ここで一番好きな風景 中編

  12
 生まれて初めて俺は、ラブホでフロントからのモーニングコールに叩き起こされる事なく目が覚めた。ユウキの寝顔を見ている内に、俺も直ぐに寝てしまったせいだ。おかげで、それはありえないほどの早起きだった。
 早朝六時。
 ほんの少しだけ朝日を通す薄いピンク色のカーテンは、昨日見ていたフラミンゴみたいで、やたらと目に焼きついた。
 ほとんど同時にユウキも目を覚まし、俺達はもう一度セックスした。
「ごめんね、きのうは速攻で寝ちゃって。ヤリたりなかったでしょ?」
 セックスしている時、ユウキはそう言って俺をからかった。
 それから俺達は、一緒にシャワーを浴びた。
 俺は服と一緒にヘアバンドを取り、その下の脱脂綿を剥がす。傷口には、すでにカサブタが出来ていた。湿布を取ると、足の腫れもすっかりひいていた。
「大丈夫そうだね。もうこんな事しちゃダメだよ」
 そんな物言いは、なんだか小さな女の子が幼い弟にでも言うような感じで、妙に可愛らしかった。
 風呂から上がり、俺は冷蔵庫に入っていた一本二百円する350m缶のコーラを取って二人で分け合って飲んだ。
 飲み終わると、俺とユウキの腹の虫が同時に目を覚ました。
「きのうから何も食べてないから、お腹空いちゃったね」
 今にも餓死しそうな顔で、ユウキは俺にそう言った。なんだかとても愛らしくて、俺はつい笑ってしまった。
 まだ少し時間は早かったが、俺とユウキはホテルを後にしてコンビニを探しに出た。

 ホテルを出て五分ほど歩いた所に、セブンイレブンは直ぐに見付かった。
 俺は、ブリトーのハムチーズとパックの牛乳を買い、ユウキには「これがいい」と言ったカルボナーラとアクエリアスのペットボトルを買ってやった。
「セブンのカルボナーラって超ウマイんだよ」
 セブンイレブンの駐車場の縁石に座り、ユウキは嬉しそうにそう言いながら器を密封しているパックを無造作に破る。
 俺のブリトーは、暖められすぎていて少し熱かった。俺はブリトーを冷ましながら、口の中をヤケドしないように慎重に少しずつほうばる。そんな俺の隣りで、ユウキは幸せそうな顔をしながらカルボナーラをせっせと口に運んでいる。
 平日の朝八時半だと言うのに、時間はゆったりと感じられた。時間なんて存在していないかのようにさえ思えた。
 幸せそうにカルボナーラを食べているユウキの横顔を見詰め、自分の気持ちをキチンと確認して、それから、俺はその言葉を口にした。
「あのさ、俺達、付き合わないか?」
 カルボナーラを口に運んだままの格好でユウキは俺に振り返り、そのまま止まった。俺も動く事が出来なかった。本当に時間が止まったみたいだった。
 時間を動かしたのは、なぜだか上げたユウキの笑い声だった。ユウキは、慌ててアクエリアスを飲み、喉に詰まりそうになったカルボナーラを流し込む。苦しそうな顔をしながらも、本当に楽しそうなユウキの笑い声。ユウキは時々変な所で笑う。俺は未だにユウキの笑いのツボがよくわからない。
「そりゃあさ、こういう事になってから言うのって順序が逆だしさ、何を今更って思うかもしれないけどさ、やっぱハッキリさせといた方がいいと思って……」
 俺は、ユウキの背中をさすってやりながら困った顔を作って言う。しかしユウキは「違うの」と言った。
「いつ言うのかな?、それともこのまま終わりかな?、なんて思ってるとこにナオヤったらイキナリ言うんだもん。思わず笑っちゃったよ」
 やっぱりよくわからない……
 ユウキは、カルボナーラを両手で持ったまま、まだクスクスと笑い、それからアクエリアスをもう一口飲む。そうして笑いが収まった頃、やっと答えた。
「いいよ」
 なんだか、物凄くポップな口調の返事。
 まるで鼻歌でも歌っているみたいな、そんな感じ。
「随分とアッサリ答えるな」
「そう?。それこそ今更じゃない?」
 ユウキは不思議そうに言う。少なからずとも緊張して言った自分がバカみたいに思えてきた。
 ユウキは、もう何事も無かったかのようにカルボナーラを、またせっせと口に運び始める。そうして食べ終わると、やたらと情けない顔をして言うのだった。
「食べたりなーい」
「太るぞ」
 俺は苦笑した。

   13
 地蔵通りの朝は早い。
 板橋なんて目と鼻の先に住んでいるのに、今まで知らなかった意外な事実。
 食べ終わった後も俺とユウキはセブンイレブンの前で、どこのコンビニのどれがウマイだのマズイだのと、そんな話をダラダラと続けながら盛り上がっていたのだが、いいかげんそんな話にも飽きてくると、少しブラブラしようという事になった。もっとも、この辺りでブラブラする所と言えば一つしかない。言わずと知れた地蔵通りである。
 携帯で時間を見てみれば、まだ九時半。なのに商店街は軒並み営業態勢を整えている。おまけに、ありがたいお地蔵様を奉っているらしいお寺には、すでにジイさん、バアさんの人だかりが出来ていた。
「みんなメッチャ早くない?。渋谷だってこんな時間じゃ、まだそんなに人居ないよ」
「ホントだな」
 俺とユウキは二人して目を丸くした。
 手を繋ぎ、しばらく商店街をブラブラしてみたが、店先には大して興味を惹かれる物も無く、これと言って意味も無かったが、何となくジイさんバアさんの人波に紛れてお参りに行ってみた。
 二人で賽銭を投げ入れ、お寺なのに条件反射で拍手(かしわで)を打ち「これって神社ですることじゃね?」と、俺が言い、二人で笑った。
 それから、石畳の真ん中で線香の煙がもうもうと上がっているとこに行き、
「ユウキ、このケムリ浴びとけば、胸が大きくなるかもしれないぞ」
「うるさいなぁ。ナオヤは頭良くしてもらいなよ」
 そんな事を言い合ってふざけあった。
 すると、そんな俺達の様子を見ていた一人のバアさんが、ニコニコ微笑みながら声を掛けてきた。
「若い人は、仲が良くっていいわねぇ」
 でも、バアさんのその目は、俺達の向こうを見ているようだった。懐かしむような、そんな目付きで。
「そうなんですよ。私達ラブラブなんです」
 ユウキは、嬉しそうにそう答えて俺の腕に絡み付いてくる。普段のユウキは、本当に明るいと思う。
『ウソで固めなきゃ、もうやってられなかったから……』
 昨夜、俺にそう言ったユウキの言葉。それこそがウソのように感じる。
 嬉しそうな笑顔を見せるユウキと、楽しそうに上げる見知らぬバアさんの笑い声。なんだか俺は、照れくさいばかりだった。

 地蔵通りにも飽きると、ユウキのリクエストで俺達はカラオケボックスに向かった。そこで三時間、俺もユウキもただひたすら歌った。ユウキはともかくとして、俺もよく歌う曲が途切れないものだと我ながら感心してしまった。
 時間になって部屋を出ようとした時、ユウキがキスを求めてきたから、俺は抱き寄せてキスをした。軽く済ませるつもりだったが、つい舌が入ってしまい、俺はユウキを押し倒したい衝動を我慢するのに大変だった。
 カラオケボックスを出た後、昼飯を食べに二人で吉野家に行った。ユウキは並盛りの牛丼を頼み、肉が真っ赤になるくらい紅しょうがを入れていた。ユウキに言わせると、それは『オヤクソク』らしい。
 そして次に行き着いた先は、巣鴨駅前のマンガ喫茶だった。
「ヒマツブシ発見!」と声を上げ、ユウキは俺の手を引っ張り店の中に入ってゆく。そこで六時間パックを頼み、ユウキは迷う事無く一直線に『ガラスの仮面』を二十七巻くらいから読み始めた。ヒマツブシと言っていた割には「今日こそは読破するんだ」と言って、やたらと力が入っていた。
「ヒマツブシじゃねーじゃん」と言って俺は笑ったが、俺も『ドラゴンボール』を一巻から、やたらとはまり込んで読んでしまった。
 時間になってマンガ喫茶を出ると、夜空がオレンジ色を今にも支配しようとしていた。
「すっかり暗くなってきちゃったね。どうしよっか?」
「ああ……どうすっかなぁ……」
 またラブホに行くには、少々持ち金が足らない。
「ユウキ、お前、いくら持ってる?」
「んーとね……」
 言いながらユウキは、ジャージのポケットに手を突っ込んでピンクのクレージュの長財布を出し、中身を見る。出てきた金額は……
「……五百六十三円」
 まあ、期待はしていなかったけど……
「全部ナオヤにおごってもらってたのに、ごめんね」
 本当に申し訳なさそうに言うものだから、聞いた俺の方が悪い気がしてきた。
「気にすんなよ」
 俺は笑ってユウキの頭を撫でた。それから、
「仕方ない。板橋戻るか」
 と、笑顔のまま言った。
 ユウキもコクリと頷いて、
「それしかなさそうだね」
 と、笑って答える。
 家に帰ろう、という言葉は、お互い出てこなかった。

 帰りは電車に乗って戻るつもりだったが、ユウキが「歩いて行きたい」と言うので、俺達は板橋まで、またあの距離を歩いて戻る事にした。
 手を繋ぎ、寄り添うように俺達は歩いた。
 俺はユウキの歩幅に合わせるが、ユウキは一生懸命に俺の歩幅に合わせようとするものだから、なんだかお互いギクシャクした歩き方になってしまい、たまに転びそうになる。
「練習不足の二人三脚みたい」
 ユウキはそう言って笑った。
 そして、お互い話をコロコロと変えながら、会話をただひたすらに重ねた。何が面白いのかも分からなくなってしまうくらい、お互い笑いあった。
 そんな何でもない事が、今は信じられないくらい楽しかった。
 庚申塚に差し掛かった頃だった。さっきまでドラマの話をしていたユウキが、また話をコロリと変えた。
「そう言えば、ナオヤって仕事、何してんの?」
 俺は手短に答える。
「派遣。日雇いの」
 と、そこで俺は重大な事を思い出した。
「ヤベェ!、俺、今日仕事入ってたんだ!」
「うそ?、ヤバイじゃん!」
 俺は慌てて携帯を開く。開きたくなかったが開く。わかっていたが俺の携帯の画面には、着信履歴がありえない数字を表示していた。
 二十七件。
 その内、メッセージが二十二件。
 言うまでもなく、母親だ。気にしたくもなかったからバイブすら切っていたのだが、それが裏目に出た。母親からのメッセージを次々と消していく内に、一件だけ派遣事務所からのメッセージが見付かった。
『杉村さん、どうしました?。連絡ください』
 事務所の男からの声。素晴らしいくらい機能的な何の感情もこもってない口調。
「大丈夫?」
 心配そうな顔でユウキは聞いてきたが、俺は笑って答えた。
「慌ててる様子も無いから大丈夫そうだよ。明日、適当なこと言ってあやまっとくよ」
 ユウキは、安心した笑顔を俺に見せた。
 それから俺は、着信履歴を一括削除しようした。が、ふと手を止めた。一件だけコウジからの着信が入っていたからだった。
「ごめん、ちょっと電話すんね」
 ユウキにそう言って俺は、着信履歴からそのままコウジに電話を掛ける。ベルが三回鳴ったところでコウジは出た。
「よお。そろそろ掛かってくる頃だと思ってたぜ」
「着信があったからさ」
「で、どうだったよ?、初めての淫行は?」
 声だけでも薄ら笑いが見えるコウジの声。
「なんだよそれ。俺がオッサンならともかく、ユウキとは四つしか離れてねーんだぞ」
 コウジは笑いながら答える。
「なんだよ。ユウキは友達だよ、とか言っといて、やっぱヤッちまったのかよ。わかりやすいな、お前わ」
 くそっ、乗せられた。別に隠すつもりも無かったが、なんだか無性に腹が立った。たまにコウジは俺に対して、こういった意地の悪い事をする。
 気が付くと、ユウキが心配そうに俺を見ていた。俺は、大丈夫、という意味を込めて軽い笑顔を返した。
「……でよ、俺のところにお前のかーちゃんから何度も電話があったぞ。ナオヤが帰ってこない、きっとあの女子高生に騙されているんだ、とか言ってな」
 あの母親の言いそうな事だ。余りにも予想通りで、もう腹も立たない。
「まあ何でもいいけどよ、連絡くらい入れとけよ。母親ってんのは、居るだけでありがたいもんなんだからよ」
 コウジには母親がいない。父子家庭だ。母親は、まだコウジが物心付く前に家を出て行ってしまったらしい。しかし、ユウキの父親みたいにロクデナシじゃない。それどころか、あんな良い人はいないと思う。ちゃんとした会社に勤め、常識をきちんとわきまえ、誰よりもコウジの事を一番に考えている。世間一般で言う『立派な大人』というやつだ。でも、コウジに言わせると「親父は立派すぎるんだよ」ということだった。
 そんな家庭で育ったせいか、コウジは少し母親に執着しているような部分がある。あんな母親を持つ俺にはわからない感情だが……
「わかった。気が向いたら連絡するよ」
 口だけの返事。コウジの苦笑いが見えてきそうだった。
「ところでよ……」
 そう言葉を続けたコウジの声色は低く、ガラリと変わった。
「……お前、大丈夫か?。イズミから話は聞いたんだろ?」
「問題ないよ」
 あるわけがない。俺はキッパリと答えた。
 携帯電話の向こうで、少しだけ沈黙が落ちた後、コウジの「そっか……」という無感情な声が聞こえてきた。
 それからコウジが「今ヒマなんだけどよ」と言うものだから、俺達は遊ぶ事になった。

   14
 いつもの待ち合わせ場所。
 板橋駅前噴水広場。
 しかし、向かう前に一度、俺達はユウキの家に戻る事になった。服と下着を着替えたい、とユウキが言った為だった。
 何も言わず家の中に入って行くユウキ。
 家の塀に寄り掛かりユウキを待つ俺。
 明かりは点いているが、人の声なんか一切聞こえてこない。この前来た時と一緒だ。
 初めてこの家を見た時は、ごく普通の家庭を想像できた。ユウキだって「ただいま」と言って家の中に入っていったし……
 しかし、中身を知ってしまった今では、ただの無機質な白い建造物にしか見えなかった。
 その無機質の中から、ユウキは十分くらいして戻ってきた。ダボっとした黒いロングTシャツに紺のスパッツ、青いミュールはそのままで、左肩にはピースマークの入ったピンクのトートバッグをぶら下げている。そして、右手には自転車のカギが握られていた。
「ここからは自転車で移動しよう。私ミュールだから、いいかげん足痛い」
 まあ、気にはなっていたが……
それにしたって、よくミュールであの距離を歩けたもんだ。情けない顔を見せるユウキに、俺は呆れた笑顔を送った。
 家の駐車場の隅からユウキが持ってきた自転車は、普通過ぎるくらい普通のママチャリだった。俺はそれにまたがり、ユウキを後ろに乗せてこぎ始める。が、二人乗りで自転車をこぐなんて久しぶりだったから、俺は思わずよろけてしまった。
「怖い怖い!」
 ジェットコースターに乗っているような、ユウキの楽しそうな悲鳴。思わず笑ってしまい余計に力が入らない。それでも俺は笑いを堪え、必死にバランスを取る。そして、なんとか持ち直し、真っ直ぐ走れるようになると、荷台にまたがっていたユウキに「もうっ!、こわいよ」と言われ、背中を軽く叩かれた。言葉とは裏腹の楽しそうな口調。
「わりいわりい」
 俺は笑って答える。
 久しぶりの二人乗りは、久しぶりの幸福感というやつを俺に思い出させてくれた。

 自転車を駅前に停め、噴水広場に行ってみると、コウジは不機嫌そうに待っていた。
 待ち合わせは九時半。現在の時刻は九時十五分。
「おせえよ」
 コウジは言う。まあ、いつもの事だ。待ち合わせ時間前でも、自分より相手が遅く来るとコウジは必ず文句を言う。
「コウジが早いんだよ」
 俺は苦笑する。いつものようにコウジは「そうだったか?」と、とぼける。いつものやりとり。俺は安心した。ユウキの事でコウジとの関係が不自然なものになってしまうのは、やはり嫌だった。
ただ、気になったのは、コウジの隣に立っていたイズミちゃんだった。イズミちゃんは気が強い分、なんでもハッキリと口に出して言ってしまうタイプだ。俺に対してはどうでもいいが、ユウキにどんな態度を取ってくるか……
 すると、そんな俺の心配をよそに、ユウキは自分から「こんばんわー」と、明るく二人に声を掛けた。コウジは、ニコリと笑いかける。そして、イズミちゃんは……
「ユウキ、おっひさー」
 と、満面の笑みをユウキに向けた。それからユウキとイズミちゃんは、手を合わせ子猫みたいにはしゃいだ。まるで、何事も無かったかのように。
 電話で言っていた通り、割り切ってくれているのかな?
 イズミちゃんが、どう思っているのか俺にはわからなかったが、とりあえずは安心した。
「おし。じゃあ飲み行くか。金なら心配しなくていいぞ。今日は俺のオゴリだ」
 ユウキとイズミちゃんは、同時に飛び跳ねて喜んだ。
 コウジには、たまにこういう時がある。

 駅近くの居酒屋に入り、俺を含めた全員に多少の酔いが回って場が盛り上がってくると、話題に上ったのは『コウジの職業』についてだった。実は、これについては誰一人として知らないのだ。ただ、わかっているのは、やたらと夜の商売に顔が利くという事くらい。聞くたびにコウジは、人身売買とか、イケナイものを売ってるとか、いかがわしい事しか言わない。一番まともな答えはギャンブラーだったと思う。まあ、まともでもないが……
もちろん、その日もコウジは適当な事ばかり言ってはぐらかしていたが、しかし、ユウキはそれに随分と興味を持ったみたいで、何度も同じ質問を繰り返していた。
 居酒屋を出た後は『カラオケ・123(ワンツースリー)』へと、お決まりのコース。俺は昼間も三時間歌っていたから、いいかげん声も出ず、コウジもあまり歌いたがる方じゃない。当然、ユウキとイズミちゃん二人のカラオケ大会となる。
 と、言うより、すでにいつもの事だった。
 今までも何度か四人でカラオケに行ったが、こうならなかった事が一度も無い。本当に女というのは、歌う事が好きな生き物だと思う。
 いや、もしかしたらこの二人が例外なのか?
 カラオケが終わって外に出たのは、午前三時を回ってからだった。
 人気の無い噴水広場で、俺達四人はベンチに座り、酔い覚ましの夜風を浴びていた。ユウキとイズミちゃんはカラオケに行ってからは、お茶だのジュースだのに変えていたから、もう酔いも薄れていたようだが、飲み続けていた俺は、さすがに限界だった。吐くほどではないにしろ、もう一滴も飲みたくない。コウジもベンチにぐったりとうな垂れている。俺と似たようなものらしい。
 と、そんな時だった。コウジが思いついたように言った。
「イズミ、ちょっとそこのローソン行ってコーヒー買ってこいよ」
 イズミちゃんが頷くより先に、コウジは財布から千円出してイズミちゃんに渡す。
「俺はジョージアのエメラルドな。ナオヤは何にする?」
 ここでコーヒーを飲んだら胸焼けしそうな予感がした俺は「ポカリで」と、イズミちゃんに告げた。
「じゃあ行ってくんね。ユウキ、一緒に行こ」
 ユウキは「うん」と頷く。
 二人は手を繋ぎ、仲良さそうに目の前のローソンへと歩いていった。
 二人の背中を見つめながら俺は、ちょっと気付いていた事を口にした。
「イズミちゃん、ノーメイクだけど眉毛だけは描いてたな。前にコウジに言われた事、気にしてんだな」
「そうかもな」
 うなだれたまま、コウジの返事は素っ気無い。
「イズミちゃん、本当にコウジの事、好きなんだな」
「たぶんな。俺にその気は無えけどな」
 やはり素っ気無い。
 それ以上は会話が見つからず、俺は夜風に身体を晒した。酒で火照った身体を、夜風が涼しげに包み込む。ついウトウトとしかけた時、不意にコウジが言った。
「なあ、ナオヤ」
「……ん?、なに?」
「気にする事は無えからな」
「えっ、なにが?」
「ユウちゃんがどういう子であろうと、お前が選んだ事だ。俺もイズミも、もう何も言うつもりは無えし、もちろん俺達四人の関係が変わる事も無え。俺達はこのままだ」
「……ありがとう」
「イズミの事だから、多分アイツも今頃は、ユウちゃんに同じようなこと言ってんだろ。自分も人のこと言えたような義理じゃない、とか何とか言ってな。俺が言っとけって言っといたから」
「ありがとう……」
 二回言った『ありがとう』という言葉。素直に嬉しくて、自然に出てきた言葉だった。
 気が付くと、ユウキとイズミちゃんがこっちに戻ってきていた。何がそんなにおかしいのか、二人はまるで小学生みたいに大笑いをしていた。
 心から楽しんでいるようなユウキの笑い声。
 いつまでも聞いていたい、決して失いたくない、そんな響きだった。

   15
 ジリジリと照りつける日差しが、アスファルトまで溶かしてしまうのではないのかと、そんな錯覚を覚える。場所など選ばずにたちこめる夏の陽炎は、昔見た夢の風景によく似ていた。
 テレビのニュースでは、毎日欠かさず熱中症の犠牲者の数を報告している。六月頃から言われていた事だが、今年は猛暑らしい。八月に入ると、どっかの田舎では観測至上最高気温を記録したそうだ。ニュースキャスターの鬼気迫る声を聞いていると、そんなに危機感を煽らなくてもいいのに、と思う。
 温暖化が進んでいるのだな、とも思う。
だが、今俺とユウキの居る場所は、そんな言葉など知らぬ存ぜぬ、と言った風にクーラーがガンガンに効いている。冷え性の人は堪らないだろうな、と思ってしまうくらい。「あっ、見て見てナオヤ。来週の土曜日、板橋の花火大会だって。行こうよ」
俺がマンガを読んでいる横で、ユウキはパソコンでヤフーのホームページに載っていた花火大会情報を見ながらそう言った。
池袋、サンシャイン通りを少し横道に逸れると、そこは積み木を並べたような雑居ビルがひしめいている通りに出る。そんなビル群の中の一つ、特に薄汚れた雑居ビルに入っているネットカフェの二人部屋(ペアシート)。
マジかよ?、と、思わずにはいられないほど狭い、クッションフロアー。
今の俺達の居場所が、そこだった。
俺達が家に帰らなくなって、もう一週間が経とうとしている。しかし『家出しよう』とか、そんな言葉を言い合った訳じゃない。ただ、お互いの口から『帰ろう』という言葉が出ないだけだった。だから、お互い家出しているという意識は希薄だった。
もしかしたら、すでに捜索願くらい出されているかもしれない。特に俺には……
知った事ではないが。
着替えの服や下着は『しまむら』や『ユニクロ』で調達した。食べるにしたって全て外食、コンビニ、ネットカフェのフード、一晩寝るにしたって金が要る。とにかく金ばかり出て行ったが、ありがたい事に俺の日雇いのバイトは途切れる事が無かった。そのほとんどは運送関係、工事関係ばかりでキツかったが、体力が持つ限り俺は仕事を引き受けた。ユウキは満足にバイトが出来る年齢ではないし、無計画な俺達には、とにかく金が必要だった。
「花火大会か。そういや去年は行ってないな。行きたいな」
 俺は、パソコンの画面を見ながらユウキにそう答えた。
 ふと、画面下の青いライン、タスクバーとか言う部分に目をやると、表示されていた時刻は0時十五分だった。明日も仕事だ。
「俺、そろそろ寝るな。時間になったら起こして」
 ユウキは素直な笑顔で頷く。
 ここに居られるタイムリミットは午前五時。時間とは、それまでのこと。
 基本的にユウキは夜寝なかった。俺がバイトに出かけている間に、イズミちゃんの所に行って寝かしてもらっている。イズミちゃんは一人暮らしだったし、昼間は寝ている時間だからイズミちゃんも「ウチに来て寝ればいいよ」と、ユウキに言ってくれていた。ユウキの荷物も、ほとんどがイズミちゃんの部屋にあった。
 俺はユウキにキスをして、狭い部屋に身体を縮めて横になる。
 こんな生活がいつまで続くのだろう、という漠然とした不安はあった。ユウキも同じ気持ちみたいだ。たまに俺にそんな事を言う。それでも俺達に取ってこの生活は、掛け替えの無い楽園に変わりはなかった。

 時間になり、俺はユウキに身体を揺すられて目を覚ました。
「ナオヤ、時間だよ」
 寝返りも打てない部屋で熟睡など出来るはずはなく、頭はボウっとしていた。
 いいかげん、慣れはしたが。
 身体を起こし、服を調えて俺達は部屋を出る。そうしてカウンターに行くと、見知った顔がそこに立っていた。
「おはよう」
 根元まで綺麗に染め上げたブラウンのショートロングに、少し濃い目の化粧。紫色のキャミソールの上からピンク色のシャツを羽織り、ジーンズをはいている。
 二十代半ばくらいに見える彼女の名前は、遠山カレンと言った。
 俺とユウキが、こんな生活を始めて三日くらい経った日の事だった。このネットカフェの本棚の前で彼女は、俺とユウキを興味深そうに見詰めながら、突然、声を掛けてきたのだった。
「貴方達って、もしかして家出?」
 それがカレンさんの最初の言葉だった。そうです、とも言えず、答えに詰まってしまった俺達を、カレンさんは面白そうに小さく笑っていた。その笑顔は、まるでファッション雑誌のモデルみたいに完成されていて、しばらく頭から離れなかった。
 まだ寝とぼけた頭で「おはようございます」と、俺がカレンさんに言った後、ユウキが少し驚いたような顔でカレンさんに口を開いた。
「カレンさん、今日は早いね」
 大抵、カレンさんは時間を延長して九時くらいまで居る。一応、アパートは借りているらしいのだが、ほとんど帰らないらしい。本人いわく『物置』と呼んでいた。
「ちょっと朝の散歩がしたくってね」
 カレンさんは、綺麗に微笑んでそう答える。
 いつものように完成された笑顔。
「そうだ。一緒に朝食、食べに行かない?。美味しいとこ知ってるの。ごちそうしてあげる」
「やった!」
 ユウキは子供みたいな声で喜び、俺は「ありがとうございます」と、頭を下げた。

 カレンさんが連れて行ってくれた店は、期待していた割には何て事は無く『富士そば』だった。しかし、カレンさんの口から飛び出した言葉は、かなり意外だった。
「このお店ね、最近発見したの。すごく美味しいのよ」
 どこか自慢気に言うカレンさんを見て、俺とユウキは顔を見合わせて笑ってしまった。
「なに言ってるんですか、常識ですよ」
「カレンさん、天然すぎ」
「えーっ!、ウソー」
 カレンさんは、口を尖らせてそんな声を上げると、
「もう……せっかく、自分だけの美味しいお店発見!、とか思ってたのに……」
 と、子供みたいな事を言って首をうな垂れた。そんなカレンさんにユウキは「カレンさん、カワイイ!」と言って、無邪気な笑顔でカレンさんの頭を撫でた。カレンさんも、そんなユウキに付き合って泣くマネをしてみせた。
 ユウキは、元々人なつっこい性格ではあるが、特にカレンさんには直ぐになついた。カレンさんも俺に「彼女、すごく楽しい子ね」と言っていた。二人に言わせると波長が合うのだそうだ。
 店に入ると「いらっしゃいませ」と、語尾を弾ませた従業員のおばちゃんの声が直ぐに耳に飛び込んできた。そば屋になんて入るのは、俺もユウキも久し振りだった。
「なんにする?」
 店の入口横に据えられた食券の自販機の前に立ち、カレンさんが聞いてきた。俺は天玉を頼み、ユウキも一緒でいいと言う。カレンさんは月見の食券を買っていた。
「全部そばで」と言って、カレンさんはカウンターから従業員のおばちゃんに食券を渡す。品物は直ぐに出てきた。俺とユウキは、久し振りに食べるそばが何だか嬉しくて、ついはしゃぎながら食べる。そんな俺達の様子を、カレンさんはニコニコと楽しそうに眺めていた。
 しかし、何故だか自分のそばには手をつけようとしなかった。
「カレンさん、早く食べないとおそば伸びちゃうよ」
 カレンさんは、ほんの少しだけ笑顔を見せて答えた。
「私ね、ここに来ると、必ず月見を頼むの。それで、少し見詰めるの。そうすれば、月の色が思い出せるような気がするから」
「月の色も忘れちゃったの?」
「そう。だから、こうやって今度は黄身を割ってみるんだ」
 割り箸に割られた黄身が、茶色い汁の表面に広がってゆく。水面に映る満月みたいだった。
「広がった黄身の部分がね、とても色濃くなって、何となく思い出せそうになるんだけど、でも、やっぱりダメなの」
 そう語るカレンさんは、まったくの無表情だった。
「きっと良くなりますよ」
 慰めにもならないだろうと思いつつも、そんな当たり前な言葉しか俺の口からは出てこなかった。横のユウキが「うんうん」と、何度も頷いて相槌を打った。カレンさんは、寂しげな笑みで呟く。
「だと、いいんだけど…」
 それでも、やっぱりその笑みは完成されていた。
 カレンさんは、白黒の世界で生きていた。いわゆる色盲というやつだ。
「十五の時にね、朝起きると、全ての色という色が、突然わからなくなったの。その時、初めて気が付いたの。いつも食べてるお米の色ですら、ただの白色じゃなかったんだって」
 カレンさんはネットカフェに来ても、いつもマンガばかり読んでいる。何日か前、不思議に思った俺は……と言うより、パソコンの使い方がわからなければ教えてあげようと思い、それとなく聞いてみた。そうして返ってきた答えが、そんな言葉であった。
「マンガは好きなのよ。だって、表紙以外は全部白黒でしょ?」
 カレンさんが言うには、自分のような全色盲は珍しいのだと言う。色盲は、赤しかわからない、とか、緑しかわからない、というのが普通らしい。そして、カレンさんの色盲は、特に珍しかった。それは、身体的異常が全く見られない、という事だった。
「お医者さんにはね、捨て猫でも見るような可哀想な目で『精神的な問題でしょう』て言われたの」
 笑いながらカレンさんは、俺にそう話してくれた。
 いずれにしろ、白黒の世界で生きるという事が一体どういう事なのか、俺には全く想像できなかった。ユウキとも話したが、やっぱり俺もユウキも答えを見付ける事が出来なかった。しかし、カレンさんに言わせてみれば、コレと言って不便な事は無いのだと言う。
「だって、別に目が見えないわけじゃないもの。何か色で説明された時は困っちゃうけど、そういう時は予め、私色盲だからって言っちゃうしね。そうね、強いて言えば、服を選ぶ時に、つい濃い色を選んじゃう事くらいかな。自分じゃわからないからさ。あとは化粧。今でも濃くなっちゃうんだけど、こんな風に慣れる前はもっと酷くって、オバケみたいになっててさ、もう美人が台無しだったよ……って、これは言い過ぎか」
 最後に、カレンさんは舌を出して笑った。こちらに見せる角度、舌を出す長さとタイミング、目じりのほころび加減まで、全てが完璧だった。まるで、映画のワンシーンを見ているような、そんな印象を残す表情。
 汁に滲む黄身にそばを絡ませて、控えめな音を立てながらカレンさんは、そばをすすり始めた。
『月の色が思い出せない』
 米がただの白色じゃないように、月だってただの黄色じゃない。カレンさんは、そのただの黄色じゃない黄色を必死に思い出そうとしているのだろう。しかし、今日もカレンさんは月の色を思い出す事が出来ずに、月見そばを食べ終わった。

 俺とユウキは、カレンさんに「ごちそうさまでした」と、二人で礼を言って別れた後、俺達も池袋の埼京線のホームで別れた。ユウキは、いつものように板橋へ、イズミちゃんちに向かい、俺は、今日の職場である晴海へと向かう。まだ朝の六時だと言うのに、気温はすでに上昇し始めていて、もうTシャツには汗が滲んでいた。背広を着た二人組の男が、「今日も暑くなりそうだな」と言って、笑い合っていた。そんな言葉を耳にしただけで、俺はうんざりした。

   16
 そういう日は、突然のようにやってくる。
 いや、考えておくべきだった、と言った方が正しいだろう。
 去年までの俺だったら、間違いなく考えていた。しかし、今はダメだ。本当に色々な事がありすぎて完全に忘れていた。
 それは、今週も終わろうとしていた土曜日の夕方。今日の仕事も終わり、来週の仕事を確認する為に派遣事務所に電話を入れた時の事だった。
「ごめんなさい、杉村さん。来週からどこの現場もお盆休みに入っちゃって、しばらく仕事が無さそうなんですよ」
 素晴らしく機能的で、何の感情もこもってない口調の彼は、今の俺に取ってもっとも絶望的な言葉を事も無げに吐いた。
『仕事が無い』
「八月中は、あと一、二回あれば良い方だと思います。でも、九月に入ったらまた増えてくると思うんで、その時はまたよろしくお願いします」
 九月?、何を言ってんだこのクソわ!
 俺は、携帯を地面に投げつけそうになりながら電話を切った。

 サンシャイン通りを横に抜け、明治通りに向かう裏道の途中にある公園。ベンチ以外は何も無い、ただ広いだけの公園で、俺とユウキは座り込み、通り過ぎてゆく人達をただ見詰めていた。
 夜になっても風は生暖かく、今夜も熱帯夜らしかった。だが、それでも俺はマシだと思った。今が夏で良かった、と。これが冬だったら、もっとミジメな気持ちになっていたと思う。
 ユウキの長く、艶のある綺麗な髪。毛先が、だいぶまばらになっているのがわかる。でも、ネットカフェに泊まる金すら無くなった俺には、どうする事も出来ない。
 黒くモヤモヤしたものが、泥のように溜まり始める。自分の体が、物みたいに見えてきて、どうしようもない衝動が何度も俺を貫いてゆく。
 手が、震え始める。
 堪える為に、俺はユウキの小さな白い手を握った。不思議そうな顔をして、ユウキが俺に振り返ったから、俺は小さく口を開いた。その顔はきっと、どうしようもないほど情けない顔をしていたと思う。
「ごめんな、ユウキ。花火大会どころか、明日はユウキの誕生日だって言うのに、何もしてやれなくて……」
 すると、ユウキは今にも泣き出しそうな顔になって言った。
「いいよ、そんなの。気にしないでよ。花火は来年だってあるしさ、誕生日なんか、家があんなになってからは、いつも忘れられてたし……」
「だからこそ、何かやってやりたかったんだ」
「私は、今ナオヤが私の側に居て、こうやって手を握ってくれている、それだけで十分だから……」
 だけど、愛だけじゃおなかはふくれないから。誰かが、そんな歌詞を歌っていたのを俺は思い出していた。
「俺、ちょっとジュースでも買ってくるよ」
「うん」
 俺が立ち上がると、ユウキは俺を見上げて、本当に素直な笑顔で頷いた。
 別に、ノドなど渇いてない。ただ、居た堪れなかっただけだ。そんな俺は、ユウキの笑顔から逃げるように背を向けた。
 公園を出て、目の前に見えた自販機の前に立つ。飲みたくもないのに何か選ばなければいけないという事が、これほど苦痛だとは想像した事もなかった。でも俺は、残金五千円を切った財布を開け、小銭を出して自販機に入れる。すると、突然横から手が伸びてきて、その手はクリスタルカイザーを押した。
「迷った時は水に限るぞ。ハズレが無えからな」
 子供の頃から聞き慣れた声。振り向くと同時に、声は言った。
「しけたツラしてんなあぁ」
 コウジは皮肉めいた苦笑を浮かべていて、そんなコウジに、俺はしけた笑顔しか返せなかった。
 ここでコウジに会ったのは、別に偶然でも何でもない。元々、俺達はここで待ち合わせていたのだから。
「悪かったな、コウジ。呼び出しちゃって」
 しかし、コウジが何とかしてくれるなんて、そんな都合のいい事を俺は微塵も思ってなかった。でもやっぱり、こんな時に話せる人間を、俺はコウジしか知らなかった。
「気にすんな。俺らも、ちょうど池袋で遊んでたとこだしな」
 コウジの横には、イズミちゃんが居た。黒のワンピースにブーツという普段着だったが、髪型とメイクは営業仕様になっていた。
「イズミちゃん、今日土曜だし、出勤でしょ?、時間大丈夫?」
「シカト、シカト。本当はコウジと同伴するつもりだったけどさ、友達がピンチの時に出勤なんてしてらんないよ」
 そこにコウジが、大笑いしながら口を挟む。
「コイツ、店に電話して店長に『だったらテメエが女装して客の相手しろよ!』とか言ってキレてんの」
 イズミちゃんも一緒になって笑っていたが、俺は思わず心配になってしまった。
「そんな事して大丈夫なの?」
 しかし、イズミちゃんは笑いながら答える。
「だいじょぶ、だいじょぶ。店は絶対イズミの事クビに出来ないし、女の子達もみんなイズミの味方だから。それに、イズミがこうやって週末たまに休んだ方が、他の子達が稼げていいんだよ。キャバ嬢は歩合制だからね。だいたい、ちゃんと説明してるイズミの言う事を聞かない店長が悪いんだもん。だから全然気にしないで。万事オールオッケーだから」
 やっぱり俺は、しけた笑顔しか浮かべられなかったが、それでも心から「ありがとう」と言った。
「とりあえずよ、ユウちゃん公園で待ってんだろ。行こうぜ」
「うん」
 俺は頷き、コウジ達と一緒にユウキの所に戻った。
 俺達の姿に気付くと、ユウキは立ち上がり「イズミさんだぁ!」と、子供みたいな声を上げて、子供みたいにイズミちゃんに抱きついた。ユウキの方がイズミちゃんより頭半分くらい低いから、本当に妹が姉に抱きついているように見える。
「ユウキ、どうしたの?」
 イズミちゃんも、少し驚いた様子を見せた。こんな状況でも笑顔を浮かべる事が出来たって、それでもユウキは明日やっと十七歳の誕生日を迎える少女だ。やはり、俺と同じで不安だったのだろう。
 その姿は、どうしようもなく辛かった……
 ベンチにはユウキとイズミちゃんが座り、俺はベンチの後ろの植え込みの丸い柵に座り、コウジはその場にしゃがみ込んだ。
 それから、コウジは十五の時から愛煙している赤ラークを咥える。同時に、イズミちゃんは条件反射のように脇に抱えていたエルメスのポーチから直ぐにライターを出し、コウジの煙草に火を点ける。コウジは、ゆっくりと煙を吐きながら言った。
「で、話は電話で大体わかったけどよ、結局のとこ、どうするつもりなんだ?」
 そう言われたところで、答えなんて出てくる訳がない。どうしていいかわからないから、途方に暮れていたのだから……
 黙ったまま、俺もユウキも俯いてしまった。
 そんな俺達の姿にコウジは困った顔で、金髪から赤髪に変えていた頭を掻く。
「じゃあよ、質問変えるぞ。お前らは一体どうしたくって、こんな事を続けてたんだ?」
 俺は思わず顔を上げた。
 質問が核心を突きすぎていて、余計何も答えが浮かばない。
 結局、俺とユウキは……いや、俺はユウキを連れ回して、一体何がしたかったんだ?
「逃げようが、どうしようが、それはお前らの勝手だよ。でもな、その先に一体何があるんだよ?」
 厳しい目付きで、睨むようにコウジは俺を見て言う。
「いいかげん、この辺がシオドキなんじゃねえのか?。こんなカケオチごっこ」
 ごっこ?
 そうか……
 そうだったのかもしれない……
「ちょっとコウジ。そこまで言ったら可哀想だよ」
「お前は黙ってろ」
 口を挟んできたイズミちゃんに、コウジは怒鳴り気味に声を上げ、また俺を睨む。
「別に、金が足りねえって言うなら、いくらでも貸してやるよ。でもな、そんなハシタ金で、どうにかなるなんて考える程、お前だってバカじゃねえだろ?」
 結局、俺は誰かに『家に帰れ』と、うながしてもらいたかっただけなのか?
 自分の気持ちを確認してみたが、やっぱり違う気がした。
 すると、イズミちゃんがユウキに口を開いた。
「ユウキはさ、これからどうしたいの?」
 答えを探しているように、ユウキは口をつぐむ。イズミちゃんは、ユウキの横顔をジッと見詰めた。
 ユウキは、呟くように、ぽつり、ぽつり、と答え始めた。
「やっぱり、家には帰りたくないな……ナオヤと一緒なら大丈夫って思ってたけど……だけど、お金は必要なんだよね?。それが、世の中ってもんなんだよね?」
「そっか、やっぱりお金か……」
 溜め息混じりにイズミちゃんは言う。と、そこにコウジが、何かを察知したかのように声を上げた。
「おいイズミ。お前、ユウちゃんに変なこと吹き込むんじゃねえぞ」
 しかし、今度はイズミちゃんも引かなかった。コウジを見下ろし、強い目付きで言い返した。
「ねえ、コウジはさ、ユウキとナオヤ君に、甘えたこと言ってないで早く家に帰れ、って言いたいんだろうけどさ、痛みって人によってみんな感じ方が違うんだよ。イズミは、家に帰りたくないって言ってる奴に帰れとは言えないよ」
「俺だって……」
 呟くようにコウジが言いかけたのが俺にはわかったが、何も言わずコウジは二本目の煙草に、今度は自分で火を点けた。
 気を取り直すようにイズミちゃんはニッコリとユウキに笑いかけ、言った。
「ねえユウキ、だったら働かない?。イズミ、お店紹介してあげるよ」
 コウジが、やっぱり、という顔をする。
 ユウキは、不安を滲ませた顔でイズミちゃんに聞き返した。
「お店って、イズミさんと一緒のとこ?」
「本当は、そうしてあげたいんだけど、イズミんとこ、うるさくなっちゃってさ、いくら自分で、十八歳以上です、って言っても、身分証見せないと雇わなくなっちゃったんだよね。だから、ユルい店、一件知ってるからさ、そこ紹介してあげるよ。ロサの近くにあるベルベットってお店なんだけど、キャバって言ってもスナックみたいに小さいお店だから、そんなにお客に気を使う必要も無いし、日払いでくれるから、今のユウキ達には助かるでしょ?。それに、そこの店長はイズミのお客だから、時給にもワガママ言ってあげれるしさ」
 すると、ユウキは俺に視線を向けた。表情に、もう不安は滲んでなかった。
「いいよね、ナオヤ。そんなに長く勤める訳じゃないし、私、とりあえずそこで働いてお金貯めるからさ、そしたら、二人で住めるとこ探そうよ」
 そして、ユウキは微笑む。きっと、今のユウキの夢は、俺と一緒に暮らす事なんだろうと思う。俺は「ああ……」と、小さく返した。
「よし、じゃあ決まりね」
 イズミちゃんはそう言って立ち上がると、早速のようにエルメスのポーチから携帯を出して電話を掛けた。
「もっしー、店長?、こんばんわ!」
 イズミちゃんは、営業用の声色を弾ませて喋る。
「実はさ、一人面倒みてもらいたい子が居るんだけど……えっ、マジで?、うん、うん、ありがとう。じゃあ後で顔出すから、よろしくねぇ」
 電話を切った途端、イズミちゃんは嬉しそうにユウキの手を握って言った。
「今、女の子足りてないから大歓迎だって!。とりあえず、タクシーでイズミんち戻って服着替えてこよう。営業用のやつ、貸してあげるから」
「うん、わかった……ナオヤ、いつものサンシャイン通りのとこのネットカフェで待ってて。終わったら電話するから」
「ああ、待ってるよ」
「じゃあ、ナオヤ君、ユウキ借りてくね。コウジ、明日また電話すんね」
「わかったよ」
 そうして、イズミちゃんはユウキの手を引いて公園を飛び出していった。
 俺とコウジは、空いたベンチに座る。
 二人の姿が見えなくなると、コウジはまた煙草を咥え、俺にも一本薦めてきた。俺は、勧められるままにコウジの赤ラークを咥える。同時に、コウジは火を点けてくれた。そして、自分の煙草に火を点けて、短く俺に言った。
「本当に、これで良かったんだな?」
 良かったかどうかなんて、俺に答えられるわけがなかった。ただ、俺もユウキも、家に帰りたくないと思い続けている以上、これしか選択肢は無かったように思う。でも、だからと言って、ユウキだけに働かせるようなロクデナシになるつもりも無かった。
 俺は、一つの決心を固めてコウジに聞いた。
「コウジって、夜の商売とかに顔が利いたよな」
「それなりにはな……」
 コウジは、何処を見詰めるでもなく、ただ視線を前だけに向けて、煙草をふかしている。
「あのさ、実は俺も、紹介してほしい仕事があるんだよ」
「なんだ?、ホストクラブでも紹介しろって言うのか?。やめとけよ。直ぐに儲かるような商売じゃねえし、お前には合わねえよ」
「違うんだ。もっと手っ取り早く金になる商売があっただろう、前に話してた……」
「男性売春か……」
 俺は頷いた。ユウキが俺の為に、夜の商売を始めようとしている。不安しかない仕事をしながら、そこで十二時が過ぎて、ユウキは十七歳の誕生日を迎える。それはきっと、最低の誕生日だ。何もしてやれない俺に残った物は、体ぐらいしかなかった。
「スケベなホモのオッサンに体売って、そこそこの金は手に入れられたとしても、それで本当にユウちゃんが喜ぶとでも思ってんのか?」
「ユウキだけに辛い思いはさせたくないんだ。だけど、俺にはもう、それくらいしか思い付かないんだよ……」
 その途端だった。突然、コウジは俺の胸倉を掴んだ。
「コ、コウジ?」
「てめぇ、アレがどういう商売かわかって言ってんのか!、ああっ?」
 こんなに怖い目をコウジに向けられたのは、これが始めてだったかもしれない。
「知らねえ野郎の汚ぇもん触って、挙句にはケツの穴まで舐めさせられて、それがどういう事かわかってんのかテメェ」
 俺の胸倉を掴んだまま、コウジは俺を睨み続けた。でも、その目はどこか悲しむようで、目元に飾られた星型のピアスが、まるで涙のように見えた。
 そして、コウジは俺の胸倉から手を離すと、力無くうなだれて、小さく言った。
「やめとけよ、後悔するぞ。やってる本人が言ってんだから、間違いねえよ……」
 初めて聞いた。
 でも、驚きはしなかった。別に予想していたわけじゃなかったが、なぜだか驚く事が出来なかった。たぶん、あの悲しむような目のせいだ。
 コウジは顔を上げ、俺を見る。もう、怖い目も、悲しい目もしてはいなかった。ただ、無表情に、呟くように、こんな事を俺に言った。
「そんなに体売りたきゃ、俺が買ってやるよ……」
 高校の卒業式の前の日の事だったと思う。卒業の前祝いだと言って、コウジを含めた何人かの仲間と、夜の公園で宴会をやった。みんなベロベロに酔っ払っていたが、特にコウジは酷くって、宴会がお開きになった後、俺は少し心配になってコウジを家まで送り届けた事があった。その道の途中で、俺はコウジの口から初めて『バイセクシャル』という言葉を聞いた。
「俺な、バイセクシャルなんだよ。でな、お前の事が大好きなんだよ」
 酔っ払いの言う事だ。俺は笑って聞き流した。それから何度か言われていたが……
『俺が買ってやるよ』
 その言葉は、とても重たく響いた。
 コウジの気持ちを理解するのに十分だった。
 今まで俺に言ってきていた事は、冗談でも何でもなく……
「俺は……」
 だが、そう言いかけた途端、コウジは一変して投げ出すように俺の言葉を遮った。
「あー、わかったわかった、言わなくてもいいよ。お前の気持ちなんざぁ、今更言われなくたってわかってんだ。俺の恋は、とっくの昔に終わってんだからよ」
「コウジ、あのさ……」
「あやまんじゃねえぞ。俺は、お前がユウちゃんと幸せになってくれりゃあ、それでいいんだからよ。お前の幸せが、俺の幸せみたいなもんだからな。イズミだって、ユウちゃんに幸せになってもらいたいから、バカな頭ひねって、自分なりに協力しようとしてるんだ。だからよ、あんまりバカな考えは起こすんじゃねえぞ」
 コウジは、手の甲で俺の胸をポンと叩いた。
「さて、どっかメシでも食いに行こうぜ。オゴッてやるよ」
 コウジは立ち上がり、ニッと歯を見せて笑った。
 見知らぬ人達が、公園を通り過ぎてゆく。
 向こうに見える建物や道路には、無数の光があって、そこでもやっぱり、見知らぬ人達が通り過ぎて行っているのだろう。そんな溢れかえった人々全てと出会う事が可能だったとしても、一体何人の人達が、こんなにも俺の事を思ってくれるだろうか?
 俺はバカだ。
 コウジの気持ちも、イズミちゃんの気持ちも、ユウキの気持ちさえも、本当は理解なんて出来ていなかった。
 俺はバカだ。
 本当は、元からロクデナシだったんだ……

   17
 いつもの池袋のネットカフェ。
 少し肩を動かしただけで、壁に当たってしまうくらい狭い一人用の個室。
 ただ、ひたすらユウキからの電話を待っていた俺の携帯が、パソコンのディスプレイの前で不意に震えたのは、午前二時を回ってからだった。
「よかった、起きててくれたんだね」
 声を弾ませて、電話越しのユウキは本当に嬉しそうに言った。俺は、シンとした店内を気にしながら、声を潜ませて短く答える。
「当たり前だろ」
「ありがとう」
 また、本当に嬉しそうな声。
「それで、大丈夫だったか?」
 その、大丈夫だったか?、という言葉は、色々な意味を含んでいた。

 コウジと公園を出て、近くのラーメン屋に入った時の事だった。お互いにチャーシューメンと餃子、それに瓶ビールを一本ずつ頼み、それを酌み交わした時だ。一杯目をぐいっと一気に飲み干した後、コウジは申し訳なさそうな、それでいて心配するような顔で俺に言ったのだった。
「ナオヤよ、一応言っとくけど、ユウちゃんの事、よく見張っとけよ」
 俺は最初、コウジが何を言ってるのか、よくわからなかった。
「見張っとけって……あれか?、あの、店の客とデキちゃわねえように、とか、そういう事か?」
 わからない顔を作りながらも、俺はそう聞き返してみたが、コウジは「そういう事じゃなくってよ」と、首を振った。
「浮気とかっていう点に関しては、あの子は大丈夫だよ。ぶっちゃけ言っちまえば、お前ら似た者同士だしな」
 コウジは昔からそうだ。人が意識したくない所の核心ばかり突いてくる……
 俺は苦笑した。
「俺が言いたいのは、そこじゃなくってよ……」
 コウジがそこまで言いかけた時、俺はピンときた。
「まさか、ユウキが紹介してもらう何とかって店、ヤバイのか?」
「ヤバイってわけじゃねえよ。俺もベルベットはよく知ってるからな。店長はイイ奴だし、後ろにヤの字がついてるって店でもねえから、そこは安心しとけよ。だけどな、一つ問題があってよ、あの店、マクラ女ばっかなんだよ」
「まくらおんな?」
「客に体で営業する奴の事だよ」
「はあっ?」
 俺は、思わず声を上げて身を乗り出した。
「マクラ自体は、そう珍しい事でもねえよ。実際イズミだって何度かやってるしな。要は自分が流されなきゃそれで済む事だ。マクラは、あくまで営業行為だから浮気ってのとは別物だけどよ、それでもお前じゃ耐えられねえだろ?。だから一応教えておいたんだよ」
「………」
「……まあ、マクラやってまで、って考えるほどユウちゃんは夜の女にはなりきれないだろうし、イズミもユウちゃんには注意しているだろうから、大丈夫だとは思うよ。ただな……」
「ただ…?」
「やむにやまれぬ事情、って言うのか?。そういう事は、夜の商売じゃ珍しくもねえからな。そこだけは目、光らせとけよ」
 そう言って、コウジは俺に厳しい視線を送った。俺は、声無く頷いた。
 コウジに言われるまでもなく、多かれ少なかれ、そういう事がある世界だという事は、俺もわかっていた。しかし、いざ口に出して言われると、俺はどうしてあの時、ユウキを止められなかったのだろう、と、後悔ばかりが押し寄せてきた。

「……ねえ、聞いてる?」
 突然のように、ユウキの声が携帯から飛び込んできた。
「ああ、大丈夫、聞いてるよ」
「ごめん、眠かった?」
「大丈夫だって」
「じゃあさ、まだ話したい事がイッパイあるからさ、今から飲みに行こうよ。私、もうそこの前に居るからさ」
 楽しそうに声を弾ませるユウキ。恐らくは大丈夫だったのだろう。
 俺は、わかった、とだけ答えて電話を切り、ネットカフェを出た。

 この雑居ビルが入っている店舗のチラシが所狭しと貼られた薄汚れたエレベーターに乗り、俺は一階へと向かう。
 地下の中華屋とか、アダルトショップとか、服屋とか、俺が今さっきまで入っていたネットカフェとかのチラシが、ある意味、規則正しく貼られている。俺は、それらのチラシを見るでもなく、一つの風景として目に捕らえながら、ただひたすらエレベーターが一階に着くのを待った。
 ゴウン、ゴウン、と、載っている者を不安にさせるような音を立てながら、エレベーターは一階へと降りて行く。
 音が、足の傷に響く……
 コウジと別れた後、ネットカフェには入ったが何をする気にもなれず、俺は、ただユウキを待っていた。そんな俺に襲い掛かってきたのは、自分に対する嫌悪感だった。気が付けば、俺はトイレで一人、自分の足を何度も殴り続けていた。
 トイレから出ると、カレンさんと逢った。俺は、カレンさんとリクライニングコーナーで、しばらく話をした。自傷の心地良い痛みとそれは、俺を少しだけ楽にさしてくれた。
 そんな最悪の俺は、雑居ビルの前で何も知らず俺の事を待つユウキの下へ、懸命に普通に歩きながら向かっていた。
「おつかれさま」
 ユウキの小さな背中に、俺は薄い笑顔を浮かべて言う。
「うん、ただいま」
 振り返ったユウキは、満面の笑顔だった。足の痛みが罪悪感に変わりそうなのを、俺は必死に堪えて平静を装った。
「メイクとか、全部落としてきたのか」
 ユウキの姿は、右手にヴィトンのバッグをぶら下げている以外、公園で別れた時のままだった。バッグはイズミちゃんに借りたのだろう。
「服も髪もメイクも、全部イズミさんにやってもらって、なんか自分じゃないみたいだった。だからさ、ナオヤに見られるの、ちょっと恥ずかしくって……」
「じゃあ、今度コウジと一緒に店に遊びに行くよ」
「やめてやめて。ホント、マジ、超はずかしいんだから」
 ユウキは顔を真っ赤にして、手を横にブンブン振る。俺は、やっと自然に笑う事が出来た。
 そうして俺達は手を繋ぎ、通りの先で赤い看板を光らしている居酒屋へと向かった。

 俺はライムサワーを、ユウキはグレープフルーツサワーに、塩にぎりとサンマとオムレツと大根サラダを注文した。よほど腹が減っていたらしい。
 酒もそっちのけで、見ているこっちが呆れてまうくらいにガムシャラに食べるユウキであったが、そうしながらも今日の店での事を楽しそうに俺に話した。
 店の女の子達とは、直ぐに仲良くなれたらしく、もう全員とメル番を交換したらしい。店長も、俺が想像していたよりはマトモな人らしく、初日から随分と指名を集めた事も相まって、だいぶ気に入られたようだ。今日の給料にイロまで付けてもらったらしいが、本人は「ところで何色が付いているんだろう?」
と、首を傾げていた。俺は、飲んでいた酒を思わず吹き零すところだった。
 マクラに関しては、店に行く前にイズミちゃんから聞かされたらしい。
「ナオヤ君が悲しむから、それだけはゼッタイにやっちゃダメだよ」と言われ、ユウキも「そこまでやるつもりはない」と、呆れた笑顔を見せたらしいが、それでもイズミちゃんは店のマスターにまで「この子はそういう子じゃないから」と、クギを差していたという。やはりイズミちゃんもコウジと同じく『やむにやまれぬ事情』というものを心配しているようだった。
 そして、あらかた店の事を話し終わると、ユウキは「そうだ」と、思い出したように声を上げ、借り物のバッグの中から愛用のピンクのクレージュの財布を取り出すと、五千円を俺に手渡した。
「お前、これ……」
「いいのいいの。今までナオヤは私の分、全部出してくれていたんだし」
「いや、受け取れねえよ。だって、これはお前が稼いだ金だろ」
「だから、本当にいいんだって。今日は結構稼げたし、イズミさんが口利いてくれたおかげで、時給も三千円からのスタートになったからさ。本当は二千五百円からなんだって。だからさ、ナオヤは何も心配しないで」
「………」
「ナオヤは、朝になったらサウナでも行って寝てきなよ。私はまたイズミさんのとこ行ってくるから。イズミさんには仕事の事で、まだしばらく世話になる事になると思う。それでさ、明日また稼げたら、久し振りにホテル行こうよ。ねっ」
 本当に楽しそうに話すユウキ。
 今から明日が楽しみで仕方が無い、と言った笑顔を浮かべるユウキ。
 俺は、ユウキに気付かれないように、血が出そうになるくらい強く唇を噛み締めながら、その五千円を自分の財布にしまった。

 とうとう俺はその日、誕生日おめでとう、という言葉を出す事が出来なかった……

   18
「今日も、彼女仕事なんだ?」
 サンシャイン通りの近くにある、いつものネットカフェ。
 リクライニングコーナーで一人『ドラゴンボール』を読んでいると、不意に後ろからカレンさんがそんな声を掛けてきた。
「ええ、まあ……」と、俺は愛想笑いを浮かべて返事をする。カレンさんは、俺の横に座り、不満そうな顔で言った。
「ナオヤ君とユウキちゃんの仲むつまじい姿が見れないと、私も寂しいよ」
 俺は小さな笑顔を返した。
 ユウキが仕事を始めてから、すでに一週間くらいが経とうとしていた。ユウキの仕事は順調で、次第に指名客も増えているという。たまに帰りが遅い時があり、やはりそういう時は心配にはなるが、店の友達や常連のお客さんとの付き合いで遅くなってしまうようだった。
 あの日以来、コウジとは会っていなかった。メールを送っても返事が返ってこないところをみると、色々と忙しいみたいだ。イズミちゃんからは、ユウキが仕事初日の次の日にメールが来た。内容は、ユウキを水商売に引き込んでしまってごめんなさい、という事と、おかしなマネだけはさせないように自分も見張っているから、というものだった。俺は、気にしないで、とだけ送っておいた。
 そんな毎日の中で俺はと言えば、相変わらず派遣の仕事は無く、日を追う毎に嫌悪感と自傷が増していった……
 昨日、足の青アザを見られバレそうになったが、ぶつけたと言って誤魔化した。いつの間にか俺も『ウソツキ』になっていた。
 自傷を通り越し、すでに死にたい気分だった……
「痛そうだね、これ……」
 はいていたハーフパンツの裾の先から、自傷の青アザが覗いていた。それは、パンからはみ出たブルーベリージャムのようで、カレンさんは、そのブルーベリージャムをゆっくりと指でなぞった。俺は、何も答えられずに、ただカレンさんの細く長い指の先を見詰めた。
 不意に、シンとした店内で、俺の携帯の着信音が鳴り響いた。マナーモードにしておくのを忘れていた俺は、慌ててポケットから携帯を取り出して開く。だが、掛けてきた相手の名前を見た瞬間、俺は携帯を閉じそうになった。
 それは、一年前に実家を出て行った以来、初めての着信。
 兄貴だった。
「もしもし、ナオヤか?」
 その声はまるで、オレオレ詐欺かと思うくらいに赤の他人のように聞こえた。
 俺は「ああ…」とだけ、低く答える。兄貴は、少し声を荒げながら話し出した。
「お前、どうしたんだよ?、家にも帰らないで。母さんから何度も電話があって、家にまで呼び出されたぞ」
「色々あるんだよ……」
「彼女か?」
「それだけじゃないよ……」
「まあ、確かに色々あるんだろうけど、家くらいは帰れよ。母さん、捜索願出すって言って大変だったんだぞ。それだけは俺が止めたけど、そうしたら母さん……確か、お前の彼女の名前、綾乃ユウキって言ったっけ?。どこで調べたんだか、その子の家まで怒鳴り込んでいったんだぞ」
 綾乃なんて苗字は珍しいし、人づてに聞いて回ったんだろう。あの母親なら、やりそうな事だ。
「どうせ相手にされなかっただろ?」
「ああ。未成年が何日も家に帰ってないのに、捜索願も出していないなんて、どうなってのあの家は!、って母さん、倒れるんじゃないかって思うくらい怒ってたよ」
 そのまま死んでくれりゃあ良かったのに……
「お前の彼女も、色々あるみたいだな」
「………」
「まあさ、とりあえず家には戻れよ。わかったか?」
 実の兄が、赤の他人の声で、タニンゴトを言っている。
 黒い泥のようなものがこみ上げてきた。
 振り上げた拳を制止する事が出来ない。
 ブルーベリージャムに、更に鈍い痛みが走った。
「いい加減にしてくれよ……」
「なんだそれ?」
「なんだそれじゃねえよ。あの最悪の生き物、俺に押し付けて、テメエは勝手に家出てって、初めて俺の携帯に電話掛けてきたかと思ったらそれかよ。冗談じゃねえよ。今更、兄貴ヅラすんなよ」
 兄貴が、電話越しで息を詰まらせるのがわかった。そして、柔らかいとも、呆れているとも取れる口調で言葉が返ってきた。
「……ん、まあ、その事については謝るよ。でもナオヤ『最悪の生き物』はないだろう?、母親だぞ。母さんだって悪気があるわけじゃないんだ。それにお前、母さんからの電話、全部着信拒否にしてあるだろう?。母さん、毎日泣いてるんだぞ。その辺は、もう少し考えてやれよ」
 やっぱり、タニンゴト……
「今、どこに居るんだ?。車で迎えに行ってやるよ」
「ふざけるなよ……」
「えっ?、なんだって?」
「泣きたいのはこっちだ、バカ野郎!」
 そう怒鳴り散らして俺は電話を切り、そのまま電源も切った。同時に、俺の体も電源が切れた。座っていたリクライニングチェアに、UFOキャッチャーの景品(ヌイグルミ)みたいにうなだれるだけだった。
 隣で、カレンさんが誰かに向かって拝む形で両手を合わせているのが横目に見えた。多分、俺の怒鳴り声に嫌な顔でも向けた店員にだろう。
 あらゆる思いが、ぐちゃぐちゃに絡まった糸みたいになって、自分の体に巻き付いているように思えた。
 顔を思い出すだけで、吐き気をもよおすくらいに嫌悪感を覚える母親。それでも、兄貴の口から『母さん、毎日泣いてるんだぞ』という言葉を聞いた時、心がグラついた。心配、という二文字が俺の脳裏を過ぎった。死ねばいいって、思わない日なんて無いのに、憎んでも憎んでも憎みきれない。嫌な事ばかりだったけど、それだけじゃないから……
『母親ってんのは、居るだけでありがたいもんなんだからよ』
 いつか、俺に言ったコウジのそんな言葉が、頭の中でコダマした。
 そんな事あるわけがない!
 俺は携帯を逆手に持って振り上げて、足のブルーベリージャムに向かって叩きつけようとした。だが、振り上げた手首から、手の平の暖かい体温が伝わってきて、俺の腕は固まった。振り向けば、そこにはカレンさんの細く白い腕と、無表情な顔があった。
「携帯、壊れちゃうよ」
 それだけ言うと、カレンさんは無表情の顔を、いつもの雑誌モデルのような完成された笑顔に変えた。
 俺は、振り上げた腕をゆっくりと下ろした。

 午前二時半。
 俺はヘッドフォンを掛け、パソコンの横に設置されているケーブルテレビを見るでもなく、ただ見詰めていた。流れていたのは、聞いた事も無い、出ている役者も一人として知らない、面白いかつまらないか、それすらわからない、そんな、どうでもいい洋画だった。初めから、どうでもよかったが……
 不意に、ヘッドフォンの外側から微かにノックする音が聞こえたかと思うと「失礼します」という声と共にドアが開けられ、店員が入ってきた。俺はヘッドフォンを取る。と、同時に店員は、静かに、何の感情も含ませない声で俺に告げた。
「カウンターに、女性の方がお見えになっております」
 まさか、と思い、俺の背筋に悪寒が走る。
 母親か?
 そう思ったが、冷静に考えれば、そんなわけがない。時間も時間だ、ユウキだと俺は思った。携帯の電源を切りっぱなしにしていたのを忘れていた。
「すぐに行きます」
 そう告げて、俺は席を立った。

 カウンターの前では、ユウキが不安の表情を一杯に浮かべながら立っていた。まるで、迷子になった子供みたいだ。
「なんで携帯の電源切ってんのぉ、心配したよぉ」
 今にも泣き出しそうな声。しかし俺は、
「ごめん…」
 それしか言わなかった。
 女物のサンダルに茶色のハーフパンツ、白いTシャツの上はノーメイク、キラキラと光っている髪だけが、さっきまでキャバ嬢をやっていた余韻を残している。そんな姿のユウキは、心配そうな顔を作って俺の側まで来ると、囁くように言った。
「何かあった?」
 そう聞いてくる声には、少しだけ酒の匂いが混じっている。最近のユウキの匂いだ。
「ねえ、本当にどうしたの?」
 俺は、何も答えられなかった。俺は、未だにぐちゃぐちゃだった。
 ユウキは、酒の匂いを混じらせた小さな溜め息を吐いた。
「とりあえずさ、ここ出て、どっか食べにでも行こうよ」
 とてもじゃないが、そんな気にはなれない。
「でさ、カレンさん来てる?。もし来てるんならカレンさんも誘ってさ、三人で行こう。富士そばでのお礼、まだしてないしさ、ねっ」
 ユウキの優しい声。
 俺は、首を横に振った。
「悪いけど、今日はここに居たいんだ……」
 少し間を置いた後「そっか……」と、ユウキは呟いた。
 寂しそうな笑顔。
 ユウキは、カウンターに立っていた店員に声を掛け、二人部屋(ペアシート)を取った。
 俺は、元居た部屋から自分の荷物を持ってきて、ユウキの取った二人部屋(ペアシート)へと移動した。やっと足が伸ばせるくらいの狭いクッションフロアー。壁に荷物を置き、それを枕に俺は寄りかかる。何も映ってないパソコンの液晶画面に、表情の無い俺の顔が暗く映っていた。なんだか、遺影みたいだと思った。
 ユウキは、灰皿と二人分のジュースを持って、直ぐにやってきた。
「はい、ファンタで良かった?」
 そう言いながら、ユウキは俺の前にファンタを置く。コカ・コーラのコップに充たされた紫色の液体の中で、無数の気泡が踊るように上がってくるのを、俺は何を思うでもなく、ただジッと見詰めた。
 ユウキは、俺の肩に寄り添って、俺の横顔をジッと見つめている。ユウキが小さく口を開いたのは、一分程静かな時間が流れた後だった。
「ナオヤ、ゼッタイ何かあったよね?。そういう顔してるもん」
 気泡は、まだ上がり続けている。
「何か言ってくれなきゃわからないよ……」
 俺は、ユウキを強く抱き寄せて、その唇に乱暴なキスをした。
「ん!、ちょっ!、ちょっと!」
 ユウキは驚き、反射的に抵抗してみせる。
「ホント、どうしたの?、ねえ?」
 囁くくらい小さい声ながらも、訳が分からないと言った表情を作るユウキ。俺は構わず、またその唇をふさぐ。右手はすでにTシャツの中で、ユウキのブラジャーを押し上げている。
「……したいんだったら、外に行こうよ……ねぇ……」
「ここで、したいんだ……」
「壁、低いし……バレちゃうよ……」
「大丈夫だよ、うまくやるから……」
 俺は、左手をユウキの首に回し、顔を自分の胸に抱き寄せると、右手をユウキのハーフパンツの中にスベリこませる。俺の胸の中で、ユウキが声を押し殺しているのがわかった。
「本当に……何が……あったの……」
 小さく息を切らせながらも、ユウキはまた聞いてきた。俺は、ユウキの耳元で小さく答えた。
「兄貴から、電話があったんだ……」
 胸元から、ユウキが一瞬体を強張らせるのが伝わってきた。顔を上げ、俺を見上げる。頬を赤らめながらも、心配そうな表情をユウキは作った。
「大丈夫……じゃ、ないよね……」
 何も、答える気にはなれなかった。
「早く……私達の居場所……見付けよう……」
 ユウキが、俺に強く抱きついてくる。
 俺は、更に強くユウキを抱き締める。
 ユウキは、更に強く声を押し殺した。
 暗い液晶画面の中には、全てがぐちゃぐちゃのまま、それでもユウキに逃げている最悪の俺が映っていた。

ここで一番好きな風景 中編

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後編へと続きます。

ここで一番好きな風景 中編

~前編のあらすじ~ 過保護な母親との確執が原因で日常的に自傷行為を繰り返す二十歳の青年ナオヤは、女子高生ユウキと出会う。 何気なく出会った二人であったが、次第に心の距離を縮めてゆく。 だが、ある日、親友のコウジの恋人であるイズミからユウキがウソツキ女で有名な事を聞かされる。 ナオヤはそれをユウキに問い、ユウキも認めるが、彼女もまた様々な事情を抱えていた。 お互いの傷を知った二人は一緒になる事を選ぶのだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-02-05

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