背教の使徒 ―神に背を向けた者―

背谷秋善

 宗教が支配する国『ユリアドス聖教国』クラウスはその国で、助祭として国に仕え、そして神に仕えていた。クラウスは助祭という立場にありながらも人格に優れ、様々な人々から信望され、そしてそれに応えていた。
 迷える者には道を示し、悩める者には答えを与えた。
 それら全てはクラウスが心から敬愛し、そして信望する神『ユリアード』の教え。クラウスは導き、答え、そして救う。

 しかしクラウスには裏の顔があった。

 ユリアドスにて暗躍する異教徒、その異教徒を排除する『ファウンド』たる冷徹な顔が。クラウスは「ファウンド」として異教徒を狩る。全てはユリアドス聖教国の為に。ひいては女神たるユリアードの為に。

 ※ダークファンタジーにつきシリアス系です。コメディ要素は殆どありません。残酷描写はちょくちょく入ります。お気をつけ下さいまし。

 感想、遠慮なく下さいまし。

プロローグ 『 終わりへの始まり 』


 その教会の礼拝堂は、石造りの壁に穿たれた窓から零れる、静謐な月の青白い光に包まれていた。
 辺りは無音。何の気配もしない。昼には訪れていたであろう信者達の姿も無い。
 その教会の観音扉の片方が静かに、軋んだ音を立てて押し空けられる。
 その扉が開けられた事で、教会の中は更に明るい、静謐な光に満たされる。

 ポタリ、ポタリ、と水滴が落ちる音がした。その音の主、漆黒の礼服に、明るい金色の髪、薄暗い蒼い瞳の、少年の面影を残す青年は、自身が信じていた、信じて疑わなかった神の像を見つめる。
 歳の頃は十八辺りだろうか。しかし青年の表情に浮かぶものは、その年齢を不詳に思わせる程に暗い。その薄暗い表情は、青年の生きてきた年齢を倍重ねてもまだ足りないだろう。

 ――湿った、鉄の臭いがした。青年の顔には雨では拭いきれなかった血の跡が残り、また青年が身に纏う漆黒の礼服にも雨では拭いきれなかった血を思わせる染みがある。何よりもその腰にある、交差された二本のベルト。そのベルトには互いに片手では振れない様な大きな剣が二本取り付けてあった。

 ポタリ、と血が落ちる。

 青年の腕に抱かれた、長く青い髪の少女から、血が滴り落ちる。

 少女もまた青年と同じく漆黒の礼服を身に纏っていた。そして、鞘しか残されていないが、その腰には武装していた跡があった。その少女の礼服の胸の部分は鋭利な刃物で切り裂かれた跡があり、それが背中にもある事を考えれば、少女がその胸を突き刺された事は考えるまでもない。

 青年は暫くの間、空ろな瞳で背中に月の光を浴びながら、その像を見つめていた。

「……ユリアード」

 青年の、少年の色をまだ残す声が紡がれる。青年が信じていた神の名前が紡がれる。

「――俺は、間違っているのか……?」

 青年は薄暗い表情で言葉を続ける。薄暗い声で言葉を続ける。

「――それとも、あんたが間違っていたのか……?」

 コツン、コツン、と青年が少女の亡骸を抱きながら、そして光を失った目でその女神の像を見つめながら青年は歩みを進めた。

「……あんたは俺に教えてくれたよな?」

 青年は奇跡を望んで声を掛ける。或いはここで自分は止まれるのかも知れないと願って。

「……病める者には癒しを、飢える者には荷を……」

 ――そして、と青年は言葉を続けた。

「迷える者には光の道を、と……」

 ユリアードと呼ばれた女神の像は何も語らず、青年はそれに悔しそうに歯をかみ締めた。

 以前ならば、言葉を紡ぐだけで満たされていた筈の心は満たされない。暖かな湯船に浸っている様な幸福感を味わう事が出来ない。魂を救済されるような暖かな感情を覚える事が出来ない。

 故に分かる。


 ――もう二度と、あの笑顔に溢れた幸せな時には戻れないのだと。


 青年は女神像の数歩手前で止まると、静かに尋ねた。

「……俺が何も感じなくなったのは、あんたを傍に感じられなくなったのは、俺があんたに背を向けたせいか……?」

 俯き、半ば自問するように、青年の独り言の様な言葉が続く。

「あんたは教えの中で言った筈だ。どの様なものであれ、人の罪を許す。あんたは教えの中でそう言っていた筈だ……」

 青年は自嘲気味に笑う。薄く微笑みを浮かべたままの少女を見つめて、自嘲気味に笑う。

「もう、何も分かんないんだ。何が答えなのか、何が正しいのか、何が真実なのか」

 青年の光を失った目が、少女から女神の像に移り、その目が険しくなった。

「――答えろよユリアード。あんたは今まで散々俺達を弄んでくれたんだ。答える義務くらいはあるだろう……!」

 青年は腕にある少女を強く抱きしめる。

「何でこいつがこんな目に会わなきゃならなかった! こいつは何も悪くない筈だ!!」

 青年は叫ぶ様に声を続けた。

「何であの時俺を一緒に逝かせなかった! 生きろと言うなら、何でこいつを殺した!!」

 青年は裏切られた。
 一度は共に逝きたいと願ったが、共に果てる事は出来なかった。
 二度目は突然だった。守るべき対象だった筈の少女が、まるで自分を庇うように殺された。


 ――救いたかった。
 ――そして、救えた筈だった。


 もし目が覚めていたのなら、その目が光を覚えていたのなら、それら全てを救う事が青年には出来ていた筈だった。
 全ての過ちからまぬがれる事が出来る筈だった。
 だが現実は違う。青年が救えた筈の者は、青年の目が盲目だった故に救う事が出来なかった。

 それは間違いだったのだろうか。
 それとも、運命が強いた結果だったのだろうか。



 つまり、神の意思だったのだろうか。



 ――青年がそれを知る事は無い。

 だが、一つだけ分かる事がある。
 全ては目の前にある女神の教えから始まったのだと。
 全ての悲劇は、女神が与えた教えから始まったのだと。

 もしそれを運命だったというのであれば、目の前の、自分が信じていた神は余りにも残酷だ。
 悪戯に人の目を眩ませ、美しい教えだけを人に説き、過酷な運命を強いる神は余りにも冷酷だ。

「……俺は、間違っているのか……?」

 青年が自問する。だが、答えは返ってこない。

 或いは青年の仲間だった者達は全員が揃って間違っていると口を合わせただろう。神に仕える者でありながら、その神に背を向け、全てに牙を向けようとしている今の姿を間違っているのだと説くだろう。

 だが、一体どうやって信じろと言うのか。残酷な運命を強いた神を、どうして信じる事が出来るのか。そんな神をどうして認める事が出来るのか。

 青年は救いたかっただけだ。

 そして、もしその教えが無ければ、その教えに青年が盲目にさえなっていなければ、青年は事実、愛する者達を救う事が出来ていた筈だ。

 ――『救えなかった』その事実だけが、青年の固く宿していた信仰心を破壊した現実。

 青年は残酷な運命に振り回された二年を思い出す。
 初めて見た、凛と、毅然とした表情も、その後に見た、穏やかな微笑みも。その姿に魅入られ、共に過ごす様になった時間も。

 救えなかったのなら、一緒に果てたかった。だが、それすらも神は否定した。
 そして、無邪気な笑みで、いつも傍にいた弟だった存在をも神は否定した。

 守る筈の者から守られ、青年は命を長らえさせられた。

 ――どちらも青年の目が盲目に過ぎたが故に起きた過ち。

「……それとも俺は、間違っていたのか……?」

 答えは返ってこない。

 だが、心に突き刺さった言葉が脳裏をよぎる。

『――皆、貴方と同じ、紅い、血の色なのよ……?』

 何故疑問に思わなかったのだろう。
 自分達が殺めていた者達もまた、同じ肉体を持ち、同じ色の血を流していたのだと。何故その命を刈り取る事に、罪の意識を感じる事がなかったのかと。

 教えは説いている。迷える者には光の道をと。

 だが、現実は違う。


 迷う者には鉄槌を。それが、この女神の教えだった。そして、それこそが青年の全てだった。


『――お兄様、お兄様を、一人にするのが、怖い……』

 青年は死の間際にいても尚、自分の身を案じ、少女が告げた言葉を思い出した。

 それは少女も同じだったはずだ。事実少女は命を失い、いまだ赤い命だったものを身体からこぼしている。
 青年は、震える右手を広げ、それを見つめる。少女の血で紅く染まったそれは、しかし、今までに犯した罪の数だけの血で幾重にも見えぬ染みが重なっているだろう。
 青年は溜息を震わせ、少女を教会の長机に横たえ、装備を外して机に置き、そっと自身が纏っていた黒い礼服を少女に掛けた。雨の冷たさから、少女を守るように。風の強さに、少女が負けないように。

「――エルマリア、俺は、お前にとって、決して良い兄じゃなかった。お前を守りきる事が出来ない、駄目な兄だった……」

 青年は少女の表情に残る微笑みに、辛そうに眉を寄せ、そっとその頬を撫でて俯いた。

「――エルダ、俺はもう何も分からない。何が答えなのかも、何も分からない……」

 ギリ、と奥歯が鳴る。

「……でも、君の言っていた事は理解出来た。その通りなら、俺は、俺はきっと……!」

 十八歳には不相応に鍛え上げられた肉体には、数々の傷跡があった。青年にとっては、その一つ一つが間違った教えを説いた証だった。

 青年は一度少女を残し、教会の奥に行くと、そこから純白の礼服を取り出した。その礼服は司祭を表す礼服だ。先程まで青年が着込んでいた漆黒の礼服とは表裏の存在であると言って良い。

 本来裏の顔である青年の礼服は、つまり戦闘用の礼服は、先程まで青年が着込んでいた、闇夜にも溶ける様な漆黒の礼服だった。

 そしてこの純白の司祭を表す礼服は、人々を導いていく為の、表の顔としての礼服だ。

 裏の顔を使い始めた当初使用していた、大きすぎて身に余った鎖帷子は、成長した今の姿には丁度良く、青年は自嘲気味に笑った。
 最強の呼び声が掛かる前に着る事はやめた鎖帷子を、こんな形でまた身に着ける事になるとは思いもしなかった。

 青年は一度だけ深く息を吐き、冷徹な決意をその蒼き双眸に宿らせ、純白の司祭の礼服を羽織った。

 そしてその色には不釣合いな装備を身につける。ベルトを交差させ、二本の剣を腰に差し、その懐に、十数本のナイフを仕舞う。


 裏で着込む事は禁忌とされていた純白の、司祭の礼服。

 だが、それも青年の一つの覚悟の表れなのだろう。



 ――全てを裏切った神へ、その姿へ背を向ける、その覚悟の。



「何が正解か、なんてもうどうでも良い……」

 青年は先程の自問に自答する。
 もはや何が正解かなど、青年には関係ない。

「……今までの神を信望するのが正解だと思う奴らには、そう思わせておけば良い」

 青年は今、自分の中に渦巻いている感情の名を知らない。

 いや、恐らくは知ってはいる。

 それらは、恐怖、憎しみ、悲しみ、嘆き、憂い、そして、自身への怒り。そう言ったものがすべて複雑に混ざり合った、混沌ともいえる感情だ。ただ、それらは複雑に絡まりすぎていて、青年には冷静に判断する事が出来ない感情。

 これから、自分を弄んできてくれた運命は、これからの自分をどう弄んでくれるのか。


 青年がそう思い、目を瞑った瞬間―ー。

 ――青年の後ろ側にあった、女神の像が幾重にも切り裂かれ、大きな音を立てて崩れ去った。


「……手土産だユリアード。大聖堂で待っていろ」

 背後で砂埃が発生した事にも構わず、青年は歩みを進め、少女の傍で一度歩みを止めて優しく微笑み、その青白く美しい長い髪を優しく梳いた。

「……待ってて、エルマリア。僕も全てを終わらせたらそっちに行く。それまでは、エルダと仲良くしてやっていてくれ……」

 青年は優しく告げ、一筋の涙を流した後、鋭い眼差しを開け放たれている扉へと向け、再び歩み始めた。

 ――これから何が待ち受けているのか、見当はついている。恐らくは、青年と同じ道を歩んできた多くの者が、青年を待ち受けているのだろう。それら全員は青年ほどでは無くとも腕が立つ。青年は最強と言う名を押し付けられていたが、数の利で押された場合、それに拮抗するのは難しい。

 青年は教会を後にすると、目を閉じて耳に神経を集中する。だが、耳に捉えられる気配は、秋を感じさせるものだけで、他には何も感じない。感じるのはそれと、雨の気配だけだ。

 だが、間違いなく青年の敵は、青年を待っている。それも万全の状態で。その万全の状態をとらせるほどの『罪科』と教えにあるものに青年は手を出した。

 むしろ万全の状態でなければ、青年一人の力で、とある勢力が総崩れになるだろう。

 青年の力は一騎当千。総戦力でなければ、青年を打倒する事はまず不可能だ。

『青き雷(いかずち)』その異名を持つ青年の前に、数十名を超える敵など、敵にもならなかった。

 ――だが、敵側は総戦力だ。幾ら青年とは言え、それら全てを斬り、屠る事は不可能だろう。

 つまり、これから青年を待つ運命は、死のみだ。

 ――だから、どうした。青年はうっそりとした目で教会の扉から一歩を踏み出す。

 一歩。一歩、静かに、死へと向かうように。

 確実に青年は死ぬ。死んだ事を悲しむ者は居るだろう。青年の愛する者が殺された事を悲しんだ者が多いように。

 ――だが、青年は全てを否定する為の決意を、その薄暗い目に光らせていた。

 神など最初からいなかったのだと。所詮神など偶像に過ぎず、残酷な路線を描くだけの存在でしかなかったのだと。


 そして青年は心に刻み込む。もう全てが手遅れになってしまっているのだと。


 青年は待っているだろう死に向かって歩き続ける。

 ――自分が生きて、信じてきた教えの全てを否定する為に。



 ――そして一人でも多くの者を、自分の十八年と言う歳月と共に引き摺りこむ為に。

第一章 『 敬虔なる使徒 』 その一


 小高い丘にある教会。その教会の裏には小さな石造りの家があった。その家には簡易的なキッチンと、居間と寝室。それだけの部屋しかない。だが、そこに住む二人にとってはそれで十分だった。
 夫になる者に大きな欲は無く、また妻となる者にもさしたる欲は無かった。
 それは二人が信仰する宗教、ユリアード教の教義に大きく起因する。その教えは、人は身の丈にあった暮らしをすべきだという事がとても大切だと言う教えだ。そしてユリアード教の敬虔なる信徒の二人はその教えを忠実に守り、不必要な欲は抱かず、慎ましい生活を送っていた。
 夜が明ける気配を瞼の裏に感じた、青年の腕の中で眠る女性が薄っすらと目を明けて、その薄茶色い瞳にまだ幼さを残す青年の整った面立ちを映して、小さく微笑む。
 共に暮らすようになってから早くも一年。まだ青年には伝えていないが、月のものが止まってからもう直ぐ三ヶ月が経とうとしている。医者にも見てもらったが、そのお腹に新たな命が宿っているのは間違いの無い事の様だった。

「……クラウス、朝よ。そろそろ起きて……?」

 女性は青年の腕の中で、間近にある青年の顔に告げる。そして、その言葉に青年の眉が僅かに寄り、やがて静かに瞼がそっと開けられ、青年はその瞳に映る美しい女性に微笑んだ。

「……おはよう、エルダ」

 エルダと呼ばれた女性はその言葉に微笑んでみせる。
 エルダは幸せの中に居た。それはクラウスも同じだろう。クラウスが軽く頭を振ると、窓から零れる朝焼けの光に金色の髪が輝いた。そしてエルダの唇に軽く自分の唇を重ねてから、鍛え上げられた上半身を持ち上げ軽く両手を上げて身体を伸ばす。その身体は十八歳と言う若さには少々そぐわないほどに、朝焼けの陰影をその胸部、腹部と上半身全体に浮き上がらせた。

「今日の予定は……?」

 エルダは自分より二つばかり下の夫となる者に尋ねる。その夫となる者の蒼い双眸には、自分の、長く明るい茶色の綺麗な髪と、美しい顔立ちが映っていた。その姿を瞳に宿す者、金色の髪に蒼い双眸の青年、クラウスは苦笑いを浮かべながら言葉を告げる。

「今日は礼拝の後にお母様の所に行く予定だ」

 その言葉にエルダは微笑みをそのままに首を傾げる。

「ラビリス様は貴方の育ての親ですものね」

 クラウスはその言葉に微笑みながら軽く肩を竦めた。

「お母様がやんちゃな子供達に頭を悩ませているらしくてね。特にジータには手を焼いているらしい。あのやんちゃな坊やにも困ったものだ」

 その言葉にエルダもまた起き上がり、左手で何も纏っていない身体を厚手のシーツで覆い、その白い乳房を隠す。

「……どうした?」

 エルダが少しばかり考え込む様な表情を浮かべた事に訝しげな表情を浮かべた。

「……ねぇ、私もラビリス様の所にお邪魔しても良いかしら?」

 クラウスはその言葉に僅かに戸惑う。エルダと愛し合い、エルダの父親であり、クラウスの上役であるフランツから共に暮らす許可を得たのは一年前。その一年間、エルダはまだクラウスと結婚こそしてはいなかったが、事実上の良き妻であり、クラウスを影から支えていた。
 そのエルダが初めてクラウス以外の事に興味を示した。
 それはクラウスにとってちょっとした驚きだった。

「……それは、構わないが、しかしまたどうして……」

 クラウスが困惑の中で問うと、エルダは穏やかな笑みで答えた。

「そろそろ私も慣れておかなければならないと思って」

「……慣れておく?」

 ――そう、とエルダは微笑んで、自分の上半身を隠した状態で、その腹部を摩り、慈しみに満ちた表情を浮かべ、幸せそうに目を細めた。
 その行動にクラウスが目を見開く。

「……まさか」

「えぇ。貴方の思う通り」

 エルダが短く答えた。

「もう三ヶ月、月のものが来ていないの。お医者様にも診てもらったわ。このお腹には、間違いなく貴方の命が宿って――」

 その言葉が終わる前に、エルダは半ば強引にクラウスに抱きしめられ、言葉を閉ざされた。

「――嬉しい。凄く嬉しいよエルダ」

 穏やかな、しかししっかりと喜びがこもった声がクラウスから紡がれる。エルダはそれに答えるように目を瞑り、そっと鍛え上げられた背中に添えられた。

「……私も嬉しいわ。貴方の命を宿せて。これ以上の幸せは無いくらい……」

 二人は少しだけきつい抱擁の後静かに身を離し、お互いの唇を再び重ねあう。それは幸せの象徴にも二人には思えた。

「今日ばかりは朝のお勤めが煩わしい。少し不安はあるけれど、フランツ様に今すぐこの事を報告したいと言うのに……」

 クラウスの言葉に、エルダは苦い微笑みを返した。

「駄目よ? 貴方には民を導いていく義務があるのだから、私的な理由でそれを後回しにしてはいけない」

 エルダは言葉を続ける。

「それに、何より一番に報告しなければならないのは、ユリアード様にでしょう?」

 クラウスは『その通りだった』と言わんばかりに笑顔で肩を竦めた。

「……じゃぁ僕は礼拝堂に行くよ。フランツ様の所に行くのは昼頃になるだろう。君はその間、フランツ様の所に行って、僕を待っていてくれないか」

 エルダは慈しみの表情のまま、静かに頷いた。

「本当なら僕も直ぐにフランツ様――父君になる方にこの喜びを伝えたいけど、朝のお勤めがある。朝のお勤めが終わったら直ぐにフランツ様の所に向かうよ。そこで落ち合おう」

 クラウスは満面の笑顔に、僅かに涙を溜めながら告げた。

 愛する人との間に命の息吹が上がった。

 エルダにとって。それは何よりの喜びだった。

 そしてクラウスに顔を向けるエルダの目にも、喜びの涙が僅かに宿っていた。

 クラウスはベッドから降りると、至る所に傷を負った痕がある身体に白い礼服を着込んでいく。
 その礼服は、助祭の位を示すものだ。
 クラウス・オルフィート・ザグルス。それがこの青年の名前だった。

 宗教に携わる者の序列は、その礼服とミドルネームが称号とされる。青年のオルフィートと言うミドルネームは、その礼服が示す通り助祭。上位から順に、アンスクラファイ、ジードサスフィス、デルフィート、ライフィート、オルフィートと続く。アンスクラファイは教皇、ジードサスフィスが枢機卿、それから大司祭、司祭、助祭と言う序列だ。

 クラウスは助祭だが、異例の出世街道を現在歩んでおり、小さいが一つの教会を任されている。助祭だが、実質は司祭にとも言えるだろう。そのクラウスの朝のお勤めが、ユリアードへの祈りを捧げる儀式であり、同時に早朝教会を訪れるユリアード教の信徒に教えを説く事だ。
 クラウスは礼服を着込み終わると、まだシーツで上半身を覆っているエルダに振り向き、穏やかな笑顔で告げた。

「……じゃあ僕はユリアード様にこの事の報告をしにいく。出来るだけ早めにフランツ様の所に向かうから、少しの間だけ待っていてくれ」

 その穏やかな双眸に、エルダの満面の笑顔が僅かに上下に動いた事を確認して、クラウスは静かに自宅を後にした。


 フランツの家と、その家に隣接する教会は小高い丘にある。ユリアドスの石造りの街の一つ、ガンフィートは眼下にその全貌を確認できた。ガンフィートはユリアドスである程度栄えている街だが、そこを少し外れると辺りは農園地帯だ。故にクラウスの教会には農民がよく訪れる。
 クラウスは軽く深呼吸をすると朝焼けが始まった空を見上げ、満足げに微笑んでから表に建設された自分の教会へと足を運んだ。
 自分の教会の扉は、クラウスの背丈の二倍はありそうな扉がある。クラウスは観音扉の片方を押し開くと静謐な光に包まれた礼拝堂へと足を踏み入れ、穏やかな笑顔で両側に広がる木製の長机の中央を通り、美しい女神の彫像とそれが掲げる碇を逆さにした様な宗教のシンボルの前に歩み寄って、静かに片膝を着き、両手を組み合わせて頭を下げた。

「……ユリアード様、今日は喜ばしいお知らせがございます」

 その表情は穏やかだ。クラウスは両手を組み合わせたまま、静かに言葉を続ける。

「エルダと僕との間に、新しい命が宿りました」

 当然だが彫像は何も返さない。だが、それでもクラウスは心が満たされる感覚を覚えていた。
 この感覚を感じれば分かる。ユリアード様は僕達を祝福して下さっている。新たなる命を、祝って下さっている。

 ――それはまるで、神がいつも傍にいる様な感覚だった。

 やがていつもの様に、いや、それ以上に長く祈りを捧げていると、クラウスの耳が何者かの足音が聞こえてくる気配を感じた。クラウスはそれを感じると静かに立ち上がり、最後にそのシンボルを大きく胸に描いて振り返る。

 やがて観音扉を開いてその客は現れた。

「おはようございます。アレクシスさん」

 頭頂部が大分薄くなり、白ひげを僅かに蓄えた老人がクラウスを見て苦笑いを浮かべる。

「今日は一番乗りじゃと思ったのだがのう」

「聖職者が信者よりも遅れる訳にはいかないでしょう」

 クラウスは苦笑いを浮かべながら言葉を続ける。

「第一に、僕が二番手だったとすれば、アレクシスさんは何を祈るつもりだったのですか」

 アレクシスと呼ばれた老父はその言葉にカカと笑った。

「決まっておるよ。クラウス様とエルダの幸せじゃて」

 クラウスはその言葉にキョトンとした表情を浮かべた。

「クラウス様は導いてばかりで自分の幸せよりも他人の幸せを第一に考えるからのう。人間まず自分を第一に考えねばならん」

 クラウスはその言葉に苦笑いを禁じえない。自分は他者から見ればその様な人格者に見えるのだろうか。クラウスはそれなりに自分の幸せにも考えているつもりだ。

 ――第一にその幸せの象徴が今日になって現れた。

「……そう言えば、今日のクラウス様はいつもとは違って、どこかこう、満たされている表情をしているのう」

 クラウスはその言葉に目を僅かに丸めた。そして、自分はそんなに分かりやすい人間なのだろうか、と自問し、心中で苦笑いを浮かべる。

「何か良い事でもあったか?」

 クラウスはその言葉に目を閉じると、満たされた笑みを浮かべた。

「――子供を授かりました」

 それは流石に驚きに過ぎたのか、アレクシスの表情に驚愕が宿った。

「……それは、エルダの身体に命が宿った、と言う事かぇ?」

 クラウスは胸に手を当てて、穏やかな笑みを浮かべて目を細く開ける。

「この身には過分な幸せです。これもきっとユリアード様の深き愛の賜物でしょう」

 その言葉にアレクシスは僅かに興奮した様子でクラウスに詰め寄ると、顔を輝かせながら言葉を投げかけた。

「それは男(おのこ)か! それとも女子(おなご)か!」

 その輝いた表情にクラウスは苦く微笑んでみせる。

「アレクシスさん、それを聞いたのは今日ですよ? それに、男の子か女の子かなんて産まれてみなければ分からないでしょう」

 言われてみてアレクシスは『うぅむ』と唸ったが、次の瞬間にはその表情から曇りが晴れ、柔らかいものが浮かんでいた。

「何にせよ目出度い事じゃ。皆の衆にも伝えておかねばな」

 告げて穏やかな笑みでそっとクラウスの肩で手を弾ませた。
 丁度その時、教会の扉が開かれ馴染みの顔が続々と教会に現れた。それを見て、アレクシスはにやりと笑うと、集まり談笑を始めている十数名に声を上げた。

「おおい、皆の衆、聞いてくれ」

 その声に、思い思いに決めている各自の席へと腰を下ろそうとした信者達の動きが止まる。

「なんしただ。アレクシス」

 その言葉はアレクシスと同年代と思しき人物から発せられ、アレクシスは意味ありげな笑みをクラウスに向けた。

 ――ほら、言うが良い。その顔はクラウスにそう告げており、クラウスは少しばかり困った笑みを浮かべながら、集まった信者に告げる。

「……えぇと、皆様にご報告があります」

 そこで、クラウスは表情に隠しきれない喜びを浮かべながら咳払いをして、民衆の顔をその蒼い双眸に映す。その双眸に首を傾げる民衆達が映った。

「――エルダとの間に子供が出来ました」

 やや間を置いて放った言葉に、民衆は一泊置いて、その言葉を理解し、顔に驚きを浮かべた。

「それは確かなの? クラウス様」

 五十代程度の年齢の恰幅の良い婦人が喜びを露に、クラウスに尋ねる。クラウスはその言葉に軽く頷き言葉を告げた。

「エルダの話によれば、間違いの無い事だと思います。医者にも診て貰った所、エルダが身篭っているのは間違いのない事のようなので」

『おぉ……』と信者達が声を上げる。

「……それは喜ばしい!」

 その言葉はクラウスより僅かに年長と思われる人物から発せられた。

「おら、後で野菜ば届けるだよ!」

「うちはこれから豚一頭潰す予定だったから、うんまいとこば届けさせるだ!」

 二人の信者の言葉にクラウスは喜ばしい感情を覚えながら、しかし軽く首を振る。

「皆様のご好意はありがたいですが、それは皆様の日々の糧になるもの。その様な気遣いは不要です。僕は今こうしているだけで、十分に幸せですから」

「あらあら、遠慮は無しよ? クラウス様」

 その言葉は先ほどの婦人から掛けられた。

「こんな街外れに教会が出来たのは、一重にクラウス様の努力の賜物でしょう? お陰で私達はユリアード様に直接祈りを捧げられるようになったのだもの。これ位の感謝の気持ちは当然だわ」

 その婦人の言葉に、その場にいた信者達が『そうだそうだ』と声を上げる。
 クラウスはそれを聞きながら目を瞑り、身に余る幸福をその身に感じていた。

 ――僕はなんて幸せ者なんだろう。こんなに多くの人が僕を、僕達を祝福して下さっている。

 それはクラウスにとって身に余る僥倖に思われた。

第一章 『 敬虔なる使徒 』 その二

 
 クラウスは元々は孤児だ。故に元々は苗字は無い。ザグルスと言う苗字は、彼が育った孤児院の名前だ。その孤児だった自分が子供を授かり、多くの人に祝福して貰える。それはクラウスにとって幸せ以外の言葉では表せない。
 当然ここに集まる信者達もクラウスが孤児だった事は知っている。故にここに教会を建てた時の目の色は今クラウスに向けられている色とは違っていた。

 その当時の信者達の目は痛々しいものを見る目だった。

 だがその目は、今では敬愛の色と、今は祝福の色に染まっている。
 クラウスは目を細く開いて、その身に幸せを感じながら言葉を紡いだ。

「……ならば、エルダの身に何か良いものを。僕達はまだ二人。皆様のご好意に甘え、その糧の少しを頂きたく思います」

 ――それと、とクラウスは言葉を続ける。

「出来れば人生経験が豊富ではない僕に教えを。僕はこの様なこの身に余る幸運を授かったのは初めてです。故に、エルダの身を案じる事は出来ても、無力です。知恵を授けて頂ければと思います」

 その言葉に先ほどの婦人を筆頭に何人かが声を上げた。

「勿論よ。任せてくださいな」

「あたし達はもう何人も育て上げているからねぇ」

 その言葉でどっと周りに笑いが生まれる。クラウスはその笑い声の中で目を細めた。
 自分はなんと果報者だろうか。自分の事に、幸せを共感してくれる者達がこんなに沢山いる。それが、クラウスにとってはとても嬉しかった。

「――では、今日の礼拝を行いましょう」

 クラウスは笑顔で話題を切り上げる。このままではクラウスとエルダの祝福で時間を過ごしかねない。出来る事なら、エルダの父親であるフランツに早くこの事を報告したい。
 教会に集まった多いとは言えない信者達がその言葉に頷き、思い思いの席に腰を下ろす。
 そしてそれを待って、クラウスは踵を返し、宗教の象徴たるユリアードとその彫像が掲げるシンボルに片膝を置いて頭を下げ、手を組み合わせ、瞑目した。

「……導きの女神よ、ユリアード様よ、どうか憐れな者達に救いの道を導きたまえ……」

 クラウスの少年の色合いが残る声が朗々と礼拝堂に響き渡る。そしてその声の後に、同じく席についた者達が追随の言葉を一斉に声を上げる。

「我ら病める時も、健やかなる時も、その魂はユリアード様の導きによってその道を信じる事が出来ます。どうか我々を見捨てず、その道を光照らし。いつ如何なる時でも安息を与えて下されるようお願い申し上げます」

 朗々たる声に、信者達の言葉が続く。

 クラウスはそっと目を細めた。

 神たるユリアードの魂は、その御心はいつでもクラウスの心を満たしてきた。それは今でもそうだ。エルダとの間に命が育まれ、それはこれからすくすくと育っていくだろう。
 これを幸福以外の何と呼べば良いのか。

 ――今自分は幸せの中にいる。

 ユリアードの加護に守られ、そしてその加護の中、エルダとの愛の結晶が育まれた。それは正に幸福以外に言葉が見つからない。

 やがて祈りの儀式を終えると、クラウスはゆっくりと立ち上がる。
 いつもならここで信者達の相談に乗って、答えを導き出すのがクラウスの助祭としての役目だが、正直クラウスはこの後の事で頭が一杯だ。
 クラウスは小さな溜息をつくと、踵を返し、申し訳なさそうな表情を信者達に向けた。

「……皆さん、申し訳ありません。今日はこの後大司祭にして、エルダの父君であるフランツ様にこの事を報告しないといけないので……」

 そのクラウスの言葉に信者達が苦笑いを浮かべた。

「気にせんでええだよクラウス様」

「そうだそうだ。クラウス様にはおら達の話を聞いてもらう以上に、そっちの方が大切だでよ」

 クラウスは信者達の理解の言葉に目を僅かに潤ませる。
 自分はこれほどまでに幸福を許されるのか。

「……ご理解に感謝を。では、僕はこれからフランツ様の所に参ります。明日にはいつも通り皆様のお話を伺わせて頂きますので、宜しくお願いします」

 クラウスはそう告げると左胸に右手を添えて、信者達に深く頭を下げた。



 ※



 大司祭、フランツの教会はガンフィートの中心部にある。クラウスはその顔に笑みを隠しきれない様子で、しかし、僅かばかりの不安を覚えながら、石造りの町並みに足を踏み入れ、フランツの教会へと足早に歩を進めていた。
 石造りの町並みの大通りでは様々な露店が大声で呼び声を上げている。露店が商っているものは当然様々だ。食料品から雑貨品、果ては装飾品まで、その数を上げれば限りが無い。

「おや、クラウス様じゃありませんか」

 その声は装飾品を商っている者から掛けられた。

「これはギスレさん。ご商売の方は上々ですか?」

 クラウスは足を止め、三十代後半と思しき男性に問いかける。ギスレと呼ばれたその男は露店から出てくると、クラウスに手もみをしながら温和な笑みを浮かべた。

「そりゃぁ、まぁ、まだ上々とは言えませんがね。何せうちはまだまだ新参者だ。完全に受け入れるまでには時間がかかるでしょうよ」

 クラウスがその言葉に微笑みを浮かべた。

「そうですか。でも、暮らしが成り立っている事を考えれば、それ位が丁度良いのかも知れませんよ? ユリアード様も過ぎた贅沢はお嫌いになります」

 ギスレはその言葉に苦笑いを浮かべた。

「ユリアード様の仰られる事はもっともだ。しかし、あたしらは商売人ですからねぇ。言っちゃ悪いが、金を稼いでなんぼ、と言う所もありますので」

 その言葉に、クラウスもまた苦笑いを浮かべる。

「確かに貴方がた、商いを行う方が街にいなければ、街が回らないのも事実ですからね。そこまでは僕も否定は出来ません」

 ギスレはその言葉に何度か瞑目して頷くと、目を細くしてクラウスに告げる。

「……それもこれも、クラウス様がフランツ様に口を利いて頂いた賜物ですよ。大袈裟かも知れないが、あたしら新参者にとっちゃ、クラウス様はユリアード様に次ぐ救世主みたいなもんだ」

 クラウスはその言葉に苦笑いを浮かべたまま頬を掻く。

 クラウスは様々な分野で活躍している。この街にも助祭と言う立場の者達は数え切れない程居るが、クラウスほどガンフィートに貢献している者はいない。
 クラウスは街の現状を正確に把握し、そのバランスを維持し、且つ発展させる為に、露店などを商う者達からの口利きを、この街最高の権威である大司祭、フランツに行っている。当然その可否を決めるのはフランツだが、フランツもまた厚い信頼をクラウスに置き、実質的な露店管理は助祭であるクラウスに任せていた。
 つまり、ガンフィートで露店を開く為にはクラウスによる面接が必要とされる。
 当然その場で振り分けられる者も少なくないが、その分、クラウスが誘致した露店商などは新参ながら高い評価を受けている。勿論元々あった露天商などにも配慮し、その規模を決めているのもクラウスだ。

 つまりクラウスは、助祭と言う位でありながらも、商いと言う分野においてはガンフィートの顔役と言える。

 勿論クラウスの他にも似た様な事を行っている助祭はいるが、クラウスには敵わない。彼らは基本的に大司祭や司祭たる者の補佐をする者であり、街の管理を行う者ではない。つまり、それらはクラウスの様に単独での行動権限を与えられた訳ではなく、あくまで司祭や大司祭の補佐的役割で街の管理を行っている。
 そう言った意味では助祭という階位でありながらも、街の露店と言う、街運営の中核部分を任されているクラウスは余りにも異色だろう。
 敬虔なる信徒、クラウスの前に賄賂などは一切通用しない。むしろ賄賂を出せば直ぐにでもガンフィートに出店する資格を失い、例え元々あった老舗などにも厳しい罰則が課せられる。そう言った意味では一部の露店商からクラウスは疎まれてはいるが、それらは例外だ。クラウスの存在は概ねガンフィートでも高い評価を受けている。誠実且つ実直。そして敬虔なる信徒。その整った面立ちも相まって、クラウスがこの街で高い人気を博するのは当然の事だった。

「……所で、何かいい事でもあったんですかぃ? クラウス様はいつも笑顔でいらっしゃるが、今日はいつにも増して輝かしい笑顔だ」

 クラウスはその言葉に目を丸めた後、再び苦笑いを浮かべて頭を抱えた。

 ――僕は本当に顔に出やすいらしい。少し自覚しないと。そう心で告げる。

「――いえ、特にこれと言ったものは何も」

 クラウスの教会に足を運ぶ者はともかくとして、ギスレとはまだ付き合いが短い。下手な事を言えば、要らぬ気遣いを受けるかも知れない。要らぬ気遣いをさせるのも悪いだろう。そう思い、クラウスは事実を伏せた。
 だが、ギスレは僅かに目を細めると、静かに腕を組んで『ふむ』と頷いた。

「……間違ってたら申し訳ないんだが、もしかして、これなんか必要じゃないですかい?」

 そう告げると一度ギスレはクラウスと雑踏の音がする大通りに一度背を向けて、自分の露天にある装飾品を手に取り、満面の笑顔で振り返ると、クラウスの左手を取り、己の左手に握られたものをそっと握らせた。

「……これ、は……」

「ほぉら、やっぱりその通りだ」

 ギスレはそれを見て驚きの余り目を見開くクラウスに満足げに頷いた。

「あたしら商売人は人の感情に鋭くなきゃ生きていけねぇ人種でしてね。クラウス様の顔を見た時にピンと来たんだ。こりゃぁ何か喜ばしい事が起きたに違いない。そして、クラウス様のそんな笑顔は初めてだ。そんなお顔を見りゃ何となくですが察せると言うものでさ」

 笑みを深くして自分の直感が当たった事に満足したかの様にギスレは告げた。

「……おめでとうございますよ、クラウス様」

 クラウスの右手に握られている装飾品は非常にシンプルな模様をしている。そしてその模様は、命を授かった者への祝福と、加護を意味するもの――つまり安産祈願のお守りだ。

「おっと、御代は受け取りませんよ? クラウス様流に言うなれば、これはあたしからの祝福だ。クラウス様は他者に祝福をお与えになるのに、他者からの祝福は受け取れない方ですかい?」

 慌てて言葉を発しようとしたクラウスをギスレが満面の笑顔で首と手を振りながら遮る。この装飾品はさほど高い物ではない。買おうと思えば子供の小遣いでも買える額だろう。更に言えば、同じ様な加護の物でも、もっと高額な物は露店に並んでいる。

 故に分かる。

 この装飾品には、ギスレの真摯な祝福の気持ちが宿っているのだと。

 お金では買えない、思いが詰まっているのだと。

「……ありがとうございます。この祝福に感謝を。早速、エルダに届けたいと思います」

 クラウスはそう告げると瞑目し、お守りを握り締めた手で左胸をトンと叩く。そしてそれを見て、ギスレは何度か頷き、微笑みを浮かべた。

「では、僕は参りますので。ギスレさん。祝福をありがとうございました」

 クラウスはそう告げて、深々と頭を下げてからギスレの露店を後にした。

「……いや、クラウス様くらいだよ。あたしらにこんなに親切にしてくれるのはね」

 ギスレは軽く鼻をこすりながら眩しいものを見る様に目を細めてクラウスの後姿を見つめた。

背教の使徒 ―神に背を向けた者―

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更新日
登録日
2014-12-10

Copyrighted
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  1. プロローグ 『 終わりへの始まり 』
  2. 第一章 『 敬虔なる使徒 』 その一
  3. 第一章 『 敬虔なる使徒 』 その二