practice(160)




 ティーポットの湯気がなくなる前に,さっさと戻ってくるのよ。と背後から,事も無げにそう言われて,趣味が過ぎるアーチ型のキッチンの入り口に,玄関から繋ぐ廊下から半歩戻った。顔だけを中に入れ,
「それは無理だよ。」
 と真面目に答えたのは,祖母が真面目に忠告をしたからであり,曖昧な答えののち,それに反したりすると,本当に叱られたりするからだった。目の前に呼ばれる,鼻の頭に人差し指が留められ,くっと顎が上がってから,一息をあえて僕のためにつき,結んでいた口が何も言わずに小さく開く。さあ,と始まりのファンファーレが鳴る前だ。整えられた形で出てくる約束ごとに,覚悟を決めるときが与えられた。祖母はどこでも理路整然だった。
「あら,無理なんて言ってないわよ。あなたは二階に行って,戻ってくるだけ。そうでしょ?」
 こちらを見ずにそう言い切った祖母は珍しく,自分の分から淹れていた。いつも飲んでいた色が思い出と揺れる。子供ながらの乱暴さで所定の場所に置き,さくさくとお菓子を食べた。兄と妹と僕。余ったら,という程度で,祖母は大体食べなかった。だから,と続け,それに「あなた達が居ない時間に頂いているのよ。」と言った。そうかもしれなかった。遠慮はしなかった。
 同年代の友人より小さい祖母は,相変わらず原色が目立つ服を着て,必要なことしか口にしない。改めて火にかけようとするケトルだけは新品だ。今日はこき使われている。
「便利よ。」
「よかった。」
 そう言って笑みは浮かべたが,誰も見ていなかった。廊下に戻って,外の気配を肌寒さで伝える玄関から,日差しが駆け下りる階段を見上げる。縮小サイズのように額縁付きの絵が掛けられていて,妹の絵も混じっている。歩き始めの頃はここを一人で登ろうとして,ひっくり返って,僕はよく泣いたらしい。発見して,抱き上げてくれたのは祖父だそうだ。上の部屋で仕事をして,午後には大学に足を向ける。帰って来て,僕らを迎える(と祖父が言った。),僕や,あるいは妹を抱き上げる。本当の迎えが来るまでに,遊んで貰った記憶はぼんやりとしている。赤いブレザーのほつれを僕が引っ張り,さらに酷いことにしたとき,祖母はえらい慌てた様子で,半分怒っていた。鮮明なのが,そんな場面である。今にして思えば,祖母が約束ごと以外で怒った,例外的な場面でもあった。あらら,という顔を祖父は浮かべていた,かもしれない。
 手を上げて目の前で覆いを作り,横を向きながら順番通りに展示を眺める。片足を上げるごとに,家はだんだんと高くなる。
 


 二階の部屋は祖母も使っていない。足腰が弱ったというのが祖母の言い分だ。時季ごとの衣服も一階の大部屋にある。客人用で,僕らも使った。ベッドも置いて,祖母はそこで寝起きをする。ドアが開いていたので,玄関からキッチンに向かうとき,ちょっと覗いた。橙色を基調としたカーテンは丸く纏められて,真ん中の縛りを逃れた下部に,マーブル模様が施されていた。全体が整頓されていて,そこが目立った。
 二階は綺麗で,祖母はいつもでなくても,掃除をしに上がるのだろうと分かった。模様替えの時も一人でこなしている。必要なものは,重い物でも,階下で用いる。祖父の部屋以外,ここは使わなくなったもので,処分までいかないものを仕舞う物置か,節約目的で泊まりに来る妹の宿泊部屋として使われている。
 僕は祖父の部屋を開けて入った。
 書くものを,借りたかった。



 目の前の件に無関係なときの兄や妹は(もちろん,そんな時の僕も),にしし,と堪え切れない笑いをこぼしながら,テーブルでふかふかのお菓子を頂いた。乱暴な子供の置き方で,揺れる茶色の表面が,一人分見当たらなかった。祖母の分は見当たらなかった。それを見ていて,ぽつぽつと,言い訳が床に落ちていった。祖母はそれを見事に拾ったり,拾わなかったりで,腰で返した手の甲を崩さなかった。押し黙ったり,そっぽ向いたりも許さない。いとも簡単に謝るのも駄目だった。お互いの了解を得るのが大事だった,というのは今も変わらない。変わらないのだろうが,さて,それがどんなものだったかと問われると返事に困る。今回の教訓だとか,次回の約束だとかをした覚えが,不思議となかった。僕らは僕らでそれを口にしたり,まずは二,三日,と嫌に模範めいたりとしたのだろうが,その光景に,その記憶に,祖母は見当たらない。あるのは飛躍して,四人のテーブル。アーチ型の入り口がどこにも無くて,珍しくて,落ち着いた。祖母が淹れ,僕らが飲み,迎えを待った時間。怒られていたものが最後に参加する,あるいは意地を張ってしない,お喋りだった。
 笑い声が漏れる。堪えたり,堪え切れなかったりで。



 陽を背にして,先に段を下った長い自分の影が頭から床に着いているのを,階段の狭い踊り場から見て,さっきとは逆の順番で絵の展示を眺める。妹の絵が一枚増えていたのは,知らなかった。暇だったからか,課題のついでか,いまの妹が鉛筆で描かれていた。額縁が他と違うから,これは祖母が飾ったんだ,と分かる。印象派な別の絵を挟んで,サイズも画用紙な,前の妹の絵はクレヨンで,想像の赴くままに描かれていた。祖父が居て,妹が居て,僕らが端に追いやられている,という。祖父は本当に長い手を伸ばし,比べて本当に小さい妹はソファーに器用に立って,待っている。上から順に僕らは,多分妹との中では羨ましがって,それを見ている。兄に僕,そして祖母。薄いピンクで祖母の姿をなぞられている。女の子だから,と当時の妹は答えたのだろうか。それとも,祖母のお茶目なリクエストか。想像出来なくもない,のかな,と思える間に,階下に着く。
 趣味が過ぎるアーチ型のキッチンの入り口に,玄関から繋ぐ廊下から半歩,足を入れる。



 湯気が立って,香ばしい匂いがした。
「何枚にする?」
 と祖母は聞いた。
「何枚でも。」
 と僕は言い,キッチンの中に入りながら「一人占め出来るのなら。」,と付け加えた。祖母はあらま,という呆れ顔で,僕を見上げて,じゃあ,という感じで
「お皿に決めていただきましょう。」
 と食器棚から取り出していたお皿にざざーっと,焼き菓子を流し込む。漏れた数枚が,キッチンの中の小さいテーブルの上に平たく落ちる。落ちてくる。
「あーっ!」
 と声を出して手で拾い,手で押さえ,お皿の山盛りは安定し,祖母の傾けた両手からは,かさかさと聞こえる軽い音がした。
「拾ったものから食べるのですよ。勿体無いですからね。」
 当然,と言わんばかりだった。折り目に沿って入れ物だったものを畳み,ふーん,という祖母は横顔で澄ましていた。ケトルは改めて火にかけられ,沸くまでに暫く時間がかかりそうだった。
 思わず吹き出した僕を見て,祖母は得意げだった。
「一人占めですよ。」
「分かってます。」
 敬語で答えて,手を口元に運んだ僕は,それをかりっと美味しく齧った。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-19

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