立ち止まり去る時
男は暗闇の中を黙々と歩いていました。疲れた男が一休みしようと座り込むと、背後から声がしました。
四方を埋め尽くす暗闇のステージにスポットライトが一点、小さな円を描く。その円は歩くような速さでゆっくりと進んでいた。いや、この一点だけしか光がないのなら、果たして進んでいると言って良いものなのか。とにもかくにも、その歩くような速さで進む円の真ん中に、これまた歩くような速さで前に進むスーツ姿の男が一人。
「いつまで、歩けば……」
小さく独り言を呟いた男の額にはうっすらと小さな水滴が滲んでいる。
どれほど歩き続けているのか。男は左手首に眼をやるも、苦虫を潰したような顔で直ぐに前方を見る。
あるはずのものがない。どこか落ち着かない。そんなソワソワした感覚に男の背中がむず痒くなる。
いつからここにいるのか、何故歩いているのか。男は答えを見出すこともできない。何故なら、男は気付いた瞬間歩いていたからだ。
はて、不思議なこともあるものだと、男は初めこそ思案もした。昨日の晩飯は思い出せる。納豆、白飯、味噌汁に焼き魚。それにニンニクの芽をフンダンに用いた野菜炒め。そしてビールが一杯。仕事帰りの身体を癒してくれる最高の組み合わせ、だった。そこまでは思い出せる。正確にいえば、そこまでしか思い出せない。男はその後、自分が風呂に入ったのか、はたまた酔った勢いで、寝てしまったのか、どうにもその辺りから記憶にないのだった。しかし、考えたところで何が改善される訳でもない。小さな頃から町内一の肝っ玉小僧と呼ばれていた男は、齢四十を過ぎて尚、肝っ玉の持ち主だった。故に考えることもさっさと放り投げ、とにかく歩くことにしたのだ。そんな男の決断が一つの答えを導き出した。それは男が一歩進むたびに、小さなスポットライトも移動するということ。
何故自分が照らされているのか。男は二度目の思案にも、考えたところで何が改善されるわけでもなしと、これまた早々に打ち切りとにかく歩くことにした。
そして今に至る。
「はぁ」
盛大に溜息を零すや否や、男は腰を降しその場に胡坐をかいた。思いのほか床が暖かったことに男は安堵した。
「座り込むと、置いて行かれますよ」
突然、背面からしわがれた、暗闇が一層濃さを増す、加えて鼓膜にこびり付くような声が聞こえてきた。声色から男、それもかなりの高齢であるに違いない。常識に巻かれて生きる人であったなら、ついぞそこまでの判断を一瞬で下すことなどできなかっただろう。
ところが男にはその常識を持ち合わせていなかった。男は驚きも振り返りもせず、ごく自然に朝の挨拶を近所の人へとするかのように
「何にです?」
と、声の主に返した。
「驚かれないのですね。今まで幾人かの方にお声をかけさせていただきましたが、皆一様に悲鳴をあげて走りさったものです。これは珍しい」
「そうですか。まぁ全く驚いていないという訳でもないですけど。これだけ歩けるスペースがあるなら、他に誰か居たとしても不思議ではないなと思った次第です」
男の返事に声の主は、「それはそれは」と感慨深げに数度言葉を零した。
「それで、何に置いて行かれるんです?」
男は先ほど注意された事を声の主に問うた。
「ああ、これはすいません。まぁ置いて行かれるという表現は私が使っているだけなので、厳密に正しいといえるかどうかは分かりませんが――いやこれは説明が冗長になってしまいますね。失礼。そうですね、一言で表すなら、時間に、といったところでしょうか」
「時間?」
男は初めて声のトーンを一つ下げた。次を促すように聞き返す。社会に生きる男のしがない癖である。
「貴方に当てられた丸い光、よく見てください」
そう言われ男は改めて視界に入る自分を囲んでいるであろう、小さな前方の半円を見つめた。眼を凝らし数秒見つめていると、男は何かに気付いて眼を見開いた。
「少しずつですけど、これ、狭まってます?」
「ええ、狭まってます」
円は狭まっていた。夕焼け鮮やかな公園が影に呑まれ、少しずつ別世界へと変わるあの瞬間によく似ていた。
「狭まってる理由を尋ねても?」
男は狭まる円から眼を離さず、後方の声に問いかけた。
「動かない役者に当てるライトはない。彼らもタダ働きなどしたくないのでしょう」
「私は役者ではないですし、どちらかといえばその正反対、サラリーマンですよ」
男にとって、ライトを当てている誰か、は興味の対象ではなかった。それよりも気になったのは自分が役者であると指摘されたことだった。
「みな誰もが役者なのです。サラリーマンを演じる役者もいれば、役者を演じる役者もいます。ただ舞台が違う、それだけです」
男は納得がいかないのか腕組みをして、首を支柱の折れた向日葵のように左へと傾けた。
「悩むことではありませんよ。それよりも今は進むべきでは」
声の主は穏やかに語りかけてくる。
「進めば円も元に?」
「元には戻りません。ですが狭まることはなくなります」
「ライトが当たらなくなったら、私はどうなるんです」
「この暗闇に置いてけぼりですな。右も左もわからないまま、永遠に彷徨い続けることになるでしょう。そうなれば私も貴方に話しかけることはできなくなります。光が当たるからこそ、声を向けることができるのですから」
男は重い腰を上げ、再度歩み始めた。男にとって当てもなく歩き続けるのは本意ではなかった。だがそれ以上に、羅針盤も定められぬまま航海することになる方が苦痛であった。
男は目標を立てるのが好きだった。勉強、スポーツ、仕事、恋愛、食生活、体調管理、努力、理想、旅。それらの達成が困難であればあるほどは目標をクリアすることに至上の悦楽を覚えることができた。だが男にとってこの徘徊はただの流れ作業でしかなかった。
「楽しくなさそうですね」
表情を伺えるはずのない声の主は男の心情をピタリと言いあてた。それでも男が背筋を反らすことはない
「楽しくないですね。暗闇の中を歩き続けても溜まるのは疲労くらいですし」
「往々にして世の中とはそんなものではありませんか。よくいいますでしょう、一寸先は闇、人間万事塞翁が馬と」
「どちらの格言にしても、少しくらいは行く先の予測を立てられる要素があるでしょう。それなら私も楽しめますがね、ここにあるのは黒、黒、黒と私の周りを囲む光くらいですよ。これでどうしろと」
男は苛立ちを語尾に滲ませて答える。声の主から言葉が返ってくることはなかった。
二度目の歩みを開始して三十分ほど経っただろうか。男はその間一度たりとも声の主に振り返ることはなかった。声の主はそれを気にしてか、
「なぜ貴方は振り返らないのです?」
男の興味を誘い寄せるように耳元で囁いてきた。だが男は動じなかった。それどころか
「私は振り返らない主義なんです。観て欲しいなら私の前に出てきてください」
と返すほどであった。男は苛立っていたが、それで冷静さを失うほど愚かではなかった。
「そうですか。なるほど、あなたはお強いのですね。意思とでもいいましょうか。普通は追想するものです。人間というのは特に過去を甘美な楽園だと認識していますから。それがあなたにはない」
男には声の主が感心している理由の一片もわからなかった。
そんな男をよそに声の主は続けた。
「時間は過去に流されていくのです。そうして水底に沈んだ玉石が長大になった時の流れによって磨かれる。輝き方はそれぞれですが、一粒一粒が魔性の煌めきを放っています。思わず手に取りたくなるほど。ですが、それに手を伸ばそうとすれば激流に逆らわないといけない。足を取られればもう浮かびあがることはありません」
厳粛にかつ饒舌に語る声の主は教えを語る神父のようであった。
「仮にその石を取れたら、どうなるんです」
男は過去を彩る玉石の光芒に興味などなかった。それでも尋ねずにはいられなかった。
「みとれるだけです。いつまでもいつまでも、太陽が東から西へと降りて行くその間を永遠に繰り返すことになるのだと分かっていても、眺め続けるのです」
男には想像の及ばぬ自己愛であった。だがそれも確かな事なのだと納得できた。思い返せば父や母もそうであっただろうか。歳月を重ねるごとに「あの頃は」のフレーズもまた増えていった。それらが父と母にもたらしたものは老いでしかない。椅子に座る二人の背中が日々沈んでいったのは、大事に抱えた数多の玉石に身体と心が耐え切れなくなっていたからなのだろうか。その姿を間近でみていたからこそ、男は振り返る事を忌避した。
「実際はそれほど綺麗でもないのですよ、過去なんてものは。余分に削り取られた記憶の中にこそ、案外真実が刻まれていたりもします。それを受け入れるかどうかで、変わるものです。ですが、あなたは受け入れている側の人間のようだ。スポットライトも十分。羨ましい限りです」
男は声の主に言葉をかけようとした。だがその言葉は喉につかえて、意味を持たぬまま胸の内側へと落ちて行った。男はもう苛立ちを忘れていた。
「そろそろ、終わりのようです」
声の主が零した言葉は男の耳にしっかりと届いていた。しかしそれが何を持って終わりと表現したのか分からなかった。前方を見渡せども暗闇のカーテンに遮られている。
「私には全く同じ光景に見えるんですけど」
男は答えを求める生徒のように声の主へ問いかけた。
「日々の流れの中に、節目などありません。ここからここまで、と境界線を引くのは主観による決めつけでしかない。私にとっての終わりがあなたにとっての終わりではありません。ですが気にする必要もない」
つまりはこの声の主との奇妙な旅もこれで終わりということなのだと男は推測した。急な別離に男の心拍数が若干はねた。心に小さな針穴が空くほどには心を許していたのだろう。短い時間ではあったが、男はそれなりに自分が楽しんでいた事を実感した。男は改めて胸から言葉を引き出そうとした。だがそれを遮るように声の主は、
「過ぎし日に囚われるべきではありません。美化されることのない昔日は不格好です。私の――」
声の主の言葉の最後を男が聞き取ることはなかった。
男はテーブルに突っ伏したまま寝ていた。風呂に入ることはできなかったのだろう。男はスーツ姿を着たままだった。
男はうっすらと滲んだ景色を両手で擦った。
ぼやけた風景の中は先ほど打って変わって極彩色に包まれていた。
夢か現か、男はどちらでもよいと思った。
男は振り返るのが好きではなかった。
それでも今日は、書棚からアルバムを引っ張りだすと決めた。
立ち止まり去る時