雨がやんだら(4)

   十二

 前日の夜から降り始めた雨は、金曜日の朝になってもやむ気配を見せなかった。
 雨の中、西に向かって、尾藤が手配した車を走らせた。環状七号線を越えて青梅街道に入り、北裏の交差点で左折して、雨に濡れそぼった桜並木の下を駆け抜ける。〈武蔵野警察署〉の前を通り過ぎ、三鷹駅の北口へと向かった。〈ヴェルマ〉のチエと出会ったバスロータリーの一角に車を横付けして停める。
 腕時計を見ると、約束の時間よりも二十分早く到着していた。駅前に、待ち合わせをした森真砂子の姿はなかった。そのまま車の中で彼女を待つこともできたのだが、道行く人々の視線に耐えることができず、私はエンジンを止めて車から降りた。周囲の視線を集めているのも、すべてはこの車のせいだった。
 何事もなかったかのような素振りで、駅に隣接したコーヒーショップへと足を運ぶと、店内はランチタイムであることに加えて、昨今流行りの〝有機栽培〟という売り文句が効いているのか、若い女たちで混み合っていた。このコーヒーショップは残念なことに全席禁煙だったので、仕方なく窓際の席に腰を降ろした。窓の向こうには、バスロータリーに残された私が横付けした車が見えた。駅を行き交う人々が、興味深げに車に視線を投げかけていく。
 〈武蔵野警察署〉が近いのだ。どうせなら、あの車を駐車違反でレッカー移動してくれないだろうか。そうなれば、私の気も晴れるだろう。もっとも、そんな事態になって一番困るのは誰あろう私なのだ。今日の移動手段がなくなってしまう上に、あの車を手配した〝あの〟尾藤に、代償としてなにがしかの理不尽な要求をされることになってしまうのは明白だった。
 〝忌々しい〟車を眺めながら、レギュラーサイズのコーヒーをすすった。約束の時間の五分前、森真砂子から私の携帯電話に、三鷹駅に到着したとメールが入った。半分ほど飲み残したコーヒーを捨てて――〝有機栽培〟を売りにしている割には、淹れ方がまずいせいで、お世辞にも美味いとは言えなかった――コーヒーショップを出た。
 駅前に向かうと、ちょうど真砂子が階段を降りてくるところだった。〈聖林学院〉の男子寮で初めて会ったときと同じ黒のパンツスーツだったが、今日は髪を下ろしていた。私に気づいた真砂子は、私の前まで来ると「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」と私が返すと、真砂子が目を伏せた。「どうしたんです?」
「あの……花田君に関する資料なんですが、今まとめている最中です。もう少しお時間を頂戴できますでしょうか」
「構いませんよ。そちらも、お忙しいんでしょう……」〈聖林学院〉の理事長と会ってから五日ほど経つ。その間〝なしのつぶて〟だったことから、すでに期待はしていなかったのだが、それをそのまま真砂子に伝えるのは、大人げがないように思えた。
「……とにかく、下山文明さんに会うことで、花田君を見つけられるかもしれない。そちらに期待しましょう」
「申し訳ありません」と頭を下げてから、真砂子が辺りを見渡した。「それで、ここからは、お車になるんですよね……」
「ええ。そうです」私は、バスロータリーで一番目立つ車を指差した。
 私の指先に向けられた真砂子の視線が止まった。「……あの車ですか?」
「あの車です」
「恰好……いいですね」絞り出すように真砂子が言った。
 無理もない。私の指差した先には、バスロータリーに横付けされた私とそう歳の変わらないV8エンジンを搭載した車があった。いわゆるマッスル・カーというヤツだ。おまけにボディカラーは黄色で、ボンネットの中央には黒いラインが引いてある――おかしな言い方になるが、近未来ではスーパーチャージャーとエアロパーツを追加されたこの車は〝インターセプター〟という名で、暴走族を追い回すことになる――なんにせよ、私の稼業を知っていながら、どうして尾藤はこの目立つ車を手配したのか。私には、嫌がらせとしか考えられなかった。
「……どうも、ありがとうございます」私もお礼を返すのがやっとだった。
 私は小走りで車に向かい、左側のドア――助手席を開けてやった。
「これ……日本の車なんですか?」傘を差してついてきた真砂子が言った。
「オーストラリアです」
「そうなんですか……」真砂子が戸惑いながら、傘をたたんで助手席に乗り込んだ。
 私は回り込んで運転席に乗り、今ではなかなかお目にかかれない二点式のシートベルトについて真砂子に説明をして、エンジンをかけた。歳の割には整備がきちんとされていて、エンジンは一発で始動した。V8特有の野太いエンジン音が響き渡る。
「では……出発します」ギアを入れて、アクセルを踏み込んだ。
 この〝忌々しい〟車のおかげで、下山文明のいる山梨に向かう私たちの門出は、道行く人に見送られる恰好になった。
 三鷹通りを南下し、深大寺の前を通り過ぎて〈調布インター〉を目指す。この〝忌々しい〟車で、唯一の救いは右ハンドルということだった。道幅の狭い三鷹通りを走るのには、ただでさえ骨が折れるというのに、これで左ハンドルであったならば、私たちは山梨どころか〈調布インター〉にすら、たどり着けなかったかもしれない。
 慣れない車の運転に集中している私に気を遣ってくれたのか、それまで黙っていた真砂子が口を開いたのは、〈調布インター〉が目の前に迫ってきたときのことだった。
「山梨のどちらまで、行かれるんです?」
「山中湖の近くです。なんでも、彼の自宅兼仕事場があるそうです」私は〝調布IC〟と書かれたチケットを受け取りながら、答えた。この車にETCなどという洒落たものは装備されていない。
 左車線から中央自動車に乗り入れ、アクセルを踏み込む。本領発揮とばかりに、V8エンジンが轟いた。
「場所は……住所とか、ご存じなんですか?」ダッシュボードを見渡して、真砂子が言った。残念ながら、私と歳がそう変わらないこの車に、カーナビなどという最新鋭機器は装備されていない。
 尾藤が用意してくれた地図は、昨晩のうちに記憶してある。私は左手で自分の頭を指差した。「ここに入っています」
 助手席の真砂子が一層、不安げな顔を見せた。
「……地図をもらっています」今度は上着の内ポケットの辺りを、左の掌で上から叩いた。
 真砂子はようやく安堵の表情を見せて、視線をフロントガラスに向けた。
 車を本線の流れに乗せてから訊いた。「ところで……今日は、お仕事はどうされたんです?」
「学院長には、〝出勤せずに、休んで構わない〟と仰っていただいてますから」
「そうでしたね」私は先日の事務所での会話を思い出した「だけど、急な連絡でバタバタさせてしまったようで、申し訳ない」
「いいえ。今は取り立ててやる仕事もないですから。それに……」
「それに?」
「出張扱いにしてもらうよう、ねじ込みました」
 この車が三鷹通りを抜ける以上に、あの理事長を説得することは、骨が折れたはずだ。助手席に視線をやると、真砂子が勝ち誇った表情でこちらを見ていた。
「あなたは、なかなかのやり手のようですね」
「そうでもないですよ」真砂子が顔をほころばせ、歯並びのいい白い歯を見せた。
 高尾山の手前で弱まった雨足は、相模湖が近づくにつれ、また強まってきた。私はワイパーを強めて、アクセルをゆるめた。スピードメーターが一〇〇キロ辺りを示す。整備が行き届いているとはいえ、歳は私とそう変わらないのだ。用心に越したことはない。
 目立った渋滞もなく順調に走り続け、〈上野原インター〉を通り過ぎた。
「あの……それ、なんていう歌なんですか?」不意に真砂子が訊いてきた。
 どうやら、また気づかぬうちに、桜樹よう子こと花田洋子が歌ったあの曲を鼻歌にしていたようだ。
 私は答えた。「『リリーマルレーン』です」
「『リリーマルレーン』……そういう曲名だったんですね」
「すいません。耳障りじゃなかったですか?」
「いいえ。そんなことはないです」
 私は桜樹よう子と違って、〝それなりに歌が下手〟なのだ。この言葉は、彼女からの精一杯のお世辞として受け止めておく。
「メロディは聴いたことはあったんですけど、曲の名前が思い出せなくて。確か……古い曲ですよね?」
「ええ。そうです。今から七十年近くも前の流行歌ですよ」
「どんな曲なんですか?」
「故郷に残した恋人に想いを募らせる兵士の歌……だそうです」
「そうなんですか」真砂子の視線を感じたので、助手席にちらりと目をやると、彼女はからかうように、はにかんでいた。「そういう古いラブソングが、お好きなんですか?」
「そういうわけじゃない。実は、例の桜樹よう子について調べている最中に、彼女が歌っている動画を見つけたんです」
「え……」真砂子の顔から笑みが消えた。
「その動画で、桜樹よう子が歌っていたのが――」
「『リリーマルレーン』だったんですね」真砂子が私の言葉を継いだ。
「そうです。まァ、一コーラスしか聴けなかったんですけどね」
「それで、あの……桜樹よう子さんは――」
 今度は前を向いたまま、私が真砂子の言葉を継いだ。「彼の母親と考えて、間違いないでしょう――」
 それから桜樹よう子こと花田洋子についてわかったことを、真砂子にざっと説明をした。当然、調査をしたのが尾藤であることは口にしなかった。真砂子の前で見栄を張ったのではなく、尾藤について説明をするのが面倒だったからだ。
「――下山文明さんに確かめる必要はあるでしょうが、桜樹よう子……花田洋子が博之君の母親であると、下山さんから証言を得られれば、博之君を捜す手がかりになるでしょう」
 尾藤のメールには、離婚をしてからの花田洋子については〝不明〟とあった。しかし、前の夫である下山文明本人に訊けば、なにがしかの情報を得られるかもしれない。
「そう……ですね」真砂子は雨が打ちつけるフロントガラスに顔を向けた。
 アクセルを踏み込んで、私は先を急いだ。途中の〈談合坂サービスエリア〉でトイレ休憩――私にとっては〝煙草休憩〟なのだが――を取り、〈大月ジャンクション〉で富士吉田線に入ってから〈山中湖インター〉で中央自動車道を降りた。山中湖を左手に見ながら旧鎌倉往還を走る。
 生憎の天候に加えて、避暑にはまだ早い平日の昼間ということもあるのか、人影がまばらな湖畔と低く立ちこめた雲が覆う湖面の静かな佇まいは、一幅の水墨画のように見えた。
 高速バスのターミナルで右折して箱根裏街道に入り、籠坂峠の手前にある廃業したペンションの看板を目印に左に曲がる。〝売出中〟と記された看板が、雨風にさらされて色褪せてしまっているのとは対照的に、ペンションの外壁はいまだ目に痛いほどの水色で、廃業してしまうのも無理はないように思えた。
 車一台がすれ違うのがやっとの細い未舗装路を走っていると、林の中に落ち着いた佇まいの建物がちらほらと目につくようになった。このあたりは別荘地なのだ。所々に掲げられている案内板を見れば、個人所有の別荘もあれば、企業の保養施設もあった。静かな林に響き渡るV8のエンジン音は品が無いように思えて、アクセルを少しだけゆるめた。
 V8のエンジン音以上に品のない廃業したペンションから数えて、七軒目の案内板が見えてきた。案内板には郵便配達を助けるだけの住所だけが書かれていた。私は〝忌々しい〟車を、案内板の矢印に従って左折させた。数十メートルも進むと道路は再び舗装されたものになり、私たちが下山文明宅の敷地に入ったことを告げていた。そこから五分弱ほど走り、目的地である下山文明の自宅にたどり着いた。
 舗装路から続く剥き出しのコンクリートで固められたガレージと、丸太を組み上げた二階建てのログハウスが私たちの目の前にあった。
「……ここが、下山文明さんのお宅なんですか?」助手席から真砂子が言った。言葉の端には、地図を一度も確かめなかった私に対する疑いの色があからさまにあった。
 先刻、彼女に告げたように私の頭の中には、ここまでの地図がしっかりと刻み込まれている。もっとも、尾藤がくれた地図に目印になるランドマークが記されていたりと、細かい配慮がされていたこともあるのだが。
 静けさの中で、私は臆することなく頷いて応えて、腕時計を見た。約束した十四時の十分前――私は車のエンジンを切った。
 ビニール傘を手にした私と濃紺の傘を手にした真砂子が車を降りると、ログハウスの二階の窓が開いて、男が顔を覗かせた。茶色に染めた長めの髪をオールバックにならした三十半ばの男だった。彼は下山文明ではない。下山文明は、私よりもひと回り近く歳上だ。なにより今の私は、下山文明の顔を知っていた。昨日、この車が届けられるまでの間、尾藤にならってパソコンで検索をしたのだ。
 当然、彼の顔を以前から知っている真砂子の私を見る目が、さらに疑いの色を濃くした。
「今日、下山に面会の約束がある方ですか?」二階の男が言った。軽薄そうに見える外見とは裏腹に、口調はしっかりとしたものだった。
 真砂子に目をやると、彼女は難しい顔を作ってから目を逸らした。
 思わずこぼれた苦笑のせいで、ゆるんだ顔を引き締めて、二階の男に答えた。「そうです。尾藤という者がお願いしたと思いますが」
「少々、お待ちいただけますか」二階の男が答えて、窓の奥に姿を消した。

   十三

 二階の男が顔を引っ込めてから三分ほど待たされた後、ログハウスの入口から、二階の男とは別の男が姿を見せた。灰色の長い髪を後ろで無造作に束ねて、顎髭をたくわえた小柄な痩せぎすの男だった。カーキ色のカーゴパンツにグレーのパーカーとラフな恰好をしていた。男は私たちを認めると、傘も差さずに駆け寄ってきた。男は、まぎれもなく下山文明だった。想像していた以上に背は小さく、プロフィールに書かれていた桜木よう子の身長――一六四センチとそう変わらないように思われたが、貧相に感じられないのは、やはり〝文科省から金を引っ張ってくる男〟の貫禄なのだろう。その貫禄にやられてしまった真砂子は、隣で緊張の面持ちをしていた。
「どうも、下山です。尾藤さんから聞いてましたけど……いやァ、いい車じゃないですか」下山は自己紹介もそこそこに、〝忌々しい〟車に目を輝かせていた。「フォード・ファルコンXB……日本じゃ、なかなかお目にかかれない代物ですよ」
「そのよう……ですね」
「いやァ、本当にいい車だ……」
 数寄者が茶器を愛でるように、ボンネットを撫でつける。そんな下山を真砂子は怪訝そうな顔をして見つめていた。この手の行動は私としては、理解できないことでもないのだが、彼女には――いや、女という生き物には到底、理解ができないものなのだ。
「あァ、そうだ」真砂子の冷めた視線に気づいたわけではないだろうが、下山が突然声を上げた。パーカーのポケットからリモコンを取り出し、ガレージに向ける。自動でせり上がるシャッターを指差して言った。「せっかくのファルコンを、雨ざらしにしちゃいけないや。あそこに入れてあげてください」
 今の下山にとっては、私たち三人よりも、目の前の黄色く塗装されたマッスル・カーが、雨に濡れることの方が耐えられないようだ。〝若者向け〟のプロデューサーは、戸惑う真砂子を下がらせ、「早く、早く」と私をファルコンに乗るよう急かした。ファルコンの前に回り、シャッターの開いたガレージへと誘導し始める。
 私は急かされるまま、運転席に乗り込んでエンジンキーをひねった。〝忌々しい〟車の心臓が再び動き出し、仰々しいエンジン音が再び林の中に響き渡る。
 一発で始動したことにはしゃぐ下山の姿が、フロントガラス越しに見えた。私は大きくため息をついてからギアを繋ぎ、軽くアクセルを踏み込んだ。雨に濡れるのも厭わず先導する下山――腕を伸ばして、下山に傘を差し伸べている真砂子が健気に思えた――に従い、このまったくもって〝忌々しい〟車をガレージに駐車した。
 ガレージの中には、私と真砂子が乗ってきたファルコンの他に、三台の車が停められていた。一番奥にはシルバーのレクサスLS――これは、〝普段使い〟の車だろう――の手前に駐車されている二台を見て、私は下山が興奮している理由が、はっきりとわかった。レクサスLSの隣には、きれいに磨き上げられた漆黒の六八年型ダッジ・チャージャーとモスグリーンの六八年型フォード・マスタングのファストバッグが、駐車されていた。そう、下山はマッスル・カーのマニアなのだ。
「マニュアルですか? オートマですか?」私がファルコンから降りるなり、下山が訊いてきた。グレーのパーカーが、雨に濡れてにじんでしまっている。
「四速ミッションのマニュアルです。足回りには、少しばかり新しいものを使いましたけど……エンジンは、なるべく当時のものを使うようにしてあります」
「そうですか。尾藤さんの彼の会社には、こういう車が、他にもあるということですよね?」
「はい。尾藤……さんの会社には、なんでも独自のルートがあるそうで……」
 私の回答はすべて、昨日ファルコンを受け取ったときに、尾藤が経営する中古車販売店のスタッフから説明されたことの受け売りだった。私は下山とファルコンについて語りながら、尾藤がこの車を選んだ理由も汲み取ることができた。尾藤は、私への嫌がらせなどというふざけた真似をしたのではなく、下山がマッスル・カーのマニアであることをどこかで聞きつけて、彼に接触を図るきっかけとして用意したのだ。そして、私たちが立ち去った後で、猛烈な売り込みをかけるのに違いない。さらには、あの尾藤のことだ。中古車を売りつけるだけで、終わらせる気はないはずだ。
「――ちょっと、いいですか?」蚊帳の外に置かれていた真砂子が、私と下山の会話に割って入った。「今日、こちらへお伺いさせていただいたのは……」
「あァ、そうでした。尾藤さんから聞いてます。僕に訊きたいことがあるそうですね。ここで、立ち話もなんですから、どうぞ、家の方へ」傘を持っていない下山が、ガレージを飛び出していった。
 慌てて後に続こうとする私を、真砂子がきつい眼差しで見つめていた。
 なかなか本題を切り出せなかった謝罪と、付け焼き刃の知識で続けていた会話を止めてくれたお礼の意味を込めて、私は軽く頭を下げた。
 下山は降りそぼる雨の中、ログハウスのデッキで待っていた。「さァ、どうぞ」
 ログハウスには玄関がなく、いきなり二十畳ほどの広さがある部屋になっていて、私たちは招かれるままに土足のままログハウスの中に入った。部屋の隅にはお約束のように暖炉がしつらえてあり、そのすぐ近くにはミニ・バーが設けられていて、私たちはそのミニ・バーの近くに置かれたソファへと通された。
 下山は腰をかけずに、長い髪と同じ灰色の顎髭をさすって言った。「今、メールを書いてる最中でしてね。申し訳ないんですけど、ちょっと……ここで、待っててもらえますか?」
「こちらこそ、お忙しいところを――」
 私の言葉を最後まで聞かず、下山は部屋の奥にある階段の下から、二階に向かって声をかけた「ウエダ! ちょっと降りてきて」
 階段を降りてきたのは、黒いおかっぱ頭のぽっちゃりとした背の小さな二十代前半の女だった。彼女はお目当てのウエダではなかったようで、下山は「なんだ、君か……」と言ってから、彼女になにやら伝え始めた。はっきりとは聞こえてこなかったが、下山の仕種を見る限り、私たちにお茶の用意をするよう言いつけているらしい。
 おかっぱ頭の女に指示を終えた下山は、私たちの方を振り返り、灰色の髪に手をやって頭をちょこんと下げた。「すぐ、戻りますから」彼女と入れ違いに、二階へと駆け上がっていく。
 その場に残されたおかっぱ頭の女は、まずは私たちに一礼した。それから、ミニ・バーの小さな冷蔵庫からガラス製のポットを取り出してグラスに注ぎ。私たちの前に茶色い液体の入ったグラスと、レモンの乗せられた小皿、ミルクポットを運んできた。
「下山のスタッフで、ナカノと申します」彼女はやけに丁寧なお辞儀をした。聞き取るのが難しいほど、小さな声で続ける。「レモンはシロップに漬け込んでいます。ミルクと合わせて、お好みで入れてください」
「どうも、ありがとうございます」真砂子が優しく返した。
 おかっぱ頭の女――ナカノは、照れくさそうに顔をくしゃくしゃにして、深々と頭を下げた。「下山が戻るまで、少々お待ちください」
 頭を上げると、ナカノは逃げるように二階へと戻っていった。彼女は最後まで、私たちと目を合わせようとはしなかった。
 私の隣で真砂子が呟いた。「不思議な子ですね……」
「ですね……」私は頷いて応えて、レモンもミルクも入れずにグラスの飲み物――アイスティーを一口飲んだ。普段、コーヒーばかり飲んでいる私には、この紅茶が高価なものなのか、どうかはわからなかった。
 真砂子は少し迷ってから、レモンを一切れグラスに入れた。すぐにはアイスティーに口をつけずに、著名なプロデューサーの自宅兼仕事場を興味深げに眺め始めた。その目が輝いている。
 灰皿は目につくところに見当たらず、私は煙草を諦めてもう一口アイスティーを飲んだ。一服できれば、間を持たせることができるのだが、我慢するしかない。
 不意に真砂子が口を開いた。「ちょっと、お訊きしたいことがあるんですけど、いいですか?」
 私は「どうぞ」と答えた。
「あそこに、写真がありますよね。マリリン・モンローはわかるんですけど、あとの三人がわからなくて……ご存じです?」
 真砂子の指先――ミニ・バーのカウンターには、往年のハリウッド女優のポートレートが四枚飾られていた。一番左にマリリン・モンローのポートレートが置かれている。
 私はマリリン・モンローの隣から順に答えた。「イングリッド・バーグマン、グレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒです」
「本当にそうなんですか?」
「グレタ・ガルボについては、自信はないですけどね……とにかく、みんな昔の女優ですよ」
 真砂子がポートレートに向けていた視線を私に向けた。「昔のことは、お詳しいんですね」
 私はなにも答えず、ただアイスティーを飲んだ。口元に手を当てた真砂子の肩が、小刻みに揺れている。
 ――大きなお世話だ。〝ちんちくりん〟のアイドルに詳しいよりはマシだ
 下山文明が戻ってきたのは、それから五分ほど経ってからだった。
 雨に濡れてしまったパーカーは脱いでいて、どこで買ってきたのか桂小五郎の古写真がプリントされている長袖のTシャツ姿だった。
 下山はミニ・バーの冷蔵庫からアイスティーの入ったガラス製のポットと、自分の分のグラスを手にして、私たちの前に腰を降ろした。「お待たせしてしまって」
 グラスが空になっていることに気づいた下山がおかわりを注ごうとする。私は丁重にお断りしてから言った。「お忙しいところを申し訳ありません。昨日、パリから戻られたばかりなんですよね?」
「そうなんですよ。もうバタバタしてましてね。こちらこそ、申し訳ない」自分のグラスにアイスティーを注ぎながら下山が答えた。
「パリでは、新曲を発表されたそうですね」
 隣の真砂子が驚きを隠さずに、私を見ていた。彼女がどう思っているのかはわからないが、私だってこれぐらいの〝予習〟はする。
 私は〝予習〟の成果を真砂子に見せつけた。「確か新曲のタイトルは、『来る来るパーティー』でしたよね。あちらでも、評判が良かったとか……」
「いやァ、僕の力だけではないですよ。フランスには、日本文化に造詣が深い人も多いですし……それに、最近の〝クール・ジャパン〟という流れは、僕ひとりでつくったものではないですから」トングを使ってシロップ漬けのレモンをグラスに入れる下山の目尻は、口にした謙遜の言葉に反して下がってしまっていた。仕事ぶりを褒められるのは、有名であろうと無名であろうと、うれしいものなのだ。それは、どの稼業でも変わりはない。
「それで、今日はどういったご用件で?」
「息子さんに関して、お訊きしたいことがありましてね」
 シロップ漬けのレモンをグラスに入れる下山の手が、三枚目で止まった。
「花田博之君は、あなたの息子さんでしょう?」
「きみたちは、何者なんだ?」下山の下がっていた目尻が上がり、眉間にしわが寄っている。
 カーマニアの真似をするのも、ここまでだ。上着のポケットから名刺を出して、テーブルを滑らせた。
 私に続いて、真砂子が名刺を差し出す。「わたくし、花田君をお預かりしています〈聖林学院〉の森と申します。実は、花田博之君の行方がわからなくなりまして……すぐにわたくしどもで捜したんです。ですが、見つけられませんでした……それで、こちらの方に協力をお願いした次第なんです」
 下山は私と彼女の名刺を凝視したまま、なにも言わなかった。
「花田君は〝オヤジさん会いに行く〟……そう言って〈聖林学院〉の寮を出た後、行方がわからなくなっています。ですから、今日はこちらに伺わせていただきました。それで……花田君はこちらに――」
「森さん……ちょっと待ってください」矢継ぎ早に言葉を並べる真砂子を私は遮った。
 尾藤の調査によれば、彼の息子の名前は〝非公開〟とされている。突然、現れた私と真砂子が口にした息子の名前を聞いて、下山が警戒心を露わにするのも無理のないことだった。
 私に言葉を遮られて眉をひそめる彼女は無視して、私は言った。「私の稼業は、その名刺にあるとおりです。そして、私は花田博之君を捜すよう、彼が通っている……こちらの〈聖林学院〉から依頼されています」
 ようやく下山が名刺から目を離して、私を見つめてきた。私は彼の目を正面から見据えた。「私が欲しいのは、博之君の行方を捜す手がかりです。それ以外のことは、お訊きしません。そして今日、ここで聞いた話を、外部に漏らすような真似は絶対にしません。それは、こちらの森さんも同じです」
 下山が真砂子に視線を移した。「あなたは、本当に〈聖林学院〉の人?」
「はい。後ほど、学院に連絡していただいても構いません」真砂子が言った。「そして、今日のことは、一切口外いたしません」
「本当に?」
「お約束します」と真砂子。
 真砂子の後で私も頷いて応えると、下山は眉間のしわをほどいた。「なんだ、車のセールスマンじゃなかったんだ……」
「あの車のことは、尾藤……さんに直接聞いてください。実を言えば、あの車については、私はなにひとつ知らないんです」
「でしょうねェ……いくつか、おかしなこと言ってましたよ、あなた」私の告白に、下山は驚きもしなかった。
 所詮は知ったかぶりの小芝居なのだ。私は思わず苦笑を漏らしていた。
「……で、なんでしょう? 博之のことで、聞きたいことというのは」
 私は本業に戻って訊いた。「下山さん、あなたは最近、博之君とお会いになられてますよね?」
「ええ、会いましたよ。最近と言っても随分前ですけどね……あァ、ここでじゃなですよ。ちょうど東京で打ち合わせがありましてね、そのときに呼び出しました。六本木、いや恵比寿だったかなァ」
「お会いしたのは、先月の二十日頃ではないですか?」
「でしたかねェ……はっきりとは覚えてません。ただ、朝一番に呼んだのは、確かです」
「そのとき、彼は……博之君は、モスグリーンのバッグを提げてませんでしたか?」
「提げてたかなァ……あ、でも、私服だったことは覚えてるよ。学校が創立記念日で休みだから、とか言ってたな」
「平日の朝に、私服姿だったことをおかしいとは、思わなかったんですか?」
「それはさ、僕の仕事の都合だけど、平日の朝一番に呼んだのだって、学校が休みだって聞いてたから……」
 仕事にかまける父親というのは、こうもあっさりと息子の嘘にだまされてしまうものなのだろうか。子供のいない私には、なんとも言いようがなかった。とはいえ、下山の表情は、先刻までの張りつめたものではなく、ここまで来る途中に眺めた湖面のように穏やかなものだった。それは、息子が失踪したことを知った父親にしては、いささか緊迫感に欠け、事の重大さに気づいていないようにも見えた。
 真砂子は下山が目の前で見せる態度に、私以上に含むものがあるようで、彼女の顎の辺りに力がこめられていることが見て取れた。
 私は訊いた。「あなたが、お会いしたときの博之君の様子は?」
「さあいつもの様子を知らないですから……」
「あなたが受けた印象でも構いませんよ」
「うーん、印象ねェ……」下山が肩をすくめてみせる。パリから帰国したばかりだからか、その芝居がかった仕種が様になっている。「ホテルのレストランで、一緒に朝メシでも食べようと思ってたんだ。そのホテルのブリティッシュ・ブレックファストが美味くて有名だったから。だけど、もう食べてきたから、結構です……なんて答えて、かわいげがないヤツだなって思ったぐらいかな」
「それだけ……ですか?」
「それだけですよ」
「ですが、あなたは会うのは三年振りになるそうじゃないですか。印象が〝かわいげがない〟だけでは、ないでしょう?」
 下山が最後に博之に会ったのは、三年前――博之が十三歳の頃だ。〝男子、三日会わざれば、刮目して見よ〟という。三年も経てば、博之は声変わりもしただろうし、それこそ背も伸びたり、体型も変わっているだろう。実の息子の印象が、〝かわいげがない〟程度のはずがない。
「まァ、僕は普段から若い子にたくさん会っているでしょう? それもビジネスとして。だからですかね、言い方は悪いかもしれないけど、若い子を〝商品〟として見てしまうんです。だから、なんって言ったらいいんだろう……」アイスティーをすすって間を取る。「博之のことも、〝ワン・オブ・ゼム〟っていうのかな。そういう見方になってるんでしょうね。博之だけじゃないですよ。よっぽどのことがない限り、若い子の印象が残ることっていうのがなくてね……」
 〝ワン・オブ・ゼム〟のところはパリ帰りらしく、フランス語にして欲しかったところだが――そんなことは、この際どうでもいい。なによりアイスティーをすすってから、下山が言った。、文科省から金を引っ張れる男にとっては、三年振りに息子と顔を合わせることは〝余程のこと〟ではないということだった。
 下山が呟いた。「なんだ……あいつ、あれから学校に戻ってないんだ」
「そうです、戻っていません。ですから、なにか思い出していただけませんかね?」私は言った。
「でしたら、僕よりも博之の……母親に訊いた方がいいでしょう。博之は、母親に会いに行ったんだから」下山は振り向いて、背後のミニ・バーに置かれたポートレートに視線を送った。
「彼はあなたと会った後、母親である桜樹よう子さん……いや、花田洋子さんに会いに行ったんですか?」
 横顔を見せている下山のこめかみが、ピクリと動いた。そのことに気づいたのか、ごまかすかのように両手で長い髪を撫でつける。
「どうなんです?」
「――ええ。そうです。僕が、博之に会いに行けと言いました。だけど……桜樹よう子なんて名前、久しぶりに聞いたな」
「そうですか……私は昨日、桜樹よう子さんが歌ってる動画を見ましたよ。あなたたちが、結婚される前の年に、放送された番組のようでした」
「よく見つけたね。売れないアイドルだったのに」
「私にも、それなりに情報網はあります」動画を見つけたのが尾藤であることは、この際隠しておく。「彼女は、その動画で『リリーマルレーン』を歌ってました」
「『リリーマルレーン』ね……」下山が顔を伏せた。
「彼女の歌った『リリーマルレーン』……ひょっとしたら、あれは、あなたの選曲なんじゃないんですか?」
「その理由は?」下山が伏せていた顔を上げた。「まさか、当てずっぽうってことは、ないですよね」
「先ほども言いましたが、あの番組は、あなたたちが結婚される前の年のものだ。そして――」私はミニ・バーのカウンターに置かれた一番右端のポートレートを指差した。「そこに置いてある写真が証拠です。違いますか?」
 顔を上げた下山は私の指し示した先――マレーネ・デートリッヒに視線を送って、ニヤリと笑った。「あなたは名探偵のようだ」
 この言葉は、お世辞として聞き流した。
「あの番組は、僕が初めてプロデュースした番組なんですよ」下山が言った。「まァ、僕も駆け出しで、コネがなかったから、員数合わせに売れない彼女に出てもらうことになったんです。彼女、そこそこ歌が上手かったし、『リリーマルレーン』を歌ったら、面白いだろうな……と思ってね」
「なるほど……では、洋子さんは、どちらにいらっしゃるんです? 教えてください」
 下山は、視線をポートレートに向けたまま答えた。「さァ、知りません」
「下山さん……母親に会いに行くよう博之君に言ったのは、あなた自身でしょう? ふざけるのは、やめてもらいたい」
「ふざけてなんかいませんよ。本当のことです」下山は視線を戻して、ソファに背中を押しつけると、ひとつ息をついた。「……そりゃァ、別れてからも、博之の進学のこととかで、たまには会っていましたよ。でも、博之が〈聖林学院〉さんにお世話になってからは、僕はあのふたりとは、まったくの没交渉でしたから。だから今現在、彼女がどこでなにをしているのかなんて、僕は知りません」
 著名なプロデューサーというのは、息子への印象は薄く、別れた妻に対する関心はないものなのか。
「それに、博之が言ってたことですけど……」下山が真砂子の方を向いて続けた。「博之も、〈聖林学院〉に入ってからは、ほとんど彼女に会ってないそうです。それに、ここ一年間近くは、まったく顔を合わせていないし、話もしてないらしい」
「そんな……わたくしどもは、そんな話を聞いてません」真砂子が隣で声を上げた。
 私は、博之の実家である花田浩二の自宅に電話をしたときのことを、思い出していた。あのとき、電話口に出た相手が、博之の母親について口を濁らせていた理由はこれだ。
 ――博之の母親、花田洋子も行方不明なのだ

   十四

「聞いてないって、僕に言われても……困るなァ」真砂子に言う下山の顔は、困っているようには見えなかった。その代わりではないが、Tシャツにしわが寄り、プリントされた桂小五郎が困った表情を作っていた。「今、僕は保護者じゃないんだから。博之が母親と、この一年話してない……それを聞いてないっていうのは、あなたたち学校側の問題じゃないんですか?」
 真砂子は拳を握りしめて、押し黙ってしまった。下山に痛いとことを突かれたせいで、頭に血を上らせてしまったのか、返す言葉が見つからないようだ。そんな彼女の仕種はかつて私の上司だった男と、そっくりだった――とにかく、まだ私の方が落ち着いているらしい。
 私は訊いた。「下山さん、あなたと博之君、そして洋子さんとは、三年近く没交渉だったそうですが、そのあなたが、どうして母親に会いに行けと、彼に言えたんです?」
「あァ、それはメールが来たんです。僕のところに」
「メール……ですか?」
「ええ。オオエという人から、突然メールが来たんです」下山はカーゴパンツのポケットからスマートホンを取り出して、操作を始めた。「これが、そのメールです」スマートホンの画面を、私たちに差し出す。
 下山は受信するメールを、パソコンと同期させているらしい。差し出されたスマートホンの画面には、オオエなる人物からのメールが表示されていた。

  突然のメール失礼いたします。
  貴兄が花田博之君の父君であられるということで、
  連絡させていただいた次第。
  花田博之君の母君が、是非とも博之君に
  お会いしたいとのこと。
  何卒、博之君にお伝えくださいませ。
  大江拝

「この大江という人物は?」私は訊いた。
「知らないですよ。だから、最初はいたずらかと思ったんですけど、僕のアドレスを知っている人間は限られているし……ましてや、僕と博之のことを知っている人間は、もっと限られてますからね」
「返信して、確かめなかったんですか?」
「返信したけど、なんにも返ってこないんです。それに、これフリーアドレスでしょ?」下山がスマートホンを操作して、送信者のメールアドレスを表示させた。大手ポータルサイトで登録すれば、誰でも簡単に取得できるアドレスだ。これでは、このメールアドレスから大江なる人物にたどり着くのは難しい。
「いたずらだとしたら、随分と手の込んだものになるけど……まァ、もしものことがあったらと思いましてね。東京で打ち合わせをする機会があったから、博之を呼び出して伝えたんですよ」
 メールが送信された日付は、博之が姿を消す五日前だった。彼なりに悩んだ末の行動だったのだろう。その上で、花田博之が言った〝創立記念日〟に合わせたということになる。
「そしたら、さっきも言いましたけど、博之は、彼女がどこにいるのか知らないって言うじゃないですか……」
「それで、どうされたんです?」
「一応、これからどうする気なのかは、訊きましたよ」
「それで、彼は……博之君は、なんと?」
「訊いてみる当てはあるって言ってましたね」
「その〝当て〟というのが、誰だとか、どこだとかは言ってませんでしたか?」
 額を左手の人差し指で二度叩いてから、下山が答えた。「ちょっと、思い出せませんね。とにかく、あの時はそのとき手許にあった十万円を渡して、博之とは別れました」
 打ち合わせで東京へ出かけるにあたり、最低でも十万円という金額が財布に入っていることも、息子とはいえあっさりと手渡せてしまうことも驚きだった。さすがは、著名なプロデューサーの為せる業といったところだろうか。
「しかし、そのままいなくなっちゃうとはねェ……僕も驚いてますよ。まァ、十万円を渡してあるから、なんとかしてるんじゃないんですか」
「それ、どういう意味なんです?」ついに耐えきれなくなった真砂子が、声を上げた。「花田君は、まだ十六歳なんですよ。お金があれば、いいだなんて……そんな言い方は、父親としてどうかと思いますけど」握りしめた拳は白くなり、顔は紅潮している。
「森さん……でしたか。〝まだ十六歳〟だと、僕は思っていない。〝もう十六歳〟だと思っています。母親に会いに行くぐらい、あいつひとりでできるでしょう? お金のことにしたって、こういうことを通じて使い方を覚えて、それで成長するんじゃないんですか? 僕はそう思いますけど」感情的になった真砂子にたじろぐことなく下山が答えた。「それに、博之が母親のところに行かずに、僕からせしめたお金で遊びほうけているなら……それならそれで、僕が二度と彼に会わなければいいということですから」
「手切れ金……というわけですか」私は言った。
「あのお金を手切れ金にするか、どうかを決めるのは、僕じゃァない。博之自身です」
「下山さん、そんな……」真砂子の声が震えていた。
「森さん、これが事実であり、現実なんです」彼女を慰めるように、下山は真砂子に微笑みかけた。
 私としては、精神安定剤であるニコチンを注入したいところなのだが――どんな状況であろうと、依頼人のひとりである真砂子を援護しなければならない。
 平然とアイスティーで喉を潤す下山に言った。「素直じゃありませんな、下山さん……あなたも」
「素直じゃない? どういうことですか」
「博之君の年齢が〝まだ十六歳〟なのか、〝もう十六歳〟なのか、私にはわかりません。ただ……あの年頃の少年に、すべての責任を押しつけるのは、いかがなもんですかねェ」精神が安定していない分だけ、自然と言葉は悪くなる。「はっきりと言えばいいんだ。厄介払いがしたかった……と。成長を促すだの、なんだの……そんなもの、ただのお為ごかしだ」
 最初に私の名刺を見たときのように、下山が眉間にしわ寄せて、睨みつけてきた。「あなたは……自分でなにを言っているのか、わかってるんですか?」
「わかっているつもりですが」
 私が正面からその視線を受け止めると、下山の方から目を逸らした。下山は両膝を両の掌でパンっと叩き、立ち上がると、ミニ・バーへ歩いていった。
 下山の背中に、私は言った。「この間のパリの件やら、今週末のイベントやらで、今は忙しいんでしょう? 本音のところは、博之君と彼の母親のことになんか、いちいち構っているのが面倒だった……違いますか?」
 下山はなにも言わず戸棚を開けて、並んだ数本の酒瓶の中から、ロンドン塔の衛兵がラベルに描かれたボトルを取り出し、新しいグラスに注いだ。生のジンを一気に呷ると、空になったグラスにすかさずお代わりを注いだ。一杯目よりも量が多かった。
 言葉の悪い私を真砂子が不安げに見つめていたが、構わず続けた。「有名なプロデューサーの割には、随分と幼稚な言い訳ですなァ」
 下山は宙に向かって自嘲気味に微笑んだ。ジンをひと舐めして、胸の桂小五郎と一緒にこちらに向き直る。「痛いところをつくねェ、あんたも。そう、あのときは忙しかったからね」
 著名なプロデューサーは、ようやく〝自己プロデュース〟を諦めた。口調まで変わってしまっている。ただ、こちらの方が話を引き出しやすい。
 私は訊いた。「もう一度、思い出してみてくれませんか。博之君が言っていた〝当て〟というのが、誰なのか。あるいは、どこなのかを」
「ほんとに、知らないんだ」
 先刻と違って即答する下山に、真砂子が声を上げた。「もう少し真面目に考えてください。花田君は、下山さん……あなたのお子さんでしょう? 花田君を捜すことに、協力してください」きつい口調で責め立てる。
 下山は小さく笑った――そして呟く。「息子なもんか」
 真砂子が顔を私に向けた。下山の呟きについて、確認を取っているのだ。聞き間違えだろう、と。
「下山さん……今、なんて仰いました?」私は落ち着いた口調を心がけて訊いた。
「博之は、俺の息子じゃない」下山は、はっきりと口にした。
 突然の告白に、真砂子が息を呑んだ。
 私は訊いた。「根拠はあるんですか?」
「血液型だよ。俺はO型で、あの女はA型なんだ。そして――」下山が残りのジンを飲み干した。「博之はAB型だったんだよ」
 ――O型とA型の間に、AB型の子供は産まれない
 高校生にだってわかる遺伝の法則だ。
「博之がね、おたく……〈聖林学院〉に入学が決まったとき、コージが俺のところに来てね。それで、教えてくれたんだ」
「コージ……誰です、それは?」
「あァ……あの女の兄貴、花田浩二だよ。浩二とは、大学の同期でね」空になったグラスに半分ほどジンを注いだ。「浩二がわざわざここまで来てさ、正式に離婚してくれって言い出したんだよ」
「離婚……じゃァ、それまで籍は入っていたんですか?」
「ああ、そうだよ。別居はしてたけどね、博之が、まだ小さかったから……籍は入れ続けてたよ。独身主義者だ、なんて粋がってたのも、それを隠すためだよ」
 〈荒神書房〉の黒沢の情報よりも、尾藤の情報の方が正確だった。やはり頼るべきは友なのだろうか。
「まァ、博之もいい歳だし、離婚については了解したよ。博之も理解してくれるだろうと思ってね。ただ、父親として、養育費は払うって提案したんだ。だけど、浩二は養育費もいらないって断ってね……その後、払う、払わなくていいで、しばらく押し問答になったんだよ。そのときに俺が、払わなくていい理由を教えてくれっていったら、教えてくれたんだ。博之は俺の息子じゃない。血液型が違うって」
「だけど……それだけじゃァ、信じられないでしょう?」
「実はさ、浩二がここに来るちょっと前に、博之が怪我をしたらしいんだ。大した怪我じゃなかったそうなんだけど、左手を五針ほど縫ったらしい。そのときの医者の診断書を、ご丁寧に見せてくれてね。そんなところに、嘘は書かないだろう」
 養育費を払わせるために、医者の診断書を偽造することはあるだろうが、その逆はまず考えられない。しかも、花田浩二は〈聖林学院〉に〝上客〟として扱われるほどの寄付をしている資産家だ。経済的に困っているとも思えない。
「博之が産まれたとき、俺は海外に番組のロケで出ていてね。戻ってきたときには、退院していたんだ。あの頃は独立したばかりで、仕事でバタバタしてて、博之の血液型どころか、家のことなんか気にかけてられなかった。だから、博之が産まれてから、あの女の様子がおかしくなって、浮気をしたのだって……そのせいだと思ってたよ」
 ――下山文明と離婚したとき、なんとかってバンドのヤツとつき合ってるって噂あったろ
 〈荒神書房〉でシロタニという男が話したことを思い出した。あれは〝噂〟ではなく〝事実〟だった。もっとも、それをシロタニに伝えるつもりは、まったくない。
「別居することになったって、全部俺が悪いからだと思ってたんだ……」下山がグラスを傾けた。ジンを一息に飲み干す。「浮気だって、一回ならって許してやったんだ。売れなかったくせに、いつまでもアイドル気取りで、派手好きなのだって許してやったっていうのに……それなのに……なんなんだよ!」ミニ・バーのカウンターにグラスを叩きつける音が響き渡る。
 隣で真砂子が肩を震わせて怯えていた。私は「大丈夫」と口の動きだけで伝えて、彼女の肩を優しく叩いてやった。
「博之が、俺の息子じゃないって、どういうことなんだよ……今さら、なんなんだよ……」元々、酒には強くないのか、呂律が怪しくなっていた。
 私は立ち上がって、ミニ・バーへと歩み寄った。興奮している相手に、駆け寄ってしまってはダメだ。グラスにジンを注ぐ下山の腕を、ミニ・バーのカウンター越しにつかむ。
「なんだ?」呆けた顔をして私を見つめる下山の目が、潤んでいた。これはアルコールの作用ではない。別の理由がそうさせている。
「もう、この辺でやめておくんだ」私がジンのボトルに手を伸ばすと、下山はあっさりと手を離した。ただ、八分目までジンを注いだグラスは、頑として手放さなかった。
「今、話したことは、博之君にも?」
「話してないよ。だけど、知ってるんじゃないの? あいつも……博之も、俺のことを親父気取りの馬鹿なヤツだって、見下してたに決まってるさ。あの女たちは、十六年間も俺を騙して、嗤ってたんだよ」
 花田博之が実の息子ではないことを知らされてからの三年間、彼の心を支えてきたであろうジンは、彼の足元をおぼつかなくさせ、下山はその揺れる身体をミニ・バーのカウンターに寄りかかることで、支えていた。
「そんなことはない。彼は、あなたのことを父親として尊敬している」
「嘘を言うなよ」
「嘘じゃない。彼が同級生――あなたのようなプロデューサーになりたいという子に、あなたが書いた本を貸している。将来の夢のために役立つってね」
 鼻で笑って、下山がグラスを口に運んだ。しかし、自分でも限界にきていることを悟ったのか、飲もうとはせずに、中身をミニ・バーのシンクに投げ捨てた。
 私は手にしていたジンのボトルを、マレーネ・デートリッヒのポートレートの前にそっと置くと、下山の目が追ってきた。ボトルを見ているのか、それともマレーネ・デートリッヒなのか。
 下山が、そちらに視線を向けたまま言った。「俺を慰めているのか」
 私は下山を慰めているのではない。むしろ、彼の古傷を拡げて、そこに塩を塗りたくっているのだ。それぐらいのことは、自覚している。そして、それが私の稼業なのだ。
「もう、俺は……あいつらとは、関わりたくないんだよ」と言って、大きく息を吐き出した。強烈なスピリッツの匂いが漂う。
「だったら、なぜ……博之君に、洋子さんのことを伝えたんです?」
 下山はグラスを持っていない左手だけで、顔を覆った。なにも答えなかった。下山の息遣いだけが聞こえた。
「先生……」女の声がした。真砂子の声ではなかった。
 声が聞こえてきた方を振り向くと、レモンティーを運んできた女――ナカノが立っていた。先刻までの下の階での騒ぎを聞きつけて、様子を見に来たのだ。
「先生……」ナカノがもう一度、声をかける。
 下山がようやく左手を離した。それから、声の主がおかっぱ頭の小柄であることに気づいた彼は、自分がこのログハウスの主であり、彼女たちのボスであることを思い出して、カウンターに寄りかかりながらも、背筋を伸ばした。
「先生、大丈夫ですか?」
「きみか……悪いが、肩を貸してくれ。上で少し横になる」
 ナカノは素早く反応して下山に駆け寄ると、甲斐甲斐しく肩を貸してやった。優しさをたたえた目で下山を見つめた後、私には憎しみを込めた視線をぶつけてくる。
「……帰ってくれないか」絞り出すように下山は言うと、私の返答を待たずに階段に向かって歩き始めた。
 肩を支えられて歩く著名なプロデューサーの後ろ姿は、やけに小さく見えた。

   十五

 私と真砂子は、酔いつぶれてしまった下山文明に別れの挨拶をすることもできず、ログハウスを後にした。当然のことだが、見送りもなかった。もっとも、招かれざる客となってしまった私たちに、見送られる資格などないのかもしれないが。
 ガレージに停めたフォード・ファルコンに乗り込み、エンジンをかける。自動で開閉するシャッターが開けっ放しのままになっていたのは、助かった。私はバックでファルコンをガレージから出すと、二回ほど切り返しをして、方向転換をした。動揺しているとか、消沈しているとかではなく、ただ単にこの〝忌々しい〟車の車両感覚に慣れていないだけだ。
 ようやくファルコンのフロントが林道に向いたとき、ログハウスの二階から茶髪の男――おそらく彼がウエダだろう――が、顔を覗かせているのがバックミラーに映った。バックミラー越しにも、彼が愉快な顔をしていないことは、見て取れた。
 右足を柔らかく踏みつけたにもかかわらず、V8エンジンの轟音を林の中に響かせて、ファルコンが走り始めた。まったく〝忌々しい〟車だ。
 下山文明の敷地に入る際に目印にした廃業中の目に痛いペンションを右折して、箱根裏街道に戻った。林道を走っている間は気づかなかったが、雨は少し弱まっていた。
 真砂子は、下山のログハウスを出てから一言も発さず、今も助手席でうつむいたままだった。今日は下ろしてきている黒髪が顔を覆っているせいで、表情をうかがい知ることはできなかった。
 箱根裏街道から旧鎌倉往還に出て、最初に見つけた湖畔の駐車場へフォード・ファルコンを乗り入れた。フロントガラスの向こうに、雨に霞む山中湖が一望できたが、V8エンジンを止めてしまうと、目の前に広がる湖面はやけに寂しく映った。
 静かな車内にフロントガラスを打つ雨音だけが聞こえた。さして、雨は強くないのだが。
 ここに車を停めたのは、誰あろう私であるにもかかわらず、訪れた寒々しく張りつめた静寂の中で、助手席でうつむく女に声をかけてやるべきなのか、かけてやるとするのならば、それはどんな言葉になるのか、柄にもなく逡巡していた。
 ようやく陳腐な言葉を思いついた不甲斐ない男を遮って、真砂子が口を開いた。
「わたし……花田君が入学したときの担任なんです。それで、わたしが女子バスケ部の顧問だったから、背の高い花田君をバスケ部に誘ったんです。だから……」真砂子は時折、言葉を詰まらせていた。「授業とかだけじゃなくて、この三年間、他の先生方より近くで接してきたのに……わたし……花田君のことを、なにも知らない……」一度、鼻をすすって続けた。「花田君がいなくなったのだって、きっとそうよ……わたしが、なにもわかってあげられてないから……」
 真砂子の上司である林が、花田博之の家庭環境を、教師や彼女たち職員に漏らさなかったのは、理事長としての経営判断だった。先刻、下山文明が私たちに告白したことは、もっと限られているはずだ。なにより、花田博之が〝突然〟姿を消した理由は、はっきりとはわかっていない。
 彼女は混乱をしている。目を輝かせる存在であった著名なプロデューサーがした突然の無慈悲な告白が、彼女の心を激しく揺さぶり、冷静な判断を失わせていた。
「わたしには……わたしには、もうどうしていいのか、わかりません」真砂子は涙声だった。「あの話を聞いて、あなたは……あなたは、なにも感じないんですか?」なにも答えない私をなじった。感情が高ぶってしまっている。
 折れそうな心を支えるために、著名なプロデューサーはアルコールに頼った。私はアルコールに頼るつもりはない。私には別の手段があった。そして、おそらく真砂子にも彼女なりの手段があるはずだった。
「私は、外で煙草を喫ってきます。ずっと我慢してましたから……」フォード・ファルコンのドアに手をかけて言った。「あなたも、我慢をしない方がいい」
 フォード・ファルコンを降りて、駐車場に隣接された休憩所まで歩いた。真砂子は車を降りてこなかった。
 隣接された休憩所の軒先で雨を凌ぎ――どうせ、休憩所の中は禁煙だ――ブックマッチで煙草に火をつけた。時間をかけて二本、きっちりと根元まで喫った。一本目は私自身のためで、二本目は同乗者のためだった。
 二本目の煙草を携帯用灰皿に押し込んでから、休憩所に入った。電灯の点いていない薄暗い休憩室には、長椅子がふたつほどしつらえてあって、片隅には自動販売機が設置されていた。私は、革が擦り切れ始めた長椅子に座って、煙草を一本喫うほどの間、湖を眺めた。それから、自動販売機でミネラルウォーターを買って、休憩室からファルコンへと戻った。
 車内に残っていた真砂子は、私がドアを開けたことに気づいていないかのように、助手席で顔を伏せたまま、じっとしていた。運転席に腰を降ろして、二点式のシートベルトを締める。
「少しは……落ち着きましたか?」今度は、躊躇することなく声をかけることができた。すべては、休憩所の軒先で注入した二・四ミリグラムのニコチンがなせる業だと思った。
「……もう、大丈夫です」少しかすれた声をしている。
「どうぞ」顔を覆っていた髪をかき上げた彼女に、ミネラルウォーターを差し出した。「これ、飲んでください」
「ありがとうございます」真砂子は、素直に受け取ってくれた。「今日のことは、学院長に……」
「報告しなければなりません」
 真砂子がこちらを向いた。私は泣き腫らした彼女の目を見つめて続けた。「ですが……すべてを、話す気はありません」
「お願いします……花田君のためにも、そうしてください」
 私は頷いて応えた。私の仕事は、ひとりの少年を捜すことであって、少年の生い立ちを他人の目にさらすことではない。
 真砂子がハンドバッグからハンカチを取り出した。彼女が鼻を拭うのを待ってから、私は休憩室で考えていたことを切り出した。「この間、言ったことなんですが……覚えてますか?」
 真砂子が、再び泣き腫らした目をこちらに向けた。
「私の事務所に、理事長と一緒にいらっしゃったときのことです」
「はい……」
「あのとき、言いましたね。仕事の邪魔になったら、はっきり言うと」
「そう……でしたね」
「これから先は、私ひとりで博之君を捜します」束の間、言葉を選んだ。いや、はっきりと宣告した方がいい。私は言った。「これ以上は、あなたには無理だ」
 真砂子がコクリと頷いた。ペットボトルの蓋を開けて、ミネラルウォーターを一口飲む。
 彼女は泣き出すものだと思っていたので、拍子抜けした感もあったが、その分だけ安心もしていた。私が休憩所をうろついている間に、真砂子は彼女なりの方法で、自分と向き合えるだけの落ち着きを取り戻してくれていたのだ。
「その代わりと言っちゃなんですが……博之君が戻ってきたら、あなたは彼のケアをしてください」
「そんなこと、わたしにできるでしょうか……」真砂子の声は、頼りなげに小さかった。
「あなたにしか、できないことだ」
「わたしにしか……できない?」
「そうです。私が彼をケアしても、いいんでしょうけど……そうなると、別料金を請求しなきゃならんでしょうねェ」真砂子が呆気にとられている。構わず続けた。「まァ、あの理事長が払ってくれるとは、思いませんがね」
「それは、無理……だと、思います」
 真砂子の表情が、穏やかなものに変わった。笑ったのだと思うことにした。軽口に笑顔を作れるほどには、心の整理は済んでいないのか。まあ、私の軽口がくだらないということもあるのだが。
 私は言った。「さて、帰りましょう」
「はい」
 真砂子が答えたのを合図に、私はV8エンジンを再始動させて、山中湖に別れを告げた。
 どうも、精神安定剤――ニコチンは二・四ミリグラムでは足りなかったらしく、帰路でも〝煙草休憩〟を取らせてもらうことにした。〈談合坂サービスエリア〉で、私は駐車場の奥に追いやられた喫煙コーナーで、煙草を二本喫った。今度は二本とも私自身のためだった。私が〝日陰者〟たちと肩を寄せ合っている間、真砂子はサービスエリアにある土産物コーナーを巡っていたらしい。なにかを買ったわけではないようだが、ファルコンに戻ってきた彼女の顔を見る限り、湖畔の駐車場にいるときよりも、緊張は解けていた。
 その後は、都内まで一気に走った。高尾山の辺りで強まった雨は、都市部に近づくにつれて弱まっていった。真砂子の最寄り駅だという武蔵境駅にたどり着いたときには、雨はさらに弱まり、駅前を行き交う人を見れば、傘を差さずに歩く姿もあった。
「今日は、ご迷惑をおかけしました」停めた車の中で、真砂子が頭を下げた。
「それは、あなたが気にすることじゃない」
「いえ、一緒に行かせて欲しいと頼んだのは、わたしです。それなのに……」
「あの話を聞いて、平然としているような人だったら……そうですね、途中で、この車から降りてもらっていたでしょうね」
 真砂子は、私の軽口に表情を柔らかくした。山中湖からの帰路で、初めて拝む彼女の笑顔だった。
「あなたは、強い方なんですね。こんな状況でも、しっかりしていられるなんて」真砂子が言った。「そうじゃないか。わたしが、弱いんですよね……」
 どこか自嘲の響きがあった。彼女らしくない、と思った。
「強いとか、弱いとかじゃない」
「違うんですか?」
「私の稼業はね、あなた方が聞きたくない話を聞いたり、見たくないものを見ることなんです」
 私は前を向いた。スマートホンを片手に歩く花田博之と同じ年頃の少女、友人の肩を叩いてはしゃぐ真砂子と歳の変わらない若い男たち、なにかを語りかけながら子供の手を引く私と同年輩の女――家路を急ぐ人々が目に入った。フロントガラスの向こう側は、遠い世界のようにも感じられたし、私にとっての〝餌場〟にも見えた。
「そういうお仕事なんですね……わたしには、やっぱり無理ですね」真砂子の言葉は、やけに寂しく聞こえた。
「他に稼ぎ方を知らない、それだけのことです」
 助手席を見ると、今度は真砂子も前を向いていた。フロントガラスの方を見つめている。彼女が住む世界は、フロントガラスの向こう側のなのだ。この車内ではない。
 正面を向いたまま、真砂子が訊いてきた。「あなたは、明日もお仕事を?」
「ええ。当然、博之君を捜します」彼女の横顔を見ながら答えた。
「そうですか……でしたら、お願いがあるんです」
「お願い、ですか?」
「花田君のことは、理事長に報告をされるんですよね」
「もちろん、それも私の仕事ですから」
 真砂子がこちらを向いた。「その前に、わたしに教えて欲しいんです。花田君のことを」
 私を見つめる真砂子の目には、先刻までの弱さは見受けられなかった。打ちのめされた後で、必死に立ち上がろうとする者が持つ強い意志を感じた。
 私は、今度は目を逸らさなかった。「わかりました。あなたに報告をしましょう」
「ありがとうございます」彼女が目を輝かせた。
 ただ、打ちひしがれて、立ち上がろうとする者は、誰しもが脆さも兼ね備えているのだ。彼女はそれに気づいていない。私は言った。「……でしたら、私からもひとつ提案をさせてください」
「なんでしょう?」真砂子が首を傾げた。
「明日は仕事を休まれたら、どうです?」
 真砂子の眉根にしわが寄った。生真面目な彼女には、受け入れられない提案だろうが、彼女に必要なのは、立ち上がる前に、身も心も休ませることだ。
「なァに、明日も〝カラ出張〟をすれば、いいんですよ」
 真砂子の両唇がきゅっと上がり、久しぶりに歯並びのいい白い歯を覗かせた。
「ほんとに、おかしな方ですね」そう答えてから、顔を引き締めた。「明日のことは、これから考えます」
 本調子ではないが、融通の利かない教務課主任を担えるまで回復はしているようだった。おしゃべりもここまでだった。
 これが合図だとばかりに、私はハンドルを叩いた。「――さて、お疲れでしょう。今日のところは、この辺にしておきましょう」
「送っていただいたり……いろいろと、ありがとうございました」真砂子は、二点式のシートベルトを外して言った。「あなたの方こそ、お疲れでしょう? ちゃんと休みを取ってくださいね」
 最後の科白は、教務課主任としてのものではないと、勘違いしておくことにする。
 私が目礼を返すと、真砂子は助手席のドアを開けて、フォード・ファルコンを降りていった。
 背負わなくていいものを背負ってしまった真砂子の背中が遠ざかる。
 私はファルコンの中から、その背中が小さくなるまで見送った。

雨がやんだら(4)

雨がやんだら(4)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-12

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著作権法内での利用のみを許可します。

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