しろとリク
猫は生きてる間に一回だけ喋ると聞いたことがあります。
本当なのかな?
犬は喋らないのかな?
そんなことを考えてときに、思いついたお話です。
山岸志郎は犬が苦手だった。
幼い頃から野良犬に追い回されたり、友人の飼い犬に足を噛まれたりされてきた。
自分は犬と相性が良くないのだと、考えてきた。
繰り返す。
山岸志郎は犬が大の苦手だ。
だから、妹が連れてきたソイツを見て、思わず顔をしかめたのは仕方のないことだったのだ。
ソイツは妹の隣でちょこんと座っている。
背中は陽に透ける小麦のような色をしていたが、お腹と鼻のまわりは白い毛で覆われていた。
ピンと立った三角形の耳を小刻みに動かし、「どうしてそんな顔してるの?」と言わんばかりに志郎を見つめている。
くるんと巻いた尻尾を左右に揺らすソイツは、紛ごうことなき犬であった。
「恵、ソイツは何」
「家で飼ってる犬、リク君」
「いつの間に犬飼ってたんだよ」
「お兄ちゃんが独り暮らし始めてからだから、二年か三年前くらいかな」
「知らなかった」
「お兄ちゃん帰ってこないし。本当はお兄ちゃんが帰ってきたときに驚かそうと思って黙ってたんだよね」
高校進学のために東京にでてきて以降、志郎は一度も実家に帰っていなかった。
現在は高校を無事に卒業しているが、進学する大学も東京にあるためこのまま独り暮らしを続ける予定だ。
「何で連れてきた?」
「それはほら、独り暮らしでお兄ちゃんも淋しいでしょ? ペットがいると生活に張りがでるんだよ。このマンション、ペット飼えるんだよね?」
つまり、飼えということだろうか。
確かにペットは禁止されていないが、だからと言って飼いたいとは霧程も思わない。
「淋しくないし、オレは犬が苦手」
「リク君となら、仲良くなれるよ。それに、リク君はすごいことができるんだから」
「芸でもできんの?」
恵は自信ありげに微笑むと、リクに向き合った。
そして掌を見せるように差しだす。
「リク君、お手」
恵の掌に、リクは前足をちょこんとのせた。
「おかわりもできるよ」
「へー、すごいねー」
期待して損した。
「リク君、次はおしゃべりして」
恵の言葉に志郎は笑う。
犬がしゃべれる訳がない。せいぜいワンワンと相槌みたいに吠えるだけだろう。
「めぐ、この人怖い」
だが、リクははっきりとそう言った。
鈴がなるような、可愛らしい声音でしゃべった。
志郎の頭の中が真っ白になる。
「お兄ちゃんは照れてるだけだから大丈夫。すぐ仲良くなれるよ」
「うーん」
リクは首を傾げて考える素振りを見せた。少しして「頑張ってみる」と何度も頷く。
リクは志郎の方を向くと、ぺこりと頭をさげた。
「今日からよろしくお願いします」
「ねぇ、お兄ちゃん覚えてる? 子どもの頃に、一緒に変幻を捕まえようって神社の林に入ってさ、そんで迷子になったよね。リク君は変幻だよ。本当に本当に変幻はいたんだよ」
「信じられねぇ」
志郎は呻くように、やっとそれだけ を口にして顔を手で覆った。頭がずきずきと痛むような気がする。指の隙間から、上目遣いでこちらを見つめるリクの姿が見える。
「今まで実家で飼ってたんだろ。そのまま実家で飼えよ」
志郎の言葉に、恵は視線を伏せた。酷く言いづらそうに、小さな声で言う。
「実は、母さんがリク君のこと嫌っててね。この前、お酒に酔った母さんがリク君に物ぶつけて、怪我させちゃったの」
「どうしようもないな、あの人」
「昨日は箒振り回してリク君を叩こうとしてたし、このままじゃリク君が大怪我すると思って、でも、避難場所はお兄ちゃんの家しか思いつかなかったの」
昨日、急にこちらに来ると電話してきたのはそれが理由か。
志郎の脳裏に母親の姿が浮かぶ。
お酒とお金が大好きで、いつも遊び歩いていた。家事も子育ても大嫌いだと怒鳴って殴る、それこそ子どものような母親だ。
さらに質の悪いことに男漁りも大好きで、父親の貯金を食い潰し、借金までして浮気相手に貢いでいた。
そんな母親が大嫌いで、とにかく家からでていきたくて、志郎は東京の高校に進学したのだった。
理由を聞いてしまうと、このまま恵とリクを追い返すのは、可哀想な気がしてくる。
「しばらくの間なら、預かる」
顔を手で覆ったまま、志郎がこぼすように言うと、恵の表情がぱっと明るくなった。
「いいの?」
「しばらく、だけどな」
恵はリクの背中を何度も撫でおろす。
「よかったね、リク君。ここにいてもいいって」
「うん、よかったね。よかったね」
リクも尻尾を振って喜んでいた。
「けどオレ、犬の世話のことなんか何にも知らないぞ。餌やらトイレやらはどうすればいいんだ?」
「すぐ必要になりそうなものは、玄関の外のダンボールに入れて持ってきた」
その辺は抜かりないということか。
さっさくふたりでダンボールを部屋に運び入れる。中に入っていたのは、囲いのついた犬用のトイレトレーとトレーに敷くシート、そしてビニール製の袋であった。
慣れた手つきで恵はトレーを組み立てていく。
「ドライフードとかは昨日郵送したから、今日の夕方には届くと思う」
部屋の隅っこにトイレを設置して、恵は満足そうに頷いた。
そしてダンボールの底にあった、一冊のノートを志郎に手渡す。
ノートの表紙には『リクノート』と書かれていた。
「これは?」
「リク君の体調とか、世話の内容とかを書いたノート。お父さんと書いたの」
これを読めば、一通りのことはわかるはずだ、とのことだった。
しばらく他愛のないことを話して、恵は帰って行った。
「お兄ちゃんもリク君も元気でね。たまには帰ってきてよ」
「気が向いたら帰るよ」
「めぐ、またね。元気でね」
恵の足に体を擦りつけて、リクは甘えたように鼻を鳴らした。
手を振る恵を見送ってしまうと、志郎とリクだけが部屋に残される。
ひとりと一匹はお互い顔を見合わせた。
「めぐとしろ、似てるね。うーん、ととさんにも、似てるかな」
『しろ』とは自分のことだろうか、と志郎は考えた。なんだか犬につける名前みたいだ。
「似てねぇよ」
「えー、目元がそっくりだよ 。そっくり家族だよ」
「犬に人間の顔の見分けは付かないか」
心外だと言いたげに、リクは瞳を瞬かせて鼻の頭にシワを寄せた。
「ボク、人の顔を見分けるのは得意なんだよ」
「はいはい、わかったよ」
適当に返事をすると、リクは不満そうに小さく鳴く。志郎が相手にしないでいると、部屋の隅でしょげたように丸くなった。
時折、耳が音を探してはたはたと動く。
志郎もすることがなくなったので、恵から受け取った『リクノート』を試しに読んでみることにした。
父親と妹の筆跡が並ぶそのノートは、雑誌の切り抜きなんかも挟まれていて、ペットを飼ったこともない志郎にも、わかりやすく犬の特徴がまとめられていた。
だが、リクと普通の犬とを一緒にしてもいいのだろうか。
恵はリクを『変幻』だと言った。
志郎もその存在は知ってる。ただし、実物ではなくあくまで、寝物語に登場する霊獣としてだ。
いわく、変幻は子どもの守り神で、長く生きた動物が霊力を手にした存在とのことだ。
子どもの頃はその話を信じて、神社の林に入ったりもしたが、今日までそんなことはすっかり忘れていた。
リクがそんな霊獣とはこれっぽっちも思えない。
話し方も幼子のように舌足らずだ。物語の変幻はもっと霊獣らしい、威厳のある言葉を使っていた。
ぼんやりと過去のできごとを反芻していると、窓の外からの赤い光が志郎の瞳を射した。
外から学校帰りの子どもたちの声が聞こえてくる。
もう夕方か、と思ったとき、恵が昨日だしたという、荷物がまだ届いていないことに気がついた。
夕方には届くと言っていたが、配達が遅れている可能性も否定できない。もしかしたら、今日中には来ないかもしれない。
志郎の部屋に犬が食べれるようなものはなかった。
晩ごはん抜きになってしまうのは余りにもリクが可哀想だ。
「リク?」
志郎はそっと声をかけたが、リクは丸くなったまま返事もしない。
「おい、返事くらいしろって」
リクの隣りにきて、その顔を覗きこむ。リクは瞳を閉じたまま、規則的な寝息をたてていた。
長距離の移動で疲れてしまっただろうか。無理に起こすのも悪い気がして、志郎は財布だけを持つと足音を忍ばせながら、マンションの部屋をそっとでた。
コンビニに行くか、ドラッグストアに行くかで迷ったあげく、後者に行くことにした。
最近のドラッグストアは何でも置いてある。ペット関係の品も、当然のように数多く揃えられていた。
意外と種類のある犬用缶詰をいくつか見比べて、手頃なものを手に取る。ついでに少なくなっていた洗剤やら歯磨き粉やらと一緒にレジに持っていった。
ドラッグストアをでる頃には陽はすっかり沈み、濃紺の空が広がっていた。
思ったより時間をかけてしまったらしい。
急ぎ足でマンションまで帰り、玄関の鍵を開けようとしたところで志郎は異変に気づいた。
鍵が、すでに開いている。
確かに施錠をして部屋をでたはずなのだが。
扉を薄く開けて中の様子を伺ったが、特に誰かが侵入して荒らした形跡は見当たらない。
しんっとした空気で満ちていた。
「リク、帰ったぞ」
返事はない。まだ寝てるのかと、居間を覗いたが、どこにもリクの姿はなかった。
「リク? どこ行った?」
風呂場とトイレ、クローゼットや棚まで見てみたが、リクはどこにもいない。
志郎の体から、血の気がサーッと引いていく。
まさか、外にでてしまったのだろうか。
慌てて靴を履き、志郎はマンションを飛びだした。
犬が行きそうなところってどこだ?
マンションの駐車場で辺りを見回し、リクの姿を探す。
近所の公園かもしれないと考え、駆けだそうとした、正にそのときであった。
「いたー!」
そんな声と同時に、ふくろはぎに何かが勢いよくぶつかってきた。
志郎はたまらず、地面に膝と手をつく。
「もう、勝手にどっか行って! 迷子になっちゃ、ダメ!」
リクが膝をついている志郎の正面にまわり、怒ったような顔をして見せた。
目をつりあげ、頬を膨らませている。
犬にも表情があるのだと、志郎は初めて知った。
「お前、どうやって外でたんだよ」
「爪でガリカリして、鍵開けたの。鍵開けは得意なんだよ。それよりボクが寝てる間に迷子になって! 心配したよ!」
両手でリクの頬を掴み、思いっきり左右に伸ばす。
「迷子はお前だ! 何でオレが迷ったことになってんだよ!」
リクは頭を振って、志郎の手を払いのけた。
「しろはダメ! ひとりになっちゃダメ!」
犬に説教される日がくるとは思ってもみなかった。
志郎の中で苛立ちがふつふつと沸いてくる。
「何が駄目だ!オレは今までひとりで暮らしてたんだ! 慣れてんだよ! 心配なんていらねぇよ! お前に説教される筋合いなんかねぇんだよ!」
「でも! めぐもととさんも、ひとりのときに死のうとした!」
冷や水を頭からかけられたような気持ちがした。
言葉が喉で引っ掛かってでてこない。
志郎はただリクを見つめていることしかできなかった。
「めぐはお薬たくさん飲もうとして、ととさんはシーツで首括ろうとしてた。どっちともボクが気づいて、やめさせたけど。そのとき、みんなひとりになろうとした。人間、ひとりになると死のうとするんだって知ったの」
「オレは、そんなこと、しない」
「めぐとしろ、似てるって思った。でも、それ違った。めぐが死のうとしたとき、しろと同じ目をしてた。だから、しろはひとりになっちゃダメ! ボクと一緒にいるの!」
志郎は何も言えなかった。
自分の触れられたくないところに、リクが手を伸ばしているような気がする。
それが何だか怖くて、痛くて、胸がつまりそうになって息がしにくかった。
リクは「どうしてそんな顔してるの?」と言わんばかりに志郎を見つめて、ちょこっと首をかしげて見せた。
しろとリク
子どもの頃、犬を飼いたいなって思っていました。
今でもペットのいる家って素敵だな、と憧れています。
アレルギーが、アレルギーがなければなぁ。