裂傷に切り込んでくる。明朝体が光る。イタリックとローマンの奔流に寄り添って、清流がコンコースに満ちる。
列車は到来し、物理法則のそれぞれが躍動し始める。湖は言葉で満ちていた。誰にも映されなかった言葉が集積し、流れ着き、群れ、淀んでいた。まにまに意味はない。まにまに物語はない。それが、一斉に揺れ始める。最後に躍動を刻まんと、深く息を吸った。
少年が走る。瑞々しい光を踏み分けて、スペクトルを作る。泥濘は道に。星屑は意味に。白亜は白金<プラチナ>に。生まれたばかりの意味を指先で蹴って、少年は走る。
スターラに嚮導され湖底がふらつく。潮はうつり、渦は伸び、緒は糸に。軌跡が意味になり、物語が編まれ、言葉が繋がる。
ハタハタと織られては、連なって脱落してゆく。コンテクストが群れをなし、散るための様相をまとう。無象はもう一度君に会うために仔犬になる。まっしろい仔犬。むくげの白い仔犬。仔犬は散るために走る。
湖底は刺すように冷たい。そこで身体はつくられ、群れ、震える。躍動に血が巡り、身体が熱を持つ。
汽笛が吠えた。これは始まりの警笛だ。
寝台特急に乗って、言葉は旅に出る。湖面をくぐり、マルドゥクを横切って。君の場になるために。少年の犬は、犬たちは目指す。
言語野