木坂 広

 よほどの用がない限り、郷里に帰ることはなかった。母はそんな栄一を「あの子は薄情なところがある」とよくこぼすそうだ。自己中心的な性格を身に付け、親たちを手こずらせた。変わった子だと親戚や近所の人から言われていた。その日、郷里に近いK市に姪の結婚式でやってきた。久しぶりに顔を合わせながら、母の言葉を反芻し、コミュニケーションを心がけた。
 やっかいな式が無事に終わった。栄一はその間、近くに座っていた母と話す機会がなく、口を閉ざしていた。帰りに皆で喫茶店に立ち寄った。食堂のような雰囲気の店で、テーブルを継ぎ足して席をつくってもらった。注文した飲み物が来ると、母が栄一を促した。
「あんた、今日はたくさん喋ってよ」
「できるだけ、そうするよ」
 彼は照れたような表情をした。
「そんなことを言われると、却って話せなくなるよねえ」
 姉が笑った。
「それでなくても、俺は話下手だから」
「下手でもいいのよ」妹が助太刀した。
「親父は一人で留守番か」
 意味もなく呟いた。
「そうだよ」
 母が返事をする。
「でも、いい式だったよ」
 後継ぎの弟が言う。
「みんなが盛り上げてくれたから、うまくいったわ」
 結婚したのは姉の長女である。披露宴は市内のホテルで行われた。栄一の妻は事情があって出席しなかったが、身内はほとんど顔をそろえた。宴の様子をあれこれと話して一段落すると、母が意外なことを言った。
「ところで、以前、富野さんが家に来て、子供の頃、川で溺れているところを栄一に助けてもらったと話しておられたけど、覚えているの」
「覚えている、覚えている。ぼくが中学生のときだったね」
「あんたが人を助けたなんて、初めて知ったわ」
「いや、そんな大げさなものじゃないよ」
 兄弟たちには珍しい逸話らしく、その時どんな状況だったのか、喋らされる破目になった。
 M川は市の中央に流れていて、細谷家のすぐ裏にあり、水着一つで行けた。その日は晴れていていい天気だった。ひと泳ぎして浅瀬に立っていると、女の子が溺れているのが目に止まった。子供たちは大勢いるが、夢中になっていて誰も気がついていない。近くに大人も年上の人も見当たらない。栄一は半ば衝動的にバタフライのような格好で近づいていった。ギリギリ立てるところだった。そして背後から女の子を抱えて、川原の砂地に連れてきた。
「あの時、自分しかいなかったから、使命感のようなものを感じたよ。何もしなかったら悔やむだろうな」
「そりゃ率先してやらないといかんよ」母は満足そうだった。
「富野さんがね」弟の嫁が続けた。「声も出なかったから死ぬかと思ったんだって」
「苦しくて、ものも言えないだろう」
「水も飲んでいたろうしね」
 当時小学生だった富野さんは、今は二児の親である。母は胸中に秘めていたことを、栄一に会ったら話すつもりでいたようだ。はずみがついたのか、皆の言葉数が多くなった。母は聞き役になって、話し手のほうを見ては頷いたりした。しかし、顔色が悪くて元気がなさそうである。飲み物も一口二口すすっただけだ。持病の心臓病がよくないという。 
 帰京する際、母が聞いた。
「会社のほうは、うまくいっているの」
「ああ、何とか頑張っているよ」
「それならいいけど」
 母は安心した顔つきをした。

 その一ヵ月後に姉から母が心臓肥大で入院したという電話があった。少し前に栄一は妻と離婚した。弟には知らせたが、親には内緒にしておいた。病気が治り、退院したら打ち明けて了解してもらうつもりでいる。一人娘の留美は妻が引き取ることになった。夏休みや冬休みは王子の自宅で一定期間寝泊まりすることがあった。娘は父親によくなついた。あまり父親らしいことはしていないが、よくオートバイに乗せてやった。後ろから父の体に恥ずかしげに抱きついてきた。栄一はその度に血の繋がりを感じて、くすぐったい気持ちになった。
 弟から母の病状が悪化したという知らせが来た。入院して二ヵ月間が経っていた。カテーテル検査の最中に脳梗塞を併発し、まともな会話ができなくなった。弟たちは予想もしていなかったから驚いている。
「とにかく、すぐにいくよ」
「うん、待っている」
 田舎は新幹線で名古屋まで行って、さらに快速で四十分のところにある。母は大きな県立病院の個室のベッドに伏せ、姉が付き添っていた。髪は真っ白で老け込んでいた。
「白髪が増えたね」
「染めていただけよ」
「なんだ。だから、この間は若く見えたんだな」
 少しがっかりした。姉は家に帰ったらまた染めてあげるからね、と母に向かって言った。病人は返事もしなかった。
「まったく話せないのか」
「でも、字は読めるわよ」
「何か書いてみようか」
「書いてあげたら」
「字を読んで、人の気持ちは分かるだろうか」
「さあね、分かるような分からないような……」
 手帳とボールペンを取り出した。まず自分の名前を書いて見せた。
「ホソヤエイイチ」
 母は小学生のようにハキハキした口調で読んだ。さらに彼の愛称や留美の名前などいくつか書いた。どれもすらすらと口にしたが棒読みだった。しかし、声を出しながら心の奥深いといところで、何か感じているような気がしてならなかった。今度は母に手帳とボールペンを持たせた。書こうとしているのだが、文字にならなかった。栄一はグシャグシャの線を見ながら、「わかった、わかった」という表情を示した。それからお茶を飲みながら姉と雑談をした。
「姉さんの仕事が役に立ってよかったね」
「おかげさんでね」
 姉は結婚する前から看護師をしていた。二人の子供を育てあげた頃、仕事の帰りに転んで大退部を骨折した。それを機会に現役を退いた。話している途中、不意に母が声を放った。
「ウサギはまだ……」
 姉が顔を近づけて聞き返した。
「ウサギがどうしたの」
 が、それ以上の反応はなかった。
「今のは、何となく気持ちがこもっていたような気がするな」
「お母さんは夢でも見ていたんだよ」
 姉はこういう断片的な言葉には慣れている。病院から実家に戻り、父や弟夫婦たちと夕食を食べながら、家の商売の話をした。実家はお茶屋をしている。また、カテーテル検査のことも話題になった。七十歳の年配者には手術同様の検査をしたのは間違いではなかったか、医療ミスではなかったか。みな疑問を感じていた。

 帰りの新幹線の中で座席に座り、物思いに耽った。母の口にした言葉に囚われていた。時間を経るにつれて輪郭があらわになった。もしかしたら、あの時のことかもしれない――
 小四の頃、家でウサギを飼っていた。知り合いからもらったもので、弟と二人で面倒を見た。よくザルと鎌をもって野原へ餌を取りにいった。クローバーやハルジオンという草の名前を覚えている。だが飼い出して二ヵ月した頃から、何も食べなくなった。藁を敷いたケージの中に腹這いになってぐったりしている。栄一と弟はどうすべきか相談した。
「こいつ、どう見ても死んだも同じだよ、捨てるしかない」
 栄一がせっかちに結論を出した。
「もうちょっと待ってみようよ」
「いくら待っても治らないよ」
 弟の考えを聞き入れて五日間だけ様子を見たが、容体を持ち直すことはなかった。弟のためらうのを振り切って川へ捨てに行った。春先の寒い日で、橋の下をねぐらにしているホームレスが近くにいた。耳をつかんで、思いっきり遠くへ投げてやった。その瞬間、ギョッとした。ウサギは猛烈な勢いで泳ぎ出したからである。水に流されながら、懸命に向こう岸に向かっていく。たどり着くこともなく、ついに見えなくなってしまった。ホームレスが気味の悪い薄笑いを浮かべて見ていた。栄一はバツが悪かった。取り返しのつかないという自責の念にかられながら家に帰った。弟にその光景を話していたら母が来た。
「すぐに、捨てなくてもよかったのに」
 不憫そうに眉尻を下げた。
「だけど、死にそうだったよ」
 小さな声で主張した。
「生き物は最後の最後まで見てやらないといかんよ。まだ生きていたんだから」
 母は咎め立てをするでなく、物静かな口調で話した。小学生の栄一は深く受け止めたわけではないけれど、いつまでも記憶に残っている。
 考え事をしていると、車内販売のワゴン車が来たのでお茶を買った。窓の外に視線をやると、広い河原と蛇行した川が見えた。川床がむき出しになって、水が細々と流れている。郷里の川に似ている。
 ウサギはまだ……彼は胸のうちで呟いてみた。母は何かにこと寄せて深層にあるものを伝えたかったのかもしれない。私ははまだ生きているから見捨てないでくれ……栄一はそんな解釈をして考え込んでいた。

 病院では、治療というよりも延命的な措置を取るしかなく、死は時間の問題だった。苦しんだあげくに、入院して三ヵ月目に逝った。厳冬の寒い日である。駆けつけたときは、遺体はすでに実家の二階に運ばれていた。親戚や近所の人たちが大勢集まっていた。
 他界して半年後、夏休みに留美がリス持参で家にやってきた。中学二年生になっていた。彼女は畳の上に放して遊んでいたが、四日後に死んでしまった。栄一は困った顔をした。
 級友から譲り受けたものらしく、飼い出した頃から父子の間で言い争いをした。途中から平衡感覚を失い、籠から放してやると、畳の上をグルグルと同じ方向に回るだけだった。耳の形も歪だ。見ているだけで耐えがたい気持ちになった。
「こんなの、飼わなきゃいいんだ」
 彼は留美に文句を垂れた。
「生まれたときから障害があったんだから、仕方がないよ」
 留美はふくれ面をした。
「それを承知の上でもらったのか」
「最初は分からなかったわ。変だと思って、獣医さんに診てもらったの。そうしたら三半規管がおかしいと言われた」
「それでも飼いたいのか」
「だって、捨てるわけにはいかないじゃん」
 栄一は家で小動物を飼うのが好きではない。生き物は気持ちの悪いところがある。死ぬ時はもっとやりきれない。留美は動物が好きで、かつてはハムスターやイモリや亀を飼っていた。
 リスの死骸を団地の庭に埋めてくると、栄一の部屋に顔をのぞかせて、処理したことを伝えた。そして何気なそうにこう言った。
「リスは苦しくても、人に告げることができないから、可哀相」
 その言葉は、栄一の胸にズシンと響いてきた。リスの死は母の死と通じるものがあった。母はカテーテル検査をして以来、会話ができなくなり、人間らしいことを何一つ訴えることができなかった。ただ呻き声や意味不明の片言ばかりである。彼は動物や人間の死に悲しみを覚えた。今になって、母の苦しみがジワッとこみ上げてきた。留美がいなくなると、珍しく涙が頬に一すじ二すじ流れた。

デスコミュニケーション

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-15

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