人の穴
黒海に面した東欧の国ルーマニアでは、マンホールで生活する人がいるという。
僕は早坂隆さんの著作「ルーマニア・マンホール生活者たちの記録」を貪るように読み耽り、その内容に瞠目し、強く感化され、平和な日本人として生きる日々を虚しく思った。
八十年代のルーマニアは計画経済の挫折により、人々は飢餓と貧困を経験した。突如として勃発した革命が成功したものの、その実、人々は革命による疲労によって憔悴していた。ルーマニアは共産党支配が終焉を迎え、民主化したが、富める者は少数だ。最底辺の人々はマンホールの中でやり切れない思いを抱えながらも、力強く生き抜いている。僕は不条理の世を生きるルーマニアの人々の気持ちを汲み取りたくなった。だから、僕の住む日本とルーマニアでは環境が違うが、彼らの悲痛な体験を生の感覚で知りたいと感じ、日本のマンホールの中に侵入しようと心に決めた。
僕は作業員ではなく高校生だ。マンホールの作業員ではないので、マンホールを開けるための工具を家に常備していない。どうしたものかと思案していると、一週間前、駅頭の電柱に『マンホールの作業員バイトを募集しています』という金文字で書かれた張り紙を見つけ、即座に電話をかけて応募した。面接に受かり、初日の作業をすることなく事務所から工具を盗み取ってきた。バイト生として作業に従事してもよかったが、マンホールには自分の足で行ってみたいという気持ちのほうが勝っていた。
準備は万端だ。電車に乗り込み、大阪の繁華街から出外れる。下車する。しばらく歩いていると田舎の畦道を見晴るかすことができた。道路の脇に立つと、間隔を空けて設置されたマンホールがぽつぽつとあった。マンホールに近寄る。マンホールは鋳鉄が錆びたからなのだろう、赤茶けてもいるし、黒々としているようにも見える。鼠や汚水で溢れた地下世界へ誘う平べったい円形の扉だ。
マンホールの表面を注視すると、花と風に囲まれた大阪城が克明に意匠されていた。
僕は事務所からくすねてきた鉤型のバールキーという工具をバックから取り出した。それをマンホールの外縁にある摘まみ穴に挿入する。力を振り絞って重量感のある蓋を引き開けた。蓋を外してマンホールの中を覗く。
――暗闇に飲まれそうだ。読書とは違う、現実に根付いた暗闇が堂々と息を巻いている。
圧倒的な暗さが僕の眼差しを襲った。
濁った空気が鼻筋を掠めた。そしてすうっと鼻の奥に入り込む。糞尿の匂いだ。
僕はハンカチで鼻を覆い隠し、マンホールの梯子段に足をかけ、一段一段降りていく。
――ここがマンホールの中なのか。蓋で一枚隔てた日常とは全く景色が違う。
僕は足を止めた。大切なことを忘れていた。ガス検知器で二酸化炭素、窒素、硫化水素の濃度を計測しなければならない。濃度が安全圏でなければ、場合によっては死に至ることもある。
慌ててバックからガス検知器を抜き出し、計測する。正常の値を示している。
――侵入を続行しよう。
梯子段から離れて、地下世界に両足で降り立った。風はなかった。しかし、音があった。びちゃびちゃと音を立てながら汚水が波打っている。日光を白く照り返す大阪湾ではなく、陰鬱な輝きを帯びた青黒く、下品な泥水だ。
僕は懐中電灯のスイッチを押し、通路をくまなく歩き回った。懐中電灯の弱々しい光線によって浮かび上がる地下世界は、ホラーゲームの世界と同じで、僕の心拍数を空恐ろしいほど上昇させる。ここに存在するのは僕だけで、他には誰もいない空間。そう考えると、奇妙な世界なのに、なぜか心が躍った。その理由は、心のどこかで日常とは違う世界――ここではないどこか――を求めていたからなのかもしれない。
歩き疲れた。踵を返して地上に戻ろうとした折、眼を疑った。前方にダンボールで作られた家らしきものがひっそりと居を構えている。僕は眼を何度も擦り、再度見つめたが、やはりダンボールの家があった。
――ホームレスの人が生活しているのだろうか。ルーマニアと同じく日本にもマンホールで生活する人が存在するのだろうか。
腹の底から煮沸するような、湧き上がるような興奮で、身体がぐっと前のめりになりそうだった。
――近寄ってみたい。覗いてみたい。
僕は好奇心に溢れた人間だ。奇妙な情況だが、臆することなくダンボールの家に向かって駆け寄った。
「すみません。僕は大阪の高校生です! マンホールの中に興味があってやってきました!」
その瞬間。
ダンボールの中から女がのっそりと出てきたのだ。服装は白黒の千鳥格子柄のジャケット、グレーのタイトなパンツ、色の褪せたヒールを履いていた。全て薄汚れていた。顔は埃まみれでもっと汚れているが、化粧をほどこせば美人だろう。歳のころは二十代後半くらいだろうか。
女は、無数の皺でよれた服を丁寧な所作で直しながら僕を見つめた。
「ああ! 神さま感謝します! 男がやって来てくれるなんて!」
僕はその突飛な言葉に異常性を感じて、反射的に後ろに下がった。
――頭がおかしい女だ。なにが神さまだ。男が闖入してきてそんなに嬉しいということは、性欲にかまけた欲求不満の女なのか?
「すみません。僕やっぱり帰りますね」
「ま……ち……な……さ……い!」
僕は、女の呪詛するような切り口上の声に身を震わせた。逃げようと思ったが、怯えによって足が一歩も動かず、まるでメデューサに睨まれ石に変化したような状態だ。
女は話を継いで、
「ねえ。マンホールってどういう意味か知っているかしら?」不吉な舌なめずりをした。
「し、し、し、しらないよ」呂律が怪しくなり、息が乱れてきた。足は硬直している。
「よく聞きなさい。一言一句漏らさずにね。マンホールって、『人の穴』っていう意味があるの……」
「い、意味がわからないよ。『人の穴』ってどういうことだ!」
「太古の昔から穴は存在したの。文明がなかった前時代には洞穴。年月を経て、穴は時代に合わせて姿を変えていった。穴は形態を変えて進化するの。現代ではマンホールになったというわけね」
怪しい口ぶりとは裏腹に、女の顔は真剣そのものだ。女の不可解な態度に僕は胴震いした。
「そ、それがどうしたっていうんだよ!」声を荒げて言った。
「穴には番人がいるの。番人制度って呼ばれているわ。この制度は太古の昔に存在した賢者によって作られたの。賢者は高度に発達する文明の姿を予知し、その暗澹たる姿に嘆き悲しんだ。だから番人を文明に汚染されていない、ありのままの、裸の人間として地球に存在させたかったのよ。そして番人に選ばれた者は永遠に穴の中で生活しなければならない。今でいうと、マンホールのことね。でも、たったひとつだけ番人から逃れる術があるの……」
女は終始冷静にそう言うと、僕の身体を凄まじい力で抱きしめ、そのまま勢いに任せて唇を重ねてきた。僕の口内に女の舌が蛇のように這い回る。舌が僕の唇から離れ、女は満足そうな表情を浮かべて低く笑っている。
「これで番人の交代よ……」
僕は出し抜けの恐怖のキスに戸惑い、息を切らせながら、
「交代?」と小さな声で訊ねた。
「そう。マンホールの番人になった者は決して地上には出ることができない。けれど、異性にキスをすると地上に出られるの」
僕はいよいよ心底不気味な気持ちに支配されて、
「じゃあ、僕はマンホールの中に新しい女がやって来ないと……永遠に出られない……ということか」
「察しがいいわね。その通りよ。今までの話は前の番人に聞いたの。だから、あなたも忘れることなく『人の穴』の話を憶えておきなさい。あなたの次の番人に伝えるためにね……。話を戻すけど、私は三十年間待ったわ。その間、一切歳を取らず、腹も空かず、話相手もいない――永遠の孤独がずっと続くと思っていたわ。最初の頃は気が狂ったものよ。どこまでも広がる暗く黒く深い世界にね。ある日、私はお腹は空いていなかったけれど、鼠を食したわ。水分は……下水を飲んだりもしたわ。食物を食べることで正気を維持したの。人間という種であることを意識として風化させたくなかった。忘れたくなかったから。今度はあなたが何十年もかけて私の苦しみを知ってね……。それから、マンホールは決して開かないわよ……」
そう言い残して女はすうっと消えた。地上に戻ったのだろうか。それとも違う場所へ消えたのか。そのどちらも僕には判らない。
ただひとつ判っていることは、僕がマンホールの番人になってしまったということだ。
――人の穴。
僕は人の穴の中に転落してしまった。これは天罰なのだろうか。日々浮かれて生きる日本人の僕に、ルーマニアの人々の怨念が、太古の賢者の嘆きが、襲いかかったのだろうか。
ふと上を見やった。
微かな光さえ射していない。地上と地下世界を分断する黒き土の、天を閉ざす蓋があるだけだ。地上が果てしなく遠い場所に思えた。
どれだけの年月が経ったのか判らない。
だが、今この時、僕は長年待ち望んでいた異性を目の前にしている。十代前半くらいの女の子に『人の穴』の説明をして、悲しいキスをした。女の子は抵抗するそぶりすら見せず、泣き叫びながら愕然として、僕の唇に弄ばれている。僕は本意でしたつもりはない。しかし、これでやっとマンホールの番人という呪縛から開放される。
すると、僕の身体は前の番人だった女と同じようにすっと透明に消えて身体が軽くなった。僕の眼差しに映る女の子は、昔の僕と同様に激しい不安に駆られているように見えた。
昔の番人だった女は人の穴から消えた後、その眼にどんな世界を映したのだろうか。澄み渡る清冽な青空だろうか。長く顔を合わせていない親愛なる家族の姿だろうか。それとも文明社会を快適に過ごす平和な日本人の姿だろうか。
僕の眼には――なにが見えるのだろうか。
人の穴