モノクロの奏者   Ⅰ部 楽器職人

クラ

中世~近世ヨーロッパを舞台にしたファンタジー小説です。具体的には1600年代頃をイメージしていただけると良いかと思います。よろしくお願いします。

プロローグ

 夕方の広場には、今日も同じメロディーが流れている。揺れる木々の音に溶け込みながら、歩く人々の心に安らぎを与えてくれる重低音のコントラバス。自然と耳に入り込んでくるような、静かで優しい音色だ。

「あら、まだここで演奏していたのね」
「そうみたいね。私たち半年前に来て以来だけど、いつもこの時間帯にやっているのかしら」
 広場を行き交う女性二人が、そう話していた。

 ここは誰もが自由に使って良い公共の広場であり、時には騒がしいほどにもなる場所だ。しかし、どんな状況であろうとも、彼はその騒ぎに混ざろうとはせず、ましてや演奏する彼に話しかける者など誰一人としていなかった。

 彼はコントラバスを立って演奏しながら、瞳を深く閉ざしていた。
 そのため、気がついていなかったのである。演奏する彼の前に、一人の幼い少女がいたことに。
 長い一つの曲を弾き終えると、彼はゆっくりと目を開いた。そして、少女と目が合った。
 数秒の沈黙の後、彼は穏やかに尋ねた。
「……お嬢さん、どうされましたか」
 自分とは違う、育ちの良い少女だと一目で判別がついた。身なりから予測すると貴族の子かもしれない。
「演奏、上手だね」
 その少女は、にっこりと笑ってそう言った。
「聴いていてくださったのですね。ありがとうございます」
 彼は微笑み返しながら、丁寧に礼を述べた。
「また、聴きに来るね!」
 少女はそう言うと、手を振りながら駆け足で去って行った。
 彼はその後ろ姿を眺めながら、ありがとう、と心の中で呟いた。


「お母様!広場で演奏していた人、とても上手だったのよ!」
 少女は眠りにつく直前、夕方に出会ったコントラバス奏者の話を母親にした。
「ティフェーナ……。知らない人と話をしてはいけません」
 母親は、厳とした態度で娘にそう言い聞かせた。
「どうして?あの人、いい人だったのに」
「たった一回話をしただけで、そんなに軽く人を判断するものじゃありません」
 すると、この部屋に家政婦の女性が入ってきた。
「奥様。そのコントラバス奏者の事でしたら、知っております。……ただただ楽器店で働く駆け出しの若者でございますよ」

1 接待

 街の一角にある楽器店“avec (アヴェク)des() cordes(コード)”では、相変わらず真夜中になってもランタンの明かりが灯っていた。
 翌朝、仕事に追われたクレイドが目を覚ましたのは、既に人々が活動している昼間であった。一睡もしていないという状態だけは避けられたものの、さすがにほぼ徹夜で楽器の修理をしていたため、この程度の睡眠で疲れを完全にとることはできなかった。修理にかかる予定日数を大幅に越えてしまい、結局、昨日の夜中までかかってしまったのだ。
 修理を依頼してきた男性が今日の昼頃来訪する予定になっていなければ、こんなに焦りもしなかったのだが。
(食事は朝昼兼用にしよう……)
 クレイドは、とりあえず何か食べておこうと思い、パンを戸棚から手に取った。
 その時。入口の扉を叩く音がした。まだ『open』の看板を外に出していなかったが、もう依頼人の男性が来てしまったのだろうか。
 クレイドは仕方がなく空腹のままドアに向かった。

「あの、看板がまだ出ていなかったのにすみません。実は、僕のヴァイオリンの弦が切れてしまいまして……」
 そこに立っていたのは、見たところ15歳前後の少年であり、新たな依頼人であった。緊張しているのか、おどおどした様子だ。そんな思いをしてまでこの店のドアを叩いたのだから、一大事なのだろう。
「いえ、構いませんよ。急ぎの用事でしょうか」
「は、はい。実は明日、ヴァイオリンの演奏会があって……」
 焦っているのか、少年はいかにも余裕のない表情をしている。
「分かりました。実は、もうすぐ他のお客様がいらっしゃる予定なので、少し待っていただけるのであれば、すぐに新しい弦にお取り換え致します。1時間ほど待っていただく事になるかもしれませんが……」
「か、構いません!ありがとうございます!」
 少年の表情が、安心したようにぱっと明るくなった。
「では、先に楽器をお預かり致しますね。奥に部屋がありますので、どうぞご自由に休んでくださって構いません。……まぁ私的な部屋なので、あまり綺麗な場所とは言い難く申し訳ないのですが。今、何か飲み物をお出ししますので」
 クレイドはそう言い、少年を奥の部屋へと案内した。
 少年は少しぎこちなさそうに椅子へと腰かけた。客人として扱われることに慣れていなさそうな印象を受ける。
「こんな、わざわざすみません」
「いえ。申し訳ございませんが、少々お待ちください」
 ホットミルクをテーブルの上に乗せると、クレイドは一礼して作業場へと戻った。

 その後、予定通り依頼人の男性が楽器を取りに店を訪れた。
「お預かりしていたヴィオラです。修理させていただきました」
 クレイドはそう言い、楽器を男性に手渡した。
「おぉ、ありがとう。助かるよ。お代は……?」
 当然のごとく男性は金額を尋ねた。
「代金の前に、少し弾いてみてください。もし納得がいかないようでしたら、お代はいただきません。または、無料で修理し直します」  
 その言葉に男性は驚いた。そこまで自信があるのか、と。
 しかし、クレイドに弾くよう促されたため、男性は試しに弾いてみる事にした。

 ヴィオラの音が室内に響いた瞬間、男性はすぐに弾く事をやめた。
「気に入らなかったでしょうか……?」
「違う、これはすごい……!こんなすぐに実感できるとは思わなかったが、最初の時よりも格段と良くなっているよ!音も弾きやすさも全て!」
 とても興奮した様子で男性は自分の楽器を見つめた。楽器に何を施されたのか、理解しきれていない様子である。
「喜んでいただけて、私も嬉しい限りです」
 そうして、クレイドはようやくここで銀貨二枚を受け取った。これは妥当な金額だろう。
 男性は楽器を手に、喜んで店を出た。

 その後、クレイドは少年のヴァイオリンの修理に取りかかった。これから古い弦を新しい弦に張り替える作業が必要になるだろう。
(今まではあまり良い弦を使っていなかったんだな……)
 弦の張り替え程度であればクレイドにとっては手慣れたもので、作業そのものはすぐに完了した。その後も入念にヴァイオリンの状態をチェックして、特に気になる点があれば、万全の状態で演奏会に臨むことができるようにと楽器の微調整していった。当然、その分の代金を取ろうとは考えていない。

 クレイドは楽器の修理が終わると、少年の元に楽器を持って行った。
「お待たせしました。どうぞ、試しに弾いてみてください」
「はい!ありがとうございます!」
 少年は立ち上がってヴァイオリンを受け取り、左肩に構えた。
 そして、恐る恐る簡単な音階を弾き始めた。
「な、なんか、音まで変わった気がします!」
「少し気になった部分がありましたので、少し調整してみました。もちろん代金は取りません。こちらでいかがでしょうか」
 クレイドは人差し指を一本、ピンと伸ばした。
「あ、あの……。安い気がします。いいんですか?」
「えぇ、単にお金を取るためだけに仕事をしているわけではありませんから」
 クレイドは少年に微笑んだ。
「あ、ありがとうございます!」
 少年は笑顔になると、懐から一枚の銀貨を取り出した。クレイドは少し慌てたように首を横に降った。
「あっ、いえ、銅貨の方で」
 さすがに少年は戸惑った様子で「でも……」と呟いた。
「お願いできませんか?」
 クレイドが改めてそう言うと、少年は渋々頷いた。申し訳なさそうに取り出した銀貨を戻し、代わりに銅貨一枚を出す。
「本当にすみません。ありがとうございました」
「お気になさらないでください。こちらこそ、ありがとうございました。ぜひ、演奏会を成功させてください」

 そうしてまた一人、客が帰って行った。

2 演奏

  “avec (アヴェク)des() cordes(コード)”は、いつも日没と共に閉店している。今日もようやく一日が終わり、クレイドは店の外に『close』の看板を掲げた。

「今日もお疲れ!!」
 そう言って、いつも唐突に店のドアを開けて入り込んでくる男性。
 しかし、彼が中を見回してもこの作業場の中には誰もいなかった。明かりは全く灯っておらず、壁に並ぶように吊るされたバイオリンが不思議と悲壮感を漂わせている。作業台の上には作りかけのヴァイオリンが置かれており、他に何か目につくものと言えば、箱の中に丁寧に保管されている使い込まれた工具や楽器の部品ぐらいだろう。
「どこだー?」
 そう言って、この男性は店の中を歩き回る。
 しかし、耳を澄ませても返事が聞こえてこないため、さらに彼は奥の部屋まで無断で足を踏み入れていく。

 そして、ようやく見つけた。男性が探していた人物は、奥の部屋にあるソファーの上で眠っていたのだ。
「誰だ……?」
 その人物は目を覚ましたようで、少し気分を害した様子であった。
「おぉ、クレイド。起こしてしまったか。悪いな、ちょっと一緒に楽器弾こうかと思ったんだけどさ」
 悪いと言いつつも、この男性は本心で悪いと思っていないような口調だ。しかし、言われた側であるクレイドも特に気にしていないようで、
「いや……。ただ、疲れたから休んでいただけ。まぁ楽器弾きに来たなら、少しだけ相手してあげるよ。どうせ来ると思ってたし」
とぶっきらぼうに淡々と述べた。
 そしてクレイドはソファーから立ち上がると、作業場へと楽器を取りに向かった。
「ロディール、お前は何の楽器を弾きたい?」
 クレイドは作業場の方からその男性に尋ねた。
「ん~。じゃあ、クラリネットにしようかな~!」
 ロディールはやや冗談めかした口調で、そう返事をした。作業場からはクレイドの不服な声が漏れた。
「おい、ここは弦楽器専門だぞ。クラリネットが吹きたいなら、自分で持って来るんだな」
 ロディールの意見は、クレイドによって簡単に弾き返されてしまった。
「うん、ちょっと言ってみたかったんだ。……よし、じゃあ俺はチェロかコントラバスだな」
 ロディールが何もなかったかのようにそう言うと、
「あっ、待て。それは俺が……」
とクレイドが突然戻ってきて割り込んだ。
「えー、たまには俺もやりたいんだけどなぁ。お前、少しぐらいヴァイオリンやヴィオラも弾いてやれよー」
「あまり得意じゃないんだ。分かってるけど……」
「よーし、じゃあ俺の命令として、お前がヴァイオリン。俺はチェロだ」
 ロディールが勝手に話をまとめようとした。
「な、何で俺が命令されるのさ……?」
 クレイドは突然のごとく不服気味である。
「年下だからだな。一番納得いく理由だろ?」
 間髪を入れず、ロディールは即答した。
「何それ、年齢は関係ないだろ。……んで?何の曲弾くの?」
 文句を言いつつも、クレイドは渋々承諾したようで、ヴァイオリンとチェロを準備し始めた。
「曲は……。そうだな、何かワルツでも弾いてくれ。俺はそれに合わせて弾くからさ」
「何でもいいのか?ワルツなんて、耳で聞いただけの曲ばかりだから、上手く弾けないぞ……?」
「大丈夫大丈夫っ」

 そして、クレイドはヴァイオリンを構えて弾き始めた。得意じゃないと言う割に、コントラバスに劣らず良い音を奏でてしまうのが、まさに才能といえよう。
「……だから嫌なんだよなぁ~。裏切り者~」
 ロディールは、ぼそっと呟いた。少々ため息をついたあと、彼もチェロで滑らかな低音でハーモニーを乗せていった。

 夜の街に、店から弦楽器の音色が微かに漏れていた。二挺の弦楽器が奏でる壮大で優雅なワルツが。

3 雨の日の客人(1)

 今日は朝から雨が小降りであった。雨と聞けば好む者も嫌う者もいるだろうが、クレイドはその雨に対し、どちらにもいえる感情を持っていた。
 太陽が灰色の雲に覆われた雨空は暗く、このような曇天下では朝でも街灯がほのかに街を照らす。その薄暗い雰囲気は、気の張った慌ただしい日常から解放させてくれるような感覚になる。
 では、雨の何が嫌いなのか。それは、楽器の状態が普段より悪くなってしまう事だ。雨の降る日は気温が低くなるうえ、湿気が多い。まだ冬でないだけ良いものの、気温が低くなると音程が平均的に高くなる。職人として、楽器の状態が悪くなるのはやはり難点といえた。
 さらに、雨の降る日は客もなかなか入らない。わざわざ悪天候の日に楽器を直しに持って来る人は滅多にいないからだ。もし来る人がいるとするならば、よっぽど急ぎの用事があると解釈せざるを得ないだろう。

 クレイドは、二階の部屋の窓から一人で街を眺めていた。この位置から見下ろすと、あちらこちらに街灯が灯っていることに気がつく。窓ガラスに雨が当たっては流れ、それが繰り返されて、まるで外の景色は窓枠を額縁としたモザイク画のようであった。
(雨が強くなったな……)
 クレイドは、『open』の看板をまだ店の外側に向けたままであることをふと思い出した。
 一階へ続く階段を駆け足で降りて行き、玄関のドアを数センチほど開け、雨が大降りになった事を実際に確認した上で『close』の看板を掲げた。
 その後、クレイドは一階奥側のキッチンへと向かい、既にぬるくなったお湯でコーヒーを注いだ。
(もし雨が止んだら、後で外にでも行って弾こうかな)
 実際のところ、今日はあまり楽器を作りたいという気分ではなかった。当然、依頼があればやらざるを得ないのだが、幸運なことに今はそのような依頼も受けていない。さらに言うと、楽器ばかり作りすぎても、買う人がいなければ意味がないのだ。少しくらい仕事を休んでもバチは当たらないだろう。
 クレイドはコーヒーが入ったカップを手に持つと、ゆっくりとした歩調で二階へ上がった。

 相変わらず止むことのない雨を眺めながら黙っていると、クレイドは次第に眠気に襲われていった。
 この日に限らず、クレイドは普段から一人でいることが多いため、楽器に関する事以外で暇があれば、大抵寝ているような生活を送っていた。実際、それがまた気楽であったりもするのだが。

 クレイドは、今にも閉じてしまいそうな瞳で人っ子一人いない街を眺めていた時、向かい側の建物の角から人が歩いてくる姿を発見した。こんな大雨の中、人が外を出歩くのは珍しいことである。傘を差しているために性別までは判別つかないが、何となくこの店の方向へ歩いて来ているように見えなくもない。
 クレイドは表情こそ眠そうなままであったが、誰かがこの店に向かっているかもしれないと思うと、やや警戒心を抱かざるを得なかった。なにせ、クレイドはこの街を治安が良い地域であると認識していたため、普段は店に全く鍵をかけていなかったのだ。しかし、いくら治安が良いとはいえ、悪人が絶対にいないという保証はない。
 そう考えたクレイドは、再び駆け足で一階へ向かうと、久々に玄関のドアに施錠したのであった。
(別に来ないなら来ないでいいんだし……)

 ところが、否応にしてドアを叩く音が聞こえてきたのだ。『close』の看板を出しているにも関わらず、間違いなく誰かがドアを叩き続けているのである。
 なかなか強情な客なのかもしれないと思いながら、クレイドは慎重にドアへと近付いていった。できることなら、そのままドアの向こうの人物が諦めて去ってくれるのを待ちたいが、もし客人であるならば開けないわけにはいかないだろう。
 クレイドは仕方がないと気持ちを割り切り、とりあえず二センチほどドアを開けて、その細い隙間からその人物の様子を覗いてみた。
「楽器の修理でしょうか……?」
 そこに立っていたのは若い女性であった。服装を見る限りクレイドと同じ一般人のようで、特に着飾った様子もなく、むしろ地味な印象を受ける。どうやら彼女は楽器なども持って来てはいないようで、クレイドはすぐに修理の依頼ではないと理解した。
「そ、そうではなく……。その、実は……」
 この女性はどこか焦っている様子で、疲れ果てたような表情をしていた。よく見ると、彼女が手に持っている雨傘も骨組みが一部折れているらしく、所々歪んでいた。
 これはまず話を聞かなければならないだろうと判断し、クレイドはドアを開けて女性を中に招くことに決めた。
「とりあえず、お寒いでしょう。中にお入りください」
 女性は申し訳なさそうに深々と頭を下げると、傘を閉じて中へ入った。
「ありがとうございます」
 そうして、クレイドは女性を店の中へ通すと、一階の奥の部屋に案内してソファーに座らせた。
 クレイドは新しいカップにコーヒーを注ぎ、そっと女性に差し出した。そして、向かい側の椅子にクレイドは座った。
「すみません、これくらいしか飲み物がなくて」
「とんでもない、こんなに珍しいものをすみません。ありがとうございます」
「たまたま手に入れやすかっただけですよ。……落ち着いたらで構いませんので、用件をお話しください。力になれる事があれば、協力させていただきます」
 その言葉を聞いた女性は静かに頷き、コーヒーを一口飲んだ。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「本当にありがとうございます。私は、リューヌ・セジュールと申します。イルスァヴォン男爵家に仕えている使用人でございます。
 実は、イルスァヴォン男爵家には非常に高価なヴァイオリンがあるのです。ただ、それが貴族世間一般では、呪いのヴァイオリンであると有名になっており、現在では誰も弾く者がおりません。男爵様は、そのヴァイオリンがあるために、貴族としてのご自分の立場を気にしておられるのです。どうか、そのヴァイオリンに呪いなどない事をあなたに証明していただきたいのです……」
 リューヌと名乗った女性は、視線こそクレイドに向けていたものの、あまりにも生気のない暗い表情をしていた。
 クレイドは、話の概要についてある程度理解したが、当然ながら今の話を聞いただけで安請け合いをすることはできなかった。
「なるほど、お話は分かりました。ですが、どのように証明すれば良いのでしょう……?私は呪術については全く分かりません。なぜ呪いがあると言われているのです?過去に何か起こったのですか?」
 クレイドは、呪いというものの存在を特に否定するつもりはなかったし、だからと言ってそれが怖いとも思わなかった。世間一般に敬遠されがちな魔女などの類いかもしれないし、もしそうだとしても、実際には魔女が普通の人間であるという噂もよく耳にする。気がおかしくなった人間たちが、ただ単に呪いだとでっち上げをしている可能性だって大いにありうるのだ。
「証明する方法として、あなたに楽器を弾いていただきたいのです。私は、呪いは存在しないと思っています。以前、少し事件に巻き込まれただけで、大騒ぎするほどの事じゃないと思っています。貴族は、単にそういうのが好きなだけなのです」
 事件、か。呪いなどそれほど気にしていなかったはずだったが、曖昧な表現で話すリューヌの言葉にクレイドは少しばかり不安になった。
「具体的にお願いできますか?さすがに、少し心配ではあるので……」
「はい。それは、200年前に起こった事件です。当時のイルサヴォン男爵邸で、男爵様本人がヴァイオリンの演奏会を開催なさっていた時なのですが、貴族の一部が剣を抜いて乱闘騒ぎを起こし、その標的にされて殺されたのです。その時に男爵様が弾いていたヴァイオリンが、現在呪いのヴァイオリンと言われているものなのです」
 それを聞いたクレイドは驚きもせず、ただただ繰り返し頷き続けた。無理やり自分を納得させるように。
「なかなか古いヴァイオリンなのですね。へぇ、なるほど……。殺されたということは、当時の男爵は誰かに恨まれていたのですか?」
 少し状況を整理しなければ。演奏中に殺されて、それが呪いに繋がっているということか。残念ながら、それだと確かに合点がいく。
「いえ、私は単に男爵が音楽好きだったとしか聞いておりません。ただ、当時の男爵は音楽の事ばかりで周りの貴族とは生活も全然違っていたようですから、それが殺された原因の一つといえるかもしれません。当時の貴族には、まだあまり音楽を楽しむ習慣がありませんでしたからね」
「そうですか……。確かに、何もないとは言い切れないですよね。音楽好きの当時の男爵にも、様々な想いがあったのでしょう……。今の男爵は、そのことを非常に気にされているのですよね?」
「はい。長い間、外に出られないほど体調を崩しております」
 一般人が爵位を持つ貴族に対して持つような感情ではないのかもしれないが、クレイドはその男爵のことが少し不憫に思えた。
「そうでしたか。……では、あと一つお聞きしたいことがあるのですが、その後は誰一人としてそのヴァイオリンをお弾きになられていないのですか?」
「いえ。それが、100年ほど前に誰かが一度弾いたらしいのです」
 これはクレイドにとって予想外の回答であった。呪いと言われながらも、そのヴァイオリンを弾いた人物がいたということか。
「その方は大丈夫だったのですか?」
 なぜかこの質問にリューヌは少し戸惑った様子を見せた。
「……実は、亡くなったようです。弾いた一週間後に。ですが、ヴァイオリンのせいじゃないと私は思っています。以前から病弱だったようですし」
 不意にクレイドは顔をしかめた。たとえリューヌが呪いのせいではないと言ったとしても、さすがに気になるではないか。たまたま一週間後にその人が亡くなったのかもしれないが、殺人事件の話を聞いた後に言われても説得力に欠ける。
 クレイドはティーカップの中のコーヒーを見つめていた。
 しばらく沈黙が続いたが、ようやく自身の考えがまとまったところで顔を上げた。リューヌはやや不安そうな表情をしていたが、一方のクレイドは彼女の目を見ながら真剣な態度で話し始めた。
「もし、呪いと言われる事でそのヴァイオリンが一生弾かれることがないとしたら、それは私の立場的にも悲しいことです。そして、あなたがお仕えする男爵の体調も当然気掛かりです。ですので、その依頼をお引き受け致しましょう」
 結果がどうなるかは分からないが、やるだけやってみようではないか。そうクレイドは腹を括ることにした。
 その言葉を聞いたリューヌは、ホッとしたように口元を綻ばせると、頭を深く下げた。
「本当にありがとうございます」


 ふと気が付いた頃にはもう昼をとうに過ぎていたが、まだ雨は止みそうになかった。外で楽器を弾くことは既に無理だろうと諦めていたとはいえ、建物の中にいても雨音が聞こえてくるほどの強い雨が降っているらしく、外の暗さも相俟って何だか気分まで陰湿になってしまいそうであった。
 その後のリューヌとの話し合いの結果、明日、イルスァヴォン男爵邸に向かう事になったのだが、クレイドはそこまで迷信深くはないものの、呪いと言われるとさすがに気が張ってしまいがちであった。
「あの、今日はこの後どうされますか?まだ雨は止みそうにありませんが……」
「そうですね、この近くに宿屋があれば……」
「帰る予定がないのであれば、今日はここに泊まっていただいても構いませんよ?明日また来ていただくのも申し訳ないので。豪華な食事はお出しできませんが……」
 当然、強引な引き止めをするつもりは全くない。クレイドがそう言ったのは、金銭を支払ってわざわざ宿屋を探すくらいなら、自分が無料で部屋を貸す方が安く済むという単純な考えからであった。
「よ、よろしいのですか?むしろ、申し訳ないぐらいです。せめてもの、私がお食事をお作りしますので」
 客人に料理をさせるなど言語道断、クレイドは納得いくはずもなかった。
「それはいけません。きっと、お疲れになっているはず。これは与えられた休暇だと思って、一日ゆっくりとお休みください」
「えっと、でも……」
 リューヌは言葉に詰まった。一秒足りとも隙を見せることのないクレイドの対応に戸惑ってしまったのだ。さすがに馴れ馴れしい態度をされたら敬遠してしまうが、ここまで距離をとられては普通の会話をしようにも切り出しかたに悩んでしまう。
「……失礼ですが、年齢をお聞きしてもよろしいですか?」
 彼女が唯一思い付いた質問がこれであった。とはいえ、あまりにも唐突な問いかけであったため、さすがのクレイドもやや苦笑いをせざるを得なかった。
 ただ一つ確信できたことは、この質問によって場の空気が和らいだということだ。
 クレイドは、あえて自分から問いかけに答えず、逆に聞き返してみることを選んだ。この手の会話もよくある流れだ。
「いくつに見えますか?」
 リューヌはクレイドをじっと見ながら数秒考え、そして答えを出した。
「20代後半くらいですかね」
 その答えを聞いたクレイドは、一瞬不服そうに口をつぐんだ。
「そうですよね、よく言われます。場合によっては30歳前半ですよ?落ち着いているとか言われますけど、さすがに人を馬鹿にしているとしか思えません。本当は19歳なんです」
 クレイドが実年齢を告白した結果、リューヌは衝撃を受けたかのように目を見開いた。
「な、何で驚くんですか?」
 クレイドが純粋に困ったような表情を浮かべていると、その様子を見たリューヌは小さく笑みをこぼした。
「いえ、ごめんなさいね。少し予想外だったもので。普段からそのような年相応の態度だったら良いのにと思ってね」
 クレイドの年齢を知った途端、リューヌの丁寧な言葉遣いから敬語が消えた。
「そ、そんなことはできませんよ。お客様を相手に生活していますから」
 クレイドはそう述べた。それは確かにそうなんだろうけどね、とリューヌは心の中で思いつつ、言葉には出さなかった。
 すると、クレイドがふと突然思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、昼食は何が良いですか?」
 先程までの会話と全く脈絡がなく、ある意味で拍子抜けしたような質問であった。
 しかし、リューヌは特に気にもせず笑顔のまま答える。
「昼食?もしいただけるのなら、私は何でも構いませんよ。ありがとう」
 クレイドは頭の中で少し考えると、何か思い付いたのか、さっと勢いよく椅子を立ち上がった。
「では、パンケーキでも作りましょう!」
「手間がかかりません……?」
「結構好きなんですよ、こういうの。少々お時間いただきますが、大丈夫ですか?」
 料理が好きであるということは本当だが、実は、クレイドがここまで料理に乗り気になったことはほとんどなかった。というのも、誰かに料理をご馳走することがあまりなく、唯一あるとすれば仕事終わりに遊びに来るロディールに料理を出すくらいであった。
 リューヌも微笑みながら礼を言った。
「ありがとう」

 そうして、二人はクレイドの手作りパンケーキを食べた。リューヌも喜んでくれたため、クレイドとしても作った甲斐があったと心の底から思うことができた。
 豪華な料理を出すというのは、材料を揃えること自体が容易ではないため難しいのだが、ちょっとしたアレンジならば容易いこと。そもそもクレイドは手先が器用であり、よほど多忙であったり体調が優れない限りは、大抵料理を作る手間を惜しむことはない。

 その日の夕食についても、クレイドが料理を担当した。野菜を入れた簡単なスープと茹でたパスタ。あまり豪華ではないが、それほど高いお金をかけることができないのが現実だ。貧しくて毎日の生活に困り果てているわけではないが、ただ単にこの暮らしで十分満足しているのだ。貴族が羨ましいなどとは思ったことは一度たりともない。

「汚い部屋ですみません。何かあれば、一階か隣の部屋にいますのでお声かけください」
 クレイドは、二階の空き部屋をリューヌに一晩貸すことにした。掃除はしたつもりだったが、今はほとんど人の出入りがない部屋と化していたため、幾分埃っぽく、清潔感に関してはあまり自信がなかった。
 しかし、リューヌは相変わらず落ち着いた様子で、決して笑顔を崩さなかった。
「そんな事ありませんよ。本当にありがとう。お休みなさい」

 それから、クレイドは明日の準備をするために一階へ降りて行った。
(明日は、道具一式持って行くとして……。一応、店のヴァイオリンも一挺持って行こうかな)
 クレイドは作業場の机に向かいながら準備をしていたが、次第に眠気が襲ってきた。
 そして、そのまま机に突っ伏した状態で眠ってしまったのであった。

3 雨の日の客人(2)

 次の日、クレイドが目覚めると既に朝食が出来上がっていた。
「おはようございます。せめて朝だけでもお手伝いしようかと思って。勝手にすみません」
 やや驚いた表情をしているクレイドに、リューヌはそう言った。テーブルに置かれている朝食は、折り込み生地のパイとサラダ。一般庶民の朝食にしては、非常に手の込んだ料理だ。
「朝なんて、普段はパンだけで済ませてしまうんです。気を遣わせてしまったみたいで、むしろ申し訳ありません……。でも、ありがとうございます」
 クレイドは、誰かが作った料理を食べることが久しぶりであった。
 二人は席に付き、料理に手をつけた。パイを食べてみると、想像通り……いや、想像以上に美味しいものであった。
「美味しいです!料理がお上手なんですね!」
 クレイドは心からそう感想を述べた。
「良かった。そう言ってもらえて嬉しいです」

 さて、ようやく雨が上がったらしい。
 今日は男爵邸へ行くのだから、さすがに普段着の格好では失礼だろう。クレイドは、自分が持つ服の中で最も良質で綺麗な服を着て行かなければならないと考えていた。
 しかし、実際に探し出して着てみると、あまりの着慣れなさに違和感が全身を包み込んでいるようであった。スマートで小綺麗な格好ではあるのだが、どうにも馴染まない。だが、これも今日一日の辛抱だ。
「すみません、支度が終わりました。行きましょう」
 クレイドはそう言った。

 イルスァヴォン男爵邸までは、歩いて1時間半ほどらしい。ここ、スベーニュの街は道幅も狭く、クレイドの楽器店周辺は一般市民の多く住む郊外である。そのため、貴族の邸宅が建ち並ぶ街の中心部まで行くには少し時間を要すると見積もっておくべきだろう。
 しかし、昨日リューヌが歩いて店まで来たことを考えると、歩くことのできる距離であることには違いない。
 クレイドは慣れない靴に足を痛めながら歩いていたが、女性であるリューヌがきびきびと歩き続ける姿を見ると、さすがに自分が休む事はできそうにない。
(この人、これだけの距離を雨の中歩いて来たのか……)
 クレイドは何とも居たたまれない気持ちになった。

「到着しました。さすがに、お疲れになったでしょう……?歩かせてしまって、本当にすみません」
 リューヌの声を聞いたクレイドは、視線を地面から周囲の景色に移した。
 確かに、眼前には大きな邸宅が立ちはだかっている。さらには、その邸宅を取り囲むように、見たことないほどの広い庭もある。
「やっぱり、貴族は違いますね……」
と、クレイドは短く感想を述べた。貴族の生活を羨ましいとは思わないが、さすがに格差を感じていた。

 そうして、クレイドは一休みする間もなく、例のヴァイオリンが保管されている部屋へ即座に案内された。扉は非常に厳重になっているらしく、リューヌは他の使用人に部屋の鍵を持って来るよう頼んだ。
「部屋に入られたら、とりあえず椅子に座って休んでください。何だか仰々しくてすみません」
 その後、鍵を持って戻って来た使用人の男性が、緊張した面持ちで扉を開けた。部屋を開けることすら通常の精神状態ではままならないとは、余程恐ろしいものなのか。これから中に入って楽器を弾く身としては、肩を竦めるばかりである。
 
 この扉の中は、とても広々とした空間が広がっていた。人の手が届かないであろう場所に窓が二つあるだけで、ほぼ密室に近い状態だ。壁は全て白塗りで、まだ日中だからか思ったよりも明るい。部屋の中心部には、高さ一メートル程の台が設置されており、その上には長方形の箱が置いてある。
 クレイドは部屋に入ると、すぐに台の上に置かれている箱が楽器ケースであることに気がついた。この家の使用人たちには椅子に座るよう勧められたが、クレイドは無言のまま、引き寄せられるように箱に近付いていった。
 台の下に手荷物を寄せて置き、楽器ケースの蓋を静かに開けてみる。クレイドは、さすがにまだヴァイオリン本体に手を触れることはなかったが、あらゆる角度から凝視するように観察した。こればかりは、楽器職人としての血が騒ぐのも仕方ないだろう。
(うわぁ、これは古いヴァイオリンだ。弦が当時のままなのかもしれない。中に楽譜も入っている。しかし、どこをどう見ても普通のヴァイオリンなんだがなぁ……)
 クレイドは、許可なくそのヴァイオリンに触れてしまって良いのかと迷いながらも、部屋の中で心配そうに見つめる使用人たちが一切何も言わないため、独自の判断でヴァイオリンを手に取った。
「お待ちくだされ!!」
 男性の太いテノールが飛んでくると同時に、急に部屋の扉が開いた。年齢は六十歳前後だろう。服装を見る限り、貴族であることには間違いなさそうだが、身体の状態が良くないのか車椅子に乗っている。そして、その車椅子を押している者は、クレイドも既に知る人物リューヌであった。
 クレイドは構えかけていたヴァイオリンを下ろしてケースにしまい、男性に目を向けた。
「わ、私がイルスァヴォンだ。依頼はリューヌから聞いておるだろうが、君自身の安全のためにも、本当に気をつけてもらいたい……」
 この男性は、自らがイルスァヴォン男爵であることを名乗ると、クレイドに向けて忠告した。そう心配してもらえること自体はありがたいのだが、そもそも依頼してきたのは男爵側だろう。心の中でそんな突っ込みを入れつつ、クレイドは少し前に歩み寄って男爵に頭を下げた。
「すみません、申し遅れました。私は弦楽器職人のクレイド・ルギューフェです。ご忠告痛み入ります。ご依頼の内容は伺っておりますので、早速始めさせていただいてもよろしいでしょうか」
 そう挨拶をしてみたものの、どうにも男爵の様子がおかしい。緊張しているのか、表情も硬くて震えているように見える。
 クレイドも当然緊張していないわけではなかったが、そもそもこの依頼は、男爵を呪いという不安から救い、安心してもらうことが真の目的なのだ。男爵に何か言葉をかけなければならないと思いつつ、クレイドが咄嗟に発した言葉は、まるで聖職者のようであった。
「イルスァヴォン様、ご安心ください。呪いなど、あるはずがありません。信じることは良いことですが、それも事によりけりです。信じ込み過ぎているからこそ、余計に恐ろしく感じるのです。いざ私が弾いてみれば、大したことなかったと思うことができるでしょう」
 男爵に向けた言葉ながら、無意識のうちにクレイド自身に言い聞かせているようでもあった。
 しかしながら、男爵は何か恐ろしいものでも見るような、そんな恐怖心が表情に現れていた。
「それは違う……」
 男爵はそう言うが、クレイドは深く考えることはよそうと思っていた。今これから演奏するというのに、考えすぎるのもよくないだろう。
「イルスァヴォン様は、このヴァイオリンに呪いがない事を私に証明して欲しいのでしょう?そうであれば、まず私がこの楽器で曲を演奏すれば良いのです。弾かなければ分からないことがあるはずです」
 クレイドはそう述べた。楽器のことを知るためには、まず楽器に触れて弾いてみなければならない。何事も実践あるのみだと、クレイドはいつも考えている。
「それもそうか……」
 男爵には何か思い当たる節があるのか、無理やり自分を納得させるかのように、何度も深く頷いた。
 クレイドは再び楽器を手に取ると、男爵に向かってこう述べた。
「私は演奏家ではありませんので、もしも私の演奏で不快な思いをさせてしまうことがあれば、申し訳ございません。ですが、どうか一曲だけ弾かせていただきたく思います」
 そして、ヴァイオリンを構えて深く息を吸う。

 演奏が始まった。
 部屋の中に響き渡るヴァイオリンの音を、周りの人々は緊張した面持ちで聴いている。
 クレイドは演奏しながら、頭の中では呪いについても多少なりとは考えていた。
 今のところ特に変わったことはないが、何かが重く感じられた。これは楽器の重さなのか、それとも何か別のものなのか。まるで人の感情のような、とても複雑なもののような気がする。
 暫く演奏していると、次第に心が締め付けられるような苦しさが襲ってきた。もしかすると、この重さと痛みは、殺されたイルスァヴォン男爵のものなのではないか、とクレイドは考え始めた。もはや普通の感覚ではない。
(これでは、まともに弾くことも難しいな。でも、ここでやめたら意味がない。男爵、あなたの代わりに曲を弾きますから、どうか……)
 あぁ、気分が悪い。痛い、苦しい、悲しい。呪いというよりも、イルスァヴォン男爵の悔しい想いが、ヴァイオリンの中に置き去りにされてしまったみたいだ。殺された日、彼はどんな気持ちで曲を奏でていたのだろう。
 後にこの楽器を演奏した者たちは、おそらく精神的な負担を抱え込んだはずだ。これだけの重さを受け止めるには、生半端な気持ちで弾いてはならなかったのだ。この楽器を弾いた先人たちが中途半端な気持ちで演奏したと言うつもりはないが、演奏に命を懸けるくらいの覚悟が必要だったのだろう。当時の男爵のように。とはいえクレイド自身もこの演奏に命をかけているつもりはなかったのだが、亡くなったかつての男爵や今の男爵を救ってあげたいと思う一方で、このヴァイオリンを絶対に救わなければならないと思っていた。そのためなら、力を全て出し切ってこの身が尽きようとも、これが宿命だと受け入れることができる。
 亡くなった男爵はヴァイオリンでの演奏が好きで、ただただ純粋に音楽を愛していたのだろう。そんな人間に演奏をしてもらえるような楽器は本当に幸せだ。自分もそんな楽器をたくさん作っていこうと、クレイドは心の中で思った。
(男爵、ありがとうございます。あなたは、本当に素晴らしいヴァイオリニストですよ)

 そうして、クレイドは曲を弾き終えた。ヴァイオリンを肩から下ろし、ひとまずケースの中に置く。たった一曲しか弾いていないはずなのに、休憩も入れずに何曲も弾き続けたかのような疲労感がある。
 その一方で、身体から何かがふわっと宙に浮いたような軽さが感じられた。ヴァイオリンを弾いたことに意味があったのだと思いたい。
 現在の当主であるイルスァヴォン男爵は、車椅子の補助を受けながら、クレイドの近くまでやって来た。
「だ、大丈夫か……?!曲を弾き終えたのは、君が初めてだ……!」
 男爵以外の人々も含め、周りの空気は興奮状態に包まれていた。演奏会をしていたわけでもないのに、慣れない歓声や拍手が響いている。この雰囲気はどうにも変な感じだ。
「大丈夫ですよ。少しだけ不思議なこともありましたが」
 クレイドはそう答えた。
「我々は、君が普通に演奏しているようにしか見えなかったよ……。何があったんだ……?そ、それで呪いは……?」
 男爵は、やけに呪いが気になるらしい。
「呪いなんてありません。ただ、時々で良いので、このヴァイオリンで何か弾いてあげてください。もう問題ありません」
 このクレイドの言葉を聞いた男爵は、気が抜けたように車椅子の背にもたれかかった。
「そうか、ありがとう……。君に依頼をして本当に良かった……」
「もったいないお言葉です。ですが、なぜ私に頼まれたのでしょうか。もっと立派な楽器店もあるでしょうし、演奏ならプロの方が良かったと思うのですが……」
 クレイドは失礼だとは分かっていながらも、どうしても気になっていた事を直接聞いてしまった。もう全て終わったのだから、少しぐらいは構わないだろうという安心感からだ。
 男爵は嫌な顔をすることなく、むしろ微笑んだ。
「我々は、以前から君の楽器店の噂を耳にしていたんだよ。どれほど優れた職人なのだろうかと思って頼んでみたのだが、大正解だったようだ。はっきり言って、君の演奏も非常に素晴らしかった」
 男爵からお誉めの言葉を受けたにも関わらず、クレイドは心の中では納得することができなかった。優れた職人だなんて、どこをどう見たらそう思えるのか。クレイドはそう思いながらも、男爵は本心で言っているように見えたため、深く追求する事でもないだろうと考えた。

「それはそうと、代金をお支払いしなければね。これでいかがだろうか?」
 そう言って、男爵は服の内ポケットから布袋を取りだし、中を広げた。これにはクレイドも驚いたが、大量の金貨が詰め込まれているではないか。
「そ、それはいけません!そもそも、貴方から代金をいたただくことはできないのです!私は演奏をしただけで、職人ではありますが、演奏家ではありませんから……」
 代金を受け取ろうとしないクレイドに、男爵は初めて渋い顔をした。だが、ゆっくりと頷いた。
「分かった。さっきから思ってはいたが、君は自分の意志を曲げないタイプなんだろう。しかし、少しくらい貰っておくれ。代金ではなく、私からの感謝の気持ちだ。あと、帰りは私の方で馬車を用意させよう」
 男爵は大量の金貨の中から十数枚ほど取り出すと、クレイドに手渡そうと手を伸ばした。この状況で受け取らなかったとすれば、男爵の感謝を拒否したことになってしまう。それは失礼なことだと思い、クレイドは両手で受け取ったのであった。
「も、申し訳ございません、こんなにたくさん……。あと、馬車まで出していただいては申し訳ありませんので、歩いて帰ります」
 クレイドはこのような対応に慣れておらず、やや戸惑ってしまった。
「いや、ここは譲れない。さぁ、リューヌ。馬車の用意を頼むぞ」
 話を勝手に進めていく男爵に、クレイドはもう反論はできなかった。
「……ありがとうございます」
 と、やや頭を下げながら礼を述べた。
 クレイドは金貨を鞄の中にしまい、荷物を全て持ったことを確認した。あのヴァイオリンが入ったケースを最後にもう一度見て、クレイドは敬意を表して一礼した。
 屋敷の外には既に馬車が用意されていた。クレイドにとっては、生まれて初めて馬車である。
「では、失礼致します。本当にありがとうございました」
 クレイドは男爵たちに見送りをされているうちに、馬車が動き始めた。
 あぁ、この椅子はなかなか座り心地が良い。初めての感覚だ。
 しかし、それにしても慣れない靴を履くと足が痛む。家に帰ったら、ゆっくり休むとしよう。

4 暇

 男爵邸から帰った後、クレイドは夕食も食べずに部屋のベッドで眠ってしまっていた。
 この時は、まさかロディールが店に勝手に入って来ているなんて知る由もない。
 既に午後9時を過ぎた頃だ。

 ロディールは、さすがにクレイドの無用心さが少し心配になり、2階へと上がった。そして、部屋のドアをそっと開ける。
「クレイド……?」
そう声をかけたが、良く眠っている。ロディールは、クレイドを起こさずにドアをそっと閉めた。
「ずいぶんと疲れてるんだなぁ~……」
 そう呟いた。

 次の日、クレイドは朝早く起床した。一階に降りると、ロディールがソファーで眠っていたのだが、クレイドは特に驚きもしなかった。
 ロディールが目を覚ましたのは、クレイドが朝食の準備をしている最中であった。キッチンとリビングの距離が近いため、物音で目が覚めたのだろう。
「お……?おぉ、起きてたのか。昨日はかなり疲れていたみたいだな。大丈夫か?」
 やや眠そうな顔をしたロディールが、そうクレイドに尋ねた。クレイドはロディールの方を振り向かず、ただただ準備に手を動かしながら、
「あぁ。歩いたし、靴擦れで足痛いし、精神的に疲れたしな。依頼人の男爵も結構変わった人だった……」
と本音を発した。これもロディールだから話せるわけで、他の人に聞かれたとなれば問題になりかねない。
 ロディールは朗らかに笑った。
「そりゃあお疲れさんだな。けど、男爵からの依頼って何だったんだ?お前が出張なんて珍しいなぁ」
 二人の会話は続くが、未だに視線が合うことはない。
「呪いのヴァイオリン。知ってるか?」
「あ~、確か親方から聞いた事があったな。お前、それ弾いちゃったのか?」
「依頼だからな。とは言え、普通のヴァイオリンだったよ。まぁ、違和感はあったけど、もう大丈夫だ」
 食材と向かい合って淡々と言葉を述べるクレイドに、ロディールはやや顔をしかめた。しかし、それも本人には気づいてもらえないため、
「なるほど、お前らしいな。呪いと言われる楽器でも、すぐ仲良しになれるなんて羨ましいぜ~。さすが何でも弾きこなせる天才クレイド君だな」
と皮肉混じりに言った。
 そこで、ようやくクレイドは振り返った。不服そうな目でロディールを見て言い返す。
「馬鹿にしてるのか?……まぁ、俺はすぐに楽器と友達になれるタイプからな。そりゃ毎日楽器と暮らしてるんだし。羨ましいだろ?」
 それを聞いたロディールは、やれやれと肩を竦めた。
「俺が悪かったよ。……はは、本当に可愛げないよなぁ。クレイドは。まぁ、例のヴァイオリン弾いても、お前が無事だったなら良しだな」
「たぶん無事、かな」
 そう述べた後、クレイドは続けて尋ねた。
「そういえば、ロディールは今日ずっとここにいるつもりなのか?」
 そこで、ロディールがテンポ良く、
「いて欲しいか?」
と笑いながら聞き返す。
「俺が聞いたのに。言わせるなんて最低だぞ、ロディール」
 クレイドは膨れた様子で言った。
 このように、ロディールは時々冗談を言いながら、クレイドの反応を見て楽しんでいるのだ。決して仲が悪いわけではない。
「おっと、また機嫌を損ねたか。悪い悪い。いやぁ、今日は丸一日休みでさ。お前が良ければ、居させてもらおうかな……?」
「あぁ、俺は大丈夫。もしかしたら客は来るかもしれないけど……」
 その返事に、ロディールは頷いた。
「了解した!」

 朝食を済ませた後、二人はのんびりと椅子に座っていた。そして、入手が比較的困難な珈琲を、いつものように飲むのである。
「いや~、ゆっくり休むことができるってのはいいねぇ」
とロディールが言い出す。
「あぁ、確かに。でも、いつも一人だと眠くなっちゃうんだ」
 そう言うクレイドに、ロディールは同感をした。
「あ~……、そうだろうなぁ」
 そこで、何か思いついたように、両手をパチンと叩いた。
「よし、んじゃ色々と話しでもするか!」
 ロディールは笑いながらそう言った。しかし、クレイドは全く乗り気でない様子だ。
「別に何も話すことないけど……。例えば?」
「んー、何だろうなぁ?言われてみると、なかなか出てこないもんだなぁ」
 言い出したにも関わらず、ロディールには何も考えがなかったらしい。
 こんな時でも笑っているロディールを見て、クレイドはつくづく思う。彼はなんだかんだ言って憎めない人柄なのだ。それをクレイドは一番よく知っている。
「……あのさ。黙ってると一日って長く感じるけど、実際短いよな」
 何気なく、クレイドはそう言い出した。
「おぉ。それは俺も思うぜ。だから人生は悔いなく生きたいもんだよな」
 このロディールの発言から、急に会話が深い方向へ進んだ。
「でもさ、ロディール。何かしら悔いってやっぱり残ってしまうものなんだろうか?死に方にも寄るだろうけどさ」
 だんだんと暗い話をするクレイドに、ロディールは疑問を抱いた。
「んっ?お前、何かあったか?」
 真剣な表情をしていたクレイドは、ふと我に返ったように、
「いや、ごめん。やっぱり悔いは残るよな。変な事聞いちゃったな」
と言って、あまりにも簡単に話題を自己完結させた。ロディールはやや心配そうにクレイドを見た。
「どうした?……まぁ、死が突然やってきたとなれば、悔いは残るんだろうな。できる事なら、そりゃ悔いなく生きたいけどさ」
 ロディールがそう述べると、クレイドは深く頷いた。
 そして、数秒の沈黙の後、クレイドの方から静かに口を開いた。
「やっぱり自分の選んだ生き方って、間違ってたりとかするのかな……?」
 年齢に見合わず、真剣に人生について考えるクレイドを見て、ロディールは安易な考えで言葉を返してはいけないだろうと思い直した。
「そりゃあ、その先に失敗が多いって事もあるかもしれない。もっと楽な道もあったかもしれないさ。でも、そんなのはその道に進んでみないと分からないし、人生の分岐点で自分がその道を選んだのなら、間違っちゃいないんじゃないか?」
 もちろん、これはあくまでロディールの持論でしかない。彼も自分が正しいことを言っているのかどうか自信はなかった。しかし、その言葉がクレイドの気持ちを楽にさせた。
「そっか……。そうだよな、ありがとう」

 その後も、店には誰も客が来なかった。このまま二人はしばらく珈琲を飲んでいた。
「クレイド、一緒に楽器でも弾くか?」
 ロディールが唐突に言い出した。基本的に、いつもこのような感じだ。
「いいけど。俺はコントラバスでいい……?」
 クレイドはやや控え目に言う。珍しいことに、ロディールに対する普段の強気な発言が全くなかった。
「うん。じゃ、俺はヴィオラだな」
 ロディールはクレイドの様子が少しおかしいことに気が付いていながら、何も気にしていないかのように陽気に言った。
「ロディールにしては珍しいな。ここはヴァイオリンを選ぶかと思った」
「そうか?まぁ、色んな楽器弾いた方が楽しいと思わないか?」
 ロディールは自身が述べた言葉どおり、楽しそうに笑っている。
「それじゃあ、曲は何弾く?」
 クレイドが楽器を準備しながらそう尋ねた。
「とりあえず何でもいいから、片っ端から弾いていこうぜ!」
 そんな乗り気なロディールに、クレイドは相変わらず素っ気なく応えた。
「うん、分かった」

 そして、二人は昼食の後も飽きずに楽器を弾いた。今日はまだ客が来ておらず、楽器を弾いて楽しんでいるとはいえ、さすがに暇を持て余していた。
「なんか疲れたなぁ……」
 曲をまた一曲弾き終わった頃、クレイドが言い出した。
 すると、ロディールが冗談でこう言い返す。
「楽器はお前の友達なんだろー?そういう事言うもんじゃないぞー」
 クレイドは怒ることなく、困ったように眉を寄せた。
「その友達ネタまだ引きずるのか……。そういうんじゃなくてさ、本当に少し休まないか?」
「うむ。確かに、楽器演奏ってのも結構体力使うもんな」
 そして、二人は休憩することになった。もう外は夕方だ。普通の人ならば、よく飽きずに弾き続けられるものだと思うのではないだろうか。
「まだ日が沈んでないけど、もう店仕舞いしていいかな?多分いつもより一時間ぐらい早いんだけどさ」
 クレイドがロディールに意見を求めた。ロディールは一瞬考えた様子だったが、
「あんまり人が来ないようなら、いいんじゃないか?」
と述べて、
「あぁ、俺が看板掛けておこうか」
と続けて言うと、真っ先に玄関へ向かった。
「あ……。ありがと、ロディール」
 クレイドが行動を起こす前に、ロディールが真っ先に進んで『close』の看板をかけてくれたのであった。ロディールがいると、元々の面倒見が良い彼の性格もあってか、クレイドはつい頼りがちになってしまっていた。それではいけないと心では思っていながら、クレイド自身も常々そう感じていた。

 そして、夕食後。
「どうする?今日は早めに家に帰るか?」
 そうクレイドが尋ねた。さすがにロディールも、明日は仕事があるはずだ。
 しかし、ロディールは「うーん」と考えるような素振りをみせた。
「そうだなぁ。迷惑じゃなければ泊まりたいな。お前の家からそのまま仕事に行ったらダメかぁ?」
 そのロディールの言葉に、クレイドは驚きもせず軽く頷いた。
「分かった。でも、暫く二階の部屋は掃除してないと思うんだよなぁ」
「俺は気にしないぞ?ま、ついでに掃除しとくよ。俺なりの簡易清掃でも良ければだけど」
「あ、うん。ありがと。でも、そんな無理しなくていいから」
「よし、分かったぞ。無理しない程度に、だな」
 ロディールはそう言って陽気に笑った。

 こうして、長くて短い一日がいつもと変わらぬように終わるのだ。
 しかし、そんな変わらない平凡な毎日が一番素晴らしい。

モノクロの奏者   Ⅰ部 楽器職人

モノクロの奏者   Ⅰ部 楽器職人

主人公の名はクレイド。スベーニュの街で“avec des cordes(アヴェク・デ・コード)”という楽器店を営む青年であり、同時に彼は若手の楽器職人だ。昼間は老若男女さまざまな客がやって来るが、夜中には親友が突然遊びに来たりする。そんな毎日だが……。 完全ファンタジーですが、中世~近世ヨーロッパの世界をイメージした作品です。中世ヨーロッパが好きな方、音楽や楽器が好きな方、そうでない方にも分かりやすいストーリーになっているかと思いますので、読んでいただけると幸いです。よろしくお願いします!

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-12-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 1 接待
  3. 2 演奏
  4. 3 雨の日の客人(1)
  5. 3 雨の日の客人(2)
  6. 4 暇