夕映えの丘病院 第二章 出会いの頃
二人で暮らし始めた、あの頃......
仕事を終えると、いつもこの場所で君を待っていた。
近所の学生や工員相手の小さなコインランドリーで、
前の通りをぼんやりと眺めながら..
車が通ると、カタカタゆれる丸いパイプ椅子に座って、
時には、壁に貼られた、指名手配の写真に見つめられながら、
君を、待っていた。
今夜も誰かが置いていった、週刊誌を手に、時間をつぶしている。
無数の折くせがついて、ごわごわした表紙をめくると、相変わらず誰と誰がくっついたの離れたのと、
人さまの色恋沙汰を肥大した好奇心をむき出しに揶揄し、はやし立てた記事が喧しく、踊っている。
なんともわざとらしく、サングラスとマスクで変装した芸能人が、
うるさそうに記者の質問をはぐらかしている写真が煽情的なキャプションに添えられている。
いかにも迷惑そうな表情の向こうに有名人としての自意識がはみ出していて、なんとも鬱陶しく、
そして無様だった。
「本当は、嬉しいくせに、気取っちゃって」
と誰もいない店内で、小さく毒づいてみる。
ランドリーの店内には、小さな石油ストーブが灯っている。
芯が古く、不完全燃焼気味で、息苦しくなったので、少々換気でもしようかと、
パイプ椅子から腰を上げかけたときに、
サッシの引き戸があいて管理人のおじさんが入ってきた。
どうやら石油を足しにきたようだ。
おじさんの、ビニール傘から雨滴が滴り落ちて、コンクリートの床に模様をつくりはじめる。
しばらくすると、床のほこりの上で無数の玉になって、
洗濯機の下の方にゆっくりと、転がっていった。
給油用のポンプの赤い頭を押しながら、おじさんが声をかけてくれる。
「今夜もまた冷えるね、いつもの彼女を待っているのかい?
色男もつらいね」
「うん、まあね...
あ、おじさん、メリークリスマス」
「え、あーそうかクリスマスだよね、ま、なんだ、おめでとうか」
「じゃこれは、プレゼントってやつだ」
からし色のジャンパーのポケットからカンコーヒーを一本取り出す。
「そこの薬缶どかして、乗っけときなよ、じき温くなるよ」
「ありがとう、おじさん、お休み。」
「あー、まー、あんちゃんもがんばりなよ、かわいい彼女のためにさ、
そのうちいいことあるよ、じゃ、俺は帰って寝るわ」
部屋の角にラワンの板を渡し、そこに、ちょこんと乗せられた小さなテレビから、
クリスマスに浮かれた、お笑い芸人が、盛んにメリークリスマスを連発し、
つまらないギャグと意味のない、バカ笑いが流れてくる、
いったい何がめでたいのか、嬉しいのか、
背伸びして、チャンネルを変えると、今度は、正月のお得な温泉情報だそうだ。
まったく、めでたいことが盛りだくさんで結構な国だ、日本は。
ストーブの端っこにのせた、カンコーヒーから湯気が上がりだし、
甘い香りが狭い部屋をみたしてゆく。
明け方から降りだした冷たい雨は、夜になって更に勢いづき、
まったくやむ気配がないようだ。
前の通りを行き交う人々の吐きだす息や、車の排気ガスが夜の雨に滲んで、
ほっこりと、まるで綿菓子のように白く丸く浮かんでいた
。そしてあっという間に闇に溶けていった。
引き戸のガラス窓が曇りはじめ、だれかが残していった、いたずら書きが浮かんでくる。
ゆきだるまの絵や、サンタさんのマンガに混じって、おそらく娘の名前を書いたのだろう、
なんとも、切実な感じの文字を見つけた。
出稼ぎの臨時工員か、逃亡中の人間か?
もちろん私は、知る由もないが、叫び出しそうな、
行き場のない情念に息苦しくなるようだった。
私も退屈しのぎに指をすべらせてみるが、
なにも書くことがなくて、まっすぐな線を下まで、ただ伸ばしていた。
本当は、書けなかったのか......
カンコーヒーを片手に通りを覗いて見ると、
藍色の暖簾が割れて、向かいの店から、ちょこんと君が顔を出す。
ちょっと空を見上げて顔をしかめると、オーバーの襟を書き合わせて、
小走りでこちらにやってくる。
「ごめん、待ったよね?工場、定時だったの?」
手をこすり合わせながら、こちらの傘に入ってくる。
寒さで言葉が途切れ途切れになる。
「いや、俺の方も残業だったんだ、だから、いま来たところ、お店、忙しかった?」
「ううん、だってクリスマスイヴだもん、
みんな家でケーキ食べてるよ。」
「そりゃそうだ、こんな日に、しかも雨の晩に一杯飲み屋もないもんだ」
君の髪から焼き鳥の煙がかすかに香る...
云いようのない、罪悪感がこみ上げてくる。
あの頃は、くせのない髪をなびかせてカフェのテラスを忙しそうに、飛び回っていた..
少なくとも私にかかわるまでは....
一つの傘に二人肩をよせて、商店街のアーケードを歩く。
通りの途中、顔見知りのケーキ屋のおじさんから売れ残りを半額で買う。ローソクをたくさんと
、砂糖細工のサンタさんを二つ付けてもらい、君は、なんだかとても嬉しそうだった。
はんこ屋の角を曲がり、坂を下りて行く。
いつも君が熱心に手をあわせている、お地蔵さんが、
今夜は寒そうに濡れそぼっていた。
君は、いつも何を祈っていたの?
踏切を渡ると大きく左にカーブした線路が見わたせる。
振り返ると、最終列車の赤い尾灯がゆっくりスローモーションのように
闇の中に吸い込まれていった。
「あ、雪」
君は私のコートのポケットから手を出して、白い結晶を受けている。
息をとめ、真剣な表情で雪の粒を見つめていた。
「クリスマスイヴに雪が降るなんて、なんだか得したみたいだね」
顔を上げ、君が笑いかけてくる。
ふいにこみ上げるものがあって、君の肩を強く抱きしめていた。
君の頼りない体温が伝わってくる、
髪に落ちた雪にそっと手を伸ばすと、それは、捕まえられずに、静かに消えていった。
私を置いて、雪の先に道を走っていった君が、街灯の明かりのところでこちらを向いて待っている。
まるでスポットライトをあびた舞台女優を気取るように、
大げさに両手をひろげて、大粒の雪を受けていた。
凍りついてすべる鉄階段を、おそるおそる登って、部屋にたどりついた。
玄関の右わきのスイッチを入れ明かりをつけると、
台所の水道から落ちた滴がつららのように凍っていた。
それがなんだか可笑しくて....
つららを突っついて、二人は、いつまでも笑っていた。
夕映えの丘病院 第二章 出会いの頃