千年彷徨
あらすじ
およそ千年 はるか遠の昔
この地界に光と闇とを分かち剰え互いの域をも超え
違えた二つの世界に隔てなく向き合うた希有な者どもの交わりが存在した
その者ども世にも不思議な域を創世せり
これは者どもらの縁により創り出したる
人の世と喜界と呼ばれし鬼が棲を結ぶ御門なる
域にまつわる
時を紡いだ命の物語である
第一章 存在(副題:砂ノダンス)
「珠子さ~ん 珠子さ~ん我們で~す 貴方のが~も~んが会いに来ました~」
珠子は少し顔を向け海を眺めていた視線を声のする方を追いかけそれが我們だと認識すると
クスっと軽い笑顔を見せ そこに我們が必死の形相でカクカクと足元を砂地にとられながら走り寄ってき
前屈みに荒い呼吸がしばし続く中
「誰かと思えば なあに?そんな大きなお声で恥ずかしい」
少し紅潮させ息の乱れを整えながら彼は笑顔でさらに近づいて
「ハハハっ いや失敬 失敬 でも誰も聞いちゃいませんよ」
「そりゃそうだけど」数ヶ月ぶりの再会に珠子は小首を傾け彼の顔から足先 足先から顔へと視線を戻しつつ
いつもの我們であることに安堵するや
「もう あいもかわらずだ こちらにはいつお戻りに?」
「はい昨夜に戻りました 珠子さんもお元気そうで」
「そうね 変わり映えがしないということですわね」
「なんです 珠子さんらしくもない 少々退屈でもしてますか?」
「そうね退屈といえば退屈ね でも今は我們くんに会えてうれしいわ でっ 相変わらずお忙しそうというより気ぜわしい感じかしら?」
我們は視線を珠子から眼下に広がる海に移し
「まあ 忙しいことには違いありませんがしかし最近は無駄に忙しいのではと思うようになりました なんですかね要領の問題ですかね~」
そう言うと我們は目を細め小さくため息をついた
珠子はその横顔を察したのか
「あらそうですの?わたくしはよくやってらっしゃると思いますわそれにいつも尊敬してますのよ」
「いやいや もういけません 歳のせいにはしたくありませんがやはり歳でしょうね」
「なあに 会った早々随分弱気な発言」
「あっいやこれは失礼 珠子さんを前にするとつい甘えてしまって愚痴はお嫌いでしたね いやあそれにしてもここからの眺めはすばらしい」
眼下にはエメラルドブルーの海が青のグラデーションを生し水平線の彼方にキラキラと陽の光を乱反射させながら小刻みにゆらぎ吸い込まれていた
珠子は我們の少し前に立ち直し
「でしょ 現役のころは休日になるとよくここに来てはぼ〜っとしてましたわ」
「そうですか もしかしたらと思って足を運んでみたのですがやはり来て良かった今日のわたしはとても運がいい」
海風になびく我們の髪と横顔を眩しそうに眺め珠子は
「ふふふ そうねほんとに運がよろしくてよ」
そういうとまた少しクスっと笑った
「おかしいですか?」
「あらうれしかったのですわ それとも珠子は今もまだ監視されてますの?」
「いやそれはありませんよ いたって個人的なことで今日は会いに来ました それに我々のファイルから珠子さんの存在はもうとっくに外れてますし」
「外れてますではなくって外しましたでしょ」
「バレてました?」
「やっぱり それも我們くんのおかげね でもそんな事して大丈夫ですの?」
「相変わらず 聞き上手ですね~ すっかり乗せられてますよね」
「あらただの女の感ですわ 我們くんに仕掛けは不要 いつも正直ですもの」
「珠子さんには敵いませんよ 自分は昔から珠子さんを鏡にしてきました 尊敬からですよ 自分の独断でファイルから外したことは内緒にしててくださいよ 珠子さんを思うあまりの自分を見失った行動ですからね」
「あら うれしい」
「珠子さんはなんでもお見通しだ わたしの独断で珠子さんのファイルをすべて削除したことも実はご存知だったのでしょ これで当時の珠子さんの存在は完全に消えた かつての同志もわたし以外国に戻り出世の亡者となってますから彼らの記憶の中からもあれほど手を焼いた珠子さんの存在は もうすっかり消えてる事でしょうし」
「あら 残念」
「え? ご不満でした?」
「ふふふ まさか 感謝してますのよ でも偶然かしら? わたくしがここに来てるということと我們くんがここに来た事」
「あれ?疑ってます?自分は珠子さんとの深~い縁を感じてるんですがね」
「そうね 我們くんとはこの先もご縁があるような無いような さてどっちかしら?」そういいながら珠子は我們の顔を下から覗き込んだそして陽が天井から少し海側に傾いて二人の影が少しだけ長く伸びた
「これは意味深いですね」
「そう とっても意味深いことですのよ」
「となるとですよ ここはきっと自分にとってとても大事な人生の一場面なんじゃないかと」
珠子はわずかにほほえみながらそして少しだけ囁くような声を我們の耳元に置き
「そうとても大事なところですわよ」
我們は目を大きくさせ「ですよね ではここは一つどうでしょこの際 我們ではなくもっと身近な存在という事で良平と呼んでいただくというのは」
珠子は乗り出していた身をわずかに退くと肩を少し落とし物足りないという表情で「なんだあ そんな事ですの?」
「あれ あれあれ あれ〜 がっかりさせちゃいました? もっもしかして珠子さんは」
「ダメっダメよそれ以上は それに大事な時間はいつも一瞬ですのよ もうチャンスはとっくに過ぎていってしまいましたわ ああ〜ぁ 大きな魚はもう逃げちゃいましたぁ」
「ああ またやってしまいましたか」
「我們くんらしいといえばらしいわね 期待したわたしもわたしか」
「情けない実に情けない さっきの話の続きですが せめてせめて良平と」
眉を軽く上げ気を取り直した珠子が「そうね それもいいかも じゃあご希望通り良平にしますわ」
「じゃあですか」
「あら ご不満ですの?」
「いや 満足です 大満足 大満足ですよハハハ」
「なあに それ作り笑い?やっぱりご不満?ならわたくしも珠とかにします? 珠は変ね 猫みたい ふふふ」
「珠子さんは珠子さんですよ」
「あら そのような呼び方ではこの先ずっと わたくしに下に見られてしまいますわよ よろしいの?」
「いいんです あこがれですから」
「我們くん あっ失礼 良平ってもしかして受虐的な体質ですの?」
「ちっ違いますよ」
「ふ〜ん そう ならよろしくてよ でっ 良平 本当は何が目的なのかしら?」
「またそんな 疑いの目で見る 純粋に珠子さんに会う為ですよ 今日は勘を頼りにただそれだけでここに来てみたのですから 信じられませんか?」
珠子は顔を斜めのまま流し目で我們の全身に視線を這わせ「そうね じゃあ信じますわ」
「またじゃあですか?じゃあは無しにしましょう」
「そうね分かったわ じゃあは無し 信じまますわ」
「しかしわたしの勘もまだまだ頼りになる珠子さんにこうして会えたのですから 念じれば通ず 実にすばらしい」
「呆れた 自画自賛ですの? でもわたくしに会う為なら許します でもしばらくみないうちにお世辞が少しだけ いったいどこの誰?貴方を雄弁に変えようとしてる女性は」
「ご存知なのでは?それは珠子さんあなたですよ 人間恋をし己と正直に向き合えば わたしのような不器用な仕事人間でも 少しは雄弁にもなれますよ」
「あら 我們 失礼 良平ほど優秀な外交官はそうそういませんわよ 貴方は不器用なんかじゃありませんわ 器用じゃないだけですわ」
「珠子さんは相変わらず手厳しい それは褒めていただいてると受け取ってよろしいのでしょうか」
「もちろん 褒め言葉ですわ わたくしが嘘をついた事があった?」
「ありません」
「でしょ 良平のよいところは細やかな気遣いと穏やかで思慮深いこゝろ 私は好きよ それにカッコわるいんだけどカッコいい……かな」
「それってやはり単なる不器用という事でしょうか?でもなぜかうれしいですね そう思っていただいて」
「そうよ 感謝なさい それにしても良平 ん? 良平ねえ……良平か」
「なんですか 何かとっても気に入らないとか」
「気に入らない? そうねえ 良平 確かに良平……良 良さん?良ちゃん 良ちゃんに変えますわ?」
「そっそうですか 珠子さんがその方がよければ……また何で?」
「良平ではなんかわたくしが偉そうですし 上から目線のようで言葉も命令口調になりそうだし 良ちゃんの方がなんとなく程よい距離感を感じますわ」
「距離感?ですか それって少し離れたいということですかね」
「あらヤダ その反対ですわ いつでも抱いていただける距離感という事ですわ」
「わっわ〜ぁ すみません いつもの癖でネガティブになってました そうですか 是非お願いします」
「なあに? それってそんなに力むことかしら?」
「いや その ですから こう え? ですよ」我們はかなり狼狽えていた 珠子の積極的な言葉に呑まれてしまった
「なんだか変 頭大丈夫ですの?」
「あっ はい いたって健康です」
「そう それにしてもしばらくぶりなのに以前とちっとも変わらないような……」
「あれ?ガッカリですか? それとも少しは成長してるかと期待などありました?」
「じゃなくって いつも正直でという意味よ それに良ちゃんには珠子は恋愛に等しい感情もちゃんとあったりしますのに 信じてないでしょうけど」
「それは……今夜は是非その辺をもう少し詳しくお聞きせねば 自分の何処が珠子さんのめがねに適うのか自分では思い当たるところは……それにこの頃はどうも自己嫌悪に陥ってばかりですし」
「自己嫌悪? らしくないなあ 大丈夫よ なんなら珠子が手取り足取り自信を取り戻して差しあげますわ」
「うれしいですね 珠子さんにご教示願えたらわたしでも運が開けるかもしれません なんかそれだけで力がわいてくるなあ なんとも心強い」
「あらら随分大袈裟ね 良ちゃん本当はなあに?今日はわたくしを口説きにいらしたんじゃありませんのね がっかり」
「がっかりですか このわたしに口説かれる程 珠子さん そんなにお安くはないでしょう」
「さあそれはどうかしら 良ちゃん次第ですわ」
「わたし次第? 珠子さんは理想が高そうですからそれはないでしょう」
「それは良ちゃんのネガティブな思い過ごしかも 珠子もただの女ですわ この際一つ教えて差し上げますわね珠子の絶対的攻略法」
「珠子さんの攻略法? 本人直々にですか?」
「はい あまりに情けなくて見てられないのですわ」
「そっそこまでいいますか」
「はい 今日は言いますわ 良ちゃんは珠子にはもっともっと強引になるべきですわ 私の事など気遣いせず良ちゃん
のこゝろがカラダが求めるままにですわ この際力ずくでも構いませんのよ 女の強がりは当てになりませんしこゝろ
の底では少し乱暴に扱ってもらうことに個人差はあるでしょうけれどそこそこの期待もあったりしますのよ でも……
珠子が相手では良ちゃんの出世に差しつかえますわね」
「そっ そんなことはありませんよ それにわたしはもう中央とは縁がありませんし珠子さんと仕事では比べになりませんよ」
「あらそうですの? わたしのような女はどこにでも居りますわ 出世より珠子では良ちゃんが勿体ないですわ」
「出世など今のわたしには興味がありませんよ しかしそうですか 珠子さんは強引がお好きですか 手荒ねえ……」
「なあに?ぶつぶつと? 歳をとるにはまだ早過ぎますわ」
「ですよね 珠子さん わたしはこれからちょっと野暮用がありますがそれが済み次第ホテルの方に伺ってもよろしいでしょうか この続きという事と 今夜はとても不思議な土産話 お持ちしますよ お時間いただけますか?」
「はい喜んで お待ちしてますわ」
「では後ほど」
アルジェリア 首都アルジェより車で西に70キロ程の距離に10部屋ほどの至ってシンプルなホテル珠子がある
久我珠子は以前 内閣府執務室直轄のアフリカ支局に勤務し表向きは執務室秘書という肩書きであった 主にアフリカ沿岸諸国での我が国の国益に沿うであろう情報収集を一人で担ってい各国の諜報機関も一目置く存在だった。
戦後半世紀以上過ぎ いままた混迷の兆しが見え隠れするも五年前より その務めを退き若くしてここアルジェの地で表向きは某国の保養地だったところを買い取り新たにプライベートビーチを備えたホテルとして長期滞在者のみに限定しこの地のひとと
きのやすらぎを提供していた
一方 我們良平は表向きは外交官だが外務省直轄の特殊諜報機関に属し非公式での情報収集を行なっていた 珠子の所属してい
た内閣府執務室とは共に国の為 だが外務省と内閣府 内情は常に反発し相対していたものの 二人の関係だけは互いの存在を
認め合い共に遠くは慣れたこのサハラの地でときに課された使命を無謀にも放棄寸前までいきながら互いに命を賭して協力し駆
け抜けてきた そんな珠子と良平だった
ホテル珠子 バーラウンジ
ホテル珠子は石と木と煉瓦造りの風情ある明媚な建物で、シンプルな佇まいであるが外部は堅牢でセキュリティ上申し分のないものであり内部は外部からの侵入者を想定し敢えて迷路のように同じ景色の室内を装ってあったが珠子が譲り受けた後自身が和モダンティストにデザインし直し格子や障子などを取り入れシンプルエキゾティックに作り替えた
トイレシャワーなどの設備類は日本からのもので、使い勝手を重視してある、この辺りの個人経営のホテルでは群を抜いた設備である カウンターバーテーブルやオープンテーブルは桜材の一枚板を日本にオーダーしたもので木の独特の重厚さをわずかに排除しつつも格式のある趣きを持つ逸品である 天井は杉皮を使い様々なデザイン模様に編み込み優美な静の空間を演出提供していた
その夜バーカウンター内には珠子が立ちそれに向き合うカウンター席で我們がアフリカンワインを一口流し込んで
「珠子さんとはだいぶ長いお付き合いになりましたね」
珠子も懐かしげに「そうねえ 考えもしなかったけれど 良ちゃんとも長い付き合いにね」
「覚えてますか?はじめての出会い……あの日とんでもない危機的状況を貴方に作っていただきました あれは今にして思えば 我們がここで生き伸びれるための貴方からの厳しい洗礼のプレゼントだったのではと」
「ふふふ そうかもね ここで生きて行くにはまだまだ覚悟が足りてないぞって そうしておきましょ あの事件はわたくしもハッキリ覚えてますわ」
「自分はあの日西側のある人物ととても重要な情報交換の為にあの場所に行っていました」
「そうね そこにF国から追われていたわたくしが逃げて来た」
「そしてわたしを見るや珠子さんは友人のように親しげに近づいてきて抱きついた」
「そう そしてわたくしは全く無関係の良ちゃんをトラブルに巻き込んだのですわ」
「珠子さんは死にたくなかったらわたくしと一緒にいらっしゃいと そう小声でささやいた いったいこの自分の身に何が起きたのかさっぱり訳が分からず でも珠子さんにはしっかり手を引かれてましたっけ」
「よく覚えてますのね」
「おかげで 自分は何の関係もないのにとにかく言われるまま手を引かれ必至で走ってましたっけ」
「そうね あのときの良ちゃんのあの必死な走りが彼らに仲間だと確信的に思わせてしまったようですわよ」
「今にして思えば何か笑えるんですけど あの時は本当に必死でしたよ 我々は追いつめられ そして珠子さんの取った行動にはもう唖然としましたよ わたくしと心中する覚悟はおあり? 早く覚悟なさいって貴方は笑顔でそういうなりいきなりですよ わたしの手を取り飛び降りましたっけ 二十メートルはありましたよあの崖は今思い出してもぞっとしますよ ずいぶん乱暴な女性だと本気で思い絶対金輪際関わりたくないと本気で思いましたっけ 正直これでおしまいかと覚悟しましたよ 幸いにし
「ふふふ あれね そうねF国のアフリカでの原潜の潜航記録と日誌それに目的を記したファイルだったかしら」
「なんと 当時としては一級の情報ですよ」
「確かにそうね でもその後我が国は戦略的互恵関係で情報の共有という事で決着した そしてわたくしの処分はチャ
ラ 互恵関係を持ちかけたのはF国側からで あのファイルが無駄という事ではなかったけれど今にして思えば命をか
けるほどでもなかった でも後にも先にもわたくしの人生で殿方と覚悟を決めたのもあれが初めて 運命ですわ 良ち
ゃんで良かった」
「まったく我がまま過ぎますよ 見ず知らずの人間を命の危険にさらしあげくに本人を無視して心中に巻き込むとは」
「確かに無謀でしたわね 若かったのですわわたくしも でもあれがなかったら良ちゃんとこうしていないでしょ」
「それはそうですが いきなり生き死の境目でしたからね あんな険しい出会いはできる事なら二度と避けたいもので
す しかしまあ考えようによってはこれほど己の命と向き合う事などそうそう経験できるものでもなし こうして生き
ているから言える事なんでしょうが とはいえあのときの自分は実に情けないもので 今でも思い出せば赤面してしま
いますよ」
「そうね なんか情けなぁい顔してたような でも今の良ちゃんはあのときよりは格段にたくましくなって」
「そうですか?確かに以前と比べて覚悟は少々できました でも国のために死ぬ覚悟などはさらさらありませんがね」
「良ちゃんあの時よりやっぱり少しは変わったのかしら? あの頃は国を背負う勢いでしたわ」
「そんな時もありましたね でももうあの頃とは 今は行こうと思えばどこにでも行ける気楽な身分です」
「うそ どこにでも行けるのなら何故まだこの土地に?」
「わたしがこの国に居る理由は珠子さんが一番良くご存知のはずですよ」
「あら もしかして珠子のせい」
「いやこれは失敬 わたしはこの街が好きでここに居るだけです」
「あら そんなにすぐ否定なさるなんて なんかがっかりですわ 珠子の為にここに居られるのかと思ってた」
「あっいや それは」
「ふふふ 良ちゃんは やっぱり正直だ」
「珠子さんも人が悪い しかし思うに今の自分があるのは珠子さんのおかげですよ」
「そうお?珠子は何も それにしても今夜は少し蒸しますわね きっと明日は砂嵐ね」そういうとラウンジの壁に掛けてある少し大きめの湿度計に目をやるように我們を促した ホテルの密閉度は高く嵐になったとしてもホテル内ではさほど風の音もかすかなもので影響はほとんど無く不安を感じる事はなかった
「そうですね だいぶ湿度が高い 砂嵐といえばそろそろ四年ですか?」
「覚えてたの? そうあれから四年 もうそんなに過ぎましたのね」
「あの日も今夜のように蒸し暑い夜であのドアが突然開いて一人の男が息せき切って入って来て一晩泊めてほしいと このあたりでは見かけたことのない日本人のようでした かなり急を要していたような」
「そうね でもわたくしはお断りした このホテルは長期滞在の方々にやすらぎを提供するところ一晩ではお泊めする事はご遠慮させていただいております他をお探しくださいと」
「そうでした 覚えてますよ珠子さんにそう言われて それならとあの男は大きな紙袋をさし出して3年分の滞在費を前金で支払った そうでしたね」
「そうね それであの方はこれで長期滞在だっておっしゃって」
「あれ以来まだあの部屋はそのままですか」
「はい いつお戻りになられてもよいように」
「ホテル代の三年分はもうとっくに過ぎてますよ それでもあの部屋を?」
「はい あの日のまま」
「珠子さんらしいですね もう契約は切れてるというのに……」
「それはどうかしら あの時の契約はまだ切れてませんわ 継続なさるか引き払われるのかハッキリとはまだお聞きし
てないんですもの」
「そりゃそうですけど あれからずっと行方不明のままですよ 常識ではありえないことです まあしかし珠子さんら
しいといえばらしいんですけどね でもいったいあの男はどこへ行ったのだろう そして目的はなんだったんでしょ」
「あの方は必ず戻ってきます そう信じてますの」
「何故そこまで?何か特別な理由でも?」
「理由?良ちゃんには話してませんでしたっけ?賭けですわ」
「賭け?」
「ええ あの方がお戻りになられたなら 珠子はここを売り払って日本に帰ります あの方が戻らないならずっとこの
ままこの土地で暮らそうかと そうそう珠子がここで暮らす事になったら 良ちゃん貴方にお願いがありますわ 珠子
が死んだら骨はサハラの風に散らしてね」
「珠子さん そんな大きな悲しみ わたしが背負いきれるとでも?」
「良ちゃん以外に頼める人はいませんもの」
「困りましたね わたしは今まであの男はもう戻らないと思っていましたが たった今戻ってくる事を強く望みますよ
そうすればわたしは辛い思いをせずに済みますからね」
「優しいのね」
「どう捉えれば? 優しいという言葉の使い方にはそれ以外に一線を引くという場合にも使いますし」
「そうね その一線 今夜珠子が超えて差し上げようかしら?そのかわり 良ちゃんが失望するかもしれませんけど 珠
子はそれでも構いませんわ」
「さっきもそうでしたがまたまた問題発言ですよ わたしが本気になったらどうするんですか?」
「あらこれも運命としっかり受けとめますわ なすがままなるようになりますわ」
「またそのような……」
「そういえば なあに?昼におっしゃっていた不思議な土産話ってとても気になりますわ」
「そうそう そうでしたそうでした 今日伺ったのは 己の想像などはるかに超えてしまいましたので自分では解決で
きそうもない それで珠子さんにと伺ったわけで」
「随分大げさだ」
「けして大げさなんかじゃありませんよ 実に信じがたい事なのですが珠子さん我々の国の先人達は本当に今この我々
の祖先なのでしょうか ある情報を得てからどうも違うんじゃないかと ほんとはどこかの時代で先人達は何らかの理
由で滅び今居る我々と入れ替わったんじゃないのかと 幾多数多の神仏の混在 ヤオヨロズ 八百万の神々など世界の
何処にこのような国が」
「あらま よほど良ちゃんの手に余る事のようね そんなに大ごと? いったいなんですの」
「今日伺ったのは実は見ていただきたいものがあるんですよ ちょっと待ってください そうそうこれ これなんです
よ お判りですか?」というと我們は なにやら懐から茶色い封筒に入ったものを取り出した
「お写真ですわね これをどこで」
「出所は珠子さんと関わりが」
「内閣府執務室」
「はい 入手経路はご勘弁を」
「良ちゃん 昔のよしみでご忠告いたしますけど内閣府だけは深入りなさらない方がよろしくてよ あそこには兵藤と
いうかなりのくせ者が居りますわ いくら良ちゃんでも彼には敵いませんわよ」
「ご忠告感謝します 大丈夫 これ以上は何もいたしませんから それより珠子さんはこれをどう思われますか?」
しばらく写真を食い入るように見つめる珠子であったが
「この写真の服装からして江戸後期か明治初期あたりかしら?」
「さすが珠子さん 明治のはじめだそうです 映っているのはこの写真を当時依頼した米問屋の主と家族そして手代で
す」
「いたって普通の写真ですわね……これが何か?」
「問題は主ではなく 右側の娘とその横の手代らしき人物、それと娘のすぐ後ろに天井まで届くかのような大きな何か
得体の知れない人のような影? 珠子さん この写真見覚えありませんか?」
「何故 わたくしがこの写真に見覚えがあると?」
「同じ内閣府ですし 珠子さんの父上も同じ内閣府出身 もしかしたらと思いまして」
「そうですの それにしてもこの大きな影ははじめてですわ でも良ちゃん やっぱり感が鋭くなりましたわね」
「やっぱり……もしかして同じような写真をどこかで見られましたか?」
「そうですわね」
「やはり あまり驚きませんね」
「良ちゃん 何を知ってますの?」
「やはり知っているのですね」
「わたくしが見たのは昭和に入ってからの写真でこれほど古いものは初めて」
「やはりご存知でしたか」
「知っているといえば?」
「それなら話しが早い 分からないのはこの写真の裏側に記されている名前の後に括られた(伽)という文字 これを
誰が記したものか この写真 珠子さんはどう思いますか」
「桃太郎の鬼退治なら誰でもよく知っているお話ですわ」
「珠子さん自分は鬼とはまだ話してませんよ やはりご存知だったのですね」
「わたくしとしたことが……良ちゃんにいっぱい食わされた もう 遠回りはよしますわ これは鬼のお話しですわ」
「はい自分も調べました 人に紛れ人として暮らすそういう存在があったと 正確には今も続いているという事」
「良ちゃんこれは外務省の人間として内閣府勤務だったわたくしに問うておりますの?」
「そんな失礼な事は この事と外務省と何の関係もありませんし外務省はこの事自体まったく何も把握してなどいない
これは内閣府だけの特殊極秘事項 それに外務省は今は反日と環太平洋の交渉事で忙しい それと我が国は護憲か改憲
かで揺れてます 米国の意向は改憲でしょうが」
「それはまた随分大きな悩みだ」
「はい それより珠子さんが驚かれないのは何故です?」
「人が鬼畜のような今のこの世の中ですもの どうなのでしょう」
「あまり興味ありませんか?」
「そんな事ありませんわ……子供の頃を思い出していましたの」
「子供の頃?」
「このお話 良ちゃんの個人的な思いの真意はどこ?鬼を探し出そうと?でも人だの鬼だのそれが良ちゃんの興味とも
思えませんわ」
「珠子さんの言うように誰が人で誰が鬼か それには興味はありません まったくではありませんがそれよりも」
「私たちの国にどうして鬼が存在するのか その目的 そしてその命の育み方かしら?」
「はい この写真の人物が鬼だという確たる証拠はありませんが この写真の裏に誰かが書き残した名前の下に括られ
た伽という文字 ただのいたずらな書き込みというには出どころがあまりに大きすぎる 伽という文字を辿ると鬼とい
う存在が必ず見え隠れします もしも鬼ならと仮定した場合 人と鬼はまったく無関係なのか?それとも表裏の関係な
のか 何故国家がこの隠蔽に加担しているのか?伽はやはり鬼なのか?」
「さすが よくそこまで調べましたこと それで日本に戻っていたわけ?外務省に我們ありと言われるのも道理ですわ」
「珠子さんはご存知だった それと四年前ここに訪ねて来たあの男 本当は珠子さんご存知なのでは?」
「良ちゃん ホントによく調べてますわね 何でもご存知なのね」
「やはりお知り合いでしたか」
「この地球上には様々な種の命があって 鬼も例外ではありませんわ 実はこの話まだまだ続きがありますの」
「珠子さん 貴方はどこまで知っているのですか?」
「良ちゃん 鬼の存在を知りたいの? お止めになった方が……これ以上知るという事は後戻りはできなくてよ それ
でもよろしくて?」
「覚悟が無ければ珠子さん ここへは来れませんよ」
「そうそこまでおっしゃるのなら…… 判りました でもこの先は他言無用」
「はい二人だけという事で」
「珠子が子供の頃の事ですわ 父の書斎から明かりが漏れてて 当時内務省勤務の父は部下の佐倉さんとなにやら真剣
な様子で いつにないその険しい父の表情に戸惑ってしまい足が止まり 気づいたときにはドアの外で父たちの話を立
ち聞きしてた 正直子供心に怖かったですわ 忘れようと努力もし月日も流れ私の記憶からもその事は消え去ってしま
ってましたが ある日父が大切な話があるとわたしは父の書斎に呼ばれ そして父が話し出したことは それはわたし
が子供の頃に立ち聞きした鬼の存在のお話しだった 当時立ち聞きした時ほど怖さは薄れてたけど 父は自身の身を案
じ万が一の場合は部下の佐倉さんを頼れと そして四年前のあの晩 佐倉さんが突然このホテルに現れた そして父の言
葉は現実になった」
「そうでしたかあの晩の訪問者はお父上の部下の方だったのですか」
「佐倉さんが現れた事で父の身に何か起きたのだとすぐに理解できましたたわ あの日良ちゃんが見た三年分の滞在費
実はあれは父が極秘に調べた鬼に関するファイルそのものでしたの 彼は父が行方不明になった事で預かっていた父の
調べた情報をすべてわたくしにと持って来たのですわ そして父の行方を探すと言って佐倉さんは翌朝ホテルを出て日
本に戻りその後彼も父と同様行方知れずに…… でも二人とも生きてると信じてますわ 鬼の存在は父が当時内務省に
勤務する中でその存在を知った この事は日本古来より極秘事項として政府内でも極々限られた人だけが歴史の中で面
々と受け継ぎ極秘にしてきた もちろん今現在も継続中ですわ」
「いいんですか?そんな重大な極秘事項をわたしにお話しなさって……」
「父と佐倉さんが行方不明の今 信頼できるのは良ちゃんしか居ないでしょ」
「光栄ですが」
「この際ですから珠子が知っている事すべてお話ししますわ まずこの写真の手代の男性 これはきっと人鬼という存
在 人鬼はとても穏やかだそうですわ 人に紛れ人と同じ生業でその生を終える」
「人鬼……ですか」
「もしかしたら この娘は人鬼の存在を知っているのかも」
「知っていて大丈夫なのですか」
「知っていると仮定するなら この娘は伽という存在に近い」
「待ってください 人鬼とか伽とか 自分にはさっぱり」
「良ちゃん 実はすでに貴方も人鬼に会っています」
「わたしが会っている?どこでです?」
「ここで あの日」
「待ってください まさか まさか砂嵐の夜のあの人とはいいませんよね 佐倉さんでしたか?」
「そのまさかです あの日ここに訪ねていらしたときに彼が人鬼だという事 そして父に助けられた事など直接佐倉さ
んからあの夜にすべてをお聞きしましたの」
「そうでしたか」
「鬼の存在は政府だけでなく さまざまな闇の組織が暗躍しているようですわ 何者かに佐倉さんが狙われた そのと
き偶然にも彼は父に助けられたようです そのとき父は初めて人鬼の存在を知ったようです」
「そうでしたか」
「まだありますのよ鬼の話は それ以外に人鬼とはまったく異なる戦いを得意とする屈強な鬼の存在 彼らは人鬼のよ
うに人に紛れ人として穏やかに暮らすというものでは無く彼らは喜界と呼ばれるこの世とは違えた闇の世界に棲み現世
と不思議な域を通じて喜界と行き来していた その域とは千年も前に人と鬼によって創り出されていた……でもその域
もいつ頃かは不明ですけど闇の彼方に消えてしまったとか 定かではありませんが それには約束事が関係しているよ
うですがそれが何かは未だに解明されてはいない 喜界の鬼の寿命は人の数倍から数十いやそれ以上とも 良ちゃん大
丈夫?お顔の色が」
我們は目眩がした 今珠子から話されていることが本当に真実なのか?しかし珠子に嘘はない
「大丈夫 大丈夫です まさか 珠子さんがそこまでご存知だったとはちょっと驚いてしまいましたがそれにしても」
「良ちゃん これぐらいで驚いていては……この先良ちゃんがあっと驚く続きがありますのに 今夜はこれぐらいで」
「珠子さん確かにわたしは気弱な男ですがこの事を驚かない人間はいないと思いますよ それにわたしの気の小ささは
珠子さんが一番よくご存知なはず」
「ふふふ そうね まだ大丈夫そうね 続けますわ」
「この写真の伽の事ですか」
「人鬼、屈強な鬼たちすべての鬼が崇める絶対的な存在」
「すべての鬼の崇め? まさか鬼たちのその上に さらなる上に存在する鬼がいるというのですか?」
「鬼たちの頂に座するもの でもそれは鬼ではありません」
「鬼ではないと いったいその存在とは」
「鬼以外の存在ですわ」
「鬼以外の存在 いったいそれは」
「それは」
それは?」
「人ですわ」
「人?人ですか 鬼達の更なる上の存在が?」
「この世のすべての鬼どもの頂きに座するは人 その名は伽と呼ばれし人間の存在 人として生まれ変わるすべての鬼が崇めの存在 いったいどのようにして誕生したものなのか?」
「伽 まさかこの写真のこの娘が伽……鬼が人間を? いや人間が鬼の?いやいやそれは」
「今夜はここまでにしましょうかしら?なんなら男と女の話でも」
「いや大丈夫です 珠子さんそれがこの写真の二人という事ですか?人鬼に伽」
「多分 憶測でしかありませんけど それともう一つ」
「もう一つ?まだあるのですか?」
「はい 人鬼 伽 そしてこの写真には写ってはいない屈強な鬼の存在」
「それが この二人の後ろに映る影ということですか?」
「その影こそが 片時も付かず離れず伽を守る護鬼という屈強な鬼の存在」
「ごき?ごき?」
「伽をずっと護りつづける鬼の存在ですわ」
「この影が護鬼 この写真の女性が伽とするならこの後ろの大きな影がもしかしたら護鬼と?」
「そうかもしれない 護鬼は伽の傍にいつ何時も一緒にいるという存在 いつも影ながら伽を守りつづけている」
「という事は」
「どうかしら あくまでも仮定です ただ護鬼は伽の前に姿を現すという事はないと言われている」
「付かず離れずですか?」
「そう父から聞いていますが真意のほどは」
「しかしどう理解してよいものやら」
「簡単ですわ この世界に人間だけが存在すると思い込んでいる事こそがそもそも間違いだという事 この世界はまだ
まだ解明されてない事だらけ」
「それを珠子さんが追っているという事ですか?」
「そうね」
「危険過ぎませんか?鬼も内閣府にしても特殊極秘事項にしている以上味方とは言いがたい 命の保障はありませんよ」
「そうね 闇から闇 に葬り去られてしまうかもしれませんわね」
「そうですよ」
「でも遠い昔 人と鬼との関わりがどのようなものだったのか 今はとても興味がありますわ
もしかしたら 今よりもずっと穏やかで寛大な社会だったのかも知れない 今に残る神や鬼のおとぎ話はそういう事な
のかもしれない それに伽と呼ばれし人間がどうして鬼の崇めとして存在するのか そしてその伽をずっと護りその事
を唯一の使命とし生きつづける護鬼の存在 そのような強い意思を持つ鬼には魅力さえ感じますわ 良ちゃんにもそん
な強さや優しさがあったりするのかしら?」
「なんともお応えできませんが 珠子さんは鬼達に魅せられたと…… 残念ながらわたしなど到底適いません」
「あら妬いてらっしゃるの?千年もの永き時を人間の世界と闇とを行き来する鬼たち 崇めとして生まれ変わり生きつ
づけている伽 彼女を守る護鬼 彼らを一瞬でも覗いてみたいものですわ それにその鬼達に密々に関わってきたこの
国の存在もとても気になります 父もそれらを把握する前に行方不明に 父に関してもまったく情報は途絶えたまま
当時内閣府の中にもう一つの隠れた組織があるという事は父もなんとなく気がついてはいたようですけどその先は闇の
中 内務省に勤めた父でさえ知らない組織がわたくしたちの国のその中枢に存在する事実」
「珠子さん もしかして」
「ねえ珠子と心中する覚悟 良ちゃんは今でもまだおありかしら」
「珠子さんには適いませんね」
「写真を持って来たのは良ちゃんですわ これがなければこの話はしませんでしたわ 父も佐倉さんも音信が途絶えた
のはこれを追っていたから」
「内閣府からお父上の久我清志郎のファイルが消えていた理由 これでわかりましたよ」
「ホントは父がこのサハラのわたくしのところに来るはずだった でも予定の便には乗ってはいない 空港への途中で
何者かに連れ去られたかそれとも父が自ら行き先を変更したか そしてかわりに佐倉さんがいらした その後の足取り
はまったく掴めてない でも父はきっと生きてます 鬼と伽の手がかりが掴めれば父のところへ辿り着けると思ってま
すの」
「解りました わたしの持っている情報網を駆使すれば何か手がかりぐらいは掴めるかもしれません」
「良ちゃん正直珠子一人ではもう手詰まりでしたの 貴方がこの写真を持ってわたくしに会いに来た これも縁と思い
すべてをお話ししましたの でもとても危険が伴う事は確か」
「珠子さんに惚れた弱みですよ 例え地獄の先でもお付き合いしますよ」
「ありがと 良ちゃんとはじめてお逢いした時 珠子は貴方とならささやかなマイホームも届く夢と感じてましたのに
ごめんなさいね またまた良ちゃんを危険な状況に巻き込んでしまって」
「気にしないで下さい むしろ感謝してます 頼っていただけた事 それにこれから珠子さんと同じ時間を共有できるん
ですから」
「うれしいわ でもね 良ちゃんには協力していただく前に一つだけ条件が」
「条件? なんですか?」
「この先 もしもわたし達に命の危険が迫ったならその時は珠子の生死には一切関わらないと約束くださる? 危機が
迫ったなら迷わずご自身だけ助かる道を選んでいただく事それが条件 それを承諾してもらえないと良ちゃんからの協
力はいただけませんわ」
「しかしそれでは」
「珠子の事は気になさらずに」
「わかりました 命の危険に遭遇したその時には珠子さんを置いてとっとと逃げる事を約束しますよ 恨まないでくだ
さいよ これでよいですか?」
「はい是非そうして下さい それなら安心して協力をお願いできますわ」
「ホントにそれでよいのですか?」
「ええ そうしてくださいな なんか少しホッとしましたわ ずっと一人で抱え込んでたので良ちゃんに話したらなん
だか気が楽になっちゃった なんか急に喉が乾いちゃった」
「そうですね 今夜はとことんお付き合いしますよ」
「あらうれしい 今夜はわたくしも無性に飲みたい気分 付き合っていただくわ」
「はい 喜んで」
「じゃあ 乾杯 何に乾杯しましょうかしら」
「そうですね じゃあ我們良平の逃げ足の早さにでも乾杯していただけますか?」
「そうね じゃあ我們良平の逃げ足の速さに期待して乾杯」
この夜 彼らが多くを語り二人の距離を縮めるにはそう時間はかからなかった そしてそれらに巻き込まれていく彼らの未来にとてつもなく大きな出来事が待っていようとはまだ到底知る由もない二人であり 今はただ互いの存在を求め溢れでる感情だけを深淵な夜に沈めのめり込んでいった。
第二章 はじまり
二千三十二年 都市
この日は夜の明ける前から地が揺らぎ二月にしては妙にどんよりとした生暖かな風が立ち並ぶビル群をぬるりと覆うとやがて東の空
から薄らぼんやりとした白闇がまだ路地裏に漂う暗闇を追いまわしながら消し去ると街は一斉に目覚め蠢き出しいつもの気ぜわしさに
呑み込まれていく
寝ぼけ眼にまだ振り回され地に着かぬ足取りで駅に向かう人々には今朝の些細な異なりなど誰一人気づくはずもなく人々にはいつも
と変わらぬであろう何気ない一日のはじまりでしかなかった
だが……この些細な異なり ただならぬ物事のはじまりとこゝろに深く刻み込む者どもがいた
出羽三山系葉山 円枩院本院の者どもである
「父上 これをなんと……」
「斉か……お前も気づいておったか」
低く穏やかな声の主は十四代当主円枩院時貞である 円枩院はその昔出羽三山はもとより出羽山系鳥海山を含む広大な禁足地を有し人々のすべての災禍霊除をその地位に隔てなく広く引き受けていたところで現在も全国に十数カ所余りの分院別院がありそれらは幾つ
かの分派を形成しているもののその結束力は強く宗派にみる権力の争奪や主義主張の類いの対立は皆無円枩院本院を頂点とするその教えに違う事なく組織は整然と構成されていた。これもひとえに十四代目当主時貞の並みはずれた霊力と大人としての秀でた人間性の所
以であり斉はその父の徳を色濃く受け継いだ時貞が一子である
「はい父上 今朝はこれまでとは異なる大きな気が漂うておりますればもしや」
「うむ 御門か」
「やはり 父上もそう思われますか」
「御門が閉ざされ喜界の闇に消えて千年余りいつ時空の果てから舞い戻ってきても不思議ではあるまいが」
「父上の言っておられた事が現実になると……この円枩院にまつわる伝えがはじまるというのですか?」
「うむ どうやら今回ばかりは避けては通れぬと思えてならぬ このまま何事も無く永久に喜界の闇を彷徨ってくれればと願うておるのだが それも叶わぬ……か」
「御門はどこに現れましょうや」
「判らぬ 我らがこの地まで御門を誘う事ができれば犠牲も少なかろうがその術がない」
「もし都市の中に現れたとしたら」
「危惧するはその事ぞ 皆目見当もつかぬが犠牲が無いとは言えまい 御門が現れたとして今この段階では静観するしか手だてはあるまい できる事なら何事もなく過ぎ去ってくれればよいのだが 御門自らの意思によりえにしが解き放たれ闇に消えて千年余り 今その御門が舞い戻ろうとしておる いったい誰が御門千年の眠りを 御門を目覚めさせようとしておるものやら 迷惑なことぞ」
「鬼が崇め 伽の関わり ありましょうや」
「判らぬ がしかし仮に伽が御門を呼び戻すというのならおそらくは伽自身の本意に非ず」
「何者かが画策していると」
「おそらくな」
「我らの他に伽の存在を知る者が」
「伽を知る者か…… いずれにせよ悪しき思惑には違いあるまい 先日 関東の別院に何者かが侵入し、我が円枩院千年の伝えの書を
持ち去ろうとしていたあの一件 幸い穂明を別院に使いに出しておったのが幸いした それで無事事なきを得たがあの穂明が取り逃が
したとなると敵は相当な闘技を身につけておるようだ ただの盗人ではなかろう おそらくはわれらと同等かそれ以上か 偶然やただ
の盗みなどではあるまい 何者かが動き出しておるのは間違いなかろう」
「われら以上とはいったい」
「遅かれ早かれ いずれその目的も何ものかも知れるであろうが 何にしても我らを知る者が動いておることは確か こゝろせねば」
「はい 父上 それについて少々気になる事が」
「ほう 気になる事とは 聞こう」
「はい もしかしたら呼び合うておるのではないでしょうか?美乃様も何らかの関わりがあるのではと」
「鬼どもと美乃がか?」
「はい」
「それもあるやもしれぬが それと美乃がどう繋がるのだ」
「はい 美乃様は御門を呼び戻す事 できましょうや」
「美乃が御門をか」
「はい」
「美乃にその力があればということか あるやもしれぬ……だがしかし美乃が狙いというのなら まずはわれらが先に気づくはず 美乃は我らが円枩院のそれも奥の院 紫奉殿の地下に眠っておるのじゃぞ しかしいやもしそうであると仮定したら……別院での伝えの書の盗みは揺動か」
「はい 先日の別院での侵入者の行動が手練にしてはあまりにも不自然 物取りは事のついでということではなかったのかと もしそうだと仮定するならすべての行動に納得がいくかと ならば やはり狙いは美乃
様では」
「この度の一件 目的は別院ではなく紫奉殿の美乃と申すか」
「はい 奥の院には壼葉と喜納羅を配しておりますが」
「念のためじゃ 壼葉と喜納羅に連絡をとりことの仔細を伝え警護の強化を計るがよい」
「心得ました その旨早急に連絡いたします」
「頼むぞ」
「はい」斉は恐れていた この円枩院にまつわる鬼が存在 物心がついた頃よりずっと父時貞より聞かされ続けた鬼どもの存在が現実になろうとしているのか否か 今はまだ定かではないにしろ 生まれてはじめて感ずるこのとてつもなく得体の知れない大きく澱んだ異様な気の彷徨う気配に……
「(父の話されし鬼が存在……我ら円枩院はじまりしよりおよそ千年……とうとうその日が来たという事か……鬼どもが戻ってくるというのか……何故?してその目的は)」
斉は己に言い聞かせた「(急くな 今は事の見極めが大事 それにはすべての疑問を潰して行かねば)」
そして父時貞に問うた
「父上 美乃様はわが開祖玄叡様のお子では」
「いや美乃は生まれも素性も判らぬ 赤子の時に我が一門の軒先に捨てられておったそうなそれを我が開祖円枩院玄叡が子の成さぬ西庄に預けたとある 美乃という名は捨てられしそのとき首にかけてあった八部蚕の絹の守り袋に書かれてあったそうな 事情は分からぬがその高価な守り袋からして捨てた親御は貧しさからの所業ではなく何か謂れがあったのであろう そのように伝えに記してあったが それが何か?」
「その美乃様が何故喜界の鬼である傀と」
「美乃の育ての親である西庄が不治の病に倒れそのとき命を救ったのが喜界の鬼である傀それで美乃と傀との間に情が通ったとしても不思議はなかろう だが喜界の鬼と情を交わせば美乃自身人の類いはすでに超えておると思うが正しかろう 美乃は御門が喜界の闇に消えたのち自身も自ら永久の眠りについた そして千年余り」
「……」
「このまま眠り続けるか 或は御門の舞い戻りを確信し自ら眠りにつき己自身の力で目覚めを起すか……しかし美乃はそれを望むだろうか? 美乃が傀を呼んでいるというのなら喜界の傀と現世を繋ぐ御門を呼び戻す必要があるが なら美乃が先に目覚めねばならぬ だが今はまだ眠りの中 しかし美乃の眠りを目覚めさせようとしておる者が居るとすれば話しは変わる…… 斉よ、われら一門これより先起こる事のすべてが初めての事 となれば過去には一切学べぬということじゃ これは我らが想像を遥かに超えた覚悟がいるやもしれぬ」
「はい 父上 美乃様が目覚めたと仮定した場合 もし美乃様に人の振る舞いが失せていたとしたら」
「ならばこの世に災いを齎すや否か」
「御門の出現 なんとしても阻止せねばなりません」
「そのようじゃの さすれば尚の事我が円枩院の存続も含め相当な覚悟がいる 我が一門千年の時も含めすべての関わりを断ち切らねばならぬやもしれぬ こゝろして事に当たらねばなるまい この件に関して周知の徹底を図る 急ぎ一門すべての招集を」
「はい 早急に」
第三章 円枩院奥の院 月山 紫奉殿
円枩院奥の院月山 紫奉殿
ここ月山には千年という長きに渡り伝え継がれて来た円枩院が禁足地奥の院が存在する
世間とは少々隔たりを持ち表向きは一般的な神社の体を成してはいるものの 真の存在を知りうるのは円
枩院とその一門 そして内閣府執務室に在する国の最高機密機関の中でも更に特殊な事案のみを扱う極秘の
組織守係のみである
この紫奉殿には歴代当主の廟が奉られ それともう一人守らねばならぬ存在が永久の眠りについていた
ここに時貞が一子であり 昇竜陰陽拝技七人集が束ね頭 斉より壼葉と喜納羅なる二名が紫奉殿の静かな
る眠りの一切の護りを任されていた
「壼葉 ここにおったかずいぶんと探したぞ」
「喜納羅か なんぞ用でもできたか」
「用があるから探しているということだが」
「そう 尖るな いったい何がどうしたというのだ」
「少々 気になる事がある」
「浮かぬ顔をしてからに 喜納羅よ お前らしいのう」
「何とでも言え それより壼葉 どうやらここ数日 我らは見張られておるようだ」
「見張られている?誰に?」
「判らぬ」
「判らぬ?おいおい気のせいではないのか喜納羅よ 猿でもあろう 勘違いでもしたのであろう」
「馬鹿をいうな 猿と人の気配と一緒にするな 気のせいではない 誰かは判らぬが何者かが居るのは確か
勘違いなどではない」
「喜納羅よ わしには気配すら感じられんぞ なぜそう思う」
「少し気になったゆえ紫奉殿の入り口にそれとなく仕掛けをしてみたのだが、案の定 気配を見せおった 確かに何者かが居るのだが 解せぬ」
「解せぬ?何がだ」
「まるでその存在を我らに知らせおるような振る舞いと見た なにゆえか?」
「わざとと申すか」
「ここまで入りおるはかなりの手練であろうにそれが我の仕掛けに気づかぬはずは無い」
「喜納羅よ それは褒めておるのか」
「壼葉 信じておるまい お前に話したは無意味であったか この話忘れてくれ」
「おいおい 待て待て そう怒るな 相変わらず硬い男よのう ならばその目的は何と」
「判らぬ がここに目的があるとするなら答えは一つ 美乃様それ以外他にあるまい」
「おいおい美乃様を狙うておると してその先は御門 目的は喜界の鬼か?厄介じゃのう」
「そう思うが妥当であろう 間違いあるまい 明日早々にこのことを本院に居られる斉に報告に行こうと思
うが 壼葉しばしお前一人になるが大丈夫か? 山を下る際各所に分け身を置いて行くそれを使え それで
侵入者の動向は探れるであろう 念には念 ついでに紫奉殿に彷螺を張る 戻るまで紫奉殿は時空に置くが
それでよいか」
「ああ あいわかった それはよいが 喜納羅よ 山を下りる時はくれぐれも気を抜くなよ お前に万が一
のことがあってはわしが困るでの それとわしも夢仰の陣を敷く迷うでないぞ」
「壼葉それはわたしが山を下りてからにしてくれ 迷ってしまってはかなわぬ」
「わかった そうしよう」
喜納羅には何人も入らぬ戻れぬ彷螺結界という時空を操る能力があり その結界の中で守られたものを幻影に変え、実態を現実とは違えた時空次元に置き危険を回避し安全を確保するというものである。
一方 壼葉の夢仰の陣とは、植物から取れる一種の毒より精製された脳を麻痺させ幻術の世界へと誘うもので、それに壼葉の創り出す夢の世界へ引きづり込むのであるこの毒を微量でも吸い込めば、防ぎ様がない、壼葉の処方する解毒剤しかこの夢仰の陣から逃れる術はない
第四章 運めの出逢い
およそ千年余り前 円枩院玄叡が頂とする鎮領「澱みの地」は地の主 大天主人から数十年前より預かりし土地であり万物吉凶のすべての祓いを目的としていた、そのためこの澱みの地は一切の介入を許さず何人であろうと構い無しの禁足の地として許されて来たところである
してこの約定は國の治め主が代わろうとも、未来永劫受け継がれ護られる事とし何人もこの地への介入は禁じられたのである
この澱みの地は外と内の両より結界が張られ外部からの侵入は容易には許さず、迷い込めば入るに入れず出るに出られず行くも戻るも叶わぬ並の者には命取りとなる
その澱みの地の玄叡が寝所に闇に紛れその者はいとも容易くこの多重結界をすり抜けてやってきたのである そして玄叡の長い夜がはじまろうとしていた
「…… ……」
「……? ……?」
「(居る……何かが居る)」
「(いったい)」
「(いつから どこから どうやって入り込んだのだ)」
「(目的は? ずいぶんに大きな気のようだが……このような大きな気……人か?……いや違う……人の気とは違う……ならばいったい……)」
「どなたですかな? はて この時刻 日が昇るにはまだ早すぎましょう この玄叡に何ぞご用で」
「…… ……」
「だんまりですかな……邪気はござらぬようだがはてお味方か それとも」
「…… ……」
「姿を見せられよ」
「…… ……」
「我が寝所に参られたは何故」
「…… ……」
「このまま去ぬるか それとも……」
「…… ……」
「やれやれこのままだんまりではまっこと迷惑」
「…… ……」
「ここに居られるは先刻より承知 去ぬるかそれとも素性を明かされるか決められよ」
「さすがよのう 噂は違わぬものよ わしに気取るとはのう……」
「その物言い この玄叡を知って出向かれたようだが はて こちらはとんとそのお声に聞き覚えがござらぬが如何に」
「くっくっくっ 玄叡 やはり肝の大きな男よのう じゃが恍(とぼ)けるのもそのぐらいが良かろうて」
「人に非ずや 然りとて死人でも非ず ましてものの怪でも似つかわぬ じゃが獣の様の如くまっこと気も態も大きなものと推測いたす しかし人の噂に聞いてはおったもののそれが絵空ごとでは無くこの地にそれも我の目の前とはこの玄叡些か肝が縮み申した」
「やはり 気取られておったのう だが怖心無用じゃ玄叡 殺すつもりならもうとっくにお前は死んでおる」
「そのようで この玄叡 まだこの地この俗世にてやらねばならぬ事が程々にありますれば」
「のう玄叡 わしはその程々の事で参った」
「そろそろ姿を現されよ このままでは話しの行方が定まりもうさぬ」
「それもそうよの されどここはちと狭すぎる本堂の庭先がよかろう」
「承知」
円枩院が鎮領 社本堂の庭先
「ここらでよかろう」 庭先にその姿が徐々に現れ、樹齢数百年その古木と違わぬぐらい大きな気と体を持つ鬼の姿である
「(おお なんとこのような……信じられぬこの地界に棲んでおるというのか……これが鬼かさすがに身が竦むわ真っ事大きなものよしかし何ゆえ……)」
「玄叡 わしは鬼凰 喜界と呼びし者どもが棲む我ら鬼すべての束ねじゃ」
「すべての鬼が束ねと はて?してその長が何故ここに参られた」
「まず……何故この地界にわれらが棲み居るのか玄叡思うところであろう」
「…… ……」
「我らは人に有らずや? いや人ぞ」
「人と……」
「人のこゝろが生み出したるものと言うたらどうじゃ」
「人のこゝろと してその人をしてこゝろの有り様とはいかに」
「玄叡 人の欲の深さをどうみる 人一人の欲 ただそれだけを見たれば浅はかなりて取るに足るものに非ず またその小さき願いも叶うものでもない じゃがその小さき欲に幾多の欲が絡み合い底知れずも欲深く関わりあい交じり合うたとしたら」
「…… ……」
「叶わぬ願いとは言えまいぞ そこに無数の欲が集まり やがてその欲は禍爐と呼ばれし気の力となり幾多数多の雑多な気配をも巻き込み ひいては混沌たる澱みを創りだすものなり その澱みは自らの意志を育みだし それらは存在のさだめに従い滅びと再生を繰り返す そして混沌たる澱みは自らを浄じ更なる或へと淘汰させる そこから生まるるはいくつかの存在 やがてそれらの存在は一つまた一つと態を形を 成し得るとしたらどうじゃ 玄叡」
「態とな」
「玄叡 われらが存在の訳解けたか」
「……にわかに信じがたい がしかしお前様がここにわたしの目の前に居るは幻に非ずされば鬼凰が者どもの存在の訳解けぬものではない」
「ほう ではなんと解く」
「鬼凰がその者どもとは人の創る出したる無数の欲の具現 そしてそれは人の求めたるが故生まれるべくしてこの地に現れたと 故に人で在ると」
「そうじゃ我らも人よ 人の鏡よ じゃが人は気づかぬ己の中に日々我らを育みし事など 身勝手なものよ」
「その者どもが訳 映え申した だが 恨みつらみ それだけを伝えに今宵わたしに会いに参られたとも思えぬしてその真は何処に」
「我ら人の命の長けでは死なぬ わしはもう百数十年生きておる しかしこの命明日果てても惜しくは無いが人の欲で生まれた我らその欲の長けに我らもまた人に添うてきた 己の分を外し尚深き欲を育めば我らもまた」
「またとは この地に腐心の事有りと」
「われらも人と同じ 我らが欲の深みより創り出したる存在がある」
「(なんと 人の欲から生まれし者ども 更に者どもが欲でいったい何を創り出したしたというのだ)まさか」
「気取れたか?」
「鬼凰よ これは夢?幻か?この玄叡 そなたらの創り出したるその存在解らぬ事も無い がしかし鬼凰よその創り出したる存在とはもしや」
「我らに有らずや」
「(やはり)非ずんばなんと 鬼に非ずしてその態はもしや」
「人なり」
「(やはり)人と 人とはいかなるものやその人とはもしや」
「玄叡解けたか」
「鬼凰 そなたたちが創りたるは人なり してその理は不死 鬼凰いかに」
「玄叡 やはり今宵お前を訪ねたは間違いではなかったようだ だがまだ足らぬ」
「足らぬと……」
「不死には違わぬが」
「鬼凰 不死に非ず ならなんと その訳は? 足らぬと申したその訳は」
「不死にも似て非なるもの 人の長けでの生まれ代わりじゃ」
「なんと 生まれ代わりとな この地で生まれ変わると申すか」
「そうだ われらすべての鬼の頂に座する者 その崇めの生まれ変わり」
「崇めの生まれ変わり」
「されどこの地のどこにどのように生まれ変わるかは一切われらは知らぬ」
「知らぬ?知らぬと?一切行方を知らぬと申すか」
「そうじゃ どこでどのように生まれくるものかわれらには解らぬ」
「なんと」
「されどわれらには生まれ持つ気取りの力がある それゆえわれらは崇めと繋がっておる」
「気わいで繋がりおるその崇めとは」
「崇めはわれらが鬼妃として永劫に生まれ変わる」
「なに鬼妃 女子にか この現世で永劫に生まれ変わるは女子とな」
「そうだ われらが崇め喜界の鬼妃 名は伽 この地で今を生きておる」
「とぎ?」
「伽の身に災いが迫れば伽は覚醒する そうなればこの世は混迷する」
「混迷とな してそのわけは何故に」
「人の長けより生きながらえる我ら それゆえ絶対的な存在を欲したのだ すべてを無に帰すという]
「無に帰すそれが崇めというものの存在か崇めは我が身の存在を知っておるや」
「知らぬ 伽は己の力を知らぬ 人として生き朽ちるは平穏なり 覚醒がなければその力伽自信の中に眠りおるまま」
「人として生き生まれ代わるだけなら なにも起こらぬと ひとたび目覚めればその限りに非ずと申すか」
「そうじゃ何事もなく過ぎる だがその力は永久に引き継がれる」
「なんと伽が存在する限りこの世は危ういと申すかならば鬼凰が己の一族が見守ればよいではないのか」
「もとより承知 故に伽を護る鬼を配しておる」
「ならば 問題なかろう」
「わしもそのように思うておったが このところの想像を超えた世の乱れがそれを許さぬ」
「まさか 人間が鬼凰らの存在に気づいたという事か」
「そうだ」
「鬼の力を利用する輩が現れた か もしやそれは守 総代祖ではないのか」
「なぜ そう思うた」
「われらの調べによれば 大天主人様の政の実行を補佐する存在でしかなかった奴らがこのところ大天主人様の威光を笠に密かにその
勢力の拡大を計り動きおる様子 いずれ政は奴らに取って代わられる事になろう これはわれらにとっても由々しき問題となろう」
「なら 話しは早い いずれやつらは我々鬼の存在 そして伽の存在までも知る事になる」
「そうなれば 悪しき思惑に利用されるのは必定」
「そうじゃ それを阻止するは われらだけではむずかしい 玄叡 我の力を貸せ」
「鬼凰よ これは戦という事か?」
「いや それは望まぬ われら鬼どもには喜界という棲家を持つが その喜界の出入りはいまだ定まってはおらぬ」
「どこに現れるか解らぬと申すか それゆえに巷で噂の鬼の存在がいたるところで明らかになったという事か」
「そうだ それ故に我らの存在が奴らにも知れてしまった」
「それで 今宵 ここに来たというわけか 鬼凰よ わたしにどうしろと」
「玄叡 力を貸せ 我らが喜界の出入りを一所にする為の域を創ってはくれぬか 我とお前の力でしか創れぬ それがあれば 我らの存在が人に知れる事はない 事は急を要することぞ わしは長い間 この域を創れる者を待っておった」
「(この地で数百年の永きに渡る鬼の営み……それも人知れず続いておったというのかそのような営み微塵も知らなんだ……)」
「玄叡 これは縁(えにし)に導かれたるもの」
「己が命と申すか」
「避けては通れぬ」
「伽をどうする?」
「玄叡 貴様に託す」
「託す ずいぶんに身勝手な」
「先刻承知 もはや一刻の猶予もない 後戻りはできぬ 手だては他にない 世の平定を願うお前にしか出来ぬ事」
「(なんとも奇妙な話しよのう このような事、夜が明ければ夢まぼろしと笑うて過ごせぬものか 伽とはいったい どのような力が込められたというのだ この現世での歳は 子か それとも成人か?はたまた老いたる者か はてなんといたしたものか伽はその事に
気がついてはおらぬとは……この地に人として暮らしておるとはまっこと不可思議 今まで何事もなく過ぎたるは幸い也というべきか
しかし どうしたものか この鬼凰が話し戯言ではあるまい 我が生涯これがさだめと申すか)」
玄叡は迷うた 鬼凰なる者の話しがあまりに人の長けを超えたものであったのだ
「(しかし どうしたものよのう 混迷する動乱の兆しにあって、少しでも民のこころの拠り所と思うて開いたこの円枩院だが一番厄介な問題を持ち込みおったは人に非ずよもや鬼とは 民の為というならこの円枩院の願いに沿うたものではあるのだが)」
「玄叡よ、いずれわしの危惧が現実となる そのときが来てからではもはや手遅れ機を逃す事になる 今のうちに守 総代祖を迎え打
つ備えがいる 手を貸せ明日の夜また来ようぞ それまで腹を決めておけ」
そう言い放ち、鬼凰は瞬きを与える事もなく一瞬にして消え失せたのである 眠れぬままに朝を迎えた玄叡であった
「兵衛 兵衛は居らぬか」
「玄叡様 およびでございますか」
「兵衛か 昨夜我が寝所に事もあろうに 鬼が訪ねてきおったわ」
「それはよろしゅうございましたな……いっ今 なっなんと申されました? 鬼と申されましたか?」
「そうだ 鬼だ 少々肝を冷やしたわい、噂には聞きおるも よもや己が目の前に現れおるとはの驚いたぞ」
「何たる不覚われら一向に気配を察知できませなんだ しかしわれらが結界を安々とすり抜けてきたとは」
「恐るべし能力を秘めておるものよ これが敵であったなら 気を断って侵入したのであろうがそれにしても」
「そのような事がでましょうや」
「あの鬼なら容易きか」
「しかしその鬼が何故父上のところに」
「この世を救えと」
「この世を?でございまするか」
「そのような事をの」
「鬼がでございまするか」
「そうじゃ鬼がじゃ」
「……」
「鬼を創り出したは人だとも言いおった ただの獣であれば事は簡単 だが厄介にもこゝろも持っておったそれゆえあろう事か鬼が人を創ったと言いおった してそれは生まれ変わるそうな それも女子だと 何とも罰当りの話しじゃが それは人の願いと同じ所業で
あるのだろう 問題はその力じゃ 守 総代祖がこのごろ不穏な動きをしておる 政のすべてを大天主人様から取って代わる腹であろ
うが」
「なんとそのような企みが」
「わしも薄々感じておったが 鬼凰が話し違える事ではなかろう いずれ天下は守 総代祖に移るであろう」
「そうなれば 力の政に変わってしまいます」
「うむ やはり ここは鬼凰と手を組むべきであろう そして鬼凰らが創り出した人間 人として生まれかわる伽も護らねばならぬ
「その鬼の創りし人間とは何処に」
「解らぬ どうやら鬼とは違えた生き方をするようじゃ 人として生きおるらしいが 出会う事も無いと言うておった それも一理
鬼が人の身近でうろうろされたのではのう 鬼とその者とはこゝろで繋がっておると言うておったが それは我ら人間とて同じ こゝろの拠り所として信仰がある それと同じであろう」
「なんとも奇妙な」
「まっこと 奇妙なことよ 我らが神仏を奉るように 鬼凰らにとってはそれが伽なのであろう」
「それで父上はどのように」
「力を貸せという事じゃったが 返事はまだじゃ だが明日の夜にまた来ると言いおった どうしたものか」
「今宵より警護の数も増やしますれば」
「大丈夫だ 気遣いいたすな あの鬼には警護を増やしても無駄であろう」
「しかし それでは」
「よいよい あの鬼も言うておった 殺すつもりならとっくに死んでおると」
「そのようなお話まで」
「普段通りにいたせ」
「そうは申されましても 父上にもしもの事があっては」
「構わぬ」
「父上がそうせよと言われるのなら そのようにいたしまするが」
「それでよい」
外が白々と明け、ようやく長い夜が消えた
木立の隙間から柔らかく差し込む陽の光に、夜に凍えた枝葉や地面近くにどんよりと漂いまとわりついていた綿毛のような白闇も徐々に掃き消され、この澱みの地にいつものように朝が戻り、本堂では、毎朝なに執り行う納火の儀式である囲み火の念法がはじまり、境内でも清めの霊水を持ち技練の者達の定方位活方陣の五方角天地閉塞の澱みの地全体に張り巡らせる結界御業が始まっていた
玄叡の腹は決まっていた 大天主様より預かりしこの澱みの地が事もあろうに闇に蠢く鬼どもが域にとは
よもや足元に在るとは 守も気づけまい いや遅かれ早かれ気づくであろうが時は稼げるであろうこと
すべては動き出していた
「(はて この事を大天主様には何とした事か わたし一人の一存で事を成したるが是のものか……)」
すでに腹の括りはできていた
そして玄叡はのちのち起こりうるであろう現実にこゝろを這わせ向き合うていたに過ぎなかった
第五章 一話
玄叡と鬼凰が手を組み数年が経ったころ
この地界に政のすべての束ねを目論む翁を長とする守 総代祖と名乗りし者どもが現れ大いなる野望の下蠢き出していた。
この國にはこの地すべての治め主として絶大な力を擁する大天主人という存在があった
大天主人は長き時代万物を司る天神に唯一仕える者として崇められてきたこの國の最も高い位の人物であった
だが時の流れにその威光もしだいに薄れ下々までその威厳は及ばざるに至り、治安の悪化を懸念した大天主人は代わりに各地を治め
る者を任じその地の治めに当たらせたのであった
守 総代祖もまた幾多の領の中の一つの治めを任された者であるが 守 総代祖はその中でも大天主人の信頼も厚く 他の治め主と
は格段にその地位は高く その証に大天主が一子 天子を預かりのちのち大天主人の後継となるべく身につけるべき主学のすべての責
を任されていた
その天子齢十にして、やはり大天主人の血を色濃く引き継ぐもので大天主人の徳の高い御子として、その名が知れ渡っていた
守 総代祖は天子 その大天主人を後ろ盾に この地のすべての治めを目論みだし 長の年月を経てようやくその実を結び 守 総代祖の下 天下は大きく靡き混乱を極めた世もようやく治めの時代に入ろうとしていた
折も折 守 総代祖の命により各地に散らばる探りの者どもが日々巷での漏れ聞く噂の中から、不可思議な者どもの存在を探り出したのである
事の詳細を明らかにすべく 守 総代祖はすぐさま八角法師衆なる高き戦闘術を持つ守 総代祖の手汚しを一手に引き受けてきた子
飼いの者どもに その不可思議な者どもの存在の是非と地の治めを命じた
第五章 二話
この國に人に紛れ人の姿を真似 人に形すまし 人と同じ生業の暮らしを立て 人として生きる……
そのような鬼どもの存在が巷で囁かれ出した 者どもはいつの頃からか人鬼と呼ばれた だがその実態はまだ人の噂ほどに止まっていた
そんな折 八角法師衆の者どもの緻密な探索により人鬼の存在が 少しずつではあるが明らかになり出したのである
八角法師衆 屋敷内
蕊 この男が この八角法師衆を束ねる守 総代祖の手汚し集団の頭である
「頭 ここに居られましたか」
「鶯か どうかしたか」
「はい 先ほど薙代様が参られ、頭に内々にお話をと」
「薙代さまが なんぞまた問題でも起きたか」
「そのようで」
「で薙代様はなんと」
「これといって お話の内容には触れませんでしたが いつになく深刻なご様子」
「そうか」
「できるだけ早く出向かれるようにとの事でございましたが」
「はてなんぞ思い当たる事も無し だが薙代様直々とはよほど一大事という事か」
「はい そう思われますが どういたしましょうや」
「うむ あい解った 早々に伺う事としよう」
「わかりました ではそのように使いの者を出しましょう」
「ようやく 守の時代が来たのだ いささか浮き足立っているのであろうが 我らの働き少しはお役に立ったものかのう」
「はい われらが働き無くしてこの地の治めまだほど遠いものであったかと」
「長いようで短いもののようでもあった そろそろ我らのお役目も終わるであろう 守の世が未来永劫続くかそれとも……果たしていつまで続きゆくものか」
「頭 これでよかったのでしょうか」
「よい 我らもそろそろ初めのお約束通り 褒美の土地をいただいて我らが國を持ち一族を集い静かに暮らそうぞ」
「はいそれでよろしいかと……ですが恐れながらそれで事が済むでしょうや」
「そうよのう 済まぬかもしれぬのう 鶯 何ぞこゝろに含みおる事があるようじゃのう」
「頭の功績 守はどのように思うておるのでしょうや 噂では守の方々の中には我らを疎ましく思うておる方も居られるそうな この國を掌握した今 守にとって我らはどのような存在になりましょうや」
「そうよのう 守にとって 我らは目の上の瘤となっているのであろうかのう」
「頭 それでは守の手汚しを一手に引き受けてきた我らそれでよろしいので……」
「よいよい……わしが守だとして同じように思うであろうて 守の手汚しを一手に引き受けてきた我らだからこそ守の裏も表も知り尽くしてしまって居る 言わば守にとっては喉元の剣じゃ 事ここに来ては疎ましく思うのも道理であろう」
「どれほど多大な貢献をしてきた事か 我らにも大きな犠牲がございました これで用済みとなり掌を返されるようでは…… いささ
か不服かと」
「よいではないか うちそとを問わず敵は多いと思うた方が気が休まる 裏切られたと思うこともない わしらは國を持ち安穏に暮ら
せればそれでよいではないか」」
「頭がそれでよくとも守が放り置くはずがないと思うはわたくしめの思い過ごしでしょうか」
「鶯 人それぞれにさだめがある それが わしのさだめならそれもまたそうなのだろう」
「そのようなお考えでは 先々頭の身が案じられてなりませぬ 我らの中に秘かに翁様より直接お声を掛けられておる者も…… そのようなお振る舞い われらの結束が乱れ好からぬ事態になりはせぬかと思うておりまする」
「鶯よ その事は承知しておる」
「すでに頭の耳にも届いておりましたか」
「鶯 わしはいつかわしらの時代が来ると 夢みてきたも今の我らでは守に及ばぬ それに守には大天子様が後ろ盾に付いておる それが守の天下統一が成就した所以じゃ われらが守に取って代わるは容易い事ではない だができぬ事でもないが……
問題はその先じゃ 守を滅ぼせば今まで守を畏れていた者どもがおとなしくしておるはずが無い またぞろこの國は天下を狙う戦乱の世になるは必定 そうなれば大天子様を後ろ盾にできぬ我らでは天下を狙う者どもすべてを払いきる事は叶わぬ それどころか逆に潰されるわ そのような我らに誰も手を貸さぬであろう 今の守とて大天子様ひいては大天主人様の後ろ盾があったればこそやはり大天子様をお味方にできぬ限り天下は取れぬ 我らの時代にはけっして成らぬという事じゃ
我が一族もともと大天子様に弓引く黒柿家の家臣である 大天子様とてその事は誰ぞに聞き及んでご承知のはず それゆえ我らに大天子様がお手を貸すなど到底考えられぬ
この先我らによるこの國治めの願いが叶う術があるとするなら……」
「されば 大天子様を超える大きな力 もし我らが持ち得たとしたら我らが天下叶いましょうや」
「鶯 いったいどうしたというのだ……この國の治めなど努々思うた事などないであろうそのお前が」
「はい もとよりこの國の治めなどいかほどにも興味などございませぬがこのところ翁様には我らの周りで不穏な動き有り それとなく探りを入れておきましたところ やはり我ら八角衆の切り崩しを画策しておるご様子……内々に翁様の意図を探るよう指示いたしておきましたが事が事だけに翁様の動向が気になりまする やはり先ほどの頭の話しと通ずるものかと ならば我らが力 大天子様はじめ守総代組の方々より上回らねば 我らが存続好むと好まざるとに拘らず危ぶまれるかと」
「翁様か やはりそのような動きであったか 薄々は気づいておったが 翁様が近づきしは錘と崔であろう」
「それもご存知でしたか」
「気づいてはおったがよりによって錘と崔とはのう われらが中にあって高い忠義心を持つ者を狙うとはさすが翁様というべきか」
「頭 お戯れを……しかし何故そのように思われますや」
「切れ者よのう 翁様は侮れぬ 錘と崔 あの二人だけわが八角衆において黒柿家の家臣の流れを組まぬ しかしよくそこまで調べたものよ この事は我らしか知らぬ事のはず 侮れぬな 恐ろしいお方じゃ」
「されば すでに錘と崔は翁様のなんらかの企てに乗ったと」
「そうであろうのう」
「頭 そのように……」
「そう考えるより翁様の計り事に落ちたとみる方が妥当であろう」
「それはどういう事で」
「鶯忘れたか 翁様の得意とするは人のこゝろを盗み取る事ぞ」
「そうですが……」
「鶯 あまり騒がずともよい 乎喇であろう じゃが きっと本人もその謀に気づいてはおらぬであろう……
ただ この先翁様の方から更に接触してくるであろう可能性は否定できぬ乎喇をそれとなく翁様から守れ翁様に乎喇が取り込まれてからでは厄介じゃ」
「うかつでした……では早速 乎喇には屮葦を付けておきましょう」
「まて 屮葦は乎喇とは幼なじみという間柄 荷が重いであろうし そのような思いではわずかなこゝろの動きを乎喇も気取るであろう 火牙蘭にせい」
「火牙蘭ですか?しかし火牙蘭はまだ」
「鶯 火牙蘭は我らが中にあってこゝろを閉ざせる最強の力 うってつけぞ いかな翁様でも火牙蘭のこゝろは盗めぬ それに翁様はまだ火牙蘭を知らぬであろう」
「解りました ではそのように」
「それと錘に崔の二人 わしは信じておる あやつらなら大事ない もし違うたというのならそれはわしに非があると思うまで」
「頭 それほどまでに我らを信じておられまするか もしやと疑いましたわたくしは恥ずべき事かと」
「鶯責めるな お前にはお前の役目がある皆が皆わしのように思うておったら我らはとっくに潰されておるわ わしがこんな思いで居れるのもお前がおればこそぞ 感謝せねばならぬのはわしの方ぞ だが相手が翁様と判れば徒に疑心するは翁様の思うつぼぞ そこがあの方の狙いでもあろうからの 油断するでないぞ」
「はい確と肝に命じまする」
「鶯よ この先我らがどうなるものかは解らぬがいずれ守とは嫌でも争わねばならぬ時がもしかしたら来るやもしれぬ そうなれば薙代様と我らは敵味方 なんともこゝろの重い事よ 特に守のなかにあって薙代様だけは我らを擁護しておられる 鶯それとなく薙代様
の身辺にも気を配ってくれぬか 万に一つ翁様らが暴挙に出るという事も無きにしも非ず 守の方々の中にあって薙代様は稀な愚直な
お方 それゆえ方々とは意見の違えるところも多々あるようだ 守が薙代様だけならこの國の治めに伴うこの度の犠牲もずっと少なく
て済んだであろうに」
「はい あの方はわたくしも案じておりました 薙代様の事確とこゝろ得ました」
「さて 我らの事じゃがこの先争わずして 我らが立つ瀬があればよいのだが……あの翁様の事じゃきっと何か我らに仕掛けてくるであろう そうなれば話し合いで済むとは思えぬ 覚悟せねばなるまい 鶯が申すとおり我らに守や天子様よりはるかに大きな力があれば これより先われらは盤石となるであろうがのう」
「頭その事でございまするが」
「鶯 何か大きな力があるとでも申すか まさかそのようなものが……」
「それはどうかわかりませぬが彡が巷での妙な噂を持ち帰りました なんでも数日前 大天主人様治めの地にて探りをいたしておった時の事らしゅうございまするが」
「彡が 妙な噂をとな」
「はい 彡の申すには、どうやらこの現世に人の形をし 人の暮らしに紛れて暮らしおる そのような希有な者どもがおると」
蕊「ほう 希有な者どもがのう その者どもが話し誠のものか」
鶯「はい 彡の話しではなんとも奇妙な噂ゆえ 急ぎこの事を頭のお耳にと立ち返って参ったよし 頭直々に彡からと思うて控えさせておりますが」
「そうか彡がのう ついこの間までハナタレの彡と思うておったがのう……もうそのように育っておったかここでは憚(はばか)れる 鶯よ あとでわしのところに彡と参れ」
「はい」
「先に薙代様のところへ参る その後で彡の話しを聞こう」
「はい わかりました ではお気をつけて」
八角法師衆は人離れした不可思議な法術者どもの集まりで、なかでも頭の蕊(ずい)はかなりの手練として名は知れ渡っていた……
主に守総代祖に弓引く者どもの制圧を目的とし、影に日向に守の手汚しを一手に引き受けてきたのである
追われる者は蕊率いる彼らの事を守 総代祖に対して闇守と呼び守 総代祖よりも怖れられる存在となっていた それゆえ 守 総代祖にも脅威となっていたのである
第五章 三話
守 総代組 薙代守 邸宅 午の刻を過ぎた頃 蕊は現れた
「薙代様 お呼びでございましょうや」
「おう 蕊か 待っておったぞ」
「また なんぞ急ぎのご用でも」
「うむ 蕊 その方らのお陰でわれらがこの國の治めを目論みて数年ようやくその実を結ぼうとしておるものの世間はまだ広いとみえる まだまだわれらの知らぬ事が巷には随分とあるらしい」
「と申されますと」
「うむ ちと不思議な話を耳にした」
「不思議なお話しと」
「蕊 お前の事だ もうすでに耳に入っていよう」
「何の事でしょうや」
「なんと蕊ともあろう者がまだ知らぬとは信じがたいものじゃが まあよい」
「わたくしもいささか歳を取り申した」
「蕊 隠居にはまだちと早かろうて まだまだ成すべき事が待っておるぞ」
「はい で そのお話とは」
「蕊も知らぬか 今回は今までと違いちと厄介ぞ」
「と申されますと」
「大きな声では言えぬがその者ども人に非ず」
「なんと 人に非ずと……」
「そうじゃどうやら鬼の類いらしい 巷では人鬼と言われおるらしいがの」
「なんと申されます 鬼と申されますか」
「そうじゃ この世に人に形すまし 人の暮らしをしおる者どもが居るらしい 者どもはむやみには争いを好まぬらしく人と同じ日々を暮らしおるらしい 元来は温和な者どもという事で人鬼という名はそのような人としての振る舞いから付いたのであろう だが所詮鬼は鬼 われらがこの地の治めの邪魔になるようなら始末するほかあるまい 探ってくれぬか」
「はっ しかし 手がかりがまったく皆無では手の打ちようが……」
「蕊 ただそれだけでお前を直々に呼ぶ わしと思うてか……手がかりはある 探索方がそれらしき者を見張っておるゆえ明日 出立してくれぬか」
「明日でございまするか ずいぶんに急なお話で それは確かな事でしょうや万が一人違いだったというような事では済まされぬかと……」
「蕊 お前らしくもないのう やはり歳か」
「いやそのような者どもが居るとはいささか信じられず もしわれらと同じ民と見間違うておったらと」
「それは調べてある間違いなく人鬼だそうじゃ、蕊 わしらの探索方はお前達だけに非ず いや探索だけならもしかしたらお前達を超えておるやもしれぬぞ 何しろお前も知らぬという情報を持って参ったのだからのう」
「恐れながら薙代様 守の探索方は我ら八角衆だけかと思うておりましたが」
「言うてなかったが守ではなくわしの配下じゃ不服か蕊 八角衆だけに荷を負わせるのはいささかしのびなく思うたまでじゃ」
蕊「恐れ入ります」
薙代「腐心いたすな 蕊 お前らが守の手汚しをすべて引き受けてくれたおかげで我らは今日こうしてここまでこれたのじゃ その事は忘れるものではない もし我らの他の方々が忘れたとしても わしは決して忘れぬ その事だけはこゝろに留め置いてくれぬか」
「ありがたきお言葉 なれどこの頃 方々の中にいささか気になる動きが見え隠れし申す われらが直接ご指示を仰ぐ薙代様にはその事はご存知であろうかと」
「知らぬと言いたいがわしの耳にも入っておる 翁様の事であろうここだけの話しじゃが困ったものよ いかに翁様とて事の善し悪しきがござろうに よりによって八角衆とは何を思うての事やら だが心配は要らぬ」
「薙代様がご存知というのであれば我ら今は見てみぬ振りといたしまするが……いかな翁様とてそれにも限度がござろうかとそこはお心得いただきたく」
「蕊 そう目くじらを立てるな あまり 度が過ぎぬようそれとなくこゝろ配りをいたそうぞ」
「お心がけ感謝いたしまする」
「それはそれとして その人鬼の件じゃがわれらが探索方名は萱亥その者に明日の朝迎えに行かす あとは萱亥に任せてある」
「その人鬼とやら どのようにいたしましょうや」
「そうよのう仔細を知りたいゆえできる事なら人知れず生け捕りにしたい 翁様にもの」
「ではそのように」
「頼んだぞ 事の公は望まぬゆえ その事はこゝろせい手に余るなら始末せねばなるまいが極力殺生はせぬようにの すべてはお前に任せる」
「承知いたしました」
「頼むぞ」
「では 明日の準備もありますれば 本日はこれにて失礼いたしまする」
蕊の姿が屋敷から消えかかった時 そのものは現れた
「……出て参れ萱亥 蕊をどう見た」
「はい薙代様 なかなかの人物かと」
「お前もそう思うたか」
「はい恐れながら敵に廻せばいかに守とて命取りとなりましょうや」
「それよ翁様はそれを案じておるからこそ八角衆の切り崩しを目論んだのであろうが それが翁様の心得違いじゃ 蕊は野心溢るる人物に非ず己の國を持ちそこで穏やかに静かに暮らし居るのが夢ぞ かえってやぶ蛇にならねばよいのだが わしはそれがどうも気になる……そのような事が発覚したのならわしが蕊なら存続の為に守を超える事を目論むであろうかのう かといって大天子様を擁するは叶わぬそれは蕊も重々解っていよう 大天子様に弓引く黒柿家の家臣じゃったからのう蕊は じゃが世が世なら天下を取れる器の者であろうが……翁様の持つ力の器と違うて 蕊の器は人に希望を与える 惜しいのうわしが守の者でなければ担いでみたい神輿よ」
「一つお聞きしておいてもよろしいでしょうか
「なんだ あらたまって」
「薙代様は……この先ずっとあの蕊と申すお方のお味方なので…」
「そうよのう 惜しいが所詮は守の捨て駒になろう」
「恐れながらそのお言葉そのまんまに受けてよろしいので?薙代様が本心と思うてよろしいので」
「萱亥 お前が腐心する事でもあるまい」
「はい あれほどの人物この時代そうそうお目にかかれるものではござらぬ 薙代様がこの先蕊様にお味方をなさるという事ならわたくしめもいささか覚悟せねばならぬかと……さすればおのがこの命の一つや二つ はては三つ四つ足したところで足らぬものかと」
「萱亥 大袈裟な男よのう じゃがお前でもそう思うたか」
「はい あの蕊なるお方は器の広がり計りようも無し わたくしめいささかこゝろが動き申した 義に厚く知に溢れ己をよく心得 噂
に違わぬ御仁かと わたくしも初めにあのようなお方に出会うておったなら悔いの無い命の持ちどころといたし精進できてたであろう
かと」
「萱亥 蕊に惚れたか」
「はい惚れ申した とはいえ薙代様ほどではござらぬが事と次第によってはいかな薙代様でも背くやも」
「萱亥 世辞も巧くなったが 随分言いたい事もいいよるのう わしより蕊に味方しおるか……まあよい わしも同じようなもの わ
しも初めて蕊に会うた時そう思いそれから数年蕊は変わらずわしに接してくれおる 蕊とはそういう男ぞその蕊を捨て駒と言うた己に
は天罰が下るやものう……だが今は守がこの國の治め わしもまた守の者ぞ いづれ腹を括る日がくるであろうがそれは蕊もよう解っ
ていよう 蕊には蕊のわしにはわしの立場が出来てしまった もはや後戻りも叶わぬ もう戻れぬわ」
「おこゝろ お察しいたしまする」
「明日 お前は蕊のところに出向き その人鬼のところに案内せい その処遇の事は蕊に伝えた」
「お前はいかなる状況にあいなっても手出し無用 事の次第を報告する事だけを考えるがよい」
「はい 仰せの通りにいたしまする では わたくしめはこれにて」
「頼むぞ」 …… ……萱亥が去り 薙代は蕊と歩いて来た長い時間を思い出していた
「(蕊 お前との付き合いも 随分と時が流れたものよ、初めて会うたはまだ二人とも若かったのうあのように共に活きようと思うた
事この先無いであろうのう このまま何事も無く過ぎる事を望むが蕊お前もそのように思うてくれておればよいのだが……それにして
も翁様は何故蕊に仕掛けおったものか?世間知らずという事か……これがどのような大事を引き起こすかまったく察せぬとは思えぬが
困ったものよ この事下総は知っておるのか?もし知っておるとしたら日田母はどうだ まてよ まさかのう いやあり得ない事では
ない 今回の翁様の一件もしや知らぬはわしばかりという事か 蕊を使い居るこのわしだけが蚊帳の外という事か?萱亥は知っておっ
たな それでもしわしが蕊に味方するようなら萱亥自身も守のすべてを敵に廻す事になる それで萱亥は覚悟せねばと言うたのか 萱
亥めこのわしを計ったか 萱亥め蕊の器を見抜きおったわ そのような器が萱亥にもあったという事かわしとしたことが 蕊ではないが些か歳をとったか だが待てよ もし萱亥が翁様とも繋がっておるとしおたら……わしと蕊の見張りか……萱亥が知っておるという
ことはそういうことか……今回の一件わしは萱鯉に乗せられたということか まあよい 蕊のことだ これぐらい読んでるじゃろ
この不信の時代 信じれる者は蕊と……萱亥はどう出る? それが見えぬとはわしも随分濁ったものよ 捨て駒とは言うたが わしのこゝろ萱亥は見透かしおった クックックッ、わしとした事が)」
第五章 四話
八角衆屋敷内 蕊邸宅庭先 少し日が陰った頃 薙代守邸より戻りし蕊はいくばくかの騒ぎを胸に秘めていたのである そこへ
「頭 彡を連れて参りました」
「鶯か 彡 待っておった 入れ」
「彡 昨日の話しを詳しく頭にな……」
「鶯さんはどちらに?」
「わたしか わたくしはこれから所用で出かけて来る 頭 ではこれにて」
「うむ 頼んだぞ 鶯」
「はい じゃあ彡また後でな」
「はい」
「彡 大きくなったのう」
「頭 お久しゅうございます」
「うむ 彡しばらく見ぬうちに逞しくなったものよ 話しは鶯から聞いておる 早 速その者どもの事聞かせてくれぬか」
「はっ……これより西にわれらの足で十日ほどの大天主人様治め地での事でございます その土地の旅籠に留まった折 行商を生業にする者たちの話しを偶然耳にいたしました その者達の申すにはこの人の世に人と同じ形をし 人と変わらぬ言葉を使いて 人に形すまして暮らしおる者どもが存在する由 者どもは普段は人と同じように暮らしおるも定かではありませぬがなんとも不可思議な術を持っておると」
「その者どもとはわれらのような者の事ではないのか」
「わたしも初めはわれらが噂をしておるのかと思うて聞いておりましたが どうやらわれらとは違うたようで」
「その者どもは人に成り済ましておるという事は人では無いという事か」
「はいそのようで 旅籠での話しではその者どもをして人鬼と申しておりました」
「人鬼とな 言い得て妙よのう」
「しかしわたしにはそのような者どもがこの世に居るとは信じがたく果たしてこれを頭の耳に入れてよいものかどうか迷いましたが自分一人の判断では是非が分らずこうして急ぎ戻りました 頭はこの事をどう思われましょうや」
「わしもそのような者どもの事は初めてじゃ だが彡よく急ぎ立ち返り知らせてくれた その者どもの話し他に何ぞ」
「はい なんでもその形すまして暮らす者に出会った者がおるそうで その者の話しとしてその者は人鬼に己の影を踏われた折 金縛りのように動けなくなったっと」
「動けぬとな」
「はい そのように」
「うむ 人に形すまし、その者に影を踏まれては動けぬと申すか……人に非ずや……人に形すましたるは物の怪という事か 人鬼と言うたに相応しい所業よのう」
「頭、どういたしましょうや」
「噂になるという事は、どこかに必ずやその糸口があるという事じゃ まっことそのような者どもがこの世におるというのなら 是非出会うてみたいもの……その者どもが行方 彡もう少し探ってみてはくれぬか だがけして深入りはするでないぞ、まずは 噂の出所を探ってくれぬか」
「はい 必ずや事の次第を突き止めまする では早速出立の準備をいたしまする」
「彡慌てるでない 折角戻ったのだ今日明日はゆるりとせい 火牙蘭にも会うてこい 出立は明後日にせい」
「頭」
「彡 くれぐれも 事を急いてはならぬ どのような者どもか全く解らぬのだ無理はするな もし万が一その人鬼とやらに出くわしたり気づかれたならまずはその場から急ぎ立ち去れ けして争ってはならぬ こ れは命令ぞ
「はい確と肝に命じまする」
「うむ 彡ご苦労であった ゆるりといたせ」
「はっ ありがたきお言葉」
「彡 火牙蘭も待っていようぞ 早く行け」
「はっ」
第五章 五話
八角法師衆屋敷内 蕊邸宅 夜になり鶯が戻って来た
「鶯か 入れ」
「どうでしたか 薙代様がお話は」
「正直驚いたぞ彡が持ち帰った話しと同じであったわい」
「なんと 人鬼の話しでございましたか やはり本当の事で」
「そうじゃ 更にその人鬼の住まいを薙代様が配下萱亥と申す者が突き止め 数ヶ月探りおるらしい」
「それは誠でございまするか」
「我らが他に薙代様には探索方が居ったようじゃ」
「我らが他にですか?」
「まあそれはよい、薙代様の配下の者ということであった、他意はなかろう わしと薙代様が話しの最中 控えておったが 悪しき気の感じはなかった これで少しは薙代様のお御身然安心じゃ」
「そうでしたか それはようございました」
「明日の朝 萱亥と申すその者が案内で薙代様より人鬼捕縛の命を受け出立いたす」
「それは急なお話で で わたくしは何を」
「鶯は留守の間 ここでわしの代わりを務めてくれ それと戻ったばかりの彡は二、三日ゆるりといたすよう話しておいた 彡には人鬼のこと もう少し探ってくれと申しておいたが人鬼と相対した時には 手出し無用と伝えたが 鶯からもくれぐれも深追いせぬよう伝えてくれ 彡はまだ若い 無理は命取りになる
「はい 消して深追いせぬよう そのように強く申し伝えまする」
「頼むぞ 鶯 いままであまりにも犠牲が多すぎた 若い者には少しでも長く生きてほしいと願うばかりぞ」
「はい 肝に命じまする」
第五章 六話
翌日 八角法師衆屋敷内 蕊邸宅では 人鬼捕縛のため出立の準備をしていた
「蕊様 お早いお支度で」
「萱亥か」
「はい ここに控えておりまする」
「随分と気配りの者のようじゃのう」
「ありがたきかな」
「そのような気配り よほど誰ぞ名のあるお方に仕えておったのであろう」
「ご存知かどうか 東の千成様にお仕えいたしておりました 今は薙代様ですが」
「ほう千成様とな それはそれは」
「ご存知で」
「うむ 数年前になろうか 薙代様にお伴した折に一度お見受け申した」
「そうでしたか わが生涯の主と思うておりましたが このご時世なかなか難しゅうございまする」
「千成様には不幸にも病に倒れしと聞き申した なかなかの人格とお見受け申した……そなたも随分と苦労いたしたよし」
「恐れ入りまする」
「その事はまた ゆるりと語ろうぞ これよりわしは萱亥お前の案内でその人鬼なる者を薙代様が命により捕獲に参る その際お前は一切の手出し無用 お前の使命は事の仔細を薙代様に必ずやお伝えする事 わしが死のうがどうなろうが お前の与り知る事に非ず その事捕獲の最中こゝろ迷わぬよう確と肝に命じておけ」
「蕊様を薙代様が信頼申す訳いささか解り申した 確と受け止め事の仔細のご報告に専念いたしまする」
「うむ 頼むぞ……では参ろう 案内を頼む」
「はい」
そこは西に三日更に南に一日半ほどの山間の村落であった……人らしき人の姿も無く
遠くを眺めたるところに猫の額ほどの耕田が望め 田に出ている人の姿がちらほらあった
人鬼
「蕊様 そろそろ人鬼の住まいが見えると思われます」
「そこに暮らし居ると」
「はい」
「しかし 萱亥は どのようにしてその人鬼を探し出したのだ」
「はい偶然でございました 夜にこの辺りを探っていて ちょうど満月の夜にでくわしました」
「そうか 偶然とな」
「はい 彼らは普段は人と同じように寝て起きて仕事をしておる様子 これといって野望もなくただただこの世にて人に形すまして暮らすのみですが満月の夜だけは彼らには特別な念いがある様子 一見月見かと思いましたがいささか違っておりました」
「ほう いったいどのようなことぞ」
「満月の夜 人鬼は我が身を月に照らし そしてどこかに参るよし」
「どこかに参る」
「はい おのが身を空にしその気配を断ちまする」
「萱亥 いったいどういう事じゃ抜け出るという事か」
「お察しの通り我が身から抜け出しどこかに行き夜の明ける前に戻って参りまする」
「その間 抜け殻には近づけません どうやら結界が張られておるようで 近づこうとしたのですが 結界の中に入ろうものなら身体が何かの縛りで一瞬にして動けなくなってしまいます」
「なんとも不思議な事よのう 動けなくなって その後はどうなる」
「はい 動けなくなったまま そのうちに人鬼がどこからともなく戻りわれらが気づいたと知るや そのまま姿を消しまする 人鬼が居なくなれば縛りが解けて元に戻りまするが」
「そうか では人鬼に見つかるも殺されるという事ではないのだな」
「はい過去に二度そのような場面に出くわしましたが一切殺生はなくただ消え去るのみ」
「よほど穏やかな者どもなのであろうか それとも争うという事を知らぬのか?そのような者どもであれば放り置いてもよかろうに?萱亥捕獲の訳 他にあると思うが」
「はい これは薙代様というより翁様から固く申すなと言われておる事ですが」
「ほう 萱亥は薙代様にだけお仕えしておるものと思うたが翁様にも仕えておるのか」
「いえ 薙代様が主ですがこの人鬼の件は偶然と申し上げましたが実は翁様からの情報があっての事でして」
「そうであったか……しかし翁さまは探りの者どもを持っては居られぬと聞いて居ったが」
「はい 確かにそのようで……」
「では何故 翁様がこのような情報を持って居られたのだ」
「はい わたくしにもその事だけは不思議でなりません、どこからどう得た情報なのか……
「なんとまあ それもまた解せぬ話じゃ が……まあよいそれより訳を申せ」
「わたくしは翁様より口止めされておりまする」
「そうか わしには言うなと その訳解らぬことでもない わしに言うなと申す理由は一つ その人鬼にはもっと大きな守をも脅かす程の力があるという事ではないのか?その事薙代様はご存知あるまい どうじゃ」
「蕊様には適いませぬな 何もかもお見通しとは……その通りで 薙代様は存じません 翁様はどこでどう知り得たのか この人鬼の事詳しくご存知でした……わたしが掴んだ情報よりもっと詳しく知って居られました それは人鬼の他にもっと優れた能力を持つ鬼が居るという事でそれを探し出せと」
「なんと 人鬼の他にも別の鬼がおると申すか 人鬼が目的では無かったと……何故 そのような事翁様が知っておったのか」
「わたくしもその事には驚き申した……ですがその先を聞けば薙代様にもご迷惑がかかると思うてその事は聞かずご命令だけを受けて参りました次第で」
「そうか 翁様は人鬼を知っており更に 我らが知らぬ事までも何やらご存知という事か」
「はい 翁様は薙代さまとは対極かと なんとも掴めぬお方恐ろしさを感じました」
「萱亥 何故そのような事 わしに話す」
「はい それは薙代様が信頼を寄せるお方と解りましたのでこの先薙代様に降り掛かる火の粉 わたくしの器では荷が重すぎまする」
「萱亥 わしに薙代様を翁様から護れと申すか もうすでにそのような所まで来て居ると申すか」
「恐れながら 今の守の方々の中で蚊帳の外は薙代様ただお一人かと」
「やはりそうであったか それはわしら八角衆との繋がりがあるからであろう」
「御意」
「萱亥 何故そのような大事を初めて会うたわしに話す」
「どうもわたくしは破滅型の人間のようで」
「長い物には 巻かれぬという事か」
「不器用なだけで」
「薙代様が身辺気にかけようぞ……それはそれとしてまずは人鬼の件それに専念しようぞ」
「薙代様の件お願いいたしまする……で わたくしは何を」
「何もせずともよい 高みの見物とするがよい」
「承知いたしました 蕊様あの家でございまする」
「一人か」
「いや 親子3人で」
「なんと子も居るというのか」
「はい そのようで」
「まっこと人鬼か 人違いという事ではあるまいのう 見間違いはただでは済まぬぞ」
「はい もとより承知 数ヶ月前より見張って居りまする 間違いないものと」
「暮らしはどうじゃ 人との付き合いもあろう」
「はい 村の者は知りません 普通に付き合うておりまする」
「そうか 明日の夜は満月 様子を見るとしよう」
「はい しかし満月の夜は結界が張られまする、中に入るは難しいかと それに万が一中に入ったとして 気づかれたら 彼らは消え去るかと」
「解った 明日は様子を見るだけに留め置く 捕獲はその後ぞ」
「承知」
満月の夜 人鬼の住居
「そろそろです」
「うむ 萱亥やはり人鬼のようじゃのう」
「……なぜそのように」
「うむ すでに家の周りに結界が張られて居る」
「蕊様には結界がお見えになると」
「見える だがこの結界 不思議な事にまるで活きておるかのようじゃ……なんとも不思議なものよ このような結界ははじめてじゃ」
「なんと 活きておると」
「うむ さっき村人が通り過ぎて行ったがその時すでに結界は張られておった にも拘らず 人鬼は気に留める様子もなし という事は結界自らが危険ではないと判断したのであろう 結界とは 張る者と一心同体に繋がっておる 少しでも変化があれば察知される それがどうだ 村人が通りし折に奴らに変化はない」
「では村人は結界を素通りするというので」
「というよりは 邪心が無い者を素通りさせると思うが正しかろう」
「なんと そのような」
「これを可能にしておるという事はただの結界に非ず人のこゝろを察しておるという事じゃ 穏やかな者たちだからこそ このような結界を張るのじゃろう わしらの張る結界は人を選ばぬ じゃが奴らの張る結界は自分たちに構うなというもの 構い無ければ何事も起きぬ実に穏やかな結界じゃ 不思議なものよのう
「やはり 蕊様もただ者ではござらぬ 一瞬にしてこのように人鬼どもが所業を見抜かれるとは」
「素性は解らぬ 何故この世にあのような者どもが暮らし居るのか?どこからやってきたものなのか?解っておる事は奴らは実に穏やかな者達だという事だ さてそのような者ども捕獲して得るものがあるのだろうか」
「まさか蕊様はあの者どもにお味方するおつもりで」
「そうではない 捕獲せずとも近づく手だてはないものかと思うたまで咎人でもなし」
「蕊様は非常なお方と思うていましたが 随分とお優しい方で」
「無益な殺生は好まぬがおかしいか」
「いえ薙代さまが後押しなさる訳解り申した争いを避ける事を第一にお考えのようで」
「守が薙代様お一人なら良かったがのう そう思うておる」
「困りましたなあ」
「何がじゃ」
「そのようなお話しをなされてはわたくしもあなた様に命を預けとうなり申す」
「萱亥 お前はよく滔々と裏の無い事を平気で言いよる そのような振る舞いでよく今まで生きて来れたものよのう」
「蕊様 わたくしは鏡でございまする」
「鏡とな」
「はい 目の前のお方に裏あらばそのように、また腹づもりが無ければそのように」
「そうか ではわしも萱亥を見ておれば わしがどういう人物か客観視できると申すか」
「わたくしにそこまでの器はございませぬが少なくとも敵ではないと」
「薙代さまにお前のような配下が居ったとは知らなんだ 少しは安心いたした」
「蕊様 そろそろかと」
「ほう 確かに出て行きおった」
「蕊様には お見えになるので」
「うむ 普通の者では見えぬが、はてどうしたものか」
「村人が素通りできるという事はわたしではどうでしょう」
「そうじゃのう」
「わたくしに邪気がなければよいというのであればそれはそうかと」
「うむ では家の前を素通りしてみるか それで大丈夫なら中に入れるであろう」
「では素通りしてまいります」
「待て 動くでない」
「どうかなされましたか」
「誰か居る」
「どこにでございまするか?居るのはわたしの配下の者でございますまいか」
「違う 邪気は見えぬが この気は相当大きい……人とは思えぬ、これが翁様の言う鬼というものか……」
「なんと」
「萱亥お前の配下にけっしてその場を動くなと今すぐ伝えい よいか 何事かが起きようとけっして動くでないと 動けばそれが命取りになるやもしれぬ」
「わかり申した しかしそのような気配 わたしにはまったく」
「やはり人に非ずこれが翁様のいう鬼か」
「どこにいるのでございましょう」
「見えた、あの屋根の上じゃ なんと? 奴は結界の中に居る……まさかこのような事が……奴は結界のその中で更に己の結界を張っておる これは何とした事か このような事ができようとは いったい何者ぞ」
「わたしには木々がぼんやりとしか?蕊様にはお見えになられるので」
「うむ 結界で守っておる故お前には確かな形は解らぬのであろうが間違いなく あの屋根の上に居るそれも大きなものよ」
「どういたしましょう」
「はてどうしたものか しばらく様子をみようぞ」
「はい……」
「動かぬのう はて 何が目的だ」
「蕊様 あれは?」
「……やれやれ今度は人か それにしても奇妙な出で立ち白装束とはのう……、お前の知った者どもか」
萱亥「いえ はじめてでございます」
蕊 「どうやらこの地にはわしらの他に鬼と奇妙な者どもらが居るようじゃのう……我らと同じ目的か?役者が揃ったという事か しかしあの者どもわしらも鬼も居ると知ってのあのような振る舞い?守の者とも思えぬ……初めてじゃあのような者どもに出会うたのは なんとも今日は初めてづくしじゃわい」
「われらが他に鬼の存在を知ってる者が居ったと」
「それも随分となめられたものぞ我らに初めから気づいておるというにあのように平然と出てくるとはよほど腕に自信があるのかいづれにしてもちと厄介になってきおったかのう」
第五章 七話
白形衆見参
「くっくっくっ 土納陀よ よくもまあこれほど三文役者が揃ったものよのう 守の手汚しの者どもか……少しは出来るようだが所詮我らの敵ではないわ」
「芙蓉よ 偶然にしては少々出来過ぎではないのか 芝居でもこうは揃うまいて くっくっくっ」
「土納陀よ これで守の手汚しのあやつらにも我らが存在知れてしもうたのう」
「何を今更 芙蓉よ お前が出ていかなければ奴らにも気づかれずに済んだものを 何を思うたものか わざと出ていきおった癖に」
「そういうな 土納陀よ 隠れてばかりでは面白くもなかろうに 守の手汚し者どもにも挨拶ぐらいせねばの 礼儀というものじゃわい 少し遊んでやらねばあやつらも面白くもなかろうて それでこうして出てきてやったのだ まあそれはさておき この場はどうする土納陀よ ああ」
「お前が巻いた種じゃろう そこまで考えての振る舞いではなかったとは呆れてものも言えんわ 相変わらずよのう まずあの屋根の上に居る鬼を捕まえてはどうだ」
「鬼か あの鬼は我らが探し居る鬼とは違う あやつは伽の護鬼『嘛』ぞ 捕まえるというが容易な事ではないわ 我らでは無理じゃ無理じゃ 決して捕まらぬわ」
「そうじゃのう しかし 数年ぶりに会うたが変わらぬものよのう?鬼どもはやはり不死という事か 何故ここに現れたのじゃ 伽の護りから離れたという事かそれとも伽が近くにいると?」
「そうではなかろう おおよそ伽の気取りの力じゃろう それで危険を察した伽があれら人鬼を護れという事であろう」
「しかし 解らぬ伽はどこに居るというのだ ほんとにこの世で生きておるものか」
「居る 必ず生きておる そうでなければ あの護鬼の嘛が居るはずがない」
「という事はやはりあの護鬼を捕まえなくては始まらぬという事になるのう」
「そういう事じゃ 今回の目的とは違うたがここで会うたも何かの縁 無駄でも捕るとするか」
「それしか手だては無いようじゃのう まあ逃げられるじゃろうがやるだけやるとするか 芙蓉 援護せい」
「ぬかるなよ 土納陀」
「いくぞ 芙蓉」
その様子を蕊と萱亥が見ていた
「なんとやつらあの屋根に居る鬼と戦うというのか」
「われらに構い無しと」
「奴らが何者かは解らぬが わしらを追っているのではない事は確か 目的は鬼か」
「われらはどういたしましょう」
「しばらく様子を見るしかあるまい それで少しはあの者どもと鬼の事解るやもしれぬ」
鬼が動いた
「このおれを捕まえるだと 血迷うたか?しかしなんとま 揃いも揃って懲りないやつらじゃのう」
「伽の護鬼 嘛よ 久しぶりじゃのう 伽はどこじゃ」
「土納陀か 久しいのう 芙蓉もいっしょとは随分手回しのよい事よのう 芙蓉 隠れても無駄じゃ」
「やれやれ 相変わらず鋭いのう しばらくぶりで会うたのじゃ どうじゃここは気持ちよく伽の居場所を教えてくれぬか 二対一じゃ この前と違うて我らは少々手強いぞ」
「芙蓉 お主は相変わらず口の減らぬ奴よのう 我に勝てると思いおると本気で思うてか」
「ふ その自信が命取りになることもよく有る話しじゃて」
「なぜ そのように血眼になって伽様を追うておる」
「わしらは追っているのではない のう芙蓉よ 好からぬ者どもから伽を守る為に探しておるのじゃ」
「そうじゃ それがお主ほどの知恵者が解らぬとは 情けない」
「ほう伽様を守るためと ならこのまま捨ておくがいい さすればその方が貴様らの思いに十分叶うものと思うが どうせ他に狙いがあるのであろうが」
「そうじゃ 我ら伽の大いなる力を望んでおるというたらどうじゃ」
「どうせ そのような事だろうと思うたわ お前ら人間ごときに扱えるような力のものではないわ」
「どうじゃ 我らと取引せぬか 伽の身の安全は保証しよう それと人鬼と鬼どもの身の安全もだ これでどうじゃ ほれ見てみい あのように守の者どもも伽を狙っておるぞ 護りきれるか……われらが力頼りになるぞ」
「ほう 頼れと申すか」
「伽と貴様ら鬼と人鬼 われらなら護れる だからこうしてわざわざ あやつら守の手汚し共から護る為に来たのではないか」
「くっくっくっ それは真か?本気で言っておるのか? 土納陀よ 芙蓉よ 笑いが止まらぬぞ」
「それもそうよのう そのようなことを真に受けるはずはないのう のう芙蓉 それはわしでも解るぞ」
「わしも 言うたには言うたが さすがに心苦しいわ ああ嘘じゃ 嘘じゃ」
「相変わらず 短絡的で堪えの無い正直者よのう 芙蓉」
「お前に褒められても うれしくもないわい まあよい で 返事を聞こう」
「そのあとはどうなる?」
「われら領内なら守の手汚し者どもも手が出せぬ一番安全というわけだ そこで永劫静かに暮らすがよい」
「土納陀よ もっともな話しだが断る 伽様は人の長けで穏やかな一生を終えられるのだ 事を荒立てねば何も起こらぬ 伽様には一切関わらぬが身の為ぞ 関わればたとえ白形衆といえどただでは済まぬ しかし……表向きには世間の政には一切の関わりを持たぬのではなかったのか?影からこの國を動かして来たお前ら白形衆が何故今動いておるのだ どこぞの誰かと手を組んだということか?それでよく白形衆を名乗っておれるのう
もはや白形衆に國治めの清さは無しか……伽様を手中になんぞ企みおるのであろうが」
「どうしてもだめか」
「くどいのう」
「では力づくという事になるが」
「やれやれ わしのこの結界そうそうは破れぬぞ」
「それはどうかな 伽が護鬼 嘛よ 参る」
「ほう少しは腕を上げたようじゃのう 土納陀よ」
「ぬかせ これでどうじゃ」
「ほう土納陀よ お前も土界を使うか 四方陣で逃げ道を塞ぐというのか これは知らなんだ 覚えておこうぞ」
「これで終いじゃ 覚悟せい」
「かかったな 土納陀に気を取られ過ぎじゃ わが芙蓉根逃れられぬぞ」
「おしいのう四方陣と芙蓉根組み合わせは良かったのう もう少しじゃったが残念じゃったの まだまだ甘いのう また会おうぞ」
「逃したか……やはりの 奴はほんに強いのう 芙蓉よ」
「わしの芙蓉の術をしても やはり捕まえるは難しいのう あれはまっこと鬼じゃ それも大鬼じゃ」
「あやつが大鬼なら 鬼凰はいったいどうなるのだ? 芙蓉よ」
「そうよのう 大特の鬼じゃろうか くっくっくっ のう土納陀よ」
「くっくっくっ そうじゃの くっくっくっ」
「そのうちまた現れるであろうこれではっきりした 人鬼に危険が迫れば伽は護鬼を送り込むという事だ 人鬼を追えば奴には出会える 伽にもの そうなればいつか活路はある焦る事はない」
「で あやつらはどうするのじゃ 護鬼の嘛が消えてしまっては これ以上ここに留まるは理由も無かろう」
「そうよのう それに守の手汚しのあやつらをどうこうしてものう ここは退くとしようぞ」
「それがよかろう わしはもう少し この辺りを探索してから戻る」
「では先に戻っておる くれぐれも無益な争いは避けろ 土納陀よ」
「わかった わかった 芙蓉じゃあるまいし」
「それは 土納陀 お主の方であろうが」
蕊と萱亥を無視しつづけ 鬼が消え つづいてあの白装束の土納陀と芙蓉も消えた
「消えた 鬼もあの者どもも消えた」
「まったく我ら眼中に無しという事でしょうや」
「どうやらそのようじゃのう それにあの者どもはあの鬼と顔見知りの様子 以前にも会うておるようじゃ知らぬ仲ではない か」
「しかし あの白装束の者どもはいったい」
「解らぬ 解らぬがかなり手練の者 あの術 四方陣に芙蓉根と申しておったが あのような術初めて見たが はて……」
「我らはどういたしましょうや」
「萱亥 ここにはもう人鬼も戻るまい お前は この事を薙代様にご報告いたせ とんだ邪魔が入ったと……わしはもう少しこの辺を探ってみよう あの者どもの事も気になる」
「はい 承知いたしました ではこれにてごめん」
「萱亥 気をつけていけ」
「はい 蕊様も……」
萱亥の姿がみるみる小さくなって行った
「…… 葦よ 居るか」
「はい ここに控えておりまする」
「今の鬼とあの白装束二人 確と見届けたか」
「はい 確と」
「人鬼はもう戻らぬとは思うが念のためここを少し見張れ わしはこの辺一帯を少し探ってみる わしが戻ったら一緒に戻ろうぞ」
「はい もし人鬼かあの者どもか それともあの鬼が戻りましたらどういたしましょうや」
「その時はわしに知らせ けして一人では動くでないぞ 争ってはならぬ 今のわしらでは勝てぬ」
「はい 確と肝に銘じまする」
「では気を抜くでないぞ もしあの大鬼が戻ってきたらかなり厄介だからのう あれはほんに強い あの二人の術を簡単に躱しておる けして深追いするでない 命取りになる」
「はい」
「(しかしあの大鬼 気になるのう 何の為にこの人鬼のところに居たのか わしらの事も気づいておったはず なのに 解せぬの
う……それにあの者ども あの白装束の二人もただ者ではない 我らに気づいておりながらあの振る舞い まったく動ぜずいったい
……あの者たちは? まだまだこの國は広いという事か 知らぬことだらけという事か それにしても我らが知らぬ事がまだほかにあ
るとは……われらにあの者どもが力を擁する事が叶うなら 万に一つ我らがこの國の治め叶うやもしれぬのう 果たして 敵か味方か
見極めねばなるまいがあの大鬼 敵とは思えぬが まして人鬼は……さればあの白装束の者どもが敵という事になるであろうかのう鬼
と一戦交えたという事からするは何故 それに翁様とはいったい何者ぞ守の者というだけではない何かがあるようじゃ そうでなけれ
ば人鬼以外のこれら鬼の存在……何故知っておったものか?どうやら翁様にはなんぞ我らの誰もが知らぬ計れぬ何か大きな秘密がある
ようじゃのう それとなく探りを入れねばなるまいが やはり翁様も敵となるのであろうか 嫌な予感がしてならぬ 当らぬとよいの
だが……)」
第五章 八話
薙代邸宅に蕊と人鬼捕縛のために案内役として同行した萱亥が蕊より一足先に戻っていた
「薙代様 ただいま戻りました」
「萱亥か 案外早かったの 首尾はどうであった」
「はい 先日の満月の日に 暮れるのを待ち人鬼が結界を張り抜け出る様子を蕊様と確認いたしました そして人鬼の結界の中で更なる結界を張り屋根の上に居った大鬼が 蕊様により知れましてございます」
「ほう 蕊が人鬼の他にも鬼を見つけたと申すか」
「はい わたくしめには残念ながら その姿見えませなんだ」
「そうか 萱亥お前ほどの者でも見えなんだか して蕊はなんとした」
「はい 蕊様は わたくしと配下の者達に場を動くなと その大鬼 相当の手練らしく 我らでは敵わぬと申しておりました」
「そうか あれが言うのだ 相当の手練であろう 蕊はそれで何と?」
「はい どうやらその大鬼 人鬼を護りに来たのではないかと蕊様が」
「人鬼を護りにじゃと」
「はい それと」
「まだ他に何かあるのか」
「はい それに見た事の無い全身白い装束の者達が2名やって参りました」
「それは人か……」
「はい 明らかに人と見受けられましたが」
「そうか」
「薙代様はそれらをご存知でしょうや」
「いや 知らぬ 蕊はどうじゃ 知って居ったか」
「いや 蕊様もご存知無きご様子なれど どうやらその者どもは鬼を追っているようで我らの存在に気づきながらもまったく無視いたしておりました」
「ほう それでどうした」
「その者どもは 我らに構う事なく 鬼の捕獲を試みるも鬼は簡単に彼らの術を躱し消え失せました 蕊様にはどうやらその者どもと大鬼は少なくとも以前にも出会うておるとそのように」
「鬼とその者どもが顔見知りじゃというたのか してその者どもはどうした」
「鬼が消えたのち その者ども二人もどこかに消え失せました」
「うむ そのような大鬼がこの國に居ったという事信じられぬ またその白装束が者どもいったい……」
「恐れながら 薙代様」
「おう 栂じいか 達者でおったか?」
「はい お訪ねいたしましたら こちらにお出でなさるという事で勝手に参りましたが お邪魔でしたか」
「いやいや 気遣うことではない 栂じい 久しいのう 元気でなにより」
「はい お陰をもちまして それより今のお話し我にこゝろ当たりがござりまする」
「なんと 白装束の者どもの事か」
「はい 萱亥とやらその者どもが装束 全身白で覆っておったそうな それに頭に白い千手札と申す無数の札のようなものを下げた杖のようなものも持ってはおらなんだか?」
「はい 確かにそのようなもののようであったかと……」
「やはりの」
「栂じい 知っておるのか、その者どもが素性」
「はい それは白形衆という者どもでございまする」
「なんと 白形衆とな わしも噂には聞いた事がある なんでもその昔國の乱れがあまりに長きに渡り続いた折民百姓も限りが見え出したときにその者どもはどこからともなく現れ三日にして世を平定したそうな」
「そのような者どもがこの國に……」
「その者どもが出るとき 決まって世の鎮めが成されると」
「うむ その者ども鬼に挑むとは、いったいどのような」
「はい あの大天主人様とて拘らぬ者達 この國においてあの者どもに逆らうは災いを成す 来る守の時代よりずっと以前から表立った動きはありませなんだが ここに来てまたどうしたものか」
「今は 守の時代戦乱の時代は終わりを迎えておる 何故今ぞ」
「白形衆は國の政には一切関わらずというが そこは政の闇組織 表に出ての政はせずという彼ら 何故 この度姿を現したのか? この時期密かに白形衆が蠢いておるという事それが解ったということは大きいかと」
「そう思うが是か だが気になる者どもよのう この事はしばらくここだけに留めおく 一切の他言無用 蕊が戻ったら ゆるりと奴の見解を聞こう」
「はい」
「まだまだ このじいもお役に立てましょうや」
「うむ 栂じい隠居にはまだちと早そうじゃの」
「はい そのようで」
「萱亥よ 人鬼は逃したが それ以上の大きな収穫であったの」
「御意」
第五章 九話
薙代屋敷内 案内役の萱亥が戻ったその翌翌日 蕊もまた戻っていた
「薙代様 ただいま戻り申した」
「蕊 戻ったか」
「はい 昼前に 戻りました」
「ご苦労であった 早速ですまぬが 先に萱亥より聞いておるその人鬼と大鬼それと白装束が素性どうであった」
「はい 人鬼に関しては萱亥の探索した通り人ではなくやはり人鬼かとそのように判断いたしまする
してもう一つ大鬼に関しましては人鬼と違うてなにやら大きな使命を持っておる様子 それが何なのかは不明なれど 大鬼はかなりの闘技を身につけ居るもので 今の我ら束になっても到底敵わぬかと」
「そうか 蕊の力を持ってしても敵わぬとな」
「はい 萱亥から聞き及んでおりますれば あの時の白装束の二人と大鬼との対決 あの白装束の二人も相当手練の者と思われまするが その二人を相手に いとも簡単に彼らの術をすり抜け瞬時に躱すあの術……相当に手強いと思うとりまする」
「そうか それで大鬼のなにやら大きな使命とは目的とは 蕊ならなんと慮ろうぞ?」
「はい あの大鬼は人鬼を見護るように人鬼の創る結界の中に居りました とすればやはり人鬼を護る為に現れたかと……してそれが大鬼本人の意思なのか?はたまた他に大鬼に命じた者が居るのか」
「ほう して蕊よ 貴様はどちらであると思うのじゃ」
「はい 思うに あの大鬼は誰かの命により現れたものかと……」
「なぜそう思うた」
「はい 大鬼と白装束のあの二人の会話を断片ながら聞き申した」
「なんと? それはでかしたぞ蕊 おおきな手がかりになろう してその話の内容とは」
「はい 白装束の二人の会話の中に あれは護鬼で名を嘛と申しておりました」
「ごきとは?」
「おそらくはごは護る きは鬼と思われまする」
「護る鬼……護鬼か」
「はい そのように思われまする それが確かであれば あの大鬼には人鬼を護る使命を持っていたと思われまする」
「そうか あい解った それともう一つ鬼と争うた白装束の者どもの事だが」
「素性が知れましたか」
「うむ どうやら白形衆という者どもであろうと判明いたした」
「白形衆と 噂では耳にいたしまするが それがあの者どもでありましたか 初めて見申す」
「白形衆は表の政には一切関わらずじゃが何故この時代に蠢いておるものかそれが気にかかるという事らしい」
「らしいとは?どなたの見解で」
「相変わらず 鋭いのう お前も存じておろう栂じいじゃ 萱亥からの報告を受けておったれば栂じいが丁度訪ねて来てのそれで素性が知れた」
「そうでしたか 栂じい様がお出ででしたか だいぶ会うてはおりませぬがお元気で?」
「おう 元気じゃったわい しばらくはこっちに居るようじゃからそのうち会えるであろう……それより白形衆だが」
「鬼を捕らえようとしておりました 更にその鬼とは以前より顔見知りの様子 何やら話しをしておりましたが」
「白形衆は鬼の存在知っておったというのか 何故現れた?解せぬのう」
「はい なんとも奇妙な事かと……」
「萱亥に命じておる事がある この事はしばらく伏せておれ 勝手に動くでないぞ 白形衆では相手が悪いあやつらは過去に三日にして戦乱の世を平定したそうな 真は知らぬが栂じいが言うておった 間違いなかろう ならば手強いぞ 命取りになるやも知れぬ くれぐれも行動は慎むがよい」
「はい 確と承知いたしました それに調べようにもあの者ども一向に素性が知れぬかと」
「それもそうじゃの」
蕊はこの時人鬼や大鬼の奇怪な術を目の当たりにし しだいにその稀な力に魅了されていく己を感じていた そして蕊は伽という人物が何者かは解らぬがあの白形衆が追っているとなれば大きな力を持ち得る事は確かではないのか あの大鬼より強大な力とはいったいなんであろうか?薙代守の報告には大鬼が護りおるは人鬼と言うたが伽という大きな何者かの存在は敢えて伏せたのである 翁守の画策する八角法師衆の切り崩しを発端として蕊は人鬼の捕獲という薙代守からの命に表向きは従いつつも胸の内に翁様への不信から薙代守の意向とは違えた野望を育んでいくのである
そして蕊率いる八角衆の目論みも時を同じくして動き出していくのである
その蕊が人鬼を追い続けて人鬼捕獲の一件から二年が過ぎていた
あれ以来白形衆の足取りは消えたまま そのような折この地界には人鬼とあの日見た大鬼だけに非ず……更なる驚愕の事実が蕊の下に飛び込んできたのである それは各地に散らばる人鬼どもの探索方によるたまものであった ついに辿り着いたのである 民の者どもが挙って口にしていた存在それはあの大鬼の他にも異種の鬼どもが東の國で確認されていた それらは様々な術を持つ者達であること……
そして更なる情報がもたらされた それは人鬼の一件の際 断片的に聞き及んだ伽なる何者かの存在を蕊は薙代守や守総代祖には秘密裏にずっと追いつづけていたもので やっとその正体に辿り着いたのである
蕊の追っていた伽とはすべての鬼どもが世界の頂に座するという為体の知れない何者かであり鬼どもには鬼妃の存在として君臨していると……その様相が明らかになった
伽とはそういう存在であった だがその行方もその力の類いも杳として知れず更にこの地に暮らす人鬼とは異なる喜界と呼ばれし時空の世界に棲み この地とその喜界とを自在に行き来するという妖しき鬼の存在や それと暮らす人間の存在をも知る事となるのであった……
まだ確たる証拠も掴んではおらぬが伽と呼ばれし鬼妃の不可思議な生き方に蕊は興味を抱いていた この地界に居るものかすらもわからぬものであったが伽には計り知れない力が込められているとあの日確信していた
そこで蕊は伽を人鬼を 更には人鬼の一件で出会うた護鬼の嘛と呼ばれし大鬼 更には喜界の鬼すべての力を手に入れるべく動き出していた
してこの國の治めの頂に座するは 守 総代祖か闇守と恐れられた蕊率いる八角法師衆か はたまた白形衆か それとも伽を頂きとする喜界の鬼どもなのか……
第六章 澱みの地
長和三年
てでえぽっぽ てえでえぽっぽ……目覚めか誘うておるのかそれとも辺りの様子を伺っておるのか山鳩の野太く低い朝鳴きが木々の皮はだや静寂の中に染み入るように解け込んでいる
山深いこの地に足を踏み入れたれば遠く眺めたる眼下には集落が点在し そこから望む山の麓にはなだらかだが 大小さまざまに姿形の違う段々の畑がこの集落に向かい扇状に広がり里の者達によって作られたであろう堰からの引き水による楚々とした山水の細長い流れそこからは比べにならぬほどの見事なまでの実り豊かな耕作地が山裾を覆っていた
その広大な田畑から額に汗し頑にこの地と向き合う村人達の素朴で知恵のある暮らしぶりを容易に伺い知る事ができる
その集落から山裾の上そのまたはるか上を見上げると千畳程の岩が広がり里の者か誰ぞが名付けたのか「鬼の腰掛け」と……
そこは木一本草一つ無い平らな岩肌で覆われ広大な自然の営みの不思議を垣間見るそのような場所であり どうやらここまでが里の者でも足を運びたるところの限界地となっているようである
その千畳敷に立ち更に程よく見上げるとそこは山里の隣接した麓の山とは景色が一変し木々と呼ぶには随分と乱暴に絡み合うた蔦やどれほどの年月を超えて来たものか根元からはびっしりと緑色の苔が纏わり付いた巨木がここかしこに競うように並び立ち黒緑色した深い森が幾重に重なり合い連なっている
村人達がこの地の先に足を踏み入れる事はなく里の者達は入らずの森として敬われ誰からとなく鬼神の森或は澱みの地とそう伝えられて来たところである……
その入り口と思われるところには誰がどのように運び置いたものであろうか人二人の長けほどもあろうか やや見上げる程の高さとおよそ十人が両の腕を広げ手を繋いでもやっとこさ届くであろう見事な巾の大石がどっかと据えてあるのだがはて?
その大石には誰がどれほどの刻をかけどれだけの山蔓を集め束ね寄ったものなのかしめ縄ならぬ太い締め蔓がゆったりたっぷりと二周りほどかけられており更に里の方を正面とするその締め蔓には一尺ほど
これもまた誰の手で織られたものかやや膨らみをもった赤い布がちょうど子供一人座れる小さな座布団ほどの大きさでそれを紙垂がわりの雷の様に垂らしてある
ところどころ解れや破れのあるその赤布の有り様は一種異様さを漂わせ それは何人をも足を踏み入れる事叶わずと無言のうちに諭しおるようでよほど豪気でなければ気が殺がれ自ずとたじろいでしまうそれほどの存在を漂わせていた
その赤布の紙垂を正面とする足もとには二尺三寸ほどの厚みと二抱えに余るほどの形で表面は平らだがいくらか人の手の入った粗く乱雑だが力のこもった叩き削り痕のある供物を置く為の黒にやや青みがかった石が置いてあり そこに里の者が置いていったのであろうか 大根や芋や粗つきされた玄米の素餅と濁酒でも入っているのであろうか黄白濁色のところどころ欠けひび割れた酒器などが供えてある……
物をしてこゝろの秤とは不思議なもので人並外れた大きさなればそこになにがしかが宿り人は恐れと敬いを持つそういうものであろうか……
その締め蔓の大石の後ろ側に廻りたれば 大人六人ほどは並び歩けるであろう苔で湿った厚みのある石段の緩い坂が続き その石段を挟み込むように大きな杉や雑木の木立が混在しすべてを見下すかのように奥へ奥へと競うように並び立っている
透かすようにその先の様子をうかがうも鬱蒼と茂る木々のせいで陽の光が届かぬのであろう昼でも薄暗いこの木立の緩い坂の湿った石段がどれほど続くものなのか 目を凝らして見ようにもそうそうその長さを計り知る事は難しい
そしてこの地が時を超えて何人も立ち入りを拒んで来た由縁 こここそが澱みの地でありこの世の災禍のすべてを引き受けたる霊力に長けた者どもが禁足の森であり入り口のあの異様な荒々しさもそのためである
空は青く晴渡り一塊の白い雲が漂うたる中眼下の集落からであろう時がねが八つほど
まだ陽の高い未の刻を告げる頃この辺りでは見かけぬ数人の者どもがこの大石を目の前に集い何やら話し居る様子……
その様は願をかけるでも無しまして供物を上げる様でもなし……どうやら目的はこの大石の奥にあるらしく皆一様にその先の杉木立の奥に鋭い視線を向けてはしばらく立ち尽くしてそして一息か二息ほどついたその時迷う事なくその者どもらは締め蔦に赤布が紙垂のように垂れ下がる大石の後ろにすばやく廻り込み苔で湿った石段に集うと一斉に杉木立に足を踏み入れ戸惑う事なく更に奥へ奥へと足早に体を進めあっという間にその姿を消し去っていった。
だがその様子じっと目を凝らす者どもが少し離れた木立の上に居……そしてその者どもは付かず離れず囲み込むようにしながら眼下を行く者どもの背を取り静かに後を追った。
「チッ 傀よ 気づかれたようだ……」
「そうらしいな 觜喇よ……」
「わしらに気づくとはなかなかどうしてただ者ではないという事か」
「油断できぬな」
追う者どもはこの地所縁の者ども 傀と觜喇である 一方大石から入った者どもも追って来たこの地所縁の者どもが気づくより少し前
「兜 どうやらつけられておる 早いこの地の者か……いつからだ?あの大石を入った時からか?ここを抜けたら迎え討つ それまで手出し無用……散れ」
「はっ 葦様 二人のようですが」
「そのようじゃの しかしまだ他に居るやもしれぬ 油断するな」
「はっ」
あの大石のある入り口から侵入した者どもは地を駆け木々を渡り一切振り向く事なく更に奥へと進んで行った
すると突然鬱蒼とした木立の景色から一変しそこは柔らかな幼光で覆われ薄淡い緑色した低木の広葉樹が広がり入り口の異様な姿からは想像もつかぬほど穏緑な森が広がっていた……
そして陽は空の斜め上にまだ張り付いていた
「兜 ここで迎え討つ 合図をするまで待て」
追ってきたこの地縁の者どもも木立を抜ける手前で木上に留まり対峙した
「觜喇」
「待ち伏せか……あの木の陰とあの茂みに一人づつ更にその後ろと真ん中が頭か 傀よおれが一気にけりをつける」
「急くな觜喇 ここは様子をみるべきだ」
「けっ傀 またお前の悪い癖が出たか その甘さが命取りになるのだ 若いのう……」
風は向かい風迎え討つには地の利に不利とあの大石のある入り口から侵入した者どもが頭の葦は背後に回り込むよう指示しその間少し時を稼ぐ事にした そして敢えて声をかけた「何者ぞ……」
「なに者ぞ? それはお前らのほうであろうが 馬鹿か」
「觜喇 背後に廻るつもりであろう……時間稼ぎか」
「くっくっ無駄だ もう手は打ってある 傀少し話し相手をしておれ その間に俺がすべて片付ける」 「よせ觜喇 奴らの目的を探るのが先ぞ 急くな 術を解け」
「ケッ何故止める われらがこの地に断りもせず入りしはあやつらの方ぞ」
「できるだけ無駄な争いは避けるべきだ」
「甘いのう傀は」
「先刻より我らを追ってきたは何故か」
「お前らの命」
「ほう命とな 取れるか」
「もうすでに手は打った へたに動かぬほうがよい」
「觜喇 止せ」
「大層な自信よのう」
「自信? 自信に非ず 事実だ」
「ほう 事実とな 面白い そこまで言い切るか ならば尚更手合わせせねばの では参る」
「待て そう死に急ぐこともあるまい 争いは好まぬ あらためて問うが何の目的でこの地に参った 訳を聞こう」
「訳 話しても良いが その前に貴様らは何者ぞ」
「…… ……」
「ん?……どういたした」
「……」
「(傀 何とか言え どうした ああ?)」
「…… ……」
「間に合ったようだな傀 ここはわたしに任せろ」
「兵衛」
「名乗れぬなら話しはこれまで ここから先は力づくで通るといたそう では参る」
「待て待て 随分先を急いでいるようですね」
「ん?新手か?何者ぞ応えてもらおう」
「わたしはこの地を預かりし円枩院玄叡が配下 兵衛」
「(……円枩院やはり……)われは八角法師衆の葦 この國を束ねたる守 総代祖の命によりこの地の探索に参った 守 総代組は大天子様を擁しこの國の束ねを大天主人様より任されし者 よって守 総代祖を敵にまわすはこの國すべてを敵にまわす事となる」
「兵衛いいのか あやつらわしらの土地に勝手に入り込み更に喧嘩を売っとるぞやはりひと思いにここは……」
「待て觜喇 お前では事がややこしくなるだけぞ ここは任せろ ただ事と次第では觜喇お前に任そう」
「いいだろう兵衛 ならば手並み拝見といたそう どれここは高みの見物といこうかのう くっくっくっ」
「ああそうしてくれ 高みの見物でもなんでも大人しくしていてくれる方がありがたい手出しは無用ぞ觜喇」
觜喇「ケッ 跡形も無く始末してしまえば事は簡単というに いいか見てろ」
「觜喇 よせ ここは兵衛に任せろ」
「わかったわかった 好きにしろ」
「觜喇よお前はどうしてこうも気が短いのだ」
「ケッ傀といい兵衛といいどうしてお前らは揃いも揃っていつもそのように気が長いのだ 惚ける歳でもあるまい……まあよい好きにしろ」
「兵衛 任せたぞ」
「ああ 傀 任せろ」
「やはり返事は無しか これで終いという事のようだな」
「そう焦ることもありますまい 陽はまだ沈まぬ では尋ねる何ゆえ守 総代祖がこの地の探索か」
「この地の治めにあたり先見に参った」
「これはこれは遠路はるばるこの辺境の地に……ですがこの地の治めは叶わぬ……この地はわれらが束ね円枩院玄叡がこの地の主である大天主人様より預かりし澱みの地 ゆえに禁足地ぞ立ち入るは永劫叶わぬ 大天子様を擁する守 総代祖の者ならば大天子様が父君大天主人様より預かりしこの澱みの地知らぬでは済まぬ まっこと 守の使いの者か……それともそれと知りつつこの地に踏み込みたるならお覚悟あっての所業と推測いたす こゝろしてご返答なされるがよい」
葦「(やはりそうであったか……ここがあの澱みの地 間違いではなかったがはて鬼と暮らしおるとはやはり誠であろうか 鬼を確認でなかったことが悔やまれる この澱みの地がそうならなんとも厄介なり ならばここは一旦退き策を練るが賢明であろう まずは蕊様にご報告し支持を仰ぐとするか もう少しのところであったが出直すとするか)
しばらく この地が澱みの地とは知らず面倒をかけ申した 我らとて無益な争いは好まぬ ここが入らずの森澱みの地とあらばその存在は承知しておる即刻この地より引き上げ申す」
「あい解り申した それならこちらも争うに及ばず気をつけて戻られよ ただしこの澱みの地よりい出るまで見届け申す」
「承知した 者ども引き上げじゃ」
「はっ」
「出たか もうすでに麓の村に入るところか
さすがに早い
「兵衛行ったか しかし守が何ゆえ今この地の探索か」
「地の治めとぬかしておったが違うな われらを探しに参ったのじゃろう のう傀よ」
「わたしもそう思う」
「兵衛 逆に探ってみるというのはどうじゃ」
「たまにはよい事を言うものよ 觜喇 ではそうするか」
「兵衛わたしが行こう」
「傀よ 言い出したのはわしぞ わしが行く わしに任せろ」
「觜喇は気が短い この任はお前では危うい」
「ケッ 何をぬかす」
「傀 觜喇 お主らはここに居ろ……適任がおる」
「ぐふっぼっぼわぁ おれを呼んだだかぁ」
「なんだ魅葡か」
「なんだとはずいぶんだばぁ 觜喇よ ぐふぉっぶわぁ」
「魅葡 聞いたな」
「ぼっぼわぁ 任せておけ 傀よ」
「魅葡 無理はするな何があっても気取られてはならぬ まして争うてもならぬ拗れるならすぐ引き返せできるか」
「ぐふっぽっ任せておけ兵衛 觜喇とは違う」
「だが油断するな 頼んだぞ」
「魅葡 しくじるなよ」
「お前とは違う 觜喇は大人しく待っておれ」
「ケッ」
締め蔓に赤布の垂れ下がる大石の入り口から侵入した八角衆の葦を頭とする者どもが入らずの森を抜け その眼下の里も後少しで抜けようとして者どもは急いでいた
頭の蕊に一刻も早く事の仔細を報告する為である
葦は背後に気を配り 先ほどの円枩院の者どもがつけて来た時のために掛かり糸を張り巡らしながら先を急ぐのであった
掛かり糸とはそれに触れると一瞬にして糸が纏わりつきそれにより相手の動きを読み取るのである あまりに繊細なもの故 身に絡まれた者が気づく事はよほどの者で無い限り気づけぬ術である
「葦様、やはりあの地が鬼の居るところと」
「そうに違いあるまい 解らぬはずよ構い無しの澱みの地がそうであったとは…… あそこなら誰も手が出せぬ なんとも厄介 われらだけの判断では事が片付かぬ ここはひとまず退き一刻も早く蕊様に報告するとしよう」
「やつら 追ってきましょうや」
「そう思うて掛かり糸は仕掛けたが念のためこれより二手に分かれ我らが地を目指すくれぐれも油断するでないぞ 兜よ 万が一わしの身に何事が起ころうと振り返るでないたとえ一人になろうとも我らが地を目指せ そして必ずや蕊様のお耳に入れねばならぬ確とこゝろせい」
「はっ」
「これより二手に分かれる もし追っ手に気づいても手向かいいたすな ひたすら奴らから逃れる事だけを考えい けして戦ってはならぬ蕊様に知らせるが先ぞ それに事が公になっては厄介 よいな兜 お前達はこのまま行け ずっとつけられたとしても構うな 我らが素性はすでに知れておる そのまま屋敷へ戻れ」
「はっ 葦様は?」
「わしはこの先を右に行き山側を抜ける 蚕 音 泡 お前達は兜と一緒に行け 螺はわしについて来い 兜よ 頼んだぞ 必ず戻れよ よいな」
「はっ確と」
「では 我らが屋敷で合おうぞ」
「はっ」
「ぼっぼわぁら 危ない危ない こりゃずいぶんと細い糸だなあ ぼっぼわぁ 奴ら 二手に分かれたかあ
なら わしの得意技 出すだぼっぼわぁ 分け身だっぶわっはぁ 兵衛には敵わないぼう わしの分け身の術を読んでたなあ このためだったばかあ わしを使ったのは さすがだぼっぼわぁはぁ 走れ 走れ
もっと真剣に走れだぼ そのような早さでは追い抜いてしまうだぼっぼわっはぁ」
千年彷徨