聖夜に

 クリスマスをロマンティックに盛り上げたいのなら、イルミネーションを共に見るのが最もよい。

 東京駅丸の内側での待ち合わせの時間にはまだ一時間もあるという中、笹倉貴志(ささくらたかし)は、身体に無駄な力を込めて、そう呟く。
 東京駅の赤煉瓦駅舎全体をスクリーンとして映し出されるものは、物語性を持った優れた映像作品であり、ダイナミックなサウンドとめまぐるしく変わっていく映像に魅了され、いつまでも残像として残る。
 それを観た後、丸の内のシャンパンゴールド色に彩られた街路樹の並木道を歩けば、クリスマスデートとしては完璧なものとなる。
 心の中でガッツポーズを取った。
 イルミネーション万歳――。

 冷え込みが増していき、吐く息が白く、足元の感覚が失われていくようで、足踏みをしながらスマートフォンを握りしめる。
 くすりと笑う。

 ……しかし、まあ、さすがに早く着き過ぎたな。

 だが、こんな風に待つのも悪くないと思った。

 スタート時間を告げるアナウンスが響き渡り、警備員がきびきびと交通整理をし、次第に慌ただしくなってくる。

 ――胸が高鳴る。

 ふっと笑う。
 何年ぶりのことなのか、思い出せないのだった。

 元々病弱な子供を肺炎で亡くすということが起き、そのショックから立ち直れず、夫婦仲に亀裂が入り、様々なことを試みたが結局のところ修復できなかった。
 別れてから十年以上経ち、その間、女性とは縁なく過ごしてきた。
 女性との付き合いに憧れる年齢でもなく、むしろ自由を奪われ、ややこしくて難しいことに巻き込まれるのであれば、煩わしさが先に立ち、君子危うきには近寄らずを旨とし、足を踏み入れない方が得策であるとさえ思っていた。
 そして、何より、

 ――自分には音楽がある。

 音楽プロデューサーである自分は、その道に邁進しており、命などいつ果ててもよいと思いつつ日々を過ごしていた。
 そんな自分が、今宵はまるで青年のように緊張を強いられていたのだった。

 *****

 ある夏の午後――。
 銀座の画廊のそばを通った時、店では小さな個展を開いており、何となく中を覗いたところ、清涼な風が吹いてきたように感じた。
 それが風景画から漂うもののようで、ついつい中に入り込んで見てしまっていた。
 かなりの大きさの号数の絵でありながら、無名な画家であるということが一目瞭然の値段で、まだ駆け出しなのだろうと思えた。
 そして、なぜか惹かれるものがあり、その絵を眺め続けたのだった。

「この絵は、軽井沢の林を描いたものです」

 にっこりと微笑みを浮かべながら案内したのが、亜沙子だった。
 絵から受ける印象は凛としたものだったが、その容姿は絵での印象とは違い、可愛らしいものだった。
「そうですか。道理で涼やかだと思いました。まるで風が吹き抜けていくようです。どの辺りをスケッチしたものなのですか」
「塩沢湖の近くです」
「ああ、そうですか」
 絵に視線を戻すと、ざわざわと樹々の葉を揺らす風の音が聞こえてくるような気がした。
 よく知っている場所である。
 心にずきりと痛みが走る。
 家族で何度も避暑に行ったところだった。

 走り回る子供と、楽しそうな様子の妻、それを微笑ましく眺めている自分。

 幸福な家族の一場面。
 平凡でありきたりでありながら、それ以上の心の安寧をもたらすものがあるのだろうかと問いたくなるほどの安らぎの時。
 子供の笑い声が響いていく。
 そこに鳥の声が重なっていく。
 高原の爽やかさな空気まで甦ってくる。
 絵を通して、思い出が広がっていく。
 それは――。
 軽く瞳を閉じる。

 取り戻せぬ追憶の日――。

 思い出を仕舞い込むように軽く拳を握った。

「この絵を是非譲ってください」

 亜沙子は満面の笑みを浮かべて、喜んでと言った。


 *****


 それがきっかけで亜沙子とメールでやり取りをするようになり、互いの創作についてなどを語り合うようになっていった。
 
 ――この林の落葉時期のものは描かれないのですか?
 ――実は、もう絵を描くのをやめようと思っていたのです。
 ――え? そうなのですか?
 ――はい。今回の個展が最初で最後のつもりで。
 ――それは勿体無い……。

 ぽつりぽつりと亜沙子は自分の身の上について語りだすのだった。

 ――実は絵を描きだしたのは、ほんの数年前なのです。
 ――数年前? でも多作ですよね?
 ――毎日描いていますから。
 ――なのに、やめてしまわれるのですか?
 ――本当はやめられません。けれども、やめなくては。家族が反対しているので。
 
 その一文に衝撃を受けた。
 創作の心を持っている者に創作をやめろというのは死ねと言うのに等しい。
 自分の中に湧き出てくるものは、自分でも抑えられないからだ。
 どんな状況であっても。
 どれほど深刻な事情の中においても。

「ねえ! どうしても行くの?」
 元妻の声が甦り、つらい思い出が取り囲んでいく。
「あの子の命日なのに?」
 舞台が待っていた。
 プロデューサーの自分が抜けられないと分かっていてわざわざそんなことを言うのだった。
 鬱憤を晴らしているとしか思えない、いつもの追いつめられ方であった。
「あの子よりも大事なものがあるというの?」
 それを月命日ごとに言われるのだった。
 大事なものというのは、順位付けするものではないと何度言っても理解されない。
「あなたはあの子のことを忘れてしまったの?」
 すると、これがとどめとなる。
「忘れるわけがないだろう!」
「だったら! もっと考えてよ! もっとあの子のことを! もっと……私のことを!」
 時間が不規則な仕事ではなく、もっとお役所勤めをするような仕事に変えて、自分のために時間を使ってほしい、それが妻の切実な願いだった。
 そして、音楽にかける情熱を自分に向けてほしいと。
 自分のためだけに生きてほしいと。
 そう妻を追い込んだのは他ならぬ自分である。
 子供が亡くなった時、もっと妻を精神的に支えるべきだったところ、多忙に身を任せてしまったのだった。
 自分も苦しみと悲しみから逃れたかったこともある。
 支え合うべき時に支え合わなかった場合、それを補うような修復する機会はなかなか訪れない。
「……わかった。次の舞台が終わったら、考えるよ」
 妻を静めるにはそう言うほかなかった。
「本当ね? 約束よ」

 だが、やめられるはずがなかった。
「ねえ。いつ仕事をやめるの?」
 舞台が終了してもまだ企画が進んでいることに業を煮やした妻に詰め寄られた。
 待つのも我慢の限界のようだった。
「………………」
 複数の企画が進んでおり、やめるなど言える状況ではない。
「やめてくれないの? 考えるって言っていたのは嘘だったの?」
 そして、音楽を捨てろと言われているのと一緒だった。
 築き上げてきた自分の世界を崩せと。
「どうして? 私がこんなにお願いしているのに、どうしてそれを叶えてくれないの?」
「そんな簡単に他の仕事をするなんて切り替えられない」
「父に頼んでみたらどうかしら」
「…………………」
「きっと父も事業を手伝ってほしいと思っていると思うの」
 主に輸出販売を行う会社のオーナーである。
「その仕事をして……」
「ええ。どうかしら」
「音楽を……」
「趣味として続けたらいかがかしら」 
「遊びではないんだ、創作というものは」
「でも、仕事でなくてもいいと思うわ」
 がんじがらめにされていく自分を想像した。
 仕事で身動き取れなくされ、音楽をする余裕を与えられずに、休日も束縛されていく様子が。
 到底受け入れられぬ提案だった。
 創作への情熱を消してまで生き続けるだけの意味と意義がどうしても見出すことができない。
 時間を費やしても、得られる答えは同じだった。
 しかし、自分たち夫婦にとってそれが最もよい手段と思い込んだ妻の思考を変えることは不可能であった。
 そして、とうとう毎日のようにそれを勧める妻の顔を見ることができなくなった。

「すまない。君のために生きられない俺を許してくれ」
 したくない選択だった。
「いやよ。行かないで、あなたにそばにいてほしいのよ! 私はあなたが必要なの!」
 滂沱の涙を流し、悲痛な叫び声をあげるその姿にも心が傾くことはなかった。
 必要としているのは、自分ではないのだった。
 妻の求めている夫は、自分であって自分ではない。
 その虚像に近づきたいと努力したが、足は一歩も動かなくなり、歩みを止めるほかなかった。
 愛する妻だった。
 生涯を捧げると愛を誓い合った愛しき人のはずだった。
 愛するとは命懸けであり、何もかも捨てられるものだと思ったこともあった。
 しかし、息苦しさの中、愛というものが何か見失ってしまった。
 別れの時であった。

 *****

 メール着信によるスマートフォンの振動を心待ちにしている。
 毎日の亜沙子とのメール交換は心弾むものだった。
 楽しくてたまらない。

 ――貴女は、絵を描くことをやめたら、貴女ではなくなるのではありませんか。
 ――ええ。確かに、生きながら死んでいるようになるでしょう。
 ――やはり。貴女の絵はそれを伝えていますよ。
 ――貴方にはそれがわかるのですね。
 ――はい。魂が見えますから。貴女の絵には。

 こんなやり取りの中に、自分の答えを見つけていた。

 ――左様でしたか。それを見てくださる人がいただけでも救いです。
 ――やめてはいけませんよ。
 ――やめなくてもいいのでしょうか。
 ――ええ。貴女はもっと絵を描くべきなのです。

 きっと、自分も誰かにこう言ってもらいたかったのだと思った。
 本当は、人生の伴侶にそれを言ってもらえることがベストである。
 亜沙子の周囲も自分と似たようなものなのだろうと推察できた。
 それは、どう取り繕っても、不幸なことに違いない。
 自分は独りではないと思い込んでも、孤独の闇が取り囲んでいく。
 魂が解放されない限り、心は寂しさに震えていくのだ。
 だから、筆を折られるようなことを迫られる亜沙子の心の傷に触れたいと望んだ。
 自分ならば、きっと癒すことができる。

 ――そうですか。描くべきですか。有難うございます。そのお言葉に涙が出てきます。

 自分だからこそ、貴女を支えられる。

 ――貴女の絵を見ていると、自然とメロディが浮かんできます。
 ――本当ですか?
 ――ええ。
 ――是非、お聞かせ願いたいです。どんな曲が生まれてくるのか。
 ――では、演奏して差し上げます。
 ――はい。どうすれば? YouTubeで?
 ――貴女の隣で。
 ――え。
 ――なので、会っていただけませんか。

聖夜に

聖夜に

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-02

Copyrighted
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