僕のヴィオラコンチェルト

第1楽章 ヴィオラ
 
 世界的ヴァイオリニストでヴィオリストでもあるメニューインの仲介で私は作曲家バルトークと会った。1945年7月ニューヨークでの事である。バルトークは病人であり、面会も制限されていたが、バルトークはよほどメニューインを気に入っていたのだろう、私と会ってくれた。
 雨がベルベットのように降りしきる日だったと思う。肌寒い日曜だった。そこはニューヨークのウエストサイド病院の病室である。バルトークは極度の貧血であってただでさえ大理石のような白い顔面が、蒼白になりやつれ果てていた。彼は輸血を受けていたが、「こんな物はいらないんだよ。誰の血かわからないものを血管に注入されるなんて」としきりにそれをはずそうとして、妻のディッタに宥められていた。
 メニューインを見止めると彼のデスマスクのようだった容貌が一変した。眼窩に沈んだ眼が生き生きと活動し始め知的好奇心に満たされて行ったのである。
 メニューインが私をバルトークに紹介した。私は、
「エド・リーと言います。ご紹介の通りヴィオラを弾いています。お目にかかれて光栄です。先生のお噂はかねてから伺っております」
 バルトークは
「そうですか。私の音楽はこんな都会でも鳴り響いているわけだ」
と彼独特のジョークで私としゃべりだした。
「マエストロ、貴重なお時間を割いていただきありがとうございます。そこで単刀直入に申しますと、私のためにヴィオラコンチェルトを作曲していただきませんか」
 バルトークは豆鉄砲を食らった鳩のようにきょとんとしていたが、次の瞬間、瞑想に入ったヨガの行者のように考え始めた。そして、
「ヴィオラ」「ヴィオラ」
と口の中で転がすようにつぶやくとこの楽器が彼の内面を大きく揺さぶったようであった。
「エド君だったね」
「エドです」
「そうエド君、君は良いことを発明しそうだよ。ヴィオラはレパートリーに新しい1ページを付け加えることができそうだ。これは面白くなるかも知れない」
 私はバルトークにヴィオラのための曲を書いてもらう事を前から考えていた。ヴィオラは完成された楽器ではない。ヴァイオリンやチェロは完成されており、その形状の細部は違ってもサイズはどのマイスターによっても同じだ。また、ヴァイオリンは有名な作曲家は皆(バルトークも)コンチェルトを作曲している。また、チェロコンチェルトも多い。
 ヴィオラとなるとそのコンチェルトは皆無に等しい。いわゆる大作曲家はそれをものにしていないと言っていいだろう。何故かと言うと、ヴィオラの出す音は渋く、また難しいパッセージになるとその演奏は、易々とはいかない。ヴィオラは様々なサイズがある。イギリスの名ヴィオラ奏者、ライオネル・ターティスは特に大きいものを好み、ターティスサイズと呼ばれる特大型の楽器として知られる。
私のヴィオラはターティスほどではないが、結構大きいタイプだ。渋く暗みのあるその音色。私はバルトークに自分で編曲した、バッハの「無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番」の最終楽章である「シャコンヌ」のヴィオラ版を聴いてもらいたいと申し出た。
バルトークは非常に興味を持ち、医師の許可を得て、病院の音楽施設で私の演奏を聴いた。
 ヴィオラは4本の弦を持ち、それぞれヴァイオリンより5度低く調弦されている。私は「シャコンヌ」を元調のニ短調では無く、ハ短調で弾いた。この調はベートーヴェンの「運命」やブラームスの「交響曲第1番」と同じ暗く沈鬱な調だ。それでこそヴィオラの音色に適うと感じたのだ。
 演奏は澱みなく進んだ、と言いたいが、それには野の花を摘むような容易さはなかった。しかし、私はバルトークに認められるためでなく、ヴィオラと言う楽器の可能性を聴いて欲しかったのだ。私は師であるプリムローズを越える演奏をするだけの技巧的困難に果敢に挑戦したつもりだ。
 ひとしきり弾き終わると、バルトークは椅子に深く沈みこんで、眼を瞑っていた。その姿からは引き絞った弓のような緊張感と深い思考が垣間見えた。
 演奏後、バルトークは、
「この様なヴィオラの音には遭遇する事が絶えてなかった。私は今、貴方のためにコンチェルトを書こうと本当に思いました。そしてもう頭の中には全ての音符が書き連ねてあります。後は単純に5線紙にそれを写せばいいのです」
        
第2楽章 2つの存在

 天才とはニューヨークに生きそして死ぬ存在なのだろう。したがってバルトークもその辺の乞食も天才なのである。私は、ニューヨークフィルに長年ヴィオラ首席として過ごし、パンを食み、時にはバルトークも奏でた。そしてバルトークの演奏をするたびに、ああなんて透徹したスコアなんだろうか、なんて計算されつくした数学的マチュエールを感じるのだろうかと嘆息したことしばし。本人に会ってみようと思い、共通の友人であるメニューインというカードを切った。それでもひやひやものだったのだ。バルトークが気難しい性格で、敬虔なユニテリアンだと知って私のようなみ捧げもしないカソリックの端くれがどうしてくれようと悩んだりもした。その端くれが何故ヴィオラコンチェルトと言うような大それた芳香を放つ存在にまで走れるのかと言うとこのようになる。つまり、奇妙なものに憧れるのである。ピアノでもない。ヴァイオリンでもチェロでもない。それなら私の楽器であるヴィオラなのだ。私自身、最初からヴィオリストと言う奇妙な存在だが、バルトークにヴィオラを書いてもらうと言う発想に至った経緯はドラマチックであり、同時にすばらしいタイミングである。私はニューヨークを根城にし、バルトークも滞在している。つまりこのチャンスを逃す法は無いのだ。
 数週間後、私宛にバルトークの手紙が来た。
「貴方の師であるプリムローズからヴィオラコンチェルトの依頼がありました。プリムローズは偉大なヴィオリストであり、貴方の委嘱の時点でもう作品は完成しています。オーケストレーションも終わり、写譜にまわせば初演可能な段階まで来ています。問題はプリムローズの面子を立てて、貴方の演奏も聞きたい。二律背反のようですが。それは可能です。貴方に写譜は任せます。この暑苦しい大ニューヨークに写譜屋は多いでしょうから、簡単です。ここにプリムローズの置いていった1500ドルの小切手があります。私はもうすぐ天に召されますからこれは不要です。妻と子には「ピアノコンチェルト第3番」を書くつもりです。これが売れれば家族の財産になるでしょう」
 驚いた。私のヴィオラの師であるプリムローズもバルトークにコンチェルトを依頼していたとは。プリムローズと私のためのコンチェルトは同一であり、初演を私に頼みたいとのバルトークの望みであった。
8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ無条件降伏した。その日に、バルトークからの分厚い楽譜と小切手の入った封筒が送られてきた。スコアの表紙に「エド・リーの為に」と書かれている。感激した。バルトークと言う源泉から純粋なミネラルウオーターを汲み取ったのだという思い。それは湿り気の多いニューヨークでも特に蒸し暑い日だった。
 しかし私には初見でとても演奏不可能のような気がした。ヴィオラソロはヴァイオリンのように激しい運動と飛躍を行い、楽譜には「マエストーソ」(巨匠的に)と書かれており難曲である事が強調されていた。私はその楽譜を弾いてみた。するとそれは際立って演奏可能であり、まるでモーツァルトが現代に蘇ったらこの様な曲を書くのではないかと思わせる内容が盛り込まれている。今全体を通してみると、規模が大きく、それでいながらテクスチュアは透明だ。私はバルトークに会いに行こうと思った。彼は退院していた。今はニューヨーク郊外のリヴァデイルにある彼の自宅に戻っていた。
彼は病床にあり、その中で、「第3ピアノコンチェルト」を妻や弟子達と共に作曲中であった。私が来たのを見ると、
「やあエド君、悪いものを見せてしまったね」
とお茶目に言って、
「2人にしてもらえないか」
と提案した。みんなは訝しがったがバルトークの言葉は絶対だ。2人になると彼は、
「私はもうだめだ。死は見えている。戦争が終わったが、ハンガリーはどうなっているんだろうか?ドナウの真珠と讃えられたブダペストは開放されたのだろうか?」
 私は、スコアが届いた事、早速写譜にまわすのだが、2、3の運弓法、管弦楽法に明らかな間違いがあることを指摘した。するとバルトークは意識の底に深く分け入ってはっきりと「いや」と言った。それよりも君のヴィオラでこのヴィオラコンチェルトを聴きたいと言い出した。この言葉は今でも心に残って離れない光栄だと思っている。
 戦争が終わった開放感でニューヨーク中が沸き立っていた。ラジオでは盛んにジャズ音楽を流していたが、その中でバルトークの「管弦楽のための協奏曲」はひと際立って聴こえていた。この曲でバルトークが言いたかったのは戦争の愚かさと平和の尊さであったろう。時に12音や無調的な技法を使いながらしかし鮮やかに調的均衡を保つこの曲を聴いているとストラヴィンスキーやシェーンベルクはこの協奏曲から何を感じるだろうと思った。2人とも存命であり、大家とされていた。しかし彼らの使命は終わったのであり、これからはバルトークこそ20世紀の良心であると私は信じる。この曲はASCAPからの依頼で、ボストン交響楽団の音楽監督、セルゲイ・クーセビツキーがバルトークに委嘱した作品である。
 バルトークはピアノコンチェルトの作成に掛かっていた。もう憔悴し、白血病に侵されきったその体は、側から見ても痛々しい。ここから私の仕事が始まったと言って良い。
 次の日、プリムローズも私と共に病床を見舞ったが、バルトークは私の顔は見ずに、プリムローズに、
「最終草稿は完成し、後は純粋に機械的な仕事が残るだけです」
と未完成であることを強調した。そして私に向かってウインクした。
         
第3楽章 アイデア

 1945年8月29日、ニューヨーク、「ベントン」で総譜からのパート譜への写譜は完了した。写譜屋も良くやったものだと思った。
 私は、この曲をどうしてもバルトーク本人に聴いてほしかった。ニューヨークフィルの音楽監督、アルトゥーロ・ロジンスキーにこの件について相談した。彼はバルトークに精通しており、確かに彼の希望を叶えたいと言った。
 「どうしようエド?彼は演奏会場に来られないのか?」
「マエストロ、そこで考えがあるのですが」と私の胸中をさらけ出した。それは、ハンガリー語のFM放送局でこのコンチェルトを流し、バルトークがそれを聴く、というものであった。ロジンスキーは、
「興味深いアイデアだ。それなら私にも考えがある」
と言って電話帳をめくりだした。
 私達のミッションは9月15日に決定した。この日の夕方4時カーネギーホールを貸しきってバルトークの為に我々ニューヨークフィルが彼の新作「ヴィオラコンチェルト」を演奏するのだ。そして同時に録音も行う事が決定した。ヴィオラ独奏は私である。
 私は同時に素晴らしい事を考えていた。つまりバルトークが現在作曲中の「ピアノコンチェルト第3番」も一緒に演奏できないか?ということである。ロジンスキーの計らいで演奏日は決まった。これは動かせない決定である。情報通によると「ピアノコンチェルト第3番」の作曲はどうも遅れているようだ。第2楽章までは完成し第3楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェは難航しているらしい。私達はメニューインを通して(バルトークにも)秘密裏にピアノコンチェルトの譜面を写譜屋に任せ、バルトークの回復を待った。
 私のための「ヴィオラコンチェルト」を我々はブロンクスの練習場でさらっていた。その内容は、3楽章からなる驚くべき作品である。独奏ヴィオラは「巨匠的」な旋律を紡ぎ出し、技巧的には「シャコンヌ・エド版」を思わせる困難な部分が頻出する。問題は第1楽章に置かれたカデンツァと第3楽章の急速なパッセージである。これを弾きこなす為にはターティスサイズに近い私の楽器では至難と言えよう。
だがバルトークは私のヴィオラを聴いてインスピレーションを受けたのであり、これら天上にある音たちは私のヴィオラで弾くべきなのだと決意した。
 9月15日の深夜にあわせて私達は練習を重ねた。当然疑問点もあった。現代音楽には付物であるし、写譜屋の間違いも在ったかもしれない。私はバルトークの自筆スコアを持っていたのでそれが間違いなく完成されたもの、完璧なものだと確信があった。したがって間違いは写譜屋のせいであったろう。写譜と言うものは音楽家の表現を正確に美しく伝えなくてはならない。長い音符では間隔を長く取り、短い音符はその逆だ。また、#や♭の調号も読み取り易く記入しなければならない。これは基本的なことだが大変重要な要点である。その点、委嘱者として譜面は完璧に近いと言えるだろう。
 9月2日、「ピアノコンチェルト第3番」の第2楽章までのスコアとパート譜が送られてきた。それは未完成といえども、彼の自然界への祈りと言ったものが感じ取れた。ピアノ独奏は新参ではあるが、非常に有能なニューヨークフィルのピアノパートを受け持つエヴァリスタ・シャーンドルであった。彼女はハンガリー出身で、ユダヤの血を持つ。バルトーク同様アメリカに亡命してきたのだ。
 同時に2つの曲を練習するのは別に珍しい事ではない。しかし、新曲で、バルトークのように難しいテクニックを要求する作曲家の場合、それが1ヶ月以上かかってもおかしくないだろう。
         
第4楽章 古典

 一方、バルトークは病魔と闘っていた。妻の為にコンチェルトを残さなくてはならないと言う要求に自分自身で枷をかけた格好である。しかし私は思う。バルトークは古典の神々に遺書をしたためているのだと。「管弦楽のための協奏曲」はベートーヴェンへの「無伴奏ヴァイオリンソナタ」はバッハへの、そしてヴィオラとピアノのための2つのコンチェルトはモーツァルトへのそれぞれ捧げられた賛歌のように聞こえるのだ。もし遺書と言うならこれこそ本当の遺書ではないか。彼は死を予見していたから、古典の大家に身を殉じ、最後の最後まで音楽そのものに成り切っていたと言える。
 思えば、彼の仕事はシェーンベルクやストラヴィンスキーとは反対に音楽を古典に取り戻す事であった。いわゆる前衛とは違い、調性の意義を取り戻す仕事なのだ。前衛と言う言葉はそもそも混乱している。もし言うならバルトークこそ前衛と呼ぶべきだろう。
 この21世紀に存在する全ての音楽家に大なり小なり影響を与えた彼の作品の数々、それはコダーイらとハンガリー各地を回り、また、ルーマニアからトランシルバニア、ブルガリアなど中欧と、トルコ、アフリカのアルジェリアまでの広い地域をくまなく旅行し、農民など地方の民謡を採譜して、その構造を分析し、利用可能なエッセンスを抽出した。
 また、ドビュッシーからは様々なドミナントを、シェーンベルクからは無調的手法を、ストラヴィンスキーからは多様なリズムの影響を受けた。その結果、彼の音楽は一変した。       1926年、彼はこの年を持って自分の音楽が後期に入ったと明言した。
その年に作曲された「ピアノソナタ(1926)」やピアノ組曲「戸外にて」を聴けばその意味が理解できる。そして、「ピアノコンチェルト第1番」!それは何人にもなしえなかった偉業であり、現代最高のピアノコンチェルトと言うことが出来るだろう。ピアノを打楽器的に扱い、そのサウンドはこの21世紀でも驚異的だ。その意味でこの年はバルトークの「ピアノ音楽の年」と言えるだろう。
 それに対して「ピアノコンチェルト第3番」はバーバリズムとは一線を画する。バルトークは「現代でもハ長調で音楽が書ける」と言うが、この音楽はハ長調と言えるだろう。かつてこの音楽家によって打楽器的に扱われたピアノが柔らかいタッチで鳥の歌を奏でる。エヴァと曲を練習していると自分がハンガリーの大地に吸い込まれていく感覚に囚われる。「ヴィオラコンチェルト」は私のソロでさらっているともう死んでもいいと思わされるほど感動的だ。バルトークは死なない。その楽譜に永遠に命が刻まれるのだ。森が朽ち、生命が存在しなくなっても、その楽譜は生き続ける。永遠の輝きを持つダイヤモンドのように。
 ニューヨークに秋風がそよぎ立つころ、すなわち1945年9月10日、カーネギーホ―ルで練習が行われた。
 ここでは関係者以外は全て締め出された。まず、「舞踏組曲」が演奏された。協奏曲だけではバランスが悪いためだ。また、「ピアノコンチェルト第3番」は第2楽章で未完成の形で演奏されることも一応決定した。
 「舞踏組曲」のタクトが振り下ろされると、中欧の民族達の融和を願うバルトークの熱意と情熱が伝わってくる。この曲では上記した通り、最後においしいヴィオラソロが出てくる。ここではヴィオラのセカンドのヘレナ・ユーブメンが弾くことになった。私は「ヴィオラコンチェルト」に専念する。ヘレナはユダヤ人の母を持ち、ヒトラーを憎んでいた。
 バルトークがヒトラーやムッソリーニを悪の権化と見ていたのは明らかであった。彼はその遺言に「ハンガリーのアベニューや広場にその両者の名前がある限り、自分の名前を使わないで欲しい」と書き記していたが、それほど独裁政治や戦争を憎んでいたのであり、音楽による世界平和実現を希求していた。
 この組曲は様々な国の民謡が形を変えて現れる。そもそもブダペスト市がブダとペストの合併で出来上がってから50年になっての市からの委嘱作品なのだ。そこには全ての民族音楽(中欧からアラビアまでの)が盛り込まれ、最後は混沌となって金管の稲妻が走り、ヴィオラソロの虹がかかるというわけである。
練習はまだ続く。私の番だ。この難曲「ヴィオラコンチェルト」をどう弾くか?私は初見から考えてきた。ヴィオラは大きい音が出ない。だからニュアンスの変化を聞いてもらうには指揮のロジンスキーに任せるしかない。その辺、彼もさる者で、全体を透明なテクスチュアで覆った。その旋律は戦慄が走る様だ。私のヴィオラの表現力は最大限引き出され、民謡的パッセージではその郷愁が絶対音楽となって迸る。エキゾチックな絶対音楽、とでも言った様なポエムがそこにある。
そこで指揮者から注文が出た。金管が大きすぎると言うのである。
「もう少し小さい音で、君達の演奏ではカーネギーホールでトランペットやホルンやトロンボーンのコンチェルトをやっている様なものだよ。独奏ヴィオラが消えてしまう」
そして私にも注文が来た。
「君のヴィオラは都会的に洗練し過ぎる、もっと土臭くやってくれないかな?」
それには私も同感だった。本番まではハンガリーについて良く知っておく必要がありそうだ。
 次は「ピアノコンチェルト第3番」の練習。第1楽章はソナタ形式。エヴァリスタの独奏は柔らかいタッチと情熱的なアプローチでブロンクスの練習場でも楽員の話題となっていたが、このカーネギーホールではまるで音が一変していた。そこには彼女の運命であるユダヤ人の血とハンガリー人の血液が混ざり合っていたのだ。第2楽章ではロジンスキーがためいきをつくほどの美しさだった。
「君はソリストになれるよ」
と珍しくエヴァを褒めていた。私はこのコンチェルトをバルトーク本人にぜひ聴いて欲しかった。この曲は何れ世界中のピアニストのレパートリーに加わるだろう。それほどの魅力がこの曲にはあった。そして私はこの曲の完成を心から願ったのだった。
        
第5楽章 未完成

 私は今あの頃を回想している。情熱のバルトークは1945年9月26日に亡くなった。この事実を私は未だに受け入れる事が出来ない。そう、あの年の9月私はヴィオラを一時も離さず常に頭にバルトークのコンチェルトを置いて音楽会に通うにも、練習する時も、イメージで弾いていた。
 バルトークは病気が進行し、ウエストサイド病院に入れられていた。もう危篤に近く、面会も特別な一部の人に限られていた。
 9月11日私は病床のバルトークに会った。例のFM演奏会の事を告げに行ったのだ。この季節には珍しくニューヨークは雨が続いていた。外気は冷たく、息が白い。手先は氷水に入れたような寒さだった。私は注意して手袋をしていた。楽器の敵は何と言っても気温と湿度そして手指の冷たさだから。
 バルトークは輸血されていた。病室は個室で在った。微かに意識のあるバルトークは次のように切り出した。
「エド君、私はもう土に帰る。それはハンガリーの土になると言うことなんだ。アメリカは良い所だがたった一つ欠けているのは、ハンガリーではないと言う事だ。ノースカロライナの山荘(友人の別荘)でもそれはハンガリーではない。空気がハンガリー語を喋らないのだよ」
 私は言うべき言葉を失った。しかし、勇気を出して私達のミッションについて彼に伝えた。
「先生の曲をFM放送で流します。もう機材は整っています」
 バルトークの顔が一瞬曇った。しかしバルトークは平静を保つと。驚くべき事を言った。
「君達が何をやっているか気配で分かっていたよ。9月15日だろ?それをやるのは。人は私の耳を地獄耳と言うが、少しは天国に近付いたかな?」
「最高のラジオを用意します。この曲は先生の聴く最高の演奏になるでしょう」
「おいおい人を勝手に殺すなよ。わたしはハンガリーに帰らなければいけない。コダーイやベラ(長男)に会ってから死にたいのだ。
しかし君達のアイデアは結構だと思う」
 デスマスクの様な彼の顔色が多少緩んだ。
「ヘッドホンでお聴き下さい。ステレオと言って、先生が「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」でお使いになった音場の臨場感が得られます」
 バルトークは大きく息を吸い込むと、
「私の為だけに大層な発明だ。右の耳からは右のマイクロフォンが左の耳からは左のマイクロフォンの拾った音が聴ける訳だ。大した発明じゃないか」(バルトークは親しい人にはむき出しの厳しい言葉で話す)
「先生はお聴きになりますか?」
と弱腰になったが、それを制するようにバルトークは言った。
「面白い企画じゃないか、私は自分の新しい作曲が聞けるわけが無いと悟っていたのに、半分残念で半分期待しているよ」
半分残念とは何だろう?
「先生、残念とはどうした事ですか?」
 バルトークは咳き込むように言った。
「ピアノコンチェルトが未完成なんだよ。本来作曲家は未完成を好まないのだ。シューベルトが彼の交響曲を未完成のまま残したのは不本意だったろう。私が彼なら破棄する所だ。後17小節足りない。その完成を医者は許してくれないのだよ。しかし省略符号で、一応完成している。ティボール・シェルリーが完成の仕事に掛かっているところだ」
と言い残して彼は溜息を吐くと、私の言葉に耳をそばだてた。
「9月15日は「舞踏組曲」と「ヴィオラコンチェルト」を演奏します。マエストロの世界初演にふさわしい音楽をご提供できるでしょう」
「ああ期待しているよ。ドクターストップがかからない限りはね。でも何で「舞踏組曲」を演奏するのかね。私には新曲を聴く力しか残っていないんだよ。「舞踏組曲」は要らない。「ヴィオラコンチェルト」だけで充分だよ。これはお気に障ったかな?「舞踏組曲」は私がずっと昔に残してきた一時代を代表する作品である事を銘記しておきたまえ」
バルトークは吐き捨てる様に呟いて私のヴィオラケースを一瞥して眠りに就いたのだった。

第6楽章 完成     

 さてその頃、実は「ピアノコンチェルト第3番」はシェルリーやユージン・オーマンディーによってスコアが完成されていた。一般的にはバルトークは死ぬ間際までペンを走らせて作曲していたとされているが、実は省略譜によって作曲は完成しており、後はパート譜を写譜する作業と練習だけが残されていたのだ。これもまたメニューインのサジェスチョンによるものであり、9月11日に完成されたスコアが私宛に届いた。メニューインは我々が秘密裏に「ピアノコンチェルト」を演奏する事を察知していたようだ。同封されたメッセージは
「バルトーク先生にはまだ知られていません。エドたちの計画は先生を喜ばせると思います。私もカーネギーホールへ伺って宜しいですか?」
だった。もちろんこの計画立案者としては、彼を招かない手はなかったのである。
 私は早速彼の連絡先に電話し、メニューインの同席が事実上決定したのである。
9月15日に標準をあわせて銃を発射するのには大変な苦労の連続があった。「ピアノコンチェルト」の第3楽章の写譜はわれわれ楽員たちでやったが、特にエヴァリスタには思い入れが在るので、手が腱鞘炎になるほどの力の入れようだ。コンサートマスターのロイ・ヘインズはエヴァに写譜をやめさせる事にした。
「君はソロパートをさらってくれ」
と頼んだ。彼女はそれを受け入れ、ピアノで納得のいくまで練習を開始した。徹夜も辞さないと言った熱の入れようであった。
 パート譜の写譜が終わり、練習が行われたのは、ブロンクスの練習場だった。カーネギーホールは予約でいっぱいなため、我々の最後の練習は当夜の本番前しかできなかったのである。プリムローズは人が良く、バルトークの曲の完成を待っていた。私は、真剣に「ヴィオラコンチェルト」のソロを練習し続けた。9月12日の深夜、13日の終日、そして最後の練習がブロンクスで行われたのが演奏の前日、14日であった。
 私はその辺り、ハンガリー語を研究していた。それは慎ましやかでフランス語よりも、アジアの言葉を連想させる。ハンガリーはご存知のとおりヨーロッパの中のアジアである。摩擦音が多く、その言い回しはアルタイ系の影響を強く受けていると言っていいだろう。バルトークはアメリカにはいない。英語からはバルトークの音楽は生まれないのであり、また、理解が難しい事は充分に学習できた。
 私は、ハンガリーの詩人、エディ・アンドレの詩篇を口に出して読んでみた。バルトーク作曲「5つの歌曲」、作品16から最終楽章。
 
お前のところへ私は行けない

 そちらは夏の盛りだろうか?
 こちらでも皆は夏をたのしんでいるが、
 私は死んでいく。

 ここへ来たくはないのか?
 お前は私の聖なる幸福だが、
 私は死んでいく。
 
歌、歌
他の人達は歩き、働き、生きている。
そして私は死んで行く。

白い両腕。
私を待つことも、抱くこともあるまい。
私は死んでゆく。

悲哀と放心、

これが私のすべて、口づけも、歩みも、運
 命も、
そして私は死んでいく。

 これはバルトーク初期の作品であるが、構成力も和声も後年の独創を思い浮かばせる傑作だと思う。わたしはこれら純粋歌曲を通じてハンガリー語の特徴(抑揚が少なく、摩擦音が多い)を理解しようとピアノコンチェルトを担当するエヴァに教えを請うた。彼女は日常会話から始まり、くしゃみをするとその人の言っていることは正しい。といった逸話まで話してくれた。
  
第7楽章 初演

 さて、運命の日がやって来た。1945年9月15日。太平洋戦争の終わった日からひと月が経ったその日、我々のミッションは演奏と言う形で達成されようとしていた。会場となるカーネギーホールからハンガリーFMを介して、バルトークの最新作を世界初演する光栄がそこにはあった。もちろんバルトーク本人にもFMラジオのステレオでそれを届けられる栄誉も伴ってくる。
 その日の朝、私はロジンスキーと共にバルトークの床に見舞いをした。
 「先生、今日の演奏は聴けそうですか」
とロジンスキーは慎ましやかに尋ねた。するとバルトークは
「草木が朽ち、土になるように私もハンガリーの土になりたい」
と述べ、
「盛大なコンサートになるでしょう」
と聴く意欲を見せた。
 真空管式のFMラジオが病室に備えられていた。入念にチューニングされ、最新式のヘッドホンをバルトークは被った。この局はハンガリー語だけを使っており、もちろんプリムローズは気が付かない。
 午後4時の開始から逆算して私たち楽団員は昼の2時頃に集合しチューニングや音出しを行っていた。ロジンスキーはまもなく現れて、今日の演奏の意義について短く喋った。
 「バルトーク先生の為に最高の音楽を奏でましょう」
楽団員から拍手が起こった。それも無理はない。今世紀最大の作曲家の作品を初演できるのだ。しかもその作曲家は病床で演奏を間接的ながら聴いているのだ。
カーネギーホールで、まず私達は、残された「ピアノコンチェルト第3番」の練習を行った。これには色々と注文が出た。エヴァの繊細なピアノに対して打楽器が飛び出すぎるというものである。フォルテをメゾフォルテに、メゾピアノをピアノにそれぞれ変更した。聴衆がいない分、ホールが響きすぎてしまったのだ。この作者の発想記号の変更はオーケストラでは良くあることといって良い。ゲネプロは、この曲の最終楽章で難航した。何しろ、あと2時間程で本番なのだから。同様にソリストもオーケストラとの掛け合いを練習するのである。
それらはうまく行き、4時開演まで後1時間と迫った。エンジニアがマイクのセッティンングを完了し、FM放送と録音の最終チェックが行われた。GOである。
そこでメニューインが現れた。彼は中央の椅子に腰掛け、こちらに手を振った。
メニューインはヴィオラも弾けるからメニューインのソロと言うのも検討されたが、結局バルトークの意向で私にその役どころは決まったのである。メニューインはそれを大層喜んでいた。謙譲の美徳とでも表現したいが本当はどうだったのだろう。彼はその後、この曲をレパートリーに入れ、録音も行ってレコードまで出している。彼は著作の中で、「このヴィオラコンチェルトは驚くべき作品であり、バルトークこそ今世紀最大の作曲家だ。この矛盾に満ちた現代において彼の存在はひとつの奇跡である」
と述べている。
 チューニングのAの音がオーボエで鳴り出した、最終の音合わせである。首席オーボエ奏者は私にとって憧れの存在であり、彼のAは牧歌的というより鋭い切れ味のある正しい音色である。オーケストラは左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、正面にヴィオラ、右端にチェロと言う並びだった。その奥に管楽器、遠くに打楽器。
 私は、友人にバルトークがFMを聴き始めたか確認の電話を入れていた。それもOK、今からこのコンサートは始まる。バルトークは「ヴィオラコンチェルト」だけのコンサートと思っているのだ。「ピアノコンチェルト第3番」の完成した姿を彼に聴かせるプレゼントには私たちニューヨークフィルのメンバーとハンガリー(マジャール)FMの関係者と録音技術スタッフしか知らない。そしてメニューインも加わった。
 まず私はリラックスする事にした。確かにヴィオラの曲は少なく、ステージでソリストとして音を紡ぐ経験は皆無である。FMで聴いてくれるバルトークを忘れ、無人の聴衆に向かってこの難曲に専念する事にした。 
 私とロジンスキーが舞台の袖から出てくると、場内は静まり返っていて、放送と録音のチームだけが拍手した。もう放送は始まっていて、バルトークも聴いているはずである。ロジンスキーが指揮台に立つと、辺りは厳粛なムードで一杯になった。私は冒頭のソロから始めた。モデラート、ヴィオラにしては高いポジションから音楽は始まった。ソロもオーケストレーションも現在一般に流布されているものより大きく、透明だ。独奏ヴィオラは拡大されたカデンツァを弾く。ここだけとっても、この曲の技巧的困難と同時にヴィオラの表現を最大限に引き出すその作曲家の意図が発揮されている。私は、このカデンツァも好きだが、トゥッティーから飛び出すヴィオラソロの音形には舌を巻く。切れ目なく続く第2楽章はバルトークのいわゆる「夜の音楽」である。荘厳さと月の夜に森を歩くような冒険がそこにある。私は暗譜で曲を弾いているが、それに続く第3楽章は演奏上の困難が常に付き纏う、アレグロ。いわゆる明るいバルトークフィナーレである。ロンド形式で、ハンガリー民謡の音階がテーマである。細かく刻む速いメロディーとオーケストラとの掛け合いが見事だ。私はこの曲を通して、民族の融和と世界の平和を求めるバルトークの意思をはっきりと聞き取った。曲はそれから拡大され盛大に締めくくられている。
 演奏はここで大きな山を越えた。私は病床にあってこれを聴いているバルトークに問いかけたかった、
「これでどうでしょうか」
と。思い起こせばこのコンチェルトの委嘱者は私であり、素晴らしいヴィオラのためのコンチェルトのレパートリーを作ったのはバルトークであった。私達2人はヴィオラという楽器を通して厚い友情をむすんだのである。
 休憩中、ステージに最適に調弦されたグランドピアノが運び込まれた。次の「ピアノコンチェルト第3番」の準備である。ハンガリーFMのスタッフと録音チームはマイクのセッティングに忙しく立ち働いていた。
 思えばバルトークは最初ピアニストとして世に出た。その集大成がこのコンチェルトなのである。妻(ディッタ)の為に作曲した最高の贈り物。
 一方バルトークは病院で
「エドは私の楽譜に生命を与えてくれた」
と感激していた。ヴィオラコンチェルトに対して彼は終生聴けないものと思っていただけに感動もひとしおであったろう。
そして、彼にとってあり得ない謎の瞬間がやって来た。アナウンサーがハンガリー語で
「次に紹介しますのはバルトークの「ピアノコンチェルト第3番」です」
と告げたのだ。バルトークは信じられなかった。アメリカへの亡命を決めた時以来彼を見舞っていたペシミズムが頭をもたげた。
「完成していないのだが」
と病床に付いていたマジャールFMの者に訝しげに尋ねた。
「先生の曲は実は完成しているのです」
との答えを聞くと、バルトークは放心したように表情を強張らせ、次の瞬間ヘッドホンを付け直し深か深かとベッドにもぐった。
 15分後、「ピアノコンチェルト第3番」の演奏が始まった。エヴァリスタ・シャーンドルの独奏である。彼女は明らかに緊張していた。その美しい微笑みが今はなく、蒼白な容貌でステージに現れた。どうしても彼女を勇気付けなくてはならない。
 コンサートマスターのロイ・ヘインズは彼女に、
「戦禍に散った同胞を思い出せ」
と元気付けた。ユダヤとハンガリーの血、それが、この曲のテーマに成っているのではないか。彼女はこの言葉に鼓舞されたように椅子に腰掛ける。
 タクトが振られると、弦とティンパニの序奏の後、すぐにピアノが入ってくる。アレグレットの第1楽章である。ソナタ形式で、ハンガリー民謡の不規則なリズムをピアノが奏でる。エヴァは落ち着きを取り戻していた。最高の作曲家による作品の世界初演を行っていると言う意識ではなく、故郷のハンガリーとユダヤの同胞にしみじみと語りかけるその演奏はこれからの彼女の未来を祝福するかのようであった。かつて作曲家によって打楽器的に扱われたピアノと言う楽器が、えも言われぬ旋律を奏でている。
 第1楽章がポエムとすれば、第2楽章は鎮魂の歌だ。途中、木管で囁き、頂点を作るが、この楽章は悲しい美しさに尽きる。これはベートーヴェンが歌った「宗教的なアダージョ」より悲劇的で古典的完成度を感じる。現在でもこの楽章が最も人気がある。
 最終楽章は前の楽章に続けて演奏される。エヴァはアレグロ・ヴィヴァーチェの表情を押さえるように心を込めて1音1音を大事にしているようだった。もともとこの曲はバルトークの妻ディッタのために作曲されただけに、エヴァの繊細な女性的タッチはこの曲に息吹を与えるかのようだった。ハンガリーの大地にしっかりと根をおろしたそのメロディーは旋律を失った現代音楽に強烈なアンチテーゼを突きつける。
 私はヴィオラの首席として、彼女の手指は見えなかったけれど、表情はうかがい知れた。自分に与えられた楽譜を音にする。その喜びが冒頭の緊張から晴れて、音の内面に即興的に迫るその表現力!エヴァがこれほどの音楽を奏でようとは誰が思ったろう。
 そして演奏はバルトークが書き得なかった残りの17小節に差し掛かった。第1主題の要素を急速なコーダの中に再現させるこの曲最後の部分は、我々がバルトークの草稿をもとに完成させたものである。
 ピアノは昇天するがごとく高音域にシフトして行き、トゥッティーで締めくくられた。我々は曲が終わった瞬間、忘我に襲われた。何か大事なものが無くなってしまった様な感覚に囚われていったのだ。
 バルトークはウエストサイドの病室で演奏を聴いていた。演奏も音質も最高に良かった。言葉にならない言葉で何かを表現したくなっていた。彼は5線紙に向かうとおもむろに作曲し始めた。ただ7つの音による平和の音楽。太平洋戦争が終わった事は知っていた。自分の病が不治のものであると悟ったバルトークの意識は遠くトランシルバニアの農民に向けられていた。
 「ヴィオラコンチェルト」も「ピアノコンチェルト第3番」も彼の結晶化の時代を予見する作品であった。同じくアメリカ時代に作曲された「管弦楽の協奏曲」も「無伴奏ヴァイオリンソナタ」も古典の意義を新しく打ち立てる仕事だったのである。バルトークは自問自答した。私の生涯はこれでおしまいだ。悔いはない、と。
 
第8楽章 死とその変容

 私、エド・リーは次の日、ウエストサイドのバルトークの病室を見舞った。
 するとそこにプリムローズの姿があった。バルトークは夕べ眠れなかったとぼやいていた。しかし、私を認めると、
「プリムローズさん貴方の弟子は大したものだ」
と唐突に言い放った。プリムローズは、なぜ?という顔をしていたが、話題を「ヴィオラコンチェルト」に変えて、
「早くそのコンチェルトを拝みたいものです」
と作曲者に促した。バルトークは
「草稿は出来上がり、オーケストレーションだけが残されています。現在、「ピアノコンチェルト」と同時に書き進めていますので、多少遅れるとは思いますが」
と単調に言った。
 プリムローズが辞した後、私はバルトークの健康を気遣った。バルトークは
「こうした病人が秘密を隠し通すには多大なエネルギーを消費するんだ。何もかもぶちまけてしまいたいよ」
彼特有の膠原病が再発したらしく、
「持病と付き合うのももうすぐ終わりだ。私は獣のように静かに、亡がらを残さずに逝きたいのだよ」
私が昨晩の演奏について意見を求めると。さっき褒めたではないかという顔をして、次のように語り始めた。
「私は、君の暗く、渋い音色で何が出来るかを考えた。一瞬だがね。そしてベルリオーズの「イタリアのハロルド」(ヴィオラの協奏的交響曲)を研究してオーケストレーションを行った。私の難問に君がどれだけ付いて来れるかためしたのだよ。ここのところはウイリアム(プリムローズ)が校訂するかも知れんな。困難にか、容易にか知らんが」
「先生、私の為のスコアをプリムローズ先生に献呈して下さい。私は歴史に名を残そうとは思いません」
「そうだな、良いだろう、その代わり草稿だけ残す。それで充分だろう」
「なぜです?」
「あれはただ一人、君の音のために書いたのだ。後の人は草稿からプリムローズ向けの曲を完成する。もう眠らせてくれ」
         *
 1945年9月26日バルトークは天国に旅立っていった。死因は白血病による肺炎であった。史実では、彼の最後の2つのコンチェルトは未完のまま残された。
 2005年の今、私はあのバルトークの為だけの演奏会を思い出していた。ここにはA面には「ヴィオラコンチェルト」をB面には「ピアノコンチェルト第3番」を刻したレコードがある。この盤は今聴くと、新鮮で音も良く、それがあの数週間のミッションによって成る事がまざまざと聴いて取れる。指揮者以下それぞれのバルトーク像を描いて、ヴィオラもピアノも一生懸命だ。そして手元のスコア。「エド・リーの為に」と扉に記してある。プリムローズもメニューインもうこの世にいない。
 あれから60年たって、アメリカはまだ戦争をやめない。私はこの機会に、「ヴィオラコンチェルト・エド版」を世に問いたい。そしてバルトークも聴いた「ピアノコンチェルト第3番」も。その上、このミッションの成功を刻したレコードをCD化したい。誰よりも平和を愛し、戦争を憎んだバルトークの良心を現代社会に問いたいのだ。
 

 実際の初演
 ヴィオラコンチェルト

1949年12月2日 
 ウイリアム・プリムローズ:ヴィオラ
 アンタル・ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団

ピアノコンチェルト第3番

1946年2月8日
 ジョルジュ・シャーンドル:ピアノ
 ユージン・オーマンディー指揮 フィラデルフィア管弦楽団

  
   参考文献

   小倉朗「現代音楽を語る」
   ひのまどか「バルトーク」
   アガサ・ファセット
      「バルトーク晩年の悲劇」
   ユーディー・メニューイン
      「果てしなき旅」
   五つの歌曲
       徳永康元訳
                                                           

僕のヴィオラコンチェルト

僕のヴィオラコンチェルト

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted