大地君の夏
大地君は小学6年生だ。
大地君を見る人は大地君がメガネをかけているから頭が良いと思うかもしれない。けれど、プロの囲碁棋士とは気がつかないだろう。現在プロ3段。プロになるのは大変だ。年に数人だけなのだ。
大地君が囲碁を知ったのは偶然だった。小学校4年生の夏、お父さんの田舎へ行った。田んぼの広がる田舎で遊んでくれる友達は簡単にはできなかった。やはり都会の子、田舎の子供とは合わない。大地君は引っ込み思案の子だからなおさらだ。
そんな夏休みのある日、昼ごはんを食べた大地君はつまらなかった。テレビは甲子園の野球くらい。持ってきた本も読む気にはならない。宿題ももうやり終えてしまった。ああどうしよう。ひとりっこの大地君は広い田舎の10畳間で寝転んで天井を見ていた。かわいそうだが仕方が無い。やることが無くてつまらない。昆虫採集は好きじゃなかったし。走ったり跳んだりの運動も苦手だった。あと20以上もある夏休み、気が遠くなる。
とうとう大地君はたまりかね裏の八幡様に行ってみることにした。鎮守の森が深く、大きなクスノキがある。
ミンミンゼミが鳴く中、大地君はおそるおそる八幡様へ行った。何かあるかな?と思いながら。大きい鳥居を抜け、正面の社殿を見ると知らないおじいさんがお社の縁に腰をかけ、なにやら木の盤のようなものに石を置いている。大地君はおそるおそる近づいた。
今は分かるがおじいさんは碁を打っていたのだ。おじいさんは人が来たことが関係ないように黒石を盤に打つ。するとひとりでに白石が「パチーン」と盤の上に打たれた。大地君はその様子をすぐ近くで見ながら、目を丸くした。これは何だろう?今起こっていることに疑問の余地は無かった。白石が盤面にひとりでに現れるから恐ろしい。「パチーン」という音も耳から心に響く。
30分ほどして、このゲームが終わったようだ。おじいさんが、
「ああ負けた。八幡様には勝てんなぁ」
と独り言を言った。おじいさんは年のころ70くらい、のら仕事の身なりをして頭は白髪だ。そして盤上の石を片付けると大地君のほうを見て、
「坊や、なんて名前だ」
「ぼ、僕、大地って言います」
「大地か、いい名前だ。囲碁にぴったりだ」
「イゴ?何ですか?」
「いま、ワシがやっていたゲームが囲碁だ。2人でやるゲームなんだ」
「でもおじいさんは1人ですよね?」
「ワシか、ワシは八幡様と毎日打っとる。大地君、君は囲碁をやる気はないか?」
「そうですね、じゃあお願いします」
「そうかじゃあまずルールを教えてあげよう」
おじいさんは大地君にルールを教えた。ミンミンゼミの鳴き声が消え、今度はヒグラシが、
「カナカナ、カナカナ」
とつぶやき始める。
囲碁は自分の石が囲んだところが少しでも広いほうが勝ちとなる。石の死活やコウのルールもあるがシンプルで深みのあるゲームだ。このルールをすぐに覚えてしまった大地君。おじいさんはにんまりして、
「坊主、やるじゃないか、じゃあ実戦と行こうか、黒石を持ちなさい」
「はい」
大地君は時間を忘れて囲碁を打つ。
大地君の始めての囲碁。指導碁と言っておじいさんは教えるための戦いをする。1時間くらいで碁は終わった。大地君は勝った。でも納得いかない。指導碁であることが分かったからだ。
「おじいさん、本気でやってよ。なんだか面白くないんだ」
大地君は不満だ。
「そうかい、じゃあ本気を出すよ」
今度の碁は難解だった。大地君の石は全部取られてしまい、ゲームにならない。悔しいと、と大地君は思う。
「じゃあもう一度」
「一番星が出たな」
あたりは暗くなり始め、宵の明星が西の空に輝いているのを大地君も見た。
「じゃあまた明日ここでまっとる」
おじいさんは石を片付けると、盤を折りたたんでテクテクと去っていった。
大地君はその夜寝付けなかった。おじいさんのこと、囲碁のこと、八幡神社のことがグルグルと頭の中に回り続け、そしてあの石を全部取られた一戦のことなどが思い出される。この家は農家だから庭が広い。大地君は庭に出てみた。夜は怖くない。
「わあ、すごい星だ」
いて座あたりの銀河が本でも読めるくらいに輝いて地平線につながっていた。そして、ひときわ目に付くのがさそり座の一等星、アンタレスの赤い光。アンタレスとはギリシャ語で火星に対抗するものと言う意味。戦いの星だ。そんな知識を持たない大地君だったが、その光をみて、
「そうだ、あの石、あそこに黒を打てば勝てたかも知れないんだ」
とひらめいた。あたりは静かで、縁側に座って考えた。あそこに打つ、白はこう来るだろ、そしたら僕はここに打てばいいんだそうすれば白は困るよな。と考えているとキリギリスが「ギーチョン」と鳴き、エンマコウロギが「コロコロ」と鳴きだし、虫の合唱が続いた。
「よし、明日は負けないぞ」
大地君は胸に決めた。だんだん眠くなったので部屋に戻って布団に入った。おじいさんに勝つ夢を見る大地君、まだ小学4年生だ。
朝、起きて、大地君は朝食をもりもり食べ、目を輝かせて八幡様に行った。今日は負けないぞと意気込んで。
神社の社にはまたあのおじいさんがいた。
「おう坊主、また来たか」
「おじいさん、今日は負けないよ」
「ほほう昨日覚えて今日は勝つか。たいしたもんだ。だがな、今日は定石というのを教えてあげよう」
「ジョウセキ?何それ?」
「戦う基本の打ち方だ」
とおじいさんは碁盤を広げて、1人で打ち始めた。
「まずここに黒が打つだろ、それが基本だ。そうしたら白はここへ打つ。次にこう打つそしてこうこう……」
大地君は定石を胸に刻んだ。そうかルールのほかに戦い方の基本があるんだ。
「分かったか大地君。今度は今の定石を君がならべてみておくれ」
「まずここ、次に白はここ、そしてこうこうでしょう……」
「よしそうだ。よくやった。じゃあ次に他の定石を教えよう。まず最初はこっちに打つ。次はこうだそして……」
「定石ってたくさんあるんですね」
「そうだ何百とある。でも、君なら自分で自分の定石を編み出すことができるはずだ。昨日打ってみてそう思ったよ。ああもう昼時だ。ご飯を食べに行きなさい」
「じゃあそのあと打ってくれる?」
「いいとも」
昼食に帰った大地君は、おばあさんの手作りのお焼きを3個も食べた。定石を覚えるのにエネルギーを使ったからかも知れない。そしてまた神社に向かった。
おじいさんが握り飯をむしゃむしゃと食べながらまた八幡様と碁を打っている。大地君はその様子を近くで見た。おじいさんの心は分からないが何かを教えようとしている気がした。大地君は白石が自動的に打たれるのにまだ驚きの気持を持ったが、それより実戦を見ることで囲碁の色々を知ることに意味があると子供心に思う。
「また負けた~八幡様には勝った事がないよ」
とおじいさんはつぶやくと石を碁笥(ごけ:碁石を入れる入れ物)に戻した。
「おじいさん、今日は勝つからね」
大地君は宣言した。おじいさんは、
「その前にさっき教えた定石を1つならべてみなさい」
とひと言。するとこのちびっ子棋士は石を受け取るとすらすらならべた。
「っとここまでです」
「よろしい、ではワシは本気で打つからな」
「うん、お願いします」
「はいお願いします」
局前のあいさつも定石のひとつだ。
2人はその後、3回戦った。大地君は全部負けたが、おじいさんは、
「いい碁だ、3級くらいの腕前だ」
とほめてくれた。そして、
「ああ一番星が出た」
と空をあおぐ。
「じゃあこの辺で」
おじいさんはつぶやくとテクテクと大地君を残して去っていった。このくらい打っただけで3級とはすごいのだが、大地君にはそのすごさが分からなかった。でも「いい碁だ」と言ってくれたのだから、少しうれしかった。
大地君は囲碁が好きになった。今日の3局も振り返ってみるとだんだん自分が碁の面白さに目覚めていくのが分かった。
大地君は家に帰ると、おばあさんに、
「碁盤と石ありますか?」
と聞いた。おばあさんは、
「碁盤?あるよ。五目並べでもするんかい?」
大地君は、
「囲碁を覚えたんです。使わせてください」
と答えた。おばあさんは、
「覚えた?どうやって」
大地君はおじいさんに教わったことを人に言うとなんだかいやな気がして、
「本をよんでです」
とはぐらかせた。
その碁盤はあのおじいさんが使っているのと違って足つきの立派なものだった。碁石も本格的なもので高価だ。きちんと手入れがされて綺麗なものだった。
碁盤を見つけるとさてどうしようかと思った。囲碁の相手はちょっと思いつかない。おばあさんも五目並べって言ってたし。あ、そうだ、考えてみると囲碁って新聞に載っているはずだ。今までは無関心だったけど確かに新聞に載ってた。
「おばあさん、新聞見せてください」
「新聞?大地も新聞をよう読むようになったかい。ほい毎朝新聞」
大地君は囲碁欄を探した。確かスポーツ面のあたりだったな。あったあった。名人戦第3局。数字がごちゃごちゃしているし、数字のない石もある。この前までは数字の無いところまで進んでいたんだな、と思う。だったらその前を知りたい。
「おばあさん」
「なんじゃい」
「前の毎朝新聞はないですか?」
「古新聞かい?ここに積んであるから探してみてごらん。でも何に使うんじゃい?」
大地君はさらっと気転をきかせ、
「天気を知りたいんです」
「ああ、絵日記かい。それは大切じゃな。それよりもう夕飯じゃからまずそっちを先にしないかい」
そういえばお腹がすいている。でも囲碁のことをそしておじいさんの笑顔を思うと食事なんか忘れてしまうほどなのだ。
この家は分家で、今はおばあさんだけが家を守っている。おばあさんは働き者で本家と一緒に田んぼで米を作って暮らしている。おじいさんは亡くなって今はいない。大地君の両親は東京の家に住んでいる。夏休みだけ大地君を実家にやったのだ。
夕食後、大地君は古新聞の中から名人戦の棋譜(碁の手順を書いた図)を探し出して今までの手順を見つけた。そしてそこだけ新聞から切り抜いて碁盤上に第1手から碁石を並べ始めた。でもすぐ眠たくなった。棋譜を並べる作業は集中力とある程度の経験が必要だし、名人戦ともなると石を打つ意図がまだまだ大地君には分からなかった。
「うーん難しいな。これはおじいさんと打ったほうが面白いや」
と30手ぐらいで投げ出してしまった。
夜、ちょうどテレビの映画で「となりのトトロ」をやっていた。まだこのアニメを見ていなかった大地君はおばあさんといっしょにトトロを見る。山の妖精と都会から来た子供たちがおりなす不思議で現実にはありえない物語だ。大地君は自分もおじいさんと八幡様の奇妙な碁を見た。作り話でもなんでもない。現実だからこっちの方がすごいんだと思う。でもトトロの暖かさや雰囲気に引き込まれ囲碁のことを忘れて最後まで面白かった。おばあさんが、
「さあさあ、もう11時だよ。ふとんをしいておいたから練る寝る」
大地君は明日こそあのおじいさんに勝つんだとすぐ寝てしまった。家の外は虫たちの大合唱。
次の日の朝、大地君は少し早く起きてしまった。おばあさんはまだ寝ている。よし、八幡様へ行ってみるか、と大地君は思った。庭に出ると陽光がまぶしく、田舎の朝はさわやかだ。おじいさんがいた。おじいさんはひとりで碁を並べている。八幡様との大局を振り返っているのだろうか。
大地君は、おじいさんの作業が終わるのをきっかけに前から知りたいと思っていたことを聞いてみた。
「おじいさん、あのーお名前は?」
「ワシか、ワシは碁助じじいと呼んでくれ」
「碁助じじいさん……」
「さんはいらん。碁助じじいじゃ」
「碁助じいさんでもいいですか」
「まあ、いいが。ところで大地は早くきたなぁうちの人が心配するから帰りなさい」
「は、じゃあ」
家に帰るとおばあさんが朝食を作っていた。
「さあ、食事だよ」
「はーい」
大地君は卵焼きと昨日の残りのギョーザとごはん、味噌汁をすぐに平らげた。
「この子はどうしたのかね。一気に人が変わったようになって」
おばあさんは少し心配になった。でも大地君はあの碁助じいさんのことは決して人に言うことは出来ないと子供ながらにそう思っている。だから、
「おばあさん、料理の腕あげたね」
などと取りつくろう。食事を平らげた大地君は碁助さんに会いに行くべく、すぐに庭に出た。
「おーい大地、どこへいくべ?」
おばあさんが声をかけたが大地君は、
「友達が出来たんだ」
と半分うそを言った。
八幡様へ行ってみると碁助じいさんがまた神様と打っている。まだ序盤戦で大地君は自分ならこう打つと考えながらその様子を見ていた。ミンミンゼミの鳴き声でその日は特別暑く感じた。でも温度など今の大地君には関係ない。引き込まれるように盤面を見る。それはすごい戦いだった。初歩の大地君にもその素晴らしい石の展開に圧倒させられるほどだ。昨日並べた名人戦は数字を追いながら並べたから良く分からなかったけれど、こうして目前で打たれるとその意味がよく伝わってくる。一手一手に素晴らしい意図があり、
それが自分なりに良く分かったから大地君はしびれた。これが囲碁の醍醐味なんだと実感する素晴らしさ。囲碁は自分の陣地をどれだけ多く取れるかのゲームだ。そのためにはなんでもする。中盤戦で八幡様の一手に疑問を感じたが、十数手先には驚くほどさっきの一手が効いている。じいさんもさるもの、負けてはいない。大地君の想像もしない一手を打ち返した。
「これはもしかしたら碁助さんが勝つかも」
そう思うと武者震いがしてくる。自分もじいさんだけでなく八幡様に勝つんだと言う勢いだ。
結果は碁助さんの半目負けであった。
「あー今日は勝つと思ったのにうぅぅ」
じいさんは心底くやしそうだ。石をしまうとじいさんは大地君に気付いた。
「おう、坊主、見てたか今の勝負」
「はいすごかったです。ところでどうやったら八幡様と打てるんですか?」
「そうだな教えてやれなくも無いが、まずこの碁助じじいに勝ってからだ今日もやるか?」
「うん、今日こそ勝つからね。何しろ新聞の囲碁欄を見て研究したんだ」
これもまた半分うそ。じいさんは、
「研究?10年早いわ。はっはっは」
と図星を言った。
「その前に、さっき八幡様と打ったのをこの盤に並べてみなさい」
碁助じいさんはそううながした。
「最初はこうなっていました。そこから僕が見た順番は」
と大地君はすらすらと並べて見せた。
「よし、大地、そこまでの集中力は素晴らしい。でも最初の一手から分からないようじゃあまだまだだな。よし、1局いくか」
「はい、お願いします」
「ではお願いします」
2人は時間を忘れて碁を打った。
そんなことが日常になった。碁助じいさんと大地君は毎日、碁に明け暮れた。大地君はめきめき上達し、
「うん、これは俺の勝ちだが、実力からして大地はもう初段から3段と言ったところだな」
大地君はうれしかった。3級といわれるより3段といわれる方が格別にうれしい。
「でも……」
「でもなんだ?うれしくないか」
おじいさんは笑顔だった。そう、大地君はまだ1回も碁助じいさんに勝ったことがないのだ。大地君の心はよく分かる。まあ置き碁と言ってあらかじめ4個、3個、2個と黒石が置いてあれば高段者にも初心者は勝てるのだが、2人はいつもハンデなしで戦ってきた。だからといっておじいさんは石を置かせる気配は最初からなかった。
そんなことが日常になったある日、夕方から夜にかけて八幡様で盆踊りをやっていた。おばあさんが、
「いこうか、面白いから」
おばあさんは大地君と行くことになった。大地君は碁のことばかりしか考えていなかったから八幡様で盆踊りとは意外だった。いつもの道だが夜だから感じが違う。鳥居の中がほの明るい。
そこは盆踊りの会場となっていた。参道には夜店が出ており、はだか電球の灯りの中、境内を歩くと、社殿の前の広場にやぐらが立ち、その上で人が太鼓をたたいている。やぐらの周りはおばさんたちが太鼓の音にあわせて舞い踊る。
よく見ると、太鼓をたたいているのは碁助じいさんではないか!太鼓を、
「ドドンカドン、ドドンカドン」
とリズミカルにたたいている。そこは全くの不思議空間であり、この世のものとは思えない雰囲気をかもし出す。大地君はその光景に見入っていた。
その時、やぐらの向こうで軍服姿の人が2人碁助じいさんに向かって敬礼している。しかも2人とも影がないではないか!大地君はその2人を見て幽霊だと思った。怖かったが、何かを訴えているような、おじいさんに感謝しているような様子なのだ。
「ほら、ぼさっと立っているんじゃないよ」
おばあさんが、声をかけてきて大地君はドキッとした。次の瞬間、軍服の幽霊は消えてしまった。おじいさんは何もなかったように太鼓を打ち続ける。このことがのちのち大地君の記憶に残り続けた。
盆踊りは続く、大地君とおばあさんは盆踊りの輪に加わって、大地君は見よう見真似で何周も踊った。碁助じいさんの太鼓は深みのある音色をさらに打ち出して、鎮魂の音をたたき出す。大地君は必死で踊った。いつまでもいつまでも。夜は暑苦しく更けていった。
次の日は雨だった。幽霊が又出ないかおそろしくちょっとおっかなびっくりに傘をさして八幡様へ行った。碁助さんはいなかった。大地君はしかたなく家に帰った。そこで碁盤を出して今まで打ったおじいさんとの碁を並べなおし、検討した。なぜおじいさんに勝てないのか。なぜ碁助さんはいつも勝つのか。並べてその理由を探った。何十年も打ち続けてきたおじいさんに覚えたての自分が勝てるはずがないと思いながら、勝負の分かれ目を研究した。ここをコスんだらおじさん困るよな、いやもっと前に上辺に地を作ってここを切断すると良かったな。厚みを持たせて余裕がほしかったしここのヨセが悪かったんだ、いやいや定石にこだわる打ち方がいけないんだ。そんな問題点がいくつもみえてくる。
次の日、天気も良く、これならおじいさんは神社にいるな、と大地君は朝食を急いで食べ、八幡様へ行った。やっぱり碁助さんはいた。1人で碁石を並べて検討している。大地君に気付くと、
「坊主、八幡様には勝てんのう」
と頭をかいた。大地君は、
「おじさん、盆踊りで太鼓をたたいていたね」
と初めて碁と名前以外の話しをした。
「あれがわしの仕事だ……。毎年、毎年」
とつぶやいた。田稲山の向こうを見るような目で。
「よし、今日もやるか。ようしゃはせんぞ」
また大地君とおじいさんは毎日碁を打った。
そして数日後、もう夏休みが終わろうとしていた。ミンミンゼミの声がヒグラシに変わり、今度はツクツクボウシが鳴いている。
「やった!勝ったあーーーーー」
「坊主やったな、このワシに勝つとは」
「うん、ここのツケがいい手だったでしょ」
「うむ、それだけではない、勝負を焦らないようになってきたし、目算もきちんとできている。攻守の均衡もいい。アマ5段ぐらいの腕前だな」
大地君はうれしかった。じゃあおじいさんは何段なんだろう?
「あのーおじいさんは何段なの?ですか」
「ワシか、ワシは段位をもっていないよ」
「そうなの?」
「そうだ。うちは分家でな。段位を取るにはお金がいるんだよ。高段位ほど。でもワシは段位なんか必要なかった。囲碁の神様、八幡様と碁が打てるからな」
「囲碁の神様?八幡様が?」
「本当はそうじゃないよ五穀豊穣を祈る神様なんだがワシにだけ碁を打ってもらっている」
「神様っているんですね」
「そうだよ。ワシに勝った大地が今度は神様に挑戦するんだ」
「でももう2日で東京の家に帰らないと」
「こっちに座ってごらん。ワシの座っている側に」
「え?」
碁助じいさんは席を譲った。大地君はそこに座るとおそるおそる一手目を打った。何も起こらない。
「そうか、まだなんだな」
「まだ、ですか」
「ワシの場合もそうだった。じいさんとここで碁を打っていて強くしてもらった。じいさんはプロ級の腕前を持っていた」
「それで」
「わしはじいさんに勝った。そこでこの盤と石をもらったんだ」
「でも八幡様と打ててますね」
「話しを急ぐな、大地。ワシはプロ級だと言われた。じいさんにな。プロになるんだとそのとき考えた。しかし、戦争が何もかもぶち壊してしまったんだよ。赤紙がきて戦争に行かされた。ワシはニューギニアに送られ、アメリカと戦った。陸軍2等兵さ」
「戦争ですか……」
「おう、太平洋戦争だ」
「ジャングルをさまよった。ワシは棋士(プロ)になりたかったから、絶対生きて帰るんだとその一念じゃ。何度も死にかけたよ。でも八幡様のお守りを持っていったから怖くはなかった。八幡様はどんなお願いでもかなえてくださる。こんなことがあった。連隊の中に棋士がいてな、話が合った。そこで2子おいて頭の中で碁を打ったんじゃ。碁盤も碁石もないからな。「黒3の九」「白4の7」とやった。しかし今まで打った盤面が覚えきれない。頭の中で碁を打つのはプロでも8段、9段の人でも難しいと言われている。ワシも頭が痛くなって勝負にならなかった。そうしているうち、この碁打ちが上官の耳に入って、陸軍少尉がワシら兵隊の方に来た。「碁を打つ者、こっちへ来い」ワシらふたりは殴られるものと覚悟してついていった。通されたのは上官の部屋だったと記憶している。少尉は「おまえたち棋士か?」「私は棋士であります。こちらも棋士並みの人です」「じゃあこの碁盤で打ってみろ、ウヰスキーをやるぞ」」
「それでどうなったの」
「ワシらは真剣に打った。少尉さまは碁が好きだったんだな。碁って言うのは昔の侍や大名が好んでやったゲームで、実戦に応用されたりしたんだよ。ワシらの碁を少尉はジーっと見ていた。ワシは負けた。しかしいい碁だったよ。1目半。終わったら約束どおりお酒をくれた。スコッチウヰスキー。敵の酒だったがうまかったのを強烈に覚えている。ニューギニアのジャングルでスコッチが飲めるなんて思いもしなかった。それから少尉と打ったりした。強い人だった。そして「このことは他言ならん」と釘をさされたが、ワシら2人は上機嫌だった。ただ、隊に戻ると真剣な顔になった。「あの少尉のことだ殴られたろ」とかいろいろ言われた。でもこのことは秘密だったから「ああ殴られたよ」と答えておいた」
「そんなことがあったの。でもスコッチってなに?」
「イギリスのスコットランドのことだ。そこで造ったウヰスキーだからスコッチウヰスキーっていうんだよ」
「アメリカとイギリスが日本と戦争してたんだね」
「そうだ、でも今はアメリカやイギリスに碁打ちは多いんだよ。日本棋院にもいる」
「日本棋院?」
「そうだ、そういえばさっきの話だが、プロになるには棋院のテストがいるんだよ」
「テスト?」
「リーグ戦で上位3人。その前に予選もある。でもな大地、今の力じゃまだまだだ。プロになる力は院生になって磨くこと」
「インセイ?ですか」
「子供や青年が碁を学ぶ塾みたいなところだ。お前には充分院生になれる。なるか?」
「うん、プロになって八幡様に勝ってみせるよ」
「よし、よく言った。でもなプロへの道は険しいぞ。ワシは戦争から帰れた。当時、南方から帰れたのは数えるぐらいだ。あの棋士も少尉も戦死された。他の戦友もほとんど帰れなかった。その位険しい、プロの道は」
「でもやりますよ。僕はやる」
「命がけで精進して初めてプロになれるし、八幡様とも打てる」
「うーんなんだかよくわからないなぁ」
「そんなもんだ。自分で築くんだ。これをあげよう」
おじいさんは盤と石をくれた。
「これ、こんな大切なもの……」
「持ちにくいだろう、家まで持ってってやる。」
碁助じいさんと大地君は家に行った。そこではおばあさんが待っていた。
「あらら碁助さん大地と碁を打ってたんじゃね」
「強くなりましたよ」
「あれ、知り合い?」
「碁助さんは本家の遊び人で通っているからね」
「千枝ちゃんがいっとうの碁がたきじゃ、強いんだぞプロ並みだ」
「おばあさん千枝っていうの?」
「何だ知らなかったのかい。碁助さんが話しをせんだったかい」
「さてと、今日はここで飲むかな」
「人のうちで酒を呑む。悪いくせじゃな」
夜、碁助さんとおばあさんがお酒を呑んだ。本当は碁助さんは働き者だったらしい。プロになるリーグ戦に1回しか出してもらえなかったこと。そこで負けてプロはあきらめたことなど碁助さんの秘密のベールがはがれていく。ただし八幡様と打つことは内緒らしい。だれが見てもそのすがたは見えない。ただし、神様のおめがねにかなった者だけに見えるらしいのだ。千枝さんもその1人のようで、神様の話でもりあがる3人。
「田舎はなぞの現象が多くてな」
「そうだなあの戦友と少尉は亡くなったが八幡さまに時々お参りに来るよ」
「あ、あの時の、盆踊りの時の軍服姿の人がそうだったのかな」
「分からんがたぶんそうだろう。大地、プロになれ、その前に院生になれ、その前に強くなれ、その前に家に帰ってお父さんお母さんに報告するんだ。碁助じじいに勝ったって」
次の日、八幡様に行った大地君。盤と石を持ってきた。碁助じいさんも来た。おばあさんも。もう残暑。秋風がそよぐ田舎の神社。そこに集う3人の碁打ち。問題は大地君が神様と打てるかだ。おばあさんは打てないらしい。じいさんばあさんは奥に行って話しこんでいる。大地君は番を広げ、碁笥を置いたが、最初の一手を打たない。
「プロになってからだ」
と思った。
プロになった大地君はやがてもっと強く成長するだろう。そして八幡様にも勝ち、生涯を碁にささげ、八幡様と勝ったり負けたり。そして大地はおじいさんになる。
エピローグ
大地はプロを引退し、田舎に住んで八幡様と毎日碁を打つ。碁助さんは亡くなってしまったが、八幡様と打つことが碁助さんと会うことにもつながるのだ。
そしてある夏の日、ミンミンゼミが鳴く午後、大地が八幡様と打っていると子供が近寄って来た。大地はたずねる。
「坊やなんて名前だ?」
おわり
大地君の夏