うらみはらさで・・・ヨミランドの風
第一章 ヨミランド
1
ミルク色の霧が晴れるように少しずつ意識が戻ってきた。
大庭加奈子はどんよりと澱んだ霧の残滓を振り払うように二・三度頭を振った。それでもまだぼんやりとしていて頭の中心が重苦しい。
加奈子は腰掛けていた硬い樹脂製の椅子から何とか立ち上がり、ぐるりと一回転して周囲を見回した。
加奈子が目にしたのは奇妙なスペースだった。バレーボールのコートなら三面は取れそうな広い部屋がスチール製のパテーションで2メートル四方ほどの方眼状に整然と区割りされている。相撲の升席のようだがパテーションの高さが胸ほどまであり、椅子に座っていれば周囲の様子はほとんど見えない。
それほど息苦しさを感じさせないのは天井がないためだろう。
そんな造りのコンパートメントの中で加奈子は目を覚ましたのだった。
まだ夜なのだろうか、広い部屋の両側の壁には大きな窓が穿たれているようだが厚手のカーテンが閉められている。しかし暗いわけではない。所々に灯された室内灯が部屋全体を居心地の良い明るさで包み込んでいる。
そうこうしているうちにあちこちの区割りから頭を覗かせてきょろきょろと周囲を見回す男女の顔が増えてきた。意識を取り戻したものの自分の置かれている状況がまったく判らない。そんな様子が感じられた。
パテーションは右側の一面だけが少し短くて、開いた部分が個室の出入り口になっていた。ドアはない。出入り口から顔を出して見ると一メートル程度の幅を持った通路で、加奈子が意識を取り戻した区割りと同じような小部屋が一列に十数部屋並んでいるのが見える。加奈子のコンパートメントは列の前のほうで、あと二区画ほど先にロビーへの出口があった。
加奈子はそのまま思い切って一歩通路に足を踏み出してみた。
疲れが溜まっているのか、足元が大きくふらつく。もう少し休んでいたほうが良いと自分に言い聞かせて、今出てきたばかりのコンパートメントを振り返ると、入り口の横に大きくE3と表示されている。前後の区割りにはそれぞれE2・E4と記されている。きっと劇場の指定席のように加奈子の区割りがE列3番ということなのだろう。自分の胸にも小さなアクリルのネームプレートが付けられており、大庭加奈子という名前の下にE3というルームナンバーが記入されていた。
大庭加奈子は次の瞬間思わず「キャッ」と小さく叫んで自分のコンパートメントに逃げ込んだ。ネームプレートに目をやったとき、自分が身に着けている衣装にはじめて気付いたからだった。いつ着替えたのかまったく覚えてはいなかったが、人間ドックで着せられる検査着のようなものを一枚身に着けているだけなのである。
「なに、これ?」
締め付けるものが何もない爽やかな開放感に、恐る恐る前のあわせをめくってみる。思ったとおり下着一枚身に着けていない。自分で脱いだ覚えはない。ならば誰かに…? そんな記憶もまったくなかった。
加奈子は脱いだ衣服や持っていたはずの荷物がコンパートメントの中に置かれてはいないか捜してみた。しかしわずか二メートル四方の区割りである。どこにもないのは一目瞭然だった。
「ここはいったいどこ? 病院なの?」
硬い椅子にもう一度腰を下ろし、加奈子は首をかしげた。意識は戻ったのだが、この部屋や着衣に関する記憶が一切ないのである。それどころかこの何日間、あるいは何十日間の記憶がほとんどなにも思い出せないほど希薄なのだ。記憶喪失。どこかで聞き覚えたその病名が頭に浮かび、加奈子を混乱させ始めた。
コンパートメントの冷たく硬い椅子に腰掛け、何とかして記憶の糸口を探し出そうとしていると、加奈子の不安を和らげる静かな音楽が室内に流れ始めた。
室内灯が明るさを増し同時に窓を閉ざしていたカーテンが左右に分れるように開いていく。眩しい陽光が部屋に満ちた。
続いてアナウンスが入った。
「おはようございます。皆様にお知らせいたします。このフェニックス丸はあとおよそ三時間ほどで、対岸のヨミランドに着岸いたします。ヨミウリランドではありません。ヨミランドです。船室前方のラウンジに簡単な朝食を準備させていただきましたので、お食事をお済ませの上お席またはロビーにて今しばらくおくつろぎください。なお皆様からお預かりしております『記憶』は、下船の後入国審査の開始までにお返しいたしますので、どうかご心配なさらぬようお願いいたします」
優しそうな、しかしどこか事務的な女性の声は、それだけを伝えると沈黙した。
「フェリー? 船の中なの、ここは? それでふわふわした感じがしたのか。でもどうして私はフェリーなんかに乗っているの? 入国審査ってなに? 記憶を返すってどういうこと? ヨミランドってどこ?」
アナウンスを聞いて、大庭加奈子の胸の中には『?』がかえって次々と頭をもたげはじめた。???
何はともあれこの場所にいつまでいても何の進展もなさそうだ。それに少しおなかも空いたし。加奈子は意を決してラウンジへ行ってみることにした。
大庭加奈子は通路を進みロビーに出た。そこにはまだ十名足らずの船客が集まっているだけだったが、振り返るとA列からH列まである客室のそれぞれの出口から、お揃いの衣装を着け皆一様に不安そうな表情を浮かべた船客たちがぞろぞろ続いて、ロビーはたちまち百名ほどの男女で溢れかえった。左右三十メートル、奥行き十メートルほどの横に長い形をしたロビーには、窓際やそのほかバランスの良い数箇所に長椅子とガラステーブルがの揺れに動かぬように固定され、それとペアになって小型の冷蔵庫が備え付けられている。冷蔵庫には『御自由にお飲みください』という表示があり、ジュースやコーヒーなどのソフトドリンクがサービスとして入っていた。
朝食会場のラウンジは探すまでもなくロビー前方にあった。ブラウンの淡いスモークが入った硬質ガラス製のドアに、フェニックスラウンジと記したプレートが貼られている。
船客たちは入ってよいものかどうかお互い顔を見合わせ少し躊躇したけれど最初の一人が自動ドアをくぐると次々と後に続いた。
フェニックスラウンジはロビーに負けないほどの広さで、その中央にヴァイキングの和洋豊富なメニューを置いたドーナツ型のカウンターが配置されていた。加奈子がラウンジに入るとウェイトレスが皿を乗せたトレイを手渡し「おはようございます。お好きなものをお選びください。お席は窓側にご用意いたしました」と微笑んだ。
朝食には少し多すぎるくらいの品数を選びウェイトレスから示された窓のほうへ行くと、
大庭加奈子様と記されたネームプレートを置いた席が用意されていた。
コンパートメントのものよりはるかに座り心地の良いいすに腰かけて窓の外に目をやると、白い波を後ろへと広げていく水面があった。フェリーの中にいることは間違いないようだ。遥か彼方に陸地が陽炎のように霞んでいる。あれが案内放送で言っていたヨミランドなのだろうか? きっとそうなのだろう。それにしてもヨミランドっていったいどこなんだろう? そんな地名はいくら考えても思い出せない。加奈子はついに諦めた。向こうに着いたら記憶が戻るらしいから、それまではなるべく気楽に構えることにしよう。自分にそう言い聞かせて加奈子は食事を始めた。
ゆっくりと流れる窓外の景色に目をやりながら食事をしていると「コーヒーのおかわりは如何ですか」という可愛らしい声が聞こえた。
振り向くとコーヒーポットを持ったメイド服姿の少女が笑顔を見せて立っている。
「ありがとう。いただくわ」加奈子が注文すると、ウエイトレスは「かしこまりました」
と笑顔を見せ加奈子のカップに温かいコーヒーを満たした。
「ねえ」
立ち去ろうとする少女に加奈子は声をかけた。
「はい?なんでしょうか?」
ウエイトレスは加奈子に笑顔を向けた。思わずどきどきしてしまうような黒くて大きな瞳だった。
「ヨミランドってどんなところなの?」
加奈子は思い切って尋ねてみた。
「申し訳ありません。規則で私たちからはお教えできないことになっております」
少女は本当に悲しそうな表情で加奈子に頭を下げた。
「そうなの」加奈子も深く追求はせず「じゃあ、今渡っているのはどこの海なのかしら?それも秘密?」と笑って見せた。
少女はにっこりと微笑んで「川です。海じゃありません」といった。
「川ですって。こんな大きな川があるの? なんという名前の川なのかしら」
「リバー・スリーウェイ。スリーウェイ・フェリーという当社の社名もこの名前に由来しています。一度対岸に渡ると二度と戻ることができないという言い伝えがありまして、リバー・オブ・ノーリターンなどと呼ぶ方もいらっしゃるようです。一般的には、三途の川(さんずのかわ)と呼ばれているみたいですけど」
三途の川?どこかで聞いたことのある名前だと加奈子は思った。物語の中とかドラマにでも出てきたのだろうか? いずれにしても加奈子の乗ったフェニックス丸が渡っているこの三途川が、日本国内の河川ではないことだけは間違いのないところだった。日本一長い河川は信濃川だし、流域面積の広さでいえば利根川のはずだ。どちらにしてもフェリーで何時間もかかるような規模ではない。
加奈子が沈黙したのでウェイトレスは少し心配そうに「もうよろしいですか?」と尋ねた。
「ありがとう。もう結構よ」
加奈子が微笑むと少女は「ごゆっくり」といってお辞儀をし、自分の仕事に戻って行った。
食事を済ませてラウンジから出ると、ロビーは大勢の船客たちで賑わっていた。ソフトドリンクの入った小型冷蔵庫を備えた数箇所の休憩コーナーには、フェリー内で知り合った船客たちが、不安と退屈さを紛らそうとあれこれと話し合ったり、囲碁や将棋、カードゲームなどに興じている。それぞれのコーナーに集まった船客たちを見比べると年齢の近いもの同士でグループが出来ているようだった。人数は五十代から六十代に見える年齢層が最も多く、全体のおよそ六割近くを占めている。残りを三十から四十代、そして加奈子を含む二十から三十代前半がほぼ同じくらいの比率で分け合っているようだった。なぜか子供と高齢者は見当たらない。
「こんにちは」
努めて明るい口調で言って加奈子は躊躇なく若い世代のグループに合流した。
「こんにちは。若者グループへ、ようこそ」
集っていた二十名弱の男女を代表するように背の高い男が歓迎すると、他の船客たちも笑顔で頭を下げて見せた。取り繕うような笑顔だったが皆その目に不安の色を宿している。
男は冷蔵庫から缶入りのアップルジュースを取り出して加奈子に手渡した。
「ありがとう」加奈子は大きな窓を見る形で置かれた長椅子に、着衣の合わせを直しなが ら腰掛けた。
「どんな利害関係があるか今はまだ分からないから、自己紹介は記憶が戻ってからということにしているんだ。どうやら自分が今どこにいて、どこへ向かっているのか理解している人間がひとりもいないようなんでね。勿論、僕もそうなんだけれど」
男は勤めて明るい口調でいうと加奈子の反応を待った。
「それが賢明かもしれないわね」加奈子は答えて缶入りジュースのプルトップを引いた。
窓から外を見るとつい先ほどまで遥か彼方にあったはずの陸地が目と鼻の先といえそうなところまで近づいていた。船は思ったより高速度で走っているようだった。
窓の外には玉砂利を敷き詰めた海岸のような風景が続いている。波打ち際へとなだらかに下る丘の上に、リバーサイド・キンダーガーテンという看板を掲げた二階建ての建物が見える。白い壁に赤い屋根の可愛らしい建物である。建物の横にはピンク色の柵を巡らせた芝生敷きのグランドがあり、滑り台やブランコが置かれていて数人の子供たちが遊んでいた。
岸辺にも所々に白装束を身にまった子供たちの遊ぶ姿があった。石積み合戦に夢中になっているようだった。誰が一番高い石の塔を積み上げることができるかを競うゲームのようなものである。みな石積み遊びに夢中で、すぐ傍を通るこのフェリーに目を向ける子供は一人もいない。
子供たちの頭上をラグビーボールのような形をした大きな飛行船が、その巨体を誇らしげに見せながらゆったりと進んでいく。飛行船の胴体に染めつけられたコンビニエンスストアのようなマーク入りの広告がフェリーの中からもくっきりと見えた。
『お買い物なら二十四時間営業のヘブンイレブン。』
飛行船はやがてキンダーガーテンの上空をゆっくりと横切り加奈子たちの視界から消え去った。
「川らしいですよ。海じゃなくて」
ラウンジで仕入れた情報を話すと、男は大きく目を見開いた「こんな広い川があるものか。がせねただよ、きっと」
「そんな風には聞こえなかったわ」
がせねたと決め付けられて加奈子は少し不満げな声を出した。
「三途川というそうよ」
「三途の川だって。死後の世界に入るときに渡るという、あの三途の川だと…そうか、ヨミランドは死後の国。黄泉の国ということなのか」
男が叫ぶように言って加奈子に目を向けたとき、加奈子の横に座って外を眺めていた女性が「あれ、なに?」と浜辺を指差した。
集っていた若者グループの船客全員が河原の光景に目をやった。
幼稚園から飛び出してきた女性が何事か叫びながら転げ落ちるように河原に急ぎ、子供たちに急いで建物に入るよう指示している。そのただならぬ様子に子供たちも気付き、大慌てで丘を逃げ登っていく。最後の一人がようやく丘を登り終えたとき、河原の左手に見える森の中から、一頭の獣が現れた。それは牛ほどの大きさで、薄汚れた鼠色の肌をし、鼻の上に大きなかぎ爪のような角を持った獣だった。獣は牙をむきながら浜辺を突進して子供たちがせっかく積み上げた石の塔をなぎ倒すと、ユーターンして森の中へと消えていった。
「…ん? ちょっとちがうんじゃない?これは」
加奈子は軽い頭痛を覚えた。
2
しばらく雑談して、加奈子はコンパートメントに戻った。
加奈子がウェイトレスから聞いた川の名称を告げた時、さっきの男は妙に納得したように三途の川やヨミランドを受け入れたように見えた。ということは同じこのフェニックス丸に乗っているのだから、自分は死んだということなんだろうか? どうして?
加奈子は硬いシートに座って目を閉じた。
自分の生い立ちが頭の中のスクリーンに蘇ってくる。それはまるでずいぶん前に一度観たことがある映画をもう一度見直しているような、どことなく色あせたはがゆい感覚だった。しかもエンディングが新しく付け加えられたことを加奈子は知っているのだけれど、どんなエンディングだったのか思い出すことができない。今はまだ見ることもできないのである。後で返還するといわれてもそれは加奈子を苛々させるだけだった。それでも加奈子はじっと辛抱してそれほど面白くもない心のスクリーンに集中した。このフェリーに乗った経緯が分かるかもしれないと思ったからである。
大庭加奈子は父親と死に別れるまで、こと男性に関していうなら無菌状態で育ってきたようなものだった。多くの女性たちが異性への関心を高め、特定の男子に恋心を燃やす十代半ばから二十代初めにかけて、加奈子は男性との出会いがほとんど望めない特殊な環境に身をおいたのである。
勿論それは加奈子の周辺に起った著しい変化のため加奈子自身が選んだ環境だった。つまり男性と接触のない環境を選ぶことが目的だったのではなく、その環境に身を置いた結果として男性に対する免疫を作りえなかったというほうが的を得ているだろう。
加奈子の父親、大庭慶介は大庭産業株式会社という中堅商社の社長だった。持ち前の強引とさえ見える経営力で政界財界にいくつものパイプを繋ぎ、やがては業界を左右するようになると噂されるほどの人物であった。
二十九歳のとき五歳年下の房枝という名の女性を妻に迎えたが子宝には恵まれず、加奈子が誕生したとき慶介は四十を越えていた。遅ればせながら訪れた幸せな日々は、しかし長くは続かなかった。加奈子が三歳の誕生日を迎えたその日、房枝が交通事故にあって他界してしまうのである。
慶介の悲しみは大きかったが、このことがあってから加奈子に注ぐ愛情はますます深くなった。きっと加奈子の中に房枝の面影を見たのだろう。
だが慶介には仕事があった。いつまでも加奈子の傍にいてやることなどできよう筈もない。
慶介は郷里である福島県会津若松市に住む七十を過ぎた母親を呼び寄せ、加奈子の面倒を見てもらうことにした。慶介の母、大庭トメもこの申し出を心から喜び、住み慣れた実家をたたんで上京した。母親の記憶も日に日に薄らいでいく加奈子にとって、トメは優しいおばあちゃんであるとともに母親代わりにもなったのである。
それから十数年の歳月が流れ加奈子が中学校の三年生に進級した年、トメにも人生の終焉が訪れた。
父の仕事は順調だった。けれど順調であればあるほど加奈子には淋しい日々が続くようになった。帰宅時間が深夜になることが増えたし、帰宅できないことさえ度々となって行った。
加奈子も既に分別のつく年齢になっていた。
加奈子自身が、社会的に責任のある父の負担になってはいけないと考え、中学を卒業したならF女子学園高等学校に進もうと決意したのだった。
F女子学園高等学校は開校七十年の歴史を誇る由緒ある名門F女子学園大学の付属高校である。お嬢様学校と揶揄されるだけあって、高校入学から大学を卒業するまでに要する経済的負担は一般人の考えるものをはるかに越える。しかし加奈子は父の収入や資産がそれを問題なくクリアできることを知っていたので、思い切って相談してみることにした。
加奈子から相談された慶介はF女子学園について調べた。そしてこの学校なら娘を安心して任せられるだろうと確信するに至ったのである。
慶介を安心させた理由は二つあった。ひとつはF女子学園が大学高校とも全寮制で、寮での面会が可能な男性は入寮生の保護者と保護者が同伴する者に限られるということだった。微妙な時期の娘を任せるのだから入寮生の管理は厳格であるに越したことはない。慶介はそう思った。
もうひとつの理由はF女子学園大学の理事長を務める金田勇が慶介の大学時代の後輩だったことである。仕事に忙殺され最近では思い出すこともほとんどなくなっていたが、秘書に命じて取り寄せた学校案内の中に写真入で載っている金田勇の名前を見つけた瞬間、慶介は大学時代にタイムスリップしたような感覚に捕らわれた。
慶介は懐かしさを抑えることができず、F女子学園の電話番号を自らダイヤルした。
突然の電話だから取り次いでもらえないのではと危惧した慶介だったが、電話口に出た女性に大庭慶介と名乗ると、さして待たされもせず金田勇の興奮した声が受話器を通して慶介の耳に飛び込んだ。
その晩二人はともに全てのスケジュールをキャンセルして慶介が度々使う小料理屋で再会した。娘のことを頼みたいという申し出に金田は心から喜び、決して慶介が後悔するようなことはないと言い切ってみせた。この旧友との再会が加奈子の希望を了承する決定打になったといえるだろう。
しかし結果的にはこの決断が加奈子から男に対する免疫を作るチャンスを摘み取ってしまうことになったのである。
加奈子は予定通りF女子学園高等学校に入学した。
全寮制といっても各部屋は二人用で、加奈子も勿論特別待遇ではなかった。各部屋のパートナーは抽選によって決められ、幸いにも加奈子とペアになった娘はあまり目立たないがおっとりとした素直な性格の持ち主だった。
厳格な規律を重んじる学生寮の生活と聞くとなんだか俗世と切り離された閉鎖社会のようなイメージを持ってしまうけれども、部屋のテレビではどんな番組も視聴が許されていたし、書籍などについても購買部に依頼すると取り寄せてもらうことができた。服装もあまり奇抜なものでなければ規制はなかった。
だから高校大学とあわせて七年間もの長い期間を寮生として過したからといって、一般常識に欠ける心配はまったくなかった。男性との付き合い方以外は…
七年の年月は瞬く間に過ぎ去った。
大学を卒業した大庭加奈子は、父の経営する大庭産業の系列会社である大庭エンジニアリングという設計会社に就職し、父一人娘一人の生活が始まった。
父ももう六十代半ばのはずだ。そろそろ会社も後人に譲って楽をすれば良いのにと加奈子は考えて、水入らずの夕食を食べながら慶介に話したことがある。
慶介は嬉しそうに加奈子を見つめ、自分にはもうひとつだけしなければならないことがあるからといって笑った。それが自分の結婚のことだと加奈子は察し頬を赤らめた。そのとき加奈子はこの幸せな日々がいつまでも続くものと信じて疑わなかった。
しかし運命は加奈子にもうひとつ大きな試練を用意していたのである。
一人で夕食を食べていると電話がなった。アメリカに出張中の父からだった。
「台風らしいが大丈夫か?」
慶介の優しい声が受話器から流れるように聞こえてくる。ニューヨークと東京という距離を感じさせない明瞭な声だった。
加奈子は点け放しているテレビに目をやった。確かに台風情報を流しているが東京はそれほどではなかった。
「へえ、そっちでも日本の天気、分かるんだ。こっちは大丈夫。いまどこ?」
「ニューヨークのホテルだよ。朝、七時前さ。九時から国際貿易センターで打ち合わせをして、終わったら夕方の便で戻ることにしたよ。明日には帰る。お土産は何が良い?」
父の声は上機嫌だった。どうやら仕事もうまくいったらしい。
「何もいらないから。気をつけてもどってね」
「わかった。それじゃ、切るよ」
そういって電話は切れた。それが加奈子の聞いた父の最後の声だった。
平成十三年九月十一日のことであった。
加奈子の記憶はここで途切れた。悲しみの多い人生に映るが、客観的に見ると誰しもが心に秘める悲しみと比べ取り立てて大きく深いものではないと加奈子は思った。自分は確かにお嬢様育ちだったかもしれない。けれども決して心の弱い女ではないという自信があった。
さっき雑談した男が受け入れたとおり、ヨミランドが本当に黄泉の国のだということも、加奈子がこのフェニックス丸というフェリーに乗せられていま三途の川を渡っているということも、そして自分が死んだということさえすべて受け入れようと加奈子は決心した。
だが加奈子はもどかしさを感じていた。なぜこうなったのかというラストシーンが欠落した記憶の中にあるということだった。
重い病気にかかってしまったのか、交通事故にでもあったのか、それとも誰かに殺されたのか…加奈子は自分の死の真相を知りたいと思った。
3
鈍い振動を感じさせてフェリーは着岸した。桟橋からタラップが伸び、作業員が手馴れた様子で位置を調整して下船口に連結する。
大庭加奈子は他の船客たちとともにタラップを渡った。桟橋には係員が待機していて全員の下船を確認し、団体旅行の添乗員のように手際よく誘導を始めた。係員が案内する先には明るいクリーム色に塗られた三階建ての建物が見える。
白い検査着を着た百人ほどの男女が、手荷物ひとつ持つわけでもなく行進する光景には不気味なものがあるに違いない。加奈子は歩きながらふと感じた。しかし幸いにも建物までの誘導路に人の気配はまったくなかった。
やがて一行全員がヨミランド入国管理局と書かれたドアの前に集合したことを再確認して、係員は「中に入りますと右手に記憶返還室がありますのでそちらへ進んでください。あとは中の係員がご案内いたします」と説明した。
ドアをくぐると右手には確かに記憶返還室のプレートをつけた部屋がある。部屋の前で皆入室をためらっていると、「どうぞお入りください」と女性の係員が顔をのぞかせた。係員に従って中に入ると、向こう側の壁際にちょうど銀行のATMコーナーのような感じで、十数台の機械が並んでいた。ATMと異なるのは各装置の前に椅子が置かれていることくらいである。
「おひと方ずつ空いている機械におつきください。危険はまったくありません。あとは機械の説明に従ってください。およそ一分間で終了いたしますので、終了された方は前方の出口から出られまして、お名前が呼ばれるまで待合室にてお待ちください」
女性係員のてきぱきした説明に応じて、はじめに動いたのは船内で話をした男だった。男は機械につくとき加奈子を見つけて「どうせ避けて通れないのなら、早いほうがいいからね」と助言した。加奈子もその通りだと感じたので後に続いた。
加奈子は空いている機械の前に進み、椅子に腰掛けた。加奈子のちょうど目の前に記憶返還装置のディスプレーがあった。
加奈子が腰掛けると同時に、装置のスイッチがオンになる。『右側にあるヘッドフォンを着けてください』とディスプレーに表示が出る。装置の右を見ると確かにヘッドフォンが置いてあった。加奈子は表示されたとおりヘッドフォンを着けた。『ご利用いただいたフェリーの、あなたのコンパートメント・ナンバーを入力してください』と画面が切り替わる。加奈子はキーボードを操作してE03と入力した。『しばらくお待ちください』の表示が十秒ほど続き、今度は『大庭加奈子さまでよろしいですか。』と表示された。
画面の下部に『YES? NO?』の選択ボタンが表示されているので、加奈子は『YES』にタッチした。その瞬間ヘッドフォンにピッという小さな音が聞こえた。そして加奈子が改めて画面に目をやると、ディスプレーには『記憶の返還は終了しました。ヘッドフォンをお外しの上、前方の出口より退室してください』の文字が見えた。
加奈子はドアをくぐり記憶返還室を出た。そこは女性係員の説明にあったとおり広い待合室になっていた。記憶返還室は銀行のATMコーナーのようだったが、今度は大病院を連想させた。前方に並んだ八つのドアには、第一審査室、第二審査室という具合にプレートが張られている。各ドアに向きあうように長椅子が一列に三脚ずつ置かれており、その後ろはゆったりとしたスペースをとっている。それぞれの列の最後部に、フェリーでのコンパートメントの番号を記した表示板が置かれ、どの列で待てばよいのかがすぐ分かった。
加奈子はE列の審査室のドアに近い長椅子に腰を下ろした。待合室は記憶返還を終えた船客たちですぐ一杯になった。船客たちの目には記憶が戻りつつある安堵感で、本来の光が戻っている。
加奈子の記憶も少しずつ氷が解けるように形を現し始めていた。しかし記憶が戻るということによる安堵感の代償は決して幸せなものではなかった。
「大庭さ~ん。オオバカナコさ~ん。第五審査室にお入りください」
心の整理がまだついていないときに名前を呼ばれて加奈子は驚いた。
大庭加奈子はフルネームで呼ばれるのが嫌いだった。敬称をきちんと「サン」と発音してくれれば「オオバ・カナコ」とめりはりがつくけれども、呼び出しのときなどは特に「さ~ん」と語尾を延ばすものだから、姓名まで間延びして
「オオバカナコ(大馬鹿な子)」と聞こえてしまうからだった。自己紹介などのときにも気を使って、できる限り「大庭です」とか「加奈子と申します」で間に合わせるようにしていたほどである。
あの優しかった父が何故自分にこんな名前をつけたのか、加奈子には理解できなかった。その理由がどうしても知りたくて一度だけ父に問い詰めたことがある。父は淋しそうな目で加奈子を見つめた。
「とうとうその質問を受けるときが来たんだね。お前も成長したものだ」
父はそういうと目を閉じて少しの間考える素振りを見せたが、やがて優しい眼差しに戻って加奈子に微笑んだ。
「人間の一生の中にはさまざまな困難が待ち受けている。どんな障害に突き当たっても自分の信念を曲げず、強く生きていって欲しい。そう思ってつけた名前なんだよ」
そう説明した後、父が一瞬目を逸らしたのを加奈子は見逃さなかった。嘘をついたときに見せる父の癖だった。
「ほんとに?」加奈子は茶目っ気たっぷりにいった「ただ気がつかなかっただけじゃないの? そんなふうに聞こえるなんて」
父は黙って書斎に閉じこもり丸一日姿を見せなかった。
そんなことを思い出しながら第五審査室の前まで来たとき、向こうからドアが開いて看護師のような白衣を来た女性が顔を出した。
「オオバカナコさん? お入りください」
答えも聞かずに女性はドアを大きく開いて加奈子を促した。
促されるまま部屋に入ると、法衣のような衣装を身にまとった肥満気味の初老の男がデスクの向こうから加奈子に穏やかな微笑みを投げた。
「おかけください」
加奈子は勧められるまま、デスクの前に置かれた小さな丸椅子に腰掛けた。
「オオバカナコさんですね。記憶は戻りましたね」
確かに先ほどまでは完全に闇の中にあった父の死以降の記憶が、まだはっきりと形を成してはいないけれど蘇りつつあるようだった。
デスクの上に置いたファイルを開いて、審査官は書類と加奈子を交互に見比べた。
「もうお気付きかもしれないが、あなたは川向こうの世界においては死亡いたしました。三途の川のフェリーボートに乗って川を渡り、かつて黄泉の国と呼ばれたヨミランドの入国管理局に到着したところです」
係官は加奈子が記憶を辿ろうとするのを制するように説明を始めた。
「ヨミランド。……ですか」
「さよう。ここはヨミランドの入国管理局です」審査官は答えるとファイルのポケットから書類を抜き出し、加奈子の前に広げた。書類は転入届と題されている。
「この書類に記名押印をお願いします。入国審査は既に終了していますので、手続きはそれで終了です」
「印鑑は持ち合わせていないのですけれど」
「拇印で結構です。記名はフルネームでお願いします」
審査官は転入届の加奈子が記名押印しなければならない部分を鉛筆で丸く囲った。
加奈子が言われるままに記名して拇印を押すと審査官はざっと目を通してから「はい、結構です。向こうのドアを出ますと更衣室がありますので、そこで服を着替えてから支給係の窓口に行き、転入支度金を受け取ってください。これが証明書です」といって、入国審査証明と刻印されたカードと『ヨミランドの暮らし』と題された小冊子を加奈子に手渡した。
「あの」何がなんだか分からず、さらに質問しようとすると、審査官は面倒くさそうな顔をして加奈子を見た。
「まだ何か?」
「着替えも何も持っていないのですけど」
「用意してありますよ。あとは向こうにも係員がおりますので、分からないことがあればそちらで聞いてください。はい、お疲れ様でした」審査官はぶっきらぼうにそういって書類に目を戻し、大きな音を立てて承認印をスタンプすると、加奈子を案内してきた女性に「次の人を」
と指示した。
どの世界でもお役所仕事は不親切。そう感じながら加奈子は審査官に示されたドアをくぐった。
加奈子はロッカールームに併設されたシャワールームで体を流しながら記憶の続きを辿った。記憶は完全に戻っていた。しかしそれは失ったままのほうが良かったと思わせるほど、加奈子にとって辛いものだった。
加奈子の頬を涙が伝い、熱いシャワーがそれを流した。けれども加奈子の涙はそれほど長くは続かなかった。悲しみの後を追うように込み上げてきたものは強い怒りだった。怒りが涙に打ち勝ったのである。
こんな所でいつまで泣いていたって埒が明かない。加奈子は自分に言い聞かせてシャワールームを出た。
加奈子は窓口で支度金を受け取ると入国管理局のロビーに出た。フェリーに乗っているときからつい先ほどまで身に着けていた検査着のような衣装があまりにも軽いものだったので、更衣室で着替えたスカイブルーのツナギ風の仮着が妙に重く感じられる。スタイル的にはあまりいただけない。それでも裾や前あわせに気を使わずにすむだけでもありがたかった。
ロビーは明るい光に満ち溢れていた。片面がガラス張りになっていて、いくつもの椅子とテーブルが置かれている。加奈子は窓際の椅子に腰を下ろした。窓の外には石畳の歩道が続き、その向こう側は車道になっている。加奈子がつい何日か前まで暮らしていた世界となんら変わることなく、人々や車が行き交っている。
加奈子は審査官から手渡された小冊子のページを開いた。それは『向こうの世界とヨミランド』とサブタイトルのついた手引書だった。三途の川の向こうにある世界とヨミランドとの関係に簡単に触れた上で、今から始まるヨミランドでの生活についてまとめてあるらしい。しかし長旅の疲れのせいか、とても今すぐ読んでみようという気持ちにはなれなかった。加奈子は開いたばかりの小冊子を閉じた。
「全部済んだ?」
ほっとするような明るい声に顔を上げると、フェリーで知り合った男がオレンジジュースを満たしたグラスを二つ持って立っている。
ジュースをひとつ加奈子に渡し「いいかな? ここに座って」と人懐っこい笑みを浮かべて、男は加奈子の向かい側の椅子に目を遣った。
「どうぞ」加奈子は頷いた。
「うすうす気がついてはいたんだけれどね」
男はジュースで唇を少し湿らせるようにした。
「え?」
「自分が死んだってことだよ。フェリーの中でも、いや、今だって生きているときとちっとも変わらないじゃない。でも君が教えてくれた川の名前で、ああやっぱりそうかと思った」
「私も同じようなもの。あ、大庭加奈子って言います」
加奈子は名乗った。
「柚木高弘です。よろしく」男は爽やかな白い歯を見せた。
「まだお若いですよね。なぜ?」
「事故。オートバイで山の中を走っていたとき目の前に狐が飛び出してきて。よけ切れなかった。情けない話だよね」
「私こそ格好が悪い最期でした。階段から転げ落ちたんです。足を踏み外して」
加奈子はすこし笑って見せたが、その原因となったことを思うと笑顔はたちまち消えてしまった。
「嫌な思い出があるようだね」柚木高弘は加奈子の心の中を見透かしたように「できることなら早く忘れたほうがいい」と忠告した。
「これからどうすればいいのかしら?」
加奈子は話題を変えるように柚木に尋ねた。
「まったくこの入管ときたら不親切で、先々どうすれば良いのか説明不足もいいところだよね。どこのお役所も一緒かな?僕もどうしたら良いものか困って兎に角ここにじっとしていても埒が明かないからちょっと外へ出てみた。そうしたら簡単に呑み込めた。このあたりはヨミランドの特別区のような所らしい」
「特別区? ……ですか」
「そう。ここを出て道路を渡るとバスターミナルがあって、ヨミランド入口行きのバスが出ています。ほら、あそこに」
柚木高弘は窓の外、斜め前方を指差した。確かにバスターミナルのような広場が見える。
「歩いてもすぐそこだからターミナルまで行ってみたんだ。ターミナルビルの中に大きなみやげ物店が入っていてね、そこの店員がいろいろ教えてくれた」
柚木の説明によるとこの入国管理局を含めた周辺地域はヨミランドの中枢機関である政治局が直接管理する特別直轄区で、不正出入国を監視するために設けられた地域だという。そしてヨミランド入口という所がバスで一時間ばかり行った所にあり、加奈子のように入国審査証明を持ってさえいればそこにあるゲートから正式に入国できるということだった。
本来のヨミランドに入国すると向こうには居住する家なども既に用意されていて、先にこちらの世界にきた人たちが温かく迎えてくれるというのである。
「それじゃ、父も。……母も?」
「きっと楽しみに待っていてくれますよ」
加奈子は涙がこみ上げるのを覚えた。あの優しかった父や、今はもう顔も思い出せない母に再び会うことができる。加奈子は自分が一瞬にして子供に帰ったような気持ちになった。
「それからもうひとつ」柚木は続けた。
「不正出入国の監視のほかにこの特別区にはもうひとつ存在目的というか、意味があるようなんだ。公にされてはいないらしいけれどね」
「………」
「もしも向こうの世界に残った人に言い残したいことがあれば、それに対処する機関があるようなんだ。何でも本国に入ってしまうと、ここには二度と戻ることができないらしいんだ。だからそれを行う最後のチャンスということらしい」
「川を渡ってメッセージを伝えに行くということ?」
加奈子はなぜかどきりとした。
「そうじゃないでしょう。良く知らないけれど、何か装置があるんじゃないかなあ」
「装置ですか……」
加奈子はヨミランドに入る前に少し調べてみようと思った。柚木は遠まわしに言ったが、向こうの人間にとっては相当気味の悪いことに違いない。恨みを抱いて死んだ女の怨念が如何ばかりのものであるかを思い知らせてやることができるかもしれない。シャワーで流したはずの最後のときの様子が舞い戻ってきた。
「面白そうですね。私、これからちょっと調べてみようかしら。柚木さんはどうなさるのですか?」加奈子は勤めて冷静に、話しを打ち切るようにいった。
「すぐバスに乗るよ。病気で先に逝ってしまった家内が、首を長くして待っていると思うから」と、柚木高弘はうれしそうに目を細めた。
加奈子と柚木は立ち上がると連れ立って入国管理局を出た。明るい日差しを浴びながらバスターミナルまで歩き、ちょうどやってきたヨミランド入口行きのバスの前でふたりは握手を交わした。
「向こうでまた会いましょう」柚木はそういってバスに乗り込んだ。バスが遠ざかるのを目で追いながら、加奈子は胸の中に
「さあ頑張るぞ」というような、不思議な力が膨らんでいくのを感じ取っていた。
4
バスターミナル正面には十路線程度の行き先別乗り場が並んでいた。その先にはアーケードのかかった商店街が見える。
大庭加奈子は柚木を見送ってから商店街に足を踏み入れた。雑貨屋や青果店、スーパーマーケット、書店に床屋、レストラン、それに小さな映画館までが軒を並べている。加奈子はショウウィンドーにカジュアルウェアーを着たマネキンを飾る小さなブティックの前で足を止めた。入管で着替えたこの衣装が気に入らなかったし、だいいちあのフェリーに乗ってきた百名ほどの船客全てが皆同じ格好で街を歩いているのである。まるで集団脱獄をした囚人の群れみたいなものではないか。早く普通の格好に戻りたい。加奈子は躊躇することなく店のドアを開けた。
入管で支給を受けた支度金は三十万価だった。キャッシュで五万価、そして既に準備されていた加奈子の口座に二十五万価が振り込まれた。口座に振り込まれた分はいつでもATMで引き出せるようになっている。『価』という通貨単位が慣れ親しんだ『円』と比べてどの程度のものなのか加奈子には分からなかった。三十万価が果たして大金なのかそうではないのかを確認しなければならない。その方法として最も手っ取り早いのはいろいろな店を見て回ることだ。つまり各種商品に付けられた価格から物価を判断することができるに違いないと加奈子は思った。
店内に入ると若い店員が加奈子に近寄ってきた。まだ十代半ばくらいに見える。
「フェニックスでお着きのお客様ですか?」
少女のような屈託のない笑顔がまぶしいくらいだった。
「ええ。わかる?分かるわよねぇ、この格好ですものね」
加奈子は笑顔を返した。
「通貨価値がどの程度なのかお知りになりたいのでしょう?」
少女は加奈子の気持ちを見透かしたように壁際の棚から淡いピンク色のブラウスを一枚手に取ると「このブラウスが四千五百価。向こうにぶら下がっているジーンズが八千価くらいからです。それからあちらのショーケースの上に開いているセーターが五千価のサービス価格です。それほど変わりませんでしょう?川向こうの世界と」
「若いのにすごいわね。客の気持ちが分かるなんて」
「いいえ。よく訊かれるんです。お客様から」
なかなか商売上手だなと加奈子は感心した。加奈子が知りたいことを説明しながら、同時に購入したいと思っているものを揃えている。こんな小さなブティックの店員でさえこれだけ商才に長けているということは、ヨミランドでも活発な経済活動が繰り広げられているのだろう。
「ご試着なさいます?」
「ありがとう。サイズが合うかどうか気になるから」
店員に案内され試着室に入った加奈子は「ついでに下着も二組くらいいただこうかしら」と、中から店員に声をかけた。
加奈子は店の中で着替えを済ませると、ほかにウェストバッグと小銭入れのついた財布も購入した。三万五千価程度の出費だった。
「ありがとうございました」という声に送られて店から出かけた加奈子は、ふと思いついたように店員を振り返った。
「なにか?」
「ちょっと訊きたいんだけれど、この近くに前世の恨みを晴らしてくれるところが…」
加奈子が言いかけると少女は驚いて目を見開き、人差し指を唇に当て「しー」といった。
少女は、何がなんだか分からずおろおろする加奈子に近寄り「だめですよ。そんなこと大きな声で言っちゃ」
と囁いた。
「なぜ?」
「警視局の許可なく向こうの世界と接触することは法律で硬く禁止されています。まあ勝手に行こうとしても無理でしょうけど…。でも何かしようとしただけで、警視局に知られたら逮捕されちゃいます」
「そうなの。ごめんなさい」加奈子は素直に詫びたが店員がまだ動揺しているうちに「でもあなたがそんなにあわてているってことは、何か知っている証拠よね」とたたみかけた。
「私からは言えません」少女はうつむいた。
加奈子はウェストバッグに入れた財布から一万価札を取り出し「これじゃ不足かしら?」と少女の手に握らせた。
「この店を出て左側に百メートルくらい行くと、へそまがりという名前の居酒屋があります。その角を左に折れると正面に山の上にある黄泉国神社へ上る石段が見えます。その石段の手前左側にウサンというバーがあるんですけれど、そこに行けば何か分かるかもしれません」
少女は一度言葉を区切ると腕時計に目を落とし「でも、きっとまだ開いていません。夜七時くらいにならないと」
と呟くようにいった。
ブティックを出て加奈子はすぐ近くのコンビニエンス・ストアに立ち寄った。
時刻が分からなければ何かと不自由なので、安物のデジタル腕時計を買うためだった。陳列棚を見ながら店内を歩いていると、ビニールの袋に入れられた幾種類かのデジタル表示式腕時計が陳列棚から伸びたバーに吊り下げられている。
加奈子は一番大きな文字盤のものを購入した。
支払いを済ませて店を出ようとしたとき、一角に銀行ATMが備え付けられていることに加奈子は気付いた。
ブティックでの買い物で財布の現金が少なくなっていたから、加奈子はATMを操作して現金を五万価引き出した。
次に加奈子はホテルを探した。船旅の疲れもまだ少しあったし、これからどのような展開になるのか予測もつかないので、休めるうちに休んでおこうと考えたのだった。幸いにもコンビニからほど近い所にホテルは見つかった。直接フロントに行って、予約はしていないけれど泊まることができるかどうかを尋ねると、ツィンルームのシングルユーズということで部屋が取れた。シティーホテルクラスの小奇麗なホテルだった。
カードキーを使ってドアを開け部屋に入った。カーテンが大きく開けられており、眩しいほどの陽の光に満ち溢れている。コンビニで買った時計を見るとまだ午後二時を回ったばかりだった。加奈子は窓際に立って外を眺めた。十階の大きな窓から眺めるとすぐ下をひっきりなしに車の行き交う幹線道路が横切り、道路に面してホテルのちょうど向かい側に入国管理局が見える。入国管理局の向こう側には加奈子が降り立った埠頭と、三途の川がどこまでも広がっていた。埠頭には加奈子が乗せられてきたフェニックス丸が優雅な船体を見せて今も停泊していた。
加奈子はバスタブに湯を満たすとゆったりと体を沈めた。体の中心から力が抜けていくような心地よさだった。
ゆっくりと湯に浸かり人心地ついたところで、加奈子は備え付けのバスローブを身にまとってベッドルームに戻った。ベッドの端にちょこんと腰を下ろしてふと横を見ると、大きなドレッサーが目に入った。加奈子はドレッサーの大きな鏡の前に立つとバスローブを脱いだ。
透き通るように白い裸身が加奈子に向かって立っていた。肩を隠すまで長く伸ばした艶やかな黒髪。百六十五センチというまずまずの身長。豊満とはいえないまでもバランスの取れた胸。細くくびれたウェスト。長い脚。
まるでナルシストにでもなったように、加奈子は鏡の中から自分を見つめる加奈子自身を見つめた。しかしこの肉体は心も含めてそれがあるべきところにはもう存在しない。ほんの二十数年という短い歳月を生きただけで三途の川を渡ってしまったのだ。羽鳥浩一郎というたった一人の見かけばかりのつまらない男に騙され、陵辱され、暴力を振るわれ、そして…
捨てられたのである。あまりにも自分が世間知らずだったのだろう。
加奈子は鏡の中から自分を見つめる加奈子の目がきらりと光ったような気がした。その瞬間体の中心を貫いて電流のような衝撃が走るのを感じた。鮮やかに蘇った忌まわしいエンディングが加奈子に与えようとしている力に違いなかった。
加奈子は大好きだった父の突然の死によるショックからなかなか立ち直ることができなかった。いつ何処にいても優しかった父の笑顔が頭の中に浮かんだ。そして今にもすぐそこにあるドアが開いて、「ただいま」と白い歯を見せる父の姿が現れるような幻想に取り付かれたのである。会社の同僚も始めのうちはなにかと気を遣ってくれたが、二ヶ月以上の日が過ぎ、カレンダーが最後の一枚になってもまだ立ち直ることができずにいる加奈子をだんだん敬遠するようになっていった。加奈子もそのことには気がついていたし、支えてくれていた人たちに迷惑をかけるのも本意ではなかったから思い切って会社を辞めた。父が残した家や財産が相続の手続きをした後も相当残ったので、何もしなくても暮らしに困ることはなかった。少し気持ちの整理がついたら何か仕事を見つけてまた頑張ればいい。加奈子は自分にそう言い聞かせて家に閉じこもった。だがそれは悲しみからの逃避に他ならず、加奈子の心は日に日に暗く沈んでいくばかりだった。
そんな時加奈子の前に現れたのが羽鳥浩一郎という一人の青年だった。
羽鳥浩一郎は父が経営していた大庭産業の総務部に勤務する青年だった。大庭慶介の葬儀のときも身寄りのほとんどいない加奈子の立場がみすぼらしくならないように、あれこれと気を配ってくれていたのを加奈子は覚えていた。
「加奈子さんは堂々と振舞ってください。加奈子さんが惨めに見えては亡くなった社長に恥をかかせることになります。それは会社の恥でもあるわけですからね。私に全て任せてください」
葬儀のとき、羽鳥浩一郎は加奈子を安心させるように笑顔を見せて力強くそういった。
上司から指示されて動いてくれているのだろうと加奈子は思ったが、羽鳥の行動は頼もしく、加奈子を随分勇気づけるものだった。
羽鳥浩一郎が淋しい一人暮らしを続ける加奈子を訪ねてきたのは、十二月に入って最初の日曜日のことだった。チャイムの音に気がついてインターホンをとると「羽鳥と申しますが」と少し改まった声が聞こえた。
「あ、羽鳥さん」
加奈子はチェーンロックをはずし、羽鳥浩一郎を招きいれた。
「その節はいろいろありがとうございました」
コーヒーを注ぎながら加奈子は葬儀のときの礼を言った。
「とんでもない。社長には本当にお世話になりっぱなしでした。あれくらいのことしかできなくて、自分が情けない」浩一郎は唇をかんだ。
「いいえ、本当に助かりました。わたし何も知らないものですから失礼があってはと、そればかり気にしていたんですのよ。羽鳥さんのお蔭で滞りなく送り出すことができました」
加奈子は羽鳥の目を見つめた。
「今日突然お伺いしましたのは」羽鳥は照れくさそうに視線を逸らし、持ってきた鞄から簡単に製本した資料を取り出すと加奈子の前に置いた。
「喪中葉書の会社関係の送り先リストをお持ちしました。リストにあります宛先には送り終えました。加奈子さんのほうで、もしリスト以外に送らなければならないところが思い当たるようでしたら、一週間の猶予がありますので、わたし宛に連絡してください」
加奈子は首を横に振った。「いいえ、全て羽鳥さんにお任せしますわ。家では父も仕事のことはあまり話題にしたがりませんでしたし、親類や知人にはもう出し終えましたので」
「よろしいですか?ではそうさせていただきます」
浩一郎は加奈子が入れてくれたコーヒーをひと口啜り美味そうに笑顔を見せた。
「ところで加奈子さん。なんだか少しやつれたように見えますよ。まだ落ち着きませんか?」
「ええ」加奈子は小さく頷いた「なんだか今にも父がドアを開けて帰ってくるように思えて…。だめですね、いつまでもうじうじして」
「本当にいけませんね、社長もきっと悲しんでいるに違いありません」羽鳥はたしなめるように加奈子に言って「少し気晴らしに外に出られたほうが良いと思いますよ」
「分かっているんです、落ち込んじゃいけないって事は。でもあんまり突然のことだったものだから」
加奈子の頬を涙が伝い落ちた。
羽鳥はそれに気付かない風を装って、何かを考えるように目を上に向けた。
「そうだ、加奈子さん。今晩僕とデートしていただけませんか?」
羽鳥はタイミングを見計らって加奈子に視線を戻し、楽しそうな声で尋ねた。
「え?」加奈子は突然の誘いに少し驚いた。
父以外の男性から誘いを受けたのは加奈子にとって初めてのことだった。
「だめ、ですか?やっぱり。僕の友人が最近始めた店が新橋にあるんです。一度顔を出さなくちゃと思っていたんですけど、一緒に行っていただけたら鼻が高いんだけど…。だめですよね。ごめんなさい」
羽鳥は加奈子が言葉に詰まるのを見て、そういっておどけて見せた。
加奈子は羽鳥の様子を見て、「この人は本当に私のことを気にかけてくれているんだわ。優しい人なんだ」と思った。するとなぜか自分の胸の中にこれまで経験したことのない暖かいものが芽生えるのを感じたのだった。
「連れて行ってください」加奈子はポツリとつぶやくようにいって羽鳥を見つめた。
加奈子の胸に点った小さな恋の炎は瞬く間に燃え上がった。今自分に何が起っているのかということさえ、冷静に判断することができない有様になった。
男性というものに対する免疫がまったくなかったためといえるだろう。あれだけ心を痛めた父の姿も影かたちなくどこかへ消え去り、ただ羽鳥浩一郎のことだけが加奈子の頭の中に満ち溢れたのである。加奈子はこの幸せな日々がいつまでも続くものと信じて疑わなかった。きっと近いうちに浩一郎の口から結婚の二文字が囁かれる。その日が一日も早く来ることを楽しみに、羽鳥が訪ねてくるのを待つ日々が続いた。加奈子は目くるめく官能の日々に溺れ、ますます自分を失っていったのである。
しかし加奈子が待ち焦がれる幸せの瞬間は、年が変わり新しい緑が芽吹くときになっても決して訪れようとはしなかった。それどころか羽鳥の振舞いは加奈子が夢見るものとはまったく逆の方向に向かい始めた。ことあるごとに金を無心し、気に入らないことがあれば暴力を振るうようになった。やがて加奈子を訪ねてくることも少なくなり、携帯も繋がらなくなってしまった。
あの優しかった羽鳥浩一郎が何故そうなってしまったのか、加奈子には分からなかった。自分が羽鳥の気に障ることを何かしたのだろうか?何でも羽鳥の言うことに従ってきたつもりなのに、一体何が悪かったのだろう。加奈子の中の世界には加奈子と羽鳥浩一郎の二人しか住んでいない。羽鳥は絶対的存在だから悪いのは自分なのだ。加奈子の無垢な心はいつもそんな答えを導き出してしまうのだった。
加奈子が真相を知ったのはもう桜の季節になろうかという頃だった。羽鳥が遠ざかっていくわけをどうしても知りたいと思った加奈子は、初めてのデートのときに連れて行ってもらった、羽鳥の友達が営むリトル・ビットというショットバーに足を運んだ。名前は忘れてしまったがあのときの様子では本当に仲の良い友達同士らしかったから、あのマスターなら何か知っているかもしれないと思ったのである。何ものどを通らぬ日々が、そして眠られぬ夜がここ何日も続いていた。ゆらゆらとふらつきながら雑居ビルの階段を上る憔悴しきった加奈子の姿は、幽鬼を感じさせるものであった。わずか三階までをずいぶん時間をかけて上ったように加奈子は思った。
階段を上り詰めたその正面にリトル・ビットのドアがあった。
おそるおそるドアを開け一歩ジャズの調べに満ちた仄暗い店内に入ると、カウンターの向こうに立つマスターと目が合った。加奈子は、「いらっしゃい」と挨拶しながらもマスターが一瞬困惑の表情を浮かべて店の奥に目配せするのを見逃さなかった。加奈子はカウンターの奥に目を向けた。そこには羽鳥浩一郎が加奈子の知らない女と寄り添うようにしている姿があった。羽鳥は加奈子に気がついて、にやりと卑屈な笑みを見せた。ただならぬその気配を、羽鳥に寄り添う女も察したようだった。
「浩ちゃんの言ってた馬鹿な女って、あの子?」
女はわざと加奈子にも聞こえるような声で言うと楽しそうに声を出して笑った。
加奈子はすがるような視線を羽鳥に向けた。しかし驚いたことに羽鳥の口元にも加奈子に対して嘲笑うような卑屈な笑みが浮かんだのだった。
加奈子にも全てが呑み込めた。ただ遊ばれていただけだったのだ。羽鳥浩一郎にとって、自分は世間知らずの金持ちのお嬢さんでしかなかったのだ。加奈子の目からとめどなく涙が溢れ出した。
加奈子は踵を返し、店から飛び出した。そして下への階段に足を踏み出したとき、その足がもつれた。
加奈子の涙は羽鳥の横で笑う軽薄そうな女に対する激しい嫉妬となり、階段を転がり落ちる痛みは嫉妬を今まで感じたこともないような強い怨みへと変化させた。
「許さない。羽鳥浩一郎も、あの女も…」
そして、暗闇と虚無が大庭加奈子を包み込んだ。
これが加奈子の死の真相だった。世間知らずの自分が呼び寄せた不幸。そういってしまえばそれまでだが、加奈子の真心を弄んだ羽鳥だけは許せない。どんな手段をとってでも、あの男に復讐してやる。加奈子はそう決心した。
加奈子はソファーに腰掛けテレビを点けた。ニュースキャスターが生真面目そうな表情で自然災害のニュースを報じている。
「…国道一号線、サイの河原地区で大規模な土石流が発生し、一部の交通網が混乱しています。運行を見合わせているのがヨミランド入口行きのバス路線全線…」
「柚木さんは大丈夫だったかしら」そんな思いがふと加奈子の脳裏を横切ったが、別に死傷者が出ていると報じているわけではないので心配することもないだろう。きっと今頃はヨミランドの新居で奥様との再会を喜んでいるのではないかしら。加奈子はバスに乗り込んでいく柚木の照れたような笑顔を思い出した。もう向こうの世界には何の未練もないのだろう。まるで子供のような屈託のない笑顔だった。加奈子はヨミランドで柚木を待つ女性が羨ましかった。ほんの一瞬でもそんなことが頭を過ったのは、会ったこともない柚木の奥様に対する加奈子の嫉妬なのかもしれなかった。自分にも柚木のように何の打算もないあのような笑顔がいつか戻ってくるのだろうか? それを思うと羽鳥浩一郎に対する憎悪がますます膨れ上がっていった。
時計を見ると午後五時を回っている。
加奈子はホテルに入ったときと同じジーンズ姿で部屋を出た。フェリーで朝食をとってから何も食べていないことを思い出すと、急に空腹を感じた。どこかで食事をしてからウサンに行ってみることにしようかなどとぼんやり考えているとエレベーターが止まりドアが開いた、
ロビーは大勢の客で混雑していた。加奈子はその中に柚木の姿を見つけた。
「どうなさったの」
加奈子が声をかけると柚木は驚いたように加奈子を見た。
「土砂崩れでバスが不通になってしまった。無駄足を運んでしまったよ。どうやら開通するのを待つより手はないようだ」と忌々しそうにいって渋い顔を見せた。
第二章 アカデミー
1
加奈子が柚木高弘と連れ立ってバー・ウサンの扉を開いたのは午後八時を回っていた。
柚木に続いて店に入った加奈子は、まるで既に上映が始まっている映画館にでもいるような錯覚に取り付かれた。照明が極端に抑えられているためだった。
カウンターの中でずらりと洋酒のボトルが並んだ棚を背にして三名のバーテンダーがカシャカシャと乾いた氷の音を聞かせてシェイカーを振っている。そこだけが明るいスポットライトを浴びている。カクテルを作るパフォーマンスが売りで、カウンターの中がさしずめステージといったところなのだろう。客席はステージからこぼれる光が照らす範囲を見る限り、カウンターに面した背 の高い椅子席しかないようだ。
加奈子と柚木が店に入ったときカウンターには三組のカップルがグラスを傾けていた。二人が案内されてカウンター奥の席に着いてもさして興味を持った風もなく、ちらりと視線を向けただけですぐそれぞれの会話に戻っていった。
チェックのシャツにブラウンレッドのベスト、そして黒の蝶ネクタイを着けた背の高いバーテンダーが加奈子と柚木の前にコースターを置いた。
「いらっしゃいませ。何をお作りしましょう?」
人懐っこい笑顔をみせて若いバーテンは加奈子と柚木を交互に見た。
「僕は、ジントニックを。加奈子さんは何がいい?」
「お任せします。あまり知らないの」
加奈子は柚木に救いを求めた。実際、カクテルのことなど何も知らなかった。
「それじゃゴールデン・エリクサーはできる?」
「もちろんです」
バーテンダーは得意げに言ってシェイカーを手に取った。はじめにアイスピックで荒く砕いた氷をシェイカーに入れる。ドライジン、シロップ、アップルジュース、オレンジキュラソーを入れ、手際よくシェイクしてカクテルグラスに注ぎ、最後に小さなライムの葉を一枚飾って「ゴールデン・エリクサーです」と、加奈子の前に黄金色の液体を満たしたカクテルグラスを置いた。
「こんなこといっては待っていらっしゃる奥様に申し訳ないんですけれど、柚木さんがいてくれてよかったわ」
加奈子は本当にそう思っていた。カクテルの名前ひとつ知らない女がひとりで来るような店ではない。柚木は加奈子にとって格好の同伴者になった。
加奈子は柚木のジントニックができるのを待ってカクテルグラスを小さく掲げた。
「どっちにしても、僕だって夕飯も食べるわけだし、話し相手がいてくれてよかったと思っているよ」
柚木はジントニックをひと口飲んで「だけど、まあそう長い間不通が続くわけでもないだろうから加奈子さんの計画に協力はできない。悪く思わないで欲しい」と、詫びた。
ウサンに入る前に何か少し腹に入れようと立ち寄った居酒屋で、加奈子は何故ウサンに行ってみようと思ったのかを柚木に打ち明けていた。きっと柚木はそれを気にしているのだろう。
「そんなこと気になさらないでください。私個人の問題ですから。このお店に入ることができただけでもう十分」
加奈子はゴールデン・エリクサーのグラスを傾けた。
フルーツの爽やかな甘さが加奈子の口の中一杯に膨らんだ。
「おいしい」加奈子は思わず小さな声を出した。
店の奥で電話が鳴った。
「ちょっと失礼します」といってバーテンダーが席をはずした。
「だけど気になることがあるんだ」
そのタイミングを見計らったように柚木が囁くようにいった。
「え?」
「加奈子さんの計画って言うのは、その…なんていうか…そう、幽霊だね。幽霊になって、羽鳥なんとかっていう男に復讐するってことだろう?」
「そうよ」加奈子はあっけらかんとして答えた。
「向こうに残った人間にメッセージを送るってことの意味を、君はそんな風に捉えたわけだ…」
「違うの?」
「分からない。だけど僕がイメージしたのはちょっと違う。向こうの世界にいたときのことを思い出してみなよ。第六感というのかな。こうしたほうがいいとか、ああしたほうがいいとかいう考えが突然閃くことが加奈子さんにもあったろう? 勘が働くってことがね。僕は、あの閃きを送るってことだと解釈していた」
柚木がいったとき、バーテンダーが電話を終えて戻って来たので話はそこまでとなった。
「お待たせしました」バーテンダーはふたりのグラスが空になっているのを見て「おかわり作りましょうか?」
と訊いた。
加奈子は頷いて「ありがと。それじゃ同じ物を」と注文した。
柚木は「僕はもう結構」と、グラスを手のひらで塞いで見せた。
カクテルのおかわりを作って加奈子が飲み終えたグラスと交換すると、バーテンダーは柚木のほうに向き直って「では、まもなく時間ですので、お嬢さんひとりだけここにお残り願います」といった。
加奈子ひとり残して柚木はもう帰れといっているのである。これにはさすがの柚木も少し腹を立てて「彼女に何の用があるんだ」と、強い口調でいった。
「私どもに用事があるのはお嬢さんのほうですよね」とバーテンダーは低い声で応えて加奈子の目を見つめた。
そうか、もう自分がここに来ることが通っていたのか。ブティックのあの可愛らしい店員からに違いない。きっと一万価も握らせたので、気を使ってスタンバイしておいてくれたのだろう。
「柚木さん。大丈夫です。あとはわたしひとりで。今日は本当にありがとうございました」
加奈子はいきり立つ柚木をなだめるように立ち上がり、ドアのほうへ柚木をエスコートした。
「本当に大丈夫かい?ひとりで」
「大丈夫です。さっきの柚木さんの話のように、もし私の早とちりだったら、わたしきっぱり諦めますから。心配なさらないで」
加奈子はドアを開いて柚木を連れ出すと「奥様に宜しく。大切にしてあげてくださいね」と、右手を差し出した。
柚木高弘はその手をきつく握り返し「くれぐれも無茶はしないで」ひとことそういい残して加奈子に背を向けた。
加奈子は柚木の姿が居酒屋の角を曲がるまで見送ってから店内に戻った。
加奈子が再び席に着こうとすると、バーテンダーがカウンターのくぐり戸から出てきて、「こちらへ」と店の奥を指し示した。
照明が暗いせいで気付かなかったのだが、そこには小さなドアがあった。バーテンダーがノブを回してドアを開けた。加奈子は他の客が気になってちらと目を向けると「身内です」とバーテンダーがいった。
もう、戻れない。加奈子は背筋が寒くなるような恐ろしさを感じた。
「どうぞ」と、ドアの横に立って中に入るよう手のひらを上に向けて加奈子を促すバーテンダーの声に従うより加奈子に道は残されていないのである。
加奈子は覚悟を決めてドアをくぐった。
「あとはおひとりで道なりに進んでください」という声が背中で聞こえ、ばたんと音を立ててドアが閉められた。
「えっ!」
驚いた加奈子は引き返そうと後ろを振り向き、ドアのノブを握ってガチャガチャと押したり引いたりしてみたが既に鍵がかけられていてびくともしない。
加奈子は一人ぼっちになってしまった不安が胸のうちに広っていくのを必死に抑えながら、廊下の続く先に視線を戻した。
加奈子の前には延々と長い廊下がまっすぐに伸びていた。天井に薄暗い照明灯が十メートルほどの間隔で取り付けられているだけだったので、進めといわれた先に目を遣ると明るい部分と暗い部分が段だら縞のように通路を染めている。
加奈子は諦めたように歩き始めた。コンクリートの床を打つ靴音だけが甲高く響き渡って、まるで何かが加奈子を追ってくるかのように感じられた。得体の知れない不安に歩調が速まるのを、少しでも冷静にならなければと自分に言い聞かせて、加奈子は抑えた。
何か考えていなければ恐怖に押しつぶされそうだったので、「この廊下はいったいどこへ繋がっているのだろう?」などと考えてみた。だがそんなことは分かるはずもなかった。わかるのは方向くらいのものだった。
廊下が向かっているのは、加奈子の方向感覚が正しいとすれば黄泉国神社への石段が登って行く方向、つまり山であるはずなのだ。ところがこの廊下は上りも下りもせずただひたすらまっすぐに伸びている。
ということは…
「トンネル?」
黄泉国神社がある山に穿たれたトンネルを進んでいるらしい。それなら山の向こう側にいったい何があるのだろう。トンネルといえば必ず向こう側に抜けるというイメージしか加奈子には浮かばない。柚木がいったとおり、加奈子は幽霊になって羽鳥に復習してやることを考えていた。勝手な解釈には違いないが、向こう側の世界にメッセージを送るという行為を、そういうことだと解釈していた。復讐、幽霊、怨念。言葉からはどれひとつをとっても血なまぐさいどろどろしたものを感じる。長いトンネルを抜けると地獄だった。などということにでもなるのだろうか。もしそうだとしたら、なんだか嫌だな。加奈子は少し後悔した。けれども今さら引き返すこともできないのである。
十分ぐらい進むとトンネルは行き止まりとなっていた。そして突き当たりの壁に一枚の金属製の扉があった。
加奈子が長い廊下を抜けて扉の前に立つと、それを待ち構えていたように扉が音もなく開いた。山の向こう側の景色が飛び込むものと思っていた加奈子は、その予想を完全に裏切られた。それはエレベーターのドアだったのである。扉を開けたエレベーターは、早く中に入るよう加奈子を誘っているように見えた。
覚悟を決めて加奈子はエレベーターに乗り込んだ。
加奈子が中に入ると扉が閉まり、エレベーターは上昇を開始した。かなりの速度で昇っているのが耳の中に感じる気圧の変化でわかった。加奈子はごくりとつばを飲んだ。耳の違和感が消えた。
三十秒ほど上昇を続けて、エレベーターは停止した。
加奈子は扉のほうに向き直った。
エレベーターの扉がゆっくり開いた。
エレベーターの外にはまた廊下が見えた。しかし今度はバー・ウサンからエレベーターまでのような長く暗い通路ではなかった。ほんの5~6mまっすぐに続き、その先に一枚のドアがある。廊下の左側はエレベーターを出てすぐのところに非常口と書かれたドアがあるのを除けばほかは何もない白壁だった。右側は腰くらいの高さから上を全面ガラス張りにした造りで、その境目の部分には木製の手摺が取り付けられている。
加奈子はガラス張りの観覧窓のところまで行き、手摺に体を預けるようにして下を覗き込んだ。ガラス越しに見えたのはダンスのレッスンをするスタジオのような場所だった。もう夜も遅いため照明は落とされ、非常口を示す非常灯の寝ぼけたような明かりだけが誰もいない板張りの部屋を薄気味悪く浮かび上がらせている。
「さあそんなところにつっ立っていないで。見学なら明日だっていつだっていいじゃないか。早くお入りよ。じれったいねえ」
すぐ先のドアが突然音をたてて開き、赤のジャージーを身につけた女がまくし立てるように言いながら姿を現した。それがあまりに突然だったので加奈子はびっくりしてその場にへなへなと座り込んでしまった。
「おやおや、困った幽霊志願者さんねえ。ほら、しっかりおしよ」
見上げると髪の長い女が加奈子に手を差し伸べている。言葉はすこし柄が悪いけれどその中に温かい人情とでもいえそうな何かがあるのを加奈子は感じた。
「すみません」
差し出された手を加奈子はすがるように握った。想像の中にしかいない母のような暖かい手だった。
「もう大丈夫です」加奈子は立ち上がり、手を離した。
「こっちへおいで」
女はスタッフルームと書いたプレートの付いたドアから先に立って中に入ると、振り返って加奈子を呼んだ。これからどうなっていくのかは分からなかったけれど、不思議なことに加奈子の心の中にあった不安感だけは、きれいさっぱりとなくなっていた。
加奈子は急ぎ足で女の後を追った
2
スタッフルームは小さな町役場のような造りだった。右側に長い長方形の部屋で、正面の窓を背にして管理職のデスクが四台並んでいた。それぞれのデスクの前には一般職員用のデスクと思われるごく普通の事務机が六台でひと島を構成している。
島のいちばん手前側にはカウンターが並べられ、加奈子を誘導する女が進む方向へ通路を作っている。
カウンターの上には各島の担当する仕事を書いた表示板が置かれており、加奈子側から奥へと向かって、総務課・実務課・教務一課・教務二課となっていた。室内は明るく照明されていたが職員の姿はひとりも見当たらなかった。職務時間が終わっているからに違いない。カウンターによって仕切られた通路は教務二課のところで終わり、その向こうに階段が見える。
女は教務二課のカウンターの五十センチほど空いた隙間から中に入った。
スタッフルームの一番奥には天井までのパテーションで仕切られた応接室が二部屋並んでいた。
「さあ。こっちへ」
女は窓側の部屋のドアを開けて中に入り、加奈子を呼んだ。
加奈子が応接室に入りドアを閉めると女は窓を背にした肘掛け椅子に座っており、ガラステーブルを挟んで向かい側に置いた長椅子に腰掛けるよう加奈子に命じた。
加奈子が言われるまま長椅子に腰掛けるのを見て、女は満足そうに微笑んだ。
ガラステーブルの上には加奈子に関する数枚の書類がファイルに閉じられて置かれている。加奈子が到着するのを待ちながら目を通していたらしい。
「あんまり遅いから、もう来ないのかと心配したよ」
「ごめんなさい」
加奈子は素直に謝った。さっき廊下から見たスタジオにも明かりがなかったし、スタッフルームにもだれもいなかった。きっと自分を待って残業になってしまったのだ。
「気にしなくていいよ。みんな始めはおんなじさ」
女は少し笑ってふと思いついたように「自己紹介しとくね。サダコです。明日からのあんたの担任の先生だよ。ヨロシク」と、右手を加奈子に差し出した。
もうすぐ腰まで届きそうなつやつやとした黒髪が握手を求めて少し俯いたとき美しいうりざね顔にふわりと乱れサダコは左手で掻き揚げるようにそれを直した。赤いジャージーを着たサダコの屈託のない笑顔につられるように、加奈子はその手を握った。
「質問したいことはいろいろあるだろうけどさ、ちょっと待って。まず私からひと通り説明させてよ。一応、担任なんだからさ」と、サダコはいって加奈子の質問を封じた。
「まずここがどういうところなのかってことから説明するとだ……」
サダコはテーブルの上に置いたファイルを開くと、加奈子の資料とともに挟み込んでいた一枚のチラシを抜き取って、加奈子に渡した。チラシには山の上に建つ円筒状のタワーの写真が載っている。その写真の上に大きな文字で『ヨミランド心霊アカデミー』という文字が読み取れた。
「まあいってみれば、正しい幽霊を養成する学校ってところだよ」
「タダシイ?幽霊?」
「そう」
サダコは、加奈子が首を傾げるのを見てしたり顔で頷くと「幽霊ってのはね、前の世界の誰かを恨みつつヨミランドにやってきた人間が、その原因を作ったものに祟ることで恐怖によってそいつをとり殺す報復行為なんだよ。だから社会そのものに恨みがあるならいざ知らず、呪い殺そうとする相手が不特定多数なんてのは正しい幽霊のすることじゃないのさ。まぁ、現役時代のわたしなんてのは、そういう意味じゃ正しい幽霊とはいえなかったのかもしれないね」
「そうなんですか…」
「そうさ。だから土地とか家なんかに憑いている自縛霊なんていうのは最低だよ。知ってるだろ?自縛霊」
「ことばだけは…」加奈子は空間に目を泳がせた。
「せっかく実技訓練の科目があるのに、受けもしないで川向こうに渡ったが最後、戻ってくる気配もないんだからね。呪い死にさせられた人たちだけがヨミランドに入ってくるもんだから、いったいどこの者なのやら、わけが分からなくなっちまうのさ」
「あの…向こうに渡るって…?」加奈子は不思議そうにサダコを見た。
「そりゃあそうさ」
なぜそんな当たり前のことを訊くんだ? とでもいいたげな顔で「向こうに行かなけりゃ、化けて出ることもできないじゃないか」
「放送か何かで」加奈子が言いかけると、サダコは「バカお言いじゃないよ。仮にも他人様の命を奪おうというんだからね」と大声を張り上げた。
「ごめんなさい、でも、そういう意味じゃないんです。三途の川を渡っていくわけですよね。長い時間、フェリーに揺られて。それなら、やり遂げるまで帰りたくないって思うのも当然かなって…」
加奈子の言い訳を聞いてサダコは手のひらで自分の額をぴしゃりと叩いた。
「そうか、まだ何にも説明していなかったんだね。ごめんよ」
サダコは椅子から腰を上げると、背中の窓際に立って
「ここにおいでよ」と、加奈子を呼んだ。
「この窓には暗視装置がついているから夜でもはっきり見えるだろ。あれが三途の川だよ」
サダコは加奈子が窓際まで来るのを待って外を指差した。
「え、ええーーーーっ。ウッソーー」
指差されたほうに視線を走らせた加奈子は驚いて悲鳴に近い大声を上げた。
窓の外には加奈子が宿泊している高層ホテルと、その向こうに川の流れが展望できた。
加奈子が大声で叫んだのは三途の川のせいだった。
それは加奈子が知っている三途川ではなかった。加奈子の知っている三途の川は、対岸からヨミランドまで大型フェリーに乗って丸一日かかるほど悠々とした大河だったはずだ。それが今見ると、せいぜい2~3メートルの川幅しかない小川に変わっているのである。
「三途の川の流れなど、それを見るものの心のあり様を写しているだけ。前世に残してきた恨みの気持ちが強くなればなるほど、川幅などはどんどん狭くなっていく。だからもしフェリーを使わなければ向こう岸に渡ることが無理だとすれば、幽霊になって恨みを晴らすことなどはなから無理なこと。だから幽霊になろうとする人はそんな自分を見極めるために、みんな歩いて河を渡るんだよ」
サダコは説明して、加奈子にもう一度長椅子に戻るよう勧めた。
加奈子が長椅子に腰掛けるのを見て、サダコはテーブルの上に置かれているシガレットケースからタバコを一本とって咥え「吸わせてもらうよ。タバコ」と断わってから火を点けた。白い煙が漂った。
「それにしても…」サダコは加奈子のファイルを開いて確認するように目を通し「怨念の内容がイージーだねぇ」
とつぶやいた。
「だめですか?わたし、幽霊になれないんでしょうか?」
「いやいや、そうじゃない。恨みの強さはその原因とは無関係だよ。お皿一枚割っただけで殺された方だっていらっしゃるわけだし。飼い猫が殺されただけの恨みを持って幽霊になった子だっている。そういう怨念が必ずしも弱いものだってことにはならないのさ。個人差があるってこと」
「ですよねぇ」加奈子はほっとして息を吐いた。
「ただ…ひとつだけいっとかなくちゃならないことがある」
「……」
「力関係は向こうもこちらも一緒だってこと。つまりあんたが本懐を遂げ、向こうであんたを苦しめ続けた男を呪い殺すことに成功したとしよう。男はそのあとどうなると思う?」
「…どうなるんですか?」
「決まってるだろ。向こうで死んだわけだから、三途の川を渡ってこっちへ来ることになるわけだ。こっちであんたと再会することになるわけだよ」
加奈子は愕然とした。そうか、不用意に呪い殺しても、またこちらの世界で暴力を振るわれることになるのか。
「そのへんのこと…。つまりアフターライフに差し障りがないようにしなくちゃだめ。ただ呪い殺すのではなくって、改心させて呪い殺さなくちゃならないのさ」
「そうですよねぇ」加奈子は少し気が重くなるのを覚えた。
「ごめんよ。ちょっと気が重くなっちまったかい?口直しに面白い怪談話の種明かしをひとつだけ教えてあげようか」
加奈子の目を見つめると加奈子が興味一杯の表情だったのでサダコは「悪い幽霊の話しさ」と断って楽しそうに話し始めた。
「呪怨の度合いが少し足りない女が幽霊になろうと三途の川を向こう岸へと渡り始めた。しかしまだ恨み方が足りなかったので、川は結構広くて深かった。それでも全身濡れ鼠になりながらも、根性で辿り着いた。もう、くたくたに疲れてしまって、呪い殺したい男がいる家までまだ遠いものだから、通りすがりのタクシーを停めて後ろの席に乗り込んだ。これからのことを考えながら黙って車に揺られていたら、ルームミラーを覗く運転手の目が自分を気にし始めたことに気付いた。そのあたりは昔からの心霊スポットだったんだねぇ。まずいと思った女は透明モードになって姿を消した。そのとたんタクシーは急ブレーキをかけた。運転手は口から泡を吹いて失神していた。こんな幽霊話聞いたことがあるだろ?」
「はい。あります」加奈子は頷いた。
「で、この後はお約束のように同じ落ちだろ?」
「女はどこにも居らず、後部シートがびしょびしょに濡れていた……?」
「それそれ。当たり前ジャン。その幽霊、三途の川を必死で渡ってきたんだから。あははは」
サダコは声を出して楽しそうに笑った。
加奈子もその笑いを聞いて楽しい気持ちに包まれた。
サダコは腕時計に目をやった。
「あらあら、もう十二時になるわね。後は明日にしましょう。ホテルまで送るからちょっと待ってて頂戴」
サダコはファイルや資料を片付け「明日は直接学校へ来て頂戴。入校手続きをします。朝十時までにね。場所はホテルで訊いて」と加奈子に指示しながら帰宅の身支度を始めた。
サダコの運転する車で送ってもらい加奈子はホテルに戻った。夜中の一時を回っていた。
加奈子は熱いシャワーを浴びてからベッドにもぐりこんだ。何と言う一日だったのだろう?次々と奇妙な出来事ばかりが加奈子の中を渦を巻いて通り過ぎていったような気がする。
明日午前十時までに登校するよう指示されたことを思い出して、加奈子は目覚ましを午前八時にセットすると部屋の明かりを落とした。そのとたんフェードアウトするように加奈子は眠りの淵に落ちていった。
3
加奈子はホテルの予約を一泊延長して学校へ向かった。
フロントで学校の場所を尋ねると距離はそう遠くはないけれど、山の上だからタクシーを使ったほうが良いといわれ呼んでもらった。確かに急傾斜の山肌をぐるぐる回るように道路が走っていて、徒歩では少しきつそうだった。
四月も中旬になる。普通の学校ならばもう入学式も終わって、授業も既に始まっているはずである。それともヨミランドというところは川向こうとは違うのかしら。加奈子はタクシーに揺られながらそんな余計な心配をしていた。
到着するとサダコが校門のところに昨日と同じ赤いジャージ姿で待っていてくれた。サダコに尋ねると、ヨミランド心霊アカデミーは幽霊になる免許を取得するための学校だから、年度という観念はない。決められた単位を取得し卒業試験を受け合格すればライセンスが交付される。言ってみれば自動車学校のようなものらしい。
「川幅だね、強いて入校条件を挙げるとすれば」
サダコは言って契約書の担当者欄に承諾印を押した。
サダコは近くにいた若い職員に「お願いね」と書類を手渡し「行きましょうか」と加奈子を促した。
「川幅ですか?」
「あんただって驚いたろ。三途の川の見え方には」
「はい。びっくりしました」
加奈子が素直に認めると「いい幽霊になるよ。あんたはきっと」といってサダコは笑った。
加奈子は入学手続きと同時に、いつまでもホテル住まいを続けるわけにも行かないので、アカデミーに併設した女子寮への入寮手続きも済ませた。寮生活を始めるんだから身の回りのものをすこし揃えなければならないなと思っていると、加奈子の気持ちを察したのかサダコが
「急ぐことはないよ。今日はこれで帰ったら?」と勧めた。加奈子はその言葉に甘え、ホテルに戻ることにした。
正面玄関前でタクシーを待っていると、「ねえ。カナちゃん」とサダコが呼びかけた。
加奈子が驚いて振り向くと、サダコは「いいわよね、そう呼んで」といって恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めた。
加奈子はうれしそうに小さく頷いた。ずっと一人ぼっちだった自分に突然優しい姉ができたような暖かいものを加奈子は感じた。
「今夜、暇よね」サダコも優しく微笑んで、久しぶりに会った妹に話しかけるように「買い物が済んでからでも、付き合ってくれないかしら?」と、加奈子に微笑んだ。
「喜んでお供します」加奈子は快く誘いを受けた。
買い物を済ませたあと加奈子はヨミランド国立銀行に立ち寄って奨学金の申請を行った。アカデミーからの推薦が既に入っていて、加奈子が申請書を出すと驚くほど簡単に承認された。これでしばらくの間は暮らしに困ることはないだろう。何から何までサダコ先生が段取りよく手配してくれたおかげだ。加奈子は心から感謝した。
ひと抱えもある荷物を部屋に運んでも意味がないので、フロントで保管してもらえるかどうか尋ねると、チェックアウトまで預かってくれるという。加奈子は荷物を預けることにした。荷物の受取札をもらってから部屋に戻った。
時計を見るとまだ四時を回ったところだった。加奈子はテレビをつけた。昨日の土石流による通行止めはまだ続いているようだ。
加奈子はフロントに電話を繋いだ。
「昨日から宿泊されている柚木高弘さんはまだいらっしゃるのかしら?」と訊いてみると、「はい。明日早くご出発の予定と承っております。今は、おでかけになっておられますが」
フロントではそれ以上のことは分からなかった。きっと復旧したらすぐ出発するだろうからもう会えないかも知れない。
「幸せに暮らしてください」というメッセージだけをフロントに託すと加奈子は受話器を置いた。
サダコとの約束は七時にウサンだった。加奈子は約束の時間ちょうどに扉を開けた。サダコはもうカウンターについてカクテルを楽しんでいた。加奈子に気付いて嬉しそうに手招きするので急いで傍までいくと、サダコは隣のシートを手のひらでパンパンと打った。
「すみません、お待たせして」加奈子は腰掛けた。
「ごめんよ。ゆっくりしたかったんじゃないのかい?」
「いいえ。まだこっちのこと何も知らないし」
昨日と同じバーテンダーが加奈子の前にコースターを置いて、加奈子がまだ何も注文していないのに黄金色のカクテルをその上に乗せた。
「サービスです。ゴールデンエリクサー。入学祝です」
「どうもありがとう」加奈子が礼を言うとサダコが笑って「あんまり感謝しないほうがいいよ。ケンは可愛い子にはすぐサービスするタイプだから」
「ひどいなぁ。どんどん飲んでくださいよ。サダコ先生のおごりらしいから」
ケンと呼ばれたバーテンダーはそういって席をはずした。その様子が加奈子にはなんとなく不自然に感じられた。きっとサダコ先生は何か用事があって自分をウサンに呼び出したのだろう。加奈子はサダコが口を開くのを待った。
「勘のいい子ね、カナちゃんって」
サダコは勢いをつけるようにブラディマリーを飲み干した。
「あなたにお願いっていうか、…訊きたい事があるの」
サダコは話し始めた。
「女の幽霊にはね、大きく分けると三種類あるの。まずひとつは向こうの世界で虐げられたり騙されたりして死んだ場合の幽霊。カナちゃんもこれに該当するね。次に向こうの世界の誰かに恋焦がれて、その人をこちらに呼びたいというケース。うちの学校で理事をしている牡丹燈籠のお露さんがこれかな。それから最後に、自分の境遇が恵まれないことを恨んで幸せそうな人間なら誰にでも矛先を向ける幽霊。この三種類さ」
サダコはそこまで言うとカウンターの向こう端から時々こちらに視線を走らせているケンちゃんに空いたグラスを掲げるようにしておかわりを注文した。ケンちゃんはすぐ持ってきた。
「加奈子さんはまだ」いいかけるケンちゃんを「いいから、あっちへ行ってなよ」と追いやって、サダコはグラスを傾けた。
「カナちゃんに聞きたいことっていうのはね、昨日カナちゃんと一緒にここへ来た男の人のことなんだ」
「柚木さんのことですか?」加奈子が探るような視線をサダコに向けるとサダコは頷いた。
「とっても親切な方」と、加奈子は素直にいった。
サダコの瞳に真っ赤な火が灯った。
「でも、良く知らないんです。船の中で始めてお会いしただけだから」
サダコの瞳に灯った赤い火が消えた。
「名前が柚木高弘って言うことくらいです。知ってることは。でもなぜ?」
加奈子の問いにサダコはしばらくいいずらそうにしていたが、「笑わないでよ」と断って「わたし、柚木サダコっていうの」
「エッ!エエエエエーッ」
加奈子は椅子から滑り落ちそうになった。
「それじゃ柚木さんがいってた病気で亡くなった奥様というのは…」
「それはわたしです」サダコはきっぱりと言い切った。
「でも原因は病気じゃないよ。事故さ。」
「事故?」
サダコは頷いた。
サダコはタバコに火をつけて遠くに思いを馳せるように紫煙を追った。
「結婚したばかりだってのにね。無茶やってさ。あれからもう六年」
「そんなに若いときだったんですか?」
「まだガキだったのね。なぜ私だけが何の楽しみも知らないまま死ななくちゃいけないんだって恨んだよ。世の中そのものをね。だからこっちに来てすぐ心霊アカデミーの存在を知って入校の手続きをとった。簡単だった。川幅が一メートルもなかったから。ライセンスもあっという間に取ることができた」
サダコはいったん話を区切るとケンちゃんを呼んだ。
「私にソルティドッグ。カナちゃんにヴァイオレットフィズね」と追加オーダーをしてからまた話を続けた。
「ライセンスを取ったあとは自分で考えて行動したの。川向こうに渡って、幸せそうに見えるカップルを見つけると脅しをかけた。命までは取らなかったけれどね。よい幽霊のすることじゃないって知りながらね」
「それはひどいことだと思います」加奈子は暗い顔をしてサダコを睨んだ。
「確かにひどいことだよね。幽霊に驚かされた人間にとっては。いい迷惑だったろう。二年前にね、こんなことしてちゃだめだと思って、きっぱりやめたんだ」
サダコはウサンの仄暗い空間に視線を漂わせた。
「せめてもの罪滅ぼしと思ってさ、心霊アカデミーの教師を引き受けたんだ。そして、一昨日、たまたま実習で川向こうへ行く機会が有ったものだから、結婚してほんの一年だけ暮らした我が家に立ち寄って見たんだ。再婚しているならしているで仕方がないと開き直ってさ。そうしたら、ああいうのを虫の知らせって言うんだろうねぇ、葬式の真っ最中だった」
「わかったわ。サダコ先生、入管にいらしたのね。昨日フェリーが到着したとき。そこで柚木さんを見つけたんでしょう?なんだか私と仲良く話をしていたし、このお店にもふたりで来た。だからどういう関係なんだろうと気になって、直接聞いてみようと、今日私をここに誘った」
「その通りさ。さすがね」
新しいカクテルを運んできたケンちゃんが「昨日、あの男の人を早く追い出せって、電話で、もう大変。でも結局昨晩は何もできなかった。見かけより気が小さいんだから」と、サダコをからかうように指差した。カウンターの奥で電話が鳴ってケンちゃんが席をはずした時間がほんの少しだけあったのを加奈子は思い出した。
「あんたは口を挟まなくていいから。あっちへお行き」
サダコに睨みつけられケンちゃんは「はいはい。おかわり欲しけりゃいつでもどうぞ」とおどけながらまた席を離れた。
「でもねケンちゃんの言う通りなんだ。カナちゃんがアカデミーに辿り着いたら聞いてみようと思ってた。だけど聞けなかったのさ。怖くて」
「そうなんですか」加奈子は納得した。
「そういうことなら天地神明に誓ってもいいけど私と柚木さんとは何の関係もありません。手を触れたことだってありませんから。握手以外は」加奈子は一瞬柚木の手のぬくもりを思い出した。
「分かったよ。カナちゃんは嘘をいえない子だからね」
サダコはソルティドッグを飲み干して「でも、もういいよ」とため息をついた。
「なにがもういいんですか」加奈子は少しろれつが回らなくなってきたのを感じながら椅子を九十度回転させ、サダコのほうに向き直った。
「柚木さんとはほんの少し話をしただけですけど、もう一刻も早くサダコ先生に会いたいって言う気持ちが熱いくらいによく分かりました」
「でもねカナちゃん。あの人はもうゲートをくぐっちゃったわけだし…一度ヨミランドのゲートをくぐるともうこっちに戻ることはできないの。それに私もそう。こっちで職業に就いてしまうと、もう向こうにはいけないのよ。だから…」
「なにいってるの! サダコ先生」加奈子は大声を出した。「柚木さん、まだこっちにいますよ。それに積極的に会おうともしないのは何故なんですか?」
「怖いの」サダコはポツリとつぶやいた。
「怖い?」加奈子は身を乗り出した「何が怖いのよ。サダコ先生」
「さっき話したとおり、私は何年間か悪霊として過した。もしあのひとがそれを知ったらどう思うか?それが怖くて」
「ずるいよそんなの。結果が怖くて逃げているだけじゃない。あんなに先生のことを思っているのに。柚木さんがかわいそうじゃないですかぁ」
加奈子はそういうと椅子から降りた。
「どうしたの?」サダコが心配そうに言った。
「おしっこ」
ふらふらしながら店の奥に向かおうとする加奈子の腕を、ケンちゃんがカウンターから出てきて掴み「こっちこっち」と店の入口のほうへ引っ張った。入口のすぐ横の薄手のカーテンを引いたその先に化粧室と書いたドアがあった。
「ありがと」カーテンをくぐるとき加奈子はケンちゃんだけに聞こえるように声を潜めて「柚木さん、ホテルにいるから」といって電話をかける仕草をして見せた。ケンちゃんはその意味に気付いて親指と人差し指で丸い輪を作って了解のサインを送った。
柚木高弘はぞれから十五分もしないうちにウサンに現れた。何の変哲もないカクテルバーのフロアーにサダコと柚木高弘は向き合って立ったままなにも言わずお互いを見つめていた。しかし二人の目から涙が頬を伝って流れ落ちるのを加奈子は見た。
「どうやら今日の私の仕事は終わったみたいね。結果がどうなったかだけでいいから教えてくれないかな?なんだかバカらしいからね、帰るわ」
加奈子はケンちゃんに悪戯っぽくウインクして店を出た。
4
翌朝、加奈子はタクシーで心霊アカデミーへ向かった。アカデミーの正門をくぐると広い芝生広場の向こうに六階建ての円筒形をした校舎があった。芝生広場を左手から迂回するように舗装道路が玄関口まで続いているが、その手前と二十メートルほどのところに左の森の中に入り込む分かれ道が見える。タクシーは森への道を選び、まもなく姿を現した白一色に塗り上げられた瀟洒な建物の前で停まった。
ボストンバッグ二つに詰め込んだ手荷物と紙袋ひとつを抱えるようにして加奈子はドアへのアプローチになっている三段の石段を上った。玄関の上にはヨミランド心霊アカデミー学生寮と墨書したアンティークな木製の看板が取り付けられている。
加奈子はドアの横についたベルを押した。待たされることもなくドアが開いて抜けるように白い顔の婦人が現れた。
「大庭加奈子さんでいらっしゃいますね。お待ちしておりました。さ、どうぞこちらへ」と加奈子から荷物を受け取って婦人は加奈子を招きいれた。
加奈子は手土産を入れた紙袋ひとつだけをもって婦人の後に続いた。
正面のロビーから階段を二階へ上がると通路沿いに個室のドアが廊下の両側にそれぞれ十室ほど整然と並んでいた。婦人は今上ってきたいちばん階段よりのドアをマスターキーを使ってあけた。
「こちらが大庭加奈子様の個室になります。お部屋の居住権は原則的にライセンス取得日まででございますが、その後申請なされますと本懐を遂げられるまで延長も可能でございます。申し遅れました。わたくし、この寮の管理をさせていただいております、菊と申します。ご不自由なことがございましたら、何なりとお申しつけください」
薄紫と白の市松模様の和服の上に割烹着を着けたお菊と名乗る管理人は、加奈子にルームキーを手渡した。
「管理人さん」加奈子は立ち去ろうとする管理人に声をかけた。
「お菊とお呼びください」管理人は加奈子を振り返った。
「ねえお菊さん。寮には今何名の方が入っていらっしゃるのかしら?」と、加奈子が質問すると、お菊は少し淋しそうな表情で「たったの六名ですのよ。みんな一人暮らしがいいとおっしゃいましてね、アパートとかマンションとかいうわけの分からないところに越してしまわれましたから…でも私の目から見ますとね残った六名のほうが優秀な幽霊候補生に見えますわ」お菊は手のひらで口を隠しホホホと笑った。
「そうなんですかじゃあこれつまらないものですけれど」
持っていた紙袋をお菊に手渡して「夕食後のデザートのときにでも。勿論お菊さんも一緒に」
管理人はうれしそうに「あらあらそれはどうも」と喜んで受け取った。
その晩のパーティーは入寮生にお菊とサダコを交えた九人が出席して行われた。はじめは夕食後に集まって加奈子の持参した菓子を食べながら懇談しようという程度の話だったのだが、管理人のお菊がやたらと張りきって、ちょっとしたオードブルの準備を始めた。加奈子から誘われたサダコ先生も「お、そいつはいいね」と、自腹でビールと焼酎を差し入れた。
怖い先生で通っているサダコが出席したことで始めのうちかなり緊張気味だった寮生たちも、時間とともに打ち解けて軽口を言い合うまでになって行った。
サダコにしてもお菊にしても受講生たちとそれほど大きく年齢が開いているわけではなかったので、いちど打ち解ければあっという間にまるで姉妹同士のような世界が作り上げられてしまうのかもしれなかった。
「いいですか、先生」
入寮生の一人が勢いをつけるようにグラスのビールを一気に飲み干して口を開いた。普段は陰が薄いと思われても仕方がないようなおとなしい娘でモモちゃんと呼ばれている寮生だった。年齢は加奈子とそう変わらないように見える。
「なんだい?モモちゃん」
サダコが水を向けるとビールのせいか緊張のためか分からないが、真っ赤に頬を染めてモモちゃんが疑問を口にした。
「わたしたち皆向こうの世界の誰かを懲らしめてやるためにこのアカデミーで勉強しているわけですよね」
「ほとんどの場合はそうね」サダコは認めた。
「その目的を遂げるだけなら、なにも呪術学だとか怨念心理学みたいな難しい勉強をしなくたっていいんじゃないかって思うんですけれど」
「というと?」
「ここにいる私たちはライセンスさえ取ればみんな、川向こうへいきたければ簡単に行けるわけですよね?」
「そうね」
サダコはモモちゃんが何を言いたいのか察しがついた。
「モモちゃんはこう考えてるわけだ。いつでも相手のところへ行けるんだから、武器でも持っていけば簡単じゃないかって。どう?」
サダコはモモちゃんの瞳の奥を覗き込んだ。モモちゃんはコクリと頷いた。
「でもね、それはできないんだな。どうしてかって言うとだね、私たちはたとえ川向こうに行ったとしても向こうの世界に物理的に存在していることにはならないからなんだよ」
モモちゃんは首をかしげた。
「つまりね、みんなは今こちらの世界にいるわけだろ。だからこうしてグラスを持つことができるし、モモちゃんの言うように武器だって手に持つことは簡単にできる。ところがね向こうの人間にとってはグラスも武器も存在しないんだ。存在しない武器で死ぬことはないんだよ」
「じゃ向こうに行ってから調達したらいいじゃないですか」
「それも無理。今度は私たちにとって向こうのものは存在しないということになるんだな。金物屋にでも押し入ってナイフでも盗もうと思っても、ナイフはモモちゃんをすり抜けるだけで持つことさえできないんだよ」
「それならばどうやって?」
今度は加奈子がモモちゃんを引き継いだ。
「心だよ」
サダコは自分の胸の辺りに手のひらを当てた。
「心?」
「そう。恐怖心というやつさ。向こうの人間はね、恐怖心を蓄える心の袋を持っているんだよ。その容量は人それぞれだけどね。あんたたちは幽霊になって化けて出ることでその袋の中に恐怖心を流し込むんだ。初めのうちはあんたたちも慣れないだろうから結構難しいよ。だから少しずつで良いんだ。じわじわとね。そしてタイミングを見計らってフィニッシュ。決定打となる恐怖を送り込む。これが呪い殺すということなんだ」
「もし失敗したら?」加奈子は恐る恐る尋ねた。
「怖いことになるよ。忘れちゃならないのはあんたたちが呪い殺した相手もこちらへやって来るってこと。そりゃあそうさ。ヨミランドは向こうから見れば死後の世界。呪い殺されるのもひとつの死だからね。袋の中の恐怖心が満杯になってさえいればフィニッシュはほんの小さな恐怖心でも事足りる。だけどね相手だって人間だ。フラストレーションを持ったままなぶり殺されるようなものだから、こっちへ来てからがまた大変だ。力関係は向こうもこっちも変わらないからね。フィニッシュを鮮やかに決めることができれば相手も恐れ入って、めでたしめでたしってことになる可能性も有るけれどね。ほとんどの場合…」
サダコは寮生たちの反応を見るように視線を走らせた。
「ほとんどの場合?」美津子という体格のがっしりとした寮生がサダコの言葉を聞きとがめた。
「そう。ほとんどの場合、相手の図太さのほうが上ってことが多い」と説明した。
「嫌だよ、そんなの。呪いたくないよ、もう…」
とうとうモモちゃんがべそをかきはじめた。
「やめたっていいんだよ。ライセンスを取った後は自由行動だからね」
サダコは寮生たちに最終判断は自分自身にあるということを告げると「ねえ、お菊さん」と隣に座る管理人に何事か耳打ちした。
「はい。わたくしはよろしゅうございますよ」と頷いた。
サダコは寮生たちを見て、「あなたたち、管理人さんのことをいつも気軽にお菊さんって親しげに呼んでいるようだけど、このお菊さんはね、大変な実力を持った偉い方なのよ」と説明を始めた。
加奈子も他の寮生たちもサダコとお菊さんを見比べてぽかんとしている。
「お菊さんはね、番町皿屋敷のお菊といってね、呪怨の第一人者なの」サダコはお菊をそう紹介した。
寮生の中から驚きの歓声があがった。
「スケ番だったんですか?」と、モモちゃんが尋ねた。
「ばかね。番長じゃあないの。番町よ。東京都の麹町…」
「いいのよサダコさん。今の若い人たちにはそんなこといっても分からないでしょうから」
「すみませんみんな非常識で」サダコはお菊に詫びて立ち上がると「いい。お菊さんはね毎年開催される呪怨コンクールで常に優勝争いしているくらいのすごい方なのよ。よい機会だから、お菊さんから最強の幽霊像を見せていただきましょう」
サダコに紹介されてお菊は立ち上がった。
「皆さんが傷つくことはありませんので安心してご覧くださいね。危険な状態になるとわたくしの身体が紅蓮の炎に包み込まれるのですけれど、そこまではやりませんから。参考になればよろしいんですけれど」
お菊はいって首に回していた銀色のペンダントをはずし食器棚の引き出しの中に入れた。お菊さんは部屋の片隅に踏み台を置き、その上に立った。
「よろしゅうございますか?はじめます」
お菊は体をはすに構え両手首を胸の辺りで下向きにだらりと折り曲げた。いわゆる古典的な亡霊のポーズである。
そのとたん…
部屋の明かりがジジジという音とともに消え、窓の外を稲妻がすさまじい音と閃光を見せて走った。窓がばたんと言う音を立てて開きガラスが砕け散る。
小柄だったはずのお菊の姿がのしかかるように覆いかぶさり、全員を見据える目が妖しく光った。そして寮生たちはお菊さんの腹の底から絞り出すような怨念に震える恨みの声を聞いた。
「魂魄この世にとどまりて、恨み晴らさでおくべきやぁ」
雷鳴はますます激しく轟き大粒の雨が破れた窓から情け容赦なく吹き込んでくる。部屋全体がとても立っていられないほど大きく揺れ動き、ありとあらゆるものが乱れ飛び、そして…
何事もなかったかのようにぴたりと静まった。窓ガラスも割れていなければ、家具も散乱などしていない。全てが元のままだった。
お菊によるデモンストレーションは加奈子ばかりではなく技を目の当たりにした寮生全てに強烈な衝撃を与えた。受け止めた衝撃の内容は皆まちまちだったがどちらにしてもあんな凄いことが自分にはできるはずがないという悲観的なものになったようで、ただ呆然とお菊を見つめるばかりだった。モモちゃんなどは床の上にへたり込んで泣きじゃくっている。
「ちょっと強烈すぎたかしらねえ。年甲斐もなく張り切りすぎちゃったねえ」
お菊は寮生たちの様子を見渡して照れくさそうに頭をかいた。
「さすがお菊さんですわ。私まで怖くなりましたよ。衰えませんねお菊さんも」
「衰えませんねって、サダコさん。あなた、私が婆アだとでも言うつもりかエ」
揚げ足を取るようにいってお菊は笑いながらサダコを睨んだ。
「とんでもない。申し訳ありません」
サダコはお菊につい口が滑ってしまったことを詫び賛辞を送ると、今度は寮生たちのほうに向き直った。
「お菊さんは持って生まれた才能に加えて長い年月に及ぶ努力の積み重ねがあるからこそ、今見せていただいたような凄いことがおできになるわけで、みんなには勿論そこまでは要求はしません。大丈夫ライセンスは取れます。だからあんまり落ち込まないように」
サダコはショックを受けている寮生たちをそういって励ましたが、同時に寮生たちに少し物足りなさを感じた。お菊によるデモンストレーションを見せ付けられ寮生たちはみな叩きのめされたようだった。年季が違うのだから自信を失いかけたとしても仕方のないことだ。サダコはそう思った。それにしても完全にたたきのめされたまま、回復する様子をなかなか見せない寮生たちの中で大庭加奈子だけがその瞳の中によしそれなら自分もという気骨を見せていることにサダコは気付いた。
第三章 ライセンス
1
一週間が瞬く間に流れ去った。お菊の強烈な力を見せつけられて他の寮生たち同様自信を失いかけた加奈子だったがその立ち直りは早かった。ダメージはあっという間に回復し、逆に加奈子の闘争心にかっと燃え上がる火をつけることになった。カリキュラムを組みなおし、加奈子は普通なら二週間はかかる学科の単位をこの一週間で取得した。一日でも一時間でも早く三途の川を渡っての実習に参加したかったので、参加の必須条件となる単位を一週間でとってしまったのである。
「ここが三途の川の渡り口だよ」
木造の質素な建物の扉をサダコはノックした。扉の上に『政治局認定・三途川渡り口』と看板が出ている。鍵を開ける音が聞こえ扉がゆっくりと開いた。
「ああサダコ先生。これから講習かい?ご苦労様」
満面に優しそうな笑顔を見せて、薄汚れた一枚皮のベストを着たごま塩頭の小柄な老人がサダコをねぎらった。
「今日は受講生七名です。スクールバスは駐車場に待機させています」
サダコは受講生リストを老人に提出した。
「了解」老人は建物の中を指差して「教室を使うなら三番教室へ。時間は三時間も有ればいいな」とサダコに三番教室のキーを渡した。
「ありがとうね」
サダコは守衛室に戻る老人の背中に礼を言ってから
「さあ、こっちだよ」と、講習生たちを三番教室へ誘導した。三番教室は前方のドアから入ると左側に黒板代わりのホワイトボードが置かれ、対面するように二十ほどの机が並べてあった。ドアから見て正面はガラス張りの大窓でホワイトボード側に小さなドアが一枚だけつけられている。サダコは受講生たちを従えて教室を抜け、小さなドアをくぐって外に出た。ドアの外は幅二メートル程度のベランダのような造りになっていた。ベランダは木製の手すりによって囲まれていたが、ちょうど真ん中に掛け金のついた戸がありそれをあけて三段ばかりの階段を下りると三途の川の河原に出ることができた。サダコは全員を河原に整列させた。
「はい、確認しまーす」
サダコはパンパンと手を打って受講生たちを注目させると「アカデミーを出るとき一応データを確認したけれど、川幅レベルが一メートルを超える人はいないね?もしいたら手を上げて」と、受講生たちを見た。手を上げた者は一人もいない。「よし。それじゃあ渡るよ。くれぐれも注意して川に落ちないように注意してよ。結構深いし流れも強いからね」サダコは先に立って歩き出した。サダコに続いて階段を降り河原に立った加奈子は自分が少し緊張していることに気付いた。サダコを先頭に一行は次々と全員が川を越えた。渡河といっても何のことはない。ただ小川をまたぎ飛ぶだけのことである。サダコは全員の渡河の様子を確認すると河原に集合させた。
「はい。全員そろったね。どうだい?思ったより簡単だろ。まあ、みんなはもう川幅レベルで五十とか三十のランクだからね」
教え子たちを頼もしく感じながらサダコは「これから先は個別行動になる。仮ライセンスを渡すのでひとりずつここへ来なさい」といってバッグを開けた。
「いいかな?よく聞いて」仮ライセンスを全員に渡し終え、サダコは説明を始めた。
「ここはもう既にヨミランドではないということをよく肝に銘じておくように。いま渡した仮ライセンスはね、今夜十一時までしか効力を持たない 短期特別免許です。許されているのは三時間の枠内で出現の実地練習をすることだけだから気をつけて」
「どうすれば?」加奈子が尋ねた。
「目を閉じて、思い描く。自分が既にそこにいることをだよ」
サダコがそういい終わらぬうちに、目の前にいた大庭加奈子の姿がふっとかき消すように消えた。
新橋駅の烏森口からガード下の飲食店街に沿って十分ほど歩き、ビルとビルの隙間のような狭い道を少し入ったところにリトル・ビットはあった。古めかしい雑居ビルの三階である。エレベーターはなく、細い階段の上り口に小さな電飾が点滅する看板を置いただけのショットバーだった。場所が分かりずらいことに加え、きらびやかな繁華街から二本も三本も奥にはいった薄汚れた感じのビルだったので、どう見ても繁盛している店には見えない。特にあの事故があってからというもの客足は完全に遠のき開店休業に誓い日々の繰り返しになってしまった。
オーナーの松沼和夫は一人も客のいないカウンターの中で事故のあった日のことを思い返していた。
気の早いサラリーマンたちが花見の席だけでは物足りず新橋周辺の飲み屋街にもどっと繰り出し、あの日はリトル・ビットもめずらしく五組ほどの客が入っていた。
松沼の古くからの友人である羽鳥浩一郎もカウンターの一番奥の席で高い椅子に腰掛けてジンライムを楽しんでいた。ただその横に座ってソルティドックを飲んでいる女は、年末に羽鳥が連れてきたお嬢様ではなく、少しけばけばしい化粧をした安っぽい女だった。
大庭産業の社長の娘だと羽鳥が言ったあの娘はどうしたのだろう。確か加奈子とかいったっけ。羽鳥に弄ばれた挙句捨てられたのだろうか。可愛そうに。マスターの松沼がふとそんなことを思ったとき、店のドアが開いた。
入口に立った客の顔を見た松沼は思わず背筋に悪寒が走るのを感じた。
げっそりとやつれた加奈子が抜け殻のようになって立っていた。
「いらっしゃい」
松沼は挨拶しながら羽鳥に目配せしたが、加奈子はそれを見逃さなかった。羽鳥が知らない女といるのを見て、加奈子は少し驚いたようだった。そしてその眼から大粒の涙が溢れ出すのを松沼は見てしまった。
「浩ちゃんの言ってた馬鹿な女って、あの子?」
わざとらしく羽鳥に寄り添って、女が追い討ちをかけるように勝ち誇った目を加奈子に向けた。
加奈子は逃げ出すように店から飛び出した。
そして次の瞬間、ドアの外から悲鳴と何かが転げ落ちる音が聞こえた。
松沼は何が起ったのかと驚いて外に出した。店にいた客たちと羽鳥も松沼に続いた。
階段の中ほどにある踊り場に女が倒れていた。
首が不自然に折れ曲がり、頭と口から鮮やかに赤い血が流れ出していた。
あれから十日が過ぎた。大庭加奈子という女の死は事故として処理された。リトル・ビットも現場検証のため店を閉めざるを得なかったのは一日だけで、結局雑居ビルの管理者に階段での事故防止に配慮するよう改善命令が出て一件落着となった。
しかしエレベーターもない古い雑居ビルだったのでリトル・ビットへ来るにしても、他の店へいくにしても事故のあった踊り場を通らなければならない。事故のあと業者を入れて清掃はしたのだが、コンクリに滲み込んだ血液の痕跡を完全に洗い流すことはできなかった。自然に風化して消えてしまうのを待つよりないようだった。幽霊が出るという根も葉もない噂が乱れ飛び、気味が悪いものだからおのずと客足は遠のいた。リトル・ビットより上階のテナントから客の入りががた落ちとなっていく責任がリトル・ビットにあるとして松沼に苦情が殺到した。だが他人事ではなく、まだ常連客がほとんどいないリトル・ビットの痛手が最も大きかった。そして十日目のこの日、ついに客入りがゼロになってしまったのである。
松沼和夫はレジスターを空けて現金を専用封筒に入れため息をついた。客入りがゼロだから釣銭用に準備した現金もそのまま残っている。だが営業時間中は電気も使っているわけだし、収入がゼロでも借りているスペースの賃借料もかかる。松沼自身の給料だって確保しておかなければならないのだ。もしこんな状態が今後も続くなら死活問題だ。何か方策を講じなければならない。
噂どおり、もし幽霊が出るなら出て欲しいものだ。オカルトブームのこの世相なのだから、それを売り物に客を呼び戻すことができるかもしれない。ついそんな馬鹿なことを真剣に考えてしまう自分に腹が立った。
松沼は気が重かった。時計を見るとまだ午後九時半だったが客は誰も来そうにないので店じまいしようとレジを閉めた。店内の照明を落とすと非常口の場所を示す緑色の弱々しい光が届く部分だけはかろうじてかすかな明るさを残したけれども、そのほかは闇が支配した。あんな事故のあとだから、暗い部屋に一人残されると松沼にしてもあまり良い気持ちにはなれない。
大急ぎで身支度を整え、松沼が店から出ようとドアに手を伸ばしたとき、ドアノブがカチャと音を聞かせた。
「すみません。今日はもう閉店です」
まさかこんなに早く閉店になるとは思いもせず、わざわざ足を運んでくれた客なのだろう。せっかく来てくれた客に詫びようと松沼は大きく扉を開けた。薄汚れた雑居ビルには不相応に思われるほど強烈な光が差し込んだ。
事故のあと安全に気を配ってビルの管理者が通路の照明を驚くほど明るいものに付け替えていたので、通路も階段もまぶしいくらい明るかった。当然誰か客が立っているものと思ったのだが、店の前には誰もいはしなかった。
リトル・ビットは階段を上って三階のいちばん最初のテナントだった。リトル・ビットの奥には二店テナントが入っている。松沼は店から出て奥に目を向けたがやはり姿はない。
何だ、気のせいか。松沼はドアを閉めてバッグからキーホルダーを取り出し扉の上下二ヶ所にある鍵をかけた。
戸締りを済ませ、松沼は帰宅しようと振り返った。目の前に階段がある。その明るすぎる照明に照らされた階段の踊り場に髪を肩まで伸ばし白のワンピースを着たひとりの女が立っていた。まぶしすぎて顔を上に向けることができないのだろうか、じっとうつむいている。
さっき店の扉をガチャガチャした客なのだろう。
松沼は階段を下り擦れ違いざま「リトル・ビットなら今日はもう閉店ですよ。ごめんね」と、声だけかけた。
後ろから「そうですか~」というか細い声が聞こえたような気がした。
サダコは渡川口のベランダで腕時計を覗いた。仮ライセンスの効力が切れるまであと三十分である。他の受講生たちは既に戻っており、第三教室の中で雑談に花を咲かせている。
何かあったのだろうか。サダコはちょっと心配したが、まだ時間は十分にあるし頭のいい子だから取り越し苦労だろう。もうしばらく待ってみようと自分に言い聞かせたとき、案の定心配するまでもなく加奈子が戻ってきた。
サダコは加奈子の様子を見て驚いた。その頬が涙で濡れていたからだった。
加奈子はサダコの胸に飛び込んで泣きじゃくった。
「なにがあったんだい?」サダコは優しく尋ねた。
「せっかく幽霊になって向こうへ行けたのに、……」
「何があった?」
「シカトされたんです……」加奈子は号泣するばかりだった。
2
リトル・ビットのマスターに無視されたという思い込みが加奈子のプライドを大きく傷付け、それが逆に意地のようになって何が何でもライセンスを取るという決意を強いものにした。そしてついに加奈子はライセンスを取った。入校して四週間。記録的に短い期間での取得だった。本当はこんなに強硬なカリキュラムを組んでの受講は認められないのだが加奈子の気迫に負けてサダコが理事会に働きかけて許可を取り付けた。柚木高弘との再会のときいろいろ手を尽くしてもらったという気持ちがサダコの心の中にあった。それに教師としての目でみたときにも加奈子の素質が相当高いことに気付いていたので、それを確かめてみたいと思ったのも事実だった。
加奈子はサダコにひとことお礼を言おうと即日交付された免許証を持って教務課へ出向いた。加奈子に気付いたサダコは急ぎ足で近付いてきた。どうやらテストの結果は既に報告が来ているようだった。
「おめでとう。カナちゃん」
「どうもありがとうございました。いろいろと」
加奈子は取り立ての免許証を誇らしげにサダコに見せた。
「カナちゃんは少し突っ走るところが有るから注意するんだよ」サダコはそうアドバイスすると「ところでカナちゃん。今日夕方から時間が取れないかな?」と加奈子に言った。
「別に予定はありませんけど。なにか?」
「実はこっちもちょっと良いことがあってさ。内輪でお祝いをしようと思っているんだ。わたしの家でね。もしカナちゃんが参加してくれたらもっと盛り上がると思ってね」
「そういうことでしたら喜んで伺います。ご主人ともしばらくお会いしてませんし」
「よかった。主人もきっと喜ぶわ。それじゃ夕方六時ごろ、寮に迎えに行くよ」サダコがそういうのを制して
「サダコ先生、久しぶりに町の中でもぶらついてみようと思うんです。時間を決めていただければわざわざ迎えに来ていただかなくても私のほうから伺います」
「そう?それじゃ七時に自宅に来てもらおうかな」
「必ず。ところでサダコ先生。いったいなんのお祝いなんですか?」
「それがね、ようやく就職が決まったんだよ。柚木にね」
「わっ。すてき。どこなんですかお勤め先?」
「それがさ、笑っちゃいやだよ。スリーウェイフェリーの旅客係なのよ」
「へえ。良かったじゃないですか。大きな会社なんでしょ」
「らしいけど……先週から試採用ってことでね、もう通い始めているの」
サダコがそこまでいったとき授業開始のチャイムが話の腰を折った。
サダコは「それじゃ、今晩必ず来てね」サダコは念を押すようにいって仕事に戻った。
加奈子は一度女子寮の自室に戻ると外出着に着替えた。出掛けに管理人室へ立ち寄って、「お菊さん。合格したよ」と声をかけ、外出先記入表に行き先『不明』帰宅予定『未定』と記入して外へ出た。いつもならタクシーを使う道のりだったが呼ばなかった。一度くらい自分の足でしっかりと踏みしめてみたいと思ったのである。
道は黄泉国神社の山肌をぐるぐると回りながら続く一本道である。加奈子は眩しいくらいに晴れ渡った空の下をのんびりと歩いた。歩きながら考えていたのはいうまでもなく羽鳥浩一郎に復讐することだった。ライセンスも取れたし、技術面でも練習を重ねた。デモンストレーションに感動した加奈子は、お菊に頼み込んで放課後に個人教習を受けたりもした。お菊も加奈子のひたむきな姿勢に応え真剣になって教えてくれた。
羽鳥浩一郎の前に幽霊になって現れ、羽鳥をとり殺すだけなら十分可能だろう。加奈子が気に病むのはサダコが言っていた本懐を遂げた後のこと、つまり死んだあとの羽鳥のことだった。いくら一生懸命練習したといってもたかだか三週間だ。お菊さんは「ほぼ完璧ね」といってくれたけれどまだまだだと思う。自分が悪かったと羽鳥に認めさせ、心を入れ替えらせることについてはまったく自信などなかった。
羽鳥が現在のままの心でこっちへやって来たならばまたしても自分がいじめられることになるかもしれない。それは絶対にいやだ。あんな男を盲目的に愛していたのかと思うと虫唾が走る思いがする。だから復讐を成し遂げたならばきっぱりと縁を切って晴やかな気持ちで父母の待つところへ行きたい。ならば百歩譲ってきっぱり縁を切ることだけを考えるなら、羽鳥に対する復讐を思い止まるという選択肢もある。これもだめだ。思いとどまることができるくらいなら、はじめからそうしていただろう。加奈子の心にある復讐とは呪殺と縁を切ることの二つのポイントをともに満たすことなのである。
加奈子は歩きながら思わず大きなため息をついた。
ライセンスを取得してまだ幾時間もたっていないのに加奈子は早くも暗礁に乗り上げてしまったような腹立たしさを感じ始めた。
確実に加奈子の望みを叶えることができる手立ては本当にないのだろうか?加奈子は順を追って考えてみようと思った。
向こう側の世界で命を落としたあと羽鳥はきっとフェリーの中で意識を取り戻すことになるのだろう。加奈子は自分が体験したことと羽鳥浩一郎がこれから体験するであろうことを重ね合わせてみた。すると加奈子は奇妙なことに気付いた。それはリトル・ビットの階段から転げ落ちたあとのことだった。フェリーから降りて記憶の返還を受けたにもかかわらず、死んでからフェリーに乗り込むまでの記憶が抜け落ちているのである。皆そうなのだろうか。
下船してから入管を出るまでの手続きを思い返すと、全ての個人情報がフェリーの個室番号から引っ張り出せるシステムらしい。ということは乗船する時点で既にフェリーに乗る者は決定しているわけだ。常識的に考えて予約制個室だから乗船のときに乗船口にいなければ捜索が開始されるとか、何らかの動きがあるはずだ。ところがその部分の記憶がない。自分で乗船したのかそれとも誰かに運び込まれたのか、加奈子はまったく思い出すことができなかった。もしこの部分の記憶が故意に返還されていないのだとすれば理由はいったいなんだろう?
乗船させる人間が既に決まっているということは逆にフリーで飛び込んだとしても乗船することはできないということだ。そうだ。乗船客のリストに入っていない死者たちはどうなるのだろう。フリーの船客などいないのだろうか。
そこまで考えたとき加奈子の脳裏を何かが過った。日本の一日の平均死亡者数はおよそ二千七百人ということを聞いたことがあった。フェリーから降りてヨミランドの入管を通ったのは約百人。もしスリーウエイフェリーが日本の死亡者全てを受け入れているとすれば、加奈子が乗ってきたものと同じようなフェリーが少なくとも一日に二十七便は就航していなければならない計算になる。その就航数を下回れば向こう側のフェリー乗り場はたちまち乗船待ちの人間で溢れかえることだろう。
ところが加奈子がこちらに来てひと月の時が過ぎるけれど、桟橋にフェリーがそう幾度も着岸した形跡はない。
羽鳥に思い知らせてやることと関連するかどうかは分からないが、加奈子が理想とする復讐の方法がもし存在するとすればこのあたりに何らかのヒントがあるような気がした。
加奈子は今晩サダコの家でスリーウェイフェリーに就職が決まったという柚木にそういう疑問をぶつけてみようと思った。
そんなことを考えながらぶらぶらと歩き続け、ふと気付くと加奈子のすぐ目の前にもうバスターミナルが見え始めていた。
3
柚木高弘とサダコの新居は市街地から車で三十分ほど離れた住宅街にあった。遠くに三途川を望む高台で、川に面して広い庭を置いた平屋造りの住宅だった。白い壁に鉄錆色の屋根を乗せた洒落た洋風の姿が可愛らしい。
加奈子が玄関のチャイムを押すとジーンズ姿の柚木とエプロンをつけたサダコが笑顔で出迎えてくれた。
居間に通された加奈子は「ご就職おめでとうございます。これ、安物ですけど使ってください」と就職祝いのギフトを渡した。ホテル直営の洋品店ですこし若すぎるかなと思いながら購入した若草色のネクタイだった。
柚木は鏡の前で首に当て白い歯を見せた。
「ありがとう。遠慮なく。それより君もライセンスがとれたんだってね。おめでとう」
「ありがとうございます。なんとか」
「すごいのよ。短期取得記録を塗り替えたの。私も鼻が高いわ」サダコは少し頬を高潮させて柚木に説明した。
「それでねカナちゃん、これはお菊さんからあなたにって」
それは小さな紙袋だった。
加奈子は受け取り「なにかしら」といって取り出してみると小さな宝石箱で、箱を開けると一辺が五ミリくらいの小さな金属性のキューブをつけたネックレスが入っていた。
「サダコ先生、なんですか?これ」
「毎晩練習していたんだってね。お菊さんが言ってた。もう完璧だって」
「まだまだです・・・」
「そのペンダントは事を起こすときには必ず身に着けてね」サダコは意味ありげにいって「さ。それじゃあ食事の用意でもしようか」と席をはずした。
サダコがキッチンに入って準備を始めると柚木が小さな声で「本当に実行するつもりかい?」と囁いた。
「勿論です」加奈子の決意は固かった。
「いつ?」
「できる限り早く」
「そうか。僕としては本当は思いとどまって欲しかったんだが、決意が固そうだから止むを得ないな」
「ごめんなさい。ご心配おかけして」
「で、具体的にはどんなシナリオを考えているの?」
「シナリオ?」
「そう。ただ幽霊になって取り殺すだけなら簡単だけれど、その羽鳥とかいう男と今後ずっと付き合っていくつもりもないわけだろ」
「当然です」
「その方法だよ」
「仮にの話なんですが」加奈子は思い付きを話すときのように恥ずかしそうにいった。
「向こうの世界を離れた後、羽鳥はフェリーに乗るために川向こうのフェリー乗り場に来るわけですよね」
加奈子の質問に柚木は頷いた。
「それじゃもし羽鳥がそのフェリーに乗ることができなければどうなるのですか?」
「つまり加奈子さんがいいたいのは、羽鳥を三途の川の向こう岸に取り残してしまおうということか」
加奈子はコクリと頷いて柚木を見つめた。
「それが可能なら君の望みは叶えられるだろうね」
「さあ準備完了」サダコの声がした「庭のほうへどうぞ」
柚木は立ち上がり「続きは食事しながら話そうか」と柚木は加奈子を庭へと誘った。
満天の星の下で三人だけのバーベキューの集いは暖かい優しさで加奈子を包み込んだ。早くに他界した母、仕事で留守がちな父。兄弟もいない。向こうの世界で過した二十数年の歳月が加奈子に用意していたのは孤独という環境ばかりだった。
加奈子はまるで自分が柚木とサダコの子供にでもなって楽しい団欒のひと時を過しているような幸福を感じた。
酔いが少し回ってぼんやりし始めた頭を加奈子は小さく振った。柚木の言うシナリオのアウトラインだけでも頭の中に描いておきたかった。
そんな加奈子の気持ちを察したように柚木は自分のほうから水を向けた。
「さてさて、それじゃ腹も一杯になったことだし、打ち合わせを始めましょうか。サダコも聞いていてくれないか」
柚木がいうとサダコは頷き「復讐の段取りね。いいよ。できるだけの事はさせてもらうよ」と胸を張って見せた。
「そんなに張り切ることもないさ。サダコ。君の役割はほとんどもう終わったように感じるからね」
柚木がなだめるようにいうとサダコはふくれ面をして見せた。
「でもこっちでの経験はいちばん長いからね。手伝えることがあれば何でもいってよね」
「ああ。大先輩としてこれからの話の中に何かおかしな点があればアドバイスしてくれ。さて、それじゃひとつずつまとめていこうか」
「まず加奈子君が描いている復讐の理想形についてだが確認のために整理すると、第一番目に羽鳥を呪い殺すことがあげられる。これは加奈子君の仕事になるわけだが、何か問題は?」
「何もないわ」
「それじゃ二番目だ。向こうの世界から川向こうのフェリー乗り場にやって来たターゲットを、フェリーに乗せないということだね」
加奈子は不安そうに柚木の目を見つめた。
「できるかしら。そんなことが」
「なかなか難しそうだけれどできると思う。僕の仕事になるね、これは」
「やっていただけるんですか」
「恩返しと思って引き受けよう。首尾よく出来ればいいけれどね。そして最後にターゲットを向こう側の河原に封じ込めること。これが三番目の命題だ」
「可能なんですか」
加奈子の質問に柚木は力強く頷いて「フェリー乗り場は出港前になるとひどく混雑する。その混雑にまぎれて僕の思っている通りに進めることが出来ればの話だがね」
と、言い切った。
「ちょっと待って」サダコが口を挟んだ。
「混雑にまぎれてって今言ってたけど、せいぜい百人ぐらいの人数でしょう?見咎められる心配はないの」
「百人?とんでもない」柚木は苦笑した。「初めてスリーウェイフェリーを訪問したとき、向こう岸の乗船口も見学させてもらった。そのとき分かったんだが、乗船口などというちっぽけなものじゃない。向こうの世界を去る者にとって、受け入れるヨミランド側の第一次審査を行う役所のような役割を果たしているようだ」
柚木の説明を聞いていた加奈子は心の中にあったわだかまりが一気に消え去ったような気がした。
「もしかしたら二千七百人・・・」
「鋭いね。そこまで知っているとは」今度は柚木が目を丸くした。
「その通り。一日およそ二千五百人が集まってくる。もう大騒ぎなんだ」
「二千五百人ですって。」とサダコが驚きの声を上げた。
「だってせいぜい百人くらいだよね。下船してくる人数は……しかも何日かに一度」
「そうか。他にもあるんだ。ヨミランドに入る方法が。そうなんですね」
加奈子の言葉に柚木は頷いた。
「何の問題もなくヨミランドに入ることが出来る人々は空路で入国する。直轄区を跳び越してね。ぼくや加奈子君のように問題ありの人間はフェリーのコンパートメントが満室になり次第出帆ということになる」
「問題ありって、どういうこと?」サダコが口を挟んだ。
「僕の場合はサダコがこの直轄区で教職についたということ。僕が直接空路でヨミランド本国に入ってしまったら再会を果たすことが出来ないことになる。本国から直轄区に戻ることは出来ないらしいからね。政治局とかいうヨミランドを仕切っている機関の計らいだと思う。ふたり仲良くこの直轄区で暮らすか、ふたりそろって本国に行くか選択しろという恩情なんだろうね」
柚木は暖かいまなざしを一瞬サダコに向けたが、すぐ真顔に戻って「加奈子君のケースは勿論復讐の希望が並外れて強かったことだ」と続けた。
「でも、空路といったって飛行機が飛んでいるのなんて見たことがないわ」
「そうかな?」
柚木は意味ありげにいってサダコを見た。
「飛行船・・・」加奈子がポツリとつぶやいた。
「大当たり。あのツェッペリン型の飛行船はアドバルーンなんかじゃない。一度に千人を運ぶことが出来る大型旅客機なのさ。スリーウェイフェリーの旅客係の仕事は、続々集まってくる人々を整理して、向こうの世界から流されてくる情報に従って空港までバスで送ったりフェリーに乗せたりすることなんだ」
「それでなのね。死んでからフェリーの中で目覚めたときまでの記憶がないのは」
加奈子が感心したように大きく頷くのを見て柚木は満足そうな笑顔を見せた。
「飛行船組も同じように死んでから飛行船の中で意識を取り戻すまでの記憶は消しされれるんだ」
「何の意味があるの?」
柚木はサダコから問われてことばを捜すようにしばらく視線を宙に漂わせたが、二人が答えを待つのを見て
「ここからは僕の想像になるんだけれど」と前置きして話し始めた。
「きっと向こう側より優位に立っていたいということだと思う」
「どういうこと?」サダコと加奈子の声が重なった。
「つまり、向こう側の世界とこちら側の世界、そしてその中間地帯として三途の川流域があることを僕たちは知っている。勿論ヨミランドの直轄区に入ってから知ったことだ。向こうにいたときのことを思い出してごらん。死後の世界があるなんてことを真剣に信じていたろうか?いや仮に信じていたとしてもそれは想像の世界でしかなかっただろう。天国とか地獄というようなね。だから向こうに生きていたころ死は恐ろしかった。死は全ての終わりだと思っていたからね」
ふたりは同時に頷いた。
「しかし今はどうだい?当たり前のように理解しているじゃないか。まだヨミランド本国を見てさえいないのに。それはこの三途の川流域がヨミランドの直轄区だからなのさ。もし誰もが死んだあと生きているときとそれほど変わらない世界へ行くということを知っていれば怖いものはなくなると思うよ。この直轄区が中間のフリーゾーンで向こうとこっちの共有だったりしたなら怖いものなしになった人間たちで秩序は乱れに乱れることになるだろうね」
「それじゃ、柚木さん」
真剣に聞き入っていた加奈子が柚木の話を途切れさせた。
「もし私が本懐を遂げてヨミランド本国に行ったとしたら、ここにいたときの記憶は……」
「飛行船で入国したという作られた記憶に置き換えられると思う」
「サダコ先生や柚木さんのことも……」
「綺麗さっぱり消し去られるだろうね。君の記憶の中から」
サダコが呆れたようにため息をついて「もう少し飲もうか」と缶ビールを柚木と加奈子に手渡した。
4
「あの時は本当にぞっとしたよ」
松沼和夫はカクテルグラスを洗う手を休めて遠くを見るような目をした。
「そんなばかなことがあってたまるものか」羽鳥浩一郎はカウンターごしに鼻で笑って見せた。しかし羽鳥の瞳の奥には気味の悪い話を聞いたときの不快感が宿っていた。
「考えても見ろよ」羽鳥はジンライムをあおるように飲んだ。
「幽霊が、ああそうですか~、なんていうか?」
ことさら明るい声で羽鳥はいって、空いたグラスを掲げてハルオという松沼が最近雇い入れた若いバーテンに目配せした。バーテンは待つまでもなく新しいグラスに入れた薄緑色の飲み物を羽鳥の前に置いた。
「仕方ないだろう。そう聞こえたんだから。」松沼はカウンターの中で口を尖らせた。「あの時おれは踊り場で女とすれちがいざま、今日はもう店じまいだと声をかけた。二階まで下りてなんだかぞくっとするような悪寒が走ったので気になって振り返ったんだ」
「ふん。そうしたら女はもういなかったというんだろうが。よくある話だ。振り返ってみると女はおらずその場所が水でぐっしょりと濡れていた。だろ?」
「そんな話なら俺も気にしないさ。どこか他の店にでも入ったんだろうなと合理的に考えるよ。ところが違うんだ」
「なにが?」
「振り返ったとき、まだ居たんだよ同じ場所に。そして、おれが見ている前ですうっと透明になって、消えた。あれは幽霊だ。間違いなく幽霊だよ」
「いい加減にしろよ。この科学の時代になんだそれは」羽鳥は語気を荒げた。
「おれに怒ったって仕方ないだろうが。おれだってある意味では被害者なんだからな。なんだか薄気味悪くってひとりになりたくないから人を雇ったり……」
「えっ。思いっきり俺まで関係あるんすか?カンベンしてくださいよぉ」聞き耳を立てていたらしくハルオが目を丸くした。
「幻覚だよ。幻覚。心にやましいものがあるからそんな幻覚を見るんだよ」
羽鳥は機嫌の悪そうな表情を変えずにいった。
「心にやましいところ?おれが?」
松沼は自分を指差した。そもそもことの始まりは羽鳥の加奈子に対する理不尽な仕打ちから始まったことだ。それを棚に上げて張本人から悪人扱いされるのはごめんだ。
「俺じゃあないでしょうが。恨み買ってるのはさぁ。俺はただお前とあの女の人に場所を提供しただけだろう」
松沼はきっぱり言い切った。
「それじゃあ俺が加奈子を殺したとでも言うのか?」
「そうはいってないよ。あれは確かに事故だ。誰もが認めることだ」
「だろ。そうとも。事故だったのさ」
「だがね死んだほうはどう思っているのかねぇ。少なくとも俺に対してはもう終わったようだ。あれ以来二十日近く過ぎるけれど一度も現れないし、店のほうにも客が戻ってきている」
松沼は店の中を見回した。確かに二組客が入っていた。
「俺に何が言いたい?」羽鳥はグラスを空けた。
「十分注意したほうがいい。それだけいいたかった」
「ありがとうよ。持つべきは友人だな。結構脅かしてくれるじゃないか」
羽鳥は大声で皮肉たっぷりに笑って見せた。羽鳥におかわりを作って運んで着たハルオが店の奥のほうに誰かを探すような視線を送って「あれっ」と小さな声を出した。
「あの、マスター。一番奥にいたお客さん、もう帰られたんですか?」
「お客さんって誰も出入りしていないだろ。この羽鳥と、向こうにいる二組のままだよ」
「いいえ女性の方がひとりでこられてたじゃないですか。ゴールデンエリクサーを注文してましたよね。ほら、あそこに座って」
ハルオはカウンターの一番奥の席を指差した。確かにカクテルグラスがひとつだけ置いてある。
「あれ?」ハルオは不思議そうな声を出した。
「どうした?」
「ひとくちも飲んじゃいないっすよ。これ」
黄金色のカクテルを満たしたままのグラスを手にして松沼に見せた。確かにグラスも綺麗なままで口をつけた痕跡もなかった。
羽鳥と松沼は思わず顔を見合わせた。ふたりとも顔色が一瞬にして真っ青に変わり、だらしなく開いた口からカチカチと小刻みに歯のぶつかる音が聞こえる。
「な、……」
松沼は何か言おうとしたが適当な言葉が見つからなかった。
「そこにいたって?どんな女だった?いってみろ」後を引き受けるように羽鳥は詰め寄った。
「何で俺が叱られなきゃならないんすか?わけ分かんないっすよ」ハルオは口を尖らせた。
「どんな女だった?」なだめるような口調で松沼がいいなおした。
「ずっといたじゃないっすか。早くから。綺麗な女の人で、髪を肩まで長く伸ばして・・・」
ハルオの記憶は完璧に加奈子の特徴を捕らえていた。
「あの女の人が幽霊なんすか?まさかそんな」
震えながら黙り込んでしまったふたりを見てハルオは笑ってみせた。いつまでもこんな調子ではたまらないと思ったからだった。だが奥の席に女を見たのはハルオ自身なのだ。だからその笑いはどこかへ虚しく消え去ってしまった。
「すみません」大きな声が聞こえた。あまりに突然だったので三人はそれぞれの場所で飛び上がった。三人とも自分の心臓が早鐘のように脈打つのが分かった。恐る恐る声のほうに顔を向けると二組のカップルが帰り支度をして立っている。
「帰るよ」と客の一人がいった。恐怖が頭を支配しているので相手の言っている意味が分からない。松沼はとりあえず「帰れ!」と怒鳴った。向こうが帰るといっているのだから問題あるまい。
「だから、帰るよ」
「今すぐ帰れ」
「なんだとこの野郎」ついに客のほうが切れた。
ハルオが一番先に正気に戻り、気色ばむ客をなだめて
「マスターお勘定ですよ」ととりなした。
二組の客たちが店から出て行くのを見送って、ハルオがドアを閉めた。
「幽霊なんて初めて見ましたよ。何があったんすか?」
ハルオの質問に答える代わりに「今何時だ」と松沼が聞いた。ハルオは腕時計を覗いた。
「十一時過ぎです」
「店じまいにしようか。片付けを始めてくれよ」
治夫に指示して松沼はレジを閉めた。
「暇なんだろ。居酒屋にでも行って飲みなおそうや」
羽鳥が松沼の背中に向かっていうと松沼は「いいね。ハルオもどうだ」と誘った。
「いいっすね。ご馳走になります」
幽霊を目撃したことについても単に珍しいものを見たという程度にしか受け止めていないハルオが一番早く立ち直ったようだった。ざっと掃除を済ませカジュアルウェアーに着替えると「おまちどうさま」とおどけて見せた。
「それじゃ行こうか」
羽鳥が先に立って店のドアを開いた。相変わらず明るすぎる光が流れ込んできた。
羽鳥はそのまばゆい光に満たされた階段の踊り場に佇むそれを見た。
「ウワッ」
声にならない声で叫んで羽鳥は店の中に戻った。
「だめだ。あの女俺たちを待ってやがる」羽鳥は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「本当か?」
松沼は閉めたドアを細く開けて隙間から覗いてみた。踊り場がかすかに見える。誰もいない。
「気のせいじゃないのか。だれもいないぜ」
松沼は思い切って大きく扉を開けた。そこに加奈子が立ちはだかっていた。落ち窪んだ眼窩の奥に恨みの光が宿っている。その口元から赤いものが糸を引くように流れていた。三人は悲鳴をあげその場にへたり込んだ。加奈子の亡霊を外に残したまま、扉がスプリングの力で閉じた。
「何とかしろよ、羽鳥」松沼の声がほとんど悲鳴のように反響した。羽鳥とハルオは閉じた扉を必死で押さえハルオが震える手で何とか内側からドアロックをした。非常灯の緑色のぼんやりした明かりしかない暗がりの中に三人は取り残された。誰一人もう一度扉を開けてみようという勇気はない。三人とも押し黙って扉の向こう側の気配を探っているばかりだった。
「とにかく明かりを点けてくれよ」羽鳥の声で我に返ったようにハルオが立ち上がった。
ハルオはスイッチボックスに手を伸ばした。スイッチを入れようとしたときハルオは何かを感じてカウンターの奥に目をやった。
この世のものとは思われぬハルオの絶叫がリトル・ビットの店内に満ちた。腰が抜けてその場にへたり込んだハルオはただ奥を指差している。羽鳥と松沼はあハルオが指差す先を見た。叫び声が上がった。その場から何とか逃れようと扉をぐいぐい引っ張ったがロックされているから扉は開かなかった。
カウンターに座った加奈子の亡霊はゆっくりと三人のほうに顔を向けた。
「うらめしや浩一郎さま~」
加奈子の亡霊は怨念のこもるエコーの効いた声でささやくとゆっくり立ち上がった。
「松沼さん。それからそこの坊や・・・。あなたたちには何の恨みもありません。さあ、もうお帰りなさい。ごめんなさいね驚かせて」
加奈子が言うと扉のロックが音を立てて外れた。ハルオと松沼は腰を抜かしたままいざるように店から逃げ出した。羽鳥もあわよくばついでに逃げようとふたりを追って出口へと向かった。
「なに考えてるの。お前はだめだ~。お前だけは逃がさんぞ~」
羽鳥の目の前で扉がゴーンという鈍い音を聞かせて再び閉じた。羽鳥は閉じた扉に背中をあずけるようにして加奈子のほうに向き直った。その顔が血に染まっている。ゴーンという音はどうやら羽鳥が閉じる扉にしたたか鼻を打ちつけたときのものらしかった。
「俺をいったいどうしようって言うんだ」羽鳥は泣き声を出した。
「黄泉の国へと連れて行く~」加奈子の亡霊はそういうとヒヒヒと笑った。
「俺が悪かった。許してくれ。ごめんなさい。もうしません」
「だめだよ~。もう遅いんだよ~」
加奈子は恐怖に包み込まれ叫ぶことさえできなくなってしまった羽鳥を嘲笑うように歩み寄った。
「マスターもバーテンも逃げ出してしまったわよ。あの女も、私が手を下すまでもなく自ら命を絶った。もうお前を庇うものは一人もいないのさ」
加奈子はおびえる羽鳥に恨みの視線を投げた。
「嫌だ。やめてくれ」
羽鳥のその声は加奈子には聞こえなかった。
加奈子は精一杯の怨念をこめて唱えた。
「魂魄この世にとどまりて、恨みはらさでおくべきや」
その声は店中のあらゆるところに反響し羽鳥に襲いかかった。加奈子の胸にかけた小さなキューブが恨みの炎を宿したように赤く燃え上がった。炎はやがて加奈子の体全体を包み込んだ。加奈子の体中から赤いオーラが放たれているようだった。地鳴りが地の底から轟き始めたかと思うとそれは地震のような揺れを伴って立っていられぬほど激しいものになっていった。ビルの外には耳を劈くばかりの雷鳴が轟き渡り青白い光が絶え間なくフラッシュした。リトルビットは加奈子が作り出した怨念の領域に入り込んだ。棚に収めていたボトルが全て飛び出し床に砕ける。ナイフやフォークなどが空間を飛び交い壁に音を立てて突き刺さる。カクテルグラスやシェイカーなども例外ではなく、なぎ倒されるように棚から払い落とされ乱舞した。
扉が突然外側に開いた。扉の前で頭を抱えて屈みこんでいた羽鳥は見えない力に突き出されたように店の外へ放り出された。羽鳥は両手両足で踏ん張り、階段際でかろうじて転落をこらえた。しかしそっと目を開くと踊り場に立って恨めしそうに羽鳥を見上げ、おいでおいでと手招きする加奈子がいた。羽鳥浩一郎の身体から全ての力が抜けたように見えた。羽鳥は階段を転げ落ち、踊り場の床に思い切り頭を打ち付けた。ぐきっ、という嫌な音が聞こえた。最後にリトルビットの中から飛び出した果物ナイフが倒れた羽鳥の胸に狙いを定めたように一直線に落下し、深々と突き刺さった。血しぶきが舞い上がり、階段の下から心配そうに見上げていた松沼とハルオに降り注いだ。
第四章 ウインド
1
もう少し機能的に出来ないものだろうか。
不快指数満点の蒸し暑さだ。ヨミランドへの入国手段はフェリーよりも航空機のほうが圧倒的に多い。職員なら誰でも知っていることだった。それならなぜ空調設備もしっかりしていないこの建物に受付を置くのだろう。職探しをしていたとき一度見学させてもらったが、エアターミナルは実に近代的な建造物だった。何故機能的に改善しないのか理由を問うたことがある。会社は太古からの伝統を守るためと説明するのだが柚木には何のことやらさっぱり分からなかったし、限度って言うものがある。だから伝統に託けたような答えを返されると腹が立った。
しかし何分にも新入社員の身である。あまりしつこく意見することもできない。
柚木高弘はうんざりして額の汗を拭った。
今日もまた二千五百人を越す旅客の受け入れをしなければならないのだろう。パテーションで仕切られた受付カウンターが五ヶ所ありそれぞれに係員がついているので窓口一ヶ所当たりおよそ五百人。旅客一人につき一分の手続き時間がかかるとして五百分。もし一人でこなすとすれば休みなく働いても計算上たっぷり八時間は必要になる。
実際には三交代の勤務で、朝九時に受付を開始して正午に午前の受付が終了する。ここで係員が交代して午後の受付は一時から四時まで。再度係員が交代して夜の受付が五時分から八時と一人当たりの窓口勤務は三時間。
時間数だけを聞くと随分楽な仕事のように感じるが、何の達成感も得られないような単純作業が途切れることなく続くのである。
それにもし夜の受付でも処理しきれない旅客が出た場合には全て終了するまで残業となる。
翌日に繰り越すことは出来ない。だから各窓口とも手を抜くことが出来ない。
向こうの世界で死亡した人間の個人データはおよそ半日遅れでヨミランドの受け入れデータベースに登録される。死亡者たちはこの受け入れ所前の広場に次々と集まり、受付が始まる時刻になると自分の名前が呼ばれるのを待つ人たちでごった返した。
ヨミランド側の受付時間の関係で、向こう側の時刻にすると午後9時に死亡した者から朝の受付が開始されることになる。
いささかうんざりした顔で柚木高弘は目の前の旅客から預かった書類に大きなAのスタンプを押した。
「Aのドアから入ってください。待合室になっていますので中でお待ちください」
カウンターにはコンピュータのディスプレーが埋め込まれており、ちょうど十名の氏名と生年月日それに種別が表示され、そのうち柚木が対応している男の個人情報部分がライム色にフラッシュしている。そのほか四箇所に緑色のシャドウがかけられた旅客名があった。他の係員が処理中の旅客である。ディスプレーの下にはいくつかのボタンが配置されている。柚木がENTERと書かれたボタンを押すとフラッシュしていた旅客名が消え、新たな旅客名がスクロールして表示された。
柚木は未処理の旅客名を選びボタンを押すと、「木下大三さ―ん。一番の窓口へどうぞ」とマイクで呼びかけた。
ドアが開いてまだ四十代に見える男が柚木の前に立った。自分のおかれた立場をまだ理解していないのでおどおどした表情を見せている。
「おかけください」
柚木が勧めると男は何も言わずにパイプ椅子に腰を下ろした。キーを押すと個人データがディスプレーに表示された。
「キノシタダイゾウ、さん。四十七才。昭和○年×月△日生。終了時の特殊事情ナシ。間違いありませんね」
柚木はディスプレーに表示された項目の中から数箇所確認のために読み上げた。
男が「はい」というのを待って「確認証を」
男から書類を受け取りスタンプを押し、「Aのドアからお入りください……」
同じことをただ延々と繰り返す仕事だった。
加奈子が計画を開始する時刻は午後十一時である。
首尾よく事が進んだとすると羽鳥のデータもそろそろディスプレー上に表示されるだろう。壁に取り付けたデジタル時計は十一時半を指している。もし午前中の受付時間を過ぎてしまえばこっちの計画も少し変更しなければならないことになる。柚木がそう考えたとき、待ち焦がれていた羽鳥浩一郎の名前がスクロールして競り上がってきた。
柚木は他の窓口係員に先んじてカーソルを移動させ、表示された羽鳥の名前の上に重ねた。
「羽鳥浩一郎さん、一番の窓口へどうぞ」
マイクに向かって羽鳥の名前をコールする。
ディスプレーには羽鳥の氏名や略歴などありきたりの情報が表示され、その下に死亡時の特殊事情として大庭加奈子の呪怨に起因する心臓発作により死亡という記載がある。この欄に記載のある人物は原則的にフェリーによる渡河となる。
原則的というのは、出国の受付で審査担当官による聞き取り調査の際、担当官が特殊事情に当たらないと判断すれば変更しても良いことになっているからである。
要するにヨミランドへ渡る旅人の希望でどちらでも良いといっているのと同じことだった。フェリーはおよそ百名の乗船定員にならなければ出帆しない。
国から運行補助金が出てはいたがスリーウェイフェリーの台所は厳しいものがあった。だから会社としても運行経費削減のためなるべく空路を薦めるように職員の指導をしている有様だった。一言で言うと形ばかりの受付業務だった。
羽鳥がなかなか入ってこないので、柚木は再度「羽鳥さん。1番へどうぞ」と呼びかけた。
ドアが乱暴に開いて男が入ってきた。年齢は柚木より少し若く見える。上背は柚木とほぼ同じくらいだが、痩せているため小柄に感じられた。グレーのスーツを着ているがノータイで、ワイシャツのボタンを二つ目まではずしているから少しだらしなく見える。
羽鳥は両手をズボンのポケットに突っ込み、なで肩を精一杯いからせて柚木の待つカウンターに歩み寄った。
柚木はその格好を見て羽鳥浩一郎が気の弱い臆病者であることをひと目で見抜いた。
「ここはどこなんだ!」
羽鳥は柚木の前に来るなり怒鳴った。
柚木は挑戦的なその態度に、鋭い視線を羽鳥に返した。しばらく睨み合いが続いたが羽鳥のほうが先に目を逸らした。
「あなたはもう死んだのですよ。羽鳥浩一郎さん」柚木は穏やかに言った。「ここは死後の世界の入口です」
「何をばかなことを」羽鳥は小さく笑って柚木が進める前に椅子に腰掛けた。「こうして現に生きているだろうが」
「こちらの世界で生きているということならば確かにその通りです」
柚木は冷たく突き放した。今、何も知らずに目の前で訳もなく牙をむいている羽鳥浩一郎という名の臆病者に、辛く悲しい思いをさせられたのはきっと加奈子ばかりではないだろう。柚木は直感的にそう感じた。柚木は無性に腹が立った。怒りは時間とともに膨れ上がった。しかし自分が立てた計画によって羽鳥がこれから受けるであろう仕打ちを思ったとき、その怒りがいつか心地よく楽しいものへと変化していることに柚木は気付いた。
「どういうことだ、それは」
感情のない柚木の言い方が癇に障ったらしく羽鳥は大きな声を出したが柚木はまったく動じず、冷ややかな目で羽鳥を見た。
「じきに全て分かってきますからね。心配なさらなくていいですよ。私にできることは、羽鳥さん、あなたに三途の川を渡る方法を選んで差し上げることくらいしかありません」
「三途の川だと?それじゃ何かい、俺は本当に死んだのかい?」
「いったでしょう」
「加奈子のやつ、どこにいるんだ。ふざけやがって」
「加奈子?だれですそれは」柚木はディスプレーを覗くふりをして「ああ、なるほど。加奈子という女に取り殺されたわけですか、格好悪いですねぇ。あははは」と声を出して大笑いして見せた。
「だまれ。加奈子のやつめ、今度会ったらただじゃおかない」
「その方でしたら川向こうの幽霊居住区にいるでしょうね」柚木は嘘っぱちを並べた「それじゃあ、羽鳥さん、船にしましょうか。その女に仕返ししたいのならそれしか手はないですから」
「そうしてくれ」羽鳥は軽率に答えた。
「分かりました。では死亡確認証をください」柚木は羽鳥がスーツの内ポケットをまさぐるのを見ながら「でも覚悟してくださいよ」と、意味ありげな口調で付け加えた。
「なにを?」羽鳥は手を止めて柚木を見た。
「幽霊居住区に一度入ってしまうと一生そこから出ることはできませんからね。一生といっても今度は無限の長さですし、それに……」
「まだあるのか?」
「船といってもねぇ、手漕ぎボートみたいなものですからね。川の流れも速いし、チャレンジしてもいいんですが、成功する人はいないんですよ滅多に」
「失敗したらどうなるんだ」
「わかりません、そんなこと。処分されてしまうんでしょうねぇ、きっと。川にはピラニヤ見たいな魚も住み着いているらしいし……」
柚木は一度言葉を切ると羽鳥の様子を窺った。思ったとおりその視線は不安と恐怖で空中を漂っている。
「確認証を出してください。水路使用のスタンプを押しますので」
「ちょっと待ってくれ」羽鳥は慌てふためいて「一般的にはどうなっているんだ?」と尋ねた。
「ほとんどの入国者は空路を使いますね。ヨミランド行きの大型飛行船ですが」
「ヨミランド?」
「昨日まであなたが住んでいた世界ではたしか『天国』とかいう言葉で呼んでいたと思いますがね」
「それにしよう」羽鳥はもっともらしい顔でいった。
「えっ。でも加奈子とかいう女のほうは?」
「いやもういいんだ。彼女には何の恨みもないからね」
「分かりました」柚木は笑い出したいのを必死になって押さえ、羽鳥の死亡確認証にAのスタンプを押した。
「Aのドアから入ってください。待合室になっています。空港行きのバスが来ると思いますが、あなたは乗らないでください。十二時二十分になりましたら私が空港までお送りします。確認証に特殊事情の内容記載があると原則としてヨミランドに直接入ることはできない決まりなんですよ。結構難しい試験があって合格すればいいんですが、不合格ならその時点で船確定ですからね。空港で私が試験免除の手続きをしてあげます。ただ、確認証をもし誰かに見られたりしたなら厄介なことになりかねない。バスに乗るなというのは確認証を見られないための用心です。だから羽鳥さん。あなたも十分注意して間違っても他人に見せたりしないでくださいよ」
柚木は次から次と口から飛び出す嘘で、いじめっ子のように羽鳥を弄んだ。そして羽鳥は柚木に対してただ真顔で大きく頷くよりなすすべがなくなっていた。
2
加奈子は計画の第一段階を終えて訓練のときにベースとして使用した三途の川渡り口に戻ってきた。一見木造の掘っ立て小屋のような建物だったが、中に入ると教室や休憩室などがまずまず整っていて、入浴や簡単な食事などもできる施設である。加奈子が計画を実行に移すというので何かあったときのためにと休憩室を借りてサダコとお菊が待機していた。
ちょうど時計の針が午前零時を指したとき、少し乱暴にドアが開いて加奈子が上気した顔を覗かせた。
「どうだった」サダコが聞いた。
「終わりました。第一段階は」と加奈子は報告した。それは加奈子にとってうれしい報告のはずだった。しかし加奈子の瞳は宙を漂っていた。
「それにしてもお菊さん、あのペンダントはすごいですね。全てを実体化してしまうんですね。迫力がありすぎて怖いくらいでしたよ。それに」加奈子は興奮しているようだった。
「それに、あの男の惨めさって言ったらなかったわ。腰を抜かしちゃって……這いずり回ってた。お皿やナイフが飛び交う中で許してくれ、許してくれって気がふれたみたいに叫んでいたわ。挙句の果てに扉から飛び出して。悪いことばかりした報いですよね……」
加奈子はそういってけらけらと笑い出した。興奮で自分が何をいっているのかさえ分からなくなっているようだった。
サダコとお菊もそれに気付いてお互いに顔を見合わせた。いつもの加奈子の様子とは明らかに違っていた。
「カナちゃん。カナちゃん。しっかりおしよ」
サダコは加奈子の肩を押さえて声をかけた。驚いたことに加奈子の目から大粒の涙がとめどなく流れ出していた。
「どうしたの?カナちゃん」
サダコは優しく行って加奈子を抱きしめた。加奈子は今はもう忘れてしまったはずの母のぬくもりをサダコの胸の中で感じていた。
「サダコ先生。わたし、ひとを殺めてしまった。しかも楽しみながら……許されないことです」
加奈子はサダコに抱かれながら「わたしどうしたらいいんだろう。わたしどうしたらいいんだろう……」と泣きながら繰り返すばかりだった。
「カナちゃん。気にしなくていいんだよ」
サダコは加奈子の頭を優しくなでながら「カナちゃんは誰も殺してなんかいないよ。ただちょっと懲らしめて、こっちの世界につれてきただけの話さ」
サダコは加奈子の辛い思いが少しでも軽くなればと願った。
その言葉が加奈子に聞こえたのかどうか。それはサダコにも分からなかった。肩の震えが止まったので様子を見ると、加奈子はサダコの胸に顔をうずめたまま穏やかな寝息を立てていた。
「おやまあ」サダコはお菊を見た。
「よほど緊張したんだろうねぇ」
「そうですね、きっと。でも明日もうひとつ大仕事が残っているのに。大丈夫かしらね」
「よろしいじゃございませんか、失敗しても」
お菊はしばらく加奈子の眠り顔をいとおしげに見つめていたが、やがて何度も自分の首を縦に振ってサダコに視線を戻した。
「心が綺麗なのでしょう。そこに俗世の風を突然入れたものだからこんなことになったのでしょう。でもねサダコさん。こんなにあどけない顔しているけれど、もう立派な女ですもの。ちゃんと自分で納得のいく答えを出すでしょうよ」
サダコはお菊の言葉を聞いてにっこり微笑んだ。
加奈子は休憩室の窓から差し込む暖かい日差しに眠りの淵から引き戻された。壁にかけられた時計の針はもう八時を回っている。休憩室の床は板張りだったがサダコかお菊が気を利かせてくれたらしく、敷布団が二枚重ねて敷いてあった。ふと見ると枕元に封書が一通置いてある。表に加奈子様、そして裏を返すとサダコとお菊の名前が並んでいた。
加奈子は封書を開け、中から三つ折にした便箋を取り出した。便箋には筆文字で次のようにしたためられていた。
『加奈子様
昨夜はお疲れ様でした
本懐を遂げられた由伺いましたまことにおめでとうございます
私ども両名明日の仕事がありますので帰ります
あとは加奈子様の思うとおりに実行してください
心から応援いたしております
最後に昨晩加奈子様の心中お聞きいたしました
でも決してご心痛のようなことは無いと理解しております
物事はそれを見る角度によってまったく異なった見え方をするものであることを十分心にお留め置きください
吉報をお待ちいたしております』
いい人ばかりだと加奈子は思った。
昨夜は自分でも理解ができないほど興奮してしまった。人を殺してしまったという罪悪感が加奈子の胸の内に満ちて、冷静に物事を判断することができなくなってしまったのだろうか。そうではないことに加奈子は気がついていた。加奈子をパニック状態に陥れたのは罪悪感ではなかった。それは惨めに泣き叫ぶ羽鳥の姿を目の当たりにした優越感と満足感、言葉を変えるなら喜びといってもあながち間違いではない心の動きだった。そこには楽しみながら羽鳥浩一郎をいたぶっている自分の姿があった。善であるはずの自分の中に残酷な悪が同居しているのを加奈子は知ってしまったのである。最近たびたび社会を賑わすいじめの構図が理解できるような気がした。確かにそれは人として軽蔑されてしかるべき愚かしい行為に違いない。しかし他に対して優位に立ったときいじめる喜びとでも言えそうな感情がおのずと生まれてくるのもまた人間なのかもしれない。もしそうだとすれば……
加奈子は背筋がぞくりとするような悪寒を感じた。
柚木高弘が午前の受付から解放されあらかじめ駐車場に入れておいたマイカーを待合室横の送迎バス乗り場へ回すと、羽鳥は不安そうな顔をして柚木を待っていた。計器パネルのデジタル時計に目を向けると十二時二十分ちょうどを示している。ちょうど約束した時間だというのに羽鳥の身体は落ち着きなく揺れ動いて気の弱さをさらけ出していた。
柚木は車を羽鳥の目の前に停めると助手席の窓を開けて「後ろに乗ってください」と声をかけた。本来なら一度車を降りて外からドアを開けてやるのがマナーなのだろうが、そこまですることもなかろう。
羽鳥が後ろのシートに乗り込むのを舞って柚木は車を発進させた。
道は右手に三途の川を見ながら河岸に沿って続いていた。川といっても対岸も見えないほど広い川幅なのでイメージとしてはむしろ海岸のようだったと現したほうが適しているかもしれない。
土地は荒れ放題でごつごつした瓦礫が散乱する裸地や雑草の生い茂る荒野がどこまでも繰り返すように続いていたがその中を走る道路だけはなかなか立派な舗装がされていたので、ファミリータイプのワンボックスでも十分に快適なドライブ感を楽しむことができた。
一時間ほど走ると荒野の中に白い建物が見え始めた。
「あの建物は?」
「あれが空港です」
羽鳥と柚木の声が重なった。出発してから押し殺したような沈黙に呑み込まれていた車内の空気が一気に軽くなった。話題がなかったわけでも会話を避けていたわけでもない。二人ともただきっかけを掴みかねていただけだった。
「今一時半です。羽鳥さん、あなたが乗るのは夕方六時の便です」
「まだ随分時間があるじゃないか」
羽鳥は近付いてくる白い建造物に目をやったまま不満そうな声を出した。
「腹、空いたでしょう」
「そうだな」
「とにかく空港で何か食いましょう。空港だけですからね、食事ができるのは」
やがて『空港方面左折』の案内標識が現れ、あっという間に後ろへ流れ去った。交差点が近付き案内表示の通り左へハンドルを切ると空港はもう目と鼻の先だった。
地下駐車場へ車を入れてエレベーターを使って空港ビル三階まで上がるとレストラン街になっていた。エアグルメという洋食の店に入りランチメニューをふたりは注文した。
「三時の便が取れればよかったのですが生憎満席でしてね。次の便になってしまいました」
柚木が申し訳なさそうに言うと羽鳥は少し笑った。
「何時の便だっていいさ。どっちにしたって右も左も分からないんだ。少し気持ちを整理する時間があったほうがいい」
「ここから車で三十分ほど行くとこの地域の観光名所で三途の川展望公園というところがあるんですよ。良ければ時間つぶしにご案内しましょうか」柚木は水を向けた。
「そうかい。それじゃお願いしよう」
羽鳥は躊躇なく誘いに乗った。
食事を済ませ羽鳥と柚木は再び車に乗り込んだ。
「それにしても」柚木はいった「最近ではめずらしいパターンですねぇ」
「なにが?」
「こっちに来ることになった原因ですよ。亡霊によって命を絶たれたなんて本当にめずらしいことです。最近では二千五百人に対して三人か四人くらいしかいませんからね。大笑いですよ」
「大きなお世話だ」羽鳥は不愉快そうに口をゆがめて見せた。
「こっちの世界で暮らしていると存在するっていう事は生きているっていうこととイコールだと分かっているでしょう。世界が違うだけでね。ところが向こう側の世界では幽霊や亡霊を含めて魑魅魍魎に関しては死んでいるのに存在しているような変な扱いをされています。そんなばかなことがあるわけがないのに誰も気付かない。だから向こうの世界の人間が亡霊という田舎芝居みたいなものに恐怖する姿って言うのは実に滑稽なんですよ」
「どうせ俺はお笑い者さ」
「ところで羽鳥さん。あなたその何とか言う女性にいったい何をしたんです」
「そう特別ことは何も……・惚れていると思わせといて遊ぶ金を少し頂戴しただけだよ」
羽鳥の言葉に加奈子を苦しめたことに対する後ろめたさはまったくなかった。加奈子が死んだことだって階段を転げ落ちた事故だったではないか。俗っぽく言うなら世間知らずの女が勝手にのぼせ上がって甘い夢を見た。これが原因なのだ。非は加奈子のほうにあるのに一方的に自分だけが責められるのは納得できない。羽鳥の口調には加奈子に対する怒りさえ感じられた。
柚木は運転を続けながらもし羽鳥がこのままヨミランドに入って加奈子と同じ世界で生活することになれば、間違いなく加奈子にとって辛い日々が続くことになると思った。だがそれは加奈子自身が決めなければならないことだ。これ以上手を貸すことはできない。加奈子がそれを決断するための舞台を柚木はつくっている。加奈子にしてやれることはそこまでだ。その仕事もあと僅かで終了することだろう。
やがて柚木と羽鳥を載せたワンボックスカーは上り坂に差し掛かった。かなりの急勾配を車は喘ぎながら登り続け、上り詰めたところに三途の川展望公園の駐車場があった。
3
駐車場はコンクリートで舗装されていたが利用している車は一台もなくどこか荒んだものを感じさせた。少し先に公園の入口ゲートがある。近付いてみると駅の改札口のような改札機が三台並んで設置されていたが、その前には閉鎖と記された立看板が置かれている。入場券売り場もシャッターが下ろされていた。
柚木と羽鳥は無人の改札をこじ開けるようにして園内に入った。雑草が石畳を押し上げていたるところに煤けた緑色の群生を作っている。二人はアーケードの下の十メートルばかりの通路を抜け正面広場に出た。
そこはそれほど広くもない正方形の広場で周囲を高さ三メートルほどの煉瓦塀で取り囲まれていた。中央には円形の花壇があって、四季の花が美しく咲き乱れている。
柚木も羽鳥も忘れかけていたフルカラーの世界に戻ったようなほっとした気持ちを覚えた。
しかしせっかく和んだその気持ちも長くは続かなかった。柚木は花壇に近付き一番手前の燃えるように赤いサルビアの花に手を触れた。
「造花です」柚木は残念そうな顔を羽鳥に向けた。
「ここはヨミランドでもなければ貴方が昨日まで住んでいた世界でもなくてその中間地帯です。かつてヨミランドではここに観光公園を造って財政収入を増やそうとした。そして失敗したんです。それ以来閉鎖されたままなんですが、国は権限を三途の川の向こう側までに決めてしまったので、現在は勝手に入園してもお咎め無しなんですよ。羽鳥さん、向こうに三途の川を見渡すことができるところがありますよ。行って見ませんか?」
柚木はそういうと羽鳥の返事も聞かずに歩き出した。
羽鳥はこんな廃墟のような場所にひとり残されるのは嫌だったから仕方なく柚木の後を追った。
柚木は造花の花壇に沿って回り込むように進んだ。
先ほどまで話をしていた場所のちょうど向かい側まで進んで柚木は足を止めた。
「ここが入口です」
柚木は腕を伸ばして煉瓦米の一部を指差した。柚木の指差す先には腰を少し屈めれば何とか通ることができるくらいの小さなトンネルが穿たれていた。近付くとトンネルの奥から強い風が吹き出している。羽鳥は中を覗いてみた。
トンネルは少しの間緩い勾配で奥に向かって下っていたがその先に外光が差し込んでいることからそれほど深いものではないことが知れた。
「足元が悪いので気をつけてくださいよ」
柚木は躊躇することなくトンネルに入っていった。羽鳥は渋々柚木の後を追った。
緩勾配の坂道は入口からの見かけどおり羽鳥の身長ほど下ったところで終わり、ほんのわずかの平坦な通路の向こうに空があった。トンネルの出口に立つ柚木の姿がシルエットになって空中に浮かんでいるようだった。
羽鳥が追いつくのを待って柚木はトンネルの外へ出た。
柚木に続いて羽鳥がトンネルから出ようとするのを見て「気をつけてください」と柚木が大きな声でいった。
一歩踏み出しただけで、羽鳥はその意味を理解した。煉瓦塀から続くトンネルは断崖絶壁の頂上付近にできた天然のテラス状の場所に抜けていたのである。
「うっ」声にならない声を発して羽鳥は思わず後ずさった。
「凄いところでしょう。実は私もつい最近知ったんですよ。どうです、あれが三途の川です」
柚木が手のひらを上に向け指し示す先には無限の広がりを見せる大海原ならぬ大河原が広がっていた。
「イメージとまったく違ったよ」
「私もこっちに着たときにはそう思いました。向こう岸で先に逝った懐かしい人々が手招きをするなんて話も聞いていましたからね。向こう岸なんてどこにも見えやしません」柚木は笑った。
羽鳥は再度、しかし今度は慎重に、テラスの際まで進み、下を覗き込んだ。目もくらむ高さだった。おそらく二百メートルか、いやもっとあるのかもしれない。
テラスはトンネルを中心に半径三メートルほどの半月形で安全対策の手摺すらなく、そこに立つと羽鳥ならずとも引き込まれるような恐怖を感じるに違いなかった。
このときになって羽鳥の胸の内に一つの疑問が芽生えた。それは何故この柚木という男が自分をこんな危険極まりない場所へつれて来たのだろうかという単純な疑問だった。観光名所だと柚木は言った。こんなところが観光地であろうはずがない。そう思うとこの疑問はたちまち膨れ上がって、不安から恐怖へと形を変えた。何の疑いも持たず誘いにのってしまった自分の軽率さを羽鳥は悔いた。柚木を見る羽鳥の視線に警戒の色が混じった。
柚木はそんな羽鳥の心の動きをたちどころに見抜いた。
「そんな怖いものを見るような目で見ないでくださいよ」
柚木は笑った。
「こんな場所に俺を連れて来ていったいどんな魂胆なんだ」
羽鳥は柚木に警戒の目を向けたままトンネルの中に身体を戻した。
「魂胆ですか。安心してください。羽鳥さん、別にあなたをとって喰おうなんて思っちゃいませんからね。ただあなたにぜひ会って欲しい人がたった一人いるだけで、それ以外にはなにもありませんから」
「だれだ。それは」
羽鳥が詰め寄ると柚木はそんなことは分かっているだろうという視線を羽鳥に返した。
「わたしよ、羽鳥さん」
加奈子の声が聞こえた。声は入口の方からではなくトンネルの外から風に乗って聞こえてきた。羽鳥だけではなく柚木も驚いてテラスのほうに目を向けた。そこには純白の法衣に身を包んだ加奈子が立っていた
「いったいどこからテラスに……」
「何でもできるわ」羽鳥の言葉を無視して加奈子はいった。
それは加奈子によってこっちの世界に引きずり込まれた羽鳥にとっては大きくプライドを傷つけられる言葉だった。
「そんなことより柚木さん、本当にありがとうございました。この場を作っていただいて」
加奈子は続けて羽鳥を無視した。
「役に立ててよかった。それじゃあ僕は一度空港に戻って羽鳥さんの入国手続きをしてくるよ。五時には駐車場に戻るから待っていてくれ」
「わかったわ」
「羽鳥さん。確認証を預かります」
羽鳥はしぶしぶ内ポケットに入れた書類を柚木に手渡した。
4
柚木が空港へと引き返し、三途の川を見下ろす断崖のテラス上には加奈子と羽鳥の二人だけが残された。羽鳥にとって加奈子は幽霊であり自分をこの黄泉の国へ引き込んだ張本人である。死んだといわれても意識も感覚も完全にもとのままなので、ああそうですかと素直に信じることはできない。羽鳥の頭の中には自分はまだ生きており加奈子は幽霊だという観念がそのまま残っていた。だから加奈子がまた幽霊になって自分を呪い殺すために現れたのだと早とちりしたとしても不自然ではない。羽鳥の身体は恐怖のためにがたがたと震えた。
「学習能力がないわね、羽鳥さん」
加奈子は軽蔑のまなざしで羽鳥を見た。「ここは中間地域といっても死後の世界よ。あなたも私も対等の立場。生きてる人間と幽霊の関係じゃないわ。もう少ししっかりしたらどう? 男ならね」
まくし立てるように加奈子は羽鳥の心を突き刺す言葉を並べた。
加奈子に一喝され羽鳥はようやく震えが収まるのを感じた。しかしまだ幽霊コンプレックスとでもいうものがあるのか少しおどおどしている。
「俺をどうしようっていうんだ?」
「抹殺します。あなたを」加奈子はきっぱりといった。
「抹殺だと」
羽鳥の目が光った。
羽鳥がテンションの上がりやすい男であることを加奈子は知っていた。もうじき決着がつく。加奈子はそう確信した。
「またあの呪文を使うのか? それに……」
「それに? 何なの?」
「今、俺は死んでいるわけだろう。それをまた殺すっていうのは矛盾しちゃいないか?どういうことだ。死んでいる俺をまた殺すってのは。元の世界に戻すって事か?」
「最低。発想の貧困もここまでくると笑うしかないわね」
加奈子はフンと鼻を鳴らし「抹殺って言うのはねこの世界からも向こうの世界からも永久に葬り去るっていうことよ。分かりやすくいうなら削除するってこと。ゴミ箱を空にするって言ったほうが分かりやすいかもね。それから何でしたっけ……そうそう呪文ね。あなたには呪文なんて要らないわ。もったいないから」
加奈子は羽鳥の頬がピクリと引きつるのを見た。その目が赤く充血している。よし、もう少しだ。加奈子は緊張した。
「ねえ、羽鳥さん」加奈子はにやりと笑った。
「あなたが私を騙して付き合っていたあのバカ女のことだけれど。どうなったと思う?」
「自殺したとお前が言っていたじゃないか」
「ばかみたい。あんなの嘘っぱちに決まってるでしょ」
「なんだと」
「私ね、あの女のこと許してやろうと思ったの。あの馬鹿女だって結局あなたに遊ばれてるだけに違いないって思ったから。でもあの女のほうが上手だった。羽鳥さん。あの女ね、あなたがこっちへ来たとたんもう新しい男と仲良くなって、楽しそう旅に出たわよ。可哀想に、あなたもとんだ三枚目ね」
加奈子はできるだけ羽鳥を挑発するように大きな声で笑った。羽鳥の瞳の奥に殺意の炎が燃えあがっていた。
加奈子は断崖の際まで進むと無防備にも羽鳥に背中を向けたまま笑い続けた。
来る。加奈子は感じた。
加奈子は全神経を背中に集中させた。タイミングを間違えたらそれで終わりだ。
どこまで馬鹿にすれば気が済むんだ。羽鳥は全身の血液が逆流するような憤りを感じた。確かに俺はお前を利用し弄んだ。しかし騙されたお前のほうにまったく非がないといえるのか。お前が呆れ果てるほどの世間知らずだったこと。それこそがあんな悲惨な結果を生み出した原因になったと思わないか。俺は報いを受けてこっちへ連れてこられた。俺は全てを失ってこの世界に来た。十分じゃないか。
崖っぷちに立って背中をむけ笑い続ける加奈子に羽鳥は強い殺意を覚えた。俺を抹殺するだと?やってもらおうじゃないか。お前が仕掛ける前に俺がお前の息の根を止めてやる。
羽鳥はトンネルからテラスに出ると両腕を突き出すようにして加奈子の背中めがけて突進した。
来た。加奈子は羽鳥が自分を突き落とそうと突進してくる気配を感じた。
確かに加奈子は自分が世間知らずだったと思う。だからといってそういう人間を弄び全てを奪い去る権利など誰にも許されようはずがない。しかし物事は見る角度を変えればまったく別物になる。もしこのまま羽鳥がヨミランドに入ったとすれば自分は何をされるか分からないし、社会的にどんな評価がされるかだって同じことだ。
それを避けるにはこうするしかない。何もなかったことにする。それが加奈子の出した結論だった。挑発され見境をなくした羽鳥が加奈子をテラスから突き落とそうと突進してくる。まさに加奈子の計画通り羽鳥は動いたのである。
加奈子は羽鳥の両手が背中に触れたその瞬間を逃さなかった。羽鳥の両腕に力が込められるより一瞬早く加奈子はテラスから思い切って跳躍した。
加奈子を突き落とそうと力をこめた両腕が突然心張り棒が外れたように宙に突き出された。
羽鳥はたたらを踏んだが既に遅かった。必死にテラス上に止まろうと足を踏ん張ったが身体の重心は既に崖の外にあった。羽鳥浩一郎は勢い余って絶望という虚空に身を躍らせてしまったのだった。
まさか加奈子が飛び降りるとは予想もしていなかった。羽鳥は自分の体が宙に舞うのを感じながらそう思った。しかし加奈子が身を投げたというその判断すら正しくないことを羽鳥は知った。三途の川に落下するのではなく影も見えないほど遥かな対岸に向かって飛翔していく加奈子の姿が見えたような気がしたのである。それはどんなに考えても羽鳥の常識では理解できるものではなかった。
柚木は車を停めた。全てが終わったことを感じ取ったのからある。ダッシュボードを開け柚木は一枚のファックスを取り出した。今朝早くサダコがフェリーに送ってよこした私信のファックスだった。加奈子との昨夜のやり取りを報告した上で、加奈子が多少ナーバスになっているかも知れないからよろしくフォローしてやって欲しいと書いてあった。
「物事はそれを見る角度によってまったく違う見え方をする、か……」柚木はつぶやいた。
確かにそうだ。三途の川にしても羽鳥にとっては海のように広い大河だが加奈子にとっては川幅わずか一メートル足らずの小川なんだからな。それにしてもそれを直ちに応用して行動に移すとは加奈子という娘も怖い子だな。と柚木は思った。
どちらにしてもこれでもう迎えに戻る必要もなくなったし空港に用事もなくなったわけだ。まっすぐ職場に戻ることにするか。
柚木は羽鳥の死亡確認証とサダコからのファックスを小さく引きちぎり、車の窓から紙吹雪のように外へ振りまくと再び車を発進させた。
眠り足りない目をこすりながらカーテンを大きく開く。雲ひとつない青空が直轄区域の上に広がっている。道を行き交う人たちと車の流れなど、普段と何も変わらないヨミランド直轄区の姿が広がっている。計画通りに事を成し遂げた大庭加奈子は昨日のうちに学生寮を引き払いホテルに入ったのだった。
「そんなにお急ぎになることもございませんでしょうに。もうじきサダコ先生も授業を終えられますのでそれまでお待ちになられては?」
そういってお菊が引き止めたが、長居すればするほど別れが辛くなるからと半ば強引に加奈子は寮を飛び出したのだった。
ゆっくり時間を取って別れを惜しむこともできた。だがそれをすれば話題はどうしても加奈子の選んだ結論に行き着くことになる。それをサダコやお菊にどう評価されるか。加奈子はそれが怖かったのである。きっとそんな加奈子の気持ちをサダコも察したのだろう、ホテルに入ってからどこへも出かけずにいたのだが、サダコからの連絡は一度もなかった。
加奈子はチェックアウトを済ませ、そのままバスターミナルに向かった。午前九時ちょうど発車のバスに乗り込み窓際の席に加奈子が腰掛けると、バスはすぐ発車した。バスターミナルから一般道へ出るためのブースで順番を待っているとき、ふとターミナルのほうへ視線を走らせた加奈子はそこにサダコとお菊が立っていることに気付いた。わざわざ見送りに来てくれたのだろう。二人とも加奈子が気付いたのを見て大きく手を振っていた。しかし加奈子には笑顔を作ったふたりの表情がなぜか淋しそうに見えた。
加奈子の大きな黒目勝ちの目から停まることを忘れたように涙があふれ出し頬を伝った。
サダコ先生もお菊さんも本気で加奈子のために尽くしてくれた。それなのにその評価だけが怖くて自分は逃げ出してしまった。ヨミランド本国へ入るとき、この直轄区で過した日々の記憶は消し去られるという。加奈子はそのことに心の救いを求めていたのかもしれない。
評価などあるはずもなかった。全てが終わったならもう何もいわないから安心して甘えに来て。あの手紙はそれを言いたかったのではなかったのか。もしそうだとすれば加奈子の取った行動は人として最低の行為に違いなかった。
バスはようやく一般道に出、スピードを上げ始めた。
サダコとお菊の姿がどんどん小さくなっていく。
加奈子は窓をいっぱいに開いて身を乗り出し、大きく手を振った。
「サダコ先生。お菊さん」加奈子は声を振り絞って叫んだ。
「ごめんなさい。わたし……忘れないから。わたし、絶対に忘れないから」
その叫び声はヨミランドの朝の喧騒と、風の唸りに飲み込まれた。
うらみはらさで・・・ヨミランドの風