杏ちゃんに羽が生えてきた
三ヶ月になったばかりの長女の杏の背中に羽が生えてきた、と最近そんな変な事を二歳の長男の陸が言い始めた。
「あんちゃんにね、はねがはえてきたんだよ」
「ママには見えないけど?」
「はえてきたの!」
二人の子育てに忙しい私はそんな陸の言葉に、陸には杏が天使に見えるんだね、と感激する気持ちにもなれず、子供は無邪気でいいわよね、と溜息しか出ない。まだ手が掛かる赤ちゃんの杏の世話にかまけて最近陸にテレビアニメをよく観させているので、その影響もあるのかもしれない…と少し反省した。
陸が一歳になり少し楽が出来るかな…と思っていた矢先に杏の妊娠が発覚した。私は二人目を妊娠した喜びよりも、また赤ちゃんのお世話の生活が始まるのか…と奈落の底に突き落とされた様な気持ちになった。夫も周りも二人目の妊娠をとても喜んだけれど、私は手放しで喜べなかったのだ。
おっぱいを飲ませる、オムツを変える、それの無限ループ。24時間自分の時間なんて一切ない。まるで永遠にそれが続くかの様な恐怖感、社会から孤立した様な孤独感、あの何とも言えない感情ー
赤ちゃんは可愛いし、愛おしく思うけれど子育てとはただその思いだけでは成り立たない。不安感や孤独感を煽ってくるからたちが悪い。
長男の陸は夜泣きもあまりしない赤ちゃんだったけれど、長女の杏は夜泣きが激しく、泣き方もふにゃーふにゃー、ではなくぎゃーぎゃー泣く感じで、すでに女王様の様な風格があるのでかなり疲れる。
週に何回か家事の手伝いなどに来てくれる母につい愚痴を零してしまう。
「あ〜早く大きくならないかな…」
「大きくなって、うるさいババア、とか言われたい?」
母は可笑しそうに笑う。そんな母に陸は嬉しそうに杏に羽が生えてきたと報告する。
「そうね、杏ちゃんは天使ちゃんだからね。陸君は感受性が豊かね!将来大物になりそうだわ」
母は大喜び。そんな事を陸が言うのはテレビアニメの見過ぎかもしれない、なんて口が裂けても言えない。母は大袈裟なのがたまに傷な人なのだ。
私が赤ちゃんの頃はこの人が私を育ててくれていたんだと思うと本当に不思議に感じる。どんな風に育ててくれていたのか…昔は紙おむつなんて無かっただろうし…紙おむつを開発してくれた人に本当に感謝する。もちろん母にもだけれど。
母が帰り、ベランダで洗濯物を取り込んでいる私に陸があんちゃんのほっぺ、まっか、と報告に来た。さっきおっぱいをたらふく飲んで熟睡しているはずだから、杏ちゃんは気持ち良くねんねしてるんだね、そう答えて洗濯物を畳もうとする私の腕を陸が引っ張る。
「あんちゃんのほっぺ、まっか」
何度も言う陸に少しイラつきながら、仕方なくベビーベッドで寝ている杏を見に行くと、確かにいつもよりも頬が赤かった。抱き寄せると、熱い。赤ちゃんの洗礼、突発性発疹か…と思いすぐに夫に電話した。
あと一時間程で帰る、と言う夫の帰りを待ちすぐに近くの小児病院へ駆け込んだ。
診断はやはり突発性発疹。赤ちゃんの初めてのお熱の病気はほとんどがこれだと言う事は陸を育てて知っていた。けれど母乳で育てている場合は六ヶ月程は母親の抗体に守られていると理解していたので、まさか三ヶ月の杏が発熱するとは私は夢にも思ってもいなかった。
病院で頓服の座薬を処方してもらい家に帰った私は母に早速電話した。陸のお陰で杏の発熱に気が付いた事を話すと母は、やっぱり陸君すごいわ!と大袈裟に陸の事を褒めた。
家に帰ってから寝ている杏をベビーベッドに降ろそうとすると、苦しいのかすぐにグズグズ泣き出すので、その夜は一晩中杏を抱っこしながら私は起きている事にした。お熱のせいでいつもより元気が無い杏を、いつも以上に愛おしく感じた。陸みたいに羽はまだ見えないけれど。
ふと気が付くと、夫と眠っているはずの陸がリビングの入り口でびっくりした様な顔をして杏を抱っこしている私を見つめていた。
「陸、ごめん、起きちゃった?杏ちゃん大丈夫だから安心してね」
「…ママ…ママのせなかにもはねがはえてるよ!こーんなにおおきいの!」
まさか、と私がびっくりしていると、陸に続き起きてきた夫に陸が報告する。ママの背中にも羽が生えてる!こーんなに大きいの!陸は両手いっぱい広げる。
「そうだよ、ママは天使だからな。天使…じゃなくて女神か」
「めがみ…ってすごい?」
「一番すごいんだよ」
「ママすごい、いちばんすごい!」
そう言ってはしゃぐ二人を見て私は、陸こそ天使だよ、と思わずにはいられなかった。
杏ちゃんに羽が生えてきた