JKと琺瑯の騎士

ファンタジーともなんともつかない不思議な話です。
二つの世界で起こるストーリーが同時に進行します。
物語の世界の中に入り込むことができる力を持った主人公の由佳が、その二つの世界を行き来します。
ゴールは設定してあるのですが、さてうまくそこにたどり着けるかどうか……

プロローグ

 森のなかには罠が待っている。
「そこに行ってはだめ」
 由佳は必死に叫んだが、声は闇の中に吸い込まれた。真綿を敷き詰めたような雪が、月明かりを孕んで闇の底を蒼白く浮かび上がらせている。その上をひたひたと進んでいく二つの影のあとを由佳は追いかけた。ひとりは栗色の髪を少年のようにばっさりと短く切り、青白い項のあたりがなんとも寒そうにみえる。もうひとりは砂金のように煌めくブロンドの髪を背中のあたりで無造作に束ねていた。どちらも幼さをまだ表情に留める少女だった。
 二人はたくみに手綱を操りながら、木立の間を縫うように馬を森の奥へと進めていった。白い衣装をまとった高い樹々が、身震いするように枝に積もった雪を落とすと、栗色の髪の少女は背に負うた大剣の柄に手をやり、不安げに周囲を見回した。次第に勾配がきつくなり、馬が息を荒げはじめた。それを励ましさらに登っていくと、やがて木立が開けて、丘の頂きに達した。そこには息を呑むような満天の星が広がっていた。目を下にやるとぼっかりと開いた暗緑色の穴のような湖がみえた。その向こう岸にはふたりが目指す漆黒の双子の塔が、暗い湖面にその黒い影を映していた。

 冬の精霊の吐息のような冷たい風が湖から吹あげてきて、ブロンドの少女の髪を揺らした。少女は馬の歩みを緩め、もう一人の少女に並ぶと、毛皮の襟巻きを外して、その青白い首筋に掛けてやった。掛けられた少女は上気した頬を見せまいと、顎を上げ白い息を吐き出すと、馬を走らせ坂を駆け下りた。ブロンドの少女がそれを追う。馬の跳ね上げた雪が舞い上がり、きらきらと銀色の軌跡を描くのを由佳はじっと見つめていた。

 時計は午前四時半をさしていた。いつのまにか眠っていたらしい。マウスに触れると、ハードディスクが低く唸りはじめ、ディスプレイが輝きを取り戻した。
 このところ立て続けに夢を見る。とてもリアルな夢だ。今までだって夢はみた。深く感動した小説を読み終えると、必ず自分がその世界の中に居る夢をみた。しかし今度の夢は違う。読んだ小説のどの世界とも違う世界の夢だ。そこに居るだけで、哀しみに胸が締めつけられるようだった。そしてなによりも違うのは、その世界に自分がなにかの役割を背負っていることを自覚していることだった。それがなにかはわからないが、たしかに伝えるべきことがあることだけは確かだった。
 今はまだわからなくていい。『プロローグ』とキーボードを叩いた。見たことをそのまま書き映すだけでいい。物語の続きを書ける日がきっと来るだろう。

第一章 由佳


  時計に目をやると午後六時十五分。もうすぐ待ち合わせの時間だ。由佳はネットを通じて知り合った男と今日、ここで会うことになっている。約束の時間より三十分ほど早く着き、指定された場所の柱に凭れて、改札から吐出される人の流れを見ていた。ラッシュアワーに差し掛かり、目に見えて人の流れ増えてきている。由佳は制服で来たことを後悔し始めていた。
 彼女の通う聖ジョセフィーヌ学院は、県下でもお嬢様学校として知られており、校則の厳しいことでも有名だった。学校帰りに友達と街をぶらつくなんてことは勿論、下校時の寄り道にすら担任の許可が要る。ましてやネットで知り合った男と駅で待ち合わせるなど、学校に知れたら即停学ものだ。それなのに家に戻らずに直接ここに来たのは、母に外出の理由を詮索されるのが嫌だったからだ。それにこの駅なら由佳が通学に使う沿線とは違うし、学校からもかなり離れている。大丈夫だろうと高を括っていたのだが、実際こうやって改札口の前に立っていると、校則を犯しているという罪悪感から、人の視線が気になって仕方ない。帰宅を急ぐ人々にとって、由佳の存在など目に入るはずがないことは頭ではわかっているのだが、もしも教師の誰かがこの駅を利用していたとしたら考えると、心拍数はあがるし、口は渇くし、いっそこのまま帰ってしまおうかとすら思うほどだった。そんな極度の小心者の由佳が校則に違反してまで、その男と会うことにしたのは理由があった。 小学生の頃、世界的に大ヒットしたファンタジー映画を観たのをきっかけに、由佳はファンタジーの世界にすっかり魅せられるようになった。原作の小説を手始めとして彼女はそれ系の小説を読み漁った。学校の図書室の本をあらかた読み尽くすと、町の図書館に足繁く通った。口うるさい母親も本を読むことには、特に何も言わなかった。それは彼女を本の世界に逃げ込むことを後押しすることになった。由佳は厳格で、神経質な母親が好きではなかった。彼女は世間体ばかりを気にし、いつも不満を抱えているかのように、眉をしかめていた。由佳が自分の思い通りにならないと、ヒステリーを爆発させた。公立の中学への進学を希望していた由佳を聖ジョセフィーヌに通わせたのも彼女だった。中小企業のサラリーマンである父親の収入で、学費の掛かる聖ジョセフィーヌに行く経済的負担はかなりのものだった。母はパートに出てそれを補った。そして、パート先での不満を延々と食事中に聞かされるのだ。そんな妻に辟易したような視線を向けながら、何一つ文句を言わない父親にも親しみを感じたことはなかった。最後に父親と会話したのがいつだったか由佳は思い出すことすらできなかった。
 殺伐とした家の中で本を読んでいる間だけは、由佳は解放されたような気になった。J・R・R・トールキン、ミヒャエル・エンデ、上橋菜穂子、小野不由美、彼らが描く仮想の世界は由佳を夢中にさせた。由佳は時々、そういった作品世界の中に自分が居る夢を見た。リアルな夢だった。風も匂いも感じることことができたし、何かに触れば手触りもあった。暑くもあれば寒くもあった。悲鳴や雄叫びを耳にすることもできた。しかし、彼女はその世界の傍観者に過ぎなかった。目の前で起こる出来事をただ眺めているだけで、話しかけることも、誰かの注意をひくこともできなかった。まるで一切の干渉を拒絶されているかのようで、それはひどくもどかしい感覚だった。
 中学生になると、読むだけでは飽きたらず、自分でも書き始めた。誰に習ったわけでもないが、小説を書くことは由佳にとってそれほど難しいことではなかった。「小説の書き方」というようなハウツー本を何冊か読むと、すぐにコツを掴んだ。世界観を設定し、キャラクターを作り、プロットを練る。暇さえあれば、ノートに小説を書いた。書き溜めた作品がノート三冊分に達する頃には、誰かに読んで欲しいと切実に思うようになった。誰かに作品を評価してほしい。創作する者にとって共通の心理だ。たいていの者は家族や友人といった身近な人間にその役割を期待する。しかし母親にそんなことを頼めるはずもない。「そんなものを書いている暇があれば勉強しなさい」とヒステリックに喚かれるのは目に見えていた。かといって、由佳には親しい友人もいない。クラスメイトたちはいつでも机にかじりついて何やらノートに一心に書き込んでいる由佳を一種の変人と見なしていた。
 小説投稿サイトをネットで見つけた時、これだと思った。自作の小説をネットに晒すのは勇気のいることだったが、今の由佳にとってそれ以外に他人の評価を得る方法はない。ノートに書き溜めた小説の中から、自信のあるものを選び「言音」というペンネームで由佳は作品を投稿した。酷評されることも覚悟しないといけない。ネットという顔の見えない空間では、人は冷酷なまでに他人を容赦しない。それでもたった一つでも評価してくれる声があれば、どれほど素晴らしいことだろう。期待と不安が入り混じった数日が過ぎた。由佳の作品のコメント欄は空白のままだった。酷評すら書かれることはなかった。次の日も、そしてその次の日も…… そのサイトでは一日に何百もの作品が投稿される。由佳の作品は誰に顧みられることもなく、ネットの大海に埋没していった。さすがに落ち込んだ。それまでほとんど毎日のように続けてきた創作も辞めた。自分の書くものになんの価値もないのだと思うと、今まで費やしてきた時間がばかみたいに思えてきた。母の言うとおり、勉強にだけ精を出していれば、変人扱いされることもなく、友達だってできたかもしれない。いつしかあのリアルな夢を見ることもなくなった。
 失意の由佳に希望の光を与えたのは一通のメールだった。 内容は、自分は東京の大学生の高柳という者で、ファンタジー研究会という同好会を主宰しているのだが、あなたの作品を自分のところで発行している同人誌に載せたいというものだった。「学生のやっていることで、謝礼を出せなくて心苦しいのですが、あなたの作品を是非会員に紹介したく思い、ご無礼を承知でメールを差し上げました」、真摯で誠実な人柄が伺える文面だった。自分の作品を評価してくれる人もいる。すっかり舞い上がった由佳はすぐに快諾の旨を返信した。高柳からメールが来たのは一ヶ月ほどしてからだった。作品は大変好評で、できれば他の作品も掲載させてほしいとのことだった。ついてはその相談と、出来上がった雑誌もお渡ししたいので一度会えないかというものだった。由佳は悩んだ。校則では男女交際は禁止されている。交際ではなくても、ネットで知り合った大学生と外で会うことなど、きっと言語道断だろう。(実際にはそんな規則はたいして守られていないことは由佳も承知していたが)親に相談しても反対されるに決まっているし、まったく見ず知らずの男に会うことも怖かった。それでも承諾の返事をしたのは、作品の評価を生の声で聞きたかったし、自分の作品が載った同人誌も是非見たかった。


「言音さん?」
 投稿サイトで使っているペンネームを不意に呼ばれて、由佳はビクッとした。
「高柳です」
 ロン毛に無精髭、白い派手なスーツを着た姿は、由佳が想像していたのとはだいぶ違っていた。人を見かけで判断してはいけないが、目の前の人物がメールをくれた高柳その人だとはとても信じられなかった。
「うわっ、かわいいなぁ。ねぇ女子高生ですよね?」
 高柳はニヤニヤしながら由佳を舐めまわすようにみた。悪寒が走った。創作について高柳と色々話したいと楽しみにしていた由佳は来たことを後悔した。そんな思いなどお構いなしに、「それじゃ行きましょうか」と高柳は由佳の腕を取った。
「行くってどこへですか?」 
 駅のコーヒーショップで、一時間程度ならというのが当初の約束であったが、大胆な高柳に腰が引けた由佳は、上ずった声で聞き返した。
「近くの公園に車を置いてるんです」
 電車で来たものだと思っていた由佳は嫌な予感がした。
「ごめんなさい。あまり時間がないので……今日は同人誌だけ頂けたらと思って…」
「それは残念だな。実は会のメンバーも言音さんに是非会いたいと一緒に来てるんですよ。雑誌も車に置いてあるんで、少しだけでも顔をみせてやってくれたら嬉しいな」
 強引な高柳の言葉に「でも」と言いかけたとき、目の端に聖ジョセフィーヌの制服がチラリと映った。(こんなところで押し問答している場合じゃない)学校にバレたらたいへんなことになる。同人誌だけもらって、少し挨拶をして帰ろう。とにかくここを離れないと……「少しだけなら」と仕方なく由佳は同行を承知した。
 高柳に引っ立てられるように、駅から少し離れた公園に連れて行かれた。駐車禁止の標識の前に黒塗りの外車が堂々と停めてあった。その車に向かって高柳が片手を上げると、中から男が二人出てきた。派手なアロハシャツを着て、髪を金髪に染めたピアスの男と、ツルツルに剃り上げたスキンヘッドの大男だ。金髪が吸っていたタバコを地面でもみ消した。
「その子が言音ちゃん?ロリっぽくてなかなかいいじゃん。こりゃいいビデオが撮れそうだ」
 ビデオ?なんのことだろう……、さすがに世間知らずの由佳も騙されと気付き、「ごめんなさい。帰ります」と立ち去ろうとしたが遅かった。高柳にグッと腕を掴まれてしまった。
「今更なにいってるの?こうやって友達も来てるんだよ。俺に恥かかせないでね」
 高柳は無理やり由佳の腕を引っ張り車に押し込もうとする。由佳は足を突っ張り、必死で抵抗したが男の力は強い。
「助けて!」
 叫んでみたが、スキンヘッドと金髪が威嚇するように睨みを利かしているので、通行人は見て見ぬふりをして小走りに通り過ぎていく。誰だってこんな連中と関わりを持ちたくない。抵抗する力が次第に失われていく。
「大人しくなったね。おい!足もってくれ」  
 高柳がそういうと、金髪が由佳の足首を掴んだ。もうだめだ……(レイプされるのかな……そうしたらお母さんはなんていうだろう……校則を破って、親に内緒で男に会いに来た…当然の報いだと笑うだろうか)
 諦めて目を閉じかけたとき、金髪の頭に真っ赤なスニーカーの踵が振り下ろされるのがぼんやりと見えた。悲鳴をあげて路上を転がり回る金髪を、腕を組んでしれっとした顔で見下ろしている人物をみて、由佳は驚いた。切れ長の目と栗色のショートカット、一見すると少年を思わせるスラっとした細身の身体を包んでいるのは由佳と同じ制服だった。(もっともスカートの丈は完全に校則違反ではあったが)成毛明日香、聖ジョセフィーヌの生徒なら知らない者はいない有名な二年生だ。人目を惹かずにはいられないルックスに加えて、その型破りな振る舞いで一部の生徒から熱狂的に支持されている。遅刻、サボりの常習犯、校則などどこ吹く風とばかりに、スカート丈を短くし、緩めた胸元でバックを背に登校する姿は、なまじ様になっているだけにファンならずとも心揺さぶられるものがあった。一言でいえば、美形の問題児である。(なぜこの人がここに?しかもいきなり後ろから踵落としって……)助けてもらった恩も忘れて、由佳はこれから繰り広げられる展開を思って恐怖した。相手は白昼堂々と女子高生を拉致しようとするならず者だ。このままで済むはずがない。当の本人である明日香をみると、余裕綽々の表情で、人差し指を立てて「かかってこい」とばかりに挑発している。
「なんなのお前?ひょっとして言音ちゃんの友達?ロリもいいけど、俺はどっちかつうとお前みたいな生意気なのが好みなの……まあちと胸がないのが残念だけどな」
 仲間がやられてるのにも関わらず、高柳は新たな獲物に興味津々の様子で、ニヤつきながら明日香の胸ぐらを掴もうとしたが、自分がとんでもない地雷を踏んだことに気づかなかった。いやその時点では由佳も気付いていなかった。明日香はその手を払いのけると、「うっせぇんじゃ、ボケッ! 誰が貧乳やねん」とおよそ聖ジョセフィーヌの生徒にあるまじき雄叫びをあげた。次の瞬間、明日香の強烈な蹴りが高柳の顎をもろに捉えた。一瞬由佳には高柳の顔が百八十度ほどねじ曲がったように見えた。路上で痙攣している高柳に一瞥をくれると、次に明日香はスキンヘッドの方を睨んだ。一瞬にして仲間を二人倒されたスキンヘッドは明らかに怯んでいた。プロレスラーのような隆々とした筋肉を荒い呼吸で伸縮させ、それでも意を決したように奇声をあげると明日香めがけて突進してきた。ちょっと学習したのか顔面はしっかりとブロックしている。 明日香は熟練したマタドールみたいに、軽やかにそれをかわした。バランスを失ったスキンヘッドがなんとか体勢を建てなおして振り返ると、明日香はすかさずその太い首を抱え込み鳩尾に膝を叩き込んだ。三人の男が路上に沈むのに五分とかからなかった。
「大丈夫?」
 その場に力なく、へたり込んだ由佳の顔を覗きこむ明日香をみて、ドキリとした。形の良い眉にすっきりと通った鼻筋、きりっとした涼し気な目元が今ドアップで彼女の前にある。直視するのが恥ずかしくて、小声で「ええ」というのが精一杯だった。
「駅で君がいかにも怪しげな男と連れ立って行くのを見たからさ、こっそりと跡を付けてきたんだ」
 あのとき、チラッと見た聖ジョセフィーヌの制服は明日香だったらしい。
「立てるようならすぐにここを離れた方がいいよ。なんか目立ってるみたいだし」
 いつの間にか野次馬が集まってきていた。
「さあ煩いのがやって来ないうちに」
「煩い?」
「ああ、まあ……こっちのこと。でもすぐに嗅ぎつけてやってくるから、早くね」
 由佳にはなんのことだかさっぱりわからなかったが、この場所に長居することがまずいのは確かだ。助け起こそうとして、差し出された明日香の手を取ろうとした時、背後から声がした。
「それは私のことかしら?」
 いつの間にか黒髪ストレートの少女がそこに居た。
「ちっ……やっぱ出たか」
 顔を背けたまま明日香は吐き捨てるようにつぶやいた。明日香とまるでタイプが違うがこちらもとびきりの美少女だ。聖ジョセフィーヌ女学院三年生でこの度、新生徒会長となった若宮巴。才色兼備を絵に描いたような少女で、生まれながらに人の上に立つ宿命を背負った人特有のオーラを燦然と放っている。 何かと対照的な二人は犬猿の仲との噂もあるが、真偽の程は由佳にはわからない。
「明日香さん。何度も注意しているように、あなたにはもう少し聖ジョセフィーヌの生徒であるという自覚をもって頂きたいものね。いったいなんですか?この騒ぎは」
 腕を組んだ巴は失神している高柳と金髪を飽きれたように見回した。明日香はそれには答えず、そっぽを向いたままだった。
「それは私を助けようと……」険悪な空気を察した由佳が弁護の声をあげかけたとき、スキンヘッドがどこから持ちだしたのか鉄パイプを振りかざしにじり寄るのが見えた。
「あぶない!」
 由佳は叫ぼうとした。しかしそれより早く、巴の裏拳が鉄パイプを振りかぶったスキンヘッドの鼻を叩いた。一瞬の出来事だった。スキンヘッドが鼻を抑えてのたうち回っていなければ、由佳には巴が軽く手を挙げただけにしか見えなかっただろう。実際、彼女は振り向きさえしなかった。野次馬たちから喝采があがる。(いったいこの人達はなにものなんだろう……)自分と歳の変わらない少女たちが、大の男を手玉に取る光景をみて由佳は呆気にとられた。そしてなんだか胸のつかえが下りたような爽快な気分の自分に気づいて戸惑いもした。自分の中に圧倒的な力を憧憬するような部分があるのだろうか。
 そんなことを考えていると、パトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。さすがに誰かが警察に通報したのだろう。
「まずいわね。その子を連れて逃げなさい」
 巴が明日香に向かって言った。今度は明日香は小さく頷くと、まだへたりこんでいる由佳を引き起こし、スカートについた土埃を払ってくれた。
「それからこの件に関しては明日しっかりと事情を伺うので、お昼休みに生徒会室に来て頂戴。それからそこのあなもね」と巴は由佳にも念を押すのを忘れなかった
「んじゃ」明日香は巴に軽く片手をあげると、由佳を連れて野次馬をかき分けてずんずん歩き始めた。このまま巴を置き去りにしていいのだろうか?騒ぎの張本人たちが逃げて、関係のない人(いや、多少はあるか……)が警察に事情を聞かれるなんてどう考えてもおかしい。
「あのいいんですか?」
 由佳は明日香の手を振りほどいて、立ち止まった。
「なにが?」
「いやあのままだと、巴先輩警察に連れて行かれますよ」
「いいんじゃない」
 明日香は事も無げにそういうと、また由佳の手を引いた。
「え!そんなよくないですよ」
 由佳はその手を離して抗議した。
「あいつに任せておけば大丈夫。私たちが居たほうがむしろ厄介なことになる」
 なにがどう大丈夫なのか由佳にはまったくわからなかったが、明日香は根拠もなく言ってるわけではなさそうだ。噂では犬猿の仲と言われている二人だが、明日香は巴のことをどこか信頼している風だったし、巴はきつい言葉をかけながらも明日香を見る目はやさしかった。二人の間には由佳の知らないような、絆があるように思えた。しかし、巴ひとりにあの場の責任を負わせることには抵抗がある。
「ところで、お腹空かない?」
 まだ戸惑っている由佳に明日香が声をかけた。
「とってもうまいラーメン屋が近くにあるんだ。おごるよ」
 無邪気にそういう明日香の顔をみて、断れる人間がこの世にいるだろうか。下校時に生徒同士で外食することは、校則で禁止されている。でも由佳はそんなことはもうどうでもいいやと思った。(ごめんなさい。巴先輩)由佳は心で手を合わせながら、すでに先を歩き始めている明日香の背中を小走りで追いかけた。


 すでに辺りはどっぷりと暮れていた。明日香は繁華街の中をどんどん歩いて行く。この辺りは飲み屋や風俗店が軒を連ねており、制服姿の二人は否が応でも目立っていた。すれ違うサラリーマンが、品定めするように視線を送ってくる。(主に明日香に対してではあるが)中には露骨に声を掛けてくる者さえいた。そのたびに由佳は心臓が縮む思いなのだが、明日香はまるで意に介することなく、歩いていく。
 繁華街の途中の路地を入ったところに明日香おすすめのラーメン屋はあった。カウンターとテーブルの席が二つほどの小さな店で、夕食時にもかかわらず、客は餃子をあてにビールを飲みながらテレビのナイター中継を見上げている初老の男性一人だった。妙に角ばった顔の店主に「ちーす」と明日香は声をかけるとカウンターの席に着いた。
「ここはね。味噌チャーシューがうまいんだよ」
 コップを二つ並べて、水を注ぎながら明日香が言った。由佳はラーメンというものをほとんど食べたことがない。味噌チャーシューとはどんなものなのだろう。由佳の家では外食することは滅多にないのだ。そもそも家族揃って出かけることすら絶えて久しい。(最後に揃って出かけたのはおばあちゃんのお葬式だっけ)
「普通の醤油ラーメンが良ければ、それもあるよ」
 明日香が気遣うようにきいた。
「いえ、私味噌チャーシューが食べたいです」
 明日香は微笑むと、それを二つ注文した。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね?」
「一年二組の朝倉由佳と申します。ほんとうに今日は危ないところを助けて頂き、ありがとうございました」
 由佳は椅子から立ち上がると、丁寧にお辞儀をした。何が可笑しいのか、明日香はクスクスと笑いながら、「座りなよ」といった。
「なんでまたあんな男の後をノコノコと付いて行ったの?まさかナンパされたとか? それとも何かの勧誘とか」
「いえいえ!そんなんじゃありません。待ち合わせしていたんです」
 由佳は事の顛末をすっかり話した。
「なんかそういうの許せないな……天誅を加えてやって正解だった」
 聞き終えた明日香は憤慨して言った。少しやり過ぎのような気がしなくもなかったが、あの場で警察を呼ばれる方が、厄介な事態になっていただろう。当然警察から保護者に連絡がいく、事実を知った母の反応を想像するだけで身震いがする。由佳は巴のことを思った。さっきの様子から考えて、巴はあの場の責任を一人で被るつもりなのだろう。巴にだって保護者はいるだろうし、下手をすれば学校に連絡がいくかもしれない。そうなれば彼女だって色々とまずい立場に立たされることになる。とりわけ彼女は生徒会長でもあるのだ。。巴の堂々とした態度と、明日香の安心しきった様子に、あまりよく考えずにここまで付いて来たが、そもそものきっかけは自分にある。二人は巻き込まれただけだ。あの場に彼女ひとりを置いてきたのは間違いだったと由佳は思った。
「巴なら大丈夫だよ」
 由佳の心の中を見透かしたように、明日香が言った。
「あいつは揉め事の処理に慣れているんだ。警察だってうまく丸め込むよ」
 でも……と言いかけた由佳の唇を明日香は、人差し指で塞いだ。
「あいつのことは、私が一番よくわかっているんだ。一人で手に負えないようなことなら、私は此処には居ない」
 明日香は有無を言わせないように言い切った。
「やっぱり二人はお友達だったんですね」
「友達なんかじゃない。あいつは私にとって重石みたいなもんなんだ」
 いったいどういう意味なんだろう。二人の関係がますます謎めいたものに思えてくる。
「小説書いてるんだ?」
 ちょっと重くなった空気を変えるように明日香が聞いた。
「はい。拙いものですがファンタジー小説を少々」
 由佳は顔を少し赤らめた。
「読んでみたいな……由佳の小説」
「私のなんて全然だめです……今回のことで自分に才能がないのがよくわかりました」
「そっか変なこと言ってごめんね。ただ自分と同じ歳頃の子がどんな話を書くのか、興味があったんだ」
 その気持は由佳にもよくわかる。ただ今の自分は人に作品を読んでもらうには、あまりにも自信を喪っている。どうしようかと迷っていると、「へいお待ち!」店主がカウンターの上の台にラーメンを載せた。
「食べよう」そう言うと、明日香は鉢を取って由佳の前に置いてくれた。
 湯気と共に香ばしい味噌の香りが空腹を刺激する。 厚切りの炙ったチャーシューが麺の上に隙間なく並んでいて、中央には刻んだネギがたっぷりと盛られている。由佳は麺を一筋箸で摘まむと口に入れた。
「だめだめ!ラーメンなんてものはもっと勢いで食べないと」 
 明日香は豪快に麺を掬いあげると、勢いよく音を立てて啜ってみせた。由佳も真似をしてみる。麺に絡んだスープの味が口の中に広がる。
「美味しい!」思わす叫んでしまった。
「チャーシュー、おまけしといたから」
 店主が微笑んだ。親以外の人と外食するのも初めてなら、学校の食堂以外のラーメンを食べるのも初めての経験だ。ただ黙々と鼻をすすりながらラーメンを食べた。こんなに食べることだけに集中できたのはいつ以来だろう。いつもは母親の小言を聞きながら、味あう間もなく食事を片付け、逃げるように自室に戻る。鉢を両手で持ち上げると、スープを飲み干した。ふーっと息を吐き出すと、店主の感心したような顔がそこにあった。
「へぇ、いい食べっぷりだねぇ」
「こんなに美味しいの、生まれて初めてです。ご馳走さまでした」
「嬉しいこといってくれるな……あんたいつも一人で来るから友達いないのかと、ちょっと心配してたんだけど、こんないい後輩がいたんだな」
 店主は角ばった顔を明日香の方に向けて言った。明日香はちょっと怒ったように顔を尖らせると、「ほら由佳、鼻水でてる。顔こっち向けな」と言って、ハンカチをポケットから取り出した。小さな子供みたいに由佳は鼻を拭いてもらいながら、明日香は、照れるとちょっと怒ったような表情になるんだなと思った。
 自分が今日話しばかりの他人とこんなにも打ち解けられるのが不思議だった。由佳には友達と呼べるような存在はいない。学校の中で話をする相手は居たが、一緒に遊びに出かけたり、相手の家を訪ねるような関係には広がらなかった。別に人を拒絶しているわけでもなかったが、由佳と特別親しくしようという人間はいなかった。自分は孤独な存在として、この世に生まれ落ちたのだろうと諦めていた。しかし今、由佳は明日香ともっと一緒に居たいと切実に思った。そんなふうに思ったことは一度もなかったのに。
「先輩はこのあとどうされるんですか?」
「九時からバイトなんだ。だからもう少し時間を潰していく」
 バイトは校則で禁止されているが、今さら驚くことでもない。
「小説、読んでもらえませんか?」
「いいの?」
「はい。でも笑わないでくださいね」
「絶対に笑わない」
 明日香は約束してくれた。携帯を取り出すと、投稿サイトの自分のページを開いた。作品の一覧がずらりと並ぶ。すでに完結している短編がいくつかあるのだが、由佳は敢えてまだプロローグしか出来上がっていない未完の長編をクリックした。明日香に読んでもらうならこれが良いとなんとなく思ったからだ。携帯を手渡すと、明日香はちょっと頷きそれを手に取った。字数にして一万字ほどのプロローグを明日香が読み終えるのを、両手を膝に置き壁のメニューを見つめながら待った。テレビでは解説者が今日の阪神の打線の不調の原因を分析していた。店主のネギを刻む音が狭い店内に響いている。メニューの文字を追おうとするのだが、隣の明日香の様子が気になって仕方ない。ちらっと様子を伺うと、明日香はカウンターに肘をつき、額を支えながら、真剣な顔つきで携帯の文字を追っている。自分でもこのプロローグは良く書けたと自信があったのだけど、ここまで熱心に読んでくれていることが意外でもあり嬉しくもあった。パチンと携帯を閉じる音が響いた。
「ありがとう」
 明日香は携帯を返すと、どこか遠くを見ているような目で押し黙っていた。そんな様子に由佳もどう話を切り出していいかわからず、しばらく沈黙が続いた。誰かがホームランを打ったのだろう、アナウンサーの絶叫が聞こえてきた。由佳がテレビの方に視線を向けようとしたとき、明日香が沈黙を破って聞いた。
「由佳はオーガスに行ったことがあるの?」
 一瞬何を聞かれたのかわからなかった。オーガスは由佳の書いている長編ファンタジー小説の舞台である大陸だ。しかし、そこに行ったとはどういう意味なんだろう。オーガスはあくまでも由佳の創造の産物で実在の場所ではない。
「あっ、ごめん。あんまり描写がリアルだったものだから、つい」 
 混乱している由佳をみて明日香は笑いながら弁解するようにいった。
「そう言ってもらえると、すごく嬉しいです。なんというか、そのプロローグは今までと違うイメージで書けたものですから」
「違うって?」
「それまで書いていたのは、読んだことのある小説の世界を参考にしていたんですけど、実はオーガスについて書いているときは、そこに居る夢を見たんです。そういう意味では行って来たというのもあながち間違いではないかもしれません」
「夢にそこが出てきたんだ」
「はい。私は夢の中で幽霊みたいになって、そこをうろうろしてました」
 明日香はそれについて考えているように見えた。
「あっでも私、小説を読んで感動すると、その夢を見るんですよ。ただ……オーガスの夢をみたときはちょっと違ったんです」
「どんなふうに?」
「自分はそこで何かをしなければならない。そんな気がしました。でもそれがなんなのか思い出せなくて……」
 それっきり明日香は小説のことについてなにも聞かなかった。店を出るともう八時を回っていた。明日香は駅まで送ってくれた。
 


 家に着くと、もう九時を過ぎていた。母には文化祭のクラスの演し物のお手伝いで、少し遅くなると告げてあったが、さすがにこの時間となると色々と追求さそうだ。母は厳格なだけでなく、疑り深くもあった。適当な理由をつけて誤魔化そうとしても、とことんまで追求しょうとする。娘のことをまるで信用していない。経済的に無理をしてまで聖ジョセフィーヌに通わせたのは、校則が厳しいからだ。そこなら自分の目の届かないところでも、娘をしっかりと管理してくれると、母は信じていた。すべては自分のためにしてくれていることだと解っていても、そういう母の寛容のなさが息苦しい。歳相応にはめをはずしたいときだってある。しかし母は絶対にそんなことを認めてくれなかった。いくら校則の厳しい聖ジョセフィーヌの生徒だって、同級生たちは休日には友達同士で映画や買い物にでかけたり、遊園地に遊びに行ったりしている。そういうお誘いを受けても、門限七時でお小遣いの使い道までチェックされる由佳は断らざるをえない。結局ファンタジー小説を書き始めたのも、私にとっては不満のはけ口だったのかなと由佳は自分を分析した。そして今日彼女は二つ校則に違反し、今は門限まで破っているのに、とても気分がいい。これなら母にあれこれ言われたところで、やり過ごすことができるだろう。
 予想に反して母は上機嫌だった。その理由はすぐにわかった。
「生徒会長の若宮さんから、わざわざお電話を頂いたのよ。生徒会の仕事で由佳さんを遅くまで引き留めてしまって申しわけないって。あなた生徒会に所属してるなんて一言も言わないから、お母さん恥かいたわ」
 苦情めいた言い方をしながらも母は満更でもない調子で、あれこれと生徒会について質問してきたが、由佳は適当に返事すると、今日は疲れたからと自室に引っ込んだ。
(明日香先輩の言うとおり、巴先輩はあの場をうまく収めたんだ)
 そうでなければ、わざわざ由佳のためにアリバイつくりの電話をかけてきたりはしないだろう。しかし巴は由佳があの公園に居た理由を知らないはずだ。それも親に内緒で高柳と会う約束をしていたなんて知り用がない。とすると巴は由佳が制服であったことから判断して、気転をきかしたのだろうか。しかも不思議なことはまだある。巴はどうしてあの公園に来たのだろう。あの近くに住んでいるのだろうか。巴も明日香と同じ所でバイトしている?いやそれはあり得ない。ひょっとすると、明日香は巴と会う約束をしてたのかもしれない。そう考えると、明日香が九時からのバイトなのに、あんなに早くから駅にいたことの辻褄は合う。だがどれも推測の域をでない。すべては偶々だつたのかもしれない。
 今日は色々なことがありすぎた。着替えもせずに由佳はベッドに横たわった。
――由佳はオーガスにいったことがあるの?
 不意に明日香の言葉がよみがえった。由佳はひさしぶりにあのリアルな夢を見た。

第二章 荒野の修道院

1
 ルメリアの修道院は切り立った断崖の上に、来るものを拒むように建っていた。実際、頼りない杣道が一本あるだけで、それが修道院の門に至る唯一の道なのだ。クレアは残照に赤く染まった礼拝堂の屋根を見上げた。十日も荒野を横断する旅をした後に、あそこまで登っていかなければならないのだ。どこかで身体を休めたっていいはずだ。
「なんだってあんなところに修道院を建てたんだ」
 前を歩くエミリアの背中に投げつけるように言った。
「あんなところだからこそ、建てたのよ。俗界との交わりを絶ち、信仰に専念できるでしょ。聖アウレルが教会の堕落を嫌って、この場所で修業したのがルメリア修道院の起こりなの」
 エミリアは歩き続けたまま答えた。
「それはいつの話?」
「五百年前のことよ。でも修道院ができたのはもっと後の話ね。聖アウレルとその弟子たちは、あの岸壁に穿たれた洞窟に寝起きして、祈りの生活をおくったの。神にもっとも近づける場所こそ修行にふさわしいと思ったのでしょう」
 山肌に点々と虫が食った跡のような洞窟をみて、こんなところに居れば、神様だって退屈で仕方ないだろうなと、クレアは思った。早くやっかいな仕事を終えて、ハラスに戻りたかった。聖なる都でありながら、あの街は楽しいことに満ちている。清楚な淑女が表の顔なら、淫靡な娼婦は裏の顔だ。そして楽しみの大半は神の裏庭と呼ばれる下町にあった。屋台の砂糖をまぶした焼き菓子の香ばしい匂いと、鳩の胸肉の串刺しのスパイスの香りが入り混じった匂いが立ち込める通りには、公許を持たぬ商人たちが巡礼相手に効能の怪しげな薬を、出処の怪しい古着を、由緒を捏造した聖遺物の欠片を売っている。すこし銀貨をはずめば身体を売る女占い師が、客の袖を引いて隙あらば路地裏に誘い込もうと目を見張らせている。通りを少し行けば、この街の名物である芝居小屋がある。たわいない筋立ての滑稽な話を歌と踊りを交えてやるのだが、クレアはよくティリミュエルを抜け出して見に出かけた。別に芝居がそれほど観たかったわけではない。丘の上の取り澄ました日常に息が詰まりそうなったとき、新鮮な空気を求めてそこに行くのだ。もっとも前を歩く姉にそれを知られたら、また長い説教を聞かされるはめになりそうではあったが……
(一度、エミリアにあの芝居を見せてやるのも悪くない)調子っぱずれの道化の歌をどんな顔で彼女が聞くのか、想像するだけでも愉快ではないか。あの舞踏会の仕返しはまだ済んでいないのだ。それに蜂蜜とバターをたっぷり使ったあの焼き菓子をエミリアはきっと気に入るに違いない。

「クレア」エミリアが注意を促す声が聞こえた。すでに腰の剣に手をかけている。クレアは背中の大剣を引き抜くと、前方を注視した。エミリアは目で捉えることができるより遥か先のものを感知できる。やがて、山の上の修道院に続く杣道の脇にある林の中から、二つの影がでてくるのがみえた。それが粗末な木綿のローブを纏った修道女であるとわかるくらいに近づいた時、「止まりなさい」とエミリアが声をかけた。修道女たちはお互いに顔を見合わせていたが、意を決したようにその場に膝を折った。一人は肉付きの良い中年女で、顎が何重にも弛んでいた。邪心などこれっぽっちもありませんという雰囲気が、ありありと伺えた。もう一人の女は傍らの女の娘ほどの歳で、痩せこけていてネズミのような黒い瞳を忙しそうに動かしながらクレアとエミリアを交互に見上げている。
「おまえたちは、修道院の者なのか?」
 エミリアが尋ねた。
「はい。私たちはルメリアの修道女でございます。教母さまがあなたがたをお迎えするようにと仰っられたので、こうして参ったのです」
 年嵩の修道女が答えた。
「わたしたちが誰か知っているのか?」
「聖都から来られた異端審問官なのでしょ」
 エミリアはクレアの方をみた。二人がここに来ることは誰にも知らせていない。滅多なことでは動じない姉が、あきらかに狼狽した表情を浮かべていた。
「教母さまは日が落ちるまでに、花のようにうつくしいふたりの乙女がやってくるだろうから、お迎えして私のもとへ案内しなさいと仰ったのです。それで私とルチアはあの林であなた方が来るのを待っていたのです」
「教母さまが言われたことはほんとうだったのね。なんてうつくしいんでしょ」
 ルチアと呼ばれた娘が感嘆の声をあげながら、うっとりとエミリアを見つめた。すくなくともエミリアに関しては教母の予言は当っているなとクレアは思った。
「その教母というのはシスターマチルダのことか?」
「そうです。私とルチアはシスターマチルダのお世話をしているのです。さあ、教母さまがお待ちです」
 そういうと二人は立ち上がり、元来た方に向かって歩き始めた。いったいこれはどういうことなんだろう。教母マチルダに会いに行くことは、くれぐれも極秘にするようにと、審問官の長は言った。にも関わらず、マチルダは彼女たちの来訪を知っていたのだ。クレアは答え求めて姉のほうをみた。
「とにかく教母マチルダに会ってみるしかない」
 エミリアはそういうと、二人の修道女の後に続いた。


 案内されたのは林の中にある木造の背の高い建物だった。
「もとは薪を蓄えたり、燻製を作ったりする作業小屋だったのですが、院長の計らいでマチルダ様のために別院として改装したのです。なにしろ山の上は冬になると、かなり冷え込みます。特に老人にとっては耐え難いほどにね」
 中年の修道女は名をセリーヌと言った。ザルンの修道院で受洗し、長らくそこに居たのだが、教母マチルダのことを知って、その人に是非会いたいと思い、この辺境までやってきたのだと言った。彼女はザルンからこの地への数ヶ月の旅の困難をたっぷりと語って聞かせてくれた。
「私は幸運でした。ここへ来て、ほどなくしてからマチルダ様のお世話を院長から仰せつかったのですから。きっとこれは神様のお導きにちがいありません」
セリーヌはたるんだ喉の肉を振るわせながら、最後はほとんど泣きそうな声で神への感謝を語った。
「それは素晴らしいお話ですね……それで私たちは教母さまにお目にかかれますか?」
 エミリアは丁寧な口調で尋ねた。彼女たちが本物の修道女であるとわかったからには、相応の敬意を払ってしかるべきなのだ。
「心苦しことをお伝えしなければならないことをお許しください……先ほどルチアがお二人をお連れしたことをマチルダさまに報せに行ったのですが、すでに眠っておられたご様子でした。高齢でいらっしゃるので、一度眠られると無理に起こすわけにも参りませんので、明朝までお待ち頂きたいのです」
「なるほど、それでは仕方ありませんね。……ところでマチルダ様はおいくつになられるのですか?」
「次の生誕日で九十になられます。ここの修道女たちは皆、マチルダ様がいつまでもお元気で居るようにと、祈っているのです。あの方はこの修道院の宝ですから」       そう言うと、またマチルダは両手を合わせて、神への感謝の言葉を唱えた。
 クレアは二人のやり取りを聞きながら、あの山道を修道院まであがらずに済んだことを神に感謝した。いずれにせよ今夜はゆっくりと休めそうだ。
 しばらく姿を見せなかったルチアが現れて、セリーヌの耳元で囁いた。
「あちらに食事の用意ができたようです。参りましょう」
 とセリーヌは言った。
 食堂は建物に比べてはるかに立派なものだった。コの字に並べられたオーク材のテーブルは一度に二十人は食事をとれるほどの大きさで、磨きこまれた天板が燭台の灯りを柔らかく反射して、秋の夕暮のような落ち着きをもたらしていた。床は踏むのも躊躇われるほど綺麗に掃き清められており、塵ひとつみつけることはできそうになかった。そうしてそれらのすべてを正面の壁に掛けられた大きな聖アウレルの受難の絵が見下ろしていた。
「月に一度、院長と他の教母様たちが山を下り、マチルダ様と共に、ここで朝餐が行われるのです。普段はこの広いテーブルで、私とルチアの二人だけですから、そりゃもう寂しいものです」
 二人を席に案内するセリーヌはいかにも楽しげだった。どれほど尊敬する教母のお世話がありがたいものであっても、日々の変化のない暮らしは、彼女のような快活な女性にとっては、時に耐え難い思いを抱かせるに違いない。食事の用意が整えられると、セリーヌはエミリアの方を見て、「レディ・エミリア、夕餉のお祈りを主唱して頂けませんか?」と頼んだ。エミリアは頷くと、目を閉じて、祈りの言葉を口にし始めた。クレアはそっと薄目を開けて、目の前に座っているルチアを観察した。どうやらこの若い修道女はエミリアにご執心らしい。そばかすだらけの顔を耳のあたりまで真っ赤に染めながら、それでも黒い小さな瞳を潤ませて、大胆にエミリアを見つめていた。
 夕餉の祈りが終わると、セリーヌがそれぞれのグラスにワインを注いだ。
「ここでの食事はほんとうに質素なものです。私たちは聖アウレルの教えを忠実に守り、清貧を尊んでいます。それでもはるばる聖都からお見えになった薔薇と白百合のようなお客様をもてなすのに、多少の贅沢をすることは神様も大目にみてくださるでしょう」
 席についたセリーヌがそういうのを聞きながら、どちらが薔薇でどちらが白百合なのだろうかと、クレアは考えた。もっとも自分はそのどちらにも当てはまりそうにはないのだが……
 温かい食事はひさしぶりだった。レンズ豆のスープに、川魚のムニエル、野苺のサラダとセリーヌのいう多少の贅沢はなかなか立派なものだった。
 旅の間はずっと塩漬けの肉と、乾パンで過ごした。排水溝から溢れだす糞尿の匂いが漂う王都の裏通りで、残飯を漁った日のことが思い出された。そんなものでも幼いころは口にできるだけでも幸運だった。それが今や塩漬けの肉にすら文句がでるのだから、慣れとは恐ろしい。クレアにとってそれは堕落であり、敗北だった。自分が憎んでいた存在と同化していくことが恐ろしかった。
 それにくらべて、姉のエミリアは石のようなパンであれ、靴底のような肉であれ、生まれ育ったフェスターロットの城の居間で朝食でもとっているかのように、優雅に淡々と口にした。彼女はどこに居ようとも自分を変えることはなかったし、誰からも変えられることはなかった。地獄に落とされたってきっとエミリアなら傲然と顎を上げ、苦痛など少しも感じていないように振る舞うに違いない。

「スープのお代わりはいかがでしょうか? もしよろしければリンゴのタルトもおだしできますが?」
 エミリアがスプーンを置いたのを見計らうように、ルチアが言った。
「ありがとう。でももう十分に満足したわ」
 答えにルチアは少しがっかりしたみたいだったが、すぐに愛想の良い笑顔をクレアの方に向けた。
「レディ・クレアはどうなされます? ここのリンゴのタルトはちょっとだけ自慢できるものなのですよ?」
 レディと呼ばれてクレアは急に不機嫌になった。
「私はレディなんかじゃない!」
 つい声を荒らげてしまった。ルチアに罪はないのだが、レディと呼ばれることは我慢ならなかった。自分は王都の裏通りに生まれ育った孤児なのだ。貴族の養女となった今でもさえも……
 ルチアは気の毒なほど狼狽えた様子で、救いを求めてエミリアの方をみた。
「妹の無礼な態度を許してちょうだい、シスタールチア。彼女はまだほんの子供で、気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こすの。クレアはまだ正式な審問官ではなくて、私の助手として今回の旅に同行したのよ。だからまだレディと呼ばれるには相応しくないわ」
 エミリアはちらっとクレアの方を見たあと、申し訳なさそうに言った。ルチアの顔にぱっと明るさが差した。
「ではお二人は姉妹だったのですね! なんて素敵なんでしょう」
「姉妹といっても血の通った姉妹ではないのよ。私とクレアは剣の姉妹なの」
「剣の姉妹?」
「おふたりは剣に誓いを立てた姉妹なのよ」
 セリーヌが戸惑い顔のルチアに言った。
「私たち修道女にもそういった慣習はあるわ。歳の近い者同士が、義理の姉妹の契りを交わすの。その契りは血よりも濃く、永遠のものなのよ……もっとも私たちは剣に誓いを立てることはしないけれどね」
「ではどうして異端審問官は剣に誓いを立てるのですか? 私たちと同じ修道女ではないのですか?」
「異端審問官は聖騎士の中から、信仰の篤さと家柄を考慮して選ばれるのよ。修道女であると共に、騎士でもあるの――さあ、お客様もお疲れのご様子、お部屋に案内さしあげてちょうだい」
 まだなにか聞きたげな様子のルチアをピシャリと遮るようにセリーヌは言った。これでようやくほんとうにゆっくり休めると安堵しながらも、そんなふうに話を一方的に切られてしまったルチアをクレアは少しかわいそうに思った。きっと彼女は少女らしい好奇心を満足させたかっただけなのだ。もっとも事の起こりは、自分の場をわきまえない態度にある。そしてその妹が投げ散らかした場を、時には自尊心を投げ捨ててまで取り繕うのがエミリアだった。己を変えることのない姉の唯一の例外が自分なのだ。そんな不平等な関係が永遠に続く契りなら、それはむしろ軛と呼ぶのがふさわしいとクレアは思った。



 ギシギシと音を立てる暗い階段をルチアの持つ蝋燭の灯りを頼りに上がっていくと、狭い廊下を隔てて部屋がいくつか並んでいた。
「山の修道女たちが寝泊まりする以外は、二階の部屋は使わないのです。でも掃除は毎日欠かさずして居ります。シスターセリーヌが口煩いので……」
 ルチアは最後の方は小声で言った。人の好さそうなセリーヌも後輩のシスターには厳しいところがあるのかもしれない。こんなところに歳の離れた二人と暮らしていれば、ルチアはさぞかし息の詰まる毎日だろう。
 ルチアに案内の礼を言い、二人が部屋に入ろうとしたとき、「クレアさん、少しだけお話できませんか?」とルチアが声をかけた。誰かの気配を伺うように、周囲に目を走らせながら、そっと囁くような声で。エミリアは頷くと、そのまま部屋に入った。薄暗い廊下に二人だけが残った。
「さっきは不愉快な思いをさせてごめんなさい。私はちょっと浮ついたところがあって、いつもシスターセリーヌに叱られるのです。久しぶりにお客様がみえると知って、すっかり舞い上がってしまって……」
 それまでとは違うしっかりと地に足をつけたような表情でルチアは言うと、頭を下げた。壁の燭台の灯りが彼女の艶のある黒い髪に光の輪を投げかけているのをみて、クレアは申し訳無さでいっぱいになった。この少女はずっとさっきのことを気にかけていたのだ。
「いや、謝らなけばならないのは私の方だ。あんなふうに言うべきじゃなかった。偶々、君の言葉が私の個人的な問題に触れてしまい、それに私が過剰に反応してしまっただけなんだ」
「個人的な問題?」
 そう言ったルチアは慌てて手で口を塞いだ。
「ごめんなさい。私ったらまた余計なことを」
 クレアは首を振った。
「実は私は貴族じゃないんだ。王都の裏通りに育った孤児だ。ただ私には貴族が必要とする力があった。わかるだろ?」
「選ばれし者が授かる力ですね」
「それを見込まれてある貴族の養女になった。そうするより他に選択の余地はなかった……私には弟がいてね。彼は病気だった。誰の手も借りずに路地裏で生きていくのも限界だったんだ。そんなときにあいつが現れた……」
 その男は力を持ちながら地に埋もれた子供たちを見つけだし、貴族に売ることを生業にしていた。
「そしてそのままティリミュエルに放り込まれたというわけさ。表向きには愛人に産ませた子としてね」
「弟さんはどうされたのですか?」
「わからない。しかし、私が聖騎士に叙任されれば逢わせてもらえるという約束だ。それまではどこでどうしているのかも教えてもらえない。きっと私が役目を果たすまでの人質みたいなものなんだろう」
 いつの間にかクレアの手を二つの小さな手のひらが包み込んでいた。
「なんて酷いことを……自分たちの身勝手な面子のために幼い姉弟を引き離すなんて許せません。クレアさんが貴族を憎む気持ちも当然です」
「仕方ないさ……少なくとも弟も私もこうやって生きている」
「でも、もう目の前じゃないですか! クレアさんはもうすぐ聖騎士に叙任される。そうすれば……」
 ルチアが手に力を込めて言った。
「さあ、それはどうかな……私はティリミュエルに馴染めないんだ。問題ばかり起こしている。我慢して耐えれば済むことに、一々腹を立てて周りに突っかかる。ほんとうならとっくにあそこを放りだされていたんだ。そうならなかったのはエミリアのお陰だ。彼女がいつも私をまもってくれた……」
 今度の旅にクレアを伴えるよう頼み込んだのはエミリアだった。きっとクレア一人を残していくのが心配だったのだろう。妹に甘すぎる、そんな批判を向けられながらも彼女はなりふり構わなかった。自分を守る度に傷だらけになっていく姉のことを思うと、クレアは涙を隠すことができず、その場に膝をついて嗚咽した。私なんかを妹にしなければ、彼女は一点の曇もない輝ける存在のはずなのだ。
 ルチアはクレアの頭を掻き抱いた。不思議な抱擁だった。嵐のように昂った気持ちが、夕凪のように安らんでいく。
「私もこの修道院に馴染めていないんです。ほんとうは修道女なんかになりたくなかった。でも父がここに行くように命じたのです。四人も娘が居れば一人は修道女にするのが、神への義務なのです。心の弱い私にはこの修道院の厳しい戒律は辛かった。日の昇る前に起き、日が沈むと眠る。それも薄い寝具しかないので、寒さでほとんど眠れません。起きている間は祈りと手作業だけの暮らしです。おしゃべりすることも、気晴らしにどこかへ出かけることも叶いません。食事は祝祭日以外はパンとスープだけです……こんな牢獄に居るような暮らしが、神様の御心に叶うのなら、神様はなんて偏屈で意地悪な方なんだろうと思いました。だってもし神様が心の広い寛容な方なら、みんなが笑っている方が嬉しいに決っているじゃないですか」
 クレアはルチアの腕の中で、その悲痛な訴えを聴き続けた。
「でもね。こんなことはまだ誰にも話したことはないんです。クレアさんにはエミリア様がいる。それだけでも幸せです」
 ルチアはゆっくりと抱擁を解いた。
「たしかにそうかもしれない。私は恵まれている」
 クレアの呟きに、ルチアは微笑んで頷いた。
「あんな素敵な方の妹になれたクレアさんが羨ましいです」
「私には過ぎた姉だ。ほんとうに感謝している。でも素直じゃないから、一度も本人の前で言ったことはないけれどね」
「じゃあ、私たち二人だけの秘密ですね」
 ルチアはいたずらっぽく笑ってみせた。
「さて、そろそろ私も部屋に戻ります。おやすみなさいクレアさん」
「ルチアの部屋は一階にあるの?」
「マチルダ様の隣の部屋です。シスターセリーヌと相部屋なんですよ」
 きっとマチルダの世話をするために隣の部屋に控えているのだろう。彼女がどういうい経緯で別院に詰めるようになったのかはわからないが、ここでもそれほど自由を与えられていないことにクレアは同情した。
「あのクレアさん……」
 ルチアが少し背伸びをして、クレアの頬に口元を近づけた。吐息が頬を撫でて、心臓が大きく鼓動を打った。
「おやすみになるときは、必ずドアに鍵を掛けてください。そして誰が来てもけしてドアを開けないこと。夜明けまでは」
 ルチアはそれだけ言うと、すっと立ち去った。
(どういう意味だろう……)
 クレアは白い修道服の背中をしばらくみつめていた。


狭い部屋だった。燭台の蝋燭が寒々とした部屋を照らし、粗末なベッドがその影を床に落としていた。それ以外に調度といえるものは、壁にしつらえた棚くらいのもので、祈りと労働以外の一切のものを排除しているかのようだった。牢獄のような暮らしというルチアの言葉が脳裏をよぎった。蚤や虱にたかられることを別にすれば、街道の安宿ですらここよりは安らぎを与えてくれる。同じ相部屋とはいえティリミュエルの寄宿舎には暖炉もあれば、明るい照明もある。柔らかいベッドは毎日まっさらなシーツに取り替えられる。簡素ではあるが上質の木を使った調度品も揃っている。同じように望まぬものになることを強いられたルチアと自分だが、彼女が残りの生涯をこんな場所で過ごすのかと思うと、クレアは胸を突かれる思いがした。
「明日は早い。早く眠りなさい」
 クレアをみて、エミリアはそれだけ言うと壁際の方に寝返りをうった。泣き腫らした目に気づかなかったはずはないのに、何も聞かなかった。クレアは弁解めいたことを言おうとしたが、止めた。適当な事を言ったところですぐに見破られるに決っている。エミリアには何事もすべてお見通しなのだ。寝支度を済ませて、すぐにベッドに潜り込もうとしたが、去り際のルチアの言葉を思いだした。ドアには屋内の部屋にしては随分頑丈な錠前が付いていた。修道院にも盗賊が押し入るご時世なのだ。用心するに越したことはない。ましてやこの別院には老人と女が二人しか居ないのだから尚更のことだろう。しかし、あの時のルチアの様子にクレアはなにか引っかかるものがあった。他の誰かに聞かれるのを恐れているような、そんな感じだった。
「珍しく用心深いね」
 鍵を掛けるクレアをみてエミリアが声をかけた。普段のクレアはそういうことにはまるで無頓着なのだ。
「剣を預けているからね。丸腰だと何かあった時に対応できない」
 修道院には武器は持ち込めない決まりになっている。別院といえどもそれは変わらない。二人の剣はホールにある長持ちに仕舞ってある。
「良い心掛けだ。いざとなれば力があるとはいえ、咄嗟のこととなると集中できないこともある」
「そうだね」
 クレアは生返事を返すと、冷たいシーツと薄く藁を敷いただけの硬いベッドに横たわり目を閉じた。
――そして誰が来てもけしてドアを開けないこと。夜明けまでは――
 ルチアはそういった。
 まるで誰かがやって来ることを知っているような口ぶりだった。この別院には他にもまだ誰かいるのだろうか。考えてみるとこの別院というのも奇妙に思える。教母マチルダはどうしてここに居るのだろう。女が二人しか居ないところに、どうして修道院の象徴のような教母を置いておくのだろう。山の上の寒さは年寄りに堪えるというが、暖をとる方法はあるはずだ。マチルダがこの別院に居るのは何か他に理由があるのではないかとクレアは思った。
「マチルダってどういう人なの?」
 クレアはエミリアに尋ねた。
 彼女は今回の任務については何も聞かされていない。仕方なく着いて来ただけで、ここに来るまで、興味もなかった。それに聞いたところで、エミリアは答えなかっただろう。クレアはまだ正式な審問官ではないからだ。わかっているのは、極秘の任務であるということだけだった。
「彼女は聖女降臨を体験した最後の生き残りなんだ」
 やや間をおいてエミリアが言った。
「八十年近く前、ロアールにある小さな村で、三人の少女の前に聖女が姿を現した。聖女は少女たちに三つの修道院を再建するよう命じたんだ」
「聖女もやっかいなことを押しつけたもんだ。それで少女たちはどうしたの?」
「あなたと違って、彼女たちは信心深かったのよ。すぐに村の教会に行き、そのことをシスターに話したんだ」
 クレアは腹ばいになり、エミリアの方に顔を向けて聞き入った。
―― 驚いたシスターは少女たちをロアーヌの教母のもとに連れていったが、教母にもほんとうに聖女が降臨したのか判断がつかなかった。記録によれば、聖女の降臨は長い歴史の中で三度あっとされている。もし少女たちが出会ったのがほんとうに聖女であるなら、教会を揺るがすほどの大きな出来事になる。自分の手に余ると考えたロアーヌの教母は聖都に手紙を書いた。聖都からの返事は少女たちを審問するから連れてくるようにとのことだった。
 それが永遠の別れとなることもしらずに、三人の少女たちは故郷を後にした。聖都に上った三人の少女を待ち受けていたのは、大教母自らが臨席する審問会だった。高位の聖職者たちの疑惑の目に晒されながらも、少女たちは何ら臆することなく、そのとき起こったことをありのまま伝えた。聖都には過去の聖女降臨を調査した記録がある。彼女たちの語った聖女の様子はそれらの記録とほぼ一致していた。貧しい農民の娘がその記録を目にした可能性は皆無といっていい。
「それで彼女たちが言ってることがほんとうだと証明されたの?」
「それだけでは不十分だったんだ。過去の聖女降臨はいずれも信仰と教会が危機にさらされたときに起きている。四度目の聖女降臨を真正なものとすることは、今現在信仰が危機にさらされたていることを認めることになるからね」
「それでどうなったの」 
 いつの間にか身を乗り出して聞いている妹に微笑むと、エミリアは先を続けた。
「奇跡が起きたんだ。審問を終えて、あとは決議を待つだけとなった少女たちは、ハラスの大寺院に向かい、自分たちの証言に嘘偽りがないことを広場の聖女像に誓った。その時、彼女たちの額に光輝く聖痕が現れた。それを目の当たりにして、大教母をはじめ居並ぶ聖職者たちは膝を折った。なかには感動のあまり泣き出す者もいたという」
 クレアはハラスの寺院の広場に、聖女の像を背にして立つ三人の少女の姿を想像した。ハラスの抜けるように青い秋の空の下に、燦然と輝く聖痕を見上げる人々。
神や信仰に関心を持たないクレアにとってすら、それは荘厳な光景に思えた。

「大教母様みずからの手で洗礼を受けた彼女たちは、シスターとなり、聖女の命を果たすべく、それぞれが三つの修道院に旅立った」
「そのひとりがシスターマチルダだったわけね。それで彼女たちはたった一人で向かったの?」
 エミリアは頭を振った。
「聖女降臨の噂はハラスの街にあっという間に広がり、感動した人々が同行したんだ。老いも若きも、富める者も貧しい者も、男も女も、様々な人たちがね。途中の町や村でも人が加わり、その数は数千人にも達したと言われている」
「じゃあ、彼女たちは無事聖女の命令を果たせたんだね」
 妹の言葉にエミリアはその先を言いよどんだ。
「彼女たちが向かった修道院はどれも僻遠の地にあったんだ。このルメリアのようにね」
 クレアはここに来るまでの一ヶ月の旅のことを思い出した。聖都ハラスを出て、ウィルシャーの港から船に乗り、いくつかの港を経て、ボアスの港に着いた。そこが町と呼べるようなものの最後で、そのあとは人影ひとつ見ないような荒野を姉と二人で歩いたのだ。そしてようやくたどり着いたルメリアも灌木の茂みがところどころにあるだけの赤茶けた土地だった。

「困難な旅の途中で熱情も冷め、次第に人が去っていき、任地に着いた時には当初の十分の一ほどの人数に減っていたらしい。そして待ち受けていたのは廃墟と化した修道院の残骸だった。それでも彼女たちは石を集め、木を切り、再建に務めた。しかし厳しい環境の中の労働で病に倒れる者も増え、やがて食料さえも底をついたんだ」
「大教母様は手助けしなかったの?」
「彼女たちを送り出した大教母様はほどなく亡くなられ、新たな方がその地位に着いたのだけど、修道院の再建には関心を持たれなかったんだ」
「そんなばかな! 見捨てられたようなもんじゃないか」
 クレアは憤慨して声を上げた。
「彼女たちの最後はいずれも悲惨なものだったという。一人は運命を共にしたシスターたちと礼拝堂の聖女像の前で固まるように餓死し、もう一人は修道院を襲撃した蛮族に捕らえられて、殺された……」
 彼女たちはどんな思いで死んでいったのだろう。きっとルチアのように牢獄のような暮らしに絶望しながらも、自分の運命から逃れることは叶わなかった。聖女なんかに出会わなければ、農婦として平凡なな一生を終えることができたのかもしれないのに……
「結局、再建に成功したのはシスターマチルダだけだった。彼女はその功績で聖都にしかるべき地位を用意されだが、一修道女として此処に留まる事を選んだ」
 なんとなくそれはわかる。きっと友達を見捨てた連中を許せなかったんだとクレアは思った。
「でもなぜシスターマチルダだけが再建に成功したの? 此処だってかなりひどい所じゃない」
「私にもわからないわ。明日、御本人に聞いてみればどう?」
「そういえば、今度の旅の目的は何なの?シスターマチルダに会ってどうするの?」
「明日になればわかることだし、話してもいいでしょう。シスターマチルダは大教母様に手紙を書き、告解を望んだのよ。自分はもう老齢で、聖都まで旅することはかなわない。だから審問官を派遣してくれとね」
「そんな大切な役目をどうしてエミリアのような成り立ての審問官に任せたの?」
「あくまでも私の想像だけど、大教母様はあまり問題を大きくすることを望まれなかったんじゃないかしら。本来ならあなたの言うようにもっと大物の審問官を派遣してしかるべきなんだろうけど……さてもうそろそろ眠りましょう」
 エミリアは立ち上がり、着ていたウールの胴着を脱ぐと、妹の肩にかけてやった。
「今夜は寒いから、これを着ておきなさい」
 そういってまだ興奮の冷めやらない妹の額におやすみのキスをした。


 扉を叩く乾いた音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。ぼんやりと戸口に目をやると、エミリアがすでに起きだしていた。
「誰なの?」
 彼女は扉の向こうに声をかけた
「セリーヌです。こんな深夜に申し訳ありません。マチルダ様が大変なのです」
 エミリアは鍵に手を掛けた。
(誰が来ても開けてはいけません。夜明けまでは)
 ルチアの言葉が頭のなかで木霊した。
「だめだ! 開けてはいけない」
 クレアは叫んだ。
 ドアが開いた瞬間、その隙間からエミリアの頭上に黒い影が落ちてくるのがみえた。真っ赤な鮮血が飛び散る。扉が押し開けられ、部屋に押し入ってきた襲撃者の顔をみてクレアは凍りついた。顔面の左側半分の皮膚が剥がれ落ちて、白い頭蓋骨が露出している。残った顔面の半分はセリーヌのものだったが、すでに干からびており、蛇の抜け殻みたいにひび割れていた。黒いローブから覗く血の気のない灰色の腕には樵が持つような大きな斧が握られていた。
 エミリアは赤く染まった肩口を抑え,床に転がった。身を捩ってかわしたおかげで、頭を直撃されるずにすんだようだが、かなりの深傷を負っていた。それでも気丈な彼女は床を這いながら、次の一撃を逃れようともがいていた。
もうそれをセリーヌと呼んでいいのかわからないが、そいつは壊れた鞴のような音たてて、荒い息を吐きだし、エミリアに近づいていく。
 傷ついた姉をみて、クレアは怒りで目が眩みそうになった。しかし今は意識を集中させなければならない。武器もなしに、斧を持った相手と戦うためには力が必要になる。ルチアが言った「選ばれし者が授かる力」というやつだ。クレアの場合は、一時的に身体能力を大幅に増幅させることができる。どれだけ持続できるかは、集中の多寡に依存するのだが、感情の起伏が激しいせいか、まだ十分にその力を発揮できないでいる。今のように傷ついたエミリアを前にしていると、それに気を取られて思うように心を鎮めることができない。
 化物が斧を振りかぶるのがみえた。もう力を十分溜めている時間はない。エメラルド色の瞳が猫のように銀色に変わると、クレアはセリーヌの化け物に体当たりした。そいつは吹っ飛び、壁の板の中に身体をめり込ませた。
 クレアはエミリアを振り返った。
「クレア、油断するな」
 エミリアが叫んだ。化物は壁から身体を引き抜くと、斧をクレアに向けて繰り出した。クレアは屈んでそれをかわす。力のおかげで十分に見切れる。次々と繰り出される斧をすべて紙一重でかわす。だがそれもいつまで持つかだ。倒せない限り、逃げ場の無い狭い部屋では、力が切れたらおしまいだ。エミリアには治癒能力がある。時間を稼げば動けるようになるはずだ。問題はあれだけの傷を負って、意識を集中できるかどうかだ。ちらっとエミリアの方をみると、ブーツから短剣を引き抜いていた。「クレア!」彼女はそういうと、短剣を床の上に滑らせた。
 まったくこの姉は規則には糞真面目なくらい律儀なくせに、一旦その必要があると認めれば、こっちが心配になるほど大胆に破る。修道院への武器の持ち込みは戒律によって固く禁じられているのだ。きっとエミリアはなにか不穏なことが起こる予感を持っていたのだろう。
 クレアは足元に滑ってきた短剣を足で受け止めて、拾い上げた。タイミングを見計らって背後に回ろうと、化け物の次の攻撃を身構えて待つ。化け物は肩で息を吐きながら、斧を大きく振りかぶると、そのまま踏み込んで、叩きつけるように打ち下ろした。奴にとっては快心の一撃だったが、クレアはその軌道を余裕を持って捉えることができた。ぎりぎりまで引きつけて、斧をくぐり抜けると、滑り込むように化け物の背後にでた。計算通り運んでクレアはにんまりとした。
「さあこれでおしまいだ」
 短剣を逆手に持ち替えると、背中に突き立てた。刃は根元まで抵抗もなく刺さったが、化け物はまるで痛みを感じていないように微動だにしない。クレアは刃を抜くと何度も黒いローブの背中に突き刺した。布が裂けて、灰色の皮膚が剥き出しになったが、一滴の血も出ていなかった。強烈な腐臭が鼻をついた。
(こいつ不死身なのか)
 刺されるままになっていた化け物は、そのままの姿勢で身体ごとカベに体当たりした。肋骨のあたりに強い衝撃を感じてクレアは息が止まりそうになった。化物は斧を構え直して、よろけるクレアに狙いを定めた。
「殺られる」
 そう思った瞬間、エミリアが背後から羽交い締めにしてそれを阻止した。「今のうちに逃げなさい」エミリアが激痛に顔を歪めながら言った。そんなことができるはずがない。クレアは拳を握ると、半分崩れているセリーヌの顔面に何発も叩き込んだ。ぐしゃりと骨が砕ける音がした。皮膚のない部分の頭蓋骨が割れて、ぽっかりと黒い穴が覗いた。
「クレア早く逃げなさい!」エミリアが再び叫んだ。
 化物はエミリアを振り払うと、片腕を伸ばしてクレアの喉をつかんだ。意識が遠ざかり、力が抜けていく。もし立ち上がったエミリアがその腕に取りすがらなければ、そのまま絞め落とされていただろう。銀色に輝いていた瞳が元の色に戻る。
二人は部屋の隅に追い詰められた。化物はゆっくりと間合いを詰めてくる。
「いったいこいつはなに?」
「今はそれを考えている暇はないのよ。もう一度動きを止めてみせるから、逃げなさい」
「いやだね」
「これは姉としての命令よ。私にはあなたを守る義務があるの」
「そんな義務、糞食らえだ!」
 クレアはもう一度短剣を構えた。そのとき化け物の肩越しにに白い影がみえた。
(ルチア?)
 その白い影が何かをこちらに向かって放り投げた。クレアの大剣だ。
「クレア、そいつの首を落とせ!」
 エミリアはそういうと、ベッドのシーツを掴み投げつけた。シーツは空中で広がり、化物の頭にすっぽりっと被さった。クレアは剣を構えると、もがいている化物の首を見定めて渾身の力で振るった。

第三章 孤立

1 
 制服を着たまま眠ってしまったようだ。
 毛布を被っているのは、母が部屋にはいってきたのだろう。
 さっきの記憶がまだ生々しく残っていた。それが薄れないうちに書き留めなければいけない。脳は起き上がるように命じるのだが、身体にうまく伝わらないのだ。彷徨っていた魂が帰る場所を間違えたのだろうか。きっと今みた夢のせいなのだ。
 それを見た後はいつもこんな風になる。次第に魂が今ある身体に馴染みはじめたようで、自由を取り戻した。由佳は生まれたての仔馬みたいにぎこちなく立ち上がると、机の上のノートパソコンを起動させた。
 時計は午前四時半を指していた。登校までにはまだ時間がある。飲みかけのペットボトルのお茶を飲み干すと、真っ白な画面に「第一章」とタイプした。
 階段の下から母が呼ぶ声がするまで、ひたすら書いた。時間とともにこぼれ落ちていきそうな記憶を両手で掬い上げるように。

 キッチンのテーブルに腰掛けると、由佳はケルトのお湯をカップに注ぎ、ティーパックを揺さぶりながら、空いた椅子にきちんと折り畳んで置かれた新聞を見ていた。
 父はもうとっくに家を出ている。暗いうちに起きて、帰ってくるのは大抵深夜になる。
 由佳が聖ジョセフィーヌを受験することが決まって、それまで住んで都心の団地から、郊外の建売住宅に引っ越した。聖ジョセフィーヌを受験しろと言われた時には、母の正気を疑った。
 名だたるお嬢様学校であるに加えて、通学だけでも二時間はかかる。あまり頑健とはいえない由佳にとって、それはかなりの負担になる。
 しかし母は本気だった。次の日から聖ジョセフィーヌに通えそうな場所の物件を精力的に探しまわり、ようやくこの中古の建売住宅を見つけた。
 由佳は住み慣れた団地を離れるのが嫌だった。老朽化しているとはいえ、自分にとっては、生まれ育った故郷なのだ。
 もっと気の毒だったのは父だった。娘の通学のために多大なローンを背負った挙句に、二時間もかけて通勤するはめになった。
 父も母の虚栄の犠牲者なのだ。もっとも父からそのことで苦情や愚痴を聞いたことはない。時折、冷ややかな表情を見せるだけで、母のすることに唯々諾々と従うだけだった。
 二人の間に愛情があるのだろうかと由佳は疑わしく思うときがある。そもそもこの家族の間に愛情などというものが存在するのだろうか。
 母というモンスターに首輪を付けれて、後ろをとぼとぼと歩いている自分と父の図が思い浮かんだ。

「学校に行ったら、ちゃんと生徒会長さんにお礼を言うのよ。わざわざ気遣ってもらったんだから」
 せかせかとした手つきで目玉焼きを焼きながら母が言った。
「うんそうする」
 由佳は焼き上がったトーストを取り出して、バターを塗りはじめた。
「パン屑をバターに戻さないでね……これからはそういうことはちゃんとお母さんに報告してね」
「そういうことって?」
「生徒会のお手伝いをしているってことよ」
「そんなにたいそうなもんじゃないの。文化祭で忙しいから頼まれただけ」
「たいしたことじゃなくても報告するの。そうじゃないとお母さんが恥をかくんだから」
 いったい母がそのことでどんな恥をかくのだろうか。しかしこれ以上逆らうと煩いので黙っていた。
「でもねお母さん、由佳が生徒会のお手伝いをしているなんて、ちょっと鼻が高いわ」
 焼きあがった目玉焼きをテーブルに置くと、母は由佳の目の前に腰掛けた。
「聖ジョセフィーヌの生徒会ってOGは社会の第一線で活躍している人ばかりでしょ。そんなところに由佳が属しているなんてすごいわ」
「それは生徒会長のことよ。ただのスタッフはそんなに大したことないって」
「それはそうかもしれないけど……生徒会長さんって、入学式で挨拶された方よね。ああいう人を才色兼備っていうのね。お母さん、すっかり感心しちゃったわ」
 創立者の教育理念とかで、この学校では生徒の自主性を重んじている。その理念を反映して、生徒会活動が他の学校と比較にならないほど盛んで、学校行事の大半を生徒会が主催している。代表である生徒会長は、その世代の生徒の象徴とも言える存在で、成績優秀、品行方正なのはもちろん、容姿が優れていることも要求される。
 巴は就任したときから、歴代の生徒会長の中でもトップクラスの逸材だと学校中で評判だった。人の評価に厳しい母がべたほめするのも当然のことだ。
「ところで、由佳は生徒会長さんとは個人的に親しくして頂いてるの?」
 母は巴先輩からの電話が余程うれしかったらしい。勝手な妄想を膨らませるところは親子なのかもしれないと由佳は内心で苦笑した。
「そんなことあるわけないじゃない!」
 朝のこの時間、小言以外の言葉をめったに口にはしない母が饒舌なのが鬱陶しくて、由佳は食事も途中で家を出た。

2
  聖ジョセフィーヌ学園は戦前の大富豪江辻康二郎が創立した幼稚舎から大学まで揃った私立学園である。
 若い頃、渡米した康二郎は発明の特許で莫大な資産を築いた。日本に帰国すると、彼は自分の理想とする学園建設に資産の大半を投じた。
 ここを女子校としたのは、彼の妻であるアメリカ人女性マリアの強い薦めがあったからだと言われている。マリアは当時の日本の女子教育の貧困を目の当たりにして、自立した女性の育成を夫に説いた。
 康二朗の死後、学園はマリアが深く帰依していた修道会に寄進された。学校の中には夫妻の胸像があり、新入生はその前で、上のような学園創立の由来を聞くのが慣例になっている。

 聖ジョセフィーヌ学園は一見すると、広大な森林公園のようで、小中高の学舎はその緑の中にすっぽりと埋まっている。
 丘の上に、それらを見下ろすように白い礼拝堂が建っていた。外国の建築家によって設計された戦前の校舎があちこちにまだ残っており、新しく建てられた校舎もその雰囲気に併せたデザインとなっているので、どこか異国に居るような気分になる

 煉瓦舗装の並木道を高等部に向かって歩きながら、由佳は眠気を催していた。夏から秋に衣替えしたような朝で、先日までの日差しが嘘のように柔らかかった。ちょうど御聖堂の辺りにさしかかったとき、背中をポンと叩かれて、弾けるように由佳は飛び上がった。振り返ると、栗色の髪の少女が悪戯小僧のような笑顔で見ている。
「明日香先輩!おはようございます」
「おはよう。学校で会うのは初めてだね」
「私は先輩のことはよくお見かけしていましたよ」
「そうなんだ。じゃ私も由佳のこと見てたのかもしれないね」
  本人に自覚はないのかもしれないが、明日香は学校では有名人だ。他人にあまり関心を持たない由佳ですら、中等部の頃からクラスメイトたちの噂で名前は知っていた。
 噂の本人を初めて目にしたのは、中三のときだった。周りの視線などお構いなしに、長い脚で颯爽と歩いていく姿は格好よく、地味で目立たない自分と真逆にいるようで、とても遠い存在のようにそのときは感じられた。
 それがたった一日で、声をかけられるほど親しい関係になれたのが不思議だった。永遠に交わることのなさそうだった二人が、ふとしたきっかけで知り合うのだから。
「ええ、多分視界には入っていたかもしれませんね」
「何よそれ。それじゃまるで私が人のことなんて全然、見てないみたいでしょ」
 由佳の皮肉を込めた言葉に明日香は口を尖らせた。
「ちゃんと見えてますか? 先輩は他人にあまり関心がないタイプだと思いますけど」
「へえ、巴と同じようなことを言うね」
「巴先輩がですか? ……さすがに付き合いが長いだけあって、よくみていますね」
「付き合いの短い由佳はなぜそう思ったわけ?」
 そう言われてみれば何故なんだろうと由佳は考えた。
「多分、私も同じだからだと思います。だから匂いでわかるんです!」
「へえ、どんな匂いだろ」
 明日香が髪に顔を寄せたのがくすぐったくて、由佳は首をすくめた。立ち止まってこちらを見ている生徒たちに気づいて、なんだか途端に恥ずかしくなった。
 明日香に一礼すると、「またお昼にね」という声を背中に聞きながら駆けだした。ふわふわとまるで雲の上を踏んでる心地だった。

 教室にたどり着き、扉を開けた瞬間、突き刺さるような視線を由佳は感じた。
 視線の主たちは教壇付近に屯している三人の生徒だった。その中でももっとも厳しい目で、由佳を睨みつけているのは三枝美香という生徒だ。なるほどそいういことかと由佳はすぐに得心がいった。
 彼女は熱狂的な明日香ファンとして知られているし、自らもそう公言している。きっと彼女は由佳が明日香と一緒に居るところを見ていたのだ。ファン心理としてはおもしろくないところだ。由佳はできるだけ、目を合わさないようにして席についた。
 しばらくすると誰かが近づいてくる気配がして、由佳の席で止まった。
「麻倉さんは明日香様とお知り合いなのかしら?」
 三枝美香の声がした。否定するわけにもいかず、由佳は頷いた。
「どんなお知り合いなの?」
 別の生徒がかぶさるよう聴く。まさか本当のことを言うわけにもいかない。かといって、適当な言い訳も思いつかなかった。
「クラスメイトにも教えてもらえないってこと? 」
 美香が俯いた由佳をのぞき込んで言うと、もう一人が「黙っていたらわからないでしょ!」とテレビドラマの刑事みたいに両手を机にたたきつけた。
 由佳はじっと机の木目のプリントを見つめながら、黙秘を通す以外に抵抗の術はない。なんと答えても、きっと意地の悪い質問が次々と繰り出されるに違いない。こういうときはじっと心と耳と目を閉ざしてやり過ごすしかない。それは母との暮らしで学んだ知恵だった。

「あなたたち、いい加減にしなさい。もうすぐ授業が始まるわよ」
 見かねた隣の席の中島梓が助け船をだしてくれた。美香は梓の顔をきっと睨みつけただけで、立ち去った。
「大丈夫?」梓が気遣うように声をかけてくれた。
 いつ美香たちが押しかけて来るかと思うと、授業の合間の休み時間も気が気ではなかったのだが、心配してくれた梓が席を離れずにいてくれたおかげで、難を逃れた。
 昼休みになると由佳はお弁当もそこそこに片付けると、教室を出て生徒会室に向かった。

3
 生徒会のある文化棟は一昨年建ったばかりで、外観こそレトロなデザインだが、内部は現代的な装いとなっており、一階はロビーとカフェテリア、二階以降には文化系クラブの部室になっている。生徒会は最上階の七階にあり、直通のエレベーターまである。
 委員会にもクラブにも所属していない由佳は文化棟に来るのは、入学後の学校案内のとき以来だった。ロビーに置かれたソファでは同じ制服の生徒たちが談笑しているのに、自分がとても場違いなところに居るような気がした。
 どうしてこんな立派な建物が学校に必要なのか由佳には理解できなかったが、爪に火を灯すような暮らしをしてまで、通う学校ではないのは確かだった。

 エレベーターで七階まであがると、受付になっており、眼鏡をかけたショートボブの女生徒が座っていた。胡散臭そうな目で由佳を見ている彼女に、生徒会長に呼び出されて来た旨を告げると、彼女は手元にあるリストに目を落とした。
「麻倉由佳さん?」
 由佳が頷くと、ちらっと壁の時計を見上げて、「ついてらっしゃい」と言って立ち上がった。
 廊下を突き当たった部屋の扉をノックすると、返答を待って彼女はドアを開けた。
「麻倉由佳さんをお連れしました」
 深々と巴に一礼した彼女は顔を上げると、ソファに腰掛けているもう一人を険しい目で見た。明日香が由佳に軽く手をあげて挨拶した。
「ご苦労様、あなたはもういいわ」
 巴が微笑むと、先ほどとは打って変わった柔らかい表情を紅潮させて、彼女は部屋を出て行った。

 生徒会の正式な役員は会長、副会長、書記の三人しかない。学校行事の大半を主催しているため、当然人手が不足する。
 そこで生徒会ではボランティアという形で一般生徒の間から、スタッフを募集している。応募の人数は時の生徒会長の人気のバロメーターとされていて、巴の時には過去に例を見ないほどの応募が殺到した。志望動機を記した履歴書と、面接の末に十人程度のスタッフが採用されるのだが、その競争率は相当なものだ。
 ショートボブの女生徒もその難関を突破してきた一人であり、巴の熱狂的な信者の一人なのだろう。そして巴信者の大半は明日香を敵視している。清楚で上品な学園の象徴が野放図で型破りな明日香と親しくすることを彼女たちは許せないに違いない。
 巴と明日香が天敵だという由佳が耳にした根も葉もない噂も、きっと彼女たちの願望なのだと由佳は思った。

「だいたい事情は明日香さんから伺いました。ネットというものは使い方次第では怖いものよ。今後は軽率な行動は謹んでね」
 巴はノートパソコンの置かれた大きなデスクの向こうから言った。
「はい……それから母への電話ありがとうございました」
 由佳は巴の気遣いに礼を言った。
「嘘をつくのは気が引けたけれど、お母様に余計な心配をお掛けしたくなかったの……警察の方にもあれはあの人たち同士の喧嘩ということで納得して頂いたので、事情を聞かれることもないから安心してね」
 ほんとうにそんなことで警察が納得したのだろうか、由佳にはちょっと信じられなかった。あの場には野次馬もたくさんいた。
「ああいう人たちにも、それなりにプライドというものがあるのでしょう。まさか女の子にのされたなんて、恥ずかしくて言えないでしょ」
 得心のいかない由佳の様子をみてとって、巴が付け加えた。
「それはそうと麻倉さんは小説を書いているんですって?」
「勝手に喋っちゃってごめんね。でも巴は大がつくほどファンタジー小説が好きなんだ。それで由佳がファンタジーを書いているといったら、興味を示しちゃって、昨日のプロローグを見せたんだ」
 明日香が申し訳なそうに、頭をかいた。巴がファンジー小説のファンというのは意外な気がした。彼女なら世界文学全集とかにありそうな本を好みそうにみえる。同好の士を見つけたようで、由佳は途端にうれしくなった。
「どんな作品がおこのみですか?」
 巴はスラスラと何冊かの書名を挙げた。どれも由佳が読んだことのあるものばかりで、お気に入りの作品だった。
「うわっ、巴先輩からすれば私の小説なんて、お粗末すぎたでしょうね……お恥ずかしいです」
「そんなことないわよ。あのプロローグはほんとによく書けていたわ。まるで情景が目に浮かぶようだった」
「あれはちょっぴり自信があったんで、そう言って頂けるとほんとに嬉しいです」
 巴は由佳の喜ぶ様子を微笑みながらみた。
「続きがとても気になるわ。もしよければこっそり教えてもらえないかしら?」
「ありません」
「それは残念ね……でもプロットはあるんでしょ?」
「それもありません。いつもは綿密すぎるくらいにプロット立てしてから書くのですが、あれは夢でみたことをそのまま文章にしただけなので……でも昨日、夢を見たんです」
「夢?」
「二人の少女が荒野にある修道院へ旅をするんです。一人は栗色の髪の少女で名をクレアといい、もう一人は…」
 巴の表情が目に見えて、青ざめていくのがわかった。 
「もういいわ!」
 巴が遮った。荒い息を吐き、得体のしれないものを見るような目で由佳の顔を見つめている。尋常でない巴の様子に由佳は狼狽した。
「巴はちょっと疲れているんだ。この時期、学園祭の準備とかで生徒会は忙しいからね」
 明日香が巴の背をさすりながら、取りなすように言った。
「ごめんなさい。私つい調子に乗ってしまって……」
「気にしないで、少し目眩がしただけだから。明日香の言うとおりちょっと、ここのところ疲れ気味なのかもしれないわ」
 落ち着きを取り戻した巴が微笑んだ。しかしその笑顔はいつもの自信に満ちたものとは違ってはみえた。

4

  教室に戻ってからもさっきのことが頭から離れなかった。巴はほんとうに疲れていただけなんだろうか。
 それまで疲労の色などまるで見えなかったのに、エミリアの名前を口にしようとした時、彼女は激しく反応した。あたかもその先の言葉を知っていて、それを聞くのを恐れているようにみえた。
 しかし、そんなことがあるだろうか。エミリアは由佳の夢の中に出てきた少女だ。由佳ですら、その名前を音として口にしたことはない。
 由佳は明日香がラーメン屋で言ったことを、ふと思い出した。
――由佳はオーガスに行ったことがあるの?
 彼女はオーガスが実在の土地であるみたいな言い方をした。
 そのときは単なる言い間違え程度に思ったけれど、今考えてみるとどうも様子がおかしかった。自分ではよく書けたとはいえ、たかが一女子高生の書いた小説をどうして明日香はあんな真剣な表情で読んでいたのだろうか。そこに書かれていた内容に彼女を驚かせるものがあったんだろうか。
 二つのことから導かれる結論がぼんやりとは見えるのだけれど、由佳はその先を考えるのを止めた。そこにたどり着いてしまうことを、本能が拒否しているように思えたからだ。 きっと自分がまだ知らなければならないことがあるはずなのだと、心の奥底から声が聴こえるのだ。
 結局、午後の授業はまるで頭に入らなかった。もっとも普段だって、授業なんかそっちのけで小説のことを考えているのだが。

 終業のベルがなると、すぐに帰り支度を整えて由佳は教室を出た。早く家に帰り、昨日の第一章の続きに手を付けたかった。普通の夢のように、すぐに記憶が消えてしまうわけではないのだが、時間とともに細部の記憶はあやしくなっていく。その前に形にしておきたかった。
 上履きを履き替えようとしていると、三枝美香たちがやって来て、由佳のそばにぴたり張り付いた。見たことのない顔も今度は混じっている。
 生徒会室でのことに気を取られて、彼女たちのことをすっかり忘れていた。反射的に目は梓を追い求めていた。美香の肩越しに彼女が見えて、ほっとした。こちらに気付いた梓は一瞬、足を止めたが、すぐに自分の靴箱のある方へ消えていった。
「ねぇ、由佳さん。少し時間いいかしら?」
 有無を言わせないように、すでに取り囲まれている。
「今日は用事があって早く帰らないとだめなの……」
 そんな見え透いた言い訳で、はいそうですかと解放してくれるはずもない。
「時間は取らせないわ。二三、聞きたいことがあるだけだから」
 美香に強引に腕を引っ張られ、校舎の裏口にある階段に連れて行かれた。そこはめったに使われることはないから、人の気配はなかった。
「由佳さん、お昼休みに生徒会室に行ったそうね」
 睨みつけながら美香が言った。
「どうしてそんなことを知ってるって顔つきね? その前に、明日香様が文化棟に入られたこともちゃんと知ってるのよ」
 明日香のファンクラブなるものがあり、高等部だけでなく、中等部の生徒までメンバーに名を連ねていると聞いたことがある。要するに学校のあちこちに目があるということだ。
「あなたみたいな地味な子が、生徒会に呼ばれるってどういうことよ?」
 跡をつけられていたのか、それとも生徒会にも彼女たちの仲間がいるのか、判然としないが、もう黙りを決め込んで逃げ切れそうにはない。すでに梓にも見捨てられた以上は、白馬の王子様がどこらともなく現れることは期待できない。
「そんなことあなたたちに関係ないじゃない!」
 自分では激しく言ったつもりなのだが、唇はわなわなと震え、膝はがくがくと震え、きっと相手にとっては失笑ものの姿だったに違いない。
「驚いた。ちゃんと口がきけるんだ」
 そんな腰の退けたパンチなんかものともしないという顔で美香は言った。
「どんな手を使って取り入ったのか知らないけど、あんたみたいな陰気くさいのが明日香様の周りをちょろちょろすると、目障りなの」
 美香の言葉に同調するように、周りから、非難の言葉が、由佳に投げつけられる。もうどうしていいのかわからなかった。水の中に顔を突っ込まれたみたいに苦しくて、息を吐き出すこともできない。
――たすけて
 心の中でもがくように叫んだ。

「私がなんだって?」
 その声が降ってこなければ、その場で崩れ落ちて泣いてしまっていただろう。いつの間にやって来たのか、明日香が階段の上から腕を組み見下ろしていた。
 皆の表情が一瞬で凍りついた。取り囲んでいた生徒の一人が、階段を降りてくる明日香に近づいた。
「これは……その……美香さんと由佳さんの話し合いで、私たちは立会を頼まれただけなんです」
 縋るように弁解する手を明日香は払いのけた。
「私、今最悪なほど機嫌が悪いの。余計なことを言ったら何をするかわからない」
 明日香の剣幕におびえたその生徒は小走りで逃げるように去り、他の生徒も蜘蛛の子を散らすよう消えていった。一人残された美香はそれでも怯むことなく、明日香の前に立ち塞がった。
「明日香様と由佳さんはどういうお知り合いなのですか?」
「友達。それ以上の説明は必要?」
 明日香は穏やかにそう言った。
「……いえ」
 消え入るような声で美香はそういうと、「失礼します」と一礼して立ち去った。

「大丈夫?」
「はい、なんとか……ありがとうございました」
「お礼なら由佳が連れていかれたと、報せてくれた友達に言いなよ」
 梓だと由佳は思った。
「私のことが原因で、由佳がクラスの子から責められていると言ってたけど、何があったの?」
「いえ、私の対応が悪かったのです。それであの人たちが腹を立てただけで、ほんとにたいしたことじゃないんです」
 さっきの明日香みたいに、友達だとはっきり言えば良かったのだと由佳は反省した。何も悪いことではない。自分の優柔不断な態度がいつも事態を悪化させるのだ。
「そう、それならいいんだけど、困ったことがあれば遠慮せずに言うんだよ」
 明日香はもうそれ以上は、詮索するようなことをしなかった。

 ランニングする運動部の生徒の掛け声が木立の向こうを通り過ぎていった。その上に今まで見たことのないほど大きくて赤い夕陽が、明日香の栗色の髪を緋色に染めていた。眩しそうに目を細めた表情はどこか懐かしい感情を由佳に呼び起こさせた。
「もしよかったら、これから少し付き合わない?」
「別に構いませんが、なにか御用なのですか?」
「用ってわけじゃないけど、デートのお誘いってとこかな」
「デートですか?」
「それとも校則を破るのはいや?」
 母には生徒会のお手伝いという切り札ができたし、門限に遅れたところで当分はとやかく言われることはないだろう。なんなら電話を入れておけば完璧だ。
 美香たちが見張っていることも考えたが、もう余計なことは気にすまいと決めた。
「いえ……でも悪い先輩ですね」
「私は悪い先輩だよ。怖い?」
「ううん」
 由佳は首を振った。

JKと琺瑯の騎士

JKと琺瑯の騎士

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-11-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章 由佳
  3. 第二章 荒野の修道院
  4. 第三章 孤立