10万人のユタカコール 第80回ダービーの絆

10万人のユタカコール 第80回ダービーの絆

自分が実際に観戦した第80回ダービーの話です。

かつて天才と呼ばれた男が第80回ダービーで一番人気に押された。10万人を超える観客が見た物とは。

10万人のユタカコール 第80回ダービーの絆

私はテレビ画面に映る81回日本ダービー(東京優駿)を眺めていた。
本来なら東京競馬場に足を運び生で観戦する所だったが、
先月に会社が倒産し給料も未払いだったため落ち込み家に閉じこもっていた。
毎年恒例の競馬好きの上司達からの連絡も無かった。
皆、それ何処ろでは無いのだろう。
レースはスタートから先行した馬がそのまま押しきりゴール盤を駆け抜けて行った。
乗っていた騎手は白帽子に水色に赤十字の勝負服を着ていた。
そこでふと去年のダービーを思い出し財布を開いた。
去年の年5月26日
その日は雲も疎らで青空が広がる晴天だった。
庭に植えた胡瓜や茄子は蔓を伸ばし、葉は陽の光を吸収し鮮やかな緑に輝いている。
「今日は良馬場だな」
私は服を着替え家を出る支度を急いでいたがそこへ電話が鳴った。
先に場所取りに行っている上司からかも知れない。
慌てて電話を取ると相手は幼少時からの付き合いのOからだった。
「久々、今日府中行く?」
「勿論、後ほど」
何年振りか友人の電話も無愛想に切った。
今日は府中競馬場で第80回日本ダービーがある。
競馬の重賞にはグレードが下からG3、G2、G1とあって。ダービーは最高峰のグレードワンにあたり
競争馬が三歳時のみ出走出来る一生に一度の晴れ舞台だ。
毎年7千頭を超す競争馬がデビューをする中でダービー馬の称号が与えられるのは一頭のみとなる。
競争馬は2歳から新馬戦でデビューして、500万、オープンと賞金を稼ぎダービーに出走出来る
18頭の枠を目指す。
競争馬に跨がる騎手(ジョッキー)もダービーまでにお手馬も探しておかなければならない。
騎手にとっても在籍する百人余りの中から年に一度のダービージョッキーになれる特別なレースでもあり、
殆どの騎手がダービーを勝てずに引退して行くと言っても過言ではない。
競争馬のオーナー、育成する調教師も皆それぞれに名前の前にダービーと言う冠がつく事に全勢力を使う。
競馬関係者にとってダービーはまさに夢の舞台だ。
競馬ファンも新馬戦から応援して来た馬がダービー馬になるのを願う。
甲子園で目をつけた選手がプロで活躍する様になるまで見届けるのと一緒の様な感覚かもしれない。
さらに今年のダービーは80回目、舞台の東京競馬場も同じく開設80周年とあり主催のJRAも節目の年。
宣伝もいつもより力を入れているせいか異様な盛り上がりを見せていた。
私の勤める会社の上司達はおまけにPOG(ペーパーオーナーゲーム)
と言う毎年、馬主気分でデビュー前の馬を数頭選び翌年のダービー馬を予想するなどの遊びをしていて
余計に熱くなっていた。
私は自転車をこいで自宅からの最寄りの武蔵境駅まで飛ばす。
便利な事に府中競馬場近くまで行く是政線があって終点の是政駅から府中競馬場は歩いて10分程だ。
是政線には競艇場前と言う駅もあり土日は競馬や競艇に向かう乗客が多くなるので通称ギャンブル列車
とも呼ばれていた。
電車は武蔵境を出ると高架化された線路からだんだんと下だり車窓からの風景は見下ろしていた町並が
見上げる形となる。駅の周辺を歩く人々に一軒家の干しっぱなしの洗濯物。
こんなのは中央線ではあまり見られなくなっていた。
電車に揺られている間に新聞を広げ今日のダービーの予想を見直す。
競馬の予想は日曜日から始まる。
その日のレースが終わると翌週の出走予定馬が発表される。
月曜日に会社に出勤すると、皆で競争成績などで大まかな力関係で予想を始める。
水、木の早朝に競走馬の最終の調教が行われそのタイムを参考に馬の仕上げを確認する。
ダービーなど大きなレースの場合、木曜日の夕方に枠順の抽選の結果が発表される。
皆、自分のダービー馬候補が有利な内枠を引くのを祈る様に新聞を広げる。
そして当日は天気と共に馬場の状態を見る。
レース前には馬体重が発表されパドックと言って観客の前で出走前の馬が周回する。
これら全てを見て最終決断を下す。血統や調教を重視する人も居ればパドックだけで予想する
人も居て皆、独自の考えで予想するのも楽しみの一つになっている。
12時半頃に是政駅についた、電車のドアが空くと乗客は競う様に早足で抜けだす。
その殆どが競馬場に向かう。
今から競馬で勝負する身としてはやはり、後ろから抜かれるのは縁起が悪い様でレースは既に始まってる。
私も歩くのが早くなる。
勝負を控えた無言で突き進む人達の後ろ姿。この雰囲気が好きだ。
細い路地を二、三本進むと間もなく府中競馬場の南門だ。
途中で駐車場を通り過ぎる、ベンツにレクサスからカローラにフィットと高級車から庶民的な車まで様々な
県のナンバーで埋めつくされていた。
遠方からも沢山の人達が今日のダービーを見に来ているのだろう。
係員が誘導する小さな横断歩道を渡ると南門に着いた。
正門は大きく華やかに飾られ綺麗なお姉さん達が入場チケットを切ってくれる。
南門はその真逆で小さく殺風景な作りで切符を売るのも切るのも叔父さんか叔母さんだ。
おまけに今日は色々な人が訪れるダービーとあって入口には数人の警察官が仏頂面で危険物の
持ち込みなどに目を光らせていた。
受付けの叔母さんから入場チケットを200円で買い、叔父さんに切って貰う。
チケットには去年のダービー馬のディープブリランテがゴールを目指す姿が印刷されていた。
ジョッキーの岩田騎手は果敢に馬を先行させてそのまま押しきり自身の初ダービーを飾った。
レース後に岩田騎手は顔を馬に埋めて涙するシーンは印象的だった。
何処の競馬場でも基本は前に行った馬が有利であり事実、去年のダービーでも1、2番人気だった両馬共に
後方から競馬をして掲示板に乗るのがやっとだった。
今年も去年の様な先行馬が勝つのかと心の中で思った。
上司と待ち合わせの内馬場へと向かう。
内馬場とはスタンドの正面に見える大きなモニター下辺りの芝を指す。
ダービーともなると開門と同時に前日からの徹夜組数千人が一気に流れ込み、
レースの数時間前には身動きが取れない程込み合う。
その場合は昼頃に普段封鎖している内馬場を観客に解放する様になっていた。
上司達はその時間を狙ってモニター下の真ん中にビニールシートで場所を確保していてくれた。
ここならレースを大画面で見られるし直線に馬が入って来た時は振り向けばゴールまで生で観戦出来る
絶好の穴場だ。
「遅れてすいません」
「何、出遅れた?」
上司達の十八番の競馬ジョークで出迎えられた。
今日は一番年長の通称部長とその息子のHさんに社員のTさんとその他初めて見る人が二人居た。
挨拶すると二人共に上司達の古い友人でPOG仲間だそうだ。
急に辺りの観客が騒がしくなり振り向くと馬の群れが駆け抜けて行った。
十頭を越える馬が全力で走る直線はやはり見応えがある。
馬の走る音や観客の歓声と相まって迫力と臨場感が味わえる。
「今日の芝はどうですか?」
私は綺麗に生え揃った芝を横目に今日のレース傾向を聞いた。
「見ての通、パンパンだよ、前止まんねー」
「そうだな、行った勝ちだな」
Tさんと部長が答えた。
「すると去年と同じ前残りですかね」
私はつまらなさそうに言った。
「へへっ去年か」
笑い声と一緒に上司達の友人の一人、通称監督が言った。
名前がある有名映画監督と一緒なので監督と呼ばれているらしい。
「去年はTちゃんと一緒に痛い目に合ったからな」
監督は今度は苦笑いで答えた。
去年のダービーで敗れた1、2番人気の馬はPOGでTさんと監督がそれぞれ選んでいた。
勝ち馬のディープブリランテはもう一人の上司達の友人、通称知事が選んでいた。
こちらは最近、大阪の知事になった人物と同じ名前だったから呼び名がそうなったらしい。
知事は口数が少なく去年のダービーで馬券も的中しPOGも勝った時も顔色一つ変えない
ポーカーフェイスだったそうだ。 その事を私が知事に訪ねると、
照れくさそうに口は開かず拳を握って見せて笑った。
監督も知事も良い人そうだ。私は話を続けようと切り出した。
「一番人気のキズナはやっぱり無理ですか?」
「いやぁ、後ろからは厳しいと思う」
とHさん以外口を揃えて言った。
「結局、ユタカ人気でしょ」
ユタカとは今日のダービーで一番人気のキズナの騎手、武豊の事だ。
競馬は知らない人でも武豊は知っていると言われる名騎手で年末の有馬記念でのオグリキャップの引退レースや三冠馬ディープインパクトのレースは有名で競馬ブームの立役者だった。
少し前に岡部と言う引退したこちらも名騎手が居てこの時は武と岡部買っておけば当ると言われていて
人気の無かった馬でも二人が乗るとなると人気オッズは跳ね上がった。
「それにキズナのあんな後ろからの競馬に今のユタカじゃ無理だよ」
お互いの本命馬を貶し合うのも定番なのだが実際にそれは確かに無理な話かも知れないと思った。
私とHさんは黙ってそれを聞いていた。
HさんはPOGでキズナをダービー馬候補の本命に選んでいた。
武豊は三年前の毎日杯と言うレースで落馬して左鎖骨骨折や腰椎を痛める重傷をおって休養してから
歯車が狂ったかの様に成績が落ちていた。
年間の勝利数は全盛期で200勝、その後も100勝のペースは続いていたが落馬事故後には50~70勝と急激に落ち込み。デビュー翌年から積み上げたJRAのG1競争を23年連続で優勝していた記録もついに途絶えてしまっていた。
「社台に乗せて貰えないからG1も勝て無くなったしな」
監督が残念そうに言った。
落馬事故による影響も大きいかも知れないが一番の原因は勝つ馬に乗せて貰えなくなったからだった。
中でも日本で一番の牧場を持ち有力馬の半数を持つ社台ファームからの騎乗依頼が殆ど無くなったのは大きな痛手だった。
G1は社台の祭りだとか運動会と皮肉を言われる程に強い馬ばかり揃えている牧場だった。
「社台も外国の騎手じゃなくてユタカに乗せてやれば良いのにな」
外国人の騎手を嫌う部長が言った。
社台は一頭の馬の権利を分割して低額で馬主になれる一口馬主制度を国内で初めて採用していた。
G1ともなると優勝賞金は億を超える金額になるため病み上がりの騎手を乗せるのは顧客の馬主に言い訳が付かないのも合った事から国内よりも海外から有力な騎手を呼んでG1に乗せていた。
最近になってこの動きは社台ファーム以外にも多く見られる様になっていった。
実際、今日のダービーでもG1皐月賞を勝ち二番人気に押される優勝候補のロゴタイプはイタリアから
来た若干二十歳のクリスチャン・デムーロが騎乗する事になっていた。
私は嫌な気分を変え様とHさんを買い出しに誘いだした。
「武豊が1枠1番だし来ますよね?」
私はHさんに聞いた。
「そうだね、1番なら」と笑顔で答えた。
去年、武豊はマイルチャンピオンシップと言うレースで久々にG1を勝っていた。
その時も1枠1番だった。
腕の良い騎手がロス無く立ち回れる内枠に入れば当たり前の話かもしれないが。
武豊が1枠に居ると何故だか良く勝つイメージがある。
G1レースの日はスタンド内のフードコート以外にも内馬場近くに沢山の屋台が出ている。
JRAが最近、若者や女性の顧客を呼ぼうとしている傾向があり屋台と言っても焼き鳥やたこ焼きと言う定番の物は無く。ドイツのソーセージ、トルコのケバブ、車に窯を積んだ本格ナポリピザまで世界中のファーストフードが集められていた。JRAの予想通りにどの店も若者で混雑している様だった。
二人でソーセージとピザを買い、さらに私は生ビールを買った。
どちらも屋台にしては美味しくビールに合う。
「でもよく考えたら1枠でも今回は後方ですね」
私はソーセージをビールで流し込み不安を口にした。
「そうだね、後ろからずっと内だと前が詰まって出れない可能性があるし、かと言って外回るんじゃ
余計に届かない」
二人共、武豊が1枠をどう乗るか分からなかった。
キズナの様に後ろから行く競馬を追い込みと言って後方からダービーを勝った馬は過去十年でキズナの父親ディープインパクトなど1、2頭居るか居ないかだ。
買い出しを終えて戻り上司達と予想を話合ってる内に時間が無くなりダービーの一つ前の出走馬達が
パドックの周回を始め様としていた。
「いけね、また買い忘れる所だった」
「結局、まだ何も馬券買ってないわ」監督と知事が笑う。
どんな事でも言えるが好きもん同士が集まると時間を忘れつい話に熱が入ってしまう。
時間が迫り、話に盛り上がっていた全員が新聞を見つめ無言になっていた。
そこで電話が鳴った。友人のOだった。
「しまった、話込んで連絡するのを忘れていた」
「今、何処?」
呆れた様にOが言った。
Oが待っていると言うスタンド側に急いで向かう。
ダービー発走の一時間前になると流石に人が多くてなかなか前に進め無かった。
既に10万人は越えているだろう。

Oは大学の同級生二人を連れスタンドの2階にある喫煙所にいた。
次のレースがダービーとあって皆、物静かに煙草をくわえながら折り畳まれた新聞を見つめている。
「悪いね、会社の上司達と話が盛り上がってしまって……」
私は人混みを捌くのに息を切らしていた。
「今日のダービーは難しくてみんな初心者だし分からないよ」
数年振り再開の事には触れずOが嘆く。
私もその事に触れず話を続けた、本当の友人に固い挨拶など要らないのだと思った。
それに確かに今日のダービーは挨拶すら忘れる程、異質で難解なレースだった。
ダービーは一番人気の馬を買っていれば大抵は好走する。
しかし、今回の一番人気のキズナには不安要素が幾つかあった。
普段一番人気に押されるのはクラシック一戦目と言われるG1皐月賞組からだ。
有力馬の殆どはこの皐月賞に出走しダービー、菊花賞とクラシック三冠を目指すのが王道だった。
キズナは皐月賞の前哨戦、弥生賞で負けてしまいそこで皐月賞を諦めて毎日杯と京都新聞杯と言う
G2、G3レースを連勝してダービーに挑んで来た。
過去十年で京都新聞杯からダービーを買った馬は一頭しか居なかった。
おまけに弥生賞で先着された2頭エピファネイアとコディーノは皐月賞でも2、3着と好走し今日の
ダービーに出走して来た。
私も実際に悩み答えは出て居なかった。
Oの連れの友人達にも
「お願いします、教えて下さい」
と手まで合わされてしまった。
私自身あまりダービーが当たった事がなく困ってしまった。他のG1と違って馬券を当てるより応援して来た
馬だけを買うからなかなか当たらなかった。
「この1番人気のキズナはどう?」
一番聞かれたく無い事を聞かれた。
「一応、本命だけど」
私は自信無く答えた。
一先ず予想から離れてキズナがどう言う馬なのかを話してこの場を逃げる事にした。
キズナはノースヒルズと言う社台に次ぐ二番目に大きな組織の管理馬で東日本大震災の月に生まれた事から震災復興のキーワードであったキズナと名付けられた。
ノースヒルズの代表前田幸治は武豊が低迷が続いた復帰後も所有馬を積極的に依頼していた。
キズナのデビュー戦は佐藤哲三と言う騎手が股がった。
佐藤哲三はキズナが預けられた佐々木晶三厩舎の主戦騎手を勤めていたからだ。
しかし佐藤哲三は他のレースで落馬負傷をして長期休養を余儀なくされてしまった。
そこでノースヒルズと縁がある武豊に白羽の刃が立った。
佐藤哲三自身、主戦を勤めていた馬を「自分の代わりは武さんに乗せてほしい」と先輩思いを見せる情に熱い騎手だった。
こうして佐藤哲三の思いを引き次いだ武豊とキズナのコンビだったがレースは2戦連続で敗れてしまった。
前が詰まる不利など色々と問題があったが結局このコンビはクラシック第一戦皐月賞を諦める事にしてダービー一本に絞る事を表明した。
ダービーへのローテーションはG3毎日杯からとなった。
このレースは武豊が落馬事故に合い歯車が狂った因縁のレースだ。
レースは武豊がキズナを後方に構え直線で不利が無い様に大外に持ち出し追い込みの競馬を心見た。
結果はキズナの圧勝だった。
武豊も因縁のレースの呪縛が吹っ切れた様に続くG2京都新聞杯も快勝した。
後方から全馬をごぼう抜きする姿はキズナの父ディープインパクトを彷彿とさせていた。
友人達も話で予想を忘れ作戦は成功した様で少し安心した。
だが事実として不安が消えた訳では無かった。
毎日杯と京都新聞杯のメンバーは皐月賞組と比べるとかなり落ちる事からキズナを大きく押せない
要素があった。
ダービーにはキズナを負かした馬もいる、さらにそれを負かして皐月賞を勝った馬までいる。
京都新聞杯からダービーを勝った馬が殆ど居ない。
芝の状態が良く前に行く馬が有利で追い込みが効かない。
沢山の不安要素がある中でキズナと武豊が1番人気に上がったのが不思議だった。
これは馬券を当てると言うよりダービーをキズナと武豊に勝って欲しいファンの期待や願いが込められていた様に思えた。

ふとモニターに目をやるとダービーに出走する競争馬の馬体重が発表されていた。
前走からの馬体重を比べると全馬±10キロ以内だ。
細心の注意の元に馬は管理されていても一、二頭は十キロ以上の馬体重の増減があったりするのだが、
競争馬にとって一生に一度のダービーとあってか各陣営はいつも以上慎重に仕上げて来た様だ。
そろそろダービーに出走する馬達がパドックで周回を始める。
予想はパドックを見てから決めたかった。その事は友人達も同意した。
混み合うスタンド内ではあったが幸いな事に喫煙所のすぐ傍から外に出れた。
二階からパドックを見下ろす事が出来て、馬は既に周回をはじめていた。
一階のパドックは人で埋めつくされているが二階はそれ程でも無くどうにか馬の様子を観察出来た。
特にイレ込む馬も元気が無さそうな馬も見当たらなかった。どの陣営も渾身の仕上げを施した様に見える。
その中でも一頭だけ目立つ馬がいた。 馬体を黒光りさせ、首を小刻みに動かしていた。
その馬は初めて生で見るキズナだった。
キズナの周回はまるで試合前のボクサーがリングへ向かう花道を歩く姿と重なった。
物静かながら恐ろしいまでの気迫と殺気に似た威圧感を感じた。
「凄い、凄すぎる」思わず圧倒されてしまった。
テレビのモニターごしでは感じられない生きた動物が放つ凄みを初めて感じた様な気がした。
「パドックはキズナが一番だ」
これでキズナに対する不安が吹きとんだ。友人達もそれに頷ずき予想も決まった。
パドックを後にして投票用のマークシートを緑と青一枚ずつ取った。
持って来たお気に入りのディープインパクトのボールペンでキズナの応援馬券(単勝+複勝)と三連単をキズナ一着にニ着にはキズナを二度も負かしたエピファネイア三着は適当に流した。
馬券を買う列は何処も数十人は並んでいた。
販売機にお金を入れて記入したマークシートを入れるとお釣りと共に馬券が二枚出てくる。
そのうちの一枚には馬番以外にキズナがんばれ!と書いてある。私は初めてこの応援馬券を買った。
友人達も馬券を買えた様だ。気付くとレース発走の十分前になっていた。
慌てて馬券を財布にしまい友人を連れ一階へ降りた。
スタンドに向かおうとしたがそこで足が止まった。
既に入りきれない観客が溢れ隙間の無い壁を作っていた。
こんな状態は初めてだ、これはもう10万人何処ろでは無いかも知れない。
私達は一階を諦め、再び二階へ急いだ。
二階も数ヶ所あるスタンドへ出る為の小さなスライドドアにこれまた入りきれなかった
観客が数十人は殺到していた。
皆、僅かな隙間に肩や腕を入れスタンド側に入ろうとしている。
前に居る観客の背中に体重を預けてさらに他の観客がその上に続いた。
私達も覚悟を決めて一番空いた場所を見つけて体を突っ込んだ。
私も友人達も身長170センチを超えていたお陰で頭はスタンド側に出す事が出来た。
しかも視界の直線にはゴールが見える。
間もなく陸上自衛隊の音楽隊によるファンファーレが鳴り響いた。
それに観客が手拍子や新聞紙を丸めて叩いて答える。
若者は演奏の間にかけ声を入れるのが流行ってる様だ。
演奏が終わると拍手と同時に歓声が上がる。
一人が拍手や声を上げる程度では何とも思わないがそれが10万人ともなるとこれから暴動でも起きるのかと思う程の迫力だ。
馬がゲートへ誘導されて行く。
奇数番号から順に入れられて1番のキズナは既にゲート入りを終えていた。
「ユタカー!」
観客が叫んだ。
「ユタカー!」
私達もつられて叫んでいた。
「武豊なんて来ないよ」
中には横槍を入れて来る叔父さんがいた。
勝負直前、他人に本命馬とその騎手を貶されたら流石に頭に来た。
「いや、見てろよ来るから!」私は叔父さんに返した。
友人達も「そうだ、来るよ!黙って見てろ」と反撃した。
一悶着あった内に再び歓声が上がった。
スタートを見逃してしまった。
暫くすると馬群が通り過ぎて言った。
ダービーは芝2400mで行われスタンド側からスタートしてコースを一周してゴールとなる。
観客が馬群に向かって馬や騎手の名前を叫ぶ。
白い帽子に水色と赤十字の勝負服が通り過ぎた。
キズナだ、やはり武豊は前レース同様後方からの競馬を選んだようだ。
隊列が落ち着くとキズナは後ろから三番手ほど内で足をためていた。
先頭まではかなりの差があった。
しかもゆったりとした流れのスローペースだ。
このままスローペースで進むと前に行った馬が体力を消耗せずセーフティリードでそのまま押しきってしまう。
少しの不安と共に緊張が走った。
すると「藤田だ!藤田が動いたぞ!」誰かが叫ぶ。
既に馬は肉眼では確認出来ない内馬場の大きなモニター裏を走っている。
モニターを見ると一頭、中段に控えていた馬がレース中盤前にポジションを大きく上げて行った。
ペースが遅いと読んだ武豊の後輩、藤田伸二騎手が跨がるメイケイペガスターで一気にハナ(先頭)
を奪いに動いた様だ。「よっ!漢、藤田伸二!」歌舞伎の大向こうの様なかけ声が上がった。
ダービーとなると騎手も見せ場を作ろうと様々な動きをする、それによりまたペースが速くなったり
、遅くなったりと最後まで分からない。これがレースは生き物と言われる所以かも知れない。
藤田騎手のお蔭でペースは早くなったがキズナは依然後方のままだった。
中段の内に構えた三番人気のエピファネイアは終始かかって(前に行きたがる)等々バランスを崩し
騎手が落馬しかけるアクシデントがあった。
エピファネイアの福永騎手はどうにか持ち堪えてレースを続けた。
徐々に歓声が大きくなる。隊列は先程から変わらずそのまま最終コーナーを回って来た。
府中競馬場の直線は600mと他の競馬場よりも長いが芝の状態から最初のペースからも先行馬有利には
変わり無かった。祈る様な気持で直線にキズナが来るのを見つめた。
直線に入ってモニターは先頭の馬を映すのでキズナの姿は後ろ過ぎてとても小さかった。
「もう駄目だ、あれじゃ届かない」
馬群は左の方から肉眼でも確認出来る距離までに近づいて来た。
長いはずの直線があっと言う間に半分の300mを過ぎた。
馬群が近づくに連れて私たちの後ろにいた観客が背中をよじ登ろうとして来た。
人の手や頭が視界に写りレースが見辛くなって来た。
それでも身体を踏ん張り僅かな隙間からゴール盤は見る事が出来た。
最後にモニターを見た時に残り300mでもキズナは後方だった。
ゴールが近づくと観客が皆押し合い身体が前のめりに密着してより視界が悪くなった。
歓声で実況も聞こえない、どうなっているのか全く分からなくなった。
握り拳1つ分の隙間からゴール盤を見つめた。

歓声が激しくなると同時にゴール盤を白い帽子が駆け抜けて行った。
一瞬、時が止まった。

そんなはずは無い、白帽子はキズナ以外に2番のコディーノもいるからきっとそっちだと思った。
物凄い歓声と共に視界が開け、すぐモニターにゴール前のリプレイが流れる。
映像には黄色帽子のエピファネイアが外から抜け出して来るのが写されていた。
勝った馬は白帽子だった様に見えたのは勘違いだったのかと思った瞬間。
さらに外から白帽子の馬がゴール目前のエピファネイアに襲いかかった。
水色と赤十字の勝負服の武豊とキズナだった。
直線残り200mを過ぎた辺りから急速に加速し残り100mで先団に追いつき。
ゴールまで僅か数mの所で先頭にいたエピファネイアを差し切った(かわす事)。
ゴールした武豊は強く拳を握りしめ、そして愛馬のキズナの肩を叩いて称えた。
対象的に2着のエピファネイアの福永騎手は肩を落とし顔を伏せたままゴールした姿が印象的だった。
リプレイでキズナがゴール盤を駆け抜けるシーンが流れると観客から歓声と割れんばかりの拍手が上がった。
掲示板にも1着の所に1番と表示された。
モニターがレースリプレイから走り終えたキズナと武豊の姿を写した。
ゆっくりと勝者にだけ許されるウイニングランの為にスタンドへ戻って来る。
私も他の観客も興奮を押さえきれずにキズナと武豊を待った。
「ユタカ!ユタカ!」皆、自然と叫んだ。
10万人のユタカコールに迎えられ、武豊とキズナが帰って来た。
人馬共に陽の光を浴び輝いていた。
キズナがスタンドの真ん中に来ると武豊は右手に拳を作り高く突き上げた。
観客の歓声は最高潮になりスタンド全体が揺れた。
私が震えていたからそう感じたのかもしれない。
「ユタカやったね」
「ああ、やった」
友人達と握手を交わした。

勝利者インタビューが始まった。
背の低い騎手が多い中、170cmと長身の武豊が壇上に上がると華があった。
「おかえりー!」
と色々な所からファンの声がかかった。
「僕は帰って来ました!」
武豊はマイクを通して先程のファンに答えた。
これは落馬事故からでは無くファンが望む本来の武豊の姿に帰って来たと言う意味が込められていた。
再び観客から拍手が湧く、普段メインのレースが終わると半数以上の観客が引き上げて行く。
今日は殆どの観客が残り武豊を祝福し最終的に観客動員数は14万人近くになったと言う。
ここ最近の競馬界で一番の盛り上がりだった。
友人達に別れを告げ。 上司達のいる内馬場へ戻った。
上司達はブルーシートの上で足を伸ばし疲れきっていた。
私も腰を下ろすとどっと疲れが出た。
「何処行ってたの?」
監督が笑顔で迎えてくれた。
「あー疲れた 」
年配の部長には今日の観客の多さは堪えたようだ。
「ああ、武の野郎」
苦い顔をしたTさんは馬券を外した様だ。
先程、口論した叔父さんの顔が思い浮かび笑えてきた。
つられてHさんも笑った。
予想もPOGを大勝利だったのが嬉しかったのだろう。
「久々に声出したから枯れちゃったよ」
Hさん喉を押さえながら再び笑った。
知事は馬券が外れた様で丁寧にお辞儀をして帰って行った。
「くそ、ユタカ格好良かったな」
監督も後に続いた。
「まあ、悪口は言えないな。ユタカには昔稼がせて貰ったしな」
Tさんも別れ際には笑顔になっていた。
「疲れたし、帰ろう」
部長の言葉に私とHさんも立ち上がった。
こんな満ちたりた気分は初めてかも知れない。
10万人を超える人々と興奮しそして感動し揺れた。
家に戻り録画した今日のダービーを見返した。
実況するアナウンサーが残り200mでキズナが飛んで来たのに驚き
一瞬言葉を失って実況が止まっていた。
多分、アナウンサーも私と一緒で信じられない光景だったのだろう。
私は他の競技でも初めて実況のプロが言葉を失うのを見た。
キズナの調教師佐々木はレース前からキズナのパドックを見た他の調教師の皆から
今日はキズナが勝つと言われていたそうだ。
勝負師の世界でそれも珍しい事だと思った。
武豊はレースの数日前に元キズナの騎乗だった佐藤哲三と会っていたと言う。
きっと佐藤哲三も病院のベットでこのレースを見ていたに違いない。
キズナを所有するノースヒルズは嬉しいダービー初優勝。
武豊はキズナの父ディープインパクト以来の親子ダービー制覇。
前人未到の通算5勝目をマークした。
私はあのダービーの帰り道にある事に気が付いた。
電車に乗る切符を買う為に財布を広げると、今日の馬券が目についた。
当たった馬券の払い戻しを忘れそのまま持って帰って来たのだ。



テレビを消すと先程まで大歓声と拍手で賑やかだった部屋が静かになり
庭にいる虫達の鳴き声が聞こえてくる。
世の中の人達は今こうして自分が止まっている間に足を前に進めて行く。
自分はその差が開いていくのを眺めているだけだ。
思わず唇を噛み締めると目の前がぼやけ頬に温かい物が伝った。
「武豊とキズナ、最後の最後に捕え切りました」
弱気な事ばかり考える頭に去年のダービーの実況が浮かんだ。

例え道がそれ様とも後ろからだろうと、
武豊とキズナの様に最後のゴールまでに差し切れば良いんだ。
拳を強く握りしめた。

財布の中にとってあった去年のダービーの馬券に目をやると、
今でもあの10万人のユタカコールが聞こえてくる。

10万人のユタカコール 第80回ダービーの絆

10万人のユタカコール 第80回ダービーの絆

無職になった男がとある年のダービーでの出来事を思い出す。 第80回日本ダービーに不振に喘ぐかつて天才と呼ばれた騎手が一番人気の馬で挑む。 14万人近い観客が見たその先はとは……。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-17

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