十月のプリマドンナ
勤務先の教室の窓を開け放って、思いがけずその匂いがしたとき、私はほとんど無意識にむっちゃん、とつぶやいてしまった。
中学二年のクラス替えのとき、私はむっちゃんと出会った(本名をむつみといった)。むっちゃんは北海道の出身だった。ちょうど私たちのクラス替えの年に引っ越してきたらしいが、むっちゃんの喋り方に特徴的な訛りみたいなものはなかったし、むっちゃんも出身地を自分から言うようなことはなかったから、そのときまで私はむっちゃんが私と同じ東京の人だと思っていた。
むっちゃんの出身地を思いがけず知ることになったのは、十月の初めに行われる学校祭の前日だった。机や椅子がみんな運び出されてがらんどうになった教室には夕陽が差し込んでいた。
「あ、金木犀」
そう言ったのは私だった。なんの前触れもなく、窓の外から甘い果実のような嫋やかな香りが、微風とともに流れ込んできたからだ。
「きんもくせい、これが金木犀なの」
むっちゃんはそう言って窓辺に駆け寄った。その姿は私に、今まで行き詰まっていた恋がすべて紐解かれたときのプリマドンナを思わせた。むっちゃんの細い髪は夕陽に照らされセピア色に透き通っていた。
「むっちゃん、金木犀知らなかったの?去年だって咲いてたのに」
「だって幌加内には咲いていなかったんだもの」
「ほろかない?」
幌加内、というのがむっちゃんの住んでいたところだった。十五歳のプリマドンナは黒板に北海道の簡単な地図をかいて、その左上のほうに赤いチョークで印をつけた。
「寂しいところだし、きっと金木犀には寒すぎたんだよ。この匂いだってここくらいの暖かさがないと、うまく調和されなくなっちゃう気がする」
むっちゃんは学校祭の男装コンテストに出場することになった(クラスで一人推薦しなければならなかった)。うちの中学は女子校だったから、このイベントは毎年大いに盛り上がった。密かに女の子たちから人気があったのかもしれない、そのコンクールでむっちゃんは三位に入賞した。何処かから借りてきた男の子の学ランを着てステージに立つむっちゃんは確かにかっこよかったが、今になって思い返してみるとその姿はぼんやりとしてすぐに消え去ってしまう。私がむっちゃんのことを思い出そうとして瞼の裏に浮かんでくるのはいつも、学校祭の前日の夕陽が差し込む教室で見た、嫋やかなプリマドンナのむっちゃんだった。
十月のプリマドンナ