早春賦
寒気を感じて、ゆっくりと意識が戻ってきた。
しかし、何らかの外的要因で瞼は固く閉じられたまま、開こうとしない。
手足もほとんど動かない。両腕は体の前で組まれたまま固定されている様で、両足は足首を固定されている。どうやら拘束衣を着せられているのか、ひざは辛うじて少し曲げられる程度、指先と首だけが自由に動かせた。
鼻孔は塞がれ、口にはマウスピースがはめられていた。口の周りは隙間をテープで留められているが、どうやらマウスピースの先にホースのようなものがつながっていて、そこから不自由なく呼吸が出来た。
僕の身体は水上、時に半身が水中に潜りつつ、緩やかな流れの中にあることがわかる。鼻孔は塞がっていたが、かろうじて感じられる嗅覚からして、海水で無い事は判った。
耳にはせせらぎだけが聞こえる。
瞼は閉じているものの、外が明るい事は判る。
拘束衣に付けられていると思われる"浮き"が沈もうとするのを防いでいるらしい。転覆することなく、うまく仰向けのまま、ぷかぷかと浮いている。
しかし、なぜ自分がこの状況にあるのかは皆目わからない。
拘束され、そのうえで呼吸は出来るように配慮されて、穏やかな川に流されている。盲の中でそこまで推理できても、その奇妙な状況に行きつくまでの記憶は全くないのだ。
あまりに奇妙な状況なのに、全く恐怖や焦りを感じないというのは、これもまた妙だ。
もしかしたら自分はなにか突発的な原因で死んでしまったのではないか、そして、実は死後の世界の実感と言うものはこういうものだったのだろうか。
そんな事まで考えたが、それにしては口を塞ぐマウスピースや拘束衣の感覚が人工的で生々しい。とてもそんな幻想に類する感触とは程遠い。
しかし、この状況を説明しうる現実と言うのは、その様な幻想よりも更に遠くにあるのだ、強引な解釈すらつけられない。
やや肌寒いものの、ゆるやかな流れの中を漂っているのは、慣れてしまえば心地よかった。水面では温かな陽射しも感じられる。なにか障害物に当たる事も無い。
数時間ほど、一応までその状況についての推測を重ねた。やがて諦めた僕は、その流れに身を委ねるのみで、考えるのをやめた。考えて、なにか判ったところで、ほとんど身体を動かせないこの状態にあっては、出来る事など恐らく何も無いのだから。
僕はただ流されていくだけの存在だ。それは単に「不在」と言い換えてもいいかもしれない。
やがて瞼越しの光が弱まっていくと、徐々に水温も下がり、肌寒さは増したが、耐えられないほどのものではなかった。空腹感もあるが、特に意識しないでいれば忘れられるほどの状態のままで、逆に満腹の様な気もした。
呼吸はしていて、指先や首も動かせたが、かといってそれが何かに影響を及ぼす事はない。思考すらも億劫になってしまっていた。
その状態のまま、朝が来て、また夜が来た。更にもう一度朝が来て、雨降りの昼を過ごして、また夜になった。
何度かそれが繰り返された。そしてその繰り返しのうち、いつしか僕は消えていった。ゆっくりと溶けるように消えていった。
「そうか、すこしだけ思い出したよ。僕は祈ったんだ、いつだったか、あの教会で。祖父の手に導かれて、跪いて向かい合ったあの祭壇に、僕は祈った。なんて祈ったのだろう?それは思い出せないけれど、薄暗いあの教会の、鬱屈とした空気の中で、僕は確かに春の川を想った。春の川を想いながら、何かを祈ったんだ。思い出せないような些細な祈りだったのだろうけど、きっとあの祭壇にはホンモノの神様の使いがいらして、僕の祈りを神様に届けてくださったんだ。」
『ふぅん。はたしてそれは神様だったのかね。悪魔だったのかもしれないがね、いや、ただ、君がその方が…と言うなら、確かにそう思っていた方がいいだろうね。』
「不在」のままに、二つの声が流れた。
すると突然、肺の中に溶け残っていた目覚まし時計が鳴り始めた。
聞こえない音がうるさくて、止めたいのに、僕の身体はもう無くなっていたので、止める術はなかった。
早春賦
春の川、と書きましたが、これを書いた季節は秋。
自分の中の春の良きイメージを、濃縮還元したら味が変わってた、みたいな感じ。