布一枚

津田

シャワーを浴びて浴室を出ると洗面台の上にバブが置いてあった。
なんで入るとき気がつかなかったんだろう、と、今更後悔。
そして、面倒がって風呂に入ろうとも考えなかったことにも後悔。
今日は本当に1日を長く感じた。経理課の安永裕子が子犬を拾ったはいいが、自分の家はペット禁止だからと引き取り手を探していた。私もそれを手伝って一日中社内をうろうろしていたから、もう足が痛くてしょうがない。
体を拭いて、部屋着を着る。
リビングのテレビをつけてとりあえず一息着く。
私は裕子に電話をかけ、捨て犬の事を、その後どうなったか聞いてみた。けれどなかなか探すのは難しいみたいで、引き取り手が見つからない事を嘆いている。後ろで子犬の吠える音が聞こえた。
私はそれだけ聞くと「それじゃあ、明日早いから」と言って電話を切った。
そして、一度洗面所に行き歯を磨きながらリビングに戻りテレビを見る。
そこでは、いつものようにサンマが暴れ回っている。
歯を磨き終えると洗面台に行き、口をゆすいだ。そして、私は見ていた番組もそこそこに、切って寝室でベッドに潜り込んだ。
朝になってみればまためんどくさい。髪をとかして。歯を磨いて。部屋着を脱ぎ、スーツに着替える。ウイダーを飲んで家を出たら、満員電車に乗らなければならない。
私はいつも、この時点でほとほと疲れてしまう。
私は、とりあえずいつもの電車に乗れたことにホッとした。
ん?なんか変な感触。お尻の上で何か大きなものがせわしなく動いているきがする。
大きななにかはするりと足の方に落ちたかと思うと今度はスカートの中に入ってきた。
そこでようやく、私は痴漢だと気がついた。
痴漢は私のあそこに無理矢理指を入れてきた。
痛い・・・。怖い・・・。
こういう時に怖くて何も言えなくなるって、本当なんだな。
私はただただ怖くて、助けを求めようにも声が出なかった。
すると、痴漢が「えっ!?」と、ものすごく小さい声で驚いていて。
「お前、もしかして・・・ごぶっ!」
痴漢が何かを言おうとした時、私は自然と肘を振っていた。
後ろをむいてみると、みぞおちに入ったらしく、苦しそうに呼吸をしようとしている痴漢の姿があった。
あまりにも、ちっぽけで陳腐な存在に見えたので、私は近くの男性に「この人痴漢です」と、伝えた。
次の停車駅につくと、痴漢は無理やり下ろされた。
「お話を聞きたいのであなたもよろしいですか?」
痴漢に会うのは今日で3回目。
こうなることはわかっていた。
私は「はい」と答えて素直に電車を降りて、駅員と痴漢と私とで、取調べ室のようなところに行った。
会社は完全に遅刻決定だな。



「ちょっと真里、大丈夫?」
「いや、全然。まだあそこが気持ち悪い気がする」
「真里も災難だったねー」
こいつ、本気で同情する気あるのか?
まあいいや。
「それよりさ、昨日の子犬、飼い主見つかった?」
「いやーそれが全然なんだよねー。学生が飼い主探してるわけじゃないんだしすぐ見つかるかなーと思ってたけどさ」
大家に見つかったらアウトだというのにのんびりしてるというか何と言うか。まあ、そういう裕子だから落ち着くんだろーな。めちゃくちゃ振り回されるけど。
「ねえ、なんで真里はダメなんだっけ?」
「言ったじゃん。うち猫が遊びに来るから犬は入れてらんないの。喧嘩しちゃうよ」
「そっかそっか」
あははと、笑いながら自分の頭をぽんと叩く仕草はまるでどこぞのおじさんである。
「それじゃあ日下部真里さん、今日も飼い主探し手伝ってくれるかな?」
「えー!また?」
めんどくさいなあ。
「そこはいーともーでしょーよー」
「だって疲れるんだもん。昨日どんだけ歩いたと思ってんの?」
「わかったわかった。見つかったらダッツおごってあげるから」
「それなら・・・」
「やりぃ!」
裕子はパチンと指を鳴らした。
今時ハーゲンダッツでつられる私ってどーなんだろ。
裕子とトイレを出ると、トイレの前の自販機でタバコをふかしてる男が一人。
総務部の緑大地がいた。
緑は私たちと同期で入ったくせにぐんぐん出世していったいわゆるエリートで、同じ会社に務めていてもいつからかあんまり姿を見なくなった男だ。大きな肩幅とすらっと長い脚、ピンとのびた背筋。そして爽やか系の二枚目で声も性格もいいと来たもんだから、うちの女子社員にかなり人気がある。
緑はこっちに気づくと手を振ってきた。
「いこっ」と裕子に誘われて緑の所へ行く。
「久しぶりだね緑君」
「だね、2人は最近どうしてたの?」
「あたしはね、経理課に配属決まったんだ」
裕子はすごく得意げでなんだか楽しそうだ。
まあ、そりゃそうか、この中で出世してないのって私だけだし。
「日下部さんは?」
私はまだ無所属だと伝えた。なんだか少し、恥ずかしかった。
「そーなんだ。なかなか上手くいかないね」
緑は驚きもせずそんなことをいう。
「どこか、希望の部署はあるの?」
「あんまりないかな」
「無欲だね、どこか着きたい部署にアピールすれば、それだけですぐ出世出来るんだけど」
「まあ、あんまり仕事に興味わかないからねー。やらされてるって感じだし」
「そんなんだから真里は出世できないんだよ!」
やれやれというふうに肩をすくめる裕子。
「でも、俺が知ってる頃の日下部さんは安永さんより仕事できたよね」
「なんですとっ!?」
「確かに」
「真里!?」
そうして、裕子をいじっている3人の笑い声が、休憩所いっぱいに広がっていた。



緑に子犬の話をしてみたところどうやら引き取ってくれるらしい。
一人暮らしだと金にも結構余裕が出るんだそうだ。
裕子は緑と子犬の引渡す場所などの打ち合わせをするというので私だけ先に仕事場に戻った。
私だけ出世しないと言ってもここにはそういう人が何人もいる。かれこれ4年も無所属の人さえいる始末だ。
あの人は終わってるな。と思うけど、やっぱりここはみんな同じだから安心出来る。
ときどきすごい熱心に出世しようと頑張ってる人がいるけど、そういう人に限ってこけてしまうのは本当に不思議だ。
頑張っても報われない世の中じゃあ頑張る気にもなれない。
子犬の件も片付いたので、今日はのんびり仕事をしてのんびり帰宅した。
おかげで大分気分がいい。
洗面所へ行き、シャツを脱いで、タイツもおろして、洗濯機にポーンと放り込んだ。今日はバブがあることも忘れていない。
湯船の中に放り込むと早速泡が出てきた。その上に足を置くとなんともこそばゆい。
だんだんとお湯の色が変わってバブも最後にはオニオンリングみたいになってお湯の中に消えていった。
どうしよう、バブを使うといつもここで迷う。タイミング的には出時なんだけどバブ溶けたばっかりだし・・・。
迷ったあげくまあいいや。と思いその後10分くらいつかっていた。
風呂から上がり、体を拭いて、パンツを履き、部屋着を着る。
ケータイを見てみると裕子からラインが来ていた。
『子犬 土曜日 上野公園』
『なんでカタコトなの?』
『なんとなくね』
なんだそりゃ。
『とにかくありがと真里。明日ダッツ奢るよ』
『バニラ味がいい』
『おっけーそれじゃあ、また明日ー』
『じゃーね』
裕子にしては珍しくすぐに切ってきた。
まあいいか。と思い、冷蔵庫から缶ビールをとり出した。
私は、眠れそうもない時はビールを睡眠薬替わりに飲んでいるのだ。
一本飲むといい具合に酔と眠気が襲って来た。
私はすぐに歯を磨いて布団に入る。
幸せなことに不眠症で悩んだことのない私はこの日もすぐに眠れた。
つぎの日、会社に行くと同期の子で同じく無所属だった子の移動が決まっていた。
今月に入って3人目。
同期で残っているのは私を含めて4人だけだった。
さすがの私も少し危機感を覚える。
このまま私だけ取り残されてしまうんじゃないだろうか。
そうなると嫌な妄想が止まらない。
仕事中、私は気分が悪くなったと言ってトイレに行った。
個室に入り。スカートを下ろして、パンツを下ろす。
そのまま少し座り続けた。
気分が大分ましになったところでスカートを履いて個室を出て、手を洗ってトイレを出た。
それでも、デスクに戻る気にはなれなくて、少し外に出たくなったので階段を降りていると下から緑が来た。
私に気がついたようで、にこやかに手をふろうとすると階段に躓いて転んでしまった。
つい、おかしくて笑いながら「何やってんの?」と言うと、こけた姿勢のまま顔をあげた緑は大きく目を見開いた。
そして、目をそらされた。
かと思うと今度は走って階段を登って来て、何も言わず私の手を取って走り出した。
一階まで駆け下り、会社をでて、近くの公園のベンチの近くまで引っ張られた。
「急になに!」
あまりの出来事に驚いた私は、つい、声を荒らげて問いかける。
すると、彼も応戦するように、声を荒らげこそしないものの、相手を竦ませるには十分な怒気を含んでこう言った。
「日下部さん・・・なんで、パンツ履いてないんだよ」



その夜。私は久々に、緑とラインをしていた。
それというのも、緑がしつこく事の真相を聞きたがるからだ。
まあ、緑なら他言するような事はしないだろうし、信用できる。
だからこの機会に、少し相談しようと思った。
『ねえ緑、私の秘密教えてあげるからさ、相談に乗ってくれないかな?』
3分ほど空いて。
『わかった、何ができるかわからないけどやってみるよ』
『ありがとう』
そこで一呼吸。大きく吸って、少しずつ吐いて。
『それじゃあ話すけど』
『こい』
『私ってね、昔からひどいストレスを感じるとパンツを脱いじゃう癖があるの。もうずっと前から。やめた方がいいのはわかってるけど・・・やめられない。やるとね、見つかっちゃうかもしれないって言うスリルがあるの。そのドキドキが私をストレスから解放してくれる。だから、いつの間にかやめられなくなった。どうしたら私のこの癖、なくなるのかな?』
『つまり、日下部さんの相談事って言うのはやめたいってことでいいのかな?』
『そうだね・・・うん、ごめん。やっぱり無理だよね。医者でもないのにそんなことできる筈ない。ごめんね、こんな困っちゃうこと言って。何もしなくていいから、せめてばらさないでくれると助かります』
『ばらさないよ。ばらさないし、そんな話しづらいことを話してもらった以上協力しないわけには行かない』
やばい、なんか泣きそうだ。
緑って、こんなに頼もしいやつだったっけ?
『それじゃあ、何が原因で今日は脱いでたのか言える?』
『今日は多分、また同期が一人無所属から抜けたからだと思う。』
『へー、ちなみに誰なの?』
『八千代さん』
『ああ、彼女か。日下部さんは八千代さんのことどう思ってたの?』
『えっと・・・なんとも思ってなかった』
『じゃあ、嫌いでもなんでもないわけか』
『そうだけど』
『じゃあ八千代さんが出世したときどんな風に感じた?』
『すごいなーって思って、いいなーって思って、また一人居なくなったなーって思った・・・かな』
自分がどう思ってたのかを話すのって意外と難しいんだなと思った。
しかし緑はこんなに質問してどーしよーというのだろう。
『ちなみにさ、同期で残ってるのあと何人?』
『私含めて4人だよ』
『だからか』
『え?』
『日下部さん』
『はい?』
『俺が面倒見るから、なるべく早く出世しよう。すぐにでも』
『え、うん・・・ありがとう』
なになに?どういうこと?
私には全く訳がわからない。なんでそんなことになったんだろう。
『え、緑。1つ聞いていい?』
『なに?』
『どうしてそんなことになったの?』
『それは・・・うーん。説明しにくいけど日下部さんのストレスを一刻も早く無くすためだよ。その為には出世してもらわないといけない』
『そ、そう』
正直なんだか良く分からない。
わからないままに今夜は、どうすれば出世できるかと言う話に進んでいって、私が寝落ちするまで話していた。
朝ラインを見ると、午前2時半の緑の『ねないで大丈夫?』で止まっていた。



少しだけ朝が楽だった。
寝落ちした次の日はだいたい辛いものだけど、不思議だ。
冷たいダッツの甘さも十分感じられる。幸せだなー。
「それってさー、緑君のこと好きになっちゃったってことなんじゃない?」
「え?それはないでしょ。別に話しててドキドキしたりとかしないよ?」
「まだその時は好きじゃなかったんだよ。昨日話してて、好きになっちゃった。みたいなさー」
「それは関係ないんじゃない?」
「えー?なんでよ?」
「なんとなく・・・かな・・・」
「んー?」
「なんかさ、好きって良く分からないんだよね」
なぜだか自分の発言に自身が持てなかった。というか、なんかずれてる様な感じがした。
「そーいえば、緑にあの子渡したの?」
「まだだよ。明後日渡すの。ついでにデートしちゃったりして」
裕子の目を細めてにんまりと眺めてくるのが、なんだかいやでつい目を逸らしてしまう。
「そーなんだ。頑張ってね」
突然立ち上がって「うん!頑張る!」と言って、裕子は自分のオフィスに戻っていった。
さて、私の昼休みまだちょっとあるし、今特に任されてる企画ないし。
暇だなーと思って背もたれにだらんと寄りかかると、椅子が硬いせいかあまり心地よくなかった。というか、やってたら首がつりそうだ。
でも、景色は良いと思う。ガラス越しに見える庭はすごく綺麗で、木漏れ日も暖かくて気持ちがいい。
トイレに行きたいと思ってないときはいつもここにきている。というか、オフィスをでたら目の前にあるのだ。椅子がもうちょっと柔らかければ良かったのに。
なんて考えていると突然頭の方からにゅっと顔が出てきた。
私は驚いて、急に顔を上げると激痛がはしった。
おでこがじんじんする。
「いったー」といってしゃがみこんでいる相手を見ると、昨日移動していった八千代さんだった。
「何してるの?」
「いや、まだ荷物の整理が済んでないから。昼休みにしちゃおうと思ったんだけど・・・・・・」
八千代さんもおでこを押さえて笑っている。
なんだか私は、またおかしく感じてきて笑ってしまった。
「真里ちゃんは何してたの?」
「休憩だよ。ぼーっとしてた」
「真里ちゃんぼーっとするの好きだもんね。前世はなまけものかもね」
「ああ、でもずっと木に掴まってるのもそれはそれで疲れそうじゃない?」
「いや、最近はそんなことしないでテレビゲームとかパソコンばっかやってるらしいよ」
「ニートじゃん!」
そっちのなまけものだったのか。
「それじゃあ、荷物移動さすから」といって、八千代さんはオフィスに入っていった。
緑は総務部で、裕子は経理課。八千代さんも所属決まって。
私は人事部と言う名の無所属でいつまでもくすぶってることを実感して。トイレにいった。
トイレを済まして、脱いでいたスカートを履いた。
パンツは履かずに。



今日は久々に会社が休みで、私は家でゴロゴロと転がっている。
土曜日、暇を持て余した。
行こうと思えばどこにでもいける。でも、家から出る気になれなかった。
裕子は緑と上野公園で子犬の引き渡しデートの予定。
暇なのは私だけなことに少し寂しさを感じていた。
本当に何もする気力がない時には人間なんにも出来なくなるものだ。ということをしみじみと感じる。
友達から借りていた映画を見る気もしないし、ケータイをちらりとも見る気が起きない。どころかもう午後1時だというのに朝ごはんも食べていなかった。
朝起きたのは午前七時。そこから何もせず、気がつけばこんな時間だ。緑と裕子は無事子犬の引き渡しを済ませたのだろうか。済ませていたとして、今二人は何をしてるんだろう。
頭も体も動かないくせに、こんな事にだけは頭を働かせている。
あまりに不毛な気がするので、昼寝をすることにした。何もしようとしないよりは少しくらい生産的なんじゃないだろうか。
這い出てすらいなかった布団の中にまた潜っていって、眠りの中に潜っていった。



起きると緑からラインが『子犬を引き取りました』と来ている。
『名前は付けたの?』
『カムにしたよ』
『カム?』
『そう、よく噛むからカム』
『安直だね』
緑はさっき買ったばかりだろう新しい玩具に噛み付いているカムの写真を送ってきた。
『へー、かわいいね』
『すごい愛らしいよ、犬種はどうやら秋田犬らしい』
『なんでわかるの?』
『動物病院いったら教えてくれた』
『そーなんだ』と返して、もう一つ気になってる話題に踏み込む。
『裕子と今日遊んだの?』
『いや、今日はカムつれてすぐ帰ったよ』
『そーだったんだ』
緑とラインを一区切りつけて、私はお風呂に入ることにした。



八千代さんの荷物はすっかり片付いて、また一つ誰もいないデスクが増えた。
そのデスクを来年入ってくる新入社員が使うのを想像する。
最初は騒がしいがみんなどんどん居なくなって、今頃の季節にはオフィスも静かになっているんだろう。
そしてまた、怖くなった。
まだ仕事中だろうけど、緑にラインを送ってみようか。
返事はすぐに来た。
『わかった、昼休み少し外に出よう。いい場所知ってるから』
12時半に会社の前で待ち合わせて、2人で街に出る。
定食屋が集まっている路地に入って、しばらく歩いたところにある少し廃れた感じの定食屋。
中もやはり、外見に負けず劣らずの廃れぶり。
安いことだけが取り柄のような、ぼろぼろのお店。
でも、なぜか落ち着くし、食べてみれば美味しかった。
「こんな店あったんだね」
「いいとこだろ?」
「うん」
「ところで」といって真剣な顔になり「今日はどうしたんだ?」と緑は聞いてきた。
その目が視界に入ると、私は逃げられなくなった。
オフィスで想像してしまったことを、緑に話す。
「それじゃあ、それが怖かったんだ」
「多分」
「確かに、自分一人だけ残されるのって少し怖いよね」
といって緑は唐揚げを1つ食べて。
「じゃあ、日下部さんは出世したいんだね?」
「うん、したい。私だけ残されたくない」
「それじゃあ、俺が推薦しとくよ。もともと日下部さんは仕事ができるから、そんなにむずかしくもないよ。多分すぐにでも上にいけると思う」
「ほんと?」
「ああ、本当だ。そうすれば、日下部さんももう脱ぐ必要なくなるだろ?」
「・・・・・・」
「だから、俺も頑張るよ。一刻も早く日下部さんを出世させる。どこか希望する部署はあるか?」
「それじゃあ、裕子と同じ経理課で・・・」
「わかった」と、緑は言って、残っていたおかずをぱくぱくと食べだした。
今まで我慢していた食欲を一気に開放したように。
食べながら、沢山話しをした。主に、裕子のことで。その中で私はなんとなく。緑は裕子が好きなんだろうと思ってしまった。

ほどなくして、私は人事部から経理課に移動が決まった。緑が裏で何をしたのかわからないけど多分それが大きいんだろう。1年目なのに意見が通っちゃう辺り緑が優秀なんだって事を思い知らされる。
お礼をしなきゃと思って『今日経理課に配属が決まったよ』と送ると、2分後位遅れて『おめでとう』と返ってきた。
なんだか胸がホクホクする。
『緑ってさ』
聞くべきじゃないかもしれない。
『私が移動したのって緑が動いてくれたからだよね』
それでも気になってしまう。
『私のために何をしてくれたの?』
心臓の音がやけにうるさい。既読がついて、返ってくるまでの間が苦しい。長ければ長いほど聞かなきゃ良かったと思えてくる。
『いや、とくになにも。上に日下部さんの事、紹介しただけだよ』
私の発言と彼の発言。時間を見てみると1分もたっていなかったことに、奇妙なずれを感じずにはいられない。
『それだけ!?結構あっさり昇格できるもんなんだね』
悟られないようにと、なるべく明るく返した。
『まあ、今人事部に居ない人ってそーやって上がった人結構いるらしいからね。仕事の出来より上司のご機嫌取る方が出世しやすいのかも』
『なるほど。とにかくありがと、移動は明後日からだけどおかげで明日は忙しいからもう寝るね』
『わかった。おやすみ』
『おやすみ』
久しぶりに気持ち良く寝て起きて、会社に行くと早速移動の準備に追われた。
移動先の裕子が準備を手伝ってくれて、それでも終わったのは午後四時だった。
「朝からやってもこんなに時間かかっちゃうんだね」
「何言ってんの、こんなんましな方だよ八千代さんなんか移動しても準備終わらなくて人事部に通い続けたそうじゃん」
「ああ、そう言えばそうだね」
「八千代さん、どこに配属されたか知ってる?」
「いや、あんまり仲いいわけじゃなかったし」
「開発部だってさ」
「遠いねー」
「そうだよ、だから八千代さんひぃひぃ言って、可哀想だったー」
そう言いながら崩れた裕子の顔がちょっと面白かった。
「じゃあ、私達は経理課と人事部離れてなくてラッキーなのか」
「そうだよ、総務部も割と近めだしね」
「なんで総務部?」
「緑君好きなんでしょ?」
「いや?」
やっぱりきたか。
「あれ?違うの?仕事できるし結構イケメンだし、いい物件だと思うけどな」
「そんな人を家みたいに・・・」
「そっかー真里が興味無いならあたしがもらっちゃおっかなー。この前からちょっといい雰囲気だし」
かるく殺意が湧いた。
「裕子最近緑のことよくしゃべるね」
緑のことを考えちゃうのは絶対にそのせいだ。と、思うけど言わない。
「なになに?真里もしかして緑君のこと気になってる?」
「なってない」
「あいた!」
軽くチョップしてやった。
するとあれだけやかましく話していた裕子が急にだまった。もしかしたらまずいとこに入ったかな?
「ねえ、真里・・・」
ようやく裕子が口を開く。
すると場が一瞬で入れ替わったみたいに裕子に支配された気がした。
「あたし・・・・・・緑君のこと・・・・・・好きになっちゃったかも・・・・・・」



経理課に配属されてから一週間。驚いた。
仕事の多さが人事部と比べてまるで違う。
おまけにもうなれたというふうに仕事を終えてもピンピンしている裕子のテンションにもかなり厄介なものがある。
私は大分疲れきっていた。
『それでも、もう一人ぼっちになる心配はないでしょ?』
『まあ、それはあるけど』
『最初のうちだし、しょうがないよ。俺も初めは死ぬかと思ってたし』
『総務部だもんね』
ほんと、緑は私よりきついとこで1年目からだからより大変だよね。
『うん、私人事部に甘えてたかも』
『だね、もう少し頑張ってみよ?』
『うん、そーする。ありがと。それじゃあ寝るね』
『おやすみ』
『おやすみ』
私は本当に甘ったれてるんだな。
あと一週間もあればきっと、裕子みたいにさくっと仕事終えられるスタミナつくんだろーな。
・・・・・・つくかな。
ごちゃごちゃとものを考えてしまうけれど、それでも時間は待ってくれるわけもなく。
日にちだけが過ぎていくが、私が仕事になれる気配は一切ない。
裕子と飲みに行く約束をしたんだけど「るんるんるー」とずっとループしている裕子になんでそこまで元気なのか聞きたい。
「あ、ここだここ」といって裕子は寿司屋のドアをがらっと開けて「たのもー」と言ったもんだからびっくりした。
今日はたまたま他に客が居なかったからいいものの、恥ずかしいから今度の見に行く時は治してもらおう。
「おっちゃん!ブリとイクラね」
「あいよっ!そっちの嬢ちゃんはどーするね!」
「私!?えっと・・・じゃあマグロで」
「あいーマグロ1丁ねー!」
「よっ!ほっ!」と凄い握ってるとき言ってるけどここの板前は声出さないと握れないんだろーか。
「裕子、なにここ?」
「寿司屋だよ?」
そんなことはわかってるよ。
「じゃなくて、なんでこんなにうるさいの?私ちょっと苦手かも」
聞こえちゃまずいからぼそっと聞こえない様に喋った。けど裕子は通常より少し大きめの声で「ここすっごい美味しいんだよ。食べたらなれるよ」というのだ。
「へいっマグロ1丁あがりっ!」と言ってマグロがだされる。
箸で崩れないように掴んで、醤油に浸し、口に入れる。
すると普段食べてる回転寿司では比較にならないくらい美味しかった。
口の中でひんやりしたマグロが舌の上をヌルヌルっとまるで生きているかのようにうごいたかとおもうとサッと溶けて気づけばなくなっていた。
もっと味わいたいと思わされる。こんなに美味しいのが東京で食べれるとは思わなかった。
「よくこんな店知ってたね」
「美味しいでしょ」
「うん。びっくりした」
裕子と話しているとそれを聞いた板前さんが「嬉しいこと言ってくれるねぇ」と言ってコハダをサービスしてくれた。
「あたしさ、緑君に教えてもらってから何かある度にこのお店来てんの」
また、緑だ。
「このお寿司屋さんすごく美味しいでしょ?だから、食べたら嬉しい気持ちになってまた頑張れるの」
「馬鹿みたいでしょ」と言って微笑んだ裕子はすごく可愛かった。こんなのに・・・・・・勝てる筈ない。そう思うとストレスになって、私の脱ぎ癖はつぎの日から再発した。



なんでだろう。裕子が緑と仲良くしてるのがすごく鼻につく。
甘えてることには気がついた。けど、それじゃ飽き足らず、いつの間にか好きになっていたんだ。
いつからなのかわからない。
認めるのが嫌で、わざとわからない振りしてた。
でも、もう無理。緑を好きって気持ちが止まらない。なんで!なんでよ!!
口がかってにうごいていた。「緑ってさ」
「ん?」
「裕子のこと、どう思ってるの?」
やや困った様子になって「ただの友達だけど?」
もうそれだけじゃ安心できなかった。
なにか決定的なものが欲しかった。
だから、この時自分が何を考えていたのかは全くわからない。
「裕子とお寿司屋さんいったよ。緑が勧めたんだってね」
「ああ、あそこ?いいところだったろ。うまくて」
「うん、あんな店あったの知らなかった」
楽しそうに笑いながら「だろ、あそこ初めて見つけたときは驚いたよ」
すごく、その笑顔が腹立たしい。
「なんで私には教えてくれなかったの?」


それから程なくして、私達はその場から別れた。
家に帰り、扉を開けると急に手持ち無沙汰な気になったので、ちかくの雑誌を拾って読んでみた。けど、全く頭に入ってこない。
腹がたってきたので全力で放り投げた。
グシャッと音を立てて落下した。私が投げたせいで途中で折れて、ページもぐにゃぐにゃに、変形した雑誌を見て更に腹が立つ。
あえて近くを通る時に踏みつけるも音と足で味わう質感が私を更に不快にさせる。
これ以上関わっちゃダメだと思ってなるべ見ないように風呂場へと向かう。
服を脱ぎ。スカートを脱ぎ。ストッキングを脱ぐ。
ワイシャツとストッキングを洗濯機に入れる。
スカートのポケットの中に入れていたパンツも忘れずに洗濯機に入れた。
風呂は沸かしていなかったしそんな気もなかったのでシャワーを浴びるだけになる。
体を洗い終わって、かれこれ二十分以上シャワーを無駄に浴びていた。
体を拭いて、部屋着のズボンをはいて、部屋着の上を着る。
スカートのもう一つのポケットに入れておいたケータイを出してみると通知ランプが光っている。緑からラインの通知が来てた。
3件のうち1件に『こんどうまいとこ紹介する』と書いてあったことにホッとした。
急にパンツが履きたくなって、ズボンを脱いでパンツを棚からとり、履いて、またズボンを履いた。
通知の内容にウキウキしながらリビングに向かって歩いた。すると、さっき散々に扱って放置した雑誌を、私はまた踏んでしまった。

仕事にもだいぶ慣れてきて、私の脱ぎ癖は収まるはずだったんだけどまだ治らなかった。
どころか前にもまして脱ぐようになっている気がする。原因もなんとなくわかっている。緑と裕子のことだ。あの二人が仲良くしているのを見たり聞いたりすると、胸の中で新聞紙をぐしゃぐしゃに丸めたような気持ち悪さが広がる。胸くそ悪いっていうのはこういうことなのかな。今も、裕子が緑と昨日行ったディナーの話をしてて、正直なんど手元のコーヒーを裕子にかけてやろうと思ったかわからない。
友達の話を笑って聞きながらそんなこと考えてるんだから私もそうとうブラックだ。
「でね、そのお店ここから近いんだけどすっごいわかりにくいところにあるの」
「へー、どんなところ?」
「定食屋さんがいっぱい集まってんだけど、中でも寂れてるって感じのお店」
こいつ、定食屋イコール寂れてると思ってるのか。
「でね、最初は汚くてやだなーと思ってたけどね、出された料理がすんごく美味しいの!」
「ん??」
「ん?どーしたの?」
「いや、なんでもない」
その店ってこの前連れてってもらったあそこか?
別に恋人ってわけでもないし文句言えないんだけど、でも、物凄く嫌だった。
何が嫌かって裕子には私といった店を教えるのに私には裕子と行った店を教えてくれていない事がだ。裕子と私の差を見せつけられているようで、苦しくなる。
「トイレ行ってくるね」と席を外す。
個室に入って便座に座るけど特にしたいわけじゃなかったし、既に脱いでしまったから脱ぐパンツももうない。
私は、この痛みをただ受け止めることしかできなかった。
トイレから戻ると裕子はいなかった。
ラインでも確認しようと思ってみると『ごめん、もう昼休み終わるから先戻る』とあった。
私も戻らなくちゃか。
ほかにも何件か通知があった。まあ、うち何件かはオフィシャルのアカウントなんだけど。
しかし、緑からも1件。『今夜、飯でもどうですか』
私はすぐに行きますと答えた。
今夜を楽しみにしながら、ケータイをポケットに入れてオフィスに向かった。



「真理ーこっちこっち」
ぶんぶん手を振って緑がアピールしてくる。けど、今回は二人じゃなかったらしい。緑に悪いと思いつつも肩透かしをくらった気分は否めない。
緑は笑う。「行こうか」と言って、私が来たのを見計らって歩き出した。
それに裕子もピッタリついて、多少小走りになりながらついていく。
私はゆっくり、彼らの後ろを歩いてついて行った。
緑についていくと、会社から二駅離れた所にある小さなバーに着いた。
どうやらここのマスターと緑はすでに打ち解けているようだ。というのも、緑がドアを開けてすぐ、やあマスターなんて片手を上げて待ち合わせに来た時みたいに挨拶していたからだ。
「ご注文は?」
「それじゃあ、カクテルで。二人は?」
「私もそれで」「あたしも」
私はそうだけど、多分裕子もあんまり慣れてないんだろう。焦って結局同じのを頼んでしまうあたりが情けない。
どうやらこのバーには私抜きで来る予定だったらしい。裕子が誘ってもいいかと緑に頼んだんだそうだ。行き先を知っていたんだろうか。どうやら、緑じゃないらしい。
少しの間カクテルをちびちび飲みながら会社の話で盛り上がっていると「ちょっとトイレいってくるね」と緑が席を立っていったところで一度話は途切れた。
「ねえ、真理」
「ん?どうしたの?」
「あたしさ、今日緑に告白しようと思ってんだけど」
グラスを持つ手が少し震えた。心臓が絞められて、呼吸がしにくい。
「へー、それで?」
それでもかろうじて、普通を装って返事をした。
「だからさ、今日はもう適当なこと言って帰ってくれないかなーって」
私の中で何かが切れるのを感じた。私の中で、色んな言葉がグルグル巡っている。頭の中で何度も聞こえてくる私の怒りの声。
殴りたい。殴りたい。殴りたい。殴りたい。殴りたい。殴りたい。
けど、私はそのどれもを拳と一緒にしまいこんで、一言「わかった」と言って店を出た。
それから何度も吐きそうになりながら、やっと思いで家に帰ると、今まで溜まってたものが全部溢れ出たかのように。涙と一緒に、発汗や嘔吐など、とにかくあらゆる方法で私の中の水は外に出ていこうとする。
ならばと思い全てを体にゆだねても、出てくるのは涙だけだった。
私は何度もおえーっおえーっといいながら、声を枯らすほど泣いて、そのまま眠っていた。
つぎの日、緑と裕子からラインが来ていた。
裕子からは『さっきはごめんね』と一言だけ。私は『別に』とだけ返しておいた。
緑からは2件。
『体調悪いの知らなくて、無理に誘ってごめんね』と『安永さんに告白された』と書かれていた。



安永裕子―――私の1番の友達であり、会社で一緒に行動してる人。仕事の出来は、まあ良くも悪くもない。スタイルはなかなか良く、身長も150cm代となかなか低めで、声もうるさい程高くなく低くもない。話してても楽しいし、同性の私から見ても彼女にするならこういう子がいいと思う―――。
私はその彼女と好きな人が被ってしまった。
裕子に言われたわけでもない。ただ、見ててそう思った。そしてその考えは正しかった。
裕子は緑に告白したいから帰ってくれと私に言って、その後本当にしたらしい。何故か今朝、緑から着てたラインでそのことを知った。
私はそれに、返信も既読も付けずに置いて会社に来た。
会社では頭が回らないほどやることがいっぱいで、隙を見せれば日下部さん。日下部さん。日下部さん。
だけど、今の私にはそれで良かった。裕子と同じオフィスにいるから普通に顔を合わせるし普通に休憩時間も被るんだけど、今日の私はどういう顔をしていればいいのかわからない。
裕子と顔を合わせたくないから、昼休み、普段は行かない屋上に行った。あまりに慌ててたからお弁当を鞄の中に忘れてきたらしい。
まあ、作る暇なんてないからお弁当と言ってもコンビニで買ったおにぎりなんだけど。
今階段を降りてオフィスに戻ったら裕子に会ってしまうかもしれない。そう考えると降りようという気が全く起きないので、空腹を景色で埋め合わせることにした。
下を見ると色々な人が歩いてる。
うちのビルの屋上は7階だから低い方だけど、それでもだいぶ高い。ここから見ると大人も子供も、男も女も大して変わらない。みんなゴマだ。どいつもこいつも黒いスーツを着て歩いているからゴマにしか見えない。
あ、あそこでコンビニの店員が走ってる。コンビニの店員は色が違うから分かり易い。コンビニの店員の前に走ってるゴマが一粒あった。コンビニのゴマが走ってるゴマを捕まえていた。あのゴマはきっと万引きでもしたんだろう。
かと思ったらあれれ?今度は仲良さげに見える。何を話してるんだろう。あ、ゴマがスタスタ歩きだすとコンビニのゴマはお辞儀してコンビニに帰っていった。
その光景が不思議だったから、私は色々と想像した。そして、奇跡的に面白い事を思いついたらぷっと笑ってしまった。
そこまではよかったのに、ふと頭のどこかが別のことを考えはじめてからは気分が最悪だった。
緑と裕子の顔がどうしてもちらつく。
二人のことを考えて、泣きそうになった。いや、泣いていた。
昼休みが終わり、オフィスに帰る時もまだ、涙が溢れそうだったので、一度トイレに寄って落ち着いてから戻ることにした。遅刻は確実だけど、泣いて戻るよりずっといい。
適当な個室に入ってスカートとパンツを下ろして便器に座る。
おしっこをして気を紛らわせて、スカートを履いて、流して個室を出た。
そこで私はまだ気付かなかった。
もっと早く下に行っているべきだった。裕子に会うのを恐れている場合ではなかった。
それは昼休みを20分もオーバーした事ではない。
トイレから出た時、目の前に緑がいたからだ。



男にはなにをしても敵わないのかな。
私は驚いて、すぐに逃げようと階段に足をかけようとした時「待って」と緑に手を掴まれて逃げることはできず、かと思ったら振り向かされ両肩を掴まれて自由を奪われてしまった。
抱き締められたわけじゃないし、振り払うこともできたかもしれないけど、彼の迫力を前にそんなこと考えられなかった。
「話を聴いて欲しい」と言われたけど「もう、昼休み終わりだから。戻らないと」と言うと彼は「わかった」と言ってそっと手を離した。
オフィスまで戻ってもまだ緊張が収まらない。
遅刻を上司に怒られたけどそれどころじゃなかった。
いつまでも、心臓が裂けそうで裂けないぎりぎりのところで踏みとどまっている。いっそ避けてしまえばいいのにとすら思う。
しかも、この時私は泣いていたらしく隣のデスクの子から大丈夫?と言われ、上司には強く叱りつけてすまない。と言われてしまった。
言われて気づくと強く意識してしまう。私は、今まさに死にたい。
涙は止まらず、体は震えて、思考もコントロールできない。仕事の事を考えようとしても一秒後には裕子と緑の幸せそうな姿を想像してしまう。最悪な気分。
そんなんだからだいぶ時間をかけて今日のノルマを達成した。
周りを見てみると裕子はもういないみたいなのでゆっくり荷物をまとめてオフィスを出た。
やたらと疲れたのでジュースを買おう。
自販機を見て、やっぱりこの階にはろくなのがないとため息を一つついてから小岩井のぶどうジュースを買う。
200円いれたけど、戻ってくるはずの80円が出てこない。よく見たら釣り銭切れしていた。
本当にろくなことがない。
私のオフィスのある階だと上に行く時は階段の方が便利だが下に降りる時はエレベーターじゃないとかなり面倒だ。
だからエレベーターの前に行ってボタンを押して待つ。やがて右のエレベーターが開いて入ろうとすると矢印は上を向いていた。間違って上のボタンを押してしまったらしい。
本当にろくなことがない。
すみませんと謝って上に行ってもらって、私は今度こそ間違えないよう下のボタンを押して待つ。
少し待つと今度は左のエレベーターが開いた。今度は間違えてないか確認する。矢印は下を向いていた。よしっと思って入ろうと正面を見る。するとそこには、どんな巡り合わせか知らないけれど、緑だけが開のボタンを押して立っていた。
本当にろくなことがない。



「なあ、日下部さん。これから飲みに行かないか?」
「結構です」
「頼むよ、いい店教えるからさ」
「いいですってば」
「お願いします。日下部さん」
緑があまりにしつこく誘うもんだからだんだんとめんどくさくなってきたもんだから。「わかった」と言って会話を切り上げた。
すると、それから本当に緑からは話しかけてこない。
エレベーターを降りて、会社を出ても何も言ってこない。
「で、どこ?」と私が言うと緑は驚いたように慌てていた。
あちこち曲がって緑が連れてきたのは、相変わらずあまり目立たないような店だった。
緑が案内する店はいつも目立たない所にあって客もパラパラとしかいない傾向があった。
緑にどうしても聞きたい。でも今更聞きづらい。ということで、私はお酒の力を借りる事にした。
今日はひたすらビールしか頼まないつもりだ。
2杯目のジョッキを飲み終えたところでようやく酔いが回ってきた。
「緑はさぁー裕子とどう?」
「ん?どうって?」
「付き合ってんでしょーこのこの」
ほっぺをつつかれて緑は顔をしかめていた。
「付き合ってないよ」
「うそだーかくしごとだーいそぎんちゃくだー」
「イソギンチャク?まあいいや。付き合ってないよ。本当に」
「ほーんとー?なんで目あわせないのかな?3人増えても私にはつーよーしないぞー」
「・・・・・・」


頭と体がぐわんぐわんする。まるで揺れているみたいだ。いや、体は本当に揺れていた。一定のリズムで上下に動いていた。
この状況を必死に理解しようと頭を働かせようとするも、思うように動かなかった。
目の前には、薄暗い中に等間隔で光るモノがある。
ぼーっと眺めて気がついたことは、いつの間にか店を出ていたことだった。
「お、目覚めた?」と横から声がする。
向いて見るとそこには緑の顔があった。そこでようやく緑におぶられていたことに気づく。
「なに!え、なんなの!下ろして!」と暴れると「はいはい」と言って緑がしゃがんだ。
とりあえず降りて、よれた服を正していると緑が話し出した。
「日下部さん、酔いつぶれて大変だったんだぞ」
「そう・・・ごめんなさい」
とりあえず前に歩きだそうとしたらふらついてしまった。
緑は手で抑えるようにする。「足元大丈夫?」
「うん・・・大丈うぷっ」
咄嗟に口を手で押さえる。それでももう無理だ、急いで壁の方によって行き上半身を倒した。
体の中に溜まった灰汁を根こそぎ落とすように嘔吐した。その時、私の体は灰汁どころかこれまでの何もかもに対して、残ることを許さなかった。
「大丈夫か?またおぶろうか?」と緑が言うので呼吸を整えてから「いい」と言って前に進む。
「ねえ、どうして裕子と付き合わないの?告白されたんでしょ?」
「安永さんには悪いけど、俺にはもう好きな人がいるんだ。学生みたいだと笑うかもしれないけど、俺には好きな人から安永さんは振った」
「裕子、あんなにいい子なのに。綺麗だし、可愛いし、元気だし。話してていい気分にさせてくれるとってもいい子なのに。そう思わない?」
「思うよ。あの人と恋人なれる人は幸せになれると思う」
「でも、振ったんだ・・・」
「ああ」
「好きな人がいるから・・・」
「そうだ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
半分泣きそうだ。「裕子のことそんな風に思ってて、それでもその人を選ぶなんて、誰がそんなに好きなの。」
「・・・・・・」
「・・・・・・だれ?」
緑は大きく息を吸った。「日下部さんだよ」
「なんで、なんで私なの!私なんて、あんまり喋らないし、仕事もできないから出世もできなくて、おまけに!ストレスに負けてパンツ下ろしちゃうような変態なの!それなのになんでよ!なんで裕子じゃなっ・・・・・・」
急に体が暖かく、大きいものに包まれた。
緑に抱き締められている。それがわかるとなぜだか涙が溢れてきて止まらない。
「わだしなんでごんな、ごんなどごろで吐いぢゃうし、今だっで絶対口ぐざいし」ヒックヒックと泣きじゃくりながらも、必死に喋った。言葉になってるかなってないかはこの際どうでも良かった。何もかもがどうでもよくて、ただただ訳もわからず喚いていた。
すると、急に顔を引き寄せられ、緑にキスをされる。
口が制されて、息ができない。苦しい。けど、嫌じゃなかった。どころかいつまでもこうしていたい。このまま時が止まればいいのにと思った。
そうなると私の体は緑を求めて止まらない。
この時間にもどんどん、私の心は緑に犯されていく。
唇と唇が離れたとき、私はもうむやみに泣き喚こうとはしなかった。しかし、涙は溢れて止まらない。
そのまま私達は家に帰らず、どっちかが言うでもなく自然にラブホテルに入って、お互いを激しく愛し合った。
「今日は、履いてないんだね」と緑が言うので、「いや、吐いたじゃん」と言ったら笑われた。

セックスを終えた私たちは、そのままホテルの布団で眠ることにした。
2人と面倒くさがって服を着ようとはしなかった。
なんだか居心地が悪くて、「おやすみ」と言って緑に背を向けて寝ようとすると、「なあ、日下部さん。まだ返事聞いてなかったね」と背中の向こうで緑が言っているのが聞こえた。
「返事って何?」
「俺が日下部さんを好きだって言った返事」
「私も・・・・・・」
逃げられなかった。
「私も緑が好き」
そして逃げられなかったことが、少し嬉しくもある。
私は振り向いて、緑と顔を向き合わせて言った。
「私も、あなたが好きです」
「それじゃあ、俺と付き合って下さい」
「はい」

布一枚

布一枚

  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-08

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