ヒーローはなぜピンチになるのか
電話が鳴って私はベッドから這い出した。汗で鼻に張り付いた髪の毛をぬぐいながら、電話番号を確認する。昨夜からつけっぱなしのブラジャーを整えて受話器を取った。
「朱里さあ、もう聞いてよ」
甲高い声が響いて、それだけでもうウンザリした。
「ねぇ、アンナ、今何時だか分かってるの?」
デジタルクロックを確認すると四時半だった。寝苦しい八月の夜は短くブラウスがところどころ引っ付いて不快だ。カーテンを開けるとアパートの三階からは小高い山が見えた。どんよりとした雲が空を覆っている。
「何時だっていいでしょ。知らないもん、そんなこと」
低いうなり声を上げながら洗面台へ行く。茶色の長い髪をかき分けて枝毛に触れた。
「話ならいつでも聞くからさ、二日酔いでアタマ痛いの」
蛇口を捻って手を洗い、軽くうがいをする。
「だったら電話取らなきゃいいじゃん」
こめかみを押さえて、深く長い息を吐く。
「そうしたら何度も掛けてくるでしょ」
あそっか、という声が聞こえた。
「ねぇ、ホントに信じられないことがあったの、聞いて」
アンナはしばしばこうして電話をかけてきた。フランス人と日本人のハーフで長いブロンドの髪をした、巨乳の二十歳の女の子で、尻の軽いこの子はだいたい男がらみの電話をしてくる。
「もしかして例のデッカチャン?」
私は諦めて洗濯機に背中を預けながら、ずるずると床に腰を落として三角座りをした。
「そうそう、サッカー部の佐々木君だっけ、とさっきまで一緒にいたんだけど」
人差し指でパンツのズレを戻す。佐々木は大学で同じ授業を受けている奴でいつも帽子をななめにかぶっていた。幼い顔つきに反してそのイチモツは大きいらしく彼はデッカチャンと呼ばれていた。
「ヤッたのね」
「うんそれでね、普通さ、出したら戻ることない?」
ん、どういうこと、あ、おちんちんか。
「あいつの奴ホントでか過ぎで、ヤッてる途中で痛くなっちゃったの」
洗面台の戸棚に仕舞った煙草のことを思い出したが、動く気になれなくて膝を掻いた。
「それでさ、痛いからちょっともう無理って言ったの。でもさ、立ったままだと可哀想じゃん。だからフェラとかいろいろして抜いてあげたのね」
曖昧に相槌をうつ。
「でも全然治まらなくて、五回ぐらいしたのに、で、おかしいと思って、お前薬飲んできただろって問い詰めたら、ニヤニヤ笑って、うんそう、とか言うの、もう腹立ってきて」
私は目の下にクマを作りニヤニヤ笑うおちんちん剥き出しの男のことを思った。三十センチのおちんちんは脈打ち、何かをしろと要求してくる。
「だからあたし、そいつの毛をってやったの」
「え、どういうこと」
私はうまく聞き取れなくて、聞き返した。
「だから、そいつのチンコの周りのキモっちわるい毛をめちゃくちゃむしりとってやったの、思いっきり」
痛がって身をよじる男に跨り、ブロンドの髪を振り乱して、力の限り陰毛を引き抜くアンナの姿を想像した。もし男が反撃に殴りかかりでもしたら、アンナは鳩尾に一発入れて、男の動きを封じてしまうだろう。私はその脇でアンナを応援する。そうだそうだ、そんなんが生えてるから気持ち悪いんだ。
「それからどうしたの?」
「首絞めて失神させてから置いてきちゃった」
ふうん、と私は自分の足の爪を見ながら答えた。動かなくなった奴に興味はない。
隣の部屋から子供の騒々しい声が聞こえて、母親の怒鳴り声が響いた。
「朱里なにか言った?」
すすり泣く声を耳にして、私は親指をかじった。
「隣の部屋にさ、虐待まではいかないけど、厳しいしつけをしてる母親がいてさ」
私は立ち上がって、ベッドに向かった。
「たまにすごい声が聞こえてくるんだよね」
ブラウスを脱ぎ、ブラジャーを外した。ベッドに横たわる。
「まあよくあることだよね。じゃ、あたしそろそろ寝るね」とアンナは言った。
じゃあおやすみ、そう言って電話を切った。
タオルケットを顔に押し当てて、目を閉じると、誰かが物を投げて何かが割れて壊れる音が聞こえた。私は何も知らないフリをして眠りについた。
夢の中でアンナは男に薬を盛っていた。試験管を傾けて口をまがまがしく広げて笑うアンナはさながら魔女のようで怖気がした。試験管の中身がなぜだか私には毒薬だと分かった。止めなければならないとは思うけど、私はそこにはいなかった。アンナの後ろにはテレビがあって、その画面では戦隊モノのヒーローが怪人を倒していた。
ヒーローはなぜピンチになるのか