結びあう夢

数年前、友人の朗読会のために書いたものです。そのため、ラストには、“朗読する”ことで完成する仕掛けが施されています。

 声がきこえたような気がして、わたしは足を止めた。
 月に一度ひらかれる射会が、一時間ほど前に終わって、弓道場に残っている人はわずかだった。
 居残り練習をするひとたちが、射場のおくにかたまって話しこんでいるのが見えたけれど、声はここまできこえてこない。
 わたしは矢取り道の途中にいた。
 射会での成績がさんざんだったので、ひとりになって、どこが、なにが、悪かったのだろうかと、思い返していた。
 考えはじめると、思いあたることがたくさんある。
 緊張。呼吸の乱れ。力み。不自然な放れ。買ったばかりの弓。じゃあどうすればいいのだろうかと、また考えはじめてしまう。
 午後五時を過ぎて、あたりは急に冷えはじめた。
 熱を帯びた射会のざわめきは遠ざかって、かわりに夜の冷たい足音が、弓道場を囲む森から、ひたひたとやってくる。
 新しい的が掛け替えられた的場にも、矢道の青い芝生の上にも、射場のすみに置かれた巻藁(まきわら)の下にも、夕闇はひっそりと息づいて、ほの暗い静寂を落としていく。
 空はまだ暮れていない。
 渇いた空に、透きとおった弓のような月がのぼっている。
 その声は、まるで空から降ってきたように、遠くから近づいてきた。
 森の木々の梢を鳴らした風が、矢道を横切る。
 風の中に、かすかな花の香りがしたとおもったら、一枚の白い花びらが、射場にもどりかけたわたしの足もとに、ひらひらと舞い落ちた。
 気づいたら、音もなく降りしきる花吹雪の中に、わたしは立っていた。
 枝という枝に、ぎっしりと花をつけた桜の大木が、夕暮れの空を背負い、白い霞のように浮かび上がる。桜は、風がふくたび大きく揺れて、かすかに軋むような音をたてた。
「いっそ物の怪がすがたを見せれば」
 唐突に声がした。
 わたしの背後に、男のひとが立っている。花びらと、もつれあうように。
「あのとき、矢を放つこともできただろうに」
 彼は、ひとりごとのようにつぶやいた。
 わたしの胸ははげしく脈打って、手足は凍りついたように冷たくなっている。
「けれどもいったい、どうすれば夢の続きを見られるというのだろう」
 空は、東のほうから、うす墨を流したように暮れはじめている。さっきまで、あおく光っていた矢道の芝生が、もう夕闇の静けさのなかにとりこまれて、くろぐろとしている。
 彼は、なかなか立ち去ろうとしない。
「夢が、もしも永遠に続いたとしたら……それは、夢ではなくなるのだろうか」
 だれかが、的場に明かりを入れた。
 蛍光灯の白い光が、一列に並ぶ的をぱっと浮かびあがらせる。
 その瞬間、花吹雪が消えた。
 わたしは、大きく息を吸い、吐き出した。
 射場のおくで、石油ストーブの火が点り、赤く燃えているのが見えた。赤い火に集まる親しい仲間のひとりが、こちらに気づいて、わたしの名前を呼んでいる。
 わたしは、急ぎ足で仲間のもとへ行こうとし、ふりかえる。
 矢取り道は、もうすっかり夜の闇にもぐりこんで、ついさっきまでそこにいたはずの男のひとのすがたを、すっかり消し去っていた。

 □

 私がその老武士のあとをつけたのは、気まぐれにすぎなかった。
 人通りの絶えた真夜中の大路は、春の夜のおだやかな風につつまれ、空にはやわらかな光を抱いた朧月がかかっていた。
 私の前を、身なりの立派な老武士が、従者もつれずにひとりで歩いていた。
 先を急ぐようすもない。ときどき立ち止まっては、他家の庭先に咲く花に顔をよせたり、頭上でほのかに映える月の光に目をほそめていたりする。
 私は武士のうしろすがたをながめつつ、地面を這うようにひそやかに歩いていた。私の足音は彼らには聞こえない。武士はまるで気づかない。
 ある屋敷の前まできたとき、主の帰りを待っていたらしき童が、いちもくさんにかけよってきた。
「どちらへお出かけになっていたのですか? 俊信さまが、さきほどからひどくうろたえておられます」
「俊信が? はて。わしが月夜に出歩くことは百も承知のはずなのだが」
 武士はけろりとして、慌てるようすもなくすたすたと屋敷のなかへ入っていく。私は童の足もとをすりぬけて、そのあとに続いた。
「とんでもないことになりました」
 随身は、青ざめた白い顔を武士のそばによせ、小声で話しはじめた。
「近ごろ、帝が毎夜のごとく何ものかにうなされ、加持祈祷もいっさい効果なく、お困りであるという噂はすでにおきき及びでありましょう」
「ああ、丑の刻に東三条より黒雲があらわれ、御殿の上を覆うとたちまちお苦しみなさるという噂か」
「そうです。そのことで詮議がおこなわれたことは、ご存知ですか」
「左少弁雅頼殿が私を推薦したそうだな」
「はい。おきき及びでしたか」
「うむ。なんでもその昔、おなじような理由で帝がお苦しみになった折に、将軍源義家朝臣が鳴弦をおこない、みごと祓ってのけたそうな。武士を選ばれたのは、そのような先例に従ってのことであろう。しかし、わしごときに八幡太郎の代理がつとまるとはおもえんが」
「そのような目に見えぬ物の怪を相手にするなど、武士のつとめではございません。首尾よく退治できなければ、物笑いの種になること必至。いいえ、それだけではすみますまい。お願いでございます。どうか、はやまったご決断をなさいませぬよう……」
「そうはいっても、これは(ちょく)であるぞ。断れるわけがなかろう」
「ああ、ああ、なんという……」
 随身は頭をかかえて天を仰ぎ、ああ、ああ、と何度もうめき声を漏らしながら、その場を立ち去った。
 ひとりになると、武士はごろりと広縁に寝そべり、目を閉じた。庭の叢に隠れていた私は、そうっと叢を這い出して広縁に近づいた。とたん、武士の双眸がきらと光った。
 私は居竦んでうごけなくなった。
「なんじゃ、猫か」
 私の正体を見極めると、武士は安心したように、その立派ななりとは不釣合いな、ひとなつこい笑顔を浮かべた。
「遠慮せずともよい。上がれ上がれ」
 手招きされて、私はうれしくなり、武士の膝の上に転がりこんで小気味よく喉を鳴らした。
「いまの話、おぬしはどうおもう。俊信は心配性だとはおもわんか。たしかにわしは物の怪なんぞ祓ったことはないが、(ちょく)命に従うはわれらがつとめ。たとえ物笑いの種になろうとも、つとめは果たさねばならぬ。そのあとのことは、なりゆきにまかせるよりほかないだろう」
 武士の骨張った大きな手が、私の背をやさしくなでた。
 ゆるやかな夜気に染みこんだ草木のにおいが、あたりをつつみこむ。庭の雑草が淡い月光を浴びて、まるで雪が積もったように白じらと輝いていた。ひとすじの風が庭を横切り、かすかな花の香りを運んできた。
 ずっと遠い昔に、おなじことがあったようにおもった。はるか遠い昔、この武士に会ったことがあるようにおもった。月の光が、幾多の白い花びらとなって降りそそぐ。
 私は武士の膝の上で夢うつつであった。月に映える庭もこの屋敷も、すべて幻影のようにはかなく朧であった。
「それにしても、左少弁殿はどういうつもりで、わしのようなおいぼれを指名したのであろうな」
 武士はのんびりといい、大きな(くしゃみ)をしたが、私はもう眠りに落ちていた。

 □

 今夜は、雨が降っている。
 夜の森は、においに満ちあふれ、降りしきる雨は、立ちのぼるにおいをいっそう濃くする。
 わたしは傘をさして、弓道場へ続くぬれた砂利道を、ひとりで歩いていた。仕事を終えるのに手間取り、いつもより、時間が遅くなっている。
 街灯のあかりに照らされた道は、闇を切りわけて、ほの白く続いていた。左右には、墨を流し込んだような漆黒の森があり、人影はどこにも見えない。
 黒い闇の中で、さまざまなにおいが、蠢いていた。
 ふくらんだ木の芽のにおい、しめった土のにおい、微生物や虫のにおいが、軋みあうように、大気をざわめかせる。
 ざわめきは幾重にも折りかさなって、輪廓のない巨大な影となり、傘にのしかかってきた。
 道の先に、弓道場のあかりが見えた。
 わたしは、あかりのもとへ急いだ。重い扉を押し開け、からだごと、光の中へもぐりこむ。
 弓道場は、いつもと変わりない。
 顔なじみの人びとと、静かに挨拶を交わし、わたしは袴に着替える。心を落ち着けて、射場に出る。
 射場を行き来する足音は、いつも静かだ。長い弓が美しい曲線を描いて、誠実な弦音がひびきわたる。静寂を割るように、的が鳴る。
 わたしは、弓と矢を手にして、的前に立った。
 雨音をぬりこめた暗闇の先、白い蛍光灯に照らしだされた的が、一列に並んでいる。
 一の矢をつがえ、矢に沿って視線を移していく。気のせいか、いつもより的が遠い。
 雨音が、いっそう激しくなった。
 空から放たれた無数の銀の矢が、音をたてて、大地を貫く。鋭い鏃(やじり)が地中深く潜り、とぎすまされた闇の穴を通って、暗い海へと落ちていく。
 銀の鏃は、懐かしい音を響かせて、つぎつぎと海の中に消える。その音は、すぐ近くから聞こえてくる。弦と矢を握っている、わたしの右のてのひらの中から、聞こえる。
 弓が重い。天井が、弓の上端を押しつぶそうとして、床が、弓の下端に吸いついている。とても、わたしなんかの力では、持ち上げることができない。
 呼吸を乱して、わたしはぐいと弓を起こした。
 両腕をいっぱいに伸ばして、弓を頭上に掲げる。水平に引き分けたあとも、矢が粘り気を帯びたように、手から離れない。弓がどんどん重くなる。雨の中に、的が遠くかすんでいく。
 息が上がり、胸が苦しくなって、わたしは無理やり右手を引きはがした。矢は、的までとどかず、途中でふっと消えるように、夜の闇にからめとられた。
 右手は、強い衝撃を受けて顫えていた。体もまた。
「夢はいつまで続くのだろう」
 背後で、いつかきいたことのある声がした。
 白い花の霞が、にじむように浮かび上がった。春の庭をほの白く照らす、朧月が見える。
 あの夜のことが、思い出された。
 彼が影であることは、最初に声をきいたときから、わかっていた。けれど、男の正体も、なぜここにいるのかも、わたしには、ずっとわからなかった。
「あれは、あなたでしょう?」
 わたしは、ふりむかずに訊ねた。背をなでる、無骨でやさしい手の感触。まだ、はっきりとおぼえている。
 彼は黙って、わたしを見ている。
 わたしは二の矢をつがえるのをやめ、的前を離れた。
 早々に弓と矢をしまう。ストーブを囲んでいる人びとから、朗らかなわらい声がきこえてきた。おもわず顔をむけたとき、仲間のひとりと目があった。
 自然に交わされた微笑みが、わたしにまつわりついていた闇の残骸や、不安げな彼の声を、遠ざけたようにおもえた。
 ストーブに近より、あたたかな火に手をかざしていると、もう思い出せなくなった。

 □

 武士はその夜、二重の狩衣を身につけ、井の早太という郎等ひとりをつれて参内した。
 私は武士のことが心配でたまらず、ひそやかにあとをつけた。そして二人がいる紫宸殿(ししんでん)の屋根の上にのぼり、時がくるのを待った。
 帝が毎夜うなされるのは、丑の刻であるという。その時刻になると、東三条の森のほうから一叢の黒雲があらわれ、御殿の上にたなびくのだという。
 しかし、丑の刻を過ぎても黒雲はあらわれない。
「矢を放ってください」
 突然に、井の早太がささやいた。
「このまま、なにごともなかったではすまされません。(ちょく)を受けた以上、なにがなんでも物の怪を仕留めねばならないのです」
 武士は眉をひそめ、いい返した。
「しかし、話にきく黒雲はあらわれていないではないか」
「黒雲はあらわれたのです。話どおりに御殿の上に。その黒雲のなかに物の怪がいたのです。あなたはその物の怪めがけて矢を射かけ、みごと仕留めてみせるのです。そうでなくてはなりません。屍さえ用意すれば、あとは世の噂が勝手に事実を作り上げてくれます」
「わしに虚言をせよというのか」
「まだわからないのですか。此度のことは、ただの悪霊払いとは事情が違います。左少弁雅頼殿は、あなたを陥れようとしているのです。万一の場合には、左少弁殿を討つ覚悟でいてください。いいですね」
 たたみかけるようにそういって、井の早太は屋根の上を見た。
「あの猫を身代わりにいたしましょう」
 早太は私を見つけて指をさし、弓を起こすと矢をつがえた。
「私たちが見た物の怪は、頭が猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎のすがたをした、見るも恐ろしい怪物であったと証言してください。そして鳴く声は(ぬえ)に似ていたと」
 紫宸殿(ししんでん)の上空には薄い雲が流れていた。雲を割って射しこむ月の明かりが、屋根の上にいる私を照らした。
 矢が私をねらい、私は恐ろしさに顫えた。逃げようともがけばもがくほど、重くのしかかるものがあり、からだがうごかなかった。
「まてっ」
 武士が叫んだ。叫び声と同時に、私はなにものかに突き飛ばされた。矢は乾いた鋭いひびきをたてて空気を裂き、屋根の上にいた猫の腹に命中した。
 猫は鳴き声ひとつたてず、屋根の上から転がり落ちた。猫が身をねじるようにして落ちていくのを、私は茫然と見ていた。
 武士がすぐさま猫にかけより、そっと抱き上げた。武士の腕の中で、猫はひと声弱々しく鳴いた。武士がやさしくからだをなでると、満足そうに息絶えた。
 ほの白い月の光が、武士の足もとに淡い影を描いている。やわらかな風が空をわたり、夜空を舞う花吹雪が、猫を抱く武士の丸い背中に降りつもっていく。
 ふりむいた私の目に、月の光を浴びて清かに浮かび上がる、満開の桜が映った。

 □

 とてもゆるやかに、冬の日が暮れようとしていた。
 声をきいたような気がして、わたしは矢取り道の途中で、ふりかえった。
 桜の大木は、かたくなに沈黙をまもり、悠然とたたずんでいる。空に伸びた枝の先には、まだ当分、開こうとしない蕾が、息をひそめて静かに春を待っている。
 遠い昔の、物語だった。
 平安時代、源頼政という、ひとりの武将がいた。
 京の御所に夜ごとあらわれ、天皇を苦しめていた恐ろしい怪物を、みごと弓で仕留めた。頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎のすがたをしていたという。
 怪物の屍は、たたりを恐れて切り刻まれ、船にのせて川に流された。
 遠い昔、だれかが語った、夢物語だった。
 昼間の練習を終えた冬の弓道場は、しんと静まりかえっている。
 凍るように冷たい風が、わたしの襟あしをすくって、流れていった。かじかんだ両手をこすり合わせても、ぬくもりがもどってこない。
 射場のおくに、ひとが集まりはじめていた。
 まもなく、夜間の練習がはじまる。
 せっかちなだれかがストーブに火をつけ、いつものように、みんなで赤い火を囲んでいる。胸のおくから、安らかなぬくもりがこみあげてくる。
 射場へもどろうとしたわたしの足もとに、一枚の白い花びらが落ちてきた。
 夕暮れの空に、花吹雪が舞っていた。
 満開の桜が頭上を埋めつくし、泡沫のような白い霞が音もなく揺れている。
 物語は語りつがれていく。
 夢物語を語っているのは、遠い昔のだれかじゃない──わたし。
 わたしは射場にもどり、弓と矢を持って、的前に立つ。
 風に舞う花びらが空を覆った。私はほの白い灯火となって、深い沈黙の闇の中をどこまでも沈んでいく。
 あたりを埋めつくした花吹雪も、射場のおくに点った赤い火も、懐かしい影となって、遠ざかっていく。
 暗闇の中で、大きく、静かに、呼吸する音が聞こえる。
 ひとりでに弓が起こり、そうなることが自然であるかのように、引き絞られる。ここにいないわたしのかわりに、誰が弓を引いているのか、わからないまま。
 大きなうねりが、軽々と矢を運んで、わたしは一直線に的へと向かう。解き放たれた自由さで、わたしへ向かう。
 遠い空で、青白い月が、睡るように宿っている。
 声が聞こえる。
 決してたどることのできない、はるか遠い場所で、だれかが物語を語っている。
 わたしもまた、物語の中にいる。

結びあう夢

結びあう夢

その声は、まるで空から降ってきたように、遠くから近づいてきた──。 『平家物語』の「鵺」を題材にした短編ファンタジーです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-13

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