エンジェル・ダスト
1.Lost World
いつかは、消えてしまうような気がしていた。
永遠ではないもの、限りある時間。
失い続けるために、尊い、この空気の流れを、
カタチすら掴むことの出来ない、遠い日の出来事を、
無くしたくないと願えば、願うほど薄れていくのは、大切な感覚。
なぜ悲しいことばかりが、重なっていくのだろう。
そんな考えでさえ、日々の中に溶けていく、薄く伸びていつかは、
――いつかは、そう、消えていく。
まどろみの中に浮かぶ、その美しい都は『月都』。
†††††
庭園へと続く廊下をいつもと変わりなく歩いている。日差しは丁度真上、天井に描かれた壁画から、足元に色とりどりの影が落ち、所々穴の開いた、壁の隙間から光が漏れている。翼を広げた聖女が、子供たちに手を差し伸べている、大昔の伝説になぞらえた壁画を仰ぎながら、雨になったらここから雨漏りするんだろうな、ふと、水面を弾く雫の後を思い出してくすっと笑う。そうこうしているうちに目的の場所に着いたらしく、庭園広間で何やら真剣に本を開きながら小声で呟いている少年に歩み寄った。
「リト、勉強は捗っている?」
声を掛けられたことに驚いたらしく、一拍おいて少年は答えた。
「アラ……じゃなかった、御神(みかみ)さま。えぇと、上手く力を制御できなくて…」
『御神』というのは、月都の皇帝直属の部下で、この位に就くものは優れた力を持つ者が多いとされている。彼、アラン・レッドフォードは、若干十四歳で難関といわれる『御神試験』に合格した。能力、人望ともに長けた人物である。
「はははっ、制御? リト、力は君自身なんだよ? 操るわけじゃない、もっと自分を理解してあげないと、魔法なんてそれからでも遅くない」
物腰の柔らかな彼の言葉を聴いていると、リトはそうなのかと納得する反面、何故だかくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになる。アランはいつもそうやって大きな優しい手でリトの頭を撫でた。
「僕だって、早くアランの役に立ちたいんですっ」
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、……だからって、根詰め過ぎるのもよくないよ? もう少しこう、身体を動かしたりしてさ…」
「御神! こんな所に居られたのですか!」
声を掻き消すように、重い金属音が響いてくる。二頭の馬を連れて現れた男を指しながら、アランは心配そうに言った。
「ヒュー? またそんなに怖い顔して……リト、こんな風になったらどうするんだい?」
「アラン、ふざけている場合じゃない、……レイチェルが」
リトには、一瞬だけアランの瞳が暗い影を落としたように見えた。
「……そう、すぐに行くよ」
「御神さま?」
不思議そうに顔を覗き込む少年に、いつもと変わらない笑みを見せ、アランは思いついた様に右耳に手を伸ばした。
「リト、これを」
自分の手に握らされたソレが何なのか、リトはよく知っていた。アラン本人から聞いたことがあったからだ。紅の宝石を銀細工で抱くようなモチーフの片翼だけのイヤリング。祖父の形見だと、とても大切な物だという事を。
「? ……どうして? これは御神さまの大切なものでしょう?」
「君に持っていてほしいんだ、……大切なお守りだから」
その場を立ち去ろうとする背中を抱き止めて、少年は叫んだ。
「……だめだよ。行っちゃだめだ!」
「今日は珍しく、わがままを言うんだね? リト?」
君がこんな風に僕に甘えるのは初めてだね、彼は優しく告げた。
「アラン! 急げ!」
響く声、少年の腕にさらに力が入る。
「帰られない、ということですか? ……なぜ、御神さまが行かなければならないのですか? 他にも……、他にも沢山いるじゃないですか!」
押し殺したような、少年の声。身体が小さく震えている。納得してはくれないんだろうな、そう思って、アランは小さくため息をついた。
「リト、僕は御神である前にひとりの人間だ。ほんと、悲しいくらいに。こんな、ちっぽけな命でもね。それでも、守りたい人達がいる。守りたい世界があるんだ」
言い聞かせるように伝えた言葉は、少年の心をさらに混乱させたに違いない。
少年の頬をぽろぽろと涙が伝っていく。顔をアランの胸に押しつけて、必死にしゃくりあげるのを堪えている様だった。
「そんなの……そんなの、理由にならないよっ」
「リト?」
「……御神さま、どうして争いは終わらないのですか? どうしてそうまでして、生きなければならないのですか!」
少年の前にしゃがんで、涙をぬぐってやる。大切だからだよ、そう笑いながら少年の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「リト、僕はいつでも君のそばにいるよ」
馬に跨って手綱を引くと、二頭は勢い良く走り出した。遠ざかっていく蹄の音に、少年の声は掻き消される。
「行かないで! 御神さま! 僕をひとりにしないで!! アラン!」
†††††
二人が到着した頃には、もう辺りは壊滅状態だった。むせる様な、血と死体の臭い。崩れた瓦礫の間から立ち昇る炎に混じる火薬。さっきまで人間だったものを、喰いちぎる獣の群れ。
「……あの時と同じだ」
「やはり、封印をといたのも『あの方』ということになる訳だ」
その日の空は赤く染まって、星が見える頃になっても尚、赤々と染まり続けた。
「御神!」
突然の声に状態を反らすと、振り上げられた剣は、アランの左腕を掠めた。
「ヒュー、助かったよ」
「……礼なんか、言ってる場合じゃないだろ」
背中合わせに構えながら、半ば呆れた様に彼は呟いた。目の前の獣を切りつけても、一向に減る気配はない。それどころか――。ひしゃげた脊椎の端から歪に再生され肉が脈打っている。どれもこれも不自然に組み合わされた四肢の塊になりつつある。
「何で獣のくせに頭潰して死なないんだよ! おかしいだろ?」
「……まだ、来ないのか?」
アランの消え入りそうな声に、多少の皮肉を交えてヒューが苦笑した。
「分かっていた事だろ? 『あの方』達は、初めっから手を貸す気なんてなかったのさ。俺たち、良い様に使われたって訳ね。」
「ここで何とかしないと、この先には……」
地平線上には遠く灯りが見える。あの、光の下には何も知らない人々が、来るはずの明日を待っている。
†††††
何が起こったのか解らなかった。思い出せるのは、突然現れた赤眼の少女、鋭く光る銀とオレンジの軌道、猛スピードで目の前を覆う白い何か。
少しの衝撃があって、目を開ける。少しずつ現れてくる視界、剥がれ落ちていたのは、見覚えのある白い紙。目の前にはヒューが立っていた。胸部を剣が貫いて、象牙色の服を紅く染めている。
「ヒュー! どうして?」
「っぅ……やっと捕まえた、コイツが親玉、……だろ?」
彼の腕の中には少女がいた。色白の透き通るような肌、足元まで伸びた色素の薄い金色の髪。その手には銀色の剣を握り締め、全身、髪までもが鮮血に染まっている。アランには、意思を持たないその赤い眼が、彼の血を吸って怪しく光ったように思えた。『愚かな人間……』無感情な少女の声に嫌な予感がした。
「笑っちまうよなぁ、世界を滅ぼす神の使いが、こんなガキの器に入っていやがる」
「……ヒュー?」
「ま、野郎と心中するより、マシってか?」
「ヒューレット!!……なんで? 早くその子から離れ――」
「はっ……何だよ、守りたいものが、……あるんじゃ、ないのか? ……俺の命ぐらい懸けてみろ! アラン・レッドフォード!!」
目の前に立つ彼の表情は良く見えない。今、自分が解っている事といえば、彼はもう助からないということ。そして彼を殺すのは、他でもない自分自身であるということ。いつかこんな日が来ることは、解っていたのに。どうして失わなければ、守れないのだろう?
血の味がする。
「……光は静寂への誘い、」弱い光が地面に円を描く。
「……それでいい」
せめて、これ以上、君が苦しまないように。
「闇は永久への運び、我、かの地への扉、」光は徐々に強くなり、魔法陣を形成する。
「よく、やったな、アラン……」
褒められるようなことは、何もできなかった。
「今開かん」地面を濡らすのは、涙、雲を貫く浄化の光。
涙を流す資格など、僕にはないのに。
「楽しかったぜ」
「クロス・ゲート」最後の呪文は、鮮やかな光の中に包まれる。
僕は、君のことだって守りたかった。
†††††
一瞬何かが光って、世界が静まり返った。
漆黒の闇。
頬に何かが触れた、白い、小さな光の粒、空から降ってくる。
なんとなく、リトには分かってしまった。
もぅ、あの人は帰ってこないのだと。
「御神さま……アラン、どうして?」
言葉も、涙も、夜の闇に溶けていく。
光の粒は降り続いた。何ヶ月も、何年も、やさしく世界を包み込むように。
2.名前のない物語
……今日も、あの、雪の夢を見た。
暗闇を照らしながら降りてくる、雪の粒を見上げている。
もう、随分と立ち尽くしている彼に、声を掛けようか悩んで、結局やめた。
†††††
蒼い空から光の粒が舞い、大地はどこまでも白銀。遠く水車の回る音が聞こえる。
透き通った川の流れ、その先には小さな森、正確には森だった場所がある。シャリ、シャリ、と音を立てるブーツは重く、その後を青い影がついてくる。足元を見下ろして、自分の他にもう一人、来訪者がいることを改めて確認する。
「リト、こんな所にいたのか?」
随分と探したんだぞ、腕組みをしながら正面に歩み寄った。
天を貫く大きな結晶、青々と葉を広げる木々に抱かれて、あのヒトとの想い出の場所は今も変わらず、ここにある。石碑に触れながら、リトと呼ばれた少年は振返る。
「ねぇ、リュシュアン。僕が女神になって、もぅ五年にもなるんだね」
「あぁ、そうだな……早く行かなくていいのか、ゲートが開くぞ」
「僕は世界を終わらせに行く。止めるなら今のうちだよ、リュシュ」
「別に、止める気などない」
「うーん、それも寂しいんだけど……」
「リト、誰もお前を恨んだりしていない」
「……ありがとう、リュシュ。じゃぁ、御神さま、僕行きます」
変わっていくのは、人の心か、この世界か。
「……残酷なのは、俺も同じだな」
いずれにせよ、時間が無いのは、どちらも同じという事。少しでも可能性があるなら、それに賭けるしかない。リトの小さな背中を追いながら、リュシュアンは独り言ちる。彼の頬を撫でる風は木々を揺らして、サラサラと乾いた音をたてた。
「聞こえているなら、あいつを護ってください。あなたはそういう人だったはずです」
†††††
きしむ廊下、締りの悪いサッシに収まった曇ったガラス。剥げた壁の落書き、埃っぽい教室に差す西日は、古い校舎を一層際立たせる。
冬はいつもそうだ。日常の何もかもが色褪せた様に、空の色ばかり印象的で、光の屈折が視界を狭めるからか、出来事はいつも他人事のように遠いところにある。
放課後の校庭では、逆光を浴びながら、野球部がグラウンドの整備をしている。本館から離れた特別棟の二階、コンピュータ室。カタカタとキーボードを叩くが響いている。
「綾人くぅん、あれできたぁ?」
廊下から、鼻歌交じりの陽気な声が近づいてくる。
「一馬……これ、お前が言い出した題材だろ? ちゃんとやれよ」
ため息混じりにそう言うと、さっきまで使っていた『古代文明の暗号』というファイルをメモリに転送する。
「情報提供はしてるじゃん。今日も、家寄ってくだろ?」
「情報源だけ、の間違いだろ。……バリューセットおごりだからな」
電源を落として、神城綾人はメモリを抜き取る。
「わぁかってるってぇ。あ、そーいえば、スタバの割引券が……期限切れですぅ。綾人くんざぁんねぇん!」
井上一馬は本屋の息子で、カウンタの店番は彼の日課だ。というのも、彼の父親が本の仕入れに熱中するあまり、肝心の経営をすっぽかしているからというのが主な原因のひとつである。そんなことでいいのか? 人様の家の事情をどうこう言うつもりはないが。
「またタダ働きかよ?」
「晩飯くらいならでるよ」
「あっそ」
駅から歩いて十五分、商店街の一画にあるのがここ、『井上書店』である。倉庫だった部分と、母屋を改造して造った家は、街路側に書店、奥が倉庫兼コレクタールーム、その間に申し訳なさそうに居住スペースがある。店で取り扱う本よりも、保管されている物の方が多いらしく、もはや『家の本』ではなく『本の家』と化してしまっているのが家族としては悩みの種なのだと、以前危機感の欠片もなく一馬が話していた。かくして、井上家の人々は二階暮らすことを余儀なくされるのだ。
無論、父親は本をまったく手放す気がないので、結局、倉庫兼コレクタールームは展示、閲覧のみで公開しているわけだが、(入場料大人五〇〇円、中学生以上二五〇円、それ以下の方立ち入り禁止)それでも一部マニアに人気があるらしく、利益は上々なのだそうだ。
とはいえ、一般誌から専門書、古本まで取り扱う、『敷地の割りには、品揃えの良い本屋』というのが一般的なこの店の評価である。
「いま資料持ってくるからぁ」
一馬はそういうと、店の奥に消えていく。綾人は店の中を散策することにした。もぅ何度も来ているので、本の並びは把握している。
「この本、何でこんなに白いんだ?」
そこは古本が並ぶ棚のはずだった。保存状態が良いもの、といってしまえばそれまでだが、まるで本が自ら光っているかのような、不思議な違和感があったのだ。紙の質感は少しごわついた古書独特の肌触りで、多少の日焼け感はあるもののあまり使用感のない本だった。
「……こんなに分厚いのに、白紙? 作品名も、作者名もない」
……チリーン。
突然、何処からか鈴の音が響いた。
「何?」
……チリーン。
正確には、金属を打ちつけたような……風鈴の音に近いかもしれない、と綾人は思った。その場から動けずに立ち尽くしていると、仄暗い店の奥から音はどんどん近づいてくる。綾人は、耳というよりも、頭に響くその音が頭の中で反響し、恐怖に変わっていくのを感じていた。
そんな彼の心境に同調するように、今度は足音が聞こえてきた。その足音は本棚を挟んだ向こう側をぺたぺたと歩き、丁度棚の切れ目の辺りで止まった。綾人はその辺に立掛けてあったホウキを構える。これでも彼は剣道二段なのだ。
「何してんの? 資料、持ってきたよ」
身構えている綾人を、きょとん、とした感じで見ながら一馬が言った。
「……なんだ、一馬か」
「なんだとは何さ、失礼しちゃうよ」
両手に抱えた資料を、ぼすん、とサイドテーブルに置きながら、一馬はぷぅと頬を膨らませている。一気に気が抜けてしまった綾人は、「そんなことしても、可愛くも何ともない」と友人にツッコミをいれ椅子に腰掛けた。
資料というのは、『歴史的建造物に関するレポート』という提出物を作成する上で必要なもの。世界遺産のような物を思い浮かべてもらえば分かりやすいと思うが……。
「……一馬、アンコールワットとか、マチュピチュ遺跡とかは分かるけどさ、ヤマトとアトムは違うんじゃないかな?」
「超歴史的じゃない?」
「やる気がないなら、今日はもうやめようぜ?」
テーブルに突っ伏して、ふと本棚を見ると、先程の白い本がまた目に入ってきた。惹かれるようにその本を再び手に取る。
「なぁ、この本、なんで何も書いてないんだ?」
「えぇ? 何も書いてない本なんかあったかなぁ」
見せて、と一馬が本を手にしてページをめくってみる。
「どーれどれ、……む、なんか文字がぁ?」
その声に綾人が覗き込むと、黒いインクで文字が書かれていた。
「……誰かが、書いてるのか? 禁じられた本が……開かれる?」
……チリーン。
†††††
目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
白い霧が満ちて、光が何処から差しているのか分からない。
「ここは、どこ? ……一馬ぁ?」
……チリーン。
「また、この音」
霧の中から、誰か近づいてくる。
「ここは『時空(とき)の硲』、僕たちの間ではそう呼ばれている場所です」
金髪に白い肌、碧色の瞳。外国の人形みたいだな、と綾人は思った。
「君は?」
「僕はリト、女神です」
「女神って……子供じゃないか」
丁寧で大人びた口調、でもその容姿は華奢でとても幼い少女のようだ。
「綾人さん、貴方の力をお借りしたいんです」
どうして名前を知っているんだ? 当然のように綾人は思ったが、何も言わないことにした。何だかとても眠い、頭がぼーっとするのは、この、濃い霧のせいだろうか?
「何を言っているのか良く分からないんだけど、俺、遊びに付き合ってる暇とかないんだ」
夢なら、さっさと覚めたらいいのに。――ここはなんだか、とても寂しいところだから。
「お願いです! ……僕たちの、悲しみを……終わらせて!」
他にも何か言っている様だったが、綾人には聞こえなかった。
†††††
「何言ってんだよ!」
「ひぎゃっ!!」
左手が何かにぶつかった。
「たたた……何も言ってないよぉ、痛いなぁ」
顔を抑えながら一馬が訴える。どうやら覗き込んだ拍子に拳がクリティカルヒットしたらしい。眼が涙目になっている。
「一馬! 今まで何処にいたんだよ?」
「何処って……、ずっとここにいたよ」
缶ジュースで顔を冷やしながら、一馬はうめいた。
「今ここに、人がいなかった?」
「いないよぉ、もぅ閉店だもん。まったく目ぇ開けたまま寝ないでよ、怖いなぁ」
「……じゃぁ、さっきのは、やっぱり夢? それにしては、妙に――」
考えようとすると、また視界は白く霞んでいく。
……チリーン。
(もぅ、時間がない! 早くしろア……!)
いつか見た夢の中の光景。それは今までになく鮮明で、においとか、体温とか、本当にそこにいるような感じがした。炎がまだ、あちこちで燻ぶっている。
「早く逃げろ!」
「……ほへ? なーに言ってんの。確かに煙くさいけどさ、魚を焼いてるだけだってば。母さぁん! 換気扇、換気扇! 回すの忘れてるってぇ」
「一馬? あ、そう、魚。魚焼いてるのか」
「どーしたの、綾人? ぼーっとしちゃって。冬なのに汗ビッショリ、熱でもあんの?」
「いや、疲れてんのかな……悪い、今日やっぱ帰るわ」
「おだいじにぃ」
†††††
マフラーの間から、容赦なく冬の白い手が伸びる。凍りついた夜空が印象的で、悠然と浮かぶ満月が、どこかこの世界を造りモノのように演出している。石を投げたら、そこから砕けていきそうだ。
綾人の部屋は二階の南側、窓に向き合う形で机が置かれている。
「はぁーぁっと……ん?」
仰向けにベットにダイブすると、投げ出された鞄の中から本が覗いているのが目に入った。
「持って帰ってきちゃったのか、おかしいな棚に戻したと思ったけど」
綾人は白い本を手に取る。
……チリーン。
気配を感じて綾人は視線を移した。窓辺にリト(……といっただろうか?)が佇んでいる。
「ここからでも、見えるんですね」
「お前!? 何でここに」
「女神ですから」
「あーまだそれを言うの。そんな冗談に付き合っている暇はないんだ、って言わなかったか?」
「僕たちにも時間がありません。あなたの力を貸して頂けませんか?」
「だから! 訳が分かんないって言ってるだろ。いきなり現れて、自分は女神だの、悲しみを終わらせろだの、力を貸せって? 冗談だろ? SF映画の主人公じゃあるまいし、俺にそんな力ないっつーの」
「冗談なんかじゃないです!」
「だいたい、ものを頼むにしても、礼儀ってもんがあるんじゃないのか? これって不法侵入だぞ? まったく、親の顔が見てみたいね!」
「……両親は、もぅいません」
「あの、僕の話が理解できないのも仕方ありません、でもこれだけは確かです。綾人さん、貴方には僕たちを救えるだけの力があるんです。そして貴方が望んでいようと、…望んでいなくてもその時は必ずやって来てしまう」
リトの姿は、窓の外に消えていった。
「……なんなんだよ? 何で消えるんだよ!? ランプの精かあいつは。どうせなら願い事くらい叶えていけてのっ」
考えるより先に分かっていた。ヒトだった、あれは幻なんかじゃなく、確かにそこにいたのだ。そして確実に、綾人の前から消えた……まるでゴーストみたいに。
リトの台詞が蘇る。
『望んでいようと、望んでいなくても、その時は必ずやって来てしまう』
「……知るかよ、そんなの」
冷たく冷え切った部屋、頼りない強がりだけが響いた。
†††††
その夜はなかなか眠れなかった。――変な夢ばかり見るからだ。
……チリーン。
「またあの鈴の音……あれって……」
石碑の前に少年が立ち尽くしている。
「っく…ひっくぅ、御神さま……っ」
少年は頬を涙で濡らし、ただ、ただ石碑を眺めては、刻まれた文字をその小さな指でなぞった。
【アラン・レッドフォード】
「ねぇっ! な、んでっ、御神さま……なんで、帰ってこないの?」とうとう少年はその場に座り込んでしまった。
少年に寄り添うようにして、青年が立っている。愛しそうに少年の髪を撫でる彼を、綾人は何処かで見たことがあるような気がした。
「おいっ、お前! ……えーっと、リトとか言ったっけ?」
綾人の声は、少年には聞こえていないようだった。
「君の声は、リトには聞こえない。少なくとも、この時間を生きている間は」
綾人の声に答えたのはあの青年だった。
「何で、あなたには聞こえているんです?」
「僕はこの時間を生きているから。……いや、生きてるって言うのは、違うのかもしれないけど」
「?」
「あの石碑、僕のなんだよ」
「幽霊なわけ?」
「どちらかというと、透明人間、かな?」
青年はいつの間にか少年の横に腰掛けて、泣いている彼を心配そうに覗き込んでいる。
「なんで、死んだの?」
「大切なものがあったんだよ。どうしても、なくしたくなかったんだけど」
力なく青年が笑う。
「でも結局、何も守れなかったのかもしれない。こんな、小さな子供の笑顔でさえ…」
「そんなことないんじゃない?」そう言って、綾人は青年の肩に触れた。
……ドクン、ドクン、高鳴る鼓動。
「うぐっ……はっぁ、な、ん……」
急なめまいと胸の痛みにYシャツを掴んだ。ガンガンと頭の中がうるさい、耳の奥で何かが湧き立つような音がする。
(行かないでっ、僕をひとりにしないで!!)
コートの裾を必死に掴む少年――これは、リトだ。
(僕はいつでも、君のそばにいるよ)
優しくリトの頬を撫でながら、これが最後だと自分に言い聞かせる。
(――俺の命ぐらい賭けてみろ!!)
親友の声に涙が込み上げてくる、犠牲になるのは自分だけで十分だった。
(すまない…)
ただいつもの風景を、変わらぬ日常を守りたいだけだった。この力はそのためのものだと、信じていた。
歪んでは消えていく様々な場面、初めて見るもののはずなのに、そのどれもが綾人の心を締め付ける。
「っなんだよっ!なんで、こんなのが見えるんだよ? 何なんだよ一体!!」
「……僕は、君を知っているような気がする」
「な、んで……?」
「もしかして、君は――?」
青年は何かを呟いたようだった。
触れることさえ叶わぬなら、壊してしまえば良かったのかもしれない。
その方が、彼らにとって幸せと言えたのだろうか? 憎しみで生きていけるなら、
いくらでも自分を恨んでくれて構わない。
でもそうでないのなら、そうでないのなら、やはり間違っていたのかもしれない。
この手はもう、温もりを持たず。指先は感覚を忘れ。
この姿は誰の目にも映らず、言葉は何者にも響かない。
残ったものはなんだろう?
†††††
自分が泣いていることに気づいて、綾人はかぶりを振る。仮にも今は授業中だ。ノートが真っ白なのを目にしてさらに苦笑した。
「夢なんかで泣いて、どうかしてるな」
「同感だなぁ、神城。俺様の授業で居眠りするたぁ、イイ度胸してるじゃねーか?」
「はぁ、どうも」
「昼休み、分かってんだろーな?」
「……御意」
あぁ、これは昼飯抜きな方向だな。こんな事なら、さっき一馬と購買部に行っておくんだった。後悔先に立たず、とはこのことだな。などと思いながら、綾人は制服のポケットに手を突っ込んだ。小銭に混ざって、硬い、細長いものの感触がある。
「……鍵? 何の鍵だっけ」
昼休みの屋上、綾人は空を仰いでいた。
正確に言えば、手足を投げ出してコンクリートに寝そべっている。
「あぁ、腹減ったぁ……居眠りくらいであんなに雑用押し付けて、職務怠慢もイイとこだ」
……チリーン。鈴の音が遠くから響いてくる。
「まーたお前か。悪いけど、いまはツッコミを入れるエネルギーも残ってないから」
リトは何も言わないで微笑んでいる。相変わらず人形みたいな顔だな、と綾人は思った。
「……あのさ、」
「何でしょう?」
「何か、食い物持ってない?」
「すいません、何も……」
「…だと思った」
――ぐぅうきゅるるぅーぐきゅうるきゅうるるー
「植物になるにはどうしたらいいんだろう? 人間が光合成できたら、かなりエコロジィだと思うんだよ」
「――? はい?」
「……案外お前はボケ殺しだな」
ふぅ、と短くため息をついて、綾人はリトに向き直る。
「どうせお前は、同じ事言いに来たんだろうからさ、ついでに俺の質問に答えてよ」
「どうぞ」
「お前、男なんだろ? なんで女神なんだよ?」
「『女神』というのは、役職の名前です。あちら(、、、)とこちら(、、、)の世界の橋渡しをするのが主な仕事になります」
「……ふうん、まぁよく解んないけど。ここからが本題、『アラン・レッドフォード』って何者なんだ?」
「何処で、その名を?」
「何処だっていいだろ? 教えてくれよ、あれは一体……」
バンッ!と突然ドアが開け放たれた。
「いやぁ、災難だったなぁ綾人くん! そんな君に、おれから愛の宅配便だよ♪ ……あれぇ、どちら様?」
購買部で再度買ってきたらしい、焼きそばパンを手渡しつつ一馬は尋ねる。
「えーと、こいつはその、」
「あ、理解した。おれ、邪魔しちゃった? ……んじゃぁ頑張って」
一馬は綾人とリトを交互に眺めながら、独自の結論に達したらしい。ぐっと親指を立てて、そそくさと退散しようとする。綾人はその肩をがしっと掴んだ。
「おいこら、ちょっと待て。何を理解したんだ? このスポンジ頭」
「そんな、照れなくてもいいんだよぉ。とうとう君にも、春が来たんだね? どうりで去年よりきれいになった訳だ。……でも綾人にそんな趣味があったなんて。以・外」
「ないっつーの!」
思いっきり一馬の頭をはたく。
「もぉ、いくらスポンジでもねぇ、多少の衝撃により劣化していくんだよぉ?」
頭を擦りながら、一馬は一応反論してみた。
「初めまして、一馬さん。僕はリト、女神です。」
「へぇ、かわいいのにしっかりしてるねぇ」
「……そこ、何も突っ込まないの?」
「やだ、綾人ったら、子供の夢を壊すようなこと、おれにできるわけがないでしょ? いいじゃない、女神どころか、そう、子供はみんなエンジェルだよ! さあ、おれの胸に飛び込んでおいでぇ」
「はいはい、小芝居はそのくらいにしてくれ。」
「えー?」
「じゃぁ、俺たちは授業があるから」
「では、後ほど」
……チリーン。
誰もいなくなった屋上の上で、リトは静かに目を閉じた。意識を集中すると、そこには濃い霧の世界が現れる。
「リトか? もうゲートが閉じるまで、時間が無いようだ。急げよ」
「リュシュ、あともう少しだよ。……きっと終わらせる、きっと」
「そうか……、お前、無理してないか?」
声の主の姿は見えない、彼の言葉に少しの不安が混じっていたのに、リトは驚いた。
「どうしたの? 君がそんなこというなんて、……らしくないよ」
「まったく。どうかしているな、俺も、この世界も」
†††††
「……なんでついて来るんだよ?」
「だって、一馬さんにお呼ばれしましたから」
放課後。校門を少し出たところで、案の定リトが現れた。
「いいじゃない。人数いた方がぁ、宿題も早く終わるし、楽しいしぃ」
そして綾人の予想を裏切らずに、一馬が「家で一緒にお茶でもどう?」なんて軟派に声を掛けたのだ。当然、リトはにっこり笑って頷いた。
「悲しいことは半分にぃ、楽しいことはさらに倍!」
「まぁ、俺も聞きたいことがあるからいいけどさ」
横目でリトをチラッと見ると。どんなお家なんですか? と、楽しそうに一馬に尋ねている。
「すぐに分かると思うよぉ? ここを曲がってねぇ……、あれ、店閉まってる。買出しにでも行ったのかな?」
「いつもの気まぐれだろ?」
多分ね、と一馬は肩に提げた鞄をあさり始めた。
「こんなこともあろうかと……じゃーん、これが目に入らぬかぁ!」
「!! それは……」
「どうした? 鍵がそんなに珍しいのか?」
「ぁ、いえ……なんでも……」
(どうして、『扉』の鍵を一馬さんが……?)
手馴れた感じで、シャッターを開ける一馬を、リトはまじまじと見つめていた。そんなに見つめられると照れちゃうなぁ、一馬は笑いながら鍵を差し込んだ。
3.新世界、旅立ち
「『扉』は開かれた」誰かが、そう呟いた。
ここは何処だろう?……俺はこの景色を知っている。
最近見た、夢の中で。
濃い霧の中を進んでいくと、次第に霧が晴れていく。蒼い空から光の粒が舞う、それが雪なのだと気がつくのに、随分と時間がかかった。
「ここが、月都……」無意識に言葉に出す。
目の前に広がるのは、白い壁と煉瓦造りの町並み。日はまだ高い所に昇っているというのに、行き交う人の気配はない。すぐ側を歩いていたはずの、リトと一馬の姿はなかった。
「もしかして、また、変な夢見ちゃってるのか?」
勘弁してよ。一応ベタだなぁと思いながら、綾人は自分の頬を抓ってみる。
「いたた、……ということは、現実なんだ、これ」
その場にいてもしょうがないな、と綾人はそのまま狭い歩道を進みだした。煉瓦でできたアーチ状のトンネルを抜けると、そこまでで町は終わるようだった。辺りは一面雪原のようで、時々思い出したように林のようなものが見える。
「とりあえず、あそこの林まで行ってみるか」
はるか遠くに見えた木々が目前に迫った頃、綾人はそれがただの雑木林でないことに気がついた。その間から覗くのは、夢の中で見た、あの石碑だった。樹木に囲まれ、堂々と天を貫いている。
【アラン・レッドフォード】
閉じた世界の中で、虚空を見つめる彼の姿が、何故だかはっきりと思い出せた。キャラメル色の髪、深く凪いだ瑠璃色の瞳、騎士なのだろうか腰には細身の剣を挿している。あの戦場にいた青年だ。何度もなんども繰り返し夢に出てきた。その姿が目の前の青年に重なるのは、そう時間のかからないことだった。
石碑に寄り添うようにして、青年が立っている。夢の中の彼とは違う随分と華奢な印象を受けた。金色の髪、すらりと伸びた脚。不意に振返った瞳は碧色で、綾人と目が合うと、恥ずかしそうに微笑んだ。
どこかで、会ったことがあったかな?
「アランは僕にとって師であり、兄のような存在でした」
懐かしそうに語るその声には聞き覚えがあった。
「もしかして……リトか? お前、背が」
綾人の記憶力が正常なら。確かついさっきまで、リトの身長は綾人の胸くらいだったはずだ。ところが、この目の前の青年は、身長こそ綾人に及ばないが、目線はほぼ同じくらいの高さ。中性的な顔立ちはそのままに、何故だか妙な色気がある。
「あ、この姿ですか? きっと『扉』を開けたから、時間が戻ったんだと思います。……変ですか? 僕も急にこうなったので、なんだが違和感が…」
服もちょっと丈が短いですよね、ゆるくウェーブのかかった髪をいじりながら、リトは自分の身体を確認している。
「時間が戻るって?」
「僕たちの時間は、七年前。『トワイライト・シグナル』を境に一度、止まっていたんです」
綾人の問掛けに、リトは遠く、空を見つめて答えた。蒼い空からは相変わらず、光の粒が音もなく降り続いている。
季節は変わらずに過ぎていくのに、どんなに月日を重ねても、鏡に映る自分はあの日のまま。
目の前を舞う光の粒が、どこまでも景色を隠していくから、今日まで歩いた道を隠していくから、分からなくなる。
今日は明日なのか、昨日のままなのか。
あまり深くは聞かない方が良いのかもしれない。綾人は、リトの横顔を眺めながらそう思った。この場所に来てから感じている、言様のない寂しさの原因は、おそらくそこにあるのだろう。
「ところで、一馬は? 一緒じゃないのか?」
†††††
「……消えちゃった」
開け放たれた店の扉、薄暗い店内を見渡しても、そこには自分以外誰もいない。カウンタの上には、明細に混じって本が広げてある。
数日前、綾人が見つけた白紙の本。
突然、店内を風が吹き抜けた。窓は何処も空いていないはずだった。明細を吹き飛ばし、本のページをめくっていった。
「なんだぁ? 今の風」
吹き飛ばされた明細を拾いながら、ふらふらとカウンタに近き、本を覗き込んで、一馬は驚いた。
「文字が書いてある! ここも、この次も。……これより先はまだみたいだ」
そこに並んでいたのは、どこの文明かも分からない文字で、でも不思議と書いてあることが理解できた。何の根拠もなく、一馬は思った。
こういうの読めちゃうあたり、おれって何か、勇者っぽい! どれどれ、と一馬は最後のページを読んでみる。
†††††
市場に出ると、それまでの静けさが嘘のように、人混みで溢れていた。荷台に果物や、野菜が積まれ、所々人だかりのできた屋台では、独特の香りが賑わいを引き立てている。
「おや、あんた珍しい格好だね」
「あの、こんな格好の、背は俺と同じくらいの男、見ませんでした?」
制服を手で引っ張って、頭の上でこれくらい、というジェスチャーをしてみせる。
「いや、見なかったよ」
そんなことより…と、手前にある品物の何たるかを語りだす老人に、ひとまずお礼を言ってその場を後にする。あの手の老人は話し出すときりがない。早めに切り上げないと、日が暮れてしまう。
「ついつい聞いちゃうんですよね、ああいうのって何だか断わり辛くって…」
と、リトは苦笑した。
これで十八人目、酒場の主人や、織物屋のご婦人、ビラ配りの少年など色々聞いて回ったがまったく手掛かりは見つからなかった。リトの話を聞きながら、あちこち探し回っているうちに、日はとうに沈みかけていた。さすがに、少し心配になる。
「他に心当たりとかないの?」
「そうですね。……もしかしたら、一馬さんは僕たちのようにならなかった、とか?」
「というと?」
「もとの世界にいるのではないかと」
「それを、確かめる方法は?」
「ゲートを通れば…」
「ゲート?」
「えぇ、僕たちが通ってきた『扉』と別に、『ゲート』というものがあるんです」
「壁にくっつけると、別のところに行けるっていう?」
「え? えーっと、『扉』はそれぞれ鍵によって開閉をします。ですが、鍵は適合した個人にしか使うことが出来ません。『ゲート』は鍵を使わずに『扉』を開閉することが出来ますが、『門番』の力を借りて行うために、回数や期間、移動人数が限られてしまうんです」
地面に小石で図を描きながら、リトが説明する。
「何で、回数が限定されるんだよ?」
「必要以上の力を使うことは、命を削ることに等しいんだそうです。」
「……」
「でも、一馬さんの無事を確かめるのだって、大切なことです。急ぎましょう、日の入と同時に『ゲート』も閉じてしまいますから!」
†††††
突然、変な光に飛び込んだかと思えば、今度は、いきなりゴツゴツした何かの上に放り出された。
「うぅうわぁっあああっ!」
「わっ、ちょっ危ないっっ!?」
どすんっ、という音がして、一馬はカウンタから店の奥へと歩き出した。
「……なんだろ?」
「いっってー」
舞い上がる埃の中、何とか綾人は身を起こした。
「ちょっと不安定な転送でしたね。…やはり収縮時に無理に入ったのが原因でしょうか?」
埃を払いながら、リトは首を傾げる。
「さぁな」
足元に広がるそれを見ながら、綾人はぼんやりと答えた。二人が落ちたのは大量の本の山の上、埃っぽいはずだな、と小さく呟いた。
倉庫の中から話し声が聞こえる。さっきから店に入った客は皆、書店の方を利用しているはずなのに。まさか、座敷じゃないのに、座敷わらしだろうか? 一馬はゆっくりと扉を開いた。
「それより、戻ったのか? これ」
「どうでしょう?」
「綾人?……何処から入ったの?」
「…おぅ」
「無事、のようですね」
本棚の端からひょいと顔を覗かせた一馬は、山積みになっている本を避けながら、二人の側に近づいていく。綾人の耳元に顔を寄せて、一言囁いた。
「ねぇ、誰? …まさか綾人って、あっち系なの?」
そして、また一言余計だった。
「あのなぁ!」
「もしかして、今までおれのことをそんな風に!?」
「何系でもないっつーの! 俺は普通に女の子が好きなんだよ!」
「あは、それはまたオープンな発言だねぇ。…いた、いたたた!」
何を言っても無駄なようなので、綾人は実力行使に出ることにした。
「暴力反対! 暴力反対ぃぃぃっ」
綾人に頬を抓られながら、ギブ、ギブ、と一馬が訴えている。これが二人のコミュニケーションなのだろう、と勝手に解釈したリトは、まったく止める気はないようだ。
「つい先ほど別れたばかりだと思いますが、何事もなくてよかったです。一馬さん」
「は? 先ほどだって? あっちで半日探し回ったんだぞ?」
「それは、あの、時間の捻れがあるみたいで…。あちらと、こちらで」
「? 二人とも、随分と仲がいいんだねぇ。綾人にこんな友達がいるなんて知らなかった」
「まぁ、気づかないのも、無理ないとは思うけど…」
「えぇ!? これリトちゃんなの?(…というか、男だったの?)お兄さんは誇らしい反面、実に複雑な気分です」
やっと、見つけた。
何処からか声がした。綾人は声の主を探したが、三人の他に人影はない。
「一馬、何か言った?」
「うぅん? 何も?」
†††††
瞬きをした次の瞬間、綾人はまた白い霧の中にいた。ここは『時空の硲』、あちらとこちらを繋ぐ場所。
「また、会えたね?」
「俺、あんたの事、知ってる」
「怖いな、一体僕のこと、何処まで知ってるの?」
「名前、アラン・レッドフォードって言うんだろ?」
「うん、正解。…他には?」
「さぁ?」
「僕もね、君を知ってる。君が僕だから。僕の生きたかった世界を、君が見せてくれたから、知ってるよ?」
「それって、どういう意味?」
「少し、ここで待ってて」
†††††
「おーい、あやとー? 綾人ってばぁ、まぁた眠ってんのぉ? ……あ、起きた?」
「やぁ一馬、会えて嬉しいよ」
「あ、頭でも打った?」
心配そうにこちらを覗き込む少年に微笑を返す。手の温もりが心地よく、懐かしさに泣き出しそうになる。
――あぁ、本当に僕は。
その先を考えるよりも、優先させることがあるのを思い出して、リトに向き直る。
「リト、ちゃんと説明しないと、彼ら(、、)には分からないよ?」
「え? 説明ですか? ……綾人さん、いきなりどうされたんです?」
自分の発言にリトが戸惑っているのを見て、そうだった、と再認識する。
綾人(いま)の身体では、自分がここにいることさえ、彼には理解できないんだろう。さっきの反応で、一馬たちに詳しい事情までは、言わないつもりでいる事も分かった。それが彼の選んだ選択なら、自分はもう何も言えない。
「いや、大した事じゃないんだけど。さっきの、月都だっけ? あそこにでっかい城みたいなのがあっただろ?」
「ぇえ、所々崩れてはいますが、大戦時の神殿です」
「やっぱり? 丁度良かった。そこに連れて行ってくんない?」
「それはまた、……どうして?」
「な、なんだよ。ヒトをあれだけ、しつこく誘っておいて。その気になったら、ごめんなさいか」
「解ったぁ! 神殿ってぇ綾人、レポートの取材だねぇ? いやぁ、熱心ですこと! 一馬感激!!」
「……まぁ、そういうこと。一馬もちょっと、手伝ってよね?」
「それはいいけど」
「あの、でも『ゲート』はもう閉じてしまいましたし……、次に開くのは」
「そう、だから一馬に手伝ってもらうんだよ。一馬、その本を広げてくれるかな?」
「こう?」
綾人は頷いて、何か呪文を唱え始める。
「歩み行く先に、光多からんことを。我かの地への導き手、錠を解き放つものなり」
光の中に霞んでいく姿に、リトはかつての恩師の姿を見た。もう二度と、触れることは叶わないと見送った、あの背中を。
その影はこちらを振り返り、微笑んだ。
「あなたは……」
「リト、大きくなったね?」
「御神、さま、なのですか?」
†††††
4.城壁にて
「どうなってるんだ? 俺、勝手に動いてるし、しゃべってる」
「いま、君の身体を動かしているのは僕なんだ。勝手にこんなことしてごめんね? でも、口で説明するよりも解りやすいかな、と思って」
「……逆に、理解に苦しみますが」
「前に言ったよね? 君は、僕だって。いまの君は、今までの僕同様、意識として存在しているんだ」
「急にそんなこと言われてもさ」
†††††
今は見る影もないが、かつてはここも栄えた都だった。崩れた建物には、黒い煤と獣の爪跡。多分その辺に見え隠れしているのは、祈りの届かなかった亡骸なのだろう。
ぽっかりと開いた穴は、そこだけ世界を切り抜いた様で。邪魔な天井も、仕切りも無く、斬新で芸術的だ。そこら辺に転がっているのは、粉々になった貴族の装飾品。雨ざらしの煉瓦が時を感じさせる。
風に揺れる薄桃色の金髪、白いワンピース。その細い脚で、城壁の上を歩きながら、少女は言う。
「へぇ、リト見つけたんだぁ」
「その様だな」
それに答えたのは、黒い軍服の男だった。
「あたしも早く逢いたいなぁ、カミシロ・アヤト」
「逢ってどうする」
「お話しするのよ」
「話?」
「レイチェルには解らないの、だからお話しするのよ。”守りたい”ってどういうことって」
「くだらない」
「だって、ウィル・クロードは何も教えてくれないんだもの。アラン・レッドフォードが言っていたわ、”大切なものを守りたい”って」
レイチェル・レイチェルは、何千年も前から存在する『eveの卵』から生まれた、最後の使徒。魔物を操り、異世界の力を使う、少女の姿をした兵器であった。
使徒が『eveの卵』から生まれる時、それは世界の終焉を意味する。彼らのなかに在るもの、彼らが唯一知っているもの、それは、破壊だけだからだ。
彼女もまた例外ではなく、レイチェルは、瞳に映るすべてのものを壊していった。
あの、光が、天を貫く瞬間までは。
彼女には、『トワイライト・シグナル』を境に人格が生まれたのだ。
「サヨナラ、そしておやすみなさい。悲しいけれど、あたしはまだ、死ねないの」
†††††
――あの日。ウィル・クロードは、まだ炎が立ち昇る瓦礫の上を歩いていた。自身も傷を負い、それでも尚、負傷者や生き残ったものがいないか探していた。酷い出血で、数歩歩いただけで倒れそうになる。
(…ざまぁないな)
こんな事なら、もう少し真面目に軍の訓練を受けておくんだった。今更後悔しても、しょうがない、とにかく今は歩かなくては。一人でも多くの人を助けなければ、自分はまだ生きているのだから。
物音がして路地裏に入ると、かろうじて逃げ延びたのであろう、親子の姿があった。
そしてもうニ、三人。黒いローブに身を包んだ人物達、おそらく、全員男だろう。こちらは、傷、汚れひとつなく、燃え盛るその中で平然としている彼らに、異様な雰囲気があったのを覚えている。
「御神さま! どうか、この子をお助けください!」
「ぃたいっ…痛い!ぁ頭が…割れ…っ…」
母親の悲痛な叫びにも、子供の狂ったような絶叫にもまったく動じず。慈悲をかける訳でもなく、聖職者の穏やかで、冷たい言葉が聞こえてきた。
「諦めなさい、その子は、天命をまっとうしたのです」
「ですがっ」
ローブを掴んだ母親の手を振り払って、立ち去ろうとする男達。鼓膜が破れそうな、子供の叫び声に耐えられなくなって、ウィルは飛び出した。
「お前ら、それでも御神かよ!? こんなに苦しんでるじゃないか!」
そこで初めて彼らの顔を見た。薄暗いローブの下の顔は、どれも不敵な笑みを浮かべていた。凍りつくような、一瞥。その腕が親子の方へと伸びる。
「そうか……ならば」
パンッという音がして、親子の方に目を向ける。そこには、変わり果てた二人の姿があった。
「なに、してんだよ?」
寄り添う二人を見下ろして、ウィルは男を睨みつけた。
「なんで殺したんだよ! 何も、殺すことないだろ!!」
「殺した? 人聞きの悪いことを言う、我々は、救って差し上げたのだよ。生きなければ、という苦しみから」
「こんなつまらないことに、力を使ってなどいられない。優れた力は、優れた者に使ってこそ意味を成すものだろう?」
悪びれた様子もなく、当然の事を行っただけだ、と鼻で笑った。
「……自分たちだけ助かれば、それでいいのか?」
「人々の幸福に、多少の犠牲は付き物だろう?」
「ふざけるな!」
ウィルは男に斬りかかる。だが、それはあっさりかわされ、ウィルは砂を噛んだ。
「我々を、御神と知って刃向かうのか? 小僧。……ふん、威勢がいいのは口だけか?」
「良く見れば、傷だらけじゃぁないか?」
「くくくっ命乞いでもするなら、助けてやっても良いぞ?」
「っ誰が、そんなことするか!」
「………ならば、死ね」
「弾を使うのも惜しい」
冷たく言い捨て、男達はそこを去って行った。
「くそっ………、くそぉおぉっ!」
自分の力の無さに腹が立つ。神なんかを信じていた自分が馬鹿らしい。もし本当に神がいたのなら、あんな奴らを生かしたりなんかしないだろう。
薄れていく意識の中で、様々なことが浮かんでは消えていった。
(何のために、俺は……)
その時だった。あんなに赤々と染まっていた空が一瞬光り、漆黒の闇から、光の粒が振り出したのは。
投げ出されたウィルの掌に、光りの粒が降りる。
「…雪?…あぁ、だから…こんな、寒い…」
「ねぇ? アナタの壊したい物、あたしが壊してあげようか?」
声がして、額に何かが触れる。温かい、ヒトの、温もり。重い瞼を開くと、そこにはこちらを覗き込む少女の姿があった。
(どうして、こんなところに?)
何も言えず、ウィルは少女を見つめていた。
「アナタ、死んじゃうの? ………私の力で治してあげる」
(昔、どこかで…?)
再び、少女がウィルの額に触れると、長い髪が顔にかかった。
「!?」
やわらかい感触、緋色の瞳は彼に向かって微笑んだ。
「少し休めば、気分も良くなるわ。………どうか今だけは、良い夢を」
夢を見ていた。それは、一度だけ父と二人で行った遺跡の夢だ。
「ウィリアム、見てごらん。綺麗だろう?」
キラキラと光る水晶の中には、少女が眠っている。
「うん、すごく。でも、笑った方がもっときれいだよ」
「そうだな、父さんもそう思うよ」
「いつか、目を覚ましたら、笑ってくれるかな?」
「きっと、な。ウィル、お前は優しいから、きっと気に入ってもらえるよ」
「おれでも?」
「あぁ……でもお前は優しすぎるから、強くならないとな」
強さとは何だ? それは大切なものを守るために、大切なものを奪う力。
強さとは何だ? それは涙を捨てること? それは心を縛ること?
強さとは何だ? 強くなってしまってから、失うものもあるのだと気づく時が来るだろう。
辿り着く時、そこに誰もいない悲しみに、耐えることも強さだろうか?
「俺には、強さの意味が分からないよ……父さん。力があれば守れると思ったのに、何ひとつ守れなかった。」
遠い日の記憶。あの大戦で司令官だった父は死んだ。形見といえば、この紅い剣。身体はバラバラになって回収ができなかったそうだ。だから、この石の下には何も無い。記憶だけが、彼を生かし続ける。
「それを、父さんは知っていたの?」
涙が流れなくなったのは、あの時から。
「……変わりに、俺が死ねばよかった」
心が凍ったのは、たぶん、あの時から。
目が覚めると、もう日が昇っていた。木陰で横たわる自分の傍らには、少女が一人、腰を下ろしている。目を覚ましたことに気づいたのか、歌うように彼女は話し始めた。
「あたしね、世界を終わらせるために生まれたの。でもね、突然いろんな声が聞こえるようになったの、気持ちが解るようになったの。人間て不思議ね、すべてが矛盾しているの。幸せになりたいのに、誰かの不幸を望んでいる。平和を作るために、争ったり、殺しあったり。……とっても変、だけどとっても面白いわ。あたし、知ってる。こういうの、興味深いっていうのよね」
「俺を、助けたのは、何故だ?」
「ねぇ、大切なものって何かしら? アナタにとって大切なものってなぁに? それをアナタは、守りたいって思ったりする?」
「守るものなんか無い。……もぅ、誰もいない」
「じゃぁ、あたしと一緒ね。コレも知ってる、似たもの同士っていうのよね」
「ねぇ、ウィル? あたし、知りたいことがたくさんあるの。もっと教えて? あ……でも、アナタの壊したいものを、壊してからの方がいいかしら? えーと、これは…」
「……交換、条件か?」
「そう、それだわ! それならいいでしょ? ねっ♪ ウィル♪」
「……解った。だが、その前にいくつか聞きたいことがある」
「ええ、喜んで♪」
「お前、何処から来た?」
「たまご。『eveの卵』ってアナタ達は呼んでいるけれど」
(――ああ、確かあの遺跡の名前も、そんな名前だったな)
「お前の、名は?」
「レイチェル。アナタ達人間からは、そう呼ばれているわ。多分、他の名前もあったのかもしれないけど、もう、覚えていないの」
(――ねぇ、父さん)
「……目的は何だ? お前は何がしたい?」
「あたしは、世界を終わらせるために生まれてきたの。だから、終わりにするのが目的。何がしたいかって聞かれたら、いまは、いろんなことが知りたいの。いろんな、いろぉんなことよ」
(父さんはそれを、知っていたの?)
†††††
何もない空間で、言霊だけが響いている。儚げな光りは宙を舞い、交差したり、並行したり、一定の周期で点滅を繰り返している。
「平等な世界なんて、何処にもない。平等なんて何処にもない。あるとすれば、変わらずに、流れ落ちる時間だけだ」
「平和を望む限り、争いは終わらない。平和の先にあるものは、支えきれないほどの悲しみと、抑えきれないほどの憎しみ。数え切れないほどの、大切なものを失ってまで手に入れる、一握りの幸せにどれはどの意味がある? その先にあるものは、終わりなき混沌だというのに」
「人は、ヒトの上に常に立っていたいと願うものだ。だから位をつけたがる。自分よりも優れていないものを見ると、ホッとする。不幸な人間を見ると、安心する。残酷なものだな。人類皆平等だなんて、卓上論理でしか、ありえないのだから」
「故に、焦がれるのだよ」
「人の心ほど、見えぬものはないよ」
「人の心ほど、醜いものはないよ」
「人の心ほど、愛しいものはないよ」
†††††
5.秘密基地
崩れ落ちた建物の中を進んでいく。何かRPGのダンジョンみたいだ、と綾人は思った。
(丸腰だし、モンスターに出くわしたら即死だな)
内側と外側から自分を眺めながら、まるで他人事のような気分でいた。意識として存在している。それは、本当に変な感じだ。自分の身体が触っているのだから、感覚はある。五感というものは、どうやら存在している。ただ、綾人の思うようには動かないようだ。
(結構古い建物だなぁ、ほら、この柱の造りとかさぁ)
(ここは、月都で一番古い建造物なんだよ。最も、先の大戦で、一部が崩壊しちゃったけど)
綾人の言葉に、アランは頷いた。
「あまり変わってないなぁ、ここも。リュシュアンや、みんなは元気にしている?」
「えぇ、みんな元気にしていますよ。あの、御神さま? 何故ここに来られたんですか? 重要な書物などは、すべて、他へ移されたと聞いていますが」
「御神さま、なんて。昔みたいにアランでいいよ。といっても、姿は綾人なんだけどね………僕がここに来たのは、確かめたいことがあるからさ」
「なら、もっと別の…」
「書物じゃなくて、記憶をさ。神様とその守人に聞きたいんだ」
「神様、ですか?」
†††††
小さな頃、僕には何もなかった。もちろん、初めからそうだったわけじゃない。でも、気がついたらひとりだった。親も家も、居て良い所も無くなっていた。
空だけを見ていた。雨だって関係ない。ただそうしていたら、忘れられる気がしたから。空腹も、寂しさも、自分が生きているって事さえも。あの雲のように、流れていくような気がした。
閉まっていくドア、外に並ぶ人影、汚い罵声、銃声。だけど僕には、そこから出る事ができなかった。……いつも見る夢だ。あの時、僕もあのドアの向こうに行けたらよかったのにな。
また、あの夢が来る。
「これが、あの、第Ⅷ都市? 話には聞いていたけど、酷い」アランは呟いた。
「虐殺の果てに、か。政府自ら行った行為の隠蔽、……生存者の救済とは、よく言ったものだな」
お偉いさんの考える事にゃぁ、頭が下がるぜ。と、ヒューが吐き捨てる。
「あれは…」アランは、倒れている少年に駆け寄り、抱き起こして呼びかける。
「きみ、君、大丈夫? ……息はあるみたいだけど、脈が弱い。早く医者に診せないと」
「医者ったって、あいつ等皆政府の犬だぜ? ここの生き残りだなんていったら、診察どころか、殺されるぞ」
「だからって……そう、じゃぁ、僕の力で治してみせる」
「力って、お前なぁっ!」
「いま使わないで、いつ使うの。……君の言いたい事だって、分かるけど。もう僕は、人が死ぬのを見るのは、たくさんだよ」
この間も、襲撃にあった町で、たくさんの動かないものを見てきた。両親を亡くした三人の子供を保護したのも、その時だった。
何も理解できていない、子供たちの笑顔を見て。アランは、それが良い事なのか悪いことなのか解らなくなった。いつか真実を話した時に、傷つくのはきっと彼等なのだから。
「内なる焔を絶やさぬために、神の身元に灯す光、共に分かつ命よ」
ぽぅっ…とあたたかい光が、二人の周囲を巡り、少年の胸へと入っていく。
「これで、とりあえずは、大丈夫だと、思うんだけど……」
「さっきよりは、顔色が良くなったみたいだな」
「……ヒュー。僕、少し休むから、その子、起きたらよろしく」
「あぁ、ッたく、寝つきだけはいいんだよな」
深い黒の中に、あたたかい光が見えた。沈んでいく僕を、引き上げるみたいに。
ここは寒くなくていいな、そんな風に思った。
「…だれ?」
「目が覚めたのか? まぁ、そんな硬くなんなよ。」
誰も、獲って食ったりしねぇからよ、冗談ぽく笑って、ヒューは少年にカップを手渡す。
「俺はヒューレット。そっちで丸まってるのがアラン、お前を見つけたのはそいつ」
「眠っているの?」
「あぁ」
「……じゃぁ、また、目を開けられるね」
少年はアランの額に触れ、生きてるんだもんね、と小さく囁いた。
「?」
「助けてくれてありがとう、この人にもそう伝えてください。……じゃぁ、僕行きます」
「行くって、何処へ?」
「僕の帰れるところなんて、何処にも無いけど…」
ここじゃないのも、解ってるから。少年はそう言って、一歩踏み出した。
「っちょっと待って」
「もう、平気なのか?」
「だいぶ、ね。君、あそこに戻るのはやめた方がいい」
少年は微かに笑う。諦めることに慣れたような、ぎこちない笑み。
「誰も帰ってこないのは、解ってるんだ。……だけど僕には、あそこしかないんだ。」
「ごめん、言い方が違ったかも知れないね。僕が言いたかったのは、そういう意味じゃなくて……」
「何なんだよ?」
「え、うーんと。ちょっと! ヒュー、顔怖いよ!………隠していてもしょうがないから、とりあえず聞いて? 僕はさっき、君に力を使った。それはね、魂を分割する魔法なんだ。だから、いまの君は物質的に不安定で壊れやすい。あ、それは暫くすれば、君の魂の一部として安定するから、安心してほしいんだけど」
「魂を、分ける?」
「つまりね、ちょっと様子を見たいから、もう少し僕らと一緒にいてほしいんだ」
「おい、そんな魔法、普通の教典じゃ載っていないはずだよな?」
「そ、そんな怖い顔しなくてもいいじゃない!」
「まさか、お前っ!…………ん? なんか、お前縮んでないか」
「あぁ、これね。本に書いてあったよ? よくあるみたいなんだ。魂を分けると、その分が減るんだって。その、生きてきた時間を減らすわけだから、引き算と同じ原理だね」
「だね、じゃねぇだろ! それじゃ、最終的に赤ん坊じゃねーか?」
「それは違うよ、ヒュー。最終的にはなくなるんだよ。この魔法はね、禁則魔法のひとつなんだ」
「禁則って、なんでそんなの! ……っお前、また隠れて書庫に!!」
「探究心の賜物だよ。成功したんだから、結果オーライでしょう?」
「アラン! お前はもっと自分をっ!! っ………ちったぁ考えろよ…」
「うん、ちゃんと考えてるよ。ありがとう、ヒュー。ねぇ君……うーん、いつまでも君じゃ変だね、名前は? 何ていうの?」
「………リゼット」
「終焉と再生を意味する『z』を、名前のどこかに入れる。ここ特有の名付け方だな」
だから、名前を聞いただけで出身がマル解りな訳だ。とヒューが補足する。
「じゃぁリゼット、僕達は君の事をリトって愛称で呼んでもいいかい?」
「どうぞ」
「よし、決まり。リト、これから僕達の秘密基地に案内するよ、ついてきて」
「僕達って、俺も入ってるのか?」
都から少し離れた場所。緑の生い茂る道を進むと、微かにヒトが生活している気配を感じることができる。いつ頃の建物になるのだろう? 木と煉瓦で造られた小さな家がそこにはあった。ツタのはった壁は、所々緑色で。あちこちに補強した跡が見え隠れしている。
「古い家でしょう? 向こうの方は、まだ修理が終わってないんだけど」
そう言って、アランは少し離れた所にある小屋を指差す。屋根部分が朽ち果てて、崩れ落ちた残骸が恨めしそうに陽を睨んでいる。
「下の柱は結構頑丈でね、上のをどかせば何とかなりそうなんだ。僕はあのままでもいいと思うんだけど、ヒューが危ないからって直してるんだよ……別にいいのに」
「うるせぇな、お前はいいだろうが、ちび達がうろつき回ってアブねぇんだよ!」
「過保護は嫌われるよ? おとーさん」
「誰が、おとーさんだ」
手入れがされてないわけではない。むしろ行き届いている。その落ち葉も、木漏れ日に移ろう光も影も、すべてが計算されたような、不思議な空間がそこにはあった。
「きれいな、所ですね」
リトの囁きのような声に、気にいった? と子供のように彼は笑った。
「ずっといても良いからね。僕たちはもう、家族なんだから」
そう言ってアランは手を差し伸べる。
「…ぇ?」
いま、家族といったのだろうか? リトは、大人にしては華奢なその掌に触れた。
「そういう奴なんだよ、あいつは。見てるこっちが恥ずかしい」
ヒューは呆れたようにそう言って、家の中に入っていく。
ドアを開けると、小さな子供が三人パタパタと駆け寄ってくる。
「みんな、ただいま。ちゃんといい子にしてたかい?」
「アランおかいりー、ね、ごはんはー?」
「いい子してたのー」
「ヒュー肩車ぁ、約束でしょー?」
ひよこみたいだな、リトはあっけに取られながら、そう思った。
「はいはい、みんな、新しい家族を紹介するよ。リトだ、仲良くね?」
リトがよろしくと頭を下げると、彼らの目は瞬く間に輝いた。
「ねー何の遊びすきー?」
「おいしーもの作れるー?」
「おねえちゃ、いくつー?」
あちこち引っ張られながら、質問攻めにあってリトは、頭がくらくらしてきた。
「そんなにいっぺんに聞いたら困るだろう? ……ねぇ、リュシュは何処に行ったの?」
アランの問いかけに、子供たちは次々に話し出した。
「リューはあすこ、いつものとこ」
「ひとりで考えごと、じゃま、だめなの」
「ひみつがいっぱい」
「ねーっ!」
「ふぅん、そっか。ありがとう」
「リト、こっち。話し相手がいた方がいいでしょ?」
「……みんな元気ですね」
「まだまだ、今日は静かな方だよ。……賑やかなのは苦手かな?」
「いえ、ただ慣れてなくて…」
「はは、大丈夫。すぐに慣れると思うよ」
離れの二階、ちょうど崩れ落ちた屋根の残骸をたどりながら、アランは屋根の上へと消えていく。リトも急いで後を追っていくと、隣接した木の幹にはいくつかの杭が打ち込まれて足場を作っているようだった。見上げる程の高さに、人がやっと二人座れるようなスペースがあって、そこに向かってアランは声をかけた。
「リュシュ、ちょっといいかい?」
顔を覗かせた人物にアランは手招きをする。彼は手摺を乗り越え、数メートルある高さから飛び降りた。タン、と必要最低限の音を立てて、二人の前に着地した。
「なにか?」
「彼は、今日から新しい家族になったリト。リュシュとは年も近いと思うから、話し相手になってあげてね。」
「は、初めまして、リトです。えっと、リュシュ……さん?」
「リュシュアン」
「口数は少ないけど、別に怒ってる訳じゃないんだよ?」
「リュシュ、僕たちはまだ仕事中だから、夜は先に寝てて。……あまり夜更かしするのはよくないよ?」
「えぇ、分かっています」
「あ、戸締りはちゃんとしてね、リトにもいろいろ教えてあげて?」
「おいアラン、夕飯の支度が済んだら行くぞ」
家の扉の前にヒューが立っている。手には夕飯の材料になるらしい野菜のたくさん入ったカゴ、第一印象とのギャップにリトは驚いたが、似合い過ぎている彼のエプロン姿に何もいえずにいた。
「リュー、今日はお団子のピストなのー」
「ばか、団子じゃねぇんだよ」
「ヒューがね、お祝いだからってー」
「早く食べよー」
「まだ仕上げってないだ……ろ?」
その口には何やら、ソースのようなものがくっついている。…よく見ると他の二人も口元がもぐもぐと動いている。
「つまみ食いしてんじゃねーー!」
「きゃーぁ、ヒューが怒ったぁー」
「あはは、元気だね。じゃぁ、僕たちは行ってくるよ」
「…………いってらっしゃい」
「リューぅ、お腹すいたぁー」
「あぁ、いま行く。……盛り付けくらい、出来るだろ?」
「う、うん」
「………その前に身体を洗ってこい、服は代わりを置いておくから」
サラダの盛り付けをしながら、沈黙が続く。リュシュアンは多分盛り付けの方に気を取られていて、自分のことを構っている場合じゃないのだろう。きびきびと動く彼の手元を見ながらリトは思った。
「……何か、知りたいことは?」
ドレッシングをかき混ぜながら、突然思い出したようにリュシュは口を開いた。
「じゃ、じゃぁ。ここでの決まり事とかは?」
不意打ちだったので、リトは声が裏返った。たちまち顔が真っ赤になる。リュシュは下を向いたまま答えた。
「当たり前のことをすればいい、それだけ」
「あ、そうだ。みんな君にすごく懐いてるみたいですね。兄弟なんですか?」
「いや、大切なのは確かだろうけど。同じだからな、こいつ等も、俺も、君も」
「僕も?」
リトが不思議そうに訊ねると、リュシュはリトの目をじっと見ていった。
「そうだろ?」
急に見つめられて、リトは慌てて話題を変えようとする。
「僕は……、そ、そうだ。アランさんってどういう方なんですか?」
「どうって? あのままの人さ。空気のように包み、陽だまりのように穏やかで、笑顔を絶やさない」
「素敵な人ですね」
「あぁ、本当に」
こんな風に笑うんだ、リトはその時そう思った。でもその表情は、すぐに姿を消してしまう。その瞳は、何かを見据えるように、悲しく冷たい影を落としていた。
†††††
「記憶が見えるんだ、俺には」
リュシュアンの秘密。いつだったか、彼が話してくれた。なんでそんな話になったのかは思い出せないけれど、リトはこの先何回もその場面を思い出す。
「過去とか未来とか関係なく、その人の見ていたビジョンで」
「見ていた?」
「命あるものは、いつかは死ぬだろう? 俺はその時点でのビジョン、つまりは記憶。記憶の断片が見えるんだ」
「リュシュアン、それはおかしくない? だって、未来の記憶なんて、どこにも無いじゃない。まだ起こってもいない事を見るなんて……」
それって、予言っていうことでしょう? リトは信じられない、と驚きの声をあげた。
「時間は常に一定の方向に流れる、これは変えられないことなんだ。でも、ここではない世界が、平行して存在するとされている。だけど、これらの世界が交わることは、絶対に無いんだ。」
紙に図を描きながら、リュシュはリトに説明する。
「それじゃぁ、なんで?」
「ヒューの話だと、ある時点での誰かの記憶が、何らかの理由で、別世界の誰かに伝わることが稀にあるらしい」
「僕のも見えたりするのかな?」
「見えたよ、君がここへ来る前の晩」
リュシュは、何も言わない。何も、聞かない。
「何も言わないんだね。言いたくなったりしないの?」
「ばかいうなよ。見えるのなんて、聴きたくもない話ばかりだ。思い出したくもない話なら、しない方が良い。不安にさせるくらいの未来なら、知らない方が言いに決まってるからな」
こんな力は、何の役にも立たない。そう言ったリュシュの横顔は痛々しく、リトは軽はずみな自分の言葉を後悔した。彼の中に見えた影の正体は、背負わされ、行き場を失った悲しみの記憶なのだ。
「アランの未来も見えた?」
「あぁ、だいぶ前に見たよ。出会う前」
「どんな未来だった?」
「世界の終わりさ、アランが死ぬ時、世界も死ぬ」
「それで? ……それを話したの?」
「笑ってたよ、『世界が死んじゃうのは、困るなぁ』って」
「リュシュアン、未来は、変えられるのかなぁ」
「今はなんとも言えない。でも、いまを生きてるのは俺達なんだ。変えなくちゃいけないんだ、未来を」
6.戦場のふたり
それは、いつの会話だっただろう?
たぶんあの時、この世界で一馬を探していた時に聞いたのだと思う。”悲しみを終わらせる”とはどういう事なのか、何故、リトがそれを行わなければならないのか。
一つ目の質問にリトはこう答えた。
「世界を終わらせる、ということです。あ、心配しないで下さい。綾人さんにはお手伝いをして頂くだけですから」
二つ目の質問には、ぼんやりとこう答えた。
「それは……僕が半分、死んでいるから、でしょうか」
怖くないのか?
たぶん、そんな風に聞いたと思う。世界が終わる、自分が死ぬっていう事が怖いと思わないのか。嫌だとか思わないのか? リトは、普段と変わらない口調で言ったのだ。凛としたその声には、迷いも何もなくて。ただ、まっすぐで……だから、怖いと思ったんだ。
「怖くはないんですよ。僕はあの人の所へ、還るだけだから。意味のある死、だなんて格好良いものじゃないですけど。それでも、それが誰かの為になるのなら、僕はそれでもいいと思うんです」
「それでいいって!? なにが……」
「リュアユアンや他のみんなも、同意の上でそう決めたんです。綾人さん、知ってます? 世界が終わっても、意思は残るんですよ。僕たちの信じる神の教えなんです。『すべては創造の神のもとに』」
「……誰かの為になんて。そんなのは、甘えだろ? 意思が残ったって意味ないだろっ!? そんなのっ、生きてないと意味ないだろ! 無くなるんだぞ? 死んだら全部、無くなるんだぞ?」
「それでも、僕は行かなくちゃ。いつか来る未来のために」
†††††
「生きる事は死ぬ事、死ぬ事は生きる事。たぶん、どちらも同じくらい難しいわ。でも、受け入れなくてはならないの。それが最初の約束だから。人と神との最初の約束」
†††††
「ここで何をしている?」
「えっ、あの、僕たちは……」
不意に後ろから声がして、リトは振り返った。
そこにいたのは、黒い軍服の男。鋭い眼光で背は高く、黒い髪が無造作に風に揺れている。腰には紅い鞘に納まった、長身の刀。柄には、銀色の刻印が刻まれている。
「何をしている?」
「だ、だから………えぇっと」
「レイチェルは、いま何処に?」
アランがそう言うと、男の顔が一層険しくなったように見えた。
「……カミシロ・アヤト、か」
重い空気が辺りを包んだかと思うと、甲高い声が一瞬でそれを吹き飛ばした。上空にふわり、と白い影が過ぎる。
「ウィル、何してるのぉ?」
少女が男の腰に手を回して抱きついた。足元までのびた薄桃色の髪、燃える様な緋色の瞳。
「……レイチェル、離れろ」
「もぅ、恥ずかしがり屋さんっ」
ウィルと呼ばれた男は、ため息をついて頭を抱えた。
「お前に客だ」
「やっと逢えたね、アヤト。いいえ、今はアラン・レッドフォードなのかしら? ずっと待っていたのよ、あなた達がここに来るのを」
彼女は膝を折ってお辞儀をする。いかにも可憐なお嬢様といった感じだ。
(何で、俺の事知ってるの?)
「だいぶ様子が変わったね、レイチェル」
「ちゃんとお話しするのは、はじめてね」
「そっちの彼は、その刻印からして……」
「ウィル・クロードだ」
「……御神狩りの?」
リトはその名前を聞くなり、顔を強ばらせた。
七年前に噂された、御神狩り。ある派閥の御神だけを狙った犯罪者。当時は賞金が賭けられ、指名手配にまでなったにも拘らず、手がかりひとつ掴めなかったという。
「違うわ! ウィルは!」
「あぁ。世間では、そんな風に言われているらしいな」
「ウィル!」
「……レイチェル。どう言われようと、俺は俺の信念を貫くだけだ」
「だってっ……だってぇ」
「お前が、そんな風に泣くのをはじめて見たよ。」
まるで、人間みたいだ。少しだけウィルは表情を崩した。
「だって、だって、あなたは正しいことをしているだけなのに」
「正しいことですか? 『トワイライト・シグナル』の後、御神達を殺して、その為に都が廃れていったっていうのにですか?」
ウィルは何もいわず、まっすぐにリトを見つめていた。
「――っ何でウィル! なんで何もいわないの!? 悪いのはあの人達なのに、リトは何も知らないからよ! あたしはずっと見ていたわ。あの人達は都も、都の人達も全部犠牲にして、自分達の利益の為だけに、あの戦争を起こしたのよ! ……都が廃れたのだって…」
レイチェルの声は震えていた。
「レイチェル、もういい」
「あのね。御神の中に、不審な動きをしていた者がいたのは、本当だよ。あの日、警護にあたらなかった御神が、数人いたらしいんだ」
記録書を片手にアランが言った。
――まだ、来ないのか?
――分かっていた事だろ? 『あの方』達は、初めっから手を貸す気なんて無かったのさ。
断片的な記憶の中で、綾人はその光景を見たことがある。そんな状況でも彼はまだ、信じていたかったのかも知れない。
(裏切られた、ってこと?)
「そうだよ、アヤト。だからヒューもアランも死んだんだよ、リト。あたしを殺せなかったから」
「なぜ、あなたを?」
「あたしが、終焉と創造の神だったから。……あたしが、憎い? リト。大好きなアランを奪っちゃったんだものね」
「……それは」
「失うことから生まれる感情は、憎しみや悲しみだけじゃないんだよ、レイチェル。それはすごく努力が必要だけど、それを乗り越える強さだって生まれるんじゃないかな?」
だからリトは、ちゃんと、ここにいるんだよ。アランはリトの肩に手を置いて言った。
「失ってからでは、無くしてからでは、すべての事に意味はない。それは、お前だって身に染みて解っているんじゃないのか? アラン・レッドフォード」
苛立ちにも似た、ウィルの低い声が今度はアランに向けられる。
「……確かに、無くしたものは、おおきいよ。すごくね」
アランは曖昧に笑って、それで得たものも、少しはあると思いたいよ、と瞼を閉じた。
(ねぇ、『あの方』って結局誰なのさ?)
「ディートハルトは、いったい何を望んでいるんだい?」
「永遠の命よ」
(そんなのが、本当にあるっていうの?)
「俺達は、それを止めるために、奴を探していた。今度は、トワイライト・シグナルの被害だけでは済まされない」
「そして、やっと見つけたの」
「奴は時を待ってる」
「………時を?」
「混沌が満ちる時、奴はまた動き出す。その前にあいつを討つ」
「ウィル、君は……」
「何を今更、後悔なんてしていない。この手をどれだけ汚そうと、信念だけは貫いてみせる。……その結果、悪だといわれようと関係ない」
「ウィルには、あたしがいるわ」
「復讐の為にしか生きられない、馬鹿な男だと笑ってくれ」
「そんなこと無いわ! 絶対に、……笑った奴なんか、あたしが許さないんだから!」
レイチェルは、頬を膨らませて言った。ウィルは、彼女の頭を撫でながら、堪えきれず、声を出して笑った。さっきまでの険しい表情からは想像もできないほど、彼の眼は優しかった。
「こんな調子だ、心配には及ばない。ただ、もし俺達が帰らなかった時は、後を頼む」
ウィルの眼は、リトに向けられている。
「僕に?」
「その為に、歩んだ道なんだろう?」
「あなたなら出来るわ、リト。だってあなたには、アランもアヤトも、みんながついてるんだもの」
「俺達も、お前に期待しているよ」
「どうしてそんな事!?」
「汚れた手だからな、俺の手は」
刀にまわした掌を眺め、苦笑交じりにウィルはリトに問いかけた。
「リト…………お前、強さとはなんだと思う?」
†††††
薄暗い空の下、屋敷の明かりが不気味に照らすその中で、小さな影が呟いた。
「神様でも、怖いことってあるのね」
すぐ隣にいる背の高い影は、形を崩さないまま応えた。
「何だ?」
少しだけ間をあけて、躊躇いながら小さな影は口を開く。
「少しだけ、死んでしまうのが怖いの。……ウィル、あたしは天国に行けるかしら?」
少女を横に見ながら、男は出来るだけ素っ気なく答えた。
「さぁな、行けるならそのまま進めばいい」
「行けなかったら?」
服の裾を掴む少女の細い指、場違いな笑みがこぼれた。
「その時は一緒に行こう。苦しくても、それでも、一人でいるよりましだろう? そしたら、今度は、俺が君を守るよ」
その言葉に、レイチェルは嬉しそうに笑った。
「一緒に歩いてくれるの? あなたが?」
ただ見つけた。恋人でもなく、家族でもなく。ただ心から大切だと、守りたいと想う人を。
「あぁ、約束する」
「行きましょう。ずっとあなたが側にいてくれるなら、もぅ何も怖くないわ」
ウィルは、差し伸べられた手を、自分が知る限り優しく握った。
あの日あたしが、あなたを助けた理由。言ってなかったね。あなたはもう覚えていないかもしれない。あたしは心を持って、神ではいられなくなった。でもあたしは違うから、人間として生きることもできない。あたしをあたしとして見てくれたのは、あなたが初めてだった。――きれいだっ、て。言ったのよ?遠い昔、思い出したの。あたし、あの時、うれしかったの。
たとえそれが、終わりへの歩みなのだとしても。たとえこの命が、消えて無くなるのだとしても。
隣にあなたさえ、いてくれたら。
最後に瞳に映るのがあなたなら、最後に触れる身体があなたなら。
あたしはそれだけで、もう。恐れるものは何もない、怖いものなんて何処にもない。
……ただ、あなたまで死んでしまうのは、やっぱり悲しいのだけれど。
それでも、離れ離れになるよりはずっと良い。
二人でいることを知ってしまった今ではもう、永遠に一人でいることに慣れることはないだろうから。
「ねぇウィル、あたし解ったの。大切なものは、ずっと、近くにあったのね」
守りたいものは、本当に、本当にありふれた時間。
失ったことさえ、忘れてしまいそうな、かけがえのないもの。
7.辿りつくために
「綾人さん、ここからは僕ひとりで、大丈夫ですから」
扉の前でリトは立ち止まった。
「今更何言ってるんだよ? 俺も行く。そのために、ここに来たんだろ?」
「あなたをこれ以上、巻き込みたくないんです」
「何だよっ! ここまで無理矢理連れてきたくせにっ!」
「……ほんとだ。僕、勝手なこと言ってますね」
微かにリトは笑みを見せる。
「神の祝福があらんことを」
リトが指先で印を結ぶと、綾人は光の線に包まれる。
「おいっ、リト!」
「……あなたには、帰るべき、場所があります。……待っている人達がいます。大切にして、すべてを、僕たちと同じ過ちを、繰り返さないで」
「リト?」
「お元気で…………アラン、生まれ変わったあなたに、二度も、苦しい思いはさせたくないんです」
†††††
建物の中にいたのは、傷を負った初老の男。真新しい刀傷、だが刀の持ち主はどこにもいない。瀕死の傷を負って尚、この男は平然と立っている。
煌々と燃える松明を背に、興奮した様子で男は超えたからかに叫んだ。
「素晴らしいと思わないか? 私は生きている! あの御神狩りでさえ、私を殺すことはできなかったのだ」
「ふたりをどうした!」
「消えたんじゃないのか? レッドフォードといい、あの小僧といい。まったく、私をなんだと思っているんだ」
「……七年前、アランを裏切ったのは、貴方?」
「裏切る? 利用させてもらっただけだ。皆の望む『美しい世界』を創るためにな」
「こんな世界の何処がっ! あのヒトが守りたかったのは、こんな世界じゃないっ!」
「では、どんな世界だったというのだ? 聞かせてほしいものだな」
「貴方に説明するまでもない。話すだけ無駄だよ、世界はもう戻らない」
「貴様、何者だ?」
「……僕は、女神だ」
「女神だと? はっ、女神如きに何ができる?」
「何ができるって? こんな世界を終わらせることくらい出来るんだよ!」
「……結界、だと?」
「その結界を使える者は、もういないはず……エリアⅧは皆殺しにしたはずだ!」
「あぁ、そうだよ。僕以外皆死んだ、貴方たちに殺されたんだ!」
「貴方なら解るはずだ、ディートハルト………この結界が何なのか」
「滅びの結界……禁忌を犯すつもりか!!」
「貴方には邪魔だったんだろう? 僕たちのこの力が、一族の言霊と己の血を持って発動する創生の力。いくら望んだって、貴方の想い描く未来など創れはしない。創らせない!!」
「邪魔をするなぁぁぁっっ!!」
「僕が止める。あのヒトだったら、そうするように。あの人たちが守った世界を、取り戻すために」
「――紅き血の契約により、我、ここに召喚す―……これで、終わりです。……僕も、貴方も、この世界も!!」
死ぬことは恐くない。そんな風に言ったら、また、怒られてしまいますね。
悲しみのない世界に、いつか。
――いつか。
†††††
閉じていく世界の中で、私は地に膝をついた。
あの時の青年がeveと現れた時、信じられなかった。その時はすでに、手の施しようもなかったのだから。生きていたことへの安堵と、止められない負の衝動に震えていた。
――叶えたい願いがあった。
犠牲の上に成り立つ、願いなのだとしても。それが、私の生きる。生きていく、ただひとつの理由だった。
もう一度、君に逢いたい。理不尽な君の死を消し去りたかった。
「もうすぐだよ、マリア…」
彼らの亡骸を見つめながら、幾度となく繰り返した、己の罪を思った。それでも、負の衝動は止められない。
女神を名乗る少年が現れたのは、その時だった。
いつから私は、狂ってしまったのだろう? すべては上手くいっていたはずなのに。
「邪魔をするなぁぁぁっっ!!」
――あと少しで、取り戻せるのに。
「あなた……」
もう、その場から動くことができなかった。目の前の君を見つめていた。
「あなた、もういいのよ……」
許されるなら、この腕に君を抱きしめたかった。伸ばしたなら、触れることができるだろうか?
「あぁ、マリア……やっと君に逢えた」
†††††
井上一馬は、父の店の店番をしていた。客の入りは少なく、丁度最後の客が、カウンタを後にした所だった。
「ありがとうございましたぁ。さってとぉ、書類の整理でもしますかぁ」
伝票に手を伸ばそうとした時、店の奥から音がした。
…どすんっ。
「倉庫かな?……さては父さん、まぁた変な風に本積んだなぁ?」
入り口に鍵をかけて、倉庫へと向かう。
「父さん、売り物なんだから、ちゃんと扱ってよね……って誰もいない?…ぁ」
床の上に人が倒れている。
「あ…やと?」
「ってぇ…」
「綾人!? 月都から帰ってきたんだな!」
「…………一馬? ってことは…本は!? 俺、早く戻らないと!」
「あぁ、それなら、カウンタの上にある……と思うけど」
言い終わる前に、綾人は店の方へと駆け出した。何事だろう?と思いながら、一馬はそれに続く。
「あった?」
「……これ、だよな?」
「うん。でもなんか違うよねぇ」
真っ白だった表紙は、幾つもの年月を重ねたように茶色く変色し、皺やページの破損が目立っていた。
「開くぞ」
綾人は本を開く。
「何も起きないね?」
「何で!?」
「まぁまぁ、落ち着けってぇ」
――鍵を……君に、………の最後を、――気が……なら。
「鍵を使えって、どうすればいいんだよ?」
「あぁ、それってこれじゃない?」
鍵は鍵穴に鎖すもんでしょ? そう言って一馬は本の表紙を指す。
「これのどこが、」
「ほらぁ、この辺じぃっと見てると、鍵穴に見えてこない?」
綾人が鍵をあてると、すぅっと本の中に入っていく。途中で止まり、そこで鍵を回す。
…カチャ。
「開いた」
ふたりは、本が放つ光に包まれていく。
†††††
目の前を、青年が歩いている。綾人の気配に気がついたのか、こちらを振り返る。
「ここで、お別れみたいだね」
「アラン、俺も行く」
「それはできないよ。月都は滅びゆく都、君の戻るべき場所じゃないよ」
「約束したんだ、悲しみを終わらせるって」
「悲しみはいずれ終わるよ、止まっていた時間が動き出したから。君のおかげ、ゆっくりと眠るように月都は消えていける」
「何だよ、それ。あいつは、……リトは今まで、何の為に」
「ねぇ、綾人? ヒトの命が永遠でないのは、何故だろうね? なぜ神は、ヒトを……人の心を、もう少し丈夫に創って下さらなかったのかな?」
「そんなの、俺には解かんないよ」
「僕はね、こう思うんだ。ヒトは限りある時間を、己の脆さを知らなければならなかったんじゃないかって。僕たちは、大切な何かに気付く為に、不完全なまま世界に落とされた種で。でも、その種がどんな風に育つのかは、神にも予想が出来なかったんだ」
「神さまってのは、何処でもそんないい加減なわけ?」
「いつも時代も、神とは純真無垢な子供だって説があるんだけど。僕はそれ、結構あたっていると思うんだ。その行いはあまりにも幼稚で、残酷。」
「平等なんてどこにもない、何が正しいかなんて誰にも決められない。結局は自分を信じるしかないんだよ。他の誰でもない、自分自身を」
簡単なことが、いちばん難しい。
そこに行き着くまでに、たくさんの時間が過ぎてしまう。
この世界は幻想、人々が創り出す記憶の世界。
どれが本当?
どれが嘘?
――そう、すべては…――
†††††
四角い天井に照明が点いている。まるい、ひどく冷たい月みたいだ。この場所を知っていた。幾千の朝も、夜も、ここで迎えてきたのだから。
「あ、綾人やっと起きたぁ、今回は長かったねぇ」
「…………長かった?」
「そう、本の中に入ってぇ、三日くらいは経ったかな?」
「そんなに?」
「月都には……リトちゃんには会えたの?」
「いや……」
「そっか」
「あの本は? もしかしたらまだ使えるかも……」
「綾人がいなくなった時、一緒に消えちゃったんだ。……もう、帰ってこないのかと思って、おれ、心配しちゃったよぉ」
「悪かったな」
「ちょっと、外に行ってくるよ。綾人が目を覚ましましたって伝えないと。あ、一応、店の脚立から落ちて頭を打った、ってことになってるからねぇ」
†††††
こうして消えていくのか? 過ごした時間も、そこにいた証明も。終わりがきたら消えていくのか? ”大切な何かに気づくために"彼はそんな風に言ったけれど、大切なものに気づけたら、何か、何かが変わるんだろうか? "大切な何か"の先に、終わりしかないのだとしても。
リト達は、そんなことの為だけに、生きていた訳ではないはずなのに。
俺は、何のために生きているんだろう? そんなことを、今まで考えた事がなかった。生まれたから、生きている。
目的なんてない。理由なんてない。
すべてはあるがまま、走り、立ち止まり、時に躓いて、時を越えていくだけ。
…チリーン。
遥か遠くで、微かに鈴の音が響いた。
8.籠の鳥
カウンタには少年が座っている。
「何か用事?」
何処にでもなく彼は問いかけた。
「驚かないんですね」
音もなく現れたのは、リトだった。
「禁則魔法を使ったんでしょ? すごいね!リトちゃん、世界を召喚しちゃうんだもん」
「……あれは、アランの力でした。変です、命を落とす程の魔法なのに、なぜ僕は生きているんでしょう?」
「きっと、そのイヤリングがリトちゃんを守ってくれたんだよ」
リトは、イヤリングを外してそれを眺めた。紅い綺麗な宝石が銀色の装飾に包まれている、アランのイヤリング。
『リト、僕はいつでも、君のそばにいるよ』
あの日、最後に交わしたのはその言葉だった。
「本当に、ずっと側にいてくれたんですね。なのに、僕は、最後の最後まであなたを……」
手のひらに、それを握りしめた。
「一馬さん、あなたは最初から知っていたんですか?」
「何を?」
「僕たちの事です」
「………知っていたよ」
何度となく生まれ変わった、それでも月都のことを忘れたことはない。
「リトちゃん、おれの事が知りたくて来たの? それとも……」
「僕の知らない、あなたの知っている事を教えて下さい」
「いつからかは覚えてないけど、ぼんやりとね。ヒューレットだった時の事とか、思い出す時があるんだ」
もうひとりの自分が訴える。自分にはまだ、使命があるのだと。
「ずっと誰かに呼ばれてる気がしてた。友達といるとき、授業のとき、街中にいるとき。特にね、月のきれいな夜は、すごく近くに聞こえるんだ」
「それが、彼だと?」リトの問に、頷いて一馬は続ける。
「そんな時、見る夢はいつも同じ。嘘みたいに、大きな月を眺めてる。ずっと果てしない時間。でもね、気がつくとそこは図書館なんだ。文字の海に浮かんでる。……いや違う、繋がれているんだ。そこから離れることができないんだ、永遠に――今も」
†††††
それが記録案内人として契約したものの使命だから。
『その身の自由と引き換えに、力を与えよう』自由を知らないあの頃の自分は、力を欲し、そして手に入れた。安定という名の、呪縛と共に。
それが、生まれて初めての裏切りだった。他者よりも自分を選んだ。
一瞬で、シェルターの中が紅く染まったのを覚えている。「信じていたのに」そう唇が動いた。動かない指先が自分を示して、輝きを失った瞳はどこまでも、何処までも、自分の中を見通している様だった。
息苦しさと、波立つ水面。その後のことは、良く覚えていない。ただ。
(あぁ、生きるということは、こんなにも苦しいのか)
自分を選ぶということは、他者を殺すのと同じなんだな。ホラ、皆、息をしていない。皆、おれを恨んで死んで行っただろうか? 言葉を交わしたことも無い兄弟たち、この何十億という細い管が、僕らの絆。
偽りの記憶の中で、永遠に彼らは眠るのだ。『生きること』も『生まれること』もなく。ごめんなさい、ごめんなさい。こんな事になるなんて、それでも、力が欲しかったんだ。
†††††
いっそのこと、感情なんて持ち合わせない方が良かった。誰もそれを自分には求めないのだから。自分が誰であれ関係ないのだ。記録こそが証明。記録こそが、命の鼓動。自分でなければならなかった理由など、何処にもない。これは契約だ、生きていくための。存在し続けるための――スペル。
物事をただ文字として処理する事、与えられた情報こそが、自分にとっての世界。この空間が、生涯。いま、この頬を流れる涙の訳を知らない。本当は知っている、この胸の痛みも。ただ、認めてしまっては、定義してしまったら、耐えられそうもないから。この文字の檻から、抜け出せないという事に。
運命を呪うか? この自分の無力さを? それは愚かな事だと解かっている。抗うことをしない自分が、最も憎むべき相手だという事は。
救われたいのか? ヒューレット・τ・シード。……お前の願いなど、叶いはしないのに。お前はもう繋がれているんだ。その手も、足も、瞳も、心でさえ、繋がれている。文字に、言葉に。力を手に入れた代償だ。この背中に、自由の翼など存在しない。
†††††
「綾人が、本を見つけてからかな、今度はもっと頻繁に思い出すようになった。鍵は気がついたら持ってたんだ。おれじゃない、もうひとりの俺の存在を認めるしかないでしょう?」
「では何故?」
「どうしておれが、この本の、扉の適合者なのか? それはヒューレットが記録案内人だからだよ。つまり彼は、他者との関わりを持ってはいけなかったんだ」
「ですが、ヒューは……」
「例外が生じたんだよ、アラン・レッドフォードっていうね」
†††††
天井まで伸びたたくさんの棚、そこは書物が隙間なく置かれている。
「ヒューレット、君の仕事はすごいね」机に腰を下ろしながら、アランは言った。
「どこが? こんな息の詰まりそうなところでする仕事がか?」皮肉たっぷりに返事を返す。
記録案内人は、事の起こり、経過を記述し管理する、士官の事。だが、その存在は公にはされず、都の内では架空の部署として極秘扱いされている。
「だってここには、たくさんの時間が眠っているでしょ?」
「……記録していることが、すべて事実かは定かじゃないけどな」
「?」
「俺は現実を知らない。俺の世界はこの古臭い本の山と、この窓から見える景色だけ。最後に土を踏んだのは、もう何年も前だ」
「何年も前?」
「記録案内人は待遇こそ違うけど、囚人と変わらない。広い牢屋に入れられて、後は一生、外に出ることを許されない」
「それなら、ここから出たらいい。自分の目で見て、感じたものを記録すればいいよ」
「出る? ここから?」ヒューレットは笑った。
「どうして笑うの?」
「アラン、記録案内人は外へは出られない。余計な先入観を持ってはいけないからだ。……本来なら、お前と話をする事だって禁止されているんだからな」
そう、本来ならこの場所を知られることもない。ここが存在しないものとして、存在しているから。なのにこの少年は、意図も簡単にその扉を見つけたのだ。
†††††
「いつもここで、何をしているの?」
扉を開けると、自分を見上げるようにして子供が立っていた。驚いて扉を閉めたが、それはもう遅く、子供はちゃっかり中に入り込んでいた。
「わぁ、これ、全部君がやっているの?」
宙を舞う本は、独りでにページを進め、羽根のペンは文字を描く。それは部屋のあちこちで動きまわり、まるで生き物のようだった。
「ねぇ、僕の声、聞こええてるよね?」
彼は、無言で少年を一瞥し、棚の間を歩き始めた。
(見回りの時間だ)
小走りに少年は後ろをついてくる。
少年の目の前に、紙切れが飛んできた。【出口はあっち⇒】と書かれている。
「それは知ってるよ、今入ってきたじゃないか。…………ねぇ、君話せないの?」
「…………」またも無言。
(そういえば今日は、新しい資料が届くはずだったな)
少年の前に、今度は本が飛んできて、あるページを示す。【記録案内人は例外を除き、外部のものと会話をしてはならない。例外とは…】
「記録案内人? それが君の仕事?」
その時、扉が叩かれた。
「仕事だ、ここを開けてくれ。資料で手が塞がってるんだ」
はぁい。と、少年が扉を開けようとするのを阻止して、【隠れていろ!】と書かれた紙吹雪が宙を舞った。それは、少年をすごい勢いで椅子に押さえつけ、部屋の隅に連れ去った。
彼は少年が見えなくなったのを確認すると、息を整えて扉に手をかける。
「すみません、今開けます」
「やぁ、ヒューレット。調子はどうだい?」
「まぁまぁですよ、今回の仕事はどんなものです?」
「うーんと、eveの卵についての資料みたいだよ」
「eveの卵?」
「あ、これ、差し入れ。糖分も必要だろ?」
「ありがとうございます」
また来るよ、頑張って。と、エヴァンは手を振った。ヒューはそれに軽く会釈を返す。
「なんだ、全然話せるじゃないか」少年が影から顔を出した。
扉にもたれ腕を組みながら、彼は呆れた様にため息をついた。
【お前、何のつもりだ? ここがどういう所だか解っているのか?】
「どういう?」少年は何も知らない様子で、首を傾げた。
【ここで見たことは忘れろ。俺の事もだ、いいな】
彼は少年に背を向けて、いま来た順路を戻り始める。
「どうして? 僕、ここに来たの誰にも見られてないよ。秘密なら僕、守れるよ」
少年の言葉に振り返って、視線で扉を示す。
【守るとかじゃない、早く出て行け】
「でも……」
彼は、言葉に詰まった少年を睨みつける。
【出て行け】
「わかった、出てくよ」扉に手をかけて、少年は振り返った。
「……ねぇ、さっきのあの本。あの本には例外が書いてあった。関係者ならいいって、あの人みたいに、話してもいいって書いてあったよ」
【だから、何?】
「僕がここの関係者になったら、君と話してもいいよね?」
「…………」
「そうしたら、友達になってくれる?」
【好きにすれば?】
その紙切れを見るなり、少年は嬉しそうに笑った。弾むように、扉の向こうに駆け出して行く。
「絶対だよ、絶対、ぜったい、約束だよ!」
(そんな約束、きっとすぐに忘れるさ)
「ヒューレット、君に会いたいっていう人を連れてきたんだ」
「俺に…………誰です?」
「はじめまして、ヒューレット。僕、アランっていいます」
「お前……研修生が俺に何か用ですか?」
「ええ、そうです」
「じゃぁ、俺は仕事が残ってるから行くよ」
「お疲れ様です」ヒューは軽く一礼をして、エヴァンを見送った。
「約束だよ、友達になってくれるよね?」
「何年前の約束だと思ってるんだ? 物好きな奴。……俺なんか、面白くもなんともないぞ」
「他の人より、面白いよ。信用もできそうだしね」
「何だ? 他の奴は信用できないのか?」
「そういう訳じゃないけど、みんな地位が欲しいから、僕に気に入られたがるんだ」
「別に良い事だろ? みんなヨロシクしてくれるんなら」
「僕はそれが嫌なんだ。君は、僕が何なのか、知らないでしょ?」
「何って、そんなすごいもんな訳? お前が?」
「あははっ、そんな風に話してくれるのって、君が初めてだよ」
「理解できないな」
「そう、理解できないんだ。人の命は平等のはずなのに、生まれた場所ですべてが決まる。この国はどうかしているよ」
「その歳で悟り開いてどうするんだよ」
「子供らしくないって、よく言われるよ」
「だろうな」
「改めて自己紹介、僕はアラン・レッドフォード。レッドフォード家の十三代目、兄弟がいないから、僕が次期当主になるんだって」
「へぇ、次期当主なんて、難しい言葉知ってるんだな。でも、…………だからか、なら納得」
「あれ、驚かないんだね」
「レッドフォード家っていったら、魔術師の名家だろ? そこの息子なら、この場所を見つけることが出来ても、不思議じゃないと思ってな」
「大抵はこの話をすると、みんな、僕への態度が変わるんだよ」
「ふぅん、俺には関係ないけど。まぁ、態度変えろってんなら、変えてやってもいいぞ? 坊ちゃん?」
「やめてよ、僕そういうの好きじゃないんだ」
「あっそ、ならもう今日は帰れ。仕事の邪魔」
「まだ、少ししか経ってないよ」
「じゃぁ、紅茶でも煎れて来てくれ。ミルク多めで」
「うん、分かった。ハチミツとかってあるかな?」
「入り浸るつもりか? お前」
「だって、研究資料の謁見に来てるのに、こんな短時間で帰ったら変でしょ?」
「研究資料なら、貸し出し許可出てるから、持って帰ればいいだろ」
「じゃぁ、帰りに持って帰るよ」
「帰りにって……やっぱり、入り浸るつもりじゃねぇか!」
「積もる話も……」
「ねぇよ」
「ヒュー、冷たい。エヴァンにはあんなに敬語でにこやかなのに」
「仕事だからな、友好関係は大切な訳。その辺お解かりですか? お坊ちゃま?」
「……僕の事、馬鹿にしてるでしょ?」
「そう聞こえたか?」
――少し前の出来事だ、ほんの数年前の。
「ヒューレット、何か良い事でもあったのかい?」
「何故です?」
「いや、彼がここに来るようになってから、明るくなったなと思ってね」
「そうですか? 変わった………かもしれませんね」
――何かが、変わってきている。
――これは、予感だ。
†††††
「もちろん、僕がここの書物を読むことも、ね」
「解っているなら……」
「少し時間がかかるかもしれないけど、僕が必ず、君を外に連れ出してあげる」
「俺の話、聞いてなかったのか?」
「御神試験に受かったら、必ず迎えに来るよ。絶対に、約束する」
もうこうなったら、聞く耳を持たないのがコイツの悪い所だ。……それが長所でもあるか?
「……期待しないで、待ってるよ」
力を手にしたあの日から。後悔と苦痛だけがすべてだったか、それは少しだけ違う。繰り返すのだ。後悔、苦痛、そしてささやかな喜びを。ただ、『生きている』限りは。失ったものが大きかった分、たぶん多くのものに出会うことが出来たのだと思う。
扉の前にアランが現れたのは、それから半年ほど経った日のことだった。
「ヒュー、行こう。世界は変わらず、そこにあるよ」
目映い光の中で、目を細めながらアランは言った。
「君は世界を、どんな言葉で表すのかな?」
独り言のようなアランの呟き。一歩、彼は日差しの下に踏み出した。
「空、こんなに高くて、広かったんだな……」
無意識に言葉は、零れ落ちていた。もう、どれくらい感じていなかったのだろう? 世界の鼓動を、仕草を。
「ねぇ、ヒュー? 争いの絶えない世界でも、悲しみの満ちゆく世界でも、それでも、世界は……変わらずに美しいのかな?」
空を仰ぎながら、アランは問いかけた。
「何だよ、急に」
「たぶん、答えはどこにもないんだよね」
「その、『美しい』が何なのかによるだろうな」
「真実を知ることは、きっと良い事だよね?」
「良い事ばかりとは、限らないぞ」
そういう時は、嘘でもそうだって言うものだよ。アランは、少し困ったように笑って後を続ける。
「それでも、僕は知りたいんだ。知らなくちゃいけない、ありのままの世界を」
開け放ったままの扉を振り返って、ヒューは深く息をついた。その中では、相変わらず本やペンが慌ただしく動いている。
「……そのための、か。俺は構わないが、それにはまず市場に行かないとな。お前、その格好じゃ目立ち過ぎだろ?」
「服を買うついでに、君のその長い髪もばっさり切ったらどうだい?」
「……言う様になったじゃねぇか」
「君ほどではないよ。……とにかく色々揃えないとね」
「腹も減ったしな」
「美味しいお店があるんだ、紹介するよ」
「ほぅ、言っとくが、俺は味にうるさいぞ?」
「僕の好きなお店ってだけだけどね」
「お前の味覚が正常なことを祈るよ」
「言葉は、それ以上の意味を持つと思うか?」
「どうして?」
「俺の言葉は……」
――あまりにも、無力だから。
「持っていると思うよ、僕は」
――それでも、照らすことが出来るのか?
――暖めることが出来るのか?
「言葉を生かすか殺すかは、そのひと次第じゃないかな? たくさんのヒトがいて、たくさんの考え方があるから、言葉ひとつで物事はいろんな方向に進むでしょう? 面白いよね、誰にでも使える魔法みたいだ」
果てしないな、と思う。
果てしない、終わりかない、掴み所の無いものだ。
この目の前で、笑っている少年のように。
例えこの心が、鎖に繋げれていようと。
この手は今、木々に触れ。
この足は、大地の上に立っている。
瞳は鮮やかに、世界を映し出して……偽りの自由であれ、確かに『現実』を感じられる。
「まずは何処に行くつもりだ?」
「一通りまわるつもりだけど、いったん都を出て南へ行く」
「遺跡に行くのか?」
「そうだよ、eveの卵。僕は聞いたことが無かったし、君は実際に見た事がないでしょ? だから確かめに行くんだ、物語の真実をね」
そして、俺たちの旅は幕を開ける。
罪は消えることはない、ならそれを受け入れて生きる術を見につけなくては。たとえ、傷ついたとしても、嘘偽りなく、真実だけを見つめて。
エンジェル・ダスト