君の手を 最終章

 その日、僕はかつてないほど覚醒した状態で目覚めた。一年の時のレギュラー発表の日よりも頭の中がスッキリしていた。無心、というのではないけど、それに近いような、そんな状態。

 真っ暗なシアターの中では目を開けていても閉じていても同じで、昼も夜もない。にもかかわらず、僕はハッキリと今は朝だとわかった。説明はできない。ただ、わかったんだ。

 外に出てみると、駅前はまだ閑散としていて、ジョギングや、犬の散歩をしている人も見当たらない。時計の針は6時を示そうとしていた。

 学校が始まるまではまだ3時間もある。どうしようか?

 何度か言ったかもしれないが、ただ待つという行為は僕にとってトップクラスに耐えられない事だ。例えば、歩いて一時間以上かかる場所に行くのに、一時間後のバスをただ待つか歩くかの2択を迫られれば僕は間違いなく歩くほうを選ぶ。それくらい嫌だ。

 ……ホントに、歩くか。

 すぐに僕は歩き出した。学校へ向かって空中を、テクテクと。人通りが少ないとはいえ下の道を歩くのはなんとなく嫌だった。だから僕はその上を歩く。まるでそこに透明なガラスでもあるみたいに違和感無く。まるでパントマイマーのように。

 テクテク歩いている途中で気が変わった。どうせなら、もう早瀬さんの家へ行こう。そして一緒に学校へ行こう。何も図書室で待つ必要はない。もっといろんな早瀬さんを見て、感じて、僕の気持ちを確かめよう。今日一日、じっくりと。

 途中まで道なりに歩いていたが、馬鹿らしくなって一直線に彼女の家へ向かった。道じゃないところの上を歩くのはなんだか楽しかった。屋根から屋根に飛び移りながら進むような、そんな気分が味わえた。

 彼女の家へ着いたのはおそらく7時を少し過ぎた頃だと思う。周囲に時計は無かったが、途中に見た時間から考えるとその程度だろう。まだ学校へ行くには早い。

 早瀬さんはもう起きているのだろうか。彼女の部屋にはカーテンが引かれている。まだ寝てるのかな?

 彼女の寝顔を想像して、猛烈に見たくなった。それこそ無意識に窓に引き寄せられていくほどに。でも、僕はストーカーじゃない。変態じゃない。できることとやってもいいことはイコールじゃない。誰も見てない? 僕が見てる。後ろめたさは感じたくない。

 ……まあ、本当はかなり迷って、ギリギリのところで踏みとどまってたんだけど。もしかしたら死神が見てるかもしれないだろ、みたいな。

 早瀬さんは歩きだから、たぶん家を出るのは8時半くらいだろう。まだ一時間以上ある。

 ……長い。あまりにも、長い。さっきも言ったように僕はただ待つのは嫌いだ。ボールがほしい。サッカーボールをくれ。ここなら、グラウンドと同じで、いや、それ以上に何かを気にする必要もない。でも、壁当てはできないな。っていうか、そもそも空中じゃ跳ねないだろ。

 ……ダメか。ま、そもそも無いんだけどねー。

 徐々に道行く人が増えていく。それをぼんやりと眺めた。羊が一匹羊が二匹……。いや、違う。ダメだ。マズい。眠くなってくる。

 …………。

 ガチャ、と音がして、うとうとしていた僕はその場から3センチくらい浮き上がった。早瀬さんの家から誰か出てきた。スーツ姿の男。身長180cmはあるか? 短めの髪が爽やかな印象の優しげな人だった。たぶん、早瀬さんの父さんだろう。優しそうな人でよかった、となぜかほっとしていた。

 その後しばらくしてから再びドアが開いて、今度は弟くんか出てきて、すぐ後で早瀬さんも出てきた。その姿を見ただけで心臓がドクン、と大きく鳴った気がした。初めて彼女を見たときみたいに、しばらくドキドキしていた。でもあの時のドキドキとは少し違う気がする。

 弟くんが自転車を引っ張り出してそれに乗った。早瀬さんに何か言っている。彼女はドアに鍵をかけながら振り向いて首を振ったように見えた。その直後に弟君は自転車に乗って行ってしまった。

 ……おかしいな。早瀬さんは歩きだから、弟君より早く家を出ないといけないんじゃないのか?

 ドアに鍵を掛け、道路に出てきた早瀬さんの顔は険しかった。弟君が行ってしまった方を見て、顔をしかめる。歩き出した後姿に僕も続いた。

 後姿に違和感があった。いつもはきちんと整えられている髪がはねている。寝過ごしたのだろうか。彼女でも、そういうことがあるんだな、と僕は妙にうれしかった。

 しかし、今から歩いて行って、9時までに着くのだろうか。そういえば、いつもより歩くのが速い気がする。それでも弟君がいつも通りに出ているのだとしたら、このペースでは無理だ。走ったって、ギリギリ間に合うかどうか。運動部の奴ならまだしも、早瀬さんはそうではない。……なんか、運動神経なさそうだし。

 あっ、走り出した。でも、やっぱり遅い。無理かな、こりゃ。

 それにしても、そんなに急がなくたって、誰も来ないだろうに。

 ……でも、無理なんだろうな。責任感強そうだし。案外、頑固そうだし。彼女だってわかってるはずだ。誰も来ないって。でも、きっとそういうことではないんだろう。自分にごまかしが効かないんだ。そういうとこ、不器用そうだし。

 交差点を通るとき、普段の彼女であれば必ず停止線のあたりで止まる。信号があってもなくてもだ。でも、今日はそれが少し雑だった。最初の交差点は一瞬止まったけどすぐに走り出した。次はスピードを緩めただけ。時々腕時計を見ているようで、いかにも注意力散漫な様子。まあ、それほど車も通ってないみたいだから、大丈夫だろうけど。

 なんとなく、僕は高度を上げた。彼女の行く先がよく見えるように。その先に何があるのか確認できる位置に。

 ……でも、まったく車が通らないわけじゃない。

 嫌な予感がした。雰囲気、と言い換えてもいいかもしれない。根拠のない妄想。ついでに、僕はカンが良いほうでもない。

 ――でも、悪い予感ってのは、大体当たる。

 無意識に彼女の進行方向の道を確認した。信号の無い交差点。ドクン、と胸の奥が鳴った。ゆっくり視線を動かした。その先に、黒い塊が見えた。その車は、僕が事故にあったときの車によく似ていた。黒のワンボックスカー。ああいう車に乗ってる奴の運転って、荒い気がする。

 頭の中で、自分が事故にあったときの映像が流れ始めた。ドッ、ドッ、ドッ、と耳の奥から音が聞こえる。まさか。彼女に限って、そんな――。

 でも、体は勝手に動きだしていた。

 彼女と、交差点と、黒い塊。頭の中では最悪の想像が流れ始める。赤いランプがクルクル回っている。でも、サイレンは聞こえない。何も、聞こえない。赤い。赤い。頭の中が真っ赤に染まっていく。

 体がうまく動いていない。頭の中のイメージと、実際の動きがシンクロしない。思考は通常再生。体はスローモーション。水の中を泳いでいるみたい。こういうのって、良くないんだよな。っていうか、ものすごくマズイ気がする。

 嫌な予感が現実味を帯びてきた。頭の中によぎる映像。ゾッとした。この感じは――ヤバい。

 もはや、疑いようが無かった。彼女のスピード。車のスピード。交差点までの距離。

 それが、最悪のタイミングで、交わる。

 早く、と願う。奥歯を噛み締める。それでも、遅い。体はどんどん遅くなる。鈍くなる。よく見えるようにと遠くから眺めたのが仇になったか。でもそうしなければたぶん気づけなかった。

「っ!」

 早く。

 もっと早く!

 急げ急げ急げ!


 交差点が、車が、迫ってくる。彼女はまだ気づかない。そこに向かって走り続けている。

 頭の中では警笛がなっていた。踏切の閉まるときのあの音。カンカンカンカン……。真っ赤な光が激しく点滅している。

 でも、もう少しだった。

 あと少しで、とどく。

 夢中で、右手を伸ばした。

 1センチ。1ミリでもいい。

 少しでも早く彼女にとどくように。

 僕はもう、彼女の後ろ姿しか見ていない。

 ――いや、手だ。後ろに振られた瞬間の手。

 あの手を――。

 目一杯、自分の体を、手を伸ばした。

 あと少し。

 そこまで、あと2メートル。

 「早瀬さん!」

 声は届かない。



                                                               あと1メートル。

                                                          「早瀬さん!!」

                                                        僕の声は届かない。



                                  50センチ。




                 10センチ。




         5センチ。



      3センチ。


    2センチ

  1センチっ!

 よしっ!

「やっ――」











 座り込んだまま、ぼんやりと前を見た。ぺたん、と尻餅をついた早瀬さんが見えた。よかった。無事だったんだ、と他人ごとのようにつぶやく声を聞いた気がした。

 早瀬さんはすぐに、はっ、と我に返り、急いで立ち上がった。今度はしっかりと左右を確認し、走り去っていく。僕はその背中が見えなくなるまでずっと、姿が見えなくなっても、その後姿を見ていた。見ていたと思う。

 それから、どれくらい経っただろうか。背後に気配を感じた。近づいてきたのを察知したんじゃない。ゆっくりと水が染み込んでくるように、じわりじわりと染みてきて、冷たい、と感じた時にはもう背中全体が濡れていた。
ゆっくりと振り向き、見上げると死神が立っていた。

 死神は――なんていうか、ほとんど無表情と変わらないんだけど、ペット不可のマンションに住んでいるのに捨て猫を見つけてしまったような、そんな顔をしていた。

 スッと、死神が顔の前に手を差し出した。僕は死神を見た。死神は表情を変えない。深く考えず僕はその手を取ろうとした。でも、僕の手は死神の手をすり抜けた。

 ――僕の手は彼女の手をすり抜けた――

 えっ、と振り仰ぐと、表情を殺した声で死神は言った。

「助けられるとでも思ったのか?」

 タスケラレルトデモオモッタノカ? タス、助け…?

「彼女に触れもしないのに」

 ――僕の手は彼女の手をすり抜けた――

 ……そんなこと。そんなこと、わかってる。知ってるよっ! でも、あの状況でそんなの、そんなこと――。

 そんなこと、考えられるわけ、ないだろ……。

 そう言ってやりたかった。でも、僕は死神の前に両手をついて、まるで今から土下座でもするみたいに転がって、うつむいて唇を噛み、拳を握り締めただけだった。言葉は何も出てこない。

「無様だな」

 胃の底が、頭のてっぺんが、全身の血が一気に沸騰して、抑えきれなくなった。

「……じゃあ、あんたはどうするんだよ」

「何が?」

「あの状況で、あんたはどうするのかって聞いてんだよ!」

「……どうするって」

 冷笑するように言った。

「何もしない」

 何も――しない?

「見てるだけだ」

「……もし、彼女がそのまま轢かれても――?」

「そうだ」

 ガッ、と死神の胸ぐらを掴んで睨みつける。

「じゃあ、彼女が死ぬのを黙って見てるっていうのかよ!?」

「そうだ」

 あまりにもキッパリと言い切られ、僕は次の言葉が出てこなかった。そんな――。

「……それは、あんたが死神だ、から――?」

 いや、とこれも簡単に否定する。そんな。それじゃ――なぜ?

「無駄だからだ。俺は彼女に触れない」

 ――僕は彼女に触れない――

「もちろん、姿も見えないし、声も聞こえない。お前だって、知ってるはずだ」

 ……知ってる。僕も、死神も、同じ。でも、それでも――

「でも、ああいう状況だったら、」

「特殊条件でも発動して触れるようになるって?」

 死神は明らかに侮蔑の表情を浮かべて僕を見た。

「これは夢でもマンガでも映画でもない。現実だ。そんなことは絶対に起こらない」

 ……そんなの。そんな事、それくらい、それくらい――

「それとも、お前にだけ奇跡でも起こるとでも思ってたのか? 愛か何かの力で?」

 そしてハッキリと侮蔑を込めて吐き捨てた。

「馬鹿馬鹿しい」

 ああ。

 なんだろう。

 なんかもう、どうでも良くなってきたな。なんでこいつにここまで言われなきゃならないんだ。バカバカしい。もういい。もういいよ。それで。

「もしかしてお前、まだ自分が生き返れるとか、思ってんじゃないの?」

 ――えっ?

「ち――」がう。

「ち?」

 ちが、ちがう。違う。そう言おうとしたんだ。でも、なんでだろう。唇が震えて、それ以上声が出ない。

「どうせいいことすりゃ、生き返れるとか考えたんじゃねえの?」

「違う!!」

 それは違う。

 絶対に、違う。

「何が、違う?」

 違う。違うよ。そんな事、全然考えていなかった。早瀬さんが、このままだと、死、んじゃうと思ったら、そしたら――。

 そう言いたかった。でも、言葉がうまく出てこない。何か話すと泣いてしまいそうだった。

 でも、このまま黙っていることも、それも絶対にできない。

「……た、助けたかったんだ」

 ボリュームも、滑舌もデタラメだった。でも、どうにか音は出た。

「あっ、危ないと思って。早瀬さんが走ってて、急いでて、ちゃんと前、見てなくて、でも――、く、車が来てて。だって、そのままじゃ、ぶつかっ、て、事故に。……僕みたいに」

 事故に遭ってしまうって。

「だから、止めようとしたんだ。でも……」

 あの瞬間、あのときまで、なぜ僕は出来ると思っていたんだろう。今まで散々言われていたはずなのに。死神の言うように、奇跡でも起きると思っていたのか? いや――。

「――さわれなかった」

 そんなの。そんな事。考えられるわけなかった。できるとか、できないとか、そんな事。

「僕は、彼女にさわれなかった……」

「それが、『死ぬ』ってことだよ」

 僕は死神を見た。後頭部をガシガシ掻いて、仏頂面をしている姿が見えた。

「彼女は生きてる。お前は死んでる。だから、触れない。住んでる世界が違うんだ。俺たちは同じところにいるように見えても、実際は全然別のところにいる。それに、考えてみろよ。幽霊の姿が見えたり、声が聞こえたり、触られたりしたら、コエーだろ? 俺たちはそんなことして遊んじゃいけないの」

 あれ……。なんか、死神だ。いつもの、死神だ。そう思ったら、なんか、気が緩んで――。

「で、でも、彼女は、僕のことが好きで――、ぼ、ぼく、僕だって、彼女のことが――、す、き、な、のに……?」

 ……あーあ。言っちゃった。ついに、言ってしまった。認めちゃいけなかった。ダメだったのに。これじゃあホントに愛のパワーか何か発動すると思ってたみたいじゃん。……バカにされる。絶対馬鹿にされる、と思ったのに、違った。すごく真面目な顔してうなずいた。

「そうだ。それでもダメだ。どんなに好きでも、両思いでも、ダメだ。そういうのは、生きてるからできるんだ。死んだらできない。絶対に」

 ……。

 ……でも、そんなの、

「……だって、僕が気づいたのって、死んだ、後、だったんだもん」

「……そりゃあ、しょうがないよ。でも、お前、生きてるときはそういうの敬遠してたじゃん。メンドクサそうだって。そんなんじゃ、どうせいつまでたってもダメだったって」

 それは――そうかもしれない、けど。そんなの――。

「そんなの、こうなるなんてっ。こんなに、はや、く、死、ぬなん、て――」

 思ってなかったから。

 最後のつぶやきが死神に届いたかどうか、声になったかはわからない。でも、死神はそれまで上から見下ろしていたのに、膝を曲げて、僕の視線と同じところまで来てくれた。

「そうだ。誰も思っていない。お前みたいに、突然死んだ奴は誰だってそんなこと思ってない。だから、それがわかった瞬間、怒って、叫んで、泣いて、言うんだ。なんで自分がって。何かの間違いだろって、すがりついて――」

「……死にたくないって、言うんだよ」


 ……ああ。

 そうか。

 そうなんだ。

 そうしても、いいんだ。


「……にたくない」

 僕は、死神の両腕にしがみついた。

「死にたく、ない――っ」

 僕はようやくそう言って、ようやく泣いた。でも、涙は流れなかった。どれだけ泣いても、ひと滴も出てこなかった。


 僕が動けるようになってから、二人で映画館に行った。そしてあの日、早瀬さんと見た映画をもう一度見た。改めて見ると、それほど悪い映画ではなかった。

 そして今、僕らは駅の上に座って下界を見下ろした。どちらも何も言わず、ただ道行く人達を眺める時間がしばらく続いた。空はよく晴れていて、昼間の天気も考えると今夜もきっと熱帯夜なんだろう。不快な夏の暑さを懐かしむ時が来るとは思っていなかった。

「……やっとわかった気がします」

 死神が僕を見た。

「この期間の意味」

 あの時、僕は死ぬってことが本当はどういうことなのか、全然理解していなかった。今だって、完全に理解できてるとは思ってない。でも、少なくとも今は「死にたくない」って言うことを恥ずかしいとは思わない。死ぬのは怖い。それもこんなふうに突然死ぬのは。気づいてなかっただけで、心残りもいっぱいあった。それもわかった。

 でも、もう遅い。

 死神は視線を戻し、「意味があったなら何より」とさして興味もなさそうにつぶやいた。それが何かは聞き返して来なかった。

「……あ」

 思い出した。まだあった。やっておかないといけない心残り。

「僕、一度自分の家に戻ります」

 でも、これも今だからこそ素直にそう思えるんだろう。もう一度、父さん、母さん、姉ちゃん。みんなの様子を見ておきたい。

 立ち上がった僕を見、しかしまた視線を落として死神はつぶやいた。

「それは無理だよ」

「えっ」

 ……なんで?

 死神は幾分目を細め、少し遠くを見るように僕を見た。それからうつむいて、

「もう、時間だ」

 時間……? 何のことだかわからなかった。わからない僕の足元を死神は見ている。つられてそこを見て、凍りついた。

(……透けてる!!)

 足首から先が薄くなって、透けていた。まるで幽霊みたいに透けて、淡い光を放っている。

「こっ、これっ、ちょっ、えっ!?」

 ジタバタと動かしても色が濃くなりはせず、むしろどんどん薄くなっていく。

「……その時が来たんだよ」

 その声は少しだけ少しだけ暗く、柔らかく、憂いを帯びているように思えて、そう思った瞬間、喉の奥が熱く焼けた。

「……だって、そんな――」

 あまりの唐突さに理不尽さに憤りを感じ、すぐにそれは自分の身勝手な八つ当たりだと気づいた。でも、それでも――。

「それじゃあ、もう――会えない、の?」

 死神がうなづく。喉の奥が震えた。三人の顔が、声が、思い出が、走馬灯のように脳裏に映し出される。

 僕は、また――。

「会いにいく時間はあったはずだ」

 そうだ。そのとおりだ。そうなんだけど……っ!!

 そんなのっ!!

 また後悔が増えていく。死んでから、後悔ばかりが増えていく。

 体はもう、ふとももの辺りまで消えていた。怖い。怖い怖い怖い怖い。まだ消えたくない。もう少しだけ待って。待ってよ。

「いやだ……」

 嫌だ。消えたくない。

 まだ、死にたくない。

 すがるように死神を見た。死神は少し困ったような表情で見返してくるだけだった。だから僕は本当にダメなんだって悟った。

 こんなに苦しくて、こんなに怖くて悲しくて、泣いているはずなのに、やっぱり涙は出てこない。

 死んだら、泣くこともできないんだな。

「次は、後悔しないように生きろよ」

 次……。輪廻転生とか、僕は全然信じていない。でも――。

「次――、あるのかな?」

「ある」

 ある。あるんだ……。

「まあ、もちろんお前としての記憶はない、全く別人として生まれ変わるんだけど――」

 ……ああ。やっぱり、そういうことね。それじゃあ、意味ないじゃん。

「それでも、お前であった時の記憶は魂に刻まれている。だから次は――」

 そこで死神はニヤッと笑った。

「せめて童貞卒業しろよ」

 ……まったく、この人は。

 僕の体はもうほとんど消えていた。今見えているのは首から上だけ。そんな状態なのに、この人は、ホンットにっ! 感動のラストシーンだっていうのにっ!!!

「……してやる。してやるよ! それだけじゃなくて、もっといろんなことをして、結婚もして、子供もつくって、孫の顔見て、ジジイになるまで生きてやるっ!!」

 そう高らかに宣言して、僕は笑った。ちゃんと、笑えたかな。せめて最後くらい、強がりでも何でもいいから笑っていたかった。ちゃんとできたかな。

 たぶん、大丈夫。死神も、笑ってくれたから、きっと大丈夫。

 最後はちゃんと、笑えたよ。



「お疲れ。今回は、楽だったんじゃない?」

「……そうだな。」

「……なに? また落ち込んでるんじゃないでしょうね」

「……なんで落ち込む必要があるんだよ。うまくいったのに」

「ふーん。……ま、どうでもいいけど。さ、次行くよ。人は死ぬのを待ってくれないんだから」

「……ああ。そうだな」

君の手を 最終章

≪最終章 完≫

君の手を 最終章

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

Copyrighted
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