君の手を 第13章
次の日、僕は学校に行った。昨日の早瀬さんの様子がどうにも気にかかったからだ。
すぐに変だと思ったんだ。静かすぎたから。でも、それは来るのが早すぎたせいだと思っていた。だから僕は図書室で早瀬さんを待った。
9時になった。早瀬さんまだ来ていない。もう一度時計を見た。やはり9時になっている。胸騒ぎ。木の葉のザワザワと重なる。
5分過ぎた。まだ来ない。おかしい。風が強くなった。
10分経過。まだ来ない。嵐の予感。その場にはいられなくなった。
グラウンドに行ってみた。誰もいない。おかしいと思ったんだ。野球部の奇声が聞こえないから。サッカー部もいない。陸上部や他の部もいない。なんで? 夏休み中に大会なんて無いはずだ。合同でどこかに練習試合? 全部活が? そんなバカな。
続いて体育館。音がしない。中を見るとやはりカラ。誰もいない。なんだ? どういうことだ? 心は大型台風の強風域に入ろうとしていた。
空はいつも通りの青空で、蒼すぎて気持ち悪いくらい。太陽も相変わらず僕を攻撃している。景色に異変は無い。
校舎の中に入ったがやはりシン、と静まり返っていた。空気が地面に落ちている感じ。おかしい。どう考えてもおかしい。なんだ、これは。
一応一つ一つ教室を覗いていった。でも、誰もいない。後は、職員室。さすがに誰かいるはずだ。
でも、もし、いなかったら――。
扉の前で立ち止まった。躊躇い、迷い。でも、見なければ何もわからない。僕はそっと掌を押し当て、それから一気に中に入った。
中には誰もいなかった。台風到来。僕の心は風速25メートル以上の暴風域に入り荒れ放題。混乱、戸惑い、理解不能が風にあおられグルグル回る。
――いや、これは明らかにおかしい。絶対に何か理由があるはずだ。考えろ。学校がカラになっている理由。
……。
……。
………あっ!
僕はあるものを探し、その前に行った。カレンダー。僕の葬式はいつだ。何日前だ? それから何日たった? 指折り数えてみる。っていうか、確認するまでも無く、それだろ。
日曜日。それしかない。そんな簡単なことを見落としていた。頭から抜け落ちていた。だって、最近曜日なんて気にしたこと無かったから。
その後外に出て校門を確認すると、やはりまだ閉まっていた。そりゃ、誰もいないはずだ。
……でも、それなら、これからどうする? また、映画でも見に行くか?
それにしても静かだ。セミの声すら控えめな気がする。世界に僕だけが取り残されたみたいに、誰の、何の気配も感じない。猫もいない。
……本当に、日曜日なだけだよ、な? あまりにも気配が無くて心配になってくる。ここはちゃんと僕のいた世界なんだろうか。昨日が今日に変わるように、元の世界が別の世界に変わってしまったんじゃ。……そんなバカな。ここに来るまでに見た感じ、何も変わっていなかった。心配する必要は無い。そう言い聞かせてもどんどん不安がせり上がってくる。
もし――。もしここが今までの世界と違っていたら? たとえばSFによくある同じ時間軸の平行世界とか。一見変わりないように見えて、実は別の世界。当然そこには人もいて、もしかしたら僕もいるのかもしれない。でも、別の誰かがいないかもしれない。
ありえない。頭を振った。でも――。
幽霊である僕。この存在はありえるのか? 充分非現実的な存在だ。死神だっていた。だったら、何がおきたって不思議じゃない。
僕だって、こんなことを不安に思うなんて馬鹿げてるってわかってる。夢に見たことを、正夢だったらどうしようって心配するよりヒドイ。でも、一度そう思ってしまったら、確認するまで落ち着けない。ここが僕のいた世界だって証明できるまでは。
でも、どうやって?
……早瀬さん。
早瀬さんがいれば、たぶん大丈夫。早瀬さんの家に行って、弟くんと、早瀬さんがいれば。早瀬さんの部屋に僕の写真があれば、大丈夫。それで今までの僕の存在も証明できる。根拠のない、飛躍した思考回路。でも、その時の僕はそれで本当に大丈夫だと信じていた。
僕は早瀬さんの家までの道を、呆れるくらい正確に覚えていた。一切迷いはしなかった。その時は焦ってたからなんとも思わなかったけど、それってかなりストーカー気味?
着いたら、すぐにでも中に入って確かめるつもりだった。でも、いざ家の前に立つと足が動かなくなった。一度入ったんだから同じだろ? 頭の中の一人がそうささやいていた。でも、やっぱりなんかよくない気がするんだよな。……ヘタレって言われたら、そうなんだけど。
でも、いかないと、始まらない。深呼吸するようにして、心を整えた。
……よし。
「何やってるんだ」
ポン、と肩に手を置かれ、僕は感電したみたいにビクッ、と震えた。
「なんだよ。そんなビックリするなよ。驚かしてるのに、こっちがビビるわ」
死神だった。その時の僕の顔がどんなだったか自分ではわからないけど、たぶんあの時の中野みたいに「ハトが豆鉄砲をくらったような顔」の見本として使えるんじゃないかな?
「――じゃあ、驚かさなきゃいいでしょう!」
思わず大きな声が出て、ハッとした。……大丈夫。扉が開く気配は無い。
「なんだよ。怒んなよ。お茶目なイタズラだろ?」
お茶目なイタズラ? ふざけんな、と思って死神を睨んだ。すると「おおコワイコワイ」とうすら笑いを浮かべてつぶやいた。この野郎っ……!
「いいね、お前。いちいちリアクションしてくれるから」
意地の悪い顔でそう言った。手の上で踊らされたことに気付き、舌打ちをする。……前にも同じようなことがあった気がする。
「で、何してたんだよ」
「……」
言えるはずもない。これからしようとしていたこともだけど、そこに至る経緯はもっと話せない。フツーに、頭がおかしい奴の思考だ。
「ま、言わなくても大体わかるけどな」
僕も、その先は聞かなくてもわかる。その顔を見れば。
「ノゾキ、だよな。そうなんだろ?」
「……違います」
「隠すなよ。かわいい娘がいるんだろ? そうなんだろ? おっぱい大きいんか?」
カッ、と火花が散った。この程度のことは前にも言われたのに、その時とは比べものにならなかった。
「ほら、行くぞ。大丈夫だって。お前にも見せてやるから」
導火線はほとんどなく、すぐに爆発した。
「違うって言ってんだろ!!」
中に入ろうとする死神の肩に手をかけて引き止めた。驚いた死神の顔がこちらに向く。そのさらに奥。扉が開いていくのが見えた。マズい。でもどうすることもできない。
扉が完全に開いて、出てきたのは早瀬さんだった。下を向いていた視線が正面になり、僕と目が合った。
「っつ!」
その瞬間、僕はそこから弾けるように逃げ出した。それこそ大砲の弾みたいに飛び出した。死神が何か言ったような気がしたけど、完全に無視した。それどころではなかった。
流れ流れ、闇雲に、ただ真っ直ぐ飛んだ。どれくらい飛んだのか、時間も、距離もわからないくらい飛んで、それからようやく止まった。息を吐き出しながら下を向くと、ずいぶん街が遠く、小さく見えた。どうせならもっと上へ、そのまま宇宙に飛び出してしまえばよかったと思った。
「急に、なんなんだよ。おい」
声に驚いて振り向くと、死神がいた。
「何で逃げたんだよ」
あまりに驚きに、パクパクと、餌を待つ鯉みたいに口が動いた。なかなか声は出てこなくて、5秒後くらいにようやく音が出た。
「何でって……」
「どうせ見えやしないのに」
そうだ。どうせ見えやしない。でも、そんなことを考える余裕もなく、目が合った瞬間逃げ出していたのだ。理由も、よくわからない。とにかく、理屈じゃないんだ。なんてことを死神に言いったってしょうがない。
「ま、いいけどさー」
死神がこっちを見ているのがわかった。観察されている、と思った。
「で、お前、あの娘のこと、好きなの?」
一瞬、死神が何を言っているのかわからなかった。
「……え?」
すき……? 僕が? 彼女を? 彼女が僕を、じゃなくて?
「え、って。違うのか?」
……その疑問は、あった。僕は早瀬さんをどう想っているのか。そして確かにその気持ちは『好き』という言葉を当てはめていい気がしていた。それもライクじゃなくて、ラブ。ただ、そこに行き着くまでの時間があまりに短すぎる。これじゃあ、ほとんど話したこともないのに「好きです」とか言ってくるような娘と変わらない。それは嫌だ。嫌だけど、でも、それ以外に説明できる言葉も見つけられずにとりあえず保留、って感じで深く考えないようにしていた。
でも、死神から、他の人からそう言われると、思いのほかその言葉は確かなものとして僕の中で大きくなった。
スキ。僕は、早瀬さんを、好き。
……。
「何でそんな難しい顔するんだよ。簡単なことだろ?」
簡単? これが? むしろ人類最大の謎だろ?
死神は1+1がわからない子供を前にしたように息を吐いた。
「じゃあ、何であの家の前にいたんだよ」
「……」
「あの娘のことが気になるからじゃないのかよ」
「……」
「じゃ、やっぱ、ただの覗きか? 可愛いもんな、あの娘」
「違う!」
「違うって言うんなら、言ってみろよ、理由」
そんな風に言われても、言えないものは言えない。バカにされるのがわかってるのに。
「あの娘の名前は?」
「……知らないんですか?」
「俺が知るわけねーだろ」
そうなのか。いや、待てよ。なんか前に名前を言ってたような……。あれ? 違ったっけ?
「……早瀬ユイ」
「ふーん。クラスメイトか?」
「ちがう、ます」
「じゃあ、何?」
「……クラスメイトの、友達」
「何それ? 何でそんなビミョーな関係の人の家になんかいたの?」
「……」
「まただんまりか?」
別に、死神に何もかも言う必要はない。言う必要はないのに、言葉は今にも口から溢れそうになっていた。何もかもぶちまけてみたかった。自分の疑問、感情を死神にぶつけてみたかった。でも、そんなことはできない。そのまま黙っていようと思った。でも、死神がいつまでも待っているから、つい、ぽろっと出てしまった。
「……泣いてたん、です」
「……泣いてた?」
「葬式のとき、泣いてたんです。僕はあの娘のことなんか、知らなかったのに」
「……それで?」
「そのときは、ちょっとビックリしたけど、他の女子だって、泣いてる人はいたし。でも……」
話しながら、これはマズイ、って思った。このままじゃ、話すつもりがない事まで話してしまうような予感。でももう、止められなかった。
「でも、だんだん、気になってきて。その娘の泣き方が、他の人とは違うような、違ったような気がして。だから、気になって……」
ああ、ヤバイ。マジでヤバイ。
「それで、もっとあの娘のことを知ろうと思って。何で僕の葬式で泣いたのか。そしたら、なんか、……僕のことが、好きみたいだってことが、わかって。でも、僕のこと、そんなに知ってるわけでもないのに、そんなの、おかしい気がして。その程度の『好き』で、あんな風に泣くなんて、嘘っぽいっていうか。だから、早瀬さんも結局、ほかの女子と同じなのかなって。だけど最近になって、もしかしたら僕が知らなかっただけで、早瀬さんは僕のことをちゃんと見てて、知ってて、だから好きだったのかなって。そんな風にも思えてきて」
もう、自分でも何を言ってるんだかわからなくなってきていた。でも、死神はそれを眉間にしわを寄せながら黙って聞いていた。
「それなのに、ちょっと前に、もう僕のことを思い出にするって言ってたんです。そうしないと前に進めないからって。それは、わかるけど、でも、やっぱりちょっと、結構ショックだったみたいで。次の日は、会いに行かなかった。……行けなかったんです。で、映画を見に行ったら、偶然、そこに早瀬さんも来て、ビックリして、でもうれしくて、一緒に映画を見て、それが終わったとき、彼女が笑って、でも泣きそうで、それがよくわからなくて、また気になって。それなのに、今日学校に行ってみたらいなくて。誰もいなくて。すぐに日曜日だってわかったけど、でも、なんだか心配になってきて、どうしても早瀬さんが見たくて、彼女がちゃんといるかどうか確認したくて、それで――。それで、あの家の前に、いた、ん、です……」
……ああ。もうダメだ。何を言ってるんだ、僕は。こんな、こんな恥ずかしいこと。よりによって、何でコイツに。……終わった。完全に終わった。ダメだ。もうなんか、泣きそう。
「それって、つまり、彼女が好きだってことだろ」
死神は、バカにするでも、ひやかすでもなく、呆れるでもせせら笑うでもなくて、そう言った。
「何でそんな変な、嫌そうな顔するんだよ」
「だって……。彼女のことを知ってから、まだ一週間くらいしか経ってないのに。それなのに、そんなの――、おかしいでしょ?」
「なんで?」
「なんでって――。だって、そんな短い間で、彼女の何がわかるっていうんですか。それなのに、好きだなんて。軽いっていうか――。嘘っぽい気がする」
信じられないんだ。ちょっと見ただけで、ほとんど会ったことも話したこともないのに好きだのなんだの言われても。そんなの、本当に好きだとは思えない。
死神はジッと僕を見ていた。視線が合ったが、すぐに耐え切れなくなって逸らした。視界の隅で死神が頭をかいた。
「なんかさー、難しく考えすぎ。まあ、中学生なんてまだガキだし、そんなもんかもしれないけど、でも、お前は理屈っぽすぎ。もっとさー、単純に考えろよ。好いた惚れたなんて結局本能なんだよ。本能のひらめきは一瞬なんだよ。その瞬間『好きだ!』って思ったらそうなんだよ。好きなんだよ。で、その後でそれが本当かどうか確かめていくんだよ。ああ、やっぱり好きなんだって。それで、確かめていくうちに「やっぱ違うかも」ってなってもいいんだよ。それでいいんだ。そんなさー、探偵じゃないんだから。自分の気持ちが本当かどうか証拠を全部集めるまで待たなくていいんだよ。間違ってたっていいんだよ。っていうか、間違いねー!! って確信しても違ってる時だってあるし、考えたってしょうがねーんだよ」
「……なんか、散々間違ってきたみたいな言い方ですね」
「っせえ! ほっとけ! 俺のことより、お前だよ、お前。わかったか!?」
……言いたいことはわかる。わかるけど――。
「ま、それですぐに受け入れられるんならウジウジ考えてねーんだろうけどよー」
また頭を掻いた。そして近寄ってくる。近い近い、近いって!
「お前自身で確信が持てないんなら俺が言ってやるよ。断言してやる。お前はどっからどう見ても早瀬結衣チャンのことが好きだよ。恋してんだよ。好きで好きでしょうがなくて、気になって気になってしょうがないんだ。間違いねーよ」
……素直に認めたくない。認められない。僕はこれまでそういう、一目惚れ的なものを否定してきたんだ。それじゃあ軽い、うそ臭いって。そういうのを無視してきたんだ。それなのに、いまさら――。
「それに、お前が言ってるくらいにコリコリに凝り固まってからじゃ、重すぎるんだよ。それこそ、一歩間違えばストーカーになるくらい重い」
突き刺さった。確かに、そうだ。そうかもしれない。でも――。
僕の心は白と黒の絵の具がいつまでも混ざらずにゴチャゴチャになっていた。複雑な模様を描き、一色に落ち着かない。
「ま、受け入れるか受け入れないかはお前の勝手だよ。せいぜい、後悔しないようにな」
吐き捨てるような、見捨てるような声だったから、僕は思わず死神を見てしまった。すると死神はニヤリと笑って、
「要するに、覗くなら早めにな、ってことだ。ひひっ」
そう言って死神は消えた。ぽかん、としてしまって罵声のひとつも浴びせてやれなかった。まったく! アイツは! 真面目な話をしてるかと思ったら、こうだよ!!
ひとしきり死神についての悪態を思い並べて、それも思いつけなくなった頃、僕は周囲の静けさに気づいた。空にぽつんと浮かんで、一人ぼっちだった。急に不安に襲われて、僕は急いで降りていった。街が近づき、道行く人がハッキリ見えるところまで降りて、ようやくほっと胸をなでおろす。でも、それ以上近づく気にはなれなかった。
僕はまた駅へ、映画館へ向かっていた。一番客入りの少ない映画をやってるシアターが僕の部屋。
そのうす暗がりにたどり着き、僕は頭の中にさっきの会話を思い浮かべる。僕の、早瀬さんに対する気持ち。
それは恋だって死神は言う。僕はもうそれを半分以上受け入れていた。で、でも、それってつまり、早瀬さんの手を握ったり、髪の毛に触ったり、匂いを嗅いだり、き、キスしたり、その……。エッチしたり――、したいってことだろ? でも、僕は、まだそんなことしたいって思えな――……。
そんな言い訳がましいことを思いながら、一方ではあの日見た背中の艶かしさが蘇り、それ以上を想像していた。
と、とにかく、明日。明日、もう一度早瀬さんのところに行って、今度こそちゃんと確かめてみよう。彼女を見て、僕がどう思うか。それが、本当に恋と呼べるものなのかどうか。
君の手を 第13章
≪第13章 完≫