天使と悪魔

 桜色の爪を輝かせ、奏で歌って黒と白。
 二つの対極の運命(せん)は、出会って交じって変わってゆく。
 優しいが故に傷つく悪魔と、純真無垢な天使の物語。

 

プロローグ

+ ―プロローグ― +


 静けさの中、閉じられた瞳
 黒い翼を背負う悪魔の細腕
 朽ちた骸を抱きしめた
 ふるえる腕は、光る涙に濡れていた

 黒い翼は朝日に灼(や)かれ
 背負わされた使命、心を引き裂いた
 涙さえ穢れているのか、頬を伝う黒いシズク
 嘆きの歌は悪魔の叫び

 手に持つは邪槍(じゃそう)、差し込む黒い光
 其の瞳は開かれ、仰ぎ見る空
 最後の祈りは、遠い日の記憶
 神を呪うことなく、悪魔は己の命を其れで貫いた

第一章 ヒカリノテンシ

+ 第一章 ―ヒカリノテンシ― +


 丘の上の、森に囲まれた、幸福な屋敷。
 母親の愛に包まれた子どもの、安らかな午後。
 無垢な天使が舞い降りて、そっと眠る子どもの枕元に立つ。
 天使は美しいハープを取り出して、優しく微笑する。

 『あなたに善き夢が届きますように。』

 淡色(あわいろ)の音を奏でる指先
 桜色の貝殻の爪が輝いた。
 音色は鮮やかなトオンキゴウ、シブオンプ
 優しい音色は眠る子どもをつつみこみ
 光と希望の甘い夢を見せる。
 栗色の巻き毛の無垢なる天使。朱い頬は幸せの色。
 あぁ、天使は奏でる、やすらかな幸福の音。

 その音色を聞くのは、人の子のみならず、
 其の音色は、哀しい悪魔の耳に響いた。
 優しい音色は届かぬ光。
 黒い涙が其の頬をつたい、一筋の跡を残した。

 美しい音色に惹かれ、窓の下に隠れるように悪魔は座り込んだ。
 悪魔は自分が悪魔であることが悲しかった。
 人を不幸にしてばかりの自分が苦しかった。
 人を幸福にして、幸せを運ぶ天使に憧れていた。

 “あぁ、私も人の幸福を祈ってみよう。”

 悪魔は静かに歌いだした。天使の美しい音色にあわせ、優しくけれども寂しい声で。
 しばらくして、美しい音色が止まり、悪魔も歌うのをやめた。
 白い優しい手が静かに窓を開いて、子どもを起こす声が聞こえた。
 優しくて暖かい、まるで天使のハープのような声は、子どもに惜しみない愛情を注ぐ母親のものだろう。
 悪魔は静かに窓の下から抜け出して、大きな木の陰に腰を下ろした。
 空は水色で、雲はちぎれて、広がっていた。
 魔界の空とは違う、澄んだ空に綿菓子のように広がるそれらは、綺麗で楽しかった。
 数を数えようと思ったけれど、どれも雲なのだと思い、悪魔は上げかけた指を下ろして、ひざに置く。
 そのとき、美しい白い衣に身を包んだ、先ほどの天使が空から降りてきて、悪魔の前にちょこんと立って、微笑んだ。

 「あなたですよね。僕のハープに合わせて、歌っていたのは。」

 栗色の巻き毛 朱い頬
 優しい声音は鈴のよう
 悪魔はしばらく聞き惚れて、
 急に恥ずかしくなってうつむいた。
 
 「ごめんなさい。あんまり綺麗だったので、思わず歌ってしまいました。」

 やっとのことで絞り出した声音は低く掠れ、
 悪魔は悲しくなって、黒い羽で己を覆い、静かに涙を零した。
 天使は少し驚いて、けれども優しく悪魔の羽に触れた。

 悪魔の羽は全てを拒む闇
 天使の手は全てを受け止める光
 悪魔は暖かな陽だまりのような幸福に包まれて
 天使は今まで感じたことのない、深い悲しみに包まれた。 
 悪魔はそっと羽を開き 空より澄んだ青いサファイアの瞳を見つめ返した。

 「とんでもない。あなたの歌は美しくて、僕はとても幸せな気持ちになりました。あんな素敵な歌声を、僕は一度も聞いたことがなかった。」 

 鈴の優しい音はかつてない幸福。
 悪魔の心は幸せに満ち溢れ、黒いシズクが頬を伝う。
 まるでその身に溜められた悲しいものが流れ落ちてゆくように、それは悪魔の頬を伝って落ちる。
 白く柔らかな指先が、そっと黒いシズクを掬う。
 シズクは透明に輝いて消えていった。

 「よかったら、また歌ってくれませんか?
僕は、二つの月が沈んで、三つ目の太陽が頭の上に輝く頃に、あの屋敷へ行きます。その時にでも。」

 悲しい紅いルビーの瞳は、驚きの色を浮かべ、優しく青いサファイアの瞳は微笑んだ。 
 悪魔はそっと瞼を閉じて、もう一粒だけ黒いシズクを零し、不器用に微笑んだ。

 「よろこんで」

 震える気持ちは暖かく
 咲いた声音は紫の薔薇
 天使は白い羽を広げ、空を見た。それから、悪魔の顔を見た。

 「きっときっと、二つの月が沈んで、三つ目の太陽が頭の上に輝く頃に、会いましょう。」

 そうして、天使は飛び立った。ちぎれた雲の合間の、大空へ。
 悪魔の瞳はどこまでも、天使の飛び立った空を見上げていた。
 水色の空の向こうへと、ちぎれた雲の合間へと、遠くなっていく天使の姿をどこまでも。――


 

第二章 悪魔のカナシミ

+ 第二章 ―悪魔のカナシミ―



 荘厳なつくりの城が聳え立つ 岩だらけの荒野、
 血の紅と 禍々しき毒の紫の混じりあう空の下。
 悪魔は小さな幸福を抱えて、歌を口ずさむ。

 悲しみの荒野に、美しい薔薇が咲く。
 歌など知らぬ鳥が鳴き、雨など知らぬ花が揺れる。
 哀しく美しい、愛しい歌。
 あぁ、この幸福を知る同胞の姿はなく

 悪魔はそっと、この世界唯一の輝きである、真っ白な月を見上げた。
 その時、しばしの夢を壊す鐘の音が鳴り響いた。
 まるで、地を這うような、恐ろしく、けれどもどこか美しい音色が。
 悪魔はしばしの夢から目覚め、その場に膝をついて、頭を垂れる。
 魔界を治める神への敬意。魔界を治める神への畏怖。

 荒野のど真ん中に、赤紫の湖が顔を出した。
 それは、禍々しい紅い血と紫の毒の水。
 どこからともなく同胞が現れて、次々と水の中へ飛び込んでゆく。
 悪魔は小さな幸福を胸にしまい、人形のように全ての感情をしまいこむ。
 そして、漆黒の翼を羽ばたかせ、禍々しい水の中へと飛び込んだ。


 月の一滴さえ届かぬ暗澹
 そこは寂れた村の、貧しい家。
 飢えた子どもは泣き叫び、貧困に喘ぐ大人は、子どもを慰める力を持たず。
 そこに悪魔が舞い降りた。
 常闇の翼は広げられ、青白い指の先で、黒い爪が輝いた。
 悪魔が空を十字に裂けば、そこに邪槍(じゃそう)が現れる。

 “『我求めるは、汝らの悲しみ』”

 悪魔は美しく、けれども哀しい呪文を吐き出した。
 そして、邪槍を手にとって、古びた家に突き刺した。

 “あぁ、こうして私はあなたたちの、ささやかな幸福を奪うのだ”

 悪魔の声音は紫の薔薇
 悲しみに揺れる紅い瞳
 常闇の翼は深さを増して
 哀れな家は、嘆きの声を上げる

 “力が、力が満ちてくる。私は、他人の不幸なしでは生きられない”

 静かな紅いルビーから、黒いシズクが零れ落ちる
 其れは罪の証だろうか 悪魔は罪なのか 罪なのか
 遠い瞳には、青い空。唯一の救いの約束。

 ――二つの月が沈んで、三つ目の太陽が頭の上に輝く頃・・・

 “こんな私が、己の幸福を望むこと、それが一番の罪なのではないだろうか”

 悪魔は哀しい嘆きを聞きながら、そっとそこから飛び立った。



+  +  +



 天使は純白の翼を羽ばたかせ、美しい大地に舞い降りた。
 そこは天使の瞳を映した色の空が頭上に輝き、
 柔らかな草に覆われて、ところどころに桜色や緋色の可憐な花が咲いている。
 天使の白い足は草の道を通り抜け、
 歌う風を聴きながら、鮮やかな色の森へと歩みを進める。

 露草のような黄緑の 大きな古木は輝いて
 サファイアの空に腕を伸ばす。
 天使は少し羽ばたいて、天に近い枝に腰を下ろした。
 それから、金色のハープを取り出して、サファイアの空を見上げた。

 天使の青いサファイア瞳 同じ色の空を映し
 重なって更に青さを増して、
 桜色の爪は銀色の弦を弾き
 奏でる音色はトタンチョウ ニブオンプ
 どこか物悲しい音色を響かせる。

 風は音色に誘われて、慰めるように朱い頬を撫で、栗色の髪をふわりと揺らす。
 あぁ、濁りを知らぬ清らかな心
 美しい悪魔の悲しみに触れた指先は痛み 熱を帯びて
 天使はハープを奏でる手を止めた。

 “これが悲しみなのですか”

 桜色の指先で受け止めた悪魔の黒いカナシミ。
 見えるはずのないそれが、白い手に浮かび上がり
 深い孤独を蘇らせ、天使の心に流れ込む。

 “あぁ、これが、ほんのほんの一握りの”

 陽だまりのような心はふるえ、けれどもしっかりとその孤独を、其の白い腕は抱きしめた。

 “この、悪魔さんの悲しみが、少しでも癒えますように。”

 捧げる祈りは儚くとも 注ぐ心は光に溢れ
 つかの間の孤独は消え去って
 天使は一粒の涙を零した。
 ダイアよりも素朴に輝き 
 天から零れ落ちる雨の一滴よりも清らかな、
 天使の涙は誰に知られることもなく
 風に流れて消えていった。



+  +  +



 悪魔は、翼を大きく羽ばたかせ、ぐんぐんと禍々しい空へと上ってゆく。
 艶やかな漆黒の翼は鈍い光を放ち
 ルビーの瞳はまるで鮮血のように赤い。
 悲しみの力は大きく 不幸の魔力は底を知らず
 悪魔の根底に眠る本能は力を求め
 心に宿る理性は悲鳴を上げる
 悪魔は本能に抗うように、ただただ空を翔けてゆく。

 ニンゲンのフコウはミツのアジ
 ナゲキのサケビはソコナシのカイラク
 ハヤク 堕チテオシマイナヨ
 ホンノウノママニ 堕チテオシマイヨ

 頭に響く声は甘い堕落の響き
 全てを麻痺させるように、悪魔の心に入り込む
 けれども悪魔は頭を振り 金色のハープの音を思い浮かべる。
 甘い甘い不幸は偽り こんなものは幸福ではない
 悪魔は知っていた。
 哀しいことに知ってしまったのだ。
 暖かな幸福を。
 陽だまりのような本当の優しさを。
 赤いルビーの悪魔は知っているが故に苦しむのだ。
 己の使命に。 
 それを罪と考える頭に。 
 他者の不幸を悲しみだと嘆く心に。

 ――悪魔ハ、不幸ヲ望ム存在。不幸ヲ作リ出スタメニ造ラレタ存在ナノダカラ――

 悪魔は逃げるように、血と毒の禍々しい空を抜け、沈むことのない白い月の光に飛び込んだ。
 次に目に飛び込んできた光景は、地上の夜だった。
 藍色の空に星が輝き、太陽の光を受けて、黄色みがかった光を放つ沈む月を見つめる。

 “この月が沈んだら、三つ目の太陽が昇る”

 悪魔は月に祈った。
 どうか、また天使さんのハープの音が聞けますように。
 どうか、どうか、天使さんに会えますように。

 黄色みがかった二つ目の月は、一日の役目を終えて、沈んでゆく。
 そうして、三つ目の太陽が顔を覗かせて、やがてゆっくりと空を昇ってゆく。

 幸福の丘 幸福の屋敷 約束の場所
 サファイアとルビーの瞳は再び出会うのか 出会うのか
 白と黒 出会うはずのなかった幸福と不幸
 交じり合うことの無かった対極の運命(せん)
 けれどもあの日から交差する。二つは出会ったのだ。あの日のあの丘で。
 そして、今日。それらは再び交じり合う。約束という名の光の下に。
 そう、新しいカナシミを生むとも知らずに―――

第三章 セツナノコウフク

+ 第三章 ―セツナのコウフク― +


 丘の上の森に囲まれた幸福な屋敷。
 天使は屋敷の屋根に腰を下ろし
 幸せの金色のハープの弦を弾いた。
 桜色の貝が踊るように弦を揺らす度に奏でられる音色は、トオンキゴウ ハチブオンプ。
 それは幸せな屋敷の住人に、楽しい希望を届ける。

 両親の暖かい愛情に包まれた子どもは、
 訪れた友人と屋敷を駆け回り、やがて外へ飛び出して、しばしの冒険へとくりだした。
 天使の頬は木苺の甘い赤色に染まり
 サファイアの青い瞳は子ども優しく見送った。

 踊るように奏でていた曲をゆったりとした曲へと変え、天使は空を見上げた。
 約束の太陽は頭上よりも少し低い位置で輝いている。
 優しい風が頬を撫でていった。
 天使は風が好きだった 風も天使が好きだった
 サファイアの瞳を閉じて、ふわりとなった栗色の髪から、
 優しく撫でられた頬から、天使は全身で風を感じていた。
 そうするのが好きだった。

 しばらくそうして遊んでいると、ふわりとした違う風を感じて、天使は瞳を開けた。
 そこには、美しい常闇の翼を背負った、あの日の悪魔が立っていた。

 「来てくれて、とっても嬉しいです。また悪魔さんの歌が聴ける!こんなに嬉しいことは、久しぶりだ。」
 「わ・・私もです。天使さんにまた会えて、とってもとっても嬉しいです。」

 青いサファイアの瞳は晴れた空のような喜びを浮かべ、赤いルビーの悪魔は、その頬に桜薔薇のような愛らしい笑みを浮かべた。
 太陽は二人の頭の上で微笑みを浮かべ、柔らかな風が二人を包み込むように吹き抜けていった。

 金色のハープは紡ぎだす 銀の弦を震わせて
 トオンキゴウ トチョウチョウ
 桜貝の爪は喜びのメロディーを
 天使の心を奏でだす。

 悪魔の心は、まるで雪が溶け、春を迎えた野原のような喜びに満ち溢れていた。
 悪魔は嬉しかった。天使に再び会えたことが。
 そして、それだけでも十分なのに、自分に会えたことを天使が喜んでくれたことが、なによりも嬉しかった。

 “あぁ、この喜びを伝えたい!”

 悪魔は一つ大きく息を吸い込んで、幸せのメロディーに想いを乗せる。

 暗い荒野で夢見たの 心の中で夢見たの
 ヒカリの天使の 幸せの音
 ヒカリの天使の 美しい心
 けれども出会えて知ったの
 夢や心の中よりも
 本物はもっと素敵だってことに
 私の喜びを どうか どうか 伝えられたら!

 悪魔の声は紫の薔薇のように鮮やかで、
 けれどもどこか、野茨のような素朴な愛らしさを感じさせる。
 空を飛んでいた小鳥は森の木々で羽を休め、
 二人の作り出した音色に合わせてさえずった。

 悪魔の幸せそうな姿を見て、天使は自分の胸がトクントクンと鳴るのを感じた。

 “あぁ、この時間がずっとずっと続いたら、どれだけ素敵だろう”

 トクン トクン・・・
 優しく暖かく響く胸の音は心地よくて、
 けれどもどうしてか、少しだけ痛かった。

 “この痛みは何だろう?”

 幸せな気持ちと一緒に感じる僅かな小さな痛み。
 トクンと胸が鳴る度に、心細くなっていくような感じがして、首をかしげた。

 “僕は今、こんなに幸せなのにどうして?”

 天使は悪魔に出会ってから、どこか変化してゆく己の心に戸惑いを覚えていた。
 悪魔に出会ってから、悲しみを知った。小さな胸の痛みを知った。
 天使は悪魔と出会って、初めて幸福以外の心の動きを感じたのだ。
 それは不安だった。怖かった。
 けれどもそれだけではなかった。
 同時にとても大きな、今まで感じてきた沢山の幸福の中で、最も大きな喜びと言う名の幸福を知ったのだ。
 天使はいつでも幸せだった。
 いつでも楽しかった。
 そして今はいつもよりも、もっともっと幸せで、もっともっと楽しかったのだ。

 躍る心は子どものように
 飛んで跳ねてメロディーを
 トオンキゴウ スタッカート
 悪魔の声音で花畑
 薄紫のスミレの花 黄色のタンポポ
 二つの心は喜びを 奏で歌って 白と黒
 混じることの無い対極の存在(二人)は、
 今再び一つの運命(せん)へと大きく傾いた・・・

 悪魔はふと、辺りが黄昏色に染まってゆくことに気が付いて、太陽を探した。
 頭の真上で輝いていた太陽の位置はだいぶ低くなって緋色に染まっていた。

 “お願い。太陽さんもう少しだけ沈まないで”

 悪魔ははっと息を呑んだ。

 “私はなんて贅沢な願いをしているのだろう。
 天使さんに会えて、幸せな時間を沢山過ごしたというのに、もっともっとだなんて。
 私は幸せを知るたびに、貪欲になっていく”

 少しずつ赤みを増してゆく太陽に、幸せな夢から覚めてゆくような寂しさを覚えながら、悪魔はそっと瞳を伏せた。

 「悪魔さん?」

 ふと、声を掛けられて、悪魔は自分がすっかり歌うのを止めてしまったことに気が付いた。

 「ぇ・・ぁ・・ごめんなさい。少しぼんやりしてました。」
 「いえいえ、少し疲れたのでしょうね。もうこんなに太陽が赤い。」

 天使はすっかり赤くなった太陽と空を仰ぎ見た。
 夕暮れの赤に、純白の天使が真っ赤に染まっている。

 「そう・・・ですね。」

 ルビーの瞳は再び太陽を映した。
 夕暮れ告げる 赤い色
 その輝きは別れの告げる 時の鐘・・・

 「夕暮れって綺麗ですよね。」

 夕暮れの濃くなっていく空に、鈴の音が転がって、ルビーの瞳は太陽の赤い光を受けて、赤く光る。

 「そうですね。でも、少し寂しいです。」

 穏やかな風が吹いて、二人の髪を撫でてゆく。

 「悪魔さんは、夕暮れの歌を知ってますか?」
 「夕暮れの歌?」
 「はい、夕暮れの歌です。その歌ではね、夕暮れはまた次に会うための約束なんですよ。」
 「約束?」

 小首をかしげる悪魔に、天使は悪戯っぽく微笑んだ。

 「 『 夕暮れは別れの挨拶 また明日会うための
     夕暮れは僕らの約束 また明日会おうねという

     季節は巡り 世界は動き 明日は不確かなものになる
     不確かな世界で また会うために 僕らは夕日に約束しよう
 
     夕暮れはいつかの約束 どんなに時間がたとうとも
     夕暮れは僕らの約束 またここで会おうねっていう 』
 なーんていう、おかしな歌なんですけどね。」

 「いいえ、素敵な歌です。」
 「・・・悪魔さん、よかったらまたいつかここで会いませんか?」

 暖かな幸せが悪魔の心を包み込む。
 それと同時に悪魔は目頭がじんと熱くなるのを感じた。

 ”また、また天使さんに会えるなんて・・・。”

 「私も会いたいです。」
 「僕はまた、二つの月が沈んで三つ目の月が沈む日に、ここへきます。その次もその次も・・・。」
 「何度目に来ることができるかはわかりませんが、きっときっとまた来ます。」
 「夕暮れの約束ですね。」
 「そうですね、夕暮れに約束しましょう。」

 天使と悪魔は微笑んで、それから同時に飛び立った。
 悪魔は漆黒の翼を羽ばたかせ、暗くなりかけた空へ、
 天使は純白の翼を羽ばたかせ、まだ明るい空へと消えてゆく。――――――




 

第四章 イノリノテンシ

第四章 ―イノリのテンシ―


 紅の瞳は再び荒野に浮かぶ白い月を見上げた。
 紫の薔薇は咲くことはなく、悪魔は静かに羽を広げる。
 つかの間の幸福から目覚めるように、悪魔は再び禍々しい湖へと己の身を投げた。
 身を裂かれるような苦しみが、悪魔の心を襲う。

 常闇の翼はどこまでも 暗く黒く闇色で
 悪魔の心は晴れることなく 禍々しい毒と血の湖へ落ちてゆく
 抗う術などありはせず 望んだ力などありはしない。
 悪魔は悲しみの湖へ舞い降りて、今日もまた悲しい呪文を唱えるのだ。
 己の意思の及ばぬ悪魔の本能が騒ぎ立て、不幸の力が飲み込んだ。

 “幸福になれないのなら、私の心を奪って欲しい”

 脳裏に浮かんだ言葉に、悪魔は息を呑む。
 自分さえ辛くなければ、誰かを不幸にしてもいいのか。
 悪魔は己に失望した。
 そんなことを考えてしまう自分が、人を幸せになんてできるはずはない。

 天使の青い瞳が悪魔を見つめている気がした。

 “天使さん・・・”

 あなたといる時はあんなにも、人の幸福を望めたというのに。
 望むことを許された気がしていたのに。

 “あぁ・・・私は、不幸を望む存在。人の不幸無しに、生きてはゆけない・・・”

 ―ナラ、生キナケレバ良インジャナイ?―

 その時、悪魔の頭に響く声がした。
 甘く優しい声音。あぁ、聞き覚えがある。あの時の声だ。
 耳を傾けてはいけない。この声は誰も救いはしないのだから。
 限りなく続く暗澹(あんたん)への入り口。この声に従ってはいけないのだ。

 ―アナタサヘイナケレバ、コノ人タチハ救ワレル―

 ルビーの瞳は光をなくし、常闇の翼は闇を増す
 悪魔の頭に木霊する。 堕落の甘い響きが。
 悪魔の瞳は一度だけ 虚ろな光を宿し
 嘆きの声を聞きながら 悲しみの湖を見た

「生きなければいい。私なんて、いなければいい。生きてはいけない。」

 悪魔は美しい、紫の薔薇を咲かせる。
 美しくて 悲しい 哀しみの声。
 それは恐ろしいくらい鮮やかに、悪魔の耳に再び戻る。

 悪魔はそっと空間を十字に切り裂いて 邪槍を手に取った。



+  +  +



 天使は銀色の十字架を抱きしめて、天に祈る。
 周りを見れば仲間たちも同じようにして祈りを捧げている。

 朱い頬は幸せの色 天使達は祈る幸福を
 あの子が幸せでありますように
 あの母親に幸せが届きますように
 あの青年の夢が叶いますように・・・・・

 彼らは小川の水よりも、更に清らかな祈りを捧げる

 天使は幸福の屋敷に住む子どものために祈った
 善き夢が届きますように。 幸福が届きますように。
 それから少し考えて、天使は祈った。
 悪魔さんに幸せが・・・悪魔さんが幸せになれますように。
 銀色の十字架をそっと首に掛け 天使はハープを取り出した
 幸福を祈る 幸福を奏でる金色のハープ。
 天使は桜色の爪を輝かせ、祈りを捧げる。

 天使の奏では トチョウチョウ ニブオンプ
 それに合わせるように次々と、仲間たちも奏で始める。
 優しい光が天使たちを包み込み、彼らは神に祝福される。
 そして彼らは、人々を祝福する。
 そして、ヒカリの天使は、悪魔を祝福する・・・・―――――



+  +  +



 『悪魔さんが幸せになれますように。』

 邪槍を己の首に突き立てようとしたその時、頭の中に、甘い声とは違う優しい声音が響く。
 続いて、優しい音色が聞こえてきた。
 この音色を悪魔は知っていた。

 カタリ。

 悪魔の手から邪槍が離れ、落ちた。
 悪魔はその場に蹲る。

 “天使さん・・・”

 悪魔は常闇の翼を広げ、己を包み込む。
 黒いカナシミがその頬を伝い、青白い細い腕で己を抱きしめた。
 悪魔の頭に、もう甘い堕落の声は響いていなかった。
 天使の優しい音色ばかりが、悪魔の頭に溢れていた。
 悪魔は己を取り戻した。そして、気づいた。
 自分を殺してはいけない。自分を殺してしまったら、己の力を止められるものはなくなる。

 “この力が尽きるその日まで、私は私でいなければいけない”

 悪魔はふっと微笑んだ。
 そして、悲しみの湖に背を向ける。
 更なる嘆きの声は聞こえなかった。
 悪魔の翼に力はなく、けれども瞳は美しい色に輝いていた。
 悪魔の心には、天使のハープの音が響いていた。

 “力なんて要らない、だから奪わない”

 悪魔はそっと飛び立った。



+  +  +



 祈りの時間が終わっても、天使は奏でるのを止めなかった。
 祈りの場所から離れ、森へ帰るときも、天使は奏で続けた。
 桜色の爪は輝き、天使の祈りを悪魔に届ける。

 天使は二つの月が昇り三つ目の太陽が昇る日に、必ず丘へ行った。
 それは幸福な屋敷の子どものために。それは、悪魔に会うために。
 天使はあの日からずっと、一度も奏でることを止めなかった。
 来る日も来る日も奏で続けた。そうすることが幸福だったから。
 桜色の爪は輝き、けれども美しい指先は傷だらけだった。
 それでも、天使は止めなかった。

 “この奏でを止めてはいけない、そんな気がするのです。”

 天使は天を見上げた。美しい雲がはぐれて散らばっていた。美しい空。
 天使は祈りを捧げる。
 子どものために。悪魔のために。

 心配する仲間たちに、ありがとうと言い。
 奏でることが幸せなのだと、微笑んだ。
 楽しそうに。そうしていることが幸せであるかのように、天使は奏で祈り続けた。

 天使の羽は風に舞い、やがて地上に散らばった
 桜色の爪は色を失くし、幸せの頬は真っ白に
 それでも天使は幸福を奏で続けた。
 鮮やかなメロディーは、トオンキゴウ シブオンプ。
 音が弾かれ、甘い夢の希望を子どもに届け、
 なによりも悪魔の幸せを祈り続ける。

 “神様、僕は、金色のハープよりも 白い衣よりも
  そして、人々の幸福よりも、美しく悲しい悪魔さんを選んでしまった。
  それは大きな罪なのでしょう。
  けれども敬愛する神よ、僕はたとえ愚かと言われても、悪魔さんを護りたいのです“

 天使は祈り奏で続けた。
 幾度目かの二つ目の月が昇り、三つ目の太陽が頭上に輝く日に、
 あの日の悪魔が現れる日まで。―――――



 

第五章 ホントウノ幸福

第五章 ―ホントウノ幸福―


 悪魔は幸福の丘に舞い降りた。
 漆黒だった翼は色を失くし、限りなく白に近い色をしていた。
 それとは逆に、悪魔のルビーの瞳は、美しく輝いていた。

 悪魔はあの日から一度も、幸福を奪わなかった。
 不幸の力が底を突き始め、最後の力を振り絞るようにこの丘に来たのだ。

 幸福の丘に舞い降りて、悪魔は懐かしい音色を耳にする。

 聞こえる音は 天使の奏で
 金色の 幸福の音色は鮮やかに
 トオンキゴウ シブオンプ
 暖かな幸せを奏で続ける。

 悪魔は音に誘われるように、幸福の丘の上の森へと歩みを進める。
 いつもならば、幸福の屋敷の屋根に天使はいたのに。
 少し不思議に思いながら、けれども天使に会えることが嬉しくて、悪魔は歩みを進める。
 悪魔は何度も転びそうになりながら、森の奥へと進んで行く。
 そして、やがて少しだけ開かれた場所に出た。
 そこには大きな大木があって、その根元に背を預け、あの日の天使が座っていた。
 悪魔は迷わずに駆け寄った。
 今の自分にそんな力が残っていたことに驚いた。けれども、すぐにそんなことも忘れてしまっていた。

 「天使さん。」

 悪魔が天使の前まで来たことに気がついて、天使は微笑んだ。
 悪魔は微笑み返しながら、近づくことではっきりとしてきた天使の姿に、息をのむ。
 
 朱い幸せの頬は、白く染まり
 雪のように真っ白な羽は当たりに散らばり、
 桜色の爪は傷だらけだった。
 
 「天使さん!?」
 「おひさし、ぶりです。」
 「何が、何があったんですか!」

 悪魔は天使の手からハープを離し、傷だらけの手を己の手で包み込んだ。
 胸が締め付けられるように、苦しかった。
 悪魔の頬から、カナシミの黒い雫が零れ落ちる。
 天使は困ったように、苦笑した。

 「あなた、の顔を、見て・・、僕、は、自分、の愚かさ、に気づきました。」
 「天使・・・さん?」
 「悪魔さ、んの幸せ、を祈っていたは・・ず、なのに、今、悪魔さんを、悲しませてるのは僕・・ですね。」
 「・・・・・っ」
 「ごめん、なさい。」
 「・・・てんし・・さん・・・天使さん・・・天使さんっ!」

 天使のサファイアの瞳が閉じられて、くたりと力が抜けていく。
 悪魔は天使を抱きしめた。命の無い天使を。まだ暖かい。
 悪魔はいくつもいくつも、カナシミの黒い雫を零した。
 その雫は天使の白い頬に落ちて、消えてゆく・・。

 悪魔は自分の中で流れていた、天使の奏でを思い出した。
 あの音は、天使さんが私のために祈っていてくれたものだったんだ。
 悪魔はそれが嬉しくて、けれどもそれ以上に悲しかった。
 
 “私が不幸の力なくして、今まで生きてこられたのは天使さんの祈りのおかげだったんだ。
  私が・・・私が・・・天使さんの命を奪ったんだ・・・・“

 悪魔の頬からはカナシミの雫が滴り落ちる。
 けれどもそのカナシミは、もう黒くはなかった。
 黒い色はすっかり落ちて、悪魔のカナシミは、透明に輝いた。
 透明な悪魔のカナシミは、天使に落ちた。いくつも・・・いくつも・・・。

 そのとき、天使の体が光りだした。
 眩い清らかな光に包まれて、天使の体が悪魔の腕から消えていく。
 悪魔は必死で天使の体を抱きしめた。
 
 “どこにも連れて行かないで・・・お願い・・・お願いだから!”

 悪魔の願いは虚しく、天使の体は消えていった。
 悪魔はただただぼんやりと、天使のいた場所を見つめ続けていた。
 視界はぼやけて、にじんで、良く見えなかった。
 悪魔は天使のいた場所へと手を伸ばした。
 ぼんやりとした視界のなかで、真っ白に輝く光を見つけたから。

 真っ白な光は輝いて 悪魔の涙を拭い去る。
 泣き腫らした悪魔目の前で 白い光は花となる。

 悪魔の手は花に触れる。
 その瞬間、白い花は黒く染まり、花びらがはらはらと、柔らかな草の上に散らばった。

 悪魔は悲しくて、悲しくて、再び涙を零した。

 “私は悪魔なんだ。悪魔は・・・幸せにはできない・・・大切なものさえ、すぐになくしてしまう・・・”

 悪魔は色のない羽を広げ、己の体を包み込んだ。
 もう、全てが怖かった。全てが嫌だった。
 悪魔は全てを遮るように、羽の中で更に小さくなる。

 『泣かないで。』

 頭に誰かの声が響いてきた。

 “あの、甘い響きの声・・ううん、違う。
  もっと優しくて、暖かい声・・・・”
 
 『泣かないで、羽を開いて』

 暖かい声はなおも悪魔に囁きかける。

 “羽を?嫌よ。私は悪魔だから。また、大切なものが消えてしまう。”

 『大丈夫だよ、君はもう悪魔なんかじゃないよ。』

 悪魔は首をかしげる。この声は何を言っているんだ。
 自分は悪魔だ。人を不幸にし、自分の大切なものさえも不幸にする存在。
 暖かい声は耳に心地よく響く、けれども悪魔は開けなかった。
 怖かった。勇気が出なかった。

 『大丈夫。大丈夫だから。』

 その時、暖かいものが悪魔の翼に触れた。
 懐かしい温もり。
 同時に、悪魔の頭に、優しい奏でが響いてくる。

 金色のハープの幸福の音
 トオンキゴウ シブオンプ
 優しく美しい 春の陽のような音色は
 悪魔の不安を優しく包み込んでいく・・・・

 悪魔は恐る恐る羽を開いた。
 そして、大きく目を見開いた。

 「天使・・・さん?」

 栗色の巻き毛 幸せの朱い頬
 純白の翼を広げ、光の天使が立っていた。

 「ありがとう。」
 「・・・・。」
 「悪魔さん・・・ううん、君のおかげだよ。僕が今ここにいられるのは。
 それにね、見て。もう、君は悪魔じゃないんだよ。」
 「え?」

 悪魔は自分の手を見た。青白くて、爪の尖っていたはずの手は柔らかな真っ白な手になっていた。 それから、羽を広げてみた。羽は光の天使と同じ、白い優しい色をしていた。
 悪魔は何が何だかわからなかった。
 わからなかったけれど、一つだけわかったことがあった。

 「天使さん。私、今とっても幸せ。すごく幸せです。」

 悪魔は天使の手を取った。天使はにっこりと微笑んで、言った。

 「これからは、一緒に色んな人たちの幸福を祈れますね。」
 「そうですね。」

 穏やかな風が吹いて、二人の天使を包み込むように吹き抜けていった。
 幸せの丘の緑の大地は、夕焼け色の陽に照らされて、黄昏色に輝いた。

 光の天使の祈りは輝き
 哀しみの悪魔は光の力を授かった。
 二人の天使は喜びを、トオンキゴウ シブオンプ
 奏で歌って メロディーを
 幸福の限りに紡ぎだす。

 二人の天使は飛び立った。まだ明るい、オレンジ色の空の向こうへと――――


 END



 

天使と悪魔

 
 大好きだから護りたくなる。大好きだから、その人のために。
 その人のためならば、自分はどうだって良い。
 ついついそんな感じになってしまうことがあります。
 でも、大好きな人を幸せにするために・・・ではなくて、大好きな人と共に幸せになるための方法を、考えることが大切かなぁと。
 
 『哀しい悪魔』の物語は、これでおしまいです。
 ほんの少しでも、心にこのお話が残っていて下さったら嬉しいです。
 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 
 2012年 2/3 修正 嘘つきだぁく(南折 涙)

 (※2009年にHP『ジユウノウミソラ』にて掲載したものです。)

 

天使と悪魔

「人を不幸にすること」それが、神様が悪魔に与えた使命である。 本来悪魔はその使命に罪悪感を覚えることはない。それが彼らの役割であるからだ。 しかし、ある一つの悪魔――哀しい悪魔は自分の使命に罪悪感を覚え、人を幸せにする天使に憧れを抱く。 そんなある日、哀しい悪魔は幸福の天使に出会い、幸福の天使は哀しい悪魔に出会う。 二つの混じることの無かった運命が交差し、二つの運命は変わっていく。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章 ヒカリノテンシ
  3. 第二章 悪魔のカナシミ
  4. 第三章 セツナノコウフク
  5. 第四章 イノリノテンシ
  6. 第五章 ホントウノ幸福