アントラクト
プロローグ
「結花、起きて。電車ついたぞ」
僕は結花を起こす。肩を揺するが、全く目を覚まさない。
「困ったな…、学校遅刻しちゃうぞ」
電車が到着しているにも関わらず、結花が起きる気配は全くない。この幼馴染にも困ったものだ。仕方がない、奥の手を使うか。
「13番、八ツ木結花さん、ベートーヴェン、ピアノソナタ14番」
僕は結花の耳元で囁く。
「は、はい!」
はぁ、やっと起きたか。電車は乗れそうだった。
「ほら、結花、乗り遅れるぞ」
「待ってよー、正樹!」
僕と結花は幼馴染みだ。生まれた時から、ずっと一緒だった。小中高、今まで、離れたことは一度もない。だから、余計に離れにくくなってしまう。僕と結花は一緒にいない方がいいのに。だが、僕と結花は何をするにも一緒だった。僕は結花の影響でピアノを始めた。ピアノは自分にあっていたのか、高校2年の今までずっと続いている。結花は僕の影響で剣道を始めた。これは長く続かず、中2でやめてしまっていた。剣道は僕も同じで、小1から積み重ねたものを中2で同じように手放した。次に、高校ではオーケストラ部に入った。二人とも一緒だ。僕はチェロで、結花はフルートだ。幼稚園生から鍛えた耳があるので、この部活は僕に合っていた。
でも、一緒にいることによって、16年間の絆が徐々に、離れていこうとしていることを、僕だけが知っていた。
結花と僕
結花はピアノが上手い。僕なんか、足元にも及ばないくらいだ。好きこそ物の上手なれと言うように、結花はとてもピアノを愛している。それ故に、いつなんどきでもピアノの事を考えているので、起こす時にコンクールのアナウンスを言うと起きるのだ。
結花は今、ベートーヴェンのピアノソナタ14番を練習している。ピアノソナタ14番、「月光」は多くの人に親しまれている曲だ。難易度はそれなりに高く、とても素晴らしい曲だ。それでも、結花はさらりと弾いてしまう。メトロノームに合わせて、きっちり、楽譜の指示通りに、正確に。そのあとに強弱などの表現をつける。その工程が、結花には食事をするように、すんなりとできてしまうのだ。ピアノは結花にとって、生活の一部だった。
僕はというと、ピアノは結花に負けないくらい好きだ。だが、技術で比べると、天地の差だ。完全に抜かすことは愚か、追いつくことさえ出来ない。同じ時期に始めた筈なのに。僕の練習曲はブラームスのラプソディーだ。この曲の難易度も月光と同じくらい難しい。なので僕はかなり手こずっている。自分の技術が足りないせいもあるが。そんなこともあったせいか、結花は僕の憧れであり、同時に、憎い存在だった。だから。
僕は、結花の事が、大好きで、大嫌いだ。
「まーさーきっ!ピアノの練習に行くよ!」
学校が終わり、毎日放課後になると、僕らは2人でピアノ教室に通っている。
「結花…、朝寝てたくせに、起きたら急ぐのかよ」
この幼馴染みは世話がやける…。毎日大変だが、とても楽しかった。
「ねぇ、正樹、曲、進んでる?」
歩きながら話し始める。
「いーや、あんまり上手くいってないんだ。結花は?」
「えっへへへ…、実は私も…。なかなか難しくてさぁ」
嘘つけ。結花は楽譜通りに完璧に弾けていたではないか。先生も、
『結花ちゃんは本当に天才ピアニストね。月光をあんなに弾けるなんて!』
と言っていたではないか。僕に気を使ったのか。そんな同情、欲しくもない。
「月光!ほんといい曲よね。私、ベートーヴェン大好き」
僕に背中を向けながら言う。
「うん、ラプソディーもいい曲だぞ。結花の演奏聞きたいな」
「次のコンクールで聞けるよ。そんときは私と正樹はライバルだからね」
そんなこと、わかってる。というか、ライバルなんかではない。ライバルになるほど追いついてはいない。
「私、正樹のピアノ、大好きなんだ」
僕は、結花のピアノは大嫌いだ。
始まりと終わり
ピアノのレッスンが終わった。
相変わらず結花は、月光を完璧に仕上げ、先生にとても褒められていた。僕はというと、ミスが何回も目立ち、先生にも注意されてしまった。
「あー、お腹すーいた」
結花は、カバンをぶんぶん振り回しながら歩く。
「僕も、もう疲れたよ」
僕は自分のペースで歩く。
「正樹遅い!置いてくぞ!」
結花は突然走った。いつもこうだ、元気がいい。
「おい、ちょっと走るなよー」
僕も後を追う。目の前は踏切だ。ふと、気づいた。あれ?踏切が降りない。なんでだ。よく見てみると、故障中と書かれた紙が貼ってあった。
「おい!結花!止まれ!壊れてるぞ、おい、結花!」
「なーあーにー?聞こえないー」
結花は後ろの僕を見ながら走り続ける。この遮断機、音も鳴らないのか…!
「結花!止まれ!」
「んー?なにー?まさ…」
結花の身体が、僕の視界から、消えた。
伸ばした手が、空を切る。電車が去った後に、遮断機の音が鳴った。
「う、あ、あぁ…、あああああああああああっ!」
鈍い音と、車輪がレールに擦れる音と共に、もう結花なのかわからないそれは、僕の目に飛び込んできた。
現実と奇跡
結花が死んだ。僕の目の前で。僕は膝から崩れ落ちた。周りには警察や、鉄道関係者が集まっている。僕は、警察に話を聞かれた。
「大丈夫かい?ショックが強いだろうね…。結花さんがどうしてこうなったのか、少しでいいから話してもらえるかな?」
頭が回らない。この問いには答えられなかった。
「す…いませ…ん。ちょっと…頭冷やしてきます…」
「あ、ちょっと!正樹くん!」
僕は人混みから抜ける。その先には、結花の両親がいた。母親は取り乱して泣き崩れている。僕は、涙さえ出なかった。結花が死んだんだぞ、17年も共に生きた、結花が。あの笑顔が、声が、ピアノの音が、もう、聞こえないんだ。
あぁ、結花がいないんだ。
あんなに、憎んでたのに。羨ましいと思っていたのに。いなくなればいいって思ってたのに。いざいなくなると、こんなにも寂しいのか。僕は本当に身勝手だ。僕の方が死んだほうが良かったんじゃないのか?もう、いっそ、死んでしまおうか…。
「正樹、おーい、まーさーきー」
結花の幻聴も聞こえるなんて…。僕は本当にどうかしている。
「正樹!顔をあげてみてよ!私だよ!」
言われるがままにうつむいていた顔をあげた。
「え…?は?おま、え、結花?なんで…、ありえな…い…」
僕の目の前にいたのは、さっき、死んだはずの結花だった。
「えへへ、心残りがあったから戻ってきちゃったみたい…。てかさー、私、ほんっとに死んじゃったんだねぇ?電車に引かれたのか、うへぇ、悲惨だな」
あろうことか、結花の形をしたそれは、笑いながら普通に話している。いつものように、髪を手櫛で解きながら。
「え、いや、まて。理解できないんだが。死んだんじゃないのか?」
「うん?死んだよー?ぐしゃっとね」
ど、どういうことだ、これは。ここにいる結花は幽霊だというのか?ありえない、幽霊なんているわけがない。これは僕の妄想だ、幻覚だ。
「正樹、信じてないでしょ?私は幽霊だよ?正樹に会いに来たの!私の心残り、解決してくれない?」
…この図々しさ、紛れもなく結花だ。どうやら、厄介ごとに巻き込まれたみたいだった。
アントラクト