ナイチンゲールの靴の音

ナイチンゲールの靴の音

ページめくり屋さん

 わたしは、自己愛性パーソナリティ障害回復型独白映像再生装置が要求する手順に沿って、つまり、わたしはわたしの自己愛がフロイトたちに連なる精神病理分析家たちの診断する自己愛の適用基準を絶大に満たしてしまっているので、自己愛性パーソナリティ障害回復協会の主任技術者が発明した自己愛性パーソナリティ障害独白映像再生装置に独白をすることで、いかにわたし自身が強烈な自己愛を完備しているかということを客観的に理解するために独白情報をそのまま稠密そして厳格な過去記憶回想再生映像へと変換できるテクノロジー機器へと吹き込んでいるのだ、と書物で言えば序文にあたる前置きの言葉を発してわたしは客観的自己愛理解のための独白を開始した、と自己愛性パーソナリティ障害者専用病室の中で自己愛性パーソナリティ障害回復型独白映像再生装置のボタンを押しながら言い、そしてもっとも重要なことだが独白の最初の言葉は、わたしの存在を銘記しているあの言葉からもちろん開始せねばならない。

 わたしは反抗の接頭辞の王であるANTIというニックネームを遠い幼年時代に授かり、その幼年時代を思い返せば、生活させられていた場、英国式軍事刑務所を模した下層階級の整理棚としての公営集合団地1304号の最上階を根城とし、奇怪な子供部屋の鉄格子じみた破砕窓からのぞく奇怪なパノラマ小景の風景記憶をさらに鮮明に思い返せば、団地の遊園設備内で成人した男女の猿真似の時間いわゆるオママゴトの時間があった、とわたしは自己愛性パーソナル障害回復型映像再生装置に猛々しく重低音で言い放った。再生映像の中に現在のわたしとはひとまわりもふたまわりも小さな姿のわたしが映し出されている、わたしは幼いこどものわたし自身を見つめながら、わたしのオママゴトの時間とは、とわたしは言い、つづけざまに言った、逆さ歩きをしながら錆びたシーソー上で突如縄跳びの三重跳びをする少年と少女のうちのひとり、少年がわたしであったが少女のほうは三重跳びに疲れてしまうと砂場に腰を落としわたしを細い指で手招きしそしてわたしとふたりで砂の城をつくり同時に砂の食卓で幼年期の愛を生成することに最大の喜びを見出していた、しかし白い輝きをもつ砂の時間を乱す者、あのころのわたしたちには気づくべくもない影の闖入者、露出狂の黒マントの大男に少女は拉致されてしまいわたしは団地から遠ざかる黒マントの大男を追いかけるために超魔王ひとさらいの坂と呼ばれる急傾斜の坂、団地のこどもたちが超魔王ひとさらいの坂だ超魔王ひとさらいの坂だ超魔王ひとさらいの坂だと言い尽くしていた坂を六段変速付き軽合金自転車で追走したが黒マントの大男は樹海の霧のような見えない脚捌きでわたしから逃げ去ってしまったし、人さらいの行方は現在でも杳として知れない。少女の両親からわたしは厳しい叱責を受けたし当然だがわたしの両親も最大級の厳しい叱責を受けたし少女の両親がまくしたてる叱責の最上位頻度の言葉、その言葉が放たれる舞台状況は、英国製軍事刑務所を模した下層階級の整理棚としての公営集合団地1304号の最上階、わたしの家の錬鉄製の灰色ドアの真向いの錬鉄製の灰色ドアから出てきた少女の両親、かれらとわたしたちが立つ場所は福岡市が散漫赤字財政のため設備投資を怠っているせいだったのだろう、蛾の群れすら集まらない、わずかな乏しい光しか放てない白色蛍光灯の薄い光の下であり、断水の赤水を舐めた野鼠すら徘徊していた陰鬱な空気の中でわたしの頭を悩ませ続けた言葉がわたしの精神に凍傷を引き起こしていたのだ、すなわち叱責による凍傷の言葉、とわたしは言い淀みながら、つづけて言った、超魔王ひとさらいが出没する夕没の時間によくもうちのこどもを連れて遊びに行かせましたねあなたのご子息がさらわれなかったのはあなたのご子息がうちのこどもよりもこどもとして劣っていたからよあなたのご子息はこどもではなかったのよこどもはわたしのこどもこそこどもなのよ、と少女の母がわたしの両親にそして当然言葉はわからずとも当然わたしに向けられていたであろう言葉を何百回と言っていたのをわたしはその後成長期に学んだ偉大なる文学者や哲学者や神学者の人類としてぜひとも保存しておかなければならない言葉よりも鮮明に記憶しているのだが、とわたしは自己愛性パーソナリティ障害回復型映像再生装置に再生されている少女の母の動画像を殺したくなるほど憎い目で凝視しながら言ったし、自己愛が回復するどころかむしろよみがえらせたくもない幼年時の殺意がふたたび沸き起こっていたので自己愛性パーソナリティ障害回復協会の主任技術者ならびに協会関係者を屠り去りたいとすら願ったが、全世界に存在するいわゆる両親というのは母だけではない、断水の赤水に染まった紅い野鼠が足元に群がっているのを不愉快とすら感じていないだろう少女の父が待ちわびたかのように完全な無感情で言った、そうだわたしの妻が言うようにおまえたちのこどもはこどもではないのだわたしたちのこどもはこどもであったからこそさらわれてしまったのだ人さらいとはこどもをさらう人種なのだおまえたちのこどもは超魔王ひとさらい坂に放置しても人間として認められないのだ連れ去られはしないのだ、と完全な無感情を徹頭徹尾つらぬいて言うのだった、わたしはその言葉を受けてまさに氷河のクレバスの中に挟まっている気がするほど脱出見込みのない凍傷を負い震えていたが、わたしの父と母、無教養だが確かにわたしの父と母、わたしの母は高卒の准看護婦として生真面目に働き無学ではあったが聖人めいた婦長から渡されたナイチンゲール全集を読破し、フローレンス・ナイチンゲールを後天的に心に宿しながら生きることになり、母が病室を訪れる際にはナイチンゲールの靴が来た、われわれ自己愛性パーソナリティ障害病室を明るく照らし出すナイチンゲールの靴音が聞こえる、現代のナイチンゲールとは彼女だ、彼女の囀りは裁縫なのだ、という病人たちの声まであり、総じて言えばナイチンゲールの足音をもつ女、と母の担当する病棟では言われていたらしい、母の余暇といえばテレビ受像機で放映される中でまだ良質とも言えるNHK編み物講座の時間を愉しむ裁縫少女だったらしく近代裁縫の女流巨匠の手になる本を読み込み、病人たちの病室へ裁縫の楽園を建設していた、病人たちがもっとも望むリクエストに応えてすべての病人願望を裁縫化することで信頼を集めていた、裁縫化された品々は満たされない自己愛の風景すべて、満たされない自己愛の人間関係すべて、満たされない自己愛の妄想恋愛すべて、満たされない自己愛の声すべて、その母、自己愛病人裁縫解決者の第一人者である、その母は少女の両親の叱責を受けることで准看護婦を辞職し、ナイチンゲールの靴の音は病棟から消え去り、ナイチンゲールの靴が向かった先は、超魔王ひとさらい坂の見える砂場であった、とわたしは苦々しい気持ちを懸命に抑え込みながら言った、ナイチンゲールの靴はわたしが遊んでいた少女を砂の少女として造形する廃人になってしまった、ナイチンゲールの靴は崩れては完成する完成しては崩れ去る砂の少女を造形するだけの真の廃人に変貌してしまっていた、ナイチンゲールの靴にとってもっとも砂の少女であると望んでいた砂の少女が完成した矢先、砂の少女が大型台風で吹き飛ばされてしまい意気消沈した後ナイチンゲールの靴は砂の中にみずから生き埋めになって命を抹消してしまった、とわたしはよく遊んでいた砂場に残された母の靴が再生されている動画像を見ながら言った、いっぽうでわたしの父は製薬会社の配送課に所属するさえない医薬品配送ドライバーであったのだが、母と同じく少女の両親の叱責を受け、超魔王ひとさらい坂の急傾斜の坂を会社手配の営業用バンで上昇下降するだけの超魔王ひとさらい坂専用のドライバーに変貌してしまっていたし、四六時中露出狂の黒マントの大男があたらしい人さらい用のこどもを探りに来るのを車内から観察していたのだが、父の注意力散漫だったのだろう、団地住民のこども、このこどもは少年であったがこの少年を轢き殺してしまい、わたしの奇怪な子供部屋を構成することになる方法で自殺してしまった、自殺方法と自殺に至るまでの不可解な行動は、黒マントの大男にさらわれた少女と父が轢き殺してしまった少年の結合、つまり性交させている絵を父が描き、その絵を複製してわたしの子供部屋のアラベスク文様の壁紙を剥ぎ取って総入れ替えし、子供部屋の全面が幼い少年少女の性交している絵で覆いつくしてしまった後、母のいる砂の中に父までもが飛び込んでしまった、とわたしは奇怪な子供部屋が映し出されている動画像を見ながら言った、と言ったあとでふと考えた時、この奇怪な子供部屋や砂場に残されたナイチンゲールの靴や憎らしい少女の両親たちが存在した団地は宅地造成計画によって消滅してしまっていたのだった、と思い出していた、あの風景あの経験あの感情は市場原理主義の宅地造成が団地を倒壊させることによって忌まわしいあの風景あの経験あの感情にマンホールの蓋をしてくれたのだった、とわたしは考えることで安息の風をからだに吹き込んでいたが、同時に病室のドアをノックする音が聞こえた、お入りしてよろしいでしょうか、と看護婦の声が聞こえる、わたしはどうぞ入室なさってください、とだけ答えた、看護婦はわたしに尋ねた、幼少期の記憶を吐き出すのはいかがですか、わたしは答えた、ええ手順に沿ってやっていますが、手順書にはまず4歳ごろからの記憶を吐き出してみてくださいと書いてありますね、わたしにとって4歳ごろの記憶というのは文化幼稚園に通っていたときなのですが、嫌な過去を思い出してしまいました、ですがPTSDいわゆる心的外傷後ストレス障害はわたしには無縁です、看護婦は考え込んで言った、人生のうちで辛い記憶がフラッシュバックすることはありますが専門的に言えばあなたがおっしゃったようにPTSDに代表されるものですが、その心配はご無用なのですね? 本当にご無用なのですね? わたしはひとこと、無用です、と言ったが間髪入れずに看護婦は、見苦しい発言と思われるかもしれませんがわたしはわたしの職責上いっさいの傷を、キャリアアップを図るうえでいっさいの傷を負いたくはありませんので再度お聞きしますが、本当にご無用なのですね? わたしは答えた、なかなかに正直な看護婦で逆に気に入るよ、あなたに傷を与えることは傷を与えようと望んだところでわたしにはできませんし、というのは、あなたはみずから傷を増やしかねない人間ですし、言ってしまえばあなたの正直さそのものが傷を増やしているとも思うのだが、それは置いておきましょう、わたしは自己愛によって幼少期のあの風景あの経験あの感情に耐えてきましたから、PTSDは無縁なのです、自己愛を通して困難を克服してきたのです、看護婦は目をまるくして不快な表情を呈していたが不快な表情を消さずに声だけを努めて平静に保たせて言った、文化幼稚園というのはどのような場所だったのですか、わたしは言った、そこは当時の福岡市の市長が定めたモデル幼稚園として指定されており優秀なこどもたちが通園する場所でしたが、こどもたちは最初から優秀だったわけではなくて幼稚園に勤務する人間たちが優秀だったおかげで下層階級の団地に住むこどもたちの頭脳がじょじょに優秀になっていきました、わたしもモデル幼稚園の薫陶を受けて優秀だったはずなのですが超魔王ひとさらいという露出狂の黒マントの大男がわたしたちの住む閑静な寂れた団地に出没して優秀なこどもたちが次々にさらわれていった後、わたしにとっては希望の欠片もなかった怪事件が生じてしまって幼稚園の時代いわゆるママゴトの時代はけっして太陽電池で動くオモチャの向日葵のように明るかったわけではありません、看護婦は言った、わたしも文化幼稚園出身者です、当時の空気は憶えています、あの事件のことも知っています、わたしは言った、なんだ看護婦さん知っていた上でこれまでわたしの話に付き合っていたのかい、看護婦は答えた、太陽電池で動くオモチャの向日葵は文化幼稚園の入園時と卒園時に園児たちに配られるものでしたからわたしも憶えていますしあなたと生きている年代が違っても同世代ではなかったとしても共有している空気は少しだけあります、わたしは言った、太陽電池で動くオモチャの向日葵はまだ持っているのかい、看護婦は答えた、娘に持たせてあります、わたしは言った、まだ少女かい、看護婦は言った、少女です、わたしは砂の少女を思い浮かべながら言った、手順書を先に進めてもいいかい、看護婦は病室から姿を消した、わたしはいましがた去ったばかりの看護婦のその去りゆく足音を心に辿りなおして足音の響きを再生させていた、それはナイチンゲールの靴の音を疑似的に感じさせるものであったし、ずっと撥ね退けていた心の空虚が一瞬だけわたしに住みつき、幼き日々の塞ぎ終えたはずの風穴をもういちど開けひろげたような気がしていた。

 わたしは手順書に従って孤児院での生活にもなれた高校時代の記憶を独白していた、わたしは幼稚園、小学校、中学校、高校に至るまでア行の苗字を持っているために恐ろしい経験ばかりをしてきた、どの教室、どの教師、どの生徒たちが存在する教育機関でも、わたしは真っ先にクラスで自己紹介をせねばならなかった、名簿順による自己紹介という自己紹介システムが学校教育の中に暗黙の不文律として紛れ込んでいるせいだが、あ行からわ行、外国人生徒いわゆる留学生がいるならばアルファベットの行も追加してもよろしいがほぼ例外であるし、どのみち日本語の第一行でありまさに最初の言葉、あ、あ行に対してアルファベットの最初の文字Aが優越することは学校教育の自己紹介システムの性質からして起こりえない、とわたしは自己愛性パーソナリティ障害回復型独白映像再生装置が映し出す黒板に書かれたわたしの姓名を眺めながら言っていたがここで思い出すのは左回りの時計であった、と不可逆であるはずの時間をあざ笑う左回りの時計を思い出していた、わたしはこれまで幼稚園、小学校、中学校と義務教育期間中はまさに自己紹介システムの義務を堅守するようにいつでも先頭に立って自己紹介をしてきた、先頭に立って自己紹介をするというのはあの第二次性徴期では恐ろしい勇気が必要であった、まずわたし以外の生徒の顔にはこのように書いてある、ワ行の生徒はあの人どんな自己紹介をするんだろうか、と高見の見物であるだろう、タ行の生徒はもったいぶった自己紹介をしてその後の自己紹介の流れをむずかしめの設定に決めないでくれよな、と不満を抱いているだろう、イ行の生徒はもはや自分自身の心理空間操作に熱中しておりわたしの自己紹介を聴いている暇すらないだろう、そういった名簿順による自己紹介という自己紹介システムに風穴を吹かせるアイディアがわたしの高校の教室に設置されていた左回りの時計である、この時計はなぜ通常の右回りの時計ではないかというと室町時代から連綿とつづく時計職人一家の秘蔵っ子が悪戯心で時計の回転を逆向きにしているから左回りになっているのだが教師や生徒を含めてみな笑い飛ばして一日くらいは逆回りにしておこうかという話になり逆回りのままなのだ、わたしはこの逆回りにヒントを得て、もはや高校とは義務教育の場ではない義務とは打ち負かすためにあるのだ、と考えて自己紹介を逆回りにした、その自己紹介とはこうだ、先生ぼくはいつもいつも幼稚園でも小学校でも中学校でも先頭に立って自己紹介をしてきました元々勝気な人間ではないので上手く自己紹介ができていませんでした今回くらいは一回くらいはワ行の生徒から自己紹介してもいいんじゃないでしょうか、と古狸のような腐れはてた中国のパンダのような顔と身体を持つ国語教師に言ってやったのだ、すると古狸パンダは茶釜で炙った熊笹を頬張るようにして言うのだ、おっまえなあいくら自己紹介が苦手といっても逃げるのはいかんぞ逃げるのはなんでまたそんなことを言い出すんだおまえは、わたしは言った、あなたのような教師がいつでもわたしの目の前に存在したし存在し続けているしいまも存在しているから言うのです、古狸パンダは茶釜を引っくり返して熊笹を歯噛みして言った、おっまえなあ言葉遣いをちゃんと教育してやらないかんなあ日本語というのはまず現代文よりも古文の情緒的なもののあわれから学ばんといかんぞもののあわれからなとくにおまえは古文の筆写をしてそうだな古事記あたりからでも学んでもらわんといかんなあ、国文学者たちの熱い研鑽の賜物である原典に挑んでもらわんとな、分厚い原典でだ、と言った、わたしは言った、筆写をするつもりもありませんし古事記を読むつもりもありませんし先生の言葉を耳に入れるつもりもありません、ここでワ行の女生徒が叫んだ、先生わたしから自己紹介を始めますわたしから自己紹介を始めますから不毛な言い争いはやめにしませんか、古狸パンダは厳粛な態度で応じた、ワ行のきみから自己紹介をはじめなさい、ワ行の女性徒は教室の角から自己紹介を始めた、わたしはこれまで自己紹介をいつも最後にしてきましたが最初の自己紹介はおそらく人生最初で最後になると思いますからとても幸せな経験ですわたしは犯罪心理学の研究者になるために犯罪心理学専門書をめくっていつも勉強していますわたしたちの街の重大な問題である超魔王ひとさらい坂の怪事件に啓示を受けて犯罪心理学の道に進むことに決めました不正な行為というのは常に不正な考えを持つ者によって行われますわたしはその不正に立ち向かうためにいつも犯罪心理を見抜くように心がけています皆さん犯罪者的な性格を持った人間が身近にいたり日常生活で困ったりしたことがあったら遠慮なくわたしに相談してください、とワ行の女生徒は教室の全生徒の拍手喝采を浴びながら言い終えたのだった、わたしはクラス全員の自己紹介が終わった後、ワ行の女性徒を筆頭にして陰惨なイジメを体験し続けたしワ行の女性徒は犯罪心理学の研究者を目指しているのではなく快楽至上主義であると言っても差支えない深山幽谷に遊ぶだけの美学研究者を目指しているただの芸術かぶれの女だったのだ、ワ行の女性徒は足の裏から頭頂部に至るまで人を小馬鹿にすることに長けた芸術かぶれの女だったのだ、と逆向きの時計が午前零時を指している映像を見ながらわたしは言っていた、映像からは逆回りの時計が時間を逆行させる静かな音が鳴っていたし、市場原理主義者たちの手になる宅地造成計画でこの高校もいまは廃校になっていることにわたしは少なからぬ安堵を憶えて高校時代の独白を終えようとしたまさにその時、病室のドアをノックする音が聞こえた、お入りしてよろしいでしょうか、と今度は一回目の看護婦とは別の看護婦の声が聞こえる、わたしはどうぞ入室なさってください、とだけ答えた、看護婦はわたしに尋ねた、高校時代の記憶を吐き出すのはいかがですか、わたしは答えた、ええ手順に沿ってやっていますが先ほど4歳ごろの記憶を吐き出す作業を終えてつづけて高校時代の記憶を吐き出し終えたところなのですが、なんといいますか、わたしの高校時代までの記憶というのは不幸に彩られているような印象を持ちました、いまでは不幸という認識を持っていないのですが、こうやって吐き出してみると明らかに不幸な状況を経験してきたような気がします、看護婦は答えた、よくあることですよ不幸を忘却するために自己愛を高めることで精神的防御力を高めるということはねわたしは正規の仕事を終えたあとや休日を使って自己愛促進運動を陰ながらやっているんですよ自己愛に目覚めていなかった人たちが自己愛に覚醒してくれてわたしも嬉しいし覚醒者も喜んでいますもちろんわたしも自己愛性パーソナリティ障害者です、わたしは言った、あなたのおっしゃるように不幸を忘却するために自己愛を高めることで精神的防御力を高めるというご発言に対してわたしは全面的に賛同しますしかしどういうことですかここは自己愛性パーソナリティ障害回復のための施設でしょうその反対の活動をする看護婦というのはちょっとまずいんじゃないでしょうか、看護婦は言った、自己愛性パーソナリティ障害とは無関心型と過敏型に大別されるのですよ5つのサブタイプもございますけれどねわたしはさしずめドンファン性格者でしょうけど、わたしは言った、たしかにあなたはエロティックだし多情型のナルシストというような雰囲気を持っている、看護婦は話を戻して言った、あなたの高校時代の具体的な不幸はどのようなものだったのでしょうか、わたしは簡略にまとめて言った、クラスでの自己紹介を逆順にして壮絶なイジメの日々にあっていたのです、看護婦は言った、あなたが自己紹介を逆順にする力強い告白をしたときわたしはあなたの力強い宣言を上の教室で聴いていましたわたしはワ行の女性徒が自己紹介をしたときちょうどワ行の女性徒の机の位置から真上にあたるあなたたちの一学年上の教室で犯罪心理学を勉強しては挫折を繰りかえしている女子高生でしたわたしは犯罪心理学の研究者を目指すことをあきらめ看護婦になりましたあなたを壮絶なイジメに追い込んだワ行の女性徒はわたしのファンだったみたいだからわたしの話を持ち出したのでしょうね、わたしは看護婦に尋ねた、さきほど4歳ごろの記憶を吐き出す作業をしているときの看護婦もこのような同じような似たような会話パターンをもってわたしに接していたような気がします不思議ですわたしの不幸な体験をあらかじめ知っていたかのような調子であなたたち看護婦はわたしに接しているしわたしの生活圏内に存在していた気配がなぜこうも濃厚であるのかわたしには当惑する他ありません悪夢でも見ているのですかわたしは、看護婦は言った、幻覚や幻聴それから悪夢ではありません当施設は自己愛性パーソナリティ障害者を完全完治つまり根治させるための施設です患者にとってもっとも適切とおもわれる看護婦が記憶を吐き出すごとに経過観察をするだけの話です、わたしは言った、そのもっとも適切とおもわれる看護婦というのはどこからやってくるのですかわたしが記憶を吐き出すごとにもっとも適切とおもわれる看護婦がやってくるのはなにか特殊な看護婦送り出し体制そうですなにか特殊な看護婦送り出しシステムとでも言うべきものが存在しているのではないのですか、看護婦は答えた、あなたは自己愛性パーソナリティ障害を克服するために過去の記憶を独白してもらっています独白は整理ですから整理は自己愛を固形物のように見せてくれますからあなたもその力を感じているはずですその独白を傍受する数十万名からなる看護婦傍受システムがありますその看護婦の中からひとりの看護婦が選ばれてあなたの過去の記憶に応じたもっとも適切な看護婦が派遣されてやってきます、わたしは言った、なにを言っているんだわたしの過去の記憶に都合のいい看護婦がすぐに用意されて病室のドアをすぐにノックするなんてまずありえない、看護婦は言った、お忘れですか無理もないかもしれません病室に幽閉されている間まともな情報摂取をあなたがたは行えていませんからねいま現在の日本の自己愛性パーソナリティ障害者の数は成人の半数を占めるほど増加してしまったのですよここ福岡市は自己愛性パーソナリティ障害回復特別都市に指定されています自己愛性パーソナリティ障害回復を早急に遂行しなければ経済活動への損失が著しいという政府の公式見解も出ておりますから福岡市には自己愛性パーソナリティ障害専用の医師と看護婦が高給与ということも手伝って集結しているのです自己愛性パーソナリティ治療特別地区がここですから、わたしは言った、なぜこうもわたしの人生圏内に近い看護婦そうきみのような看護婦が実際に存在するんだ、看護婦は言った、人間のつながりというのはそこまで遠くはないということではないのでしょうかわたしはこの仕事をはじめてそのことにいつも驚いていますが驚きとともに人間のつながりがけっして遠くはないということを日々確信していますしこの確信が減ることはないように感じています、わたしは言った、この後の独白後にもわたしにもっとも適切な看護婦がやってくるのですか、看護婦は言った、はいそうです、わたしは言った、あなたはわたしにとっていったい何がもっとも適切だったのだろうわたしはあなたがどのようにわたしに適切だったのか考えてみてもわからない、看護婦は言った、あなたの過去の記憶の独白のステージにもっとも奇妙な近さで存在したからではないのでしょうか、わたしは言った、あなたはあのときのわたしの高校時代のわたしの自己紹介の発言を聴いていましたと言いましたねどのようにお感じになりましたか、看護婦は言った、自分の思考を信じて発言するということあの状況で言えば自己紹介を逆向きにするという勇気ある行動を取られた素晴らしい発言だったと思います、わたしは言った、なぜそこまでわかっていながらあなたはわたしを助けてくれなかった、看護婦は言った、わたしはあなたと逆にわたしみずから率先してワ行から自己紹介を始めたことで完全変態扱いされあなたと同じように壮絶なイジメを経験していたのです、わたしは看護婦の言葉を聴いたあと無言になってしまい、看護婦は言った、わたしは孤児院によくお花を届けにいっていましたがそのときからあなたを知っていますよ、わたしは言った、そこまでわたしを知っていたのですか、看護婦は言った、これからまた孤児院にお花を届けに行くんです、わたしは言った、もうどれくらいになるんだ、看護婦は言った、わたしたちの土地に超魔王ひとさらいがあらわれてからずっと毎日新鮮なお花を届けています、わたしは言った、そうですか、看護婦は言った、そろそろ次の独白手順書に従ってください、と言って病室から去って行った、わたしはこの看護婦にもまたナイチンゲールの靴の足音に似たものを感じ、ゆっくりと憂愁の情に包まれていることを自覚していたが、なぜか砂の少女とワ行の女性徒がわたしの心中で螺旋状に回転融合しながらわたしの身体の中で暴れまわっている幻覚に陥り、わたしは独白を一時休止し、病室で仮眠を取るために電気のスイッチを消した、暗室になった病室は音響がなにも聞こえずわたしの耳には幻聴と化したナイチンゲールの靴の音が木霊し、わたしは母の廃人になった砂場の横顔を思い返していた。

 完全な暗闇から目覚めたわたしは、まだナイチンゲールの靴の音が頭の中で鳴り響いていることに気付いたが、驚いたことに目の前に超魔王ひとさらい坂で数々のこどもをさらっていった露出狂の黒マントの大男があのときの砂の少女を腕に抱えてわたしの前に立っていた、わたしは黒マントの大男に尋ねた、砂の少女を返すんだいますぐに返すんだそして母と父を返すんだ、黒マントの大男は言った、おまえの母と父は返せない砂の少女ももちろん返せないそしておまえ自身ももうあのころを取り返せないおまえは何も取り返せないおまえは自己愛のただなかで何も取り返せない取り返せるのは恥辱にまみれた過去の記憶だれもがみな不幸な記憶だけを取り返すばかりだ幸福の記憶はだれも取り返さないわたしは幸福の記憶を取り返そうとした人間をみたことがない記憶の性質は不幸をもとに作られているのだ人間は不幸を取り返すことによろこびを感じるのだおまえが取り返せるのは物語の残骸あざやかな不幸の物語の残骸だけだ自己愛の繭の中で眠り続けるのだおまえは甘美な自己愛の繭の糸を自己愛の繭のなかで紡ぎ続けるのだおまえはおまえはわたしに触れることもできない発見することもできないただ遠いただ遠い存在として見つめるしかないのだ

 わたしは悪夢から目覚めたが、悪夢に出現した黒マントの大男の鮮烈なイメージが頭から離れず、これ以上独白を続けることに精神の危険を感じて次の独白手順書を開こうとはしなかったし、わたしの人生圏内に恐ろしいほど近しい存在である看護婦が独白をするたびごとに次々にわたしのもとへと召喚されるという不気味さにも嫌気がさしてやがて虚脱症状を頻繁に起こす体質になってしまった。わたしは自己愛性パーソナリティ障害回復特別地区から脱出し、別の医療施設で自己愛性パーソナリティ障害回復治療を図った後、それでもいまだナイチンゲールの靴の音が鳴りやまないためどうせなら本場のナイチンゲールの国で生活しようと考え、聖トーマス病院のナイチンゲール博物館の清掃員として働いている。ここには本当の白衣の天使たちとランプの天使たちがおり、だれもわたしの深い来歴を知りもしない、完全な精神の自由をわたしは手に入れていた、だが不思議なことに孤児院に花を届けていた看護婦の名で聖トーマス病院のナイチンゲール博物館宛に花が毎年届いてくるのだ、わたしはいつも花を捨てようとしたがナイチンゲール博物館の清掃仲間たちは言った、ANTIさん花を捨て去ってはいけない花は飾らなければならない花は必要な場所に落ち着かせなければならない、とわたしを説得するほど花を捨て去ることに禁忌を感じているらしくわたしから花を取り上げてかれらの民族の墓石に花を捧げるのだった。わたしは孤児院の厳格な教育制度により母と父に花を手向ける時間的猶予を持っていなかったし、母と父の墓の場所も知らないので、民族の墓石に花を捧げるかれらを見ていて羨ましさを感じていた、と考えているとナイチンゲールの靴の音だけが強く頭の中で鳴り響きはじめるのであった、父の存在は頭の中でほとんど鳴らず、たまに超魔王ひとさらい坂での虚無そのものである上昇下降ドライブが頭に浮かぶくらいで、父の存在は儚く薄められているのだった、なぜかナイチンゲールの靴の音だけがわたしの不幸な記憶の中で褪せることなく鳴っているのだ、わたしはナイチンゲール博物館の来客の足音に耳を澄ませながら来る日も来る日も博物館内の清掃に精を出している、わたしは奉仕の精神を学びながら自己愛の独白にあふれた日々を消去していた、だがナイチンゲールの靴の音だけは生涯消えることはないだろうと幽愁にとざされながら今日も悪夢を、ナイチンゲール博物館の清掃員としての純白な生活を裏返す悪夢を、悪夢そのものを毎夜見るのだし、悪夢そのものの中ですらナイチンゲールの靴の音が高く澄んだ音で鳴っているのだし、わたしをふくめて誰もこの音を消すことはできないのであった。

ナイチンゲールの靴の音

ナイチンゲールの靴の音

短編32枚 形式:一人称

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-10

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