ウイリーの風
白い夜霧が山に漂っている。素晴らしい風が吹いている。それらの全ては単車に跨る三人のために存在していた。キリコ、ゼロ、ナナメの三人は夜であり、山であり、風であり、単車だった。三人は福岡市城南区の南端に位置する標高597メートルの油山でワインディング――いわゆる峠攻めをしていた。
清々しい汗をかきながらつづら折りの山道や吊り橋を走り終えて、頂上に辿りつく。福岡随一の夜景スポットと呼ばれる場所なのだが、今日はいくらか空いているようだ。少数の、夏姿の若い男女たちの人影が闇に溶け込んでいる。ひそやかな囁き声がちらほら聞こえる。九州全域は冷夏であるにも関わらず、ここは熱っぽい淡紅色の夏になっている。
全身黒ずくめの三人がその中を単車で通り抜け、広場に併設された駐輪場に到着した。この付近だけは夜間でも申し訳ばかりの照明が灯っており、ほのかに明るい。
十九歳のファッションモデル、キリコはデビル管を装着したGPZ900Rニンジャを駐輪場に停めた。ヘルメットを外すとアプリコットブラウンの長い髪を両手でなめらかに梳き、華奢な両肩にさらっと流した。触れてはならぬような禁断の美しさを誇る両脚を細く開く。両手を星空の輝く真上に伸ばしながら夜風に当たる。黒のローライズパンツと黒のタンクトップは、びっしょりと玉のような汗で濡れており、艶めかしい。
キリコの横で、二十歳の大学生ゼロと二十二歳のヴィンテージ古着屋オーナーのナナメが談笑している。二人は夏にも関わらず黒のライダースジャケット、黒のモーターサイクルパンツに身を包んでいる。季節が冬でもないのによく似合っているのは、まだ若いながらもバイカーとしての年輪を着実に重ねたせいだろう。彼らは暇さえあれば単車にしがみつく。稼いだ金は部品の買い替えにあてられ、より優れたマシンへと鍛え上げられる。
二人にキリコは色っぽく流し目を送り、
「ちょっとこっちに来て」と言いながら手招きした。
キリコは駐輪場脇のまだら石のベンチに腰を下ろす。石の上に溜まった夜露がローライズパンツを湿らせる。そのまま尻の割れ目に、じゅん、と冷たく官能的に伝う。
すると暗い中、ひときわ白い汗の湯気を立ちのぼらせたナナメがキリコの元に近づく。
「どうした」
「面白い技なにかやってほしいな」
「適当になにかやってやるよ。ジュースでも飲んでろ」と野太い声で言った。
キリコの座るベンチの前を旧式のハーレーで時計回りに走行し始める。ナナメは巨漢だ。まるで野生の熊が単車を操縦しているようにも見える。おつむのほうは単細胞である。反対に後部座席に跨るゼロは北海の狐というふうな顔立ちで身体は痩せている。元々はクールで狡賢い男だったが、ナナメに出会った影響により能天気で愛嬌のある性格に近づいている。
その狐っぽいゼロが熊っぽいナナメに耳打ちする。
「キリコの可愛らしいリクエストにお答えしますか。どうせやるなら、アレ、を見せてやりましょう」
「アレってなんだよ」
「ウイリー」
「おいおい。重量のあるハーレーでウイリーする馬鹿はいないだろ」
「誰もやってないからこそトライしたくなるじゃないですか」
「いくら俺でも間違いなく転倒しちまう。キリコのニンジャでやろうぜ」
即座に二匹の野生動物はキリコのニンジャに跨り、ウイリーに興じた。ウイリーというのは単車の前輪を高く上げて、後輪だけで走る妙技だ。彼らは卓抜とした運転能力を持っている。映画「マッドマックス」が生み出した技マックスターンを特に好み、その他にも豊富な技を力強く流麗にこなす。
二人を見つめるキリコの胸はときめいている。キリコは単車に乗り始めてまだ半年だ。乏しい技術しか持たず、人目を引くような洗練された走りはできない。だから目の前で無邪気にハーレーをよどみなく乗り回す二人を熱心に見つめる。二人の男らしい逞しい背中に憧れ、自分もあんなふうに乗りこなしてみたいと感じている。
尊敬という名の甘い視線を送るキリコに二人は気づいたらしい。ニンジャをベンチの側まで寄せた。
熊っぽいナナメが、
「キリコにも教えてやろうか?」と右手の人差し指を前後にちょいちょいと動かして言う。
狐っぽいゼロが、
「修行が必要なアクロバティックな技だけど、単車に乗るのがもっと楽しくなるよ」と慇懃な声で言う。
ウイリーの手解きをしてほしいとキリコは思った。虚飾のない率直な気持ちである。しかし二つ返事とは程遠い表情になってしまう。ウイリーをするほどの自信と技術が育っていない。下手に取り掛かっても、大事な単車を壊してしまうかもしれないし、なにより二人が心配そうな顔を自分に向けてくるのは避けたい。もう少し慣れてから挑戦したほうがいい。
「まだアタシには無理よ、遠慮しとく。それに二人とも走り足りないんでしょ。時間は充分にあるんだから一勝負でもしてきたら。ゼロが私のニンジャに乗って、ナナメはハーレーに乗ってさ」
二人は眼を見交わした。キリコの提案に満更でもない顔をしている。
「ナナメさん。俺にニンジャを運転させてください。ハーレーはナナメさんのマシンだし乗り慣れているでしょう」
ニンジャから降りたナナメは得意げな顔で言う。
「ほら乗れよ。どっちが勝つかは既に決まっているけどな」
「僕の修理中のスティードはポンコツだからいつも負けますけど、キリコのニンジャは素晴らしいマシンだ。今日こそ勝てるかもしれない」
「いきがっても無理だぞ、ゼロ君」
「ナナメさん。峠の声が聞こえますか。今日の勝負はゼロが勝つよ、っていう声が」
「ほお、それは凄い。俺にも峠の声が聞こえたよ。ゼロ君は負けた腹いせにキリコの前で素っ裸になって膝枕してもらって慰めてもらう、っていう崇高な声がな」
「それはナナメさんの結末ですよ。あなたは僕に負ける」
三日月の淡い光が射す中、熱いバイカーである二人の会話をキリコは楽しみながら聞いていた。彼らのとりとめのない話を聞いていると、昼間のファッションデザイン専門学校での実習の疲れが取れる。休日出勤で活動しているファッションモデルの仕事では、所属先の他の女たちに後ろ指をさされることも多いから、二人と一緒にいる時間は清涼剤そのものだ。
「アタシがスタートの合図をするから二人とも準備してね」
ニンジャとハーレーが横並びになり、騒々しいエンジン音を撒き散らす。闇に溶け込んだ人々は話し声を静め、押し黙ったまま視線をゼロとナナメにやっている。雲海のような白い排気ガスが夜霧と混じり、周囲に立ち込めた。
キリコはシャネルのバックからごく庶民的な、朝顔と金魚の絵柄が入った団扇を取り出し、柄を握った。団扇を開始の合図のフラッグシップに見立てて、婉然とした手つきで膝下までさげる。
二人の単車の間に割って入り、堂々と中央に立つ。キリコはさながらレースクイーンのようだ。にわかに緊張の渦となった油山の頂上でキリコの秒読みが始まる。
「三……二……一……」
団扇をずばっと空を斬りつけるように振り上げて、
「スタート!」とピストルの発射音に似せた声を出した。
その瞬間、二人の単車は凄まじいスピードで走り出す。テールランプが蛍火のように左右に揺れて光る。光は遠ざかり、二人の勝負の匂いと単車の油の匂いだけがキリコの鼻に残っていた。
二人の姿が完全に見えなくなった。再びキリコはまだら石のベンチに腰を下ろした。タンクトップの裾をわずかにまくる。団扇で、露出したすべらかな素肌に山の匂いと風を送り込んだ。
夜も深まり、人のひそやかな囁き声が疎らになっていく。次第にキリコの耳には人の声がひとつも聞こえなくなった。微風に揺れる葉のそよぐ音だけが耳に残る。キリコは夜と山の静けさに身を任せて、和やかな気分になっていた。
眼を閉じると、まぶたの裏に二人の生き生きとした横顔が鮮明によみがえる。熊と狐の闘いの行方はどうなっているのだろうか。それを思うと胸が熱くなる。キリコは彼らの走る姿が好きだ。それも大きな花丸付きで大好きなのである。
数分ほどキリコが心地よい気分に浸っていると、唐突にベンチの後ろから、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃという奇声が静寂を切り裂き、誰とも知れぬ人間の太い腕がキリコの首に回された。がっちりと強靭な力で締めつけられている。謎の人物のほうを振り返ろうとしても、腕によって首が固定されており、動けない。一歩も、動けない。前方の森閑とした闇を眺めることしかできず、粟立つ肌に冷や汗が流れ出す。
相手を目視できない恐怖に反応して足が、膝が、腹が、首が震え出す。締めつける腕の力が増していき、意識がまるで幽体離脱するかのようにすっ飛びそうになり、喉元が苦しくなる。反射的に低い声で、あああああと呻いた。
キリコは何が何だかわからないといった困惑の表情を浮かべ、両手を使って腕を振りほどこうとした。しかしどんなに力を込めても密着したまま離れない。
――ガチャ、ガチャ。
出し抜けの謎の音とともに、手首に冷たい重みが加えられた。金属質の感触だ。
――ガチャリ、ガチャリ。
続けて聞こえた謎の音とともに、両手の親指にも冷たい重みが加えられた。これも金属質の感触だ。
竦めた首を下方に向けて、夜目で両手を見つめた。そこには銀色の手錠と指錠がはまっていた。ドラマや映画や漫画や小説に登場する虚構の道具ではない。圧倒的にリアルな、ずっしりのしかかる重量が確かに感じられる。月明かりを薄く照り返し、月と同じ色で光っている。これは紛れもなく本物の拘束具だ。
キリコは両手を意識的に凝視して、こう思った。
――嘘でしょう? 嘘でしょう? 嘘でしょう?
またこうも思った。
――どうしてアタシが? どうしてアタシが? どうしてアタシが?
背後に立つ謎の人物が、呆然とするキリコの耳元で囁く。
「無防備も無防備だな」渋みのある、冷酷な男の声である。
「あなた誰よ。やめて。誰か助けて」
「もう皆明日の仕事や学校のために家に帰っているはずだ。ここには私達以外には誰もいない」
「そんな。誰か助けて」
キリコの叫びに返答するのは、野鳥のさえずりと虫の鳴き声のみで、人の声は一切しなかった。
「ほら。誰もいないだろう」
「いやよ、そんなのいやよ。ねえ、やめて。お願い、やめて」
謎の男はキリコの問いかけには応じず、余った手でキリコの後頭部を押さえつけた。節くれだった五指でキリコの髪をもみくちゃにする。頭上はまるで洗濯機の攪拌のようだ。
キリコは謎の男によって身体を反転させられた。
今キリコの目には、四十代くらいの醜い男の顔が映っている。醜い男の顔はどこか様子が変だった。眼を凝らしてみると、顔全体の三分の一が焼け爛れている。唇は厚さがなく非常に薄い。頬は日焼けの痕のようにまばらな色合いになっている。鼻はひん曲がり、まるで豚の鼻のように見える。火事にでも遭ったのだろうか。それとも火傷でもしたのだろうか。キリコは思わず顔を背けた。
身体と身体が触れ合う距離だが、キリコは足元から頭にかけて一通り視線をやる。醜い男の格好は暗いのであまり判然としないが、紺色の背広に草臥れた黒の革靴を履いている。
醜い男は非常にゆったりした口調で言う。
「やっぱり綺麗だ。雑誌で見るよりも断然、断然綺麗だ」
乱暴な腕の中でキリコは男の妙な言葉――雑誌で見るよりも――が頭にひっかかった。
「……なぜアタシのことを知ってるの?」
「よく知ってる。私がキリコさんのことを一番よく知ってるよ。タウン誌のファッションモデルをやってるキリコさんだろう。毎月読んでるからな。他の雑誌もチェックしてるよ。全て欠かさずにね」
さきほどと同じでキリコに語り聞かせるかのような話し方だ。耳の穴に、知りたくもない言葉の連なりがじわりじわりとやってくる。耳の奥深くに、おぞましい生きた動物のように蠢く男の言葉が棲みつく。おぞましい言葉はキリコの顔を陰鬱に曇らせた。
「ファンならこんなことしないで」
醜い男は眼をぎらつかせ、口の端で卑しく笑った。
「ファンだからやってしまうんだよ、キリコさん。あなたは美しすぎる。ローカル雑誌のモデルをやっているのが嘘にしか見えない」
平凡な日常生活の中であるならば、街角で偶然ファンに声をかけられて綺麗だとか美しいと言われるのは悪い気がしない。キリコはそこまで有名なモデルではないから、どちらかというと気分がいいものだ。しかし変態的な行動に走っている奇矯な男に言われるのは、吐き気をもよおすほど嫌になる。
「これ以上もうなにも喋らないで」
醜い男は意に介さず、余った手をキリコのタンクトップの裾に差し入れる。忍び寄る汚れた手が腹部を下から上へとなぞる。ついにキリコの豊満な乳房をがさつに揉み始めた。
「あなた最低よ。最低の中の最低よ」
尻すぼみの声を洩らしたあとに涙が溢れ出る。涙の粒は目尻からすうっと筋となって流れ出し、頬を伝い、顎の下限まで到達するとアスファルトにこぼれ落ちた。
「最高だ。キリコさんの身体に触れている。最高だ。泣いている顔は格別にそそられる」
「……あなた誰にでもこんなことをしているの?」
感極まっている醜い男は急に落胆したような表情を見せた。
「誰にでもするわけがないだろう。キリコさんだからするんだ。私はこの瞬間を本当に待ちわびていたよ。キリコさんは滅多に一人にならないからね。朝と昼はファッションデザイン専門学校に通い、夜はあの二人と常に一緒だから全く隙がない。休日にはモデルの仕事をしているから更に隙がない。日頃夜道をつけ狙ってもキリコさんの住んでいるマンションは四六時中人の多い天神にあるから襲うには無理がある。私は悲しかったよ。キリコさんが私のために中々一人になってくれないことにね。しかし遂にチャンスがきた。あの二人が単車で勝負するためにキリコさんから離れたのは僕にとって最大のチャンスだった。しかも深夜の誰もいなくなった山の中だ。キリコさんと私だけの山。そう二人だけの山だ。この瞬間を待っていた」
醜い男の腐った欲望にキリコは戦慄した。日常の行動を把握されている。当然気味が悪かった。しかしもっと恐ろしかったのは、息を継がずに早口でまくしたてられたことだ。それまでの遅い話し方が突発的に早くなる変貌ぶりは異常に思えた。落差が激しすぎてひどく不快だった。粘着質なその声は耳障りを一層強くさせる。
情緒が不安定になっている醜い男を刺激しないように、よく吟味した言葉で喋ろうとキリコは思った。しかしその考えはすぐに蒸発した。乳房をいやらしくまさぐる穢れた手が許せない。
「あと何十分かしたら二人とも帰ってくるわよ。そしたらアンタなんか二人にボコボコにされるわ」
自分の身体の大切な場所をいたずらに触られたことに対する怒りだった。身の安全を考えればもっと適切な言い方を選んだかもしれない。だが女としてのプライドがそうさせなかった。キリコは正真正銘の処女だ。まだどの男にも身体を委ねたことはない。憎々しい感情が湧き上がる。
キリコの挑戦的な言葉を男は眼だけで笑って受け流す。
「大丈夫。駐車場に車を置いてあるから。さあ、山を離れてもっと魅力的な別の場所へ行こう。そしてたっぷり楽しもう」
そう醜い男が言うと、どうしたわけか首に回されていた腕の力が次第に弱くなった。キリコは閃いたように、今この瞬間に逃げるしかない、と感じた。全力で走ろうとした。しかし足に力を込める前に、羽交い絞めにされた。
逃げ出すのに失敗し、怒りや勇気や希望がむら消えた。どうにか正常な思考を保つ。のっぴきならない事態に活路を開こうとキリコは思った。
背後から醜い男が邪気を含んだ生ぬるい息をキリコの耳元に吐き、囁く。
「逃げられるって思ったのに逃げられないのって最高にいいよね。そうそうその調子その調子。美しい顔から美しさが失われていくのは快感だ。一切の喜びがないその顔。私は君の美しい顔を歪ませることに生きがいを感じる。僕と同じ顔にしてしまいたい。この焼け爛れた顔と同じ醜さを与えたい……そうさ娘と同じ君にね」
――そうさ娘と同じ君にね。
疎ましい言葉の羅列の中、謎めいた不可解な言葉にキリコは首を捻る思いだった。娘と自分の何が同じだというのだろうか。出会ったばかりであるから醜い男の家庭事情を知る由はない。与り知らないことに立ち入るのは危険だ。深く問いたださないほうがいいだろう。
「お願い。もう喋らないで。あなたの声、本当に聞きたくない」
「わかった。いまは、もう喋らないよ。続きは別の場所で話してあげるよ」
羽交い絞めにされたままキリコは駐輪場のほうへと連れて行かれ、車の前までやってきた。車はジープ・チェロキーだった。
この車に乗ってしまえば後戻りは出来ないだろう。
キリコは思う。乳房を揉まれたあとは拉致、その次に待っている世界は――きっと男の欲望全てが自由に解禁された、操り人形にされるだけの希望がない世界だ。
抵抗のできなくなったキリコは諦めていたが、その時、後ろから眩しい白い光とオレンジ色の光が縦長の線となってアスファルトに伸びてきた。キリコと醜い男の背中を鮮やかな色彩で照らした。何台かの車両のエンジン音が聞こえる。
このエンジン音は紛れもなくニンジャとハーレーの唸りだ。
絶望の淵を彷徨っていたキリコの表情にわずかな希望がよみがえり、
「ゼロ! ナナメ!」甲高い声で叫んだ。
木々に群がっていた野鳥が羽音をバサバサと立て、飛び去った。
醜い男は首を後ろに向けて、エンジン音の方角を悪意に満ちた眼で凝視した。
「予想外だな。だがまだ距離がある。追いつけまい」と焦りを感じさない口調で言った。
キリコを羽交い絞めにしたまま醜い男は敏捷な動作でドアを開けた。すぐに拉致を敢行できるように車のキーはつけたままらしかった。そのままキリコを後部座席に押し込めようとした。
しかしキリコは踏ん張る。思いがけないゼロとナナメの出現にキリコは励まされ、勇気が息を吹き返した。助けてもらうための時間を捻出しようと試みる。ドアに完全に押し込められないように、両足を車体の下部とアスファルトの間にできた隙間に入れ込み、踏ん張る。両足の筋肉が痙攣しながらも、一心に願う。
「ゼロ! ナナメ! はやく助けて!」
「キリコさん。素直に観念したほうがいいよ。彼らは間に合わない」
大便が漏れると告白したナナメのせいで、単車の勝負は数分でお預けになっていた。ナナメとゼロは頂上の公衆便所を目指して単車をかっ飛ばしていた。駐輪場が目前に迫っていた。
情けない表情をしたナナメが大声で言う。
「漏れる漏れる漏れる漏れる。もう我慢できない。実が出るかもしれない。あっ、屁が出た」
「あと少しの我慢ですよ。あれ? ナナメさん、あそこにいる二人の中の一人ってキリコの後姿に似てませんか。なんだか様子が変ですけど」
ゼロは、距離にしておよそ五十メートル先にいる醜い男とキリコに気がついたらしい。
「あああ? キリコ? こっちは肛門の具合が心配なんだよ。話しかけるんじゃない」
「いや本当に様子が変なんですよ。どうも怪しい仕草をしているというか。ちょっぴり淫らな感じです。ライトが届かないので、しっかり見えませんが」
しつこく言ってくるゼロにナナメは辟易したようだ。だが気になったらしくキリコのいる方へ視線をやった。
「ちっ、こっちは大便のことで頭がいっぱいっていうのに。あっちはより最悪な事態だな。あれはたぶん拉致だ」
面食らったゼロがどもりながら喋る。
「ほ、本当ですか。もう間に合いそうにないですよ。このまま追走しますか。それともナンバープレート控えて警察に連絡しますか」
厳しい顔つきになったゼロが睨むような眼をして、
「ウイリーで突っ込む」ときっぱり言った。
「はああああ? ハーレーでウイリーする馬鹿はいないって言ったのはナナメさんでしょう。突っ込んでどうするんですか。死ぬかもしれませんよ」
「そんなものは時と場合による。車を破壊して動きを一瞬でも止めたほうが手っ取り早い。一番簡単に済む。大便は漏れるかもしれんがキリコの命には変えられん」
二人が話している間に、醜い男はキリコを車内に押し込んだ。そのまま運転席に乗り込み、ヘッドライトを点けて今にも発進しようとしている。単車から降りて救出に向かっても、逃げられるだけだろう。
「僕も覚悟を決めました。ウイリーで突っ込みましょう」
「いやお前はしなくていい。俺が突っ込む。お前は車が止まった隙を狙ってすぐにキリコを連れ出せ」
「でもナナメさん」
「俺が何かに失敗したことはあるか。信じろ」
「いっぱいありますけど信じます」
「よし決まった。派手に大便漏らしてやるぜ」
体当たりを決意したナナメの表情は全く曇っていない。キリコとゼロの兄貴分としての責任がそうさせているのだろう。困難から逃げるという選択肢を排除した男の気迫が漲っている。
ナナメの操縦する旧式のハーレーは、アメリカ西海岸の凄腕のバイカーから譲り受けた代物で、尋常ならざる改造が施され、まさにバケモノ級のマシンと化している。有名なモーターサイクル雑誌に表彰された逸品だ。ハーレーは風を切りながら徐々に加速していき、ジープ・チェロキーへと迫る。その距離およそ残り三十メートル。
「やるしかないな」
ハーレーの前輪がわずかに浮かび、傾斜角10度。更に浮かび、傾斜角20度。もっと浮かび、傾斜角30度。遂に傾斜角40度ほどを保ち完璧なるウイリーでジープ・チェロキーの助手席の窓ガラスに突っ込んだ。ナナメは激突する寸前を見極め、頭を抱えて身体をアスファルトに投げ出した。ラグビボールのように複雑な回転でのたうつ。全身の裂けた皮膚から血を流して白い夜霧の這う闇に倒れ込んだ。ナナメは化石のように動かなくなった。
時を同じくして無人のハーレーは助手席のガラスを豪快に突き破った。前輪が醜い男の顔を引き裂こうとしたが、あと一歩届かず、そのまま控えめに赤々と燃え出した。
穏やかに、しかし不気味に燃えるハーレーの前輪。それを見て心底驚いたであろう醜い男は運転席から慌てた様子で降りた。そして震えながら白眼を剥いてアスファルトに倒れ込んだ。
一方、ゼロは砕け散った助手席の窓ガラスの穴に身体をねじ込み、車内に侵入していた。車内はハーレーが吐き出し続ける黒々とした煙で充満しており、濁っていた。オイルの臭気が全体に溢れていた。後部座席に病的な顔になっているキリコを発見し、ゼロはたじろいだ。
「おい。しっかりしろ。動けるか」
「うん。動けるよ。なにもされてないから」
キリコの銀色の手錠と指錠が目に入ったゼロは怒り心頭したのだろう、鬼の形相だ。明らかに殺気を込めた眼は血走り、鈍く輝いている。
「あの野郎、この俺が、ひき殺してやろうか」その声に偽りは感じられない。
助けに来てくれたゼロにキリコは感謝していた。しかし本当の殺意を抱いた人間を前にして、思わず眼をそむけた。横眼でゼロを見るとやはり気が立っている。すぐに銀色の手錠と指錠つけた両手でゼロの胸を何度も叩いて、揺する。
「だめよ。あとは警察に任せよう。ね、警察に任せようよ。もう充分だよ」
「いや俺があの野郎を殺す。俺は後ろで見てたんだ、ナナメさんが猫や犬みたいに地べたに這いつくばる瞬間を。俺があの野郎を殺す」
ゼロの頭の中は殺すという文字に支配されているかのようだ。キリコはそれを恐れた。醜い男は一人ではなかった。ここにもまた一歩間違えれば醜い男になりかねない男がいる。どうにかしてゼロの眼を覚まさねばならない。
キリコは、はっと思いついたようにゼロの唇に優しいキスをした。距離のない、唇と唇が触れ合ったままの状態で言う。
「助けに来てくれて嬉しかったよ。でもアタシ殺すことなんて望んでないよ。だからもういいよ。もうその怖い顔を見せないで……」
ゼロの表情から殺気が消えた。
「変な真似するなよ」
「落ち着いた?」
「ああ。悪いけど手錠を解くのは後回しだ。キリコはナナメさんを見に行ってくれ。倒れ込んでるからすぐわかるはずだ。僕はあの野郎が逃げないように見張っておくから」
「よかった元に戻って。俺って言ってるゼロ、怖かった」
キリコとナナメはそれぞれ車内から出て、目的の方向へ急いだ。
ジープ・チェロキーの傍らに血みどろの化石に成り果てたナナメが、歪んだ大の字になって倒れている。アスファルトに接したゆえの摩擦によるものだろうか、顔は煤色になっている。また顔中におびただしい裂傷が見て取れた。幸い厚手のレザージャケットとモーターサイクルパンツが身体を保護していたが、それでもなお四肢の損傷は激しい。ナナメの被っていたジェット型ヘルメットはパズルのピースのように破片となって散らばっていた。
わなわなと肩を震わせるキリコはナナメに身を寄り添った。普段の逞しいナナメの面影は、顔からも匂いからも感じられなかった。あるのは不吉な予感だけだ。
「ナナメ。起きて。早く眼を開けて」
反応はない。
「ちょっと、起きてよ。ねえ、起きてよ」
反応はない。
「どうしたの、起きれるでしょ。ねえ、起きてよ」
反応はない。
「起きて!」
ナナメのまぶたが幽かに、ぴくりとあるかなしかの動きをみせた。そしておもむろに眼が開く。
「…………ああ、キリコか」
「よかった。すぐに病院に連れて行くね。救急車を呼ぶわ」
「ばか。単車以外の乗り物に俺は乗らないぞ。単車以外の乗り物はクソだ。それにこんな怪我は慣れている。昔何度も海岸のガードレールに突っ込んだことあるしな。ははは」
「笑い事じゃないわよ。すぐに救急車を呼ぶわ。それまで待ってて」
シャネルのバックから携帯電話を取り出した。キリコは救急車を呼んだ。深夜かつ山中なので来るには暫く時間がかかるとのことだった。また最寄りの交番にも連絡を入れ、こちらも若干の時間がかかるとのことだった。
そうしている間に、ゼロと醜い男が連れ立ってやってきた。ゼロは醜い男の首根っこを掴んでひきずり回したあとに、キリコとナナメの傍らに投げ飛ばした。醜い男は先端の欠けた小石のように転がった。するとしょんぼりとした顔をして、乱れた姿勢で地面に座った。
醜い男を見下すようにゼロが言う。
「さあ早くキリコの手錠と指錠を外せ」
醜い男は背広のポケットから鍵を取り出し、ゼロにおろおろとした手つきで渡した。
キリコの手首の自由を奪っていた手錠と指錠がゼロの持つ鍵によって外された。不自由を強制した鎖はもうないのだ。キリコは開放感に包まれ、不安がやっと身体から離れていくのを感じた。掌を握っては開き、握っては開いて自由をその手に掴み返していた。
そして少しだけ平常心を取り戻すと、キリコは醜い男のことを考えた。彼の行動というのは紛れもなく悪質な、行過ぎた、偏執的な愛によるものだ。越えてはいけない一線を遠慮なくかいくぐる人だ。リミッターの外れた可哀相な人だ。制限のない欲望を自分勝手に振り回す愚かしい人だ。
ストーカー行為や拉致を行う人間。それは新聞記事やニュースなどでよく耳にする。一般人も芸能人もスポーツ選手もみな均等にその恐ろしい機会に遭うかもしれない。そして地方のしがない雑誌モデルである自分にも魔の手が及んでしまった。
誰でも――誰の身にでも悲劇は突然やってくる。悲劇は普通なら避けるのは難しい。
それを避けることができたのはゼロとナナメの二人がいてくれたからだ。男らしくて、強くて、最高に輝いている二人。血は繋がっていないけど兄弟のような繋がりがあったからこそ避けることができた。
キリコは安堵した表情で言う。
「ゼロ、ナナメ。本当にありがとう」
ナナメがくたびれた声で言う。
「礼を言う暇があったら俺の肛門をどうしかしてくれ。糞まみれだぜ。ふはははは」
苦笑いとも失笑ともつかない顔をしたゼロが言う。
「まったくナナメさんにはかなわない。ところでこのおっさんどうしますか。単車の後輪に括りつけて引きずり回しますか。それともこれでもかってくらい殴り倒して山中に埋めますか」
依然としてやや興奮気味のゼロをキリコが制する。
「ゼロ、言ったでしょ。もういいよって」
「……わかってるよ。僕はもう冷静だ。後始末は警察に任せよう。でもその前にこのおっさんに色々聞かないといけない。おい、おっさん。どうしてキリコを拉致しようとしたんだ。恨みでもあるっていうのか」
頭を抱えたままの醜い男は身体を震わせているだけで、口を開こうとはしない。キリコにはその姿がひどく憐れに思えた。数分前までは欲望の権化になっていたとはいえ、歪んだ行動力に溢れた醜い男は大きな存在だった。しかし今はひときわ小さく見える。取るに足らない卑小な、まるで修理不能の壊れた玩具のように感じる。
不思議とキリコは同情したくなった。身体を辱められても、気の優しいキリコは男に情けをかけられずにはいられなくなっていた。
キリコは、ゼロ、ナナメ、醜い男の三人それぞれに眼をやりながら話し出す。
「アタシの話を聞いて。この人はやり方を間違っただけなんだよ。たぶんファンの心理っていうのかな。憧れてたり、ちょっと気になった人に近づきたい気持ちって誰にでもあると思うの。彼はその思いが強すぎたのよ。だから写真だけでは飽き足らずに直接、アタシをさらおうと決心した。それは悪いこと。許してはいけないこと。でも同時に思ったことがあるの。アタシは大したモデルじゃないと自分で思ってる。でも彼はそんな目立たないアタシのことを凄く知ってた。凄く知られているっていうことは素直に嬉しい。でもそれが悪い方向に働くことはしてほしくなかった。普通に話したりするだけならいつでもよかったのに。アタシはそう思うの」
一陣の風が吹いた。木々はざわめく。木下闇の中、枝の撓る音、葉擦れの音が四人の耳に向かって駆け巡る。夏の涼やかな風が傷ついた身体と心を癒していく。
その時、だらしなく横座りしていた醜い男が、不意に上体を起こした。二度三度と深呼吸をした。これまでのぎらついた眼ではなく、穏やかな眼になっていた。なにかしらの心情の変化があったとでもいうべき晴れやかな顔になっている。
「あっはっはっはっはっ。キリコさんの顔は美しいが、頭の方はとても悪いようだね。とんだ思い違いだよ。思い違いも甚だしい。それに私を気遣うなんて相当なまぬけだ……私を気遣うなんて本当にまぬけだ……本当に……本当に……心の美しい女性だ……」
醜い男は空を振り仰ぎ、弱々しい光を放つ三日月を見つめた。すると晴れやかな顔から脱力したような顔つきになり、目尻から涙を流し始めた。
キリコにはその涙が薄汚れたものには思えなかった。醜い男は涙を流すことで、自分の心の中にあった歪んだものを外に捨てようとしているのかもしれない。脱力したような顔になっているのは罪を認めたせいかもしれない。そう感じさせるだけの美しい涙だった。
だとすれば今ここにいる醜い男は、さきほど突如として襲ってきた強姦まがいの野獣ではなく、野獣の仮面を外した平凡な、どこにでもいる四十代の男に戻っているかもしれない。
今ならこちらの知りたいことを聞き入れてくれるかもしれない。キリコには二つの疑問があった。
襲われている時に一番激しく感じていたこと。
――どうしてアタシが? どうしてアタシが? どうしてアタシが?
もう一つは醜い男が謎めいた不可解な言葉を口ずさんだこと。
――そうさ娘と同じ君にね。
この疑問を解く機会は今しかない。警察が来る前に訊いておきたい最大の関心事である。
「ねえおじさん。どうしてモデルは沢山いるのにアタシを選んだの。アタシより綺麗で可愛い子は沢山いるわ。アタシじゃなきゃいけない理由があるなら教えて。それに、おじさん言ったよね。そうさ娘と同じ君にねって。あれはどういうことなの」
三日月を眺め続けていた醜い男は感傷に浸るのを止め、キリコの方に向き直った。
「……その質問には答えよう。むしろ別の場所で話すつもりだったよ。こんなところで話していては時間がいくらあっても足りないからね。だがその必要はもうない。……今から三ヶ月前のことだ。朝まだき、私は多端で忙しい仕事を片付けるために家を出た。地下鉄に乗ろうと改札を抜けようとした。その折、地下鉄の柱に張り出されていたブランド用品の販促用ポスターが眼についた。ポスターにはキリコさんが可憐に写っていた。その時最初に感じたのは……数年前に死んだ私の娘の姿にそっくりだったということ。父子家庭だった。父子家庭というのは世間に温かい眼で迎えられないものでね。だから娘は早急に自分を変身させたよ。誰からでも好かれる子に、誰にでも優しくする子に変身した。いわゆる八方美人というのかな。誰にでも如才なく振舞うことは行き場のないストレスを増長させる。ある日、娘のストレスは私に向かってきた。恐ろしい手段ばかりだった。……フライパンの中にサラダ油を大量に注ぎこみ、180度に加熱した液体を私の頭へ遠慮なくかける。鼓膜が破れるほどの罵声を私に浴びせる。出刃包丁で幾度も私の全身を刺そうと試みる。他にも様々な手段を用いて私を苦しめた。肉親であるはずの私は娘のストレスのはけ口でしかなかった。これでわかったろう。私の顔が醜く焼け爛れていることが。なんなら服を捲って刺し傷を見せてもいい。……最終的に私は実の娘に殺されそうになったんだよ。大笑いさ。手塩にかけて育ててきた娘に殺されかけるというのはね。私は狂乱した娘から逃げるため会社に異動届を出した。事情は伏せておいたが受理され赴任先を変えた。その当時娘は今のキリコさんと同じ年齢で大学生だった。だから仕送りせずともアルバイトで食いつないでいけるだろうと考えて放っておいたよ。しかし……三ヵ月後地下鉄の電車に飛び込んで死んだ。あっけない空虚な死だ。そんな形で死ぬくらいなら私の手で殺しておけばよかったとさえ感じたよ。わかるかな。……私はキリコさんに娘を感じていたのだよ……答えはこれでいいかなキリコさん……いや娘の……娘の……娘の…………」
キリコは掌で醜い男の唇を覆い隠した。
「もういいんです。もういいんです。もういいんです。充分にわかりました。充分に、充分に、充分に伝わってきました」
世の中に、自分と似た顔を持つ人間がどれだけいるかをキリコは知らない。さらに言えば自分に似た人間が父親を殺しかける時の心情や表情を想像することができない。話を聞かされても伝わってくるのは醜い男の娘に対する巨大な執着だけである。その執着が今夜この瞬間キリコに重ねられている。醜い男の話しを聞いて、ひどく気が咎めた。慈しみに溢れた掌で男の唇を優しく覆い続けることしかできなかった。
これまで口を閉ざしていたナナメが眼を眇めて、おもむろに言う。
「おっさん。単車に乗ったことはあるか?」
「…………」
「キリコ。おまえのニンジャちょっと借りるぞ」
ナナメはまるで白骨死体が突如として目覚めるかのような動きで立ち上がった。息は切れ切れで今にも卒倒しそうな状態である。
「ちょっとなにする気よ。じっとしてなさいよ」
「黙ってろ」
「自分の身体のこと、ちゃんと理解できてないんでしょ、ナナメ!」
「いいから黙ってろ」
鬼気迫る顔のナナメは鈍痛を必死に耐え抜くかのように歯を食いしばっている。ニンジャの元に向かう足取りは非常に遅い。しかし一歩一歩が見る者を驚嘆させずにはいられない強さを持っていた。
ナナメはどこか超然とした雰囲気をまとってニンジャに跨り、エンジンをかけた。山の静けさを打ち破る轟音が響いている。
ゼロはナナメの意図を察知したような顔つきになった。
「ナナメさん。まさかこのおっさんに……」
「おいゼロ。わかってるならさっさとおっさんを俺の後ろまで運んでこい」
ゼロは脱力しきった醜い男を抱きかかえ、ニンジャの後部座席まで運んだ。
醜い男は初めて単車に跨ったというふうに不安な顔になっている。
ナナメが醜い男の顔を見ずに、濃くて深い夜の闇を見つめたまま言う。
「おっさんさ。ストレスの本当の正体ってわかるか? 俺が答えられたらいいんだけどよ、そんなもんいくら考えてもわからねえんだよな。実際まったくわかんねえ。俺は究極にばかだからな。だからさ、俺は単車に乗ってる。単車で自分を解決してるんだよな。気持ちいいぜ。単車って」
醜い男はなにも答えない。
「わかるぜ。いきなりこんなこと言われてもなにもわからねえし、伝わらねえよな。それは俺も一緒だ。おっさんのセンチメンタルな過去の経緯なんて聞いても、こっちは感動もしねえし、共感もしねえ。共感ってのは、同じ場所で同じモノを見て共に感じねえと絶対わかんねえモンだからな。おっさんよ。飛ばすからしっかり俺に掴まってろよ」
すると白い夜霧が薄く立ち込める中、オレンジ色の眩しい光をニンジャが放ち始めた。
「行くぜ」
ニンジャは豪快に加速を開始した。車体を右に傾がせ、左に傾がせ、命の色をした赤いテールランプが幻影のようにたゆたう。暫くすると前輪が夜空に輝く三日月を刺さんとばかりに上向きになった。
ナナメは微笑しながら醜い男の顔を見ずに言う。
「これはな。ウイリーっていうんだ。人間を高い場所へ連れていく最高の技さ」
キリコとゼロを残してニンジャは油山のどこか遠い場所に消えた。
そこにはウイリーが巻き起こした素晴らしい風が吹いていた。
ウイリーの風