ガラスケースの少女

 早見がその話をしてきたのは、大学四年の秋のことだった。
 その日、僕と早見は、大学の食堂の窓際の一角で、特にこれといった話をするでもなく過ごしていた。壁面がまるごとガラス張りなので、外がよく見えて、僕はそこが好きだった。傾きかけた午後の太陽は、さびしげで眩しい光を投げかけていた。僕たちはその日だまりのなかで、無口な時間を過ごしていた。
 早見がその話を切り出したのは、昼休みが終わってすっかり食堂が空いた頃だった。いくつかの小さなグループが、がらりと広い食堂に、離れ小島で身を寄せ合うみたいにして点々といるだけになっていた。聞こえないくらいの話し声と、プラスチックの食器がすれあう音と、水の音だけが聞こえた。静かで穏やかな時間帯だった。
「最近、どうしてたんだよ。」
 僕は言った。
「いくらなんでも顔を見なさすぎて、どうしたのかと思ってた。」
 早見は声を出さず笑った。
「ごめん、色々あるんだ。」
「単位は?」
「取り終わってる。だからもう、卒論が書きあがってしまったら卒業しなくちゃならない。」
 まるで卒業するのが嫌みたいな物言いだな、と僕は思った。窓の外を見ると、たくさんの学生が活気にあふれて動き回っている。黄緑の芝生に座り込んで大仰に笑いあったり、フリスビーを投げ合ったり、歩いたりしている。しかしその音は、厚いガラスの内側には届いてこない。
「ここのところ、引きこもりっきりだったんだ。」
 早見がふいにそう言った。
「色々あって、ここのところ全然外に出ていなかった。一昨日お前から連絡があるまで、休みのはじめからずっと家に引きこもってたんだ。」
 うつむきがちに、早見は言った。僕は黙って、続く言葉を待った。
「バイトもやめたし、飯も適当な出来合いで済ませてた。携帯なんてほとんど見なかった。貯金ほとんど食いつぶして、ずっと家にいたんだ。」
 早見の顔は、たしかに休み前よりもどこか生気を失って見えた。目の下は削げたように黒くなっていたし、顎の下はたるんでぶよついていた。不健全な日々が、彼をアンバランスな外見に仕立て上げてしまったらしかった。
「どうしてそんな生活してるんだ。

 僕がなるべくさりげなさを装って尋ねると、早見はしばらく目を泳がせて黙ったあと、ふぅっと大きく息をついて、切り出した。
「あるものを手に入れたんだ。」
「あるもの?」
 早見はうなずいた。
「うまく説明できる気がしないんだけど、とにかく……俺は、そいつのためにずっと家にこもりきりだったんだ。そいつのことばっかり気にかかって、俺はずっと身動きが取れなかったんだ。」
 僕は首を振った。
「よくわからないな。」
「これだけの説明で、わかろうってほうが無理だろ。それはいいんだ。」
 早見は手で顔を覆い、しばらく黙っていた。僕はテーブルに肘をついて、窓越しに外を眺めた。イチョウの葉の緑は褪せはじめ、空はどことなくクリーム色を帯びて見えた。
「今日、時間あるか。」
 早見が言った。
僕は念のため頭の中でその日のスケジュールをさらって、特にこれといった予定はないと答えると、早見はうなずいた。
「じゃあ、出来ればちょっとこのあと家に来てくれないか。そっちのほうが、色々手っ取り早く説明できる。」
「なかなか事情がこみいってるんだな。」
 早見は僕を見てうなずいた。
「少なくとも、俺の中ではかなりね。」
「そんなところで僕が何かできるのかな。

「分からない……それも分からないくらいこみいってるんだ。でもお前は、頼れる。こみいった事情を、無理に簡単にしたりしない。で、そのうえできちんと色々考えてくれるだろ。俺はお前のそういうところを頼りにしてる。だからお前が連絡をくれたとき、俺は久しぶりに返事をしたんだ。」
 僕は黙ってうなずいた。たしかに、早見は本当にどうしていいかわからないらしかった。話しぶりは僕に助けを求めるようでもあったし、何かを語ることを恐れるようでもあった。夏休みの前よりもずっと、早見はおそるおそる話をしたし、どこか不安げで落ち着きがなく見えた。
「とりあえずお前の家に行くよ。」
 僕はそう言った。

 早見の家は、大学から歩いて十五分くらいの、住宅街の中にあるアパートだった。そのあたりは、家賃の相場で言えば、さして高くも安くもない土地だった。しかし、早見のアパートだけがその中で異彩を放っていた。築何十年か考える必要さえ感じないほど、見るからに古そうな木造アパートに、早見は格安の家賃を払って住んでいた。
ブロック塀と建物の間の狭い隙間を、鉄屑同然までに錆びついた自転車を避けながら、苦労しいしい進んでいった。そこは日当たりが悪く、土が濃い茶色にしめっていた。目をこらすとダンゴムシが塀の下のほうで這っていた。
奥のほうから、錆だらけの階段を上がった。二階の角部屋が早見の部屋だった。ドアは少し力を入れて蹴れば破れそうだった。
早見が鍵を開け、先に部屋に入った。隙間から中の様子を見るともなく見てみたが、真っ暗で何も見えなかった。
 玄関に座り込み、早見が靴を片づけている間、僕はアパートの廊下から外を眺めてみた。空は寂しげに青かった。ときどき吹く風は誰かのため息のようだった。ちらほらと、葉が黄色くなりつつある木が見つけられた。
 入れよ、と早見が声をかけてきて、僕は部屋の前に戻った。もう一度中をのぞくと、やはり暗かったが、よく目をこらすとだんだん部屋の輪郭が浮かび上がってきた。
 僕は、おそるおそる敷居をまたいで、玄関で靴を脱いだ。空気はよどみ、時間をかけて育った何かの匂いがした。決して嫌な匂いというわけではなかったが、あまり健康的とはいえない空気なのは確かに思えた。
 入ってすぐに小さなキッチンがあり、そこを抜けると畳の一室だった。熟成された空気の、なんともいえない重たさみたいなものがあった。カーテンは閉め切られ、机の上には空のプラスチック容器と割り箸が放ってあった。ベッドには脱ぎっぱなしのものが無造作にたれさがっていた。
 早見は部屋の隅にいて、僕が入るとそばに寄るように言った。僕は彼の隣に立ち、彼の前にあるものを見た。
 目の高さほどにある小さな白熱灯を少しだけつけた。僕たちの前には、各辺五十センチくらいとおぼしき箱のようなものが、花柄の布をかぶせられて置かれていた。早見は、僕のほうをちらりと見て、いいか、と言った。僕はうなずき、その箱らしきものを見た。
 早見は手を伸ばし、そっとその布を取った。
するすると姿を現したのは、もう一つの小さな部屋だった。
小さな部屋、正確には、ガラスケースに入った小さな部屋の模型だった。中には小さなベッドとコーヒーテーブル、二人掛けのソファー、マガジンラックが置かれていた。
そして驚いたことに、そこには女の子が住んでいた。
女の子といっても、当然のことながら僕たちよりもはるかに小さかった。ボールペンとどちらが大きいか、というくらいだろうと思われた。しかしその体の小ささを別にすれば、彼女はガラスケースの中で全く普通に暮らしているようだった。彼女は早見に気づくと、彼ににっこりと笑いかけ、口だけ動かして、
《おかえりなさい》
と言った。早見もそれに応えるように、声に出さずに、ただいま、と言った。その顔は本当にうっとりとしていて、話しかけるのがためらわれるほどだった。
 実際、しばらく早見はガラスケースの中の彼女に釘づけになっていて、僕は本当に話しかけずにその様子を見ていた。確かに、彼女は美しかった。長い髪は美しい金色で、上質な絹のようだった。目はこぼれ落ちる寸前の朝露のようなはかない輝きを持っていて、それが胸を締めつけそうに美しかった。どこか知らない異国の人間と、日本人の間に生まれたハーフのような顔立ちだった。服装はきわめて素朴で、茶色の長いワンピースにクリーム色のカーディガンを羽織っているだけだったが、それが彼女の美しさを素朴で純なものに見せていた。
 彼女は時折早見のほうを振り返り、ほほえんだり声に出さずに何か言ったりしたが、それ以外は概ねのびのびと自分の生活をしていた。早見はそんな彼女の様子を、子犬を愛でるようにずっと見つめているのだった。
 僕は早見に、飲み物はあるか、と尋ねた。彼は、冷蔵庫、とだけ答えた。僕は黙って冷蔵庫を開けた。中はほとんど空で、ときどき何かよく分からない液体が壁面や棚板にこびりついていたりした。いつのものか分からない瓶やら納豆のパックやらが、無造作に置かれてあった。僕はコーラの缶を見つけて、それを取り出して飲んだ。
 暗い部屋の隅だけを、白熱灯が照らして、その下で早見がじっとうずくまるようにたたずんでいるのを、改めて目にして、僕はひどく不気味で不快な気持ちになった。見るべきではないものを見ているような気がして、僕は部屋を立ち去りたくなった。
 僕はため息をついて、
「そろそろ何か話すかしてくれないと、僕も結局何も分からずじまいなんだけどな。それを見せて満足、っていうなら、そろそろ帰るよ。」
 と言った。早見は、本当に今やっと我に返った、というような調子で、
「あ、あぁ、ごめん。ごめん。ついぼうっとしていて、悪かったな。」
 と言った。僕は驚くとともに、少々気味が悪くなった。まるで早見は魅せられたようだ、それこそこの世のものではない何かに……そう思うと、僕はガラスケースとその中の女が、いよいよ怪しく胡散くさいものに思われた。
「そろそろ夕方だし、近くで飯でも食おうよ。色々話しながらさ。」
 僕はそう言って、早見を出かけるようにうながした。ちらりとガラスケースのほうに目をやった。白熱灯は煌々と光り、その下で彼女は、小さなソファーに体を預け、小さな本を読みふけっていた。

 アパートから少し歩くと、交通量の多い国道に出る。僕たちはその道沿いのファミリーレストランに入った。
 改めて席について向かい合ってみると、早見はますます落ちぶれて見えた。伸びきった髭と髪と、削げ落ちたりたるんだりしている不健康そうな顔。僕は、まるでさっきのガラスケースが、早見の生命力を奪って存在しているようだと想像した。
 僕はハンバーグステーキとコーンスープを、早見はオムライスとポテトフライを頼んだ。それからビールを頼み、食べ物が来るまでそれを飲んだ。
「ビールなんか、何か月飲んでなかっただろう。」
 早見がしみじみと言った。
「お前、本当にあれに魅入られたみたいだったな。びっくりしたよ。」
 僕がそう言うと、早見は、
「悪かった、でも仕方ないんだよ。どうしても、ああなっちゃうんだ。

 と、うつむきがちに首をふって言った。
「やらなきゃいけないことなんて、全部無意味に見えるくらいの幸福感が、頭の中に流れ込んでくるんだ。あの瞬間、俺はただそこにいるだけで俺になれる。何も求められないし、俺も何も求めない。ただ、ああやっていられるだけで幸せになれるんだ。」
 僕は黙って話を聞いていた。まるっきり現実から逃げているだけのように、僕には思われたが、口に出しては言わなかった。
「世間の言う幸せなんて、追いかけても追いかけても掴まらない、蜃気楼みたいなもんじゃないか。俺は、今の小さくてもはっきりとその身に感じる幸せのほうが好きなんだよ。たとえそれが、世間の常識からしたら逃げみたいなものだとしてもさ。」
 そこまで言って、早見はビールを一口飲み、フライドポテトを食べ、またビールを飲んだ。僕はため息をついた。早見の言っていることは、どこか正しく思えたが、どこかものすごく醜いものにも感じられた。僕はしばらく考えてから、
「でも、そういうのって、結局誰かの犠牲の上にに成り立ってるんじゃないかな。ちゃんと働いて、自分の生活をきちんと修めて、そういうことをきちんと積み重ねている人の成果を、食いつぶして成り立ってる。そういうのって、正しくないんじゃないかな。」
 早見は何か言い返そうとしたが、言葉が詰まったように、そのまま黙った。やがて料理が来て、僕たちはそれを黙って食べた。ハンバーグはジューシーじゃなかったし、ライスはパサパサしていた。味気ない食事だった。
 食べ終わってから、僕たちはもう一杯ビールを注文した。相変わらずお互い黙っていたが、ビールが運ばれていてから、早見がようやく口を開いた。
「他の誰かの犠牲、っていう考え方は、確かにわかる。わかるけど、それほど俺らは、その誰かに報いなくてはいけないのかな。そうするだけの価値を持ったやつって、どれだけいるんだろう。」
 僕は首をひねって、言葉が継がれるのを待った。
「だからさ、結局誰かが誰かを思いやっても、その思いやりがきちんと伝わることなんてめったにないだろ。お互いの優しさで支え合っていこう、なんて思ったってさ、百パーセントの優しさを差し出して、それを本当に価値あるものとして受け取ってくれるやつなんて、全然いやしない。それなのに、誰かが犠牲になるとか、誰かの犠牲になるとか、考えたくないんだよ。」
「良かれと思ってやったことが、そのまま受け取られないから引きこもるってこと? それってただの独りよがりじゃないの?」
「人の気持ちに鈍感な、無神経なやつが多すぎるってことかもしれないだろ。」
 早見はそこまで言うと、苦々しさを抑え込んだような顔でビールを飲み、そのまま頬杖をついて黙りこんでしまった。僕は頭が痛くなりそうだった。
 外はだんだん暗くなり、車はライトを灯しはじめた。混み始めてもよさそうな時間だったが、客はまばらだった。僕はセルフサービスの水をとって飲んだ。
 十五分くらい黙ったあとで、僕はきりがないと感じて口を開いた。
「とにかく、いつまでもああしているわけにはいかないだろ。生活費とか、健康のこととか、現実も考えたほうがいいよ。あの子との時間が大事なのは、分かるけどさ。」
 早見は黙ってうなずいた。そして時計を見て、そろそろ出ようと言った。支払いは、早見がすると言って聞かなかった。
 結局払いは早見が持った。僕たちは、そのまま店を出て、別れた。

 家に帰ると、メイがソファーで爪を切っていた。テレビがついていて、バラエティ番組が流れていた。ダイニングテーブルには、使い終わった食器がそのままにしてあった。
 ただいま、と声をかけると、メイは足の爪から目を離さずにおかえりと言った。僕は上着をクローゼットのハンガーにかけ、手を洗って三回うがいをした。
 メイの隣に座って、僕はテレビを眺めやった。小さいボリュームの音は、異世界から聞こえるノイズみたいだった。
「早見に会ったよ。」
 僕が言うと、メイは興味もなさそうにふうんと言ったあと、
「あの人今どうしてるの?」
 と言った。僕は早見の今の状況をかいつまんで話した。将来の進路は定まっていないこと、ここ最近は家に引きこもりきりだということ、いやに不健康な生活をしていること、などだ。ガラスケースの少女のことは、秘密にしたほうがよく思われたので言わずにおいた。
「よくもまぁ、そんな生活を何か月も続けていられるわね。」
 メイはそう言ったが、まるでどうでもいいことについて語るような口調だった。僕も彼女の感想には賛成したが、どこかでほんの少しだけ自分がいらだっているのも分かった。早見は、彼の現状はどうあれ、今までずっと僕の友人なのだ。
 メイは切り終わった爪を新聞紙のうえでまとめて、そのまま新聞紙で包んでごみ箱に捨てた。そしてソファーから立つと、しばらく冷蔵庫を物色していたが、何も見つからなかったらしくソファーに戻ってきて黙って座った。
 僕は組んだ手で口をおおったまま黙っていた。何か言おうかとも思ったが、何も言うことはなかった。メイもそうらしかった。付き合って三年半、同棲を始めてから二年半になるが、近頃の僕たちはいつもそんな感じだった。どこかの時点までは、それは「黙っていても居心地がいい」というポジティブな状態として捉えられていたかもしれない。しかし、いつの間にかそれはただの重苦しくて行き場を失った沈黙でしかなくなっていた。
 僕はあきらめて冷蔵庫から缶のカクテルを出し、それを飲みながら文庫本を読んだ。テレビの音声が蠅のように耳にまとわりついて、あまり集中できなかった。メイはしばらく黙ってテレビを見ていたが、番組が終わると立ち上がり、洗面所で歯を磨き始めた。
 僕はそっとテレビを消し、ソファーに横たわった。活字に集中がいくようになって、僕はしばらくじっと本を読んでいた。やがてメイがおやすみと言い残して寝室に行ってしまった。僕は日付が変わる少し前くらいに本を読み終えて、歯を磨き、日付が変わった少しあとに寝た。

 実を言うと、その頃僕にはメイと別に仲のいい女の子がいて、その子との関係が非常に微妙なものになっていた。自分のなかでは最初、単に気が合う相手だからお互いのことをいろいろ話したりしているだけのつもりだった。しかしだんだん日が経つにつれて、そう話は単純でなくなってしまった。
 彼女は川村さんという人で、春学期に大学の演習形式の授業で仲良くなったのをきっかけに話すようになった。必ず毎週一回は授業で顔を合わせたのに加えて、ときどき一緒に昼ご飯を食べたり、午後の授業をサボってカフェでおしゃべりをしたりした。恋人がいることはなんとなく言っていなかった。自分でも、別に意図をもって言わずにいたわけではないと思っていた。
 授業の最終日に、僕は川村さんに飲みに行かないかと誘われた。
「せっかくだし、授業のお疲れ様会みたいなものも兼ねてね。あたし今日は飲みたい気分なの。」
 僕はそのとき、それまであいまいにしていた様々なことを直視しないわけにはいかなかった。僕は川村さんにメイのことを一度も話さなかったし、メイにも川村さんのことは一度も話さなかった(もっとも、その頃すでに僕とメイは言葉を交わすこと自体が少なくなっていた)。僕は川村さんといるのが楽しかったし、毎回の授業やそれ以外の機会に彼女に会うのをずいぶん楽しみにしていた。最初に比べれば会う頻度はずいぶん増えていた。そういった事々が意味するかもしれないことを、僕はなるべく考えないようにと、無意識のうちに努めていたのだろう。
 しかし、そういうことを十分に吟味する間もなく、僕は川村さんに返事をした。結局授業が終わったその日の夜、僕は川村さんととある副都心のアイリッシュ・パブで飲んだ。そしてそのあと、川村さんの部屋に行き、少し飲みなおしたあとでセックスをした。
 村上春樹の小説みたいだ、と僕は思った。事が済んだあとで、僕は非常にいたたまれない気持ちになった。どうしてこんなところにまで流れ着いてしまったのかと、いくら胸を痛めながら考えても、答えは出なかった。
 僕はなんとか理由をつけて終電で家に帰った。メイには、男友達と飲んでいたのだと姑息な嘘をついた。どのみち彼女はあまり興味がなさそうで、僕はいよいよ暗い気持ちになった。
 そしてそれ以来も、川村さんとはだらだらとした関係が続いていた。なるべく避けようとはしたものの、星の巡り会わせみたいなものがあるように、どうしてもセックスをしないわけにはいかないときもあった。僕はそのたびに、どこにも行けない閉塞感みたいなものに襲われた。もちろん事が済んでからの話だ。
 それでも僕にはメイと別れる決心はつかなかったのだ。彼女といることに僕は馴れすぎていた。彼女との間の沈黙は、気まずくはあったが確かに僕と彼女とで作り上げてきたものだった。失うことは想像できなかったし、想像したくもなかった。
 そうしてずるずると、僕は微妙なバランスを保ちながら秋まで過ごしてしまったのだ。

 約一週間後の日曜日、僕は再び早見の家を訪れた。よく晴れた日だった。高い空は青く、強い風が吹いていた。木々の葉もいちだんと黄色くなっていて、僕はなんとなく感傷的な気分になった。
 早見の家を訪れたのは午前中だった。何度かチャイム(まさに早見の家のそれは、前時代的なチャイムそのものだった)を鳴らしても、早見が顔を出す気配は一向になかった。僕はためしにドアノブを回してドアを引いてみた。するとドアはあっさりと開いた。
 家の中は相変わらず閉め切られていて、暗くしんとしていた。僕は少しだけ心配になった。なるべく音を立てないように靴をぬぎ、なるべく足音を立てないように家に上がった。
 部屋をのぞくと、例の白熱灯だけが鈍く光っていた。ベッドのほうを見ると、こんもりとした塊をタオルケットが覆っているのが白熱灯の光にかろうじて照らされていた。僕はそれをそっと、とんとんと叩いた。どうやら早見は寝ていたらしかった。
 反応がないので、意を決して揺さぶってみると、タオルケットからもぞもぞと早見が這い出してきた。髪の毛は枯れたアロエみたいにはねていた。
「いくらなんでも不用心だな、鍵開けっ放しで寝てるなんて。」
 僕がそう声をかけても、早見はしばらく目をしょぼしょぼとさせてぼんやりしていた。
「お前、昨日何時に寝たの?」
 早見はかすれた声でぼそりと、
「四時。」
 と言った。
 ガラスケースの前に立って、これ見てもいいか、と尋ねると、早見が黙ってうなずいたので、僕は覆いの布を取ってそれを見た。相変わらず少女はそこで暮らしていた。布が外されると、少女はこちらをちらりと一瞥したが、別に何も見なかったとでもいうようにまた視線を戻した。彼女は赤い糸で編み物をしていた。
「これ、どうやって生きてるの? 食べ物とか、持ってる本とか糸とか、どうなってるんだ?」
 僕が尋ねると、早見はわからない、と首を振った。
「朝になると、いつの間にかそれまで無かったものがあったり、あったものが無くなったりしてるんだ。しくみは一切分からない。たぶん、俺たちの生活とは違う原理の上に成り立っているんだと思う。」
 と言った。小人が夜中に靴を作るよりも何倍も奇妙な話だった。
 しばらく僕はそれを見ていたが、少女はじきに赤い手袋を編み上げてしまった。少女はそれを手にはめ、ぴったりと合うことが分かると、満足げに微笑んだ。そして部屋の隅のとても小さいステレオをしばらくいじったあと、またソファーに戻ってきて、今度は緑色の糸で何かを編み始めた。
「本当に生きてるんだな。」
 僕は早見にも聞こえるようにそう言ったが、彼は身じろぎもせず、ベッドの上で幽霊のように座ったままでいた。僕は仕方なく、また少女の様子を眺めていた。
 そうして時間はじりじりと過ぎていった。部屋には時計もなかったので、いったい何分、何時間経ったのかさえ分からなかった。少女はセーターを編んでいるらしく、時間が経つにつれてだんだんその形がそれらしくなっていくのを、僕は黙って見ていた。
 突然、チャイムが鳴った。
 僕はびくりとした。心臓が止まるほど驚いた。しかし、チャイムの残響が消えていくのと並行して、僕は落ち着きを取り戻した。
 しかし、もう一度チャイムが鳴った。僕は早見を見た。
「出なくていいのか?」
 早見は黙ったままだった。僕は、代わりに出ていいなら出るぞ、と言った。早見はイエスともノーとも言わなかった。僕は少しいらだちを感じたが、ノーと言わないのであれば、と考えて玄関に立つことにした。
 ドアをゆっくりと開けると、気のよさそうな老人がこちらを見つめて立っていた。
「どうも、早見さんはご在宅で?」
「えぇ、まぁ。」
「あなたは、ご友人でいらっしゃいますか。」
「そうです、早見の友人になります。」
 僕がそう言うと、老人は一度深く頭を下げた。
「私は、このアパートの大家です。今日は早見さんと直々にお話ししたいことがあってうかがったのですが、今お時間はよろしいですか。」
 僕は、少しの間待ってくれるよう大家に頼んで、部屋の中に引っ込んだ。そして早見に、大家がやってきたことを告げた。
「お前、もしかして家賃払ってないの?」
 僕がそう聞くと、早見は無言でうなずいた。
「どれくらい?」
 しばらく早見は黙っていたが、
「三か月。」
 と、ぽつりと言った。思わずため息が出た。
「どうするんだよ、大家さんお前と直接話すって言ってたぞ。」
 しかしそう言っても、早見は黙り込んだままだった。僕はいよいよ苛立った。一体どうして、早見はここまで依怙地になっているのだろう? そもそも何に対して?
しかし、僕はなんとか苛立ちを抑えて、
「とにかく、大家さんとは自分できちんと話せよ。僕はしばらく外に出て待ってるから。」
 そう言って、僕は玄関に戻り、大家に中に入るように告げた。大家は小さい体をさらにちぢこませるようにして、失礼、と言って部屋に入った。僕は入れ替わるようにして外に出た。
 中の様子をうかがい聞いてみようかとも思ったが、なんとなく気が進まなくてやめにした。僕は廊下の端に立って、錆びた鉄柵によりかかって空を見た。風がひゅうひゅうと悲しい音を立てて吹いた。
 早見は、あの女との暮らしに溺れてしまった。いや、あれは暮らしとも呼べないものだ。早見は現実から逃げて、夢の中に閉じこもっているのだ。あのガラスケースは、早見の夢の一部だ。潜れば潜るほどに現実から遠ざかる、早見の孤独な夢だ。
 そう思うと僕には、早見がもはや手のつけられないくらい遠いところにいるように思われてきた。早見は早見だけの夢を見ている。その夢はきっと誰をも寄せつけないのだ。だって僕に対して、早見はあんなにも口を閉ざし、心を閉ざしたのだ。
 僕はむなしくて仕方なくなった。早見はいったい何を考え、何を夢見ているんだろう?
考えても考えても、絶対に分からない気がした。

しばらくして大家が部屋から出てきた。僕の姿を認めると、彼は軽く会釈をして、背を向けて去っていった。僕はその後ろ姿を見送ったあと、早見の部屋に戻った。
早見はベッドに腰かけてぼんやりとしていたが、僕が入るとこちらをちらりと見た。何を話したのか尋ねると、
「今月いっぱいで家賃を払いきるか、部屋を出ていくかしろ、ってさ。」
 とぽつりと言った。
 僕はしばらく何を言うべきか考えたが、ひとまず、
「コーラもらっていいかな。」
 と聞いた。早見はうなずいた。僕は冷蔵庫からコーラを二缶取り出し、早見に一缶を渡した。
 僕は早見の隣に腰かけ、コーラの缶を開けた。遠くで自動車のエンジンがうなるような音が聞こえた。
「結局、こんなことになっちゃったよ。」
 早見がぼそりと言った。
「俺だって確かに悪いよ。就職も見つけないで、家に引きこもって、家賃もろくに払ってないで、俺だって悪いよ。でも、どんどん追い込まれるだけ追い込まれて、なんかひどいよ。」
 早見は一気にそう言うと、膝に顔をうずめて黙り込んだ。僕はコーラを一口飲んだ。
「でも、いくらそう言ったところで、何が前に進むんだ。何がよくなるんだよ。」
 僕は言った。
 正直なところ、そう言う僕にも、何をどうすれば物事がよくなるのかなんて分からなかった。どちらにせよ、何かが失われたり、誰かが傷ついたりしなくてはいけないのであって、誰かにとって物事がよくなることは、誰かにとって物事が悪くなることかもしれなかった。
 僕はメイと川村さんのことを思い出した。僕も僕とて、どこに行けるか分からないはざまを、ずっとゆらゆらしてばかりいるのだ。

 それから一か月経って、僕の身辺では二つの事件が起こった。
 一つは、早見のアパートからの立ち退きだった。三か月分の家賃を支払うめどが立たないということで、少ない荷物だけを持ってアパートを出た。
 早見が部屋を出たその日に、僕は彼と例のファミレスで昼ご飯を食べた。早見は両手に大きなボストンバッグを二つ、背中にはリュックサックを背負っていた。大きすぎる荷物にたいして早見の体は細すぎて、なんともいえない悲愴感をただよわせていた。
「ガラスケースは?」
 僕が尋ねると、
「ちゃんとバッグに入ってるよ。かさばって仕方ないけどな。」
 と、早見は言った。そして、
「どこか住みこみで働けるバイト先を探そうと思うんだ。」
 と言った。
「パチンコ屋とか、警備員とか?」
「そういう感じになるのかな、ちゃんと調べてないから何とも言えないけど。」
「実家は?」
「全然連絡してないよ。就職決まってない時点で、もう半分見放されたようなもんだと思ってるし。」
「さすがにそんなことはないだろう。」
「いいんだよ、もう。何を話したって平行線なのは、これまでだって同じだったしな。」
 ため息が出そうになった。僕には早見が、自分で自分を追いつめて、逃げ場を一つ一つつぶしているようにしか思えなかった。友達がそんなふうにして追いこまれていくのは、僕としても嫌だった。改めて早見の脇に積まれた荷物を見て、僕はなんとも物悲しい気持ちになった。それは早見の体にのしかかる苦役の象徴にも見えた。
「あんまり無理するなよ。僕もなにか、いい仕事とかないか当たってみるよ。」
 僕がそういうと、早見はありがとうと言って笑った。

 もう一つの事件は、僕にかかわることだった。
 見方によっては、それは二つの事件だったとも言えたかもしれない。しかし、僕にとってはその二つは切り離しがたく結びついていたように思われた。
 僕が四月から就職する予定だったのは、とある日用品メーカーだった。シャンプーとかリンスとかトイレタリー用品とか、そういうものを作っている会社だった。
 その会社が、突然経営破たんを発表した。
「シャンプーとかリンス作ってる会社でも、倒産することなんてあるのね。」
 久々に電話をした母は、ひとしきり話すことを話したあとで、ぽつりとそう言った。僕も正直そう思っていた。誰もが常にどこかでほしがっているものを作る会社が、そう簡単につぶれることはないと漠然と考えていたからだ。
 新聞などで報じられていたことには、会社の経営は実は数年前から芳しいものではなかったらしい。そしてその数年前というのは、経営者が変わって会社の経営方針が大きく転換した時期とほぼ重なる。それまでは、国内の需要向けに、細々ながら着実に商品を生産し安定した利益を確保していくのが、会社のスタイルだった。しかし、新しく就任した経営者は、国内需要の縮小を見込んだ海外進出を強く推進し、莫大なコストをかけてそれを推し進めていた。
 会社の経営は、表向きには悪いものとは見えなかった。それまで国内でこつこつと積み上げてきたものがそれなりにあったし、それに裏打ちされた社会的な信用もあった。だからいくら状況が悪くなっても、本当に取り返しのつかないところにくるまで、誰も気がつかなかったのだろう。
 そういった大きな波に巻き込まれて、僕は四月からの働き口を失ったのだった。しかし僕は嘆くことさえしなかった。起こった出来事はアメリカの西部の街で突如生まれた竜巻のようで、僕はそこに自分が関与していることを実感することができなかったからだ。いったい何が起こったのかよく分からないまま、僕は出来事をぼんやりと眺めていることしかできなかった。

 しかし、僕は全く予想もしなかったところから、竜巻のようなその出来事に身を裂かれることになる。
 会社の倒産が各メディアで報じられてから数週の間、僕はうまく自分に起こった出来事を掴みきれないまま、ぼんやりと日々を過ごしていた。一度実家に帰って両親と話したり、会社の人事部から正式な連絡があって正式に内定を取り消されたりしたが、そうした動きが僕の心の動きとかちりと噛み合う感触は一度たりとも得られていなかった。僕は書きかけの卒業論文を書き進め、アルバイトをし、友達と会社の倒産の話を肴に酒を飲んで過ごしていた。そのときには、結局そうすることがいちばん自然だったからだ。
 その日も、僕はカフェでのアルバイトを終えて、いつものように家に帰った。ドアを開けると、メイが椅子に腰かけて、じっとダイニングテーブルの一点を見つめたまま静止しているのに出会った。姿勢も表情も、三十年後に起動する瞬間を待つ時限爆弾みたいに固まっていた。ずっとそうしていたのだろうと一目で分かった。
 ただいま、と声をかけると、彼女は本当に口だけを動かして、無表情におかえりと言った。シンクの脇に積まれた皿や壁のカレンダーやダイニングテーブルの花柄のテーブルクロスが、青白い蛍光灯の光で一様に照らされて、沈黙していた。
 僕はメイの向かいに、決定的な予感を感じながら静かに座った。
 しばらくお互い何も言わなかったが、メイがやがて口を開いた。
「もう分かっているかもしれないけど、私はもうあなたのことを愛していません。」
 僕は七秒くらいしてからやっとうなずいた。
「そして、あなたももう私を愛していないのだろうということも、分かります。」
 僕は何も言わなかったし、うなずくこともしないで、メイの顔を見ていた。彼女は相変わらずテーブルの上の一点を見つめていた。目は見開かれていて、そのせいか充血して赤くなっていた。
「何を話しても、関係が元に戻ることはないと思います。私はもう、戻り方をとっくに見失ってしまった。」
 僕は自分の口がからからに乾き、息がつまるのを感じた。
「別れて、もらえませんか。」
 メイはそのまま頭を下げた。青白い蛍光灯の真下で、僕はじっとうなだれた。
 そして僕はメイと別れた。

 会社の倒産とメイとの別れという二つの事件は、出来事としては無関係だと思う。いやもしかしたら、僕が将来進むべき道を断たれたにもかかわらず漫然と日々を暮していたこと、それがメイと僕の別れを決定づけたのかもしれないし、はっきりしたことは分からない。しかし、それは言葉少なな別れの中で確かめられることはなかったし、これからも確かめられることはないと思う。
 でも、僕のなかでは二つの出来事はがっちりと結びついている。なぜなら、僕はメイとの別れというきっかけを得てはじめて、確かに自分の進む道が断たれたことを実感できたからだ。僕が本当に何もかもを失ったように思い始めたのは、メイと別れてからだった。
僕は約一週間、何もしないで過ごした。川村さんとも早見とも、他の誰とも一切連絡をとらなかった。アルバイトも理由をつけて行くのをやめた。
メイは一切の痕跡を消して実家に戻っていった(大学には実家から通うことにしたのだろう、詳しいことは聞いていない)。僕は廃墟にいるような気分で、すっかり広くなった部屋で時間を過ごした。ときどきメイのことを思い出した。良かったことや温かかったことばかりがよぎった。どうもがいても、思い出は温かみとかけがえのなさを伴って僕を襲った。そしてもう絶対に取り戻されることのないものとして、僕の体中を過ぎ去った。僕はそのたびにぽろぽろと涙を流した。
気がつくとずいぶん寒くなっていた。世間はもう十二月に入っていた。僕は冷え切った部屋の中で、慌ただしいはずの世間を思いながら、一人ひっそり引きこもった。
ある日、僕はふいに海を見たくなった。その日はどんよりとした曇りで、カーテンの隙間から灰色の空がのぞいているのを僕は見た。そのとき、僕はふと海が見たいと思った。
僕は財布だけを持って、コートを着て外に出た。心なしか、最後に部屋を出たときよりもずっと寒さが増した気がした。そんな寒さに磨かれたように、目に入る物々の輪郭がやけにはっきりして見えた。停められた自転車のフレームは黒々と光り、家々の屋根はすぱりと空を切り取っていた。
僕は近くのレンタカー屋で、一番安い自動車を借りた。シートは固く、車内は自動車特有のあの匂いがした。僕は海を目指して、一人で車を走らせた。ラジオもつけず、平日昼間の空いた道路を行った。
メイはドライブが好きだった。僕たちはよく、何時間もあてもなく車を走らせ、行き当たりばったりな旅行をした。東北に行って、どうしても泊まるところを見つけられず、車の中で寝泊まりしたこともあった。二人で運転を交代しながら、気ままにどこにでも出かけた。僕もメイもよく笑っていた。思い出しそうになるのを押しとどめると、胸が詰まってため息が出た。
二時間ほど車を走らせて、僕は砂浜のある海に辿りついた。薄い灰色の空の下に、どこまでも海が広がっていた。辺りには誰もいなかった。どこからも、海の匂いと波の音がした。
僕は叫びたくなって、海のほうへと走った。しかし、砂がもつれて転びそうになり、すぐに走るのをやめて歩いた。一歩一歩、波打ち際に近づくにつれて、僕はなんだかとてもばかばかしくなった。走ったり叫んだりしてみても、ただただ感傷的なだけだ。浸っているうちはよかったが、冷めた目で振り返ると、それはどこまでも無意味に思えた。
僕はひとしきり海をながめると、そのまま何をするでもなく自分の街に戻った。へんに胸がすっきりしていた。油断すると何かに入りこまれそうな、ぽっかりとした隙間が空いたような感じだった。

そのあとは、どこか空しいなりに、動くことはできた。僕は川村さんに電話をして、もう会わないと伝えた。川村さんは電話の途中で泣き出してしまったが、僕の気持ちは変わらなかった。ただ、彼女を僕の身勝手に巻き込んだこと(彼女との関係は、僕にしてみれば自分の身勝手さから始まったものだったと思う)を、申し訳なく思った。
 それから、それまで住んでいた部屋を引き払って、一人暮らし用の新しい部屋に引っ越すことにした。それなりに貯金もあったので、引っ越しはとんとんと進めることができた。メイと僕、いずれの痕跡もすっかり失われた部屋を振り返ったとき、僕はそれまでとは違う悲しさに襲われた。大事なものを失っても、人はこんなにもあっさりと立ち直って、やっていくことができてしまうのだ。それはとても切ないことに思えた。

 久々に早見から連絡があった。
「メイと別れたよ。」
 僕がそう言うと、早見は、
「正直そうなると思ってたよ。」
 と言った。
「結局、これからどうする?」
「一応決まったよ。しばらくバーで働くことにした。新しいスタッフを募集してたんだ。」
「それはまた、らしくない選択だな。」
 僕が笑うと、早見も笑った。
「でも、そうでもないのかもしれない。アルバイトで出来る仕事なんて、ほとんどが寂しいもんだからな。それより俺は、少しでも寂しさを埋められるほうがいい。」
「それとバーと、なんの関係があるんだよ。」
「少なくとも人と話せる気がするだろ。」
「安直だなあ。」
 僕がそういうと、早見はまた笑った。
「いずれにせよ、いつか店に遊びに来いよ。」
 僕は近いうちに行く、と言って電話を切った。

「結局、あのガラスケースはどうなったんだ?」
 僕は早見に聞いた。
 店はずいぶんこぢんまりとしていて、とても落ち着いた雰囲気だった。調度品も、感じの良い古風さを持っていたり、丁寧に使い込まれた感じのあるものばかりだった。僕は、早見が作ったカクテルを飲みながら、早見と話をした。
「俺がここで働き始めて一か月くらいだったかな。ある日部屋に戻ったら、こなごなに割れてたんだ。誰かの仕業だったのかもしれないし、あるいは元々そういうものだったのかもしれない。」
「中身は?中の女の子は、どうなったんだ。」
 早見は顎に手をやって、
「それもさ、不思議なんだよ。ガラスが割れた破片はそこらじゅうに飛び散ってるのに、中身は全部どこかに消え失せていたんだ。」
 と言った。
「立体映像か何かだったのかな。」
「今となっては、それも分からない。でもまぁ、今となってはなんだっていいよ。」
「そんな簡単に済ませられちゃうのか。」
 僕は思わず笑った。しかし早見は相変わらず真顔だった。
「ここで働き始めてから、俺思ったんだよ。結局人は現実の中で生きるものだし、そういうものとしてあるんだ、ってな。あれは都合のいい夢だったんだ。夢の中にいる間は、そりゃずっといられたらいいって思ったよ。でも、現実の手ごたえってものにふれてみると、やっぱり嘘くさく思えたんだよな。」
「それがどんなに理想的でも?」
「それだけ現実ってのは強固で巨大なんだよ。俺たちの判断を超えるくらいにさ。」
「なるほど。」

 そのあと僕はもう一年かけて、就職先を見つけて、そこに就職した。早見は、しばらくアルバイトをして金を貯めたあと、借金をして、地元で自分の店を開いた。
 メイや川村さんがどうしているかは、もう僕には分からない。きっとどこかで、なんとかやっているんだろう。

ガラスケースの少女

ガラスケースの少女

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-17

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