君の指さき
嶋 裕一
今年春に東京本社から北海道に転勤になり、裕一にとって初めて雪のある冬を迎えた。
見慣れない雪景色に初めこそ感動したものの、次第に朝が憂鬱になってきた。
積雪が増えるごとに歩きづらさも増していくのだ。
どんなに気をつけて歩こうが雪に慣れているこちらの住民と違い、どうしても雪に足を取られ転びそうになる。
この日の夜もそうだった。
クリスマスイブである今日は残業が終って帰宅の途につく8時頃には街中を歩くカップルが多く、裕一にとって手を繋いで歩くカップルなど、避けて歩くのが面倒以外の何物でもない。
ようやく地下鉄へと続く階段の入り口が見え、裕一は何度も転びかけた雪道を振り返り憎々しげに雪を睨んだ後ホッと一息ついて階段を降りはじめた。
ー気を抜きすぎた
右足の靴底に雪のがくっつき、塊になってしまっていることに気がついた時にはもう遅かった。
足がつるりと滑り、階段から落ちそうになり裕一は慌てて手すりにしがみつき、なんとか落ちないようにと踏ん張った。
それが良くなかった。
人間とっさに利き足で踏ん張ろうとするもので、不幸にも裕一の利き足は右であった。
1段下の段に右足をおいて踏みとどまろうとした結果、
踏みとどまることには成功したものの、当然靴底についた雪で足首が傾き、踏みとどまろうとした場所よりもう一段下に足首がねじれたまま着地した状態で全体重がのしかかった。
ブチっと嫌な音が聞こえたと同時に足首に経験したことのない激しい痛みが裕一を襲った。
(くそっ!足首を捻っちまった…!)
裕一は右足首の激しい痛みを堪えて膝から崩れ落ちそうになるのを耐えた。
あまりの痛みに吐き気がこみ上げてくるが、ここで階段から落ちれば捻挫だけでは済まないことは容易に想像がつく。
裕一は手すりにしがみつき、右足をゆっくりと浮かせ、その場に座り込んだ。
ー靭帯が切れたのだろうか。
足首がグラグラと不安定に揺れる。
学生時代、テニスの練習中に左足首をひどくひねった時の比じゃないほどの痛みが襲う。
裕一の背に冷や汗が伝う。
裕一は痛む足首をさすり、うずくまった。
俯くと涙がポロポロと頬を伝って行く。
ーこの足ではもう一人で歩くことは出来そうにない。
しかし学生時代と違い誰も手を差し伸べてくれる人はいない。
帰りたい…。
どれほど時間が経ったのだろうか。
足首をさすり、うずくまって途方に暮れる裕一に、声をかけてくれた人がいた。
「足首を痛めてしまったのですか?私で何か力になれるかしら?」
裕一は、涙でぐしょぐしょの顔をあげ、裕一の隣に来てかがんで暖かな手を差し出してくれた女の子を見つめて叫んだ。
「助けてくれ!」
西月みちる
みちるは家路を急いでいた。
家に急いで帰らなければ門限の9時を過ぎてしまう。
そうするとひどく厄介なことになる。
地下へ入る階段を見つけるとみちるは駆け出した。
階段の入り口付近でうずくまっている男性がいることにみちるは気づいた。
誰もが皆見ないふりをして足早に通り過ぎてゆく。
大方酔っ払いであろうと、みちるも通り過ぎようとした。
通り過ぎる際にみちるは、横目で男性を見た。
足首をさすっている。
みちるは気にしつつも門限が気になり、階段を駆け下りた。
みちるが地下鉄のホームに駆け込むとちょうど到着したようでそのまま地下鉄へ乗り込んだ。
空いている席にも座らず、みちるはドアのそばに立った。
横目で一瞬見えた足首をさする男性が脳裏に焼き付いて離れない。
誰かが声をかけただろうか?
それとも自力で階段を降りたのだろうか?
1駅過ぎて2駅目で乗り込んできた高校生のカップルがみちるの心を激しく乱した。
「超いってぇ。滑って挫くとかありえねーよマジで」
「けんちゃん大丈夫?家着いたらすぐ足冷やしてね」
女の子に肩を借りてひょこひょこと歩く男の子。
みちるはあのうずくまって足首をさする男性が気になり、次の駅で降りてまた男性がいた駅まで戻ることにした。
もしかしたらもう帰ったかもしれない。
それならそれで構わない。
でももし、1人では歩くことができず、誰も声を掛けることもせずにまだ途方に暮れているのだとしたら…
門限なんかもうどうだっていい。
そんなにしっかり守らなければならないような子供でもないんだから…
みちるは途中駅構内にある店仕舞いしかけているキオスクのおばちゃんに無理を言って
包帯を売ってもらい(商品にないため常備している救急箱にあったものを売ってもらったのだ)
はやる気持ちを抑え、男性がいるかもしれない階段まで小走りで向かった。
もういて欲しくはない。
ー無事に帰ることができた証拠だから…
まだいて欲しい。
ー一度見て見ぬ振りをしてしまった罪悪感を、消すことができるから。
階段を見上げると、まだ男性はうずくまり足首をさすっていた。
みちるは階段を駆け上がり、乱れた呼吸を整えてから腰をかがめて声をかけた。
「足首を痛めているんですか?私で何か力になれるかしら?」
みちるの左手は、いたわるかのように、裕一の背をさすっていた。
裕一
裕一は助けてくれと思わず叫んでしまったことに羞恥を抱いたが、心からの叫びであった。
裕一の隣にかがんで寄り添い、優しく背を撫でてくれる彼女の手によって寒さと痛み、見て見ぬ振りをする通行人の無情さに凍えすさんでいた心を撫でてもらっているような気がした。
しかし、安堵しようとも足首の痛みは尋常ではなく、今やどくどくと脈打つような痛みが裕一を襲う。
「もう大丈夫ですよ。少し寒いですけど、ここで足首を包帯で固定しましょうね。
包帯で固定したら少し楽になると思います。
歩けなくて1人で足首をさするしかできない間、不安でしたね…。
でももう大丈夫。
包帯で固定したら、外に出てタクシーで家まで送るわ。
少し歩かなければならないけれど、ゆっくり、一緒に歩きましょうね。」
女の子は微笑みながら裕一が安心する言葉を紡ぐ。
女の子はまず靴を脱がしてくれた。
それは気を失ってしまいそうなほどの痛みが伴った。
どうやら足の甲まで腫れ上がってしまっているようで
腫れのせいで靴がきつくなり、腫れた足を圧迫して痛みに拍車をかけていたようであった。
なるべく裕一に与えてしまう痛みを少なくしようと靴を優しく脱がしてくれたことはわかってはいたが、酷い痛みに裕一の心は折れそうであった。
ーこの足、地面にほんの少しでもつけて歩くことなんてできるのだろうか?
痛い…足が、痛くてたまらない…
ようやく靴が脱げ、靴下はハサミで切ってくれた。
しかしどんなに優しくされようとも、足に触れられるだけで飛び上がりそうなほど痛む。
ようやくあらわになった足首は足の甲からひどく腫れ上がり
足首に至っては不自然なほどの腫れでもはや自分の足とは思えぬほどであった。
裕一は思っていたよりも酷く腫れている足を見ていることができず目をそらした。
包帯を足裏から巻き始め足首の方まで巻き始めた時、突き刺すような痛みが走った。
「あっ…!う、あ…い、いた、痛い!あぁ…!痛い…!」
息が止まるほどの痛みに裕一は思わず悲鳴を上げて少しでも痛みよ治まれと足首を抑えようと手を伸ばすと、触れたのは包帯を巻いてくれる女の子の手だった。
女の子は手が触れたことで驚いたようだったが、そのまま手を握ってくれ、裕一に微笑みかけてくれた。
「辛いでしょうが、頑張りましょうね。
固定したら少しマシになりますから…」
そう言って包帯でしっかりと固定してくれた。
包帯を巻く手からスラリと伸びる白く細い指が美しいとこんな状態であるにもかかわらず裕一は見とれていた
裕一は女の子の優しさが嬉しくもあり、悲しくもあった。
みちる
みちるは彼になるべく痛みを与えぬよう靴を脱がせたかったのだが
予想以上に腫れが酷く力を込めて靴を脱がせるしかなかった。
痛いと呻く男性に優しく微笑んで言葉を掛けるが、内心では途方にくれていた。
もし足が折れていたら…と思ったのだ。
救急車を呼ぶべきであろうか?
しかし変形などは見られないし、剥離骨折はあるかもしれないが
今レントゲンを撮っても剥離骨折は見つからないであろう。
それどころか救急車で病院にいけばストレス撮影という、患部をひねった方向に曲げたままレントゲンを撮影することになることを思うと、みちるは二の足を踏んでしまう。
この男性は憔悴しているし、ただでさえ酷い痛みであろうに
もう今日はこれ以上痛い思いをさせたくはなかった。
看護学校を卒業後、整形外科に勤務し、靭帯損傷の患者さんに付き添いレントゲン室へ行った時、痛みを堪えて1人で足を引きずりながら来院された我慢強い男性が、悲鳴を上げるほどの痛みなのだ。
みちるは靴下はバックに入れてあった裁縫セットの小さなハサミで切り、あらわになった足首に涙がこぼれそうになった。
ーこれほどまでに酷い腫れであれば相当痛かっただろうに
誰も助けてはくれず、一人寒い中痛みに耐えてさぞ心細い思いをしたに違いない。
みちるは一度は見ぬふりをして通り過ぎた自分を殴ってやりたかった。
包帯を巻き、これでは足先が冷たかろうと買ったばかりのルームソックスを履かせると、肩を貸して立ち上がるように促した。
ほとんどみちるにすがりつくようにして、男性は立ち上がった。
「ご自身のタイミングで1段ずつ登りましょうね。
遠慮せず、私に寄りかかって大丈夫ですからね。」
男性はありがとうとつぶやいて、しばらく階段を見つめた後、意を決して右足を上のだんに乗せ、登った。
「いた…痛い…!あぁ…痛…い…!
みちるは体を支えることしかできなかった
裕一
女の子が丁寧に包帯を巻いてくれたおかげで、多少はマシになったものの、少し動かすだけで涙が出るほど痛むことに変わりはなかった。
おまけに買い物帰りだったのか、紙袋の中からふわふわと暖かそうな真新しい靴下を履かせてくれた。
すみませんと謝ると、微笑みながら首を振った彼女が、とても美しかった。
「今は冬ですもの。包帯だけでは足先が冷たいですから…」
祐一は彼女の肩を借りて立ち上がった。
立ち上がると痛めた足首がズキズキと痛んだ。
右手で階段の手すりにつかまり、左からは彼女がしっかりと肩を支えてくれている。
痛めた足を恐る恐る階段に乗せ、思い切って一歩踏み出し登ってみる。
予想以上の痛みを感じ、祐一は思わず呻いてしまった。
彼女の支えてくれる腕に力が入り、少しでも負担を減らそうと華奢な体でしっかりと支えてくれたのがわかる。
もう一段登り階段部分が終わると、でこぼこの雪道になった。
祐一は一歩歩くたびに足首ぐねぐねと捻られ、痛みに喘いだ。
道路付近まで2メートルほどしかなかったにもかかわらず、ひどい痛みのせいで何十メートルもあるように感じた。
いっそのこと、意識を手放してしまいたかった。
みちる
一歩歩くたびにひどい痛みを訴え、呻き声をあげる彼があまりにも痛々しく、みちるは泣きそうになった。
「痛っ!あ…あ…い、ぁ…足が…足が…!あぁ…!」
みちるがタクシー拾う間一人で待っていてもらったのだが、雪混じり突風が吹き、バランスを崩して祐一は転んだ。
ーそれも、右足をひねった状態で…
君の指さき