ある期間の抑圧を経てこそ、欲望というものは真に満たされる瞬間を迎え入れ得る、と教示を垂れたのは一体誰だったか。私の場合、それを十五年も続けてきたのだから、我ながら恐ろしくもなる。
あぁ、そうだ!十五年もの間、私はただ耐えていたのだ!ただ、ひたすらに!

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中学生、多くの少年少女たちが、爽やかな春色の壁に塞ぎ込まれ、青春という甘み・苦みに憧れた、その短く儚い季節にあって。
既に私の趣向はある一点に注がれ、確立されてさえいた。

少女の、その白い、繊細な足を、私だけのものにしたい、と。
それは詩人めいた比喩ではない。完全な支配、独占のもとで、それを欲望の向かうまま、「外側」と「内側」の全てにくまなく触れたいと考えていた。

例えば、新緑の風が窓から吹き込む、退屈な古代史の授業において。
ペンケースの中には錆びがかったカッターナイフ。
名前すら思い出せないが、肘をついて居眠りをしていた、右斜め前の席の女子が持つ、その足が私の眼をを強烈に誘引した。
白いソックスに覆われたふくらはぎ。なだらかな膨らみは艶めかしく、そしてひざ裏の窪みが淫靡に感じられ、たまらない程の興奮を惹起した。
錆びたカッターナイフ。この刃でそれを撫でたらどんなだろうか。
少しでも余分な力をかけたら、たちまち破けてしまうであろう薄い皮膚の下で、流れているものは単なる汚れた血みどろではないはずだ。

…いや、違う!妄想、妄想だ!

そう自分に言い聞かせながら、一度はペンケースから取り出しかけたカッターナイフを、奥へとしまいこんだ。
ひとりよがりな葛藤の中で、汗はじっとりと私の身体の表面を湿らせた。
まるで誰かに心の中を覗かれ、監視されているような不安にまでかられた。

まだ純心を捨てきれていなかった私は、(あるいはそのままでいられたのなら、別の生き方を発見し得たかもしれない。)その様な欲求を抱く自らを心から恥じた。それは一種の気の迷いであると信じ込もうとしていた。また、恐らくは周囲の誰とも性質を異にするであろうその種の欲求を、不断に抑え込み続けなければならない苦しみを想像すると、いっそ消えてしまいたかった。

そこから十五年もの間、常に暴発と紙一重のまま、その欲望をどうして自制することが出来たのか。解放を前にした今となっては信じられないほど途方のない永い時間だった。
ただひとつ。その忍耐の苦しみを緩和し得た理由は、ただそれを妄想し、じっと身を縮めていたのではなく、いつか来たるその瞬間に向け、現在は着実に準備を進めている段階なのだと言い聞かせていたからであった。

このような(常識からみれば)猟奇的と言える欲望を満たすためにのみ、ここまで細心の配慮の下で、理性的に準備が進められた例はそうはないだろう。

そう、その瞬間のためだけに、生涯をかけて、私は努めて善人を装った。そうしていれば、いつかは最高の条件が揃う事を私は確信していたのだ。
歪な趣向を持っているからといって、元々私に人並みの道徳が無いわけではない。私が言う『努めて装う』善人というのは、周囲から見ても明らかなほど、際立った『善人』である。つまり、「あいつだけはどんな間違いも犯さないだろう」と思われるような。
具体的には、周囲の信頼を得るべく行動し、但し道徳に反する事(規律に反する行為)は凛として断わる。勉学・スポーツにも真剣に取り組み、学生時代は生徒会にも所属した。所謂、優等生であり、一方では奔放な性格の人間からは疎まれた。

誰も私の奇妙な欲求の存在に、気が付く由もない。
私は優秀な成績を修め、とある大学の医学部を卒業し、外科医となった。
勤務先となった病院内でも常に勤勉であり、周囲の信頼を確立した。
その過程は言葉にしてしまえば簡単だが、恐ろしく過酷な努力を要するものであった。しかし例の大きな原動力が、私の身体を殆ど強制的に突き動かし続けていた。

現在までに、その欲情が漏れ出そうになる機会も何度かあった。
例えば、交通事故により両足をひどく裂傷した若い女性患者を担当することになった際には、よもや自らのこれまでの抑圧が、このふいの時機で全て決壊してしまうのではないかと恐れた。
しかし、確かに今までに無い類の興奮は少なからずあったものの、私の理想がその状況では完全に結実し得ない事を自覚する機会とだけなった。
私の理想は、少なくとも外面的に美しく整い、清潔さや処女性を保った足に対する、加虐的かつ支配的な瞬間でなくてはならないのだ。
その施術に於いては、既に壊れた(汚され、純潔さを欠いた)足に対する、修復という命題を背負った上での執刀であった。言うならば、耽美を求める私の『好みでは無かった』のである。

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そして今、目の前には、私の理想に限りなく近い状態の、いや、理想そのものと言ってもいい。美しい足が、手術台の上にある。

十六歳のその少女は、三年前に事故で下腿筋を裂傷していた。外科的にはとうに完治しており、外見には医者から見ても何の痕も見出せないが、心因性の疾患から右足が動かせないでいた。

なんと美しい、そして『その目的』の他に、私に触れられる理由の無い、気高い芸術品。

彼女は既に精神科の主治医の患者となっていたが、当初外科治療を行った際には極めて誠意を尽くした対応をしていたため、本人やその両親からの、私への信頼は絶大なものとなっていた。
更に都合が良かったのは、その精神科の主治医は顔見知りであり、単なる同じ患者を受け持つ医師同士として、何度か昼食を一緒にする程度の仲になっていた。その彼から、この患者の治療が進まないことを打ち明けられた私は、その一瞬間に今回の計画をすべて考案し、そしてすぐさまその場で、ある提案をした。
つまりは、精神的な理由から不随になっている右足に、何らかのショック療法が必要なのではないか、と。さすがに彼も初めは渋ったが、両親や本人の了承を得ることを前提に、頷いた。
すぐさま少女の父親へ連絡を取った。
本来は外科的に完治している箇所へメスを入れることは、あり得ない手法だろう。
表面だけ簡易な縫合を施す。娘には小さな腫瘍が発見されたことにして手術を行い、これにより腫瘍が除けて今度こそ完治したはずだ、と伝えることとする。
両親は一旦は悩んだようだったが、翌日には、了承の連絡があった。

かくして、環境は整った。
まさに、ここまで装ってきた『善人』さが、物事を全て(私にとって)最良の方向へ運んで行った。

少女は私に全幅の信頼を置き、麻酔が効いて意識が沈む直前まで、私に対して安心感のこもったまなざしを向けていた。
いくら十六歳の無知な少女とはいえ、一切の助手が付かないこの手術に多少疑問を持たれてもおかしくはないはずだが、それほどまでに私の『善人』の演技は完全だったのだろう。

軽く肩をゆすり、少女の名を呼んでみる。
麻酔によって瞼は重く閉ざされ、ややふっくらとした唇は小さく開かれたままで、覗く口の中は底なしの闇だ。
最後の確認のため、閉ざされた瞼を少し開いてみると、眼球は白い面だけを見せ、昏睡状態にあることが確かめられた。

逸る気持ちを抑えながら、手術用のゴム手袋やマスクを外した。
その瞬間に、この十五年間演じてきた『善人』の薄衣がついに全て溶解した。

『少女に対して』ではなく、『少女の肢に対する』私の愛撫と凌辱を、もはや咎めるものは何もなかった。

薄く脆いなだらかな線上を、鋭い悪魔が風のように滑る。
いよいよ狙いを定め、右手に少しずつ力を込めると、僅かな抵抗もむなしく、やがて開かれた扉の先には、薔薇色の世界。
動脈と静脈は螺旋に絡まる蔦になって、やがて千切れ、私の顔へ噴水の飛沫を上げる。
繊細に剥がされていく生地は、まるで花弁そのものだ。
構成に加わっている全ての部品が、言うまでもなく愛おしい。
ひくひくと動く生命を、指先で感じる。その細胞のひとつひとつに敬意を払わなければならない。飽くまで慎重な手つきで作業は進む。
やがて現れた白い骨はさながら私を諌める、薄ら笑いのようだ。
解剖刀のほうは、どうやらすっかり満腹のようだが、私はそうはいかない。この十五年もの間、私はずっと空腹を堪えてきたのだから。
既成の道具に頼らずとも、この歯だって、下品かつ優秀な道具になり得る。
口の中で広がった、その酸化した鉄の香りは、古代文明の廃頽に取り残された錆びた鉄門を思わせる。すなわちノスタルジア。カニバリズムの趣味はなかったはずだが、しかしその肢の持つ幽遠さを引き立てる意味で、吸血は官能的な行為となった。

夢中で作業を続けていたが、ふと気が付き、ずっと視線を落としていた少女の足元から、顔を上げた。
見ると、少女は上半身を起こし、こちらをじっと見つめている。
股から下、殆どバラバラになった自分の部品については全く気に留めず、うつろな瞳を私に向けている。
微笑んでいる様に見える。
うっとりしとしている様にも見える。
受け入れざるを得ない現実をあきらめ、悲しんでいるようにも見える。
あるいは、本当は…。

数秒間見つめあったが、私はまた少女の足元に視線を戻した。
動揺はなく、一切手を休める事はなかった。
いや、手はもはや私の理性を離れ、殆ど本能のままに、あるいは一種の痙攣の様に、滑らかに動き続けていていたのだった。

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「…先生、どんな気分?」

「あぁ、最高だよ。この瞬間のためだけに全て費やした私の人生だったが、きっと他の誰よりも幸福だろうと思うよ。誰からも理解はされないだろうけどね。」

「それなら良かった。後悔はしていない?」

「そうだね、悔いはたくさんあるよ。両親や、同僚、色んな人に迷惑をかけることになるだろう。それが気にならないわけではない。特に君には悪いことをしたね。心から申し訳なく思うよ。」

「いいんですよ、そんなこと。だって私も…。」

「…いや、よそう。もうすぐ私の夢も終わるのだから。君はもう一度眠るんだ。私はあとしばらく、この夢から覚める前に、全て片付けてしまわなければならないのだから…。」

「そうですね。では私は先に眠りますね。おやすみなさい、先生。おやすみなさい…。」

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とうに私の悦楽は振り切れており、全ての感覚は私の遠くへ連れ去られていた。きっとこれが『生』に満足しきった状態なのだろう。
あぁ、遂に私は、満足しきった!

突然、ひどい疲労感に襲われた。
手に持っていた道具は床へ投げてしまった。
眩暈のなか、かたちを失くした少女の足もとへ跪くように、私はふらふらと倒れこんだ。

真っ赤に染まったままの右手。
ポケットから取り出した錠剤。
まだ血の味が残っている、口のなかへ。

…おやすみなさい。

暗いフェティシズムについて書いてみたかった。
加えて、どんなにまじめに生きていたって、生きようとしたって、何のきっかけもなくても、こういった特殊な性癖一発で「社会的」不適合者と見なされてしまう、という恐怖を描きたかった。
だからといってそれを同情的に描く気はなく、それを含め、その人間の傲慢な性質であって、許す理由にはならないのだと言っておきたいたい。それは普段から感じることだ。

手術台の上のフェティシズム

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-12-17

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