扇動者

木坂 広

 所長の谷本から主任をやらんかと打診があった。碌でもない連中の上に立って指揮を執るのは疲れるだけだ。直樹は即座に断った。
「あんたがやらなきゃ誰がやるんだ。皆、パッとしない連中だろう」
「俺だって、パッとしないっすよ」
「パッとしないうちでも、マシなほうだ」
「いやだね」
「ガキみたいなことを言っているんじゃないよ」
「俺の柄に合わないすよ」
「いいから、やれ」
 こちらの意向も聞かずに辞令を受け取らされた。三時休みが終了になって、丸めた証書を手にしていると、松尾が話しかけてきた。
「直さん、事務所で何かあったのかい。手に持っているもの意味しんだね」松尾は抜け目がない。
「嬉しくないものを、もらったよ」中身を見せてやった。
「凄いね。手当がつくじゃん」
「そんなもん、たかが知れているよ」
「直さんが一階のトップなら、俺、協力するよ」
「盟友が増えた。助かるね」
「任せてよ」
 作業場に行き、フォークリフトに飛び乗った。運転しながら色々と考えさせられた。ウカウカしていると集団からはじき出されたり、孤立したりしかねない。伊那商事は事務机の組み立て工場で、大手の大川製作所の下請けである。運河沿いに大きな倉庫があって、三階と一階が作業場である。直樹は一階のAS型の責任者というわけだ。今までと違って、兄弟会社や孫受けや出入りの業者と言葉を交わさなければならない。部署には十数人いて年長者が多く、クセ者や訳の分からない連中が揃っている。三十一歳の直樹はこれといった取り柄はない。頭の働きが並みだし、統率力があるわけでもない。ただ体力には自信があった。とりあえず成り行きに任せることにした。
 会社の帰り、通りかかりの公衆電話に黒っぽいチラシが挟んであった。興味本位で手に取って読んだ。
《あなたの恨みをあなたに代わって晴らします。安価で請け負いますので、お気軽にお電話をください》
 なかなかいいことが書いてある。こういう商売があるってことは、依頼者もけっこういるのだ。格差社会の今は怨念が内向化している。直樹にも気になっている手合いがいる。八ヵ月前にそいつが入社した。朝礼で紹介されたとき、記憶がうっすらと甦った。もしかしたらあの野郎かもしれない。その五十がらみは郷里にいた男に似ている。伊那商事は人手不足だから誰が入ってもおかしくない。男は直樹に対して素知らぬ振りをしている。もっとも、別人かも知れないのでそれならそれに越したことはない。名前は中浦良一といい、下請けの大田商会の社員である。社長の大田と懇意なのか、いつも昼飯時は隣に座って、仕出し弁当を食べている。年齢の割には皺が寄り、目は丸く唇が突き出て、ひょっとこを思わせる顔立ちである。もし身知り越しの奴だったら一緒に仕事をしたくないものだ。
 主任になって三週間が過ぎ、寒さもだいぶ緩んだ。下車駅から会社に向かっていると、数匹のカラスが路上にいた。色彩のない所に不気味な黒が彩りを添えていた。見とれていたら背後から名前を呼ばれた。振り向くと中浦だった。
「どうだい、順調にいっているかい」
「もちろんだ」
「これから難しくなるぞ」
「そりゃ簡単にはいかんよ」
「大丈夫かね」
 技量を危ぶむ口調である。余計なお節介だと言いたいところだが、言葉を飲み込んだ。
「早々と問題点が出て来たな」
「何かあるわけ」
「新井だ。彼、評判がよくないよ」
「あまり関心ないけど」
 直樹は空とぼけた。新井伸二は三階にいた社員だが、使い物にならなくて、一階に回されてきた。世間的なルールやマナーも身に付けておらず、直樹と顔が合っても挨拶もしない。
「ああいうのは、早いうちに押さえておいたほうがいいね。松尾くんとつるんでいるしね」
 それは本人達の自由で、しかも下請けの社員に発言権はないはずだ。社長の大田から重きを置かれているから自惚れているのか。すぐに反駁したいところだが、敵に回すとやりにくくなる。策士めいていて何を企んでいるのか分からない。全体の半分以上が大田商会の社員で占められている。中浦は補充社員を調達するのに長けていて、自称人事部長を任じている。以前は人を使ってやっていたと言うが、それにしては人望がない。
 商店街からコンビニの角を曲がると、一分で運河に突き当たる。行き止まりまで来ると何故か安らいだ気分になる。これは何だろう、ひょっとして退嬰的な心理なのかもしれない。沈黙の後、中浦に聞かれた。
「あんた、まだ野球をやっているのかね」
「いや、やっていないね」
 直樹の胸が一瞬動悸を打った。知ってやがる。やっぱり郷里の男だ。会社は左に折れたすぐのプレハブの建物。タイムカードを押して事務所の隣室のロッカーで着替えた。松尾が何か取りに来た。
「中浦って、嫌な奴だね」直樹は思わず口にした。
「あいつはバカヤローだよ」
「品性が低いよ」
「新井は凄く嫌っているね」
「まあ、そうだろうな」

 直樹は中学から高校にかけて、野球に情熱を傾け、将来はプロの選手になるのが夢だった。高三の春、地方予選の決勝に進出し、甲子園出場目前に迫った。人口三万人台の田舎町の住民は燃えに燃えた。試合は一対ゼロで九回の裏まで来た。ノーアウトでランナーを二塁に出して一打同点のピンチになった。ピッチャーは冷静に投げて三振と凡打で打ち取った。あと一人というとき、ショートを守っていた直樹はガチガチになった。そのまま何事もなければいいと祈る気持ちでいたら、打者の打った球が転がってきて、弾いてしまった。走者が三塁に止まらずホームに走るのが見えた。慌ててキャッチャーに投げると悪送球になった。打者は駿足を飛ばして一周し、ホームにすべりこんだ。結果、最悪の逆転負けを喫した。
 この屈辱的なミスは尾を引いた。地元の人、とりわけ熱狂的なファンは直樹を激しく非難した。家の壁にこう落書きがしてあった。――お前は郷里の飛躍を打ち砕いた疫病神である――
 クラスメートの話によると、一人の男が怒って直樹や彼の家の悪口を言い触らしているというという。友達と一緒に歩いていたら、
「あいつだよ」
 教えてくれた。ひょっとこに似た貧相な顔立ちの男である。そいつを見たときの不快な気分は今も忘れない。高校を卒業すると逃げるように上京した。田舎を立つ日、駅に見送りに来た母が励ましてくれた。
「皆の言っていることなど、気にしないで、頑張りなさい」
「心配しなくてもいい、向こうでも野球をやるよ」
 母を安堵させた。だが直樹は痛手を受けていて、ローカル線に揺られながら、こんな田舎に二度と帰るものか、田舎ッペどもよ死にゃがれと呪うように呟いた。東京では専門学校に入り、徐々に自分を取り戻していった。紆余曲折を経て最近は落ちついてきた。だがこの期に及んで、中浦と再会するとは、どういう巡り合わせだろう。きゃつの年で一兵卒とは落ちぶれたものだ。

 一年でもっとも多忙な三月、四月が過ぎた。無粋な連中も庭の八重桜を愛でながらリラックスしている。淡いピンクの花は解放感の象徴だった。だが同時に悩ましいこともあった。配置転換や他の支店に手伝いにやらされたりで、笑いの中にも憂鬱な表情が伺えた。そして彼らの関心はもっぱら新井に向けられた。外観からして鬱陶しい。長い髪はボサボサ、顔には吹き出物があり、振る舞いも粗野、一口に言って無法者のイメージである。支給された半袖の作業着を着ないので、松尾が訳を聞くと、腕に刺青をしているからだという。一階ではさかんにブーイングが起こった。
「何で、そんな奴をこっちに回すんだ」
「他の所にやればいいのになあ」
「俺らを舐めているのか」
 上層部は一階を軽視ているのかもしれない。三階はうるさ型が多いのと、三階の製品のほうが主流になりつつあるからだ。しかし社員たちは新井の存在に迷惑がりながら面白おかしく楽しんでいる。からかうのにお誂え向きなのだろう。
 居酒屋の二階で繁忙期の慰労会が行われた。酒を飲み、カラオケを歌って騒いだ。谷本所長の隠し芸が異彩を放った。あらかじめ用意してきた手拭いをかぶり、ザルを手にしてどじょうすくいを演じたのだ。北京原人に似た風貌の男が真剣になるほどに笑いを誘った。直樹は谷本を見直した。ふだん傍観者的で判断や実行を部下に任せて、管理職としては無能だった。それが社員たちの喝采を博し、珍しく男を上げた。
「所長、やりますねえ」
 直樹は一言讃辞の言葉を呈した。
「アハハハ……」
 谷本は嬉しそうに笑った。
 次の週の月曜日、所長に、
「新井を一階に下ろしたのは間違っていますよ」苦言を呈した。
「所変われば品変わると思ったけど、駄目か」
「基本がなっていないすよ。中浦までが文句を言いに来るんだから」
「あんなのは、適当にあしらっておけよ」
「そうはいかないです」
「彼はただの人足だ」
 直樹はそれならそれでいいと事務所を出た。作業場の机に座って、人の配置を検討してみた。AS型は壁寄りのベルトコンベヤーで流れ作業式に組み立てる。常時八、九人が定位置について、転板、袖、脚、幕板、足掛けと取りつけていく。打ち終わると反転機で立たせて通し、直樹の所で検査をしてさらに流す。新井は最後の積込み係でアルバイトの学生と組んでやっている。何かのことで流れが止まると、彼は先頭に遠征して松尾と雑談するというわけだ。
 新井を別のポジションにつけてはどうか。だがどこにするかとなると、ふさわしい係がない。来たばかりだから当分は様子を見ることにした。
 しばらくして、今度はサングラスをするようになった。同僚から軽んじられがちなだけに効果があった。事実、彼に見られるとドキンとするほどだった。看過できないので呼び出してはずすように注意した。
「目がチカチカするからかけているんだ。いけないかね」
「まずいな。取ってくれないか」
「決まりでもあるのかい」
「暗黙のルールだ」
 新井は話の途中で、用事ができた振りをしてどこかに行ってしまった。まだ返事を聞いていない。人を見下しているのか無礼である。
 五分ほどして中浦が検査に姿を見せた。彼は少し離れた所でパーツの梱包をしている。唇を突き出して喋るので、その醜い顔をしげしげと見てやった。
「ところでさ、あんたのことを内密にしておくから、心配いらないよ」
「何のことだい」
「これだ」
「バットを振る仕種をした。直樹は卑怯だと思った。中浦は言うだけ言うと威風堂々という様子で立ち去った。虚勢が板についていて、体つきまでいやらしい。ロッカーで着替えをしているとき、タイツを履いているのを見かけ、痩せ細った脚がひどくグロテスクだった。だけど弱みを握ったつもりでいるのか、いや脅かしかもしれない。
 梅雨期になると体がだるくなり、眠れない日があった。睡眠不足になりがちなので昼休みは作業場に昼寝にいった。その途中、グラウンドで大田社長に声をかけられた。
「よお、頑張っているか」
「ええ、何とか」
「きみは嫁さんをもらわないのかね」
「独りでいいですよ」
「私はこの年でもお勤めをはたしておるからな」
「へえ―」
「何がへえーだ。まだ現役だからな」
 大田はむかしの老人風で、髪は真っ白、枯木のようなヨボヨボした体つきをしている。とてもセックスとは結びつかない。そんな話をしてからコンベヤーの上にベニヤ板を敷いて横になった。倉庫の中は誰もいないのでよく眠れた。昨日観たアダルトDVDを思い出した。風俗に素人の女が参加するという設定である。観ているうちにびっくりするような場面があった。母乳がピューッと吹き出したからである。女は唖然として笑いもなかった。しかし、直樹はその演出外の出来事に胸を打たれた。若い夫は仕事が多忙でストレスをためており、夫婦の営みをおろそかにしている。赤ちゃんを預けて、こんなところにくる妻がいとおしく切なかった。直樹もこの手の映像を観てストレスを解消しているのだが。
 一眠りをして午後からの仕事に備えた。デスクは午前と午後で百三十台くらい組み立てる。少ない量ではなく、スピードがあり、皆必死である。流れ作業中に松尾の姿が見えなくなった。
「またか」
 直樹は舌打ちした。どうせ用足しに行ったのだろう。トイレは外に二ヵ所にあり、松尾はいつも遠い所にいく。いまいましくなった。また腹の虫の居所も悪かった。数分して戻ってきた松尾に文句を言った。
「持ち場は離れないでくれよ」
「生理現象だから仕方がないよ。それに五分やそこらで支障をきたさない思うな」
「いや、迷惑だ」
 いなければ側の作業員がかけ持ちでやることになる。松尾のポジションは重い袖を持ち上げて天板の上に載せるのでどこよりも力を使う。だからといって横着を認める訳にはいかない。
「何故、そんなにせこいんだ」
 松尾は明るい性格だから憎からず思っている。それだけに要領のよさが歯がゆかった。彼は唐突に弁明した。
「自分ちは親父が早死にしたから、中学の時分から新聞配達をさせられてね、俺が帰ると、おふくろが玄関前に立っていて、その金で夕飯のおかずを買いにいったくらいだ。ガキの頃から世間の裏表を見てきたからだろうな」
 そんな話を聞かされると、振り上げた拳の持って行きが場なかった。
「つまんないことを言って、悪かった」松尾はすまなそうだ。
「これからは、できるだけ休み時間にいってよ」
「了解だ」

 需要期が過ぎると、リストも激減し、何もやることがない日がある。ベテランにはフォークで片付けさせ、手が空いている者には小物のパーツを分類してダンボールに詰めさせた。それがすむと彼らは椅子に座って雑談をする。その日は用事で欠勤した新井の噂で盛り上がった。相方のアルバイトが、新井さんは何をしても雑でね、チェックはいい加減で、動作は鈍いしとこぼした。
「そのうち慣れると思うな」
 新井と仲のいい松尾が擁護した。二人とも三十七歳で独身である。
「どうだかねえ、簡単には直らないよ」
「三階で何も学習して来なかったんだな」
「ただ自己流にやっていただけだ」
「それに素性が知れないよ。何をしでかすか分かったものじゃない」
「それが怖いね」
「彼はここでは必要ない!」黙っていた中浦が急に断定的に言った。
「うちはヤクザはいらないよ」
「やっぱり解雇しかない」中浦はさらに強調した。
「そうだ、そうだ」
 男たちは迎合するように口々に吠えた。
「皆、同感だろう」と中浦。
「賛成、賛成」声が一つになった。
「これで決まった」
「中浦さんにそんなことを言う権利あるのかい」松尾が異議を挟んだ。
「松尾くんには悪いけど、ぼくはふだんから所長達に、ああいう社員はこのままにしておくのは職場全体に悪影響を及ぼすと申し上げているんだ」 
いっぱしのアジテーターである。そこにいる十人ほどの群衆は同調し、拳を振り上げる者もいた。少数派の松尾は眉をひそめて、居心地が悪そうである。
 一階の動きは三階にも飛び火し、それが加速化して、あたかも祝祭を楽しんているかのように昂揚している。
 中浦は幹部連中が通りかかる度に彼一人のために我々はどんな不愉快な思いをしているか、早く何らかの処置を取るべきです、人が足りなきゃ、いくらでも引っ張って来ますと直言している。
 直樹は流れの外にいて冷淡そうに見守っていた。自分も参加しないと仲間はずれになりそうな雰囲気があった。そうかといって多数派につくつもりはまったくなかった。あんな奴の煽動に誰が乗るものかと反感が先に来てしまう。

 梅雨が明けて、初夏の風が吹いており、心地よかった。昼休み、松尾と三階のベランダに来て休んだ。彼がフルーツケーキをくれた。
「直さんの好物だから、買ってきたんだ」
「気を使わせるね」
 二人はあぐらをかいて座り、眼下の運河を眺めた。江戸時代から流れている川は水運を終えて、今では浚渫船や観光船が通るくらいだ。遊歩道にはまばらに人々が散策を楽しんでいる。先日、ホームレスがそこで死んでいた。長い間働いておらず、一週間何も食べていないことが分かった。
「直さん、この頃の一階って、不穏な空気になってきたね」
「ああ、何だかいやーな感じだ」
「中浦の奴、馬鹿みたいにはしゃいでるんだ。何も悪いことをしていない新井を貶めることはないよ」
「皆、流されているだけだ」
「新井は全部悪いわけじゃない」
 松尾によると、彼は製本屋やパチンコ店などいくつも仕事を渡り歩いてきた。暴力団にもいたが今は完全に足を洗った。それでも得体の知れない雰囲気を感じさせる。だから同僚達は偏見を抱いてしまうのだろう。
「でも、よってたかって除け者にするのは危険だ。以前に毒入りカレー事件で何人もの人が死んだろう。あれは地域から排除されたのが原因だって言うからな」
「松ちゃんは学があるなあ」直樹は感心した。
「でも、親父にはかなわないよ」
 早世した彼の父親は本が好きで博学と言われていた。松尾修の名前は太宰治の本名の津島修治から取った。定時制高校を出ているだけで特に勉強をしているわけではないが、たくまず知的な言葉が口をついて出た。
「話は変わるけど、あれで女がいるんだってよ。子持ちの人妻らしくてね、旦那と離婚したら、一緒になるんだそうだ」
「物好きな女もいるもんだね」
「ハハハ、人は好き好きだからさ」
 雑談しているうちに始業のチャイムが鳴った。

 社員達が定時で帰ってから、従業員控室に残って書類を整理していたら谷本所長が入ってきた。
「よォ、中浦と太田社長が対立しているらしいぞ」
「本当ですか」
 直樹が飛びつきたくなるような報せだった。理由を聞くと、人集めに協力しいるのだから、給料をアップしてほしいと迫った。だが、それがこじれてしまった。中浦は口が達者な上に強引なところがあるから、頑固者の大田が怒り出した。それでいてあの二人は昼休みや三時の休憩に、隣同士で並んで座っている。人の手前格好をつけているだけだ。
「ところで、新井はどうだい」
「本人よりも回りがうるさくなりましたよ」
「俺のところにも雑音が入ってくるな。追い出せとか、いらないとかね。やたらボルテージがあがっているな」
「とにかく、騒がし過ぎます」
 そんな話をしてから谷本は帰っていった。
 日に日に一局集中になり、みんなは身代わりのヤギを見出した感があった。それはひどく大きな流れになってきた。
 とうとう決着を見ることになった。何日かしているうちに所長が検査の所に来て新井はこれだからな、と首に平手を持っていった。上層部も抗し切れなかったのだろう。
 その一時間後、事務員が作業場に姿を見せ、新井を呼びに来た。むろん他の社員は何も知らされていない。
 新井は事務所で引導を渡されているにちがいない。
 しばらくして、アンチヒーローは現場に戻ってきた。彼は青ざめて放心状態だった。内心の動揺を隠蔽するように同僚と言葉を交わし、時々作り笑いを浮かべた。親友の松尾と二人だけになると、事実を打ち明けたのか、深刻の度合いが遠くから手に取るように分かった。
 新井は五時になる前に退社した。社を出るとき、事務所のスチール製の書類棚を思いっきり蹴飛ばした。女子社員が悲鳴を上げた。時間が来て直樹が倉庫のシャッターを閉めていると、松尾がやってきて、怒った表情をした。
「新井は辞めさせられたんだってね」
「そうらしいな」
「こんなことってあるかい。ひでえな」
「松ちゃんには不満だろうけど」
「アメリカのケネディ大統領が、人の仕事を奪うのは犯罪行為に等しいと言っているくらいだ」
 松尾は忿懣やる方ない様子である。黙って聞いてやるしかなかった。新井は歩いて会社に通えるから、気に入っていた。それを不意打ちのように蹴落された。
「奴はどうやって食っていけばいいんだ」
「中浦のせいだ」
「そう、あの野郎が諸悪の根源だ」
「奴は悪党だよ」
 所長によると中浦は借金を踏み倒して逃げ回っていると言う。そんな奴こそ、弾き出したほうがいいと直樹は太々しく主張した。この際、中浦のせいにするのが一番利口なやり方だった。郷里のこともあって悪意に凝り固まっていた。俺の夢を砕いた重要な一人だしな――

 新井がいなくなると現場は気抜けしたように静かになった。騒ぎの後の倦怠感もあって、社員らはボンヤリしている。それに猛烈な蒸し暑さ。そんなとき、サングラスの悪役がぶらりと訪ねてきた。三時休みに入る前で松尾に会いに来たようだ。グラウンドにいた直樹は共同トイレの近くで突然行き会って鳥肌が立った。
「おい、ちょっと聞きたいことがある。」新井のドスの効いた声。「俺をどうして追い出した」
「上のほうで考えたことだから、詳しくは知らないな」
「だっておめい、責任者だから、経緯は分かっているだろう」
「はっきり言って中浦が煽ったからだ」
「中浦か。松尾も言っていたな。煽動者ってわけだな」
「幹部まで唆す始末だったからな」
「奴はどこにいる?」
「今日は休んでいる」
「必ずひねり潰してやるからな。俺がどういう人間か教えてやるわい」
 休み時間に従業員控室に行くと、一分後には新井が松尾に伴われて入ってきた。四列ほどのテーブルに座っている社員達は恐怖感に戦いた。ここでもサングラスが威力を発揮した。皆は萎縮したように体をすぼめた。
「新井さん、ここに座りな」松尾が真ん中辺の席に案内した。「コーヒーを買ってきたから飲んでよ」
「ありがとう」新井は缶を受け取る。
「あんた、あまり事を荒だてないほうがいいよ」
「分かっているよ」
「仕事は見つけているのかい」
「面接にいっているけど、厳しいな。低賃金のバイトさえ見つからないよ」
「根気よくやることだ」
 社員達は暴発を恐れながら新聞を拡げたり、マンガ雑誌を読んだりしている。松尾が必死になって宥めているうちに十五分が過ぎた。揃って作業場に向かうと、松尾は親友を近くまで送っていく。あとで聞いた話では、新井がやってきたのは気持ちの持って行き場なかったからだ。松尾も慰めようがなくて、ただ暴力をふるわないようにした。そんなことがあって松尾への評価は一気に上がった。その一方で中浦は疎まれるようになった。だが彼は脳天気なのか、意気軒昂として仕事中に検査に顔を出し、どことなく得意そうだった。
「新井がいなくて、環境がよくなったね」
「これも中浦さんのおかげだ。集団をうまくリードしたからね」
「そんな、大それたことをしていないけどね」
「新井も知っているみたいだね」
「そうかね」
「恨まれないようにしたほうがいいね」
 中浦は心なしか不安げな面持ちだった。直樹は薄ら笑いを浮かべた。仕事が暇になったかと思うと、大量の受注があったりして、このところ需要期並みの忙しさが続いている。猛暑の最中だが空調設備もないので社員達は苛立った。
「クーラーくらい、入れろてんだよな。牛や馬のほうが、よっぽど大事にされているぜ」
 カリカリする者がいた。親会社は聞き入れる余裕はなく、聞く耳も持たなかった。社員達は仕方なく辛抱している。
 中浦と太田社長は元に戻らず、依然として冷え切っていた。大田は極端に中浦を嫌悪するようになり、あいつはハッタリ屋だの狡猾だのと酷評するばかりだった。
 しかし大田の陰口をよそにとんでもないことが起こっていた。会社に顔を出して一週間を過ぎた頃、中浦が休みだした。松尾の情報によると、新井が制裁を加えたというのである。駅に向かう途中に小公園があり、中浦は毎日そこを通って帰る。以前は同僚と一緒だったが最近は一人である。裏通りの公園は夕方になると、ほとんど人を見かけない。新井はそこで待ち伏せしていて、中浦が通りかかると、小屋の裏側に連れ込んだ。そして顔面、ボディ、腰などを痛めつけ、さらに打撲傷も負わせた。
「奴はやるといったらやるんだ」
「恨みを晴らしたわけだな」
「直さんはどう思うかね」
「俺は特に新井を咎める気はない」
「本音だね」
「もちろん」
 松尾は納得した顔つきをした。太田社長によると、中浦は借金をして身を潜めているので警察沙汰にしないだろうと言う。直樹は中浦がいないだけでも平安だった。あんな男の顔は見たくなかった。
 しばらくしたある朝、着替えをして一足先に倉庫にいったら、入り口近くに大田が立っていた。昨日、中浦と喫茶店で会ったと話してくれた。あちこち怪我をして、マスクで隠しており、足を引きずっていた。中浦は会社を辞めるから退職金を払えと言う。年月も満たないから出せないと突っ撥ねた。先方は会社に貢献したのだから払うのは当然だと強く主張した。最終的にはきっぱりと断った。
「人間、こすいだけじゃ通らないってことよ」

 土曜日の午後で、仕事を終えて帰るところだった。買物に出かけるので、いつものホームの反対側で電車を待っていた。十二月中旬で冷たい風が吹いていた。何気なく背後を振り向くと、後ろに新井が立っていた。彼がこの辺りに住んでいることを思い出した。あれから四ヵ月が経っている。前ほどの恐怖心は薄らいだものの、やっぱりおぞけをふるった。向こうは気がついていないかもしれない。もし分かったら因縁を吹っかけられるかもしれない。どう防御すればいいのか考えているうちに電車が来た。直樹は車内に乗り込むと、距離を取って端の席に座った。新井は扉の前に立っている。こっそり視線をやると、しゃれたフレームの眼鏡をかけ、髪をきれいに撫でつけている。何となく古風な借金取りといった印象である。服装全体は小ざっぱりして見た目には悪くない。電車が二つ先に停まると隣が空席になり、新井が素早く座った。彼は前ぶれもなく話し出した。
「中浦を歌舞伎町で見たぞ。パチンコ屋の前で看板を持って立っていやがるんだ」
「そんな仕事をしているんだ」
「いい年をした男共五人と一緒だったな」
「落ちぶれたもんだな」
「五人とも血の気がなくて、死人みたいだったな。あまりにも非現実的だから、映画のロケかと思った」
 新井は電車が停まると、何も言わないで立ち上がって降りた。直樹は呆気にとられた。そして新宿の歌舞伎町にいる中浦の悲惨な姿を思いやった。

扇動者

扇動者

集団をそそのかして目の敵に

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-11

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著作権法内での利用のみを許可します。

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