人間賛歌
「ねえ。思いっきりバッグ開いてるんですけど。」
後ろから声をかけられて振り向く。
誰もいない。この時間の商店街はどこの店もシャッターを下ろしているのだ。
でも耳元で声がしたのは間違いなかった。
「ちょっと、こっちだっての。」
こっち、と言われても声がしているのは耳元だ。とっさに思いついたのは、頭でもイカれたか、ということだった。確かに最近いろんなことに参っていなくもない。
とりあえずきょろきょろと周りを見る。
猫がいた。
「もしかして?」
「そうよ。」
魚屋のシャッターの前に投げ出された青いポリ袋の山の上に、三毛猫が一匹座っている。僕のほうをじっと見ている。ときどき尻尾がぴくっと動く。
猫はポリ袋から飛び降りると、僕のほうへ音もたてず歩いてくる。猫というのはどうしてこんなに上品に歩けるのだろう。
「いいからバッグ閉めなさいよ。さっきから折りたたみ傘が落っこちそうじゃない。」
あ、うん、と僕は言いながらリュックを体の前に持ってくる。折りたたみ傘がこぼれ落ちかけて、僕はあわてて左手で受けとめる。
リュックのファスナーを閉めて、見てみるとまだ猫は僕から少し離れたところで僕を見つめている。
……まだ何か?
幸い、周りには誰もいない。しゃがんだりなでたりしているならまだしも、リュックを体の前に回したかっこうで突っ立って猫と見つめあっているというのは、常識で考えて普通じゃない。とはいえこの状況になじみつつある僕としては、ふだん猫に出会ったときと同じようにふるまうことなんて今さら出来そうにない。
猫は歩いてきて、僕の隣を過ぎていく。僕はその背中を目で追う。
猫が立ちどまって振り向く。
「なに突っ立ってんのよ。帰るんでしょ。」
僕は、え、うん、と間抜けな返事をして歩き出す。猫は僕の1メートル半くらい隣をしなやかに歩く。
質問をしようとして、声を出したら怒られた。
「頭がおかしいと思われるわよ、バカ。」
もう十分おかしいと思うけど、この状況。僕がそう思うと、猫はふんと鼻を鳴らした。
「声ださなくったって、頭で念じたらちゃんとわかるから、そうして。」
はあ。僕は声を出さずに返事をする。
相変わらず人は通らない。商店街を抜けると、あたりは街灯もまばらになって暗くなる。猫の姿はかろうじて見える程度だ。
「今日はもう、人なんか通らないから安心していいわよ。」
安心ったって、今さらもう不安もへったくれもないんですけど。
だって状況が状況だし。
「あっさり慣れちゃうのね。」
うん、だってありえないだの何だの騒いだってしょうがないだろ。起きちゃったものは仕方ないっていうか。
「物分かりが良くていらっしゃること。」
猫の言い方が皮肉っぽくて、僕は黙る。
小学生だったころに、クラスメイトの気の強い女子に言い負かされたときの気分を思い出す。猫には伝わっていないようで、何も言わない。
そういえば、なんて呼べばいいんだろう。名前があるんだろうか。猫さん、なんて言ったら、僕が人間さん、って呼ばれるみたいなものだし。
なんて呼べばいいの?
僕はたずねる。
「チセ。一応そう名づけられたから。」
ふうん、人間みたいな名前だね。
「勝手なもんよね。猫にはそもそも名前なんていらないのに。」
名前がないって、どんな気分なの?
「それは知らないわよ。だって現に名前があるんだもの。」
それはそうだ。
それにしても、こんなに気の強い猫は初めてだ。いや、猫とこんなふうにしていること自体がそもそも初めてなんだから、それは変か。
でも、ここまで気が強いというか、あけっぴろげに物を言う人、じゃなくて、とりあえず誰か、はすごく久しぶりな気がする。つっけんどんにされるのも、案外気分がいい。
「マゾなの?」
な、なんで聞いてんの。
「知らないわよ。よっぽどキモチよくなっちゃったんじゃないの?知らないけど。」
その言い方って……どうよ。
「別に、どうもこうもないでしょ。事実だったらなおさらね。」
いや、事実じゃないですけど。こんなソフトな言葉責めでキモチよくなっちゃうほどMじゃないですけど。っていうかMじゃないですけど。
聞こえないようにこっそりと心の中で反論する。猫……チセさんは前を向いたままだ。聞こえてないらしい。
しばらくして、月極の駐車場のわきを通る。無断駐車が判り次第、金一万円。ごうつくばった感じがして、どこで見ても好きになれない文言だ。
隅のほうに汚い軽トラックが一台止まっている。車体の下で何かが光った。猫の目だ。二匹か三匹かいるらしい。視線が歩いている僕とチセさんを追ってきているのがわかる。
友達?
「んなわけないでしょ。」
チセさんが突っぱねた。
違うのか。てか、猫って友達いるの?友達っていうその、概念、っていうか。
「友達ねえ。」
チセさんは少し黙った。僕はチセさんの顔を見る。見た目には、考えこんでいるようには見えない。
「似たようなものがあるか考えてみたけど、ないわね。」
そうなの?
「近くにいる子たちと、情報交換はするけど。あそこは行かないほうがよかった、とかね。でも、おいしいものにありつける場所だってたいていお互い隠してるし、群れてつるむなんてありえないからね。」
じゃあ、ああやって一緒にいるのは?
「あれはだいたい家族。母親と子どもたちが一緒にいるっていうのはよくある話ね。」
よくある話……当たり前じゃないのか。
「猫によるわね。」
人による、みたいな言い方をした。
さびしくないんだろうか、と僕は思って、聞いてみた。
独りでさびしいとか、ないの?
「ないわね。」
チセさんは即答した。
「さびしいなんて、思ってるヒマないの。馬鹿な家ネコどもがどうかは知らないけど。」
家ネコって馬鹿なの?
「てんから馬鹿ね。生きるってどういうことか知らないのよ、あいつら。だから暇があれば飼い主の不在をさびしんだりもするのね。アホらしい。」
切って捨てるようにチセさんは言った。
……猫の世界は厳しいんだな。
僕が言うと、チセさんは鼻を鳴らして笑った。
「私からすれば、人間のほうがつらそうね。家ネコに余計な脳みそを足したみたいじゃない、あなたたちって。」
たしかに、と僕は思った。
家の近くに小さな川が流れていて、帰るときにはいつも小さな橋を渡る。川といってもがんじがらめなほど護岸されているし、水の底は見えないくらい汚い。
それでも僕は、ときどき夜になると、橋の上から川を眺めに出歩くことがある。
橋の真ん中にさしかかって、僕は足を止めて川を見た。川沿いに街灯がつらなっていて、大きな生き物みたいに見える川の、黒い体をうかびあがらせている。
チセさんは橋の欄干のうえに腰をおろしていた。
あぶないよ、そんなところ。
僕は言った。何かの拍子によろめかないとも限らない。川に落ちたら、猫なんてひとたまりもないだろう。
「あんたが立ち止まるからいけないの。」
チセさんはよく分からない理屈で反論した。
頼むから、落ちたりしないでよ。
「頼まれたって、そんなことわかんないわよ。」
いやなこと言うな……。
「じゃあ、もう少し先まで行って。こんな道の真ん中でつったってなきゃいけないなんて、落ち着かなくて嫌なのよ。」
仕方なく僕はもう少し歩く。家に帰る道から少しだけ外れて、川沿いの道を行く。やけに新しいベンチに腰を下ろすと、チセさんはベンチの下にもぐった。
気持ちのいい夜だ。
たまにゆるく風が吹いていく。気持ちがいい。いつまでも当たっていたいと思える風が吹く季節は短いから、こうして満たされた気分でいられる夜は、大事に過ごしたいと思う。
「……何考えてるの?」
チセさんがいぶかしげに言う。
風が気持ちいいなあ、ってね。
「変なこと考えるのね。」
猫は考えない?
「考えないわね。」
もったいないな。
「もったいないなんて気持ちも、私にはよくわからないわ。」
僕はふうん、と言って笑った。それはそれでいいし、そうでないならそうでないなりに楽しめばいい。
チセさん、と僕は呼んだ。
「何?」
なんで、僕のもとに来てくれたの。
「あんたが呼んだからじゃない。」
僕が?
「そうよ。つまらないことで悩んで、しんどくなったから、私を呼んだんでしょう。私はその声を聞いて来ただけよ。」
迷惑じゃなかった?
「別に。」
でもチセさん、忙しいんでしょ。
「忙しくはないわ。暇がないだけよ。野良猫ってだいたい暇がないの。」
さっきも言ってたね。
「でしょう。」
僕はうなずいた。チセさんは、でもね、と続ける。
「私はほかの猫より、ちょっとだけ脳みそが余計にあるの。だから、たまに暇になったりするの。」
そうなんだ。チセさん、頭のいい猫なんだね。
僕がそう言うと、チセさんは笑った。
「それは違うわ。頭がいいってのとは、ちょっと違う。」
そして少し黙ったあと、一つあくびをした。僕は時計を見た。もう夜中の一時を過ぎている。
「まあ、今日のはいい暇つぶしになったわ。」
チセさんはそう言うと、ベンチの下からするりと抜けだした。しなやかで美しい、と僕は思った。
「じゃあ、しっかりやんなさいよ。私もそうそう相手できないんだから。」
チセさんは言った。
僕は思わず笑ってしまいながらうなずいた。
だいたい、五年に一回暇かどうかってとこなんだろ。
「そうよ、だいたいそれくらい。」
知ってる。
変なの。じゃあ、元気でやりなさいね。
うん、ありがとう。
それじゃあね。
三毛猫は木かげの闇に溶けて、そのままするりとどこかに去っていった。
人間賛歌