「J・エドガー」vs「レイ」。

日本の友人からレオナルド・ディカプリオ主演の映画「J・エドガー」が封切りになったと電話があった。この友人、日本で公開されるアメリカ映画で観ていない作品はないと豪語している男。いつも日本の公開前にアメリカで先に観てどうだったか?と感想を求めてきては、僕がコメントし過ぎると文句を言う。それでいて何も言わないと、「アメリカに住んでいる意味が無い!」なんて難癖をつけてくる。そして必ずといっていいほど日本の封切り日の土曜日に観ては、その夜か日曜日には電話をかけてくる。

今回も日本で封切りになった「J・エドガー」について、僕からの事前情報とはまったく違ったと熱く捲くし立ててきた。初めに、彼がアメリカで観てどうだったか?と尋ねてきたのは去年の11月中旬。アメリカでの公開直後だった。僕はまだその時には観ていなかったので、彼に急き立てられるように11月下旬のサンクスギビングの連休前に観たのを記憶している。そのときの印象は、「監督クリント・イーストウッド、主演レオナルド・ディカプリオの名前だけかな。」って答えた程度だった。

彼にとっては、監督、主演のビッグネームだけでなく、作品の内容もアメリカを象徴するFBIの初代長官の半世紀も権力を握った男の伝記映画であり、そんな人物の母親への愛から同性愛までマザコンやゲイといった人物像も自然に描かれていて、アメリカを強く感じたと言うのだ。僕は、「それはアメリカに住んでいないから単なるステレオタイプのアメリカ感ではないか?」と切り返したが、彼は滔々と作品の素晴らしさをまるで壊れた昔のテープレコーダーのように話し続けた。

そんな彼の話をスピーカーに切り替えると、僕は点けっぱなしのテレビの画面に目が留まった。テレビでは、ソウルの神様レイ・チャールズの伝記映画「レイ」を放映している。これは確か7年前の映画だけど、主演のジェイミー・フォックスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画だ。画面は、ちょうど目を患った幼いレイが転んだところ。本当は駆け寄ってレイを抱き上げたいレイの母親アレサが、レイが立ち上がるのをじっと我慢して見守っているシーンだ。僕の目から自然と涙が込み上げてきた。

この涙が、僕にとっての二つの伝記映画「J・エドガー」と「レイ」の違いだ。

「J・エドガー」vs「レイ」。

「J・エドガー」vs「レイ」。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-09

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