自殺文書

一階堂 洋

 ブルーサファイヤはいなくなったのではなかった。
 ハムスターは自動的にいなくなるものだ、などという嘘偽りが、ついに破綻を迎えた。私はその時何度もわめいて、何度も母親をなじった。「『アオ』は他人の家に行っちゃったのよ」という文言は、あっさり崩れた。砂の城は崩れるものである、嘘は砂の城である、と私は便座の前に屈みこんで考えていた。一度だけ胃の中の物を戻したが、二度目はなかった。私はひどい人間だった。母親はしばらく私の背中をさすっていたけれども、そのうち家事に戻っていった。私もいつしか便座から離れた。しばらく私は『アオ』を家のドアに挟んだ時の感覚を覚えていたけれど、いつか忘れた。飼育箱は残っているが、それは『アオ』で無くても残せるものだった。そうして『アオ』は完全にいなくなった。
 母の中では、所詮は娘が自分の飼っていたハムスターをドアに挟んで殺したと言うだけだ。私も、妹のおもちゃを壊してしまったことがあった。その時、私は「形あるものはいずれ壊れる」と言って父親にひどく叱られた。妹の玩具は永遠に冷たいままで壊れた。それと同じように、ただ私の『アオ』はたまたま壊れる前は暖かかっただけだ。ホッカイロを切り開いて、ぶちまけてしまったように。
 そう思っていたのが、中学生くらいの時だ。当時、私はこの世のことが大体なんでもわかっていた。身の回りのことは全てシャボン玉みたいに側面を変え回転しながら光っているようで、私にはその全てが完璧に分かっていた。そのシャボン玉がどうやってそこにいるのかも、それがどうしてそこにあるべきなのかも、一体自分が何を思っているのかも、そういったもの、全部だ。私は洋画みたくシニカルにハムスターの喪失を笑えたし、それと同じくらい涙を流せた。
 日記帳はこまめにつけていた。今でも押入れの中にきちんと保管してある。読み返す気力はもうない。たぶん、携帯の予測変換に昔打った文字がふっと出てくるように、何かにつけて書いたことを思い出すのだ。
 私はそう思いながら『ペットフィールド』というペットショップで売られているブルーサファイヤを見る。『アオ』の顔はもう覚えていない。
 高校生になると、いつの間にかシャボン玉は回転を止める。安っぽい液で作ったシャボンみたいに、それはくちゃっとつぶれるように割れて、中からは何かが落ちてくる。近づかないとわからないが、それはたいてい光っていない。私はなんでこんなものがシャボンの中に入っていたか知らぬ。なぜあるべきかも知らぬ。私は何も知らない。
 それがやばければ私達は喜ぶし、やばくなければ私達は何もしない。数学はやばくないし、インターネットにはやばいものがたくさん転がっている。そういうものだ。『ペットフィールド』にもやばいものはたくさん転がっている。私達のストレス解消だ。
「めっちゃ回ってるじゃん! やばい! めっちゃカワイイ! ブルーサファイヤやばい!」
 と言って私達はひと通り盛り上がって、ニヤニヤ笑いながら『ペットフィールド』から出る。外では太陽の端が山に隠れて、雲を橙に染めている頃だった。
 七月は夕方になっても暑い。私達は『ペットフィールド』まで一緒にいるが、それからは別々の場所に帰ってゆく。
「じゃ」
 と短い挨拶を交わして、濃い緑のダサいスカートを履いた連中はちってゆく。私も自転車にまたがって、スクールバックを背負ってペダルを踏み込んだ。汗で背中に服が張り付くのがたまらなく嫌だったが、かごに入れていて、何かのはずみでバックが飛び出してしまうのはもっと嫌だった。
 夏休みはもうすぐそこに迫っている。
 帰る時、今日は太陽が沈んでから真っ暗になるまでが不安なくらい早いと思った。

 お昼休みは必ず四人の机をくっつけてご飯を食べる。教室の中はエアコンが効いている。平成二十数年になって、よかったのはそれだけで、ほかのことは変わった気がしない。携帯はいまだ折り畳みだし、テトリスができるようになった以外に進歩はない。扇風機とエアコンという二つの利器が教室では作動している。
 クラスの総意として、夏場の昼はエアコンをずっと入れるようにしている。原始時代に火を絶やさぬようにした事を思い起こさせる、という趣旨のことを私が言ったら、それはやばいという話へと発展した。
「文明! めっちゃ文明初期!」
「マジ、うちらアウストラロピテクスかっての!」
「あんた、今日からピテクスね」
 ぎゃはは、と私達は手を叩きながらそれこそ猿のように笑う。道具を作った人と、それを使う人は違うし、それを使う人が十分に賢いとも限らない。
 私は話しながら窓の外を眺めた。遠くには赤と白の鉄塔がある。何のために立っているかはわからない。ただ、鉄塔の先は必ず三秒に一回瞬く。やばかったり、そうでない私の生活で、たぶんいちばん正確なのは数学教師でもホームルームで人生訓を垂れる担任でもなく、あの鉄塔だ。だから私はあの鉄塔をよく見る。まるで、太陽とか月とかみたいに、人知の及ばない正確さで鉄塔の先端は光っているように思えた。
 七月も終りが近い。明日が最後の日、次が夏休み。長い長い夏休みは、部活に入っていない私にとっては汗と熱の季節だ。私は携帯を開いて、テトリスを起動する。
「何やってんの?」
「テトリス」
 私がそう答えると、残りの三人は画面を覗きこんで、口々になにかいう。
「うわ、この棒めっちゃ長いじゃん。こればっかりずっと降ってくる設定にできないの?」
「そんなわけないでしょ、それだったら猿でも出来るでしょ」
「じゃあ逆にうちらが猿ってことで」
 私にも、たぶん誰にもこの会話の正確な意味はわからないだろう。ただ、私達はとにかくしゃべるし、とにかく笑う。それだけだ。
「もうすぐ夏休みじゃんね」
 誰ともなくそういいだした時には本鈴が鳴って、そうなってようやく私たちは弁当箱をしまってノートやらを出したりする。お弁当のにおいがする教室も、そのうちエアコンで無臭になる。担任は大掃除の日程を貼りだす。鉄塔だけがパチ、パチ、と瞬いている。


 昔こんな映画を見た。無人島に漂流した男が、ボールを友人にする話だ。そのボールは主人公の唯一の話し相手となった。俺にボールはない。
「パスタうまいか」
「うまいよ」
 二人とも俺だ。俺は自分で小麦粉を買い、自分で玉ねぎを炒め、豚肉を炒め、キャベツを炒め、しめじを炒め、クリームソースを作って食う。
「今日はだまにならなかったな」
「小麦粉を先に入れて混ぜた後牛乳を入れたからな」
 ずっとこういう生活を続けている。
 一人で田舎の安アパートで身をやつすのに、さほど苦労は要らなかった。電話線は引いていたが、新聞も携帯電話もテレビも持つ気にはなれなかった。バイト先の大学生には煙たがられた。電話番号は誰にも教えていない。親とはいつからか連絡がとれなくなった。俺の名前を知っている人はたぶんバイト先の店長くらいしかいなくなった。
 セミの声が遠くから聞こえたかと思うと、窓のすぐそばの木から鳴き叫んでいる。夏は何をしていても汗をかく。
 コンビニの深夜のアルバイトは時給が四ケタに達する。代価は時間と生活リズムだけだったから、適しているといえば適していた。
 外は薄暗い。今からずっと寝て、夜に起きる。ずれがちな生活リズムだとはわかっている、けれど、それ以外にどうしようもない。
「そろそろ寝ないとな」
「全くだ」
 二人とも俺だ。
 畳んだ布団を敷きなおして、タオルケットにくるまって目をつぶる。そろそろ蝉の種類が変わる。時間はそういう風に過ぎてゆく。
 いつか、この季節が終わる日が来るのだろうか。終わるとしたら、それは一体どんな形だろうか、最近そればかりを考えるようになっていた。


 夏休みになると、私は寝てばかりいる。ずっと寝ている。エアコンはないし、扇風機もうるさいからつけない。食べ物も牛乳と卵、あと果物ばかりを食べている。畳の六畳間にタオルケットを丸めて枕代わりにしてずっと寝ている。自分がだんだんと弱まってゆくのが、いつからかたまらなく面白くなった。日記帳もこういう時は饒舌になる。『血管を拡大してみたい、赤血球が飢えているのが見たい』と、心にもないことを書いて、これだから私は日記帳を読み返さないのだ、だって嘘ばかりを書くから、と呟いた。ほんの少しはその通りだと思うし、実のところ、それとは全然違う気もする。だって、本当に自分が思いたいことなんて、言葉に出すことなんてできるだろうか。思っているけれど、言ってはいけないような気がしていること、言ったら何かが吹き飛んでしまうような気がしていること。
「ご飯は?」
 母親が私の顔を覗き込んで聞いた。母親としては娘が怪しいことをしているのは嫌なのだろう。
「いらない」
 私は少し笑いながら言う。風がカーテンを揺らして、私の顔に影を作ってはひいてゆく。
「寝てばっかだから別にいいけど、毎年ひどい夏バテ」
「牛乳と卵で人は生きていけるから、余裕」
 と私はぬかす。「あ、ビタミン・シーも」と付け加えて、ニヤッと笑うと、母親もニヤッと笑った。体から生気が奪われてゆくのは心地よい。体がある周期でかあっとほてったり、また冷え切ったり、震えが来たり、そういうのが本当に好ましい。私は自分の体に対してナルシストだと思う。
 私はへんに背が高いし、首もほかの人に比べて長いし、右だけ二重瞼だけだから自分の体の造形は嫌いだけれど、私の体が精いっぱい生きようとするのも、それを抑えるのは私の心意気だ、というのも大変気に入っていた。そして、その程度ではたぶん死ぬことなんて出来ないだろうということも分かっていた。
 外では蝉がうるさいくらいないている。哀れ、哀れ哀れ、と節をつけて私は歌った。長い長い夏休みが続く。遠くでは子供の声がする。毎年、テープレコーダーに録音されて、町内会の物好きが流しているのかもしれない。

 夏は夜。私はこの言葉の先を知らぬ。けれど、彼女の言いたかったことはなんとなくわかる。夏の夜は蝉がなぜだか黙る。まるで、夜にないたら絶対にその後相手は見つけられなくなってしまう規則があるかのように。
 昼間は力がなくて外に出られないけれど、深夜頃になるとアスファルトもようやく冷えてきて、だいぶ外に出やすくなる。だから、私は毎晩十一時くらいから零時くらいまで散歩をしている。両親にはいい顔をされぬ。
 夏の夜の空気は湿っている。秋雨みたいな、肺胞をじくじく腐らせていくような湿り気ではなくて、太陽から隠れていた水滴たちが空気を駆け回っているような湿り気だ。
 田舎の景色は見るものがない。この退屈さも含めて、高校二年生の夏休みというものは過ぎ去ってゆく。ほかの友達は楽しげにやっているだろうか。


 大掃除を冬の終わりにすると出てくる、水分の抜けきったトンボに最低限の肉をつけたような女が、突然俺の家に訪ねて来て、「頼むから今日中に亡くなっていただけませんか」と、まるで宅急便のはんこを催促するように言ったので、驚いてしまった。後には、国の国勢調査云々といった文言の封筒が一通残されただけだった。そんな話は聞いたこともなかったが、不思議と嘘とも思えなかった。女からもらった鴬色の封筒をひっくり返してみて太陽に透かしてみても、何か見えるということもなかった。
 午後六時を過ぎていた。後六時間でどうにかしないと、と思って、女からもらった『定期国勢調査事務局』なる所に電話をかけた。若い声の女が出た。エー・ティー・エムの電子音声を限りなく肉声に近づけた、または普通の女の脳みそをまるごと機械に変えたみたいな声だった。事情を告げてから、こういう事は昔からあったのか、という旨の事を伝えた。悪ふざけはやめてくれ、と伝えたかったのだが、その女は「ああ、今日中になっていますね、よろしくお願い致します」と言って、質問にも答えずに電話を切った。しばらく受話器を握っていた。まるで、風船を間違えて空にはなってしまった後もずっと手を握りこんでいるみたいに。
 かけ直すのも馬鹿らしいと思って、かと言って、あのトンボ女の言うとおりにしない理由もなかった。
 手首を切って湯を張った洗面器につけようか、とか、首をつろうか、とか考えた末に、池に飛び込もう、と思った。歩いて二十分くらいの所に巨大な貯水池があって、夜には誰もいなくなってしまう。背の高い大きな土手を作って、盛土の中に水をためる構造だった。三辺を土手で作って、最後の一辺は山の斜面を利用していた。五年くらい前に行った時は、盛土の一番上には飛び込み板のような監視台が張り出していたのを思い出した。入水にはうってつけの場所だ。少し笑って、すぐにやめた。腹の底がすとんと冷えて、その後に腰から上と下が切り離されたみたいに感じた。上半身は熱を持ってぼおっとして、足はすっかり冷えきっている。
 池に飛び込んでも、結局は浮いてしまうことは分かっていた。ビニール紐を用意していこうと思った。石を括りつけて飛び込めば大丈夫だろう。俺はたまらなくなって冷蔵庫から卵をとりだして一つ一つ手で潰した。先細りの楕円を手で包み込むように握って力を込めても、卵は割れなかった。中指と人差し指と親指で挟んだら、冷たい卵にヒビが入り、壊れていった。黄身の皮がカラザと強く結びついていた。シンクに落ちた濃い黄色には、ところどころ、赤褐色のつぶが混ざっていた。食べなくてよかったと思った。「はじめから冷たい卵だ」と気がついたら繰り返していた。
「冷たい卵だ。そうだよな」
「そうだ。これは冷たく売られていた」
 最後の一つを割るまで、その祝詞をやめては行けないような気がした。内側の薄膜と酸化亜鉛のような殻とが強く張り付いていた。卵が冷たいうちに全て潰さねばならぬという焦りがあった。時計は十一時を回っていた。「早くしなないと」と呟いた。まるで、バイトに行く時に「早くしないと」と言うみたいに。
 手を洗って、着替えをした。ビニール紐と封筒をいつも使っている肩掛けバックに入れて、手を洗う。歯を磨いて、ひとしきりバカらしさのあまり笑ってしまった。まるでバイトの面接に行くみたいだ。「ハンカチは」とつまらぬジョークを飛ばしたら、本当に笑いそうになった。俺は鍵を掛けて家を出た。


 いきなり「今日中に何らかの方法で生を断って欲しい」と言われた。
 即身仏に肉を付けたけれど、やはりうまく貼りつかずにだんだん崩れていっている、といった風の女性が昼過ぎに訪ねてきて、私にそう言った。分厚い眼鏡の向こうでよどんだ瞳がじっと見据えていた。その時はたまたま調子がよくて、牛乳も卵も食べたときだったから、「はい、わかりました」といってその五十を少し超えたくらいの女性を見送った。彼女は汗を全くかいていなかった。あとには彼女から手渡された鶯色の細長い封筒が残された。国勢調査業者と丁寧に書いてあった。私はぼおっとそれを眺めていた。そのまま何時間か経った。
 時計を見ると午後の七時を少し回ったところで、ダイニングでは家族が食事をとっていた。私はそこに行くと、母親が、「食べる?」と聞いた。久しぶりに噛んだご飯はびっくりするくらい甘くて、一人で笑っていたら家族中から「気持ち悪い」と言われた。胃がきゅうと縮んで、嬉しそうに音を立てた。私はもっと楽しくなってしまって、泣きそうになって、結局ご飯を一杯食べただけで「ごちそうさま」と言った。
「だって甘いんだよ? 笑っちゃうよ、そりゃ、やばいよ。めちゃくちゃやばい」
 家族にはやばさを理解されなかった。友達にメールを送ろうかと思ったけれど、いつもたむろしている人全員が持っているわけではなかったので送らなかった。
「池ってまだあるよね、あの小学校の近くにあったやつ」
 何とはなしにそういって、そうだ、あの四角い池なら大丈夫だと気が付いた。山の斜面から大きな土手を張り出させて、水を貯めるタイプのものだった。小学生の時は行ったら怒られたものだった。昔は用水として使われていたらしいが、今ではさっぱり使っているという話も聞かない。
「さぁ……。散歩? 気をつけてね、最近あそこらへんは工事が多いから」
 そういった話をして、私は結局部屋に戻った。あの老婆から渡されたたった一枚の紙を何回も読んだ。
 私の体がこんなにも生きたがっている事がたまらなくいとおしく、しかれども、国の関係の事業だから、とも思った。体中の細胞が最後の息を吸っているように思えて、私は自分の部屋にこもって自分の体に手をまわしてみた。ほかの人に比べて長い腕が初めて役に立ったと思った。おなかのそこがぎゅうっと熱くなった。気が付いたら私は汗をかいていた。久しぶりの汗だった。私はなぜだか泣きそうな気持で服を着替えた。
 最後に会っておきたい人を考えたら思ったよりたくさんいて、けれども、ぜったいにこの人と会いたいということになると誰もいないのだった。たぶん、たくさんいる人の誰かでも目の前に出てきたら、私は足を止めてしまうかもしれないけれど、今足を止める前向きな理由もないのだ。学校の授業で、当てられたら答えるけれど、当てられるまでは答えない、といったように。

 いつもと同じ十一時に鴬色の封筒を持って家を出た。
 夜の道はいつもと変わって見える。青い光に羽虫が飛んで行って、嫌な音を立ててはじけ飛ぶたびに、哀れ、哀れ哀れと繰り返して私は歩いた。
 ミュージックプレイヤーを忘れてしまったから、私は耳元を飛ぶ蚊の羽音や、草むらに潜んでいる虫の声がよく聞こえた。
 私は『アオ』をどうしたというのだろうか。『アオ』はほんとうはいつドアに挟まれるべきだったのだろうか。どこかでお湯を詰めた水風船が破裂しても私は全然かまわないはずだった。たぶん、今日もどこかの家で『アオ』に似たハムスターが不注意で死ぬ。偶然の事故で殺される。



 田舎の道は誰もいない。全員がこっそりどこかに隠れたように。初めから存在する期間が決まっていて、それが過ぎたからただ単にいなくなっただけだというように。虫の声が湿った夜の空気を縫うようにやってきて、また途切れる。
 気がつけば歩幅は狭くなってゆく。池までは民家に挟まれた坂を登っていかなければならない。街灯はだいぶ離れた所に突っ立っている。つぎはぎだらけのアスファルトに躓きそうになりながら歩いた。
 民家が並んでいるが、それのどれにも灯はない。池の近くはもう年を召した人しか住んでいない。この列になった家のほとんどの人が明日を迎えるだろう。
 家の木々は野放図になっている。それが街灯の弱い光を受けて、黒緑に光っている。その光り方も、たぶん、俺が子供の時に見たのと同じだ。
「俺が子供の時と変わってないな」
「田舎は変わらないさ。小学校の同級生の苗字と同じ名前のバス停もそのままだ」
 ひとりごとを続けながら歩く。声が思ったより震えていた。もうひとりごとはしてはいけないと決めた。肩にかけたバックは思ったよりもずっと重く感じる。
 遠くに誰か歩いているのが見えた。俺よりもずっと遅い歩調だったから、すぐに追いついてしまった。髪の短い、ジーンズに長袖のシャツを着ている女のようだった。
「こんばんは」
「こんばんは」
 その女はこちらを振り返るように頭を下げて、またすぐに前を向いた。
 俺はもう一度こんばんは、といいそうになって慌てて飲み込んだ。彼女の顔はよくわからなかったが、手足の長い、ずいぶん痩せた女性だった。
 何度か分岐があって、その時に彼女はいなくなるのだろう、と思っていたが、そうはならなかった。二つの影が街灯から遠いところでは薄く長く伸びて、近づくと輪郭をはっきりと写しだした。俺は女の後ろを歩いた。
 肩掛けの中に紐があり、目の前には細い首があった。
 俺は湿り気の中を歩いている。腹の底はずっと冷えきっていて、足の裏は地面ではなくてその一ミリ上くらいをずっと滑っているみたいに感じる。街灯に首が照らされる。紐がバックの中で揺れるのがわかった。例えば、この紐を首にかけるたらどうなるだろう、と半ば好奇心に似た気持ちを持った。やけくそはたぶん、こんなふうに始まってしまう。
 俺はこれが終わったら池に落ちる、と決心した。バッグのジッパーを開けて、中から紐を取り出した。夏の夜はどこからか草の匂いがする。
 彼女は俺が何をするか気が付いていない。自分の手が白っぽく浮かんで見えた。背景がデカルコマニーのように溶けていって、俺は大きく息を吸い込んだ。街灯の光が近づいてくる。自分が歩くたびに視点が上下するのがたまらなくもどかしい。ビニールの紐が蛍光灯の光を反射して白く輝いた。紐を手に巻きつけた。ゆっくりと女の頭に近づけてゆく。白い光が濃さを増していった。映画の一番最後にホワイトアウトするみたいに。
 その時に、女の手に鴬色の封筒が握られているのが見えて、俺は息をふっと吐き出してしまった。街灯の真下であった。影はくっきりとアスファルトに塗られている。こちらを向いて、どうしたんですか、と聞いてきた声は、よく聞けば、俺の声に似た震えを持っている。思ったよりもずっと若い顔をしている。夜の匂いがたまらなく溢れてくる。たぶん、二人共あの池に向かっている。少女は俺の手に握られた紐をじっとみて、薄い唇を何かうごめかした。
 俺はバッグに紐を戻して、封筒を取り出す。手は震えている。ビニール紐の跡が薄赤く手に残されている。
「俺も、封筒を、もらっているから」
 少女は大変疲れた顔を見せて、眉をひそめるように笑った。卑屈そうに見える笑みだったが、それは諦観を表しているのだとわかった。
「そうですか。池ですか」
 彼女は断定の響きを持ってそう言った。夏の夜の匂いはすっかり収まっている。

 少女と結局池の近くまで歩いてしまった。左手には田んぼがあって、右には池への道がある。螺旋を描くように土の道が伸びていて、そこを登ってゆくと丁度池の一番ヘリにたどり着く。
 言葉はかわさなかった。街灯は切れっぱなしになっていて、辺りは月が照らすだけになっていた。あたりの様子はよくわからない。少女が前を歩いて、俺がその後ろをついていった。
 螺旋の道を歩くたびに、血流がゆっくりになったり、早くなったりした。永久にこの螺旋の道が続いて、もっとずっと高くまで登れればいいのに、と思った。結局、自分の身をやつすだけの力はなかったし、それを止めるだけの物事もなかった。コンビニの店長は、長年やってきたバイトが無断欠勤と言って怒るだろう。大学生のバイトはおそらくせいせいしたとでも思うだろうか。他に俺が消えたことを知ってくれる人はいない。
 彼女の手に握られている鴬色の封筒の先は細かく震えている。それは決して歩いているだけでは起こらない震えだった。
 俺たちは歩を止めなかったから、結局、あっさりとふちにまで辿り着いた。肺が握りこぶしくらいになってしまったみたいに呼吸が浅くなっている。

 池は枯れていた。
 四角く囲まれた土手の一角に大きく切れ込みが入っていて、そこから水が吐き出されたのだろう。眼下にはトラックがじっとうずくまっていた。鉄のプレートが敷かれているのが月光の反射で分かった。橙色の立て札が置いてある。夏の熱気で蒸発してしまったのだろうか、水気はどこにも見つからない。監視塔ももちろん壊されている。土手は外側の裾は螺旋を登らないと行けなかったが、内側の裾はなだらかに伸びていた。とても、ここから飛び降りてもどうにかなるとは思えない。
 肺がふうっと軽くなって、鮮烈な空気が肺にぱっと満たされた。どこかで虫が小さな鳴き声をあげた。耳元で蚊が高い羽音を出しながら飛び去っていった。
 我々はしばらく呆然としていたが、やがて笑い出した。
「やばい、なにこれ、めっちゃやばいじゃん」
 少女は誰ともなくそう言ってから、俺の方を見てきた。泣きそうな笑顔をする。久しぶりに美しい笑顔を見たと思った。
 まるで、綱渡りを失敗した時、ちゃんとネットにキャッチされたみたいに、笑い声が出なくなるくらいまで笑う。
「あの女だよな、トンボみたいな顔の」
「当たり前でしょ、もう無理でしょ、今日中って」
「十二時を回ったよ、今」
 更に笑う。
 彼女は声が出なくなってもうずくまって肩を震わせて笑っていたが、そのうち立ち上がって深呼吸をした。時間がしばらく過ぎた。
「あ、灯台だ」
 彼女はそう言って遠くを指さした。何秒かに一回光る何かが確かに街の底から突き出して、我々の見えるギリギリの位置にあった。
 その灯台は全く揺るがずにチカリチカリと点滅していた。モノリスのように。誰の作ったかわからないオーパーツのように。あの塔が池の水を抜いたのかもしれない、馬鹿らしいが、何故かそう感じられた。
 彼女が空を見上げると、首筋の線が光に照らされた。淡い光の粒子を限りなく輪郭にまぶしたような細い首だった。
「昔ね、アオっていうハムスターが死んだ、私が殺したんだけどね」
 彼女はいきなりそう言って、「それだけなんだけど」と落ち着いた声で言った。
 話はそれきりで終わった。我々はどちらともなく踵を返して、来た道を戻って行った。帰り道、彼女はずっとへたな歌を歌っていた。ひたすらに明るい曲だった。俺は知っているところだけ少し重ねて歌った。

 結局、あのトンボのような女はそれから来なかった。ニュースでも自殺の話題が取り上げられることはなかった。封筒に書かれていた電話番号に掛けても使われていないと言われた。大切に取っておいたはずの封筒もいつかなくしてしまって、結局、あの封筒と、トンボ女の事はわからずじまいだった。
 バイトはまだ続けている。あの少女とあれから会ったことはない。

自殺文書

自殺文書

北日本文学賞三次落選作品。いきなり死ねとか言われてもちょっと困るなぁと言う話です。次は頑張ります。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-13

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