君といた七日間

「透過病」。それは、感染経路も治療法も全く分からない未知の病。星状斑は一日一つづつ患者の体に出現し、八つになると患者自身が消えてしまう。
そんな病気が突然現れてから二か月。俺たちは一大イベントだった吹奏楽コンクールを終え、目先に控えた引退と進路に向けた勉強をする毎日。俺はこの日常に突然終わりが来ることを知らずに、ただ日々を浪費していた。

八月五日

『次のニュースです。今年六月に初めて発病が確認された、透化病(とうかびょう)での死者が全世界で二百万人を越えました。WHO、世界保健機構は非常事態宣言を出し、この病の治療法確立を……』
 夏休みは高校三年にもなれば、あってないようなものだ。暑さしのぎと集中して受験勉強をする為に、今日も学校へ行く。毎日ワイシャツにネクタイは息苦しいが、私服をほとんど持っていないから、近くの図書館に行って勉強するよりはいい。
「やあねえ。星状斑(せいじょうはん)なんて見つかっちゃったら」
「星状斑?」
「あれが八つになったら透明になって消えちゃうみたいだよ? 怖いねえ」
「へえ」
 母さんはコーヒーをすすりながら、テレビを食い入るように見ている。珍しく長い特集でも流されているのかと思い、再び目線をテレビに戻す。しかし、俺がパンにかじりついている間に透化病の報道は終わったらしい。芸能人が無駄に大きなダイヤモンドのついた結婚指輪を見せびらかしている映像が流されていた。
 透化病。この国で初めて発見され、ぽつりぽつりと各国で現れた謎の病気だ。発病したら星状斑が一日一つ増え、八つに達したところで患者の存在が消えてしまう。感染経路も治療法も全く不明な上、うちの県立王仁塚(わにづか)高校にも数人出たらしく、笑えない状況になっている。しかし進展がないせいか、最近は報道機関が特集を組むようなことはなくなっている。
「じゃあ、学校、いってくるわ」
「いってらっしゃーい」
 ピンポーン。
 インターホンが鳴った。誰だ。朝っぱらから。俺は、勉強道具でぱんぱんになったスポーツバッグを背負ったまま家のドアを開ける。すると、目の前には幼なじみの加賀爪(かがづめ)かすみがいた。トレードマークのぱっつん前髪とロングボブ。背は目立って低い。その上あまりにもマイペースの為、よく小学生に間違われる。しかし、誰よりも賢い上に勉強ばかりしている為、彼女が定期テストの学年一位を誰かに譲ったところを見たことがない。
「はるくーん! 一緒に学校行こうよ!」
 清水(しみず)晴信(はるのぶ)だから、はるくん。小さい頃から一緒だった彼女だけが俺をそう呼ぶ。かすみは昔からモテたから、かすみが俺をそう呼ぶ度に男の視線が痛い。少し前にフラれた彼女も付き合っていた頃からこの呼び名を聞くと、俺を睨んでいたことを思い出す。最近は学校の図書館で一人で黙々と勉強しているから、そういうことはないのだが。
「なんだよ、急に。お前、勉強は家派とか言ってなかったっけ?」
「気分が変わったんだもん! 学校でレッツ勉強!」
「レッツって」
「トゥギャザーだよー! 命令文だよー!」
「いや、分かるけど」
「じゃあ、はるくん、行こうよー!」
「ちょっと待て! 腕を引っ張るな!」



 図書館。カリカリと音が響く。彼女は数学。俺は日本史の問題集を広げて、問題をノートにこなしていく。分からないものがあれば、用語集をめくってはノートに書いて埋めていった。かすみも俺も周りの視線を気にせず、目の前にいる存在に対して話しかけることもなく、時間が過ぎていく。
 突然かすみの腹が鳴った。腕時計を見ると、ちょうど一時をまわった頃だった。もう一度問題集を見ようとするが、集中力が切れてしまうと、なぜか文字が暗号のように見えてしまう。立ち上がって伸びてみる。背中がばきばき鳴った。
「はるくん、どうしたの?」
「集中力切れた。お腹も空いたし、食堂で飯食ってくる」
「えー、一緒に食べようよ!」
「あー、うん」
 三階の端にある図書館から一階の渡り廊下を越えたところにある食堂までは、端から端までの移動。どうして面倒な造りにしたのだろう。隣には幼なじみ。なぜか俺の腕をぎゅっと握っている。周りからの視線が痛い。
「かすみ」
「なにー?」
「お前の好みそうな奴が目の前にいるぞ?」
 そして、視線がおそらく一番熱烈な奴。同じクラスになったことないから名前は忘れた。ファンクラブができるようなイケメンリア充だ。確か、甘いルックスと優しい性格が女子としてはきゅんとする。と誰かが言っていた気がする。
「えー。あれはイケメンだけど、メガネじゃないし、管楽器できないじゃん」
「そこ、重要?」
「一番の重要事項だよー!」
 あえなく玉砕させてしまった、イケメン。俺への視線がさらに強くなる。別に俺はただの幼なじみ。猫みたいな奴だから、意外と近寄るのは簡単なのに。
「お前、実は百人斬り達成してるんじゃないの? 難攻不落だなんて噂になってるし」
「ええ。お断りしたの十人ぐらいだよ?」
 本当。この年齢不相応な子どものどこにモテ要素はどこにあるのだろう。
 「食堂だよ! 何頼もうかなあ?」
 気がついたら目の前は食堂だった。扉を開けて入ると、目の前で食券が売っている。この時期は三年生しかいないということもあり、券売機の前で並ぶことはない。
「はるくん。どうするー?」
「海老ピラフ」
「なんか、優等生っぽいねー? 私もそれにしよう!」
 券売機で食券を買う。そして、カウンターにいるおばちゃんに渡した。海老ピラフがおぼんに二つ乗る。え。二つ。
「あらあ、やっと付き合えたの? かすみちゃん」
「そうだよー! おばさん!」
「へ?」
 思わずすっとんきょうな声が出てしまった。俺と、この猫が? いやいや。いつからそういう事になったのだろう。俺から告白したつもりは全くないし、彼女に告白された覚えもない。
「いいから、はるくん、運んでって!」
「あ、うん」
 机の上に海老ピラフを置くと、俺はとりあえず、自分の皿を目の前に置いた。そして海老ピラフをスプーンで口の中に入れる。というよりはかきこんでいた。
「はるくん、びっくりしたー?」
「いや、びっくりも何も、お、幼なじみとしてしか今までかすみを見てこなかったから……!」
「まあ、冗談だよ! はるくん、焦ってたから可愛かったなあ」
 にやにや笑う猫。いや、悪魔。小さい頃はかすみの嘘はすぐに俺でさえ分かったというのに、今のはどうしても嘘っぽく聞こえなかった。俺が単純になってしまったのか。それとも、かすみが大人になったのか。
「かすみが嘘をつけるようになるなんてなあ」
「あー、はるくん! ひどい!」
 分かりやすくて、子どもっぽくて、愛らしい。と思われているのもこういう面だけを見ていれば頷ける。しかし、年々この猫女が何を考えているのか分からなくなっていく気がする。
「はるくん!」
「何だ?」
「ハニーボーンぶつけたあ」
 痛いよお。と涙目になるかすみ。ああ、これが男子受けも女子受けもいい理由か。俺としてはもう少し大人になって欲しいのだが。
「これだから最近の小学生は……」
「こ、高校生だよ! これでも!」



 自称高校生の小学生は、夜になっても俺にまとわりついている。家が隣同士だから仕方ないのだが、最近はこういうことがなかったので不思議な感覚だ。
「はるくん。大学どうするのー?」
「史学。かすみは?」
「私は、教育学部!」
「え、先生になるの!?」
「うん! 小学校の先生になれたらいいなあって!」
「しょ、小学生が小学生教えるの?」
「学年一位のこの私に数学教えてもらってたのって誰?」
「……俺です」
 かすみはにこりと笑って俺の顔をじっと見つめる。やはり小さい。小学生のようだ。
「そんじゃ! また明日ねー!」
「あ、うん」
 かすみは手を降って俺ん家の隣の家に入っていく。また明日。その言葉につっこみたくなったが、あえて気にしないことにした。さて、家でお風呂に入ってご飯を食べたらもう一踏ん張り。高い目標の為だ。今のうちにたくさん勉強しておかねば。

八月六日

 朝からなんだ。吹奏楽部の部長だった三枝(さえぐさ)美桜(みお)から、俺たちの学年全員に連絡がきていた。
『また会える日までの楽譜を入手した。今日の昼、第一音楽室に楽器を持って集合!』
 便利なグループトークを搭載したSNSの画面には、この言葉とそれぞれ思い思いスタンプがいくつか押されている。俺もとりあえず、OKと横にかかれたパンダのスタンプを押した。
 階段を降りて一階のリビングに行く。キッチンではウインナーを焼いているのだろう。油っこい匂いがする。
「あら、パジャマなんて珍しい」
「今日はうちで勉強する」
「そう。じゃあ、うちの鍵よろしくね。お母さんもお父さんも今日は遅いから」
「はーい」
 部屋から持ってきた、生物の問題集を広げる。ハエの遺伝子の問題。隣にいる妹がぽろっとキモいと言った。俺が朝から勉強しているからキモいのか、問題集に書かれた図がキモいのか分からないが。
「こら! 奈津(なつ)!」
 中学三年生。吹奏楽部でホルンを吹く彼女のイライラが収まることを知らない。特に、県大会を抜けて支部大会にとなると練習が熾烈化するようで、ここ数日、笑いもしない。
「だって! お兄ちゃんの生物の写真! ほんっと気持ち悪いんだもん!」
「ああ、黄色ショウジョウバエの話だからだろう?」
「ハエなの! きったなー! てかさ、なんでここで勉強してんの?」
「暇だから」



「暑いよー。学校、遠いよお」
 隣にいるのは、ユーフォニアムを背負っている加賀爪(かがづめ)かすみ。精神年齢七歳。上半身より大きな楽器を持って汗をだらだらかいている。何度も何度も持とうかと聞くが、私の楽器に触れるなと言われる。
「ていうか! はるくん楽器は?」
「楽器庫で大会以来、眠ってる」
「ええ! 可哀想だよ、リズがさあ!」
 エリザベスが俺のテナーサックスの名前だ。これをつけたのがかすみ。イギリスの女王、エリザベス二世にちなんでつけられた。ちなみに、リズはエリザベスの略称だ。おれがウィリアムという名前を彼女の楽器に勝手につけた仕返しらしい。俺の楽器、製造番号が奇数だから男なのだが。
「勉強しないと大学受からないからな」
「はるくん、学年一桁のくせに!」
「一位が何を言う」
「あららあ、ラブラブねえ」
 目の前にいるのは顧問の保坂(ほさか)ゆかり先生。学校が目の前にあるからか。隣には三枝がいる。黒渕眼鏡のおさげ、くそ真面目。クラリネット専攻で音大に行くらしい。
「え。この七歳児と? 俺、幼女趣味はないですけど」
「ひどい! これでも十八だよ! 食べ頃だよ!」
「た、食べ頃なんては、破廉恥な!」
 意味を分かっているのか分かっていないのか、爆弾を平然と置く十八歳児かすみ。何を妄想しているのか真っ赤に顔を染める三枝。にやついてるのか微笑んでいるのか、よくわからない保坂先生。
 保坂先生は白衣に眼鏡で長身だから美しく見える。同じような黒渕眼鏡を俺もしているのに、どうしてこうもつける人によって印象が変わるのだろう。保坂先生が理知的に見えるのだから、俺だってもう少し頭良さそうに見えてもいいはずだ。やはり、いつだか流行ったリケジョというものは、こんなにもまばゆく見えるものなのだろうか。
「ほら、早く楽器を出して音だししなさい! 十日には後輩の前でお礼演奏でしょ?」
「え、十日? 十八日だったはずじゃ?」
清水(しみず)、見てないの? 連絡。さっき、十日に変更にしたよって連絡したんだけど」
 三枝にそう言われて、慌ててスマートフォンを鞄から出してSNSの画面を見てみる。すると、十日に後輩の前で吹くことになったと三十分ぐらい前に連絡がきていた。
「なんでまた」
「十八日、私が出張なんだよね。吹奏楽指導者の講習会。だから、指揮振れなくてこの日にしたの」
「随分前になりましたね」
「まあね。ほら、練習する! 二日の大会以来吹いてないんでしょ? 後輩たちに示しがつかないわよ」



 久しぶりに触る楽器はまだ俺のことを覚えていてくれたらしい。やはり県大会の頃に比べたら全然いい音は鳴らなくなったが、吹き込んだ息が素直に音へ変わって響く。県大会が終わったのが八月二日。ダメ金といい、金賞なのに支部大会へ進めなかったことで泣いた日がたったの四日前だ。吹いていないのは三日間。それほど酷くなるようなことはないのだ。けれど、ほんの少し前まで支部大会を夢見ていた俺が遥か遠い昔のように感じる。
 ロングトーンをして、スケールをして。教本を吹いて。いつもの基礎練習メニューより少しだけ丁寧に吹いてみる。気がついたら合奏十五分前。曲はそれほど大変ではないから、コンクールの課題曲を吹いてみる。すると、隣にいたかすみが重なってきた。そして気がついたら俺の近くにみんながいて、合奏になっていた。先生も指揮を振っている。かすみと二人で吹くメロディは互いを見てブレスから息のスピードからぴたりと合わせて。
 課題曲が終わっても先生の指揮は止まらない。自由曲だった「中国の不思議な役人」。後輩がいないから人があまりいなくて薄っぺらくなってしまうが、楽しければ今はなんだっていい。指も上手くまわらなくなってしまった。息もなんだかもちにくい。ちょっと前までみんながぴたりと噛み合っていたものもほんの少しあいただけでばらんばらんになってしまっている。それでも音は明るかった。もしかしたら県大会のときよりもずっと明るいかもしれない。
「はい。合奏時間。音楽室に入って」
 先生の声で俺たちは音楽室に入っていく。クーラーの効いた部屋はむわっとした暑さと壁を作っているらしい。少し寒く感じる。ここでもう冷や汗をかくこともないのだろうなと思うと何だか少し寂しい。定位置であるアルトサックスとバリトンサックスの間は俺たちの学年しかいないせいか、距離があるように感じた。かすみも普段はもっと近くのはずなのだが、振り替えってもかすみとにやにや笑いあえる位置にはいない。
「相変わらず少ない学年だねえ。クラリネットが2本いる以外みんな一人。パーカッションも一人だもんね。コントラバスとバスクラリネットにいたってはいないし」
 入部当初は倍ぐらいいたはずなのだが、なんちゃって進学校で部活をがちがちにやるものだから気がついたら一人、また一人と退部していった。奇跡的に誰も辞めなかったのはサックス族だけだ。ユーフォニアムもかすみ以外にもう一人いたのだが、二年に上がった時に気がついたらいなくなっていた。かすみとその子は仲が良かったから、その子が辞めた時にかすみが泣いたのを慰めた覚えがある。
「さて、合わせるよ。お休みある人、歌ってね」
 ワン、トゥー。先生が掛け声をかけると、楽譜をなぞるように音を出す。譜読みをすっかり忘れていた。簡単な曲だからなんとかなっている気がするが、先生から視線を感じる。やがて、先生の指揮が止まった。
「譜読みしてないのばればれな演奏だね、みんな。音符なぞってるのは音楽じゃなくて、音を出してるだけだってコンクール前まで散々言ってきたはずだけど?」
 全く表情を変えないで淡々とものを言う先生。少しは優しく指導してくれるかと思ったら違ったらしい。クーラーがきいているはずだが、背中からだらだらと汗が流れ出る。
「はい。頭から。パーカッションのリズムがきちんとはまってるから、管のリズム体はパーカッション意識して吹いて。あと、サックス族。メロディで暴走しないように」
「はい」
 先生の指揮棒が上がる。俺たちはまた楽器をかまえた。


 合奏終わったところで望月(もちづき)マリアに抱きつかれた。ハーフで中学一年までサンフランシスコにいた彼女にとってはこれがあいさつの一種だ。しかし、この三年間慣れることはなかった。さらには、かすみには男子ってこういう時にエロいこと考えるのと訊かれ、バレー部だった前の彼女に見られる度に問いただされたものだ。ただ言えることは、マリアは完全に女友達と同じ扱いを俺にもしている。
「久々抱きついたけど、いろいろないよね、ノブハル」
「いや、晴信(はるのぶ)だし。乳があるのは馬鹿の証拠だろ?」
「それってノブハル、おっぱいあることへの妬み? きっとブラジャーつければいいよ」
「いや、つける必要性。そんなとこに脂肪くっつけたくないし」
「あそっか。骨と皮しかいらないもんね」
「うるせえ」
 アルトサックス吹きとしては、この部きっての名プレイヤーだったマリア。パワフルで音が太く、ソロの歌い方にもセンスがあった。キャラクターも相まってサックス族の中心にマリアはずっといた。
「あ。ノブハル! マリアと抱きつくとかまじいいなあ! ノブハルが抱きつけるんだったら、知里(ちり)はおっぱいもみたいわー」
 バリトンサックス担当の中込(なかごみ)知里。かすみと同じぐらいの身長で、ぽっちゃり体型で八重歯とえくぼがトレードマークの愛くるしい見た目をしている。しかし、本当に見かけ倒しといわんばかりの性格のせいで、彼氏ができない。
「最悪な発言をどうもりっちー」
「ノブハルに言われると傷つくな」
「私、りっちーのほっぺたふにふにしたいなあ!」
「まじで! じゃあ、ふにふにしよー!」
「お前ら公衆の面前でやめろ!」
「チッ」
「舌打ちするなりっちー!」
 いつものサックス族だ。普段は本当に呆れていたのに、数日離れただけで少しだけ懐かしく感じる。自由でオープンなマリア。変態発言大好きな知里ことりっちー。そして、俺。よく集まって三人で練習していたが、大学は全然違うところを希望しているから、も う少しでこうやって集まることもなくなるのかと思うと少し寂しい。
「そうそう。八日と十日の引退式の後は暇?」
 マリアの言葉にりっちーと俺が頷く。
「八日はパートの後輩にプレゼント買いにいこうよ! で、十日はサックス族でご飯会しようよ!」
「めっちゃいいじゃん! 知里は賛成!」
「俺も賛成」
「じゃ決定! 十日のことは後輩にも連絡するね!」



 夕方。歩いていたらかすみに後ろから抱きつかれた。というより、背中に飛び乗られた。横にいたのは、トロンボーンの大久保(おおくぼ)敏正(としまさ)。俺以外の同級生で唯一生き残った吹奏楽部男子だ。
「あ! としぽん!」
「かすみんじゃん! 今日は負けなかった自信あるな!」
「ふっ。またまたあ。私のユーフォの音量に勝てるわけないじゃん!」
 合奏中、あまりにも大きな音で張り合う二人のせいで保坂先生がずけずけ指摘をし、無駄な時間を作った二人。音が喧嘩するわ、好きに歌うから縦がばらんばらんだわで大変なことになっていた。
「お前ら、コンクールの時みたいに普通に吹けよ! 合わせようと思ったらぴたっと合うだろうか」
「まあまあ、ね。ノブハルちゃん」
「その呼び方をやめろ! としぽん! それと、かすみ!」
 ふにゃ。と猫みたいな声をあげるかすみ。見た目も中身も子どもだが、やはり年齢は女子高生だ。背中にのしかかられたままだと重い。
「降りろ」
「やだ」
 子どもみたいにだだをこねるのではなく、かすみはただこういい放った。いつもならばこうは言わないのだが。困った。さすがにおんぶは疲れる。
「だって、マリアはいっつも抱きついてるじゃん。だから私はおんぶ!」
「いや、重いし」
「いいなあ。ノブハル。俺だったらかすみんみたいな美少女、ずっとおぶってられるわー。そのまんまお持ち帰りしちゃいたい」
「うわあ。としぽん最悪ぅ」
「んじゃ、俺、かすみこのまんまお持ち帰りするわ。今日は夜まで誰も帰ってこないし」
 きゃーこまるー! さすがにかすみはそう言って降りると思っていた。俺だって男だ。そういう願望がないわけではない。まあ、かすみをそういう目で見たことないし、見たいとも思わないが。
「別にいいよー。はるくんなら」
 一瞬、体がびくんとなった。まさか、この猫みたいな美人が本心でこんなことを言う訳がない。ましてや幼なじみだ。恋愛感情があるわけないだろう。
「ああ。眠いなあ」
 それから数秒後、すうすうと寝息が聞こえてきた。かすみからかかってくる体重が増す。
「なあ」
「なんだよ」 
「ほんっといいよな、ノブハル」
「何が」
「こんな可愛い幼なじみがいて」
「どこが」
「知ってるだろ、俺がかすみんに告ってフラれたの」
 そうだ。今から一年も前。としぽんがかすみに見事にフラれたと言っていた。誰だよ、好きな奴って。と何度も言い、ファーストフード店で泣きながら山盛りのポテトを食べ続け、挙げ句の果てにはトイレで中身を全部出すという迷惑行為をしていた。
「好きな人いるからって言われたんだ。それさ、しかも嘘じゃないみたいで、かすみに告白した奴はみんな好きな人いるからってフラれてるんだってさ」
「ああ、かすみの好きな人だろう? メガネで背が少し高くて管楽器できる人だってさ」
「それさ、」
 としぽんは一瞬話すのをためらったかと思うと、やっぱなんでもないと言って苦笑いした。そして、じゃあなと言うと、としぽんは十字路を右に曲がっていった。
「かすみ」
 自分の体を揺すってみるがかすみは起きない。仕方がないのでかすみの家に寄ってから帰ることにした。

八月七日

 練習終わり。俺はかすみに捕まった。
「はるくーん! ちょっとつきあってよ!」
「何にだよ」
「どうしても行きたいケーキ屋さんがあるんだ!」
笑顔で少し前を歩くかすみ。だらだら歩く俺。綺麗な夕日。山際に沈んでいく日はオレンジ色に空を染めている。このちょっと町っぽく見えるだけの王仁塚(わにづか)にそんなものがあるとは意外だ。
 「じゃじゃーん!」
加賀爪(かがづめ)洋菓子店と看板に書かれている。よく見ても見なくても分かる。ここは、かすみの両親が働いているお菓子屋さんだ。あまりに美味しいので、小さい頃はお祝い事がある度にケーキが食べれるとわくわくしたものだ。
「かすみん家じゃねえかよ」
「ふふふふふ」
かすみがにやにやと笑う。な、なんだよ。思わずかすみに向かってそう言ってしまった。
「店、少しだけ改装したんだよねえ。きっとはるくん、びっくりすると思うよー」



 驚いた。今日、俺のためにとっておいてもらったショートケーキとミルクティが目の前に並んでいる。そして、その先にはかすみがいて、チーズケーキを食べている。
「イートイン。いいでしょ!」
「うん。居心地いいな、ここの店」
店内で流れている吹奏楽曲たち。これ以上美味しいものはないと断言できそうなぐらい好きなケーキ。そして、一杯だけなら紅茶かコーヒーが無料というありがたいサービス。さらに店が混みそうだ。
「相変わらず美味しいよな。俺、死ぬ前の最後に何を食べたいか訊かれたら、絶対ここのショートケーキがいいな」
 かすみが俯いた。右手に持ったフォークはぷるぷると震えている。
「はるくん」
と突然、ドンッと机をかすみが叩いた。俺のフォークに乗っかっているケーキが、お皿の上に落ちる。まずい。何か変なことを言ったのだろうか。
「さいっこー!」
 ぽたぽたと涙を流すかすみ。顔をくしゃくしゃにさせてにこにこ笑っている。周りには他にもお客さんがいて、かすみのことをちらちらと見ている。
「はるくん! ほんとすごいよ、それ! ああ! ほんっと嬉しいな。加賀爪洋菓子店の娘としてお礼申し上げます!」
「はあ?」
「いいから、お礼させてって! あ、おかあさん! 新作ケーキあるんでしょ? それ、はるくんに出してよ!」
ちらりとショウケースの奥を見ると、かすみのお母さんが苦笑いしていた。はいはい、と言って店の奥へと入っていく。
 「そういえばさ」
「何?」
 かすみが顔を拭きながら首をかしげる。
隆坊(りゅうぼう)、元気か? 最近見ないけど」
加賀爪隆之介(りゅうのすけ)。 高校一年生でかすみの弟だ。昔から俺よりずっと奈津(なつ)と仲良しで、この二人は付き合ってるのではないかと思うぐらいだ。高校に進学してもよくうちに来ては奈津といた。しかし、最近見ない。
「りゅーちゃん? あ、最近、なっちゃんと二人で遊びに行ったり、部屋に二人でこもったりしてるよ」
「なあ、そういう関係だよな」
「たぶん! ああ、私も早くバージン卒業したいな!」
「馬鹿! 大声でそんなこと言うなよ!」
 たぶん、ではなく確定的だ。なるほど。奈津も大人になったのだろう。三つも違うと子どもにしか見えないと思っていたが、どうやら俺が思っているよりは大人らしい。
「だってさあ。好きな人と結ばれるって本当に幸せじゃない?」
「夢見すぎだろ」
「そうかな? 確かに子ども産んで育ててって今の自分にはなかなかできないけど、それでも、体の中に好きな人の遺伝子がいっぱいあったら幸せだなあと思うの」
まともに難しいことを言おうとしているのかもしれないが、これは一般的に言う性衝動だ。近くに座っているおばさんがくすくす笑っている。少しして俺と目が合うとばつが悪いと思ったのか俯いた。
 「お待たせしました。ジャスミンのシフォンケーキです」
そう言って、かすみのお母さんは俺とかすみの目の前にケーキを置いた。ふわふわしていそうなシフォンケーキには薄く生クリームが塗られていて、周りにはカスミソウが飾られている。
「ふふん! 美味しそうでしょ!」
「なんで作ってもいないかすみが自慢気なんだよ」
「はるくんと違ってここの家の娘だからだよお!」
「意味分からないし」
「まあまあ。とにかく食べてよ。ほんっとに美味しいんだから!」
 言われるがままに、口の中に含んでみる。花の香りが鼻を抜けていく。食感もふわふわしているが、わりと弾力がある。やはり加賀爪洋菓子店だ。言葉が出ない。
「どうどう? あまりの美味しさにはるくん黙っちゃうよねえ。私もそうだったもん!」
「え、かすみが?」
「はるくん! ひどいな!」
「ところでさ」
「なんで、飾りがカスミソウなんだろうな。ジャスミンのシフォンケーキなのにさ」
かすみがううん。と唸る。 首をかしげながら上を見ている。どうやら真剣に考えているらしい。それほど重要なことだとは思わないのだが。
「ううん。きっとうちの親が親バカなんだよ! 私の名前、かすみじゃん!」
よく分からない。



 ケーキを食べ終えた後、かすみの部屋で勉強することになった。
 店を出て、外階段を上がるとかすみん家の玄関がある。そこに入ると隆坊と奈津がいた。一緒にテレビを見ていたらしい。
「おう、隆坊。奈津とはどうだ?」
「ラブラブだよ」
「ええ。りゅーちゃんなんで抜け駆けしたの?」
「いや、だっだって告白されたんだし」
奈津が顔を赤らめる。しばらくしてこの馬鹿兄貴と、奈津に背中を叩かれた。なぜだ。
 テレビを見ているとまた透化病(とうかびょう)のニュースが流れていた。どうやら写っている人は透過病の患者らしい。首から下が写されているのだが、身体中に管が張り巡らされていた。よく見ると腕には六つの星形の痣が並んでいる。息苦しそうだが、少しでも現状を伝えたいという思いがあるらしく必死に話していた。この病は空気感染や体液での感染ではない、と。
 「ねえ、はるくん、行こうよ」
ふいにかすみが腕を引っ張った。これは特集記事らしく、まだ透化病についての小難しそうな話が流されている。もう少し見たいとかすみに言うがそれでもかすみは俺の腕を引っ張る。
「もう、はるくん! 私たち受験生なんだからね! 時間もったいないよ!」
「わ、分かったよ」
 引っ張られるままに俺はかすみの部屋へと吸い込まれた。そして勉強道具を広げる。目の前ではかすみが物理の問題集を広げている。俺は英語の問題集とノートを広げた。シャーペンの音だけがかすみの部屋の中に響く。
 しばらくして伸びをしたら三時間も経っていた。しばらくぶりに目線の中に入ったかすみは、目の前ですやすやと眠っていた。
「かすみ」
名前を大きな声で呼んで、体をゆさぶってもかすみは呻き声も上げない。仕方がないので抱き上げてベッドの上に寝かせる。ふわりと少しだけ舞い上がった服の袖の中から痣が見えた。かすみのことだ。何かにぶつけたのだろう。本当に抜けている。

八月八日

 知らない女に頬を打たれた。
 町の真ん中でマリアがハグしたからだ。その前にりっちーにマリアがハグしたのを見ていなかったのか。
「ふうがどんな思いであんたと別れたか分かんないわけ? 一ヶ月も経ってないのに女の子といちゃついてるとか最低!」
 また打たれる。後ろで困った顔をしているのは、相原(あいはら)楓果(ふうか)。一ヶ月前、俺に突然別れを告げた元彼女だ。
「もういいから。行こうよ」
「は? こんな最低男ほっといていいわけ?」
「もう、いいから!」
 女は楓果に腕を引っ張られそのまま人混みの中へと消えていった。
 同じ高校だから楓果に会うことがないとは思わなかった。ただ、このタイミングで会うとは全く思わなかった。ここは、桜府(おうふ)駅前。高校のある王仁塚(わにづか)から電車で二十分程。電車の運賃も馬鹿にならないので、高校生の俺たちがそんなに出歩こうとは思わない場所だ。
 まさか、ここで顔を付き合わすとも思っていなかった上にマリアのハグのせいで二度も知らない女に打たれるとは思ってもみなかった。おそらく楓果と一緒にいた知らない女はバレー部だろう。頬がジンジンする。
 「大丈夫? ノブハル」
マリアが心配そうに顔を覗きこんでくるが、この災難の発端はどう考えてもマリアだ。
「大丈夫でしょ。ノブハルだし」
「いや、りっちーみたいに女の子に打たれたい願望はないからかなり痛い」
「うっわ。さすがに知里(ちり)にもそんな願望はないなー」
「それより、早く行かないと二人とも! 今日も夕方から練習だよ!」
「そうだね、マリア。ほら、ノブハル! 余計なことしてないでいこーよ」
「そ、そうだな」
なぜ俺はりっちーに言われているのだろう。そもそも元凶であるマリアがなぜ澄まし顔で先頭を歩いているのだろう。意味が分からない。



 後輩たち五人にプレゼントを買い終わった後、全国チェーンのカフェに入った。無駄に長いカタカナが並んでいるが、コーヒーが苦手な俺はココアを頼んだ。りっちーとマリアは一緒のものを選んでいたが、名前が長くて何だったか忘れた。冷たいコーヒーの上に生クリームが乗っかっているみたいだが、あまり美味しそうには見えない。
「ねえねえ、かすみんとノブハルって付き合ってんの?」
マリアにふいに訊かれてはあ、と間の抜けた声が出てしまった。どういう思考をすればそうなるのだろう。かすみは幼なじみ。彼女として見ろと言われても無理だ。そもそも、楓果に突然フラれてまだ傷が塞がりそうな気もしていないというのに、何なんだ。
「てかさ、知里、いっつもかすみんとノブハル一緒にいると思うんだよね、最近」
「まあな。まとわれてる」
「いつも嬉しそうだよね、ノブハル。ああ、私も彼氏欲しいなあ。ああ、ノブハルみたいに冴えない奴じゃなくて、イケメンね」
「悪かったな。冴えない奴って、マリア彼氏いないん、」
睨まれた。りっちーはともかくマリアにいないのは不思議だ。ああ、今年になってフラれてからいないのか。見た目はきりっとした美女なのだが、中身に問題があるからだろうか。それともこういう生物を高嶺の花とでも言うのだろうか。
「残念ながら。ほんっと冴えないくせに元カノしかり、かすみんしかり可愛いのばっかり捕まるよねえ。むかつく」
「知里も同意見だわ」
「まあ、マリアはともかくこんな変態な奴に彼氏できた方がひくわ」
「ノブハルのくせにうっざ!」
「誉め言葉をどうも、りっちー」
時計をちらりと見る。集合一時間前だった。これではぎりぎりだ。先生が無表情のまま、遅刻だけどと言いそうだ。恐ろしい。
「おい、出るぞ」
「ほんとだやっば」
「い、急がないとね。殺される」



 「サックス族がホルンちゃんよりマイペースとはねぇ」
電車が目の前で行ってしまう悲劇に見舞われなければ、きっと間に合っていたに違いない。いや、確実に間に合っていた。しかし保坂(ほさか)先生に言い訳は通用しない。この三年間で保坂先生がただの鬼であることは学習済みだ。
「すいません」
謝ればなんだっていいという訳ではないが、この人にはまず頭を下げなければ何も始まらない。こざっぱりした性格だからネチネチ言わない上に、怒鳴らずいつものテンションのまま怒る先生は何を考えてるか全く分からないから余計に怖い。
「今日の演奏、期待してるから」
 笑わずにこの場を去る先生。遅れてこれるくらい余裕があるんだよね。という言葉が裏に隠れていると思うと足が震える。
「なんか期待されてるねえ。怖っ!」
「知里、お腹痛いわ」
「どうせ、マリアのおっぱい揉んだら治りそー、だろ?」
「な、なぜ分かった!」
一歩退くりっちー。マリアはくすくす笑っている 。
「否定をしろ、否定を!」
「サックス!」
先生が叫ぶ。思わずはいっと返事をしたらマリアとりっちーと重なった。三人で顔を見合わせて笑いそうになったが、先生の強い殺気が笑うことを許さなかった。



 「テナー、ユーホ、縦ばらんばらん! テナーは突っ込まない。ユーホ、半拍近く遅い! 同じリズムはかちっとはめるんだよって結構言ってたんだけど」
「はい」
「アルト、音でかい。ホルンに含まれて。ホルンは音程がたがた。アルトの音程きいて!」
「はい」
「低音、重い! 後押ししないで!」
「はい」
 明後日には後輩に発表だというのに、これでは基礎の基レベルだ。みんながまずいと思っている。だから余計に音楽じゃなくなって、ただ音を並べているように聞こえているように思う。先生も冷静そうに見えて焦っているようで、うっすら顔に汗が滲んでいるのが見える。
「ねえ! みんな!」
かすみが突然、大きな声で言った。先生が目を丸くしている。注目を集めたかすみが突然、課題曲を吹きだした。慌てて隣にいたホルンが重なる。俺も楽器を構える。頭に浮かぶフレーズを吹く。あくまで冷静に、どう吹きたいか音楽にぶつける。楽譜がないからなぞれない。先生を見ると、指揮棒を置いて俺たちを眺めていた。完全に練習しなければならないところから逸脱してしまっている。
 「かすみん。ユーホとテナーのメロディ、何を意識した? 」
吹き終わってすぐ、先生はかすみにそう聞いた。先生の表現は全く崩れない。勝手に吹いたことを全く責めようとせず、むしろ話題の種にし、ただかすみを見て、問を投げかけている。
「テナーを包み込むことと、細かい音符こそ柔らかく歌おうと思って吹きました」
「ありがとう。みんなだってそうだよ。ね。どう表現したいか、どう吹きたいかあるでしょ? また会える日までに関しては焦ってばっかりでただ吹いてるでしょ? 大切なのはやれるようにしなきゃ、じゃなくて、ノブハル。何だって言ってるっけ?」
「どう吹きたいと思うか、です」
「百点満点の解答だね。はい。じゃあ、また同じところから」
 音の輝きが違う。やはりまだちぐはぐだ。縦がまだユーホと合ってない気がするし、どこかで変な音程の音が鳴っている。ただ、さっきよりはよどんでないような気がする。少し希望が見えた気がする。
「精度をこれ以上落としてどうするの! 情熱と冷静さと両方持ちなさいって何度も言ってきたでしょ?」
 前言撤回。こんなんで明後日、どうにかなるのだろうか。

八月九日

 調子が狂いそうだ。
 朝からの練習にかすみがいない。別にかすみが常に傍にいることが俺の日常で、それ以外何もいらないなどと馬鹿みたいなことは思わないが、かすみが寝坊をしたところを見たことがないし、ましてや部活を休んだところを見たことがない。体調を少し崩そうが、悪天候だろうが、ユーホを溺愛している彼女は毎日楽器を吹いていた。そんなかすみが練習を休む。前代未聞の出来事だ。
「ノブハルちゃん可哀想に! 彼女がいないなんてなあ」
後振り向くと、としぽんがにやついていた。気持ち悪い。無視をして楽器庫に向かう。集まって挨拶した後の日常。ではあるはずなのだが、うるさいユーホ吹きがいない。ここ数日まとわりつかれていたから余計に気持ち悪い。
「だめだよ、としぽん。かすみんがいなくてノブハル、機嫌悪そうだよ?」
「あ、確かに。マリアが挨拶してもちょっと上の空だったし、知里(ちり)が話しかけようとしても、目の焦点合ってなかったし。ノブハルの音、今日はめっちゃ暗そうだわ」
「変態ガール。お前がそのおっぱいでなぐさめてやれよ」
「いやいや。知里みたいなきょぬーよりノブハルはちっぱい派っしょ! ね、マリア」
「確かに、ノブハルの彼女みんな知ってるけどみんな胸が貧相だねえ」
「うわ、ノブハルってロリっ子趣味か! まあ、俺は誰よりもロリおっぱいを愛してるが!」
「うわー。としぽん。ないわ」
かすみがいないから俺は変だということらしい。確かにかすみが練習にいないという見たこのない事態に驚きを隠せないのは事実だ。けれど、別にかすみがいないことが悲しい訳ではない。しかし、この流れではとしぽんと同じくおっぱいが好きな奴みたいになってしまっている。
「何言ってんだよ。お前ら、俺はちっぱい好きじゃないからな。好きなのは小尻だ!」
確かに手に収まるぐらいの胸が好きなのは事実だが、それより俺は尻の方が好きだ。尻が小さく綺麗な人を見ると少し嬉しくなる。大体がもれなく胸があるのかないのか分からなない人なのだが。
「お前、ケツ派かよ! ずっとちっぱい好きだと思ってたんだけどな」
 ふと、寒気がした。いたって健康体なはずではあるのだが、強い悪寒だ。振り向くことをせず、固まった足に動けと命令するが、無理だ。一つだけはっきり言えることがある。この会話を朝からしていたことに後悔しなければならない、と。
「そこの変態四人! 胸の話する暇あるんなら、早く楽器を出しなさい! 時間ない!」
「はい」
大声で変態と呼ばれる。あまりのダメージの大きさに、しばらく誰も口を開けなかった。



 練習が終わる。今日はかすみがいなくて薄っぺらかったが完成形が見えたこと、午後から後輩たちの練習があるから解散になった。
 体調を崩す。かすみの体調不良が全くないわけではない。ただ、人より健康体のかすみが、しかも、発表前日になって休むかすみがどうしても俺の頭のなかに存在させられなかった。あまりにも酷い状況なのだろうか。ジュースでも買ってお見舞いに行ってみよう。どうせ家は隣だ。
「ノブハル」
先生が俺の肩を叩いた。今日、合奏体の中で変な音を出した覚えがないのだが。
「今日、後輩指導よろしく!」
「え、マリアがそういうの、」
「何言ってるの! サックス族は楽器ごと指導だって言ったでしょ? テナーはテナー同士で仲良くね!」
「……はい」
 目の前には二年生の千野(ちの)海晴(みはる)。おっとり天然とはこの人のことだ。天然すぎて扱いが難しい。私は私はと前に出るタイプが多いサックス族には珍しいタイプだ。
「ノブせんぱいよろしくお願いします」
「よろしく。みはるん、とりあえず場所を移そうか。音楽室、狭いし」
「はい」
 一緒にロングトーンをして、スケールをして。中学生の頃も一緒の中学で、一緒に吹いてきた。だからか、吹きやすい。何を言いたいのか分からないことをたくさん言ってはいたが。本当、天然で受け答えの半分近くが違うのにどうやったらここまで吹けるようになるのだろう。謎でしかない。
 「ちょっと休もうか」
「腸詰めヤスリンゴ?」
「少し休みをとろう」
「あ、はい。で、あの」
「なんだ、みはるん」
「ノブせんぱいとかすみんせんぱい、ラブラブですね」
思わず譜面台を蹴飛ばしてしまった。譜面台が倒れて教本が落ちる。みはるんはぽやんとした顔をして、落ちた教本をじっと見ている。
「どうしてそう思った」
「いや、最近、かすみんせんぱいとノブせんぱい、いつも一緒にいますから」
「まあな」
「かすみんせんぱい今日、いないからノブせんぱい寂しそうです」
「はあ?」
「聞こえませんでしたか?」
「ああ、聞こえてた。まあ、練習しよう」
「あの」
「かすみんせんぱい、大丈夫、ですかね?」
「何が」
「だって、具合悪くてもなんでもかすみんせんぱいはいつも練習来てましたから」
言葉がうまく出てこない。俺にも不思議でたまらないぐらいだ。
「せんぱい、今日、お見舞いに行きません?」
「ああ、まあ」



 「かっすみいいん!」
「はあ」
「ひい」
「ふう」
ただの熱中症だから心配するなと言われて追い払われた俺たちは結局近くのマックにいた。お菓子も買ったというのに。ちなみにかすみの名前を叫んだのはとしぽん。ため息をついたのが、俺。ひいとふうはそれぞれホルンのかなかなこと清水(しみず)ゆかなとみはるんだ。同じ王仁塚(わにづか)北中学出身だ。うちの代は奇跡的にたくさんいるが、一つ下はみはるんだけだし、一年生も入ったのは三人だ。そもそも学校が小さいこともあるが。
「ノブハルなんか知らないのかよ。ホントに熱中症なのかどうか」
「知るかよ。昨日までは普通だったし。そりゃあまあ、最近よく寝てる気がするけど」
「え、寝てるの?」
かなかなが目を見開く。頭をかいている。何かを思いだそうとしているみたいだ。よく寝ていることがそこまで重要なのだろうか。
「ううん。何か思い出せそうなんだけど」
「せんぱい、疲れがたまってるんですかね?」
「あ、それだろそれ!」
「じゃあ、としぽんのせいだな。がちゃがちゃしてるから」
「うるせえ! まあ、それなら、熱中症なのにずっと無理してたのかもな。かすみんだし」
 山盛りのポテトが無くなっていく。元気に思い出をしゃべるとしぽん。にこにこ笑うみはるん。としぽんとみはるんの会話はどこか変でずれていく。頭がいい方ではないとしぽんととんでもない天然の会話だ。当たり前か。それでも、終わりが近づいていることを実感すると何を聴いていてもいろいろなことを思い起こす。この六年間。たくさん泣いた。たくさん笑った。悔しい思いも嬉しい思いも仲間と一緒に分かち合った。ああ、王仁塚高校吹奏楽部としての活動は明日が最後だと思うと感慨深いものがある。
 ふと、かなかなが視線に入った。マイペースな部分があるけれど、かすみの母親のような存在だったかなかな。話を聞いていないのを見ても、かなかなだから別に不思議だとは思わない。けれど、ずっと頭をかいているかなかなはあまり見たことがない。
「かなかな」
「あ、何?」
「考え事?」
「まあ、そんな感じ」
「なあ、もう終わりなんだなあ。さみしい」
「ほんとだねー。この六年、青春したなあ。支部大会、三回も経験できたね」
「確かに。なんかもう、ずっと昔のように感じる」
「ああ、かすみんいたらなあ」
「辛気臭くならなそう」
「ほんとだね。まあ、としぽんいる時点でかなりうるさいけど」
「それは言っちゃいけないお約束」
「ああ、そうか」
「何小声でしゃべってんだよ!」
大声で騒ぐとしぽん。なにこ、ごでしやべつたろーん。と宇宙語を喋るみはるん。それを鼻で笑うかなかな。ここにかすみがいたら何を言うだろうか。ああ、はるくーん。乗り遅れてるよ。と大声で言って店員に注意されるのか。
 かすみ。いないだけで調子が狂う。
 明日。絶対に来るよな。後輩たちにお礼演奏するのだ。
 かすみ。きっと。
「ノブせんぱい、ぼおー」
「ノブハル目を開けたまんま寝てんだろ」
「ノブハルがそんな器用なわけないよ。頭ん中かすみんでいっぱいなんでしょ?」
「そうですね。ノブせんぱいとかすみんせんぱい、ラブラブですもんね」
「はるくん、愛してるよ!」
「お前らうるせぇ!」
「あの、申し訳ありません。静かにご利用頂けませんか?」
 目の前には店員。湧いて出てくる屈辱感に俺は固まるしかなかった。

八月十日

 引退する自分が信じられなかった。
 夢みたいだ。終わりが来ることは分かっていた。昨日だってあと一日だと感慨に耽っていた自分がいる。だけど、その日になって『また会える日まで』を吹いて、後輩たちに向けてメッセージ言って、ゲームをして。それでも信じられなかった。また明日、来るはずのない日常が待っているような気がしてならない。
 「ノブ先輩」
「どうした、みはるん」
「また一緒に吹きたいです」
「ありがとう」
「あああ! 私の愛しいみはるんをノブハルに独り占めなんてさせない!」
「はあ?」
 りっちーの発言にサックスパートが無言になる。いや、集まっているのに元々アルト、テナー、バリトンでそれぞれ話していたからそれほど賑やかではなかったとは思うが。よくこの空気の中でそんな変態発言にしかとれないことが口から出るな。
「みはるんが愛しいだなんて、とんでもなく面倒見がいいんだな。変態さん」
「せ、先輩。私、一人立ちできてます!」
「みはるんの場合、テナーだけは、だろ」
「りっちー先輩、そんなことないですよね」
「ううん。ノブハルに言う通りだと思う」
「ううう」
そんなはずないのにい。嘆くみはるん。まあ、自立できてるというのなら、かなかなぐらい大人になっていてほしい。ああ、でも、かなかなはそこまで人の話聞かないからそれも困るか。
 目の前で何かが動く。よく見たらマリアだった。なぜかみはるんに抱きついている。さらにはりっちーがにまにましている。まあ、サックスの二年生だからマリアが抱きつくのは大して不思議ではない。ただ、りっちーのにまにまが本気すぎて怖い。本物のそっちでないからネタでやっていることはとく分かる。ただ、一年生がりっちーがそっちだと思いかねない。いや、マリアの方がそう見えるか。どちらにせよ、厄介そうだ。
「なにノブハル。マリアに抱きつかれたいの?」
「もうお腹一杯だわ」
「あ、そうか、かすみんに抱きつかれたいのか」
「呼んだー?」
振り向いたらかすみがいた。ユーホの後輩と話していればいいものを。またりっちーが余計なことを言いそうな気がしてならない。
「かすみーん。ノブハルが愛してるよーって言ってるよ」
やはり余計なことを。思わずため息が出た。
「やっだぁ、はるくん。分かりきったことをー」
両手を頬に当てにやにやする。
「とんでもなく気持ち悪い顔してるけど、かすみ」
「あ、はるくん、ひどい! きーずつーいたー!」
「なあに言ってんだよ。気持ち悪いじゃなくて、かわいすぎて発狂しそうになった、だろノブハル」
「いつも発狂してるとしぽんが何を言う」
調子にのって絡んできたとしぽん。さっきまではきはきしていたのに、もうすでに頭をだらんと垂らしている。横にいるトロンボーンの二年生が背中をさする。としぽんが余計に情けなく見えた。
「今日の毒素はヒ素並みだぜ、ノブハルよ」
「何言ってる。バファリン並みの優しさだ」
「じゃあ、私を抱擁してよー。はるくん!」
「マリアに抱擁してもらえ。胸でももらえるかもしれないし」
「はるくん。それは物理的にむりだよー!」



 気がついたらかすみの部屋にいた。
 サックス族の集まりまであと三時間はあった。着替えたら部屋でだらだらしようと思っていたが、かすみのケーキを食べようの一言に負けた。
 目の前には少しだけ生クリームのついたお皿とフォーク。隣にはうとうとしているかすみ。何故か腕にしがみついている。追い払おうとしても取れない気がするので、とりあえず放っておくことにした。
「ねえ、はるくん」
「なに?」
「終わっちゃったね」
「終わっちゃったな」
「楽器、もう、みんなと、吹けないんだね」
 かすみの瞳が一瞬だけくすんで見えた気がした。
 確かにそうだ。毎年毎年新しい一年生が入ってきて三年生が抜けていく。この三年間、入部や引退、部員が途中で離脱することもあり、演奏会やコンクールの度に人が入れ替わってきた。
 ただ、自分たちの引退となるとやはり特別だ。あの場所であのメンバーで吹くことはもうないかと思うと感慨深いものがある。
 ただ、実感だけはないが。
「信じらんないなあ。頭じゃ理解してるはずなんだけどなあ」
「私もなんか信じらんないなー! だってついこの間までコンクールの練習しながら勉強してたんだよ!」
「今日ぐらい勉強のこと言うなよ」
「何言ってるの! これからは毎日十四時間だよ! 今日も最低三時間は勉強しないと!」
「うわあ。そんなことしたら頭が吹っ飛びそうだな」
「大学行って先生になる為には頑張らないとね、はるくん!」
「いや、俺の志望、文学部史学科」
「つべこべ言わず、勉強勉強。どうせ、勉強道具持ってるんでしょ?」
「まあな」
 かすみが勝ち誇ったように笑う。集まりの前に学校で勉強しようよと、今日の早朝、かすみに呼び出されたから持っていたのだ。ああ。ケーキにつられて勉強させられるなど、まるで小さな子どもみたいだ。我ながら恥ずかしい。



「そういえば、はるくん。何になりたいの?」
 勉強道具を片付けようとした時、かすみが唐突に訊いてきた。いろいろ考えたがそれといった夢は思い描けなかった。小さい頃はパイロットやら薬剤師やらいろいろなりたいものがあった。今は何もない。大学もまだ歴史を勉強したくて選んだだけだ。将来、何になりたいかなど、分からない。
「あれ、はるくん、アバレンジャーになりたかったんじゃなかったっけ?」
 かすみがいたずらっぽく笑った。
「いつの話だよ。かすみだって魔法使いになりたいって言ってただろ?」
「今は小学校の先生になりたいもん! あ、でも、中学校の数学でもいいなあ。ねえ、はるくん、ないの、そういうの」
「これから夢を見つけたい、かな」
「ええ。何その逃げかた! はるくんとりあえず公務員とか民俗資料館がいいとか言いそうだと思ってた」
「ううん。実際、これがいいとかないからな。大学は大好きな歴史がやれれば何でもいいしさ」
「はるくん」
「なんだよ」
「ちゃんと夢を見つけてよ? それから」
「へ?」
 胸に飛び込んできたのはかすみのぬいぐるみだった。何かがさっといった気がしたが気のせいだろう。突然投げつけられたものだから少し驚いた。
「それ、プレゼント!」
 イルカのぬいぐるみ。昔俺がかすみにプレゼントしたものだ。お腹の部分にチャックがある。買った時は、チャックのついているぬいぐるみが新しくて格好よく見えたのだ。俺の部屋にも色違いのぬいぐるみが残っている。
「いや、色違い持ってるし」
「いいの! あげる!」
「あ、ありがとう」
「ねえ、行かなくていいの? そろそろサックスで集まるんでしょ?」
 時計を見るとあと五分ぐらいで家を出ようと思っていた時間だった。立ち上がってかすみの部屋を出ようとする。すると後ろからかすみが抱きついてきた。背中が濡れる。
「はるく、ん。ありが、と、う」
 涙の意味もありがとうの意味も全く分からない。だけど何か言ってはいけないような気がして、ただうつむくしかなかった。

八月十一日

「はる兄!」
 学校で勉強していたら、隆坊(りゅうぼう)に机を叩かれた。
 図書館の中で大声を出して机を叩くものだから、周りにいた人が反応する。
「なに?」
「いいから!」
 鞄の中に俺の勉強道具がしまわれていく。昼下がり。腹がぐう、と鳴った。時計を見るともうすでに午後の二時だった。学食に行こうと思ったがこの状況では無理だ。
「のんびりするなよ、はる兄。行くぞ!」
「行くってどこに?」
「姉ちゃんのとこだよ!」



 目を疑いたかった。
「か、すみ?」
 かすみは眠っていた。
 病院の小さな個室。かすみの周りには見たことがない機械だらけだ。体にはたくさんのチューブが繋がれている。腕には痣があった。星形の赤黒い痣が七つ。
「これって」
 昨日まで元気だったと思っていた。だけど、これは。声に出したくない。信じたくない。嘘だよー! はるくん。びっくりしたでしょ! と、かすみに言って欲しい。
「そうだよ。姉ちゃん、透化病(とうかびょう)なんだよ。そのことずっと黙ってたんだ。どうせ死んじゃうならその時まで悲しませたくなかったなんて言って。病気のこと一昨日倒れるまで母さんしか知らなかったんだ!」
 機械音がする。その音に混じって小さな寝息が聞こえる。声が出せなかった。
 思い返してみれば気がついてやることぐらいできた。やたらと泣いてた気がするし、痣、どこかで見た気もした。その上よく寝ていた気もする。気がついてやれたのではないか。今思えば毎日のように一緒にいたのになんで気がついてやれなかったんだ。気がつければきっと一緒に辛さを背負うことぐらいできたはずなのに。俺はずっと傍にいたのに何をやっていたのだ。
「かすみん!」
「かなかな!」
 かなかなが扉の傍に立っていた。かすみとかなかなは高校でも仲良しだった。中学から六年間に関して言えばきっと俺よりずっと一緒にいたと思う。
「あ、王子様知ってたんだ」
「さっき知ったよ、かなかなは?」
「昨日、問い詰めて吐かせた。なんか様子が変だったし、それにちらって見えたし、痣」
「お前、なんで」
「言わなかったか、でしょ? はるくんには言いたくないの。大好きだから、はるくんの悲しむ顔なんて見たくないもん。って涙流しながら言われたら黙るしかないでしょ。それにきっと王子様だったらどうせかすみんが消える前に知ると思ってたしね」
 胸がどきりと鳴った。痛い。かすみはいつだってそうだ。いつだって子どもっぽく振る舞って無邪気に笑って。でも真面目で、勉強も部活も人のことも一生懸命だった。誰かに病気のことがばれるまで言わなかったのも、かすみが一生懸命考えた結果だったのだろう。かすみは気を使わせるのも、心配されるのも嫌がる。
「王子様。罪な男だよね。こんな可愛い女の子にずっと片想いさせちゃってさ」
「なあ、かなかな」
「何?」
「王子様って言うのはやめろ」


 かなかなと隆坊とかすみが目覚めるのを待った。かすみん家のおじさんはおばさんの背中を擦っている。かなかなは冷静だ。黙ってずっとかすみの顔を見ている。俺は直視できなかった。顔を見たら泣いてしまいそうで、でも、きっとかすみは俺が悲しむことを望んでなんかいなくて。だからどうしても見る気になれなかった。
「なあ、隆坊」
「かすみが意識戻すことって」
「もうない可能性の方が高いってさ」
「そうでしょうね。透過病の人って消える前は意識がないことがほとんどだって聞くし」
「おい、かなかな。言い方」
「あ、ごめん」
 目をそらすかなかな。太陽の光はかなかなの目元で反射した。ああ、感情を仕舞い込もうとしているのだろう。
「あのさ、かすみんにとっては今、意識があるのとないのどっちが幸せなんだろうね」
「ゆかなさん?」
 隆坊が首を捻った。
「意識がなかったらきっと、消える恐怖はないだろうから」
「そう、ですね」
「かなかな、お前はかすみにどうであって欲しい?」
「分からない。もう、かすみにんには苦しまないで欲しい。でも、最期少しでいいから話したいって気持ちもある」
 またみんなが口を閉ざす。機械音がずっと鳴っていた。



「はる、くん?」
「かすみ!」
 思わず叫んでいた。かなかなもおじさんおばさんも隆坊も、かすみを見ていた。かすみは泣いていた。涙がはらはらと頬からベッドに伝っていく。
「りゅーちゃん、呼んでくれたんだね。ありがとう。かなかなも来てくれてありがとう」
「かすみん。ちゃんと言ってよ。ノブハルだってみんなだってかすみんのこと、大好きだったんだから! これじゃあ、みんなちゃんとお別れできないじゃない!」
「ごめんね。でも、いつも通りでいたかったんだ。今日ぐらい怒るの止めてよ。かなママ。あ、でも、かなママが感情的になってくれて、私は嬉しいよ」
「何言ってるの。私はかすみんが心配だから!」
「まあまあ! あ、そうだ、としぽんとりっちーに伝言頼んでいいかな?」
「な、なに?」
「楽器庫にある私のユーホケースん中にプレゼントあるからって言っといて。あ、かなかなの分もあるから!」
「分かったわ」
 かなかながかすみに背を向ける。かなかなの肩が震えた。
「お父さん、お母さん、ありがとう。私ね生まれてこれて良かったよ。お父さんとお母さんが作ってくれたケーキも大好きだった。ごめんなさい。せっかく産んでくれたのに、十八年しか生きられなくて」
 かすみをおばさんが抱き締めた。かすみの顔から鼻水が垂れる。泣きすぎてかすみが何を言っているのか全く聞き取れない。おばさんは泣きながらかすみの背中を擦っている。おじさんはただ、柔和な笑みを浮かべて二人を見ていた。隆坊も混ざって何か言っていたが、ぼろぼろ泣いているかすみが何を言っているのかやはり聞き取れない。
 かすみの腕が透けていた。おばさんの白い服がかすみの腕越しにも見える。
「はるくん」
 おばさんを払いのけて、かすみが俺の腕を引っ張った。そしてぎゅっと体を抱き締める。
「あのぬいぐるみの中に私からのプレゼントあるから」
「なあ、かすみ」
「どうしたの?」
「その、ありがとな。ずっと傍にいてくれて」
「え」
「ごめんな気がつけなくて」
「はるくん。悲しまないでよ。もっと悲しくなっちゃうじゃん」
「ああ、ごめん」
「ねえ、はるくん」
「何?」
「次、生まれ変われるなら、私、はるくんの子どもになりたいな。そしたらきっと暖かい家庭で過ごせそうだなあ」
「何だよ、それ」
「はるくん。大好き、だ、」
 かすみの着ていた服が腕にかかる。等の本人が体ごと旅立っていった。さっきまで感じていた温もりが、服に染みた涙と鼻水がまだ残っている。
 俺は手にかかった服をぎゅっと抱きしめた。涙が落ちてはかすみの服を湿らせた。

八月十一日

「先生、練習メニューまたきつくなったでしょ!」
「先生が社会科の先生とか嘘でしょ。本当は音楽でしょ!」
「先生、るなっち泣いちゃった! 頭痛いんだって!」
 練習後、子どもたちに囲まれるのが日常だ。あれから十年経ち、俺も二十八になった。三歳の娘と二歳の息子も俺が帰ってくると、だっこして、おんぶして、と囲まれる。
「練習メニューがきついのは支部大会の為だ。県大会と支部大会じゃ全然レベル違うんだからな。音楽の先生じゃないよ、ピアノ弾けないし。保健室の先生いるから、職員室にるなっちつれていきなさい」
 今日ぐらいは早く帰りたいと思ったのだが、子どもたちは許してくれなさそうだし、事務仕事も残っている。困ったものだ。



 教師になったのは、かすみとかなかなの影響だった。
 大学一年生の時の教養科目。かなかなと一緒に受けていた。かなかなは医学部だった。元々は理工学部を狙っていたと聞いたから、とにかく驚いていたことをよく覚えている。
「なあ、かなかな、理工学部じゃなかったっけ、狙ってたの」
「かすみんがきっかけで、医者になりたくなったから」
 かすみみたいな人を減らしたい。そういう理由からだろう。
 俺はかなかなの話を聴いて考えた。夢を見つけろ。かすみの言葉が頭の中でぐるぐるしていた。
 大学の吹奏楽部は盛んな方だった。テナーは同じ学年に四人ぐらいいた。あれから減ったから最終的には二人になっていたが。その一緒に吹いていた奴が教育学部だった。
「お前、社会科の教員免許でも取ったら?」
「え? なんだよ、いきなり」
「免許あるとなんか有利そうじゃん」
 一年生の夏休み頃だったと思う。彼はそれほど考えて言ったわけじゃないと思う。だけど、教職と聞いたときぱっとかすみの笑顔が浮かんできた。
「んー。取ってみるか。履修大変そうだけど」
 二年になって本格的に授業を取りだしたら、大変だった。教職関連の半分は資格単位だ。同じ史学科の連中はどんどん教職の免許を諦めていく。俺も諦めそうになったことはたくさんあった。
 教育学部に友達いたから頑張れたところもある。それ以上にかすみの存在が大きかった。勉強して先生になるんだと言って、死ぬの分かってても夢に近づきたくて勉強し続けて。かすみの代わりに教師になりたいのではない。だけど、あんな風に目をきらきらさせて夢に向かうかすみを思い出すと不思議と力が湧いてきた。



清水(しみず)先生! 宿題のここ、答え分からないんですけど」
「あ、先生! ここも分からないです!」
 よく教科書を見れば出てくる単語と授業内で説明した記述のはずだ。またか。
「分かった。職員室行こう」
 まだまだ力量不足か。子どもたちがにこにこ笑っている。
 玄関に向かっていく子どもたちの後姿を、俺はゆっくりと追った。


 夜。ケーキを買って帰ると子どもたちが待っていましたといわんばかりに目をきらきらさせていた。
 加賀爪(かがづめ)洋菓子店のケーキは隆坊(りゅうぼう)がパティシエとして働くようになってからはもっと手に入れるのが大変になっている。隆坊、顔立ちいいし、そもそもここのケーキが美味しいことは有名だったから、午前中でも完売していることもある。
 妻となったかなかなもやはり楽しみにしていたらしく、にこにこしている。
 ワンホールのシフォンケーキ。飾りつけはやはりかすみの花だ。
「仕事ご苦労様」
「そちらこそ、夜勤ご苦労様。小児科医は大変か?」
「ええ。多いからね、透化病(とうかびょう)の子。特効薬は痣が二つまでだったら効くんだけどね。三つ以上になってくる子もいるから、なんだか見ていていたたまれない」
 透化病。遺伝子の変化によって起こるこの病気によって、多いときは一年に世界で一億人が死んでいった。最近になってやっと治すことができる薬が開発されたが、それも完全でなく、かかったら消えてしまうケースの方がまだ多いらしい。
「いつか、治せる病気になるといいな」
「ほんとにね」



 部屋の隅でかすみからのプレゼントを握った。十年前、ぬいぐるみの中に入っていた手紙だ。かすみの本音が詰め込まれた文章には涙の跡がついていた。もう、何年も前に見ないと決めた手紙。内容はうっすらとしか覚えていないが、一言だけ強く印象に残っている。
『いつかきっと生まれ変わってはるくんの傍にいくから。待っててね』
 さようならという言葉を使わないでこう締めくくったかすみ。かすみなりの精一杯の優しさだったと思う。
 さて、明日も頑張ろう。学校で子どもたちが待っている。
「おとうしゃん!」
 娘が脚に飛び付いてきた。バランスを崩して尻餅をつく。
「おとうしゃん、しりもちついたー!」
 そう言って娘は無邪気に笑った。

君といた七日間

お付き合いいただきありがとうございました。

君といた七日間

マイペースで年相応に見えない幼なじみ、加賀爪かすみ。 高三の夏休み。受験を控えたマイペースな彼女と振り回される俺の日常。 あの夏、俺は彼女と過ごせた時間を無駄に消費していた。 キーワード 病気/恋愛/青春/吹奏楽/受験/ほのぼの/無邪気/一人称/ラノベ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 八月五日
  2. 八月六日
  3. 八月七日
  4. 八月八日
  5. 八月九日
  6. 八月十日
  7. 八月十一日
  8. 八月十一日