傘下にて
「何度同じ過ちをしたって、免疫とか抗体みたいなものができるわけじゃないの」
「傷の上からさらにえぐられて、煩わしい病原菌が私の体の奥底でベタベタに溶けた飴みたいにずっと張り付いたままなの。そういうのわからない?」
彼女はそう言って、頰に落ちた髪をすいて耳にかけた。僕と距離をとっているせいでその右肩は雨に濡れていた。
「僕よりも稼ぎの低いサラリーマンにふられたらそう思うのも仕方ないだろ」
聞くまでもなく、彼女をふったその男は既婚者なのだと思う。二人がどのような経緯で知り合ったのかは知る余地もないのだが。僕がそう返すと彼女はめんどくさそうに耳にかけた髪をすいたりしていたが、それに対しては何も答えず、前を見据えたまま僕と同じ歩調で歩いた。隣で彼女がどんな表情をしているのか、僕にはわからなかった。今思えば、単にそれを見ようとしなかっただけかもしれない。雨は先ほどから強まったり弱まったりを繰り返して、微塵もやむそぶりを見せなかった。
「でも君はもう僕のことはなんとも思っていない」
「だって、あの頃は」
僕はその言葉の続きを待ったが、彼女はそれよりあとの言葉を言うつもりはないようだった。
あの頃は、僕だって既婚者だった。僕はまだ高校生の彼女に対し、なんの感情も抱いていなかった。当たり前だ。その頃の僕は妻ともうまくやっていたし、決して華やかではないが、生活だって満ち足りたものだった。
僕は勤務先の予備校で国語を教えていた。彼女はその予備校で僕の授業を聴講していた。なんでも国語教師を目指しているらしい。それが僕と彼女との出会いだった。今まで年下の女性に惹かれたことはなかったし、ましてや自分の生徒にそういった感情を持つなどあり得ないとさえ思っていた。しかし彼女が僕に惹かれたように、僕も彼女に惹かれた。それは二極間に何たる物体も挟むことなく引かれ合う磁石のようなものだった。(僕がS極なら彼女はN極だった)
程なくして、僕は妻と別れた。それは自然の成り行きのようなものに感じた。彼女が僕のことを好きでなくなったのは、その3日後だった。
「このまま雨が止まなくて電車が止まったら、私帰れなくなる」
「うん」
彼女が好きになった既婚者のうち、僕は一体何人目だったのだろう。
傘下にて