practice(157)
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コートの内ポケットを縫い直して貰っている間,そこから発見された紙に書かれていたことを頭から順番に読み返して,いつの日に頼まれた事だったかを思い出すことが当然に叶わずに,新たに淹れた一杯とともに苦い思いをして,丸椅子に座り直した。牛乳,チーズ,ハムに卵。朝食に用いそうなラインナップな上に,当時に戻って買って来たら,痛んで仕方がない。引っ張り出すまで,黙り込んでいたクローゼットの奥の衣装ケースに恨み言の一つも乗せてやりたいところだが,手際よく中身もすっかり変えられて,新しい顔して,新たな季節を待っている。温かくてなるまでのしばしの別れ。名残惜しい,なんて気分に浸ることはない。当面の問題はあるのだ,出かける前に。卵にパン。ブルーベリーにお菓子。メモごときでは隠せない,顔を上げれば目に入る。依頼者である,発見者。淀みなく,ちくちくと動く目の前の針は,しかし何も言わない。
「すまんな。いや,すまんかったな。」
「まだ出来てませんよ。」
足りなくなった糸を鋏で切り,糸を伸ばして,針の間に通そうとする目は,大きく瞬いて,それからすっと,そこに通した。あっという間に結んだ,らしい。どうやったか,が相変わらず,さっぱり分からないが,器用な手先は衰えていない。黙って怒るところも,きっとそうなのだろう。
「集中力は,やっぱり落ちますね。」
そう言って,息を吐く。過ぎた年月が再び顔を出す。忘れたその日は,はて,何時の日だったか。
「いや,これだ。これ。」
と,ぴらぴらとさせた。最後を締める,『ネギ。』の文字が天井の灯りに透ける。
「はい?」
と言って,妻は顔を上げた。ああ,という顔をして,
「私だって,いつのことだったか忘れましたよ。」
と言った。それからまた,針が動いた。チクタクが重なる。電池の予備が,あったかどうか。メモには見当たらない項目。丸椅子の上で膝に手を置いた。紙がかさっと,生地を擦った。
立ち上がり,ごみ箱に捨てる。
「すまんな。」
丸椅子とともに,また座った。コートの袖がだらんと伸びていた。皺がつきにくいところが,上等だ。
「同じやつ,買ってくるか?」
冗談とばかりに言ってみた。
「要りませんよ。」
と続けて,食べたでしょう?と,返事が来た。冗談は冗談とならずに,見てもわかるぐらいに,内ポケットは直っていく。相変わらず器用だと思う。私に出来ないのだから,尚更だった。
針がくるっと回る。
「はい,気を付けて下さい。」
針がくるっと,もう一度回った。固く止められたのは結び目と,口をついて出た,好きなものを買って来るという約束だ。
さて,どうだったか,それだったか。探りのため,出かけ前に,何気なくそう口にする度胸と技術が手許にない。
箇条書きで思い出すことは,たくさんだ。ともども美味しく。それでいい。
practice(157)