わたし

わたし

 私の中に男の子がいた。そう、一人の男の子がいたのだ。私はそうとしかこの状況を表現しようがなかった。だからといって私に何か変化が起きたわけでもなく、そもそも「私の中に誰かがいる」なんて、まるで多重人格の精神病患者みたいではないか。当たり前だが、その男の子は決して私の二つ目の人格などではなかった。その証拠に体を乗っ取られたり、記憶が飛んだりしたような経験は一度としてなく、私は常に私だった。
 四年前に買ったマフラーはもうボロボロだった。物持ちは良い方で、このマフラーも結構きれいに見えるが、買ったばかりのころのふわりと包み込むような肌触りは既になく、薄くなって寒さを防ぐ役割を果たしてはいなかった。新しいマフラーを買おうとは思ってはいるのだが、思っているだけで、気に入るものを探す努力もほとんどしないまま、また冬を迎えてしまった。なんとなく惜しく思いながら薄くなったそれをぐるぐると首に巻いて家を出た。
電車に乗った時にはいつも手袋をはずすか迷う。電車の中では外しても外さなくても寒さは変わらないのだけど、去年母親からもらったグレーのミトンは細かい作業をするのに向いていない。ミトンをしたままウォークマンを取り出して操作しようとすると、なかなか上手くいかなくてもたつく。最終的にミトンをはずしてイヤフォンをつけ、再生ボタンを押すのだが、その後は外したミトンをつけるかどうかで迷う。またごそごそと動くのもなんだか恥ずかしいので結局電車を降りるまではずしたままでいる。毎日のことなのに、どうも慣れない。
電車を降りるときは少し緊張する。マフラーや手袋で首や手は守ることはできるけれど、コートはそんなに長くないし、薄い靴下だけの足や無防備な頬は電車を降りた瞬間にパチンと凍る。電車の暖房や人の熱気でぼうっとなった頭がピシリとさえる。キン、と鋭く刺すように冷たい風は好きだ。
 冬は得意な方だ。温度に関して言えば、夏の暑さは自分で対処しようがないし、とめどなく流れ落ちる汗は我慢ができなかった。冬はたくさん着こめば寒さを防ぐことができるし、少々の寒さなら我慢ができた。だから、冬は得意だ。
 通学路に出ると同じ制服を着た子たちがちらほらと見えた。同じクラスの子やなんとなく見知った顔の子と目があってどぎまぎする。挨拶していいものか迷っているうちにさっと目をそらされて流れて行ってしまった。こういうことは一日に何度もある。何度も。こういう時の気持ちを何といえばいいのだろう。あいさつできなかったことへの後悔か、目をそらされた寂しさか、いや、多分もっと違うものなのだろうけれど私にはまだそれを表すための言葉が見つからない。
誰かと話していれば、夏と冬どちらが好きかとか、そういうたわいのない質問が話のタネとして必ず上がる。それぞれの好きなところと嫌いなところを考え出せばきりがない。質問をした方からすれば、その問いかけに何か特別な意味があるわけでもなく、私の答えはそれほど重要ではないのだろう。それでも、私は質問をされると真剣に悩んでしまう。それがどんなにくだらないことであっても。
薄いマフラーにできるだけ顔をうずめて、前方を歩くさっきの子を眺めながら歩いた。
 学校について自分の席につくと、さっきの子と目が合った。無意識に目で追ってしまったらしい。
「おはよう」
少しのためらいもなく笑顔であいさつをされる。自然だった。あ。挨拶って学校についたらするものなんだ。
「おはよう」
すこしどもりながら返した。
友達っていうのは、難しい、と思う。挨拶するタイミングも相槌をうつタイミングも私にはまだよくわからない。
何気なく自分の中にいる男の子に目をやる。彼は相変わらず明後日の方向を向いて座っていた。そういえば、私は彼の顔を見たことがない気がする。
 国語の授業で音読しろと言われれば、できる限りハキハキと流暢に読むように努力するし、数学で問題を解けと言われれば公式を駆使してなんとか答えをだそうと頑張った。勉強はできる方ではないけれど、次の行動を迷う必要のない授業は得意なのかもしれないと、最近気づいた。できるできないは別として、だ。

 授業も四限が終わり、教室に活気が満ちる。購買に走る男子たちや机をくっつけてお弁当を広げる女子たち。眺めているとまたなんとなくワンテンポ遅れる。
「お弁当、一緒に食べよ」
にっこり微笑んでお弁当を持って三人の女子が寄ってくる。妙にドキッとしてどう返答して良いのか困ってあいまいにうなずいた。
 みんなは自分の椅子を持ってきて二つの机を四人で囲んだ。私は移動することなく自分の席に座ることになり、なんだか申し訳なく思った。
「おなかへったねー」
その言葉を合図に一斉に三人がお弁当を開き始める。おかずがカラフルでおいしそうにつめられている。ミニトマトやスパゲティ、ミートボールにポテトサラダ。それにからあげと卵焼き。

 昔から母親のお弁当は味気ない。味気といっても、見た目のはなしだ。ちょっと薄め味付けはとても美味しくて申し分ないのだけれど、幼いころは母親のもたせてくれるお弁当はあまり好きではなかった。二段のお弁当箱の小さいほうにご飯がきゅっとつめてあり、大きいほうにおかずが二、三種類。それは前の日の夕飯のおかずの残りだったり、レタスやブロッコリーの野菜だった。野菜以外はほとんど茶色い。ごぼうのきんぴらや鯖の煮つけ。からあげや卵焼きなんかのお弁当の定番メニューはほとんど、ない。昔はそれが嫌だった。特別にからあげや卵焼きが好きだった訳ではないが、クラスメートのお弁当にはたいていそれらがなんだか偉そうにつめられていて、負けている気がした。その感覚は、隣の席の子が持っていた流行のキャラクターが描かれているかわいい鉛筆と私の地味でなんとなく恐い書き方鉛筆。そんな、感じ。

そんなことを思い出しながらお弁当を開く。今日のおかずは、ごぼうのきんぴらとサトイモの煮物、えびとにらのれんこんのはさみ揚げ、はじにブロッコリーが添えてある。ごぼうのきんぴらはお弁当用に小分けにして冷凍にしてあるもので、煮物とれんこんのはさみ揚げは昨晩のおかずの残りだ。ブロッコリーにマヨネーズはかけない。野菜は何もかけないで食べる。
二人はご飯にふりかけをかけていて、一人はわかめの混ぜご飯。私のご飯は真っ白なまま。ふりかけをかけてご飯を食べたことはあまりない。混ぜご飯というか炊き込みご飯なら、たまに、ある。たけのこが美味しい春ときのこが美味しい秋に。今年も食べた。

「卵焼き、作って」
一度だけ、せがんだことがある。幼稚園の頃だった。
「からあげ、食べたい」
そういうと母親は眉間に少しシワをよせて困ったような泣き出しそうな、でも怒ったような、むつかしい顔をした。
「卵焼き、好き?」
「うん、好き」
嘘をついた。ほとんど食べたことのない卵焼きの味など、私は知らなかった。幼い私の声はか細く震えた。
「からあげ、どうしても食べたい?」
「食べたい。からあげ食べたい」
下を向いた。母親の足は白くて細かった。なんだかまぶしい気がした。
「そっか」
母親はむつかしい顔のままくしゃりと笑った。泣いたのかと思った。
次の日のお弁当は素晴らしかった。素晴らしく、“お弁当”だった。私が望んだとおり、卵焼きとからあげがつめられていて、それはいつも横目に見ていた友達のお弁当となんら遜色はなかった。それを見た瞬間、私は誇らしく、お友達や先生、幼稚園中の人に見せてまわりたい気持ちでいっぱいになったが、私はなんとか気持ちを抑えてきちんと自分の椅子に座ってお弁当を食べた。
からあげと卵焼きは楽しみで、少しもったいぶって最後に残して食べた。卵焼きの味はよくわからなかった。ただとても、甘いと思った。からあげはお弁当箱の中で水気を含んでしまってべちょりとしていた。それでもその日のお弁当は“お弁当”だった。
私は望んでいたソレを目の前にしてなぜだか悲しくなった。多分、私はその時母親のあのむつかしい顔をしていた。

「おいしそうー」
気づけば三人の視線が私の手元に集まっていた。
「え」
「お弁当、手込んでるんだね」
「毎日だよね」
「いいなあ。私きんぴらごぼう好き!」
一気にまくしたてられて、またおいていかれる。三人はしゃべりながらも、きちんと自分のお弁当をたいらげていく。こうして返答に迷っている間にも卵焼きがフォークで突き刺される。
「うん、母が作ってくれてるんだ」
やっと答えて、あわててサトイモを口に入れた。
「私もお母さんが作ってくれるよ。でも、レイショクばっか」
笑ってミートボールを頬張る。
「私も。みんなそうでしょ」
さっき突き刺された卵焼きはもう消えていた。
「自分で作るんだったら絶対全部レイショクになるよね」
一人がそう言うと、あとの二人はうんうん頷いて小さく笑いが起きた。私はタイミングを逃して、ごぼうのきんぴらをはしでつまんだまま少し笑った。
「でも、みゆきのお弁当は全部手づくりっぽいね」
一人がわたしのお弁当をじっと見つめる。伏せ気味になったまつ毛が長くてきれいだ。
「ううん。レイショクだよ」
嘘をついた。それが無意味だともわかっていた。
「本当? みえなーい」
「今日のは夕飯の残りとかが多いから入ってないけど、いつもはレイショク」
レ・イ・ショ・ク。頭の中で反復してみる。この言葉を初めて口にしたということがばれていないだろうか。唇はぎこちなく、自分が言っていることに違和感を感じる。ちらりと様子をうかがってみたが、よくわからなかった。
知らない言葉はいちいち質問せずに話の流れで意味を推測する。多分、レイショクは冷凍食品。私が知る限りお弁当にレイショクが入っていたことはない。そのことに対してはなんとも思っていなかったけれど、友達に指摘されてその少しの特別に気づいた。ただ、その少しの特別を知られるのがなんとなく恐かった。

 男の子は私に何の変化も与えなかったのと同様に、彼自身も何の変化も見せなかった。決してこちらを向くことはなく、ただじっと座っているだけ。体操座りで少し丸まった背中は小さい。でも、小人みたいな感じもしなかったし、やっぱり見た目は人間そのものだった。白シャツと黒のパンツは学生服のように見えなくもなく、同じ教室で机を並べていても違和感なく溶け込めそうだ。顔は見たことないけれど、後姿で判断するなら人間で一七,八歳か。いやもしかするともっと上かもしれない。なにしろ顔が見えないのだから、なんとも判断しようがない。
話しかけたことはない。話しかけようと思ったこともない。話しかけ方もわからないし、話す内容も思いつかなかった。私にとって彼は全てが謎でしかなかった。私の中にいるのだし好奇心はあったものの、こういう未知との遭遇というものは初めての経験で、私はどうすればよいのか全く見当がつかなかった。彼は私のことをどう思っているのだろうか。そもそも彼は私の存在を知っているのだろうか。考えれば考えるほど、わからなくなるばかりだ。
わからないことがあるときはどうするべきか、なんて考えてみれば単純なことだった。調べれば良いのだ。とりあえず、インターネットで検索してみることにした。図書館に行くことも考えたが、どう考えても医学的な本やメンタルの本になりそうだったので辞めた。
パソコンは父の書斎に置いてある。勝手に使ったことはないので何とも言えないが、多分怒られることはないだろう。一応母にパソコンを使うことだけ伝えた。母は「そう」と言っただけであとは何も言わなかった。母は私の行動にあまり干渉しない。
結局、インターネットも何の役にも立たなかった。“男の子”“自分の中”“人間”“頭の中”とか、思いつくままにキーワードを組み合わせて検索してみたが、やっぱりメンタルなものやオカルト的な検索結果が表示された。そこからわかったことはインターネットは万能ではないということだけだった。
「見つかった?」
パソコンの電源をおとして、台所に行くと母が晩御飯を作っていた。味噌の良い匂いがする。茄子田楽らしい。
「ううん。駄目だった」
オーブンの中を覗き込みながら言った。茄子の上の田楽味噌がじりじりと焦れていた。
「そう」
言いながら母はホウレンソウをざくざくと包丁で切り、鍋の沸騰した湯に塩を一つまみ入れ、ホウレンソウを入れた。
「何作ってるの?」
母は答えない。オーブンがチンと鳴る。母がオーブンを開けると味噌の匂いがいっそう広がり、胃がきゅっとなった。母はじっと茄子田楽をみつめるとまたオーブンを閉じてつまみを少し回した。少し焼き足りなかったらしい。母はてきぱきと動く。ホウレンソウを鍋から出し、流水で冷やしてぎゅっとしぼり、ボウルにつくりおきのダシとしょうゆとみりんを加えてそれにホウレンソウを浸す。
「ホウレンソウのおひたし」
そこまでやり終えると、素早く動かしていた手を止めて私の質問に答えた。
「茄子はもうちょっと焼くから、その間に味がしみ込むといいんだけど」
包丁や鍋を片付けながら、そう心配そうでもなさそうにつぶやく。
「でも、もうすぐできるから。制服脱いでおいで」
母は料理をしているとき、なんだかパチパチと弾ける火花のようなものが出ている気がする。ちょうど、暖かくて綺麗な線香花火のような火花だ。
母に言われた通りに自分の部屋に行って制服から部屋着に着替えた。フリースの上下は暖かい。二階まで茄子田楽の匂いがついてきていた。
男の子が目に入る。インターネットでも正体がわからないなんて、彼はどんな特別な存在なのだろうか。
「名前、なんていうの?」
声をかけてみた。話をするためには名前が必要だと思った。私が声をかけてもやっぱり彼はそっぽを向いていた。私の声は聞こえているのだろうか? 
「私は、みゆき」
自己紹介をしてみる。私は視点がぐんぐん男の子の近くなっていくのを感じた。
「十七歳、高校二年。部活は入ってなくて、好きなことは……」
好きなことは、なんだろう? 
「みゆきー」
母の声に我に返る。私はまた元の視点に戻り、彼は遠いところに座っていた。

「お弁当食べようー」
きた。私にとって今日のメインイベントはこのお弁当の時間だと言っても過言ではない。朝から、いや、昨晩からずっとドキドキしていた。
「うん、食べよう」
思わずニカっと笑ってしまった。
「どうしたの? 元気だねー」
今までに見せたことのないような表情を作ってしまった。自分でもわかる。今のは不自然。取り戻そうと、黙って首を振る。なんでもないよ。
 いつものようにそれぞれ椅子を持ってきて二つの机を囲む。
「おなかへったねー」
いつも通りの位置、いつも通りの言葉、毎日同じことをしているのでなんとなくテンプレートが出来上がっている。きっと座る位置が変わるだけで、私たちは戸惑う。
 三人がお弁当を開くタイミングを見計らって私もお弁当を開く。今日は大丈夫、遅れてない。完璧だ。
いただきます、はもう言わない。三人は黙々と食べ始める。私はいつも通り心の中でいただきますを言ってはしをもった。私は緊張していた。
「ほら、今日はレイショクばっかりだよ」
三人がきょとんとした目で私を見る。自然に、自然に、と私が見計らったタイミングは、間違いだったのだろうか。
「ほ、ほら。しゅうまい」
ああ、と納得した顔になって一人が言う。
「ほんとだー。私もしゅうまい入ってるよ。一緒だねー」
にっこり微笑んでしゅうまいをつまんで見せてくれる。よかった。自然だ。
 私の今日のお弁当はレイショクでいっぱいだった。しゅうまい、かぼちゃの煮物、ミニグラタン。ミニトマトときゅうりだけはレイショクじゃない。いつもの茶色はなかった。みんなと同じ、カラフルなレイショク弁当。
 成功した。そう思った。

 昨日の夕ご飯はカレーライスだった。学校から帰ると既にカレーは出来上がっていて、玄関のドアを開ける前からそのことがわかった。母親はあと1時間煮込みたいけれど、食べたいなら食べていいわよ、とほがらかに言った。
 私はすぐにお弁当のことが頭に浮かんだ。冷凍庫のきんぴらのストックも今日のお弁当で最後だったはずだ。まさかカレーをお弁当に持って行くわけにもいかないだろう。
「明日のお弁当、何入れるの?」
何の意図もなかった。ただ、聞いただけだった。母は常に物事の細々とした配慮が行き届いている人だったが、たまに抜けているときあった。
「あ」
案の定だった。忘れていたらしい。少し見開かれた真ん丸な目が不安に揺れている。
「大丈夫よ。今からにんじんとごぼうできんぴら作って、サトイモ煮るから」
慌てたようにいいながら冷蔵庫を開ける。私は冷蔵庫の野菜室の中にはミニトマトときゅうりとだいこんしか入っていないことを知っていた。母は買い置きをしない人だ。
「いいよ、別に。今から作るの大変でしょ?」
「でも、明日どうするの?」
眉がハの字になっている。
「そうだ、レイショク買ってよ。今はいろいろあるんだって」
「レイショク?」
眉はハの字からきれいな山なりにかわる。目はさっきとは違う意味でまんまるになっている。初めて私がこの言葉を聞いた時と同様、意味を理解しきれないようだ。私は妙に口が軽くなっていた。
「レイショク、レイショク。冷凍食品。チンすればパパっと完成」
おどけて言うと母は笑った。
「それでいいの? お母さん食べたことないからわからないけど」
「たまには気分転換。私も食べたことないからワクワク!」
なんだか私は気分が高揚していたのかもしれない。そのとき、男の子が頭を振ったように見えた。私ははっとして彼を見つめる。
「そう? じゃあ、買いに行こうか。帰る頃にはカレーも食べごろよ。きっと」
すぐに母の声で我に返る。母親は私につられて陽気に笑っていた。
 ラッシュを過ぎたスーパーはすいていて、アイスクリーム売り場の隣にある冷凍食品コーナーは思っていた以上に充実していた。私は友達のお弁当の中に見たことのあるような物を選んだ。
帰って食べたカレーは母親曰くばっちりで、いつも通り美味しかった。

 電車を待つ時間は好きではなかった。風は冷たいし、同じ制服を着た人がたくさんいる中に混じるのは居心地が悪かった。こんなに違和感を感じていて、浮いているようにさえ思えるのに、他人から見れば私も制服の団体の一人なのだろうか。それはとても不思議なことのように感じる。今度、イヤーマフラーを買おうかな。耳が取れてしまうんじゃないかというくらいに冷たく、触れると痛い。そういえば、さっきから男の子が小刻みに震えているように見える。どうしたのだろう。彼も寒いのだろうか?
「あ、みゆきだ」
声のする方を見ると、ポニーテールを揺らしながら一人の女の子がこちらに歩いてくるのが見えた。さこちゃんだ。寒いのにスカートから膝が出ていて、赤くなっているのは颯爽と少し大股で風を切って歩くせいだろう。
「今帰り? 一緒に帰ろうよ」
ニっと彼女が笑うと、八重歯がちらりと見えた。
「うん」
二人きりになると、何を話していいかわからない。休み時間やお弁当のときは大抵三人か四人で、私は聞き役に徹することが多い。隣に体温を感じてひじのあたりがぞわぞわした。
「一緒の電車なんだねー。知らなかった」
「そうだね」
へどもどして答える。隣が静かになったので不安になって横目でうかがうと、ケータイを取り出してカチカチと何か打っていた。
 ポニーテールとマフラーの間からのぞくうなじが寒々しい。きっと彼女のうなじも氷を当てたように冷たくなっているのだろう。
 眺めていると、さこちゃんはふふふっと笑ってこちらを向いた。
「なあに?」
気づいていたらしい。
「そんなに見ないでよ。恥ずかしいから」
「あ、ごめん」
やっぱりへどもどする。こうしてうまく会話できないことがもどかしくて、恥ずかしい。
視線を線路に移す。彼女が頭を動かすたびにゆれるポニーテールが目の端に映る。
「そうだ」
何か思い出したのか。彼女が声を高く上げてこちらを向いた。反射的に私も彼女の方を見るが、真正面から目が合ってすぐに視線を線路へ戻した。何を言われるんだろう。少し、ドキドキする。
「どうして今日はレイショクだったの?」
ドクン、と心臓がはねた。
「え?」
「お弁当。いつも手作りだよね?」
頭がクラクラとした。血の気が引くのがわかった。ただでさえ凍えた身体がさらに冷たくなる。急に隣にいるクラスメートが怖くなる。本当に凍ってしまったように体が固まって、ピクリとも動くことができない。
「え。そ、そんなこと……」
「いつもおいしそうだなーって思ってたもん。今までレイショクなんて入ってなかったことくらいわかるよー」
そう言って彼女はへへっと照れたように笑った。いつもだったらかわいらしい笑い声が、今の私にはとても嫌らしく聞こえる。胸につまった何か、内臓ではなくて、私の皮膚の内側にあるよくわからない何かが、じくりとえぐられる。鼓動がうるさくて、隣の彼女に聞こえていやしないか心配なほどだ。
 何も答えない私を不思議そうに覗き込む。
「褒めてるのに」
彼女はぽつりとつぶやいた。
 彼女は嘘をついた私を責めているのだろうか。怖くて彼女の顔は見ることができないが、なぜだか彼女の顔がこれもまた嫌らしくゆがんでいるような気がした。
 こわばった私の顔を見て彼女は黙った。嫌な沈黙に溺れていく。やばい、変な空気だ。すごく、不自然。何か言わなきゃ。
 男の子が耳をふさいでいるのが見えた。
「気のせいだよ。いつもレイショクだって」
そう私が言った途端、男の子は倒れた。耳をふさいだまま。倒れるというより、だるまのように右にころんと転がった。
 できるだけ明るく、いつもどおり、自然を務めて言った。声が震えたことに気づかれただろうか。
「そっか」
少しの沈黙の後に彼女はそう言った。それから彼女は一度も口を開かなかった。
 電車が来てなだれるように乗り、座席に並んで座っても、彼女は黙っていた。何か喋っている方がずっとマシだと思った。
降車駅について、私は逃げるように立ち上がる。
「バイバーイ」
振り向くと、さこちゃんが笑顔で手を振っていた。いつも通り、八重歯を出して笑っていた。その笑顔に少しほっとして、手を振りかえして早歩きで電車を降りた。
 明日どんな顔で話せばいいのかと思って憂鬱になったが、今日は金曜日だということに気づいて、どっと体の力が抜けた。電車に乗る前に話したあの時からずっと体に力が入っていたらしい。
 男の子は倒れたままだった。とてもじゃないけれど話しかける気にはなれなかった。
寒さとは違った、変な震えが体中を襲っていた。すごく、疲れた。

 海は白い。波は荒く幾重にも重なって打ち寄せ、水しぶきが高く飛んでいる。海は青いな、なんて小さいころにはよく歌ったものだが、あれは夏だけのような気がする。私が今までに目にした冬の海は白いことが多い。引くかと思えば打ち寄せ、打ち寄せるかと思えば引く波は圧倒するものがある。いくつもいくつもの大小の波がこれでもかと激しく砂浜を打つ。それに応じるかのように風はゴオゴオとうなり、私の髪をひっぱる。冬の海は私を拒絶する。
 電車で四駅、そこから十分歩けば海見える。たまに海に行きたくなることがある。そのときはここへ来てぼうっと海を眺めて過ごす。海といえばなんだかロマンチックな感じがするが、私にはまだロマンチックはわからない。ただ、白い海を、うねる波を見ているとすっと何かが落ちる気がする。
 震えは止まったものの、胸のざわめきは晴れることなくずっと続いていた。どうしようもなくなって、海へ来た。海へは必ず一人で来る。ただ、今日は男の子も一緒だった。
 彼は依然として倒れたままだった。もう耳はふさいではいなかったけれど。今はその手はだらんと無気力に放り出されていた。
 そういえば、あれ以来彼に話かけたことはなかった。少しも動かないし、昨日は昨日で、いろいろ、あったし。でも、一番の理由は、最初に話しかけたときに自己紹介も満足にできなかった自分にショックを受けたことなのかもしれない。
 死体のような男の子に思わずため息が出る。反応してほしいときには無視するくせに、私がかまっていられないときには動いて。だいたい彼はいったい何者なんだろう。質問したってどうせ返事は返ってこないことはわかっていた。ため息をつくために大きく息を吸い込むと、冷たすぎる空気が脳の奥でつんとしみた。

 さこちゃんの言葉が頭に響く。
(どうして今日はレイショクだったの?)
それは、たまたま。母親がカレーを作って、つくりおきのおかずがなくなったから。それだけ。それだけだった。でも、それならそうと言えばよかったのに。嘘なんてつかないで。それはわかっている。わかっているけれど、私は嘘をつかずにいられなかった。

「お弁当、美味しかった?」
からあげと卵焼きを作ってほしいとだだをこねたあの日、私はいつも一緒にお弁当を食べていた子たちから仲間外れにされた。突然だった。前触れなんかなくて、いつも通り一緒に食べようとお母さんが作ってくれたお弁当を持って、みんなが座っているテーブルに駆け寄った。
「いっしょにたべよー」
あのころは自分から誘うことができた。いつもだったら、いーよー、なんて元気な合唱が返ってきていたのに、その日はちがった。
「みゆきちゃんはだめっ」
幼稚園生って残酷だ。好きなものは好きって素直に言うし、それが微笑ましくかわいらしいのだけど、それと同様に嫌いなものも嫌いってためらうことなく言ってしまう。そのたったの一言で、私は突然ひとりぼっちになった。
 特に理由はなかったのだと思う。幼稚園生や小学生、いや中高生になってもそうかもしれない。仲間外しをしたりいじめたりする理由なんて特にないのだ。
 だが、当時の幼い私にそんなことがわかるはずもなく、ひたすらに悲しかった。悲しくて悲しくて、どうしたら元の仲良しに戻れるのか小さな頭で必死に考えた。そして思いついたのはお弁当だった。私の茶色のお弁当がみんなと同じカラフルでかわいいお弁当になったらきっと仲良しに戻ることができる。そう、根拠もなく私は思い込んだ。
 結局、お弁当が変わったことが何か功を奏すことはなかったし、からあげや卵焼きのお弁当はその一日だけで終わった。それでも、その仲間外しはそれから三日と経たずに終わり、何事もなかったのようにまたお弁当に誘われ、お遊戯の時間も一緒に遊ぶようになった。やっぱり理由なんてなかったのだと思う。
 あの日、幼稚園からの帰りの車の中で、いつものように母親に聞かれたその一言に私は答えることができなかった。決しておいしくはなかったかもしれない。だけど、それ以上に悲しかったのだ。みんなと同じお弁当になっても仲良しに戻れなかったことが。仲間外れにされたのをお母さんのお弁当のせいにしてしまったことが。

そこまで思い出したとき、男の子の身体にきゅっと力が入った。本当にかすかな動きだった。動くのだろうか。思考を止めて、じっと見つめる。きゅっと力の入った身体はこころもち縮んでいる。あ、力が抜けた。彼の身体はまたふにゃりとなった。
ずっと見ていると、彼は力を入れたり抜いたりを繰り返していた。いつかテレビで見た生まれたばかりのシマウマを思い出した。
私は少し気が抜けた。大きな動きがなくてがっかりしたのかもしれない。だけど、ほんの少しの変化が私はうれしかった。
彼が動くことで何かが変わる、そんな気がしていた。いや、それはただの私の願望なのだろう。
 はあ、と大きく息を吐くと、しゅるしゅると白くなってすぐに消えた。

「海、見える?」
話しかけずにはいられなかった。理由はわからないけれど、私は彼の方へ手を伸ばしたくなった。自己紹介はもう諦めた。私の中にいるのだから私のことは知っているだろう。そう勝手に決めつけることにした。
「海、見たことある?」
ぎゅっと彼の手がグーになる。
「君も、寒い?」
私の身体は既に芯まで冷えていて、薄いマフラーや暖かなミトンで表面だけがなんとか暖められているような状態だった。勝手に身体が震える。話しかけるのをやめると、歯がカタカタなるのがかすかに聞こえた。
「ここはね、寒いよ。とても」
そう言うと、大きな震えがきてブルっと体が揺れた。なぜだか涙が出そうになる。ぎゅっと目をつむり、顔に力を入れて止める。冷たい風は頬を叩き、髪を引っ張っていく。ミトンの手で顔を包むと、冷え切った頬に毛糸が痛いだけでいっこうに温まる気配はない。できるだけ縮こまって温まるようにと体操座りしている足を自分の方にぎゅっと抱きよせる。マフラーは寒さを防ぐにはやはり薄すぎる。
 じっと見ていても、やはり海は白い。荒々しい波と波がぶつかってはしぶきをあげる。喧嘩をしているようだが、ぶつかった後は一つになって海へ帰ってゆく。波は無数にあるが、その全てが海へ帰ってゆく。海へ戻ったかと思えばまた新しく生まれた波の一部となって打ち寄せる。他の波とぶつかるのは怖くないだろうか。痛くはないだろうか。私は頭の中で波になってみる。波になるところまではできたが、他の波とぶつかりそうになると、私は人間に戻った。何度試してみても、ぶつかることを想像することができなかった。私は、他の波とぶつかるのは怖い。ぶつかった後は海となり、また他の波となる。それは自分でなくなる気がした。
「海は怖いね」
私の考えていることは彼に伝わってしまっているのだろうか。私の中にいるのだから、それもあり得なくもない。
 振り向かない限りは左右には砂浜、眼前には海が果てしなく続いている。聞こえるのは波と風の音だけだ。それはまるで世界で私しか存在してなんじゃないかという錯覚を起こす。
 急に襲ってきた孤独感とは裏腹に、心臓の鼓動がだんだん速くなっていくのを感じた。どうしてだろう。胸のあたりがじわりと熱くなる。鼓動はおさまる気配はなく、ぎゅっと締め付けられるように痛くなる。もう寒さで痛みさえ感じなくなった顔を暖めるべく腕と膝にうずめる。
 男の子を見ると、彼は転がったまま体操座りの形でで小さく縮こまっていた。
「やっぱり、君も寒いの?」
声がくぐもる。頭はぼーっとしている。冷たく凍った顔に自分の吐息がかかってすこし気持ちが良い。波と風の音でいっぱいになり、私は海に呑み込まれていくような気がした。
「寒いけどね、私、ここ、好き」
男の子がピクリと反応したように見えた。どうしたのだろう、何に反応したのだろう。私の心臓はさらに加速する。もう一度言ってみる。
「私、寒いけど、冬の海、好き」
本当に寒くてうまく口が動かない。ちゃんと言えているかも怪しい。私が言い終えると、再び彼の身体に力がこもった。でも、明らかに今までとは違う力の入り方だった。彼の右腕が動き、手をつき、左も支えるように手をついてその上に体重が乗る。それはゆっくりと、とてもゆっくりとだったが、彼は起きあがった。そして、また以前のように体操座りをした。前と違ったのは彼の身体の向きが少しだけ変わり、左頬のふくらみが見えるようになったことだった。
 いつの間にか鼓動は落ち着いていて、再び寒気が襲ってきてぶるりと身体が震える。そういえば、海に来て、もう何時間になるだろうか。立ち上がることさえできる気がしない。
「君も冬の海好き?」
妙に落ち着いていて、不思議な感覚だった。そういえば、私の中で渦巻いていたざわざわとした気持ちはなくなっていた。返事は返ってこない。
 ゆっくりと立ち上がる。背中でボキリと嫌な音がした。身体中が痛い。水平線の上には真っ赤な太陽が落ちてきていた。白い海に赤が反射している。帰ろう。
 駅までの道のりでも電車を待っている間も電車に揺られている間も、ずっと考えていた。男の子は何に反応したのだろう。いくら考えても答えは出てこない。彼のことはわからないままだったが、気持ちが軽くなったことは確かだった。

 目が覚めると今まで感じたことのないような身体のだるさに襲われた。ずん、とベッドに沈んでいってしまいそうな感覚がする。起きないと学校に遅れる。焦りは募るばかりで、しかし一向に身体は動く気配はない。まるで身体の動かし方を忘れてしまったかのようだ。
 「みゆきー? 遅刻するでしょう。いつまで寝てるの」
しばらく葛藤を続けていると、少しイライラした様子の母親が部屋に入ってきた。この状況を伝えようとするが、私の口からはかすれた声で、あーとかうーとかいうような唸る音しか出てこなかった。
「……熱があるじゃない! ほら、ちゃんと布団かぶって。今日は休みなさい。なにしてるのよ、もう……」
母は私のおでこに手をあてると早口で言った。
「学校に電話してくるから、ちゃんと暖かくして寝てなさいよ。 おかゆ食べられる? 作ってくるからね」
怒ったような言い方だが、心配した声音が混ざっている。何も食べたくないなあと思ったが、何も言わずに横目で部屋を出ていく母親を見送った。
 やはり、昨日海にずっといたせいだろうか。目をあけると景色がぐにゃりとゆがむ。こんなに具合が悪いのはどれくらいぶりだろう。学校休むのか……。皆勤だったのになあ……。ビニールの膜が張ったようにぼんやりした思考で考える。…さこちゃん、どう思うかな。
「はい、氷枕。頭上げて、うん、よし」
母親が赤い氷枕を持ってきてくれた。耳のそばでゴロゴロと水と凍りが動く音がして、後頭部がひんやりとする。あ、私熱があるんだ。そこでやっと実感する。そういえば、ベッドの外は寒いはずなのに、身体中が異常にほてっている。サウナにいるような、熱いタオルでくるまれているような、決して心地よいものではないのだろうけれど、その身体の熱にぼおっとする。
「みゆき、4組だったよね?」
私がうなずくと、氷枕がガランと鳴った。
「欲しいものはある?」
母親の声がやさしく響く。すごく心配されているのだということが伝わってくる。ほっとその心地よさに身をゆだねて深いため息をつきながら首をふった。
「そう。じゃあ、電話しておかゆもってくるから」
パタンとドアの閉まる音がした。
 男の子もかすんで見える。助けてくれないかな、なんて都合のいいことを考えていたら、だんだん眠くなってきた。私は氷枕の心地よい水の音に沈んでいった。

 ケータイ電話の着信を告げる音に目が覚めた。机の方を見ると、ケータイのランプがピカピカと光っている。その隣にはおかゆが置いてあった。相変わらず頭をガンガンと殴られているような痛みが続いている。どうしようか迷ったけれど、ぐっと身体に力を込めて、ケータイに手を伸ばした。手は届いたけれど、うまく指に力を入れることができずに、ケータイは私の手から滑るように床に落ちた。ガシャンと音がしてあわてて拾う。私はケータイをよく落とす。そのせいで水色のそれにはところどころ傷が入っていた。また傷を増やしてしまっただろうか。心配して確認するが、どれが今できた傷なのかわからなかった。
ピンクのランプはメールの受信を示していた。開くと、「さこちゃん」の名前が表示された。ドキリと心臓がはねる。急いでメールを表示する。
『大丈夫? 風邪ひいたんだって? ちゃんと寝て、明日は学校に来れるようにね! みゆきがいないと寂しいよー』
「寂しいよー」の後に青い涙を流している顔の絵文字がついている。思わず頬がほころぶ。高校に入って学校を休んだのは初めてで、こういうメールをもらうのも初めてだった。すぐに返信メールを作成する。
『大丈夫だよ。ありがとう。すごく嬉しい』
勝手に指が動く。素直な気持ちだった。メールは苦手で、返信にはいつも困って何分もかかってしまうのだが、今回は1分もかからずにメールが完成した。送信ボタンを押す直前に思いついて、「嬉しい」の後にピンクの笑顔の顔の絵文字をつけて送った。
 男の子の頭がさっと動いて一瞬こちらを見たような気がした。すぐに彼を見たが、既に元と同じ方向を向いていた。気のせいだったのだろうか。相変わらず思考にはもやがかかっていてあまりよく考えられない。
 おなかはすいていないけれど、母親が作ってくれたおかゆに手をのばした。身体を起こすと頭の中を上から下に何かがズーンと落ちるように鈍く痛む。おかゆはぬるくなっていた。寒いんだからあたりまえか、と思ってから暖房がついていることに気が付く。母親がつけてくれたのだろう。のどがカラカラだということにおかゆを一口含んだ後に気づく。おかゆと一緒に置いてあるお茶を飲む。喉が潤うと、少しだけ頭がすっきりするような感じがした。
 さこちゃんのことが頭に浮かぶ。心配してくれた。私は嘘をついたのに、メールをしてくれた。私だったら、と考える。私だったら、心配はするかもしれないけれど、あんな態度をとられたらメールなんかしないし、憤って、いや、悲しくて、話しかけないだろう。電車でのことを思い出す。後悔と情けなさと悔しさと、さまざまな感情がうずまいて、うまく処理できない。考えれば考えるほど、泣きたくなった。
 男の子の背中がしゅんと小さくなったように見えた。
 頭痛が激しくなる。おかゆは全く減っていないが、薬を飲んで再びベッドにもぐった。

 次に目が覚めたのは昼間の三時ほどだった。薬が効いたのだろうか、今朝に比べ、ずいぶんと身体が軽い。机を見ると、おかゆは片付けられていて、ケータイも静かにしていた。
 ひどい空腹感を感じた。おかゆ少しとお茶しか口にしていないのだから当然だ。台所へ降りて冷蔵庫を開くと、お弁当が目に入った。母親は今日もちゃんとお弁当を用意してくれていた。お弁当を手に取る。さすがに台所は寒い。先ほどまでベッドで温められていた身体には耐えがたい寒さだった。お弁当を持つ手がカタカタと震える。まるで台所全体が冷蔵庫みたいだ。暖かいお茶を入れ、お弁当を持ってリビングに行った。
母親はいなかった。夕飯の買い物だろうか。エアコンは止まっていて、しかしまだ部屋の中は暖かかった。エアコンのスイッチを押す。お弁当のふたを開けるとむわりとお弁当独特の匂いが広がる。しゅうまい、かぼちゃの煮物、ミニグラタン。色とりどりにつまっていたのは、レイショクだった。完璧なまでの“レイショク弁当”。先週初めて買ったレイショクはその三種類しかうちにはなくて、先週の金曜と同じメニューだった。きゅうりとミニトマトも。
おなかはすいていた。でも、食べる気にはなれなかった。目の前のそれは母親が作ってくれたお弁当なのに、私のお弁当ではなかった。一度手にもったはしをテーブルの上に置いた。
どうしてこうなってしまったのだろう。そんなことは考えるまでもなく、私が望んだ結果だった。母親がカレーを作ったから、なんて本当は言い訳なのだろう。私は“レイショク弁当”を持っていく機会を待っていたのだ。母親のうっかりはチャンスだった。友達と同じお弁当、なんて小学生みたいな考え。我ながらあほらしい。最初からわかっていた。わからないふりなんかしても同じだ。うまく話せない、うまく動けない、うまく距離がとれない自分に嫌気がさしていた。私は幼稚園生の頃から何一つ変わっていなかった。お弁当が変わればどうにかなる、なんて幻想を抱いていた。
 結果は昔と同じだった。高校生にもなってお弁当一つで周りとの関係性が、自分の行動が変わるなんてあり得ることではなかった。ほんの二、三言の会話のきっかけにはなったが、それだけだった。それなのに私は成功したと思った。何が? それまでの私は失敗していたのだろうか。私は何を望んでいたのだろう。あの時さこちゃんはどういう気持ちでいたのだろうか。くだらない嘘をつく私を嫌いにはならなかったのだろうか。私にはメールを送ってくれた彼女の気持ちがわからなかった。
 私は母親の作った私のお弁当が食べたかった。ごぼうのきんぴらに鯖の煮つけ、野菜の煮物にれんこんのはさみ揚げ。レイショクなんかじゃなくて、母の作るご飯が食べたかった。

 結局そのお弁当には手をつけることができなかった。ふたを閉めてそっと冷蔵庫の中に戻した。

 三日ぶりの学校ではいろんな人に話しかけられた。昨日私が休んだことを心配してくれたらしい。とりわけお弁当を一緒に食べる子たち、もちろんそれにはさこちゃんも含まれている、は私の机を囲んでいろいろと話してくれた。大丈夫、とか元気になってよかった、といった心配の言葉。あとは授業でどこまで進んだとかの事務的な連絡。
「さこちゃん」
先生が教室に入ってきて、みんなが席に着こうとしたときだった。私はさこちゃんの背中に声をかけた。
「ん?」
彼女はくるりと振り向いて軽く首をかしげた。
「メールありがとう」
緊張した。一言だけだけど、絶対に言おうと思っていた。
「あはは! いいよ、そんなこと」
彼女が笑うといつもより八重歯がきれいに見えた。
 1限目は社会の授業だった。私とさこちゃんは日本史選択で、私がさこちゃんの左斜め後ろの席に座ることになる。授業が始まり三十分が過ぎようとしていた。先生が黒板にカツカツと音を立てながら今まで説明した内容をまとめていく。私は書くのが遅くていつも追いつけない。よく字を書き間違う私はまた写し間違えて修正テープに手を伸ばした。
「みゆき、みゆき」
こそこそと潜めた声に名前を呼ばれ顔を上げると、さこちゃんが小さく折りたたんだ紙を私の机の上にさっと置いて素早く前を向いた。修正テープを手に取るのを辞めてその紙を開いた。
『元気になってよかった! メールなんて気にしなくていいのに。具合悪いときに送ったら迷惑かなって心配してたんだ。送ってよかった。よかったら今日、一緒に帰ろうよ』
さこちゃんの字は均等に同じ大きさで並べられていて整っていた。すぐに返事を書こうと思ったけれど、ノート以外に手紙を書けるようなちょうどいい紙を持っていなかったので諦めた。それに、きっと私は授業中に先生の目を盗んで手紙を渡す勇気はもっていない。授業が終わり、直接返事をすると彼女はまた八重歯を見せた。
男の子はいつのまにか体操座りをやめて、足を延ばして座っていた。

「かーえーろっ」
ホームルームが終わり、鞄に教科書を詰めているとさこちゃんが跳ねるようにしてやってきた。慌てて立ち上がる。
「うん、帰ろう」
今日はなぜだか駅はいつもより混んでいなかった。電車が来るまで十分ちょっと時間がある。さこちゃんは寒さに耐えられずに自動販売機で買ったカフェオレを頬にあてている。二人きりというのはやっぱり苦手だ。この間のことを思い出す。彼女は何も気にしていないのだろうか。横目で彼女の様子をうかがってあっと思う。このシチュエーションはこの間と全く同じだった。嫌な予感がして、私が先に何かしゃべらなくてはと焦る。
「ごめんね」
おどろいて彼女を見た。今回も先に口を開いたのはさこちゃんだった。でも、予想だにしなかった言葉。彼女は下を向いていた。彼女の横顔は暗い。ハっとした。どうして彼女が謝っているのだろう。謝らなくてはいけないのは私の方なのに。
「違う」
そう思うと同時に気づけば勝手に口が動いていた。
「ごめんね。謝らないといけないのは私。私、嘘ついた。レイショクがお弁当に入ってたことなんてなかった。さこちゃんの言うとおりだったんだよ。みんなと違うっていうのがなんだか怖くて。私、みんなとどう接したらいいのかわからなくて、みんなみたいに自然にしゃべったり行動したりできなくて。だからせめてお弁当にレイショクが入ってたら、みんなと同じになれるかなって思ったの。そんなわけないのに。ごめん、ごめんね」
吐き出すように一気に言う。
そっと彼女の方を向くときょとんとしてこちらを見ていた。目はそらさない。鼻の奥がつんとしてこみ上げそうになる。
「みゆき、私たちと一緒に居て楽しくない?」
「そんなこと」
「楽しいよね? 私は楽しいよ」
「楽しいよ。楽しいけど、どうしたらいいかわかんなくなるの」
さこちゃんは私の目をまっすぐに見つめる。きらきらと光るその瞳に、思わずそらしてしまいそうになるのをぐっとこらえて、私も彼女の目を見つめた。さこちゃんの顔は赤く上気している。
「きっとさ、みんなそうじゃない? だいたいさ、自然に、なんて基準ってなあに? 私、そんなの考えたことなかった。みんなと楽しくしゃべっていられたらいいなって思う。多分、それが私の自然」
彼女はそう言って笑った。今日何度目だろう、やっぱり彼女が笑うと八重歯が見えた。
「なんだ、そんなことだったの」
私はその言葉を聞いた瞬間、胸の中にあったものが全て流れて消えてしまった気がした。そんなこと、私が悩んでいたことはそんなことだったのだ。そう思うと、すっと身体が軽くなった。目に涙がたまっていくのがわかる。
「ごめん! そんなことなんかじゃないよね。ごめん、また私……」
そんな私を見てさこちゃんが慌てて謝る。
「違う、違うの。そんなことだったの。私が悩んでたこと。そんなことだったんだよ」
あふれる涙はこらえることができなかった。
「うれしいの、今。自分でもよくわからないけど。ごめんね、本当にうれしいんだよ」
彼女は泣きながら笑う私を不思議そうに見つめていた。涙をぬぐって、私は微笑んだ。
「ありがとう」
この笑顔は、今までの私がつくった笑顔の中で一番自然な、いや、今まで考えていた自然とは違う、さこちゃんが教えてくれた本当の自然なものだった。
ジリリリリ、と電車の到着を知らせる音が鳴る。さこちゃんはその音が鳴ると共に再び笑顔になって言った。
「よし、今日は寄り道して帰ろっか! 私、手袋が欲しいの!」
そう言って目の前に差し出した彼女の手は寒さでかじかんで赤くなっていた。
さこちゃんは私のはめていたミトンがかわいいと言い、ミトンのタグを見てオリーブという名のお店に来た。私は初めて入ったそのお店は、さこちゃんは以前に来たことがあったらしい。彼女はすぐにいくつかの手袋を手に取ってどれにしようか吟味していた。私はその間、初めて入ったお店をふらふらと眺めていることにした。紺色のエプロンを見つけて、母親が頭に浮かぶ。そういえば、昔から同じ母のエプロンはもう色あせていたような気がする。私はそれを手に取ってレジへ向かった。
「あ、みゆき何買うの? 」
さこちゃんがすぐに気づいて寄ってきた。
「エプロン。お母さんに」
「えらーい! みゆきのお母さん幸せ者だ!」
手放しでほめられると、どう答えて良いのかわからない。思わず口ごもる。
「ね、みて。これ、どうかな?」
そう言って見せてくれたのは赤のミトンで、私のグレーのミトンと色違いのものだった。彼女は私の顔色をうかがっているようだった。どうしたんだろう。
「うん、似合うと思うよ」
思ったままに答えると、彼女はよかったあ、と安堵の声をもらした。
「どうしたの?」
私が不思議に思って尋ねると、
「だって、色違いだから、おそろいになるでしょ?嫌なんじゃないかって思って」
彼女ははにかむように答えた。私はそんなことあるわけないよ、と笑った。
 その時ふと、さこちゃんの後ろに見えたピンクベージュのマフラーが目にとまった。
「どうしたの?」
私の動きが急に止まったからだろう、彼女は心配そうに言う。
「うん、あのマフラー」
彼女の横をすり抜けてマフラーを手に取る。これだ。私、これが欲しい。
「あ、それかわいいー」
横からさこちゃんが覗き込んで言った。
「うん、かわいい。これ欲しい」
さこちゃんが賛同してくれたことでうれしくなった。買おう。すぐに決めた。今まで使うこともなく貯まっていたおこずかいをはたくことにはなったが、少しも惜しくはなかった。エプロンとマフラーの入った袋を受け取るとき、うれしさで胸が震えた。
 帰り道、さこちゃんはさっそく赤いミトンをはめた。私はなんだかもったいなくて、今までと同じマフラーのままだった。
「そういえば、みゆきのお弁当」
赤いミトンの手を嬉しそうにグーパーと動かしながら歩いていた。
「あれ全部、毎朝お母さんが作ってるの?」
「あ、ううん。おかずは前の日の夜ご飯の残りとか、ごぼうのきんぴらはたくさん作って、お弁当用にたくさん冷凍しておいてくれてるんだよ」
「そうなの? でもすごいねえ」
母の料理する姿を頭に浮かべる。エプロン、気に入ってくれるだろうか。
「あ! っていうかそれってレイショクじゃん!」
さこちゃんは急に立ち止まって声をあげた。
「え?」
「冷凍してストックしてるんでしょ? それってある意味レイショクじゃない?」
すごい大発見だ! とでも言わんばかりに彼女は手を叩いて喜んでいた。私は驚いてひどく間抜けな顔をした。
「じゃ、みゆきは嘘ついてなかったね! きんぴらごぼう、毎日入ってるもん!」
そう言って彼女はうれしそうに私の腕に自分の腕をからませた。
 私たちが笑いながら歩き出すと、男の子がすっと立ち上がったのがわかった。

 家に帰ってエプロンを渡すと、母親は想像以上に喜んでくれた。私の誕生日いつだっけ? なんていいながらエプロンを持ってくるくると回った。私が、いつもお弁当ありがとう、お母さんの料理大好き。これからも作ってね、と言うとピタリと動きを止めて涙目になった。
 もったいないから、となくなるまではお弁当に毎日ひとつずつレイショクが入っていたが、他は今まで通り母親手作りのおかずがつめられていた。きっともう私はレイショクを食べることはないだろう。
 
 電車ではミトンは外すようになった。電車の中は十分に暖かいし、ウォークマンを操作するにはその方が良い。電車や通学路で友達を見かけたら、すぐに挨拶するようになった。挨拶をするのに決まりなんてない。新しいマフラーは暖かく、冷たい風が吹いても私の首元を守ってくれていた。
 男の子は、気が付いたらいつの間にか消えていた。なんだかさみしいような気もしたけれど、あの日、やっと立ち上がった彼はどこかへ歩いて行ってしまったのだろう。
 彼が私の中からいなくなったからといって、私は何も変わらなかった。新しいマフラーをまくようになったし、以前よりは自分の行動に迷うことは少なくなったけれど、そんなことは大きな問題ではなかった。私はいつだって自然で、いつだって私は私なのだから。

わたし

わたし

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-08

Copyrighted
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