何故かいる藤間

リア獣のハザマ



僕らは常に殺し続けて生きている。食卓に並ぶ命の話じゃない。僕らはいつも、たった一つの体を動かすために殺し続けている。



「おはよう、いっくん」
「おはよう、いっちゃん」



 今日も今日とて殺しているんです。



 僕は運命を感じずにはいられなかった。僕らは出会うべくして出会ったのだと信じた。多木伊月。僕の彼女。



 僕はずっと手をつないでいたかった。できれば伊月の手をつかんでいたいけど、もしいなかったら誰でもいいや。それをいっちゃん本人に言ったら嫉妬してくれるくらいは愛されている、ということを信じている。



 でもそうなの?
 でも、つないでいたいの、できれば伊月ちゃんがいいの?
 依織。依織、違うでしょう。
 依織、依織、聞こえてるでしょう?
 ねぇ、依織。


 ああ、またやってきた。僕はもう何度もこの声を聴いた。何度もこの人に出会った。

「母さん」
「依織、夕飯は食べた?今日の学校はどうだった?伊月ちゃんはまだ元気なの?」
「母さん」
「ほら、今日は依織の好物よ。いっぱい食べて、タベテ、たべて」
「母さん」
「依織、ほら、はやく。ねえ。」



 夢からはじき出されて、暗い世界が視界に広がる。口の中ににじむ血の味に吐き気を覚えて、僕の夜が始まる。ベッドから這い降りて、便所に入る。真っ赤な唾液と下種な匂いを吐いた。
ぼろぼろとこぼれてくる涙と、嫌悪感や気持ち悪さからこみあげる胃液が食べたものをすべて出させる。焼け付くように喉が痛い。喉が切れて、そこからも血が混じる。額からは汗がにじみ、僕はここで30分ほど落ち着くまで、戦わねばならない。
 気持ち悪いからシャワーを浴び、再びベッドに戻ってくると時計はおやつの時間をさしていた。



 夢に出てきた母親を思い出す。彼女は僕の目の前で事故死した。死ぬ直前まで僕を愛していてくれた。僕が母を殺したといっても過言ではない気がする。母が死んでちょうど一年後、僕が喪服に包まれていた日、伊月と出会った。伊月、僕の彼女。僕だけの彼女。



 気づいたらカッターナイフから血が滴り落ちていた。
「・・・また、やっちゃった。」
 時計は深夜四時。幾枚もティッシュを引き抜いて傷口に当てる。昨日の出来事はすでに干からびてぐったりとした赤色をしている。ゴミ箱の中はあかだらけ。



 校内でも有名な美男美女カップルは、有名な睡眠不足カップルでもあったし、夏も冬も変わらないような衣服しか着ない、四季に左右されない浮世離れした感じがなんとも近寄りがたい雰囲気を放っていた。かといって他人を拒絶するような真似をしないので友人は多いように見える。



「ねぇ、多木さん。あんなやつやめて、俺にしない?」
 伊月がいつものように日替わり定食を食べていたとき、ふと視界の端から声をかけられた。
「・・・え?」
 伊月は誰がそんなことを言ったのかということと、言葉を放った男が誰であるか認識するために時間を要した。声の主はこれといって伊月の心を惹くような人間ではなかった。
「どういうこと?藤間くん」
「だから、さ・・・。その、比佐野じゃなくて・・・俺と、付き合わない?」
ざわり、と周りの空気が変わったけど、多分周囲のやつはこの藤間という男がなんらかのアクションを起こすことを知っていたのだろう。次第に全員が伊月の決断に期待する顔つきに切り替わる。
「そ、そんな簡単に・・・」
全員の視線をうけて、伊月は上手く声が出なかった。
「俺、マジだから」



俺、マジだから。
 その一言がどうにも頭から離れず午後を迎えた。茶化すように他人は伊月の周りで動き回る。
助言に見せかけた期待の言葉をかけるものや、憧れに似せて嫌味を吐く人間や、無関心なふりして目を泳がせる野次馬があとを絶たなかった。



 比佐野依織が、自分の女にちょっかいを出されたと知ったのは午後の授業が一つ終わってからだった。というのも、依織が午後からの授業である水曜日なのだから仕方がない。講義と講義の間に伊月をどうにか見つけ、人気の少ない学食へと連れてきた。
「相手は誰?」
「藤間くん、」
あいつか、と口のなかで軽く言ってみたものの該当者が多い。他人の名前なぞ覚えていない。顕示欲の強い男が彼女というよりも美しいアクセサリーとして伊月に好意を持つことも多い。しかしどれも、依織の敵ではないと思うから泳がせていたのだ。頭を働かせてみるものの、そんな人畜が有害な人間と出会っていたかと過去を疑う。
「いっちゃんは藤間のこと好きなの?」
「・・・どうしてそんなこと聞くの」
「大事なところでしょ。即答できないんなら、もうキミいらないよ。別れよっか、伊月。」



つらつらと笑顔のまま依織は言葉を重ねた。理解しようとしても頭がおいつかない。
「い、いっくん・・・?」
「じゃあね、多木さん。また明日。」
ばいばい、と軽く手を振って依織は学食を後にした。



「いっくん!いっくん!!!」
ガタン!と椅子が大きな音を立てて床におちた。
「あっ、あ・・・」
ぽろぽろと涙が出てきた。伸ばした手は彼に届くことはなかった。立ち上がった足が、動くこともなかった。



 暗転。



 依織、依織、依織。
 母さんね、ずっと依織といっしょにいるからね。
 ねぇ?
 依織。
 お返事は?



「母さん」
「なぁに?今日のお夕飯はホワイトソースたっぷりのドリアよ」
「母さん」
「なぁに?スープはコンソメ味よ」
「母さん」
「なあに?」
「・・・伊月と別れたよ」



 目を開けて、夢が現実だったらいいのに、と思ったのは久々だった。吐き気のしない夜も久々だった。ちかちかと点滅するケータイが闇に浮かんでいた。ディスプレイを見るとメールと電話がえげつない件数たまっていた。中身を確認するまでもない、と言い聞かせて伊月であることをただ願う。
 本当は違うのが怖いだけ。伊月じゃないのが、怖いだけ。



 朝、と呼ぶにはまだ早い。早朝というよりか夜明けという時間帯だった。インターホンが鳴る。
依織は気だるい体を起こして、のぞき穴から外を見る。人影を確認して、ああ、と直感した依織は冷たいドアノブに手をかけて、扉を開いた。



 ガタガタと体が震える。どんなに自分を抱きしめても、依織のあたたかさはどこにもなかった。伊月は眠ることすらままならず、充電のきれたケータイを見つめた。充電をして、その四角い物体を起こしても、依織がいつまでも反応してくれなかったらどうしよう。充電が切れたことにすればいい。そうすれば、依織が消えたことをまだ、知覚しなくて済むのだから。
空が明るくなりはじめたことで時間というものを認識した。依織の家へ行こう。



 依織の母親が亡くなった時、彼も私もまだ中学生だった。もともと母子家庭だった依織が一人ぼっちになった日である。彼の母親は父親に逃げられてから依存するように依織を愛した。幼馴染である私に敵意をむき出して睨みつけてくることもあった。うんざりしながらも依織は母親をなだめ、私の心についた傷をいやしてくれた。その母親が亡くなった時、私は口にはしなかったけれど、良かったね、と思ってしまった。
 しかし依織は母のいない事がまるで信じられないというかのようだった。それだけ、彼もまた母という存在に依存しながら愛していたということを感じた。私は寂しくなった。私がいるのに、とでしゃばる心が恋と形容できることを知ってから数日後、依織に告白をした。
 傷心中の隙をついた卑怯な手だと私の陰口をいう人間もいたが、彼女たちもまた依織に恋していたが告白という勇気までなかっただけだということを私は心の中で嘲笑っていた。もう一つ、大切なこと。依織は決して傷心中の素振りがなかった。強がって隠している、と彼を称賛する人間も多くいたが、幼馴染である私からすればそれが間違いに見えた。依織は母親を亡くしたことを悲しくも、嬉しくも思っていなかったにすぎない。かといって母親に対して無関心だったわけでもないのだ。



 目の前に現れた人間はただの他人だった。他人が自分と母が共有できる夜という世界に介入したことに、僕は腹立たしかった。
「こんな時間に何の用?」
あいさつもそこそこ、僕は相手を部屋の中へ招きいれた。当然だ。外気はまだまだ寒い。またすぐ寝付くつもりでいる僕は体を冷やしたくないし、まだ寝間着のままだ。
「あのっ・・・」
相手は遠慮しながらも、玄関に靴を並べた。次の言葉を探しているのか、ばつが悪そうな顔をした。相手をみて、はぁ、とため息が出る。
「考えなしに来ないでくれるかな?普通に考えたら、寝ている時間だよね。すごく迷惑なんだけど。」
 優等生、模範生の比佐野依織らしくない、人を労わらない残酷な言葉が口からこぼれ出る。そうだ、これが本当の僕だ。いつもにこやかに談笑しているからそれが本性だなんて思ったのか?
想像とは違う僕を目の当たりにし、他人はひどくおびえた様子で突然、謝りだした。



 伊月、僕の彼女。僕が彼女と出会ったのは、母さんが亡くなった日だと記憶しているのに、彼女は違うという。どうやら僕らはもっと前から知り合いのようだ。伊月の言葉を信じることができるのは、僕と母の在り方をしっかり説明できたからだ。
 母が生きているとき、僕は母親という女以外見ることを禁じられていた。勿論、母は僕をしかることはしなかった。しかし、僕が少しでも彼女から目をそらし他の物を見ていると、(たとえ提出用の宿題であっても)壊すのだ。2,3度テレビが変わったのはほかでもない、僕がアニメを見ていると母がハンマーで画面を砕いたのが原因である。
 だから僕は伊月は勿論、他人を見ることができなかった。父を殺した犯人が母であるという事実をひっそりと知っていたからだ。僕が興味を持つと好きなものは母によって奪われてしまうのだ。僕はずっと母を見ていたし、母もずっと僕を見ていた。
 母だけを見ていたから近づいてくるトラックを見ることはできなかったし、母は僕の方を見ていたから突っ込んでくる暴走車に反応することができた。
 僕を抱きかかえて、車にぶつかって、ボールのように弾みながら、息絶えていく。



 震える指で、インターホンを鳴らす。中からの返事は早かった。扉を開けて目の前にいたのは、いつもの依織だった。
「あの・・・」
 自分が来ることを知っていたかのように玄関に立っていた。
「どうしたの?多木さん。」
 張り付いた表情は、他人へ向けるものだった。
「こんな時間に何の用?」
私は小さく深呼吸すると、口から心臓を出す代わりに、目から涙を流して声を振り絞った。
「抱きしめてほしいの」



 いつも自分が何者なのか、なぜ生きているのかに意識が向いてしまい、安定しなかった。とくに夜は一人になり、気がまぎれることがなく、自分への残虐な問いがまっすぐ聞こえてくる。
 痛みによって自分を支配することができる。溢れすぎた感情が赤い水滴となって外部へ放出されたとき、初めて自分は落ち着くのだ。だから自分は手首を切る。どうして手首なのか、と聞かれたなら「意味はないが先人の古き良き風習を見習っている」とだけ答えることにしていた。それ以上問う者はただの野次馬で、本当はいつ自分が死ぬのか楽しみにしているにすぎない事を悟ったのはもうずいぶん昔だ。
 だから「切らないとどうなるの」と冷めた目で傷口に問われたときはふと我に返った。いつも「切らなければ」という衝動に駆られるのだ。沸騰してぶくぶくと湧き出す前にどこかにはけ口をみつけなければならないという衝動。
「切りたくなったら我慢して、呼んで。どうなるのか見せてよ」
切らないとどうなるのか自分の好奇心も大いにあった。だからその申し出を断ろうとは思わなかった。いつも日が沈んでからその儀式が行われると言ったら、二人ぼっちで夕暮れを見送ることになった。その日はいつもより遅い時間に手首を切りたくなった。それを我慢して、どうなるのかは実験だった。
 その日の記憶は今でも曖昧だ。観察者の話によると、ひどく取り乱したという。手首を切らないように刃物から遠ざけた結果、自らの歯で食いちぎろうとしたらしい。その手を押さえたら蹴り飛ばされた。今度は手で口を押えたら観察者の手を噛んだという。それでも観察者は決して口から手を離さなかった。おさまることの知らない凶暴性は、とうとう自らの頭髪をむしりだすという無様な姿をさらしたらしい。それで恐ろしくなって、口から手を放したが暴走が止まることはなかった。髪の毛が全部なくなるのではないか、と思ったという。

 理性を失い、刃物さえ区別ができなくなったその日、代わりに観察者が手首を切ってくれた。
暴走は、止まったという。

 すべて曖昧で、覚えているのはただ真っ赤という色と、暖かいという生きている証拠だけだった。



 玄関で靴を脱ぐとき、見慣れぬものがあった。先客がいたことに少しだけ驚いたが、誰であろうと問題ではなかった。
 一人暮らしの小さな家のすみに、四肢を丸めるようにして居たのは藤間であった。ガタガタと震える藤間は、伊月をうつろな目で見て、化け物、と一言つぶやいた。そんな彼を冷たい目で見降して、伊月は彼を抱きしめる。
「依織・・・」
 伊月はただ、依織が自分を許し部屋へ招いてくれたことに安堵した。
「どうかしたの、多木さん。」
「いいの、いいんだよ。」
 伊月はただただ、なだめるように依織を抱きしめつづけた。



 藤間と依織の間で何があったのかは知らない。きっと私が夜な夜な手首を切る習性を持っていて、依織がそんな私に付き合ってくれるように春夏秋冬長袖を来てくれている事実を話たのだろう。傷口は何日か残るくせに、血が止まるのが尋常じゃないほど速いので、彼は「化け物」と呼んだのだろう。
 そんな憶測なんてどうでもいい。



「依織、依織、」
 私は名前を呼びながら彼を抱きしめる。棒立ちの彼はうつろな目で「なぁに、多木さん」だけを言う人形になってしまった。本当は、その床で震えている男に蹴りの一つや二つ入れてやりたいが、そんな余裕はない。
「依織、戻ってきて・・・」
 この声も届いていない。彼は意識の中で、母親と対面しているのだろう。依織はこの世界を不要に思ったとき、母親という存在に抱かれてしまうのだ。
 この世界と依織を深くつなぎとめていた、私という存在を失ったから・・・。



 痛みによって世界を、生を知覚する。私が私という存在を知覚するとき、絶対に痛みもついてくる。ひょっとしたら、私は‘痛み’そのものなのかもしれない。それでもいい、依織、帰ってきて。



 ああ、またやってきた。僕はもう何度もこの声を聴いた。何度もこの人に出会った。

「母さん」
「依織、夕飯はいるわよね?今日の学校はどうだった?伊月ちゃんはまだ元気なの?」
「母さん」
「ほら、今日は依織の好物よ。いっぱい食べて、タベテ、たべて」
「母さん」
「依織、ほら、はやく。ねえ。」
「かあさ・・・」

どろり、と左腕から不快感を味わう。

「母さん、腕が」
「あらあら、おっちょこちょいなんだから。どこで怪我をしたの?」

どくどくと溢れだすその液体を見てみる。

「でもいのよ、依織。そのままでいいのよ、依織」

母のささやきには安堵させられるものがある。この女は僕という存在を縛り付けていたが、それが僕の生きる意味だった。だから恨みはしなかった。どんなにお気に入りのものを壊されても、それが僕の生きる意味に必要ないのなら、
「母さん、どうしよう、痛い」
「あらあら」
「痛い・・・」
「そうね」
「痛いんだよ・・・」
ぐらり、と世界が揺れ始める。頭がガンガンする。腕も痛いが頭も痛い。夢からはじき出されることで胃液も暴れだすと、いよいよ苦しい、としか考えられなくなった。
「依織!」
「痛い・・・気持ち悪い・・・」
「吐いてもいいよ、依織・・・」



 目の前で何が起こっているのかはあまり理解できなかった。頭に植え付けられたのは、恐怖と、あと愛だと思う。



 俺に過去を話し終えた依織は、泣きながら「いっちゃんが僕のことをイラナイなら、僕もいっちゃんなんていらない、この世界もイラナイ」と言い出した。
俺はただ、あの告白は嘘の出来事だと伝えたかっただけだ。ただの罰ゲームで、多木伊月は真剣に俺との答えを出そうと行き詰まり、さらに彼氏である比佐野依織にフラれたという事実を知り、誤解を解きたくて始発電車で比佐野の家へ赴いた。
 いや、本当のことをいおう。俺は多木伊月に憧れを持っていた。だが、俺と彼女で釣り合うこともないし、俺は彼女を幸せにしてあげられない自信があった。罰ゲームの告白の内容は本気だが、本当に二人の仲を裂きたかったわけではない。多木が幸せなら、俺は身を引いてもいいというだけの覚悟はある。そして、罰ゲームに選ばれたのも、二人が些細な出来事で別れるようなカップルではないと周囲が思っていたからだ。
 それがふたを開けてみたら、ただの依存でつながっている精神疾患共だった。



 虚ろな目でうめき声を発している依織の左腕を、伊月はカッターナイフで深く切りつけた。
血は沢山出るが、次第におさまってきた。代わりに、依織が少しずつ意味の通る言葉を発し始めた。
 苦しい、痛い、やめて、と。
 伊月は血液と胃液でどろどろになりながら、必死で依織を受け止めた。涙も少し、混じっているかもしれない。



 その日のことはあまり覚えていない。でも、その日以来、母親の姿を見ることがなくなった。左腕の一筋が、ピリっと痛むから、現実から引き離されることがなくなった。だから伊月には感謝しているし、部屋の掃除を手伝ってくれたという藤間という男にも少し感謝している。彼は相変わらず伊月という存在をまぶしそうに見ているもんだから、ついつい両目をえぐってやりたくなってしまう。そんな時、僕は母と違う人間なのだと左腕の痛みが教えてくれる。
僕が母親と会えなくなったことで、伊月と会う時間が増えた。彼女も手首を切らなくなった。



 夏、半そでを堂々と着ている彼女に話しかける。
「本当は、依織は夢の世界でいつまでも母親と暮らしていても彼は幸せなんじゃないか?」
「そうかもしれない。だけど、私は彼なしじゃいられないのよ。」
そう笑った女は、満足そうに太陽を見上げた。

女子トイレのスキマ

いつか、オウジサマが来てくれるわ。


それは大学に入る前。高校の話。
校則の中で出来る限り個性を発揮した制服を着ている、私たち。
私は校則そのものだった。
いい子にすれば誰も文句は言わないし、いい子にすればサンタさんが来てくれる。
いい子が幸せになる条件なの。



新条由佳は、隣の席の女の子だ。
それはただの偶然だし、なんの運命でもない。
ただ少し、気になることといえば彼女の筆箱につけているビーバーのキーホルダーがたまたま同じことだけだ。
勿論、周りに変に騒がれることを嫌って俺はそのキーホルダーをそっと机の引き出しにしまった。当然、家の机だ。
ビーバーのキーホルダーだけだったら彼女の事なんか気にしないだろう。
変わっていたのは、彼女があまりにメルヘンチックなのだ。
持っているものも、読んでいる本も、会話の内容も、ノートの取り方も、全て。
悪いことではない。
しかし、俺からしてみれば気味が悪いだけだ。
特に、何ともなく俺の顔をじっと見てうっとりしている時が、とても、背筋が凍る思いをする。



隣の席の藤間くんは私とお揃いのビーバーのキーホルダーをつけていた。
でもそれは、隣の席になって間もない時だけで、その後は見ていない。
少し気になる。
だってなかなか入手できる物じゃないし、男の子が動物のキーホルダーを筆箱につけるわけがない。
もしかしたら、私と彼は何か関係あるのかも。
なんてね。



挙動、言動に問題があるだけで、新条由佳は可愛い女の子だった。
女の子から嫌われるタイプではあるようだが、男からの支持は絶大である。
オタサーの姫なんて言葉が流行っているこのご時世、彼女はクラスの姫だった。
俺は取り巻きになるまいと必死だったが、普通はお近づきになりたいと必死な男子が彼女の周りにあふれた。
隣の席以外、極力関わりたくない。
俺のタイプは、守ってあげたいと思わせる女ではない。
内面の話をすると守りたいという手を振り払い、頼りなく一人で歩いていくような女がいい。
俺の存在なんか、やすやすと見捨てる女だ。
だから全面を駆使して弱い者を気取る彼女が腹の底からイラついた。
あの日までは。


女子トイレは異空間である。
男子禁制であるがゆえなのか、女たちの化けの皮が剥がれる場所だと認識している。
外面をつくることに問題があるわけではない。
異性と同性に向ける仮面が違うことが不気味なのだ。
男だって繕うが女どもほど如実ではない。
と、思う。
そんなことを考えながら、男子トイレから出ると、女子トイレから大声が聞こえてきた。
「あんたいっつもいっつも、男に媚を売っていてキモいのよ!」
「なにがユニコーンの背中に乗りたい、よ!男の上に乗りたいんじゃないの!?」
「パパママじゃないわよ!カバンにおっきなマスコットつけて!何がニーナよ!」

罵声だ。
内容から、新条由佳が標的であることが伺える。
罵声は少ししておさまり、彼女の言葉を期待するような雰囲気をだした。


ああまたか、なんて思う。
いい子にしているのに、この女たちはなにか私が気に入らないらしい。
仕方ない。
私はオウジサマに気に入られるためだけにいるのだから、こんな女達に気に入られるようにふるまっていない。
罵声はしばらくすればやむ。
だから、頭の中でメリーゴーランドをくるくるさせよう。
オルゴールの音楽に合わせて上下するおうまさんたち。
一周、二周、三周....
「聞いてんの!?何とか言ったら!?」
ぷつん、と音楽が止まってしまった。
制服の襟の部分を思いっきり掴まれたからだ。
私はじっと、その手を見る。
汚い。
パシン、と、胸ぐらを掴むその手を弾いた。
唖然、という表情で女たちは私を見た。
「ごきげんよう」
乾いた喉からは、その言葉がやけに低く口から出ていく。
私は女をよけて、トイレから出た。


静かになってすぐ、一人の女の子が出てきた。
「女性のシークレットルームの前で立っているなんて、あまりお行儀良くなくてよ」
新条由佳は微笑みながら消えていった。

度胆を抜かれました、なんて言いはしない。
俺は彼女に良い印象を持っていないのだから、いまさら何をしようと変わることなんかない。
だけど一つ惹かれるものを確かに感じてしまった。
いいか悪いかは置いておいて。



嫌な思いをしても、それが水曜日なら祝日でない限り木曜日は登校しなくちゃいけない。
私は、あまり引きずるタイプではないけれど、だからと言って気にしないほど無神経でもない。
ほんのり思い足を引きずって、学校へ行く。
学生には、それしかないの。
いいこの学生には。



席替えだった。
ビーバーを付けた筆箱を出すまもなく、俺と新条由佳は引き裂かれた。



女子トイレ。
ああ、女子トイレ。

変態だろうか。
いや、健全な男子高校生だ。
俺はあれ以来女子トイレが気になって仕方ない。
特に新条由佳が行くとき気になって仕方ない。
変態だろうか。
いや、
男子高校生だ。



女の子たちは興味ないフリしてオウジサマが気になって仕方ないの。
興味ないフリしなければいいのに。
と思うのは、お手洗いに行くたびに汚い言葉をかけられるから。
面倒くさいから。
彼らの目がないところでしか私をいびらない。
本当に興味ないなら、何処だろうと私にくってかかるでしょう?
ねぇ、醜いのはどっちなの。



女子トイレの扱いがどんどん悪化していくことを俺は知っている。
放課後、新条由佳が帰る前にそこへ入ると俺の好きな時間が始まる。
罵声、罵声、罵声。
聞こえてますよ、と教えたいが俺はそれを聞きたくて女子トイレ前にいるのだ。
止んでしまったらつまらない。
そして一番好きなのは、どんなことを言われても最後に新条由佳が「ごめんあそばせ」と出てくることだ。
女子トイレの死角で耳を潜めて聞いている。
俺は変態だろうか。



その日は罵声が聞きにくかった。
代わりに水音が耳に入る。
あの女ども、新条由佳に水をかけているのだ。
やばいんじゃないかという良識と、もっとやれという欲望がせめぎ合う。
とうとう俺の中では欲望が勝り、耳を澄まして聞いていることにした。
何を言われても、水浴びにされても、彼女の声は聞こえてこない。
きっといつものように一言残して出てくるのだ。



髪も、服も、顔も、肌も、乾くわ。
馬鹿な女の子たちは夏を選んでいるし。
濡れた前髪を払って、私は彼女たちの脇を通る。
肩をつかもうとする手を払って、「ごめんあそばせ」と微笑んであげた。
彼女たちは少し、怯えた表情をする。
何よ。
この私がこれくらいで怯むと思って?
女の子達を置いて、私はお手洗いから出る。



「ハンカチ、使う?」
俺は出てきたびしょ濡れ彼女にハンカチを差し出した。
すまん、新条由佳。
実はそれ、いつ取り替えたかわからんやつだ。
彼女は目を見開いて俺を見た。
くりくりの大きな目に俺が映る。
「いいの?ありがとう」
俺は頷く。
それから、ここは良くないだろうと思い屋上へ行った。
いいだろう。
物語の中の学校は、屋上が開放されていて、誰もいない。
例のごとくそこは、晴天の下に俺たちだけの空間だった。



二人でいるが、俺は話すことがなかった。
彼女もびしょ濡れの経緯を話すことなく貸したハンカチで顔を拭った。
「いやなところ、見られちゃったな」
台本のようなセリフが出てきたのは、髪の毛から水が滴らなくなったころだった。
しかし俺には台本はないので、自由に返答することにする。
「なんでかな、私。嫌われちゃうんだよね。汚い言葉、かけられちゃう。」
「俺もだよ。」
「え?」
「俺も、お前のこと、嫌いだよ。」
俺は新条由佳を見下ろす。
きょとん、と文字が見えるほど甚だしく小首を傾げてみせるバカ女。
「汚い言葉かけられちゃうって、お前、女子トイレかよ」
バシン、と乾いた音がした。
俺の視界が変わっている。
頬がじんじん痛い。
「酷い」
目に涙をためた彼女が俺を見る。
「そーそー、その調子。んで、次は俺じゃなくてお前に酷いことしたやつにやれよ。」
俺は言い捨てて屋上を後にした。
新条由佳を見ずに。



朝から女子のシークレットルームが騒がしかった。
なんだなんだ、と俺も野次馬に混ざる。
「どうやら中で女子が喧嘩してるらしい」
「どんな様子だ?」
「誰がいるんだ?」
ざわつく男と、知ったふうに情報を流す女。
「由佳さんが暴れているらしい」
小耳に挟んだ。
俺は自分の口元が緩むのを感じた。
ごめん、と人ごみをかき分け、近付いたところで筆箱につけていたビーバーを女子トイレめがけて投げ込む。



今まで酷いことをしてきた人達に水をまくのは気持ちよかった。
私は今までそうされたように彼女たちに酷い言葉を浴びせ、制服で隠れる部分を酷く殴り、動きが鈍くなったらあるもので縛った。
そしてびちゃびちゃに水をかける。
いいえ、まるでお花。
綺麗に咲くのよ、これから。
ああ、でも、汚いから、根腐れするといいわ。
いいえ、もう、性根は腐ってるわ。
自然と笑いがこみ上げてくる。
その瞬間、カチャン、と金属音がした。
見れば、ビーバー。
藤間くんだ....!
オウジサマが迎に来たんだわ!



昨日がそうであったように、屋上で新条由佳と会った。
「あのね、藤間くんの言われたとおり、やり返したわ!」
うっとりと彼女は俺を見た。
「そうだね、頑張ったね」
今度は俺の台本の番だ。
彼女と息を切らしながら苦しむ女の話をした。
恍惚と人を痛めつけた感想を述べ終えると俺の言葉を待った。
台本にはたっぷりと間をとることが書かれている。
「それで、新条由佳。君も汚い人になったんだね。」
唖然。
彼女ははしたないぐらい口をあけて、俺の言葉を理解しようとした。
みるみる表情が変わる。
般若のようだ。
「女子トイレかよ。」
俺は屋上を後にする。
「ごきげんよう。」
一言残して。



数年前。
いじめにより半狂乱した女子生徒のせいで、俺が来春から通う高校の屋上は閉鎖された。
暴れて自我を失った彼女は飛び降りたらしい。



「なあなあ、にーちゃん。
俺があげたビーバーのキーホルダーはどうしたんだ?」
愚弟が数年前、俺が着ていたのと全く同じ制服を来てアホな質問をしてきた。
「そんな昔の話をするな、弟よ。」
「あれ、レアだったのに。」
弟は他愛もない話のあと、本題であろう制服を見せびらかして消えた。
本当は、まだ持っている。
あの後、彼女のビーバーと俺のビーバーが問題視されることを回避するため、彼女のビーバーをそっと盗んだ。
だから、水かけ現場に残ったビーバーは彼女のものということになり、俺のビーバーはいまだ健在ということになる。
彼女ー....名前はなんだったかな。
ずっと女子トイレと思っていたからすっかり名前など忘れてしまった。

そうそう、あのビーバーはどこかって?
机の中だ。
当然、家の。



行ってきます、と愚弟の声が聞こえた。

何故かいる藤間

何故かいる藤間

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-02

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Copyrighted
  1. リア獣のハザマ
  2. 女子トイレのスキマ